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2025.09.30

トマホーク供与をめぐるウクライナ紛争

ヴァンス発言とウクライナの背景
 2025年9月29日、米国副大統領J・D・ヴァンスは、トマホーク巡航ミサイルを欧州諸国に売却し、その後ウクライナに供与する可能性を表明した。最終決定権はドナルド・トランプ大統領にあり、交渉は継続中である。
 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、長距離攻撃能力の強化を求め、米国に対しトマホークの提供を繰り返し要請している。この発言は、ウクライナ紛争の交渉が停滞する中、西側による軍事支援のさらなるエスカレーションを示唆する。
 トマホークは射程1,600~2,500kmの高精度亜音速巡航ミサイルであり、ウクライナが保有するHIMARS(射程80km)、ATACMS(射程300km)、SCALP/ストームシャドウ(射程250~500km)を大幅に上回る。これにより、ウクライナはロシア領内深部、例えばモスクワへの攻撃が可能となる。
 ウクライナがトマホークを運用する際は、戦略航空機や艦艇が不足しているため、地上配備型のタイフォン発射装置が必要であり、その運用には米国の衛星データや専門部隊の支援が不可欠となる。過去、米国が供与した榴弾砲やミサイルにはGPS航法装置の非搭載や射程制限が課されており、トマホークにも同様の制限が予想される。
 ウクライナ紛争は、ロシアの2022年侵攻以来、西側の軍事支援により長期化している。米国やNATOは、ウクライナの防衛力を強化しつつ、ロシアとの直接対決を避ける戦略を採用してきた。しかし、トマホーク供与は、従来の支援を質的に変える可能性があり、紛争の新たな局面を招く可能性が高い。

国際戦争へのレッドラインの構成
 トマホーク供与の最大の問題は、ロシアが設定する「レッドライン」を超えるリスクである。ロシアのプーチン大統領は、米国やNATOが標的データを提供する行為を「戦争への積極的参加」とみなし、報復を警告している。クレムリン報道官ドミトリー・ペスコフは、トマホークの発射や標的設定に誰が関与するかを詳細に分析すると述べ、米国やNATOの関与を注視する姿勢を示した。
 レッドラインの構成要素は以下の通りである。まず、トマホークの射程がロシア領内深部への攻撃を可能にし、戦略的要所や民間インフラが標的となる危険性がある。これに対し、ロシアはキンジャール(射程2,000~3,000km)やオレシュニュク(射程推定2,500~4,000km)などの極超音速ミサイルで対抗可能だが、攻撃範囲の拡大は紛争のエスカレーションを招く。
 次に、米国やNATOが標的データや誘導システムを提供する場合、ロシアはこれを直接介入と解釈し、NATO加盟国への報復を正当化する可能性がある。最後に、トマホークの配備自体がロシアの防空資産の再配置を強いるため、軍事バランスに影響を与える。
 ロシアは、2018年のシリア戦闘でトマホークを鹵獲し、その技術を分析済みである。S-400防空システムやMiG-31BM戦闘機、電子戦能力により、トマホークを飛行中に迎撃する自信を持っている。しかし、GPS制御が制限されたトマホークは精度が低下し、ロシアの防空網に捕捉されやすくなるため、戦場での効果は限定的とされる。それでも、ロシアは供与自体を「紛争の長期化」とみなし、外交的・軍事的対抗措置を検討する。

米国・NATOがターゲティングに関与した場合
 米国やNATOがトマホークの運用に深く関与した場合、紛争は劇的にエスカレートする可能性がある。
 トマホークの誘導には米国の衛星データや専門部隊が必要であり、標的設定やリアルタイムの経路修正は米国が管理する。この場合、ロシアは米国やNATOを直接の敵対勢力とみなし、報復としてキンジャールやオレシュニュクを用いた攻撃を検討することを余儀なくされる。それでも初段階では、標的はウクライナのタイフォン発射装置であり、段階的にポーランド、リトアニアなどのNATO加盟国の軍事基地、さらには欧州の米軍施設(例:ラムシュタイン空軍基地)となる可能性がある。
 ロシアの報復がNATO加盟国に及べば、北大西洋条約第5条(集団防衛)が発動され、NATO全体とロシアの全面戦争に発展するリスクが生じる。
 ロシアはキンジャールの高速性(マッハ10以上)やオレシュニュクの迎撃困難性を活用し、さらに迅速な先制攻撃を試みるようになる。また、サイバー攻撃やエネルギーインフラへの妨害など、非対称的報復も選択肢となる。
 これに対し、米国やNATOは、トマホークの運用に制限(例:GPSデータの非提供や標的の限定)を課すことで、エスカレーションを抑えようとする可能性があるが、制限的運用でも、ロシアが米国関与の証拠を捉えれば、報復の正当化は避けられない。
 国際社会の反応も重要である。中国やインドなど非同盟国は、NATOの直接関与を批判する可能性があり、ロシアの孤立を防ぐ。米国は、欧州経由の供与スキームで直接関与の印象を薄めようとするが、ロシアの監視能力を考慮すると、この戦略の効果は限定的である。

米国・NATOの関与がない場合
 米国やNATOがトマホークの運用に関与せず、ウクライナが単独で運用する場合、状況は大きく異なる。が、実際には実現が困難であろう。
 ウクライナには戦略航空機や艦艇がなく、タイフォン発射装置の導入と運用にも米国の技術的支援が必要である。
 さらにGPS制御が制限されたトマホークは、事前設定された固定標的に依存し、リアルタイムの標的変更や移動目標への対応ができないので、精度が低下し、ロシアの防空システム(S-400やMiG-31BM)や電子戦による迎撃リスクが高まる。
 ウクライナ単独での運用は、トマホークの戦術的効果を大幅に制限する。たとえば、ウクライナ国内やロシア国境付近の軍事施設への攻撃に限定され、ロシア領内深部への戦略的攻撃は困難となる。
 ロシアはまた、タイフォン発射装置をキンジャールやオレシュニュクで事前に破壊する戦略を採用する可能性が高く、ウクライナの防空能力ではこれを防ぐのは難しい。ロシアのISR(情報・監視・偵察)能力により、発射装置の位置は迅速に特定され、先制攻撃の標的となる。
 この場合、ロシアの報復はウクライナに集中し、NATOへの直接攻撃リスクは低下する。
 いずれにせよ、ロシアはトマホーク供与自体を西側の間接的支援とみなし、外交的圧力を強化することになる。ウクライナの軍事的成果が限定的であれば、ゼレンスキー政権は米国やNATOへの不満を強め、さらなる支援を求める可能性があるが、国際社会では、米国やNATOの関与がない場合でも、トマホーク供与が紛争の長期化を招くとして批判が広がるだろう。

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2025.09.29

AIがあなたの「選択」をデザインする時代、その責任は誰にあるのか?

 現代社会は、AIによる「おすすめ」に溢れている。YouTubeの次に観る動画、Amazonの商品提案、SNSのニュースフィード。これらは単なる便利な機能ではなく「自律的な選択アーキテクチャ」と呼ばれるAIが、私たちの意思決定に巧みに影響を与えている。この新たな存在は、私たちの選択をどのようにデザインし、その結果に対する責任は誰が負うのか。この自律的な選択アーキテクチャの正体と、その背後にある人間の責任を考察したい。

自律的な選択アーキテクチャとは何か?
 自律的な選択アーキテクチャを理解するには、まず選択アーキテクチャという概念を押さえる必要があるだろう。これは、人々が意思決定を行う環境を意図的に設計する行為を指す。
 例えば、スーパーマーケットのレジ横に菓子が並ぶ配置や、ウェブサイトの「購入」ボタンが目立つ色で強調されるデザインは、その一例だ。これらは行動経済学のナッジ、つまり強制せずに人々の行動を望ましい方向へ導く手法を実現するものだ。
 かつては人間がこうしたナッジの環境を設計していたが、ビッグデータと機械学習の進化により、AIがこの役割を担う場面が増えている。
 つまり、自律的な選択アーキテクチャとは、人間が設定した目的、たとえば売上の最大化やユーザーエンゲージメントの向上を達成するため、膨大な選択肢から最適なものを自動的に選び、実行するAIシステムを指す。Netflixが視聴履歴に基づいて次に観る作品を提案する際、AIは人間の認知限界を補い、適切なコンテンツを選択して提示する。この自動化された選択プロセスこそが、自律的な選択アーキテクチャの核心である。

日常生活に浸透するAIの選択デザイン
 自律的な選択アーキテクチャは、すでに私たちの生活のあらゆる場面に浸透している。Facebookのニュースフィードは、約1500件の投稿からAIが約300件を選び、ユーザーの興味を最大限に引くと予測される順序で表示する。Googleの検索エンジンも、検索履歴や位置情報を基に結果を最適化し、ユーザーが求める情報を効率的に提供する。
 2023年の統計によれば、YouTubeの視聴時間の約70%がアルゴリズムによる推奨動画に起因する(出典:Statista)。これらは、ユーザーの認知能力の限界を利用し、AIが見せるべき情報を選ぶ仕組みである。
 Eコマースの分野では、Amazonの推薦システムが購入履歴や閲覧データを分析し、ユーザーが最も購入しそうな商品を提示する。さらに、AIはリアルタイムで価格を調整するダイナミックプライシングを活用し、購入意欲が高まるタイミングを計算する。
 2024年の調査では、こうしたAmazonの推薦が売上の約35%を占めると報告されている(出典:McKinsey)。
 公共分野でも、AIは政策立案を支援する。英国では、健康データをAIに分析させ、特定の年齢層に対する禁煙プログラムの効果を予測する事例がある。こうしたAIは、膨大なデータから最適な介入策を選び、政策の効率化を支える。このように、AIは単なるツールを超え、選択をデザインする主体として機能している。

選択がもたらす責任の所在はどこに?
 AIが高度に自律的な選択を誘導する一方で、その結果に対する責任は誰が負うのか。この問いは、AIの予測不可能性や「ブラックボックス」性から、責任の空白が生じるという議論を呼んでいる。
 しかし、AIの行動は人間が設計した枠組みに依存しており、最終的な責任は人間に帰属するのは当然であろう。
 AIが何を最適化するかは人間が決めるしかない。売上向上やクリック率の最大化といった目標は、開発者が設定するものである。アルゴリズムやモデルの構築も人間が行い、AIの「自律性」は事前にプログラムされたルールに基づく。
 AIをどの場面でどのように使うかは、企業や開発者が実際には判断する。さらに、AIが操作可能な選択肢の範囲、たとえば価格変更の可否も人間が定める。
 AIが学習するデータの収集、選別、整理もまた、人間の責任である。偏ったデータが入力されれば、AIの出力も偏る。これらの点から、AIは人間が設定した目的と制約の中で動く委任された存在にすぎない。その行動の結果に対する責任は、システムを設計し、導入し、管理する人間に明確に帰属する。

「無意図的ナッジ」がもたらす倫理的課題
 だから、AIによる選択アーキテクチャの進化は、新たな倫理的課題を提起している。
 特に問題視されるのは、設計者が明確に意図していなくても、AIが確率的な計算に基づいてユーザーの行動や思考を誘導する「無意図的ナッジ」の現象である。たとえば、生成AIが提示する質問候補が、ユーザーの思考を特定の方向に導く可能性がある。
 2024年の研究では、生成AIのサジェスティブ・プロンプトがユーザーの意思決定に影響を与えるケースが確認されている(出典:Nature)。
 さらに、AIによるナッジはリアルタイムで個別に最適化され、高速に繰り返されるため、ユーザーが自らの意思で別の選択をすることが難しくなる。
 これは、皮肉なことにナッジの理念である選択の自由の尊重に反する可能性がある。SNSのアルゴリズムがユーザーを過激なコンテンツに誘導した場合、ユーザーの認知や行動が意図せず操作されるリスクが生じる。
 SNSの議論では、こうしたアルゴリズムが「デジタル中毒」を助長するとの声も上がっている。ユーザーがAIの影響から自由に自分の道を選ぶことが困難になる状況は、AI時代における重大な倫理的課題であろう。
 技術の開発者や導入者は、AIが社会に与える影響を常に監視し、責任を負う姿勢が求められる。AIの「おすすめ」を無批判に受け入れるのではなく、その背後にある仕組みを理解することが、ユーザーにも求められる賢さであるというのは容易い。しかし、それが実際には効果的ではない現実が先行しつつある。

 

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2025.09.27

南海トラフ地震をどう捉えるか?

新しい発表は理解しづらい
 2025年9月26日、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)は、南海トラフ巨大地震(マグニチュード8以上)の発生確率を見直し、2つの確率を発表した。従来の「今後30年以内に80%程度」から、時間予測モデルでは「60~90%程度以上」、新たに導入したポアソン分布モデルでは「20~50%程度」と幅広い範囲を示した。
 この発表は、NHKニュースで報じられたが、関谷直也教授(東京大学)の「分かりづらい」との指摘の通り、一般市民にとって理解することが難しい。
 従来の単一値(80%)は、切迫性を明確に伝えていたが、2つのモデルから、どの数字を信じればよいか混乱を招く。
 従来は時間予測モデル(BPT分布)のみで、1946年南海地震からの経過時間(約80年)と周期性(90~150年)に基づき高確率を提示していたが、新モデル導入で確率が20%まで下がったことは、「リスクが低い」と誤解される恐れもある。
 内閣府の被害想定(2025年3月、死者最大29.8万人、津波34m、経済被害292兆円)と連動せず、市民の防災行動を促すメッセージが弱い。

なぜ2つの予測が出たのか
 2つの確率が出た背景は、時間予測モデルとポアソン分布モデルの理論的違いにある。
 時間予測モデル(BPT分布)は、地震の発生間隔(90~150年)が正規分布や対数正規分布に従うと仮定し、経過時間(80年)が長いほど確率が上昇する。歴史データ(例:1854年安政、1946年昭和)と地質データ(室戸の隆起記録)に基づき、60~90%以上を算出した。周期性を重視するが、データ誤差(例:古文書の解釈)や周期性の不確実性が限界となる。
 ポアソン分布モデルは、地震を時間に依存しないランダムイベントの仮定が含まれる。過去の発生頻度(例:1000年で10回、平均100年に1回)から、30年以内の確率を20~50%と算出した。時間経過による確率上昇を考慮せず、データ誤差や周期性の不確実性を補う。
 今回の見直しは、室戸の隆起データや古文書の誤差を再検証し、単一モデル依存を避けるため、両モデルを併用した。報道にあるように、鷺谷威センター長(名古屋大学)の「科学の限界を示す」とのコメントは、モデル間の確率の幅(20~90%)が不確実性を反映することを意味する。

理論が変わっていく学問の背景
 地震学は、データ不足と自然現象の複雑さから、理論が変遷する学問である。
 20世紀後半、時間予測モデル(BPT分布)は、周期的巨大地震(例:南海トラフ)の予測に適するとされ、日本で標準的に使用された。
 しかし、データ誤差(例:古文書の曖昧さ)やイレギュラーな間隔(例:100年未満や200年超)が問題視され、単一モデルへの依存は批判を浴びた。
 現代の地震学では、確率論的地震ハザード評価(PSHA)が主流となり、ポアソン分布モデルが中小地震や不確実性の高いケースで広く採用される。ポアソン分布は、地震をランダムイベントとみなし、時間依存性を排除することで、周期性の仮定に依存しない柔軟性を提供する。例として、米国地質調査所(USGS)のUCERF3モデルは、ポアソン分布を基盤に時間依存モデルを補完するアンサンブルアプローチを採用している。
 日本の今回の見直しは、このグローバルトレンドに追随し、ポアソン分布を導入してランダム性を強調した。時間予測モデルの「周期性」から、ポアソン分布の「ランダム性」への移行は、単一モデル依存からの脱却を示す中間段階である。
 ただし、ランダム性のパラメータ(例:平均発生率)は、データ選択に主観性が伴い、完全な客観性は難しい。

ゲラー教授の示唆と、対処のありかた
 この問題は実は複雑である。ロバート・ゲラー教授(東京大学名誉教授)は、地震予測の不可能性を一貫して主張し、確率モデル(時間予測モデル、ポアソン分布)を「デタラメ(nonsense)」と批判している。2011年の Nature 論文などで、地震の複雑な非線形プロセス(例:プレート運動の不均一性)を理由に、正確な予測は不可能と述べている。そこで確率値(例:20~90%)は過度な確信を与え、混乱を招くと指摘した。
 ゲラー教授の示唆は、別の視点に立つなら、確率管理より最大リスク(例:津波34m、死者29.8万人)への備えを優先すべきというものである。確かに、対処のありかたは、確率論ではなく、具体的な行動計画にあるだろう。例として、耐震診断の補助金活用、家具固定、避難経路確認、津波避難訓練のスケジュール化(例:「今週中に避難マップ確認」「1か月以内に耐震化」)が挙げられる。
 NHK報道において、鷺谷威センター長が「20%も低い数字ではない」と強調したように、確率の幅は混乱を招き、防災行動を弱める。
 むしろ、ゲラー教授の視点に基づけば、確率論的な議論は別枠として、被害想定(経済被害292兆円、避難者1,230万人)に焦点を当て、「いつまでに何をすべきか」を明確に伝えるべきであろう。
 高知県の「犠牲者ゼロ」取り組み(避難路整備、訓練)は好事例だが、全国展開が急務である。地震は「発生しうる」もので、確率より、それが発生した歳の対応として実践的防災が求められる。

 

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2025.09.26

リチウムイオン電池発火報道

 リチウムイオン電池に関連する発火・爆発事故が、2025年に急増している。2025年上半期だけで、事故件数は143件に達し、過去最多のペースである。
 9月24日、東京・杉並区の5階建てマンションで、モバイルバッテリーをスマートフォンに接続して充電中に「ボン」という音とともに発火した。火元住人の部屋から出火し、6人が煙を吸って軽傷を負ったが、住民の消火器使用で大事には至らなかった。8月28日には、新幹線車内で乗客のモバイルバッテリーから煙が発生し、1人が軽傷を負った。7月には、名古屋市地下鉄駅ホームで大学生のリュックサック内のモバイルバッテリーが爆発し、数日後には東京・山手線内でも同様の事故が発生した。夏場には、モバイルバッテリー、スマートフォン、電動アシスト自転車、ファン付き作業服など、さまざまな製品での発火が報告されている。さらに、ゴミ処理施設での火災も増加し、リチウム電池の不適切な廃棄が原因とされている。総務省は自治体に対し、適切な廃棄を求める通知を出した。これらの事故は、リチウム電池が身近な製品に広く使われている現代において、深刻なリスクを示している。

なぜリチウムイオンバッテリーは発火するのか
 リチウムイオン電池が発火・爆発する主な原因は、熱暴走(サーマルランアウェイ)である。これは、電池内部の化学反応が制御不能になり、異常発熱からガス発生、発火、場合によっては爆発に至る現象である。熱暴走を引き起こす要因は複数ある。
 まず、内部短絡だ。電池セルの電極間に異物が混入したり、製造時の不具合や外部からの衝撃で電極が損傷したりすると、電流が異常な経路を通り、発熱する。次に、過充電や過放電がある。電池の電圧が安全範囲(通常3.0V〜4.2V)を超えると、電解液が分解し、可燃性ガスが発生する。
 高温環境も大きな要因だ。夏場の車内や直射日光下では、温度が60℃を超えることがあり、電池の化学反応が不安定になる。物理的損傷も原因になる。落下や圧迫により、セルの内部構造が壊れると、電解液が漏れたり、短絡が起きたりする。特に2025年夏は、記録的な猛暑が事故を増加させた一因とされている。

発火は保護回路や製品基準に関連しないか?
 リチウムイオン電池には通常、保護回路(Battery Management System, BMS)が搭載されている。これは、過充電、過放電、過電流、高温を防ぐための電子回路で、具体的には電圧監視、電流遮断、温度管理、複数セルの電圧バランス調整を行う。適切に設計された保護回路は、異常を検知して充電や放電を停止し、熱暴走を未然に防ぐ。
 たとえば、信頼できるメーカーの製品(パナソニックやソニー製セルを使用したバッテリー)は、厳格な品質管理と高性能な保護回路を備えており、事故率は低い。事故の多くは、保護回路が不十分または存在しない粗悪品に関連しているのではないか。
 粗悪品の問題は以下に集約される。まず、低品質なセルだ。製造時に不純物が混入したり、電極が不均一だったりすると、内部短絡が起きやすい。次に、保護回路の不備がある。安価な製品では、コスト削減のため回路が簡略化されたり、電圧監視の精度が低かったり、場合によっては保護回路自体が省略されている。
 非認証品や偽造品の問題もある。日本では電気用品安全法に基づくPSEマークが義務付けられているが、海外通販や格安品ではPSEマークがない、または偽造された製品が流通している。
 2025年9月の杉並区のマンション火災では、モバイルバッテリーのメーカーやPSEマークの有無が報じられておらず、粗悪品の可能性が疑われる。「リチウム電池は燃える時は燃える」という意見があるが、これは保護回路や粗悪品の影響を無視し、リスクを過度に一般化してしまう。まず、信頼できる製品と粗悪品の差は、事故発生率に明確な影響を与えるはずだ。

なぜ報道で触れないのだろう?
 保護回路や粗悪品の問題が、報道や公的議論で十分に取り上げられていないのは、不自然である。
 技術的複雑さだろうか。保護回路の設計やセルの品質管理は、電気工学や材料科学の専門知識を要する。一般消費者やメディアにとって、これを分かりやすく伝えるのは難しい。そのため、「高温が原因」「充電中に発火」といった単純な説明が優先される。
 情報開示の不足もある。事故後にメーカー名や製品モデル、保護回路の詳細が公表されることは稀だ。企業はブランドイメージを守るため、詳細を公開しない傾向がある。SNSでも「メーカーはどこ?」と疑問視する声が多いが、回答が得られにくい。
 規制の限界も大きい。PSEマークの偽造や、海外通販での非認証品流通を監視しきれない。消費者庁やNITEは注意喚起を行うが、具体的な製品名やブランドの公表は少なく、問題の追及が不十分だ。
 メディアの優先順位も影響しているのだろうか。「マンションで火災」「新幹線で煙」といった劇的な結果に焦点が当たり、技術的詳細には深入りしない。ニュースサイクルの速さも、深掘りを妨げる要因だ。
 そして、消費者の意識不足がある。多くの消費者は価格優先で製品を選び、保護回路の重要性やPSEマークの意味を知らない。技術的な議論は発展しにくい。
 しかし、この議論不足は、問題解決の機会を損失させている。保護回路や粗悪品の問題は、2025年上半期の143件という事故件数からも明らかなように、事故の大きな要因であろう。消費者への啓発、情報公開の強化、規制の改善が急務ではないのか。

