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2025.11.15

ジョン・ミアシャイマーの視点:台湾有事における日米の役割

ジョン・ミアシャイマーの攻撃的現実主義

国際政治学者のジョン・ミアシャイマーは、現代国際政治学における最も影響力のある現実主義思想家の一人である。現下、台湾海峡をめぐる地政学的な緊張が日増しに高まる中、彼の理論的視座、特に「攻撃的現実主義」と称される彼の理論は、米中対立の力学と、それに伴う日本と米国の役割を理解するための極めて重要な分析ツールとなるだろう。彼の構造的な分析は、国家間の行動を善悪の二元論ではなく、権力と生存をめぐる普遍的な競争として捉えることで、今日の国際情勢を鋭く解き明かす一助ともなりうる。ここでは、ミアシャイマーの理論を分析の基軸としつつ、日米両国の最新の政策文書や戦略的転換を具体的に参照しながら、この構造的な対立の核心と、その中で最も危険な引火点とされる台湾をめぐる日米の役割をまとめてみたい。

ミアシャイマーが解説する現実主義理論の核心は、次の3つの基本原則に基づいている。

  1. 勢力均衡(バランス・オブ・パワー)への関心:国家、特に大国が主に関心を払うのは、他国との相対的なパワーバランスである。国際システムにおいて自国が弱い立場にあれば、他国に利用されるリスクが高まるため、国家は常に自らの力を最大化しようと努める。
  2. 生存の追求:国家にとって最も根本的な関心事は「生存」である。国際システムは本質的にアナーキー(無政府状態)であり、自国の安全を保障してくれる絶対的な権威は存在しない。そのため、各国は自らの生存を確実にするため、最強の国家となることを目指す。
  3. 国家を「ブラックボックス」として扱う:現実主義は、国家の国内政治体制(民主主義か独裁主義かなど)を問わない。すべての国家は、その内部構造に関わらず、生存のために権力を追求する合理的な主体、いわば「ブラックボックス」として扱われる。西側諸国で一般的な「民主主義国家は善、権威主義国家は悪」という見方とは異なり、現実主義はすべての国家が同じ動機で行動すると考える。

この理論的枠組みは、現代における最も深刻な地政学的課題である米中対立を分析する上で、極めて有効な視点を提供することになる。両国が追求する国益は、それぞれの立場から見れば完全に合理的でありながら、なぜこれが必然的に厳しい安全保障上の競争へと発展するのか、この構造的対立の力学をさらに深く掘り下げる必要がある。

米中対立の構造:大国間政治の悲劇

ジョン・ミアシャイマーの分析によれば、台湾問題は単独で存在する課題ではなく、米国と中国という二大国間のより大きな構造的対立が顕在化したものに他ならない。つまり、この対立は、特定の政策や指導者の意図によって生じたものではなく、国際システムの構造そのものから生まれる、いわば「大国間政治の悲劇」である。この構造的現実を理解することが、台湾をめぐるリスクを正しく評価する上での第一歩となる。

冷戦終結後、米国は唯一の超大国として「一極集中(ユニポーラ)」の時代を迎え、その外交政策の柱として「リベラル・ヘゲモニー(自由主義的覇権)」を追求した。その対中政策が「関与政策(エンゲージメント)」である。これは、中国の経済成長を支援し、世界貿易機関(WTO)などの国際機関に組み込むことで、中国が豊かになり、最終的には米国のような自由民主主義国家へと移行するという楽観的な期待に基づいていた。

しかし、ミアシャイマーの現実主義の視点からは、この政策は「クレイジー」だと批判される。なぜなら、米国の支援によって中国が強大化すれば、いずれアジアにおける米国の覇権に挑戦し、深刻な安全保障上の脅威となることは避けられないと予測していたからである。

実際、2015年頃から、その予測は現実のものとなった。中国が経済的にも軍事的にも巨大な力を持つに至り、ようやく米国は関与政策を放棄し、代わりに現実主義的な「封じ込め政策」へと大きく舵を切った。この転換は、オバマ政権の「アジアへのピボット」に始まり、トランプ政権が太平洋軍(PACOM)をインド太平洋軍(INDOPACOM)へと改称して打ち出した「インド太平洋戦略」を経て、バイデン政権にも引き継がれた。
これは、特定の政権の判断というよりも、中国の台頭という国際構造の変化に対する米国の必然的な反応であった。

この対立構造において、米国と中国はそれぞれ自国の視点から見て合理的な戦略を追求している。

  • 中国の目標:アジアにおける地域覇権を確立し、他国の干渉を許さない独自の「中国的モンロー主義」を築くこと。これは、かつて米国が西半球で覇権を確立したのと同じ論理であり、国家の生存と安全を最大化するための合理的な行動である。
  • 米国の目標:中国による地域覇権の確立を阻止すること。米国とその同盟国にとって、中国がアジアを支配することは、自国の安全保障と繁栄に対する直接的な脅威となる。そのため、日米豪印による「クアッド」や米英豪による「AUKUS」といった同盟の枠組みを強化し、全力でこれを阻止しようとしている。

このように、両国がそれぞれ合理的な国益を追求した結果、必然的に激しく、避けられない安全保障上の競争が生まれることとなった。この構造的対立こそが、台湾という具体的な火種を理解するための大前提となる。

台湾:最も危険な引火点

米中間の激しい安全保障競争において、ジョン・ミアシャイマーは、台湾を武力紛争に発展しうる「最も危険な引火点」と位置づけている。彼は、南シナ海をめぐる領有権問題なども米中対立の一側面であると認識しつつも、台湾問題こそが両国を戦争へと駆り立てる最大のリスクをはらんでいると警告する。

その理由は、台湾問題が両国の核心的な国益と深く結びついているからである。ミアシャイマーの現実主義理論によれば、国家は自らの生存や体制の維持といった根源的な目標が脅かされていると認識した場合、軍事的に成功する確率が低いと分かっていても、極めてリスクの高い戦略を選択しうる。

彼はその歴史的な例として、第二次世界大戦における日本の真珠湾攻撃を挙げる。当時の日本指導部は、米国との戦争に勝つ見込みが極めて低いことを認識しつつも、米国の石油禁輸措置によって国家の存亡が危機に瀕していると判断し、「万に一つの勝ち筋」に賭けてでも攻撃に踏み切らざるを得なかった。

この論理を現代の台湾情勢に当てはめると、極めて危険なシナリオが浮かび上がることになる。特に、ミアシャイマーが懸念するのは、台湾が米国の軍事的な保護を確信して独立を宣言し、それによって中国が国内の政治的正統性を失い、国家の統一という核心的利益が脅かされる状況である。

これによってもたらされる結果だが、中国指導部は、たとえ軍事的なリスクやコストが極めて高く、そのうえ敗北する可能性があったとしても、台湾への武力侵攻に踏み切らざるを得ない状況に追い込まれることになる。

この中国という国家理念の存亡が試されるシナリオでは、台湾、米国、中国の三者が、それぞれ自らの政治的計算に基づいて行動した結果として、意図せずして破滅的な戦争へと突き進んでしまう可能性がある。

加えて、その前段階的な問題でもあるが、尖閣諸島(中国名:釣魚台)をめぐる問題も同様に、中国に危険な決断を促しかねない火種であり、台湾沿岸から200キロメートルも離れていない地理的近接性は、この二つの問題の連動性をさらに高めている。

このように、台湾問題は、単なる軍事バランスの問題ではなく、各国の政治的認識が複雑に絡み合う、極めて不安定で危険な火種なのである。このリスクを管理する上で、米国と日本という二つの主要な関係国がどのような役割を担うのかが重要な論点となる。

米国の役割:現状維持と中国封じ込め

ジョン・ミアシャイマーの現実主義的視点からは、今日の米国の対中・対台湾戦略の目標は明確である。それは、中国の地域覇権確立を阻止し、台湾海峡における現状を維持することにある。この目標は、イデオロギーや価値観ではなく、純粋に米国の国益と勢力均衡の観点から導き出されたものである。

手段として、バイデン政権は、レトリックは自由主義的(民主主義・人権)であるものの、実際の行動は「現実政治(リアルポリティーク)」と「封じ込め」に徹してきた。具体例として、日米豪印による「クアッド」(Quad)や米英豪による「AUKUS」などの同盟枠組みの強化が挙げられる(The White House, 2021; Australian Government, 2021)。軍事面では、台湾への水陸両用作戦が極めて困難であることを認識しつつ、米国とその同盟国は中国の能力に対抗するため「多大な努力(great lengths)を払う」とミアシャイマーは述べる。なお、これは日本を名指しで強調したものではなく、同盟国全体への一般的な言及である。

しかし、ミアシャイマーは、やむを得ない米国の対中政策転換ではありながらも、強い警告を発している。米国は、台湾や尖閣諸島をめぐって中国を不必要に追い詰め、紛争の引き金となりかねない行動を避けるべきであり、そのため、「極めて慎重」でなければならないと言うのだ。もし中国が「軍事行動以外に選択肢がない」と感じる状況に追い込まれれば、真珠湾攻撃と同様、リスクを度外視した破滅的な決断を促しかねない。

日本の役割:米国の主要同盟国としての関与

起こりうる台湾有事を想定した米国の対中封じ込め戦略についての分析で、ミアシャイマーは、日本を不可欠かつ極めて重要な役割を担う主要同盟国として位置づけている。東アジアの地政学的な要衝に位置する日本は、米国の戦略を支える基盤であり、その関与なくして中国への効果的な抑止は成り立たない。

ミアシャイマーは、特に台湾をめぐるシナリオにおいて、米国と共に中国に対抗するための軍事能力を構築するために「多大な努力(great lengths)を払う」主要なパートナーとして、同盟国全体を挙げている。その中でも、日本は地理的・軍事的に決定的な重要性を持っている。

この「多大な努力」は、単なる言葉ではなく、日本の具体的な政策転換に裏打ちされているものである。2022年12月に閣議決定された日本の新たな国家安全保障戦略(NSS)は、第二次世界大戦後で最も野心的な安全保障計画とされ、中国を「これまでにない最大の戦略的な挑戦」と位置づけ、ロシアや北朝鮮とは異なる次元の脅威として扱っている(内閣府, 2022)。

この戦略文書は、米国との「完全な連携」を謳い、防衛費の大幅な増額を約束するだけでなく、新たな同盟関係の模索にも言及している。インド、オーストラリア、韓国、さらには英国やEUといった、価値観を共有する国々との安全保障協力を積極的に推進しており、その具体例として、2023年1月に英国と締結した、自衛隊と英国軍の相互派遣を可能にする歴史的な防衛協定が挙げられる。

さらに、台湾の安全保障は日本の国益と直接的に結びついている点も重要である。日本の安全保障論では、台湾は日本のシーレーン(海上交通路)を防衛し、中国の軍事的圧力を緩和する重要な地政学的要素として極めて重要視されている。また、尖閣諸島(中国名:釣魚台)は台湾沿岸からわずか約110~170kmの距離に位置し、この地理的近接性は、台湾有事が日本の領土保全に直結する可能性を示唆している。

結論:避けられない安全保障競争の悲劇

ジョン・ミアシャイマーの現実主義的なレンズを通して台湾情勢を分析すると、そこには一つの冷徹な結論が浮かび上がる。

台湾をめぐる緊張は、特定の指導者の過ちやイデオロギーの対立によって生じたものではなく、国際システムの構造そのものから生まれる、避けられない安全保障競争の悲劇的な帰結である。

彼の視点に立てば、この競争に関わる全ての主要な関係国、すなわち覇権の維持を目指す米国、地域覇権を追求する中国、そして米国の主要な同盟国として自国の安全を確保しようとする日本は、それぞれが自国の生存と国益という観点から、完全に合理的で理にかなった戦略を追求している。中国がアジアで独自のモンロー主義を確立しようとするのも、米国と日本がそれを阻止しようとするのも、それぞれの立場から見れば必然的な行動なのである。

ここにこそ、ミアシャイマーが「大国間政治の悲劇(the tragedy of great power politics)」と呼ぶものの本質がある。悪意や誤算がなくとも、合理的な国家が、それぞれ自らの安全を追求するだけで、必然的に他国との間に深刻な不信と恐怖を生み出し、激しく危険な競争へと駆り立てられてしまうのである。そしてその競争は、台湾という最も危険な引火点をめぐって、常に戦争という深刻なリスクをはらみ続けることになる。

 

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2025.11.14

ナブ(NABU)がゼレンスキー政権を抉る

ナブ(NABU)の最新動向と国際勢力の影

ウクライナの国家反汚職局(ナブ: NABU)は、2025年11月に入り、戦時下とは思えぬほどの活発な捜査を展開している。11月10日、ナブと専門反汚職検察局(サポ: SAPO)は、エネルギー大手エネルゴアトムを舞台とした大規模な汚職スキームを暴露した。この「ミダス作戦」と名付けられた捜査は、15ヶ月間にわたる盗聴と70件以上の家宅捜索を基盤とし、1億ドル超のマネーロンダリングを暴き出した。容疑者は7人で、うち5人が逮捕された。元エネルギー大臣スヴィトラナ・フリンシュク、現司法大臣ヘルマン・ハルシェンコ、元副首相オレクサンドル・チェルニショフらが大物が名を連ねる。

彼らは契約業者から10~15%のキックバックを脅しで徴収し、資金をキエフからアトランタ、モスクワ経由で海外へ洗浄していた。ロシア系ネットワーク、すなわちロシア上院議員アンドリー・デルカチの関係者が絡む点が、捜査を複雑化させている。押収された現金は400万ドルを超え、録音証拠は1000時間以上に及ぶ。

これらの容疑者の中には、ゼレンスキー大統領の旧友でTV制作会社「クヴァルタル95」の共同オーナー、ティムール・ミンディチの名も浮上する。彼は捜索直前に国外逃亡し、イスラエルへ向かったと見られる。ミンディチのコードネーム「カルソン」が録音で頻出する中、ゼレンスキーの豪邸建設資金に彼の闇資金が流れた疑いが指摘されている。

この動向だが、単なる国内の反汚職キャンペーンではないだろう。トランプ政権の影が濃く、FBIの直接介入がそれを裏付けている。11月10日、FBI監督官がキエフに到着し、ナブの捜査調整を主導した。トランプ政権は、就任以来、ウクライナを「金食い虫」と批判し、援助凍結を交渉カードにしている。

2019年の弾劾劇でゼレンスキーを「汚職調査」に巻き込んだトランプは、今、ナブをレバレッジに「迅速終戦」を迫っている。

FBIの情報共有協定は2023年に強化されたが、トランプ再選後、技術的な中断があったものの、11月の再開が象徴的である。保守系メディアザ・コンサバティブ・ツリーハウスは、これを「トランプの支援でナブがゼレンスキー側近を次々逮捕」と分析している。トランプの側近ルビオ国務長官候補はG7でウクライナ汚職を強調し、マガ(MAGA)派は「汚職で金が消える」と議会で攻撃を強めている。こうした動きは、ゼレンスキーを「腐敗の象徴」に貶め、ドンバス譲渡を含むプーチン寄りの和平を強いる戦略と見られる。

他方、EUの関わりは、表向き支持的だが、実質的にゼレンスキー更迭を後押しする形だ。EUはナブをEU加盟プロセス(司法・汚職対策章)の鍵と位置づけ、設立時から資金とトレーニングを提供してきた。

11月のエネルゴアトム事件に対し、EU報道官パウラ・ピーニョは「これらの捜査は機関が汚職と闘う証明」と称賛した。カヤ・カラス外相も「非常に遺憾だが、キエフは真剣に扱うべき」としつつ、ナブの役割を肯定する。ゼレンスキー政権が推進した、7月のナブ弱体化法案では、EUが17億ユーロの援助を一時凍結し、拡大担当委員マルタ・コスが「深刻な後退」と非難した。この圧力でゼレンスキーはわずか9日で撤回を余儀なくされた。

11月現在、EUはナブに追加予算の30%増を約束し、捜査の独立性を盾にゼレンスキーへのプレッシャーを強めている。政治紙ポリティコは「汚職がEU資金を難しくする」と報じ、ハンガリーのシジァルトー外相は「汚職根絶が援助継続の条件」と攻撃を加えている。

EUの「条件付き支援」は、ゼレンスキー失脚の布石であり、トランプの腐敗カードを共有しつつ、欧州主導の和平を画策するものと見られる。こうした国際的な包囲網が、ナブの牙を政権中枢に食い込ませているのである。

