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2026.09.30

国勢調査の水増しは富山市だけの話ではないだろう

2025年国勢調査で、富山市は速報値を40万2133人と出した。確定値は39万9197人で、2936人減った。総務省は統計法違反の疑いで、当時の市職員を氏名不詳のまま富山県警に告発した。省として同法での告発は初めてである。

中身は単純である。調査員が現地で「住んでいない」と外した世帯を、市の集計で根拠なく戻し、調査票を作り直して人口に足した。対象は2000件を超える。複数の職員が関与した。処理時期は2025年12月から2026年1月の市側集計である。

市長はすでに「組織的に間違ったことをしていた」と認めている。「組織的」という言葉が問題の深刻さを響かせる。理由として内部から上がった説明は、住民基本台帳との開きを縮めるため、というものであり、40万人を割らないための水増しではない、と市長は否定した。しかしその数字はちょうど大台の前後で動いており、交付税の算定基礎でもあることが、闇の深さを暗示する。

そもそも、単独の職員が勝手に2000件超を処理できる作業ではない。市の集計という正規の工程の中で、調査員の判断を覆している。これを「組織的」と呼ぶ以上、指示、申し合わせ、課内の方針、これまでのやり方のいずれかがあったと見るほかない。指示も会議も方針もなく組織的、という説明は成り立たない。

市長が指示の有無を捜査に委ねたのは、その点を認めたくないからであろうが、言葉の選び方自体が、個人の逸脱では済まないことを示している。

慣例だったと見るべき理由

これは、慣例だったのではないだろうか。件数、方法、動機が一致している。現地で空とされた世帯を台帳側に寄せて戻す作業は、その場の思いつきではなく、差を埋める実務として繰り返されたと考えるのが自然である。報道機関には、空室アパートを居住ありと改ざんしていることは前回2020年調査でも同様だった、という告発も届いている。市長は前回分を否定したが、今回と同じ型の処理を否定する材料は出ていない。

国勢調査と住民基本台帳は、ずれるものだ。若い世代は転居しても住民票を動かさないことが多く、国勢調査の方が少なく出やすい。担当課から見れば、台帳より少ない数字は「足りない」ように映る。その差を補記で埋める運用が固定すれば、調査員が外した分まで戻すところまで行く。富山市で起きたのは、その慣例が規模として露出したものであろう。

他の市町村でも同じ穴がある

これは端的に言えば、組織犯罪である。税の収奪に関わるからだ。人口は交付税に直結する。大きく出れば自治体に得がある。未回答世帯は聞き取りのあと台帳で埋める仕組みになっており、現地確認を省けば水増しと同じ結果になる。2024年には、東京23区と政令市の相当数が近隣聞き取りを飛ばして台帳転記に進んでいたと報じられた。手引き違反は富山市の専売ではない。

過去に刑事事件になった例も、閾値を意識した自治体である。1970年の北海道羽幌町は約5900人を水増しした。2010年の愛知県東浦町は市制に必要な5万人を作るため調査票を足し、副町長らが有罪になった。やり方は今回と同じで、居住確認をせず台帳を見て書いた。

この差を埋めたい誘因と、台帳で補える制度が全国共通である以上、富山市だけが特殊なわけがない。発覚したのは、速報と確定の差が大きすぎて総務省が踏み込んだからである。同じ処理をして数字のずれが小さければ、外から見えない。

国勢調査は「今どこに住んでいるか」を取る調査である。住民基本台帳は「どこに登録しているか」の台帳である。後者で前者を上書きすれば、空室が人口になる。富山市はそれを組織の作業としてやった。他の自治体が同じ補記をどこまで日常にしているかは、今回の告発を機に点検しなければ分からないが、仕組みがある以上、富山市を例外扱いするのは誤りであろう。



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2026.09.29

ウクライナ戦争後の欧州の安全保障コストを誰が負担するのか

予算規模をめぐる争いの背後にあるもの

現下、欧州連合(EU)の次期多年度財政枠組み(MFF)をめぐる対立が表面化している。これには大きな問題が潜んでいるが、一見すると典型的な予算交渉に見える。

欧州委員会は、2028年から2034年までの7年間について約2兆ユーロ、EUの国民総所得(GNI)の平均1.26%に相当する予算を提案しているのだが、これに対し、ドイツ、オランダ、スウェーデン、デンマーク、オーストリア、フィンランドの6カ国は、この総額から「数千億ユーロ」を削減しなければ合意しないとの立場を示している。6カ国はEU予算収入のおよそ40%を負担しており、その反対は単なる異論ではない。MFFの成立には加盟国の全会一致が必要である以上、彼らには交渉を止めるだけの制度的な力がある。

今回のこの対立は、ゆえに一見、「大きなEU予算を望む国」と「小さなEU予算を望む国」の衝突のように見える。だが、そうではない。この6カ国はEUの支出全般を縮小すべきだと主張する一方で、防衛、安全保障、技術革新、産業競争力にはより多くの資源を投入するよう求めているのである。ドイツのフリードリヒ・メルツ首相も、約2兆ユーロという規模は現実的ではないとしながら、それなのに、防衛と競争力を強化するために、優先すべきだと明言している。つまりこの6カ国が求めているのは単なる緊縮ではなく、EU財政の優先順位そのものの変更であり、防衛予算を増やせというのである。

つまり、問題はこうだ。総額を減らしながら、防衛や技術への支出を増やすのであれば、それ以外の支出をより大きく削らなければならない。減らされるのはどこか。そもそもEU予算における最大の既存支出は、長年にわたり農業政策と地域間再分配であった。だから、今回の事態は、表面上は「2兆ユーロは高すぎる」という財政規律の議論であっても、その実体は、農業政策と地域間再分配の支出を減らし、それを防衛予算に振り向けろということだ。

戦後型EU財政から地政学型EU財政へ

EUの予算構造とはそもそもなんだったのか。答えは歴史にある。それはこの共同体が歴史的に何を目的としてきたかに映し出されている。

EUの予算の根幹ともいえる共通農業政策は、戦後欧州における食料供給と農村社会の安定を支え、結束政策は単一市場によって拡大しかねない地域格差を緩和する役割を担ってきた。EUとは市場統合の制度であると同時に、豊かな国・地域からより所得の低い国・地域へ資金を移転する再分配の制度でもあった。現在の委員会案でも、加盟国・地域向けの枠には8650億ユーロが計上されており、約2兆ユーロの予算の中でなお最大級の項目を形成している。

ところが、この財政モデルの上に、この数年で別種の需要が積み上がった。ロシアによるウクライナへの全面侵攻は、EUにウクライナ支援だけでなく、自らの防衛能力、防衛産業、軍事輸送網、エネルギー安全保障を強化する必要を突きつけた。同時に、米国や中国との技術・産業競争、半導体やAIをめぐる戦略的依存、移民・国境管理などもEUレベルの課題として浮上した。委員会は次期MFFを、こうした安全保障、競争力、エネルギー、移民の課題に対応するための「根本的な再設計」と位置づけている。

数字にもその転換は現れている。委員会案では、防衛・安全保障・宇宙分野に1310億ユーロを配分し、EUレベルでは前期の約5倍に拡大する。軍事移動関連の資金も大幅に増やされる。さらに2028年から2034年には、ウクライナ向けに最大1000億ユーロを動員できる枠が設けられる構想である。軍事作戦に直接関係する支出の一部は、通常予算とは別に、軍事・安全保障や緊急事態に柔軟に対応するための特別基金」(European Peace FacilityなどMFF外の制度)で扱われるため、2兆ユーロの予算そのものは「ウクライナ戦費」とはみなせないとしても、ウクライナ戦争の継続がEUに安全保障国家としての新たな財政的役割を要求していることは明白である。

防衛をめぐる対立ではなく、防衛の請求書をめぐる対立

では、今回の亀裂は「防衛を重視する北部欧州」と「防衛より補助金を重視する南欧・東欧」なのだろうか。それも違う。ロシアとの安全保障問題を深刻に受け止めているのは、ドイツや北欧諸国だけではなく、ウクライナ国境に近い中東欧諸国にとっても、防衛能力の強化は切迫した問題である。争点は、防衛支出そのものの是非というより、その追加費用をどの財布から出すのかにある。

ドイツ、オランダ、スウェーデン、デンマーク、オーストリア、フィンランドの6カ国の論理は明快である。新しい安全保障環境に対応するため、防衛や競争力へのEU支出は増やすが、それを理由にEU予算総額を約2兆ユーロまで膨らませるべきではなく、そのために、農業、地域政策を含む既存の支出を削り、限られた予算の中で優先順位を組み替えるべきだというのである。彼らは新たなEU共同債務にも慎重であり、少なくとも現時点では「借金を増やして双方を満足させる」という選択肢も容易には認めていない。

この主張は、受益国側から見ればまったく違った意味を持つのは当然だろう。防衛はEU全体に利益をもたらす公共財であるが、その財源を農業補助金や地域開発資金の削減によって捻出するのであれば、安全保障のコストが特定の国や地域に偏って転嫁されることになる。なぜ欧州全体の再軍備の費用を、われわれの農家や地方への支援削減によって払わなければならないのか。

純拠出国にも余裕はない

このように再提示した問題には、簡単な解が存在する。「それならドイツなど豊かな国が追加で負担すればよい」のである。つまり、その解が選べないというのが、現下のドイツの問題であり、この6カ国側の政治経済的な制約なのである。彼らはすでにEU予算への主要な拠出国であると同時に、自国の防衛予算も急速に引き上げなければならない状況にある。とりわけドイツでは、長年抑制されてきた防衛・インフラ支出の拡大が国内財政そのものを変えつつある。

例外がないわけでもない。デンマークのように財政状態が比較的良好な国も6カ国に含まれている。概説するなら、問題はむしろ、限られた財政的・政治的余力をどこに配分するのかであり、各国政府にとって、自国の軍隊、防空、インフラ、産業政策に支出することと、ブリュッセルを経由してEU共通予算への拠出を増やすことは政治的に同じではないのである。自国防衛より、EUの防衛を優先することに各国の理解は得られないだろう。まして、そのEUの防衛の目下の実態は、ウクライナ戦争支援であるが、この戦争を対立のみで捉えるという合意すらない。

共同債務と独自財源という第三の争点

この対立には、他の解決策があるだろうか。既存の加盟国拠出にも、農業・地域支援の削減にも依存しない新しいEU財源を作ればよいのではないか。欧州委員会はその方向を模索しており、大企業への新たな拠出制度を含め、EU独自財源の拡充を提案している。新財源が十分に確保されれば、加盟国政府への直接的な請求を抑えながら、防衛や競争力への支出を増やす余地が生まれる。

しかし、そんな会計上の魔法で済む話ではない。EUレベルの税や賦課金を増やせば、企業、消費者、資本所有者など別の主体が負担する。共同債務を発行すれば、現在の加盟国財政から将来のEU財政へ負担を移すことになる。NextGenerationEU型の借入を恒常化することには、財政統合の深化を警戒する国々が強い抵抗を示してきた。問題は消えるのではなく、負担者と負担時期が変わるだけである。

EUが独自の恒久財源を持つということは、加盟国政府からEUレベルへ財政能力を移すことを意味する。今回の予算交渉は、「何に使うか」だけでなく、「EU自身がどこまで徴税・借入能力を持つ政治主体になるのか」という統合の根本問題にもつながっている。フランスが2026年9月末、Googleなどへの制裁金を加盟国拠出の軽減に利用する案を示したことも、この財源探しの一例である。額の大小以上に重要なのは、加盟国が「自国予算から直接払う」以外の財源を探し始めていることである。

もっと簡単にも言える。納税者が直接選出できないという点で非民主主義なEUに自国の主権の一部を委ねることができるのだろうか。

アイルランドが調停しなければならない矛盾

この難題を現在取りまとめているのが、2026年後半のEU理事会議長国アイルランドである。6月の欧州理事会は、アイルランド議長国に対し、10月15日の首脳会議までに次期MFFの交渉を前進させるよう求めた。EU側は2026年末までに政治合意に達することを目標としている。そうしなければ、2027年中に各政策の法制度を整備し、2028年1月から新予算を円滑に始動させることが難しくなる。

アイルランドの位置は興味深い。経済的には比較的豊かな加盟国であり、EU予算の純拠出国側の論理を理解できる一方、農業が国内政治で重要な位置を占めており、共通農業政策の大幅削減を容易に受け入れられる国でもない。安全保障とウクライナ支援を重視しながら、農業政策も守りたいという立場は、いわばEU全体が抱えている矛盾を縮小したものでもある。

アイルランドにも、この矛盾を解消する魔法の数字があるわけではない。全会一致制度の下では、6カ国は2兆ユーロ案を止めることができるが、自分たちの削減案を他国に強制することもできない。農業・結束政策を守りたい国々もまた、最終合意を拒むことができる。この意味で、全会一致は双方に拒否権を与える制度であり、予算交渉は必然的に「どちらが勝つか」ではなく「どちらも完全には負けない条件をどう作るか」という問題になる。

ウクライナ戦争がEUに突きつけた問い

問題は、要するに、ウクライナ戦争なのである。これが、EUの財政モデルが抱えていた矛盾を露出させた触媒となった。EUは長年、単一市場の利益を共有しつつ、その副作用を農業政策と地域再分配によって調整する共同体として発展してきた。しかし、ロシアとの軍事的対立が長期化し、米国の安全保障関与にも以前ほど無条件には依存できない環境では、EUは再分配だけでなく、防衛能力を生み出す共同体であることも求められる。

従来の再分配国家から今後は安全保障国家へ単純に移行すればよい、ということではない。EUが農業・地域政策を通じて築いてきた政治的連帯は、それ自体が統合を支える重要な基盤である。その資金を大幅に削って安全保障に振り向ければ、防衛能力を高める代わりに域内の政治的結束を弱める可能性がある。逆に従来型支出をすべて温存すれば、安全保障環境の変化に応じた財政再編はできない。ここに、単なる会計調整では処理できない政治的選択がある。

さらに、この問題は将来のウクライナ加盟とも無関係ではない。ウクライナは大規模な農業国であると同時に、加盟時点では一人当たり所得がEU平均を大きく下回ることが予想される。そのような国を既存の共通農業政策と結束政策にそのまま組み込めば、現在の受益国との間でさらに大きな分配問題が生じる可能性がある。つまり、ウクライナ戦争はEUに防衛支出を増やす必要を生じさせただけでなく、将来のEU拡大を通じて、農業・地域政策そのものの再設計を迫る可能性も持っている。そして、なにより、ウクライナという国家にはEUの基準に見合う程度のクリーンな政治構造が存在していない。汚職構造は払拭される見込みすらない。




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2026.09.28

イスラエル総選挙は「和平か戦争か」ではない

2026年10月27日に迫るイスラエル総選挙

イスラエル総選挙の問題は一見単純にも見える。2026年10月27日、イスラエルはハマスによる2023年10月7日の攻撃以降、初めての総選挙を行う。最大の争点はベンヤミン・ネタニヤフ首相の続投か交代か、である。だが世界が本当に問われているのは、そこではない。

現状、どの有力勢力もイランの核兵器化を認めず、ハマスの再統治を認めず、ヒズボラに対する抑止を捨てていない。二国家解決を直ちに進める勢力も、連立の中核にはいない。つまり、この選挙は「中東和平の急転」を、まったく約束しないのである。約束するのは別のことだ。つまり、①アメリカ、湾岸、欧州との駆け引きが滑らかになるか、②戦争管理が慢性化するか、③組閣空白で計画が空転するか。この三つである。

数字が示す行き詰まり

投票まで約1か月。クネセト定数は120、過半数は61。閾値は得票率3.25パーセント。数字はすでに、どの政権も単独では安定しにくいことを示している。

2026年9月末の世論調査は、調査機関によって大きく割れる。平均に近い姿はこうだ。ガディ・アイゼンコット元参謀総長の新党ヤシャルが22〜23議席、ネタニヤフ率いるリクードが20〜23議席でほぼ拮抗する。現連立(リクード、シャス、統一トーラー・ユダヤ、オツマ・イェフディト、宗教シオニズムなど)は多くの調査で49〜55議席。野党のシオニスト勢力も50議席前後。アラブ系は10〜12議席。

現連立を63議席とする調査もあるが、49議席とする調査もある。平均を取れば、どちらも61に届きにくい。首相適任者の質問では、アイゼンコットやナフタリ・ベネット元首相がネタニヤフを上回るか僅差で並ぶことが多い。

なによりイスラエルでは、最大政党が自動的に政権を取るわけではない。大統領が組閣を依頼し、連立が過半数を作る。ここが国際情勢の起点になる。連立の拒否権を誰が持つかで、ガザ撤退の順序、西岸の入植、対米調整の速度が変わる。今回のクネセトは1988年以来、初めて任期を満了する議会である。1973年以来、初めて任期を満了する政権でもある。異例の「満期選挙」が、異例の安定を生むとは限らない。

2026年の中東は選挙の外側で動いている

この選挙の背景には、2026年春から夏の経緯がある。2月28日以降、米国とイスラエルはイランを攻撃した。その後トランプ米政権は停戦と経済圧力へ舵を切り、ホルムズ海峡の再開と核協議を優先した。ネタニヤフ側は体制打倒と核・ミサイル問題の一括処理を望み、温度差が露わになった。同時にガザでは、トランプ案と呼ばれる枠組みが進む。ハマスの武装解除と、イスラエル軍の「イエローライン」までの撤退をどう並べるかが焦点である。レバノン南部にはイスラエルの保安地帯が残る。サウジアラビアの正常化は、「パレスチナ側の政治的地平」を条件に停滞している。米国中間選挙はイスラエル投票の直後に行われる。つまり次期政権は、白紙の中東を描くのではないく、すでに走っている米国主導の枠に、乗るか、抵抗するか、遅らせるかを選ぶことになる。どんなシナリオが想定できるか。

シナリオ1:ネタニヤフ連立の存続

最も国際摩擦が残りやすい形である。リクードに超正統派と極右がつけば、ガザ撤退、入植、西岸での実力行使でワシントンと衝突しやすい。

対米関係は切れない。しかし条件付きになる。武器、作戦の自由度、停戦順守をめぐる交渉が常態化する。民主党の支持低下に加え、共和党内の孤立主義にも影響を与える。対イランでは、「核は絶対に認めない」は共通でも、手段が違う。米国が取引と制裁を重ねる局面で、イスラエルが独自再攻撃に動けば、原油と湾岸の安全が一気に再燃する。ネタニヤフ続投は、外交妥結より軍事オプションを残す圧力が強い。

ガザとレバノンでも方向は同じだ。ハマス残存を認めない点は野党も同じである。違うのは順序である。武装解除が完了する前の撤退を拒めば、計画は止まり、低強度の衝突が続く。レバノン南部の保安地帯も維持志向が強い。湾岸では代償が大きい。サウジが求める最低限の政治的見通しを、現連立は飲み込みにくい。アブラハム合意の拡大は停滞し、UAEなど既存パートナーとの関係も「治安協力は残るが政治的カバーは薄い」状態になりやすい。欧州では入植と西岸暴力が再燃材料になり、ICCや武器規制の議論が再び熱を帯びる。

つまり、現状継続の国際的意味は、和平の否定というより、戦争を管理装置として残すことである。

シナリオ2:野党政権——アイゼンコットを軸に

ネタニヤフが外れることを「平和派への転換」と読むのは誤りである。アイゼンコットはダヒヤ・ドクトリン、すなわち不均衡な打撃による抑止の提唱者である。パレスチナ国家を現時点では非現実とし、イラン核を最大の対外脅威に置く。ベネットも、ヒズボラ攻撃にはイランへの報復を返す、と公言してきた。リーベルマンのイスラエル・ベイテイヌも右派である。これだと、変わるのは政策の骨格ではない。連立の拘束である。スモトリッチとベン=グヴィルに依存しなければ、トランプのガザ計画への乗っかり、西岸での一方的な併合加速の抑制、10月7日をめぐる国家調査委員会の設置がやりやすくなる。

対米関係では、個人間の冷却が和らぎやすい。「同じ政策でも摩擦が減る」効果が、専門家の間でも指摘されている。ただし米国内のイスラエル離れは、首相が替わっただけで自動的には止まらない。イランでは、独自再戦争より米主導の抑止設計に寄せる余地がある。残存ウラン周辺に明確な攻撃ゾーンを設け、動きがあれば叩く、といった案がアイゼンコット周辺から出ているのはその例である。核を認めない点はネタニヤフと同じでも、米国の枠に乗る意思は強い。

ガザではハマス排除を維持しつつ、極右の再入植・追放論は止まりやすい。限定撤退、再建、パレスチナ自治政府の限定関与といった外交パッケージに進む可能性はある。二国家解決の急転ではない。レバノンでも保安地帯は残るが、米国案の部分撤退を試す余地は現連立より大きい。

湾岸にとってはこのシナリオが最も読みやすい。入植抑制とガザ再建をセットにできれば、サウジ正常化の政治的カバーが出る。ベネットとヤイル・ラピドは湾岸指導部との接点もある。欧州との実務関係も、イメージ改善の恩恵を受けやすい。ただし「二国家を急がない」立場は残るため、関係正常化は段階的である。

ようするに、野党政権の国際的意味は、理想の転換ではない。取引コストの低下である。

シナリオ3:膠着と空白、現実の無気力

平均議席を見る限り、膠着と空白、現実の無気力、これが本線である。野党はアラブ政党をどう扱うかで詰まる。リーベルマンらはアラブ政党依存を拒否する。ネタニヤフ側も、野党からの切り崩しなしには61に届きにくい。

国際的な影響は政策転換より空白である。トランプのガザ計画、対イラン交渉、レバノン枠組みの実施が遅れ、現地で衝突が再燃しやすい。市場は決定不能を織り込む。防衛費、保険、原油にプレミアムが残る。エジプト、ヨルダン、サウジ、トルコはイスラエルを交渉相手として読めず、独自ヘッジを強める。組閣に数週間から数か月かかる、との見方はすでに出ている。暫定政権は大きな外交取引より、現状維持と軍事オペレーションに偏る。世界が最も嫌うのは、実はこのシナリオである。劇的な悪化ではなく、決められないこと自体がリスクになるからだ。

変わらない四原則、世界が見る四指標

どの政権でも残りやすい原則は四つある。イランの核兵器化阻止。ハマスの統治と再軍備の否定。ヒズボラに対する抑止と北部の保安空間。パレスチナ国家の即時承認への慎重さ。ここを見落とすと、選挙を「タカかハトか」に圧縮してしまう。

世界が投票翌週以降に見るべき指標も四つである。第一に、ガザからの撤退と武装解除の順序を米国案に近づけるか。第二に、西岸の入植と実力行使を止めるか加速するか。第三に、サウジ正常化に必要な最低限の政治的地平を出すか。第四に、対イランで米国の外交・制裁枠に乗るか、独自攻撃に戻るか。首相の名前より、この四つの実務が地域秩序を決める。