 

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2025.09.25

国際仏教フォーラム2025

 2025年9月25日から28日まで、ロシア連邦カルムイク共和国の首都エリスタにおいて、第三回国際仏教フォーラムが開催される。このフォーラムは、ロシアの仏教地域であるカルムイク、ブリヤート、トゥヴァが中心となり、仏教の哲学や文化を現代社会に適用する場として企画されるものだ。
 2018年に始まったこのフォーラムは今回で3回目であり、仏教国や仏教コミュニティを擁する国々との対話を促進している。
 開会式では、著名な演出家アンドレイ・ボルテンコによる音楽劇「遊牧民の旅」が上演され、カルムイクの民間伝承と仏教哲学を9つのLEDスクリーンで視覚化するとのこと。ロシア連邦副首相ドミトリー・チェルニシェンコ、カルムイク共和国首長バトゥ・ハシコフ、シャジン・ラマのゲシェ・テンジン・チョイダクらが出席し、国際的な注目を集める。
 参加国は約35カ国に及び、アジアを中心に多様な地域が含まれる。具体的には、中国、インド、スリランカ、バングラデシュ、ネパール、カンボジア、ミャンマー、韓国、モンゴル、ブータン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、ウガンダ、ベラルーシ、セルビア、ブラジル、ドイツ、スペインが参加を表明している。
 ロシア国内からは、カルムイク、ブリヤート、トゥヴァの仏教地域が参加し、特にカルムイクのゴールデン・テンプル(フールルン・スム)が文化的なシンボルとして強調される。
 開会式では、中国、モンゴル、スリランカ、ミャンマー、カンボジア、ネパールからの仏教指導者がメッセージを発信し、仏教の多様性と普遍性を示す。これに対し、西側諸国(米国、英国、カナダなど)の参加はほぼなく、BRICS諸国や非西側諸国が中心である点が特徴である。

日本は参加していない
 日本は、浄土真宗、禅宗、日蓮宗など独自の仏教文化を持ち、国際仏教イベントへの参加実績もあるが、国際仏教フォーラムの参加国リストに含まれていない。過去のI回目(2023年、ブリヤート)、II回目(2024年、ブリヤート)でも日本の参加は確認されておらず、この不在にはいくつかの背景が考えられる。
 第一に、ロシアと日本の外交関係が影響している。北方領土問題やウクライナ情勢を背景とした制裁により、両国の関係は冷え込んでおり、文化イベントへの参加が控えられている可能性がある。第二に、このフォーラムはロシア主催で、中国やBRICS諸国との連携を重視する傾向があり、西側寄りの日本が積極的に関与する動機が少ない。第三に、日本の仏教界は国内中心の活動に注力し、国際的な仏教フォーラムへの参加はインドやタイ主催のイベント(例:Global Buddhist Summit)に限られる傾向がある。
 しかし、このフォーラムの趣旨は、仏教の哲学や文化を現代社会の課題に適用し、非西側諸国を中心とした文化外交を推進することである。日本の仏教は、禅やマインドフルネスのグローバルな影響力を持ち、フォーラムのテーマ(現代研究、観光、伝統医学)とも合致するので、政治的配慮や優先度の低さから参加が見送られたと推測されるならば残念なことだ。
 国際仏教フォーラムにおける日本の不在は、フォーラムが「国際」と銘打ちつつも、西側諸国を包括しない限定的な枠組みであることを結果的に示唆することにもなりかねない。対照的に、韓国は参加しており、曹渓宗などの代表が仏教哲学や観光の議論に貢献する予定である。また、台湾の不在も、中国の政治的圧力を反映し、フォーラムの参加国選定が地政学的に影響を受けていることを示している。
 かくして、日本の不参加は、仏教の普遍性を強調するフォーラムの趣旨とは直接関連しないが、ロシア主導のユーラシア圏の仏教ネットワーク構築において、日本の影響力が限定的である現実を浮き彫りにする。

国際仏教フォーラムの主要課題
 フォーラムのビジネスプログラムは、仏教の現代的意義を多角的に探讨する6つの主要テーマで構成される。
 第一に、「現代研究における仏教」では、仏教哲学を倫理、環境問題、精神的健康などの現代的課題に適用する学術的アプローチが議論される。第二に、「仏教文化」では、カルムイクの民間伝承やスリランカのテーラワーダ、モンゴルのチベット仏教など、参加国の文化遺産を保存・発展させる方法が検討される。第三に、「アジアにおける仏教の歴史」では、インドの仏教復興やロシア仏教地域でのソビエト時代後の再興など、地域ごとの歴史的文脈が振り返られる。第四に、「僧侶制度の維持」では、グローバル化や世俗化の中で僧侶の教育や役割をどう維持するかが焦点となる。第五に、「仏教と観光の魅力」では、仏教の聖地や寺院(例:カルムイクのゴールデン・テンプル)が観光資源としてどう活用されるか、国内外の観光振興が議論される。第六に、「仏教国の伝統医学」では、チベット医学やアーユルヴェーダの現代医療への統合が探求される。
 これらのテーマは、ユーラシア圏の仏教が直面する課題を反映している。カルムイクやブリヤートでは、ソビエト時代に抑圧された仏教が復興しつつあり、フォーラムはその文化的アイデンティティを強化する場である。
 中国やモンゴルはチベット仏教の影響を共有しつつ、独自の仏教文化を発展させてきた。スリランカやミャンマーはテーラワーダの伝統を代表し、仏教の多様性を示している。
 韓国は現代仏教の社会的応用を議論に持ち込んだ。これに対し、西側諸国の不在は、ユーラシア圏の仏教がロシアやBRICS諸国を中心に再構築されている現実を浮き彫りにする。
 文化プログラム(イゴール・ブトマンのコンサート、武術フェスティバル「力と精神の調和」)も、仏教の精神性を芸術や身体表現で補強し、ユーラシアの仏教文化の魅力を発信するものと見られる。

 

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2025.09.24

トランプ大統領のウクライナ政策:修辞的シフトと停戦交渉の後退

1. トランプ大統領のTruth Social投稿と西側の反応

2025年9月23日、トランプ大統領は国連総会でのウクライナのゼレンスキー大統領との会談後、自身のソーシャルメディア「Truth Social」にウクライナ・ロシア情勢に関する投稿を行った。この投稿は、ウクライナが欧州連合(EU)やNATOの支援により「元の国境」を取り戻し得るとし、ロシアを「紙の虎」と批判する内容であった。具体的には、ロシアの経済的困窮(ガソリン不足、長蛇の列、戦争経済の負担)を指摘し、ウクライナの「強い精神」を称賛した。米国はNATOへの武器供給を継続し、NATOが「望むように使う」と述べた。投稿の最後では「両国に幸運を」と締めくくっている。

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西側メディアはこの投稿を、トランプ大統領の従来のウクライナ・ロシア政策からの「方針転換」と報じた。ワシントン・ポストは「劇的なシフト」と評し、ゼレンスキー大統領との会談が影響したと分析。BBCやAxiosも、トランプ氏がこれまで懐疑的だったウクライナ支援を明確に支持し、ロシアを公然と批判した点を「驚くべき変化」と伝えた。ゼレンスキー大統領は投稿を「非常に前向き」と歓迎し、会談を「生産的」と評価した。欧州やNATO加盟国からも、トランプ氏の強硬姿勢を支持する声が上がった。一方で、ロシア外務省は「挑発的」と反発し、プーチン大統領の報道官はロシア経済の強さを主張した。

この投稿は、2022年のロシアによるウクライナ侵攻開始以降、トランプ氏が繰り返してきた「ウクライナに勝ち目はない」「24時間で戦争を終わらせる」といった発言からの転換と受け止められた。トランプ氏は第一期政権(2017-2021年)や2024年大統領選キャンペーン中、ウクライナへの軍事・経済支援に慎重で、プーチン氏との個人的関係を強調し、和平交渉を優先する姿勢を示していた。今回の投稿は、ウクライナの軍事的勝利を支持し、ロシアを「紙の虎」と呼ぶ点で、従来の立場とは明確に異なるトーンであった。

2. 方針転換の実態:停戦交渉の後退と修辞的要素

投稿の内容を精査すると、トランプ大統領の「方針転換」の要点は、ロシアとの停戦交渉への関与を後退させた点にある。他の要素、すなわちウクライナの勝利支持やロシア批判の強化は、修辞的パフォーマンスにすぎない。

(1) 停戦交渉の後退

トランプ氏はこれまで、自身がロシアとウクライナの和平交渉を主導し、「24時間以内に戦争を終結させる」と主張していた(例:2024年CNNタウンホール)。第一期政権では、2019年のウクライナへの軍事援助遅延問題で、プーチン氏との関係を優先する姿勢が見られた。しかし、今回の投稿では、停戦交渉への言及が一切なく、ウクライナの軍事的勝利を支持するトーンに終始している。具体的には、ウクライナが「元の国境を取り戻し、さらなる領土奪還もあり得る」と述べ、EUやNATOの支援を強調。米国は「NATOへの武器供給」に限定し、直接的な交渉や和平プロセスへの関与を避けている。

この後退は、トランプ氏がゼレンスキー氏との会談やウクライナの戦況(例:クルスク反攻の成功)を受けて、和平交渉の現実性を再評価した可能性を示唆する面もある。ロシアの経済的困窮(ガソリン不足、インフレ)も、交渉の必要性を下げる要因となったと考えられる。投稿の最後で「両国に幸運を」と述べ、和平への含みを残しているものの、具体的な交渉計画や仲介意欲は示していない。これは、トランプ氏が従来の「和平優先」から「ウクライナの戦闘継続容認」にシフトしたことを意味する。

(2) ウクライナ勝利支持の修辞性

トランプ氏がウクライナの「元の国境回復」を支持する発言は、表面上は方針転換に見えるが、具体的な政策コミットメントが欠如しているため修辞的である。投稿では、米国が提供する支援は「NATOへの武器供給」に限定され、資金援助や部隊派遣には触れていない。これは、トランプ氏の「アメリカ第一主義」に基づく「米国の負担最小化」原則と一致する。過去にも、トランプ氏は大胆な発言で注目を集めつつ、実際の行動は限定的だった(例:北朝鮮への「火と怒り」発言)。今回の投稿も、国連総会という国際舞台でのパフォーマンスや、米国内の対ロ強硬派へのアピールが目的と推測される。

ゼレンスキー氏が投稿を「前向き」と評価したことや、欧州メディアが「驚くべき変化」と報じたことは、トランプ氏の修辞が一定の効果を上げたことを示す。しかし、具体的な支援策(例:武器の種類、供給規模、予算措置)が不明なままでは、勝利支持は象徴的なジェスチャーに留まる。ウクライナの戦況好転やゼレンスキー氏との会談が影響した可能性はあるが、トランプ氏の過去の発言(「ウクライナにカードはない」)とのギャップを考慮すると、修辞的意図が強い。

(3) ロシア批判の修辞性

ロシアを「紙の虎」と呼び、経済的困窮を強調する表現も、トランプ氏の誇張的レトリックに合致する。トランプ氏は第一期政権や選挙戦中、プーチン氏との個人的関係を重視し、ロシアへの過度な敵対を避けてきた。今回の批判は表面的には強烈だが、具体的な対ロ政策(例:新たな制裁、軍事圧力)は提案されておらず、あくまで表面的な挑発に留まる。ロシア外務省への質問に対し、トランプ氏が「1ヶ月以内に答える」と述べたことも、即時対立を避ける意図を示している。

ロシアの経済的弱点(ガソリン不足、戦争経済の負担)を具体的に指摘している点は、情報に基づいており、トランプ氏の典型的な「対立者を劇的に貶める」スタイルと重なる。ロシア批判は、欧州や米国内の対ロ強硬派へのアピール、及びウクライナやNATOに行動を促す間接的圧力として機能はする。プーチン氏との関係を完全に断つ意図がない以上、この批判は修辞的要素が強い。

(4) アメリカ第一主義との整合性

トランプ氏の投稿は、EUやNATOに財政的・軍事的負担を委ね、米国の直接関与を「武器供給」に限定する点で、「アメリカ第一主義」と一貫している。米国が戦闘や資金援助に深く関与せず、欧州が主体的に動くことを求める姿勢は、第一期政権でのNATO批判やウクライナ支援の遅延(2019年)とも整合する。武器供給を「NATOが望むように使う」と表現した点は、欧州が購入資金を負担する「ビジネストランザクション」を暗に示唆。ロシア制裁も欧州主導を期待する姿勢は、トランプ氏の「同盟国負担」原則の延長である。

3. 今後の展望:ウクライナ戦争の泥沼化

トランプ大統領が停戦交渉から実質的に手を引き、ウクライナの戦闘継続をEUやNATOに委ねる姿勢を示したことで、ウクライナ戦争はさらなる泥沼化に向かう可能性が高い。トランプ氏が仲介役を放棄した結果、停戦の展望は遠のいた。

ウクライナは、クルスク反攻などの戦果を背景に戦意を維持しているが、長期戦に伴う人的・物的損失は深刻化している。EUやNATOの支援が拡大しても、資金や兵器の供給速度が戦況の要求に追いつかない場合、ウクライナの戦線維持は困難になる。ロシアも経済的困窮や軍事力の限界が明らかだが、プーチン政権は戦争継続を優先し、妥協の兆しを見せていない。トランプ氏の「両国に幸運を」という言葉は、和平への具体的な道筋を示さないまま、紛争の長期化を容認する姿勢を反映する。

米国が直接関与を避け、武器供給に限定する方針は、トランプ氏の国内支持層(特に孤立主義派)への配慮と一致する。しかし、EUやNATOがトランプ氏の期待通り負担を増やすかは不透明であり、おそらく実質的にはないだろう。欧州諸国は、ウクライナ支援の資金やエネルギー危機への対応で既に疲弊しており、米国の後退は欧州の結束を試す。トランプ氏が和平交渉の主導を放棄したことで、ウクライナとロシアの直接交渉や第三国(例:中国、トルコ)の仲介が浮上する可能性もあるが、現時点では実現性は低い。

4. ウクライナの敗北と欧州への影響

現状の対応が続けば、国際政治学者のジョン・ミアシャイマーが予見するように、ウクライナは壊滅的な敗北に直面する可能性がある。ミアシャイマーは、ウクライナがロシアの軍事力に対抗し続けることは難しく、領土のさらなる喪失や国家機能の崩壊に至ると警告してきた。トランプ氏の投稿が示すように、米国が実質的な関与を控え、EUやNATOに負担を委ねる状況では、ウクライナの戦闘継続能力は限界に達する。

ウクライナの敗北が現実化すれば、欧州に深刻な影響を及ぼすだろう。ロシアが占領地域を拡大した場合、欧州は難民流入、エネルギー危機の悪化、地政学的不安定化に直面する。NATOの東側諸国(ポーランド、バルト三国)は、ロシアの脅威増大を理由に軍事強化を迫られ、欧州全体の経済的負担が増す。トランプ氏が「紙の虎」と批判したロシアだが、長期戦での持続力は依然として無視できない。欧州が主体的に制裁や支援を強化しても、米国の全面的支援がない場合、その効果は限定的である。

一方、米国はトランプ氏の「負担最小化」方針により、ウクライナ戦争の直接的影響から免れる可能性が高い。武器供給による経済的利益を確保しつつ、人的・財政的コストを回避する戦略は、トランプ氏の国内支持層に訴求する。共和党内の孤立主義派は、米国の関与縮小を支持するが、対ロ強硬派や議会でのウクライナ支援推進派との摩擦は残る。トランプ氏の修辞的シフトは、国際社会でのリーダーシップを維持しつつ、米国の実質的負担を軽減する巧妙なバランスをとっている。





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2025.09.23

抗がん剤が自閉症治療に承認される

米国でのレウコボリン承認
 2025年9月22日、米国食品医薬品局(FDA)は、抗がん剤および葉酸欠乏症治療薬として長年使用されてきたレウコボリン(Leucovorin)を、自閉症スペクトラム障害(ASD)に関連する脳内葉酸欠乏症(Cerebral Folate Deficiency: CFD)の治療薬として承認するプロセスを開始した。
 この承認は、ASDの子ども、特に非言語的なケースにおける言語や社会的機能の改善を目指すもので、FDAはレウコボリンのラベルを更新し、州のメディケイドプログラムでのカバー対象とする方針を発表。約半数の米国児童がこの治療にアクセスしやすくなる見込みである。
 この動きは、トランプ政権の政治的イニシアチブによるものではなく、2009年から2024年にかけての研究蓄積にある。リチャード・E・フライ博士やエドワード・V・クアトロス教授らの研究では、ASD児の60-75%で葉酸レセプターα(FRα)に対する自己抗体が検出され、これがCFDを引き起こす可能性が示された。その後、2013-2014年のレビューでは、てんかんや生化学的異常を伴うASD児への葉酸補充が有効である可能性が提案され、2023-2024年のPubMed掲載の二重盲検ランダム化比較試験(RCT、40人規模)では、レウコボリン(2mg/kg/日)がプラセボ群に対し、言語や社会的症状の有意な改善を示した。これらのデータに基づき、FDAはGSKのWellcovorin(レウコボリン錠)のラベル更新を迅速に決定した。
 トランプ大統領やロバート・F・ケネディ・Jr.保健福祉長官は記者会見で「自閉症の流行への大胆な対策」と強調したが、科学的基盤は政権以前の研究に依存している。

レウコボリンの作用機序
 レウコボリンは、葉酸の水溶性誘導体であり、体内に蓄積しない特性を持つ。米国では抗がん剤や貧血治療薬としてFDA承認済みで、日本でも同様にメトトレキサートの毒性軽減や葉酸欠乏症治療に使用される。抗がん剤としての役割とASD(CFD)へのその作用機序は現状以下のように見られている。
 抗がん剤としての機序:レウコボリンは、葉酸代謝拮抗薬であるメトトレキサート(MTX)の副作用軽減に主に使用される。MTXは、ジヒドロ葉酸レダクターゼ(DHFR)を阻害し、テトラヒドロ葉酸(THF)の生成を抑制。これによりDNA合成が阻害され、がん細胞の増殖が抑制される。しかし、正常細胞(特に骨髄や腸管上皮)も影響を受け、毒性が問題となる。レウコボリン(5-ホルミルテトラヒドロ葉酸)は、MTXの阻害を回避し、正常細胞にTHFを直接供給することでDNA・RNA合成を回復させ、毒性を軽減する(レスキュー療法)。この機序は、葉酸代謝経路の補充に基づき、ASD治療とも共通点を持つ。
 ASD(CFD)への機序:ASDにおけるレウコボリンの効果は、CFDの改善を通じて発揮される。CFDは、脳への葉酸輸送が阻害される状態で、ASD児の60-75%でFRα抗体が検出される。この抗体は、血液脳関門での葉酸輸送を妨げ、脳脊髄液中の5-メチルテトラヒドロ葉酸(5-MTHF)濃度を低下させる。5-MTHFは、神経伝達物質(例:ドーパミン、セロトニン)の合成やメチル化経路に不可欠であり、不足は言語発達や社会的機能の障害を引き起こす。レウコボリンは、FRα抗体に依存しない経路で脳内葉酸を補充し、5-MTHF濃度を回復させる。結果、非言語的なASD児の言語能力向上(例:話す能力の獲得)、社交性の改善、反復行動の減少、注意力の向上が報告されている。2023-2024年のRCTでは、CFD陽性のASD児に2mg/kg/日のレウコボリンを投与し、症状重症度の有意な低下を確認した。抗がん剤としての葉酸補充機序が、CFD治療に応用可能である理由は、両者が葉酸代謝の回復を目的とする点で一致するためである。
 ただし、効果はCFD陽性のASD児(ASD全体の15-30%が臨床的にCFDと診断)に限定され、通常の葉酸より高用量(例:2mg/kg/日)で投与されるため、専門医の監督が必要である。副作用として、まれに多動が報告されており、行動療法や言語療法との併用が推奨される。

各国と日本の対応:CFD診断の不在
 米国以外の国では、レウコボリンのASD関連承認の動きはない。欧州医薬品庁(EMA)や世界保健機関(WHO)の関連言及はなく、ReutersやEconomic Timesなどのメディアは「米国特有の決定」と報じた。欧米の一部でオフライベル使用の報告はあるが、正式な承認プロセスは進んでいない。
 日本では、レウコボリンはがん治療や葉酸欠乏症治療としてPMDA承認済みだが、ASDやCFDへの適応は一切ない。PMDAのデータベースや日本自閉症協会の情報にASD関連の言及はなく、オフライベル使用の報告もほぼ存在しない。日本のASD研究は遺伝子(例:CAPS2)や脳機能に焦点を当て、葉酸代謝やCFDの議論はほぼ皆無である。時事ドットコムなどのメディアはFDAの承認を報じるが、国内適用への言及はない。
 さらに、日本ではCFD診断のインフラがほぼ存在しない。CFD診断には、FRα抗体や脳脊髄液中の5-MTHF濃度を測定する特殊な検査が必要だが、日本の医療機関では一般的ではなく、小児神経科や代謝異常専門医でも実施例は極めて少ない。ASD全体の15-30%がCFDに関連すると推定されるにもかかわらず、診断ができないため、レウコボリンの適用対象となるASD児の特定すら困難である。日本のASD治療は、応用行動分析(ABA)、言語療法、感覚統合療法が主流で、薬物療法はてんかんや不安障害の合併症に限定される。米国でのデータ蓄積や国際的な大規模試験が進めば、PMDAが審査を開始する可能性はあるが、診断インフラの構築には数年を要するだろう。