ナブの正体と歴史

ナブはウクライナの国家反汚職局の略称であり、高官レベルの汚職を専門に捜査する独立機関である。設立は2015年で、正式名称はウクライナ国家反汚職局である。目的は閣僚、議員、判事などの上層部に対する盗聴、家宅捜索、逮捕権限の行使である。政府から独立し、局長は国際専門家パネルが選出する仕組みで、欧米の資金(USAID、EU、英国、カナダ)が基盤を支える。連携先はサポとFBIで、資金源はウクライナ政府予算ではなく、西側の拠出が主だ。これにより、ナブは「汚職ハンター」として機能し、通常の警察や検察では手を出せない領域をカバーする。
歴史を遡れば、ナブの誕生は2014年のマイダン革命に遡る。親ロシアのヤヌコーヴィチ政権崩壊後、EU加盟交渉が始まり、「汚職撲滅」が最重要条件となった。ウクライナは世界汚職認識指数で常時100位前後を低迷し、オリガルヒの政治支配と旧ソ連の賄賂文化が根深かった。このため、表向き、国内改革だけでは不十分と判断した欧米は、IMF融資とEUビザ自由化の条件としてナブを強制的に設置した。経緯としては、2014年10月、ヴェルホヴナ・ラーダが設立法を可決し、2015年4月、ポロシェンコ大統領が署名し、初代局長アルテーム・シトニクが任命された。シトニクは国際公募から選ばれ、FBIとの情報共有協定を結んだ。

当初はは、予想されたことだが苦難の連続だった。局長選出が1年半遅れ、検察総長の妨害が相次いだ。2016年、オデッサの税関長逮捕で最初の成果を上げたが、2019年のポロシェンコ時代に司法の介入が増え、機能不全に陥った。

ゼレンスキー就任後、2020年に高反汚職裁判所の設立で復調したが、戦争勃発(2022年)で「緊急事態」扱いとなり、これを名目に捜査が停滞した。2023年、セメン・クリヴォノスが新局長に就任し、復興した。

2025年上半期は370件の新捜査、115人の容疑者(副首相や国防高官含む)、62人の有罪判決を記録した。これに対抗したゼレンスキー政権は、7月の弱体化法案を出し、ナブは危機に直面した。この法案はナブの捜査を検察総長の再割り当て可能とし、独立性を剥奪するものだった。ゼレンスキーは署名した。だが、数千人の市民デモとEU・米の非難で4日後に撤回に至る(この運動はEU指導かもしれない)。

かくして、ナブは新法案で独立を回復したが、この一件は、ナブがいわば「外圧の首輪」として設計された本質を露呈した。欧米はナブを「民主主義の剣」と位置づけ、IMFのEFF融資条件に含め、EUの拡大報告書で進展の指標とする。2025年の活動は前年比1.5倍の経済効果(47億フリヴニャ回収)を生み、制度の定着を示す。しかし、SBUの政権寄り干渉が残る中、ナブは欧米の「リモコン付き」機関として、ウクライナの構造的汚職を制御する役割から、実質ゼレンスキー政権の命運の左右を握っている。

ゼレンスキー失脚への道筋

ナブの牙は、ゼレンスキー大統領の失脚を合理的に予感させる。エネルゴアトム事件は、単なるエネルギー汚職ではなく、政権中枢の腐敗ネットワークを直撃する。ミンディチの逃亡と録音証拠は、ゼレンスキーの「知らなかった」を許さず、豪邸建設やフラミンゴミサイル詐欺への資金流入を疑わせる。

そもそも、7月のゼレンスキー政権による、ナブ弱体化法案は、この捜査を封じ込めようとした先手攻撃だったが、失敗に終わった。デモとEUの援助凍結がゼレンスキーを屈服させ、独立回復を招いたが、この逆転は、政権の信頼を決定的に損ない、支持率を14%まで低下させた。世論調査では71%が「戦争後汚職増加」と回答し、コロモイスキーの「ゼレンスキーの終わり」発言が野党を煽る。

振り返ると、トランプ政権による「腐敗排除カード」が、ゼレンスキー失脚の加速器となるだろう。FBIのキエフ到着時点で、ゼレンスキーは「ルーザー」と貶められ、援助停止を脅されていた。EUとしても「厳しい愛」でゼレンスキー政権を追及し、ナブを更迭ツールに使うことになる。

これには、ゼレンスキーの賞味期限もある。ザルジニー元総司令官の支持率60%超に対し、ゼレンスキーは英雄像を失いつつある。議会での政府辞任署名集めが進み、2026年選挙でザルジニー出馬の可能性が高い。

ナブが防衛省の汚職を調べるうちに、ゼレンスキー本人にまで疑惑が及び、国家反逆罪レベルの大罪に発展する可能性がある。ウクライナ保安庁(SBU)が捜査を邪魔しようとしても、FBIの徹底追及とEUの監視がそれを阻止するだろう。ゼレンスキーの失脚は自主辞任か議会不信任の形で訪れ、UK亡命のシナリオすら現実味を帯びる。ゼレンスキーは反汚職の旗手として権力を握ったが、ナブの鏡に映った自らの影が、最後に政権の墓穴を掘ることなるだろう。

ナブの未来とウクライナの行方

ナブの捜査は、ウクライナ防衛省への拡大を予感させる。11月13日のポリティコ報道では、武器調達の水増し価格が標的となり、ウメロフ国防相の影響力が問われる。フラミンゴミサイル詐欺の「エフエルエー・ミンディチ詐欺」として、ミンディチの防衛セクター関与が次弾である。これにより、ゼレンスキー政権は崩壊の瀬戸際を迎え、2026年春に支持率20%割れで自主辞任か議会不信任が現実化する。

その後は、ザルジニーの後継就任が最有力で、EUは彼を「クリーンな軍人」として支援し、加盟プロセスを加速させるとの見通しがある。

トランプの和平圧力は、ドンバス譲渡を条件に援助を再開するが、EUのセキュリティ保証がそれを緩和するだろう。

一連の流れに対して、ウクライナ市民の不快は頂点に達している。デモが再燃し、ナブの成果が「自己浄化」の象徴として機能するが、一種、ガス抜きのようでもある。

他方、依然として、ロシアのプロパガンダは激化するだろうが、FBIのロシアマネー追及がハイブリッド戦を逆手に取り、2026年秋の選挙でザルジニー勝利が予想され、EU加盟は2030年目標に近づく。かくして、ウクライナ援助は条件付きで継続し、冬の電力危機を機に復興が本格化するとなれば、上出来の部類だろう。

ナブは独立を維持し、司法改革の要石となるが、それでもSBUの抵抗が残る。全体として、ウクライナは「敗北」ではなく「屈服後の再生」というナラティブを辿り、トランプのナラティブが、おそらくプーチンにも共有される中、EUとしても「欧州主導和平」のナラティブとなる。実態は変わらないが、真相として語られるナラティブは多様である。ただ、どのナラティブもかつてのそれとは大きく変わる。

 

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2025.11.13

中国共産党の悲願と台湾統一の虚構

中国共産党にとって最大の悲願は台湾統一である。その理由は単純な領土的野心にあるのではなく、台湾が国民党の亡命政権である点に根ざしている。1949年の国共内戦後、国民党は大陸から台湾へ敗走し、以降「中華民国」として存続してきた。法的には中華民国は中国全土の正統政府であると主張し、共産党が支配する中華人民共和国はその対極に位置する。この二つの政権は互いに相手を「匪賊」「偽政権」と呼び、自己の正統性を相手の否定によって支えてきた。共産党にとって台湾は「分裂国家の象徴」ではなく、「自らの正統性を脅かす鏡像」そのものなのである。つまり、統一とは、相手の存在を消滅させることで初めて自己の絶対性を証明する儀式に他ならない。この構造が、台湾問題を単なる地政学的争点から、共産党の存亡を賭けたイデオロギー闘争へと昇華させている。

李登輝勝利がもたらした歴史的転換

この対立の歴史を転換させたのは、1996年の李登輝総統選挙である。これは、中国にとって決定的な敗北となった。当時、台湾は初めての直接総統選挙を実施する段階にあり、中国はこれを阻止すべく軍事的圧力を最大限に発動した。1995年から1996年にかけて、台湾海峡危機と呼ばれる事態が発生し、中国は台湾近海にミサイルを乱射し、戦艦を展開して実質的な封鎖状態を作り出した。演習名目とはいえ、ミサイルは台湾の主要港湾近くに着弾し、国際社会に衝撃を与えた。しかし李登輝は動じなかった。彼はミサイルなど屁でもないとし、選挙戦を続行して圧倒的勝利を収めた。

この勝利は単なる選挙の結果ではない。人類史に残る転換点である。なぜなら、それまで両岸を縛っていた「国民党対共産党」という虚構の対立構造が、台湾市民の手によって終焉したからである。国民党は大陸時代の権威主義的体質を脱却できず、台湾化(本土化)を進める李登輝に批判を集中していた。しかし市民は李登輝を選び、国民党を「過去の遺物」と位置づけた。中国共産党が自らの手で終わらせなければならなかった相手を、台湾の民主主義が代行して葬ったのである。この瞬間、そして中国共産党は「中国を支配する唯一の権力構造」から「ただの一政党」へと転落した。国際法上の中華民国は存続するが、実態としては台湾島内の政権に過ぎなくなった。共産党の「一つの中国」原則は、台湾市民の選択によって、実は内部から空洞化されたのである。

ウクライナ戦争が変えた力学

現下の強行な中国の対応だが、これは20年をかけたバックラッシュである。戦後、中国は台湾有事で一度も勝てなかった。冷戦期から21世紀初頭にかけて、米国の軍事優位と台湾海峡の地理的障壁が、中国の野望を封じ込めてきた。しかし近年、勝算が見えてきた。

その背景には2022年以降のウクライナ戦争がある。米国はウクライナ支援に巨額の資金と兵器を投入した。2025年時点で、米国は約2000億ドル以上の支援を約束し、HIMARSやパトリオットミサイル、ATACMSなど先端兵器を提供している。しかしウクライナは、そもそも米国の核心的利益ではない。欧州の安全保障は重要だが、直接の国益ではない。結果、米国は消耗戦を強いられた。議会では支援疲れが広がり、2024年の大統領選挙では「アメリカ・ファースト」が再び台頭した。

他方、ロシアはこの戦争を仕掛けた時点で、西側世界との長期戦を前提に準備していた。だから、エネルギー輸出による外貨収入、BRICS諸国との経済連携、国内の戦時経済への移行——これらによって、それまで強力と見られた米国の制裁を耐え抜いた。

中国はこの構図を詳細に分析したのである。米国は短期決戦を得意とするが、長期戦では国内政治の分断が弱点となる。ネオコン主導の介入主義、共和党と民主党の対立、アフガニスタン撤退(2021年)の失敗——これらが国家戦略の連続性を損なっている。ここから、中国は「時間は味方ではない」と誘惑を生じさせた。台湾有事は数週間から数カ月で決着をつけられる短期決戦でなければ意味がない。今なら米国が本格介入する前に制圧可能である。こうした認識が、中国指導部に「今度こそやれる」という誘惑を生んでいる。習近平政権は3期目に入り、国内の権力基盤は安定しているか見えるが、内部権力対立は圧力を増している。そうしたなか、「統一」は中国共産党の「国是」でもあり、内部でのトロフィー獲得合戦の圧力は確実に高まっている。

負け戦の設計こそが鍵である

現時点で台湾有事が起これば、単独対応では日本・米国・台湾側が敗北する可能性が高いと見られる。これは軍事バランスの現実である。

中国は2025年時点で、空母3隻、駆逐艦50隻以上、潜水艦70隻以上を保有し、対艦弾道ミサイル(DF-21D、DF-26)による「接近阻止・領域拒否(A2/AD)」戦略を完成させつつある。米軍の空母打撃群が台湾海峡に近づく前に、無力化されるリスクは無視できない。日本も自衛隊の増強を進めているが、憲法上の制約と装備の量では対応が不十分である。

そうなると、戦わずして負けかとも思えるが、問題は「勝つか負けるか」ではない。大事なのは「相手に勝たせないこと」である。たとえ軍事的に敗北しても、現時点ではSF的な構想ではあるが、台湾の人的資源と先端技術を日本へ移転し、「空っぽの島」を残せば、中国の「統一」は無意味なものとなる。TSMCは世界の先端半導体の50%以上を生産しており、その技術者と設備の移転はすでに日米台で協議されている。人口3000万人のうち、高度人材の相当数が日本や米国に避難すれば、中国が手に入れるのは半導体工場跡地と老齢化した島に過ぎない。

台湾有事という枠組みの勝利の定義を領土から人口・技術へと転換することで、中国の正統性を再び揺さぶる戦略は成立する。これは李登輝が民主主義で成し遂げた「フィクションの終焉」を、現代の技術と人的資本で再現する試みである。

もちろん、日本は米国との連携だけでは不十分である。アジア全体と手を組み、中国を多層的に牽制する枠組みが必要となる。インドはクアッドの一員として中国と国境紛争を抱え、ASEAN諸国は南シナ海で領有権問題を抱えている。フィリピン、ベトナム、インドネシアはすでに米国との共同演習を強化している。

とはいえ、石破政権が提唱した「東アジア版NATO」といった硬直的な構想は愚策である。NATOは冷戦期の欧州で成立した集団防衛機構だが、アジアには歴史的トラウマと経済的相互依存が複雑に絡む。中国は「反中包囲網」と宣伝し、国内結束を高めるだけとなる。必要なのは軍事的な包囲ではなく、柔軟で現実的な抑止網である。経済的デカップリング、技術移転の加速、サプライチェーンの多元化、これらを組み合わせた多層的戦略が対中戦略に求められる。それが求めるものは、最終的には、中国市民の利益となるものだ。

 

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2025.11.12

台湾有事の現在シナリオ

台湾有事とは何か

台湾有事(Taiwan contingency)とは、中国が武力によって台湾を統一しようとする事態を指す。具体的には中国人民解放軍が台湾本島または周辺離島に対して軍事行動を起こす状況である。

日本では2021年の高市早苗政調会長(当時)発言「台湾有事は日本有事」がきっかけで一気に注目された。政府見解は曖昧さを保ちつつも、2022年の国家安全保障戦略では「台湾海峡の平和と安定はわが国の安全保障にとって重要」と明記された。中国側はこれを「内政干渉」と激しく反発し、毎年数百回の戦闘機による領空侵犯で圧力をかけ続けている。

米国には1979年制定の台湾関係法がある。台湾への武器売却を義務づけ、必要に応じて防衛手段を提供する権利を留保している。日本には同様の法令はないが、2022年の改正自衛隊法で「存立危機事態」に台湾有事を位置づける解釈が広がっている。

言葉としての「台湾有事」は曖昧である。全面戦争から港湾封鎖、離島占拠、サイバー攻撃まで幅広い行動が含まれる。国際社会は「有事」の定義を意図的にぼかしている。なぜなら明確に定義すれば介入義務が生じ、逆に曖昧にしておけば柔軟な対応が可能だからである。

かつて想定された台湾有事の姿

十年前まで、台湾有事の典型シナリオは三つに絞られていた。一つは電撃戦である。短期間で大量の上陸部隊を台湾西海岸に投入し、台北を制圧する。二つ目は斬首作戦である。弾道ミサイルと特殊部隊で総統府と軍司令部を破壊し、指揮系統を寸断する。三つ目は海上封鎖である。艦艇と機雷で台湾周辺海域を閉鎖し、石油と食料を断つことで降伏を強いるものである。

これらのシナリオは、いずれも台湾本島に物理的損傷を与えることを前提としていた。上陸作戦なら都市は戦場となり、斬首作戦なら政府中枢が破壊され、封鎖でも長期間の飢餓が予想された。沖縄の新しい米軍基地もこの対応が想定されていたと見られる。

半導体がすべてを変えた

状況を一変させたのは台湾の半導体産業である。特にTSMCが決定的な存在だ。世界の最先端ロジック半導体の五割以上、スマートフォン用プロセッサの九割を台湾が握っている。3ナノメートル、2ナノメートルといった最先端プロセスは、今も台湾北部にしか存在しない。クリーンルームはミサイル一発で全滅するほど繊細だ。工場が止まれば世界の電子機器供給は途絶え、経済損失は年間一兆ドルを超えると試算されている。