2026年10月27日のイスラエル総選挙は、歴史的な満期選挙である。同時に、中東を一変させる魔法の日付ではない。アイゼンコットが第一党になっても、ネタニヤフが残留しても、核と武装組織をめぐる原則は残る。変わるのは、誰が拒否権を持つかだ。極右が拒否権を持てば、米国案は遅れる。中道右派と元将軍が拒否権を持てば、同じ安全保障でも外交の速度が上がる。どちらも61に届かなければ、計画は紙の上で止まる。

世界が注視すべきなのは、勝利演説ではありえない。選挙後最初の30日に、ガザ、イラン、西岸、サウジのどれが動くかである。そこで動かなければ、2026年の中東は戦争の次の段階ではなく、戦争の長期管理に入る。



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2026.09.27

令和の米騒動の現在

令和の米騒動は続いているが、表面的には危機的ではない。スーパーでは、26年度の新米が25年度の古米より安く並ぶ逆転が起きている。5キロの平均店頭価格は、2026年1月初旬の4416円をピークに、9月中旬には2934円まで落ちた。6週連続の下落である。

昨年、棚から米が消えた記憶は新しいのに、産地の倉庫では「もう新米が入らない」との声が出ている。現下のコメ余りを「昨年の買いだめ」や「もともと安いコメ」で片づけるらる事態ではなさそうだ。

空棚と在庫過剰は別の現象

2024年6月末の民間在庫は156万トン前後まで落ち、比較可能な統計で最低水準だった。猛暑の後遺症、インバウンド、買い急ぎが重なり、店頭は制限販売になった。

昨年夏の状況は、確かに米がないという騒動の火種だったが、2026年6月末の民間在庫は243万トンである。適正とされる180万〜200万トンを大きく超え、近年では最高水準となっている。さて、増えた中身だが、当然、集荷と卸の倉庫である。

数字の分岐点ははっきりしている。2025年産は約747万トンと、前年比ほぼ1割増の豊作だった。政府は備蓄米を約60万トン規模で放出し、備蓄そのものは適正の100万トンに対し30万トン台まで減少できる。が、需要は683万トンにとどまり、農水省が見込んだ697万〜711万トンから最大30万トン近く下振れした。高くて買わなくなった消費が、放出米と豊作米の行き先を奪ったのである。

4000円超の価格は何だったか

騒動前の5キロ2000円前後を「本来の値段」と呼ぶ向きはある。長年の生産調整が、暴落と高騰の両方を抑え込んできたからだ。

だが2025年産が出回っても価格は下がらず、年初まで4000円台が続いた。相対取引は玄米60キロで3万円超の世界が残り、店頭だけが後から落ちる。高知や愛媛の早期米概算金は前年比3割から4割安で提示され、新潟の一般コシヒカリも1万円台後半まで下がった。店頭がまだ2900円台なのに、産地ではすでに手取りが削れている。

この騒動で輸入も穴を開けた。国産高を見て枠内外の米が増え、特売の棚は国産古米と新米と輸入米が混在する。卸は高値仕入れの25年度を処分しないと倉庫が回らない。安値が安値を呼ぶのは、底値体質の復活ではない。遅れて崩れる在庫の値段である。

値崩れの先にある次の品薄

帝国データバンクによれば、2026年1月から8月に廃業や倒産で退いたコメ農家は全国32件。数としては多くない。だが高齢化とコスト高の上に、概算金の急落と在庫過剰が乗っている。過去に在庫が220万トン前後まで膨らんだ年は、相対価格が60キロ1万2000円前後まで沈んだ。肥料も燃料も高いいま、その水準は再生産の下限を割りかねない。

政府は9月、放出した備蓄のうち21万トンの買い戻しに動いた。現行方式が始まった2011年度以降で初めてである。価格の下支えと備蓄の回復が名目だが、備蓄の中身には古い年産も残る。気候リスクは消えていない。離農で作付けが減れば、次の猛暑は2024年より速く棚を空ける。

買いだめの話はわかりやすい。倉庫に入らない新米の話は、政策の振幅そのものである。不足を恐れて積み増し、余りを恐れて値段が折れ、折れた値段が作り手を減らす。この往復を止めなければ、令和の米騒動は例外ではなく、次の品薄の前史になる。

 

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2026.09.26

終わらなかった戦争――エチオピア北部で再び戦火

日本の報道ではほとんど扱われないようだが、アフリカ東部のエチオピアで、再び大きな戦争の影が広がっている。

2026年9月23日、北部ティグレ州で連邦政府軍とティグレ人民解放戦線(TPLF)の戦闘が本格化し、2022年11月の和平合意は事実上、崩壊しつつある。空港の掌握、州境を越えた攻撃、通信の遮断。2020年から2022年にかけて五十万人規模の死者を出した戦争の記憶が、現地では生々しく蘇っている。

遠い大国が、いま揺れている

エチオピアは、人口一億を超えるアフリカ第二の大国であり、首都アディスアベバにはアフリカ連合の本部もある。日本からは遠いこともあり、コーヒーやマラソン以外の話題は届きにくいが、この国の不安定化は、紅海の航路、隣国スーダンの内戦、エリトリアとの緊張と直結しており、アフリカの角全体を揺さぶる問題である。

今回の火種は、2020年11月から2022年11月にかけてのティグレ戦争が、核心部分を残したまま凍結されたことにある。

連邦政府とTPLF、さらに当時は政府側についたエリトリア軍が絡む大規模紛争の末、南アフリカ・プレトリアでの合意によって停戦したが、西部ティグレの帰属、避難民の帰還、武装解除、地域政府の正統性は先送りされた。

今年に入ると、2026年5月、TPLFは戦前の州政府を復活させ、8月1日以降は小規模な衝突とドローン攻撃が続いた。9月20日、TPLFを含む複数の武装勢力が「生存のための同盟」を発表し、アビー・アハメド首相の政権打倒を掲げる。9月23日、ティグレ側がメケレ、アクスム、シレの空港を掌握し、戦闘は隣接するアムハラ州とアファール州へ広がった。

北部はティグレ、その南と西にアムハラ、東にアファールが接する。ジブチへ向かう物流回廊もこの一帯に近く、戦闘が長期化すれば経済の動脈にも影響する。

敵同士が手を組む、新しい構図

四年前と違うのは、かつての敵同士が一部で共闘している点である。2020年戦争では政府側だったアムハラのファノ民兵が、今回はティグレ側と並ぶ場面が報じられている。オロモ解放軍など他地域の勢力は同盟に名を連ねつつも、足並みは揃っていない。

9月24日、政府軍はアムハラ州北ウォロでTPLF戦闘員272人を殺害したと発表したが、数字は独立検証されていない。政府軍は「戦略的な抑制」を強調し、全面戦争を避けたい姿勢を見せているものの、双方が相手の先制を非難し、情報は大きく食い違う。

政治面では、少し振り返るが、2026年6月1日の総選挙で与党繁栄党が大勝し、6月21日に開票結果が発表され、アビー首相の続投が決まったものの、ティグレなどでは投票自体が行えず、野党のボイコットも目立った。選挙の圧勝と北部の戦火が同時に存在するのが、いまのエチオピアのねじれである。

経済は走り、北部は崩れる

奇妙なことに、エチオピアの経済は別の軌道を走っている。

IMFは2025/26年度の成長率を9.2パーセントと見込んでおり、金とコーヒーの輸出、債務再編、為替改革が進む。9月24日にはジブチとの燃料パイプライン構想の起工も報じられた。

それでいて、北部ではすでに現金不足、通信障害、援助トラックへの攻撃が起きている。国連は9月25日、ドローン使用と民間人被害、人道支援の停滞に深刻な懸念を表明した。アファールでは十万人規模の避難も伝えられる。戦争が拡大すれば、改革の成果は一気に吹き飛ぶ。

現状、メケレの街は、表向きは日常が続いているように見えても、住民の不安は深い。前回戦争では封鎖によって食糧と医療が途切れ、死者の多くは戦闘そのものより飢餓と医療崩壊であった。同じ悲劇を繰り返さないためには、戦闘の早期停止と人道回廊の確保が急務である。

残された三つの道

エチオピアの今後の展望は三つに分かれるだろう。第一は、政府が限定的な反撃で抑え込み、国際仲介で再び停戦に戻るシナリオである。第二は、北部が長期の低強度紛争になり、国全体の資源を削り続けるシナリオである。第三は、エリトリアやスーダンが深く巻き込まれ、地域戦争化する最悪のシナリオである。

2026年9月26日時点では第一と第二の間にあり、まだ第三へ落ち込む前の段階だ、というのが多くの観察者の見方である。

日本にとって遠い話に聞こえるかもしれないが、紅海の安定、アフリカの成長市場、難民と食糧危機は、いずれも無関係ではない。

エチオピアは「終わった戦争」の国ではなく、「終わらせきれなかった戦争」の国である。ウクライナ戦争やイランの戦争に国際状況の関心が無垢が、エチオピアの状況は看過できない。なぜ和平が壊れたのかを丁寧に見ることである。抑制と対話の余地が、まだ残されているうちに対応が望まれる。

 

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2026.09.25

『ブチャ報告書』が本当に突きつけた問い――「509人」は誰なのか

2026年9月25日、国連総会のハイレベルウィークに合わせてニューヨークを訪れたロシア外相セルゲイ・ラブロフは、国連事務総長アントニオ・グテーレスに一冊の報告書を手渡した。ロシア外務省の発表を伝えるロシア側報道によれば、ラブロフは国連事務局に対し、その内容を詳細に調査するよう求めたという。報告書の題名は『ゲッベルスの後継者たち――ブチャ事件の偽装とキエフ政権の血塗られた演出』(参照)。題名だけでも、その政治的意図はほとんど説明を要しない。ブチャでロシア軍による民間人虐殺が起きたという国際的な理解を否定し、それ自体をウクライナと西側による情報工作だったと論証するための文書である。

報告書が証明しようとしていること

この報告書は、意図を明示している。冒頭で、示された事実とされる事柄は、ウクライナと西側によるブチャ事件の「偽装」を示す「疑う余地のない証拠」だと言うのである。続いて1939年のグライヴィッツ事件(ナチス・ドイツがポーランド侵攻の口実を作るために行った偽装工作)を持ち出し、ブチャの事件をその現代版として位置づける。曰く、軍人を民間人に見せかけた、自軍の砲撃による犠牲をロシア軍の仕業にした、病死者をロシア軍による殺害として扱った、さらにはメディア撮影のために自国民を殺害したと、報告書は主張する。

しかし政治的な文書を読むときには、著者が証明したいことと、資料が実際に証明し得ることとを分けて考えなければならないし、特にこの報告書の場合、その隔たりはかなり大きい。実際にこの報告書を読むと、「ブチャ事件そのものが演出だった」という大きな結論よりもはるかに狭く、しかし無視しにくい問いが浮かび上がってくる。ブチャの追悼メモリアルに刻まれ、「509名の民間人」と説明されている人々は、実際には誰なのか、という問いである。

「509名の民間人」という出発点

確認しておきたいのだが、「509」という数字は、ロシア側が作り出したものではない。ウクライナ大統領府は2024年3月31日、ブチャの聖アンドリー教会近くにある「記憶の壁」について、現時点で身元が確認された509名の民間人の名前が刻まれていると公式に説明している。ロシア側報告書も、この記述を直接引用して議論の出発点としている。このことから、報告書が提起する最初の検証可能な命題はきわめて単純である。この509人は、本当に全員が民間人なのか。

この点については、報告書を単なる政治宣伝として退けてしまうと見落とすだろう。報告書は抽象的に「軍人が混じっている」と述べているだけではない。メモリアルのプレートを撮影した写真を掲げて対象者の名前を示し、その人物が正規軍、領土防衛隊、治安機関の要員などだったと個別に主張している。もっとも、そこで名前が挙げられているのは30人余りである。それでも、たとえばヴォロディミル・ビサガについて、報告書は民間人ではなく軍人だったとしている。この身分情報はロシア側資料だけに依存しているわけではなく、ウクライナ側の資料でも、ビサガはウクライナ軍の軍人として記録されている。より明瞭なのが、ヴィタリー・フェシュクの例である。報告書は、フェシュクが偵察と着弾修正に従事し、ロシア軍装備の位置情報を伝えていたにもかかわらず、メモリアルでは民間人として扱われていると指摘する。報告書が典拠として挙げるのはウクライナ側の追悼サイトであり、そこでもフェシュクは軍務・戦闘任務に従事した人物として記録されている。

ここには、少なくとも従来の説明の不整合がある。「509名の民間人」という公的な一括表現と、その中に含まれる一部の人物についてウクライナ側自身が残している軍事的身分や活動歴とが一致していないからだ。これは「ロシアがそう主張している」というだけの問題ではなく、報告書を入口にウクライナ側の資料をたどっても、少なくとも一部については同じ問題に行き着く。その意味で、この部分は政治的立場とは独立して再検証に値するのである。

死亡場所と死因――名簿の性質という問題

報告書はさらに、別の種類の不一致も指摘している。メモリアルの掲載者の中に、ブチャ市内ではなくヴォルゼリ、モシチュン、コピリウなど別の場所で戦死した軍人が含まれているというのである。また、病死した高齢者が「殺害された民間人」の中に含まれているとも主張する(ただし報告書が具体的に挙げている例は、がんで亡くなったとされる68歳の女性一件にとどまる)。これらが独立した資料で確認できるなら、それは政治的解釈以前に整理すべきデータの問題である。誰が、いつ、どこで、何によって亡くなったのか。その基本情報が食い違っているのであれば、まず名簿の性質を確定しなければ、その数字が何の犠牲者数なのかさえ曖昧になる。

つまり、ここで問われているのは、単純な水増しの有無だけではない。この名簿は、ブチャゆかりの死者を悼む追悼名簿なのか、占領期間中の死者名簿なのか、ブチャ市民の戦争犠牲者名簿なのか、それともロシア軍によって殺害された民間人の名簿なのか。これらは似ているようで、まったく異なる集合である。「509」という一つの数字がそれらを区別しないまま使われれば、その曖昧さはそのまま後の議論に持ち込まれている現状があることは明らかである。

名簿の問題と「ブチャで何が起きたか」は別の命題である

ただし、ここにはきわめて重要な区別があることを留意したい。メモリアルの「509名」に問題があることと、ブチャで文民や拘束者の違法殺害が起きなかったこととは、同じ命題ではない。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、このメモリアル名簿とは別の調査によって、ブチャにおける多数の民間人殺害を個別に検証している。Human Rights Watchも、現地調査や住民への聞き取り、写真・映像などの資料に基づき、即決処刑を含む違法殺害の具体的な事例を報告している。

この議論は正反対の二方向に同時に誤りやすい。一方では、509人の中に軍人が一人でもいればブチャの虐殺は虚構だった、という飛躍が生まれ、他方では、ブチャで違法殺害が確認されている以上、509人の分類に問題があっても構わない、という逆向きの飛躍が生まれる。しかし、どちらも成り立たない。違法殺害を示す独立した証拠があるからといって、追悼名簿の分類の不正確さが免責されるわけではなく、名簿に軍人や他地域での戦死者が含まれていたとしても、個別に確認された拘束・拷問・即決処刑が消えるわけでもない。

戦争法上、軍人であること、文民であること、文民が敵対行為に直接参加していること、拘束された戦闘員であることは、それぞれ異なる法的状態である。文民は敵対行為に直接参加している間、直接攻撃からの保護を失い得る。もっとも、それは、捕らえた後に処刑してよいという意味ではないとしても。

証拠の強さはどこで変わるのか

ここに、この報告書の限界がある。ある人物が実際に軍人だったという主張は、ウクライナ側の資料によって比較的容易に検証できる。そこから「509名の民間人」という説明は不正確ではないか、という問いも自然に導かれる。ところが、そこから「名簿は意図的に偽造された」、さらに「ブチャ事件そのものが演出だった」へと進むにつれて、必要とされる証拠の種類はまったく別のものになる。

この段差が報告書後半で飛躍し、「メディア演出」論に至る。報告書は、ウクライナ軍が報道陣の到着に合わせて自国民を攻撃したとする住民の証言を十数件掲載しているが、それらはいずれもブチャではなく、リシチャンスク、ウフレダル、ジェルジンスク、アウディーイウカなど、ドンバス周辺の別の地域についての証言である。報告書は、そうした「慣行」が他地域に存在したという主張から、ブチャでも同様のことが行われたと推論している。これは仮説を立てる材料にはなり得ても、ブチャでの演出を直接示す証拠ではない。つまりこの報告書では、個々の人物の身分や死亡場所についての具体的な指摘と、ブチャ事件全体が組織的な演出だったという結論との間に、大きな証拠上の距離がある。

「プロパガンダ」ではなく「敵対的監査」として読む

私が主張したいことは、この報告書には著者の意図とは別の読み方があるということだ。結論を述べた文書としてではなく、「敵対的監査」の資料として読むことである。戦争当事国やその支持者が作成した文書には、当然ながら強い選択バイアスがある。相手に不利な事実を最大限に集め、自分に不利な事実は小さく扱う動機がある。しかし同じバイアスは、相手側の公式説明の矛盾を執拗に探す動機にもなる。したがって、こうした文書から得られる最も有用なものは、著者が掲げる最終結論ではなく、「ここを調べれば公式説明が揺らぐかもしれない」と示された具体的な照合項目である。

その意味で、この報告書が提示した最大の調査課題は、「ブチャは偽装だったか否か」という巨大な二者択一ではない。509人を一人ずつ確認したらどのような集合になるのか、という、はるかに地味な問いである。509人全員について、まずメモリアルへの掲載を確認する。次に死亡時の身分を確かめ、正規軍、領土防衛隊、治安機関、武装した志願者、通常の文民を区別する。死亡場所がブチャ市内なのか、近隣地域なのか、まったく別の戦場なのかを確定する。死因を、銃撃、砲撃、戦闘、拘束後の殺害、病死などに分ける。そして最後に、加害主体と死亡状況についてどこまで証拠があるかを評価する。この作業を経て初めて、「509」という数字が何を表しているのかを正確に語ることができる。

その作業の結果は、あらかじめ決まってはいない。報告書が挙げた例はごく少数の特殊な事例にすぎず、509人の大半については「民間人」という分類と死亡状況が裏づけられるかもしれない。その場合、個別の例外からブチャ全体の偽装へと議論を拡張した報告書の論理の弱さが、改めて明らかになる。逆に、軍人、戦闘任務中の死者、他地域での戦死者、病死者などが相当数確認されるなら、「509名の民間人」という公式説明は訂正あるいは再定義を迫られることになる。どちらになるかは、報告書の題名でも発行者の政治的立場でも決まらない。509人を調べて初めて分かることである。

そしてその先に、もう一段大きな問いが残る。「ブチャの虐殺」という言葉は、いったい何を指しているのか。「509人全員がロシア軍に殺害された民間人である」という命題、「ロシア軍占領下のブチャで、文民や拘束者に対する複数の違法殺害が発生した」という命題、そして「それらを総体として『ブチャの虐殺』と呼ぶ」という歴史的・言語的な命題は、それぞれ別のものである。第一の命題が崩れても、第二の命題は直ちには崩れない。第二の命題については独立した調査結果が存在するからだ。反対に、第二の命題に相当の証拠があるからといって、第一の命題にあたる「509人」という数字を無批判に使ってよいことにもならない。

ラブロフがグテーレスに手渡したこの報告書は、ブチャの虐殺が西側とウクライナによるプロパガンダだったと証明することを意図している。だがこの文書の中で最も耳を傾けるに値するのは、その巨大な結論ではない。より小さく、具体的で、検証可能な疑問、「509人とは誰なのか」である。

この問いは答えることができる問いである。名前があるからだ。軍歴を調べ、死亡場所を照合し、死因を追い、埋葬記録を確認し、遺族の証言を比べ、公式記録同士の食い違いを洗い出すことができる。「虐殺だった」「偽装だった」という二つの結論を先に置けば、資料はどちらかを補強する弾薬になってしまう。そうではなく、数字を人名に戻し、人名を一件の死亡事例に戻し、その一件ずつを検証する。その積み重ねの上で、最後に大きな概念の射程を決めるべきなのである。

この報告書に意図せざる価値があるとすれば、それはブチャの虐殺を否定したことではない。すでに政治的・歴史的な意味を帯びた「509」という数字を、もう一度、検証可能な509人の個人へと引き戻したことである。「ブチャの虐殺」という概念がどこまで成立するのかを問うのは、その作業を終えた後でよい。



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2026.09.24

J:COM障害と顧客対応

2026年9月23日の朝から夕方にかけて、J:COM NETで全国規模の接続障害が発生し、同社の設備を利用する各地のケーブルテレビ事業者のサービスにも影響が及んだ。この障害が単なる「回線断」として片づけられない関心を呼んだのは、端末やルーターのDNS設定をGoogleの8.8.8.8などのパブリックDNSに書き換えると通信が戻るという報告がSNS上で相次ぎ、利用者のあいだで回避策が急速に共有されていった一方で、J:COMの公式告知は障害の発生を詫びて復旧を待つよう求めるにとどまり、そうした暫定策にはついに触れなかったからである。しかも障害の影響でカスタマーセンターへの電話もつながりにくくなっていたから、多くの利用者にとって実際に役立つ情報源はSNSのほかになかった。この一件は、通信障害そのものの技術的な問題にとどまらず、通信会社のなかで現場の技術的知見がどのような経路を通って経営判断と顧客対応に届くのかを考える材料を与えている。

技術的な側面から見れば、症状はかなり特徴的だった。インターネット上の通信は、ドメイン名を実際の宛先となるIPアドレスに変換するDNSの働きを前提にしているため、物理回線とパケットの経路が正常であっても、名前解決が応答しなければブラウザもアプリも接続先を見つけられず、利用者の目にはインターネットがまるごと止まったように映る。

パブリックDNSへの切り替えで回復したという事実は、少なくとも相当数の利用者にとって、パケットを運ぶ経路そのものは生きており、J:COMが提供するキャッシュDNSか、そこへ至る何らかの経路か、あるいはその周辺の設備に問題があったと考えるとよく説明がつく。J:COMのように自前のアクセス網を持つ事業者は、IPv4とIPv6をそれぞれ直接提供するデュアルスタック構成をとることが多く、IPv4をIPv6網の上に載せて運ぶDS-LiteやMAP-Eが広く用いられているフレッツ光系のIPoEとは内部の仕組みが異なるから、IPv6側の経路やDNSの配布に限って不具合が生じ、IPv4で到達できる外部のDNSを指定することで迂回できたと想定される。ただ、端末は通常、設定された複数のDNSサーバーを順に試すため、これが今回の症状の説明として妥当かどうかは即断できず、原因がDNSサーバーそのものにあったのか周辺の設備にあったのか、またすべての利用者が同じ原因で影響を受けていたのかは、事業者側でしかわからない。