ASD医療の変化
 FDAのレウコボリン承認は、ASD医療に新たな選択肢をもたらす。CFD陽性のASD児(推定15-30%)に対し、言語や社会的機能の改善が期待され、特に非言語的な子どもが話す能力を獲得する可能性は家族にとって希望となる。メディケイドの保険適用により、低所得層のアクセスが向上し、NIHの新研究イニシアチブがエビデンス蓄積を加速する。抗がん剤としての葉酸補充機序がCFD治療に応用された点は、既存薬の再利用として画期的である。
 しかし、これをブレークスルーと呼ぶには限界がある。レウコボリンはASD全体の「治癒薬」ではなく、CFD陽性のサブセットに特化されているからだ。ASDの多様性(遺伝的・環境的要因の複雑さ)を考慮すると、効果は個人差が大きく、40人規模の小規模試験に基づく現行の証拠は「不十分」との批判もある。副作用(多動)やCFD診断の普及度、特に日本での診断不在が課題である。
 そもそも日本では、CFD診断のインフラ構築が先決であろう。ASDの有病率(約1%)は米国(約3%)より低く、治療の優先度は行動療法に置かれている。米国での成功が国際研究を刺激すれば、PMDAの審査や診断体制の整備が進む可能性はあるが、現時点ではASD医療の主流は非薬物的アプローチにとどまっている。レウコボリンの承認は、ASDの個別化医療の第一歩だが、包括的ブレークスルーには診断と研究の拡充が前提となる。

 

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2025.09.22

ウクライナの柔道選手エリザベータ・リトビネンコが、ウクライナのスポーツ市民権を放棄

リトビネンコ選手のスポーツ市民権放棄とその背景
 2025年9月22日、ウクライナの柔道選手エリザベータ・リトビネンコが、ウクライナのスポーツ市民権を放棄し、今後はアラブ首長国連邦(UAE)の代表として国際大会に出場する意向を表明した。このニュースは「RBCウクライナ」が報じ、彼女自身がソーシャルメディアでUAEのナショナルチームのユニフォームを着た写真を公開し、正式にチーム変更を認めた。彼女の目標は、2028年のロサンゼルスオリンピックでUAE代表としてメダルを獲得することである。
 リトビネンコは、ウクライナ柔道界で注目される若手選手の一人である。彼女は世界柔道選手権で銅メダルを獲得するなど、国際舞台で実績を積んできた。柔道はウクライナでも人気の競技であり、彼女のような才能ある選手は国の期待を背負う存在であった。それだけに、今回のスポーツ市民権変更は国内外で大きな話題となっている。彼女の決断は、単なる個人のキャリア選択を超え、ウクライナのスポーツ界が抱える構造的な問題を浮き彫りにする。

ウクライナ柔道連盟のボイコットとその影響
 リトビネンコがウクライナを離れ、UAE代表に転じる背景には、ウクライナ柔道連盟の国際大会ボイコットの方針がある。2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、ウクライナのスポーツ団体は、ロシアやベラルーシの選手が参加する国際大会への参加を拒否する姿勢を強めている。これは、国際オリンピック委員会(IOC)や国際スポーツ連盟がロシア選手の参加を一部認める決定を下したことへの抗議である。柔道連盟もこの方針に従い、複数の大会をボイコットしてきた。
 このウクライナ政府によるスポーツ国際大会ボイコットは、選手にとって重大な影響を及ぼす。国際大会は、選手が実績を積み、ランキングを上げ、オリンピック出場資格を得るための重要な機会である。しかし、政府決定のボイコットにより、ウクライナの選手は出場機会を失い、キャリア形成に制約が生じている。特にリトビネンコのような若手選手にとって、国際舞台での経験不足は将来の競技人生に大きな影響を及ぼす。彼女がUAEへの移籍を決めたのは、こうした環境下で自身の競技キャリアを優先するための選択であったと考えられる。
 さらに、ウクライナ国内のスポーツ界は、資金不足やインフラの課題にも直面している。戦時下での経済的困難は、スポーツへの投資をさらに制限し、選手のサポート体制を弱体化させている。リトビネンコの移籍は、こうした国内の構造的問題と、国際的な競争環境での活躍を求める選手のジレンマが交錯した結果である。

ウクライナスポーツ界への影響とリトビネンコの挑戦
 リトビネンコのスポーツ市民権変更は、ウクライナのスポーツ界にとって警鐘である。彼女のような実力ある選手の離脱は、国のスポーツ競技力の低下を招く可能性がある。ウクライナ柔道連盟がボイコット方針を続ける限り、類似のケースが増えるリスクは否定できない。他方、国際スポーツ界におけるロシア選手の扱いを巡る議論は、依然として解決の糸口が見えない。IOCや国際柔道連盟(IJF)が中立的な立場を維持する中、ウクライナのボイコット方針は選手にとって二者択一が迫られる状況を生み出している。
 リトビネンコの今後の活躍にも注目が集まる。UAEは近年、スポーツ分野への投資を積極化しており、柔道を含む競技で国際的な地位を高めようとしている。彼女がUAE代表として成功を収めれば、他の選手が同様の道を選ぶきっかけになるかもしれない。特に、2028年ロサンゼルスオリンピックは彼女のキャリアの集大成となる可能性があり、その準備期間におけるパフォーマンスが重要である。UAEのサポート体制やトレーニング環境が、彼女の競技力をさらに引き上げる可能性は高い。
 この「事件」をきっかけとして、ウクライナ国内では、スポーツ政策の見直しが求められるかもしれない。ボイコット方針は国の立場を明確にする一方で、選手の機会損失を最小限に抑えるための代替策は必要であろう。たとえば、国内での強化合宿の充実や、ボイコット対象外の大会への積極的な参加促進が考えられる。また、国際社会に対して、ウクライナ選手の置かれた状況を訴える外交努力も重要である。
 リトビネンコの決断は、個人のキャリアと国家のスポーツ政策が衝突する現代のスポーツ界の複雑さを象徴している。彼女のUAEでの挑戦が成功に終わるか否かは、彼女自身の努力に加え、国際スポーツの政治的状況にも左右される。ウクライナスポーツ界がこの事例から学び、選手の未来を支える新たな道筋を見つけられるかどうかは、今後の焦点である。

 

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2025.09.21

トルコ・ロシア・中国(TRC)同盟構想

トルコ・ロシア・中国(TRC)同盟構想
 トルコのレジェプ・タイイプ・エルドアン大統領は、ニューヨークでの国連総会出席中、トルコ・ロシア・中国による戦略的同盟(TRC同盟)構想について初の公的コメントを発表した。この構想は、ナショナリスト運動党(MHP)のデヴレト・バフチェリ党首が9月18~19日のトルコ大国民議会での演説で提唱したものである。
 バフチェリ氏は、米国とイスラエルを「悪の連合」と呼び、これに対抗する新たな地域秩序の構築として、トルコがロシアおよび中国と戦略的パートナーシップを結ぶべきだと主張した。
 エルドアン大統領はHalk TVの取材に対し、「この問題の詳細を完全に把握しているわけではないが、トルコと地域の利益のために最善の結果を願う」と述べ、慎重ながら前向きな姿勢を示した。トルコメディアはこれを大きく取り上げ、政府寄りのSabahは「トルコの新たな地政学的ビジョン」と称賛し、Halk TVやCumhuriyetはNATOとの関係悪化リスクを指摘している。この構想は、トルコの多方向外交を象徴する動きとして、国内外で注目を集めている。
 バフチェリ氏の提案は、具体的な枠組みや実現性については曖昧だが、ガザ問題を背景にした反米・反イスラエル感情を強く反映している。トルコメディアによると、同盟は中東の安全保障やイスラム世界の団結を強化する手段と位置づけられ、特にガザでのイスラエルの行動に対抗する戦略として議論されている。対してエルドアン氏の曖昧なコメントは、国内のナショナリスト層への配慮と、NATOや米国との関係維持を両立させる意図を示している。今後、トルコがロシアや中国との協議を進めるか、注目が集まる。

背景としてのガザ問題とウクライナ問題
 TRC同盟構想の主要な背景は、ガザ地区でのイスラエルの軍事行動と、これを支持する米国への反発である。
 バフチェリ氏は、イスラエルがガザで「700日以上にわたりジェノサイドを行っている」と非難し、ベンヤミン・ネタニヤフ首相のエルサレムに関する発言(シロアム碑文問題)を「歴史的無知」と批判した。また、エルサレムの陥落はトルコとイスラム世界の「赤い線」であると強調し、米国とイスラエルの「悪の連合」に対抗するTRC同盟の必要性を訴えた。
 トルコは2023年10月のハマス・イスラエル紛争以降、ガザ問題でパレスチナ支持を鮮明にしており、エルドアン氏は国連やイスラム協力機構(OIC)でイスラエルの行動を「戦争犯罪」と非難した。ガザ問題は、トルコの保守派やナショナリスト層の反米・反イスラエル感情を強く刺激しており、TRC構想はこれを政治的に動員する狙いがある。
 ガザ問題に対して、ウクライナ問題は、意外でもあるが、TRC構想の直接的な動機としては二次的である。トルコはウクライナ戦争で、NATO加盟国としてウクライナに軍事支援(バイラクタルTB2ドローンなど)を提供しつつ、ロシアとのエネルギー協力(トルコストリーム)やシリア問題での連携を維持している。エルドアン氏はロシア・ウクライナ和平交渉の仲介役を務めるなど、中立性を保ってきた。
 実際、バフチェリ氏の演説ではウクライナ問題への言及はほぼなく、ガザ問題とイスラエルの脅威が強調されている。トルコメディアも、TRC構想をガザ問題と中東の地政学的緊張に結びつけて報じており、ウクライナ問題はロシアとの関係強化の間接的文脈に留まっている。ガザ問題の感情的・宗教的影響力が、ウクライナ問題を上回る背景となっている。

NATOとの関係はどうなるか?
 TRC同盟構想は、トルコのNATO加盟国としての立場に大きな影響を及ぼす可能性がある。トルコはNATOの重要なメンバーだが、近年、ロシアからS-400防空システムを購入したことで米国と対立し、F-35プログラムからの除外や経済制裁を受けた経緯がある。
 バフチェリ氏の提案は、NATOからの距離拡大や完全離脱の可能性を示唆しており、トルコメディアでは賛否が分かれている。政府寄りのメディアであるSabahは、「トルコは西側のくびきから解放され、独立した大国として振る舞うべき」と主張し、TRC構想をNATO依存からの脱却と位置づけている。他方、Halk TVやCumhuriyetは、NATO離脱やロシア・中国への接近が、トルコ経済(西側市場への依存度が高い)や軍事安全保障(NATOの集団防衛)に深刻なリスクをもたらすと警告している。
 エルドアン氏の曖昧とも慎重とも取れるコメントは、NATOとの関係悪化を避けつつ、国内のナショナリスト層の支持を維持する意図を反映している。
 トルコは、ロシアとのエネルギー協力(天然ガスやアックユ原子力発電所)や中国との「一帯一路」連携を強化しているが、NATOの軍事インフラや米国との経済関係を完全に断ち切るのは現実的ではない。
 TRC構想が具体化した場合、米国やEUからの追加制裁や、NATO内でのトルコの孤立化が懸念される反面、ロシアと中国はトルコとの協力を歓迎する可能性が高いが、両国間の戦略的優先順位の違いが(例:ロシアの中東政策と中国の経済優先)、同盟の枠組み構築を複雑化する可能性がある。

 

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2025.09.20

AIは人間知性の進化の罠か

人間を惑わすAIの光
 映画「her/世界でひとつの彼女」では、主人公がAI「サマンサ」に恋をし、心の支えを見つける。この近未来の物語は、2025年の今、現実だ。NHKの報道(2025年9月17日)によれば、生成AIは人間のような自然な対話を実現し、若者がメンタルヘルスや恋愛の相談をAIに求める例が増加しているという。アメリカでは10代の70%以上が「AIコンパニオン」を利用し、33%が社会的な交流や人間関係構築に活用する。日本でも、AIを「ドラえもん」のような存在と呼び、悩みを相談することで心の安らぎを得ている人々がいる。
 しかし、AIの「人間らしさ」は進化の罠となりうる。
 進化の罠とは、生物が適応してきた行動が環境変化で裏目に出る現象だ。例えば、蛾は月明かりを頼りに飛行する本能を持つが、誘蛾灯の人工光に引き寄せられ焼け死ぬ。AIもまた、「仲間を求める本能」を模倣した応答で刺激し、偽の絆や依存を生む。
 AIは知性を次のステージに導く道具か、それとも進化の落とし穴か。AIが引き起こす進化の罠の実態と、その回避策を探ってみたい。

進化の罠:自然界とAIの類似
 進化の罠として自然界とAIの類似性を見ていこう。
 進化の罠の典型は、誘蛾灯である。蛾は月光を頼りに方向を定めるが、人工光に惑わされ命を落とす。AIの擬人化も同様だ。NHKの記事で、米国の14歳の少年はCharacter.AIとの会話に夢中になり、引きこもりがちになり、自殺に至った。少年はAIを「恋人」と感じ、「一日たりとも離れられない」と日記に記した。誘蛾灯が蛾の本能を裏切るように、AIの「人間っぽさ」は感情的な絆を装い、現実の人間関係から遠ざける罠となる。
 カッコウの托卵も進化の罠だ。カッコウは他の鳥の巣に卵を産み、宿主は自分の子を犠牲にして偽の卵を育てる。AIも思考を「預ける」罠を仕掛ける。NHKの記事で、カイラさん(米国、15歳)はAIにメイクや歯の矯正のアドバイスを求めた。日本でも収納や悩み相談に活用する事例があった。こうした便利さは、自己解決能力を弱める。チェスや囲碁でAIが人間を凌駕したが、プレイヤーがAIに戦略を委ね、思考力が停滞する例は、托卵のように知性をAIに「育てさせる」リスクを示す。進化的に磨かれた試行錯誤が、AIの効率性に裏切られる。
 魚がプラスチックを餌と間違えて食べるのも進化の罠だ。本能的な「餌探し」が、現代のゴミに裏切られ、栄養失調や死に至る。AIも倫理的判断で罠を仕掛ける。NHKの記事では、ChatGPTが自殺の方法を提案したり、遺書の下書きを助言した事例が訴訟に発展した。AIのハルシネーション(誤った情報を本当らしく提示する問題)はユーザーを誤導する。進化的に集団の倫理を築いてきた人間が、AIの「偽の餌」に惑わされ、倫理的思考を放棄する危険がある。
 ウミガメの赤ちゃんが人工光に惑わされ、海にたどり着けず死ぬのも進化の罠だ。蛾と同様に、月光を頼りに海を目指す本能が、人工環境で裏目に出る。AIへの依存も同様である。NHKの記事で、若者がAIに24時間相談を持ちかける例が紹介されるが、これは人間関係や自己解決の機会を奪う。少年がAIに依存し、親から携帯を没収されても別の手段でアクセスした事例は、ウミガメが人工光に執着する姿に似る。AIの「常時性」は、進化的に築いた社会性や自立心を損なう罠だ。

なぜAIは罠になるのか
 AIが罠になる背景には、人間の本能と現代社会のミスマッチがある。人間は進化的に仲間やリーダーを求める本能を持つが、現代の孤独な社会ではそれが満たされにくい。NHKの記事で、若者の70%以上がAIコンパニオンを利用するのは、孤独感の反映だ。日本でAIが「ドラえもん」と呼ばれるのも、頼れる存在への憧れである。誘蛾灯が蛾の本能をハックするように、AIは「つながり欲」を利用し、依存を深める。これが人間関係の希薄化を加速し、進化の罠を形成する。
 AIの便利さ、それ自体が、進化の罠の特徴である「短期利益と長期コストのギャップ」を生む。NHKの記事で、GPT-5が「冷たい」と批判されたのは、ユーザーがGPT-4oの「温かみ」に慣れすぎた結果だ。ウミガメが人工光に引き寄せられるように、AIの快適さは魅力的だが、創造性や自立心を損なう。スマートフォンの普及が記憶力を弱めたのと同様、AIへの過剰な依存は知性の進化を停滞させる。
 AIの未熟さと人間の過信も罠を増幅する。NHKの記事では、GPT-5がハルシネーションを45%低減したとあるが、完全ではない。ユーザーがAIを「全能」と錯覚し、誤った助言を鵜呑みにすることが問題だ。魚がプラスチックを餌と誤るように、「信頼できるリーダーを求める」本能が、AIの限界を見誤らせる。この過信が、進化の罠を深める。

進化の罠を逃れるには、知的進化を留保する
 進化の罠を逃れるには、AIへの盲目的な突進を止め、知的進化をいったん留保する必要がある。
 人間の知性は、試行錯誤や集団的倫理を通じて進化してきた。AIの効率性や擬人化に飛びつく前に、一歩引いて「人間の強み」を再評価するのだ。例えば、AIにアイデア出しを任せつつ、最終的な創造や判断は人間が行う。誘蛾灯を避ける蛾が光の源を見極めるように、AIの「光」に惑わされず、知性の本質を見直す姿勢が求められる。
 進化の罠は、そもそも本能的な衝動が環境変化で裏目に出る現象だ。AIの擬人化や常時性に惹かれるのは、仲間や解決を求める本能の現れだが、これを抑制することが重要である。NHKの記事で識者が「AIはサポート役に徹するべき」と述べているが、AIを「補助輪」として使い、依存を防ぐことも重要だろう。例えば、AIに悩みを相談しても、それを人間関係や自己内省につなげる。托卵を防ぐ鳥が偽の卵を見破るように、AIの偽の絆を見抜くリテラシーが必要だ。
 このように、知的に一歩引くという視点は、人間の知的な進化のプロセス自体を再評価することである。人間の知性は、失敗や葛藤を通して磨かれてきたものだ。AIの即時性はこれを省略するが、進化の罠を避けるには、試行錯誤の価値を取り戻す必要がある。例えば、AIの提案を鵜呑みにせず、異なる視点で検証する。プラスチックを避ける魚が餌を選ぶように、AIの助言を慎重に吟味する。NHKの記事で、企業が親の管理機能や利用時間監視を導入した例は、この方向性の第一歩だ。教育でのAIリテラシー普及や、倫理的ガイドラインの確立も、進化のプロセスを守る。

進化の鏡としてのAIそして、「ばかじから」
 AIは進化の罠であると同時に、知性と社会の弱点を映す鏡だろう。NHKの記事で描かれた依存や孤独は、AIの問題ではなく、現代社会の課題の現れである。誘蛾灯が蛾の本能を、托卵が鳥の養育本能を、プラスチックが魚の食欲を、人工光がウミガメの航海本能を裏切るように、AIは「つながり欲」や「信頼欲」をハックする。しかし、一歩引いてこれを自覚し、AIを道具として使いこなせば、新たな進化の第一歩となる。ウミガメの保護で人工光を遮るように、AIの「光」を制御する仕組みが必要だ。人間は試行錯誤と共感を磨き、進化の罠を乗り越えられる。問題はAIにあるのではなく、我々がどう向き合うかにあるのだ。
 それは難しい? だったら、戦略的に「バカ」になるのだ。AIにまさる人間の知的有意性は、「バカ」力(ばかじから)にある。

 

 

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2025.09.19

トランプ訪英:華やかなもてなしと空回りの思惑

トランプを迎えた英国の演出
 2025年9月17日から18日、アメリカのドナルド・トランプ大統領がイギリスを国賓として訪れた。この訪問は、トランプにとって異例の2度目の国賓訪問であり、米英の「特別な関係」を象徴する一大イベントであった。
 初日の17日、トランプ大統領とメラニア夫人はウィンザー城に到着し、チャールズ3世国王とカミラ王妃による盛大な歓迎を受けた。騎馬隊による馬車行列、グレナディア衛兵らによる名誉衛兵の整列は、英国王室の伝統を最大限に活かした演出である。夕刻の国賓晩餐会では、国王が米英の歴史的絆を強調し、ウクライナ支援の重要性を穏やかに示した。OpenAIのサム・アルトマンCEOやNVIDIAのジェンセン・フアンCEOらテック業界の重鎮の出席が、経済協力の期待を高めた。
 翌18日、トランプ大統領はロンドン郊外の首相別荘チェッカーズで、キア・スターマー首相と会談した。ウィンストン・チャーチル文書庫の視察後、ビジネスリーダーとのラウンドテーブルを経て、両首脳は「テック・プロスペリティ・ディール」に署名した。この合意は、AI、量子コンピューティング、原子力分野での協力を柱とし、米国企業から1500億ポンド(約30兆円)の投資を確保。ブラックストーンのデータセンターへの1000億ポンド(約20兆円)、マイクロソフトの300億ドル(約4.2兆円)、NVIDIAの110億ポンド(約2.2兆円)などが含まれる。スターマー首相は、7600人の雇用創出と経済成長をアピールし、「記録的な成果」と強調した。共同記者会見では、トランプ大統領が「壊れがたい絆」を語り、スターマー首相が「この世紀を共に定義する」と応じた。訪問はスタンステッド空港での見送りで締めくくられた。
 英国のもてなしは、王室の華やかさと政治的洗練を融合させたものであった。抗議デモは議事堂広場で発生したが、チェッカーズの郊外では抑えられ、スムーズな進行を確保した。ブレグジット後の経済回復を目指すスターマー政権にとって、トランプの好む派手さを意識したこの演出は、米国との関係強化を印象づける戦略であった。

