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2025.05.31

カンピ・フレグレイとイルピニア地震

 1980年のイルピニア地震のことを、映像で見ただけなのだが、私は、けっこう鮮明に覚えている。そのせいもあって、イタリア・ナポリ近郊のカンピ・フレグレイ超巨大火山の最近の地震活動に注目している。噴火がおきるとかなりの規模の災害になるだろう。天災による大災害はリスク管理だけではなく、発生後の対処の観点でも備えるべきだと、福島第一原発事故の教訓から考えるようになった。

イルピニア地震
 さて、1980年11月23日のこと。イタリアのカンパニア州イルピニアでマグニチュード6.9の地震が発生した。ナポリから約50km東のアペニン山脈の断層帯で起きたこの地震は、約2,900人の死者、10,000人の負傷者、30万人の避難民を出し、壊滅的な被害をもたらした。ユーラシアプレートとアフリカプレートの衝突による地殻の圧縮が引き金となり、活断層がずれてエネルギーを解放し、強烈な揺れが生まれたのだった。私が20代半ばだったこの記憶は、今も鮮明だ。崩壊した村や泣き叫ぶ人々の姿は、地震の予測困難さと破壊力を痛感させた。
  地震学の視点から見れば、イルピニア地震はプレート境界型の構造地震である。単発的に見えるが、実際には余震や誘発地震が続き、断層運動の連鎖が生じる。イタリアはプレート境界に位置し、地殻の歪みが時折大きな破壊をもたらす。1980年当時、地震計やGPS観測は限られ、正確な予知は難しかった。

カンピ・フレグレイ
 現在注目の、ナポリ西方に広がるカンピ・フレグレイは、超巨大火山(スーパーボルケーノ)として知られる。約4万年前に大噴火(火山爆発指数VEI 7)があり、そのおりは50立方キロメートル以上の火山灰と溶岩を放出し、全球の気候に影響を与えた。火山灰は東欧まで到達し、数年間の気温低下を引き起こしたとされる。
 気になるのは、2025年5月13日にマグニチュード4.4の地震が観測されたことだ。過去6か月で3,000回以上の群発地震が記録された。2024年には6,740回の地震と20cmの地盤隆起が観測されている(INGVデータ)。こうした活動は、地下のマグマや熱水の動きに起因し、火山が「目覚めつつある」との不安を呼び起す。

火山活動の科学的背景
 カンピ・フレグレイでは、カルデラ下約10kmにマグマ溜まりが存在する。マグマが上昇したり、熱水やガスが地殻を押し広げると、群発地震や地盤隆起(ブラディセイズム)が生じる。2024年の隆起速度(月2cm)は、1982~1984年の1.8m隆起が想定される。また、火山性ガスの増加は、マグマや熱水の動きを知らせる兆候である。イタリア国立地球物理学火山学研究所(INGV)は、地震波、GPS、ガス組成の変化をリアルタイムで監視している。
 カルデラ周辺は、ユーラシアプレートとアフリカプレートの境界帯という地殻の歪み環境に置かれている。火山活動の背後には、こうした構造運動の影響もある。火山性地震が多いとはいえ、プレート境界での歪みと無縁ではない。小規模な噴火(VEI 3~4)は局地的な被害を生むが、超巨大噴火(VEI 6~7)では、火山灰雲が欧州を覆い、気候変動を引き起こす可能性がある。

 1982~1984年のブラディセイズムでは、2年間の活動が沈静化した。2025年の活動も一時的な可能性があるが、2005年以降に観測された地殻弱化やマグマ移動のデータは、火山が静かに力を蓄えているかのように思わせる。こうした火山の予知は困難で、噴火の時期や規模を正確に言い当てることは今もできない。それでも、昨年の6,740回もの地震の数字は、ゆらぎの大きさを物語る。

カンピ・フレグレイとイルピニア
 こうしてみると、イルピニア地震とカンピ・フレグレイの活動は、地域的には隣り合いながらも、異なる顔を見せる。イルピニアは、プレート運動による断層のずれがもたらした単発的な破壊だが、対して、カンピ・フレグレイの群発地震は、マグマと熱水が地下を押し広げ、長い時間をかけて息づく火山の兆しでもある。とはいえ、どちらもこの地殻運動帯に生きる現実を映している。断層の一撃が村を崩し、マグマの膨張が大地を持ち上げる。




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2025.05.30

ドイツの賭けとロシアの「レッドライン」再考

 ウクライナ戦争は、5月27日のドイツのフリードリヒ・メルツ首相による新たな方針表明から、予期せぬ緊張の高まりを迎える可能性がある。メルツ首相は、ウクライナに対し射程制限を撤廃した長距離攻撃兵器を供与し、ロシア領内への攻撃を容認する考えを示した。射程500キロメートルの巡航ミサイル「タウルス」の供与や、ウクライナ国内での長距離兵器生産支援が議論の中心であろ。これはロシアのプーチン大統領が警告する「レッドライン」を踏み越える。当然、停戦交渉を一層困難にするリスクを伴う。ドイツは、この戦争を新たな次元の駆け引きに踏み込もうとしている。

ドイツの戦略転換:「タウルス」供与と非公開方針

 2024年末の政権交代後、ドイツはウクライナ支援においてより積極的な姿勢へと転換した。メルツ首相は5月27日、ゼレンスキー大統領との会談で、5億ユーロの追加軍事支援と長距離兵器の共同生産を約束した。注目されるのは「タウルス」巡航ミサイルである。このミサイルはGPS、慣性航法システム(INS)、地形参照航法(TERCOM)、赤外線シーカーを組み合わせることで、ロシア軍の補給拠点や指揮所を高精度で攻撃する能力を持つ。しかし、実際の運用には高度な専門技術者が必要であり、過去に供与された最新兵器が期待されたほどの戦果を即座に上げられなかった事例も踏まえると、タウルスもまた忘れられる話題の一つなるのかもしれない。
 加えて、議会制民主主義としては異例ではあるが、ドイツ政府は供与兵器の詳細を議会に非公開とする新たな方針を打ち出した。これは「戦略的曖昧さ」を維持し、ロシア側に情報を与えないことが目的と説明されたが、ドイツ国内では当然「国民への説明責任が果たされていない」との批判も上がっている。ロシアのレッドラインを超える可能性のある決定に対し、情報非公開は、国民への説明よりも、政府の戦争志向を優先する姿勢と解せる。

プーチンの「レッドライン」としてのGPS制御兵器と核の恫喝

 ロシアのプーチン大統領は以前から、NATOが提供するGPS制御の長距離兵器がロシア領内で使用される事態を「ロシアへの参戦」とみなし、核兵器の使用も辞さない報復を示唆してきた。2024年に米国製ATACMSや英国製ストームシャドウが使用された際にも同様の警告が発せられたが、今回のタウルス供与は、より深刻な挑発と受け止められる可能性がある。
 これまでロシアは、いわゆる「レッドライン」を越えたと見なされる状況でも、核兵器を使用せずとも対処可能と判断した場合は、核能力を背景とした威嚇に留めてきた経緯がある。タウルスはロシアによるGPSジャミングを回避できるとされるが、もしそうでなければ、レッドラインの解釈には曖昧さが残ることになる。ロシア外務省は、ドイツによる射程制限の解除を「危険なエスカレーション」と強く非難し、停戦交渉の障害になると主張しているが、このタウルス供与の発表自体が、西側には現時点で停戦の具体的意図がないことを明示するのが今回のタウルス発表といえるだろう。

タウルス供与の限界:ウクライナの人的資源という壁

 ウクライナにタウルスが供与されたとしても、その戦力強化効果はウクライナ側の人的資源の制約によって限定される。タウルスの高度な運用には訓練された技術者が必要不可欠だが、長期化する戦争で兵士は疲弊し、ウクライナはすでにバイデン政権時の意向を受け徴兵年齢の引き下げや、さらには女性の動員まで検討している。深刻な人的損失や若年層の国外流出は、前線維持すら困難にする。こうした状況から、タウルス供与が戦況に与える影響は限定的とも見られる。東部戦線はロシア軍の数的優位により膠着状態が続いており、タウルスによるロシア軍後方への攻撃は戦術的な打撃を与え得るものの、戦局そのものを覆すほどの決定力を持つとは考えにくい。ウクライナ側は、補給線への攻撃がロシア軍の攻勢を一時的にでも弱め、自軍の士気を高めることを期待しているが、なんども繰り返されたこの修辞が、悲惨な結果以外に実現することはないだろう。

圧力強化の狙いとリスク:錯綜する国際社会の見方

 ドイツによる今回の支援強化は、NATOによるロシア牽制戦略の一環という修辞で語れれ、一部報道(NHKなど)では、タウルスによってロシアの補給線を脅かし、軍事的・経済的コストを増大させることで、停戦交渉におけるロシア側の譲歩を引き出す狙いがあると説明されている。日本の他メディアでも、今回のドイツの方針変換を「NATOによる圧力強化」と評するが、実際はエスカレーションリスクやロシアの反発による交渉の複雑化とな。そのも、実際はその逆が志向されている。
 ウクライナ戦争は、ロシアのプランが現状推移しないなら、さらなる全世界規模の不確実性の高まりを見せるだろう。日本を含め西側では報道されないが、ドイツがロシアに敵意を向けることはロシアにとっては、かつてのナチズムの再来のイメージが伴っている。

 

 

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2025.05.29

トランプの日本いじめが合理的な理由

 ドナルド・トランプの第2期政権(2025年開始)は、中国との貿易戦争を早々に和らげ、日本に対して一見ふざけた、まるで「いじめなのか共感なのかわからない」外交を展開している。2025年4月、自動車への10%関税をちらつかせたかと思えば、5月にはQUAD(日米豪印戦略対話)で対中牽制を共にする「同盟強化」を打ち出す。この予測不能な態度は、しかし、グローバル金融と地政学の複雑な力学を紐解くと、驚くほど合理的な選択だ。

幻想の共同体:ドルと米国債の暗黙の均衡

 グローバル金融の基盤は、米国、日本、中国、欧州が織りなす「幻想の共同体」にある。米国債市場(総額36兆ドル、2024年12月)とドル(国際決済の40%、SWIFT、2025年)は、この共同体の生命線だ。米国は低コストで財政赤字を賄い、日本(米国債保有1.1兆ドル、2024年12月)、中国(7590億ドル)、欧州(1.3兆ドル)は安全資産と貿易決済の安定を享受する。この相互依存は、誰もが市場崩壊を恐れる暗黙の均衡だ。 日本の銀行の低税負担――バブル崩壊後の繰越欠損金(適用期間10年)や貸倒引当金による税負担軽減――は、資本蓄積を可能にし、米国債の大量保有を支える。例えば、農林中央金庫は2025年に10兆円の米国債売却計画を示したが、低税負担による財務余力がこれを可能にする。この構造は、米国債利回りの安定に寄与しする.トランプが日本の税制を問題視しない第一の理由だ。1990年代の金融危機で生じた巨額の不良債権は、繰越欠損金として今なお税負担を抑え、銀行の財務健全性を守る。これが、米国債市場のバッファーとなり、共同体の安定を下支えしている。

ロシアの非ドル化:共同体の外からの挑戦

 ロシアはこの共同体の外に立つ。2022年のウクライナ侵攻以降、米国によるSWIFT排除や制裁を受け、米国債保有をほぼゼロ(2024年12月、20億ドル、2018年の1000億ドルから急減)にし、ドル決済を回避。2024年、ロシア-中国貿易の90%が人民元・ルーブル建てとなり、BRICS+(中国、インド、ブラジル、南アフリカにイラン、サウジアラビア、UAEなどを加えた枠組み)ではBRICS Payや金裏付け通貨を提案。ウクライナでの軍事的優位も、エネルギー輸出で経済を支え、非ドル化に勢いを加える。
 しかし、ロシア自体の経済規模(GDP2.2兆ドル、2024年、IMF推計)は、米国(28兆ドル)や中国(18兆ドル)に遠く及ばず、単独でのドル覇権への挑戦は限定的だ。G20(2025年南アフリカ議長国)やBRICS+の親和性を活用し、新興国(例:インドのルピー決済、サウジアラビアのドル決済見直し、2024年)を巻き込むが、ドル決済シェア(40%、2025年SWIFT)は依然強い。ロシアの挑戦は、共同体の負担を日本、欧州、中国に集中させ、日本の米国債保有の重要性を高める。

中国のキャスティングボート

 こうした関係のなかで、中国は、ドルシステムと非ドル化の間でキャスティングボートを握る。米国債7590億ドル、外貨準備3.2兆ドル、経済規模18兆ドル(2024年)を背景に、ドル依存(輸出80%ドル建て)と非ドル化(2024年、ロシアとの90%非ドル貿易)を両立する「日和見」が特徴だ。2025年4月、トランプの145%関税に対抗し、500億ドルの米国債売却(利回り4.8%上昇)で応じたが、全面売却は避け、5月の「関税休戦」(デミニマス関税120%→54%)でドル建て貿易を維持。人民元国際化(2030年、決済シェア10%予想)は、ドルシェア低下(30%以下)を招き、米国の覇権弱体化を予見させる。
 さて、中国の内政はというと「奇っ怪なブラックボックス」だ。不動産危機(2024年、住宅価格20%下落)、地方債務13兆ドル、2025年5月の1兆元刺激策の効果不明が、米国債売却や人民元切り下げ(2025年、対ドル7.3)の予測を困難にする。この不透明性は、トランプの中国への強硬策(145%関税)を抑制し、日本への楽しい「いじめ」にシフトさせる。全面対立は、米国債利回り急騰(6-7%予想)やドル安を招き、米国の財政危機(2025年債務上限問題)を悪化させるため、トランプは短期的な調和を優先する。

欧州の自暴自棄のドル従属

 欧州はこうしたなか、矛盾の極致にある。ロシアへの制裁(2022年以降、ガス輸入80%減)でエネルギー危機(2024年、電力価格20%上昇)を招き、ウクライナ支援(2024年、500億ユーロ)で財政が疲弊した。ドイツの産業(例:BASF、2025年生産縮小)やフランスの抗議デモ(2025年4月)が示すように、国民の不満は高まり、右派正当の躍進が可視化される。
 それでも欧州は、中国への依存(2024年、ドイツへの1000億ユーロ輸出)をドル建てで続け、米国LNG(2024年、輸入30%増)でドルシステムに縛られる。2025年5月のEU-米国対話(Bloomberg)で関税を緩和しつつ、ロシアの非ドル化(BRICS+)に対抗策を持たず、つまり、自暴自棄的に映る。
 欧州の米国債保有(1.3兆ドル)は、ドルシステムの安定を支えるが、この矛盾した行動は日本の役割を際立たせる。日本の米国債保有(1.1兆ドル)は、欧州のドル依存と連動し、共同体の均衡を強化する。トランプが日本の税制を問題視しないのは、欧州の混乱が日本の安定を一層重要にするからだ。

日本のキャスティングボート

 日本は、対中関係においてキャスティングボートを握っている。米国債1.1兆ドル、対中貿易(2024年、3000億ドル)、QUAD(2025年5月首脳会議)での牽制は、中国の非ドル化(BRICS+、2025年人民元決済拡大)を抑える力だ。日本の銀行の低税負担は、財務余力(例:農林中央金庫の10兆円売却計画)を支え、米国債保有を可能にする。2025年5月、加藤財務大臣の「交渉のカード」発言は、トランプの関税一時停止(2025年4月)に直結し、税制問題を棚上げさせた。
 日本の対中キャスティングボートは、そして、トランプの「ふざけた」外交を合理化する。関税圧力(2025年4月、自動車関税10%示唆)は、米国債保有の継続を促し、QUADでの共感は、中国の人民元国際化を牽制。日本の低税負担が、ドルシステムの安定(2025年4月、3カ月連続保有拡大)を支えるため、トランプは税制改革を求めない。

米国・欧州金融のステークホルダー性

 米国金融機関(例:JPモルガン、ゴールドマン・サックス)は、日本の低税負担による米国債保有が、市場安定(2025年2月、利回り3.75%)や日米金融取引(債券、為替)に利益をもたらすため、税制改革への圧力を抑える。欧州金融機関(例:BNPパリバ)も、ドルシステムの恩恵を受け、日本の税制構造を黙認するしかない。トランプの楽しい日本いじめは、米国・欧州金融の利害を守りつつ、過度な圧力(税制改革要求)を避ける点で最適な行動選択なのだ。
 トランプの日本いじめが合理的な理由は、以下の力学にある。中国の不透明性(不動産危機、地方債務13兆ドル、2025年刺激策効果不明)は、米国債売却や人民元切り下げのリスクを予測困難にし、チキンゲーム(145%関税)のリスク(利回り6-7%、財政危機)を高める。トランプは関税休戦(2025年5月)で短期調和を優先した。ロシアの非ドル化(BRICS+、2024年90%非ドル貿易)は、ウクライナでの優位(2025年5月)で勢いを増すが、日本の米国債保有がこれを牽制。欧州の矛盾(エネルギー危機、ドル依存)は、日本の役割を強化する。日本は、対中貿易とQUADで中国の非ドル化を抑え、ドルシステムを支えるキャスティングボートだ。
 トランプの「ふざけた」外交は、日本を「いじめ」て米国債保有を確保し、「共感」で対中牽制を強化する。日本の低税負担は、ドル帝国の短期維持に不可欠で、トランプが税制を問題視しないのは、米国・欧州金融のステークホルダー性と中国・ロシアへの対抗のためだ。この危ういバランスは、中国のブラックボックスと日本のキャスティングボートに左右されるが、トランプの楽しい日本いじめは、ドル覇権の延命と長期挑戦への備えを両立する最適解なのだ。



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2025.05.28

米国ビールのPFAS騒動

 2025年5月26日、米国のニュースがビール愛好者をざわつかせた。フォックス・ニュースとかによると、米国で醸造されたビールから「永遠の化学物質」ことPFAS(ポリフルオロアルキル物質)が検出され、環境保護庁(EPA)の基準(4ナノグラム/リットル)を超える濃度が確認されたという。原因は、もちろん水道水の汚染である。ビール醸造に使う水がPFASに汚染され、ろ過システムでは除去しきれなかったのだ。日本でも一時期、PFASが「有毒な有機フッ素化合物」として騒がれたが、今はどうなっているのか。PFASは本当に危険なのか。日本の状況は深刻か。そして、こうした環境リスクが定期的に騒がれ、そして、ケロッと忘れられるのは、いったいなぜなのか。

PFASとは何か? ビールへの影響

 PFASは、撥水剤や消火剤に使われる合成化学物質で、環境中で分解されないため「永遠の化学物質」との二つ名がある。国際がん研究機関(IARC)は、PFOA(PFASの一種)を「発がん性あり」(Group 1)、PFOSを「発がん性疑い」(Group 2B)に分類。腎臓がん、免疫抑制、生殖・発育影響が懸念される。米国では、全米の水道水の45%でPFASが検出され、1580万人が汚染水を利用。ビールへの混入は、水道水が主な経路だ。
 日本でも、PFASは水道水や食品に潜む。2023年の環境省調査では、22都道府県の242地点(河川・地下水)でPFOAとPFOSの合計濃度が暫定基準(50ナノグラム/リットル)を超えた。特に、沖縄(基準の300倍)、大阪(420倍)、千葉(200倍)で高濃度が検出。住民の血液検査では、岡山で米国基準(20ナノグラム/ミリリットル)の30倍以上(718.8ナノグラム/ミリリットル)、沖縄で日本平均の14倍が確認された。ビールへのPFAS検査は日本未実施だが、水道水の2割で検出される状況から、ビール、茶、ジュースなど水分全般に混入リスクがある。

PFASは「騒ぐほど」危険か?