中国にとって台湾統一の最大の目的は、この半導体生産能力を手に入れることに変化しつつある。いずにれせよ、その意図が内包されているなら、工場を破壊してしまえば何の意味もない。逆に工場を無傷で確保できなければ、占領の価値は大幅に下がる。

大規模な上陸作戦を実行すれば、戦闘の混乱の中で工場は必ず破壊される。斬首作戦で総統府をミサイルで攻撃しても、すぐ近くの科学園区が巻き添えになるのを防げない。台北から新竹の工場群までは車で一時間もかからない距離だ。

そこで海上封鎖が浮上する。これなら工場を直接壊さずに済む。原材料の輸入を止めれば、TSMCは数日で生産を停止せざるを得ない。工場そのものは無傷で残る。中国は「戦争が終わればそのまま自分のものにできる」と計算している。

だからこそ、昔のように「とにかく攻めて占領する」作戦はもう通用しない。半導体があるせいで、台湾有事は「工場をぶっ壊す戦争」から「工場を止めるだけで勝つ戦争」に変わった。中国の戦略は極めて複雑になった。工場を灰にすれば勝利の果実は得られない。機能だけを止めて無傷で残す。それが現在の中国に課せられた難題である。また、日本政府が台湾有事を「海上封鎖」の視点で注視しているのも頷ける。

現在の最有力シナリオ

こうした背景から、2025年現在、専門家の間で最有力とされる台湾有事のシナリオは複合型グレーゾーン作戦である。まず海上封鎖を実施し、エネルギーと食糧を絞る。同時に海底ケーブルを切断する。台湾に接続する国際ケーブルの八割が台湾海峡を通っている。一本でも切断されれば通信は大幅に制限される。TSMCは設計データをリアルタイムで米国に送信しており、通信途絶は即座に生産ライン停止につながる。これに電力網へのサイバー攻撃も加わる。台湾電力の変電所は遠隔操作可能であり、過去に攻撃を受けた実績がある。電力が1パーセントでも変動すればクリーンルームは機能停止する。

離島占拠も組み合わせられる。金門島や馬祖島を先に制圧し、本島への心理的圧力を強める。2024年10月の中国演習では金門周辺で上陸訓練が確認された。これらの作戦は全面戦争の閾値を下回る。米国が介入すべきか判断に迷う時間稼ぎになる。中国は工場を物理的に破壊せず、機能だけを止めることで、将来的な接収可能性を残す計算である。

日本が直面する現実

当然ながら、日本にとって台湾有事は他人事ではない。まず、軍事的に深刻な問題である。沖縄から台湾まではわずか百十キロであり、中国が台湾海峡を封鎖すれば、日本のシーレーンは寸断される。石油の九割、中東からのLNGは台湾経由の航路に依存している。海上自衛隊は護衛艦を展開するだろうが、封鎖を突破できる保証はない。政府は2025年現在も「重要影響事態」を認定する基準を明確にしていない。政治判断が遅れれば、日本は封鎖のまま放置される可能性がある。

台湾の半導体工場の自壊計画も日本を含め世界にとって無視できない事態である。米紙は2024年10月、TSMCが有事の際に工場を自ら破壊するスイッチを用意していると報じた。台湾当局は否定しているが、完全に否定はしていない。日本は巨額の補助金を出している工場が一瞬で消滅するリスクを抱えている。政府も企業もこの現実を口にしない。株価への影響を恐れるからである。

現在、TSMCは熊本に工場を建設し、2024年末から量産を開始している。しかし最先端プロセスは依然として台湾にしかない。アリゾナ工場も2028年稼働予定である。台湾が機能停止すれば日本の半導体供給は壊滅的打撃を受ける。経済産業省は2025年度にさらなる補助金を計上したが、台湾依存からの脱却はまだ道半ばである。

台湾有事シナリオにはもはや上陸戦の映像でない。目に見えないケーブルが切られ、電力が止まり、工場が静かに停止する。それが現在、リアルに想定できる姿である。日本は半導体のシーレーンと軍事のシーレーンを同時に守らねばならない。議論は専門家の閉じた部屋でだけ進行している。一般には届かない。届いたときには、すでに手遅れである可能性が高い。日本の首相が寝ぼけていないなら、これに苦慮するのは当然だろう。

 

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2025.11.11

タイ人少女性的搾取の被害事件

2025年11月、東京都文京区湯島の個室マッサージ店で、タイ国籍の12歳少女が強制労働と性的搾取の被害に遭っていた事件が発覚した。少女は母親とともに6月27日に観光ビザで来日したが、母親が出国した後、店に置き去りにされ、33日間で約60人の客にサービスを強要された。売上は店側と母親側で折半され、少女の手元にはほぼ残らなかった。少女は自ら東京出入国在留管理局に駆け込み、「学校に行きたい」「帰りたい」と訴えて保護された。警視庁は経営者(51歳)を労働基準法違反で逮捕し、人身取引の疑いで捜査中である。母親は台湾で逮捕され、タイに移送される見通しだ。風俗禁止地域で「マッサージ店」を隠れ蓑にした典型的な手口であり、少女は台所で寝泊まりし、抵抗すれば帰国させないと脅されていた。12歳という年齢が衝撃を与えたが、人身取引全体から見れば、これは氷山の一角にすぎない。

この話題の背景

事件の背景には、東南アジアの貧困と先進国での需要が結びついた構造がある。タイ北部・東北部(イサーン地方)の農村では、娘を「家族の資産」と見なす伝統が残り、ブローカーを通じて海外へ送り出すケースが日常的だ。母親自身も10代で同様の経験を持つことが多く、貧困の連鎖が続く。米国務省人身取引報告書(TIP Report)では、このパターンを「家族による募集(family-facilitated trafficking)」と定義し、母親が娘を連れて行き、自身の商品価値が尽きると娘を本格稼働させる定番手法だと指摘している。今回の母親(30代前半)も、娘を売るだけでなく自身も売春で稼いでいたとみられ、台湾への移動は次の市場への移行だった可能性が高い。

日本では技能実習制度や興行ビザの悪用が問題視され、違法マッサージ店が受け皿となっている。2024年の警察庁統計では、保護された人身取引被害者66人のうち性的搾取が8割を占め、外国人被害者の大半がタイなど東南アジア出身だ。ブローカーは女性を次々入れ替え、全国に数百軒あるとされる違法店に供給している。需要側では安価なサービスを求める日本人男性が市場を支えているが、これは日本特有の問題ではなく、世界的な貧困格差の縮図にすぎない。

日本だけの問題ではない

人身取引は日本固有の問題ではない。国連薬物犯罪事務所(UNODC)の2024年グローバルレポートによると、2022年に検挙された被害者は前年比25%増、子供被害者は31%増(少女は38%増)、全体の約40%を子供が占める。女性・少女は検挙被害者の61%で、多くが性的搾取目的だ。主な要因は貧困、紛争、気候変動であり、アジア太平洋地域だけで2930万人が現代奴隷状態にある(Global Slavery Index 2023、世界全体の56%)。

米国務省の2025年『人身取引報告書(TIP Report)』では、日本は最高評価のTier 1を維持しているが、技能実習制度での強制労働や、外国人児童の性的被害が「人身取引」として認知されない点を厳しく批判している。一方、タイはTier 2(現在は監視リスト外)で「被害者輸出国」と位置づけられ、北部農村での家族による募集が常態化していると指摘。2024年にタイ国籍被害者は日本・韓国・中東・欧州など20カ国以上で確認され、警察・地方官僚とブローカーの癒着も問題視されている。

(Tierとは、TIP Reportが各国を4段階評価するランクである。Tier 1は「最低基準を完全に満たしている」国、Tier 2は「満たしていないが努力している」国、Tier 2 Watch Listはその中でも悪化リスクが高い国、Tier 3は「努力も不十分」で制裁対象となる。2025年版では日本がTier 1、タイがTier 2。)

歴史的に見れば、1960~80年代の韓国・台湾は日本への主要供給国だった。韓国は1960年代に1人当たりGDPが1000ドル未満だったが、1995年に1万ドルを超え、娘を売る必要がなくなった。台湾も同様であろう。IMF予測ではタイは2035年頃に1万5000ドルに達する見込みで、経済成長が進めば問題は自然に縮小する。欧米でも東欧・ラテンアメリカからの流入は続き、年間数兆円規模の組織犯罪として成立している。日本での事件は、こうした国際的な貧困格差の反映にすぎない。

どう取り組むべきか

感情的な非難ではなく、国際機関のレポートに基づく構造的理解が不可欠である。UNODCレポートは1000件以上の裁判事例から女性・少女被害者の61%、子供の急増を指摘し、Global Slavery Indexはアジア太平洋2930万人の実態を数字で示す。TIP Reportはタイの家族による募集の具体例を挙げ、日本・タイ双方の課題を明記している。

個人は需要削減の意識を持つべきだが、それだけでは不十分だ。日本は人身取引罪の適用拡大(2024年はわずか2件)、技能実習制度改革、被害者保護シェルター拡充を急ぐ必要がある。根本解決は供給側の経済成長支援である。韓国・台湾の例のように、タイ・ベトナムのGDP向上を国際援助で後押しすれば、伝統的な「娘売り」は自然消滅する。

市民にできることは人権団体への支援とレポートの共有だ。UNODCレポート(参照)、TIP Report(参照)は無料で公開されており、毎年更新される。これらを読むことで、怒りを母親や客に向けるのではなく、貧困を放置する世界の仕組みを変える視点が得られる。12歳少女の事件は悲惨だが、レポートを紐解けば、それが世界で繰り返される日常の一コマにすぎないことがわかる。そこから真の対策が始まる。

 

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2025.11.10

【お知らせ】『新しい「古典」を読む 4』finalvent著が、今日、2025年11月10日、ついに発売されました。

『新しい「古典」を読む 4』finalvent著が、今日、2025年11月10日、ついに発売されました。

『新しい「古典」を読む 4』
https://www.amazon.co.jp/dp/B0FYGVYY4L

この巻は、著者自身が言うのもなんですが、圧巻という感じです。自分が書いたものとはいえ、10年も前に書いたので、かなり距離感もあり、離れた目で読むのですが、これは、けっこうとんでもない代物だなあ、と他人事のように思いました。

これで4巻シリーズは完結です。
悲願達成という感じがします。

率直なところ、これが実現される日が来るのとは思わなかったです。すでに原稿があるのだから、版組すればいいじゃないかと簡単に思ってた自分を殴ってあげたいです。編集に苦慮されたバンディット(BANDIT)さん、ありがとう。ここまでできる編集者はいないよ、すごいよ。

これを祝してということでもないのですが、池袋ジュンク堂で、文芸評論家の仲俣暁生さんとトークイベントをします。

参加費2000円と映画なみのお値段ですが、たぶん、珍しい機会、そして、めずらしい話題になると思います。ぜひ、ご参加ください。

開催日時:2025年11月25日(火) 19:30~
開催場所:池袋ジュンク堂9F イベントスペース

来店トークイベント【19:30開演】
軽出版から考える 本を作ること・売ることの未来

https://honto.jp/store/news/detail_041000122134.html

 仲俣 暁生(編集者・文芸評論家/大正大学表現学部教授)
 finalvent(ライター・ブロガー)  
 坂田 散文(司会・編集者)

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2025.11.09

高市政権の三つの政策課題を考察する

高市早苗政権は2025年10月1日に発足し、わずか3週間後の10月24日に行われた所信表明演説で、物価高対策、成長分野支援、安全保障のための軍事力強化を三大政策課題として明確に位置づけた。11月4日には首相官邸で初の「日本成長戦略本部」を開催し、17の成長分野を指定したロードマップを策定する方針を決定している。政権はこれらを「責任ある積極財政」の三本柱と呼び、補正予算編成を通じて2025年度中の実行を約束している。背景には、2024年衆院選での自民党単独過半数割れ、維新との連立合意、トランプ再選後の日米関係強化という政治的状況がある。以下、それぞれの政策について過去のデータ、現在の経済・安保環境、海外事例を踏まえ、考察する。

物価高対策はデフレ回帰を招く誤った優先順位である

高市政権は物価高を「政権の最大の課題」と位置づけ、2025年10月の経済対策大綱でコアCPIを1%台前半に抑える数値目標を事実上設定した。しかし、この方針は日本経済の構造的問題を完全に誤解している。日本は1997年から2022年までの25年間、コアCPIがマイナスまたはゼロ近辺で推移し続けた。企業は「値上げしたら売れなくなる」と価格競争に終始し、労働者は「給料は上がらないのが当たり前」と消費を控え、若年層は貯蓄志向を強めた。その結果、国内需要は縮小し、経済成長率は先進国中最下位クラスに沈んだ。2023年以降、ようやく2%前後のインフレが定着しつつある段階で、再び物価抑制を最優先に掲げることは、市場参加者に「またデフレに戻るのか」という強烈なシグナルを送るだけである。

現在の物価高は、2022年から2024年にかけての円安(ドル円150円台後半)がもたらした輸入コスト上昇と、エネルギー・穀物価格の高騰によるコストプッシュ型が9割を占める。財務省の貿易統計によれば、2025年9月の輸入物価指数は前年比12.4%上昇している。日銀が利上げしても輸入物価は下がらず、むしろ海外金利との差が縮小しない限り円安圧力は残る。実質賃金は2023年度、2024年度と連続マイナスだが、名目賃金は着実に上昇している。厚生労働省「毎月勤労統計」2025年9月速報値では現金給与総額が前年比2.8%増、所定内給与も2.5%増である。総務省家計調査でも、2025年8月の消費支出は物価変動を除いた実質で前年比0.8%増と回復傾向にある。

インフレ率を無理に1%以下に戻すより、名目賃金を年間4~5%で伸ばし続ける方が実質賃金は早くプラスに転じる。具体的には、大企業だけでなく中小企業への賃上げ促進税制の補助率引き上げ、減税額上限の撤廃、低所得層への定額給付金継続、食料品・生活必需品への消費税軽減税率導入が有効である。欧州諸国はエネルギー危機時に同様の選択的給付と税制措置で実質購買力を維持した。日本が全体の物価を抑え込む政策に固執すれば、デフレマインドが再燃し、30年近い停滞を繰り返すだけである。政権の優先順位は完全に間違っている。

成長分野支援は過去の失敗を繰り返す無駄遣いである

高市政権は11月4日の日本成長戦略本部で、AI、半導体、量子コンピュータ、バイオ、造船など17分野を「成長分野」と指定し、官民連携でロードマップを策定、補助金・税制優遇・官民ファンドによる総合支援を行う方針を決定した。しかし、日本政府主導の産業政策に成功例は皆無である。1980年代のVLSIプロジェクトは一時的な成功を収めたが、その後の液晶・半導体産業は経産省主導の垂直統合型モデルが水平分業への転換を遅らせ、韓国サムスン、台湾TSMC、中国SMICに完全に敗れた。2025年現在、世界半導体製造装置シェアで日本は10%未満にまで低下している。

官民ファンドの失敗も顕著である。産業革新投資機構(JIC)は2018年設立以来、投資回収率が目標を大幅に下回り、政治的圧力で非効率な投資が続いている。アベノミクス成長戦略も、産学連携やオープンイノベーションを掲げたが、2025年時点で労働生産性はOECD加盟国中27位のまま改善していない。高市首相自身が「アベノミクスの成長戦略は成果十分でなかった」と認めているにもかかわらず、同じ手法を繰り返すのは理解に苦しむ。

政府の目利き力はゼロに近く、市場の変化に追いつけない。補助金依存は民間のリスクテイクを殺し、ゾンビ企業を延命させるだけである。韓国は1997年IMF危機で企業数を強制的に絞り、サムスンなどに集中投資した。台湾はTSMCを民間主導で育てた。日本は成熟経済で大企業が林立し、政府介入は既存産業の保護に終始する。IMFは2024年報告書で「産業政策は政府失敗のリスクが高く、万能薬ではない」と明記している。高市政権の補正予算は数兆円規模に及び、基礎的財政収支黒字化目標は事実上放棄された。成長分野支援は税金の無駄遣いであり、過去の失敗を繰り返すだけである。規制緩和、法人税減税、労働市場改革で民間が自由に動ける環境を整える方が、よほど成長に寄与する。