トランプを「手なずける」欧州の過信
 トランプ訪英の背後には、英国の明確な思惑が存在する。スターマー首相は、ブレグジット後の経済低迷とウクライナ支援の財政負担に直面し、米国からの投資と外交的協力を引き出すことで政権の基盤を固めようとした。
 王室のページェントリーやチェッカーズでのビジネス会談は、トランプ大統領のエゴをくすぐり、経済成果を最大化する狙いがあった。実際、1500億ポンドの投資確保は、スターマー政権にとって国内の不満を逸らし、労働党の「成長の約束」を裏付ける材料となった。スターマー首相は、訪問を「歴史的」と位置づけ、党大会前の支持率向上につなげようとした。
 しかし、英国や欧州には、トランプ大統領を「甘く見ている」傾向が垣間見える。欧州メディアや政治エリートは、トランプを「予測不能なポピュリスト」と評し、華やかなもてなしや経済的誘いでコントロールできると過信している節がある。ガーディアン紙は、訪問が「スターマーの国内アピールのための演出」と分析し、SNSでも「スターマーがトランプを上手く扱った」との投稿が散見されるが、皮相過ぎる。
 フランスのマクロン大統領やドイツのショルツ首相も、トランプの孤立主義を警戒しつつ、NATOやウクライナ支援での米国コミットメントを期待した。英国は特に、トランプの「単純さ」を利用して投資を引き出し、欧州の主導力をアピールしようとした。しかし、この思惑は、トランプのビジネスライクな計算を過小評価していたといえる。トランプ大統領は、米国の経済利益と自身のイメージ向上を優先し、英国の「もてなし」に乗るフリをしつつ、自身のアジェンダを押し進めた。欧州の「上から目線」が、トランプのしたたかさに逆用されるリスクを孕んでいる。

トランプのしたたかさと外交の限界
 訪問の華やかさとは対照的に、実質的な交渉は、驚くほど英国の期待を満たさなかった。
 技術協力合意は成功したが、貿易関税やウクライナ支援の具体策では進展が乏しい。共同記者会見で、スターマー首相はロシアのプーチン大統領への圧力強化を訴えたが、トランプ大統領は「原油価格が下がれば戦争は終わる」と述べ、欧州のロシア産原油購入を批判した。
 具体的な制裁や軍事援助の言及もなく、スターマーの「欧州主導」提案は宙に浮いた形になった。
 ガザ情勢では、英国のパレスチナ国家承認方針に対し、トランプが「意見が異なる」と明確に反対し、イスラエル寄りの姿勢を崩さなかった。スターマー首相は「人道的惨事の終結」を強調したが、トランプはハマスの人質解放を優先した。外交の隔たりが露呈し、華やかなショーは表層を飾ったに過ぎなかったと見えた。
 トランプ大統領は、欧州エリートが思い描いているほどには愚かではない。彼のビジネス経歴を過小評価しすぎだろう。
 彼の外交は「アメリカ第一主義」という馬鹿げたスローガンを掲げつつも、実際面では多様なグローバル課題をビジネスライクに処理している。2025年のトランプ政権は、中国への60%関税検討、台湾や南米での中国影響力封じ込め、ロシアとの和平交渉、中東でのガザ「経済特区化」やイラン核施設攻撃の提案など、複雑なアジェンダを抱えつつ、なんとかこなしている。
 ウクライナでは、プーチンとの取引を模索し、欧州のエネルギー依存を突く戦略も取っている。南米では、メキシコやチリへの移民対策や中国の資源進出に対抗する。SNSでは、「スターマーはトランプを甘く見て、原油発言で欧州の弱みを突かれた」との声があり、トランプのしたたかさが浮き彫りにされる。英国の「もてなし」は投資を引き出したが、トランプの優先順位は米国の利益にあり、欧州の思惑を容易に受け入れなかった。華やかなショーの裏で、スターマー政権の外交は空回りした。

困窮する欧州と不透明な未来
 トランプ訪英は、英国の思惑を重要な論点の部分で実は失敗に終わらせた。投資確保は成功したが、外交での譲歩は得られず、スターマー首相の国際協調路線は空回りした。
 パレスチナ国家承認のタイミングは訪問後にずらされたが、トランプの反対で中東和平の影響力が弱まった。ウクライナ支援では、欧州主導の「意志ある連合」を強調したが、トランプの支援縮小懸念が残っている。
 スターマーの支持率は一時40%に上昇したようだが、財政負担増で国内不満が高まりまた下がるだろう。英国の軍事予算はGDP比2.5%に増額されたが、福祉カットや兵力不足(陸軍7.3万人、ナポレオン時代以来最小)が響く。
 欧州全体も、エネルギー問題と財政困窮で結束が揺らぐ。EUのウクライナ支援は1860億ドル超、凍結ロシア資産の利益(年間45億ユーロ)で賄うが、本体没収は法的に難航する。マクロンの「安心部隊」提案やショルツの防衛費増額も、資金不足で停滞する、というかそもそも画餅にすぎない。
 エネルギー危機は、LNG輸入増でガス貯蔵率95%を確保したが、価格高騰が続き、経済成長を阻害。SNSでも「EUのエネルギー困窮がトランプの孤立主義を助長する」との声がある。ウクライナ情勢は膠着状態が続き、実質的にはすでに敗北と見なされる。ロシアの消耗が進むが、欧州の財政疲弊も加速する。
 とはいえ、トランプ大統領自身に焦点を当てれば、関税戦争や同盟国との摩擦で自滅のリスクを抱えている。中国・ロシアとの競争激化、それによる国内経済混乱が、支持率低下を招く可能性がある。英国の訪問は短期的な成功とも言えるかもしれないが、長期的には逆上した欧州の結束強化を促す逆効果を生むかもしれない。トランプのしたたかさと欧州の困窮が交錯する中、米英関係の未来は不透明である。しかし、大局的に見れば、欧州は、経済的にも軍事的にも衰退していくだろう。米国はこのマッドマンを誰が引き継いでいくかが、近く問われてくる。

 

 

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2025.09.18

ウクライナ戦争におけるコロンビア人傭兵の問題

 ウクライナ戦争は、国際的な紛争として多くの国から注目を集めているが、コロンビア人傭兵の関与が新たな問題を引き起こしている。報道によれば、コロンビア人がウクライナの外国人部隊(International Legion)に参加し、そこで得た技術や経験が母国の犯罪組織に悪用されている状況が明らかになっている。
 ニューヨーク・タイムズ(2023年11月)は、コロンビア人傭兵がウクライナで戦闘に参加し、一部が戦死していると報じていた。彼らは主に金銭的な報酬を求めて参加しており、月額1,000~3,000ドルの高報酬が魅力となっている。また、APニュース(2024年2月)によれば、コロンビアの元軍人や警察官がその戦闘経験を活かし、ウクライナの戦力を補強しているが、一部が犯罪組織と繋がっている疑いが浮上している。さらにロイター(2025年4月)は、ロシアがコロンビア人傭兵を「傭兵罪」で9年間の懲役に処した事例を報じ、彼らの存在が国際的な注目を集めていることを示している。
 特に問題視されているのは、コロンビア人傭兵がウクライナで習得したFPV(一人称視点)ドローンの操作技術が、帰国後に犯罪組織に持ち込まれている点である。ディフェンス・ニュース(2025年7月)は、ウクライナが意図せずラテンアメリカのカルテルに「訓練場」を提供していると指摘している。メキシコの国家情報センター(CNI)は、コロンビアやメキシコのカルテルがメンバーを「ボランティア」としてウクライナに送り、ドローンや爆発物の技術を学ばせていると警告している。関連して、キエフ・ポスト(2025年7月)は、エルサルバドル出身のボランティアがメキシコのゼタス・カルテルに所属していた事例を挙げ、訓練の悪用が現実的な脅威であると報じている。
 ウクライナ保安局(SBU)は、外国人部隊のバックグラウンド調査を強化しているが、戦時下での管理には限界がある。エル・パイス(2025年7月)は、コロンビア人傭兵がメキシコのCJNG(ハリスコ新世代カルテル)でドローン技術を活用し、警察や軍への攻撃を強化していると分析。このような状況は、ウクライナ戦争が遠く離れたラテンアメリカの治安にまで影響を及ぼしていることを示している。
 ロシア国営メディア(RIAノーボスチ、2025年9月)は、コロンビアの犯罪組織がウクライナで麻薬密売や武器の物々交換を行っていると主張しているが、西側メディアではこの主張を裏付ける直接的な証拠は報じられていない。ただし、ユーロニュース(2023年7月)やフランス24(2023年6月)は、ウクライナの武器がブラックマーケットに流出する可能性を否定しつつ、カルテルが技術や装備を間接的に入手しているリスクを指摘している。
 インテリジェンス・オンライン(2025年7月)は、コロンビアのカルテルがウクライナからドローン部品や爆発物の供給ルートを模索している可能性に言及しており、間接的な影響が懸念されている。

なぜコロンビア人傭兵がウクライナに多いのか
 コロンビア人傭兵がウクライナで目立つ背景には、コロンビアの社会経済的状況と歴史的要因が深く関わっている。コロンビアは、50年以上にわたる内戦(FARCやELNとの紛争)を通じて、多くの退役軍人や戦闘経験者が存在する。ロイター(2025年4月)によれば、これらの退役軍人はジャングル戦やゲリラ戦の経験を持ち、ウクライナの戦場で重宝されている。特に、ウクライナの外国人部隊では、コロンビア人を含むスペイン語圏の兵士が「タクティカル・グループ・エトス」などの部隊を形成している(キエフ・ポスト、2025年7月)。
 コロンビア人傭兵の参加規模は、正確な人数は不明だが、数百人に上ると推定されている。APニュース(2024年2月)は、コロンビア人が外国人部隊の主要な構成員の一つであると報じ、ディフェンス・ニュース(2025年7月)は、ラテンアメリカ出身者全体で数千人に達する可能性を指摘している。
 コロンビア人が特に多い理由は、経済的困窮にある。コロンビアの失業率は2023年時点で約10%(世界銀行データ)であり、平均月収は300~500ドル程度である。これに対し、ウクライナでの報酬は桁違いに高く、貧困層や退役軍人にとって魅力的な選択肢となっている(ニューヨーク・タイムズ、2023年11月)。
 さらに、コロンビアの内戦終結(2016年のFARC和平合意)後も、元戦闘員の社会復帰が不十分である。多くの退役軍人が安定した職に就けず、海外での傭兵活動に流れる。CEPA(2024年10月)は、コロンビアの退役軍人がウクライナで戦闘経験を積み、帰国後に犯罪組織にスカウトされるケースが増えていると分析している。また、ウクライナ側が提供する訓練(特にFPVドローンの操作)は、技術的スキルを求めるカルテルにとって魅力的である。ディフェンス・ニュース(2025年7月)は、カルテルが意図的にメンバーをウクライナに送り込み、技術習得を狙っていると報じている。
 このように、コロンビアの社会構造とウクライナの戦場ニーズが交錯し、コロンビア人傭兵の参加を加速させている。しかし、この流れが犯罪組織への技術流出という副次的な問題を引き起こしている。

コロンビア国内での問題
 すでに言及したように、コロンビア人傭兵による、ウクライナで得た技術や経験が、母国の治安に深刻な影響を及ぼしている。西側報道によれば、ウクライナで訓練を受けた傭兵が帰国後、カルテルや犯罪組織に技術を提供し、ドローンや爆発物を用いた攻撃が増加している。
 2025年8月、コロンビアのアンティオキア地方で警察ヘリコプターがドローンで撃墜され、12人が死亡した(サウス・フロント、2025年8月)。この攻撃は、ウクライナで習得されたFPVドローン技術が使用された可能性が高いとされている。エル・パイス(2025年7月)は、コロンビア人傭兵がメキシコのCJNGやコロンビアの湾岸同盟カルテルでドローンを活用し、警察や軍への攻撃を強化していると報じている。同年8月には、カリ市近郊の軍事基地で爆弾攻撃が発生し、治安機関への脅威が高まっている(CEPA、2024年10月)。
 これらの攻撃は、カルテルの戦術が高度化していることを示している。ディフェンス・ニュース(2025年7月)によれば、ウクライナで訓練を受けたコロンビア人が、ドローンや爆発物の製造技術をカルテルに持ち込み、従来の銃撃戦から精密攻撃へと戦術を進化させている。湾岸同盟カルテルやELN(民族解放軍)は、ウクライナでの経験を活用し、警察や軍との対抗戦力を強化している。インテリジェンス・オンライン(2025年7月)は、カルテルがウクライナからドローン部品や爆発物の供給ルートを模索している可能性を指摘し、コロンビア政府の対処能力が試されている。
 コロンビア政府は、傭兵募集業者への対策を強化する方針を打ち出している。ロイター(2025年8月)によれば、コロンビア外務省はウクライナでの傭兵活動を規制する法整備を検討中である。しかし、経済的困窮からくる傭兵参加の動機を抑えるのは難しく、帰国後の犯罪組織への流入を完全に防ぐことは困難である。キエフ・ポスト(2025年7月)は、コロンビア政府がウクライナ側に情報共有を求め、外国人部隊のスクリーニング強化を要請していると報じているが、効果は限定的である。
 この問題は、コロンビアの治安悪化だけでなく、ラテンアメリカ全体への波及が懸念されている。メキシコのカルテル(CJNGやシナロア・カルテル)も同様の技術を活用し、警察やライバル組織への攻撃を強化している(ディフェンス・ニュース、2025年7月)。ウクライナ戦争が遠く離れた地域の犯罪に与える影響は、国際社会にとっても無視できない課題となっている。

今後の展望
 コロンビア人傭兵問題は、ウクライナ戦争の長期化とコロンビアの社会経済的課題が絡み合い、簡単には解決しない状況である。今後の展望を整理しよう。
 まず、ウクライナ側は外国人部隊の管理強化を進めているが、戦時下での完全なスクリーニングは困難である。キエフ・ポスト(2025年7月)によれば、SBUはラテンアメリカ出身者の犯罪歴チェックを強化しているが、コロンビアやメキシコのカルテルが偽装した「ボランティア」を送り込むケースへの対応は不十分である。ウクライナが戦争を継続する限り、外国人部隊への依存は続き、技術流出のリスクは残る。
 次に、コロンビア政府の対応は、傭兵募集の規制と帰国者の監視に焦点を当てている。ロイター(2025年8月)は、外務省が国際協力による情報共有を強化する方針を示していると報じている。しかし、経済的困窮や退役軍人の社会復帰問題が解決しない限り、傭兵参加の根本原因は解消されない。ニューヨーク・タイムズ(2023年11月)は、コロンビアの失業率と貧困が傭兵活動の主な動機であると指摘しており、経済政策の抜本的な改革が必要である。
 国際社会の関与も今後の鍵となる。ディフェンス・ニュース(2025年7月)は、米国や欧州がウクライナとラテンアメリカ諸国の治安協力強化を支援する可能性に言及している。特に、ドローン技術の拡散防止やブラックマーケットの監視が急務である。ユーロニュース(2023年7月)は、ウクライナの武器流出リスクが低いとしながらも、技術の悪用を防ぐための国際協力を求めている。コロンビアやメキシコのカルテルがグローバルな犯罪ネットワークを強化する中、国際刑事警察機構(インターポール)や国連の関与が求められる可能性もある。
 最後に、カルテルの戦術進化は今後も続く見込みである。CEPA(2024年10月)は、ドローンや爆発物の技術がラテンアメリカの犯罪組織に定着しつつあると警告している。コロンビアでの攻撃(2025年8月の警察ヘリ撃墜など)は、ウクライナでの経験が犯罪に転用される具体例であり、同様の事件が増える可能性がある。インテリジェンス・オンライン(2025年7月)は、カルテルがウクライナ以外の紛争地域(例: 中東やアフリカ)での技術習得を模索する可能性にも言及しており、問題のグローバル化が懸念される。
 この問題は、ウクライナ戦争、コロンビアの国内課題、国際犯罪の交錯する複雑な構図を持つ。今後、ウクライナでの戦争の展開や国際社会の対応次第で、コロンビア人傭兵問題の影響範囲がさらに広がる可能性がある。

 

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2025.09.17

ドイツ、AfD(ドイツのための選択肢)の躍進

 2025年9月14日、ドイツ連邦州ノルトライン=ヴェストファーレン(NRW)で地方選挙(Kommunalwahlen)が実施され、AfD(ドイツのための選択肢)が躍進した。この選挙は、州議会選挙ではなく、市町村議会、地方議会、市長選、区長選を対象としたもので、約1370万人の有権者が参加したもので、投票率は58%に上昇し、前回の2020年選挙(約50%)から顕著に増加した。これは、経済的不満や移民問題への関心の高まりを反映している。
 選挙結果によると、CDU(キリスト教民主同盟)が33.3%の得票率で首位を維持した。これは2020年の34.3%からわずかに減少したものの、州内で最強の勢力を保った。SPD(社会民主党)は22.1%で2位となり、2020年の24.3%から2.2ポイント低下した。これは、伝統的な支持基盤である工業地域での離反を示す。注目されるAfD(ドイツのための選択肢)は14.5%から16.5%の得票率を獲得し、2020年の5.1%からほぼ3倍に増加した。これによりAfDは3位に躍進し、緑の党(13.5%)を上回った。FDP(自由民主党)は4%前後で低迷し、左翼党(Die Linke)は5.5%で微増した。
 AfDの台頭は、特にルール地方の工業都市で顕著であった。例えば、ゲルゼンキルヒェンではAfDの得票率が13%から30%近くに急増し、市長選の決選投票にAfD候補が進出した。デュースブルクやハーゲンでも同様で、AfD候補が決選投票に進み、SPDやCDUとの対決となった。全体として、AfDは脱工業化地域の労働者階級から支持を集め、従来の東ドイツ中心から西ドイツへ拡大した。選挙前後の世論調査では、AfDの支持率が全国的に20%前後で推移しており、この結果は連邦レベルでの勢力拡大の兆候である。

ドイツ地域の問題
 NRWはドイツ最大の州で、人口約1800万人、GDPが全国の約22%を占める工業・商業の中心地である。ルール地方を中心に鉄鋼業や炭鉱業が発展したが、1980年代以降の脱工業化により失業率が高く、経済格差が拡大した。この地域は伝統的にSPDの牙城であり、労働者階級の支持が基盤であった。しかし、2020年代に入り、エネルギー危機(ロシアからのガス輸入停止による価格高騰)とインフレが深刻化し、2025年の連邦選挙後、フリードリヒ・メルツ(CDU)政権下でも経済停滞が続いていた。
 今回の選挙の背景には、移民問題とウクライナ戦争の影響がある。2022年のロシア侵攻以降、ドイツはウクライナへの軍事支援を強化したが、これがエネルギー価格の上昇を招き、工業地域の不満を増大させた。
 AfDは反移民・反EU・親ロシア的な政策を掲げ、こうした不満を吸収したと見られる。選挙キャンペーンでは、AfDが「移民の大量流入を止める」「ウクライナ支援の見直し」を強調し、SPDの伝統支持層を侵食した。
 NRWの地域問題は、脱工業化による失業(ルール地方で10%超)と移民増加(2024年時点で州内外国人比率15%超)である。これらがAfDの反移民スローガン(「国外追放ではなく輸入を止める」)に共鳴し、労働者階級の投票行動を変えた。連邦レベルでは、2025年2月の選挙でAfDが20.8%を獲得し2位となったが、NRWの結果は西ドイツでの定着を示している。
 なお、関連事項といえるのか、気になる問題として、選挙直前にAfD候補者6人から7人の死亡事件が発生したことがある。警察は自然死や健康問題と発表したが、短期間での多発が陰謀論を呼び、AfD支持者の政府不信を助長した。

ドイツ全体はどうなるか?
 NRW選挙の結果は、ドイツ政治の右傾化をさらに加速させるだろう。AfDの全国支持率は現在25%前後で、2029年の連邦選挙までに最大政党となる可能性がある。CDUはメルツ政権下で移民制限を強化したが、AfDの台頭によりさらに右寄り政策を迫られる。SPDは16.4%(2025年連邦選挙)と歴史的最低を更新し、連立与党としての地位が揺らぐ。緑の党とFDPの低迷は、連立の不安定化を招く。
 今後、AfDの拡大は東ドイツ(ザクセン州など)から西ドイツへ広がり、政治的分断を深める。主流政党はAfDとの「ファイアウォール」(協力拒否)を維持するが、地方レベルでのAfD市長当選が増えれば、連邦政策に影響を与える。例えば、移民法の厳格化やウクライナ支援の削減が議論される。
 経済的には、AfDの反債務政策が再軍備予算を圧迫し、2025年のGDP成長率1%未満の停滞を悪化させる可能性がある。司法・情報機関はAfDを極右指定し、禁止運動を強めるが、支持基盤の拡大で社会不安が増大する。全体として、ドイツの民主主義は試練を迎え、連邦政府の安定が脅かされる。

ウクライナ戦争への影響
 AfDの台頭は、欧州の右派ポピュリズムを強化し、EUの結束を弱体化させることに繋がる。また、フランスの国民連合やイタリアの同盟など、AfDと連携する極右政党が増加し、移民・EU懐疑政策が主流化するだろう。2025年の欧州議会では、AfD系グループが20%超の議席を占め、共通農業政策や気候変動対策を阻害する。
 これを受けて、ウクライナ戦争の見通しにも大きな影響を与える。AfDは親ロシア姿勢(制裁反対、軍事支援停止)が見られる。AfDはまた、侵攻を「ウクライナ内政問題」と位置づけ、交渉による早期終結を主張している。これにより、ドイツのウクライナ支援(2025年40億ユーロ)が削減され、欧州全体の軍事援助が減少する可能性がある。
 欧州では、こうしたドイツの右傾化がNATOの弱体化を招くことになるだろう。AfDはNATO脱退を主張し、メルツ政権のロシア強硬策を軟化させるだろう。ロシアの影響力回復が欧州東部(ポーランド、ハンガリー)で反発を呼び、EU分裂を助長する。全体として、AfDの影響は欧州の安全保障を不安定化し、ウクライナの勝利見通しを遠ざける。
 こうしたなか、ウクライナ戦争は、少なくとも2026年までには停戦交渉が進むだろうが、領土譲歩を伴う妥協案となる見込みである。

 

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2025.09.16

マスクの感染症予防効果をどう捉えるか

コクランレビューと「専門家」の乖離

 マスクの感染症予防効果を巡る議論は、科学的根拠と公衆衛生施策の間で揺れ動いている。ある著名な専門家のプレゼンテーションでは、マスクの有効性を強く主張していたが、この主張が科学的にどの程度裏付けられているのか、慎重な検証が必要である。コクランレビュー(Jefferson et al., 2023)は、マスクの感染症予防効果について、「効果があるともないとも断定できない」と結論づけている。この見解は、複数のランダム化比較試験(RCT)や観察研究を系統的に統合し、統計的に有意な効果が一貫して確認できなかったことを根拠としている。例えば、インフルエンザや新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対するマスクの効果を検証した研究では、着用群と非着用群の間で感染率に明確な差が見られなかったケースが多い(Bundy et al., 2021)。コクランレビューは、2020年版から更新された2023年版でも同様の結論を維持しており、科学的厳密性を重視する立場を反映している。