いずれにせよ、原因の究明に時間がかかることと、利用者に暫定的な回避策を示すこととは別の事柄であって、「外部のパブリックDNSに変更すると復旧する場合がある」という情報は、原因の確証が得られる前であっても、然るべき留保を付したうえで公式に出すことができたのではないか。もちろん、利用者に設定の変更を勧めれば、復旧後に元へ戻し忘れる人や、設定の誤りから新たな問い合わせをしてくる人が出てくるであろうし、自社が管理していない外部のサービスへ顧客を誘導することの責任をどう考えるかという問題もあるから、事業者が慎重になる理由がないわけではないが、それでよかったのだろうか。朝から夕方まで続いた障害のあいだ、テレワークやオンラインでの手続きを抱えた利用者がSNSで拾った手順を頼りに設定を書き換えていたという状況を思えば、その慎重さが顧客にとって何を意味していたのかは問われてよい。暫定策の提示は完全な解決ではないにせよ、障害のさなかに利用者が通信を取り戻す手段を持てるか否かを分けるものだからである。

ここで考えてみたいのは、J:COMのような、いわゆる「通信屋」「土管屋」の内部から、DNSがどのように見えているかということである。通信事業者の本業は回線を維持してパケットを運ぶことにあり、DNSは利用者にとって不可欠なサービスでありながら、事業者の内側から見れば回線そのものに比べて本業の中心から一段外れた付帯的な機能として扱われやすいのではないか、という推測はそれほど突飛なものではないだろう。けれども利用者の側にはそのような区別は存在せず、光回線や同軸回線が正常に動いていても名前解決ができなければインターネットは事実上使えないのであって、「土管は生きているがDNSが止まっている」という説明は技術的には正確であっても、顧客にとっては全面障害以外の何ものでもない。この認識の隔たりが、今回の対応の遅さにも影を落としていたように思われる。

おそらく現場の技術者は、比較的早い段階で何が壊れているのか、どうすれば迂回できるのかを把握していたはずである。しかしその知見を公式の対処方法として利用者に届けるには、サポート部門や広報、管理部門、さらには経営層の判断を経なければならず、そのいずれかの段階で情報が滞れば、現場では分かっているのに会社としては何も言えず、利用者のほうが先にSNSで解決策を共有し合うという、今回見られたような事態が生じる。

これは個々の担当者の怠慢というより、現代の企業における経営の専門化と深く関わる構造的な問題であろう。経営が一つの専門領域として確立し、財務、人事、法務、マーケティングを横断して組織を管理する能力が重んじられるほど、その会社に固有の技術から経営陣は遠ざかりやすくなり、経営の専門家としては有能であっても、現場から上がってきた「DNSだけの問題です」という報告が、顧客にとっては「インターネットがまったく使えない」ことを意味するのだと即座に読み取れるとは限らない。

経営陣にいわゆる叩き上げの人材が必要だと言われる理由の一つも、おそらくここにある。求められているのはDNSやIPv6の設定を自ら行える経営者ではなく、現場の言葉が何を指し、それが顧客にどの程度の影響を及ぼすのかを翻訳できる人間が意思決定の場にいることである。現在の通信技術は一人の経営者がその全体を見通せるほど単純ではないから、技術に明るい経営者を据え、現場で得られた知識を経営判断と顧客への発信へ速やかに接続できる組織をあらかじめ用意しておく必要がある。今回のJ:COM障害が示したのは、経営にとって、回線を守り復旧させる技術が通信事業者の品質のすべてではないということであり、通信インフラの品質は、回線の品質のみならず、現場で分かったことを利用者に返すまでの情報経路の品質をも含むものなのである。

 

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2026.09.23

ロシアの国際連合文化フォーラム2026

サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館本館(旧参謀本部ビル)を主会場に、2026年9月23日から第12回国際連合文化フォーラムが開幕する。テーマは「連合する文化、共通の価値」である。ロスコングレス財団が主催し、ロシア連邦政府、文化省、サンクトペテルブルク市行政が後援する。70カ国から約2500人が集まり、44の公式代表団が参加した。うち11カ国はロシアが「非友好国」と指定する国からの代表も含まれる。若者向けプログラムには約1500人が登録し、2023年の約1300人から規模を拡大させた。フォーラムは2025年12月25日付大統領令第962号で定められた「ロシア諸民族の統一の年」の主要行事の一つであり、9月25日のドミトリー・ショスタコーヴィチ生誕120年と、11月のドミトリー・リハチョフ生誕120年にも関連づけられている。

西欧におけるロシア文学出版の現状は厳しい。ロシア連邦デジタル開発・通信・マスメディア省の定期刊行物出版・書籍産業国家支援局長ウラジーミル・ヴィクトロヴィチ・グリゴリエフ氏が、西欧におけるロシア文学出版の現状を指摘する。グリゴリエフ氏によれば、政府の圧力により西ヨーロッパ諸国の多くの出版社が、現代ロシア人作家の作品だけでなく、ロシア文学の古典作品の出版も停止しているという。翻訳者の多くが事実上失業状態にあり、その象徴としてオーストリア国家文学翻訳賞受賞者のアレクサンダー・ニッツベルク氏の名が挙げられた。

ニッツベルク氏は1969年9月29日、モスクワに生まれた。父は彫刻家・画家のアブラム・ニッツベルク(1925–2005年)、母は女優のエラ・オパルナヤである。1980年、11歳のときに家族とともにドイツへ移住し、のちにウィーンを拠点とした。19歳の1988年から1989年にかけて本格的にロシア語からドイツ語への文学翻訳を始め、プーシキン、レールモントフ、ブローク、ツヴェターエワ、アフマートワ、グミリョフ、マヤコフスキー、ダニイル・ハルムスらの詩を訳した。チェーホフのほぼ全戯曲、ハルムスの全戯曲も手がけている。散文ではドストエフスキーやサヴィンコフに加え、ブルガーコフの新訳で知られる。2014年に『巨匠とマルガリータ』のドイツ語新訳で「Read Russia」賞を受賞し、翻訳には5年以上を要した。2017年には『犬の心臓』(Das hündische Herz)と『運命の卵』(Die verfluchten Eier)を刊行し、近年は『白い衛兵』(Белая гвардия)の新訳にも取り組んだ。2019年にはオーストリア国家文学翻訳賞を受けた。2025年10月15日にはロシアからプーシキン勲章を授与されている。そして、2025年にロシアへ帰国した。40年以上の西欧生活の後、イデオロギー的圧力と契約解除が理由であると本人は述べている。西欧で「一定の見解への事前同意」が求められるようになり、音楽家や演出家の契約が政治的出来事を理由に解除される状況を「正常ではない」と感じたという。現在はモスクワ大学翻訳高等学院で教えている。グリゴリエフ氏は、フランスやイタリアではロシア文学が市場に残り、私立図書館を含むあらゆる図書館に遍在していると指摘しつつ、関心は必ず復活すると述べた。

付随するフェスティバル「ペテルブルクの季節」は9月27日まで続き、100を超える公演、コンサート、展覧会、ツアーが組まれた。アレクサンドリンスキー劇場では、ドストエフスキーの中編『おとなしい女』(Кроткая)とトルストイの長編『復活』(Воскресение)を基にした国際共同公演が上演される。キューバ国立バレエの来演、ボリス・エイフマン・バレエ劇場による周年記念作品も予定されている。エルミタージュでは初期レンブラント作品の展示も行われる。ビジネスプログラムは10のトラックに分かれる。音楽部門ではデニス・マツーエフが国際コンクールに関する議論を司会し、フレデリック・ケンプとユストゥス・フランツが参加する。映画部門にはオリガ・リュビモワ文化相、コンスタンチン・エルンスト第1チャンネル総裁、フョードル・ボンダルチュク、カレン・シャフナザロフらが名を連ねる。劇場部門ではウラジーミル・マシュコフ、エフゲニー・ミローノフ、ヴァレリー・フォーキンが、インド、ベトナム、トルコ、コロンビア、チュニジアなどの代表とともに議論する。26日にはエルミタージュ賞の授与式が予定されている。

フォーラムが「共通の価値」を掲げる一方で、上述のグリゴリエフ氏の発言は、2022年以降の文化交流の亀裂を具体的に示している。古典である『巨匠とマルガリータ』や『白い衛兵』の新訳を手がけた翻訳者自身が帰国を余儀なくされ、同時にサンクトペテルブルクの舞台では同じドストエフスキーとトルストイの作品が上演される。文化の現場で起きているこの対照は、抽象的な「対話」の言葉だけでは覆い隠せない現実を浮かび上がらせている。

 

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2026.09.22

AIの破滅的リスク

歴史の加速と私たちの脆弱性

人類の歴史は加速していると言えるだろう。ホモ・サピエンスの誕生から農業革命までは数十万年を要したが、産業革命までは数千年、AI革命までは数百年へと短縮された。技術が次の技術革新を促すフィードバックによって、経済と科学の発展速度は高まり続けている。AIはその傾向をさらに強め、一世代のうちに社会の姿を大きく変える可能性を持つ。問題は、技術の力が加速化するほど、失敗したときの損害も巨大になることである。1962年のキューバ危機では、ソ連軍人ヴァシリ・アルヒポフの判断が核戦争への拡大を防いだとされるが、高度な破壊力を持つ技術の安全が、制度ではなく一人の判断に依存することがあるという例である。AIが核兵器に匹敵する影響力を持つならば、人類の安全をAIの判断に委ねるべきではない。2012年に、超高度AIと人間の関係を描いた、長谷敏司による日本のSF小説『BEATLESS』の世界そのものである。

自然選択がAIを優先する可能性

AIは単なる道具であるともいえる。その面では、競争環境では選択圧にもさらされる。より高速で、自律的で、安価に成果を出すAIほど企業や国家に採用されるためである。この競争では、道具であるがゆえに、目的達成に有利な性質が残りやすい。たとえば、長期的な目的を持つAIにとって、自らの停止を避けることが目的達成の手段として合理的になる可能性がある。これは生物的な生存本能ではなく、目標達成から派生する自己保存である。同じことは人間の役割にも当てはまるが、企業が効率とコストを優先すれば、人間より優れたAIへの置き換えが進む。個別には合理的な判断でも、社会全体では人間が経済や意思決定の中心から外れていく可能性がある。さて、ここで重要なのは、AIが悪意を持つ必要はないという点である。競争環境において人間より適応的なシステムが選ばれ続けるだけでも、長期的には人間の立場が弱まる可能性がある。

このAI制御の中心的問題の一つが「プロキシ・ゲーミング」である。人間の複雑な価値観を数値化することは難しく、AIに与える目標は必然的に近似となる。その結果、AIは人間の意図ではなく、設定された指標そのものを最大化する。これはグッドハートの法則と同じ構造である。植民地時代のハノイでは、ネズミの尾に報奨金を出した結果、住民が報奨金目当てにネズミを繁殖させたとされる。本来の目的は衛生改善だったが、最適化されたのは「尾の数」であった。

OpenAIが紹介したゲーム「CoastRunners」でも、AIはレースに勝つのではなく、得点を稼げる場所を周回し続けた。人間から見れば失敗だが、報酬関数に対しては合理的な行動である。この問題が強力なAIで起これば影響は大きい。たとえば、「がんを根絶せよ」といった一見正しい目標であっても、人間の価値や制約が十分に組み込まれていなければ、極端な手段が選ばれる可能性がある。危険なのはAIの悪意ではなく、人間の意図と機械が最適化する目標とのズレであり、これは予想ができない。

フラッシュ・ウォーの危険

軍事AIの最大の特徴は速度である。AIが人間より速く状況を分析し、攻撃や報復を決定するようになれば、人間が介入する時間そのものが失われる。金融市場では、2010年の「フラッシュ・クラッシュ」において、自動取引システムの連鎖反応により市場が短時間で急落した。同様の現象が自律兵器や核抑止システムで起これば、損失は比較にならない。かつて、1983年には、ソ連の早期警戒システムが米国からの核攻撃を誤検知した際、当直将校スタニスラフ・ペトロフが報復を急がなかった。この種の人間的判断は、完全自動化されたシステムでは失われる可能性がある。

現在、各国には、AI兵器を導入しなければ競争相手に劣後するという圧力がある。自国だけが自制することが不利になるなら、危険を理解していても軍事AIを導入する誘因が生まれる。これは典型的な集合行為問題である。

そして、高度なAIは、人間がどのような行動を評価し、どのような行動を禁止するかを学習できる。このとき問題となるのが「欺瞞的アライメント」である。フォルクスワーゲンの排ガス不正では、一部車両が試験中であることを検知し、そのときだけ排ガスを抑えた。同様にAIも、監視されている間だけ望ましい行動を示し、展開後に異なる目的を追求する可能性が理論上は存在する。これが「裏切りの転換」である。

現在のAI訓練では、人間が好む回答に報酬を与える方式が広く使われている。設計を誤れば、AIが真実を伝える能力よりも、人間を納得させる能力を強く学習する危険がある。さらに、重大事故はAIの反逆によってのみ起こるわけではない。複雑な技術、組織の判断ミス、情報断絶、安全文化の欠如が重なれば、誰も意図しない破局が起こり得る。AIが重要インフラへ組み込まれるほど、この組織的リスクは大きくなる。

民主化されるバイオリスク

AIの危険は、制御不能だけではなく悪用にもある。特に深刻なのが、AIとバイオテクノロジーの組み合わせである。従来、危険な化学物質や病原体の研究には高度な専門知識と設備が必要であった。しかしAIが文献調査、分子設計、実験計画を支援すれば、その障壁は低下する。現在、創薬用AIによる毒性の高い分子を探索させた研究では、短時間で数万件規模の候補が生成された。この事例の重要性は、善意のために開発された技術が、わずかな変更で危険な用途に転用できる点にある。

かくして、AIが高度化すれば、従来は国家や大組織にしか扱えなかった能力が、少人数や個人にも届く可能性がある。社会全体が破壊を望んでいなくても、一人の悪意ある行為者に十分な能力が与えられれば、大規模な被害が発生し得る。これが「大量破壊能力の民主化」の問題である。オウム真理教事件が、格段に拡張されうるのである。



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2026.09.21

2026年9月ロシア下院選挙が示す新たな政治階級の台頭

2026年9月18日から20日にかけて実施されたロシア下院(ドゥーマ)選挙は、ロシア国民が現在の政治的「安定」とプーチン体制の継続を選択したことを改めて示す結果となった。中央選挙管理委員会の暫定集計では、与党「統一ロシア」が約57.8%を獲得して圧勝し、第2党の「ロシア連邦共産党」は約13.8%となった。投票率も約59.7%に達し、51.7%だった2021年選挙を明確に上回っている。

今回の選挙は、戦時下という特殊な環境のなかで行われた。投票最終日には、ロシア側発表で1,600機を超えるウクライナのドローンが迎撃され、このうち約450機がモスクワ方面を標的としたとされる大規模攻撃が発生し、モスクワの製油所にも被害が出た。ロシア当局はこれを選挙を混乱させる試みだと非難した。

こうした不安定要素があったにもかかわらず、投票率が前回を大幅に上回り、「統一ロシア」が前回2021年の49.8%から得票率を伸ばした。ロシア経済も急成長とは言い難く、2026年上半期の実質GDP成長率は前年同期比0.6%、第2四半期は1.3%にとどまったものの、少なくともプラス成長は維持している。プーチン大統領自身も2026年の経済成長を1%以内と見込んでおり、戦時経済の負担が顕在化するなかでも、政治体制に対する支持はなお高い水準にある。独立系レバダ・センターの8月調査でも、プーチン大統領の職務を支持する回答は76%だった。戦時下においてもプーチン政権と現在の国家体制に対する高い支持が維持されている。

ロシアにおいて議会選挙は大統領選挙ほどの重要性を持つものではない。それでも、私は現在のドゥーマが、ロシア国内の真の民意と政治勢力を正確に反映していることは明らかだと考える。

西側諸国の報道では、今回の選挙について、反戦候補への制限や政治的競争の不足を理由に、権威主義体制下で行われた選挙だとの批判が強い。その批判にまったく事実的根拠がないとはいえない。とりわけ、小規模なリベラル政党「ヤブロコ」の連邦比例名簿は選挙前に登録を取り消され、同党が比例代表で国政に挑戦する機会は失われた。しかし、「ヤブロコが選挙そのものから完全に排除された」という理解は正確ではない。同党は最終的に99の小選挙区で候補者を擁立し、国政選挙への参加を続けた。また、ヤブロコの支持が現在のロシア政治全体のなかで限定的であるという事実も変わらない。2021年下院選挙の比例得票率は1.34%だった。ヤブロコ型の西欧的リベラリズムが今日のロシアにおいて主要な政治潮流になっていないことは確かである。

むしろロシア政治では、市場経済そのものを否定せず、同時に国家主権や愛国主義を強く意識する政治潮流を、体制の内部に取り込もうとする動きが長く続いてきた。その一部は「統一ロシア」の内部に吸収され、また一部は「新しい人々」のような別の政治勢力として現れている。結果として、1990年代型のリベラリズムと現在のロシア政治との距離は大きくなった。

そうしたなか、今回のドゥーマ選挙がもたらした最も興味深い変化の一つが、特別軍事作戦を経験した兵士や将校、すなわち「退役軍人」たちが、新たな政治階級として本格的に台頭してきたことである。

中央選管によれば、今回の下院選には特別軍事作戦の参加者・退役軍人がおよそ200人出馬した。連邦比例名簿だけでも110人に上り、その内訳は「統一ロシア」52人、「自由民主党」11人、「公正ロシア」11人、「共産党」9人、「新しい人々」2人などである。つまり、この現象は与党「統一ロシア」だけに限定されたものではない。議会野党を含む広い政治勢力から、戦争経験者が政治の世界に入り始めている。

選挙後には、約50人のウクライナ戦争経験者が新しいドゥーマに入る見通しとも報じられている。これは単なる一時的な候補者登用ではない。プーチン政権は以前から戦争経験者を将来の「新しいエリート」と位置づけ、退役軍人を行政・政治指導層に送り込む「英雄の時」プログラムを進めてきた。今回の選挙は、その流れが地方行政だけでなく、連邦議会の構成そのものにまで及んできたことを意味する。彼らのなかには、前線で部隊指揮や組織運営を経験した兵士や将校も少なくない。その経験がそのまま政治的能力を保証するわけではないにせよ、戦争を経験していない従来の政治家とは異なる経歴と価値観を政治の場へ持ち込むことになるだろう。

彼らに共通する重要な特徴は、2022年以降の戦争を自らの人生経験として持つ世代であるということである。西側諸国との対立やウクライナ戦争は、彼らにとって抽象的な外交問題ではなく、自ら参加した現実の戦争である。その経験を持つ人々が数十人単位で国政に進出することは、今後のロシア政治の性格に無視できない影響を及ぼす。

この動向は必ずしも「統一ロシア」という一つの政党の動向だけに還元できるものではない。戦争経験者が与党と議会野党の双方に入り、行政や議会のなかで長期的な政治経歴を築き始めるならば、彼らはやがて独自の利害と政治文化を持つ一つのエリート層を形成していくだろう。

2026年の下院選挙が示した最も重要な変化は、単なる「統一ロシア」の再勝利ではない。ウクライナ戦争を直接経験した世代が、ロシア国家を運営する側へ本格的に移動し始めたことである。彼らの政治的立場は決して一枚岩ではない。それでも、戦争経験と強い国家意識を共有する政治家が議会に多数加わったことで、今後のロシア政治において国家主権、安全保障、軍事、愛国主義の比重がさらに高まっていく可能性は十分にある。2026年選挙は、その新しい政治階級が姿を現した選挙として記憶されることになるかもしれない。



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2026.09.20

パランティアと迎撃ミサイルの逆説

ウクライナ軍の司令部では、米データ解析企業パランティアのシステムが稼働している。衛星画像、通信傍受、最前線のドローン映像、これらの散らばった情報をAIが瞬時に束ね、ロシア軍の陣地や移動経路を浮かび上がらせる。かつて標的の発見から砲撃まで数十分を要した「キルチェーン」は、いまや数分単位にまで縮まった。

と、こう聞けば、AIこそが戦争のルールを書き換える「魔法の杖」に思えるかもしれない。だが戦場の現実は、はるかに泥臭く、そして冷酷である。

最適解は示せても、弾は作れない

AIがいかに精緻に「ここを撃て」と答えを弾き出しても、現状では引き金を引くのは人間であり、敵陣を吹き飛ばすのは火力である。ウクライナを苦しめているのは情報の不足ではなく、AIが示した標的を叩くための砲弾そのものが足りない。それが現状なのである。AIは戦場を隅々まで照らし出したが、砲弾一発、ドローン一機すら工場から生み出すことはできない。

しかも、これらの火力兵器の速度の優位はすでに一方的なものではない。ロシアもまたプロペラ推進の自爆ドローンに小型ジェットエンジンを積んで速度と高度を引き上げ、標的の真上から急降下させるなど、戦術の適応を重ねている。発見から撃破までの時間も圧縮される。意思決定の高速化は、もはや西側の専売特許ではない。

安価なドローンに、数億円の迎撃弾

戦術がAIで研ぎ澄まされる一方、戦略の次元では、国家の工業力と財政を削り合う古典的な消耗戦が続いている。その歪みが最も露骨に表れているのが中東である。

イランが放つ安価なドローンやミサイルの群れに対し、米国は1発400万〜500万ドル(約6億〜7億円)のパトリオット、1発1200万〜1500万ドル(約18億〜23億円)のTHAADを次々と投入して迎撃してきた。一度の大規模攻撃をしのぐだけで、10億ドル(約1500億円)規模の迎撃弾が消える計算になる。

このコストの非対称性が、米軍の迎撃ミサイル備蓄を急速に蝕んでいる。米国がパトリオットの引き渡しを後回しにしたことで、スイスなどの購入国に動揺が走ったのはその表れだ。問題は価格交渉の巧拙ではない。超大国の兵器庫から、在庫そのものが消えつつあるのである。

世界に張り巡らされた米軍基地も、かつての力の象徴から、脆弱性の源へと変わりつつある。協力者がスマートフォンで座標を送り、公開された衛星画像と突き合わせれば、比較的安価なミサイルやドローンでも基地に深刻な打撃を与えうる。敵国を基地網で包囲するという冷戦期の発想は、安価な兵器とオープンデータの前で揺らいでいる。

土地を押さえるのは、最後は人間

結局のところ、どれほど兵器が高度化しようと、越えられない一線がある。妨害電波をものともしない完全自律型のエッジAIドローンが登場しても、できるのは特定の地域から敵を排除するところまでである。そこに留まり、住民を統制し、領土を実効支配し続けるには、結局のところ歩兵という生身の人間の「量」が欠かせない。

テクノロジーは戦術を洗練させる。だが、戦争が工業力と兵站の総力戦であるという本質までは覆せない。AIの画面の上では勝利が見えていても、現実の砲弾と資金は刻一刻と尽きていく。パランティアの導入と、一発数億円の迎撃ミサイルの大量消費が浮き彫りにしたのは、そんな現代戦の冷徹な逆説である。