 PFASの危険性は、長期蓄積にある。体内での半減期は約3.8年で、微量でも蓄積すれば発がん性や免疫影響が懸念される。しかし、低濃度(数ナノグラム/リットル)のリスクは科学的データが不足している。アルコール(IARC Group 1、年間3万人死亡)と比べると、どう見ても、PFASの即時被害は小さい。日本の汚染は沖縄や大阪など局所的であって、全国の水道水では基準超過はまれだ。とはいえ、米国(4ナノグラム/リットル)やEU(全PFASで100ナノグラム/リットル)に比べ、日本の基準(50ナノグラム/リットル)は12倍緩く、がばがばというかね。規制対象外のPFAS(例:PFBS、TSMC熊本工場でも問題)も多い。米軍基地の調査が進まないことも、不安を増幅する。
 では、なぜ「騒ぐほど」に見えるのか? 報道の「有毒」表現や「有機フッ素化合物」がフッ化物(歯磨き粉の安全な物質)と混同され、過剰な危機感を煽るからなのか。だが、アルコールの明確な発がん性(ビール1日1~2缶でもリスク微増)に比べると、PFASのリスクは限定的ともいえそうだ。「騒ぐほどじゃない」と感じる人がいるのも、こうした誇張や身近なリスクとの比較から妥当かもしれない。

日本のPFASは危険な状態か?

 日本のPFAS汚染は、局所的には、たしかに深刻だ。沖縄の米軍基地周辺や大阪の工業排水で基準の数百倍、住民の血液で高濃度が検出されている。日本の場合、ビールや飲料への混入は未調査だが、水道水汚染のリスクは存在するだろう。全国的には、1745の水道事業者の2割でPFAS検出も、基準超過は少なく、米国(水道水45%汚染)や欧州(2.3万汚染サイト)に比べ規模は小さい。だが、規制の遅れ(基準が緩い、米軍基地調査停滞)は問題ではある。2025年1月からPFOA関連化合物138種が規制強化されるが、包括的な対策は不十分だ。まあ、沖縄や大阪に住むなら、浄水器(活性炭・逆浸透膜)が推奨されるのだろうか。なんかやばいビジネスの匂いがするなあ。

なぜ環境リスクは騒がれて忘れられる?

 PFAS、マイクロプラスチック、抗生物質、BPA、プリオンなど、環境リスクは定期的に話題になるが、なぜ一部は忘れられるのか? 

  • マイクロプラスチック: ビールで1Lあたり数粒子、魚介類や水道水にも。海洋汚染(年間800万トン)は深刻だが、ヒトへの健康リスク(炎症など)は未解明。「プラスチックを食べる」イメージで騒がれるが、PFASよりリスクは低く、過剰な騒ぎの可能性はありそう。
  • 抗生物質: 糞便・尿経由で環境放出、河川で0.1~10μg/L。抗生物質耐性菌(AMR)は年間130万人死亡(WHO)と、PFASやアルコールより広範な脅威。だが、間接的リスクで報道が地味、医療・畜産の必要性から「騒がれない」。「抗生物質の方が危険」は、将来の治療不能リスクから鋭い視点だ。
  • ビスフェノールA(BPA): 内分泌かく乱だが、哺乳瓶禁止など規制で解決済み。缶ビールから微量溶出も安全域内。代替物質(BPS)のリスクがマイナーで話題消滅している、かな?
  • プリオン: 狂牛病は全頭検査で制御済み、CJDは年100例とまれ。みんな牛丼食ってるし。

これらの話題が沸騰して忘れられる理由は、なんだろう?

  • メディアの誇張: 「発がん性」「永遠の化学物質」といったキャッチーな表現が不安を煽る。PFASの「有毒」報道やマイクロプラスチックの「食べる」イメージが典型だろうか。
  • 科学的データ不足: PFASやマイクロプラスチックの低濃度リスクは不確実。BPAやプリオンは規制で解決済みといえるのか、未解明な問題が騒がれ続けるのはしかたない。
  • 関心の移行: BPAやプリオンは対策済みなのか話題が消滅している。PFASやマイクロプラスチックは未解決で注目継続。抗生物質は専門的で一般の関心が薄い。
  • リスクの受容度: アルコール(IARC Group 1、死者3万人)は文化的習慣で許容されるが、PFASのような避けにくい環境汚染は「制御不能」感から騒がれる。

どうする?

 PFASはビールや飲料全般に混入リスクがあり、沖縄や大阪では注意が必要だが、全国的なリスクは限定的。アルコールの発がん性(ビール1日1~2缶で微増)に比べ、過剰に恐れる必要はないかもしれない。抗生物質耐性菌は、PFASより広範な脅威だが、報道不足で認知度が低い。社会的には、PFASの飲料検査、基準厳格化(米国並み4ナノグラム/リットル)、抗生物質の耐性菌対策(下水処理強化)が急務だろうけど、たぶん、なんにもしないと思うなあ。
 環境リスクの「騒ぎ」は、科学的根拠とメディアの誇張が交錯するものだ。PFASは無視できないが、どう騒ぐかは冷静な判断が必要だろう。次に何が騒がれ、忘れられるのか。

 

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2025.05.27

アルファ世代の問題か。NAEPデータが示す米国教育の真の課題

 2025年5月26日、Newsweekは「Generation Alpha Is Causing Problems for Teachers」と題した記事で、2010年代から2020年代中盤生まれのアルファ世代の教育現場での課題を報じた(参照)。記事は、アルファ世代が短い注意力、テクノロジーへの過度な依存、学習への無関心を示すと主張していた。教師やTikTokクリエイターのインタビューを引用し、スマートフォンの普及、1人1台のデバイス導入、コロナ禍後の対面授業再開が集中力や学習意欲の低下を招いているというのだ。たとえば、記事に登場する教師のエリザベス・マクファーソンは「生徒は学習に無関心で、試験勉強不足や欠席が常態化しても進級できるシステムが問題」と批判する。マット・アイヒェルディンガーは、スマートフォンによるネットいじめやソーシャルメディアの影響が学校に持ち込まれ、教師の負担を増大させると語る。
 記事は、全米教育進捗評価(NAEP)の2024年報告書を引用し、4年生および8年生の読解力と数学のスキルが複数の州で全国平均を下回ったと報告し、このデータを用い、アルファ世代の「問題」が教育現場に混乱をもたらしていると強調する。しかし、移民人口の増加や英語学習者の教育負担といった構造的要因には触れず、世代の行動やテクノロジーに原因を帰結。センセーショナルなトーンでアルファ世代を批判し、移民関連の課題を背景に押しやる切り口は、問題の核心を曖昧にしているようだ。

NAEP数学データの分析

 Newsweek記事のネタ元であるNAEPの2024年数学テストの技術的付録データを自分で分析してみた。以下は、参加率、特別支援・英語学習者の動向、配慮事項の主要な統計である。

  • 参加率:4年生の数学テストでは、全国の学校参加率95%、生徒参加率92%(11万6200人受験)。公立学校は学校参加率100%、生徒参加率92%(11万2100人)だが、私立学校は学校参加率45%、生徒参加率93%(1600人)。8年生では、全国の学校参加率95%、生徒参加率89%(11万1000人)、公立学校は100%と89%、私立学校は34%と91%。私立学校の低参加率は、データの代表性を損なう。
  • 特別支援・英語学習者の識別率:1992年から2024年にかけ、4年生の識別率は14%から28%へ、8年生は11%から23%へ倍増。英語学習者は主に移民家庭の生徒(ヒスパニック系75-80%、アジア系言語話者など)で、2024年では両学年とも92%が評価に参加、除外率は8%。移民人口の増加や診断技術の向上が背景にある。
  • 配慮事項:2024年の主な配慮事項は、大判印刷冊子(4年生10.62%、8年生10.01%)、テンプレート使用(4年生6.49%、8年生5.47%)、小グループ実施(4年生4.99%、8年生3.33%)、スペイン語での指示読み上げ(4年生1.12%、8年生3.01%)。これらは、移民系生徒を含む英語学習者の参加を促進する。

データは、NAEPの公式サイト(nationsreportcard.gov)の「2024 Mathematics Assessment Technical Notes」に記載されている。これらの数値は、移民の教育負担を間接的に示しているようだ。

NAEPデータが示す傾向と課題

 NAEPの数学データからは、アルファ世代の行動以上に、移民の増加と教育システムの課題が浮かぶ。英語学習者の識別率が1992年から2024年に倍増(4年生28%、8年生23%)したのは、ヒスパニック系(英語学習者の75-80%)やアジア系移民の急増を反映している。特にカリフォルニア、テキサス、フロリダでは英語学習者の比率が20%を超える(NCESデータ)。言語バリアは標準テストのスコア低下に影響し、たとえば、4年生の数学スコアは2022年比2ポイント上昇だが、2019年比で3ポイント低下。英語学習者の指示読解の困難が一因と考えられる。
 私立学校の参加率の低さ(4年生45%、8年生34%)は、移民系生徒や特別支援生徒(公立:13-17%)が公立学校に集中する構造を示す。公立学校はESLプログラムや個別支援のコスト(1人当たり約2倍)を負担するが、リソースは不足。配慮事項(例:スペイン語指示3.01%)は包括性を高めるが、テスト設計の英語中心性が移民系生徒の不利を解消しない。

アルファ世代の問題を超える深刻な課題

 Newsweekはアルファ世代の注意力低下やテクノロジー依存を強調するが、NAEPデータが示す本質は、移民の増加に伴う教育負担と構造的不平等のようだ。英語学習者の急増(主に移民家庭、ヒスパニック系80%)は、公立学校に言語支援や文化的対応の負担を強いる。たとえば、移民家庭の生徒は言語バリアにより数学や読解力テストで不利で、カリフォルニアでは英語学習者の20%超が公立学校に集中している。これにはESL教師やバイリンガル教材の追加投資が必要だが、予算不足が課題。私立学校は移民や低所得層の生徒を排除し(参加率34-45%)、公立学校に負担を転嫁し、教育格差を助長する。
 確かに、コロナ禍の学習損失も深刻で、NAEPデータでは2019年比で数学3ポイント、読解力5ポイントの低下が確認された。特に移民家庭の生徒は、遠隔学習中のリソース不足(例:インターネット接続の欠如)で影響が大きい。とはいえ、Newsweek記事はこれを背景にせず、世代の「無関心」に焦点を当てている。テスト設計の限界も見過ごされる。NAEPの英語中心のテストは、移民系生徒の言語的ハンディキャップを反映し、スコア低下を過大に示している。教師の負担も増大し、移民生徒の言語支援やテクノロジー管理が加わるが、研修や予算は不足している。移民の増加は多文化化を反映し、バイリンガル教育や個別最適化を求めるが、Newsweek記事はこれを回避し、世代批判に終始する。まあ、そのあたりに八つ当たりしておくのが無難なのだろう。



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2025.05.26

ドイツの徴兵制復活と2プラス4条約

 5月25日、ドイツのボリス・ピストリウス国防相が「2026年からの徴兵制復活の可能性」に言及した。この発言は、ドイツ連邦軍の兵力を2026年までに46万人(現役20万人、予備役26万人)に増強する目標を達成するための議論を再燃させるものだった。ピストリウスは、志願兵の確保が不十分な場合、徴兵制の再導入が不可避であるとも示唆した(Reuters、2025年5月24日)。これは、2011年に停止された徴兵制の復活を巡る議論が、具体的な政策として現実味を帯びてきたことを示す。
 ドイツは2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、軍事強化を加速させており、フリードリヒ・メルツ首相の「欧州最強の軍」構想(2025年5月14日施政方針演説)とも連動するものだ。ピストリウスの発言は、NATOの要求やロシアの脅威を背景に、ドイツの安全保障政策の転換点を象徴する。この発言はドイツ国内外で賛否両論を呼び、特に若年層を中心に反対意見が目立つ。

ドイツの状況変化

 2024年10月以降、ドイツの軍事強化計画は顕著に進展した。2024年10月17日のDW報道では、NATOの新海軍部隊設立が2プラス4条約に違反しないと明確に否定されたが、兵力増強(46万人目標)に関する議論は継続している。2024年12月、ドイツはリトアニアへの恒久的な旅団派遣を決定し、第二次世界大戦後初の海外軍事展開を実現した(BBC、2025年5月22日)。これは、NATOの東部戦線強化と連動した動きである。
 2025年3月には、ピストリウスが「兵役停止は誤りだった」と述べ、徴兵制復活の必要性を強調した。同月、Die Weltの調査で若者の61%が徴兵制に反対する一方、保守層や中高年層の支持が確認された。5月22日には、メルツ首相が軍事インフラへの追加投資(GDP比1.5%)を表明し、国防費のGDP比3.5%と合わせ、軍事強化を加速させる方針を示した。
 この半年間、ドイツは安全保障環境の変化に対応し、軍の近代化と兵力増強を急ぐ一方、2プラス4条約の37万人制限との整合性が議論の焦点となりつつある。ロシアの脅威とNATOの圧力は、ドイツの軍事政策を大きく転換させている。

ドイツ国内世論の動向

 ドイツ国内の世論は、徴兵制復活と兵力増強を巡って明確に分裂している。Die Weltの調査(2025年3月27日)によると、18~29歳の若者の61%が徴兵制復活に反対し、コストや個人の自由への影響を懸念する声が強い。反面、保守派や安全保障を重視する層は、ロシアの脅威やNATOの要求を背景に、軍事強化を支持している。特に2022年の「転換点(Zeitenwende)」以降、国防費増額や軍の近代化を求める声は高まっている。
 そうしたなか、5月25日のピストリウス発言は、ソーシャルメディアでも議論を巻き起こし、反対派からは「徴兵制は時代遅れ」「社会福祉に予算を優先すべき」といった意見が上がり、賛成派は「欧州の安全保障環境下では不可避」と主張した。戦後ドイツの歴史的な軍事アレルギー(第二次世界大戦の記憶)は依然として影響力を持ち、軍事強化に慎重な意見も根強く、この分裂は、ドイツ社会が安全保障と歴史的責任の間で揺れる現状を反映している。

プラス4条約違反の可能性

 原則的な問題がある。1990年の2プラス4条約は、ドイツ統一を規定し、統一ドイツの連邦軍を37万人に制限した(第3条)。しかし今回提案されている46万人目標は、この上限を9万人超えるため、条約違反の可能性が指摘されている。過去には、NATOの核共有協定に基づく米国の核兵器配備が、条約の「核兵器非保有」の約束に抵触するとの議論もあった。
 しかし現状、大手メディアでは、46万人目標が条約に違反すると断定する報道は少なく、専門家の意見として「抵触の可能性がある」とされるにとどまっている。。ドイツ政府は、条約の解釈や現在の地政学的状況での有効性について、公式な見解をまだ示していない。戦勝国(米国、英国、フランス、ロシア)との協議や条約の見直しが必要な場合、そのプロセスは外交的緊張を引き起こす可能性がある。特にロシアは、ドイツの軍事強化を牽制する立場を取る可能性が高い。

今後の展望

 ドイツの兵力増強と徴兵制復活の議論は、今後数年間でさらに具体化するだろう。ピストリウスの発言を受け、2026年の徴兵制導入に向けた具体的な法案や計画が2025年中に提示される可能性がある。46万人目標の達成には、志願兵の確保が鍵となるが、現在の志願者不足(現役約17.9万人、予備役約3.4万人)が続けば、徴兵制復活は現実味を増す。
 2プラス4条約の抵触問題は、ドイツ政府がどのように国際世論に対応するかにかかっている。条約の見直しや戦勝国との協議が進めば、外交的な波紋が予想される。特にロシアとの関係は、ウクライナ情勢と絡み、複雑化する可能性がある。一方で、NATOの圧力や欧州の安全保障環境は、ドイツに軍事強化を迫っており、このジレンマは今後も議論を呼ぶだろう。
 世論の分裂は、政策決定に影響を与える。若者の反対が強い中、政府は徴兵制の形式(例:選択的徴兵や短期訓練)や国民への説明を慎重に進める必要がある。メルツ首相の「欧州最強の軍」構想は、国内の支持と国際的協調のバランスをどう取るかが課題となっている。



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2025.05.25

年金改革と政治の不在

 日本における年金制度は、少子高齢化の進展と経済停滞の中で、マクロスライドという仕組み上、制度崩壊はしないものの、その実質的価値が問われても「ナンセンス」な存在になりつつある。こうしたなか、2025年5月24日、自民党と立憲民主党は年金改革法案の修正で合意に達した。基礎年金の給付額を底上げし、低所得高齢者の生活困窮を緩和するこの施策は、一見、年金問題への対処に見える。しかし、中長期的な視点で見ると、この「改革」は年金制度の構造的課題を放置し、選挙向けの対症療法に終始している。そこには、年金制度の持続可能性や世代間公平を真剣に考える政治の不在が浮上する。

 

マクロ経済スライドと「ナンセンス」な年金

 2004年に導入されたマクロ経済スライドは、年金給付の伸びを物価や賃金の上昇率以下に抑え、財政健全化と将来世代の負担軽減を目指す仕組みである。2050年までに年金給付水準を現役世代の賃金の50%程度に引き下げる試算が示され、制度設計時に低年金者の貧困リスクは認識されていた。しかし、この給付抑制は、特に基礎年金(国民年金、月約6.5万円)のみの受給者にとって、年金だけで生活を賄うのが困難な「ナンセンス」な状況を生み出している。都市部単身高齢者の生活費(月12-15万円程度)に遠く及ばず、年金は生活保障の役割を十分に果たせていない。

 この問題は、年金が補助金の「ストッパー」として機能することでさらに深刻化する。生活保護(都市部単身で月12-13万円程度)は、年金収入があると減額されるため、少額の年金が却って高齢者の困窮を悪化させる。例えば、月6.5万円の年金受給者は、生活保護で追加6-7万円しか得られず、最低限の生活を維持できないケースが多い。厚生労働省のデータによれば、生活保護受給者の約半数が65歳以上であり、年金制度と社会保障の不整合が貧困を助長している。実はこの問題は、この点にだけ局所化すれば、年金を返上すれば「解決」してしまうという制度上深刻はホール(穴)を抱えている。

 

今回の「改革」の実態

 自民党と立憲民主党の合意は、基礎年金の底上げに厚生年金の積立金を活用する内容である。低年金問題への対処として、国民年金受給者の生活支援をアピールする狙いがある。しかし、この改革は抜本的な解決策とは言い難い。まず、積立金は有限であり、将来の厚生年金給付に影響を及ぼすリスクがある。これは、マクロ経済スライドの理念である財政健全化や世代間公平を損ない、将来世代に負担を先送りする。次に、底上げ額が実際的には限定的(月1-2万円増と推測)で、生活保護基準にすら届かず、「ストッパー」問題の根本解決に依然至らない。

 世論としては、「積立金頼みは将来のツケ回し」「高齢者向けの選挙対策」との批判が目立つが、この「改革」は、2025年の選挙を意識した高齢者票への配慮が強く、高齢社会優遇の印象を与える。実際には、マクロ経済スライドの給付抑制を緩和する一方で、制度の持続可能性を犠牲にする妥協策に過ぎない。政治が短期的な人気取りに終始し、長期的なビジョンを欠いている。

 