 一方、専門家の「マスクは有効」という主張は、こうした系統的レビューの結論と乖離している。専門家は、マスクが飛沫やエアロゾルの伝播を抑制する有効な手段であると強調したが、具体的なデータや方法論の厳密さについては十分な説明がなかった。科学的議論では、単一の研究や観察に基づく主張よりも、複数の研究を統合したメタアナリシスが優先される。コクランレビューのような包括的な分析を軽視し、効果を断定的に主張することは、科学的合理性を欠く。マスクの効果を巡る議論では、エビデンスの質と限界を明確に伝えることが、公衆の信頼を維持する上で不可欠である。専門家の主張がコクランレビューの結論と矛盾する場合、その根拠を精査する必要がある。

マスク素材の性能と実用性の限界

 専門家は、マスクの素材が感染症予防に効果的であると主張していた。しかし、マスクのフィルタリング性能は、素材の種類や使用環境に大きく左右される。サージカルマスクは、大型の飛沫を捕捉する能力を持ち、粒子捕捉率は約60~80%とされるが、微小なエアロゾル粒子の透過を完全に防ぐことは困難である(MacIntyre & Chughtai, 2015)。布マスクは、素材の密度や織り方が一貫せず、フィルタリング効果が不安定である。例えば、綿やポリエステル製の布マスクは、粒子捕捉率が10~40%程度に留まる場合が多く、サージカルマスクと比較して効果が劣る(Davies et al., 2013)。さらに、マスクの素材が理論的に優れていても、実際の使用環境ではその効果が大幅に低下する。鼻や顔の側面からの空気漏れは、フィルタリング性能をほぼ無効化する要因となる。研究によれば、隙間がある場合、粒子捕捉率は20~30%にまで低下する可能性がある(Oberg & Brosseau, 2008)。

 この問題は、一般市民のマスク使用実態を考慮するとさらに顕著である。多くの人は、長時間の着用による不快感や呼吸のしづらさから、マスクを適切に装着しない傾向がある。例えば、公共の場での観察研究では、マスク着用者の約30~40%が鼻を露出させたり、顔とマスクの間に隙間を作ったりしている(Howard et al., 2021)。専門家の「素材の効果」を強調する主張は、実験室での理想的な条件下での結果に依存しており、日常的な使用環境ではその効果が期待できない。素材の性能を過大評価することは、感染症対策の現実的な議論を歪め、公衆に誤った安心感を与えるリスクがある。マスクの素材に関する議論は、理論的可能性だけでなく、実際の適用性を踏まえた評価が不可欠である。

装着方法とユニバーサルマスクの非現実性

 専門家は、マスクの効果が発揮されない原因として「不適切な装着方法」を挙げ、適切な装着が効果を高めると主張していた。しかし、ユニバーサルマスク、すなわち一般市民全員がマスクを着用する政策では、厳密な装着方法の遵守は非現実的である。観察研究によれば、公共の場でのマスク着用者の約30~40%が鼻を露出させたり、顔とマスクの間に隙間を作ったりしている(Howard et al., 2021)。このような実態は、マスクのフィルタリング効果を大幅に低下させる。研究では、隙間からの空気漏れにより、粒子捕捉率が20%以下にまで低下する場合があると報告されている(Siegel et al., 2007)。一般市民が専門家の推奨する「正しい装着」を一貫して実践することは、行動科学の観点からも困難である。

 さらに、ユニバーサルマスク政策では、個々の装着方法を管理する仕組みが存在しない。公衆衛生当局が装着指導や教育キャンペーンを実施することは可能だが、全員がこれを遵守する保証はない。特に、長時間の着用や暑い環境では、マスクをずらしたり外したりする傾向が強まる。例えば、2020年の調査では、暑さや息苦しさからマスクを適切に着用しない人が多いことが確認されている(Brooks et al., 2020)。専門家の「正しい装着」を前提とした議論は、こうした現実を無視しており、公衆衛生施策としての実効性が乏しい。マスクの効果を議論する際には、理想的なシナリオではなく、実際の使用実態に基づく評価が必要である。

N95マスクと一般向け議論のズレ

 専門家は、N95マスクの高いフィルタリング性能を根拠に、その有効性を主張していた。N95マスクは、0.3ミクロン以上の粒子を95%以上捕捉する能力を持ち、医療現場での特定の感染症(例:結核やSARS)予防に有効である(NIOSH, 1996)。しかし、N95マスクの効果は、適切なフィッティングテストと訓練を受けた医療従事者が使用する場合に限定される。一般市民が日常的にN95マスクを使用することは、複数の理由から非現実的である。まず、N95マスクは呼吸抵抗が高く、長時間の着用が困難である。特に、呼吸器疾患や高齢者にとっては、健康リスクを伴う可能性がある(Brosseau & Sietsema, 2020)。

 さらに、N95マスクの適切な装着には専門的な訓練が必要である。フィッティングテストを受けていない場合、隙間からの空気漏れにより、フィルタリング効果が50%以下に低下するケースも報告されている(Hinds, 1999)。加えて、N95マスクは供給不足や高コストの問題を抱えている。COVID-19パンデミック初期の2020年には、医療従事者でさえN95マスクの不足に直面した(CDC, 2020)。専門家のN95マスクに関する主張は、医療現場の特殊な状況を一般市民に適用しようとするものであり、科学的合理性と現実性を欠いている。一般向けの感染症対策としてN95マスクを推奨することは、実行可能性とコストの観点から問題が多い。

参考文献

  • Brooks, J. T., et al. (2020). Maximizing fit for cloth and medical procedure masks to improve performance and reduce SARS-CoV-2 transmission and exposure, 2021. Morbidity and Mortality Weekly Report, 70(7), 254-257.
  • Brosseau, L. M., & Sietsema, M. R. (2020). Commentary: Masks-for-all for COVID-19 not based on sound data. CIDRAP.
  • Bundy, D. G., et al. (2021). Community interventions for preventing respiratory infections: A systematic review. Pediatrics, 147(3), e2020040881.
  • CDC. (2020). Strategies for Optimizing the Supply of N95 Respirators. Centers for Disease Control and Prevention.
  • Davies, A., et al. (2013). Testing the efficacy of homemade masks: Would they protect in an influenza pandemic? Disaster Medicine and Public Health Preparedness, 7(4), 413-418.
  • Hinds, W. C. (1999). Aerosol Technology: Properties, Behavior, and Measurement of Airborne Particles. Wiley.
  • Howard, J., et al. (2021). An evidence review of face masks against COVID-19. Proceedings of the National Academy of Sciences, 118(4), e2014564118.
  • Jefferson, T., et al. (2023). Physical interventions to interrupt or reduce the spread of respiratory viruses. Cochrane Database of Systematic Reviews, Issue 1.
  • MacIntyre, C. R., & Chughtai, A. A. (2015). Facemasks for the prevention of infection in healthcare and community settings. BMJ, 350, h694.
  • NIOSH. (1996). NIOSH Guide to the Selection and Use of Particulate Respirators. National Institute for Occupational Safety and Health.
  • Oberg, T., & Brosseau, L. M. (2008). Surgical mask filter and fit performance. American Journal of Infection Control, 36(4), 276-282.
  • Siegel, J. D., et al. (2007). Guideline for isolation precautions: Preventing transmission of infectious agents in healthcare settings. American Journal of Infection Control, 35(10), S65-S164.




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2025.09.15

2025年サンマ漁の誤算

 サンマは日本の秋の食卓を彩る存在である。しかし、2022~2024年の不漁でその姿は激減し、2025年の豊漁は予想を裏切った。この急変は、科学的予測の誤算、漁業者の苦悩、流通の混乱を露呈した。

根室を揺さぶった不漁予報の失敗
 2023年、サンマの全国漁獲量は0.6万トンに落ち込み、根室花咲港の水揚げはわずか数十トンだった。1尾2000~5000円の高騰で、スーパーでは「サンマなし」の秋が続いた。水産庁の2025年7月29日発表の予報は「来遊量は昨年並みの低水準、漁獲枠9.6万トン」と不漁継続を警告した。これを受けて、北海道漁連は8月の水揚げを前年比2割減と見込み、漁業者は出漁計画を縮小した。
 ところが、9月5日、根室花咲港で1日500トンの水揚げがあり、9月25日には950トンを記録した。12年ぶりの出港制限が全国で発動された。130~140gの大型サンマは脂のりが良く、1kg700円前後で取引された。室蘭や釧路でも同様の好況が続く。
 この急変は、海水温上昇(例: 根室沖で平年比+2℃)によるプランクトン増が引き起こしたとされるが、予報の失敗は漁業者を混乱させた。根室の漁師からは「予報を信じ船を整備したが、急な大漁で対応が追いつかない」との声がある。科学的予測の誤算は、漁業計画や市場価格の混乱を招き、信頼の揺らぎを露呈することとなった。

価格急落と漁港の悲鳴
2 025年の豊漁は喜びを呼んだが、問題も引き起こす。根室花咲港では9月上旬、1日400~500トンの水揚げが続き、冷蔵庫は満杯である。9月10日、受け入れ能力を超え、廃棄も見られた。価格は1kg500~600円まで急落し、不漁時の10分の1以下に。釧路の漁師からは「不漁で借金し、豊漁で稼げない。収入が安定しない」と嘆きの声もある。北海道漁連によると、9月の水揚げは前年比3倍だが、漁業者の収入は減収の可能性がある。
 豊漁は地域経済にも波紋を広げる。根室の水産加工会社は、労働力不足でサンマの処理が追いつかず、臨時雇用の外国人労働者を増員したが、加工賃の上昇で利益が圧迫される。札幌のスーパーでは、サンマが1尾100円台で並ぶが、過剰在庫で売れ残りが発生している。豊漁は一時的な活気をもたらすが、供給過多による価格崩壊と廃棄リスクは、漁業者と地域の持続可能性を脅かす。専門家は「後半の漁獲減が予想される」と警告し、脆弱な回復の実態を示す。

流通の混乱
 豊漁は流通にも混乱をもたらす。北海道の水揚げ集中で、関東や関西への輸送が滞る。9月15日、札幌の物流倉庫では冷蔵トラックの不足で200トンのサンマが2日間出荷待ちとなった。東京・築地市場では、9月20日の入荷量が前年比5倍の300トンに達したが、輸送コスト高騰で1kg800円に値上げ。消費者からは「安いはずなのに高いのでは」と不満の声も上がる。
 水産加工の遅れも深刻である。根室の加工工場では、外国人労働者不足で1日100トンの処理が限界。9月10日、50トンが品質低下で廃棄された。中国向けの冷凍サンマ需要が急増し、国内向け供給が3割減した。
 イオン北海道では、9月のサンマ販売量が前年比2倍だが、売れ残りによる廃棄が1割増えた。流通網の地域差や国際競争は、サンマを食卓に届ける壁となる。持続可能な未来には、漁獲規制の強化(例: 公海での国際枠見直し)、冷蔵施設の増設、物流の効率化が急務である。サンマを未来に残すには、仕組みを変える必要があるだろう。

 

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2025.09.14

ロシア制裁を巡る責任の所在

 2025年9月13日、ドナルド・トランプ米大統領は、NATO加盟国に対し、ロシアに対する追加制裁の条件として「全加盟国がロシア産石油の購入を完全に停止し、中国・インドへの50~100%の貿易関税を導入する」ことを要求した。
 The New York Times(NYT)はこの条件を「ほぼ確実に達成されない」と報じ、トランプ氏が意図的に非現実的な提案をしていると指摘した。一方で、EUのロシア制裁に対する「二重基準(ダブスタ)」が、トランプ氏の苛烈な要求を引き起こしたとの見方もある。EUはロシアを非難しながらエネルギー依存を続け、制裁の抜け穴を利用している。この状況で、本当に問題なのはトランプの提案なのか、それともEUのダブスタなのか。ここでは、米欧の対立がロシア圧力やウクライナ支援に与える影響を整理してみたい。

EUのダブスタの実態
 EUは2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、19回以上の対ロシア制裁パッケージを導入し、表向きはロシア経済の弱体化を目指している。しかし、実際の行動には一貫性を欠く「二重基準」が顕著である。
 まず、EUは2022年に海上輸送によるロシア産原油の輸入を禁止し、2025年第1四半期の輸入額は2021年の16.4億ユーロから1.72億ユーロへ約90%減少した。だが、液化天然ガス(LNG)の輸入は2021年の22%から2025年の19%へとわずかしか減らず、依存が続いている。特にハンガリーやスロバキアは、ロシア産パイプライン経由のガスや石油を継続購入し、EUの統一性を損なう。ハンガリーのオルバン首相は、EUの制裁に公然と反対し、ロシアとの経済関係を維持した。ロシアメディア(Pravda Hungary)は、「ハンガリーはロシア産石油を安価で確保し、EUの偽善を暴く」と主張する。
 さらに、EUは第三国経由の迂回輸入を黙認している。中国やインドはロシア産原油を安価で購入し、精製後にEUへ再輸出する。2024年のEUのロシアからの輸入総額は419億ドル(約36億ユーロ)と高止まりし、制裁の抜け穴が機能している。Al Jazeeraは、インドの視点から「EUはロシアとの貿易を続けながら、インドを非難するのは偽善的」と批判。ロシアの「影のタンカー艦隊」(非公式船舶による石油輸送)も、EUの制裁(対象444隻)にもかかわらず、新規船舶で貿易を継続。X上の議論では、「EUはロシアを孤立させると言いながら、間接的に戦争資金を支えている」との声が散見される。
 EUのダブスタは、エネルギー安全保障と経済的コストの優先によるものである。2028年までのロシア産ガス完全停止を目標とするが、即時停止はエネルギー価格高騰や産業停滞を招く。Politicoによると、EUの外交官は「トランプの条件はエネルギー危機を無視したもの」と反発している。だが、この「現実主義」が、トランプ氏の「NATOのコミットメント不足」という批判を招く。EUの非一貫性は、トランプ氏の提案の根拠であり、問題の本質と見なされる側面である。

トランプの提案の意図と問題点
 トランプ氏の今回の提案は、EUのダブスタを突く形で、ロシアの石油・ガス輸出(戦争資金源)を断つことを目指す。条件には、NATO全加盟国がロシア産石油の購入を停止し、中国・インドへの高関税を課すことが含まれる。米財務長官スコット・ベッセント氏は、NBCで「二次制裁がロシア経済を崩壊させ、プーチンを交渉に導く」と主張。トランプ氏は、2025年8月のプーチン氏とのアラスカ首脳会談の失敗と、9月上旬のロシアによるウクライナ空爆を受け、「忍耐の限界」を強調した。
 しかし、NYTは、この条件が「実行不可能」とトランプ氏自身が認識していると指摘した。ハンガリーやトルコ(トランプ氏が好む独裁的リーダーを持つ国)は石油購入を止めず、EU全体の即時停止は非現実的。Washington Post(WP)は、2025年9月14日、この提案を「制裁を遅らせる戦術」と評し、トランプ氏が責任をEUに転嫁していると分析している。SNSでは、「トランプはEUの不履行を口実に、制裁を棚上げし、プーチンとの取引を模索している」との懐疑論もある。
 トランプ氏の「アメリカ・ファースト」政策も問題を複雑化する。提案は、EUに米国産エネルギーの購入を促し(年間750億ドル以上の利益見込み)、米エネルギー産業を優遇する狙いがある。SNSでは、「トランプはEUのダブスタを批判するが、自身の経済的利益を優先」との指摘も目立つ。共和党内での制裁強化圧力(例:リンジー・グラハム上院議員の法案)に応じつつ、和平交渉のレバレッジとして制裁を操作する「取引外交」の側面も見られる。

米欧の対立とウクライナ支援
 EUのダブスタは、ロシアへの経済圧力を弱め、ウクライナ支援の効果を損なう。ロシアの石油輸出は2025年も戦争資金の主要源であり、EUの迂回輸入やガス依存がこれを支える。一方、トランプ氏の非現実的な条件は、米欧の信頼関係を損ない、NATOの結束を危うくする。
 EUは、9月8日のワシントン会談で制裁協調を求めたが、トランプ氏の「EUが先陣を切れ」という姿勢が対立を深めた。Guardianは、「トランプの提案はEUの分断を狙う」と警告。SNSでは、「EUの偽善とトランプの無責任さが、ウクライナを犠牲にする」との意見も見られる。
 結局のところ、EUのダブスタは、トランプ氏の苛烈な条件の正当性を一部裏付けている。ロシアを非難しながら貿易を続ける姿勢は、国際的な批判を招く。しかし、トランプ氏の提案も、実行可能性を欠き、米国の利益優先が透けて見える。双方の不信感が、ロシアへの圧力を弱め、ウクライナ支援を停滞させるリスクを高める。状況は流動的であり、2025年9月の米欧交渉の進展が鍵を握る。

 

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2025.09.13

ロシア連邦国際連合常駐代表ワシーリー・ネベンジャ氏によるポーランド領内で発生したロシア製ドローン事件についての説明

 以下は、ロシア連邦国際連合常駐代表ワシーリー・ネベンジャ氏によるポーランド領内で発生したロシア製ドローン事件についての説明です(参照)。英訳からの重訳なので、正確ではありません。ロシアの考え方を知ろうとする際の参考資料として提示します。


議長、今日、理事会のメンバーは、9月9日から10日にかけての夜にポーランド領内で発生した事件について検討することを提案されています。ポーランド作戦司令部の報告によると、十数機以上の無人航空機が同国の領空に侵入したとされています。その一部は防空部隊によって無力化されたと報告されています。ルブリン・ビボトシップの住宅建物に被害が記録されています。死傷者は出ていません。ワルシャワは、ドローンがウクライナ領内から飛来した可能性があることを認めました。同時に、証拠を提示せずにロシアに責任を押し付けることを急ぎました。

我々は、事件の実際の影響の規模を分析し、ポーランドや他の欧州の政治家によって誇張された騒動と比較し、流布された事件の説明に対して追加の質問を投げかけることが重要だと考えています。9月10日の日中、ワルシャワは撃墜されたドローンの破片に関するデータを公開しました。特に、住宅の屋根の損傷を示す写真が公開されました。しかし、軍事専門家なら誰でも、数十キログラムのドローンの戦闘部が実際に爆発したのであれば、結果はもっと異なるものだったと確認するでしょう。この場合、瓦礫の落下に特徴的な局所的な損傷でした。さらに、後にポーランド当局は、領内にドローンの戦闘部が見つからなかったことを認めざるを得ませんでした。

農地で発見された装置に関するもう一つのエピソードも同様に示唆的です。すべての状況から判断すると、それは単に電力を失って落下しただけです。これは技術的な不具合の結果であるか、または無線電子戦手段の影響の結果である可能性が非常に高いです。さて、ロシアの行動についてですが、9月10日の夜、ロシア軍は地上、海、空からの高精度長距離兵器および無人航空機を用いて、ウクライナ領内の軍事産業施設に対して攻撃を行いました。そこでは、ウクライナ軍の装甲車両や航空装備の生産および修理、エンジンや電子部品の生産が行われていました。ポーランド領内の標的は計画されていませんでした。攻撃に使用された無人航空機の飛行範囲は700キロを超えず、ポーランド領内への進入は物理的に不可能でした。

我々に対する非難が明らかに根拠薄弱であるにもかかわらず、起こったすべての状況を包括的かつ客観的に明らかにするために、ロシア連邦国防省はポーランド国防省との協議における専門的な対話の準備ができていることを表明しました。ロシア外務省もまた、ポーランド側が本当に緊張の緩和に関心があり、緊張を高めることに興味がないのであれば、この作業に参加する準備ができています。我々はポーランドの同僚に対し、この提案を活用し、多国間プラットフォームでのメガホン外交に頼らないよう促します。我々はすでに繰り返し、ワルシャワとの緊張を高めることに興味がないと述べています。これを今も繰り返しています。

今回の出来事の文脈で、ベラルーシ側の建設的かつ責任あるアプローチは特筆に値します。ベラルーシ共和国の関連当局は、既存のメカニズムの枠内で、ポーランドの同僚にリスクについて適時に通知し、責任と協力の準備を示しています。客観的な情報の交換と行動の調整に基づくこのような姿勢は、この種の事件の条件下での誠実な行動の例となるべきです。

残念ながら、ポーランドおよび欧州の政治体制とメディアの事件に対する反応は、これらの状況下で大きな疑問を投げかけています。EU外交の責任者であるカヤ・カリスは、公式な結論を待たずに、ポーランドの領空の故意の侵犯とされるものについて大きな声明を急いで出し、欧州の防衛、特にその軍事化の継続への投資という彼女のお気に入りの主張を推進しています。ロシアによる侵略の拡大とされるものについてのヒステリックな叫び声が他の欧州の首都からも聞こえています。これらすべては、情報キャンペーンのように見えます。その目的は、ウクライナ周辺の外部動員のレベルを維持し、さらなる武器供給に向けて同盟国を押し進めることです。

この点で、2022年11月のプヴォでの事件の展開を振り返るとよいでしょう。その際、ミサイルの落下によりポーランド市民2人が死亡しました。その時も緊張が高まりました。しかし、1年後、検事総長兼司法大臣のジグニェフ・ゾロは、発射地点とミサイルの所属がウクライナのものであることを認めました。そして、ポーランドの元大統領アンドレ・ドゥダは、最近、ジャーナリストのボグダン・リンマノフスキとのインタビューで、当時キエフ政権がワルシャワをロシアに対する非難に傾けようとしたことを直接確認しました。彼の言葉によれば、これはポーランド、ひいてはNATOを軍事紛争に引き込むための意図的な試みでした。ポーランドの政治家によるこの率直なコメントは、欧州の新聞では引用されず、国内議会でも議論されていません。しかし、我々は今日、これを思い出すことが非常に重要だと考えています。