軍事力強化は遅すぎたが正しい緊急課題である

高市政権は安全保障のための軍事力強化を目玉政策に据え、防衛費をGDP比2%に2025年度中に前倒し達成、安保3文書を2026年中に改定する方針である。2025年10月27~29日のトランプ大統領との首脳会談でも、日米同盟のさらなる強化を確認した。中国の軍事費は2024年推定で約30兆円、日本の約10倍である。2025年に入ってからも台湾周辺での演習は月平均20日以上、尖閣周辺では中国海警船が機関砲搭載で常駐している。北朝鮮は2025年5月までに弾道ミサイルを少なくとも3発発射、軍事偵察衛星の運用を追求している。ロシアはウクライナ侵攻3年半を超え、極東での演習を活発化させ、北朝鮮への武器支援も確認されている。

防衛省によると、2024年度のスクランブル発進は704回で、中国機464回、ロシア機237回を占める。中露朝の戦略的連携は2025年9月の天安門広場での首脳並び立ちや共同軍事演習で象徴的に示された。欧州とインド太平洋の脅威が連動し、米国は国防戦略で中国・ロシアとの長期戦略競争を最優先に位置づけている。高市政権の具体策は、防衛費GDP2%前倒しで補正予算約1兆円増、敵基地攻撃能力のさらなる強化、無人機・サイバー・宇宙・電磁波領域での長期戦対応、AI・半導体・造船をデュアルユース技術として危機管理投資と連動させるものである。

維新との連立合意で装備輸出規制緩和も進み、GCAP(日英伊次期戦闘機)開発は2025年度中に本格化する。財源は復興特別税の転用や赤字国債が想定され、野党からは「財源不明」と批判されている。自衛隊現場では予算増でも人員不足が深刻で、2025年度募集目標達成率は6割程度に留まる。

しかし、脅威の切迫性を考えれば軍事力強化は遅すぎたくらいの緊急課題である。岸田政権までの増額ペースでは対応が追いつかず、トランプ再選で日米が強固になった今が実行の好機だろう。物価高対策や成長分野支援で税金を無駄遣いするより、ここに資源を集中すべきである。日本再起の基盤は、抑止力としての安全保障の確立にある。

 

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2025.11.08

ニューヨーク市長選は「リベラルの勝利」

今回の事態は敵失と低投票率の産物である

2025年11月4日、ゾーラン・マムダニがニューヨーク市長に当選した。日本のメディアは「リベラルの大勝利」「アメリカ左派の復権」と報じている論調が目に付く。しかし、この見方は根本的な誤解であろう。マムダニの勝利はリベラルの勝利ではなく、バーニー・サンダース現象の再現であり、成功は極めて困難な賭けである。この勘違いのままの認識では再び手痛いバックラッシュを招くことになるだろう。

今回の事態は、2021年のエリック・アダムズ当選の鏡写しである。アダムズは民主党予備選で30.8%の得票率で1位通過したが、過半数には程遠かった。アンドリュー・ヤン、マヤ・ワイリー、キャスリン・ガルシア、スコット・ストリンガーの4候補が票を食い合い、ランクド・チョイス投票でアダムズに流れた。これは2020年のジョージ・フロイド事件後の「警察予算削減」反動と犯罪急増が背景にあった。アダムズは元警察官として「法と秩序」を掲げ、黒人・ヒスパニック労働者階級の支持を集めた。しかし、2024年からの汚職スキャンダルで支持率は20%に急落。側近のイングリッド・ルイス・マーティンが贈収賄で起訴され、「ポテトチップス・ゲート」が象徴する腐敗が露呈した。トランプ接近もリベラル層の反発を招いた。

マムダニは予備選で41%を獲得したが、投票率は38%と史上最低クラスである。全市的な民意ではなく、熱狂層の動員による勝利ではあるが、敵失が大きい。6月の予備選ではアダムズが28%、クオモが15%と票が分裂し、マムダニは「反アダムズ」で団結票を集めたに過ぎないと見るべきだろう。総選挙でも無所属出馬を断念したアダムズの支持層が棄権し、マムダニの勝利を助けた。投票率の低さは、勝利が「現象」であり、「民意の総意」ではないことを示す。

実態はサンダース現象

この実態は、ようするに、サンダース現象である。2016年のサンダース予備選は若者爆発、小口献金、反ウォール街を特徴とした。平均献金27ドル、100万人超のボランティア、デジタル戦略で22州を制した。マムダニは平均献金38ドル、TikTokで「#FreeTheSubway」が約1.2億ビュー、ボランティア約4.1万人、これはDSA会員が約65%を動員した。なお、DSAは、Democratic Socialists of America、民主社会主義者同盟である。その政策は富裕税(年収1000万ドル超に5%)、公共住宅10万戸建設(空き家接収)、地下鉄無料化パイロット、市営無料医療拡大と、サンダース2016年公約のNYC版でもある。警察予算10%削減は「Defund the Police」の再分配版である。

実際、サンダース本人が5月にブルックリン集会で応援演説し、「ゾーラン(マムダニ)は民主党の未来」と宣言した。6月の予備選直前にはTV広告に出演し、「私はゾーランと共にある」と訴えた。勝利後にはXで「社会主義市長の誕生――革命は続く」と祝った。DSAニューヨーク支部は過去最大級の動員を誇り、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスやジャマール・ボウマンが応援に駆けつけた。支持層は18~34歳が70%、移民2世(南アジア・ラテン系)がクイーンズ・ブロンクスに偏在する。ウガンダ系ムスリムとして多様性の象徴となり、若者票を爆発させた。

民主党主流派は沈黙し、中道リベラルはクオモ支持に回った。バイデンはコメントを避け、チャック・シューマーは距離を置く。リベラル全体の勝利では到底ない。進歩派左派のクーデターとさえ言えるかもしれない。ニューヨーク・タイムズは「これはリベラルの勝利ではない。社会主義の反乱である」と社説で指摘した。ウォール・ストリート・ジャーナルは「無料地下鉄の夢、3.5億ドルの悪夢」と揶揄する。リベラル勝利なら民主党本部が次期リーダーと称賛するはずだが、現実は逆である。親イスラエル・リベラルはマムダニのBDS支持で離反し、ビジネス界はクオモに流れた。なお、BDSは、Boycott, Divestment, Sanctions、ボイコット・投資撤収・制裁運動である。

よって今回のマムダニ勝利は、単純にリベラルの勝利とは言えない。リベラル主流はクリントン・オバマ系の伝統的リベラルを指す場合が多いが、彼らはマムダニを「現実離れ」と警戒している。リベラル勝利は中道・現実主義の政策とエスタブリッシュメントの祝福を伴う。マムダニは両方を欠く。サンダース現象は「反エスタブリッシュメント」の爆発であり、むしろ主流リベラルは敗北した側である。

大手紙は失敗を予測する

今後の予想を大手紙などはどう見ているか。ニューヨーク・タイムズは「1年以内に市議会と対立、予算凍結」と予測する。市議会51議席中DSA系は8議席の16%に過ぎず、中道・保守派が多数を占める。富裕税法案は否決必至である。ウォール・ストリート・ジャーナルは富裕税が連邦税との2重課税で訴訟リスクと指摘し、富裕層の州外移転を警告する。ニューヨーク・ポストは警察組合PBAが「青の流感」警告を発し、予算削減で犯罪率が上昇すると予想する。地下鉄無料化には年間3.5億ドルが必要で、財源は見当たらない。

複数のアナリストが失敗確率7割超と予測する。クイニピアック大学の世論調査(回答者約1100人)では「マムダニ政権が2年持つ」は31%である。失敗予想が7割前後を占める。フォックス・ニュースは「バーニー・ブロ市長、犯罪波来たる」と煽り、ニューヨーク・ポストは「社会主義市長のハネムーンは始まる前に終わる」と断言する。成功を信じる声はDSA内部にほぼ限定されている。

反トランプだけでは見えない

マムダニの成功は望ましいが、理性的に見て、成功は極めて困難である。市議会、州政府、警察、財源の4重の壁がある。州知事キャシー・ホークルは中道民主党員で、地下鉄無料化に反対し、州予算補助をカットする可能性がある。警察予算10%削減は犯罪率上昇を招く。NYPDトップの辞任が相次いだアダムズ時代を上回る混乱が予想される。左派市長の失敗を繰り返す歴史となりかねない。デビッド・ディンキンズは1990~93年、警察改革で犯罪急増し、ルドルフ・ジュリアーニに敗北した。ビル・デブラシオは2014~21年、警察改革と幼児教育無料を掲げたが、後半支持率20%台で後継者なし。シカゴのロリ・ライトフットは2019~23年、警察予算削減で犯罪率50%増し、予備選最下位に沈んだ。マムダニも例外ではない。

マムダニの成功には犯罪率の抑制、連邦政府の支援、富裕層の定着が必要である。しかし、現実的には警察削減下での犯罪抑制は困難であり、連邦支援も不透明、富裕税は流出を加速させる。複数の試算で成功は極めて困難と見られている。

ではどうするか。少なくとも、反トランプだけでは見えない現実がある。トランプ接近のアダムズを彼らが倒したのは事実だが、それだけで政権運営はできない。反トランプという動向は基本的に感情であり、予算権も警察権も握れない。マムダニは執行権を獲得したが、基盤は若者とDSAに偏り、投票率38%の勝利は脆い。支持層の70%が18~34歳で、中間選挙で投票率が急落すれば議会はさらに敵対する。マムダニの成功には市議会の説得、警察との妥協、財源の現実的確保が必要である。

日本の識者は「リベラル勝利」と喜ぶ前に、失敗の確率とバックラッシュのリスクを見据えるべきであろう。バックラッシュは犯罪急増、富裕層流出、民主党分裂として現れることになる。サンダース現象は熱狂を生むが、政権維持には現実の壁を乗り越える必要がある。

 

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2025.11.07

社会的交流が記憶を鍛える

海馬の未解明領域に記憶の秘密

脳の記憶形成は海馬が中心となる複雑な仕組みであるり、経験を短期的なものから長期的な記憶へと変換する役割を果たすことは知られているが、近年、社会学的な知見から、社会的交流が認知機能に好影響を及ぼす現象が注目されている。しかしその神経メカニズムは不明瞭な部分が多く残されていた。特に海馬内のCA2領域は研究が遅れていた。が、この領域の機能解明が社会的健全性と認知機能の関係を理解する鍵となるかもしれない。

シンガポール国立大学医学部の研究チームはCA2領域に焦点を当て、社会的交流が一過性の経験を永続的な記憶に変えるプロセスを明らかにした(参照)。この研究は社会性と記憶の神経基盤に新たな視点を提供する例となる。その主目的はCA2領域が社会的交流をきっかけに長期記憶形成を促進するメカニズムを解明することである。発見の核心は社会的交流が記憶を強化する神経回路にCA2領域が中心にある点である。

CA2領域の点火が記憶の連鎖を始める

海馬のCA2領域はこれまで機能が謎に包まれていた。研究でこの領域は社会的交流中に活発化し記憶形成プロセスを開始させる社会的スパークプラグとして働くことを明らかにした。つまり、他者との交流がCA2領域を点火する。これにより記憶強化の一連の神経活動が引き起こされるというのだ。

CA2領域の活性化はシグナルを海馬内のCA1領域へ伝達する。CA1領域は短期経験を長期記憶へ変換する記憶変換の仕組みである。社会的交流中のCA2からのシグナルはCA1の変換能力を直接増強する。このCA2からCA1への経路が社会的経験による記憶強化の鍵となる神経回路である。

今回の研究において、因果関係の証明には化学遺伝学的手法が用いられた。この技術でCA2ニューロンの活動を選択的に停止させる。実験ではCA2活動を抑制すると社会的交流後も記憶増強効果が消失した。これでCA2領域の活動が社会的交流による記憶強化に不可欠であることが確認された。これらの発見は社会的経験が生物学的プロセスを経て記憶を形作る理解を深める。CA2領域の役割は記憶形成の初期段階を支配する。交流の瞬間に脳がどのように反応するかを示す。

メタ可塑性が記憶の土壌を耕す

研究を追ってみよう。CA2からCA1へのシグナルは分子レベルで記憶形成を高める。CA2ニューロンはメタ可塑性を通じてCA1の長期記憶能力を向上させる。メタ可塑性は過去の神経活動がシナプス状態を変え後の学習や記憶形成を調節するプロセスである。CA2からのシグナルはCA1のシナプスを記憶形成しやすい状態へ準備する。この状態が記憶定着に必要な記憶タンパク質を強化する。新しい情報が強固な長期記憶として保存されやすくなる。

ただし、CA2による記憶増強効果は時間的に限定される。一度の社会的交流の恩恵は永続的でない。効果維持には定期的な交流が必要となる。この事実は孤独や社会的孤立が記憶力低下と関連する生物学的根拠を与えることになる。主任研究者のSreedharan Sajikumar准教授は社会的交流を脳の働きを直接変える生物学的必須要件と位置づけている。つまり、継続的な社会的エンゲージメントが記憶機能を神経科学的に支えることになり、分子レベルのメカニズム解明は社会的孤立が記憶障害を引き起こす臨床現実と結びつく。これは新たな治療介入の道を開くことになる。

記憶障害の影に潜む社会的孤立の影響

研究の知見は記憶機能が脆弱な集団にも臨床的意義を持つ。つまり、高齢者や精神疾患患者への治療戦略開発につながる。また、孤独や社会的孤立が認知症の記憶力低下と関連する理由を神経回路レベルで説明する。CA2-CA1経路の機能不全が社会的孤立による認知低下の根底にある可能性がある。

統合失調症や自閉症スペクトラム障害では社会的機能障害と記憶障害が併存するが、研究は共通の神経基盤を示唆する。CA2領域の機能異常がこれらの症状に関与するかもしれない。ここでも、社会的交流の欠如が脳回路を乱す連鎖が見て取れる。

ここから、将来の医療的・社会的介入策としてCA2からCA1への接続強化が提唱されうる。標的薬の開発でCA2-CA1経路のメタ可塑性を促進して、脳刺激法として経頭蓋磁気刺激が海馬特定領域を狙う。さらにライフスタイル介入では科学的根拠に基づく社会的交流プログラムを設計する。

脳の社会的回路が織りなす記憶の糸

今回の知見は、海馬CA2領域は社会的交流のセンサーとして機能するということでもある。交流の刺激がCA2を活性化しCA1へシグナルを送る。この流れが記憶の定着を加速する。化学遺伝学の実験でCA2抑制が効果を消す様子は因果性を強く裏付ける。メタ可塑性のプロセスはシナプスを事前調整し記憶タンパク質を増強する。効果の時間制約は定期交流の必要性を強調する。孤立が記憶を蝕むメカニズムが生物学的に証明される。臨床では認知症や精神疾患の治療にCA2-CA1経路を標的とする。薬剤や刺激が回路を活性化し記憶を支える。

医学的な研究方向としていあh,メタ可塑性の詳細はCA2シグナルがCA1シナプスをプライミングする点にあるが、社会的な意味合いは、過去の交流が未来の学習を容易にするといえる。記憶タンパク質の強化は長期保存を確実にする。時間的限定は孤立のリスクを警告する。このことから、臨床応用は多岐にわたる。高齢者の記憶維持に社会的交流のプログラムを組み込むことが提唱されるだろう。精神疾患ではCA2機能異常を診断マーカーとする。薬剤開発で経路を特異的に活性化するとも検討されるべきだろう。つまり、この研究の枠組みは社会性と認知の統合を促す。交流が脳を形作るプロセスは人間のつながりの生物学的価値を再確認している。

 

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2025.11.06

記憶の老化を変えるCRISPR-Cas医療の可能性

記憶の衰えは「修正可能な分子異常」である

歳を重ねるにつれて、名前や出来事が思い出せなくなるのは、多くの人が抱える現実である。バージニア工科大学のティモシー・ジェローム准教授率いる研究チームは、老化ラットの記憶障害を遺伝子編集技術CRISPR-Casを用いて回復させることに成功した(参照)。この成果は、70歳以上の3分の1が直面する記憶問題に対し、分子レベルでの治療的介入の可能性を示すものである。

ここで用いられているCRISPR-Casは現代人が知っておくべき基盤技術であり、本研究はその応用例として位置づけられる。加齢による記憶力低下は、従来は不可逆的な老化現象と見なされてきたが、分子メカニズムの解明により、修正可能な変化であることが明らかになりつつあるようだ。