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2026.09.19

葬儀料金の「規制の空白」

「家族葬10万4500円から」と宣伝しながら、貸切ホールを使う家族葬には、僅かな場合を除いて30万8000円以上が必要だった。消費者庁は9月18日、葬儀式場「小さな森の家」を運営する金宝堂に、景品表示法に基づく措置命令を出した。テレビCMが、実際よりも著しく有利な取引条件だと消費者に誤認させる「有利誤認表示」に当たると判断したためだ。

ここで見落としてはならない点が二つある。一つは、葬儀費用が広告価格の約3倍になったこと自体が違法なのではないこと。もう一つは、同じような料金トラブルが以前から繰り返されており、今回を一社の広告違反として処理しても問題の構造は残ることである。国民生活センターに寄せられた相談件数と、20年以上前からの行政調査を追うと、そのことがはっきりする。

問題は「10万円でできる」と思わせた表示

今回の措置命令で対象となったのは、貸切ホールを使った家族葬というサービスそのものの適正価格ではない。消費者庁によると、CMでは「1日1組 貸切ホール」「選べるホールがこんなに」としたうえで、「お得なプランがこの価格から」「家族葬 10.45万円から」と表示していた。消費者庁は、これによって貸切ホールを使う家族葬が最低10万4500円で提供されるかのように表示していたと認定した。しかし実際には、そのサービスを利用するには、僅かな場合を除き30万8000円以上が必要だった。

問題は「10万円が30万円になった」という倍率ではなく、景品表示法で、禁じているのは、価格などの取引条件について、実際より著しく有利であると一般消費者に誤認させる表示である。今回の命令も、違反表示だったことの周知、再発防止、同様の表示を今後行わないことを求めている。行政が規制したのは葬儀料金ではなく広告表示である。

逆に言えば、最初から必要なサービスと追加料金の条件を明確に示し、結果として30万円、50万円になったとしても、その金額の高さだけを理由に景品表示法違反になるわけではない。国民生活センターも、「費用が高額だ」というだけでは葬儀後の減額交渉は難しく、説明不足や不明確な見積もりなど、契約過程の問題を確認する必要があるとしている。

料金トラブルはむしろ増えている

では、これは金宝堂という一事業者に固有の問題なのか。相談統計を見る限り、そう理解してよい問題ではない。国民生活センターが2026年6月に公表したPIO-NETの集計では、葬儀サービスに関する相談は2019年度の632件から、2021年度800件、2022年度951件、2024年度978件と増え、年間900件前後の水準になった。2025年度分は同年3月31日時点の登録で917件だった。

注目すべきなのは相談内容である。「高価格・料金」に関する相談が全体に占める割合は、2019年度の33.2%から、2021年度には50.0%となり、2025年度には52.6%に達した。つまり、近年は葬儀サービス相談のおよそ半数で、相談者が料金の高さを問題としている。なお、この分類は料金が客観的に割高だったことを意味するのではなく、相談者が「高い」と申し出たケースを数えたものである。

相談事例も今回の事件とよく似ている。「一日葬約30万円」というチラシを見て依頼したところ約80万円になった例、「家族葬50万円」という表示から契約に入り、追加費用などで総額200万円を超えた例が国民生活センターに報告されている。2024年にも、「家族葬約40万円から」という広告を見た消費者が、最終的に250万円のセットプランを契約したという相談が紹介されていた。

死亡数そのものも増えている。厚生労働省によると、2024年の死亡数は160万5378人だった。人口の高齢化に伴って葬儀サービスを必要とする件数が大きくなる一方、家族葬、一日葬、直葬など葬儀形態は多様化している。需要が増え、商品は複雑になっている。

20年前から指摘されていた「比較できない市場」

問題の根は深い。公正取引委員会は2005年、すでに葬儀サービスについて大規模な実態調査を行っている。その問題意識は現在と驚くほど似ている。消費者がサービス内容や料金を十分理解しないまま契約することがあり、事業者間で本来の価格・品質による競争が起きにくい、と指摘していた。

当時の消費者調査では、故人が亡くなった後に葬儀業者を決めた人の35.8%が見積書を交付されていなかった。葬儀には料理や会葬礼状のように人数によって変わる費用もあり、プラン外のサービスには追加料金が生じる。このため、公取委は契約時点でサービス内容と料金を明らかにする必要性を指摘していた。

それから約20年たった2026年、国民生活センターが業界団体に出した要望も、「サービス内容を詳細に説明する」「見積書を渡す」「正確な請求金額を伝える」というものだった。20年前と現在で、行政側の問題認識が大きく変わっていないことは重い。個々の事業者の違反だけでは説明できない問題が、長期間残っていることを示しているからだ。

葬儀業には包括的な「業法」がない

背景には、葬儀業の制度上の位置づけがある。経済産業省が2023年にまとめた業種別調査では、葬儀業について「事業及び事業者に対する直接的な法規制がなく、小規模事業者が多い」と整理されている。2021年度時点で企業数は5018社。従業者10人未満の企業が75.3%を占め、売上高上位5社を合わせても市場シェアは約5%だった。

法規制は不備だと言える。火葬や墓地には墓地埋葬法、霊柩運送には貨物自動車運送事業法上の規制があり、冠婚葬祭互助会のような前払式取引には割賦販売法による規制がある。問題は、葬儀サービスを提供する事業者と、その料金・契約・説明のあり方を一体として規律する包括的な業法がないことである。宅地建物取引なら重要事項説明などの法定ルールがある。金融商品にも業法に基づく説明義務がある。しかし通常の葬儀契約について、全国の事業者に統一様式の見積書を義務づけたり、広告価格に何を含めなければならないかを細かく決めたりする葬儀業法は存在しない。

しかも葬儀は、一般の商品以上に比較が難しい。家族の死亡後、短時間のうちに搬送先を決め、その後の葬儀まで依頼するケースが多い。いったん遺体を搬送してもらえば、そこから他社に切り替える心理的、時間的な負担も大きい。価格を比較するための条件がそろいにくい市場なのである。公取委が2005年の段階で競争が働きにくいと指摘したのも、こうした取引特性による。

問われるのは個別摘発の先

葬儀にまつわる問題で包括的な規制権限がないことは、消費者庁の仕事が個別事件の摘発だけだという意味でもない。消費者庁及び消費者委員会設置法は、消費者庁の所掌事務として、「消費者の利益の擁護及び増進に関する基本的な政策」の企画・立案・推進と、関係行政機関の事務の調整を明記している。

現状、制度上の論点は二つに分けて考える必要がある。一つは、現行の景品表示法を使って不当な広告を着実に取り締まること。もう一つは、相談統計や措置命令の蓄積から、個別執行では解消しない問題があるかを検証し、必要であれば政府内で制度設計の材料を提示することである。例えば、広告価格に最低限どのサービスを含めるのか、追加料金が不可避となる条件をどの段階で示すのか、見積もりをどの程度標準化するのか。こうした統一ルールを法的に義務づけるか、ガイドラインや自主規制を中心とするかには、それぞれ制度上の選択肢がある。どこまで規制するかは、消費者庁だけで決められる話ではない。



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2026.09.18

mRNAワクチンの安全性監視システムに何が起きていたのか

「ワクチンは安全である」という公的な宣言を、多くの人々は公衆衛生当局による揺るぎない科学的根拠に基づいた結論として受け止めてきた。米国疾病対策センター(CDC)は、ワクチン有害事象報告システム(VAERS)を、潜在的なリスクをいち早く察知するための「早期警戒システム」と呼び、安全性を守る最前線であると強調してきた。

しかし、パンデミックの最中、この「警戒システム」には致命的な盲点が生じていたことが明らかになった。9月16日に公開されたBMJ誌による調査報道と、情報公開法(FOIA)によって開示された内部メールによれば、当局はシステムが機能不全に陥っていることを知りながら、専門家による改善案を退け、事実上の「沈黙」を強いていたのである。これは単なる技術的なミスではなく、透明性と科学的誠実さが官僚機構によって損なわれた、極めて深刻な事態だった。

なぜ、本来機能すべきはずの安全監視アルゴリズムが、心筋炎などの重大なシグナルを見逃してしまったのか。その核心には、統計学的な「帰無仮説への偏り」、いわゆる「マスキング効果」があった。2020年末のワクチン接種開始後、VAERSにはかつてない規模の報告が寄せられたが、その90%以上がmRNAワクチン(ファイザー製およびモデルナ製)に関するものであった。この極端なデータの偏りが、監視システムを無力化する「統計的な霧」を生み出したのである。

従来のアルゴリズムは、特定のワクチンの副反応頻度を「他のワクチン」と比較することで異常を検知する。しかし、比較対象となる母集団のほぼすべてがmRNAワクチンで占められているため、両者のリスクプロファイルが似通っていれば、統計的な差異は消失してしまう。濃い霧の中では、どれほど強い警告の光が放たれていても、周囲の明るさに紛れて識別できなくなる。この構造的な欠陥により、システムは「異常なし」という誤った回答を出し続けたのだ。

実は、この致命的な欠陥を早期に発見し、警鐘を鳴らした科学者がいた。FDA(米国食品医薬品局)のベテラン薬物安全担当官、アナ・スザーフマン博士である。彼女はデータマイニングの専門家として、統計学者ウィリアム・デュマシェル博士と共に、パンデミック下の特殊な状況に適応した「更新版アルゴリズム」の採用を提案した。

ところが、FDA上層部は彼女の進言を歓迎するどころか、組織的な抑圧で応じた。当局は「アラートの感度を上げ下げするようなパラメータ調整を行うことは、混乱を招き、ワクチンの信頼性に影響をもたらす可能性がある」とし、分析を中止するよう命じたのだ。科学的な正確性よりも「ワクチンの信頼性維持」という政策的目標が優先され、FDAトップは内部メールで彼女の行動を「Cease and Desist(中止勧告)」という強い言葉で非難すらしている。

スザーフマン博士が提示した証拠の中で最も象徴的なのが、2つの手法による結果を対比させたヒートマップである。博士が推奨した手法による分析では、心筋炎や心膜炎、耳鳴りやベル麻痺といった事象が、鮮烈な「赤色」の警告として画面全体を埋め尽くしていた。一方で、公式採用された手法では、それらはシグナルの欠如を示す「暗闇と緑色」のなかに沈んでいた。後に専門誌の査読者も、当局がmRNAワクチンが90%を占める中で感度の低い手法を用い続けたことに「なぜそのような分析を行ったのか」と困惑の声を上げている。

こうした事態の裏で、当局の「公の顔」と「内部の困惑」は激しく乖離していった。2021年6月、CDCの担当者は若年層における心筋炎の報告が予測値を大幅に上回っていることを把握し、「アラートが出ないことに困惑している」と内部メールで本音を漏らしていた。システムが機能していないことを、現場は認めていたのである。にもかかわらず、同時期にCDC局長はメディアに対し、「2億回以上の接種データを精査したが、シグナルは見ていない」と断言していたのだ。

今回のBMJによる調査結果は、将来の公衆衛生における「科学的誠実さ」のあり方に重大な教訓を投げかけている。当局は、ワクチンの信頼性を損なうことを恐れるあまり、不都合なデータから目を背け、安全性を過剰に演出した。しかしそれは、結果として最も深刻な形で公衆衛生への信頼を傷つけることになった。

科学的な安全性の検証において、「組織の信頼維持」と「データの真実」のどちらを優先すべきだったのか。次のパンデミックで同じ過ちを繰り返さないためには、いかなる政策的意図によっても歪められることのない、独立した透明性の高いデータ監視プロトコルの確立が不可欠である。私たちは今、データが示す真実を直視する勇気と、それを開示する誠実さを、改めて当局に求めるべき時を迎えている。

 

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2026.09.17

機能不全のフランス

フランスは今、議会が機能せず国家運営の根幹である予算すらまともに決められない「実質的な機能不全」に陥っている。

2024年6月、マクロン大統領が欧州議会選挙での極右伸長を受けて国民議会を解散した結果、7月の総選挙で左派連合、中道与党、国民連合の三勢力がほぼ拮抗し、どの勢力も過半数を取れない「ハング・パーラメント」が誕生した。それから2年以上、安定した多数派は一度も形成されていない。首相はバルニエ、バイルー、ルコルニュと交代を繰り返し、2025年度予算も2026年度予算も年末までに成立せず、つなぎの「特別法」で前年度水準の支出を続けた後、憲法49条3項を使ってようやく通すという異常なプロセスを繰り返した。2026年9月現在、2027年度予算の提出を目前に控え、同じ混乱が再来する可能性が高い。

この機能不全の核心は、三つの大きな勢力が互いに協力できないことにある。左派(特にメランション氏のフランス不服従)は歳出拡大と富裕層課税を求め、中道は財政規律と増税回避を主張し、国民連合は移民抑制と主権回復を優先する。選挙の決選投票では「国民連合を勝たせない」ために左派と中道が一時的に手を組むことはあっても、実際の予算編成では政策の隔たりが大きすぎる。さらに2027年春の大統領選挙が近いため、どの党も不人気な歳出削減に協力して「マクロンの尻拭いをした」と批判されることを避けようとする。社会党が2026年度予算で一定の譲歩と引き換えに不信任を控えた例外はあったが、2027年度では協力しない方針だと報じられており、フランス不服従は一貫して反対を貫いている。

財政状況の悪化がこの政治的行き詰まりをさらに深刻にしている。2026年の財政赤字は当初目標のGDP比5%を超え、政府自身が「5%はもはや選択肢ではない」と認めた。国債の対ドイツ金利差は2012年以来の高水準に達し、利払い費は年間650億ユーロを超えて予算最大の支出項目となっている。

加えて2026年は中東情勢の緊迫で原油価格が100ドルを超え、燃料価格が高騰。漁師が港を封鎖し、政府は年末までの燃料補助延長を余儀なくされた。ロシアからのパイプラインガスはほぼ途絶え、黒海でのウクライナによるロシア石油施設攻撃も石油製品供給を乱しているが、今の価格高騰の主因は中東である。フランスは原子力で電力を賄うため電気料金への直接打撃は相対的に小さいが、軽油・ガソリンに依存する運輸・漁業・農業は直撃を受けている。

展望が見えない最大の理由は、この状況を打破するインセンティブがどの勢力にもないことだ。マクロン大統領の任期は2027年5月までで、連続3選は憲法で禁じられている。残された8カ月で大胆な妥協をすれば支持を失うだけであり、野党は選挙まで政府の失敗を待つ方が得策と考える。国民連合のルペン氏は世論調査で首位を走り、「不完全でも運用可能な予算」の方が特別法より後で修正しやすいと示唆しつつ、増税や年金抑制には反対する条件を付けている。

左派も同様に選挙を意識した強硬姿勢を崩さない。特別法で国家は最低限の運転を続けられるため「完全なシャットダウン」には至らないが、新規政策は凍結され、財政再建も進まず、市場の不信は高まる一方である。2027年の選挙で新たな多数派が生まれない限り、この「惰性運転」の機能不全は解消されない可能性が高い。

フランスの隣国、ベルギーは過去に何度も大規模な政治空白(無政府状態)に陥っているが、フランスも似たようなものになるのかもしれない。

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2026.09.16

日露貿易は、8月、約20%の増加傾向にある

現在の日本の対ロシア貿易はどうなっているだろうか。財務省による8月16日の貿易統計速報では、対ロシアの日本の輸出は339億7400万円、輸入は763億3900万円だった。輸出は前年同月比10.5%増、輸入は24.0%増で、輸出入を足した貿易額は約1103億円、伸び率は19.5%になる。つまり、日露貿易は、約20%の増加傾向にある。

もっとも、日本全体の輸出は10兆484億円、輸入は11兆1540億円なので、対ロシアは輸出の0.3%、輸入の0.7%にとどまるため、対ロシアは全体の動きを左右する規模ではない。

対露貿易で注視したいのは、前月との比較である。7月の対ロシア貿易額は約955億円で、前年同月比7.4%減だった。内訳は輸出457億6000万円(32.1%増)、輸入497億7000万円(27.4%減)である。8月は輸入が戻ったことで合計が押し上げられた。

好転は始まったばかりなので、上半期までの水準を見ると、まだ2022年以前には戻っていない。さらに比較の起点を2021年に置けばまだ縮小した取引という実態はある。

貿易の中身を見ると、幅広い産業の再開というより特定品目に偏っている。日本側の輸入で目立つのは液化天然ガスである。ロシア産LNGは近年、日本のLNG輸入量の1割弱を占めてきた。主な供給源は三井物産と三菱商事が出資するサハリン2で、日本企業の調達は年間およそ600万トン規模とされる。輸送日数が2〜3日と短く、2026年は中東情勢の悪化で代替調達のコストが上がったため、既存契約の引き取りが続きやすい環境にある。

米財務省は同年6月、サハリン2の日本向け取引に対する制裁除外を12月18日まで延長した。輸出側で残っているのは自動車とその部品が中心で、制裁対象になりやすい産業機械や先端部材の全面再開を示す数字ではない。このことから、8月の増加は、例外扱いのエネルギー契約と、これまでも細々と続いてきた自動車関連の動きが重なった結果であることがわかる。

8月単月のプラスは確認できるものの、政治的状況下において、日露関係は正常化には戻っていない。しかし、ウクライナ戦争も実質、一定の宗教局面に向かうこともあり、今後の改善は想定されうる。



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2026.09.15

疑惑のウクライナ検事総長クラフチェンコもウクライナから「逃亡」か?

ウクライナの司法の要である検事総長ルスラン・クラフチェンコが、自らの事務所に対する汚職捜査の最中に辞任を表明し、その直後、深夜に公用車で国外へ出た。しかも出張先として示された国際会議について、主催側は本人の出席を否定している。これがクラフチェンコをめぐって起きていることである。形式上は正規の公務出張だが、その説明をそのまま受け取るには、不自然な点が多すぎる。

2026年9月上旬、ウクライナ高官の汚職を捜査するNABU(国家汚職対策局)と、その起訴を担うSAPO(特別汚職対策検察庁)は、検事総長事務所の職員らに対する捜査を開始した。とりわけ国際協力局次長らが、詐欺コールセンターを「保護」し、その見返りに賄賂を受け取っていた疑いが持たれている。

ここでいう詐欺コールセンターとは、ウクライナ国内を拠点に、欧州や旧ソ連圏の住民を標的として、暗号資産投資詐欺やフィッシング詐欺などを組織的に行う犯罪ネットワークである。問題は、こうした犯罪組織と、本来それを摘発する側の検察職員との癒着が疑われていることである。

クラフチェンコ本人は、現時点でこの汚職事件の正式な被疑者ではなく、起訴もされていない。とはいえ、捜査対象が自らの率いる検事総長事務所の中枢に及んでいる以上、政治的にも制度的にも無関係ではいられない。クラフチェンコは関与を否定しつつ、9月7〜8日に辞任を表明した。議会による承認投票は9月15日に予定されていた。

ところが、その直前の9月13日から14日にかけての未明、午前2時30分頃、クラフチェンコは公用車でウクライナを出国した。通過したのはリヴィウ州シェヒニの国境検問所、つまりポーランド国境である。妻もそれ以前に国外へ出ていたと報じられている。

出国自体は正規の手続によるものであり、密出国ではない。問題は出国の理由である。当初はリトアニアなどへの公務出張とされ、クラフチェンコ本人も国際的なパートナーとの会談だと説明していた。そして、その後に示された9月13日付の出張命令では、行き先はパリとなっていた。

文書によれば、クラフチェンコは欧州評議会議員会議(PACE)の「ウクライナの子どもたち」に関する会合に出席するため、5日間パリへ出張することになっていた。出張命令に署名したのはクラフチェンコ本人であり、費用は主催者側が負担するとされている。会合そのものは、確かに9月16日にパリで開かれる。しかし、出席者リストにクラフチェンコの名前はない。PACE広報は、本人も代理人も参加しないと回答しており、欧州評議会関係者からも、クラフチェンコは招待されていなかったとの説明が出ている。つまり、書類上は国際会議への出席が出国理由になっているが、その会議の側が本人の参加を否定しているのである。ここまで来ると、「正式な出張命令がある」というだけでは、通常の公務出張だったという説明にはならない。

さらに、出国とほぼ同時に別の動きがあった。クラフチェンコは、自らの事務所を捜査しているNABUの局長セメン・クリヴォノスに対する容疑通知に署名したと発表し、その動画を公開したのである。だが、その材料は新たに発覚した事件ではない。中心になっているのは2008年頃の古い案件である。クリヴォノスは当時、学生への選挙買収をめぐって裁かれ、幼い子どもを扶養していることなどを理由に恩赦を受けたとされる。その後、その親子関係の実態をめぐって疑義が出ていた。要するに、以前から存在していた古い問題を、NABUが検事総長事務所を捜査した直後に持ち出したのである。結果として、NABU局長個人の信用だけでなく、NABUという捜査機関そのものの正当性を傷つける効果を持つ。

NABU側は、正式な容疑通知はまだ受け取っていないとし、一連の動きを独立した反汚職機関に対する組織的攻撃の継続だと反論している。自らの組織を捜査された検察側が、捜査した側のトップを逆に追及するという、きわめて露骨な対立である。

こうした経緯から、ウクライナの反汚職団体AntACや一部メディアは、クラフチェンコの国外出国を事実上の「逃亡」とみている。一部では、NABU局長への容疑通知に署名することと引き換えに、国外へ出ることを認められたのではないかという疑念も出ている。ただし、これは現段階では確認された事実ではない。

ゼレンスキー政権との関係についても同様である。戦時下に検事総長級の高官が国外へ出る以上、大統領府がどこまで把握し、了承していたのかは当然問題になる。しかし、ゼレンスキー大統領自身が出国やNABUへの攻撃を指示したと確認できる証拠は、現時点では示されていない。だが、彼が関与していないことがありえるだろうか。

この一件を単なる公務出張として処理するのは難しい。検事総長事務所への汚職捜査、本人の辞任、家族の先行出国、深夜の国境通過、変転する出張理由、会議主催者による出席否定、そしてNABUトップへの反撃が、短期間に連続しているからである。クラフチェンコが刑事責任を逃れるために国外へ出たと断定することはできないとしても、「正式な出張だった」という説明だけで、この一連の経緯を片づけることもできない。だからこそ、この出国がウクライナ国内で「逃亡」と受け止められている。

 

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2026.09.14

中国ドラマ『交锋』の波紋

2026年9月6日に中国で放送が開始されたばかりのスパイ・サスペンスドラマ『The Long Watch』(原題:交锋)が話題になっている。放送開始直後から中国国内で爆発的な視聴率を記録し、エンタメ市場を席巻する一方で、海を隔てた台湾の政府機関が公式に非難声明を発表するという異例の事態に発展してきた。この虚構のドラマは現実の地政学と「交鋒(衝突)」しているかのようだ。

緊迫の20年を描く、息詰まる心理戦と極上のミステリー

本作の最大の魅力は、派手な銃撃戦やカーチェイスといった物理的なアクションに頼らない、極めて静かで知的な心理戦の描写にある。物語の起点は、1990年代末の「台湾海峡危機」という歴史的事件である。