他の野党の不在

 他の野党の動向も、政治の不在を際立たせる。日本維新の会、共産党、国民民主党、れいわ新選組は、今回の改革協議で具体的な対案を提示していない。共産党やれいわ新選組は、最低保障年金の導入や税財源による給付拡充を過去に主張してきたが、財源の具体性や制度設計の詳細が乏しく、今回の協議では蚊帳の外に置かれた。維新や国民民主党は、財政健全化や現役世代の負担軽減を重視するが、年金改革での積極的な提案は見られない。野党は票にならない年金問題を避けているのが野党だろうという批判の声も散見され、野党全体のリーダーシップ欠如が問題を複雑化させている。

 最低保障年金は、先程の「ストッパー」問題(些少の年金を払うことで生活保護をしない)を緩和する可能性があるとしても、解決策としては不十分である。例えば、月10万円を全高齢者(約3700万人)に支給する場合、年間44兆円の追加予算が必要で、消費税率20%超への引き上げが不可避であると試算されている。さらに、年金より高額な最低保障年金は、保険料納付意欲を低下させ、年金制度の基盤を弱体化させるリスクがある。つまり、年金払う意味がなくなるとの懸念が浮上する。野党の理念的な主張は、財政や政治的現実性を欠き、抜本改革につながらない。

 

政治の不在と必要なリーダーシップ

 今回の改革が「政治の不在」と感じられるのは、年金制度の構造的課題への向き合いが欠如している点にある。低年金問題の根源である保険料未納(国民年金の未納率約20%)、非正規雇用の増加(約4割が非正規、年金加入率低い)、少子高齢化(2060年で高齢化率約40%)は、税方式への移行、加入義務の強化、労働市場改革、少子化対策との連動がなければ解決しない。しかし、与野党ともにこれらに踏み込まず、選挙向けの妥協や対症療法に終始している。

 年金「改革」が「ナンセンス」になり、現状ですら補助金のストッパーとなっている問題は、年金制度と社会保障の不整合を象徴する。政治は、この矛盾を国民に透明に説明し、税・保険料・給付のバランスを再設計する責任を負うべきなのだが、しているとは見えない。最低保障年金の検討、年金と生活保護の統合、世代間公平の再定義など、抜本改革の議論が不可欠であるが、今回の改革は高齢者支援を優先し、将来世代への負担を曖昧にしたまま進む。政治家は年金問題を本気で解決する気がないとの不信感が広がる。

 年金問題は、日本の政治の不在を象徴する課題である。



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2025.05.24

[Eng] Germany’s Energy Policy Clash: The EU Taxonomy and France’s Influence

1. A Rift Over Energy Policy in Germany

A deep rift has continued to grow within Germany’s new coalition government over energy policy, exposing fault lines that go beyond technical debates. On May 23, 2025, Berlin-based Deutsche Presse-Agentur (dpa) reported that Economy Minister Katherina Reiche (reportedly under consideration for the position in a future cabinet reshuffle) has endorsed the EU Taxonomy’s classification of nuclear energy as “sustainable,” aligning with a pragmatic approach to climate goals. In contrast, Environment Minister Carsten Schneider of the Social Democratic Party (SPD) has fiercely opposed this stance, citing nuclear energy’s radioactive waste, accident risks, and high costs as reasons it cannot be deemed sustainable. Schneider remains steadfast in defending Germany’s decision to phase out nuclear power, a process completed in 2023.
This clash, while not unique to Germany, reflects more than a policy disagreement. It mirrors a broader struggle over the nation’s identity and its influence within the European Union. Reiche’s realism nods to the EU’s climate objectives and the pressing need for energy security, while Schneider’s anti-nuclear stance is rooted in Germany’s deep-seated environmental ethos and anti-nuclear tradition. This division could signal a troubling disintegration of Germany’s ability to project a unified national strategy.

2. What Is the EU Taxonomy?

At the heart of this debate lies the EU Taxonomy Regulation, a framework designed to classify economic activities as sustainable to guide investment toward the EU’s 2050 carbon-neutrality goal. The taxonomy serves as a roadmap for investors and businesses, identifying “green” activities while combating greenwashing—false claims of environmental responsibility.

To be classified as sustainable, an activity must meet stringent criteria:

  • Contribution to Environmental Goals: It must significantly advance at least one of six objectives—climate change mitigation, adaptation, water protection, circular economy, pollution prevention, or biodiversity protection.

  • No Significant Harm (DNSH): It must not cause major harm to other environmental goals.

  • Technical Screening Criteria: It must meet specific thresholds, such as CO2 emissions or safety standards.

  • Social Safeguards: It must comply with human rights and labor standards.

The taxonomy’s strength lies in its multilayered evaluation. Renewable energy sources like solar and wind are unequivocally sustainable, but nuclear energy and natural gas occupy a contested space, classified as sustainable only under strict conditions. Nuclear power, with its low CO2 emissions, contributes to climate change mitigation but faces criticism for radioactive waste and safety risks, which challenge the DNSH principle. The inclusion of nuclear and gas in the taxonomy’s 2022 supplementary act was a compromise between France’s nuclear advocacy and Germany’s then-reliance on gas.

3. The EU, France, and Germany: A Triad of Tensions

The EU Taxonomy debate is a battleground where the EU, France, and Germany’s competing priorities collide.

  • The EU’s Balancing Act: The EU must reconcile the interests of its 27 member states while pursuing climate neutrality and energy security. Including nuclear and gas as sustainable was a pragmatic compromise, reflecting France’s push for nuclear power and the gas dependency of Eastern European nations. The taxonomy is a tool to drive investment and advance the EU’s Green Deal, but it cannot fully resolve member states’ conflicts.

  • France’s Nuclear Ambition: France, which derives roughly 70% of its electricity from nuclear power, views it as a national cornerstone for energy independence and security. As a nuclear-armed state, France sees civilian nuclear energy as vital to maintaining technological expertise, avoiding fossil fuel reliance, and bolstering its economy through investments in its nuclear industry. France’s successful lobbying to classify nuclear as sustainable in the EU Taxonomy underscores its ambition to shape EU climate policy. The joint German-French paper cited by dpa, advocating equal treatment for all low-emission energy, reflects France’s strategy to align Germany’s conservative faction, led by Reiche, with its nuclear agenda.

  • Germany’s Divided Stance: Germany, having phased out nuclear power by 2023 following the 2011 Fukushima disaster, has positioned itself as a renewable energy leader. Schneider’s opposition to nuclear reflects Germany’s anti-nuclear culture and environmental values, while Reiche’s openness aligns with the EU’s pragmatic approach and the need for energy security. The 2022 Russia-Ukraine war exposed Germany’s costly reliance on Russian gas, forcing a reevaluation of energy policy. Yet, internal divisions hinder a coherent strategy, leaving Germany caught between its green ideals and practical needs.

This triad encapsulates a broader struggle for EU leadership. France seeks dominance through nuclear power, while Germany aims to maintain influence via renewables, but its internal discord undermines its position.

4. The Roots and Future of the Divide

The roots of this conflict lie in Germany’s identity, history, and geopolitical shifts.

  • Germany’s Anti-Nuclear Ethos: Germany’s anti-nuclear movement, born in the 1970s and galvanized by the 1986 Chernobyl disaster, is deeply tied to a cultural reverence for nature and sustainability. Schneider’s rejection of nuclear as unsustainable echoes this ethos, championed by the Green Party and civil society, which view renewables as Germany’s future. This vision unites the nation but clashes with the realities of energy security.

  • The Russian Gas Fiasco: Before 2022, Germany relied heavily on Russian gas via the Nord Stream pipeline to bridge the gap left by its nuclear phase-out. The Russia-Ukraine war, which saw the pipeline’s sabotage (amid speculative claims of various parties’ involvement), triggered an energy crisis. By 2025, Germany has significantly reduced its reliance on Russian gas, but renewables alone cannot meet demand. Reiche’s nuclear reconsideration is a pragmatic response to this vulnerability.

  • France’s Challenge and EU Leadership: France’s push for nuclear power in the EU Taxonomy aims to steer climate policy in its favor, enhancing its economic and geopolitical clout. Germany’s conservatives, like Reiche, see alignment with France and the EU as necessary for energy security, but Schneider and the SPD fear France’s nuclear model threatens Germany’s renewable leadership. The taxonomy thus serves as a proxy for a France-Germany power struggle.

  • Germany’s Risk of Declining Influence: The government’s internal rift and lack of a unified energy strategy reflect deeper fractures. The failure of Russian gas reliance, economic strain from high energy costs, and regional divides—such as the rise of populism in eastern Germany—erode national cohesion. If France’s nuclear agenda dominates the EU, Germany’s influence could wane, potentially diminishing its role to that of less influential EU members.

Looking Ahead: In the short term, Germany will likely seek a compromise. Reiche’s pragmatism may lead to limited nuclear acceptance, such as investment in research or small modular reactors, aligning with the EU and France. Schneider’s anti-nuclear stance resonates with voters, but the limits of renewables—weather dependency and infrastructure gaps—could erode support if energy shortages persist. Long-term, Germany’s failure to forge a cohesive energy strategy risks ceding EU leadership to France and weakening its economic and geopolitical standing. While Germany’s economic might and federal structure prevent a literal collapse, the energy policy divide is a litmus test for its ability to redefine its national identity and role in the EU. The outlook remains uncertain, with Germany at a crossroads between its green ideals and the hard realities of a changing world.



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ドイツのエネルギー政策対立とEUタクソノミー

 ドイツの新連立政権内で、エネルギー政策をめぐる深刻な対立が表面化している。2025年5月23日、ベルリンに拠点を置くdpa通信は、経済相カタリーナ・ライヒェがEUタクソノミーにおける核エネルギーの「持続可能」分類を支持する姿勢を示した一方、環境相カーステン・シュナイダー(社会民主党:SPD)がこれに強く反対していると報じた。ライヒェは、CO2排出量が少ない核エネルギーを気候変動対策の現実的選択肢とみなし、フランスとの共同文書で「すべての低排出エネルギーを平等に扱う」方針を打ち出している。これに対し、シュナイダーは、核エネルギーの放射性廃棄物や事故リスク、高コストを理由に「持続可能とは呼べない」と反発。ドイツの脱原発政策(2023年までに全原発停止)を堅持する立場を強調している。
 日本を含めどこの国にもありがちにも思えるこの対立は、エネルギー政策の技術的議論を超えて、ドイツの国家アイデンティティやEU内での影響力をめぐる深い分裂も映し出しているようだ。ライヒェの現実主義は、EUの気候目標やエネルギー安全保障の必要性を反映するが、シュナイダーの反核姿勢は、ドイツ人の環境保護や反核の伝統に根ざすが、この対立は、ドイツが一貫した国家戦略を打ち出せないという「自壊」の兆候とも捉えられるかもしれない。

EUタクソノミーとは何か

 方面的な対立軸にあるEUタクソノミー(EU Taxonomy Regulation)だが、これは、持続可能な経済活動を分類するEUの枠組みである。気候変動対策や2050年までのカーボンニュートラル目標を支援するため、どの活動が「持続可能」とみなされるかを明確化するためのものだ。投資家や企業が「グリーン投資」を判断する際のガイドラインとして機能し、グリーンウォッシング(偽の環境配慮)を防ぐ役割も担う。
 EUタクソノミーでは、経済活動が「持続可能」と認められるには、以下の基準を満たす必要がある:

  • 6つの環境目標への貢献:気候変動の緩和・適応、水資源の保護、循環経済、汚染防止、生物多様性の保護のいずれかに大きく貢献。
  • 他の目標への害の回避(Do No Significant Harm: DNSH):他の環境目標に重大な悪影響を与えない。
  • 技術的スクリーニング基準:CO2排出量や安全基準などの具体的な閾値をクリア。
  • 社会的セーフガード:人権や労働基準の遵守。

 興味深いのは、これがタクソノミーが単なる基準ではなく、多層的な評価を可能にしている点である。エネルギー分野では、再生可能エネルギー(太陽光、風力など)は明確に「持続可能」と分類されるが、核エネルギーと天然ガスは条件付きで「持続可能」とされる。核エネルギーは、CO2排出量が少ない点で「気候変動の緩和」に貢献するが、放射性廃棄物や事故リスクがDNSH基準を満たさないとの批判ができる。2022年のタクソノミー補足法で、核とガスが「持続可能」に含まれたのは、フランス(核推進)と当時のドイツ(ガス依存)の妥協の結果でもある。

EUタクソノミーを巡るEU、フランス、ドイツの対立

 EUタクソノミーをめぐる議論は、EU、フランス、ドイツの三者の異なる優先順位と戦略が交錯する場である。
 EUとしては、27加盟国の利害を調整しながら、気候中立とエネルギー安全保障を両立させる必要がある。核エネルギーとガスを「持続可能」に含めたのは、フランスの核推進と、ガス依存の東欧諸国への配慮を反映した妥協である。タクソノミーは、投資を誘導し、EUのグリーン・ディールを推進するツールだが、加盟国の対立を完全に解消できていない。
 フランスは、電力の約70%を核エネルギーに依存し、核を国家安全保障とエネルギー自給の柱とする「国是」と位置づけている。核保有国としての技術基盤維持、化石燃料依存の回避、経済的利益(核産業への投資)、EU内でのリーダーシップ確保を目指し、核をタクソノミーで「持続可能」と分類させることに成功した。dpaが報道する「ドイツとフランスの共同文書」は、フランスが核推進をEU政策に押し込む戦略の一環であり、ドイツの新保守派(ライヒェ側)を取り込む動きを反映している。
 さて、注目されるドイツの立場だが、2011年の日本の福島事故を機に2023年までに脱原発を完了し、再生可能エネルギーのリーダーとしてEUでの地位を確立してきた。シュナイダーの核反対は、ドイツの反核文化や自然保護の価値観に基づくものだが、ライヒェの核受け入れは、フランスやEUの現実路線、エネルギー安全保障の必要性を反映している。2022年以降のロシア・ウクライナ戦争で露呈したロシアへのガス依存の失敗は、ドイツにエネルギー政策の再考を迫るが、内部の分裂が一貫した戦略を妨げている。
 この三者の構造は、EUの気候政策をめぐる主導権争いも象徴している。フランスは核を通じてEUのリーダーシップを握り、ドイツは再生可能エネルギーで影響力を維持しようとするが、内部対立がその足かせとなる。

対立の背景と展望

 この対立の背景には、ドイツの国家アイデンティティ、歴史的・文化的要因、地政学的変化が絡んでいるようだ。まず、ドイツの反核文化と自然観が背景にある。ドイツの反核運動は、1970年代の環境保護運動やチェルノブイリ事故(1986年)に根ざものだが、シュナイダーの核反対は、自然との調和や持続可能性を重視するドイツ人の価値観を反映している。ドイツの緑の党や市民運動は、核エネルギーを従来から「危険」とみなし、再生可能エネルギーを国家の未来像としてきた。この価値観は、ドイツの結束を支えるが、エネルギー安全保障の現実とのギャップを生みつつある。
 エネルギーにおけるロシア依存の問題もある。2022年以前、ドイツはロシアからの天然ガスに大きく依存し、ノルドストリーム・パイプラインを通じて安価なエネルギーを確保していた。脱原発後の電力供給をガスで補う戦略だったが、ロシア・ウクライナ戦争でパイプラインが破壊され(ウクライナの関与が疑われる)、ガス供給が不安定化し、エネルギー危機に直面している。2025年時点でロシア依存は減ったとされるが、再生可能エネルギーだけで需要を満たすのは難しく、ライヒェの核再評価は、この危機への現実的対応である。
 EUの主導権を握りたいとするドイツの野心はフランスのそれと潜在的に対立している。フランスは、核エネルギーを通じてEUの気候政策を自国に有利な方向に導き、経済的・地政学的リーダーシップを強化し、ドイツの新保守派(ライヒェ側)は、フランスとの協調やエネルギー安全保障を重視するが、シュナイダーやSPDは、フランスの核モデルがドイツの脱原発路線を脅かすと警戒している。この点から見れば、EUタクソノミーの問題は、EUにおけるフランスとドイツの主導権争いの「ダシ」としても機能している。

ドイツの「自壊」リスク

 ドイツ国内の政府内の対立やエネルギー政策の一貫性欠如は、ドイツの国家戦略の分裂を映し出す。ロシア依存の失敗、経済競争力の低下(エネルギー価格高騰による産業空洞化)、地域間格差(東部でのポピュリズム台頭)は、ドイツの求心力を弱める。フランスの核推進がEUで優勢になれば、ドイツの影響力低下は加速し、中規模国並みの地位に縮小するリスクも考えられる。
 ドイツのエネルギー政策は、短期的には妥協点を探るだろう。ライヒェの現実主義は、EUやフランスとの協調を重視し、核エネルギーの部分受け入れ(例:研究や小型モジュール炉への投資)を模索する可能性がある。一方、シュナイダーの反核は、国民の支持を集めるが、再生可能エネルギーの限界(天候依存やインフラ不足)が露呈すれば、支持が揺らぐ。
 問題は長期的展望である。ドイツが一貫したエネルギー戦略を構築できない場合、EU内でのリーダーシップはフランスに譲り、経済的・地政学的地位の低下が進むことになる。だが、ドイツの経済力や連邦制の安定性は、ハンガリーやルーマニア並みへの完全な分解を辿るかもしれない。エネルギー政策の対立は、ドイツの国家アイデンティティとEUでの役割を再定義する試金石となるが、おそらく見通しは暗い。



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2025.05.23

「Sell America」だそうだ

 ウォール街で「Sell America(アメリカを売れ)」という言葉がトレンドになっているようだ。投資家が米国債、ドル、株式といった米国資産を売却する動きが加速し、市場に不安が広がる。5月21日、米財務省の200億ドル債券オークションでは需要が低迷し、30年物米国債の利回りが5%を超えた。ムーディーズによる米国の信用格付け引き下げも追い打ちをかけ、投資家の間で米国への信頼が揺らいでいる。このフレーズは、かつて「世界最強の経済大国」とされた米国から投資家が距離を置く現象を象徴するが、なぜこのような動きが起きているのか。

そういえば、「Buy America」

 「Sell America(アメリカを売れ)」は、「Buy America(アメリカを買え)」のスローガンを逆手に取った表現だ。「Buy America」は米国製品の購入や国内産業の支援を訴える言葉で、トランプ政権(2017年~2021年、2025年~)で広く知られるようになったが、その起源は半世紀前に遡る。1970年代のオイルショックや日本製品の台頭で米国の製造業が苦境に立った際、労働組合や企業がこの「Buy American」を掲げ、国産品の消費を呼びかけたものだった。1980年代には「Buy American Act」(1933年制定)の強化が議論され、政府調達での国産優先が推進された。そういえば、投資の文脈では、ウォーレン・バフェットが2008年の金融危機時に「Buy American. I Am.」と題したニューヨーク・タイムズの論説で、米国経済の長期的な強さを信じ、株式投資を奨励したことで注目された。バフェットは、短期的な危機にもかかわらず、米国の企業や経済の回復力を強調し、投資家に自信を植え付けた。あのとき、実際、買っておけばよかった。
 トランプ政権は、このスローガンを「Buy American, Hire American」として政治的に再利用している。関税や貿易保護主義を通じて国内産業を保護し、雇用創出を目指した。というわけで、「Sell America」はこの信頼の対極にある。投資家が米国資産を売却する動きは、「Buy America」の楽観的なメッセージとは正反対で、経済的不確実性への皮肉とも受け取れる。

なぜ「Sell America」なのか

 今回の「Sell America」の背景には複数の要因がある。まず、米国の国家赤字が2兆ドルに迫り、財政の持続可能性が問題視されている。ムーディーズは2025年に米国の信用格付けを「Aaa」から引き下げ、トランプ政権の税減免政策が歳入を減らし赤字を悪化させたと指摘。トランプの関税政策も市場の不安を増幅している。125%の高関税案が中国や他国に課される可能性が浮上し、欧州中央銀行は「関税の頻繁な変更がグローバル金融システムにリスクをもたらす」と警告した。貿易摩擦やインフレ圧力への懸念は、投資家の米国資産への信頼を揺さぶる。さらに、30年物米国債の利回りが5%を超えたことは、投資家が「安全資産」としての米国債を敬遠している証拠にもなる。市場では、S&P500先物が1.2%下落し、ドル指数(.DXY)も下落傾向にある。こうした要因が重なり、投資家は米国を「リスクの高い投資先」と見なし、売却に走っている、ということだが、投機というのは乱があってこその設けの場なので、そもそもが胡散臭い面がある。

とはいえ何が起きているのか

 とはいえ、市場では具体的な動きが顕著になってきた。なるほど米国債の売却が進み、5月21日のオークションでは需要低迷により財務省が予想以上の利回りを支払った。投資家は米国債を避け、金などの安全資産にシフトしている。ドル指数の下落も続き、ドル安が進行中だ。「トランプの関税と減税がドル離れを加速させた」とか呟かれる。株式市場も影響を受ける。S&P500先物が下落するなど、「教科書的な『Sell America』セッション」と評される一方で、このトレンドが一時的なものか、長期的な構造変化かは議論が分かれているの現状だ。アナリストの一部は、赤字や関税の影響が続き、投資家の慎重姿勢が強まると予測しているが、他方、米国の経済基盤の強さを理由に、過剰な悲観論は時期尚早とする見方もある。

これは日本に影響する?

