「二百十日」が消えたニュース――災害報道はどこへ向かうのか
九月一日は「二百十日」である。立春から数えて二百十日目、昔から台風や強風を警戒する日とされてきた。稲が実る時期と重なり、農村では「風の厄日」として意識されていたという。ところが、最近この言葉をほとんど聞かなくなった。暦の言葉が生活から遠ざかったからだと考えれば、それまでのことかもしれない。しかし今年の九月一日前後にも、各地で大雨や風水害が相次いで報じられていた。二百十日という言葉が必要とした自然現象そのものは、決して過去のものになってはいないのである。
そこで思い出すのが、九月一日は同時に「防災の日」でもあるということである。ところが、少なくとも私が見ていたNHKの午後七時のニュースでは、この「防災の日」という言葉も前面には出てこなかった。二百十日が消え、防災の日も目立たない。ならば防災への関心そのものが薄れたのかというと、実際のNHKのニュースを見る限り、むしろ反対である。近年のNHKは、災害と防災の報道に非常に大きな力を注いでいるように見える。
防災報道は減ったのではなく、濃くなった
台風、大雨、河川の氾濫、土砂災害、地震。災害が発生すれば、NHKは早い段階から現地に入り、かなり厚い報道を行う。全国各地に放送局と取材網を持つNHKだからこそ可能な報道であり、この点は公共放送としての大きな強みである。災害時に正確な情報を迅速に伝えることは、放送局の最も重要な役割の一つであり、それ自体に異論はない。
しかし、見ていて気になることがある。近年、現地からの報告の中で、被害を受けた人々の姿を映す時間が非常に長くなっているように感じられるのである。泥に埋まった住宅、壊れた店舗、途方に暮れる住民、失われた生活について語る被災者。その映像は鮮明であり、言葉も具体的である。視聴者は当然、その人々の苦境に心を動かされる。
問題は、それが事態を理解するための材料なのか、それとも事態を「感じる」ための材料なのか、その境目が次第に曖昧になっていることである。災害の規模や原因、地域の地形、治水の状況、避難体制、過去の災害との比較といった情報よりも、「この人がどれほど大変な目に遭ったか」という個人の物語が報道の中心になれば、ニュースは強い共感を生む。しかし、共感と理解は同じものではない。
NHKにとって都合のよい災害報道
ここには、NHKという組織自身の事情もあるのではないかと思う。もちろん、「視聴者の同情を引くために災害報道をしている」と単純に決めつけることはできない。しかし、全国に地方局を置き、多数の記者、カメラマン、アナウンサーを配置しているNHKにとって、地域の現場を綿密に伝えることは、その巨大な取材網の存在価値を最も分かりやすく示せる分野でもある。
受信料制度を含め、NHKの存在理由そのものが繰り返し問われる時代である。その中で、「全国どこで災害が起きても現場から伝えることができる」「人命に関わる情報を提供できる」という能力は、NHKにとって極めて重要な公共性の証明になる。しかも、地方の被災者の声を丁寧に取り上げれば、「東京から地方を眺める放送」ではなく、「地域に寄り添う放送」という姿も示すことができる。
そのこと自体は悪いことではない。むしろ地方の出来事を全国に伝えることは重要である。しかし、放送局の持つ資源と、放送局が自らの価値を示そうとする方向と、ニュースの編集方針とがあまりにうまく一致すると、別の問題が生じる。何を伝えるべきかという判断に、「何を伝えればNHKらしさを示せるか」という事情が入り込む可能性があるからである。
すると災害は、公共放送の能力を最もよく見せるニュースになる。地方局から中継を出し、現場の記者が被害を説明し、被災者に話を聞き、全国ニュースで長い時間を割く。この形式は非常に完成度が高い。完成度が高いだけに、繰り返し使われやすい。
災害が「一話完結」になる危うさ
さらに気になるのは、一つの被災地を濃密に取り上げながら、次の災害が起きると報道の焦点が急速にそちらへ移ってしまうことである。今日は東北の水害、数日後には九州の豪雨、その次には別の地域の土砂災害という具合に、画面の中の「被災地」は次々と入れ替わる。
それぞれの報道は丁寧である。しかし視聴者から見ると、一つ一つの災害が強い映像と被災者の物語を伴った「一話完結」の出来事になってしまう。その土地の人々に同情し、被害の大きさに驚き、数日後には別の土地の災害に同じように心を動かされる。こうしたことが繰り返されれば、災害報道は増えているのに、防災について考える時間軸はかえって短くなるという逆説が起こり得る。
あえて強い言葉を使えば、ここには「災害報道のエンタメ化」とでも呼びたくなる危うさがある。もちろん災害を面白おかしく扱っているという意味ではない。次々と現れる強い映像と人間の物語を視聴し、その都度感情を動かされること自体がニュースの主要な体験になってしまう、という意味である。
そのとき失われるのは、災害相互のつながりである。なぜこの季節に豪雨が多いのか。この地域では過去にどのような被害があったのか。土地利用や河川整備にどのような問題があるのか。以前の災害から何が改善され、何が改善されていないのか。来年同じ季節を迎えるまでに何を準備すべきなのか。防災とは本来、こうした時間の連続の中で考えるべきものである。
そう考えると、「二百十日」という古い言葉が意外な意味を持って見えてくる。二百十日は、一つの台風の名前でも、一つの被災地の名前でもない。「毎年このころには風雨に用心せよ」という、世代を越えて共有された時間の目印であった。「防災の日」もまた、過去の災害を現在の備えへつなぐための時間の目印である。
それらの言葉がニュースから後景に退く一方で、災害現場の映像はますます濃くなる。これは単なる言葉遣いの変化ではないのかもしれない。私たちが災害を「長い時間の中で備えるべきもの」として見るのではなく、「いま画面の向こうで起きている強烈な出来事」として見るようになっているとすれば、そこには考えるべき問題がある。
防災報道に必要なのは、被災者への共感だけではない。今日の災害を昨日の災害とつなぎ、今年の災害を来年の備えへつなぐことである。二百十日という古びた言葉がかつて果たしていたのは、案外、そのような役割だったのではないだろうか。
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