細菌の免疫から生まれた遺伝子編集革命

CRISPR-Casは、細菌がウイルスから身を守るために進化した獲得免疫システムを応用した技術である。細菌は、過去に感染したウイルスのDNA断片を自らのゲノムに取り込み、CRISPR配列として保存する。次に同じウイルスが侵入すると、この配列から転写されたガイドRNA(gRNA)がCas酵素を標的部位へ導き、ウイルスDNAを切断して無力化する。この仕組みを2012年にジェニファー・ダウドナとエマニュエル・シャルパンティエが哺乳類細胞に応用し、遺伝子編集の革命を起こした。2020年には両氏がノーベル化学賞を受賞した。

基本的なCRISPR-Cas9は、Cas9酵素が「分子ハサミ」として機能し、gRNAが指定するDNA配列を認識して二本鎖切断を行う。切断後は、細胞の非相同末端結合(NHEJ)や相同組換え(HDR)を利用して、遺伝子の挿入、削除、置換を実現する。しかし、切断はオフターゲット効果のリスクを伴うため、近年は切断機能を無効化した「dCas」変異体が実用化されている。dCas9はDNAに結合して転写を阻害または活性化し、dCas13はRNAレベルで干渉する。これにより、遺伝子を破壊せず発現を微調整する「エピジェネティック編集」が可能となる。まさにDNAを「編集」するだけでなく「コントロール」する次世代技術である。

海馬と扁桃体の連携が老化で乱れる

人間の記憶は、脳の複数領域が協調して形成されるが、その中心に位置するのが海馬と扁桃体である。海馬は、新しい情報のエンコードと古い記憶の検索を担い、膨大なデータを整理・保管する役割を果たす。扁桃体は、喜びや悲しみ、恐怖などの感情を記憶に付与し、想起の鮮やかさを高める。例えば、修学旅行の楽しい出来事は、海馬の事実記憶と扁桃体の感情タグが結びつくことで、長期的に保持される。しかし加齢により、この連携が乱れる。分子レベルでエラーが蓄積し、記憶の形成・検索が妨げられる。ジェロームチームは、老化ラットの脳を詳細に解析することで、二つの主要原因を特定した。一つはタンパク質のシグナル伝達異常、もう一つは記憶強化遺伝子の沈黙である。これらをCRISPR-Casで領域特異的に介入することで、記憶機能を回復させた。

K63ポリユビキチン化の乱れをCRISPR-dCas13で調整

脳細胞内では、K63型ポリユビキチン化というプロセスが、タンパク質に「指示タグ」を付与し、分子間のシグナル伝達を円滑にする仕組みである。これは、細胞の機能制御に不可欠な化学反応である。しかし老化過程で、このタグの量が異常をきたす。海馬ではタグが過剰増加し、情報処理が混乱する。結果、記憶の整理と検索が効率的に行えなくなる。一方、扁桃体ではタグが自然減少するが、興味深いことに、さらにタグを減らす実験で記憶力が向上した。これは、脳領域ごとに最適なタグ量が異なることを示す。

ここで用いられたのがCRISPR-dCas13である。Cas13はRNAを標的とする酵素で、通常はRNAを切断するが、変異により切断機能を無効化し、RNA干渉のみを行う。ガイドRNAでポリユビキチン化関連mRNAを指定し、発現を抑制または促進する。海馬ではタグを減少させ、扁桃体ではさらに低減させることで、老化ラットの記憶テスト(例:モリス水迷路試験)成績が有意に向上した。この領域特異的介入は、脳の複雑性を考慮したアプローチの重要性を強調する。今回の研究は、CRISPR-dCas13の実脳応用例として位置づけられる。

IGF2遺伝子の沈黙をCRISPR-dCas9で再活性化

もう一つの鍵は、記憶強化因子であるIGF2(インスリン様成長因子2)である。この遺伝子は、シナプス可塑性を促進し、記憶の定着を助ける。加齢により、DNAメチル化がIGF2のプロモーター領域にメチル基を付加し、発現を抑制する。DNAメチル化は、エピジェネティック修飾の一種で、遺伝子のスイッチをオフにする化学反応である。IGF2はインプリント遺伝子であり、父親か母親のどちらか一方からしか受け継がれないため、たった一つのコピーが機能しなくなると、その影響が大きく出る。

ここで用いられたのが従来からあるCRISPR-dCas9である。Cas9の切断機能を無効化し、代わりに脱メチル化酵素(例:TET1)を融合させた変異体を用いる。ガイドRNAがプロモーターを指定し、メチル基を除去して遺伝子を再活性化する。結果、老化ラットの記憶力が劇的に回復した。注目すべきは、この効果が記憶低下の顕在化した個体に限定される点である。中年ラットでは変化がなく、介入のタイミングが鍵であることを示唆する。ジェローム准教授は、「問題が発生した時点で介入せよ」と強調する。本研究は、CRISPR-dCas9のエピジェネティック治療例として位置づけられる。

CRISPR-Casの送達と安全性 脳深部への実用化課題

今回の研究では、アデノ随伴ウイルス(AAV)ベクターを用いてCRISPRを脳深部に送達した。AAVは免疫原性が低く、長期発現が可能なため、神経疾患治療で標準的に用いられる。具体的には、AAV9やAAV-PHP.eBなどの改良型ベクターが開発されており、血液脳関門を通過する能力を高めている。しかし、脳への効率的な送達やオフターゲット効果の低減は課題である。現在、ナノ粒子や脂質ナノ粒子(LNP)との併用も検討されている。

このように、CRISPR-Casは、アルツハイマー病やパーキンソン病のモデル動物でも応用されている。例えば、2023年のスタンフォード大学研究では、CRISPR-dCas9でアミロイド前駆体タンパク質(APP)の発現を抑制し、認知機能を改善した。2024年のMIT研究では、CRISPRでタウ蛋白の異常リン酸化を制御し、神経変性疾患の進行を遅らせた。本研究もその延長線上にあり、加齢性記憶低下を「可逆的変化」として再定義する。

CRISPR-Casによる医療の今後の人間適用には、FDA承認済みのCRISPR療法(例:2023年承認の鎌状赤血球症治療Casgevy)の知見が参考となる。Casgevyは体外編集だが、脳内編集にはさらなる安全性試験が必要である。オフターゲット検出のための全ゲノムシーケンシングや、免疫反応のモニタリングが求められる。

 

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2025.11.05

ディック・チェイニー、「微妙な男」

2025年11月3日、84年の生涯に幕

2025年11月3日(月曜日・米国時間)夕刻、ディック・チェイニー元副大統領がワイオミング州ジャクソンの自宅で息を引き取った。享年84。妻リン、娘リズとメアリー、その他の家族に見守られながらの最期だった。翌4日朝、家族は公式声明を発表。「ディック・チェイニーは偉大で善良な男であり、子供たちや孫たちに国を愛し、勇気、名誉、愛、優しさ、そしてフライフィッシングの人生を教えてくれた」と記した。

死因は肺炎の合併症と、長年にわたる心臓・血管疾患の複合である。チェイニーは37歳から5度の心筋梗塞を経験し、バイパス、ステント、植え込み型除細動器(ICD)、左心室補助装置(LVAD)、そして2012年の心臓移植まで、あらゆる先進医療の恩恵を受けてきた。移植後も定期フォローアップを続けていたが、加齢と蓄積された負担が肺炎をきっかけに決定的となった。

彼は、要するに、私たちの時代そのものだった。冷戦終結から9・11、イラク戦争、トランプの台頭まで、アメリカが覇権を握り、揺らぎ、変質する全過程に居合わせた。単なる政治家ではない。アメリカの「力の論理」を体現し、同時にその限界を露呈させた存在である。だからこそ、長い追悼が必要だ。彼を単純な善悪で裁くことは、時代そのものを矮小化する行為にほかならない。

きかん坊、寒村から権力中枢へ

チェイニーは、1941年1月30日、ネブラスカ州リンカーンに生まれた。父は土木技師、母は主婦である。14歳でワイオミング州キャスパーに移り、厳しい自然の中で育つ。イェール大学に入学するが、学業に馴染めず中退した。酒と喧嘩に明け暮れる日々を送ったのである。やがて夜間学校で政治学の学位を取得し、1969年にニクソン政権入り。ドナルド・ラムズフェルドの補佐官として頭角を現す。

1975年、34歳の若さでフォード政権の首席補佐官に抜擢される。史上最年少である。1978年にはワイオミング州選出の下院議員に当選し、6期務める。1988年、初の心筋梗塞を乗り越え、翌1989年、ブッシュ(父)政権の国防長官に就任した。湾岸戦争を指揮し、多国籍軍を率いてクウェートを解放する。作戦はわずか100時間で終了。軍事史に残る完勝である。

そして、2001年、ブッシュ(子)政権の副大統領に就任し、9・11テロ直後から「テロとの戦い」を主導する。イラク侵攻(2003年)を推進し、アフガニスタン戦争を拡大する。2009年に退任後も、回顧録『In My Time』(2011年)を出版し、自身の政策を正当化する。
そして、晩年はトランプ批判に終始し、2020年大統領選ではバイデンを支持した。2022年には娘リズの反トランプ広告に出演し、保守派から「裏切り者」の烙印を押される。いいじゃないか。

心臓と闘い続けた政治生命

チェイニーの政治キャリアは、心臓病との闘いの歴史と不可分である。1978年、37歳で初の心筋梗塞を発症。選挙運動中に胸痛に襲われ、チェイロ大学病院で診断された。喫煙歴20年(1日3パック)が主因だった。自業自得というべきか。血栓溶解薬と安静で回復し、数日で退院。政治キャリアの序盤に衝撃を与え、禁煙を決意するが、完全には成功しなかった。そういう男だ。

1988年、47歳のとき、四重バイパス手術を受ける。冠動脈が詰まり、テキサス州ベイラー大学医療センターで血管を迂回する大手術を敢行した。当時としては先進治療であり、チェイニーを救う。それも天命なのだろうか。2000年11月、59歳で副大統領候補に選ばれた直後、軽度心筋梗塞を発症した。心臓カテーテル検査で狭窄が発見され、2本のステントを挿入して血流を改善。選挙に影響せず、翌年就任する。

2001年6月、60歳。副大統領就任直後に心室頻拍のリスクが高まり、胸部に植え込み型除細動器(ICD)を埋め込む。異常時に自動でショックを与える装置である。9・11後のストレスが悪化要因とされる。2007年11月、66歳。感謝祭直前に心房細動を発症。血液希釈薬で血栓を治療し、定期検査で早期発見された。

2010年7月、69歳。退任後、心不全が悪化し、左心室補助装置(LVAD)を植え込む。バッテリー駆動の外部ポンプで「パルスなしで生きる」状態となり、感染リスクを抱えながら1日数回の交換を日常化した。チェイニーはこれを「奇跡の装置」と呼んだ。同じ病気を持つ人に希望を与えた。

が、2012年3月、71歳。コロラド州立大学病院で心臓移植を受ける。ドナーは匿名である。移植後、回復が著しく、釣りや執筆を再開。医師ジョナサン・ライナーとの共著『Heart』(2013年)で病歴を公開し、「心臓病は遺伝と生活の産物」と警告した。副大統領時代、シークレットサービスはICDのハッキング対策を講じ、9・11後のストレスが悪化要因となった。チェイニーは「赤信号が次々青に変わる幸運」と語り、医療の進歩を体現した。

ネオコンの象徴であり、「力による平和」の信奉者

チェイニーは新保守主義(ネオコン)の顔役である。アメリカの軍事力と価値観を世界に広めるべきだと信じていた。9・11後、彼は「1%ドクトリン」を提唱する。1%の確率でもテロの脅威があれば、先制攻撃すべきだという論理である。これがイラク侵攻の根拠となる。

2002年8月、チェイニーは演説で「サダム・フセインが大量破壊兵器を保有している証拠は疑う余地がない」と断言する。後にこの情報が誤りだったと判明する。国連査察官ハンス・ブリックスは「証拠は薄弱」と報告していたが、無視された。私たちの歴史である。

2003年3月、米英連合軍はバグダードを制圧。フセイン政権は崩壊するが、大量破壊兵器は発見されない。戦争は泥沼化する。死者は米兵4,400人、イラク民間人20万人以上。費用は2兆ドルを超える。だが、チェイニーは退任後も「正しかった」と主張する。イラクがテロの温床になるのを防いだのだ、と。だが、現実は逆である。ISISの台頭を招き、中東はさらに不安定化した。チェイニーが悪いんだ、そう言ってみて、それで済むなら話は単純だし、単純な話は好まれる。世の中、善人面したバカばっかりだからな。

権力の裏面、ハリバートン社とCIA

チェイニーの名を汚すもう一つの要素は、ハリバートン社との関係である。1995年から2000年までCEOを務め、退任時に3,600万ドルの退職金を得る。副大統領就任後、同社はイラク戦争で巨額の復興契約を獲得する。利益は70億ドルを超える。癒着の疑惑は拭えない。

CIAとの関係も深い。9・11後、チェイニーは「強化尋問手法」を承認したことで悪名高い。ウォーターボーディング(水責め)はその一つである。2004年、CIA監察官報告書は「効果は限定的」と結論づけるが、チェイニーは「必要だった」と擁護する。2014年、上院報告書は「拷問は情報収集に寄与せず」と断定。チェイニーは「偽物だ」と一蹴する。男だ、悲しいほどに、そして、悲しい。

家族の絆、娘たちとの「光」

しかし、チェイニーを単なる「悪役」に留めない要素がある。だから、厄介なのだ。娘たちとの関係である。次女メアリーは同性愛者である。2004年大統領選中、民主党候補ジョン・ケリーがメアリーの性的指向を政治利用するや、チェイニーは激怒した。「娘を政治の道具にするな」と。当然だろ。共和党は同性婚反対が党是だったが、彼は「家族の自由は政府が干渉すべきでない」と公言する。当然だろ。

2013年、メアリーが同性婚を発表。長女リズは「伝統的結婚を信じる」と反対を表明し、姉妹は絶縁状態になるが、父であるチェイニーは「どちらも愛している」と中立を保った。2012年、オバマ大統領が同性婚を支持すると、チェイニーは「正しい決断」とコメントした。保守派から猛反発を浴びるが、動じない。動じるわけがなかろう。父なのだ。

2021年1月6日、議事堂襲撃事件。リズはトランプ弾劾に賛成し、共和党から追放される。2022年、ワイオミング州予備選。リズは敗北確実となるが、チェイニーは広告に出演する。「リズは正しいことをしている。誇りに思う」とカメラ目線で堂々と語る。84歳の老体で、娘を守る姿に多くのアメリカ人が涙した。俺もな。

晩年、トランプへの「ファシズム」批判

チェイニーはトランプを徹底的に嫌った。2016年、「彼は共和党を破壊する」と警告すした。2020年、民主党大会で公然とバイデンを支持した。「憲法を守るためだ」と理由を述べた。そして、2024年、ハリス支持を表明した。保守の「古株」がリベラル寄りに見える皮肉である。でも、チェイニーを知るものなら、皮肉でもなんでもない。当然。

彼は「MAGAはファシズム的」と断言した。1月6日委員会で証言したリズを「英雄」と呼んだ。共和党は「チェイニー親子は裏切り者」と糾弾したが、彼は意に介さない。むしろ、党の変質を嘆く。「リンカーンやレーガンの党ではなくなった」と。

「チェイニー、ああ人間」

チェイニーはアメリカの「力の論理」を体現してきた。冷戦終結後、唯一の超大国として世界を統治する使命を信じた。その信念は湾岸戦争の勝利を生んだが、イラクの失敗で限界を露呈した。権力の行使は暴走し、民主主義のルールを歪めた。だが、それは必然でしかなく、必然を演じる人は現れる。

だが、彼は歴史の操り人形でもなかった。家族への愛は揺らぐことはなかった。娘たちの選択を尊重し、党是に逆らってまで守った。晩年のトランプ批判は、保守の良心を最後まで貫いた証でもある。心臓病との闘いは、彼の強靭さと脆さを同時に示した。

彼は英雄でも悪役でもない。光と影が交錯する「微妙な男」である。つまり、「人間」である。たまたま、アメリカの世紀を駆け抜け、その栄光と闇を一身に背負った。だから、チェイニーの死は、時代の転換点である。私たちは彼を通して、権力の誘惑と人間の弱さ、無力、失敗、悲劇、そして歴史というものの実相を学ぶ。

チェイニーよ、安らかに。

 