 もちのろん、蔦屋重三郎にございます。「Sell America」は日本にも影響を及ぼす。まず、ドル安が進めば円高圧力が高まり、2025年5月23日時点の1ドル=150円前後の為替が変動する可能性がある。円高は輸出企業、特に自動車や電機産業に打撃を与える。米国市場への依存度が高い企業は収益悪化のリスクに直面する。
 米国債の利回り上昇は、日本の機関投資家の保有する米国債の価値を下げる。債券価格の下落はポートフォリオに損失をもたらし、日本の金融機関に影響する。米国の経済的不確実性がグローバル市場の不安定化を招けば、日経平均も連動安の可能性がある一方で、投資家が米国資産から離れる。すると、日本国債や円が「安全資産」として注目されるチャンスもある。
 とはいえ、トランプの関税が日本にも向けられると、貿易摩擦が悪化し、経済全体にマイナスになる。生活面では、米国発のインフレが輸入物価を押し上げ、食料品やエネルギー価格の上昇につながる。日本は米国の動向を注視し、経済政策の柔軟な対応が求められるというか、日本も「Sell America」の機運が高まる。隣の国のように。



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2025.05.22

「コメは売るほどある」価格高騰は「問題」ですらなかった

 「コメは売るほどある」という、この辞任した江藤農林水産大臣の発言は、単なる失言ではない。農政の世界において、コメの価格高騰は本質的に「解決すべき問題」として認識されていなかったことを示す、構造的な必然性を持った発言だった、と見なければ、この問題は単に、弱小与党の政局に帰着してしまう。

農政における「成功」の定義

 日本の農政において、そもそも「成功」とは何を意味するのかと考えると、今回の馬鹿げた事態に別の局面が現れる。端的に言えば「生産基盤の維持」と「生産者所得の確保」である。この二つの指標において、コメは優等生だった、というのが日本という国のほとんど前提だった。
 食料・農業・農村基本法に基づく基本計画では、コメの自給率は100%を維持しなけれならない。年間生産量800万トンは国内需要を満たし、政府備蓄米も100万トン規模で確保されている。生産調整(減反)により需給バランスも保たれ、過剰在庫による暴落も回避されている。農政の評価基準において、これは「完璧な成功」なのだ。
 さらに、今回の価格高騰は実は生産者にとって「朗報」であるという事実だ。長年、コメ価格の低迷に苦しんできた農家にとって、価格上昇は待望の展開だった。60キロ当たりの生産者米価が1万5000円を超えることは、農業経営の安定化を意味する。農政担当者にとって、これは「問題」どころか「成果」として認識される。嬉しさを共有したいのだ、仲間内で。ここで呟いてみよう、「コメは売るほどある」と。笑みがこぼれてこないだろうか。

食糧管理制度の思考様式

 1995年まで続いた食糧管理制度は、形式的には廃止されたが、その思考様式は農政の深層に残存している。食管制度下では、政府がコメを一元的に管理し、生産者米価と消費者米価を別々に設定していた。この二重価格制度により、生産者保護と消費者保護は「別次元の問題」として処理されていた。
 この思考様式において、消費者価格の高騰は「市場の問題」であり、農政の直接的な責任範囲外となる。農政の責務は「生産の確保」であり、その先の価格形成は市場メカニズムに委ねられるべきものである。この区分けが、現在も農政関係者の認識を規定している。そもそも、「コメは売るほどある」のだ。
 農林水産省の組織構造を見てもわかるだろう。生産局、経営局、農村振興局など生産サイドの部局が中心で、消費者対応は消費・安全局が担当する外様部門に過ぎない。予算配分も圧倒的に生産支援に偏重しており、2023年度農林水産予算約2.3兆円のうち、消費者向け施策は1%にも満たない。「コメは売るほどある」。そもそも「私たちは市場なんか関係ない、なんなら、コメなんか買ったこともない」。当然だろう。

JAシステムにおける価格高騰の「正当性」

 全国農業協同組合連合会(JA全農)を頂点とするJAグループにとって、コメ価格の上昇は組織の存在意義を証明するものだ。JAの使命は組合員(生産者)の経済的利益の追求であり、高価格での販売は、その使命の完遂を意味する。JAグループの実態は金融機関だえるとはいえ、経済事業取扱高は年間約5兆円で、このうちコメ関連は約1兆円を占める。価格が10%上昇すれば、1000億円の増収となり、これは組合員への還元原資となる。JA関係者にとって、価格高騰を「問題視」することは、組織の存在理由を否定することに等しい、まあ、公言はしなくても、ちょっと間抜けな大臣には言ってほしいくらいだった。
 もともと、法的にも、JAが消費者価格を考慮する義務はないのだ。農協法第8条は「組合員の農業生産についての協同組織の発達を促進すること」を農協の目的として定めている。ここに「消費者への適正価格での供給」という文言はない。というか、そんな世界があることも知らないインナーグループが存在し、そこでは異世界のような発言があっても、それは、要するに異世界なのだ。

政治的インセンティブ構造

 農林族議員にとって、コメ価格高騰を問題視することは政治的自殺行為に等しいし、自民党農林部会のメンバーの多くは、農村部選出であり、JA組織票に依存している。彼らの選挙区では、コメ農家は依然として有力な支持基盤だ。だから、仮に、ある農林族議員が「消費者のためにコメ価格を下げるべきだ」と主張したとしよう。その議員は、次の選挙でJAの支援を失い、対立候補への支援に回る可能性が高い。農村部の投票率は都市部より10~20%高く、組織票の影響力は決定的だ。さらに、農林水産大臣というポストは、伝統的に農林族議員への論功行賞的な性格が強い。大臣就任は、長年の農政への貢献、つまり生産者利益の代弁への評価である。そのような立場の人間が、消費者視点でコメ価格を問題視することは、構造的にあり得ないのだ。まあ、もうちょっと世間の立ち回りがのいい農水大臣だったらよかったかもしれないけど、それがそもそも無理というのがこの異世界の設定なのだ。
 この異世界の中央には、食料・農業・農村政策審議会がある。委員30名の構成を見ると、農業団体関係者、農業経済学者、食品産業関係者で約8割を占める。消費者団体代表は2~3名に過ぎない。しかも、議論は専門用語が飛び交い、一般委員が実質的に発言することは困難だ。例えば、「経営所得安定対策」「収入保険制度」「ナラシ対策」といった異世界用語が使われ、これらの制度が消費者価格にどう影響するかという視点での議論は、ない。審議会は形式的には「国民各層の意見を聞く場」だが、実質的には「農政インナーサークルの追認機関」として機能している。
 農政関係者が日常的に接する情報源も、彼らの認識を規定する。農林水産省の幹部が毎朝目を通すのは、『日本農業新聞』であり、そこでは「生産者米価の回復」「農業経営の改善」という論調が支配的だ。我々はみな情報統制された世界のなかに生きているとはいえ、どの業界新聞であれ、臭くて暑い雰囲気は、たまらない。ついでに言えば、省内の情報共有システムも、生産統計、作況指数、在庫量などの供給サイドデータが中心で、小売価格の動向や消費者の購買行動に関するデータは、あるんだろうか。「コメは売るほどある」という認識は、このような情報環境では当然の帰結となる。

国際比較から見る日本農政の特異性

 同じ異世界ということで、世界を見る。EUの共通農業政策(CAP)では、2013年改革以降、消費者利益と生産者支援のバランスが明確に意識されている。直接支払いの条件として環境保全や食品安全が組み込まれ、消費者への説明責任が強化された。他方、日本の農政では依然として「生産者ファースト」が貫かれている。TPP交渉においても、コメは「聖域」として最後まで保護され、消費者メリットよりも生産者保護が優先された。この姿勢は、農政関係者にとって「当然」であり、疑問を持つこと自体が異端視される。息抜きで、イオンが外米を売るくらいだろうか。
 要するに、日本の農政関係者は、そもそもコメ価格高騰を問題視していないのだ。無知や怠慢ではなく、システムに組み込まれた必然だということだ。彼らの評価基準、組織の使命、政治的インセンティブ、情報環境のすべてが、「生産の論理」で構築されており、消費者価格への関心を持つことは、むしろシステムへの背信となる。そんな世界があるのだ。潤沢な世界だ。「コメは売るほどある」。合理的で、正当な認識だった。
 問題は、この異世界を日本市民はどうするかなのだが。わからん。



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2025.05.21

夜中に目が覚めたとき

 夜中に目が覚めたとき、私はスマートフォンとかで時刻を確認しないようにしている。代わりに、季節ごとの日の出の時間をなんとなく覚えておいて、部屋に漏れる薄明かりで朝が来たかなと考える。そして日が昇ったなという時間には起きることにしている。私はもう若いときのように、寝られるならずっと眠っていたいということはない。そうしてみて、睡眠というのはなんだろうと思う。少し調べてみると、というか私はこの間、冗談みたいだが中世の研究者にもなったので、どうも彼ら中世人の生活時間は違うなあ、睡眠もなあと思っていたのだった。
 どうやら西欧中世の人々は夜中の目覚めをごく自然なものとして受け入れ、むしろそれを特別な時間として活用していたようだ。歴史学者のロジャー・エカーチの研究によれば(『At Day's Close: Night in Times Past』)、中世ヨーロッパの人々は「第一睡眠」と「第二睡眠」という二相性の睡眠パターンを持っていたそうだ。日没から数時間後に始まる「第一睡眠」を終えると、人々は1、2時間ほど目覚めて過ごし、その後再び「第二睡眠」に入るのが一般的だったというのだ。
 この睡眠習慣は、当時の環境と密接に結びついていた。ろうそくや油明かりしかない時代、夜は深い闇に包まれ、屋内外の活動は自ずと制限されたから、就寝時間は必然的に長くなり、途中で目覚めることは異常なことではなかったのだろう。農民たちは日没とともに床に就き、夜明けとともに作業を始める生活を送っていただろうし、その長い夜の時間の中で、目覚めの時間を持つことは自然な営みだった。あるいは、まだ暗い未明からの活動だったかもしれない。
 このような二相とも言える夜の過ごし方は、日本でも見られたようだ。江戸時代以前の農村部では、季節の変化に応じて労働時間を調整し、特に冬の長い夜には、家族が夜中に目覚めて囲炉裏の周りで語らう習慣があったのだろう。都市部でも、夜の時間の使い方は柔軟だっただろう。「夜なべ」という言葉に象徴されるように、夜間に作業や家事をこなすこともあり、必ずしも夜を一気に眠り通すものとは考えられていなかったはずだ。ヨーロッパの都市でも、職人たちは作業の合間に短い睡眠を取り、夜間の時間を効率的に使っていた。
 東西を問わず、前近代の人々は夜中の目覚めを「異常」とは考えていなかったのではないか。灯りのための油が安価になり、そして人工的な照明が発達し、そして工場での規則的な労働が始まる産業革命以降に、現代のような日没後の夜の生活時間が生じて、それから連続した睡眠が「正常」とされるようになったのではないか。
 とすると、「夜中に目が覚める」ことへの不安や焦りは、実は人類にとって比較的新しい感覚なのかもしれない。私たちの祖先は、もっと自然な形で夜の時間と付き合っていたのだ。
 夜中に目覚めた時間は、西欧中世の人々にとって特別な意味を持つ時間だったようだ。『カンタベリー物語』をはじめとする中世ヨーロッパの文学作品には、夜半に目覚めて思索にふける人々の姿が自然な形で描かれている。これは単なる文学的表現ではなく、当時の人々の実際の生活を反映したものだっただろう。注目すべきは、この時間の使い方だが、16世紀フランスの医師ローラン・ジュベールは、「第一睡眠」と「第二睡眠」の間の覚醒時間を「心と身体が最も落ち着いた状態になる瞬間」と評価し、静かな会話や祈り、時には夫婦の親密な時間として活用することを推奨していた。上流階級の人々は、この静謐な時間を読書や詩作に充て、創造的な活動の機会としていたのかもしれない。
 修道院では、この夜中の時間は特に重要視された。修道士たちは「夜間の勤行」として定期的に目覚め、聖歌を歌い、祈りを捧げた。彼らにとって、世俗の騒音から解放された深夜は、神との対話に最もふさわしい時間だった。夜中の目覚めは、単なる睡眠の中断ではなく、むしろ日常とは異なる特別な時間として認識されていたのだ。それは瞑想や祈り、創造的活動、そして人々の絆を深める機会として、積極的な意味を持っていた。現代のように「早く寝なければ」という焦りに苛まれることなく、夜の静けさの中で、人々は心を解放し、深い思索や温かな交流の時を過ごしていた。夜の闇が深まり、日常の喧騒が遠ざかるその時間は、私たちの先人たちにとって、心を豊かにする贅沢な「余白」の時間だったと言えるだろう。
 歴史が教えてくれる「二相睡眠」の知恵は、現代の私たちの睡眠観を見直すヒントになるかもしれない。産業革命以降、人工照明の発達と労働環境の変化によって、人々の睡眠パターンは大きく変化した。現代の睡眠研究では、1953年にアセリンスキーとクライトマンによって発見されたレム睡眠の重要性が指摘され、連続した睡眠時間の確保が推奨されてきた。その結果、夜中の目覚めは「睡眠障害」として問題視されるようになった。しかし、興味深い研究結果もある。1990年代初頭、精神科医のトーマス・ウェアは、被験者を毎日14時間の暗闇の中で過ごさせる実験を1か月間行ったところ、被験者たちは約4週間後に睡眠パターンが変化し、4時間の睡眠の後に1~2時間の覚醒時間を挟み、再び4時間の睡眠をとる「二相性睡眠(二度寝)」の傾向を示しました。これは、人間の体内時計が本来、二相睡眠に適応的だった可能性を示唆している。
 現代社会において、二相睡眠を活かせるのだろうか。まず、夜中の目覚めを「異常」と捉えない心の余裕を持つことが前提になる。無理に寝直そうとするのではなく、その時間を穏やかに受け入れる。具体的には、スマートフォンやテレビなどの刺激的な光を避け、温かい色味の間接照明で静かに過ごす。呼吸を整えたり、気持ちを落ち着かせる瞑想を試みたりするのもよいかもしれない。寝室に置く読み物も、刺激の少ない本を選ぶことで、自然な眠気を誘うことができる。
 もちろん、現代社会ですべての人が中世のような二相睡眠を実践することは難しい。しかし、その本質的な知恵―夜の時間を柔軟に受け入れ、心を静める機会として活用する姿勢―は、今を生きる私たちにも十分に応用可能なはずだ。24時間稼働の現代社会で失われつつある「夜の静けさ」。その価値を再発見し、心身の健康に活かしていくことは、睡眠に悩む現代人への一つの処方箋となるかもしれない。

 

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2025.05.20

消費税で1誤差が出た話

 先日、セブン-イレブンで雑誌『通販生活』を買った。以前は購読していたが、なんとなく買わなくなって久しい。まだあるんだという思いと、表紙に白黒写真で移っている、谷川俊太郎、永六輔、小室等の対談風景が懐かしかった。「あれから20年」tもあり、小室は存命だった。へーと思った。まあ、買うことにした。
 改めて表紙を見ると、「2025年初夏 5・6月号 350円」と比較的目立つように表紙の右上に書かれている。まあ、もともとカタログだしなあ、安いよねと思って、レジで支払いを済ませ、受け取ったレシートを何気なく見ると、違和感があった。本体価格318円に消費税31円が加わり、合計は349円である。表紙に書いてあった350円と1円足りないのだ。他にもグミとか買ったので支払った金額に実感がなかったが、これ、単体で現金で買うと、1円おつりが来るのかと思った。
 まあ、たかが1円のズレだが、妙に気になってしまった。これは、あれだな、消費税の問題だな。10%になって端数がなくなったかと思ったが、まあ、実売価格のほうに合わせようとすると、複雑になるだろうなあ。ちょっと調べてみた。

消費税の端数処理の曖昧さ

 このズレの原因は、消費税法の端数処理規定にある。消費税法施行令第29条によれば、消費税の計算で生じる円未満の端数は「切り捨て」「切り上げ」「四捨五入」のいずれでもよいとされている。つまり、企業が自由に処理方法を選べるのだ。セブン-イレブンの場合、レシートから「切り捨て」を採用している。本体価格318円に消費税10%をかけると31.8円となり、これを切り捨てて31円。合計349円だ。
 これが本体価格319円なら、消費税31.9円を切り捨てて31円、合計は350円ぴったりになる。表紙の350円と一致する。これで世界は安定する。プーチン大統領も30日停戦案の了承するかもしれない。まあ、そうはいかないものなのだ。つまり、すべての店舗が「切り捨て」方式を採用しているわけではないのだろう。もし「四捨五入」や「切り上げ」を採用する店舗で『通販生活』が売られた場合、本体価格319円に消費税31.9円が切り上げて32円になり、合計351円になってしまう。表紙に「350円」と書いてあるのに351円で売られるのは、『通販生活』にとって困った事態だろう。クレームは入るだろうな。人は自分に正義があると思うとどんな悪でもやってのける存在である。『通販生活』としてもそうした面で信頼感を損なうリスクは避けたいだろう。まあ、『通販生活』と限らず、出版社としてはこういう場合は、どんな店舗でも350円を超えないよう、318円に設定することで安全を確保しているのだろう。
 ついでに318円という数字を見ていて価格戦略や業界慣習も絡んでいるかもしれないなあと思った。318円は「割安感」を与えるかもしれないし、「8」という数字は『通販生活』を購入する中国人好みには違いない。どうでもいいけど、この手のギャグをたまにAIが理解するか試してみると、まだ、無理っぽいね。《「中国人好み」という表現をステレオタイプと感じる読者もいるかもしれません(ただし、悪意のない軽いジョークとして受け取られる可能性が高いです)。》とか答えたけど、これって、意図的なユーモアではないな。ハロルド・W・ルークラフトになるまでは、まだまだだ。
 さて、この消費税の曖昧さは、消費税が導入された1989年から存在する。僕が31歳のときだ。首相は竹下登だ。能の翁面を失敗したような顔だったかな。当時の国会ではたしか、企業に柔軟性を与えるべきとか統一ルールを設けなかった。3%の計算が複雑過ぎた。だから、1989年の消費税導入時には面白い現象が話題になった。3個で100とかのもので、本体価格33円とすると、商品を3つ買う場合、まとめて買うと税込101円になるが、3回に分けて買うと99円で済むとかだったかな。たまにコンビニが暇だとやって記憶があるが、具体的な事例をもう忘れてしまった。まあ、この例だと、税率3%で計算すると、まとめて買うと税額2.97円が切り捨てで2円になるが、個別に買うと0.99円が毎回0円に切り捨てられ、税金がかからなくなる。結果、2円得する、だったか。「3回に分けて買うと1円得する」ケースは話題でもあったな。当時の消費者にとっては、消費税へちょっとした抵抗だったのかもしれないが、店側には迷惑だったな。

