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2026.04.16

ビタ・ヘマティ氏への死刑判決

イラン政府は4月16日、2026年1月の反体制デモに関連し、女性抗議者として初めてビタ・ヘマティ氏に死刑判決を下した。夫のモハマドレザ・マジド・アスル氏や近隣住民とともにテヘラン革命裁判所で「国家安全保障の撹乱」「爆発物使用」「治安部隊への攻撃」などの罪状が認定された。処刑日はまだ公表されていないが、人権団体は執行の可能性を強く懸念している。

背景には2025年12月末に始まった経済危機がある。通貨リアルが急落しインフレが生活を圧迫した結果、テヘランのバザールストライキから全国的な反政府運動に発展した。

さらに2026年2月28日の米イスラエル共同空爆「オペレーション・エピック・フューリー」により最高指導者アリ・ハメネイ氏が死亡したことで政権の危機感は高まり、残るデモ参加者への見せしめ的弾圧が加速している。

日本国内ではこの具体的なニュースはまだほとんど報じられていない。一部海外ニュースのまとめサイトで言及はあるものの、独自取材による本格報道は見当たらない状況である。

過去の事例とホメイニ体制

女性の反政府活動家に対する死刑判決は今回が初めてではない。2022年の「女性、生命、自由」運動ではシャリーフェ・モハマディ氏やパクシャン・アジジ氏など複数の女性活動家が「神に対する敵対」の罪で死刑を宣告された。

今回のビタ・ヘマティ氏のケースは、2026年1月の特定デモに直接結びついた女性初の事例として位置づけられている。

イランにおける女性への死刑に際して、特に注目されるのは処刑前の性的暴力である。1980年代のホメイニ体制下で、処女の女性政治犯を処刑する前に看守と一時結婚(シゲ)させ、性的関係を持たせる行為が組織的に行われたと複数の人権報告書が指摘している。正義のためのイラン(Justice for Iran)の調査では200人以上の元囚人の証言が集められ、元エヴィン刑務所長の告白も加わって事実として文書化されている。

この慣行の根拠は「処女のまま死んだ女性は天国に行く」という歪んだ宗教解釈であり、当時の副最高指導者アヤトラ・モンタゼリが強く反対したにもかかわらず無視された。ホメイニ体制は革命後の権力維持のためにシャリーアを政治的に拡大解釈し、1988年の大量処刑期に数千人の政治犯を処刑した歴史を持つ。こうした過去の事例は、現在のイラン政権が女性の反政府活動を特に脅威とみなす構造を形成している。

他のイスラムや主流シーア派では見られない

イランでみられる女性反政府活動家への死刑の頻度と規模は、イスラム教全体やシーア派の主流とは大きく異なる。

2025年だけでイランは1639人の死刑を執行し、世界第2位の数字を記録した。特に政治犯や抗議参加者への適用が突出している。他のイスラム多数派国では状況が異なる。

サウジアラビアでは死刑執行自体は多いものの、主に殺人や麻薬犯罪に限られ、平和的なデモ参加者への政治的死刑は稀である。アフガニスタンのタリバン政権は女性活動家への抑圧が厳しいが、正式な裁判を通じた大量死刑ではなく、法的手続き外の暴力が中心となっている。

イラクやバーレーンなどシーア派が有力な国でも、政治犯女性への死刑判決はイランほど体系的ではない。イラン特有の要因は1979年革命後に確立した法学者統治(ヴェラーヤテ・ファキーフ)である。この理論は伝統的なシーア派の教えでは論争的であり、多くの高位宗教学者から批判を受けてきた。元副最高指導者モンタゼリのように内部からも異議が唱えられており、政権の行為はシーア派の「主流」ではなく、革命イデオロギーがもたらした例外的な運用であると言える。

せめて主流イスラム的であってほしい

イラン政権が女性抗議者への死刑を政治的道具として用いる現状は、イスラム法の伝統的解釈から大きく逸脱している。

シャリーアでは「神に対する敵対」の罪は存在するものの、多くのイスラム法学者は平和的な表現活動やデモ参加をその対象に含めない。

主流のシーア派コミュニティにおいても、1980年代の大量処刑や性的暴力は人道に反するとして非難されてきた。少なくとも主流イスラム的な枠組みでは、拷問や強制自白の疑いがある裁判を避け、国際人権基準に沿った公正な手続きを確保すべきである。

女性の権利運動を「体制転覆」とみなす極端な拡大解釈は、宗教の本質から離れた権力維持の手段に過ぎない。他のイスラム国やシーア派地域でみられるように、刑事犯罪に限定した死刑運用や、表現の自由を尊重する方向への移行が望ましい。こうした変化はイラン国内の宗教学者や国際社会の声によってまず、促されるべきであろう。

 

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