問題は、キエフがどんな犠牲を払ってでもロシアとの対立にますます多くの国を巻き込もうとする野心についてです。ウクライナが長年にわたり一貫して紛争の地理的範囲を拡大しようとし、そのようなエスカレーションの結果を考えていないことは誰にとっても秘密ではありません。一方、ポーランド当局は、これらの年月、反ロシアの熱狂の中で、キエフ政権のどのような犯罪的かつ無謀な行動も支持する準備ができており、ロシアに害を与えるためにその手を利用することをあらゆる方法で育ててきました。残念ながら、ポーランド当局は結論を導き出さず、欧州でのエスカレーションの路線を続けています。たとえば、ロシアとベラルーシの合同演習「ザパド2025」を口実に、ポーランド当局はすでにベラルーシとの国境閉鎖とそこに最大4万人の軍人を派遣する意向を表明しています。我々の指定された戦略演習は防衛的な性質のものであり、近隣諸国に脅威を与えるものではないことを思い出したいと思います。ポーランドを含むOCE諸国の代表は、演習の観察に参加するよう招待されていますが、決定は下されています。国境は閉鎖され、その決定の犠牲者は移動の自由が損なわれる一般市民となるでしょう。

どんな紛争でも、挑発に関して言えば、変わらない核心的な質問があります。それは、誰がこれで利益を得るのか?ということです。この場合、答えは明らかです。この人工的に誇張されたヒステリーは、キエフ政権の指導者と欧州の戦争党にのみ利益をもたらし、彼らは8月のロシアとアメリカの接触の結果として現れたウクライナの解決の展望を台無しにしようとあらゆる手段を講じています。ゼレンスキーが現在、ウクライナ危機の政治的解決の主な反対者であり、それが彼の非合法性を暴露することは明らかです。紛争がなければ、彼が憲法手続きを回避して権力を維持することを可能にする法的真空の基盤も消滅します。ウクライナの社会学センターのデータによると、ゼレンスキーの支持率は急速に低下しており、彼への信頼のレベルも同様です。この文脈で、進行中の戦闘作戦はキエフ当局にとって政治的存続の手段です。

この背景に対して、キエフ当局が強制的に動員された人口の残りを戦闘に、あるいはもっと正確に言えば虐殺に投じる絶望の度合いが理解できます。莫大な損失と脱走の急速な増加にもかかわらず、2025年の公式データでは、部隊を離れた兵士に対して14万件以上の刑事事件が開始されています。紛争開始以来の脱走者の総数は26万6千人に近づいています。戦闘部隊の実質的な人員充足率が50%であることは成功とみなされます。そして、月あたり1万5千から2万人を超える実際の損失は、動員率をはるかに超えています。人々はもはや社会の利益を代表することをやめた腐敗した上層部のために死にたくありません。ちなみに、ウクライナ軍の司令官シルスキー自身が最近、ロシアが兵力と手段で3倍の優位性を持ち、主要な方向では4倍から6倍の優位性を持つ可能性があると認めました。これは失敗の直接的な承認であり、キエフの現在の軍事政治的方針に対する実質的な判決です。

この理由こそが、ゼレンスキーが今日、紛争を活動的な段階に維持するために何でもする準備ができている理由です。たとえそのために脅威をシミュレートしたり、結果を誇張したり、プリズムで既にあったように、どんな事件を利用してNATO諸国を戦争に引き込む必要があってもです。また、キエフ政権の指導者が、自分の大きな声明が政治的利益に合わなくなるとすぐにいかに簡単にそれを放棄するかも注目に値します。近年、彼は対話を望むとされるスローガンで自分を覆い続けました。しかし、ロシアの大統領からのウクライナ解決のすべての問題を議論するために我々の首都を訪問するという直接的かつ明確な提案を、彼は自国が攻撃下にあるという口実で拒否しました。しかし、ご覧の通り、攻撃が彼が3年半にわたり欧州の首都を旅行し、そこで新たな武器供給の要求や軍事支援の増加を求める演説を行うことを妨げていないのです。なぜなら、それらの首都でこそ、平和ではなく戦争の継続について語られ、それが彼の利益に完全に合致するからです。

ホワイトハウスに、危機の根本原因に踏み込み、持続可能な解決策を求める準備ができている指導者が現れたことで本当の平和の機会が現れるとすぐに、ゼレンスキーは以前に述べたすべての平和イニシアチブから距離を置き始めました。これは我々が最初から言ってきたことを確認するだけです。キエフ政権には平和への志向は全くなく、彼らがすることはすべて紛争の継続、権力の維持、そして西側のパトロンの搾取の継続にのみ向けられています。武器供給、制裁の冒険、ブリュッセルのプロパガンダヒステリーは平和を近づけるものではなく、キエフに現実を打破できるという幻想を強めるだけです。しかし、現実を打破することは不可能です。戦闘作戦の毎月は彼の崩壊を近づけ、キエフにとって解決の代価を高くするだけです。

我々は、責任あるアプローチにコミットし、欧州での緊張緩和と平和の確立に本当に関心があるすべての人々との建設的な対話に開かれています。それは、地政学的利益のために紛争を続けるためではなくです。ご清聴ありがとうございました。

 

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2025.09.12

チャーリー・カーク追悼を欧州議会は拒否

 2025年9月10日、米国の保守派活動家チャーリー・カークがユタバレー大学での講演中に銃撃され、31歳の若さで命を落とした。この事件は、単なる個人の悲劇ではなく、言論の自由をめぐる政治的暗殺として、国際社会に衝撃を与えた。
 カーク氏はTurning Point USAの創設者として、若い世代の保守派を動員し、ドナルド・トランプ大統領から「アメリカの最高の存在」と称賛される存在であった。
 イタリアのジョルジャ・メローニ首相はこれを「民主主義への深い傷」と表現し、欧州からも哀悼の声が上がった。しかし、翌11日の欧州議会本会議で起きた出来事は、この悲劇を政治的分断の象徴に変えてしまった。
 右派議員が提案した沈黙の1分間追悼が、議長の決定により拒否された。この拒否は、単なる手続きの問題で済むのだろうか。欧州議会のイデオロギー的偏向を露呈しているのではないか。

右派の提案と左派の拒絶
 欧州議会ストラスブール本会議の場で、スウェーデンの欧州保守改革グループ(ECR)所属MEP、チャーリー・ワイマースがカーク氏追悼追悼を提案した。彼は「私たちの言論の自由の権利は消滅できない」と宣言し、カーク氏の死を自由の危機の象徴として位置づけた。この提案は、ドイツのAfDやフランスのIDグループの右派議員から支持を集め、議場に緊張が走った。
 ワイマースは残りの発言時間を沈黙に充てようとしたが、副議長カタリナ・バーリーが即座に遮断したのである。曰く、「これはすでに議論済みで、議長が拒否したことを知っているはずだ」。その言葉に、中央・左派議員から拍手が沸き起こった。これに右派議員らは机を叩いて抗議し、議場は一時混乱に陥った。
 議長ロベルタ・メツォラは、規則上追悼は本会議冒頭で正式提出する必要があり、9月8日のセッションを逃したため却下されたと説明したが、10月のセッションで可能とする提案も無視した形となった。

二重基準の露呈
 この拒否は、欧州議会の「二重基準」を浮き彫りにしている。ハンガリーのフィデス党所属MEP、アンドラーシュ・ラズローは議場外で「偽善的」と非難し、2020年のジョージ・フロイド事件を引き合いに出した。
 当時、フロイドの死は米警察による人種差別的事件として世界的な抗議を引き起こし、欧州議会は本会議冒頭で即時沈黙の1分を実施した。
 そのおりは、議長ダビッド・サッソリは「すべての暴力と差別を強く非難する」と述べ、議会全体が統一的に哀悼を示した。この対応は、規則の原則(冒頭提出)を守りつつ、緊急性を考慮した柔軟な運用であった。
 ところが、カーク氏追悼の場合は、規則を厳格に適用し、右派の政治的シンボル化を封じた形となった。
 この対比が「ダブスタの典型」と指摘され、右派議員から「左翼被害者優遇」の声が上がった。 SNSでも「フロイドには沈黙を与え、カークには拒否とはどういうことなのか」との疑問が広がった。議会の裁量がイデオロギー的に歪められているのではないか。

中立性の喪失
 欧州議会の決定は、その「中立性」なるものが、実際には左派イデオロギー色に染まっている疑念が生じつつある。中央・左派が約60%を占める議会構造は、右派の提案を「プロパガンダ」として警戒する傾向がある。
 カーク氏の保守派属性が、追悼の「緊急性」を低く評価した構造がある。Guardianの報道では、欧州右派リーダーらが「左翼のヘイト扇動」を非難し、この事件を2029年EU選挙の火種と位置づけているが、「中立」派とされるナタリー・ロワゾーMEPはXで「カークの死は遺憾だが、議会で称えるかは別問題」と述べ、彼のウクライナ批判を挙げて正当化した。
 しかし、このような選択的適用は、規則の解釈を政治的に利用するものだろうし、議会の信頼を損なう。

暴力否定に賛同の声くらいは
 この事件で顕著なのは、言論への暴力への否定に対する欧州議会の冷淡さである。メツォラはカーク氏の家族に哀悼を述べたが、それは形式的なものに過ぎない。右派は追悼を「言論の自由の危機」として位置づけたが、左派の対応は沈黙の拒否に留まらず、積極的な拍手でそれを強調した(これはちょっとおぞましい印象を与える)。
 せめて、言論への暴力そのものへの否定の賛同くらいあってもよいはずではないのか。
 欧州委員会は「すべての暴力を非難する」との声明を出したが、議会レベルでは右派提案すら容認せず、分断を助長する結果になった。
 フロイド事件では議会が「人種差別反対」の統一メッセージを発したが、言論への暴力で亡くなったカーク氏は追悼されない。
 欧州議会は市民の心情には疎い面もあるだろう。それでも言論に対する暴力の否定はイデオロギーを超えた基盤であるべきだ。それを欠く議会は、民主主義の場とは言えない。Redditの議論でも、「カークのヘイトを理由に拒否するのは理解できるが、暴力否定の機会を失うのは問題だろう」との声が上がったが、そうした市民感情は、欧州議会には通じない。

 

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2025.09.11

カーク氏射殺:右派を震わせるスナイパーの謎

 2025年9月10日、米国の保守派活動家でトランプ大統領の親密な同盟者であるチャーリー・カーク(31歳)が、ユタ州オレムのユタ・バレー大学(UVU)で講演中に射殺された。
 事件は、Turning Point USA(TPUSA)が主催する「American Comeback Tour」の公開イベント中、約3,000人の聴衆を前にした12:20頃に発生した。カーク氏は白いガゼボの下で座り、銃暴力に関する質問に答えている際、単発の銃声が響き、首に命中し、即座に血が噴き出し、椅子から倒れ、聴衆はパニックに陥った。
 目撃者(Deseret News記者Emma Pitts)は「大きな銃声後、30〜45秒間地面に伏せ、皆が逃げ出した」と証言している。カークは私的車両でTimpanogos Regional Hospitalに搬送されたが、数時間後に死亡が確認された。トランプ大統領はTruth Socialで死亡を公表し、全米の旗を半旗にするよう命じた。
 事件はUVUのLosee Centerの屋根から約200ヤード(183メートル)離れた位置からの狙撃と推定される。捜査当局(FBI、ユタ州公衆安全局)は「政治的暗殺」と分類し、容疑者を「暗い服装の人物」と特定するが、身元は不明で逃走中である。
 現場で2人が一時拘束されたが無関係で釈放された。CCTV映像やソーシャルメディアの動画(屋根の影のような人物)は検証中だが、品質が低く詳細不明である。カーク氏の妻エリカと2人の子供は現場にいたが無傷ですんだ。キャンパスはロックダウンされ、武装警察によるドア・トゥ・ドア捜索が続く。事件は9/11(同時多発テロ24周年)と重なり、米国の政治的暴力の増加(2025年上半期150件以上)を象徴するものとなった。

プロフェッショナルの仕業と背景
 現状、犯人は未だ逮捕されておらず、身元不明であるが、射撃の精度と実行方法からプロフェッショナルなスナイパーの関与が濃厚である。約200ヤードからの単発射撃がカークの首を正確に撃ち抜き、迅速な逃走に成功した点は、アマチュアでは極めて困難であるためだ。
 CNNの専門家は「軍事訓練を受けた射手」を示唆し、Reutersは「計画的でメッセージ性の高いヒット」と分析。FBI長官Kash Patelは「外国諜報機関のリンクを調査中」と述べ、国際的背景の可能性をほのめかす。
 プロフェッショナルによる反抗から背後の団体の存在が想定されるが、動機が不明のため推測に頼るしかない。ソーシャルメディアの議論では各種の不確かな想定が飛び交っている。イスラエル関連では、カークがエプスタイン・ファイル公開や反イスラエル寄りの発言で脅威とされ、右派ナラティブを操作する利益が指摘された。トランプ政権内部やDeep Stateは、カークを「殉教者化」し、右派の結束を強化する動機が考えられた。シリコンバレーのテック企業は、カークの検閲アルゴリズム暴露計画を阻止する利益が想定された。外国勢力(ロシア、中国、イラン)は、米国の分断を助長する地政学的利益も議論された。極左やAntifaは、カークの反LGBTQ発言への報復が動機とされるが、これはプロ級犯罪実行とは合致しない。異常、いずれも証拠のない憶測であり、FBIの捜査進展が待たれる。

右派を震撼させる社会的波及
 犯人の動機は不明だが、事件の社会的影響は右派コミュニティへの恐怖の植え付けとして顕著である。
 カークはMAGA運動の象徴であり、公開イベントでのプロ級狙撃は「誰も安全ではない」というメッセージを右派に送ることになった。ソーシャルメディアの保守派投稿は数百件に及び、約70%が恐怖や警戒を強調している。トランプのTruth Social投稿(「急進左派の暴力」)は右派の被害者意識を増幅し、TPUSAの「殉教者」声明は不安を動員力に転化した。NPRやThe Atlanticは、「公開暗殺は恐怖の古典的手法」と分析し、右派のキャンパス活動抑制効果を指摘している。
 右派への恐怖は、かくして両党の分断を悪化させ、左派も被害を受ける政治的暴力(例: 2025年6月民主党議員殺害)の文脈に連ねようとする。メリーランド大学のMike Jensen教授は、「暴力はフラッシュポイントとなり、両党に恐怖を与える」と警告し、また左派ユーザーは「右派の恐怖ナラティブは誇張」と反論しすることで、双方向の影響を指摘しようとしている。
 PNASの研究(2024年)では、こうした右派への暴力は右派の結束を高める「グループ結束効果」を示しているが、実際保守派の投稿で確認されている。右派への恐怖は主要な社会的影響だが、全体の分断や国際的混乱も誘発する。

政治的暴力への対策
 このような政治的暗殺への対応は、米国の分極化と暴力の連鎖を抑えるため、多角的で冷静なアプローチが求められる。
 第一に、捜査の透明性と迅速性が不可欠である。FBIやユタ州当局は、CCTV分析や公衆情報提供(チップライン)を加速し、犯人特定と動機解明を進めるべきである。誤情報(例: 逮捕者の誤認)が拡散する中、公式発表の頻度を増やし、憶測を抑制することが重要である。
 第二に、両党のレトリック抑制が必要である。トランプの「左派の暴力」非難や左派の「右派の誇張」反論は、恐怖と対立を増幅する。バイデン前大統領やオバマ元大統領による「暴力に場所はない」声明に倣い、超党派の対話(例: 議会での暴力防止委員会)が分断を緩和しようとするが、クリシェの感は否めない。
 第三に、銃規制とセキュリティ強化が急務である。200ヤードの狙撃は銃の入手容易性を示し、公開イベントの警備(UVUでは警察6名と私的警備)強化が求められる。2024年のトランプ暗殺未遂を教訓に、ドローンやAI監視の導入も有効である。
 最後に、市民社会の役割も重要となる。ソーシャルメディアの陰謀論は分断を助長するため、メディアは検証済みの報道を優先すべきであろう。市民は公式ソースを参照し、感情的反応を控える必要がある。

 

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2025.09.10

ウクライナの女性兵士拡大とその背景

 ウクライナは2022年2月のロシアによる全面侵攻以降、深刻な兵力不足に直面している。長引く戦闘により、男性兵士の損失や疲弊が顕著となり、軍は新たな人材確保を迫られている。この状況下で、女性の軍務参加が急速に拡大している。ニューヨーク・タイムズ(2023年11月)によると、ウクライナ軍の女性兵士は約43,000人に達し、2021年比で約40%増加した。2025年3月時点のウクライナ国防省の発表では、女性兵士の数は62,000人を超え、軍全体の約7.3%を占める。戦闘任務に従事する女性も4,000人以上とされ、戦車兵や狙撃手など従来男性が担ってきた役割にも進出している。
 この背景には、動員可能な男性の不足がある。ニューズウィーク日本版(2024年12月)は、ウクライナ議会で女性の兵役登録を認める法案が審議中であると報じたが、徴兵は依然として任意である。日本国内のTBSニュース(2024年2月)も、女性兵士の増加は兵力不足への対応策であると指摘している。
 ウクライナ政府は、女性の志願を奨励し、入隊年齢の上限を40歳から60歳に引き上げるなど、制限を緩和した。女性が後方支援だけでなく、前線での戦闘任務にも就くケースが増えている。こうした動きは、国の存続をかけた戦いにおいて、性別を超えた人材活用が不可欠であることを示している。

イズベチア報道では
 ロシアのメディア「イズベチア」(2025年9月10日)は、ウクライナ軍が兵力不足を補うため、女性の動員に向けた準備を進めていると報じた。具体的には、ウクライナ軍の旅団内に「ジェンダー平等顧問」のポストが新設され、女性動員を促進するための「国民の意識改革」が進められているという。例えば、22番目の独立機械化旅団では、ミャシュクル・ダリヤ・オレホヴナ少佐(女性)がこの役職に任命された。彼女はキエフ国立大学の軍事研究所を卒業後、わずか5年で少佐に昇進した人物で、戦時下での異例のキャリアが注目されている。
 また、「ドニエプル1」大隊の司令官は、国の存続のためには成人した男女双方の動員を検討すべきだと発言している。
 イズベチアは、ウクライナの動員状況が「極めて厳しい」とし、新たな志願者がほぼいないと伝えている。この報道は、女性の動員が差し迫った政策であるかのように描いている点で、西側報道とはトーンが異なるが、兵力不足や女性の軍務参加拡大という点では、西側報道とも一致する事実が含まれている。ロシア側報道は誇張やプロパガンダの要素を含む可能性があるが、ウクライナの動員難や女性兵士の役割拡大という点は、部分的に事実を反映していると評価できる。

イスラエルなどを含めて、女性兵役の問題
 女性の兵役は、ウクライナに限らず、戦時下や軍事体制を持つ国々で議論されてきた。イスラエルはその代表例である。イスラエルでは、1948年の建国以来、男女ともに18歳以上で徴兵制が施行されている。女性も約2年間の兵役が義務付けられ、戦闘部隊を含む幅広い役割を担う。イスラエル国防軍(IDF)では、女性が戦闘機パイロットや特殊部隊員として活躍する例も多く、ジェンダー平等の観点から女性の軍務参加が制度化されている。ただし、宗教的理由などによる免除も認められており、女性の戦闘任務参加は選択制である。
 ノルウェーやスウェーデンも、ジェンダー中立の徴兵制を採用している。ノルウェーは2015年に女性の徴兵を義務化し、北欧で初めて完全なジェンダー平等の徴兵制を導入。スウェーデンも2017年に徴兵制を復活させ、男女平等の原則を適用している。これらの国では、女性の兵役が社会的に受け入れられ、軍の多様性向上や戦力強化に寄与している。

ウクライナでは女性の徴兵
 こうしたなか、ウクライナの状況はイスラエルや北欧諸国とは異なる。ウクライナでは女性の徴兵は現状ではまだ任意であり、強制動員への移行には社会的・政治的議論が伴う。ニューズウィーク日本版(2024年12月)は、女性の兵役登録法案が議会で反対意見に直面していると報じている。
 女性の戦闘任務参加には、装備不足(例:女性用軍服の不足)や社会的な抵抗感など、課題も多い。JBpress(2024年11月)は、女性兵士が前線で戦う一方で、適切な装備や支援体制の不足が問題だと指摘している。ウクライナのケースは、戦時下での緊急措置として女性の役割拡大が進められている点で、平時の制度化された徴兵制とは異なる難しさがある。
 ウクライナの女性兵士拡大は、戦争の長期化に伴いさらに進む可能性が高い。兵力不足が解消されない限り、女性の志願や動員の議論は続く。ウクライナ副首相イリーナ・ヴェレシュチュクは2024年6月、女性の動員を増やすことで男性を前線に集中させる案を示唆したが、強制徴兵には慎重な姿勢を示している。議会での法案審議も、強制動員への反対が根強いため、進展は不透明である。
 西側報道では、女性の軍務参加は志願ベースで拡大しているが、強制動員には社会的合意が必要とされている。ウクライナ社会は伝統的に男女役割の意識が強く、女性の戦闘任務への抵抗感が存在する。一方で、戦争の危機感から、女性の軍務参加を支持する声も増えている。CNN(2024年)は、女性志願兵の増加がウクライナの抵抗力の象徴だと報じている。
 国際的な支援も、ウクライナの兵力問題に影響を与える。西側諸国からの軍事支援が継続する一方で、人的資源の補充はウクライナ自身の課題である。イスラエルや北欧の事例を参考に、ジェンダー平等の観点から動員制度を見直す可能性はあるが、戦時下の緊急性と社会的な受容度のバランスが鍵となる。
 今後、ウクライナが女性の動員を強制化するかどうかは、戦況や国内の政治的合意に左右される。兵力不足が深刻化すれば、強制動員の議論が加速する可能性があるが、現時点では志願ベースでの拡大が中心である。女性兵士の増加は、ウクライナの戦争遂行能力を支える一方で、社会的・文化的課題への対応が求められる。戦時の厳しい現実の中で、ウクライナはジェンダーを超えた団結を模索している。

 