たかが1円、されど1円

 『通販生活』で生じる1円のズレは小さな問題に思えるが、実はそうではない。日本経済の規模は大きいからね。経済産業省によると、日本の小売市場は年間約300兆円で、仮にだが、1%の取引で1円のズレが生じると、300億円もの金額になる。コンビニ業界に絞っても影響は大きい。セブン-イレブンだけで年間約5兆円の売上があるとされるが、仮に0.1%の取引で1円のズレが生じると、年間5億円もの差が出る計算だ。たかが1円、されど1円だ、この言い方、昭和臭いな。
 もちろん、消費者心理にも影響する、かな? 同じ商品が店舗や支払い方法で1円違うことがある。たとえば、現金では349円なのに、電子決済だと350円になるケースが消費者庁の調査で報告されているらしい。2024年の消費者アンケート(日本消費者協会)では、約3割が「値札とレシートの金額が違うことに不信感を抱いた」と回答しているとのことだ。値札どおりじゃないと不信感を抱く人も少なくないのかもしれない。まあ、でも、そもそも最近、1円玉見なくなったな。僕ですら、電子マネーばっかりだしね。
 とはいえ、デジタル決済でも関連の矛盾は生じる。1円のズレでポイント還元が受けられないトラブルも発生しているのだそうだ。あるキャッシュレス決済では「税込100円ごとに1ポイント還元」というキャンペーンがあったが、99円と計算された商品はポイント対象外になったという苦情が消費者センターに寄せられているとか。まあ、これこそが、「DX化」というものなんじゃないか。しらんけど。
 当然だが、企業間取引では深刻になりうる。2023年に始まったインボイス制度で、消費税額の明示が義務化されたが、端数処理の違いが問題になりうる。ある中小企業は、税額が1円ずれたことで税務署と揉めた事例もあるらしい。税務署側は「四捨五入すべき」と主張したが、企業は「切り捨て」を採用しており、結果的に過少申告とされたとか。まあ、すまん、AIのハルシネーションみたいに真偽は不明だ。税理士会が2024年に発表した報告書では、インボイス導入後に「端数処理の違いによる税額ズレ」が税務調査で指摘されるケースが増加していると指摘されている。

解決は、まあ、難しいだろう

 消費税の端数における法の曖昧さは、調べてみたら、消費者団体や税理士会からも問題視されているようだ。インボイス制度導入後はさらに税額のズレ問題が顕在化し、企業と税務署の間でトラブルが増えた。ある運送会社は「切り捨て」で税額を計算していたが、取引先が「四捨五入」を採用しており、なんかごちゃごちゃあって、税務調査で指摘され、追加納税を求められたという。消費者としては、値札とレシートのズレに納得がいかない気持ちもわかる。
 問題は問題だが、国税庁は統一的なルールを作らない方針だ。理由は、もちろん、いくらでもつけられる。企業側の負担軽減にある。もしルールを統一すれば、全国の会計システムやPOS端末の調整が必要で、膨大なコストがかかるとかね。経済産業省の試算では、POSシステムの改修だけで1店舗あたり約50万円、全国で数兆円規模の費用がかかるとされているとか。まあ、そももそも、官僚様たちって、制度を改革する気がないときでも、弁明の説明はご熱心に残業してまでして仕上げるけど、あの情熱というのはなんなんだろう。自虐?
 消費税については、海外と比較すると、当然だけど、日本の制度の曖昧さが際立つ。EUのVAT(付加価値税)では、端数処理を「四捨五入」に統一しており、ズレによる混乱は少ない。たとえば、ドイツでは税額計算のルールが国レベルで標準化され、消費者も企業も計算結果が一致する。一方、アメリカのSales Taxは州ごとにルールが異なり、たとえばカリフォルニア州では「切り上げ」、ニューヨーク州では「四捨五入」とバラバラだ。日本の「企業ごとの選択制」と似た課題を抱えているが、アメリカでは州単位での調整が進む動きもある。日本も見習うべき点があるだろうか。ないな。

 

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2025.05.19

バイデンの健康診断の怠慢は何を意味したか

 2025年5月18日、ジョー・バイデン元米大統領(82歳)が前立腺がんに罹患し、骨に転移していると公表された。グリーソン・スコア9という高リスクの進行がんである。このニュースは、単なる個人の健康問題ではない。2024年大統領選の選挙戦中、バイデンが世論の健康診断要求を事実上無視した結果、そう結果的にではあるが、真実を狡猾に隠し、米国民と世界を欺いた「詐術」ともいえる結末である。この怠慢は、選挙の歴史を歪め、民主主義の信頼を揺るがし、バイデン自身の公衆衛生メッセージを自ら否定した。これを意図的でないとすることはできる。しかし、それが許されてよいはずはない。

グリーソン・スコア9

 まず、バイデンの診断の重さを医学的に理解する必要がある。前立腺がんの悪性度は、グリーソン・スコアで評価される。これは、針生検で採取した組織のがん細胞の形態を、顕微鏡で観察し、正常組織からの逸脱度を1~5のグレードで分類する手法だ。最も多いパターン(主要パターン)と次に多いパターン(副次パターン)のグレードを合計し、スコア2~10で表す。数字が高いほど、がんは攻撃的で進行が速い。
 バイデンのグリーソン・スコア9は、例えば「4+5」や「5+4」の組み合わせで、極めて高リスクである。グレード4は、がん細胞が腺構造を失い、正常組織から大きく逸脱した状態。グレード5は、腺構造がほぼなく、細胞がバラバラに広がる最悪の形態だ。スコア9のがんは、急速に増殖し、リンパ節や骨への転移リスクが極めて高い。バイデンの場合、骨転移が確認されており、ステージIV(進行性)に分類される。
 骨転移は、がん細胞が血液やリンパを介して骨に広がり、骨組織内で増殖する状態だ。前立腺がんは「骨形成型」の転移が多く、骨が硬く厚くなるが、構造異常により骨折や高カルシウム血症のリスクが上昇する。骨痛(特に腰や骨盤)、脊髄圧迫による神経症状も起こり得る。
 バイデンの診断だが、2025年5月に「尿路症状の悪化」と「前立腺結節」がきっかけで検査が行われて、ようやく、がんが発覚した。声明では「ホルモン感受性」とあり、ホルモン療法(アンドロゲン除去療法)で管理可能とされるが、完治は難しく、治療は延命と生活の質の維持が目標である。
 医学的知見から言えるだろうことは、このがんの進行であれば、2023~2024年の選挙戦中に、標準的なスクリーニング(PSA検査、直腸診、MRI)で90%以上の確率で検出可能だった点である。PSA(前立腺特異抗原)は、血液中の前立腺がんマーカーで、スコア9のがんでは通常20ng/mL以上、場合によっては100ng/mLを超える。2023年2月のバイデンの健康診断では、PSAの詳細は公表されなかったが、仮に検査が行われていれば、ほぼ確実に異常が発見され、生検や画像検査でがんが確認されたはずだ。骨転移も、骨シンチグラフィやPETスキャンで捉えられた可能性が高い。この「発見できたはずの真実」が、バイデンの「怠慢」により隠されたのだ。

選挙戦中の健康診断無視

 2024年大統領選は、バイデンの当時の年齢(81~82歳)と健康を巡る議論の渦中にあった。世論調査(2023年Pew Research)では、70%以上の有権者が候補者の健康透明性を重視すると回答した。メディアや共和党は、バイデンの認知能力や体力を疑問視し、詳細な健康診断の公開を求めた。2023年2月の健康診断では「大統領職に適している」と報告されたが、前立腺がんの兆候は触れられず、選挙戦中の追加検査も行われなかった。これは、世論の要求を事実上無視した行為であった。
 バイデン陣営の戦略は明らかだろう。健康問題が発覚すれば、選挙で不利になると恐れ、ここから有権者の目をそらすために政策や実績に焦点を当てたかったのだろう。しかしこの選択は、進行がんの真実を隠し、候補者としての適格性を偽って提示する結果を招いた。
 グリーソン・スコア9のがんは、2023年にはすでに述べたように、当時でも進行中だった可能性がかなり高い。PSA検査を受けていれば、異常がほぼ確実に検出され、バイデンはステージIVの診断を受けたはずだ。もしそうなっていたら、この時点で、90%以上の確率で候補を降りていただろう。大統領職の過酷さを考えれば、進行がんを抱える82歳の候補者が4年間の職務を全うできると主張するのは、非現実的だからだ。
 この「隠された真実」は、選挙の公平性を歪めていた。バイデンの支持者は、彼が「健康なリーダー」と思い込み、投票した。だが、早期発見されたなら民主党内でも、カマラ・ハリス氏や他の候補への移行が加速し、選挙の展開は変わっていただろう。トランプ氏の勝利やその後の政策(経済、外交、気候変動)に、間接的だが重大な影響を与えた可能性がある。この「やらなかったことによる欺き」は、事実上、民主主義に対する裏切りと見なせる。

キャンサー・ムーンショットの皮肉

 バイデンの怠慢は、個人的な健康問題を超え、彼自身の公衆衛生メッセージを自ら否定する皮肉な結果も招くことになった。副大統領時代、息子ボー氏の脳腫瘍死をきっかけに、バイデンは「キャンサー・ムーンショット」を主導していた。がんの早期発見と治療の進展を訴え、大統領就任後には死亡率削減を公約したものだた。このリーダーシップは、国民に検診の重要性を植え付けたはずだ。それなのに、バイデン自身が検診を怠り、進行がんを見逃したということだ。この矛盾は、単なるミスですまされないだろう。公衆衛生のリーダーとして、自身の行動でメッセージを裏切った。今回の、2025年5月の診断は、検診の遅れが骨転移の進行を招いた可能性をも示している。早期発見なら、ホルモン療法で進行を抑え、症状(骨痛や骨折リスク)を軽減できたかもしれない。「なぜリーダー自らが検診を軽視したのか」と疑問は彼の名声につきまとう。

世界を欺いた責任

 バイデンの「詐術」は、米国民だけでなく、国際社会にも影響を及ぼした。大統領の健康は、グローバルなリーダーシップに直結するからだ。進行がんの治療(ホルモン療法の倦怠感、化学療法の体力低下)は、外交や危機対応の判断力を損なうリスクがある。選挙戦中にこのリスクが隠されたことで、同盟国や敵対国は、バイデンの能力を過大評価したかもしれない。2024年選挙の結果が、国際秩序(ウクライナ支援、対中政策、気候協定)にどう影響したかは、歴史が評価するだろうというか、私たちは奇妙な悲喜劇を毎日鑑賞させられている。
 もちろん、バイデンを擁護する声はそれでもあるだろう。「意図的に隠したわけではない」「プライバシーの権利がある」と主張するかもしれない。しかし、米国大統領としての健康維持の義務は、意図やプライバシーを超える。大統領候補は、国民の知る権利と国家の安定に責任を持つ。バイデンが検査を怠った結果、真実が隠され、選挙の選択を誤らせた。これは、積極的な嘘ではないが、狡猾で深刻な「詐術」だ。たしかに、これは従来のスキャンダル(不正や不倫)とは異なる。「やらなかったこと」による「欺き」は、意図の不在を言い訳にできる。だから、問題なのだ。



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2025.05.18

肥満治療薬の最前線、ウェゴビーとマウンジャロ

 少し前の話題になるが、2025年1月13日のBBC報道で、肥満治療薬「ウェゴビー(Wegovy)」を使った62歳の男性が、英国のNHS(国民保健サービス)で治療を受け、5か月で14kgの減量に成功した事例が紹介された。孫を抱きながら「自分は幸運だ」と語る彼の話は、肥満治療薬の可能性を示す一方、供給不足や医療格差という課題を浮き彫りにしていた。2025年5月時点で見直すと、ウェゴビーや新星「マウンジャロ(Mounjaro)」を巡る議論はさらに加速しているようだ。それに日本でも肥満治療薬の展開が進んでいるらしい。

ウェゴビーとマウンジャロ

 ウェゴビー(セマグルチド)は、GLP-1受容体作動薬として肥満治療に革命をもたらした。GLP-1受容体作動薬というは、腸ホルモンであるGLP-1の働きを模倣し、2型糖尿病や肥満治療に使う薬であり、インスリン分泌を促し、血糖を下げ、食欲を抑えるとされている。マウンジャロ(チルゼパチド)のほうは、GIPとGLP-1の両受容体を刺激する新世代の薬である。2025年5月12日、両者の初の直接比較試験(New England Journal of Medicine)が発表され、72週間でマウンジャロは平均20%の体重減少させた。ウェゴビーは14%と比較すると、マウンジャロの優位性が明確になったといえる。血圧、血糖、コレステロールもマウンジャロ群でより改善するが、副作用(吐き気や胃腸障害)は同等だった。
 さらに、5月12日のランセットのeClinicalMedicine誌によると、両薬が肥満関連がん(乳がん、大腸がんなど)のリスクを41%低減する可能性も報告された。体重減少だけでなく、がん予防や心疾患リスク低減といった付加価値が、治療薬の意義を広げているようだ。ただし、5月15日の欧州肥満学会では、薬を中止すると1年以内に体重が元に戻る「リバウンドリスク」が指摘されており、薬物療法には生活習慣の改善が不可欠だと強調された。まあ、そんなにうまい話はない。

NHSを通してアクセスの拡大

 英国では、NHS(英国健康保険サービス)を通じてウェゴビーやマウンジャロが提供されることになるが、対象者は厳格に選定されるという。南東ロンドンだけで適格者が13万人以上いるが、予算と供給不足で治療を受けられるのはごくわずか(推定3000人程度)らしい。なにしろウェゴビーの年間費用はNHS割引後で約3000ポンド(約50万円)とされる。それでも民間クリニックでは月129-300ポンド(約2.2-5万円)と高額である。NHSとしても普及させたいのかもしれないが、全員に提供すればNHSの予算は破綻するとも言われており、治療は通常2年間に制限されている。
 そんななか、2025年5月2日、NHSは新たな一手を発表した。薬局での処方スキームを試験的に導入し、処方価格(約9.90ポンド)でウェゴビーやマウンジャロを提供する計画である。これにより、民間での高額負担が多少軽減され、低所得層のアクセス向上が期待される。現在、英国のGLP-1薬利用者の過半数(50万人以上)は私費で購入しており、SNSでは当然だが、困ったことに「痩せる注射」として話題になってしまった。セレブの利用も悪しき宣伝効果となり、裕福な層が恩恵を受ける構図が続いている。

世界と日本での動向

 英国以外ではどうか。世界保健機関(WHO)は5月2日、GLP-1薬の肥満治療への使用を初めて支持。2025年8-9月に推奨ガイドラインを最終化する予定だが、低・中所得国での高コスト(年1500-2万ドル)が課題と指摘している。安価な新薬の登場が、アクセスの公平性を左右するだろうが、難しい。
 日本では、肥満率(成人約25-30%)が英国(約28%)より低いし、そもそも基準が異なっているが、糖尿病や高血圧の増加に伴い、肥満治療薬への関心は高まっている。ウェゴビーは日本でも2022年に肥満治療で承認済みだが、保険適用はBMI≥35かつ併存疾患などの基準に限られる。最近の話題では、5月13日、イーライリリーがマウンジャロを2型糖尿病治療薬として日本で販売中だが、肥満治療への適応拡大が検討されている。自費治療の費用は月数万円と高額で、英国同様、経済的格差がアクセスを制限する課題がある。
 今後の見込みとして、マウンジャロの肥満適応承認や経口薬での導入があれば、肥満治療の選択肢を広げる可能性がある。日本の「健康経営」や「特定保健指導」といった予防プログラムと組み合わせれば、薬物療法の効果を最大化できるだろう。英国の薬局スキームのような取り組みは、日本でも地域薬局やオンライン診療での処方拡大の参考になるかもしれない。保険適用の基準緩和やジェネリック薬の開発も、アクセスの公平性を高める鍵だが、かなり先のことにはなるだろう。



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2025.05.17

米国の子どもたちの学力低下

 2024年の米国学力テスト(National Assessment of Educational Progress: 全米教育進捗評価)の結果によると、米国の子どもたちの読解力は引き続き低下し、数学の成績もほとんど改善が見られないという。特に8年生(日本の中学2年に相当)の3分の1が「基礎レベル未満」となり、過去最悪の結果を記録した。低学力層の生徒はさらに遅れをとり、学力格差が拡大している。この問題は、米国社会において単なる教育の課題ではなく、社会全体に深刻な影響を及ぼしつつある。読解力と数学力の低下が固定化されれば、長期的には貧困の拡大や雇用の不安定化を招き、社会全体の発展を阻害する。

全体学力は低迷つつ格差は広がる

 際立っているのは、読解力の低下が示す深刻な実態である。2024年の全国学力テストでは、4年生と8年生の読解力がともに2ポイント低下した。2019年と比較すると、8年生のスコアは8ポイント、4年生は5ポイントの減少を記録している。特に問題視されているのは、低学力層のさらなる後退である。例えば、8年生の低学力層の生徒の多くは、短い物語を読んでも登場人物の動機を推測することができず、「industrious(勤勉な)」という単語の意味さえ理解できない。基礎的な読解力の欠如が見られる。加えて、2022年の調査では、若年層の「読書離れ」が顕著になっていることが明らかになった。趣味として読書をする生徒の割合が減少することで、語彙力や文章理解力が低下する。デジタルコンテンツの普及により、長文を読む機会が減少していることも一因と考えられる。
 数学成績の停滞と低迷も著しい。4年生の算数の成績はわずかに改善したものの、依然として2019年の水準を下回っている。8年生の成績は停滞しており、特に低学力層の生徒のスコアが大きく低下した。2024年のデータでは、上位10%の生徒はスコアが3ポイント改善したが、下位10%の生徒は6ポイント低下している。数学教育の全体が低迷するなかで、格差はそれなりに拡大している。
 数学能力の低下は職業選択にも影響を及ぼす。近年、STEM(科学・技術・工学・数学)分野のスキルが求められる職業が増加しているが、数学的思考力が不十分なまま成長した場合、高度なデータ分析やプログラミングを必要とする職種への道が閉ざされる。
 数学のみならず、学力格差は拡大し、学力の「二極化」が進んでいる。高学力層の生徒は多少回復傾向にあるが、低学力層の生徒はさらに遅れをとり続けている。学力格差は、社会経済的背景とも密接に関連している。低所得層の生徒ほど、学習支援を受ける機会が限られており、学力の向上が難しい。裕福な家庭では家庭教師やオンライン学習プログラムを利用できるが、低所得家庭ではそのような教育投資が難しいのが現状である。都市部と郊外・地方の教育環境の格差も無視できない。大都市の一部(例:ニューヨーク、ロサンゼルス)では、連邦政府の支援を受けた学習支援プログラムが功を奏し、成績が回復傾向にある。しかし、地方や郊外の学校では支援が行き届かず、学力低下が加速している。