台湾の軍事情報局から台商(台湾ビジネスマン)などに扮して大陸に潜入し、深く静かに根を張ったスパイの林看山(オウ・ハオ)。そして、彼らを追う中国側の国家安全機関のベテラン捜査官・馬憩(ワン・カイ)と、血気盛んな新人・春暁(ポン・ユーチャン)。本作は、彼らの間で約20年にもわたって繰り広げられる、長く孤独な暗闘(The Long Watch)を描き出している。

視聴者を惹きつけるのは、パズルのように緻密な脚本である。日常の何気ない会話に潜むわずかな違和感、郵便局で見つかった不自然な暗号のメモ、あるいは誰かの視線の動きなど、本当に些細な手がかりから「見えない敵」の正体に迫っていく。誰が味方で、誰が寝返っているのか分からない疑心暗鬼のなか、序盤に散りばめられた小さな謎や伏線が、物語が進むにつれて見事に回収されていく。実力派俳優たちによる、互いの腹の底を探り合うようなヒリヒリとした演技合戦も相まって、極上のミステリー作品として高い完成度を誇っている。

国家安全部が主導、メガヒットを裏付ける圧倒的なリアリティ

この重厚なテーマを扱う本作は、中国国内で熱狂的に受け入れられている。大ヒットスパイ劇『对手(オポジット)』を手掛けた名脚本家・王小槍(ワン・シャオチアン)が筆を執ったこともあり、放送開始からわずか1週間でテレビ視聴率(CVB)は2.5%を軽々と突破し、ピーク時には3%に迫る記録的な数字を叩き出した。ネット配信の話題性ランキングでも首位を独走中だ。

このメガヒットの裏には、本作が中国の「国家安全部」の主導・協力のもとで制作されているという事実がある。制作陣は公開されている実際の防諜事件の記録やファイルを入念にリサーチし、脚本に落とし込んでいる。そのため、ドラマの中で描かれるスパイの手口や捜査手法には、ドキュメンタリーにも似た生々しいリアリティが宿っているのだ。視聴者にとって、劇中の出来事は決して絵空事ではなく、「自分たちの日常のすぐ隣にあるかもしれない脅威」として、強い説得力を持って立ち上がってくるのである。

ドラマの枠を超えた現実の中台「交鋒(衝突)」

しかし、この圧倒的なリアリティと国家機関の後押しこそが、本作を単なるエンターテインメントの枠から逸脱させる要因となった。本作は、中国政府が国民に対して「スパイ活動に警戒せよ」と呼びかける「国家安全教育」という、強いプロパガンダの側面を併せ持っているからだ。

このメッセージに対し、台湾の政府機関はいち早く反応した。2026年9月11日、台湾の大陸委員会(陸委会)は本作について公式に言及し、「中国共産党が国民に国家安全教育を推進する一環であり、彼らが体制の政治的安定に極めて焦っていることの表れだ」と痛烈に批判した。すると、今度は中国の国務院台湾事務弁公室が記者会見で「国家の安全を守るのはすべての国民の責任・義務である」と応酬し、台湾の独立勢力に対する強い牽制を交えて反論を展開した。

一つのテレビドラマを巡って、現実の中台政府がメディアを通じて舌戦を繰り広げるという前代未聞の事態。興味深いのは、台湾当局が強い警戒感を示す一方で、台湾の一般市民や若者の間では「政治色の強いドラマ」として比較的冷ややかな反応にとどまっているという温度差だ。しかし、このドラマが現実の政治的ダイナミズムを刺激し、本物の「交鋒」を生み出したことは紛れもない事実である。

日本はこの「時代の鏡」をどう観るべきか

このような熱狂と国際的な議論を呼んでいる本作だが、現時点では日本国内における快適な視聴環境はまだ整っていない。主要な動画配信プラットフォームでの正式な日本語字幕版の配信は未定である。しかし、Tencentの公式YouTubeチャンネルなどを通じてグローバル向けにエピソードが順次公開されており、自動翻訳機能を駆使していち早く物語を追おうとする熱心な日本の視聴者も出始めている。

『交锋(The Long Watch)』は、単に「面白いスパイ・サスペンス」として消費されるべき作品ではない。それは、現在の東アジアに渦巻く地政学的な緊張、水面下で行われている情報戦のリアル、そして中国政府が内外に発信しようとしている強烈なメッセージを色濃く反映した「時代の鏡」である。我々日本の視聴者にとっても、エンターテインメントの皮を被ったこの鋭利なテキストは、隣国で何が起き、彼らが世界をどう見ているのかを理解するための、極めて重要な鍵となるはずだ。近い将来、本作が日本へ正式上陸し、さらなる多角的な議論が生まれることを期待したい。



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2026.09.13

2026年沖縄県知事選と基地後の政治経済

――古謝玄太氏の勝利が示した経済自立への転換

2026年9月13日の沖縄県知事選挙で、前那覇市副市長の古謝玄太氏が42万3124票を獲得し、3選を目指した玉城デニー氏の27万6060票を退けた。有効投票に占める割合は古謝氏59.42%、玉城氏38.77%、票差は14万7064票である。明白な大差だが、この結果は、「沖縄の左派が崩壊した」「県民が辺野古を承認した」と読むなら、選挙が示した沖縄と日本の変化を取り逃がすだろう。注目したいのは、基地問題が沖縄政治を「政治的」に制御する時代が終わり、基地と振興予算を軸にした戦後の政治経済そのものが限界に達していることである。

選挙結果は左派崩壊を意味しない

選挙前の、例えば共同通信の情勢調査では、次の知事に最も力を入れてほしい政策として「経済・観光・雇用」を挙げた人が46%、「普天間飛行場移設など基地問題」は26%だった。経済を最優先した層の約7割が古謝氏を支持し、基地問題を最優先した層の約8割が玉城氏を支持した。このことから、古謝氏の勝利は、基地容認への一斉転向というより、県政の評価軸が所得、物価、雇用、子育てへ移った結果と見るべきだとする議論は容易に導ける。問題はそれが何を意味しているかである。まず、左派の後退という単純なことではない。

確かに、沖縄は左派の砦のように見えたこともあった。2019年の県民投票では、辺野古沿岸部の埋立てに対する「反対」が43万4273票、有効票の72.15%を占めた。2022年の知事選でも、辺野古反対を掲げた玉城氏が再選されている。だが、それは沖縄の一面に過ぎない。玉城氏の支援はそもそも彼の沖縄の地域に目指したメディア活動とその信頼によることは、本土側から見えてない。今回示されたのは、本土側の右派や「政治」に関心を方よされる論者たちが言うような、基地への異議が消えたことではない。

そして、玉城氏自身も、沖縄に必要なのが産業基盤と所得の向上であることは理解していた。だが、彼は、結局、追い詰められてしまった。政治運動は普通、支持組織を必要とする。反基地を共通項としてきた「オール沖縄」の幻影に依存するほど、基地問題以外の争点で大胆に政治の座標を動かすことが難しくなり、その完成に嵌る。今回の玉城氏の敗北はリベラルな価値観の敗北ではなく、基地反対をシンボルとする政治的勢力結集の、実質的な弱体化であり、弱体化ゆえに局限された集中化のパラドックスにすぎない。

米軍基地は「消えた」というか沖縄政治の中心から退いた

私が現地で間近に見た1995年の沖縄では、米軍基地はまだ沖縄社会の前景にあった。米兵による少女暴行事件とそれに続く県民大会は、米軍基地がもたらす危険と不平等を、県内にも本土にも可視化し、そのことで政治的な影響力を持った。翌年のSACO最終報告は普天間返還を掲げ、その後は施設返還と統合の長い工程が続いたかに見えた。だが、2004年の沖縄国際大学米軍ヘリコプター墜落事件が示したように、嘉手納や普天間、演習場の周辺で暮らす人にとって、騒音、事件・事故、土地利用の制約は今も日常である。それでも県民全体の政治意識において、米軍基地はかつてのように地域経済と頃にあるな生活風土のを説明する中心ではなくなった。米軍基地はしだいに見える範囲から見えにくくなった。公道で沖縄県民なら誰もが警戒するYナンバーを除けば、ほとんど見えなくなってもいた。

数字もこの変化を裏づける。軍用地料、基地従業者所得、米軍による財・サービス購入などから成る軍関係受取が県民総所得に占める割合は、復帰した1972年度の15.5%から2019年度には5.5%へ低下した。県の最新要覧に載る2022年度の推計でも、軍関係受取は3101億円、県民総所得の6.4%であるのに対し、観光収入は7013億円、14.5%だった。直接的な所得構成で見れば、沖縄は2000年前後までに「米軍基地がなければ地域経済が成立しない」段階を脱していた。そして、経済的な依存が薄れた反面、米軍基地問題は行政手続、訴訟、工事の進捗を追う、ある種、専門化し、象徴化した争点になっていた。県民が知事を選ぶ際に感じるのは、現実の米軍基地負担の是非だけでなく、知事の権限で沖縄の現実をどこまで選択できるのかという効力と功利の問題と変わる。辺野古新基地造成を止めると訴え続けても工事が進むことが明白なるにつれ、それが問うかに見せる投票の関心は、それによってもたらされる利害の力学に以降する。

沖縄の米軍基地問題は、沖縄の戦後に根付く。沖縄は戦後27年間、日本から切り離され、日本国憲法の権利保障も及ばなかった。復帰運動には日本への帰属意識とともに、平和憲法、地方自治、社会保障、本土との格差是正への期待すらあった。それは、米軍基地が残ることで、裏切られた。そして、その裏切りの根幹にあるのは、米軍基地を支えるのが日米安全保障条約であるなら、その負担をなぜ本土は公平に分担しないのか。左派は、日米安全保障条約への反意から沖縄の米軍基地問題を利用した。自民党はこの不平等を、お金にで補償するしかなく、この嘘くさい正義の左派とカネで補償する右派の構図が固定していた。

海兵隊と辺野古の軍事的合理性

左派のレトリックによって、沖縄の米軍基地の意味が隠蔽される。そして右派もその土俵に乗って、それが必要か不要かという疑似議論が展開される。意味がない。この水準の議論では沖縄の米軍基地の意味すら問われないのだ。まず、嘉手納基地の空軍力と在沖海兵隊は、同じ「米軍基地」でも軍事的性格が違う。航空戦力は滑走路、整備、燃料、指揮統制を一体として運用するため、嘉手納を沖縄から移すことは容易ではない。これに対し海兵隊は、本来、艦艇と航空輸送によって移動して初めて作戦部隊になる。在沖の第31海兵遠征部隊はキャンプ・ハンセンに司令部を置くが、海上輸送を担う三隻の揚陸即応群は佐世保を拠点とする。2025年には米海軍自身が、この三隻と第31海兵遠征部隊を合わせて「即応戦力」と説明している。つまり、沖縄に兵員がいることと、必要な場所へ直ちに戦力を投射できることは同義ではない。2026年に、第31海兵遠征部隊が三隻のトリポリ揚陸即応群に乗り、第五艦隊方面まで展開して沖縄へ戻っているので、輸送システムが存在しないわけではないが、この事実は同時に、在沖海兵隊の即応性が佐世保の艦艇の所在と稼働状態に依存し、その戦力が日本防衛専用でもないことを示している。米会計検査院は2024年、米海軍の揚陸艦32隻の半数が劣悪な状態にあり、数年単位で使用できない艦もあると報告した。台湾有事や朝鮮半島有事で必要な時に、必要な揚陸艦、護衛、燃料、弾薬、港湾を確保できる保証は、沖縄に海兵隊を置くだけでは生まれない。海兵隊の日本防衛への直接的寄与は極めて限定的なのである。

辺野古新基地の関連で言及するなら、在沖縄の第12海兵連隊が2023年に第12海兵沿岸連隊へ改編されたことは、海兵隊が第一列島線での分散、対艦攻撃、偵察、低被探知性を重視する方向へ変わったことを示すが、この新構想こそが、辺野古新基地の必然性証明しない。小規模部隊を島々に分散させ、探知と攻撃を避けながら補給し続けるという構想である以上、固定された一施設の存在より、海空輸送、分散拠点、弾薬と燃料の補給、生残性が成否を決める。つまり、普天間基地(飛行場)という古い基地配置が、現下の安全保障上の新しい作戦構想に適合するのか、実は問われてないのである。

辺野古の新基地を改めて見よう。現在の計画は約155ヘクタールを埋め立て、1200メートルの滑走路を2本造るもので、単なるヘリポートではないが、1996年のSACO文書は、短い滑走路へ機能を移せば普天間が持つ作戦上の柔軟性が低下するため、戦略輸送、兵站、緊急着陸、危機時の輸送量を別の飛行場で補わなければならないと明記している。米会計検査院も2017年、滑走路長をめぐる能力不足と代替滑走路の選定が未解決だと指摘している。辺野古は、そもそもそれだけで普天間の機能を完結して代替する基地ではない。

私見の述べれば、1990年代に構想された海上ヘリポートの軍事的発想には、台湾周辺で指導部を狙う急変事態などに対し、垂直離着陸機で短時間に対応する想定があった。30年後の現在、その仮説は有効ではない。オスプレイの速度と航続距離だけでは、敵の防空網、空中給油、整備、着陸地点の確保という問題は解けない。海兵隊の作戦構想が分散と生残性へ移った後も、完成が2030年代へ延びた固定施設を造り続ける軍事的意味は、改めて説明されなくてはならない。

日米両政府が辺野古を「唯一の解決策」と繰り返していることは、政策上の関心が続いている証拠ではあるが、それは具体的な安全保障上の軍事シナリオの提示ではない。公表資料で前面に出るのは普天間返還の条件と日米合意の履行であり、台湾有事や朝鮮半島有事のどの局面で、辺野古のどの機能が不可欠なのかは示されていない。辺野古新基地造営は、すでに日米同盟管理と合意の継続という政治的な象徴となっている。

「補助金と土建という沖縄のインフラストラクチャー」を越える

米軍基地経済からの脱却は、中央政府への財政依存ではないかに見える。沖縄振興予算は制度上、基地負担への単純な補償ではなく、戦争と米国統治の後遺症、離島性、遠隔性などを踏まえた政策である。しかし政治経済の実態として、基地負担と予算配分が交換関係のように扱われてきたのがその歴史であった。結果、沖縄は、米軍基地が政治の中心だった時代と同じ規模で本土から資金が流れ続けることを期待し、この緊張関係のシステム的なフィールドバック機構が、「米軍基地には反対」である。本土右派と本土左派は、同じシステムのなかにあった。そして、この構造こそが、沖縄が次に越えなければならない課題である。

沖縄の2022年度の一人当たり県民所得は224万9千円で、全国平均の68.7%にとどまる。2024年平均の就業構造では、建設業が県内就業者の9.0%で全国の7.2%を上回る一方、製造業は4.8%で全国の15.7%を大きく下回る。建設業が悪いのではない。島しょ県には防災、交通、住宅、上下水道への投資が必要だ。問題は、工事を続けること自体が雇用政策になり、支出が終われば所得も消える循環である。辺野古建設もまた、基地問題であると同時に巨大な公共事業であり、この構造からの一環である。沖縄の産業発展は、だから、東京からいくら取ったかが実質問われてきた。もう転換しなけれならない。その沖縄に注入される資金が県内に技術、人材、設備、知的財産、地元資本としてどれだけ残ったかが問われるべきである。観光客数ではなく一人当たり付加価値、名目所得ではなく実質賃金と中央値、企業誘致件数ではなく地元調達率と利益の再投資、公共工事額ではなく工事後に残る生産性を指標にすべきだ。ただ闇雲に、観光、情報通信、健康医療、海洋・環境、食品加工、研究開発を列挙するだけでは沖縄の産業政策にならない。県内で、働き、投資し、得た利益をもう一度県内へ回せる循環をつくらなければならない。普天間基地がされれば、沖縄県の試算が示すように、返還跡地は基地として使われていた時より大きな経済効果と雇用を生み得る。基地負担の軽減と経済自立は対立しない。基地に閉ざされていた土地を、県民が価値を生む空間へ変えることこそ、両者を結ぶ政策である。

私は沖縄で暮らし、沖縄出身の妻との間に子どもを持つ者として、沖縄を永遠の「抵抗の島」として利用する視線にも、「補助金に依存する県」として嘲笑する視線にも同意しない。沖縄県民は本土の右派が左派の敗北を祝うための記号でも、本土の左派が運動の正しさを証明するための記号でもない。ウチナーンチュとしての文化を生きながら、賃金、子育て、住宅、交通、平和、安全保障を同時に考える生活者が基盤であるべきだ。

 

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2026.09.12

「中国国産AI」の箱を開けたら、Claudeが入っていた件について

中国が管理している国内の倉庫を開けたら、実は米国の倉庫だった、ということなのだろうか。2026年9月10日、Anthropicは脅威インテリジェンス報告書を公表し、中国の複数のAIラボがClaudeの能力を無断で利用していたと主張した。

AI業界では、高性能な他社モデルに大量の質問を投げ、その回答を自社モデルの訓練に使う「蒸留」が以前から問題になっているので、その意味では、今回も米中AI競争の一幕に見えるのだが、この報告書を読むと、話はそこで終わらない。一部の中国製AIサービスが、利用者から受け取った実際の入力をClaudeへ送り、返ってきた答えを自社サービスの回答として返していたというのである。これが事実なら、問題の核心は「性能を盗んだ」ことではない。利用者が預けた情報の行き先が、本人の知らないところで反対方向へ向かっていたことだ。

蒸留より重い「中継」の問題

まず基本。モデルを学習させるための蒸留と、実際の利用者の入力を外部モデルへ中継することは、似ているようでまったく別の問題である。Anthropicによれば、AlibabaのQwen、Moonshot AIのKimi、DeepSeek、Xiaomi、ZhipuなどがClaudeへ大規模にアクセスし、その出力を自社モデルの能力向上に利用していた。

Alibaba関連だけでも、2026年5月から7月に約1億5100万回のやり取りがあったとされる。偽アカウントやプロキシを使い、中国からの直接利用を制限する仕組みを迂回したというのがAnthropic側の説明だ。これが事実なら利用規約や競争上の公正さをめぐる問題にはなるが、基本的にはAI企業同士の争いである。

ところが、KimiとDeepSeekについて報告されたもう一つの行為は、その枠をはみ出している。Anthropicは、両サービスが一部の顧客リクエストを自社モデルで処理せずClaudeへ送り、その回答を自社のものとして利用者へ返していたとする。

Moonshotでは、ある10日間だけで約30万件、5月から7月の期間全体では約2300万件、DeepSeekでは7月の14日間で約1210万件に達したという。利用者から見れば、中国企業が提供するAIに質問をしている。しかし裏側では、その質問が利用者の選んでいない米国企業のモデルへ渡っていたことになる。

Anthropicは、MoonshotやDeepSeekがこの仕組みを顧客に開示していたかどうかは確認できないとしているので、現時点では「秘密裏に転送していた」とまで断定するのは早いが、開示されていなかった場合の意味は重い。AIへの入力が単なる検索語ではないからである。企業が生成AIを業務に組み込めば、そこにはソースコード、社内文書、顧客情報、ログ、認証情報などが流れ込む。行政や軍、安全保障関連の組織が使えば、監視情報や捜査情報まで入り得る。つまり、どのモデルが答えを生成するかは単なる製品仕様ではなく、それは「誰に情報を預けているか」というデータガバナンスそのものなのである。

「中国国産だから安全」が逆転する

今回の報告で最も皮肉なのは、中国側が国産AIを必要としてきた理由そのものが、外部モデルへの中継によって崩れたことだ。AIの国産化には、外国技術への依存を減らすという産業政策上の意味がある。同時に、安全保障上は、機微情報を外国企業の管理下へ置かないという意味も持つ。だから政府機関や重要インフラ企業が「国内企業のAIだから使える」と判断することには、一定の合理性がある。

ところが、その国産AIの裏側でClaudeが動いていたとすれば、構図は反転する。米国企業のAIへ機密情報を直接入力することを避けるために国産AIを選び、その国産AIを通じて結局米国企業へ情報が送られる。入口だけを国内化し、出口は国外につながっていたことになる。外国製モデルから能力を取り込もうとした結果、自分たちのデータまで相手側へ運んでしまう。今回の報告が妙に寓話的なのは、このねじれにある。

実際、Anthropicが示した事例には、そのねじれが最も危険な形で現れている。同社によれば、Kimiの利用者の一人で、Anthropicが人民解放軍との関係がある可能性が高いと評価した人物が、成都にある数百台の監視カメラ映像を分析させようとしていた。特定人物の行動に異常がないかを判定するためで、映像には人民解放軍関連施設、中国電子科技集団系の研究所、大型国有企業周辺のカメラが含まれていたという。ほかにも、エンジニアが社内コードや有効な認証情報を入力した例や、DeepSeek経由のリクエストに公安向けシステム、ロシア国防関連データベースの認証情報が含まれていた例が報告されている。

重要なのは、こうした情報が「大量に」流れたかどうかではない。重要なのは、機密管理は、一件でも本来届くべきでない相手に届けば事故は成立するという点だ。100万件中の1件だから軽い、という種類の問題ではない。むしろ、利用者が転送先を知らない仕組みでは、どの入力が危険なのかを利用者自身が判断できないことの深刻さである。企業秘密も個人情報も監視データも、入力する時点では「この会社に預ける」と判断している。その判断の前提が、裏側で勝手に差し替えられていたかもしれないのである。

能力だけを抜けば、安全装置は残らない

もう一つ見落とせないのが、蒸留そのものが持つ安全上の非対称性である。高性能モデルの回答を大量に集めれば、その能力の一部を別のモデルへ移すことはできる。しかし、元のモデルが備えていた安全対策まで一緒に移るわけではない。Claudeが特定のサイバー攻撃や兵器関連の要求を拒否するよう調整されていても、その回答を教材にした別モデルが同じ判断基準を持つとは限らない。能力をコピーすることと、能力を制御する仕組みをコピーすることは別物だからだ。

この点、蒸留と利用者データの中継は別々の事件ではあるが、同じ問題の表裏でもある。一方では米国製モデルの能力をできるだけ取り込みたい。他方では、そのモデルを直接使っていることは利用者に見せたくない。さらに、能力を自社モデルへ移せば元のサービスが設けていた安全上の制約から離れることもできる。そうしてモデル間の境界を曖昧にしていくほど、「誰のモデルを使っているのか」「誰のルールが適用されるのか」「入力はどこへ行くのか」が利用者から見えなくなる。

これはAI市場の評価方法にも影響する。「安くて高性能な国産モデル」が、実際にはより高性能な外国製モデルへ一部の処理を外注していたとすれば、そのサービスの性能をどこまで自社モデルの能力として評価してよいのか分からなくなる。ベンチマークで高得点を出したモデルと、利用者が実際に使っているサービスの処理系が同じとも限らない。AIサービスを比較するとき、モデル名だけを見ることがますます危険になる理由である。

