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2025.08.21

時の流れと本棚の風景

 昭和五十年代の黄昏、受験生浪人という身分に甘んじていた私は、まるで迷い子のように新宿の街を彷徨っていたものだった。その頃の私にとって、紀伊国屋書店は単なる書店ではなかった。それは避難所であり、知的な遊び場であり、そして何より、夢想にふける秘密の庭園でもあった。

 店内に足を踏み入れ、エスカレーターに乗る。本棚が幾重にも連なる光景が広がった。それらの棚は、まるで博物館のような、それでいて懐かしい人のような親しみやすさを湛えていた。どの棚にどの本が佇んでいるか、どの背表紙がどんな色合いで輝いているか。私の記憶の奥底には、その全てが地図のように刻み込まれている。今なお、瞼を閉じれば、あの頃の本棚が蜃気楼のように立ち現れる。人工的な蛍光灯の光のなかで、無数の書物たちが静かに呼吸をしているかのような、あの雑踏を伴った独特な空気感まで蘇ってくる。

 貧乏学生の私には、本を購入する余裕などなかった。しかし、それは決して不幸なことではなかった。むしろ、その制約こそが、私に別の楽しみを授けてくれた。本棚の間を縫うように歩きながら、気まぐれに本を手に取り、ページを繰る。チャンネルを変えるように、次々と。

 「こんな世界があったのか」と一冊の本を開くたびに、未知の扉が音もなく開かれた。哲学書の難解な言葉の森、詩集の美しい韻律、小説の登場人物たちの息づかい。それらは全て、私という青年の魂に新鮮な風を送り込んでくれた。時として、「一体誰がこんな本を読むのだろう」と首をかしげながらも、その謎めいた存在に心を躍らせた。気がつくと光は夜に染まっている。

 

 時は流れ、現在の老人の私がジュンク堂のような大型書店に足を向けると、不思議な感覚に襲われる。大型書店というものの基本的な構造は、あの頃の紀伊国屋と何ら変わりはない。ジャンル別に整理された棚、規則正しく並んだ背表紙、そして空気中に漂う紙とインクの芳香。全ては記憶の中の風景と重なり合う。

 しかし、かつてのような「ザッピング」への衝動は、どこか遠いところへ消え去った。膨大な壁のような書物を前にすると、立ちはだかるような重圧に押し潰されそうになる。もう覗き見る必要もないのではないか。

 年齢を重ねるごとに、無限の好奇心が次第に特定の関心へと収束していったのかもしれない。若い頃の、あの無邪気で貪欲な探求心は、人生経験という名の篩にかけられ、より洗練された、しかし同時により限定的な興味へと変容したのだろう。

 それでも、本屋の一角に立つとき、私の中のどこかで、あの頃の浪人生が今なお本棚を眺め続けているような気がする。彼はまだそこにいる。時間に取り残されたまま。

 

 最近は日々の雑事に追われ、大学の図書館を訪れる機会がめっきり減ってしまった。OBとしての利用権は温かい贈り物のような存在だが、距離という物理的な障壁が、つい足を遠ざけてしまう。猛暑もある。それでも、あの図書館の一室、読書室のことを思うとき、心の奥底から懐かしさがこみ上げてくる。

 その部屋は、古ぼけたソファが置かれ、壁という壁が文庫本で埋め尽くされている。特に講談社学術文庫のコレクションは圧巻だ。学術書や古典の文庫たちが、静寂の中で厳かに佇む姿は、まるで賢者たちが瞑想にふけっているかのようだ。

 学生たちの姿がまばらな時期を見計らって、私はそっとその聖域に足を踏み入れて本を読む。ソファに身を委ねると、日常の喧騒が嘘のように遠のく。そこには、俗世間とは異なる時間が流れる。

 

 図書館という空間には、独特の時間感覚が宿っている。これこそが、私が村上春樹の小説に深く魅了される理由の一つなのかもしれない。彼の筆致は、この不思議な時間感覚を見事に言葉に翻訳してみせる魔術師のようだ。

 図書館の中にいると、まるで時計の針が止まったような感覚に包まれる。あるいは、現実世界とは位相の異なる、パラレルな時間が静かに流れているような。そんな不思議な錯覚に陥る。窓の向こうに庭園や樹木、青々とした芝生が見える図書館では、この感覚は一層鮮明になる。

 春の日差しに輝く若葉の緑、夏の濃密な緑陰、秋の燃えるような紅葉、冬の凛とした裸木。雪が舞う。四季の移ろいが、図書館の静寂に詩的な彩りを添える。窓辺に座って外を眺めながら本を読んでいると、自分が現実と非現実の境界線上にいるような、曖昧で心地よい浮遊感に包まれる。

 このような風情を味わえる図書館は、残念ながらそう多くは存在しない。村上春樹の小説には、こうした時間の質感や空間の雰囲気が、郷愁に満ちながらも、どこか非現実的な美しさをもって描かれている。それが、私が彼の文学世界に惹かれ続ける理由の核心なのである。

 

 本屋や図書館は、単なる書物の貯蔵庫ではない。それらは、時間と記憶、好奇心と想像力が複雑に絡み合い、共振し合う、特別な場所なのだろう。

 浪人時代、紀伊国屋の迷宮のような書棚を歩き回った時間は、青春特有の無目的な探究心に彩られていた。まだ人生の方向性が定まらない不安と、だからこそ可能だった無限の可能性への憧憬。今から思えば、贅沢な時間だった。

 図書館の読書室で過ごした静謐なひとときも、知識という名の宝物に抱かれながら、自分自身の内面と対話する貴重な機会だった。外界の雑音から遮断されたその空間だった。

 どちらの記憶も、私という人間の奥で本という存在と不可分に結びついている。忙しい生活の中で、本屋や図書館を訪れる頻度は確実に減っているが、あの頃の本棚の風景や、読書室の静寂は、私の心に今なお鮮やかに生き続けている。

 それは私の精神的な故郷のようなものなのだろう。時が流れ、環境が変化しても、私はいつでもそこにいる。記憶という名の本棚を開けば、あの頃の自分と、あの頃読んだ本たちが、いつまでも私を待っている。

 

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