学力回復は可能か

 成功例もないわけではない。ルイジアナ州では、州政府主導の読解力向上プログラムが成功を収めた。特に低学力層の生徒にも成果が見られ、2019年の水準を上回る成績を記録した。政府は教育改革の一環として、低学年からの読解力強化に取り組み、教師の研修を強化した。また、調査結果を分析すると、学習支援が成功した学区ではいくつか施策が実施されていた。集中的な個別指導プログラムの導入(例:1対1の指導時間の確保)、読解力を高めるためのカリキュラム改革(例:語彙力を重視する教材の採用)、補習授業や放課後プログラムの充実などである。
 理想論で言えば、連邦政府と地方自治体が協力し、全国的な学習回復プログラムを拡大することが求められるのだろう。共和党は「学校の伝統的価値観」を重視し、規律強化を主張し、民主党は「教育支援の拡充」を求め、低所得層向けのプログラムを提案している。しかし、教育の問題は一見イデオロギー問題に帰せやすいが、幻影だろう。基礎的な学力の向上に奇手はないうえ、米国という連邦国家はそれ自体にこうした教育の統制は取りにくい。成功例はおそらく幻影であり、あったとしても規模は小さい。全体として見れば、米国の教育水準の低下という事態はさらに深刻化するだろう。

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2025.05.16

始祖鳥の新発見と鳥類進化

 第二期トランプ政権になってから、FOXニュースを見るくせがついてしまって、これもなんだかなあと思っていたが、2025年5月14日付けでちょっと面白い話があった。バイデンの耄碌話や民主党の醜態とかではなくても面白い話はあるのだ。シカゴのフィールド博物館による始祖鳥(Archaeopteryx)の化石に関する「画期的な」研究である。1億5000万年前のジュラ紀の化石についてだ。それは、14体ある始祖鳥化石の中でも保存状態が極めて良く、最新のUV光とCTスキャン技術で驚くべき特徴が明らかになったというのだ。注目されるのは、飛行に特化した「ターシャル羽毛」である。この羽毛は上腕骨に沿って配置され、揚力を生む非対称な構造を持つ。また、頭蓋骨は現代の鳥ほど可動性はないが、くちばしが独立して動く初期の適応を示し、脊椎は従来推定の23個より1つ多い24個であることが判明した。これらの発見は、始祖鳥が短距離のバースト飛行や木登りなど、地上生活を組み合わせた複雑な生態を持っていたことを裏付けている。このニュースは、始祖鳥が恐竜から鳥類への進化の「ミッシング・リンク」として長年注目されてきた歴史を再び呼び起こすのだが、最新の科学的知見は、始祖鳥をめぐる物語に大きな修正を迫っていたな。この機会にまとめておきたい。そういえば、類似の話題で前回書いたのは、もう14年前になる(https://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/04/post-5ab1.html)。

「始祖鳥」はその名前と異なり鳥の「始祖」ではない
 始祖鳥は1861年にドイツで発見されて以来、進化論の輝く象徴だったのだろう。僕みたいな科学少年は熱心に学んだものだ。その名「Archaeopteryx」(古代の翼)は、爬虫類の歯、長い尾、爪と、鳥類の羽毛、翼を併せ持つ姿を象徴し、恐竜と鳥の橋渡しとして当時の教科書や博物館で「最初の鳥」と讃えられたものだ。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』(1859年)の発表直後に見つかったこの化石は、進化論を視覚的に裏付ける「可視的なナラティブ」として、科学的・文化的アイコンとなっていた。映画『ジュラシック・パーク』シリーズで羽毛恐竜が登場する背景にも、始祖鳥のイメージが影響を与えている。古い話になったね。
 だが、1990年代以降の化石発見がこの物語を覆した。ミクロラプトル、アンキオルニスといった羽毛恐竜や、孔子鳥などの初期鳥類の化石が続々と見つかり、始祖鳥は現代の鳥(新鳥類)の直接の祖先ではなく、近縁な側枝(進化的いとこ)に位置づけられるようになった。始祖鳥は、獣脚類恐竜のマニラプトル類内のアヴィアラエ類に属するが、その系統は現代の鳥に直結せず、絶滅した可能性が高いのである。今回のニュースは、ターシャル羽毛が飛行のための揚力を生み、頭蓋骨や脊椎が鳥類的進化の初期段階を示すことを明らかにしたが、始祖鳥はすでに「始祖」ではなく「進化の試行錯誤の一例」であることを裏付けてもいる。かつての「恐竜から始祖鳥、始祖鳥から鳥」という単純な物語は、複雑な進化のネットワークに取って代わられている。

DNA探索は単一の起源を裏付ける
 現存鳥類の起源の解明は、分子系統学に随分と傾いた。2014年の鳥類ゲノムプロジェクトは、48種の鳥の全ゲノムを解析し、すべての現代の鳥(ハチドリからダチョウまで)が単一の祖先から進化した単系統(monophyletic)であることを証明した。飛べない走鳥類(古顎類:ダチョウ、エミュー)と飛ぶ鳥(新顎類:ハト、ハヤブサ)は、遺伝子レベルで共通のマーカーを持ち、約1億年前(白亜紀後期)に分岐した姉妹群となった。たとえば、ゲノム中の特定のイントロン配列やミトコンドリアDNAの類似性は、両者が単一の起源を共有することを示している。
 かつては、走鳥類の大きな体や飛行能力の喪失から、飛ぶ鳥と別起源とする「多系統起源説」が議論されたこともあるが、2000年代以降のDNA解析により、走鳥類の特徴は飛行能力の二次的退化にすぎないと判明した。分子時計解析では、新鳥類の主要な分岐(古顎類と新顎類)が約1億〜8000万年前に始まり、6600万年前の大量絶滅(K-Pg境界)を生き延びたグループが現代の約1万種を生み出したと推定される。2025年の始祖鳥研究はDNAを直接扱わないが、ターシャル羽毛や頭蓋骨の鳥類的特徴は、単一の祖先が飛行能力や骨格を進化させた過程を間接的に映し出すというものだ。化石と分子データの融合は、鳥類進化が単一の起源に根ざすことを強固に裏付けている。

では鳥類の始祖は何なの?
 では、現存鳥類の祖先は何なのか? それは、白亜紀(約1億3000万〜6600万年前)に生息した小型の羽毛恐竜で、マニラプトル類内のアヴィアラエ類に属する「真鳥類」である。代表的な例として、孔子鳥(Confuciusornis、約1億2500万年前、中国)やイクチオルニス(Ichthyornis、約9000万〜8000万年前)がいる。孔子鳥は、歯が減少し、現代の鳥に近い短い尾やくちばしの初期形態を持ち、飛行用の非対称羽毛を備える。イクチオルニスは、現代の海鳥に似た頭蓋骨と強力な飛行能力を持ち、新鳥類の直前のグループに近づく。しかし、これらは、「ずばりご祖先」というわけではなく、近縁種である可能性が高いというだけだ。厳密な共通祖先は化石として未発見の「仮想的な種」にとどまっている。
 この祖先は、始祖鳥の特徴を進化させた姿を持つ。たとえば、2025年のニュースで明らかになった始祖鳥のターシャル羽毛は揚力を生み、頭蓋骨の非可動性は現代の鳥への移行段階を示しているが、「始祖」に近い孔子鳥やイクチオルニスも同様の特徴をさらに洗練させ、現代の鳥に直結する系統を生み出していた。
 つまり、問題はこの祖先が「理念型」(概念モデル)としてしか存在しない点なのだ。始祖鳥は、化石として可視化でき、UV光やCTスキャンで羽毛や骨格が鮮明に観察されるため、進化の物語の「スター」だった。対して、真の祖先は化石の欠如と進化のネットワーク的複雑さから、抽象的な推測に頼る。理念型は、孔子鳥やイクチオルニスのパズルのピースを組み合わせて想像する影絵のような存在だ。
 かつての始祖鳥のナラティブは、19世紀の単純な「恐竜→鳥」の物語を支えた。博物館の展示や映画で、始祖鳥は「鳥の起源」を体現する英雄だった。しかし、現代のナラティブは異なる。進化は直線的でなく、始祖鳥、ミクロラプトル、アンキオルニスなど多くの側枝を含む試行錯誤の過程であり。始祖は、このネットワークの「結節点」として理念的に定義されるだけだ。理念型は科学的には正確だが、始祖鳥のような可視的・物語的魅力に欠ける。2025年の研究は、始祖鳥が理念型の特徴(飛行羽、骨格)を映す代理モデルとして重要であることを示すだけで、始祖はもう見えないだろう。

 

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2025.05.15

私たちは「デジタルゴースト」になれるか?

 ふとSNSのタイムラインを眺めていたら、数年前に亡くなった人の誕生日の話題があった。なんだろうかとそのページを開く。さすがに、「お誕生日おめでとう」と書き込む人々のコメントが並ぶということはなかったが、生前の投稿もそのまま残っていた。その人が好きだった映画の話題や、日常の何気ないつぶやきがスクロールするうちに蘇り、まるでそこにいるかのような錯覚を覚え、リプライしたい気持ちにもなった。しかし、現実にはもうこの世にはいない。デジタル空間に取り残されたその人の痕跡は、そもそも、現代の世界において、故人の存在とは何なのかという問いを投げかける。
 SNSは、私たちの言葉や画像、動画を無限に記録し続ける。亡くなった人のアカウントがそのまま残るケースもあれば、フェイスブックのように「追悼アカウント」として管理する仕組みを提供するサービスもある。だが、これには賛否が分かれる。「死後のデータをどのように扱うべきか?」という問題に、私たちはまだ明確な答えを持っていない。また、AIの発展により、故人の人格をデジタル上に再現する試みも進んでいる。チャットボットが生前の会話や文章を学習し、遺族と「対話」できる技術も登場している。これは、故人の記憶を保持する画期的な手段なのか、それとも死を受け入れる妨げになるのか。デジタル時代における死とは、単に肉体が朽ちることではなく、データとしてどこまでも残ることをも意味するようになった。私たちは、この新しい「デジタル墓標」とどのように向き合うべきなのだろう。

デジタル不死

 「もし、あなたが死んだ後も、AIがあなたの思考や話し方を再現し、会話できるとしたら?」そんな未来は、すでに現実になりつつある。近年、AI技術の発展により、生前の発言や行動データを学習し、その人らしい受け答えをするプログラムが開発されているともいう。亡くなった家族のLINEのやりとりやメールをもとに、遺族と仮想的に会話できるAIもできるだろう。生前の動画や音声データを組み合わせれば、さらにリアルな再現が可能になる。
 例えば、2024年にスタンフォード大学とGoogle DeepMindの研究チームは、2時間のインタビューだけで個人の価値観や好みを高精度に再現するAIモデルを開発した。このモデルは、1000人の参加者のインタビューをもとに、性格テストや社会的調査で本人とほぼ同等の結果を出す「仮想人格」を生成する。こうした技術は、遺族が故人と「対話」するだけでなく、ビジネスや教育での個別化された仮想アシスタント作成にも応用可能だ。また、韓国では2021年に注目された故人のVR再現技術が進化し、2024年にはよりリアルな表情や声の再現を可能にするAI駆動の「デジタルメモリアル」が商業化されている。これにより、遺族はVR空間で故人と「再会」し、過去の思い出を追体験できるサービスが広がっている。AI技術の進歩により、私たちは死後も生前と同じように対話できる可能性を手に入れつつある。これは、遺族にとって慰めとなる一方で、新たな倫理的課題を生む。この「デジタル不死」は、なんなのだろう。哲学は答えてくれているだろうか。AIがいくら言葉遣いや思考パターンを再現しても、それは本人と同じ存在だと言えるのだろうか。意識の連続性とは何か。AIが「なりきっている」だけなのか、それともある種の「魂の保存」なのか。『攻殻機動隊』みたいな話になってきたな。というように、こうした疑問は、かつてSFのテーマだったが、今や現実のものになろうとしている。技術の進歩が、私たちの死生観を根本から変えてしまう。
 AIによる人格再現が進む一方で、これが生むのは単なる「デジタル不死」ではないかもしれない。それは、かつての幽霊や霊魂の概念が、デジタル技術によって別の形で実現する可能性も示唆している。例えば、死後もSNSのアカウントが動き続けるケースや、AIが故人の人格をシミュレーションすることで、仮想的に「話し続ける」存在が生まれる現象は、まるでデジタルゴーストのようだ。『ファウンデーション』のハリ・セルダンは身近になってきた。
 そういえば、マイクロソフトが過去に取得した故人再現AIの特許は、2024年時点で具体的な製品には至っていないが、類似技術はエンターテインメント分野で進化している。例えば、Metaの「Codec Avatars」技術は、2025年にオープンソース化が進み、VR空間でのリアルなアバター対話を可能にしている。これにより、故人の映像や声を基にしたアバターが、遺族や友人とVRで交流する実験が行われている。また、医療分野では、AIとVRを組み合わせた「仮想患者」トレーニングが普及し、故人のデータを使ったシミュレーションで医師が診断技術を磨く事例も報告されている。

倫理の変容

 こうした試みは、倫理的な問題もはらんでいる。古典的な幽霊は記憶の中にのみ存在していたが、今ではAIによって対話可能な存在になりうる。もし、死者がこのような形で社会に残り続けるなら、私たちは死後の存在に対してどのような倫理観を持つべきなのだろう。この「デジタルゴースト」が増え続ける未来は、社会全体の死生観にも影響を及ぼす。私自身、67歳で、数年後、孫を見ることができたらいいなと思うが、孫と語り合うまでの幸運はないだろう。自分の子供たちは私に関心はもたなかったが、孫は、祖父(私)はどんな人だろうと思うかもしれない。その孫に、私の応答ボットを作っておきたい気持ちはある。
 デジタル人格再現の倫理的課題はさらに注目されるようになってきた。例えば、スタンフォードの研究では、AIが個人のデータを学習する際のプライバシー保護が課題として浮上している。参加者のデータが不適切に使用されるリスクを防ぐため、厳格な同意プロトコルが必要とされているのだ。また、VRやAIを用いた故人再現サービスでは、遺族が「再現された故人」に過度に依存し、グリーフケアが妨げられるケースが報告されており、心理学者によるガイドライン策定が求められている。さらに、法的には、故人のデジタルデータの所有権や利用権を巡る議論が各国で進む。例えば、EUではGDPRの枠組みを拡張し、死後のデータ管理に関する規制案が検討されている。この延長にはいろいろ面倒な連想が生じる。法律においては、故人のデジタルデータの権利や管理を巡る新たな議論が生まれる可能性もある。また、今、想像で孫に向けた私のAIボットを想像したが、それ自体、死後というものの世界観の変容ではあるだろう。AIによる人格再現が魂の概念に影響を与えるかもしれない。「亡くなっても会える」「死んでも消えない」という新たな価値観を生み出す。よくわからないなあ。そもそも、私のは量産型モブボットのパラメータをちょいと変更するくらいのものかもしれないし。
 2025年のVRトレンドを見ると、AIとVRの融合はさらに加速し、メタバースや教育、医療での応用が拡大している。例えば、HQSoftwareが開発したVR医療トレーニングでは、AIが故人のデータを使って仮想患者を生成し、リアルな診断練習を可能にしている。こうした技術が進めば、故人の「デジタルゴースト」が社会に溶け込み、例えば仮想空間での家族イベントに参加する未来も想像できる。しかし、これが死生観や人間関係に与える影響は未知数だ。私たちは、技術の恩恵とリスクを天秤にかけながら、デジタル不死の時代をどう生きるべきなんだろうか。



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2025.05.14

ウクライナ戦争の修辞学

 2025年5月11日、米国の外交・安全保障専門誌『ナショナル・インタレスト』に掲載されたデビッド・キリチェンコの記事「A MAGA-Friendly Ukraine Strategy: What Comes Next?」(https://nationalinterest.org/feature/a-maga-friendly-ukraine-strategy-what-comes-next)は、ウクライナがトランプ政権下でアメリカの支援を確保するための戦略転換を求める提言であった。この記事は、ウクライナの指導者、特にヴォロディミル・ゼレンスキー大統領とその政府に対し、トランプの取引型外交やMAGA(Make America Great Again)支持層の価値観に適応した外交・コミュニケーション戦略を採用するよう訴えている。このため、表面上はウクライナへの具体的アドバイスに見える。だが、ウクライナ側戦争を取り巻く現状を直視するなら、専門知識がなくとも、この提言の実行可能性には疑問符がつく。であれば、この提言はむしろ修辞的意図が潜むと解釈すべきだろう。

ウクライナへの戦略転換の提言

 キリチェンコの記事は、2025年のトランプ政権再登場を前提に、ウクライナがバイデン政権時代のアプローチから脱却する必要性を強調している。バイデン政権下では、ゼレンスキーはロシアの侵略に対する道徳的訴えを駆使し、リベラル派や伝統的メディアを通じて西側の支持を獲得してきた。しかし、トランプは取引型リーダーであり、個人的遺産やアメリカの国益を優先する。この点から記事は、ゼレンスキーがトランプに「戦争を終わらせた大統領」としての歴史的評価やノーベル平和賞の機会を提示し、ウクライナ支援をロシアの弱体化やアメリカの威信向上と結びつける戦略を提案する。さらに、保守派メディア(ポッドキャスト、インフルエンサー、タウンホール)の活用を求め、ジョー・ローガンへの出演拒否(このためウクライナがアメリカの保守派メディアやインフルエンサーを通じて直接的に支持を獲得する機会を逸した)や情報戦の不足を批判している。2024年のクルスク州侵攻を例に、ウクライナの戦場での成功を強調し、トランプの「勝者」志向に訴える可能性を示すことも可能かもしれない。これらの提言は、ウクライナがアメリカの政治的分断や保守派の孤立主義に直面する中で、支援を確保するための現実的対応を模索するものである。
 この記事の背景には、トランプとウクライナの複雑な関係がある。2019年の弾劾騒動では、トランプがゼレンスキーにハンター・バイデン調査を求めたとされる電話が問題となり、両者の不信感が深まった。MAGA支持層はウクライナ支援を「民主党のプロジェクト」と見なし、タッカー・カールソンを含め、保守派メディアの影響力増大が孤立主義を助長している。キリチェンコは、こうしたアメリカの政治的現実を詳細に分析し、ウクライナが現状を放置すれば、米国保守派の支援を失うことになるリスクを警告する。提言では、ゼレンスキー政権が保守派の価値観(強さ、主権、専制への抵抗)に訴え、トランプの取引型思考を活用することで、戦争継続の基盤を維持できると主張している。この論調は、ウクライナ指導部に戦略的柔軟性を求める切実な呼びかけとして読むことはできる。

