ディック・チェイニー、「微妙な男」
2025年11月3日、84年の生涯に幕
2025年11月3日(月曜日・米国時間)夕刻、ディック・チェイニー元副大統領がワイオミング州ジャクソンの自宅で息を引き取った。享年84。妻リン、娘リズとメアリー、その他の家族に見守られながらの最期だった。翌4日朝、家族は公式声明を発表。「ディック・チェイニーは偉大で善良な男であり、子供たちや孫たちに国を愛し、勇気、名誉、愛、優しさ、そしてフライフィッシングの人生を教えてくれた」と記した。
死因は肺炎の合併症と、長年にわたる心臓・血管疾患の複合である。チェイニーは37歳から5度の心筋梗塞を経験し、バイパス、ステント、植え込み型除細動器(ICD)、左心室補助装置(LVAD)、そして2012年の心臓移植まで、あらゆる先進医療の恩恵を受けてきた。移植後も定期フォローアップを続けていたが、加齢と蓄積された負担が肺炎をきっかけに決定的となった。
彼は、要するに、私たちの時代そのものだった。冷戦終結から9・11、イラク戦争、トランプの台頭まで、アメリカが覇権を握り、揺らぎ、変質する全過程に居合わせた。単なる政治家ではない。アメリカの「力の論理」を体現し、同時にその限界を露呈させた存在である。だからこそ、長い追悼が必要だ。彼を単純な善悪で裁くことは、時代そのものを矮小化する行為にほかならない。
きかん坊、寒村から権力中枢へ
チェイニーは、1941年1月30日、ネブラスカ州リンカーンに生まれた。父は土木技師、母は主婦である。14歳でワイオミング州キャスパーに移り、厳しい自然の中で育つ。イェール大学に入学するが、学業に馴染めず中退した。酒と喧嘩に明け暮れる日々を送ったのである。やがて夜間学校で政治学の学位を取得し、1969年にニクソン政権入り。ドナルド・ラムズフェルドの補佐官として頭角を現す。
1975年、34歳の若さでフォード政権の首席補佐官に抜擢される。史上最年少である。1978年にはワイオミング州選出の下院議員に当選し、6期務める。1988年、初の心筋梗塞を乗り越え、翌1989年、ブッシュ(父)政権の国防長官に就任した。湾岸戦争を指揮し、多国籍軍を率いてクウェートを解放する。作戦はわずか100時間で終了。軍事史に残る完勝である。
そして、2001年、ブッシュ(子)政権の副大統領に就任し、9・11テロ直後から「テロとの戦い」を主導する。イラク侵攻(2003年)を推進し、アフガニスタン戦争を拡大する。2009年に退任後も、回顧録『In My Time』(2011年)を出版し、自身の政策を正当化する。
そして、晩年はトランプ批判に終始し、2020年大統領選ではバイデンを支持した。2022年には娘リズの反トランプ広告に出演し、保守派から「裏切り者」の烙印を押される。いいじゃないか。
心臓と闘い続けた政治生命
チェイニーの政治キャリアは、心臓病との闘いの歴史と不可分である。1978年、37歳で初の心筋梗塞を発症。選挙運動中に胸痛に襲われ、チェイロ大学病院で診断された。喫煙歴20年(1日3パック)が主因だった。自業自得というべきか。血栓溶解薬と安静で回復し、数日で退院。政治キャリアの序盤に衝撃を与え、禁煙を決意するが、完全には成功しなかった。そういう男だ。
1988年、47歳のとき、四重バイパス手術を受ける。冠動脈が詰まり、テキサス州ベイラー大学医療センターで血管を迂回する大手術を敢行した。当時としては先進治療であり、チェイニーを救う。それも天命なのだろうか。2000年11月、59歳で副大統領候補に選ばれた直後、軽度心筋梗塞を発症した。心臓カテーテル検査で狭窄が発見され、2本のステントを挿入して血流を改善。選挙に影響せず、翌年就任する。
2001年6月、60歳。副大統領就任直後に心室頻拍のリスクが高まり、胸部に植え込み型除細動器(ICD)を埋め込む。異常時に自動でショックを与える装置である。9・11後のストレスが悪化要因とされる。2007年11月、66歳。感謝祭直前に心房細動を発症。血液希釈薬で血栓を治療し、定期検査で早期発見された。
2010年7月、69歳。退任後、心不全が悪化し、左心室補助装置(LVAD)を植え込む。バッテリー駆動の外部ポンプで「パルスなしで生きる」状態となり、感染リスクを抱えながら1日数回の交換を日常化した。チェイニーはこれを「奇跡の装置」と呼んだ。同じ病気を持つ人に希望を与えた。
が、2012年3月、71歳。コロラド州立大学病院で心臓移植を受ける。ドナーは匿名である。移植後、回復が著しく、釣りや執筆を再開。医師ジョナサン・ライナーとの共著『Heart』(2013年)で病歴を公開し、「心臓病は遺伝と生活の産物」と警告した。副大統領時代、シークレットサービスはICDのハッキング対策を講じ、9・11後のストレスが悪化要因となった。チェイニーは「赤信号が次々青に変わる幸運」と語り、医療の進歩を体現した。
ネオコンの象徴であり、「力による平和」の信奉者