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2025.11.04

高市政権の「成長戦略」という幻

高市政権が「日本成長戦略本部」を設置したが

2025年10月、高市早苗政権は「日本成長戦略本部」を発足させた。首相自らが本部長を務め、民間有識者を含む「日本成長戦略会議」を設置し、中長期的な経済成長を議論する枠組みである。

所信表明演説では「危機管理投資」を成長の柱と位置づけ、経済安全保障や食料・エネルギー分野への積極投資を強調した。これは歴代政権の成長戦略の系譜を継ぐものであり、安倍政権の「第三の矢」や岸田政権の「新しい資本主義」と同様の構造を持つ。

しかし、過去30年にわたる日本の成長戦略はすべて失敗に終わっている。実質GDP成長率は1990年代以降、平均1%未満である。経済学的に見て、政府主導の成長戦略は先進国民主主義において成功率が極めて低い。高市政権の試みも、構造的な制約から脱却できない運命にある。

成長戦略の四つの柱

経済学的に有効とされる成長戦略の要素は四つに整理できる。

まず「規制緩和+競争促進」である。政府は市場の障害を取り除き、競争を促すことで生産性を向上させる。次に「移民・労働市場の流動化」である。労働力不足を補い、労働市場の柔軟性を高める。三つ目は「イノベーション政策」である。基礎研究とスタートアップ支援を通じて新たな産業を創出する。最後に「マクロ安定」がある。財政健全化とインフレ目標(2%)を掲げるものである。

しかし、マクロ安定は政策の目的ではなく結果である。ケインズ経済学によれば、財政赤字は景気調整の手段であり、成長が税収を増やして結果的に財政を改善する。インフレ目標も同様の傾向がある。フィリップス曲線が示すように、失業率低下と賃金上昇がなければインフレは発生しづらい。日本銀行が1999年以来掲げる2%目標は、有意味ではあったが、需要拡大なしにはさらなる達成はできない。MMT(現代貨幣理論)はインフレを資源制約の産物と位置づけるが、マクロ安定を政策の柱に据えることは本末転倒であろう。成長環境の整備が先であり、マクロ安定はその副産物に過ぎない。

移民・労働市場の流動化は欧米で限界露呈

移民・労働市場の流動化は理論的には労働力不足を解消し、生産性を向上させる。しかし、EUと米国では失敗が明らかとなりつつある。ドイツは2015年のメルケル開放政策で100万人の難民を受け入れた。当初は労働力補充に成功したが、5年後の雇用率は40%に留まる。財政負担は年1500億ユーロに達する。スウェーデンは世界最高の移民受入率を誇るが、移民の失業率は20%(国民平均5%)である。ギャング暴力が急増し、社会不安が高まる。フランスでは移民2世の統合が失敗し、バンリュー地区の失業率は30%を超える。テロと暴動が頻発する。

米国では低スキル移民の純財政負担が生涯で50万ドル(NRC, 2017)と試算される。低所得層の賃金は3〜5%低下する。OECD(2023)は低スキル移民の経済的純便益をマイナスと結論づける。高スキル移民のみがプラスである。政治的には反移民感情が爆発する。イギリスのブレグジット、イタリアの移民船阻止、デンマークの「ゲットー法」、米国の2024年選挙での不法移民対策がその証左である。

日本は島国・単一言語・同質文化の傾向をもつため、その統合コストは極めて高いもとなるだろう。高齢化率29%の世界一の国で、移民はしだいに社会保障負担ともなりうる。世論調査(内閣府2023)では移民拡大反対が60%である。EU・米の失敗を教訓に、日本での移民頼みは非現実的である。

イノベーション政策は日本に土壌がない

イノベーション政策は基礎研究とスタートアップ支援を軸とする。しかし、アニマル・スピリットを有したかつての日本と異なり、現在の日本にはその素地がもはや皆無である。リスク回避文化が根強い。世界起業家精神指数(GEM, 2023)で日本は54位/54カ国である。

驚くべきことか、ようするにネット用語「公金チューチュー」ということか、ベンチャーキャピタルの90%が政府系である。民間VC投資は米国1兆円に対し日本0.1兆円である。大学は論文数重視で産学連携が機能しない。大学発スタートアップは米国年1000社に対し日本年100社である。労働市場の硬直性も障害である。転職率は米国30%に対し日本8%である。失敗への罰則文化が再挑戦を阻む。倒産経験者の再起業率は米国20%に対し日本2%である。

なにより、日本政府の支援政策はすべて失敗である。というか、失敗たるべく失敗してきた。J-Startup(2018〜)は選定企業を成長させるが、エコシステム全体は変わらない。大学発ベンチャー1000社計画は達成したが、ユニコーン企業はゼロである。規制サンドボックスは参加企業が年間10社未満である。

シュンペーターの創造的破壊によれば、イノベーションは既存の破壊から生まれる。政府が有望企業を選ぶ支援は逆効果である。日本と成功国との差はもはや決定的である。米国は民間VC主導、失敗容認文化、流動性が高い。イスラエルは軍隊経験が起業家を育成する。シンガポールは外資誘致に徹する。日本はユニコーン企業6社(2025年)にとどまる。エストニア(人口130万人)はユニコーン10社である。e-Residencyで外国人起業を可能にする。

日本がイノベーションを起こすには、失敗破産法改正、ストックオプション税制改革、大学兼業自由化、外資スタートアップ誘致が必要である。しかし、これらは20年単位の改革であり、即効性はない。簡単にいえば、手遅れなのである。

規制緩和+競争促進は外資の進出を招く

規制緩和+競争促進は、政府が積極的に何もしない政策である。ハイエクの知識問題によれば、政府は市場の情報を知らない。規制は常に非効率である。

World Bank(2020)は規制負担10%減でGDP成長率0.3〜0.5%向上と試算する。日本では医療、農業、タクシー、エネルギー、労働分野に規制が残る。オンライン診療は制限され、農地法とJA独占が生産性を阻む。ライドシェアは禁止である。電力小売の参入障壁は電気料金を高止まりさせる。派遣・副業制限は労働市場を硬直化する。

緩和の効果は即効性がある。ライドシェア解禁で運賃30%減、ドライバー収入2倍(米国例)。農地法改正で生産性2倍(オランダ並み)。外資進出が鍵である。コストコ・IKEAは国内小売の価格競争を促す。Amazon・GoogleはIT企業の生産性向上を強いる。テスラはEVシフトを加速する。ポーターの競争戦略とメルローズの外圧仮説が示すように、外資は国内企業の触媒である。

日本企業が負けるのは創造的破壊の当然の帰結である。1980年代の米国自動車産業は日本車進出で危機に陥ったが、テスラが生まれた。負ける企業が消え、勝てる企業が残る。これが経済全体を強化する。

高市政権は、もし本気なら、ライドシェア解禁、オンライン診療自由化、農地法大改正、電力・ガス完全自由化を優先すべきであるだろう。原則自由、日没条項、規制影響評価(RIA)を制度化するのもよいだろう。外資参入を条件に国内企業も参入可能とすれば、既得権益を突破できる。規制緩和は外資の発展素地となる。しかも、それが日本経済を活性化する唯一の道であるが、実際のところ、日本社会はそれを何よりも実際は嫌っているのだ。

 

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OTC化の加速と医療費削減の日本的ジレンマ

スイッチOTC化推進

厚生労働省は現在、医療用医薬品の一般用医薬品(OTC)への転用を加速させる方針を明確に打ち出している。6月13日に石破政権下で閣議決定された「骨太の方針2025」では、OTC類似薬の保険給付の見直しが位置づけられ、早期実現可能なものは2026年度から実施する方向性が示された。この見直しは、医療費の持続可能性を確保し、現役世代の保険料負担を軽減することを目的としている。

具体的には、海外で既にOTC化された成分約60を対象に、2028年度末までに日本国内での転用を完了させる目標が掲げられている。代表的な進展として、8月29日の薬事審議会要指導・一般用医薬品部会で、緊急避妊薬「レボノルゲストレル」(ノルレボ)のスイッチOTC化が了承された。これは改正薬機法で新設された「特定要指導医薬品」の初適用事例であり、薬剤師の面前服用を条件に薬局での即時入手が可能となる。

加えて、胃薬「タケプロン」のOTC化も同月了承され、セルフメディケーションの選択肢が拡大した。 これらの動きは、医療用からOTCへの転用に関する評価検討会議の成果を反映したもので、軽度症状の自己治療を促進し、公的医療費の抑制を図る政府の強い意志がうかがえる。

検討会議では、第15回以降、単なる可否判断から課題解決策の提示へシフトし、産業界や消費者からの要望を幅広く取り入れる体制が整えられている。こうした政策は、2025年5月14日の薬機法改正と連動し、オンライン服薬指導の活用も視野に入れた柔軟な運用を可能にしている。

患者負担増への反発

OTC化推進に対する批判世論は、2025年を通じて急速に高まっている。自民党、公明党、日本維新の会の3党は6月11日に社会保障改革に関する合意をまとめ、OTC類似薬の保険給付除外を明記したが、これに対し、患者調査では94.9%が反対を表明し、「負担激増で生活が崩壊する」「アトピー患者のQOLが低下する」といった声がSNS上で爆発的に広がった。例えば、X(旧Twitter)ではアレルギー患者の体験談が相次ぎ、「痒くて死にたいほどの苦痛を、OTCで誤薬したらどうなるのか」との投稿が数万の反響を呼んだ。

対して、日本医師会会長は3月時点の話だが、「容認の余地なし」とし、保険医団体は「地域医療の崩壊を招く」と猛反発を展開した。さらに、参院選2025の公約でも維新、国民、参政党が保険除外を推進したため、「手取りを増やすと言いながら薬代負担が増す矛盾」との怒りの声が京都をはじめ全国で噴出している。

全日本民医連も4月16日の声明で「健康格差を生む」と反対を表明し、3党協議での28有効成分(総額1543億円)の除外提案を「命にかかわる改悪」と非難した。これらの批判は、単なる経済的負担の問題を超え、誤用リスクや医療アクセスの質低下を懸念するものであり、政府の政策に深刻な亀裂を生んでいる。SNSでは「OTC化で重症化したら誰が責任を取るのか」との投稿が数百件に及び、世論の二極化を象徴している。

上位10品目の実態

厚労省政策議論の背景には、医療用医薬品のOTC転用による公的医療費削減効果の試算がある。厚生労働省の過去のシミュレーションでは、対象品目の転用で全体700億円の削減が見込まれ、そのうち上位10品目が560億円を占める。つまり、上位10品目だけで全体の80%をカバーする構造である。この試算は、特定の対象品目を基にした初期段階の数字であり、確定値ではないが、議論の基盤となっている。以下に、これらの品目を順に挙げて、今回の話題の実態を考察したい。

まず1位はロキソニンで、医療費250億円を占める。これは鎮痛・抗炎症薬として頭痛、生理痛、腰痛などに広く処方されるためである。市販の代替としてロキソニンSが700円程度で入手可能であり、既にOTC化されている。2位のムコスタは80億円で、胃炎・胃潰瘍治療薬だが、H2ブロッカー系などのOTC胃薬で軽度症状に対応できる。3位ガスターは60億円で、消化性潰瘍や急性胃炎に用いられるが、ガスター10が完璧な代替としてOTC化済みである。4位アレグラは40億円で、アレルギー性鼻炎や蕁麻疹向けだが、アレグラFXが花粉症対策として市販されている。5位ナゾネックスは30億円で、花粉症やアレルギー性鼻炎の点鼻薬であり、OTC化候補として検討中である。6位クラリチンは25億円で、同様に花粉症・鼻炎薬で、クラリチンEXが眠くなりにくい選択肢としてOTC化済みだ。7位ジルテックは22億円で、花粉症や蕁麻疹に有効で、ジルテック錠のOTC版が存在する。8位タリオンは20億円で、花粉症・鼻炎特化型であり、OTC候補である。9位アレロックは18億円で、即効性の花粉症・鼻炎薬として知られ、OTC化が検討されている。最後の10位メインテートは15億円で、高血圧や狭心症の治療薬であるが、これは医師の厳重管理が必要なためOTC対象外の例外品目である。

これらの上位9品目、すなわちロキソニンからアレロックまでの合計545億円は、主に鎮痛薬やアレルギー薬で構成され、日常的な軽度症状に対する処方が大半を占める。メインテートを除けば、これらは自己判断で対応可能な領域であり、医療費の「固定費化」を象徴している。この点は、後に海外での状況と比較したい。

ロキソニン250億円の過剰処方構造

上位品目の中で特に第一位で目立つのがロキソニンの250億円である。これは医療費全体の約36%に相当し、国民的鎮痛薬としての地位を物語る。患者数は約2000万人を超え、人口の約1/6が利用していると推定される。整形外科、内科、歯科、婦人科のほぼ全診療科でファーストチョイスとして処方され、頭痛や生理痛では70%、腰痛・関節痛では60%、歯痛では80%のケースで選ばれる。薬価は1錠9.7円と安価で、1回の処方が3錠×10日分で約290円、患者負担3割で87円となるため、気軽な長期処方が常態化している。年4回処方される患者が平均的であれば、1人あたり1160円の負担で総額232億円に達する計算である。

この膨張の背景には、医師と患者の双方の「ロキソニン信仰」がある。安全で即効性が高いとのイメージがなぜか定着し、不要不急の処方が増加している。加えて、市販のロキソニンSが700円で12錠分であるのに対し、保険適用で実質 h87円と圧倒的に安いため、病院受診の経済的合理性が働く。2011年のOTC化以降も医療用処方は減らず、むしろ胃粘膜保護剤のムコスタとのセット処方が80億円を押し上げている。

しかし、医学的には、ロキソニンの処方でなくても、イブプロフェンやアセトアミノフェンで代替可能な軽度~中等度の痛みが大半を占めており、WHOの疼痛ラダーでも同等の位置づけである。メタアナリシスでも有効性に有意差はない。なのに、日本の医療現場の慣性と保険の甘さが250億円のブラックホールを生んでいる。この70%はイブプロフェンOTCに置き換えれば175億円、残りをアセトアミノフェンで75億円削減可能である。実際、スウェーデンではイブプロフェンが第一選択で日本の1/10の医療費に抑えられている。

花粉症薬155億円の季節的負担

次に、花粉症関連薬が上位品目を埋め尽くすしていることも異様な印象を与える。4位から9位までのアレグラ、ナゾネックス、クラリチン、ジルテック、タリオン、アレロックの合計155億円は、全体の22%を占める。患者数は3000万人を超え、日本人の4人に1人が花粉症に悩まされる国民病である。シーズン2~4ヶ月×毎日2錠の長期連用が特徴で、1人あたり1シーズン5000円超の処方につながる。アレグラの40億円はフェキソフェナジン主成分でアレグラFXが700円で代替可能、クラリチンの25億円はロラタジンでクラリチンEXが眠気少なくOTC化済み、ジルテックの22億円はセチリジンでOTC版が存在する。一方、ナゾネックス30億円、タリオン20億円、アレロック18億円は点鼻薬や即効型でOTC候補だが、重症例では医師判断が必要だ。

保険適用で60錠が144円なのに対し、市販は700円と5倍の差が生じ、毎年病院受診を促す。なお、北欧では抗アレルギー薬の9割がOTCで医療費は日本の1/5に抑えられている。日本では「毎年同じ薬」の習慣が155億円の季節税を生むんでいるかのようだ。80%をOTC移行すれば124億円削減可能であり、軽症の花粉症はWHO基準ではセルフメディケーション適格である。SNS上では「鼻水で病院が混むのは保険のせい」との投稿が患者のフラストレーションを露呈している。

セルフメディケーション推進と医療のジレンマ

OTC化の本質は、セルフメディケーションの確立にある。セルフメディケーションは、WHOの定義では、軽度疾患の自己治療が医療費抑制と利便性向上を促すとされている。日本でもセルフメディケーション税制でOTC購入を所得控除対象としている。 上位9品目の545億円は頭痛や花粉症のような日常不調が中心で、この点からは、医療の対象外と位置づけられる。転用により公的負担ゼロ化が可能で、1人あたり年4300円の保険料抑制につながる。とはいえ、第10位のメインテート15億円だけが血圧測定と副作用監視を要する真の医療領域であることには注意したい。