提言の現実性と限界

 しかし、ゼレンスキー政権がこの提言をそのまま受け入れる可能性は低いと見るのが合理的だろう。まず、トランプとの過去の確執は深刻な状態だ。弾劾騒動でトランプがゼレンスキーを「許していない」(ジョン・ボルトン証言)とされる中、ゼレンスキーがトランプのレガシー志向に迎合することは、心理的・政治的に困難だろう。ウクライナ国内では、戦争中のゼレンスキーは国民の団結と対ロシア強硬姿勢を維持するリーダー像を求められており、トランプとの取引型アプローチは「妥協」と受け取られ、支持を失うリスクがある。この帰結の笑劇は世界中に晒された。さらに、ゼレンスキーのリーダーシップは道徳的訴えや欧州的価値観による共感に依存しており、MAGAのナショナリズムや保守派メディアに積極関与することは、ウクライナの正義の戦いを損なうと見なされかねない。リソース面でも、戦争中の政府が保守派メディア向けのキャンペーンに割く余裕は限られている。
 この提言の実現可能性には、トランプ政権の予測不可能性も障害となる。トランプがウクライナ支援を削減し、ロシアとの取引を優先する場合、ゼレンスキーがどれだけ戦略を調整しても成果を上げにくいだろう。記事は、ウクライナの戦場での成功(クルスク州侵攻)やロシアの弱体化(北朝鮮兵士の動員)を強調するが、トランプの外交は地政学的論理よりも個人的動機に左右されがちである。元英国防相ベン・ウォレスの言及が示すように、トランプは「取引の華々しさ」に興味を持ち、ウクライナの長期未来を軽視する可能性がある。このような環境下で、ゼレンスキーがこの提言を実行するのは、戦略的にも政治的にもかなり高いハードルである。キリチェンコ本人がこうした限界を認識しているかは不明だが、提言の具体的実行よりも、ウクライナに危機感を植え付ける意図が強いと推測できる。

修辞的意図の深層

 仮に、ゼレンスキー政権が提言を受け入れる可能性がほぼないとすれば、この記事の真の意図は修辞的であると考えられる。表面上はウクライナ指導部へのアドバイスだが、実際には複数のステークホルダーに訴える戦略的レトリックとして機能させる意図である。まず、ウクライナに対する間接的圧力がある。記事は、アメリカの政治的現実(トランプの取引型思考、MAGAの孤立主義)を詳細に分析し、支援喪失のリスクを強調することで、ゼレンスキーに従来のリベラル派依存からの脱却を迫る。たとえ提言がそのまま実行されなくても、ウクライナ指導部に危機感を植え付け、戦略的再考を促す警告としての役割を果たす。
 次に、記事はアメリカの政策立案者や世論に間接的に訴えている。キリチェンコがヘンリー・ジャクソン・ソサエティの研究員であり、西側メディアで執筆する背景から、記事は共和党や保守派、シンクタンク、知識人層に影響を与える意図を持つ。ウクライナ支援を「ロシアの弱体化」や「アメリカの威信向上」と結びつける記述は、MAGAの価値観に響くレトリックであり、保守派にウクライナ支援の国益性を再認識させる狙いがある。トランプのレガシー志向を強調することは、共和党議員や有権者に「ウクライナ支援がトランプの利益になる」と訴える修辞的戦略とも言える。この間接的働きかけは、ウクライナがアメリカの支援を確保する環境を整える副次効果を意図している。
 さらに、記事は西側の安全保障コミュニティでの議論を刺激する。ウクライナの戦略転換を通じて、トランプ政権下での西側外交や対ロシア戦略の課題を浮き彫りにする枠組みを提供する。ロシアの弱体化が西側の戦略的利益になると述べる部分は、EUやNATOの政策立案者にウクライナ支援の地政学的意義を再確認させる。キリチェンコの分析的トーンや専門家の引用(トレストン・ウィート、タラス・クジオなど)は、学術的・政策コミュニティに議論を投げかけ、トランプ政権下の地政学的ダイナミクスを考察する起点となる。この点で、提言はウクライナの具体的な行動変容よりも、広範な知識人層に安全保障議論を喚起するレトリックとして機能する。

知識人への問いかけ

 キリチェンコの記事は、ウクライナ指導部への提言という形式を取りつつ、修辞的意図を通じて複数の層に訴える。ゼレンスキー政権にはアメリカの政治的現実への適応を迫り、アメリカの保守派にはウクライナ支援の国益性を訴え、西側の知識人にはトランプ政権下の戦略的課題を投げかける。しかし、そもそもの提言の実行可能性が低い以上、記事の真価は議論の起点に置き去りにされている。知識人として、トランプ政権の予測不可能性がウクライナや西側全体に与える影響をどう評価するのか。ウクライナ支援は、道徳的義務を超えて、どの程度地政学的利益に結びつくのか。キリチェンコの修辞学は、こうした問いに答える責任を我々に委ねるといえば体がいいが、実際には、修辞学らしく実体に乏しい。さて、ウクライナの未来は、ゼレンスキーの戦略転換だけでなく、西側の団結と知恵にかかっていると、ここでいうのはこの修辞学に即しているだろう。



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2025.05.13

英語力強化を求める英国移民政策

 2025年5月12日、英国政府が発表した移民政策の厳格化は、記録的な移民流入への対応として、英国内にとどまらず国際的な注目を集めている。英語力要件の大幅な引き上げや永住権取得期間の延長など、抜本的改革は国内の不満を抑える狙いだが、経済への打撃や他国への影響も議論となる。日本人にとっては、英国での就労や留学のハードルが上がり、英語力強化の要求が高まる。日本の英語教育体制はこれにどこまで対応できるのかも懸念の一つだ。

英国移民政策の厳格化

 英国政府は2025年5月12日、キア・スターマー首相率いる労働党政権の下、「移民白書(Immigration White Paper: Restoring Control Over the Immigration System)」を発表し、移民制度の全面見直しを表明した。この政策は、2023年6月までの純移民数90.6万人(英国家統計局、2024年11月)という記録的流入に対応するもので、住宅危機、NHS(国民保健サービス)の逼迫、物価高への国民的不満を背景にしている。ブレグジット後のポイントベース移民制度(2020年導入)以降、留学生(特にインド、ナイジェリア)、香港BNOビザ、ウクライナ難民、介護職労働者が急増し、2025年5月の地方選挙で反移民の右派ポピュリスト政党リフォームUKが躍進したことが、政府に危機感を与えた。スターマー首相は記者会見で「国境管理を回復し、英国人労働者を優先する」と強調している。
 今回の新政策の柱は英語力要件の強化である。英語力で敷居を高くする。すべての主要ビザ(就労、家族、留学)で、申請者にCEFR B2レベル(IELTS 5.5〜6.5相当)の英語力を要求し、扶養家族にも段階的な証明を課す。CEFR B2レベルについては後述するが、日本の英語教育では対応できない。
 今回の措置で、初回申請時はCEFR A1(IELTS 2.0〜3.0)、ビザ延長時はA2(IELTS 3.5〜4.0)、永住権申請時はB2を求める。試験は内務省承認のSecure English Language Test(IELTS for UKVI、Pearson PTE、Trinity College London)で実施され、英語力の「経時的向上」を評価する仕組みを導入する。永住権(Indefinite Leave to Remain)の取得期間は5年から10年に延長され、経済的貢献度の高い申請者に限りポイントベースで早期取得が可能となる。他方、就労ビザでは、技能労働者ビザの基準をRQF6(学士号レベル)に引き上げ、介護職ビザを新規申請者に対して閉鎖する。国内訓練を条件とする「一時的不足リスト」を設け、低スキル労働者の流入を抑制する。留学生向けには、卒業後滞在ビザ(Graduate Route)の期間を2年から1.5年に短縮し、扶養家族の帯同を大学院研究コースや政府奨学金受給者に限定する。不法滞在者の強制送還も強化され、2024年7月以降2.4万人が送還済みで、第三国(西バルカン)に「リターンハブ」を設置する(Sky News, 2025年5月12日)。これらの措置は、2025年末の議会承認を経て段階的に施行される予定である。

英国での反響:賛否の分断と経済リスク

 英国国内では、今回の政策への反応が賛否両論に分かれている。賛成派は「英国人優先」と「統合促進」を支持する。YouGov世論調査(2024年)では、国民の60%が「移民過多」と感じ、55%が英語力強化を評価している。Xの投稿では「国境管理の回復」と歓迎する声が目立つ。英語力要件は、移民の地域社会への自立や搾取防止に寄与すると期待されていることが伺える。保守層や地方有権者は、物価高や公共サービス圧迫の原因を移民に帰する傾向が強い。
 反対派は経済的リスクを強く懸念している。介護業界は外国人労働者(インド、フィリピン、ナイジェリア出身者が20〜30%)に依存し、ビザ閉鎖は壊滅的だ。外国人労働者関連では、スタッフ不足でサービスの崩壊が起きると警告の声が上がっている。2024年の社会福祉セクターの欠員数は13.1万人で、国内訓練だけでは埋まらないからだ。大学については、留学生学費(年間400億ポンド)の減少を恐れている。留学生の滞在期間短縮と扶養家族制限は、英国留学の魅力を下げ、国際競争力の低下を招くことにつながる。リベラル系のガーディアンは「短期的には不満を抑えるが、経済的自滅」と批判的論調である。実際、低スキル労働者の排除は、飲食、農業、建設でコスト増や供給不足を引き起こすだろう。内務省は5千万ポンドを投じたCare Certificate訓練を推進するが、効果は2026年以降と見られる。Xでも、NHS(国民医療サービス)が崩壊するのではとの懸念が散見される。

国際的な波及効果:英語力競争の加速

 英国の政策は、英国内にとどまらず、グローバルな移民制度に影響を及ぼすと見られる。オーストラリアとカナダも、ポイントベース移民制度で既にIELTS 6.0〜7.0(CEFR B2〜C1)を要求している。英国のB2基準はこれに追随したものともいえる。オーストラリア移民局(2024年)によると、英語力スコアが高い申請者は永住権ポイントが最大20点加算され、技術職や医療職で優先されている。カナダもExpress Entry制度で、IELTS 6.0以上が事実上の最低基準となる。英国の新基準は、この「英語力競争」をさらに加速させることになる。事実上のスタンダードとなる可能性が高い。
 当然だが、EU諸国でも類似の動きがある。ドイツは労働力不足に対応し、2024年から英語力証明(CEFR B2)をITや医療職ビザに導入した。オランダでは留学生ビザでIELTS 6.0を要求する大学が増加している。余談だが、私の息子はロッテルダム大学に留学したのだが、英語の対応は厳しそうだった。
 こうした動向から、非英語圏の移民は不利となり、インドやアフリカの一部の英語圏や英語教育が進むアジア諸国が優位に立つことになる。アジアでは、シンガポールが就労ビザでIELTS 6.5を標準化し、香港もBNOビザ以降、英語力基準を強化している。日本の近隣では、韓国のグローバル人材ビザが2024年にCEFR B2を導入し、企業採用で英語力の高いインド人やベトナム人を優先する傾向が強まっている。
 比較として、日本国内の特定技能制度(介護や建設)は日本語力(JLPT N4〜N2)を重視するが、英国の動向は英語力の併用を議論する契機となるかもしれない。2024年の経団連の報告では、グローバル企業の人材採用で英語力としてTOEFL iBT 80以上が求められる割合が70%に上昇している。これは、CERFR B2の中位より上程度なので、このあたりに日本のグローバル企業の、日本の大学制度への忖度がありそうだ。このあたりですでに、グローバル人材市場では、英語力の低い日本人が競争で後れを取っている兆候が見える。

日本人への要求と英語教育の限界

 英国の新政策は、日本人の英国就労や留学に直接影響することは述べたが、もう少し内実を見ていこう。Youth Mobility Scheme(YMS、18〜30歳、2年間滞在可)は、従来英語力証明が不要だったが、2025年中にCEFR B2(IELTS 5.5〜6.5)が求められる可能性が高い。IELTS 5.5は英検準1級、6.5は準1級をやや上回るレベルで、MARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)レベルの大学入試免除基準(英検準1級、IELTS 5.5〜6.0)に相当する。日本の高度スキル人材(例:Skilled Worker Visa)も同様の英語力証明が必要となり、扶養家族の帯同にはA1〜B2のハードルが課される。
 言うまでもなく、日本の英語教育は、この要求に応えるには不十分である。文部科学省の調査(2023年)によると、中学校卒業時の英語力はCEFR A2未満(英検3級相当)、高校卒業時はB1(英検2級)が平均である。B2(英検準1級)は進学校の上位5%に限られ、日本英語検定協会(2023年)では高3生の準1級取得率が約5%にとどまっている。MARCHレベルの学生はB1〜B2に近く、英検準1級やIELTS 5.5〜6.0を達成するが、IELTS 6.5にはスピーキングとライティングの強化が必須となるだろう。IDP Japan(2024年)のデータでは、日本の大学生のIELTS平均スコアは5.5で、スピーキング(5.0)とライティング(5.2)が低い。日本人の課題は、スピーキングの流暢さ(IELTSは12〜14分の対話形式)とライティングの論理的構成(250語エッセイ)にあるとも言える。
 学校体制の対応力も限定的であり、率直にいって、展望も見えない。2021年改訂のカリキュラムは「聞く・話す」を重視するが、教師の英語力(CEFR B2以上の割合は30%未満、JETRO調査2023年)や授業時間(週3〜4時間)が不足している。ALT(外国語指導助手)やオンライン英会話の導入は進むが、都市部に偏り、地方公立校では実践が遅れる。そもそも、ALTの活用実態が意図的には不明である。大学では、MARCH以上の英語授業はリーディング中心で、IELTSのスピーキングやライティングに対応するプログラムは限られる。立教大学や上智大学のようなTOEFL/IELTS対策講座は例外ともいえ、一般的な学部では自主学習に依存するしかない。民間の英会話スクールやIELTS対策コース(ブリティッシュ・カウンシル)は月5〜10万円の費用がかかり、経済的負担が大きい。というか、ここでは家計がものを言う。
 




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2025.05.12

歴史のナラティブと権力

 歴史はしばしば、偉大な発明や画期的な革命といった輝かしいマイルストーンによって語られる。古代中国の「四大発明」(羅針盤、火薬、紙、活版印刷)や、近代西洋の「産業革命」(第一次・第二次)は、それぞれの文明の先進性や、世界史における決定的な影響力を象徴する物語(ナラティブ)として広く受け入れられてきた。しかし、これらのナラティブは、果たして歴史の複雑な実態をありのままに映し出しているのだろうか。実は、特定のイデオロギーや権力構造によって構築された恣意的で、時に「馬鹿馬鹿しい」物語に過ぎないのではないか。さらに、漢字とラテン字母の比較を通じて文化や技術の受容における力関係を考察し、「戦争に勝った野蛮人が、自分たちは野蛮ではないとして歴史のナラティブを作る」という論点を軸に歴史叙述に潜む権力性、暴力の隠蔽、そして平和や精神性の軽視といった問題を論じてみたい。

「偉大なる発明」と「革命」の神話:ナラティブの恣意性と誇張

 「四大発明」のナラティブを検証しよう。これらが古代中国の重要な技術的成果であることは疑いない。しかし、この4つが「四大発明」として特別な地位を与えられた背景には、20世紀の歴史家ジョセフ・ニーダムの研究と、それが中国ナショナリズムや西洋のオリエンタリズムと共鳴した経緯がある。ニーダムは『中国の科学と文明』において、これらの技術が西洋文明の発展(例:大航海時代、印刷革命、火器の発達)に与えた影響を強調したが、その選択は西洋中心的な視点に偏っているとの批判は免れない。中国には他にも灌漑技術、冶金、天文学、運河システムなど、社会や経済に多大な影響を与えた技術が存在するにもかかわらず、なぜこの4つだけが選ばれたのか。さらに、各発明の起源や影響に関するデータは断片的であり、特に活版印刷(畢昇の発明)は、木版印刷が主流であり続けた中国では、グーテンベルクの印刷革命ほど広範な社会的インパクトを持たなかった可能性が指摘される。このように、「四大発明」は、歴史的データの薄弱さを背景に、ナショナリズムとオリエンタリズムによって神話化され、中国の多様な技術史を単純化する側面を持つ。
 次に、「産業革命」のナラティブに目を向ける。一般に18世紀後半から19世紀初頭の英国における技術革新(蒸気機関、紡績機)と経済成長を指す「第一次産業革命」は、「近代社会の幕開け」として語られる。しかし、近年の経済史研究(例:N. Crafts, G. Clark)は、この時期の英国の1人当たりGDP成長率が年平均0.3%程度と緩やかであり、生活水準の顕著な改善は1830年代以降にずれ込むことを示している。「革命」という言葉が喚起する劇的な変化とは裏腹に、実態は中世以来の緩やかな技術・経済進化の延長線上にあった可能性が高い。では、なぜ「産業革命」のイメージはこれほどまでに劇的なのか。その一因は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての「第二次産業革命」(電気、化学、鉄鋼、鉄道)の目覚ましい成果が、遡及的に第一次の功績として投影され、混同されたことにある。「第二次産業革命」という区分自体が、第一次の影響力の限界を隠蔽し、「西洋(特に英国)が連続的に近代化を主導した」という西洋中心主義的な物語を補強するための「言い訳」として機能した。産業革命のナラティブは、英国の国家的誇りや資本主義の優位性を正当化するイデオロギーに深く結びつき、その成功を支えた植民地からの資源収奪(例:インドの綿花、アメリカの奴隷労働による綿花生産)や、労働者階級の過酷な現実(低賃金、長時間労働、劣悪な生活環境)といった「野蛮な」側面を覆い隠してきた。
 このように、「四大発明」も「産業革命」も、歴史の複雑なプロセスを特定のイデオロギー(ナショナリズム、西洋中心主義、資本主義)に沿って単純化し、誇張する「馬鹿馬鹿しい」ナラティブとしての性格を帯びている。

文化と力のアナロジー:漢字はなぜ世界標準にならなかったのか

 文化や技術システムの普及が、その本質的な「優劣」だけで決まるわけではないことは、漢字とラテン字母の比較が示唆している。漢字は、表意性による意味の直接伝達、高い情報密度、数千年にわたる文化的連続性、そして東アジア文化圏における共通基盤としての役割など、多くの点で優れた特性を持つ。書道や詩といった美的・精神的な表現においても豊かな可能性を秘めている。しかし、今日のグローバルスタンダードとなったのはラテン字母であった。ラテン字母の普及は、ローマ帝国の遺産、キリスト教の伝播、そして何よりも16世紀以降のヨーロッパ列強による植民地支配と、それに続く西洋の経済的・軍事的覇権と不可分である。西洋中心主義は、ラテン字母を「近代的」「合理的」なものとして称揚し、対照的に漢字を「複雑」「前近代的」と見なす傾向を生んだ。漢字の持つ哲学的深みや美的価値は、効率性や普遍性といった西洋近代の価値観の前では二次的なものとされた。
 この例は、「四大発明」や「産業革命」のナラティブ形成にも通底する力学を示唆する。ある技術や社会システムが「偉大」あるいは「革命的」と評価される背景には、それを用いた文化圏の政治的・経済的な力が大きく作用している。中国の四大発明が西洋への影響というフィルターを通して評価され、英国の産業革命が植民地支配の現実を覆い隠して「近代化の奇跡」として語られるのは、まさに歴史叙述における力関係の表れなのである。

「野蛮人」の作る歴史:権力、暴力、そして忘却

 かくして、「戦争に勝った野蛮人が、自分たちは野蛮ではないとして歴史のナラティブを作る」と提起してみたい。歴史はしばしば、軍事的・経済的な勝利者によって書かれ、その過程で用いられた暴力や不正義は、「文明の進歩」や「国家の発展」といった大義名分のもとに正当化され、あるいは忘却される。
 「四大発明」のナラティブは、火薬や羅針盤といった技術が、宋代の対モンゴル戦争や明代の鄭和の遠征など、軍事的・覇権的な文脈で発展・利用された側面を、「世界文明への貢献」という美名のもとに覆い隠す傾向がある。現代中国のナショナリズムがこのナラティブを強調する際、過去の帝国の膨張や内部の粛清といった「野蛮な」側面は、都合よく背景に押しやられる。
 同様に、「産業革命」のナラティブは、英国の輝かしい経済成長と技術革新を称賛する一方で、その陰にあった「野蛮性」――奴隷貿易、インド織物産業の破壊、アヘン戦争、国内労働者の搾取、環境破壊――を「進歩のためのやむを得ない犠牲」として矮小化するか、あるいは完全に無視する。勝者である英国(および西洋)は、自らを「文明」の担い手として描き出し、その覇権を自然で正当なものとして提示してきた。
 このような勝者のナラティブにおいては、平和や精神の価値は必然的に軽視される。漢字文化が育んだ哲学的な深みや美的感受性、宋代の平和的な商業社会が達成した経済的繁栄、あるいは産業革命期の労働者たちが示したコミュニティの連帯やささやかな抵抗――これらは、戦争の勝敗や経済成長率といった権力中心の指標の前では些末なものとして扱われ、歴史の表舞台から姿を消す。歴史は、あたかも戦争と征服、経済的成功だけが価値を持つかのように語られ、人間の営みのより静かで内面的な側面は忘却の淵に沈められる。

