日本型アンダークラスという問題
「貧困」ではなく「階級」の問題である
日本社会の変化を考えるうえで、「貧困」がキーワードとして浮かび上がる。しかし、いま見えつつあるものは、「貧しい人が増えた」という量的変化とは質の異なる現象である。正規雇用を中心とする安定した就業世界の外側に、低賃金、不安定就業、結婚や子育ての困難、将来保障の薄さを特徴とする、ひとつの層が沈殿しつつある。これを「アンダークラス」として論じる議論はすでにあるが、ここでは「日本型アンダークラス」と呼びたい。なぜ「日本型」なのかは、後に述べる。
総務省の2025年平均結果では、非正規の職員・従業員は2128万人にのぼる。男性678万人、女性1450万人。もちろん非正規雇用のすべてが同じではない。家計補助的就労を主とする層を除いてもなお、日本社会の底部に、雇用上の不安定を共通条件とする大きな集団が存在する。この問題に取り組む橋本健二氏はこの層を約890万人、就業人口の13.9%と推計している。平均年収は216万円で、正規雇用層の486万円を大きく下回る。これは一時的な困窮ではない。階層としての固定化を疑わせる規模と持続性を持っている。
格差は市場で生まれ、十分に補正されていない
この層の拡大は、単なる景気循環の帰結ではない。厚生労働省の令和5年所得再分配調査によれば、当初所得のジニ係数は0.5855と過去最大を記録した。再分配後でも0.3825であり、1999年以来ほぼ横ばいのまま高止まりしている。しかも改善度34.7%のうち、社会保障による改善が31.6%を占め、税による改善はわずか4.4%にとどまる。日本では、市場で生じた格差を税で大きくならす構造になっていない。
OECDも繰り返しこの点を指摘してきた。2024年の対日経済審査は、若年層や女性の非正規雇用比率の高さが家族形成を遅延させ、男女間賃金格差を拡大させていると述べた。日本の男女賃金格差は22%で、OECD加盟36カ国中35位である。労働市場の二重構造を解消することが優先課題だ、とOECDは何年も前から言い続けているが、事態は改善していない。
ここで重要なのは、この問題が「低所得者がいる」という事実だけでは語り尽くせないということである。日本型アンダークラスの核心は、労働市場の周縁に押し込められたまま、生活の再生産そのものが困難になっている点にある。
OECDのワーキングペーパーは、25~29歳および30~34歳の年齢層で、正規雇用者は非正規雇用者に比べて婚姻率がおよそ2.5倍高いことを示している。雇用の不安定さが、そのまま家族形成の不安定さに直結している。ここにあるのは、所得格差だけではない。人生設計の格差である。50歳時点で出産経験のない女性の割合は、2005年の11%から2020年には27%へと急上昇し、OECD諸国で最も高い。出生率は1.20にまで低下した。これらの数字は、アンダークラスの問題が個人の不運ではなく、社会の再生産機能そのものに関わる構造的な問題であることを示唆している。
米国型でも欧州型でもない――日本型の輪郭
国際比較をすると、日本型アンダークラスの固有性がよく見える。
米国で「アンダークラス」という概念が強い意味を帯びたのは、都市部の貧困が人種的分離と空間的に重なり合い、犯罪や家族崩壊と結びついて可視化されたからである。シカゴのサウスサイド、デトロイトのインナーシティ。米国型アンダークラスは、特定の地区に凝縮し、目に見える形で社会の亀裂を露呈させた。
欧州では状況が異なる。低所得層の問題は存在するが、多くの国では失業扶助、住宅支援、職業訓練、家族給付といったセーフティネットがより厚く張られている。フランスのバンリューのように移民の集住と社会的排除が結びつく例はあるが、それでも雇用保険や職業訓練への公的支出は日本とは比較にならない。ドイツの「ミニジョブ」や英国のゼロ時間契約のような不安定就業は拡大しているが、それを補正する再分配の規模が違う。欧州型の問題は「排除」と「不安定就業」の間で揺れているが、底が抜けるのを防ぐ仕組みは曲がりなりにも機能している。
日本はそのどちらでもない。米国のように貧困が特定の地区に極端に凝縮しているわけではない。だから暴動も起きないし、テレビカメラが向かう先もない。かといって欧州ほど再分配と雇用移行支援が強くもない。OECDの統計で見れば、日本の最低賃金は中位賃金比で加盟30カ国中5番目に低く、再分配の効果はG7で最弱の部類に入る。
その結果、何が起きたか。都市暴動でも黄色いベスト運動でもなく、静かで見えにくい分断が広がった。誰も声を上げないまま、890万人が社会の底部に沈殿した。これが日本型アンダークラスの特徴であり、その「見えなさ」こそが問題の深刻さを倍加させている。
雇用区分が人生の上限を決めてしまう
この意味で、日本型アンダークラスは、日本社会に固有の雇用システムが生み出した最下層だと言える。正規雇用にはいまだ長期安定、企業内訓練、年功的昇給、家族賃金の要素が残っている。リクルートワークス研究所の分析によれば、正規雇用者の年平均昇給率は4.0%であるのに対し、非正規雇用者は2.2%にとどまる。OJTの経験率も、仕事のレベルアップの機会も、正規と非正規の間には明確な断層がある。内部に強い保護を持つ中心と、外部化された周辺が、同じ企業社会の内部に併存している。
問題は、この周辺がもはや一時的な待機場所ではなくなっていることだ。かつて非正規雇用は、正規への「入口」か、あるいは主婦の補助的就労と位置づけられていた。しかし現在、そこに長期的に滞留する人々が増えている。勤続しても昇給は鈍く、訓練の機会は乏しく、正規への移動障壁は2018年以降むしろ高まっている。雇用区分そのものが人生の上限を決めてしまう構造が出来上がりつつある。努力や能力の不足よりも先に、どの雇用区分に入ったかが、その後の軌道を規定する。
構造問題として向き合うために
新しい最下層階級をめぐる議論は、日本社会における怨嗟を煽るためのものであってはならないだろう。むしろ逆である。分断を感情の言葉で語るのではなく、雇用、再分配、家族形成、老後保障を貫く構造問題として捉え直すことが必要だ。
日本社会が直面しているのは、「貧しい人が増えた」という量の問題だけではない。働いても中流に届かず、家族も資産も持ちにくく、老後の見通しも立てにくい人々が、社会の下部にひとつの層として沈殿しつつあるという、階級構造の変化そのものである。それは米国のように目に見える暴力として噴出するのではなく、欧州のように黄色いベストをまとった抗議として街路に現れるのでもなく、ただ静かに、確実に、社会の再生産能力を蝕んでいる。
| 固定リンク