日本の医療という点から見れば、医療費の問題は深刻な状態にある。高齢化社会で医療費50兆円超の日本では、病院依存文化が定着し、OTC化推進が患者負担増と誤用リスクを招く可能性がないわけではない。だが、批判世論の94.9%反対は、健康格差の拡大を恐れる声であり、入院中の適用除外や重症化の懸念とは異なる。他にも潜在的な問題としては、現行ロキソニン多用と長期服用で胃潰瘍がある。政府の推進は医療のスリム化を狙うが、薬剤師教育の不足や価格抑制策の遅れは現実はジレンマを生むことになる。

海外は迅速OTC化に成功

海外では、OTC化がよりスムーズに進んでいる。欧米、特に米国とEUでは、抗アレルギー薬の9割がOTC化され、スウェーデンでは審査期間を6ヶ月短縮し、医療費を1/5に抑制している。 セルフメディケーション税制の活用率が高く、誤用防止のための教育が徹底されている。英国では緊急避妊薬が即日OTCで面前服用不要となる。これらは、WHOガイドラインに準拠しアクセスを向上させた。特にスイスは面前服用廃止後、販売率が向上し、患者利便性を優先した運用で成功を収めている。これに対し、日本は審査の予見性向上と製造販売後調査の具体化を厚労省が進めているが、石破政権下の三党合意の強引さが海外モデルとのギャップを露呈しているる。いずれにせよ、海外の成功事例からは、薬剤師の役割強化と価格競争が鍵であり、日本もこれを参考にバランスの取れた転用を進めるべきであることを示唆している。

 

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2025.11.03

「普遍的課題」という名の罠:グローバル支配の新技術

現代の権力は「課題」を武器にする

現代社会では、気候変動、パンデミック対策、AI規制、テロリズム、サイバーセキュリティ、民主主義の危機といったテーマが、国際会議やメディア、企業報告書で繰り返し取り上げられ、全人類が協力すべき「普遍的課題」として提示されている。これらの問題は、単なる議論の対象ではなく、グローバルな行動を促す強力な枠組みとして機能しているのだ。例えば、2023年のCOP28では190カ国が参加し、化石燃料からの移行を加速させる合意がなされた。また、2024年のG7サミットではAIの安全保障が中心議題となり、2025年11月現在、WHOは「パンデミック条約」の改訂を進め、EUは「AI法」をすでに施行している。これらの動きは、国際社会の連携を象徴するように見えるが、その裏側に潜む権力のダイナミクスを無視することはできない。

確かに、これらの課題は実在する。IPCCの第6次評価報告書(2021-2023)では、地球温暖化がすでに1.1℃進行中であると警告されており、人類が直面する深刻な脅威を科学的に裏付けている。COVID-19パンデミックについては、WHOの公式推計で世界で7億人以上が感染し、700万人超が死亡した事実がその被害の規模を示している。さらに、AIの軍事利用に関しては、米国国防総省の2024年報告書で「国家安全保障の最優先課題」と位置づけられ、ドローンや自律兵器の進化が現実的なリスクとして指摘されている。これらのデータは、問題の緊急性を否定できないものだが、本質的な争点は「課題が実在するか」ではなく、「誰が解決策を定義し、実行する権限を持つか」という点にある。

現代の権力構造は、従来の軍事力や経済力に頼るのではなく、「普遍的課題」という枠組みを巧みに武器化している。この戦略は、参加を事実上強制し、ルールの設計を独占し、反対意見を無効化する装置として機能するのだ。その結果、特定のエリート・ネットワーク――例えばWEF(世界経済フォーラム)、ビル&メリンダ・ゲイツ財団、ビッグテック企業、国際機関――が、世界の再設計を主導するようになる。これらのネットワークは、善意の名の下にグローバルなインフラを構築し、個々の国家や市民の選択肢を狭めていくのだ。

本稿では、この複雑な構造をプロセス・モデル的に解剖する。まず表層の協力呼びかけから始め、機能的な強制メカニズム、実態としての永続的動員、具体的な事例検証、そして中堅国が「降りる」ための現実的脱出戦略までを順に追う。特に、日本を含む中堅国がこれらの枠組みから部分的離脱し、独自の道を模索する可能性に焦点を当てる。これにより、「普遍的課題」がもたらす罠を明らかにし、民主主義の回復に向けた道筋を探る。

戦略の三層構造:表層・機能・実態

この「普遍的課題」の戦略は、表層、機能、実態という三層で構成されており、それぞれが連動して権力を強化している。まず表層では、「これは人類共通の課題だ」との訴えが展開される。気候変動は「地球を救え」というスローガンで、パンデミックは「公衆衛生は国境を越える」とのメッセージで、AIは「倫理的利用は全人類の責任」と道徳的に人々を動員するのだ。このような呼びかけは、2021年のグラスゴー気候協定で「1.5℃目標」が全会一致で採択されたように、国際的な合意を形成する。また、2022年のG20バリ宣言では「パンデミック基金」の設立が決まり、2024年の国連AIサミットでは「グローバルAIガバナンス」の提唱が進んだ。これらの事例は、協力の必要性を強調する一方で、参加しない選択肢を「無責任」と定義づける。企業は「気候中立」を宣言してイメージを向上させ、政府は国際協力を拒否できないと主張する――こうした表層の論理は、感情的な共感を基盤に広く浸透するのだ。

表層の呼びかけが人々を引き込むと、次に機能層が発動する。課題が「全人類のもの」である以上、解決策の枠組みを設計する者が圧倒的な権力を握る仕組みだ。例えば、炭素クレジット制度では、EUのCBAM(2023年導入)が輸入品に炭素税を課し、その設計者は欧州委員会と金融機関に集中している。ワクチンパスポートでは、2021年のIATAトラベルパスが航空業界の標準となり、主導権は航空連合とビッグテックが握った。デジタルIDの分野では、インドのAadhaarが13億人を登録し、WEFから「グローバル標準のモデル」と称賛されている。さらに、ESG基準ではブラックロックが2024年に1兆ドルの資産運用でこれを必須化し、民間による実質的な立法を実現している。この機能層の鍵は、反対者をレッテル貼りで無効化することだ。「気候変動懐疑論者」「反ワクチン」「権威主義擁護者」「非民主的」といったラベルが貼られ、2023年の欧州議会決議では「気候否定主義」が「誤情報」と定義された。これにより、議論の余地が封じられ、ルール独占が強化されるのだ。

そして、実態層では課題が「解決」されるのではなく、「対処し続ける」ものに設計される。気候変動の歴史を振り返れば、1997年の京都議定書から2015年のパリ協定、2050年のネットゼロ目標、そして2100年の「気候回復」へとゴールポストが常に移動する。パンデミックもSARS(2003年)、H1N1(2009年)、COVID-19と続き、「次のパンデミックに備える」として2024年にCEPIが「100日ワクチン計画」を推進している。AIでは2016年のAsilomar原則から2023年のBletchley宣言へ、そして「AI安全保障サミット」の恒常化が進む。この永続化は、「中国・ロシアはルールを守らない」との競争論理で正当化され、2024年の米国による中国AIチップ輸出規制やEUの「デジタル主権」主張がその例だ。結果として、グローバルなインフラ――決済網、データ基盤、サプライチェーン――が特定のエリート・ネットワークに依存する構造が生まれ、表層の善意が巧妙にカモフラージュされるのだ。この三層は、互いに補完し合い、参加者を永遠のループに閉じ込める。

三つの「普遍的課題」の解剖

これらの構造をより具体的に理解するため、三つの代表的な「普遍的課題」――気候変動、パンデミック対策、デジタルガバナンス――を解剖してみよう。まず気候変動は、表面上は地球温暖化の阻止を目的としている。IPCCの報告書が2100年までに3℃上昇のリスクを警告するように、科学的な根拠は確かだ。しかし、実態は先進国企業が有利な炭素市場の設計にある。EUのETS(2005年開始)は世界最大の炭素取引市場で、2023年の取引額は1兆ユーロを超え、主な受益者は欧州エネルギー企業と金融機関だ。発展途上国にとっては、CBAMにより鉄鋼・セメント輸出に追加関税が課され、インドは2024年に「不公平な貿易障壁」と反発した。また、グリーン技術覇権では米国がIRA法(2022年)でEV補助金3870億ドルを投入し、中国が太陽光パネルで世界シェア80%を握る一方、アフリカの天然ガス開発は「脱炭素」の名の下に資金調達が困難化し、2024年にナイジェリアが「エネルギー貧困の悪化」を訴えている。このように、課題の実在性が支配の正当性を隠す役割を果たすのだ。

次にパンデミック対策は、表面上は次の感染症への備えだ。COVID-19が世界経済を6兆ドル縮小させた(IMF推計)事実は、その必要性を裏付けている。しかし、実態はWHOの超国家権限強化にある。2024年の「パンデミック条約」草案はWHOに「緊急事態宣言権」を付与し、国家の主権的決定を拘束する条項を含んでいる。ワクチンサプライチェーンではCOVAXが2021-2023年に20億回分を供給し、主導はGaviとゲイツ財団で、2025年現在mRNA技術の特許はファイザー・モデルナが独占している。デジタル監視では中国の健康コードが2023年にWEFから「国際標準の参考」と評価され、EUは2024年にデジタル健康パスポートの恒常化を議論中だ。さらに、「次のパンデミックに備える」がWHO予算の40%を占める永続的緊急状態が構築されている。

デジタルガバナンスは、表面上AIの倫理的利用を目指す。2024年にChatGPTが10億ユーザーを突破し、軍事ドローンの自律化が現実的脅威となる中、その重要性は明らかだ。しかし、実態は米国・EUが規制基準を独占する構造にある。EUのAI法(2024年施行)はリスク分類で「高リスクAI」を禁止し、定義権は欧州委員会にある。米国は2023年にAIチップ輸出規制を強化し、中国の華為は2025年に独自チップ開発で遅れを取っている。データ主権ではGDPR(2018年)がEU市民データの域外移転を制限し、米国企業に2024年10億ドルの罰金が科された。産業支配ではOpenAI、Google、Metaが2025年にAI特許の70%を保有する。これらの共通点は、課題の実在性が支配の最高のカモフラージュであること――「課題は操作されている」と言えば陰謀論扱いされ、「課題は実在する」と言えば枠組みに取り込まれるジレンマが生じる点だ。

動員の四層メカニズム

この戦略の強みは、四層の動員メカニズムにある。レベル1の道徳的動員では、「善vs悪の戦い」と感情的に巻き込む。グレタ・トゥーンベリが2019年に国連で「あなたたちは私たちの未来を盗んだ」と訴えたように、企業は「ネットゼロ宣言」でブランド価値を高める。レベル2の技術的動員では、「問題は複雑で専門的」と一般市民を意思決定から排除する。IPCCモデルが数百の変数を扱い、WHOの予測が疫学者のコンセンサスに依存するように、「専門家に任せる」しかない状況を作り出す。

レベル3の構造的動員は、依存関係を構築し「抜けられない」システムにする。炭素市場が企業の財務報告に必須となり、デジタルIDが銀行口座開設に必要で、2025年にインドがAadhaar未登録者に福祉給付を停止した例がその典型だ。レベル4の時間的動員では、「今すぐ行動しなければ手遅れ」と緊急性を政治利用する。「気候非常事態宣言」が英国(2019年)や日本(2021年地方自治体レベル)で採択され、議会を無視した政策実行を可能にする。この層が民主的議論をスキップさせる最終装置なのだ。四層が連動することで、参加者は自らを「善の側」に位置づけ、抵抗を心理的に困難にする。

脱出戦略:中堅国の「部分的離脱」

「普遍的課題」から完全に降りるのは困難だが、部分的離脱と代替枠組みの構築は可能だ。まず課題のローカル化として、気候変動を「日本の森林保全」や「地方分散型エネルギー」に置き換える。日本は2025年に森林面積の40%を維持し、年間1億トンのCO2を固定(林野庁)しており、離島マイクログリッドが2024年時点で50地域で稼働し再生可能エネルギーの自給率80%超を達成している。これにより、グローバル基準に縛られず自国の文脈で解決する。

次に条件付き参加として、国際条約に「主権条項」を挿入する。日本は2023年のCPTPPで「国内法優位」を条件に参加し、WHO条約交渉では2025年に「緊急事態時の国内決定権」を主張すべきだ。これで盲目的従属を避ける。並行システムの構築では、BRICSの代替決済システムや独自AI基準を活用する。2024年にBRICSが「BRICS Pay」を試験運用し、ドル依存を2025年までに30%削減目標とし、日本は経産省主導で「信頼性AI基準」を策定しEU・米国基準と並行運用する。これでグローバルインフラへの依存を分散する。

国民的合意の形成では、「普遍的課題」への参加を国民投票で決定する。スイスが2021年にCO2法を国民投票で否決したように、日本は2025年にデジタルID導入前に「プライバシー影響評価」を国民投票で審議可能だ。炭素税や監視技術の導入を民意でフィルターする。日本特有の可能性は中立性のブランド化だ。スイスが赤十字の本拠地として中立を活用するように、日本は2025年に「課題中立の対話プラットフォーム」を主宰可能で、技術力を活かしローカル解決を国際的に提案する。例えば、日本の水素技術は2024年に豪州で実証済みだ。これらの戦略は、完全離脱ではなく柔軟な抵抗を可能にする。

課題の実在性と支配は別物

気候変動、パンデミック、AIリスクは実在する。IPCCのデータ、WHOの死亡者数、軍事AIの事例は否定できない。しかし、「炭素税+市場メカニズムが唯一の解決策か」「WHOに超国家権限を与えるべきか」「EU・米国がAI基準を独占すべきか」を問う権利は残されている。「普遍的課題」は民主主義を「参加型独裁」に変える装置だ。参加は強制され、ルールは独占され、反対は無効化される。私たちが問うべきは「誰が枠組みを定義するか」であり、「降りる」選択肢を確保することだ。

課題の実在性を認めつつ、支配の構造を解体する。ローカルな解決、条件付き参加、並行システム、国民投票――これらが現代の抵抗である。日本は中立性と技術力で、新たなガバナンスのモデルを提示できるだろう。

 

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2025.11.02

なぜポクロフスク陥落は戦争の転換点なのか:ミアシャイマー教授の現実主義分析

序論:幻想の終わり

ここでは、国際政治学の現実主義(リアリズム)の大家であるジョン・ミアシャイマー教授の分析に基づき(参照)、ウクライナ東部の都市ポクロフスクの陥落が、単なる戦術的な敗北ではなく、ウクライナ戦争の根本的な力学が表面化した「決定的瞬間」であることを解説します。

この戦争の現状を深く理解するために、ミアシャイマー教授は以下の3つの重要な概念をレンズとして用いています。

  • 消耗戦(War of Atrition)
  • 構造的現実(Structural Reality)
  • 戦略的枯渇(Strategic Exhaustion)

ミアシャイマー教授の核心的な主張は、「戦争の勝敗は、道徳的な物語やスローガンではなく、人的資源、産業能力、兵站といった物量的な現実によって決まる」というものです。ポクロフスクでの出来事は、この冷徹な真実を何よりも雄弁に物語っています。

1. 消耗戦の冷徹な論理:なぜ物量が重要なのか

「消耗戦」とは、敵の戦闘能力を徐々に削り取っていく戦争の形態です。短期的な機動戦で決着がつかない長期にわたる紛争において、最終的に勝敗を左右するのは、どちらがより長く損失に耐え、兵士や兵器を補充し続けられるかという「国力」そのものになります。人的資源、産業基盤、そして兵站(ロジスティクス)の優劣が決定的な意味を持つのです。これは、国際関係における力の不均衡が最終的に結果を規定するという、現実主義の最も基本的な洞察を裏付けるものです。

ミアシャイマー教授の分析によれば、この戦争は当初からロシアに構造的な有利性がありました。以下の表は、両国の戦争遂行能力の根本的な違いを示しています。

能力項目 ロシア ウクライナ
人的資源 より多くの兵士を動員可能 損失の補充がますます困難に
産業基盤 戦時体制への移行と国内での生産拡大 兵器や弾薬の供給を外部からの支援に完全に依存
戦略的縱深 広大な国土と資源による損失への高い許容度 予備兵力の枯渇が深刻化

西側諸国は、最新技術の供与や大規模な金融支援によって、この「構造的な不均衡」を埋め合わせようと試みました。しかし、それらは根本的な解決にはなりませんでした。なぜなら、ロシアが自国の産業を本格的な戦時体制に移行させ、ウクライナの消耗を上回るペースで物量を投入し始めたからです。その結果、戦争のテンポ(戦闘の激しさと物資の消費速度)は、西側からの不規則な支援に依存するウクライナが持つ手段と、次第に一致しなくなっていきました。