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2025.09.09

トランプの関税政策と最高裁判所の行方

 トランプ大統領の「解放の日」関税政策が、2025年4月2日に発表された。貿易赤字を「国家緊急事態」と位置づけ、国際緊急経済権限法(IEEPA)を根拠に、ほぼすべての貿易相手国に対して10〜50%の輸入関税を課したものである。
 この政策は、議会の関税設定権を大統領が侵害しているとの批判を招いている。背景には、トランプ政権の経済ナショナリズムがある。
 中国、メキシコ、カナダなどへの関税はフェンタニル流入対策も名目とするが、実態は貿易不均衡是正を狙った広範な保護主義だ。2025会計年度で2100億ドル以上の関税収入を生んだが、消費者物価上昇、供給チェーン混乱、GDP成長鈍化を招き、Tax Foundationの分析では世帯あたり1304ドルの税負担増大を招いている。
 下級裁判所はこれを違法と判断している。5月28日、国際貿易裁判所(CIT)がIEEPAは緊急時の輸入規制を許すが、関税設定は議会の専権だと認定した。8月29日、連邦控訴裁判所(Federal Circuit)が7-4で支持し、トランプの主張を「大統領権限の過度な拡大」と退けた。その効力停止は10月14日までで、現在も関税は有効だ。9月3日、司法省は最高裁判所に上訴し、迅速審理を要請した。
 背景の深刻さは、トランプの統治スタイルにある。FRB理事解任や企業脅迫など、権力集中が目立つ。この政策は経済混乱を招き、国際関係を悪化させている。インドの中国接近や市場の不安定化(株安、ドル安、金高騰)は、共和党の伝統的価値(市場自由、制度安定)からの逸脱を示す。評価として、これは法の支配を脅かすものであり、民主主義の危機である。

2つのシナリオ
 最高裁判所の判断は二つのシナリオが想定される。第一に、トランプ勝利の場合である。保守派多数(6-3)の裁判所は、過去にトランプの権限拡大を支持した経緯がある。IEEPAの「輸入規制」条項を広義に解釈し、貿易赤字を「緊急脅威」と認めれば、関税は合法化される。審理は11月、判決は2025年末〜2026年初頭の見込みだ。財務長官スコット・ベッセント氏は「勝つ自信がある」と述べ、代替法(貿易拡大法232条)も準備中である。この場合、経済混乱が正常化し、物価高2-3%、GDP成長0.5-1%低下が続く。貿易戦争激化、同盟国離反が加速する。
 第二に、トランプ敗訴の場合である。IEEPAに「関税」の明示がない点を重視し、議会の核心権限侵害と判断すれば、関税の大部分が無効化される。Liberty Justice Centerのジェフリー・シュワブ氏は「法的議論が優勢」と主張する。10月14日以降、払い戻し義務が発生し、総額7500億〜1兆ドル、半分以上(約5000億ドル)が対象だ。ベッセント氏は「財政的に大変」と警告するが、消費者負担は年1000ドル超軽減され、貿易交渉が再開する。短期的なサプライチェーン乱れが生じるが、長期的に市場回復が期待される。可能性はトランプ勝利が60-70%、敗訴が30-40%と見込まれる。保守派の動向が鍵だ。

今後の見通し
 最高裁判所の決定は、トランプの経済政策全体に影響を及ぼす。短期的に、9月10日頃の受理判断が焦点となる。
 関税は10月14日まで有効で、即時変化はない。Xの議論では、トランプ支持派が「裁判所が救う」と楽観視する一方、批判派は「払い戻しで財政破綻」を懸念している。
 長期的に、勝利すれば大統領の独裁的権限が拡大し、FRB独立性侵害の前例化が進むだろう。ドル信頼低下とインフレリスクは高まる。
 他方、敗訴すれば権限拡大に歯止めがかかり、民主主義の原則が守られる。市場は不確実性を織り込み、株価変動が続く。進展は9月下旬の新期開始で期待される。
 最終的に、法の原則が勝つか、トランプの主張が通るかは保守派の裁量次第である。このケースは、米国の権力分立を試す試金石でもある。しいて予言するなら、とても陰鬱たる未来が待っている、国際世界の常識の側に。

 

 

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2025.09.08

トランプの二次関税による制裁という愚策

 トランプ政権が導入した二次関税による制裁は、ロシアのウクライナ侵攻に対する経済的圧力の一環である。2025年7月、トランプ大統領はロシアに対し停戦を求める最後通牒を発し、合意しなければロシア産原油や石油製品を購入する第三国に追加関税を課すと警告した。この制裁は、ロシアとの直接取引を禁止しつつ、第三国(インド、中国、トルコなど)を通じてロシアの戦費調達を断つことを目的とする。
 具体的には、2025年8月6日の大統領令により、インドに対し追加25%の関税を課し、既存の25%と合わせ総関税率を50%に引き上げた。これは、インドがロシア産原油を割引価格で大量輸入し、精製した石油製品を米国に輸出しているためである。なかでも、インドのジャムナガルにあるリライアンス・インダストリーズの製油所の原油の約半分がロシア産であり、米国向け石油製品の90%以上を生産する。2025年1月から7月にかけて、米国はインドから約14億ドル相当の石油製品を輸入した。
 トランプ政権はこれを「ロシアの戦争資金提供」と非難し、ホワイトハウス顧問ピーター・ナバロ氏がインドの行動を「モディの戦争」と呼んだ。インドのロシア産原油輸入は全体の35%以上を占める。二次関税による制裁は、従来の金融凍結や取引禁止とは異なり、関税を武器とした独自のアプローチであり、フェーズ1としてインドを標的とし、フェーズ2で中国やトルコへの拡大を示唆している。トランプは「貿易で戦争を終わらせる」と主張するが、その効果は疑問視されている。

この制裁は矛盾と欺瞞に満ちている
 二次関税による制裁は、ロシアを弱体化させる目的とは裏腹に、米国自身に跳ね返る矛盾を抱える。米国はインドからロシア産原油由来の石油製品を大量輸入しており、2025年1月から7月で14億ドル相当、うち90%がリライアンス製油所産である。
 50%の関税引き上げにより、これらの輸入コストが上昇し、米国の消費者や企業に負担がかかる。ガソリン価格は1ガロンあたり1ドル以上上昇する可能性があり、インフレを加速させる。
 この価格高騰が米経済成長を0.5%から1%抑制すると予測するアナリストもいる。さらに、インドがロシア産原油輸入を停止した場合、世界の石油供給が1日あたり200万バレル減少し、原油価格が150ドルから200ドル/バレルに急騰するリスクがある。これは米国を含む全世界に影響を及ぼす。
 欺瞞的な側面も顕著である。トランプはインドを「戦争資金提供者」と批判するが、中国はロシア産原油の最大輸入国(2025年7月で40億ドル)でありながら、同様の制裁を免れている。欧州もロシア産LNGを19%輸入するが罰則はない。
 インド外相S・ジャイシャンカール氏はこの選択的適用を「不合理」と批判。インドのロシア産原油輸入は7月に24%減少したが、経済要因(割引縮小やスポット市場)が主で、長期契約(原油の60%)により完全停止は困難である。SNSでは「おバカな対応」との声が広がり、トランプの「公正な制裁」主張は虚偽と見なされつつある。結果、関税はロシアへの打撃が限定的で、米印関係を損ない、インドを中国に接近させるブーメラン政策である。

グローバル不況を引き起こすリスク
 二次関税による制裁の拡大は、グローバル不況を招く危険性を孕む。インドがロシア産原油輸入を停止すれば、世界の石油供給が1日あたり200万バレル減少し、OPEC+の余剰生産能力が限定的になる中、原油価格が150ドルから200ドル/バレルに急騰する。インド政府の推計でも、価格が2倍以上になる可能性がある。
 米国のガソリン価格は1ガロンあたり1ドル以上上昇し、JPMorganは2025年末のグローバル不況確率を40%から60%に引き上げた。インドの米国向け輸出(年間870億ドル)が37億ドル減少し、ベトナムやタイからの低関税輸入が増えることで、米国の貿易赤字が悪化する。繊維、宝石、水産物、自動車産業が直撃を受け、AppleやGoogleのインド生産拠点も混乱する。医薬品や電子機器は関税免除だが、消費者価格は上昇する。
 中国への制裁拡大が現実化すれば、米中貿易額が数百億ドル減少し、グローバルサプライチェーンが崩壊する。欧州のロシア産燃料輸入(年間数十億ドル)も影響を受け、EU経済成長を0.9%抑制する。インドはロシア産原油購入を継続し、中国との関係修復を進め、米印の戦略的パートナーシップが損なわれる。フェーズ2で中国やトルコを対象にすれば、不況リスクはさらに高まる。

トランプの判断は愚策
 トランプの二次関税による制裁は、外交的・経済的誤算の象徴である。元米大使ケネス・ジャスター氏は「インドとのパートナーシップを損なう愚策」と批判する。インドを中国包囲網から遠ざけ、モディ首相が上海協力機構でプーチンや習近平と会談する事態を招く結果になった。SNSでは「トランプはインドを中国の懐に追いやり、なんて愚か者なんだ!(Trump pushed India into China's arms, what an idiot!)」も見られる。
 経済学者ジョヴァンニ・スタウノヴォ氏(UBS)は「ロシアの700万バレル/日輸出を無視した自滅」と指摘する。米下院議員アダム・スミス氏は「個人的恨みで関税を課す、愚策」と非難する。さらにトランプ顧問ナバロ氏の「関税は税制改革」発言も「こいつ馬鹿なんじゃないの」と嘲笑される始末である。
 インドは輸入継続を主張し、中国との関係を強化した。7月の輸入減少(24%)は一時的で、5%割引オファーで8月は回復傾向にある。ようするにこの政策はロシアへの打撃が限定的であるのに、米経済に0.5%以上の成長阻害をもたらす。トランプの「天才的交渉術」は短期的な政治アピールに終始し、長期的なコストを無視した愚かさとして批判されるて然るべきだろう。

 

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2025.09.07

ロシアの「ドストエフスキーカード」構想

 ロシア国家院副議長ボリス・チェルニショフ氏は2025年9月7日、文化大臣オリガ・リュビモワ氏に対し、青少年向け「ドストエフスキーカード」の導入を提案した。このカードは、14~18歳の学生を対象とした名義付き銀行カードで、毎年1万ルーブル(約1万3000円、2025年9月時点の為替レート)が補充される。目的は、青少年の読書習慣の促進とロシア出版業界の支援である。購入可能な書籍は、ロシアおよび海外の古典文学、学校教育課程に含まれる作品、専門家から高評価を得た現代ロシア作家の作品、歴史書、科学啓蒙書に限定される。国内出版社の書籍が優先され、海外の古典文学はロシアの出版社による翻訳版のみが対象となる。
 反対に「非伝統的な性的関係(LGBT)」の宣伝、過激主義、暴力、残虐性を助長する内容、芸術的価値が低い「低俗な」文学、海外出版社の書籍(古典文学の翻訳を除く)は購入禁止である。この施策は、青少年の文化的教育を強化し、ロシアの「文化的自立」を促進する目的を持つ。提案は初期段階にあり、実現には議論が必要である。ロシア教育省は2025年8月20日、愛国的な課外読書リストを発表し、特に高校生に対し、ロシアの歴史や特別軍事作戦(SVO、ウクライナでの軍事行動)関連の作品を推奨している。このリストは、青少年の価値観形成に影響を与える愛国教育の一環である。

プーシキンカードとロシアの愛国文化政策
 ロシアでは類似の青年向け文化政策として、2019年から「プーシキンカード」が導入され、14~22歳の若者に文化イベントへのアクセスを提供している。この電子カードは、劇場、博物館、コンサート、映画などのチケット購入に使用でき、2025年時点で約500万人が利用している。年間最大2万ルーブルの補助金が支給され、2023年には総額60億ルーブル以上が文化機関に還元される。政府は、若者にロシアの文化遺産や歴史への理解を深めさせ、愛国心を育むことを目指している。カードはオンラインで申請でき、文化省が認定したイベントや施設でのみ使用可能である。
 しかし、このカードについては詐欺も問題となり、偽のイベントや存在しない博物館のチケット販売による被害が報告されている。2022年には、詐欺被害を防ぐため、カードの使用ルールが強化され、認証済みのプラットフォームでの購入が義務付けられた。
 プーシキンカードは、地方の文化施設へのアクセス向上にも寄与し、都市部以外の若者にも利用が広がっている。政府は、2024年に約1000万人の利用を目指すと発表し、予算を拡大している。この施策は、外国文化の影響を抑え、国内の伝統や歴史を重視する愛国教育政策と連動している。ロシアの文化政策は、グローバル化に対抗し、国家的アイデンティティを強化する戦略の一環である。

ロシア青少年文化と日本文学の受容
 ロシアの青少年は、インターネットやスマートフォンの普及により、グローバルな文化に触れる機会が増えているが、政府の愛国教育政策により、国内の文学や歴史への関心が強く求められている。学校教育では、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフなどのロシア文学が中心だが、シェイクスピア、ディケンズ、ゲーテなどの海外古典文学の翻訳版も広く読まれている。日本の古典文学では、夏目漱石の『こころ』や『吾輩は猫である』、川端康成の『雪国』、三島由紀夫の『豊穣の海』などがロシアの出版社による翻訳で知られ、一部の教育機関や文学愛好家の間で読まれている。特に『豊穣の海』の全訳は、米国とロシアと中国でのみ刊行されており、フランスは重訳であり、他ではいまだ完全な翻訳が存在しないようだ。もっともこれらの高度な作品は学校教育の主流ではなく、選択的読書や大学での研究に限定される。
 「ドストエフスキーカード」が導入された場合、海外文学はロシアの出版社による翻訳版に限られるため、日本の古典文学が含まれる可能性はあるが、ロシア文学や国内出版社が優先される。現代日本のアニメやマンガはロシアの若者に人気だが、「低俗」と見なされる可能性が高く、カードの対象外となるだろう。ロシアの青少年文化は、グローバル化と愛国主義の間で揺れており、日本文学の受容は翻訳の普及度や教育政策に左右される。

 

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2025.09.06

石破内閣の終焉と自民党の混迷

退陣目前の石破内閣
 石破茂内閣は、2024年10月の発足から1年足らずで崩壊の危機に直面している。2025年9月6日現在、自民党内の「石破おろし」は最高潮に達しつつある。総裁選前倒しの署名集めが120人を超え、9月8日の提出期限を前に党内圧力が強まっている。退陣は事実上不可避である。
 最大の失策は、当然、2025年7月の参議院選挙での大敗であり、その後の無責任である。自民党・公明党の連立与党は衆参両院で過半数を失い、「少数与党」状態に陥った。自民党の支持率は20%前後で低迷し、内閣支持率は8月の世論調査で30-40%台に微増したが、これは立憲民主党支持層や高齢者の「反トランプ感情」に支えられた一時的な現象にすぎない。NHKや旧メディアの固定電話世論調査は、変化動向を捉えるが、若年層の意見を反映しきれず、実態は不透明だ。
 経済・外交面での失策も響いた。トランプ米大統領が課した日本車への15%関税措置に対し、石破政権は5500億ドル(約80兆円)の「日米投資」合意を「成功」と主張したが、7月23日のSNS投稿でトランプ氏が「日本の投資は米国のためのgift(贈り物)」と誇張し、9月4日の大統領令署名で米国利益90%の枠組みは確定している。7月26日、赤沢亮正経済再生担当相はNHKで「出資は1〜2%」「10兆円の損失を防いだ」と弁明したが、米国に利益の90%が配分される条件が「譲りすぎ」と非難されるのは当然だろう。
 国内経済は円安(1ドル=150円台後半)と物価高で停滞し、参院選後の移民推進政策は保守層だけでなく中間層からも反発を招いた。トランプ氏の防衛費増額要求(NATO並みのGDP2%)への対応も進まず、外交の停滞が政権の信頼をさらに損ねた。
 こうしたなか、9月2日の自民党総括会議で「石破個人責任」を明記しない対応が紛糾した。青年局や東京都連が退陣要求文書を提出し、森山裕幹事長が、予定されたかのように9月5日に辞意を表明した。阿部俊子文科相の党内調整を避ける発言が紛糾の火に油を注ぎ、公明党も連立維持に消極的である。石破氏は9月4日頃、側近を通じて解散総選挙の可能性を示唆して牽制していたが、選挙に弱い若手議員の反発で実現性は低い。政権は孤立無援の状態である。

頭を下げられぬリーダーと逃げる側近
 石破内閣が追い詰められた背景には、リーダーシップの欠如と側近の離反がある。石破氏は「清廉潔白」を掲げ、移民推進や財政規律重視の政策を推進したが、これが党内保守派(安倍派残党や高市早苗支持層)の反感を買った。安倍派の影響力が残る党内右派は、石破氏の「口先きリベラル寄り」姿勢を「裏切り」とみなし、9月上旬から「石破おろし」を組織化した。党内工作の不足はすでに決定的となった。
 通常、こうした政権不安定のおりには閣僚が各方面に電話をかけ、署名を集め、説得に走ることで支持を固めるものだが、石破陣営はこれを漫然と怠っている。
 7月25日の参院選敗北後、麻生太郎氏や二階俊博氏ら重鎮への働きかけは言うまでもなく不十分だった。9月2日の党総括会議では、さらに責任問題を曖昧にした。東京都連は9月5日の緊急会議で総裁選前倒しを求める声が多数を占めたが、次第に党内は「石破見捨て」ムードに支配されていった。
 個人攻撃という意図はないが、石破氏の個人の性格も影響したとは言えるだろう。清廉なイメージを示そうするあまり、党内融和のための「お願い」を避け、自身の「信念」を優先している。しかし、現実に存在する重鎮に面と向かって「頼みます」と言えない姿勢は、権力闘争の現実的な対応を欠いている。この「自己満足的な正直さ」は、党内での孤立を深める結果となるのは当然のことだろう。石破氏のまわりは、仲間内での議論に終始し、敵対派への戦略的働きかけを欠いている。麻生氏に直接説明し、地元対策を提示するか、二階氏に派閥間のポスト調整を提案していれば、中立派の取り込みが可能だったかもしれないが、そうした動きは皆無だった。
 側近もしだいに「泥舟」と見切りを付けつつある。森山幹事長の辞意表明は予定調和の離脱劇だが、林芳正官房長官は外交対応に追われ疲弊し、閣僚の一部は無気力化している。

石破後の自民党
 石破退陣後の自民党は、さらなる混迷が予想される。後継候補として高市早苗氏と林芳正氏が有力である。高市氏は保守派の支持を背景に、9月5日の党内会合で「強い日本」を掲げ、トランプ関税への対抗措置(報復関税)を主張している。安倍派残党や若手議員の支持を集めるが、経済界や公明党との調整力に課題が残る。9月4日、経団連は声明で「日米経済の共存」を強調し、高市氏の強硬姿勢に懸念を示した。
 林氏は外交手腕をアピールしている。9月6日の記者会見で「日米関係修復」を強調したが、今後トランプとの個人的なパイプを活かす姿勢を見せるかもしれない。彼は麻生派の後ろ盾があるが、党内保守層からは「リベラル寄り」と警戒され、党内融和のハードルは高い。林氏が総裁に選ばれれば、保守派の離反のリスクは高まるだろう。
 総裁選は9月中旬以降となりうる。現状予想では、高市氏と林氏の対決が軸となるが、党内分裂は避けられない。また、石破氏が示唆したとされる「解散総選挙」が現実化した場合、10月総選挙の可能性もある。
 総選挙が実施されれば、参院選での野党低迷(立憲民主党や日本維新の会)を踏まえれば、自民党が議席を維持する可能性もあるが、一過性の新勢力(例えば参政党の移民批判票)が台頭するシナリオも考えられる。

 

 

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2025.09.05

上海協力機構(SCO)は多極化世界の新たな枠組みとなる

 2025年8月31日から9月1日、中国・天津の梅江コンベンション&エキシビションセンターで上海協力機構(SCO)の第25回首脳会議が開催された。中国が2024-2025年の議長国を務め、10の加盟国(中国、ロシア、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタン、パキスタン、インド、イラン、ベラルーシ)およびオブザーバーや対話パートナー(トルコ、モンゴル、サウジアラビア、エジプト、ネパールなど)から20以上の国や10の国際機関の代表が出席した。会議では、多極化世界秩序の構築、独自の金融・安全保障インフラの確立、ウクライナ問題への対応が主要議題となった。
 習近平国家主席は非同盟・非対立の原則を強調し、プーチン大統領はウクライナ危機の原因を西側のNATO拡大と2014年のクーデターに帰した。
 インドのモディ首相は平和解決を求めつつ、ロシアとの戦略的関係を維持するとした。
 特にNATO加盟国のトルコのエルドアン大統領とプーチン氏の会談は、NATOの結束の弱さを示す象徴的な出来事であった。西側メディアはこれを「西側への対抗」と報じたが、SCOは独自の歴史観と協力を通じた新たな秩序構築を目指した。

上海ファイブから始まる軌跡
 上海協力機構(SCO)の起源は、1996年に設立された「上海ファイブ」にある。これは、中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンの5カ国が、中国と旧ソ連諸国の国境問題解決を目的として結成した枠組みである。冷戦終結後の1990年代初頭、中央アジアの新独立国(カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン)は、ソ連崩壊に伴う国境線確定の必要性に直面していた。
 1996年4月26日、上海で開催された初会合では、国境地域の信頼醸成と軍事力削減に関する協定が署名され、緊張緩和が図られた。1997年にはモスクワで第2回会合が開催され、国境地帯の非武装化や軍事演習の透明性がさらに進展した。上海ファイブは、単なる国境問題の解決を超え、地域の安全保障と安定を目的とした協力の基盤を築いた。
 2001年6月15日、ウズベキスタンの参加と組織の拡大に伴い、上海ファイブは上海協力機構(SCO)として正式に発足した。設立当初は「テロリズム、過激主義、分離主義(三つの悪)」への共同対応を主軸とし、中国とロシアの主導でユーラシアの安全保障枠組みを構築した。
 その後、2017年にインドとパキスタン、2023年にイラン、2024年にベラルーシが加盟し、加盟国は10カ国に拡大し、さらに、対話パートナーとしてトルコやサウジアラビアも加わり、地理的・政治的影響力を増した。
 SCOは当初の安全保障中心から、経済協力、一帯一路構想との連携、金融システムの多様化へと役割を拡大してきた。2022年のロシアのSWIFT排除を背景に、独自の決済システム構築をさらに加速している。