チェイニーは新保守主義(ネオコン)の顔役である。アメリカの軍事力と価値観を世界に広めるべきだと信じていた。9・11後、彼は「1%ドクトリン」を提唱する。1%の確率でもテロの脅威があれば、先制攻撃すべきだという論理である。これがイラク侵攻の根拠となる。
2002年8月、チェイニーは演説で「サダム・フセインが大量破壊兵器を保有している証拠は疑う余地がない」と断言する。後にこの情報が誤りだったと判明する。国連査察官ハンス・ブリックスは「証拠は薄弱」と報告していたが、無視された。私たちの歴史である。
2003年3月、米英連合軍はバグダードを制圧。フセイン政権は崩壊するが、大量破壊兵器は発見されない。戦争は泥沼化する。死者は米兵4,400人、イラク民間人20万人以上。費用は2兆ドルを超える。だが、チェイニーは退任後も「正しかった」と主張する。イラクがテロの温床になるのを防いだのだ、と。だが、現実は逆である。ISISの台頭を招き、中東はさらに不安定化した。チェイニーが悪いんだ、そう言ってみて、それで済むなら話は単純だし、単純な話は好まれる。世の中、善人面したバカばっかりだからな。
権力の裏面、ハリバートン社とCIA
チェイニーの名を汚すもう一つの要素は、ハリバートン社との関係である。1995年から2000年までCEOを務め、退任時に3,600万ドルの退職金を得る。副大統領就任後、同社はイラク戦争で巨額の復興契約を獲得する。利益は70億ドルを超える。癒着の疑惑は拭えない。
CIAとの関係も深い。9・11後、チェイニーは「強化尋問手法」を承認したことで悪名高い。ウォーターボーディング(水責め)はその一つである。2004年、CIA監察官報告書は「効果は限定的」と結論づけるが、チェイニーは「必要だった」と擁護する。2014年、上院報告書は「拷問は情報収集に寄与せず」と断定。チェイニーは「偽物だ」と一蹴する。男だ、悲しいほどに、そして、悲しい。
家族の絆、娘たちとの「光」
しかし、チェイニーを単なる「悪役」に留めない要素がある。だから、厄介なのだ。娘たちとの関係である。次女メアリーは同性愛者である。2004年大統領選中、民主党候補ジョン・ケリーがメアリーの性的指向を政治利用するや、チェイニーは激怒した。「娘を政治の道具にするな」と。当然だろ。共和党は同性婚反対が党是だったが、彼は「家族の自由は政府が干渉すべきでない」と公言する。当然だろ。
2013年、メアリーが同性婚を発表。長女リズは「伝統的結婚を信じる」と反対を表明し、姉妹は絶縁状態になるが、父であるチェイニーは「どちらも愛している」と中立を保った。2012年、オバマ大統領が同性婚を支持すると、チェイニーは「正しい決断」とコメントした。保守派から猛反発を浴びるが、動じない。動じるわけがなかろう。父なのだ。
2021年1月6日、議事堂襲撃事件。リズはトランプ弾劾に賛成し、共和党から追放される。2022年、ワイオミング州予備選。リズは敗北確実となるが、チェイニーは広告に出演する。「リズは正しいことをしている。誇りに思う」とカメラ目線で堂々と語る。84歳の老体で、娘を守る姿に多くのアメリカ人が涙した。俺もな。
晩年、トランプへの「ファシズム」批判
チェイニーはトランプを徹底的に嫌った。2016年、「彼は共和党を破壊する」と警告すした。2020年、民主党大会で公然とバイデンを支持した。「憲法を守るためだ」と理由を述べた。そして、2024年、ハリス支持を表明した。保守の「古株」がリベラル寄りに見える皮肉である。でも、チェイニーを知るものなら、皮肉でもなんでもない。当然。
彼は「MAGAはファシズム的」と断言した。1月6日委員会で証言したリズを「英雄」と呼んだ。共和党は「チェイニー親子は裏切り者」と糾弾したが、彼は意に介さない。むしろ、党の変質を嘆く。「リンカーンやレーガンの党ではなくなった」と。
「チェイニー、ああ人間」
チェイニーはアメリカの「力の論理」を体現してきた。冷戦終結後、唯一の超大国として世界を統治する使命を信じた。その信念は湾岸戦争の勝利を生んだが、イラクの失敗で限界を露呈した。権力の行使は暴走し、民主主義のルールを歪めた。だが、それは必然でしかなく、必然を演じる人は現れる。
だが、彼は歴史の操り人形でもなかった。家族への愛は揺らぐことはなかった。娘たちの選択を尊重し、党是に逆らってまで守った。晩年のトランプ批判は、保守の良心を最後まで貫いた証でもある。心臓病との闘いは、彼の強靭さと脆さを同時に示した。
彼は英雄でも悪役でもない。光と影が交錯する「微妙な男」である。つまり、「人間」である。たまたま、アメリカの世紀を駆け抜け、その栄光と闇を一身に背負った。だから、チェイニーの死は、時代の転換点である。私たちは彼を通して、権力の誘惑と人間の弱さ、無力、失敗、悲劇、そして歴史というものの実相を学ぶ。
チェイニーよ、安らかに。
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