2. ポクロフスク陥落が象徴する「戦略的枯渇」

ポクロフスクの陥落が重大なのは、それが単に一つの都市が失われた以上の意味を持つからです。これは、ウクライナ軍の「戦略的予備兵力の枯渇」が、もはや否定できない形で表面化した瞬間でした。戦略的予備兵力とは、危機的な状況で投入できる最後の切り札であり、これが尽きたとき、軍は戦線を維持する「弾力性」を失います。

この戦略的枯渇に決定的な影響を与えたのが、2023年のウクライナによる大規模な反転攻勢でした。

  • 目的: NATOによって訓練・装備された最も精鋭な部隊を投入し、ロシアの堅固な防衛線を突破することを目指しました。
  • 結果: しかし、この攻勢は決定的な突破を果たせず、逆にウクライナは最も有能で経験豊富な部隊を大きく消耗させる結果となりました。
  • 帰結: 一度失われた熟練の部隊は、短期間で再建することはできません。この損失により、後にロシアが攻勢に転じた際、ウクライナは効果的に対応するための予備兵力を欠き、防衛の弾力性を失っていたのです。

「消耗」は、外部からは見えにくい形で静かに進行します。しかし、内部では以下のような兆候が現れていました。

  • 死傷者の増加と、それを補充する兵士の質の低下
  • 前線部隊のローテーション(交代)が困難になる
  • 十分な訓練を受けていない兵士への依存度が高まる

これらの兆候は、ウクライナ軍内部で深刻な緊張が高まっていたことを示しており、ポクロフスクでの崩壊は、その蓄積された圧力が限界点を超えた結果だったのです。

3. 西側の大きな誤算:なぜ彼らは間違ったのか

ミアシャイマー教授は、西側諸国がこの戦争において根本的な誤算を犯したと指摘します。その誤りは、主に以下の3つの点に集約されます。

  1. 道徳的物語と戦略の混同 西側はこの戦争を「民主主義 対 権威主義」という壮大な物語として描き、その道徳的な正当性があれば、物量的な不利を覆せると信じ込みました。しかし、戦場は物語に無関心です。現実は、自らの野心と能力を一致させた国家に報いるものであり、理想や価値観だけでは砲弾の不足を補うことはできません。
  2. 約束と現実の乖離 西側指導者たちは「ウクライナが必要な限り支援する」という力強いレトリックを繰り返しました。しかし、この「無制限の支援という幻想」は、ウクライナにとって致命的な「罠」となりました。この約束を信じたウクライナは、自らの物質的な現実が許容する範囲を超えた最大目標(領土の完全解放など)を追求するよう動機づけられ、最も精鋭な部隊を持続不可能な攻勢に投入してしまったのです。結果としてウクライナは、敗北を防ぐには十分だが、勝利を可能にするには全く不十分な支援しか得られず、自らの戦略的枯渇を加速させることになりました。
  3. ロシアの過小評価 戦争初期、西側では経済制裁によってロシア経済が崩壊するという期待が広く共有されていました。しかし、これは希望的観測に過ぎませんでした。ロシアは自国の産業を巧みに戦時体制に適応させ、非西側諸国との連携を深めることで、制裁の効果を限定的なものにしました。ロシアの強靭さは驚きではなく、広大な産業基盤と資源への主権的支配を持つ大国にとって、むしろ予測可能な帰結でした。西側の道徳的な確信が、この構造的な現実を見えなくさせていたのです。

4. ロシアの適応戦略:消耗から主導権へ

戦争初期に拙速な攻勢で失敗を喫したロシアは、そこから学び、戦略を大きく転換させました。派手な電撃的な突破を目指すのではなく、ミアシャイマー教授が「methodical」と表現した、まさにロシア語で言うところの「методично」な、ウクライナの抵抗能力そのものを系統的かつ執拗に粉砕する作戦へと移行したのです。これは、焦らず、着実に、相手の力を削いでいく戦略です。

ロシアが採用した具体的な戦術には、以下の3つが挙げられます。

  • インフラへの体系的攻撃 エネルギー施設、弾薬庫、交通の結節点といった後方の重要インフラを標的にし続けました。これにより、ウクライナの産業的持久力と前線への補給能力(兵站)を徐々に麻痺させていきました。
  • 広範囲での継続的な圧迫 一つの戦線に固執せず、ハルキウからドンバス、そして南部へと至る広大な戦線で持続的な圧力をかけ続けました。これにより、ウクライナの限られた予備兵力を各地に分散させ、一つの場所に集中させないように仕向けました。
  • 主導権の完全な掌握 常にウクライナを「受け身」の防戦一方の立場に追い込みました。これにより、いつ、どこで、どの程度の規模の戦闘を行うかという、戦闘のテンポと場所をロシア側が決定できるようになり、ウクライナはロシアの意図に対応し続けることで消耗を強いられました。

5. 交渉への道:避けられない現実主義的選択

ミアシャイマー教授は、ポクロフスクでの崩壊を経て、今や「交渉」がウクライナにとって不可欠な選択肢になったと論じます。これは降伏を意味するのではありません。これ以上の国土の荒廃、人的資源の消耗、そして国家としての崩壊リスクを避けるための、避けられない現実主義的な判断であると位置づけています。

交渉を巡る各当事者の状況は、以下の通りです。

  • ウクライナ 戦争を継続すればするほど、人的資源とインフラをさらに消耗します。時間の経過は、戦況を悪化させ、交渉における立場をさらに弱める可能性が高い状況です。
  • 西側諸国 無期限の支援は、各国の国内経済や政治的事情によって限界に達しつつあります。特に、米国の政治状況(トランプ氏の再選の可能性など)は、将来の支援に対する深刻な不確実性を生み出しています。
  • ロシア 戦況は有利ですが、無期限の戦争は望んでいません。ウクライナのNATO加盟阻止など、自国の中核的な安全保障上の利益が確保される形での紛争の決着を求めていると考えられます。

ミアシャイマー教授が警告するこの戦争における「最大の悲劇」とは、最大目標の追求と、西側からの永続的な支援への誤った信頼のために、戦争初期に存在したかもしれない外交的解決の可能性が見過ごされてしまったことにあるのです。

結論:力が可能性を定義する

ジョン・ミアシャイマー教授の分析から我々が得るべき最も重要な教訓は、極めてシンプルかつ冷徹なものです。それは、「国際政治において、道徳的な願望や美辞麗句のレトリックは、力の構造的な現実に取って代わることはできない」という現実主義の核心です。

ウクライナの悲劇は、その国民や兵士の勇敢さが足りなかったことにあるのではありません。その勇敢さに対して、自国の産業、戦略、そして人口動態が支えきれないほどの、あまりにも重い荷を負わされてしまったことにあります。

この戦争は、国際関係を学ぶ者すべてに厳しい教訓を突きつけています。それは、「国家の指導者が、自国の『願望』と、それを達成するための『現実的な能力』を混同するとき、その代償は計り知れないほど大きなものになる」という事実です。ポクロフスクの戦場で起きた悲劇は、この不都合な真実がもたらす結末を、我々全員に突きつける冷徹な警鐘なのです。

捕捉:ミアシャイマーによる力と道徳の国際政治の公理

ミアシャイマー教授は、ウクライナ戦争における西側の戦略的失敗を分析する中で、この原則を強調しています。これらは、ミアシャイマー教授の現実主義(リアリズム)の立場が、国際政治の結果は感情や道徳ではなく、物質的な能力と国力(Power)の構造によって決定されるという核心的な信念に基づいていることを示しています。

1. 「道徳的な美辞麗句(レトリック)が、力の構造的な現実の代わりになることはできない」という核心的な論点:

 Moral narratives cannot substitute for material power and that the Pokrovsk collapse marks a decisive moment where structural realities overcome political rhetoric.

道徳的な物語は物質的な力の代わりにはなり得ず、ポクロウスクの崩壊は構造的な現実が政治的なレトリックに打ち勝った決定的な瞬間を示す。

2. 「道徳的な確信が構造的な不平等を克服できるという前提」に関する言及:

From the beginning The war rested on a dangerous premise that political will and moral conviction could overcome structural inequality

当初から、この戦争は、政治的意志と道徳的確信が構造的な不平等を克服できるという危険な前提に基づいていた) * これは、道徳的な願望(moral conviction)が構造的な現実(structural inequality)に取って代わることはできないという主張の裏返しです。

3. 「美辞麗句(レトリック)が戦略の代わりにはならない」という原則論:

 *Declarations are not a strategy and credibility is not preserved by rhetoric. It is preserved by hard power by industrial capacity and by political will. *

しかし、宣言は戦略ではなく、信頼性はレトリックによって保たれるのではない。それはハードパワー、産業能力、そして政治的意志によって保たれる)

4. その他の関連表現

Armies do not prevail through slogans or moral narratives They win through manpower logistics industrial capacity and strategic coherence.

軍隊はスローガンや道徳的な物語によって勝利するのではない。彼らは人的資源、兵站、産業能力、そして戦略的一貫性を通じて勝利する。

Realism does not deny morality It simply refuses to confuse it with strategy A moral cause can still be strategically doomed if it ignores the balance of power.

リアリズムは道徳を否定しない。単にそれを戦略と混同することを拒否する。力の均衡を無視すれば、道徳的な大義であっても戦略的には破滅する可能性がある。

Morality however genuina is not a substitute for strategy. States do not prevail because they believe they should win They prevail because they possess the power to impose outcomes.

道徳は、いかに本物であっても戦略の代わりにはならない。国家は勝つべきだと信じているから勝利するのではなく、結果を強いる力を持っているから勝利する。

 

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2025.11.01

欧州はMS Officeから脱却する

ドイツのデジタル独立宣言

2025年10月31日、国際刑事裁判所(ICC)がMicrosoft Officeから脱却し、openDeskを採用すると発表した。すでに昨年、ドイツ連邦内務省は「openDesk v1.0」をリリースしていたが、その延長にある動向であり、欧州の公的機関が長年依存してきたMicrosoft Officeからの脱却が、現実のものとなった瞬間である。

openDeskは、オープンソースのオフィススイートとして、誰でも無料で使えるLibreOfficeの技術を基盤に、CollaboraやNextcloudと連携。文書作成、表計算、プレゼンテーションに加え、メール、チャット、ビデオ会議まで一つのクラウドプラットフォームで完結するものである。2024年10月15日から17日にかけてベルリンで開催されたSmart Country Conventionで公式に発表され、ZenDiS社が主導した3年間の開発が結実した。

なぜドイツはそこまでするのだろうか。理由は「デジタル主権」である。Microsoft Officeのファイル形式「OOXML」(.docx、.xlsx)は便利だが、Microsoft製品以外では完全に再現できない。また、クラウド版のMicrosoft 365は、ユーザーのデータをアメリカのサーバーに保存する。これらは欧州の個人情報保護法(GDPR)に抵触するリスクがある。このため、ドイツは「自国のデータは自国で管理する」と決め、2022年にZenDiS社を設立。3年間で数百万ユーロを投じ、openDeskを完成させた。

今回国際刑事裁判所がopenDeskを採用したのは、アメリカの経済制裁下でも、欧州のルールでデータを守れるツールとして評価されたためである。つまり、openDeskは単なるMicrosoft Officeの代替品ではなく、欧州が「Microsoft依存」を断ち切るモデルケースであり、そのことは、これから日本が直面する「文書ガラパゴス化」の警鐘でもある。

EUに広がるLibreOfficeの潮流

Microsoft Office脱却の動向が近年欧州に広がっている。ドイツ北端のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州では、2017年から「デジタル主権プロジェクト」を開始し、2025年末までに約3万台の公務員用PCを、Windows+Microsoft Officeから、Linux+LibreOfficeに移行する。現状、Microsoft Officeの使用は70%削減され、2024年8月からはODFが公文書の唯一の標準として義務化された。さらに州議会は「Microsoft製品は例外的な場合のみ」とする法改正まで行った。openDeskはこの実績を参考に、2026年以降に連邦省庁の10万席への展開が計画されている。

この背景にあるのは、2023年から2024年にかけての欧州データ保護監督機関(EDPS)の調査だ。Microsoft 365が「診断データ」と呼ばれる使用状況のログ(どのボタンを押したか、エラーの発生時間など)を、ユーザーの明確な同意を得ずにアメリカのサーバーに転送していることが発覚した。欧州の個人情報保護法(GDPR)は「個人データは同意なく他国に送ってはならない」と定めており、2024年3月8日の決定でEDPSは「同意取得が不十分」と判断。欧州委員会や各国政府に「Microsoft 365の使用見直し」を強く勧告した。これが「Microsoftにデータを預けるのは危険」という認識を一気に広め、各国に衝撃を与えた。

一方、LibreOfficeは2024年8月8日の最新版(v24.8)でセキュリティを大幅に強化。暗号化機能の向上や脆弱性対策を徹底し、Microsoft Officeのようなタブ付きの使いやすい画面(NotebookBar)を全アプリで標準化した。これにより、「LibreOfficeは使いづらい」というイメージを払拭し、移行のハードルを下げた。

欧州は「ODFを公文書の唯一の標準にすれば、互換性問題は根本的に解決する」と割り切った。ODFは誰でも無料で実装できる国際標準であり、MicrosoftがODF対応を進めたとしても、複雑な文書ではレイアウトが崩れる不安定さがある。欧州は「そんな互換性に頼るより、最初からODFで作ればいい」と判断し、抜本的な改革を進めていたのである。

日本の停滞と「ガラパゴス化」のリスク

日本政府の状況に目を向けてみよう。EUの動向とはあまりに対照的だ。公文書のファイル形式は、依然としてMicrosoft OfficeのOOXMLが事実上の標準である。例外的に国立公文書館は長期保存用にPDF/Aを採用しているが、これは「過去の文書を未来でも読めるようにする」ための措置にすぎない。日常業務の現用文書は、ほぼすべてMicrosoft Officeで作成されている。総務省のガイドラインでは「ODFとOOXMLの両方に対応すること」が推奨されているが、実態はMicrosoft一強であり、改善の指針は提示されていない。

他方、一部の自治体は動きを見せている。福島県会津若松市は2010年代からLibreOfficeを導入し、2025年現在、全市庁舎のPCを移行済みとした。年間数千万円のライセンス費を削減し、「市民サービスに予算を回せる」と評価されている。しかし、全国レベルでは進展がない。財務省や厚生労働省では、複雑なエクセルファイル(VBAマクロや特殊なグラフ)が大量にあり、LibreOfficeでは関数が動かない、レイアウトが崩れるといった問題が報告されている。総務省の2024年から2025年のDX推進計画に基づく推定では、自治体の9割が「互換性の懸念」を理由にLibreOffice移行を見送っている。

Microsoftとしては、Microsoft 365でODF 1.4に対応しているが、複雑な文書では表示が崩れる。日本政府文書は「1文字のズレも許されない」正確性が求められるとして、「安全策としてMicrosoftを使う」という慣習が根強い。結果、全国の自治体で毎年推定数百億円規模のライセンス費が米国に流出している。税金が海外に吸い上げられているのと同じだ。

しかも、問題は金銭だけではない。2025年10月14日、MicrosoftがOffice 2016などのサポートを終了すれば、過去の.docxファイルは開けなくなる可能性がある。欧州はODFで「永遠に開ける文書」を作っている。日本は「Microsoftが生きている間だけ開ける文書」に縛られている。これは行政の文書ガラパゴス化だ。国際標準から孤立し、将来の互換性が保証されない。
企業でも同じリスクを抱えている。VBAマクロに依存したエクセルファイルは、10年後に動かなくなるかもしれない。個人でも、家族の大事な文書(卒業アルバムのデータ、家の設計図)が開けなくなる可能性がないとは言えない。日本のオフィスソフト市場は2025年もMicrosoftが9割以上を占める。世界がODFに移行する中、日本だけがOOXMLに閉じこもる。

現状、総務省の「デジタルガバメント実行計画」では、2027年までにODFの活用を「検討」するとされているが、具体的なロードマップはない。欧州がopenDeskの波に乗り、Microsoftからの脱却を現実のものとしている今、日本は過去の慣習に縛られたままだ。このままでは、日本はデジタル文書は解読できない古代文書になるかもしれない。

 

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