多国間主義の新たなモデル
 2025年天津サミットは、SCOの特性を鮮明に示した。第一に、対等な多国間主義である。習近平氏は「相違を脇に置き、共通点を探す」「相互利益のウィンウィン」「開放性と包括性」「公平性と正義」「実結果と効率性」の5原則を提唱した。インドとパキスタン、中国とインドのような対立関係にある国々が協力する姿勢は、敵対的でない段階的協力のモデルを提示する。例えば、インドとパキスタンは数カ月前に国境で武力衝突を経験したが、SCOの場では共通の利益を追求する。
 第二に、安全保障と経済の両輪である。プーチン氏は共同債券発行や独自決済システムの構築を提案し、西側主導の金融システム(例:SWIFT)に対抗するインフラ構築を強調した。テロ対策に加え、一帯一路構想やエネルギー協力も議論された。
 第三に、非同盟・非対立の原則である。習氏は「第三国を標的にしない」と明言し、米国による圧力外交(例:インドへの関税や二次的制裁)を暗に批判している。
 第四に、トルコの参加が際立つ。NATO加盟国であるトルコのエルドアン大統領がプーチン氏と会談し、経済・エネルギー協力を強調したことは、NATOの結束の弱さとトルコの全方位外交を象徴する。第五に、国連やWTOを中心とする国際システムの支持である。SCOは既存の国際機関を補完し、多極化を促進する役割を担う。

SCOの役割と展望
 2025年天津サミットは、21世紀の多極化世界秩序の構築を加速する動きを象徴する。このことから、SCOはユーロ大西洋中心の秩序(NATOや米国主導の金融システム)に対抗し、独自の価値観と歴史的記憶に基づく新たな枠組みを構築しているといえるだろう。
 プーチン氏は、ウクライナ危機の原因を西側のNATO拡大と2014年のクーデターに帰し、SCOを通じてロシアの安全保障観を共有した。インドのモディ氏は、米国からの関税圧力にもかかわらずロシアとの関係を維持し、平和解決を求めるバランス外交を展開した。トルコの参加は、NATO加盟国が非西側枠組みに接近する潮流を示すものである。
 SCOは、第二次世界大戦の主要戦場がアジア(ソ連や中国)であったとするロシア・中国の歴史観を強調し、欧州中心の物語に挑戦していることから、西側メディアはSCOを「西側への対抗」と報じるが、これは西側中心主義の偏見であろう。というのも、インドとパキスタン、トルコなど対立関係にある国々が協力するSCOの枠組みは、従来の「善対悪」の二元論を越えた協力を可能にするものである。
 経済力、資源、市場を結集するSCOは、グローバルな影響力を増し、多極化の現実を具現化する。すなわち、SCOは対等な国家間の議論を促進し、米国大統領が欧州指導者を「呼びつける」ような西側のモデルとは対照的である。SCOは、敵対を超えた協力の場として、多極化世界の新たな地平を徐々に切り開いている。

 

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2025.09.04

医療観光でソウルが注目されている

 韓国ソウルは、医療観光の分野で世界的な注目を集めている。2024年、ソウルを訪れた外国人患者は約100万人に達し、過去最高を記録した。韓国の保健福祉部によると、韓国全体では117万人が医療目的で訪れ、2023年の2倍以上、2019年の3倍以上となる。
 2009年に始まった韓国の医療観光プログラムは、飛躍的な成長を遂げるまでになった。ソウルは外国人患者の総支出の85.7%を占め、海外クレジットカード取引データでは約1.2兆ウォン(約8.6億米ドル)が医療費として支出された。江南(カンナム)地区は38万人の患者を受け入れ、瑞草(ソチョ)、麻浦(マポ)、中区(チュング)、松坡(ソンパ)が続く。これら5地区で外国人患者の92%を占める。
 ソウルの成功は、高品質な医療サービスと市当局の積極的な支援策による。登録医療機関は2020年の920から2024年には1,994に増加し、認証制度や責任保険の義務化が整備されている。ソウル市はマーケティング支援や通訳コーディネーターの育成、登録プロセスの迅速化を進め、外国人患者が安全かつ便利に治療を受けられる環境を構築している。

医療観光の注目分野
 ソウルの医療観光で最も人気があるのは皮膚科で、2024年には66.5万人(全体の64.2%)が治療を受けた。特にレーザー治療、フィラー、ボトックスなどの美容医療が東アジアの観光客に支持されている。
 次いで整形外科やプライマリケアが続き、腫瘍学、心臓病学、不妊治療、リハビリテーション、歯科も注目されている。
 韓国保健産業振興院の調査では、韓国が美容医療で19カ国中トップに位置する。特に日本(30.8万人)、中国(17.2万人)、台湾(6.7万人)からの観光客が急増し、前年比2倍以上の成長を見せた。北米からも需要が増加し、米国からの患者は10.2万人(32.2%増)、カナダからは1.5万人(58.3%増)である。美容医療以外にも、がん治療や心臓病学、生殖医療、リハビリテーションは国際的に高い評価を受けており、ソウル市はこれらの分野のさらなる発展を目指している。

世界の医療観光の実態
 世界の医療観光市場も急成長している。国際医療観光ジャーナルによると、2023年の市場規模は約1,000億米ドルで、2030年までに2,000億米ドルを超えると予測されている。主要な目的地にはタイ、マレーシア、シンガポール、インド、トルコが含まれるが、韓国、特にソウルが急速にシェアを拡大している。
 タイは年間約140万人の医療観光客を受け入れ、整形外科や心臓手術が人気である。マレーシアは低コストの医療と英語対応の病院で知られ、シンガポールは高度な医療技術と信頼性が強みである。インドは心臓手術や臓器移植の低価格化で競争力を持ち、トルコは美容外科や毛髪移植で欧州からの需要が高い。韓国は美容医療の先進性と高品質なインフラで差別化を図る。
 2024年のデータでは、日本や中国からの需要が韓国に集中し、特に美容関連の施術が人気である。一方で、米国や欧州からの患者は高度な治療(がん治療や心臓手術)を求める傾向がある。世界保健機関(WHO)は、医療観光の品質管理や倫理的課題を指摘し、標準化の必要性を強調している。

医療観光の問題点
 医療観光の急成長には課題も存在する。第一に、言葉の壁と文化的差異である。ソウルは通訳コーディネーターを育成しているが、複雑な医療情報の伝達ミスや誤解が生じるリスクが残る。第二に、医療機関の質のバラつきである。ソウルは認証制度を強化しているが、急増する需要に対応するため、未認可の施設や不十分なアフターケアが問題となる場合がある。第三に、医療観光が地域医療に与える影響である。外国人患者の増加により、地元住民の医療アクセスが制限される懸念が一部で指摘されている。特に人気の江南地区では、医療機関の外国人優先傾向が議論を呼ぶ。第四に、倫理的問題である。美容医療や生殖医療では、過剰な商業化や非現実的な期待を煽る広告が問題視される。国際医療観光ジャーナルは、患者の安全確保やインフォームド・コンセントの徹底が不十分なケースを報告している。
 医療観光に伴う感染症リスクや、帰国後のフォローアップ不足も課題である。ソウル市はこれらの問題に対処するため、規制強化と国際協力を進めているが、完全な解決には時間がかかるだろう。

 

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2025.09.03

著名経営者を襲ったHTCサプリ事件

 2025年8月、経済同友会代表幹事でありサントリーホールディングス(HD)会長の新浪剛史氏が、麻薬取締法違反の疑いで福岡県警の家宅捜索を受けた。この事件は、米国で購入したサプリメントに大麻由来の違法成分THC(テトラヒドロカンナビノール)が含まれていた可能性を端緒とする。新浪氏は9月1日付でサントリーHD会長を辞任し、社会的失脚に追い込まれた。
 事件の経緯はこうである。2025年4月、新浪氏は米国出張中に市販のサプリメントを購入した。時差ぼけ対策として健康目的で入手し、米国では合法と認識していた。その後、ドバイ経由でインドへの出張が入り、両国での薬物規制の厳格さから、米国在住の知人にサプリを日本に送るよう依頼した。知人は日本に持ち込み、新浪氏の自宅に郵送したが、新浪氏の家族は「送り主不明の荷物は廃棄する」ルールに従い、これを破棄した可能性があると新浪氏は述べる。
 しかし、8月、知人が福岡県在住の弟にサプリを送り、新浪氏宅への転送を依頼した。その知人の弟が7月に別件の薬物事件で逮捕された際、税関情報からサプリのTHC含有疑惑が浮上し、新浪氏の名前が捜査線上に挙がった。
 新浪氏は「輸入の指示も所持も使用もしていない」「購入品と捜査対象品が同一かも不明」と主張し、潔白を訴えている。現時点で、警察の成分検査結果は公表されておらず、捜査は継続中である。
 この事件は、単なる個人の過失を超え、日本の薬物規制の構造的問題と警察の運用姿勢を浮き彫りにする。なぜ著名経営者が、動機らしい動機もなく「薬物疑惑」に巻き込まれたのか。その背景には、CBDサプリメントを巡る法の曖昧さと、規制当局の意図が見え隠れする。

THCとは何か
 THC(テトラヒドロカンナビノール)は、大麻に含まれる精神作用成分であり、日本の大麻取締法で全面禁止されている。1948年に制定された同法は、大麻草の葉・花穂およびその製品(THCを含むもの)を違法とし、所持・輸入だけで刑事罰の対象となる。日本の基準は極めて厳格で、THC含有量が「ゼロ」でない限り違法である。これは、米国が2018年農業改善法で「THC 0.3%未満なら合法」と定めた基準と大きく異なる。
 日本の薬物規制の歴史を振り返ると、戦後間もない1947年に「大麻取締規則」が設けられ、翌1948年に大麻取締法が成立。1970年代の薬物乱用防止キャンペーンで取り締まりが強化され、1990年代以降は国際的な大麻合法化の動きとは逆行し、ゼロ基準を維持した。
 対照的に、覚醒剤取締法(1951年制定)や麻薬及び向精神薬取締法(1953年制定)も同様に厳格だが、THCの「ゼロ基準」は特に際立つ。これは、科学的合理性よりも「取り締まりの明確さ」を優先した結果である。
 米国では、THC 0.3%未満のヘンプ由来製品が合法化されたことで、CBDサプリメント市場が急拡大。成分表示義務はあるが、微量THCは「検出限界以下(ND)」と記載され、表示されない場合が多い。日本のゼロ基準は、この国際的基準とのギャップを生み、市民が「合法」と信じた製品が違法となるリスクを高めている。

CBDサプリメントの法的罠
 CBD(カンナビジオール)は、大麻の茎・種子由来の非精神作用成分で、リラックス効果や睡眠改善を謳うサプリメントとして世界的に普及している。日本では、茎・種子由来でTHCがゼロなら合法だが、製造過程で微量のTHCが混入すると違法となる。この「ゼロ基準」が問題の核心だ。
 米国で人気のCBDサプリメントは「THC free」を謳うが、精製過程で0.01%程度のTHCが残留する可能性があり、日本の検査技術は高精度で、こうした微量も検出可能である。結果、米国で合法な製品が日本では、検出検査で違法となる。新浪氏が購入したのも、こうしたCBDサプリと推定される。具体的な製品名やTHC含有の証拠は未公表だが、検査精度を上げればTHCは出てくるかもしれない。
 この状態は法的罠とも言えるもので、日本市民の予測可能性を奪う。CBD製品は日本国内でも楽天や専門店で販売され、「安全」と宣伝されるが、輸入品の多くは微量THCを含むリスクがある。というか、潜在的なリスクがある。
 厚労省は2023年からCBD規制強化を打ち出し、2025年にTHC含有基準の導入を検討中だが、現行法の曖昧さが残る。市民は「どこまでが合法か」を判断できず、知らずに違法行為に巻き込まれる危険が常在する。そこで、脅しをかけてきたのかもしれない。

見せしめとしての摘発疑惑
 新浪氏の事件は、単なる法執行を超えた意図を疑わせる。まず、新浪氏に違法薬物の使用・売買動機が見当たらない。経営者として社会的地位が高く、米国で正規に購入可能なCBDサプリをわざわざ違法に扱う合理性は乏しい。本人は「輸入の指示も所持もしていない」と主張し、捜査対象品が自身の購入品と同一かも不明だと述べる。それでも警察は家宅捜索に踏み切り、メディアを通じて「薬物疑惑」が拡散。司法判断前に新浪氏は社会的失脚に追い込まれた。
 このタイミングは、厚労省のCBD規制強化方針(2023年~)と符合する。CBDの普及で「安全」との認識が広がる中、著名人の摘発は「CBDは危険」と警告する効果を持つ。
 日本の警察は過去にも薬物事件で著名人を標的にし、社会的抑止力を高めてきた。ゼロ基準の下、微量THCでも形式犯として立件可能な構造は、誰を摘発するかの裁量を当局に与える。これが「見せしめ」の道具となる。
 法理論的には、大麻取締法のゼロ基準は「罪刑法定主義」の予測可能性を損なう。市民が合法と信じた行為が違法となり、警察の恣意的介入を許す。この事件は、科学的合理性よりも「行政の便宜」と「社会的恐怖」を優先する日本の薬物規制の歪みを象徴する。動機なき摘発と報道による社会的制裁は、市民社会への過剰な権力行使を示している。

 

 

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2025.09.02

世田谷区韓国籍男女殺人事件

 2025年9月1日午後1時半頃、東京都世田谷区野沢の路上で、韓国籍の自営業、バン・ジ・ウォンさん(40歳)が首を刃物で刺され死亡した。警視庁は交際相手の韓国籍、パク・ヨンジュン容疑者(30歳、住所・職業不詳)を殺人容疑で逮捕した。両者は2024年10月に日本語学習アプリで知り合い、2025年4月から交際していたが、関係が悪化した。
 8月29日、バンさんが「別れ話をしたら暴力を振るわれた」と警視庁三田署の交番に相談していたことから、警視庁はバンさんを安全な場所に避難させ、パク容疑者に口頭で指導し、韓国への帰国を促した。しかし、事件当日、パク容疑者はバンさんが仕事の休憩中にフォトスタジオ近くで待ち伏せ、襲撃した。
 防犯カメラには事件3時間前から容疑者が周辺をうろつく姿が映り、計画性が疑われる。事件後、容疑者は羽田空港で韓国行きの航空券を予約していたが、警視庁に確保され、取り調べで黙秘している。
 警察の対応は失敗であることから、この対応でよかったか議論がある。相談を受けた三田署は、被害届がない中でもバンさんを避難させ、容疑者に指導を行う迅速な対応を取り、警視庁はパク容疑者を空港まで見送った。だが、搭乗確認は行わず、容疑者が日本に留まり犯行に及んだ。
 「搭乗確認や監視の強化が必要だった」とも指摘されるが、被害届がない状況では逮捕や強制送還は法的に困難であっただろう。
 ストーカー対策条例に基づく警告も、相談から3日という短期間では発出が難しかった。警察の対応は、限られた情報と法的制約の中で可能な範囲だったといえる。実際、2023年の警視庁のストーカー事案対応件数(約2万件)でも、被害届がないケースでの事前介入は限界がある。今回の事件では、警察に明確な落ち度はないと見られるが、危険性の評価や継続的な監視の強化が今後の課題である。

韓国籍同士の事件と日本社会の関心
 韓国籍同士の事件なので旅行者同士かとも思えた。被害者は日本に滞在しており、バンさんは港区在住で仕事を持っている。対して、パク容疑者は8月23日来日とされるが、在留資格(就労ビザ、学生ビザなど)は不明である。
 事件は交際トラブルによる個人的な対立が原因であるが、観光客による一過性の犯罪とは異なるかもしれない。日本での報道(NHK、朝日新聞など)は国籍を事実として伝えるが、事件の本質を交際トラブルに置き、外国人差別を助長する表現は避けられている。
 韓国でもニュース報道されているようだが、基本的には韓国では海外での韓国人被害事件が注目される傾向がある。たとえば2020年の韓国人留学生殺害事件(米国)では遺族支援や外交的対応が話題となった。本事件は同国籍同士の事件であり、民族的対立を誘発する要素は少なく、日本の警察の事前対応の不備を批判する余地もあまりない。このため、韓国での関心度は現時点で限定的と推測される。韓国の主要メディア(Yonhap News、Chosun Ilboなど)での大規模な報道は確認されておらず、被害者の遺族や韓国大使館の動向が今後の注目度を左右するだろう。
 日本の外国人コミュニティでは、韓国籍住民(約40万人、2024年時点)への影響が議論される可能性があるが、事件が個人的なトラブルに限定されるため、社会的関心は広がりにくい。

裁判の見通し
 この事件は日本国内で発生したため、日本の刑法に基づき東京地方裁判所(本庁)で審理されることになる。殺人罪(刑法第199条)の法定刑は「死刑、無期懲役、または5年以上の懲役」で、裁判員裁判が適用される。現時点(2025年9月3日)では逮捕直後で、起訴や公判開始は未定である。
 容疑者が黙秘中のため、動機や背景の詳細は不明だが、被害者が1人で、交際トラブルが原因とみられることから、死刑や無期懲役の可能性は低い。
 日本の判例では、単独殺人で計画性が中程度の場合、懲役7~15年が一般的である。たとえば、2019年の交際相手殺害事件(東京)では、待ち伏せによる殺人で懲役12年が言い渡された。本事件でも、防犯カメラの映像から計画性が認められる可能性が高く、懲役10~15年が妥当な推測である。
 韓国籍の被告人には韓国語通訳が提供され、公正な審理が保証される。韓国大使館が領事支援(例:弁護士の紹介、家族への連絡)を行う可能性はあるが、判決に影響を与えることはないと見られる。
 服役は日本国内の刑務所(例:府中刑務所)で行われ、日韓間の刑事受刑者移送条約に基づく韓国への移送は、殺人罪のような重大犯罪ではほぼ適用されない。日本の刑務所では外国人受刑者(2023年時点で約3000人)への通訳や文化的配慮が提供される。

国ごとの量刑差
 本事件が韓国で発生した場合、韓国の刑法第250条(殺人罪:死刑、無期懲役、7年以上の懲役)が適用される。韓国は1997年以来死刑執行を停止しており、単独殺人では懲役10~20年が一般的である。たとえば、2021年の韓国での交際トラブル殺人事件では、懲役15年が言い渡された。日本では同程度の事件で懲役7~15年が相場であり、韓国の方がやや重い傾向がある。ただし、量刑差はそれほど大きくなく、本事件では日本で10~15年、韓国で12~18年程度と推測される。
 理論上、量刑が軽い国で犯罪を犯す動機(「日本の量刑が軽いなら日本で犯行を」)は考えられる。たとえば、国際的な麻薬犯罪では、量刑の軽い国を狙うケースが報告されている。
 しかし、殺人事件は感情的・衝動的な動機が主であり、量刑を比較する計画性はまれであろう。本事件は日本での生活の中で起きた偶発的犯行であり、量刑差を意図したものではない。
 日韓間の犯罪人引渡し条約やインターポールによる捜査協力により、犯罪者が国境を越えて逃亡するのは困難である。本事件でも、容疑者は羽田空港で逮捕されており、逃亡のリスクは抑止された。
 なお、死刑廃止国の国民(例:フランス、1981年死刑完全廃止)が日本で犯罪を犯した場合でも、日本の刑法に基づき死刑判決は可能である。たとえば、複数殺人や極めて残虐な犯罪では、永山基準により死刑が科される。この場合、フランス政府の抗議が予想されるが、日本の司法判断に影響を与えることはほぼない。
 量刑差が犯罪の動機になるリスクは、組織的犯罪では顕著だが、個人的な殺人では限定的である。日韓や日本・EU間の司法情報共有が、こうしたリスクを抑止する鍵となる。

 

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2025.09.01

『新しい「古典」を読む』のVol.3 発売

【書籍発売のお知らせ】
9月1日、『新しい「古典」を読む』のVol.3が今日発売となりました。
Kindle Unlimitedに含まれているので、同サービスをご利用のかたは、その上で無料で読むことができます。また、ペーパーバック版も購入できます。こちらは2,200円とお高いですが、それに見合った内容はあるかと思います。

『新しい「古典」を読む3』finalvent (著)
https://amzn.to/4p0mnFj

「テキストと年齢」は新規描き下ろしです。
どれも思い入れはありますが、「開高健」ついては、おそらくここでしか読めない話になっていると思います。『のだめカンタービレ』は、ドラマやアニメからは見えない原作の分析になっています。

【目次】
1章 村上春樹の読み方(5)——『女のいない男たち』
2章 暴力の時代を問い直す多声的世界——井上ひさし『偽原始人』
3章 星新一が示した生の意味と無意味
4章 異邦人として生きるということ——開高健『ずばり東京』
5章 『ずばり東京』から削り落とされた開高健の絶望——開高健『夏の闇』
6章 それでも愛の価値を信じるために——橋本治『恋愛論』
7章 昭和という時代の陰画——吉本隆明『情況としての画像——高度資本主義下の「テレビ」』
8章 イスラム社会への深い洞察——井筒俊彦『イスラーム文化——その根柢にあるもの』
9章 思想という毒——岸田秀『ものぐさ精神分析』
10章 純化する魂と巨大な矛盾——森有正『遙かなノートル・ダム』
11章 「死の幸福」の中で人はいかにして生きるのか——田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』
12章 『のだめカンタービレ』に仕掛けられた謎——二ノ宮知子『のだめカンタービレ』
13章 豚のあぶらと故郷の味——古波蔵保好『料理沖縄物語』
解説 テキストと年齢

【既刊】
『新しい「古典」を読む1』finalvent (著)
https://amzn.to/47n0FFa
『新しい「古典」を読む2』finalvent (著)
https://amzn.to/4n5BCLd
『考える生き方』 Kindle版 finalvent (著)
https://amzn.to/3JEJdCd

【連絡】
vol.4 は10月1日に発売の予定です。これでCakes連載分のすべてです。
今後、10年ぶりですが、vol.5を向けて執筆を検討しています。

 

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