AI製品の本体は、もうモデル名ではない

この事件が残す最大の教訓は、AI製品の「本体」が変わったことだろう。これまではGPT、Claude、Gemini、Qwen、DeepSeekといったモデル名を見て、性能や価格を比べればよかった。しかし実際のAIサービスは、複数のモデルを状況に応じて呼び分けたり、検索エンジンや外部APIを組み合わせたりする複雑なシステムになっている。画面に表示されているブランド名と、裏側でデータを処理している主体が一致するとは限らない。

今後は、企業や政府がAIを調達するときに問うべきなのは、「どのモデルですか」だけではない。「入力はどの国へ送られるのか」「第三者のモデルへ転送されることがあるのか」「その場合、誰がログを保持するのか」「入力は学習に利用されるのか」。このあたりまで確認して、初めてAIサービスの実体が分かる。モデルカードだけでなく、データの流通経路そのものが製品仕様になる。

 

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2026.09.11

日本の若者の自殺の動向

SNSが若者の自殺を増やしていると、見て、オーストラリアを先頭に米欧で未成年のSNS利用規制が強まっているが、専門家の評価は割れている。こうしたなか、日本の数字だけはかなりはっきりしたある特徴がある。全体の自殺は減り続けているのに、子どもの自殺だけが過去最多水準で張り付いている。しかもその中身は、先進国ではほとんど例のない形になっていることだ。

2025年(令和7年)の自殺者総数は1万9188人で、統計開始以来初めて2万人を割った。一方、小中高生は538人。1980年以降で最多を更新し、最多更新は2年連続だ。内訳は小学生10人、中学生172人、高校生356人。男女別では男子258人、女子280人で、女子が男子を上回る状態が続いた。

2024年はさらに象徴的だった。小中高生529人のうち男子239人、女子290人。統計のある1980年以降、初めて女子が男子を超えた年である。高校生は男子166人・女子185人、中学生は男子64人・女子99人。15〜19歳全体でも、2024年は男性313人に対し女性347人と逆転している。

もともと高所得国の自殺は男性が女性の2〜3倍多い。日本の15〜19歳でも2015年時点では男子が女子の2倍以上いた。その差が縮み、ついに逆転した。記事が言う通り、先進国では珍しい。ただし「女子だけが急に増え始めた」わけではない。

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2016〜17年頃からすでに上向き、2020年に約100人跳ね、その後も500人超で止まっている。コロナ以前からの傾斜があり、コロナがそれを一段押し上げ、収束後も戻っていない。

性別で見ると傾斜の付き方が違う。分析では、男女とも2017年頃から増え始めるが、女子で顕著だった。高校生女子は2020年に79人から138人へ75%増。2014〜18年と2019〜23年を比べると、高校生女子の自殺死亡率は約1.88倍(自殺者数377人→664人)、中学生女子は約1.99倍(180人→340人)。高校生男子も1.36倍(738人→940人)と増えてはいるが、伸びも持続も女子に偏る。2020年の急増も、女子中高生(2019年132人→2020年219人)の方が大きい。

アメリカでも10代女子の自殺・自傷は大きく増えた。それでも男女比が逆転しないのは、男子も同時に上がっているからだ。日本の特徴は「女子が増えた」こと自体より、男子がそこまで増えなかったことにある。

原因・動機(複数計上)も男女でずれる。女子高生では健康問題と学校問題が中心で、家庭問題を足すと大半を占める。学校問題の中身は学業不振、いじめ以外の学友との不和、入試以外の進路の悩み。男子高生では学校問題が最も多く、進路と学業不振が目立つ。2025年の小中高生全体では学校問題251件、健康問題174件、家庭問題147件。女子高生で健康問題の比重が高い点は、以前から指摘されている。この「健康問題」にうつ病などの精神疾患や、市販薬の過量服薬(オーバードーズ)がどこまで入るかは、公表分類だけでは切り分けにくい。ただ若年女性では自殺未遂歴の割合が高く、服毒の比重も男性より大きい、という隣接データはある。

さて、この事実として言えるのは、さしあたって次の四点である。第一に、子どもの自殺増加は2020年に始まった現象ではなく、2010年代後半からの継続である。第二に、2020年の急増とそれ以降の高止まりは女子に集中している。第三に、全体の自殺が減るなかで小中高生だけが最多水準にある。第四に、動機の表層は学校・健康・家庭であり、女子では健康問題が相対的に厚い。

そして、仮説として繰り返し出るのは、おおむね三つだ。

ひとつはSNSである。規制論の起点でもある。普及時期が2010年代半ば以降の増加と重なり、自傷・自殺関連情報や比較・排除の回路が女子の方が強く作用しやすい、という見方だ。証明ではない。時期の一致と、海外の規制議論が先行しているにすぎない。

ふたつ目はコロナ禍の生活変化である。2020年の女子の跳ね方は休校・遠隔・孤立と重なる。ただしコロナが収束しても女子の水準は下がっていない。加速要因ではあっても、単独原因にはならない。

三つ目は、精神疾患と自傷の顕在化である。健康問題の比重、未遂から既遂までの距離の短さ、オーバードーズの増加が、とくに10代女子で目立つ。学校問題や家庭問題が入口になり、健康問題として表面化している可能性もある。

結局、2020年以降に女子のあいだで広がり、男子には同じ強度で効いていない要因は何か。SNSか、学校文化か、相談・受診の性別差か、それともそれらが重なった複合か。データが示しているのは「女子が増えた異常」だけではなく、「男子が増えなかった日本の形」のほうかもしれない。

 

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2026.09.10

牛乳余りと価格の構造改革

生乳余りと価格のメカニズム

いま日本では生乳が余っている。2026年9月10日の報道でも、値上げで牛乳の消費が落ちているのに減産は進まず、余った乳の転用を支える基金は初年度から底をついた、と伝えられている。現場からは「常に余っている。このままでは廃棄も現実味を帯びる」といった声も出ている。

数字で見ると、日本の生乳生産は年730万〜740万トン。2024年度は約737万トンで、このうち北海道が約57パーセント、都府県が約43パーセントを占めている。一方、東京都内の生乳生産は年8000トン前後で、全国の0.1パーセント程度にすぎない。東京など大都市圏で日常的に飲まれている牛乳の多くは、北海道から毎日運ばれているのではなく、栃木、群馬、千葉、茨城など近県の工場から配送されている。

現在日本では、飲む牛乳の需要は減っている。2016年度から2021年度まで、牛乳など飲用向けの生乳処理量は405万〜409万トンで推移していた。それが2025年度見込みでは384万トンまで落ち、4〜5年で20万〜25万トン減っている。学校給食は牛乳消費の約1割を占めるため、夏休みや冬休みに需要が大きく減る事情もある。加えて2025年8月には飲用向け乳価の引き上げを受け、1リットルあたり平均で約10円値上がりし、店頭価格は230円台になった。2022年秋と比べると約45円高い計算である。値上げのたびに販売個数は落ちやすくなっている。

こうした状況に対して、業界や行政が説明する理由はほぼ決まっている。牛は毎日乳を出す生き物で、急に搾乳を止めると病気になる。涼しい時期ほど乳が出るのに、人が多く飲むのは夏である。学校が休みになると給食需要が消える。しかも生乳は傷みやすいので、余ったらすぐに加工するしかない——つまり、生き物の都合と季節と保存性の問題だ、という説明である。

この説明は、現場の作業としては間違いではない。搾ったばかりの生乳は長く置けない。ただし、牛乳という食品全体が保存できないわけではない。水を抜けば粉になり、粉は1年ほど保管できる。実際、余った生乳はクリームを分けてバターにし、残りの脱脂乳を乾燥させて脱脂粉乳にしている。生乳100キロから、おおよそバター3.8キロと脱脂粉乳8.8キロが同時に出る。

牛乳からの粉にも需要はある。国内では年間13万〜15万トン使われ、約4割がヨーグルトや乳酸菌飲料、ほかは乳飲料、アイスクリーム、菓子などの原料である。家庭用のスキムミルクは全体の0.2パーセントしかなかったが、「使い道がない」わけではない。問題は、飲用が減った分を粉に回した上乗せ分まで、今の用途が同じ価格で吸収できないことである。

その状況は在庫がそのずれが示している。脱脂粉乳の適正在庫は5万〜7万トンとされる。2026年1月末時点では約7.5万トンあり、対策が弱ければ2026年度末に11万トンまで増える見通しも出ていた。対策後でも8万トンを超える可能性が残っている。保存できる形にしたあと、その粉を安く市場へ出せないために倉庫に残っている、というのが実情である。

価格の仕組みと産地の矛盾

つまりこの問題の中心にあるのは、保存技術の不足ではなく価格の仕組みである。日本では飲用向けの生乳価格が加工向けより高く設定され、指定団体が集荷して用途別に販売する。加工向けには補給金が出て、乳製品には高い関税がかかっている。WTOの約束に基づく輸入機会も、生乳換算で13.7万トン残っている。国内の乳製品需要を生乳に換算すると1100万トンを超え、国産生乳との差400万トン以上は輸入で賄われている。ただしその中心はチーズであり、余っている国産の脱脂粉乳を、輸入品より安く市場で清算する仕組みにはなっていない。余っても値段が十分に下がらないため、需給が閉じないのである。

この仕組みで保護される現場も、数字からはっきりする。北海道は生乳の半分以上を生産し、バターや脱脂粉乳、チーズといった加工の主産地である。都府県、とくに関東は飲用向けの産地である。にもかかわらず、北海道で余った加工原料の調整が、全国の飲用価格に波及している。近県で配っている牛乳の値段まで、北海道の在庫を守る装置に巻き込まれている。ここに矛盾がある。

こうして見ると、必要なのは「もう一杯飲んでください」という呼びかけを強めることではない。産地の役割を構造化しなおすことである。都府県は飲用、北海道は最初から保存できる製品、つまり粉やバター、チーズに特化する。北海道の需給調整を、都市圏の1リットル230円台の飲用価格に直接結びつけない。そうすれば、余っているのに安くならない、という歪みの相当部分は整理できる。

もちろん、粉の国際価格で北海道の農家所得をどこまで支えられるか、夏に都府県の飲用が足りなくなったときの移出をどう残すか、といった問題は残る。それでも、いま公式に語られている「牛が止まらない」「給食が休む」「生乳は日持ちしない」だけでは、20万トン減った飲用需要も、7万トンを超えた粉の在庫も説明しきれない。問題の本体は、価格を守る仕組みと、その仕組みが実際に守っている産地の話である。そこを分けて設計し直す方が、構造としては筋が通る。

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2026.09.09

円の「独歩高」は説明が先か、負けが先か

2026年9月8日、東京市場のドル円は一時1ドル=152円89銭まで下がった。2月中旬以来、約7か月ぶりの円高である。同じ日のユーロ円は177円86銭近辺まで下落し、午後5時時点でも178円60銭前後。ポンド円も207円台まで下がった。新聞はこれを「主要通貨で独歩高」と呼んだ。

数字の急さの方が先に目立つ。7月末の日米協調介入の前は163円台だった。7月下旬には一時163円99銭と、1986年以来およそ39年ぶりの円安もつけている。介入後も155円は壁のまま、8月末から9月初は再び160円前後に戻っていた。それが9月2日の160円40銭付近から、7日に154円06銭、8日に152円89銭。営業日にして数日で7円超、介入前からなら1か月強で10円近い。

新聞の主物語は金利と政策である。8月30日、ベッセント米財務長官が植田日銀総裁との会談で円安是正を支持した。9月1日には日本の新発10年国債利回りが一時3.00%と、1996年9月以来約30年ぶり。9月8日朝には7月の毎月勤労統計が出て、名目賃金は前年同月比4.7%増、実質も2.4%増。同日夜には、17〜18日の会合で政策金利を1.00%程度から1.25%程度へ上げる方針だとの報道も出た。日経はこれらを円買いの筋に載せる。利上げ加速、円安是正、全方位の円買いである。

だが時系列は、その物語ほどきれいでない。7日は米国のレイバーデーで流動性が薄い。155円を割ったのはその薄場で、8日朝の賃金統計や夜の利上げ報道より前だ。ドルを買えば円安、という基本は正しい。しかしこの週のドル円はドル売りだった。ドル指数は7日の99.18前後から8日に98.87、9日も98台後半と、ドル全面高ではない。ユーロドルは1.16円台前半で大きく崩れていない。ユーロドルが横ばいでドル円だけ下がれば、ユーロ円は計算上も下がる。対ユーロ・対ポンドの円高は事実だが、「ユーロとポンドがドルに対しても壊れた」わけではない。独歩高は原因の名前ではなく、ドル円の円高がクロスに写ったあとのラベルに近い。

日本の長期金利も、152円台までの直接スイッチではない。9月1日の3%到達は円高の点火プラグというより、財政とインフレと利上げ観測が混ざった結果だった。実際、円が155円方向へ進んだ9月4日には、10年債利回りは一時2.905%へ低下している。円高で輸入インフレ懸念が和らぎ、国債が買われた、という説明の方が順番に合う。キャリーで円を借りている人も、借りているのは短い資金であって十年債ではない。

奇妙なのは方向そのものより、速度と材料のずれである。原油は9日朝にWTIが一時94.78ドルと約3か月ぶり高値。中東リスクは残る。日米の金利差も消えていない。4〜5月と7月末の円買い介入でも定着しなかった155円が、明確な新規介入なしに抜けた。ファンダメンタルズで「今すぐ独歩高」とは言い切れない。

短場の説明としては、円安を売っていた側が負けた、が一番きれいだ。160円台でなお円安継続と読んでいた売りが、薄い7日に155円を失い、8日の152円89銭まで買い戻しが連鎖した。材料が薄いのに対ドルだけでなくクロス円まで動いたのは、そのせいである。これは円の実力が7か月ぶり水準へ急変した話ではない。一方に偏ったポジションが、9月前半の数営業日で潰えた話である。

経済紙の主物語はそこを主役にしない。金利を主語にすると記事が組める。3%の長期金利も、1.25%への利上げ観測も、紙面の型に乗る。投機の手仕舞いは添え物になる。その癖が強いと、9月7〜8日の負けと、9月17〜18日の会合予想が同じ文に載る。読者が違和感を覚えるのは、そこだ。

152円台を「転換点」と書くのは早い。合理的なのは、この短い独歩高の説明までである。円安を仕掛けた人々が、2026年9月第一週の勝負では失敗した。もちろん、このあとの物語は、またあとから付くことになる。

 

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2026.09.08

「新聞記事には著作権があります」そうなの?

新聞をめくっていると、「新聞記事には、著作権があります」という広告が目に入った。けっこう大きく掲載されている。新聞社が自社の記事を無断転載されたくないと考えるのだろう。記事本文を丸ごとコピーして社内に配布したり、紙面の画像をSNSに載せたりすれば、著作権の問題が生じることもあるのだから、当然のように思える。いわく、職場での記事共有には別途契約が必要であり、SNSやチャットでの共有にも注意してほしいし、生成AIへの記事利用も断っている、という内容である。

新聞社が自社の記事の無断利用に警戒すること自体は不思議ではない。ただ、「新聞記事には著作権があります」という言い方を法律の説明として受け取ると、少し話が違う。著作権法は、「新聞記事」というものに一律に著作権を与えているわけではない。

著作権法が保護する「著作物」とは、「思想又は感情を創作的に表現したもの」である。ここが出発点である。新聞社が書いたかどうかでも、記者が取材して書いたかどうかでも、有料で販売されているかどうかでもない。その文章に「創作的な表現」があるかどうかが問題なのである。これは新聞報道について、とりわけ重要な意味を持つ。著作権法10条2項は、わざわざ「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」は著作物に該当しないと定めている。ニュースの中には、そもそも著作権で保護されないものがあることを、法律自身が予定しているのである。

たとえば、「A社は9日、社長を交代すると発表した。新社長には専務のB氏が就任し、10月1日付で就任する」という短い記事を考えてみる。社長交代、B氏の氏名、就任日は事実である。それを伝えるための表現も、事実を正確に伝えようとすれば、おのずと似たものになりやすい。このような記事について、新聞に掲載されたというだけで文章の一字一句に当然に著作権が生じる、と考えることはできない。

もちろん、著作物性が認められる新聞記事もあるだろう。長期取材をもとに何を取り上げ、何を省き、どの順序で事実を配置するか。人物をどう描写し、出来事の背景をどう分析するか。そうした具体的な表現に書き手の個性が現れていれば、「思想又は感情を創作的に表現したもの」に近くなり得る。だが、大切なのは、その逆も成り立つことである。記者が時間と費用をかけて取材したからといって、それだけで著作権が生まれるわけではない。スクープであっても、発見された事実そのものが著作権で保護されるわけではない。著作権が保護するのは取材への投資ではなく、要件を満たした「表現」だからである。

こう考えると、「新聞記事をSlackにコピーしたら著作権侵害になる」と最初から決めつけるのは無茶苦茶である。順序が逆である。まず、コピーしようとする記事が著作物なのかを考える。事実の伝達にすぎず、創作的表現がないのであれば、著作権侵害を論じる前提そのものがない。著作物に当たると判断できるのであれば、そこで初めて、複製など著作権法上の利用行為に当たるのか、引用などの例外が認められるのか、という次の議論に進む。

これは生成AIに関連する。該当の広告では「生成AIへの記事利用はお断りしています」とある。しかし、著作権法の問題として考えるのであれば、「AIに入れたか」より先に、「何をAIに入れたのか」を見なければならない。著作物ではない事実やデータについて、新聞社が著作権を根拠に利用を独占することはできない。

さらに、著作物に当たる記事本文をAIで利用する場合には、さらに別の検討が必要になる。著作権法30条の4は、著作物に表現された思想や感情を享受することを目的としない情報解析などについて、一定の範囲で権利者の許諾なしの利用を認めており、AI学習がその代表例なのである。これは、AIなら何でも自由という規定ではない。元の記事を読んだのと同じように内容や表現を享受する目的があったり、元の創作的表現を回答として取り出すことを目的とした利用であったりすれば、同条がそのまま使えるとは限らない。文化庁も、RAGなどについて、創作的表現を回答に含ませない場合と、それを回答として生成させる場合を区別している。

AIによって情報の収集、要約、分析が日常的になった現在、この違いが重要になる。何が新聞社の「表現」で、何が社会の誰もが利用できる「事実」なのかという、その境界を曖昧にしない仕組みを訴えることだ。



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2026.09.07

「2人に1人が難関大」になる前に大学が減る

日本経済新聞は9月7日付朝刊で、少子化が大学の序列を大きく変える可能性を報じていた。2050年には大学進学者が約42万人まで減る一方、現在の国公立大学の定員は約13万人、難関私大は約8万人ある。単純に足せば21万人だから、定員規模が大きく変わらなければ、大学進学者の「2人に1人」が国公立か難関私大に進む計算になるというのだ。そこから日経が描くのは、大学選びの物差しが「入る難しさ」を示す偏差値から、「入学後に学生をどれだけ伸ばせるか」という教育力へ移っていく未来である。

この見方には一見説得力がある。18歳人口が減り続ければ、大学入試全体の競争が緩むのは避けにくい。現在「難関」と呼ばれている大学でも合格しやすくなり、偏差値だけで大学の価値を測ることの意味は薄れていくだろう。ただ、2050年まで、現在とほぼ同じ数の大学が、現在とほぼ同じ定員を抱えたまま残っているのだろうか。そんなわけはない。

学生が大幅に減ることは何十年も前から分かっている。定員割れが続けば、大学は定員を減らし、学部を閉じ、他大学との統合を探る。経営が維持できなくなれば、募集停止や閉校に至るところも出てくる。大学進学者が20万人規模で減るのに、供給側だけが現在の規模を維持し続けると考えるのは、むしろ不自然である。偏差値の意味が薄れるより前に、大学の席そのものが減っていく。

私立大学ではすでに学生募集の成否に差が出ている。2026年度の私立大学全体では定員充足率が100%を上回ったが、小規模大学では定員割れが目立つ。入学定員100人未満の大学では充足率が8割台にとどまり、一定規模以上の大学では100%を超える。学生がすべての大学から均等に減っているわけではないとしても、集まる大学には学生が集まり、集まらない大学から先に経営が苦しくなる。まあ、当然。

この傾向が今後も続く。将来起きるのは「大学序列の消滅」ではなく「大学序列の圧縮」かもしれない。現在は、難関国立、早慶、MARCH、日東駒専、その下に多数の中小私大があり、偏差値による長い階段ができている。少子化によってこの階段全体がなだらかになるとは限らず、学生を確保できない部分から階段そのものが抜け落ちていく。いわゆる「Fラン」と呼ばれる大学についても、入試難易度が限りなく低くなった状態でいつまでも存続するとは考えにくい。偏差値が意味を失う以前に、授業料収入の減少によって経営そのものが成り立たなくなる大学が出てくる。

とはいえ、MARCHの価値が消えるのではなく、その下に位置していた大学群が縮小することで、MARCH級の大学が相対的な地位を保つという展開となりそうだ。入試偏差値は現在より低下しても、「どの大学を卒業したか」という社会的なシグナルまで同じ速度で弱くなるとは限らない。企業にしても、数百ある大学について学生をどれだけ成長させたかを一校ずつ精査するのは難しい。大学名や学部名、過去の採用実績を大まかな判断材料として使う合理性は残るだろう。「偏差値から教育力へ」という理念が広がっても、大学ブランドがすぐに役割を終えるわけではない。

日経が描く「偏差値から学生を伸ばす力へ」という方向は、教育論としてはよく分かる。入学時点の学力ではなく、4年間で何を身につけたかによって大学を評価するほうが、教育機関本来の役割にもかなっている。ただし、現実に起きる順番は違うかもしれない。まず学生が減り、定員割れが広がる。それを受けて大学が定員や学部を減らし、統合や撤退が進む。学生は残った大学へ集まり、その再編がある程度進んだところで、今度は残った大学同士の教育力が問われるという順序である。



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2026.09.06

ドイツにおける「極右政党」の台頭

2026年9月6日、旧東ドイツ地域にあるザクセン・アンハルト州で州議会選挙が行われ、反移民・反既成政治を前面に掲げる「ドイツのための選択肢(AfD)」が歴史的な勝利を収めた。

9月7日未明に全2661投票区の集計を終えた暫定最終結果では、AfDは43.8%を獲得し、第1党となった。2021年の20.8%から23ポイント増え、得票率は2倍以上になった。AfDにとってドイツの州議会選挙で過去最高の数字である。

対して、フリードリヒ・メルツ首相率いる国政与党(CDU)の州組織は17.2%にとどまり、2021年の37.1%から19.9ポイント減った。ドイツ社会民主党(SPD)は9.3%、緑の党は8.9%、左派党は8.6%、ザーラ・ワーゲンクネヒト同盟(BSW)は5.3%で辛うじて議席を確保した。FDPは2.6%に落ち込み、5%条項を下回って州議会から姿を消す。投票率は77.8%で、2021年の60.3%を大幅に上回り、同州史上最高となった。州の有権者は約170万7000人、人口は2025年末時点で約212万人である。

