欧州はMS Officeから脱却する
ドイツのデジタル独立宣言
2025年10月31日、国際刑事裁判所(ICC)がMicrosoft Officeから脱却し、openDeskを採用すると発表した。すでに昨年、ドイツ連邦内務省は「openDesk v1.0」をリリースしていたが、その延長にある動向であり、欧州の公的機関が長年依存してきたMicrosoft Officeからの脱却が、現実のものとなった瞬間である。
openDeskは、オープンソースのオフィススイートとして、誰でも無料で使えるLibreOfficeの技術を基盤に、CollaboraやNextcloudと連携。文書作成、表計算、プレゼンテーションに加え、メール、チャット、ビデオ会議まで一つのクラウドプラットフォームで完結するものである。2024年10月15日から17日にかけてベルリンで開催されたSmart Country Conventionで公式に発表され、ZenDiS社が主導した3年間の開発が結実した。
なぜドイツはそこまでするのだろうか。理由は「デジタル主権」である。Microsoft Officeのファイル形式「OOXML」(.docx、.xlsx)は便利だが、Microsoft製品以外では完全に再現できない。また、クラウド版のMicrosoft 365は、ユーザーのデータをアメリカのサーバーに保存する。これらは欧州の個人情報保護法(GDPR)に抵触するリスクがある。このため、ドイツは「自国のデータは自国で管理する」と決め、2022年にZenDiS社を設立。3年間で数百万ユーロを投じ、openDeskを完成させた。
今回国際刑事裁判所がopenDeskを採用したのは、アメリカの経済制裁下でも、欧州のルールでデータを守れるツールとして評価されたためである。つまり、openDeskは単なるMicrosoft Officeの代替品ではなく、欧州が「Microsoft依存」を断ち切るモデルケースであり、そのことは、これから日本が直面する「文書ガラパゴス化」の警鐘でもある。
EUに広がるLibreOfficeの潮流
Microsoft Office脱却の動向が近年欧州に広がっている。ドイツ北端のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州では、2017年から「デジタル主権プロジェクト」を開始し、2025年末までに約3万台の公務員用PCを、Windows+Microsoft Officeから、Linux+LibreOfficeに移行する。現状、Microsoft Officeの使用は70%削減され、2024年8月からはODFが公文書の唯一の標準として義務化された。さらに州議会は「Microsoft製品は例外的な場合のみ」とする法改正まで行った。openDeskはこの実績を参考に、2026年以降に連邦省庁の10万席への展開が計画されている。
この背景にあるのは、2023年から2024年にかけての欧州データ保護監督機関(EDPS)の調査だ。Microsoft 365が「診断データ」と呼ばれる使用状況のログ(どのボタンを押したか、エラーの発生時間など)を、ユーザーの明確な同意を得ずにアメリカのサーバーに転送していることが発覚した。欧州の個人情報保護法(GDPR)は「個人データは同意なく他国に送ってはならない」と定めており、2024年3月8日の決定でEDPSは「同意取得が不十分」と判断。欧州委員会や各国政府に「Microsoft 365の使用見直し」を強く勧告した。これが「Microsoftにデータを預けるのは危険」という認識を一気に広め、各国に衝撃を与えた。
一方、LibreOfficeは2024年8月8日の最新版(v24.8)でセキュリティを大幅に強化。暗号化機能の向上や脆弱性対策を徹底し、Microsoft Officeのようなタブ付きの使いやすい画面(NotebookBar)を全アプリで標準化した。これにより、「LibreOfficeは使いづらい」というイメージを払拭し、移行のハードルを下げた。
欧州は「ODFを公文書の唯一の標準にすれば、互換性問題は根本的に解決する」と割り切った。ODFは誰でも無料で実装できる国際標準であり、MicrosoftがODF対応を進めたとしても、複雑な文書ではレイアウトが崩れる不安定さがある。欧州は「そんな互換性に頼るより、最初からODFで作ればいい」と判断し、抜本的な改革を進めていたのである。
日本の停滞と「ガラパゴス化」のリスク
日本政府の状況に目を向けてみよう。EUの動向とはあまりに対照的だ。公文書のファイル形式は、依然としてMicrosoft OfficeのOOXMLが事実上の標準である。例外的に国立公文書館は長期保存用にPDF/Aを採用しているが、これは「過去の文書を未来でも読めるようにする」ための措置にすぎない。日常業務の現用文書は、ほぼすべてMicrosoft Officeで作成されている。総務省のガイドラインでは「ODFとOOXMLの両方に対応すること」が推奨されているが、実態はMicrosoft一強であり、改善の指針は提示されていない。
他方、一部の自治体は動きを見せている。福島県会津若松市は2010年代からLibreOfficeを導入し、2025年現在、全市庁舎のPCを移行済みとした。年間数千万円のライセンス費を削減し、「市民サービスに予算を回せる」と評価されている。しかし、全国レベルでは進展がない。財務省や厚生労働省では、複雑なエクセルファイル(VBAマクロや特殊なグラフ)が大量にあり、LibreOfficeでは関数が動かない、レイアウトが崩れるといった問題が報告されている。総務省の2024年から2025年のDX推進計画に基づく推定では、自治体の9割が「互換性の懸念」を理由にLibreOffice移行を見送っている。
Microsoftとしては、Microsoft 365でODF 1.4に対応しているが、複雑な文書では表示が崩れる。日本政府文書は「1文字のズレも許されない」正確性が求められるとして、「安全策としてMicrosoftを使う」という慣習が根強い。結果、全国の自治体で毎年推定数百億円規模のライセンス費が米国に流出している。税金が海外に吸い上げられているのと同じだ。
しかも、問題は金銭だけではない。2025年10月14日、MicrosoftがOffice 2016などのサポートを終了すれば、過去の.docxファイルは開けなくなる可能性がある。欧州はODFで「永遠に開ける文書」を作っている。日本は「Microsoftが生きている間だけ開ける文書」に縛られている。これは行政の文書ガラパゴス化だ。国際標準から孤立し、将来の互換性が保証されない。
企業でも同じリスクを抱えている。VBAマクロに依存したエクセルファイルは、10年後に動かなくなるかもしれない。個人でも、家族の大事な文書(卒業アルバムのデータ、家の設計図)が開けなくなる可能性がないとは言えない。日本のオフィスソフト市場は2025年もMicrosoftが9割以上を占める。世界がODFに移行する中、日本だけがOOXMLに閉じこもる。
現状、総務省の「デジタルガバメント実行計画」では、2027年までにODFの活用を「検討」するとされているが、具体的なロードマップはない。欧州がopenDeskの波に乗り、Microsoftからの脱却を現実のものとしている今、日本は過去の慣習に縛られたままだ。このままでは、日本はデジタル文書は解読できない古代文書になるかもしれない。
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