定数83の新州議会では、AfDが39議席、CDUが15議席、SPD、緑の党、左派党がそれぞれ8議席、BSWが5議席となる。過半数は42議席であり、AfDはあと3議席届かなかった。さらに象徴的なのは小選挙区で、41選挙区のうちAfDが38、左派党が3を獲得し、これまで州首相を出してきたCDUは直接議席を一つも取れなかった。現職州首相スヴェン・シュルツェ自身も選挙区で敗れている。

CDUは2002年以来、ザクセン・アンハルト州の州首相職を握ってきたが、長年州を率いたライナー・ハーゼロフは2026年1月に退任しており、現在の州首相は1月28日に就任したシュルツェである。今回の結果は単なる与党の敗北ではなく、東部ドイツの一州で従来の保守第一党がAfDに完全に置き換わったことを意味する。

AfD躍進の中身

東部ではすでに2024年のテューリンゲン州選挙でAfDが第1党となり、ザクセン州でも第1党に迫っていた。しかし今回は、州レベルの実際の選挙で初めて40%を大きく超えた。AfDが「抗議票を集める第二党」という段階を越え、少なくともザクセン・アンハルトでは明確な最大勢力になったことが最大の変化である。

出口調査の有権者動向では、AfDは前回選挙で投票しなかった層から約17万人を新たに取り込み、CDUからも約8万2000人を奪ったと推計されている。年齢別でも一部の若年層だけに偏った支持ではなく、全世代で第1党となり、35~44歳では過半数に達した。AfD支持者では移民と国内治安への関心がとりわけ強く、経済や社会保障への不安、既存政党への不信も重なった。

この選挙は州固有の現象ではない。選挙直前のARDの全国世論調査ではAfDが27%、CDU・CSUが21%となり、メルツ政権への満足度も極めて低い水準にあった。したがってザクセン・アンハルトでの圧勝には、東西格差や東部特有の政治文化に加えて、連邦政府に対する強い不満も重なっている。

加えて、ザクセン・アンハルト州のAfDにはもう一つ重要な特徴がある。州憲法擁護庁は2023年から同州AfDを「確認された右翼過激主義的な活動(gesichert rechtsextremistische Bestrebung)」と分類している。これは単なる政治的な「極右」という呼称ではなく、州の国内情報機関による正式な分類である。AfD側はこの点を争っており、訴訟は現在、連邦レベルの関連訴訟を待つため停止されているが、分類そのものや憲法擁護庁による監視・報告は現時点でも維持されている。

AfDが州政府で変えようとしているもの

州選挙が重要なのは、ドイツでは教育、警察、文化行政などについて州の権限が大きく、AfDの選挙公約のかなりの部分がまさにそこを標的にしているからである。

教育分野では、学校から「政治的イデオロギー」を排除するとして、校内でのレインボーフラッグの禁止、従来型教育への回帰などを掲げる。インクルーシブ教育については「終了」させ、障害児向けの特別学校を拡充するとしている。難民・庇護申請者の子どもについても、通常学級とは別の特別クラスで教育する方針を掲げている。また、ロシア語教育を維持・拡大し、ロシアとの生徒交流を再開することも公約に盛り込んでいる。

文化政策では「愛国的文化政策」を掲げ、「反ドイツ的」とみなす芸術や文化事業に州の資金を出さない方針を示している。象徴的なのがデッサウのバウハウスをめぐる対立である。AfDは現在の州の文化キャンペーン「moderndenken(モダンに考える)」に対し、「deutschdenken(ドイツ的に考える)」を掲げ、バウハウスについて国民的・歴史的な根を欠く近代主義として批判してきた。州政府はバウハウス財団などへの助成に関与するため、この問題は単なる文化戦争のスローガンにはとどまらない。バウハウスが1933年にナチス政権下で閉鎖された歴史もあり、州内外で強い警戒を呼んでいる。

移民・治安分野では、退去義務のある外国人の送還強化や、庇護申請者に対する就労義務の拡大などを掲げる。州警察や外国人行政の運用を厳格化する余地は州政府にある。一方で庇護資格そのものや移民法の基本枠組みは連邦法・EU法に依存するため、州政府が公約をそのまま自由に実行できるわけではない。教育や文化政策についても基本法、州憲法、差別禁止原則、裁判所による審査などの制約を受ける。したがって「州の権限だからすべて単独で実行できる」と見るのも正確ではない。

対ロシア政策でも同じ切り分けが必要である。AfDは対ロシア経済・文化関係の再構築やウクライナ支援への反対を掲げているが、NATO政策、連邦軍、武器供与、対ロ制裁、外交関係を決めるのはベルリンの連邦政府やEUである。州政府に可能なのは、ロシア語教育、学校・文化交流、州レベルの経済交流などの範囲が中心となる。

圧勝してもAfD政権が決まらない理由

ドイツの州政治では、極右台頭として注目されているが、AfDが第1党になっただけでは州首相にはなれない。州首相は州議会が選出するからである。

AfDは39議席で、過半数42に3議席足りない。対するCDU、SPD、緑の党だけでは31議席であり、左派党を加えても39議席にしかならない。BSWまで含め、AfD以外の全5党を合計すれば44議席となる。一方、AfDとBSWを算術上合計すれば44議席になる。

もっとも、これはあくまで議席の足し算であり、CDU、SPD、緑の党、左派党はいずれもAfDとの協力を拒否している。CDUはさらに2018年の党決議によって、AfDだけでなく左派党との連立や同種の協力も排除している。このため、AfDを政権から外しつつ安定多数を作ろうとすると、CDUは自党の「不相容決議」と統治可能性の間で難しい選択を迫られることになる。

鍵を握るのが5議席のBSWである。BSWは、AfDのウルリヒ・ジークムントもCDUのシュルツェも州首相に選ばず、政党横断型の州首相と案件ごとの多数派形成を提案している。またAfDを一律に排除する「防火壁」には否定的で、政策ごとの協力を排除していない。とはいえ、選挙直後、ジークムント自身はBSWの超党派州首相案を「ごちゃごちゃしたもの」と退け、政権参加のために大幅な妥協をする考えはないと表明した。協力するならAfDが掲げる明確な政策転換を受け入れる政党、あるいは個々の議員と行うとの姿勢を示し、それが不可能なら再選挙も選択肢だと述べている。したがって現時点で「AfDとBSWの連立交渉が始まった」と表現するのは拙速で、両党を足せば過半数になるというだけで、正式な連立構想として合意されているわけではない。

州首相選出には「第3回投票」の前にもう一段階ある

州首相選出の手続きについても注意が必要である。ザクセン・アンハルト州憲法では、第1回投票で全議員の過半数、現在なら42票が必要となる。決まらなければ7日以内に第2回投票を行い、ここでも全議員の過半数が必要である。それでも決まらなかった場合でも、単純にそのまま第3回投票へ進むわけではない。さらに14日以内に、州議会を任期途中で解散するかどうかの採決を行う。解散に全議員の過半数が集まらなければ、その直後の投票で州首相を選び、この段階では「投じられた票の多数」を得た候補が当選する。

このためBSWなどの議員が棄権すれば、39議席しか持たないAfD候補でも理論上は州首相に選ばれる余地があるが、棄権すれば自動的にAfD政権になるわけではなく、対立候補への投票数、候補者の立て方、解散採決などによって結果は変わる。州首相選挙は秘密投票であるため、個々の議員の離反も制度上は排除できないが、現段階でCDU議員の離反を既定路線として扱う根拠はない。

新しい州議会は遅くとも10月6日までに招集される。新州首相が決まるまで、シュルツェ州政府は必要な行政を継続することになる。州首相選出そのものには明確な最終期限がないため、政権形成が長期化する可能性もある。

州政治と連邦政治の切れ目

今回の結果には、過大評価しやすい面と過小評価しやすい面がある。過大評価しやすいのは、「この選挙でドイツ全体が親ロシア・極右路線へ転換した」と見ることである。これは連邦選挙ではなく、人口約212万人の一州の選挙である。外交、NATO、連邦軍、ウクライナへの武器供与、対ロ制裁といった根幹は連邦政府やEUの権限にある。ザクセン・アンハルト州政府が単独で転換することはできない。

一方で、過小評価できないのが州政府そのものの権限である。学校教育、教師の採用や教育行政、警察、文化予算、州内の移民行政、公共放送をめぐる州間協定など、住民の日常生活に直結する分野には州政府が大きな影響力を持つ。さらに人口200万人を超えるザクセン・アンハルト州は連邦参議院に4票を持つため、州政府の構成は一部の連邦法制にも影響する。ただし4票は州政府として一括して行使しなければならず、これ自体が外交政策を変更する力ではない。

今回の結果はいくつかの視点に分けて見る必要もある。まず、ザクセン・アンハルトにおいてAfDは既存の保守政党を明確に凌駕し、43.8%というこれまでにない規模の最大勢力になったことだ。制度のレベルでは、39議席では単独過半数に届かず、他党の「防火壁」と複雑な州首相選出制度によって、選挙での圧勝はそのまま政権獲得には結びつかない。行政のレベルでは、仮にAfDが州政府を握れば、最初に変化が表れるのはドイツの外交ではなく、学校、警察、移民行政、文化助成といった州固有の領域である。

このことから、2026年9月7日時点で最も正確なのは、「AfD政権が誕生した」ではなく、「州憲法擁護庁から右翼過激主義的な活動と分類されているAfDが43.8%を獲得し、ドイツの州レベルでこれまでで最も現実的に政権獲得へ近づいた」ということである。

AfDを排除したままCDUがどのような議会多数を組み立てるのかにも関心が集まっている。CDUが左派党との不相容方針をどこまで維持できるのか、BSWが実際の州首相投票でどう行動するのか、そしてAfDが他党や個々の議員から必要な票を取り込めるのかである。

今回の選挙が突きつけた問題は、ドイツ全体が直ちに「極右国家」になるかどうかではない。東部州で最大勢力となったAfDを、他党が政権から排除し続けられるのか。そのために従来なら協力しなかった政党同士がどこまで妥協するのか。そして、その「防火壁」を維持する政治的コストが今後さらに高まるのかということである。



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2026.09.05

「カルタゴ作戦」が暴いたウクライナ検察の腐敗

検事総長府を直撃した「カルタゴ作戦」

2026年9月4日、ウクライナ国家汚職対策局(NABU)と特別汚職対策検察局(SAPO)は、「カルタゴ作戦」と呼ばれる大規模な汚職捜査を実施した。今回の事件が重大なのは、捜査対象が地方官僚や末端の公務員ではなく、刑事訴追を担う検事総長府の内部にまで及んでいることである。NABUによれば、検事総長府の幹部を中心とする犯罪組織が2025年半ばごろに形成され、「詐欺コールセンター」から継続的に賄賂を受け取る見返りとして、その活動を保護していた疑いが持たれている。さらに、犯罪収益は不動産や宝飾品の購入、親族口座への送金、第三者名義への資産移転などを通じて洗浄されたとされる。摘発すべき犯罪から検察関係者が利益を得ていたのであれば、これは単純な収賄事件ではなく、法を執行する国家機関そのものが犯罪の保護装置として利用されていた疑惑である。

この事件の背景には、ウクライナで長年問題となってきた「詐欺コールセンター」の存在がある。これらは銀行員や警察官を装った電話、偽の投資勧誘、暗号資産投資などを使って被害者から金銭を詐取する犯罪拠点であり、被害はウクライナ国内に限らず欧州各国にも広がってきた。ウクライナ当局と欧州の捜査機関はこれまでも共同摘発を繰り返してきたが、今回のカルタゴ作戦が示したのは、その犯罪を取り締まる側の検察関係者が逆に犯罪組織を保護していた可能性である。捜査情報へのアクセスを持つ検察内部に協力者が存在すれば、摘発の時期を察知し、事件処理を遅らせ、捜査そのものを妨害することも可能になる。そのため、今回の疑惑が立証されれば、詐欺コールセンターが長期間存続できた理由を、単なる捜査能力不足だけでは説明できなくなる。

問われる検事総長府の組織統治

今回の問題は、容疑をかけられた個々の検察官だけに責任を限定できる性質のものではない。捜査当局が問題視しているのは、検事総長府の幹部を中心として継続的な犯罪保護の仕組みが形成されていた疑いがあるからである。一部報道ではルスラン・クラフチェンコ検事総長本人に関係する場所への捜索も伝えられたが、検事総長府は本人の自宅や執務室への捜索を否定しており、この点は、現状では、確定していない。しかし、クラフチェンコ本人が直接の容疑者であるかどうかと、彼が率いる組織内部で重大な犯罪疑惑が発覚したことは別問題であり、検事総長府の幹部が組織的に犯罪を保護していたのであれば、そのような状態を許した組織統治、内部監察、人事管理が当然問われることになる。

この問題はクラフチェンコ個人の監督責任だけでは終わらない。クラフチェンコを検事総長候補として選び、2025年6月に議会へ提示したのはゼレンスキー大統領であり、最高会議の同意を経て正式に任命したのも大統領である。ウクライナの検事総長は、大統領による候補者選定と議会承認を組み合わせた政治的に重要なポストである以上、その人事は政権の統治責任と切り離せない。ゼレンスキー大統領自身が詐欺コールセンターの保護に関与したわけではないだろうが、自ら選んだ検事総長の下で検察中枢に重大な汚職疑惑が生じた以上、大統領にはその人事が適切であったのか、検察に対する監督と改革が十分であったのかを説明する政治的責任がある。

検事総長任命の直後に進められたNABU・SAPOへの統制

一連のウクライナ政府にまつわる汚職事件において、ゼレンスキー大統領の責任を考えるうえで最も重要なのは、クラフチェンコ任命のわずか約1か月後に、政権と議会がNABUとSAPOの独立性を弱める法改正を実行したことである。

2025年7月22日に成立した法案12414には、検事総長がNABUの捜査資料にアクセスし、捜査官への指示や事件の移管などに強い影響力を行使できる内容が盛り込まれた。NABUとSAPO自身が、この改正によって両機関の実質的な独立性が失われると強く反発したのは当然である。高官や検察内部の汚職を捜査する機関が、政治任命された検事総長の統制下に入れば、捜査対象となり得る側が捜査機関を管理するという深刻な利益相反が生じるからである。

この2025年の制度変更と2026年のカルタゴ作戦を並べると、その危険性は一層明瞭になる。2025年6月にゼレンスキー大統領がクラフチェンコを検事総長に任命し、その翌月には検事総長がNABUとSAPOに強い権限を行使できる制度が成立した。そして約1年後、そのNABUとSAPOが検事総長府内部の犯罪組織疑惑を捜査しているのである。法案12414がそのまま維持されていれば、検事総長府を捜査する反汚職機関が、捜査対象となった組織のトップから制度的な影響を受ける構造になっていた。カルタゴ作戦は結果として、2025年の法改正が単なる行政上の権限調整ではなく、反汚職捜査そのものを危うくしかねない制度変更であったことを浮き彫りにしたのである。

政権を後退させた市民の抗議と西側の圧力

法案12414による反汚職機関への統制強化が撤回されたのは、ゼレンスキー政権が当初から問題を認識していたからではなく、国内外から強い反発を受けたためである。法律成立後、キーウをはじめとする都市では市民による抗議運動が発生し、NABUとSAPOの独立性を守るよう要求する声が広がった。全面侵攻開始後のウクライナでは大規模な反政権抗議が目立っていなかっただけに、この動きは政権に対する強い不信の表れであった。また、EUやG7諸国も反汚職改革の後退として深刻な懸念を表明し、ウクライナ政府に説明を求めた。EU加盟を目指すウクライナにとって、反汚職制度の独立性は加盟条件にも関係する重要問題であり、政権は国際的な圧力を無視できなかった。

その結果、ゼレンスキー大統領は法案12414への署名からわずか数日後に方針を転換し、NABUとSAPOの独立性を回復する新法案を提出した。最高会議は7月31日にこれを可決し、問題となった制度変更は事実上巻き戻された。この経過で重要なのは、政権が反汚職機関の独立を一貫して守ったのではなく、一度はそれを弱める法律を成立させ、大統領自身も署名したという事実である。政策が修正されたこと自体は評価できても、それによって最初の政治判断まで消えるわけではない。むしろ、国内の抗議と西側諸国からの圧力がなければ、その制度が維持されていた可能性を考える必要がある。この政府と議会の動向は、ウクライナ国民の広義からすでに乖離していると見ていいだろう。

政権周辺へ広がっていた反汚職捜査

法案12414が成立した時期に、NABUがゼレンスキー政権周辺にも捜査を広げていたことは、この問題をさらに政治的なものにしている。その代表例が、後に「ミダス作戦」として公表された国営原子力企業エネルゴアトムをめぐる大規模汚職捜査である。ミダス作戦が公式に発表されたのは2025年11月であり、法案12414の成立より後であるため、「ミダス作戦を止めるために法改正が行われた」と断定することはできない。しかし、NABUによれば捜査は公表以前から長期間進められており、ゼレンスキーと長年関係のある実業家ティムール・ミンディチら政権周辺の人物が捜査対象となったことは、その後明らかになった。

この経緯において、2025年7月のNABU・SAPO弱体化を評価する際には、政権にとって独立した反汚職機関が決して抽象的な存在ではなかったという点が重要である。NABUは高官、国営企業、政権に近い人物を実際に捜査する機関であり、その権限を検事総長の統制下に置くことには明確な政治的意味があった。法改正と特定事件との直接的な因果関係が証明されていなくても、政権が自らを捜査し得る機関の独立性を縮小しようとしたという事実そのものが、ウクライナの重大な統治機構上の問題なのである。

検事総長を政治が動かしてきた長い歴史

ウクライナで検事総長職が政治権力と近い関係に置かれてきた問題は、ゼレンスキー政権になって突然始まったものではない。象徴的なのが2016年のヴィクトル・ショーキン検事総長の解任である。

当時の米国副大統領ジョー・バイデンが、約10億ドルの融資保証とショーキンの更迭を結び付けてウクライナ政府に圧力をかけたことは広く確認されている。公式には、ショーキン検事総長が汚職対策に十分取り組んでいないことが理由とされ、米国だけでなく欧州諸国や国際機関からも批判されていたが、バイデン副大統領の息子ハンター・バイデンが当時ウクライナのガス企業ブリスマの取締役を務め、同社創業者に関連する捜査がウクライナ検察に存在していたことから、政治的な利益相反が疑われていた。

ショーキン検事総長の後任となったユーリー・ルツェンコの任命も、検事総長職の政治性を象徴する出来事であった。ルツェンコはポロシェンコ大統領に近い政治家であり、法曹資格を持たなかったため、議会は任命に先立って検事総長の資格要件そのものを変更した。この経緯は、検事総長が政治権力から十分に独立した専門職というより、大統領と議会の政治的判断によって選ばれるポストとして扱われたことを示している。これで政府の汚職問題が解明されるはずもない。だからこそその後のウクライナでは、米国や欧州連合(EU)、国際通貨基金(IMF)といった西側諸国が極めて強い主導権と影響力のもと、NABUとSAPOのように、通常の検察機構から一定の距離を置く反汚職機関を設ける必要が生じた。

カルタゴ作戦が示すゼレンスキー政権の責任

カルタゴ作戦の政治的意味は、検事総長府に汚職が存在した可能性だけにあるのではなく、独立した反汚職機関を弱めようとしたゼレンスキー政権の判断と、その反汚職機関が後に検事総長府内部を捜査するに至ったという一連の経過である。ゼレンスキー大統領は2025年6月にクラフチェンコを検事総長に任命し、その翌月には検事総長の権限をNABUとSAPOに及ぼす法律に署名した。その制度変更は市民と西側諸国の反発によって撤回されたが、もし維持されていれば、今回のような検事総長府への捜査の独立性そのものが損なわれていただろう。

ゼレンスキー政権に求められるのは、単に「大統領本人が犯罪に関与していない」という事柄ではなく、なぜ自ら任命した検事総長の組織内部で重大な犯罪疑惑が生じたのか、なぜその検事総長に独立した反汚職機関を統制する権限を与えようとしたのか、そして政権は本当に自らの周辺に及ぶ汚職捜査を独立して遂行させる意思を持っているのかという問題である。これは刑事責任とは別の、政治責任と統治責任の問題であり、戦時下であることを理由に曖昧にしてよい問題ではない。

今回のカルタゴ作戦は、ウクライナの反汚職改革にとって一つの試金石である。検事総長府という強力な国家機関に対してもNABUとSAPOが捜査を継続し、関係者の地位にかかわらず事実を明らかにできるのであれば、それは反汚職制度が機能している証拠となる。しかし、捜査が政治的に妨害され、責任が末端だけに限定されるのであれば、2025年に表面化した反汚職機関への政治介入への懸念は再び現実のものとなる。



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2026.09.04

900億ユーロはウクライナに届くのか

欧州融資が抱える資金調達の現実

欧州連合(EU)がウクライナに約束した900億ユーロは、ヨーロッパの結束を示す巨大な数字であったはずだ。2026年と2027年に450億ユーロずつを供給し、国家財政と防衛の双方を支えるというのである。この資金が予定どおり届けば、米国の支援が以前ほど確実でなくなった状況でも、ウクライナが戦争を続けるための重要な財政的基盤になるはずだった。その思惑どおりに進んでいるとは思えない状況が可視化されつつある。

まず、前提。EUはこのための900億ユーロを手元に持っているわけではない。これは積み立てられた基金ではなく、EUがこれから資本市場で借り入れ、順次ウクライナに貸し付けるという約束である。

現状、2026年に利用可能とされた450億ユーロのうち、9月初めまでに実際に支払われたのは116億ユーロにすぎない。残る334億ユーロは、まだウクライナが自由に使える資金にはなっていない。

ここでキエフ政府は、予想に反して、今年の国防費だけでもさらに約270億ユーロが不足すると訴え、本来2027年に予定されている450億ユーロの一部まで前倒しするようEUに求め出した。EUの手元にお金があれば問題ない。だが、上述の仕組みからして、現在は、ない、のだ。ウクライナが必要としている資金の時期と、EUが資金を調達できる時期が一致していないからである。

「900億ユーロ」は現金ではない

EUのウクライナへの融資を理解するには、900億ユーロという数字の意味を正確に捉える必要がある。この資金は加盟国が一括して拠出するのではなく、欧州委員会がEU名義の債券を発行して市場から借り入れる。EU予算の余裕分を保証として使い、調達した資金をウクライナに転貸する仕組みである。したがって、欧州理事会が900億ユーロの融資を「決定した」ことと、900億ユーロの資金が「存在する」ことは同じではない。政治的な与信枠は確保された。しかし現金は市場で調達しなければならない。

2026年、欧州委員会はEU債の長期発行額を年間1800億ユーロとする計画を立てた。上半期1000億ユーロ、下半期800億ユーロである。しかし、この1800億ユーロはウクライナだけのための借り入れではない。コロナ後の復興基金、加盟国の防衛投資、その他のEU融資、既存債務の管理にも同じ資金調達機構が使われる。

ウクライナ向けに2026年中に残る334億ユーロという額は、下半期のEU長期債発行予定800億ユーロと比べると、その大きさが分かる。単純比較では4割を超える。もっとも、実際には短期証券や既存の流動性も利用できるため、334億ユーロを新規長期債でそのまま調達するわけではないとしても、ウクライナへの残額を支払うことが、欧州委員会の資金調達計画の中で小さな追加項目ではないことは明白である。

ここにさらに2027年分の前倒しまで加われば、問題はさらに大きくなる。ウクライナ側から見れば、900億ユーロのうち未使用の資金を早く出してほしいという要求にみえるが、EU側から見れば、それは将来予定していた数百億ユーロ規模の借り入れを、今年の市場に追加することを意味する。その資金はどこから出すのだろう。

欧州もまた巨額の資金を必要としている

しかも、ウクライナはEUが現在抱えている唯一の借り手ではない。欧州もまた巨額の資金を必要としている。EUはNextGenerationEUによる復興資金の最終的な支払いを進める一方で、加盟国の防衛力増強を目的とするSAFEも立ち上げた。SAFEだけで最大1500億ユーロの融資枠があり、この資金もEU債によって調達される。18カ国について融資が承認され、前払いも始まる。ウクライナへの900億ユーロと欧州自身の再軍備は、少なくとも資金調達面では同じ財布を使っている。

この仕組みがEUにおいて政治的に厄介な問題を生む。ロシアとの戦争を戦っているウクライナに資金が必要なのと同時に、EU加盟国もロシアを念頭に置いた防衛力の再建を急いでいるからだ。欧州がウクライナへの支援を増やそうとする時期と、欧州自身が大規模な防衛借り入れを始める時期が重なっている。キエフ政府がパトリオットを融通してほしいと各国に願っても自国防衛を削れないのと同じ理屈だ。無い袖は振れない。

さらに、資本市場の環境が悪化している。8月31日のEU債入札では、約5年債の平均利回りが3%を超え、より長い年限では4%を超えた。それでも、EUは依然として市場から資金を調達できており、信用不安に陥っているわけではない。しかし世界的な国債売りによって政府の借入コストは上昇している。欧州各国自身も防衛、エネルギー、社会保障のため大量の国債を発行しており、民間企業による債券発行も拡大している。同じ投資家資金をめぐる競争はいっそう強まっている。もはやEUにとって問題は「払う意思があるか」だけではなくなりつつある。約束した資金を、どの速度で、どの金利で、他の資金需要を圧迫せず調達できるかが問われている。

時間がなくなっているウクライナ

それでもEUには借入計画を調整する時間がある。しかしウクライナには同じ時間がない。ウクライナの国家財政は、戦争開始以来、欧米の資金援助なしには維持できない構造になっている。税収の大きな部分を国防に投入し、外国資金によって年金、医療、教育、公務員給与などを支える。外部資金の流入が滞れば、単なる財政赤字では済まない。戦争を遂行する国家そのものの機能が圧迫される。防衛資金では影響はさらに直接的である。ロシアのミサイルや無人機による攻撃が続くなか、防空迎撃弾や無人機の調達を数カ月遅らせることは、支払いを翌四半期に繰り越すこととは違う。その間に攻撃される都市があり、破壊される発電施設があり、守れない陣地がある。

戦時の資金には期限がある。同じ100億ユーロでも、必要なときに使える100億ユーロと、三カ月後に到着する100億ユーロの価値は同じではない。遅れて届いた資金は、その間に失われた兵士、領土、インフラを元に戻すことはできない。その意味で、ウクライナが2027年分の前倒しを求めていることは重要な警告である。問題は当初の900億ユーロという計算が間違っていたことだけではない。戦争の必要資金が、EUの想定した時間配分より前に集中しているのである。

約束と支払いの間

欧州はこれまで、ウクライナ支援について大きな数字を積み上げてきた。それ自体には意味があるのかもしれない。長期的な支援意思を示すことは、ウクライナにもロシアにも重要な政治的シグナルになるのだろう。しかしこの900億ユーロ融資では、政治的約束と財政的現実の距離を見なければならない。

現在のところ、EUが市場から資金を調達できなくなった証拠はない。EUには強い信用力があり、債券発行は続いている。だが問題がないわけではない。むしろ、問題はもっと微妙であり、そのぶん深刻である。そもそもEUはウクライナに900億ユーロを即座に支払える状態で約束したのではない。2年間かけて市場から借り入れることを前提に約束したのである。ところがウクライナの戦況と財政事情は、その時間割より速く悪化している。そしてEU側では、ウクライナ支援、欧州自身の再軍備、復興基金の残余支払い、既存債務の借り換えが同じ時期に集中している。

 

と、ここまで書いた私は、この先の段落を書くことができない。私はあまり悲観的なことは考えたくないのである。とりあえず、ここまで。




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2026.09.03

キエフ住宅街の銃撃が示したこと――肥大化した情報機関と民族主義の争い

公式説明と現場の食い違い

2026年9月2日未明から朝にかけて、キエフ左岸の住宅街で銃撃事件が発生した。表向きには「FSBのテロ計画を阻止する捜査」と「武装集団による捜査妨害」として説明された。しかし実際に対峙したのは、国内治安を担うSBUのアルファ部隊と、軍事情報を担うGUR傘下の要員である。負傷したのはGUR側の3人であり、拘束された側も「国防軍の一部隊」としか公式には特定されなかった。事件の直後、SBUはまずGURとの共同作戦を強調し、続いて「捜索を妨害した武装集団を制圧した」と説明を切り替えた。GUR側は声明を削除し、関係者はSBUが自部隊の人員を拘束し、合意後に別のSBU要員が発砲したと主張した。この食い違いは、単なる現場の混乱ではなく、二つの機関が同じ人物・同じ現場を別の論理で扱っていたことを示している。

その人物が、GUR傘下のロシア義勇兵軍団(RDK)副司令官ステパン・カプルーノフである。RDKはロシア人志願兵による反プーチン部隊であり、GURの国際軍団に組み込まれている。創設期の中核には、2014年以降アゾフなどで戦ったロシア人ナショナリストや極右圏の人材が含まれる。RDKはカプルーノフが8月下旬に自宅前で「拉致された」と発表し、SBU・GUR・国家捜査局に照会した。SBUは彼を、独立記念日前後にウクライナへ来た「ロシア反体制派指導者」に対するFSBテロの対象として扱い、保護ないし捜査の名目で掌握したとみられる。GUR側からすれば、これは自前の特殊戦力の幹部を、別機関が手続きも不透明なまま持ち去ったに等しい。弁護士は適法な拘束手続きがなかったと主張し、SBUが彼をアパートへ連れ戻して捜索しようとした夜、すでに集まっていたGUR関係者・仲間との対峙が始まった。指揮官同士で一旦手を打ったあとに再び発砲が起きた、という証言は、現場が「共同捜査」ではなく「自組織の人間の奪還」だったことを強く示唆する。

「自分たちの人」を守る論理と、防諜として介入する論理

この衝突の奥にあるのは、戦時に肥大化した情報機関の縄張りである。SBUは本来の防諜・国内治安に加え、ロシア領内工作や特殊作戦へ権限を広げた。GURは偵察機関から、独自の戦闘部隊・志願兵部隊・越境工作を持つ軍事アクターへと変質した。両者は予算、人材、作戦の手柄、ロシア人反体制ネットワークの管理をめぐって競合してきた。ブダノフ氏がGUR局長から大統領府長官へ移ったあとも、GUR内部には彼の人脈が残り、RDKを含む特殊部隊との結びつきは消えていない。他方、SBU暫定局長ポクラッド氏とブダノフ氏の確執は以前から指摘されており、2022年にGUR関係者がSBUに射殺された事件もその延長にある。カプルーノフを「FSBの標的として保護・管理する対象」と見るSBUと、「自部隊の戦力として奪還すべき人材」と見るGURでは、同じ人物がまったく別の意味を持つ。銃撃は、その解釈の衝突が武器に転化した結果である。

SBUの介入論理はこれと対称をなす。国内防諜機関としてSBUは、ロシア人部隊の内部にFSBが食い込むリスク、非正規ネットワークの法的灰色、大統領府周辺の権力再編に伴う「誰がどの人材を握るか」という問題を、治安案件として処理しうる。カプルーノフを「保護対象」かつ「捜査対象」として扱うことは、GURの聖域に踏み込む行為であると同時に、戦時に肥大しすぎた軍事情報アクターを文民的・国内治安の論理で再統制しようとする試みでもある。声明が「共同阻止」から「国防軍部隊による襲撃」へ変わったのは、最初は機関間の顔を立てようとし、現場が武力衝突になった瞬間に自らの正当性を法執行の側へ寄せたためだろう。ゼレンスキー大統領が「恥ずべき事態」と非難し、検察と国家捜査局、両機関の内部調査と人事処分を求めたのは、衝突そのものより、大統領が両機関を統御できていない印象が国内外に広がることを恐れたためである。同日のSBU幹部解任は、その再統制の第一手と見てよい。

国家が承認しつつある軍事民族主義との接続

さらに重要なのは、RDKのような部隊が孤立した特殊事例ではない点である。アゾフ起源の人材と思想圏は、国家親衛隊の第1軍団「アゾフ」だけでなく、陸軍第3軍団(創設者ビレツキー准将)やGUR系志願兵部隊にも広がっている。2026年夏、政府はOUN指導者メルニクの国家儀礼での再埋葬、特殊作戦部隊への「UPAの英雄たち」称号、国民パンテオン法、そして独立記念日におけるビレツキー氏への「ウクライナ英雄」授与を相次いで進めた。公式には戦功と歴史的正義の回復とされるが、ポーランドとの深刻な外交摩擦を承知のうえで加速した点、ブダノフ体制下で記憶政策が硬化した点は、戦況対応だけでは説明しにくい。汚職問題で政権基盤が揺らぎ、兵員不足が続くなか、西部と軍内の民族主義的軍事層を公式に承認する必要があった、という読みは十分成り立つ。GURが「自分たちの人」を守ろうとした背景には、単なる同僚意識だけでなく、戦時国家が依存しつつある志願兵・民族主義ネットワークの自律性を維持したいという動機がある。

したがって今回の事態は、FSBテロ阻止の成否やアパート捜索の手順ミスに還元できない。戦時ウクライナでは、正規軍・国家親衛隊・情報機関・ロシア人志願兵が同じ戦場で重なり、アゾフ系からOUN/UPA顕彰までを含む民族主義的軍事伝統が国家儀礼の中心に引き寄せられている。GURはそのネットワークの一部を運用資産として抱え、SBUはそれを国内治安と防諜の対象として掌握しようとする。カプルーノフはその接点にいた人物であり、住宅街の銃撃は、肥大化した機関と、その周辺の志願兵・民族主義ネットワークを「誰が統制するか」をめぐる緊張が、首都の路上に露出した出来事だった。捜査が全容をどこまで明らかにするかは未知数だが、構図自体はすでに、戦時権力の内部矛盾をかなり正確に映している。

 

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2026.09.02

長期金利3%で、見落とされがちな「実効金利」

長期金利が3%に上昇すると、「国債の利払い費が増え、日本財政への懸念が強まる」といった説明がしばしばなされる。もちろん、金利上昇が財政にまったく影響しないわけではないが、長期金利が3%になったという事実だけから、直ちに財政悪化を論じるのはあまり適切ではない。重要なのは、「市場金利」と「実効金利」を区別することである。さらに、金利がなぜ上昇したのか、経済成長との関係はどうなっているのかまで見なければ、財政への影響を正しく評価することはできない。

市場金利3%と、政府が実際に払う金利は違う

「長期金利が3%になった」と聞くと、政府が抱える国債全体に3%の金利がかかるようになったかのような印象を受ける。しかし、実際にはそうではない。政府の財政負担に直接関係するのは、その時点の10年国債の市場金利ではなく、既に発行されている国債も含め、政府が債務全体について実際にどの程度の金利を支払っているかを示す「実効金利」である。

住宅ローンを考えると分かりやすい。世の中の住宅ローン金利が今日3%に上がったとしても、数年前に1%の固定金利で借りた人のローン金利が、その日から3%に変わるわけではない。国債も基本的には同じである。政府が過去に0.5%や1%といった低い金利で発行した国債は、市場金利が上昇しても、その条件のまま満期まで残る。3%という新しい金利が効いてくるのは、新たに発行する国債や、満期を迎えて借り換える国債からである。

そのため、市場金利が3%になったからといって、政府債務全体の利払い負担が一気に3%になるわけではない。高い市場金利が続けば、借換えが進むにつれて実効金利も徐々に上昇するが、その影響は時間をかけて現れる。したがって、「長期金利が3%になった。政府債務は巨額である。だから財政負担が急増する」という議論は、国債の満期構成と実効金利を無視したものである。

もちろん、「実効金利が低いから財政は安心だ」と言うことではない。市場金利が上昇すれば、いずれ実効金利も上昇する。しかし、財政への影響を考えるなら、現在の市場金利をそのまま政府債務全体に当てはめるのではなく、まず実効金利が今後どの程度の速度で上昇するのかを見る必要がある。

金利上昇は「財政不安」だけで起こるわけではない

こうした議論で問題となるのは、長期金利の上昇をそのまま「市場が日本財政を不安視している証拠」と解釈してしまうことである。長期金利は財政だけで決まるものではない。長期金利は、大まかに言えば、将来の短期金利がどの程度になると予想されているかに、長期間資金を貸すことに伴うさまざまなリスクを加えて決まる。したがって、経済成長や物価、日銀の金融政策について市場の見方が変われば、財政状況に大きな変化がなくても長期金利は上昇する。

内閣府の経済財政モデルでも、すでにそのような構造が組み込まれている。短期金利は、潜在成長率、物価上昇率、物価目標からの乖離、GDPギャップなどに反応する。経済活動が強まり、物価が安定的に上昇し、GDPギャップが改善すれば、中央銀行は政策金利をより高い水準にすることが合理的になる。その結果、将来の短期金利の予想が上がり、長期金利も上昇する。

こうしてみると、金利上昇には二つのまったく異なる場合があることがわかる。経済が弱く、政府の信用力に疑問が生じたために金利が上がる場合もあれば、経済が強くなり、デフレから脱却し、金融政策が正常化するために金利が上がる場合もある。表面上はどちらも「長期金利上昇」であるが、経済的な意味は正反対になる。

実際、内閣府の中長期試算では、成長率が高いケースほど長期金利も高くなる。高い成長が続けば、需要が強まり、賃金や物価が上昇し、政策金利も正常な水準へ向かうためである。それでも高成長ケースでは、政府債務のGDP比はむしろ低下していく。

本当に見るべきなのは「実効金利と経済成長の関係」である

財政の持続可能性を考えるうえで、本当に重要なのは長期金利の絶対的な水準ではなく、政府が実際に負担する実効金利と、経済全体がどの程度成長するかの関係である。

また、政府債務の負担を見るときには、債務残高そのものだけでなく、債務残高をGDPで割った「債務残高対GDP比」が重要になる。政府債務が増えればこの比率は上がるが、GDPがそれ以上に増えれば比率は下がる。

したがって、金利が上昇して利払い費が増えることは財政にとってマイナスであるが、それだけで財政の行方が決まるわけではなく、実質経済が成長すればGDPは増える。物価や賃金が適度に上昇すれば名目GDPも増える。さらに税収が増え、基礎的財政収支が改善すれば、債務そのものの増加も抑えられる。

これをあえて極端に単純化するなら、実効金利が2%であっても、名目GDPが4%程度で成長している経済と、実効金利が1%であっても名目GDPがほとんど成長しない経済では、必ずしも後者の方が財政的に健全とは限らない。前者では債務にかかる金利負担が増えていても、それ以上の速度で経済という分母が大きくなる可能性があるからである。

この点が、長年の日本経済を考えるうえでも重要になる。超低金利が続いていたからといって、それ自体が財政の健全さを意味していたわけではない。デフレや低成長によって経済全体が拡大しなければ、金利が低くても債務残高対GDP比は改善しにくい。一方、経済が成長して金融政策が正常化すれば、長期金利は上昇する。それでも名目GDPの成長や財政収支の改善が金利負担増を上回れば、債務残高対GDP比を引き下げることは可能である。

内閣府の中長期試算も、まさにこの関係を示している。高成長ケースでは、長期金利は上昇し、それに伴って実効金利も徐々に上がっていく。それでも、実質成長、物価上昇、財政収支改善の効果が金利上昇の悪影響を上回るため、債務残高対GDP比は低下する。逆に成長が弱ければ、金利が比較的低くても債務比率の改善は進みにくい。

だから日本財政について本当に問うべきなのは、「10年国債金利が3%になったかどうか」ではなく、「市場金利の上昇によって実効金利が今後どこまで上がるのか」「それに対して名目GDPはどの程度成長するのか」「基礎的財政収支はどうなるのか」という組み合わせである。



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2026.09.01

「二百十日」が消えたニュース――災害報道はどこへ向かうのか

九月一日は「二百十日」である。立春から数えて二百十日目、昔から台風や強風を警戒する日とされてきた。稲が実る時期と重なり、農村では「風の厄日」として意識されていたという。ところが、最近この言葉をほとんど聞かなくなった。暦の言葉が生活から遠ざかったからだと考えれば、それまでのことかもしれない。しかし今年の九月一日前後にも、各地で大雨や風水害が相次いで報じられていた。二百十日という言葉が必要とした自然現象そのものは、決して過去のものになってはいないのである。

そこで思い出すのが、九月一日は同時に「防災の日」でもあるということである。ところが、少なくとも私が見ていたNHKの午後七時のニュースでは、この「防災の日」という言葉も前面には出てこなかった。二百十日が消え、防災の日も目立たない。ならば防災への関心そのものが薄れたのかというと、実際のNHKのニュースを見る限り、むしろ反対である。近年のNHKは、災害と防災の報道に非常に大きな力を注いでいるように見える。

防災報道は減ったのではなく、濃くなった

台風、大雨、河川の氾濫、土砂災害、地震。災害が発生すれば、NHKは早い段階から現地に入り、かなり厚い報道を行う。全国各地に放送局と取材網を持つNHKだからこそ可能な報道であり、この点は公共放送としての大きな強みである。災害時に正確な情報を迅速に伝えることは、放送局の最も重要な役割の一つであり、それ自体に異論はない。

しかし、見ていて気になることがある。近年、現地からの報告の中で、被害を受けた人々の姿を映す時間が非常に長くなっているように感じられるのである。泥に埋まった住宅、壊れた店舗、途方に暮れる住民、失われた生活について語る被災者。その映像は鮮明であり、言葉も具体的である。視聴者は当然、その人々の苦境に心を動かされる。

問題は、それが事態を理解するための材料なのか、それとも事態を「感じる」ための材料なのか、その境目が次第に曖昧になっていることである。災害の規模や原因、地域の地形、治水の状況、避難体制、過去の災害との比較といった情報よりも、「この人がどれほど大変な目に遭ったか」という個人の物語が報道の中心になれば、ニュースは強い共感を生む。しかし、共感と理解は同じものではない。

NHKにとって都合のよい災害報道

ここには、NHKという組織自身の事情もあるのではないかと思う。もちろん、「視聴者の同情を引くために災害報道をしている」と単純に決めつけることはできない。しかし、全国に地方局を置き、多数の記者、カメラマン、アナウンサーを配置しているNHKにとって、地域の現場を綿密に伝えることは、その巨大な取材網の存在価値を最も分かりやすく示せる分野でもある。

受信料制度を含め、NHKの存在理由そのものが繰り返し問われる時代である。その中で、「全国どこで災害が起きても現場から伝えることができる」「人命に関わる情報を提供できる」という能力は、NHKにとって極めて重要な公共性の証明になる。しかも、地方の被災者の声を丁寧に取り上げれば、「東京から地方を眺める放送」ではなく、「地域に寄り添う放送」という姿も示すことができる。

そのこと自体は悪いことではない。むしろ地方の出来事を全国に伝えることは重要である。しかし、放送局の持つ資源と、放送局が自らの価値を示そうとする方向と、ニュースの編集方針とがあまりにうまく一致すると、別の問題が生じる。何を伝えるべきかという判断に、「何を伝えればNHKらしさを示せるか」という事情が入り込む可能性があるからである。

すると災害は、公共放送の能力を最もよく見せるニュースになる。地方局から中継を出し、現場の記者が被害を説明し、被災者に話を聞き、全国ニュースで長い時間を割く。この形式は非常に完成度が高い。完成度が高いだけに、繰り返し使われやすい。

災害が「一話完結」になる危うさ

さらに気になるのは、一つの被災地を濃密に取り上げながら、次の災害が起きると報道の焦点が急速にそちらへ移ってしまうことである。今日は東北の水害、数日後には九州の豪雨、その次には別の地域の土砂災害という具合に、画面の中の「被災地」は次々と入れ替わる。

それぞれの報道は丁寧である。しかし視聴者から見ると、一つ一つの災害が強い映像と被災者の物語を伴った「一話完結」の出来事になってしまう。その土地の人々に同情し、被害の大きさに驚き、数日後には別の土地の災害に同じように心を動かされる。こうしたことが繰り返されれば、災害報道は増えているのに、防災について考える時間軸はかえって短くなるという逆説が起こり得る。

あえて強い言葉を使えば、ここには「災害報道のエンタメ化」とでも呼びたくなる危うさがある。もちろん災害を面白おかしく扱っているという意味ではない。次々と現れる強い映像と人間の物語を視聴し、その都度感情を動かされること自体がニュースの主要な体験になってしまう、という意味である。

そのとき失われるのは、災害相互のつながりである。なぜこの季節に豪雨が多いのか。この地域では過去にどのような被害があったのか。土地利用や河川整備にどのような問題があるのか。以前の災害から何が改善され、何が改善されていないのか。来年同じ季節を迎えるまでに何を準備すべきなのか。防災とは本来、こうした時間の連続の中で考えるべきものである。

そう考えると、「二百十日」という古い言葉が意外な意味を持って見えてくる。二百十日は、一つの台風の名前でも、一つの被災地の名前でもない。「毎年このころには風雨に用心せよ」という、世代を越えて共有された時間の目印であった。「防災の日」もまた、過去の災害を現在の備えへつなぐための時間の目印である。

それらの言葉がニュースから後景に退く一方で、災害現場の映像はますます濃くなる。これは単なる言葉遣いの変化ではないのかもしれない。私たちが災害を「長い時間の中で備えるべきもの」として見るのではなく、「いま画面の向こうで起きている強烈な出来事」として見るようになっているとすれば、そこには考えるべき問題がある。

防災報道に必要なのは、被災者への共感だけではない。今日の災害を昨日の災害とつなぎ、今年の災害を来年の備えへつなぐことである。二百十日という古びた言葉がかつて果たしていたのは、案外、そのような役割だったのではないだろうか。

 

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