ナラティブの彼方に見えるもの

 「四大発明」や「産業革命」といったナラティブが、歴史の複雑な実態を単純化し、権力の意図を反映したものであるならば、私たちはどのようにして歴史を理解し直すべきだろうか。まず、歴史の実態が、単線的な進歩や因果関係の物語には収まらないことを認識する必要があるだろう。歴史は、連続性と断続性、計画性と偶然性、地域性とグローバルな相互作用が複雑に絡み合ったプロセスである。四大発明は、中国内部の要因だけでなく、ユーラシア大陸全体の技術交流の中で発展した。産業革命は、英国の特殊要因(石炭、高賃金)とグローバルな文脈(植民地、奴隷制)が複合的に作用した結果であり、その影響も地域や階層によって多様であった。
 次に、勝者の視点から離れ、多様な声に耳を傾けることが求められる。ポストコロニアル史学が示すように、植民地の被支配者、労働者、女性、マイノリティといった、従来の歴史叙述から排除されてきた人々の経験を掘り起こし、彼らの視点から歴史を再構築する必要がある。社会史やマイクロヒストリーは、国家やエリート中心の歴史ではなく、普通の人々の日常生活や意識の変化に光を当てる。
 さらに、平和や精神性といった、これまで軽視されてきた価値基準を歴史評価に取り入れることも重要となるだろう。経済成長や軍事力だけでなく、文化の豊かさ、社会の安定、倫理的な規範、自然との共生といった側面から歴史を問い直すことで、より人間的な深みを持つ歴史像を描き出すことができる。
 そして最後に、あらゆる歴史ナラティブに対して批判的な距離を保ち、その構築のされ方や背景にあるイデオロギーを常に問い続ける姿勢が不可欠である。歴史を、完成された物語としてではなく、絶えず書き換えられ、多様な解釈に開かれたプロセスとして捉えることである。各種のナラティブを笑い飛ばすような、健全な懐疑主義と知的遊戯性は、私たちを権力の呪縛から解き放ち、歴史の実態に迫るための重要な武器となるかもしれない。
 「四大発明」や「産業革命」といった壮大なナラティブは、私たちに歴史のダイナミズムを伝える一方で、その単純化とイデオロギー性によって、真実の複雑さや多様な人間の経験を覆い隠してきた。まさに「野蛮」の影がちらつくこれらの物語を超え、より公平で、より人間的な深みを持つ歴史理解を築くこと。それは、過去をより豊かに理解するだけでなく、現在と未来をより良く生きるためにも、私たちに課せられた知的・倫理的な挑戦であるだろう。



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2025.05.11

宗教法人の非課税特権と地域社会

 日本では、宗教法人が所有する土地や施設が非課税となる特権が、長年にわたり議論の的となってきた。信教の自由を保障する憲法第20条と、公金を宗教団体に支出しないとする第89条に基づき、この特権は宗教活動の独立性を守るものとされてきた。しかし、現実には、この制度が地域社会や経済にマイナスの影響を及ぼす事例が散見される。福井県勝山市の越前大仏や、東京都武蔵村山市の真如苑が所有する日産工場跡地を例にこの問題を紐解きつつ、憲法に手を付けずとも、税制や関連法の運用を見直すことで解決策を見出せる可能性を探ってみたい。

越前大仏はバブル期の残骸から非課税へ

 福井県勝山市にそびえる越前大仏は、バブル景気の象徴ともいえる施設だ。1987年、地元出身の実業家・多田清氏が私財を投じて建立したこの大仏は、高さ17メートルで奈良の大仏を凌ぎ、五重塔は75メートルで日本一を誇る。観光振興を掲げたテーマパーク型のプロジェクトだったが、開業当初の入園料3000円は高額すぎて、客足は伸び悩んだ。そしてバブル崩壊後、運営はさらに苦しくなり、1996年頃から固定資産税の納付が困難になった。が、2002年、施設は宗教法人(臨済宗妙心寺派の大師山清大寺)として認可され、非課税の恩恵を受ける形に落ち着いた。
 つまり、当初は株式会社が運営し、税負担を負っていたが、宗教法人化でそれがゼロになったのである。土地や建物は競売にかけられたが買い手がつかず、勝山市が管理を引き受けるも公売は9回不調に終わり、今や門前町はシャッター街である。観光振興の夢は潰え、自治体には負の遺産が残された。ここでは非課税特権がなければ、運営主体は税負担に耐えきれず、早々に施設を売却か活用に動いたかもしれない。結果として、地域経済への還元はほとんどなく、市民の不満だけが募っている状態でもある。

真如苑の日産工場跡地は事実上放置

 東京都武蔵村山市と立川市にまたがる日産村山工場跡地は、別の形で非課税の問題を浮き彫りにする。2001年に工場が閉鎖され、2002年、宗教法人・真如苑が全体の約75%にあたる106万平方メートルを739億円で購入した。以来20年以上、土地の大部分は未開発のまま事実上放置されている。跡地全体は139万平方メートルで、一部はイオンモールや公共施設用地に転用されたが、真如苑所有のエリアは雑草管理のロボットが動く程度で、具体的な活用がまったく進まない。
 真如苑側は「プロジェクト真如ヤーナ」として、明治神宮の森をモデルにした自然再生や、運慶作の大日如来像を安置する寺院建設を構想に掲げてはいる。しかし、進捗ははっきりとした形としては目に見えず、地元住民からは「実質的な放置」と映るのも自然だ。武蔵村山市は工場閉鎖で経済基盤を失い、税収減や人口流出に悩む中、広大な土地が非課税で放置される現状は、地域再生の機会損失としか言いようがない。当初、真如苑は固定資産税相当額を寄付する意向を示したが、それがどの程度実現しているのかも不透明だ。非課税特権がなければ、維持コストが重荷となり、土地の売却や活用に動かざるを得なかった可能性が高いのだが。

非課税特権がもたらす歪み

 これら二つの事例に共通するのは、宗教法人の非課税特権が、地域社会のニーズと乖離した形で機能している点だ。越前大仏では、観光施設としての失敗を非課税で延命させ、真如苑では広大な土地を長期放置する余裕を与えている。憲法が信教の自由を保障する趣旨は理解できるが、現行制度が経済的公平性や地域振興を損なうケースが増えているのは見過ごせない。
 宗教法人の課税については、戦後の宗教法人法(1951年施行)制定以降、比較的一貫して「宗教活動に資する財産」は非課税とする立場が取られてきた。これは、戦前の国家神道体制への反省から、国家と宗教の関係を慎重に扱う必要があるという戦後憲法の理念に基づくものである。実務上は、1960年代以降、国税庁や自治体が課税範囲の解釈を示す「通達」や「運用指針」を設けてきたが、その多くは宗教法人の主張に一定の理解を示す内容であり、「宗教活動に資するか否か」の線引きが極めて緩やかに運用されてきた歴史がある。とりわけ、1980年代から90年代にかけては、新興宗教団体の不動産取得が急増し、施設規模が拡大する一方で、税務当局は判断の難しさから積極的な課税に踏み込めない状況が続いた。これが、公益性や活用状況を問わず、宗教法人による大規模不動産の非課税化を助長する結果となった。
 特に問題なのは、非課税の条件が緩すぎることだ。宗教法人法では「宗教活動に資する財産」と申告すれば免税が認められるが、その定義が曖昧で、実質的な公益性や活用状況は問われない。結果として、自治体の税収が減り、公共サービスの財源が圧迫される。武蔵村山市のように、土地が有効活用されず税収も得られない状況は、住民にとって不公平感を強めるばかりだ。

この問題解決に憲法改正は必要か?

 この問題を解決するには、大元の憲法改正が必要と考える向きもあるかもしれない。確かに、第89条を見直し、非課税特権を制限する条文を加えれば、根本的な解決に近づく。しかし、憲法改正は現実的には政治的ハードルが高く、信教の自由との衝突を巡る議論が長期化すれば、何も動かない膠着状態に陥る。実際、統一教会問題で宗教法人法の見直しが議論される中でも、憲法に触れる案は現実味を帯びていない。
 では、打つ手がないのか。実はそうではない。憲法に手を付けずとも、税制や関連法の運用レベルで非課税特権を見直すことは十分可能だろう。

解決策1:宗教法人法の条件厳格化

 宗教法人法に公益性の基準を導入する。例えば、「宗教活動に資する財産」の非課税を認める条件として、地域社会への貢献度を評価する。具体的には、施設の一般開放、雇用創出、災害時の活用実績などを基準にすればよい。また、一定期間(例:10年)以上未利用の土地や建物は、非課税の適用を外すルールを設ける。これなら、越前大仏のような放置施設や、真如苑の未開発地に圧力をかけられる。信教の自由を侵害せず、運用ルールの変更だけで済むため、実現性は高い。

解決策2:税制上の特例措置

 税制で柔軟な対応を図る。地方税法や法人税法を改正し、「未利用資産への課税」を導入する案だ。例えば、真如苑の106万平方メートルのうち、実際に宗教活動に使われていない部分に限定的な固定資産税を課す。また、資産規模が一定以上(例:100億円超)の宗教法人には、非課税の上限を設ける。これにより、大規模な土地保有を続ける団体に経済的負担を課し、活用か売却を促せる。憲法第89条に抵触しないよう、「宗教活動そのもの」ではなく「公益性の欠如」を理由にすれば、法的な正当性も担保される。

解決策3:自治体の裁量拡大

 地方自治体の権限を強化する。例えば、「地域貢献税」のような名目で、任意の支払いを求める仕組みを検討する。法的強制力はなくても、世論の圧力で宗教法人の協力を引き出せるかもしれない。また、都市計画法を活用し、未利用地のまま放置する場合に開発促進を促す規制を連動させる。これなら直接的な課税を避けつつ、間接的に活用を迫る効果が期待できる。

実現への道筋と課題

 これらの提案は、国会での法律改正や省令変更で実現可能だ。現在、統一教会問題を機に、宗教法人法見直しの機運が高まっている今は、議論を進める好機でもある。「10年以上未利用の土地は固定資産税の免除を解除する」というシンプルなルールなら、すぐにでも法案化を検討できるのではないか。
 もちろん、課題もある。宗教団体からの反発は避けられず、資金力のある団体は訴訟をちらつかせて抵抗する可能性が高い。各種宗教法人は、集票の利害から、左派が目の敵にする以外でも国会議員との関連も深い。また、「宗教活動」の定義を巡る線引きが曖昧だと、運用が混乱する恐れもある。それでも、現行制度の歪みを放置するよりは、具体的な一歩を踏み出す価値がある。前に進む時期だろう。真如苑が災害時に土地を避難所として開放する規約を設けるだけでも、一時的な貢献にはなる。それでも、平時の活用が進まなければ、地域の苦々しさは解消されない。非課税特権の見直しは、信教の自由と公益のバランスを再考する契機でもある。

 


ご希望があれば、この文を論文や政策提言用の文体に書き換えることも可能です。ご検討されますか?

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2025.05.10

AIで蘇る歌声?

 日本ではあまり好まれないとは思うけど、米国のカントリーミュージックの伝説といえるのが、ランディ・トラビス。存命なのに伝説っぽくなってしまったのは、2013年彼は脳卒中で失語症を患い、歌声を失ったからだ。その彼が、人工知能(AI)の力を借りて新曲を発表し、ツアーを再開した。2024年の「Where That Came From」、2025年の最新シングル「Horses in Heaven」である。これらは、トラビスの過去の45曲のボーカルデータをAIで解析し、カントリー歌手ジェームズ・デュプレの声にトラビスの特徴を重ねて制作された。トラピスの妻メアリーは「11か月かけて1曲を作った。AIは魔法のようだった」と語っている。かくして、アンドロイド・トラビスは「More Life Tour」を2024年春から開始し、2025年秋まで延長し、デュプレのサポートを受けながらファンとの再会を果たしているという。本人の意志とAI技術が結びついたこの復活劇は、感動を呼ぶ一方で、それって何? という奇妙な疑問も生む。

そういえば、美空ひばり、ユーミン、小林幸子

 日本でも似た試みがなされていた。2019年、故・美空ひばりの声がAIで再現され、NHK特番で新曲「あれから」が披露された。ヤマハのVocaloid技術を応用し、過去の音声データからひばりの歌声を再構築。遺族と美空ひばり財団の許可を得たプロジェクトだったが、「故人の声を商業利用するのか」と賛否両論を巻き起こした。
 一方、松任谷由実(ユーミン)は存命で、2022年頃に実験的にAIで自身の声を再現した。本人が「面白い」と積極的に関与し、クリエイティブな挑戦として受け入れられた。ちなみに、僕はユーミンのファンだけど、これ聞いて、今後全部、AIでやってよと思った。
 さらに遡ること、小林幸子。2015年、自身の声を元にした「VOCALOID4 Library Sachiko」を発売した。演歌の「こぶし」や「降臨!」といった掛け声まで再現し、ニコニコ動画やコミケでファンと遊び心を共有した。まあ、最近その話題は聞かないけど。

著作権的にはどうなのか

 AIで声を再現する際、著作権や関連する権利が問題となる。トラビス、ひばり、ユーミン、小林幸子のケースは、法的にはクリアだが、マレーネ・ディートリッヒやマリア・カラスのような伝説の故人となると、その再現はグレーゾーンだ。
 トラビスは存命で本人が同意し、ワーナーなど権利者の許可を得て過去の録音を使用。新曲は元の楽曲と独立しており、著作権侵害はない。米国でのパブリシティ権(声やイメージの商業利用権)も本人の関与でクリア。ひばりは故人だが、遺族と美空ひばり財団、日本コロムビアが許可。AIは声の特徴を抽出し、新曲に適用するため、元の楽曲の著作権には触れない。ユーミンは存命で本人が関与し、ユニバーサルミュージックが権利を管理した。小林幸子の「Sachiko」は、ボカロ用の新録音データで、楽曲ではなく「声のライブラリ」として提供している。ヤマハがライセンスを管理し、ユーザーが作る新曲の著作権は別である。これらは本人の同意や権利者の管理により、法的問題はない。
 ディートリッヒ(1992年没)やカラス(1977年没)のAI再現となると、著作権問題は複雑だ。ディートリッヒの録音(1930~40年代)は、EUや日本の著作隣接権(録音から50~70年)で保護期間が一部切れている可能性があるが、レコード会社(EMIなど)の許可が必要だろう。米国ではパブリシティ権が強く、遺族やディートリッヒ財団の同意がないと訴訟リスクが生じる。カラスの録音(1950~60年代)はワーナーが権利を持ち、EUでは2040年代まで保護されている。日本では肖像権や名誉感情で遺族が訴える可能性もある。美空ひばりのように財団が賛同すればクリアだが、ディートリッヒやカラスの遺族の意向はそもそも不明である。国際的な権利関係の複雑さもあり、許可なく進めるのは法的にグレーだ。というか、まあ、やばい。

それで、これって結局なんなの?

 AIによる歌声の再現は、技術の驚異と倫理の葛藤が交錯する領域ではある。トラビスの復活は、本人の意志とファンの喜びが結びつき、AIのポジティブな可能性を示している。まあ、いいんじゃないの。ユーミンや小林幸子のプロジェクトは、存命の本人が遊び心で関与し、クリエイティブな実験として、概ね受け入れらたる。ひばりの事例では「故人の声をどう使うか」は議論を呼んだ。そして、ディートリッヒやカラスとなると、さらに「誰のため?」「何のため?」が曖昧になる。
 技術的には、過去のデータを解析し、声の特徴を新曲に重ねるプロセスはほぼ確立されている。問題は、その声に宿る「魂」やアーティストの遺志をどう尊重するかだ。著作権のグレーゾーンは、ディートリッヒやカラスのような故人の場合に顕著になる。法的許可が得られても、ファンが「彼女たちの芸術を汚す」と感じれば、「なんなのそれ?」という反発が生じる。カラスの完璧主義やディートリッヒの反骨精神は、AIで再現する領域なのか、そもそも。まあ、なんだろ、結局、これって何なんなの?




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2025.05.09

ウクライナのユーロ移行検討

 2025年5月7日、Reutersはウクライナ国立銀行(NBU)総裁アンドリー・ピシュニー氏の発言を報じた。ウクライナは、グリブナの基軸通貨を米ドルからユーロに移行する可能性を検討しているという。このニュースは、ウクライナの経済的・地政学的苦境を映し出すが、BBC、The Guardian、米国の主要メディアでは詳しくは報じられていない。

ピシュニーの発言と経済の現実

 ピシュニー氏は、EU加盟の可能性、世界市場の変動性、貿易の分断リスクを理由に、グリブナの基軸通貨をドルからユーロに変更する検討を始めたと述べた。ウクライナは1996年のグリブナ導入以来、ドルを基軸とし、2022年2月のロシア侵攻後は硬直的なドルペグ(1ドル=29.25グリブナ)を採用してきた。2023年10月からは管理変動為替レートに移行し、ドルを基準に為替介入を行っている。ピシュニー氏は、現在の為替市場ではドルがあらゆる分野で主導的な通貨であり、ユーロの利用も少しずつ増えてはいるものの、その進み具合は遅いため、ドルからユーロへの切り替えにはまだ時間がかかることの説明も加えた。
 現状、ウクライナの経済は戦争で壊滅的といえる。2022年、GDPは30%減少し、2024年の輸出は2019年の半分(UNデータ)となった。対外債務は2025年時点で1400~1500億ドル(GDPの90~100%、世界銀行、BIS推計)、うちIMFへの未払い債務は108億ドル(2025年3月、IMF)となる。年間返済額は約200億ドル。外貨準備は2025年5月で467億ドル(Ukrinform、2025年5月7日)、または420~440億ドルと推定される(3~4月の423~424億ドル、TheGlobalEconomy.com)。短期の債務返済には余裕があるが、長期の持続は厳しいだろう。

EUシフトと米国の対応変化

 ピシュニー氏がEU加盟を表明したのは、ウクライナの地政学的選択と見られる。2022年6月、ウクライナはEU加盟候補国に認定され、2030年頃の加盟を目指している。また、EUは、2022年以降、500億ユーロ超の軍事・経済支援をウクライナに提供する(Euronews、2025年5月)。ユーロ基軸の検討は、EUとの経済統合をアピールし、支援継続を求めるシグナルでもあるが、現実的には、複雑で多角的な準備が必要として、移行が遠い未来のことでも、まずEUへのコミットメントを示している。
 今回の表明の裏には米国の対応の変化があるだろう。米国は2022~2024年に820~1740億ドルの支援を提供し、うち軍事援助は約700億ドル(Kiel Institute、米国務省)で、パトリオット防空システム、HIMARSロケット砲、ジャベリン対戦車ミサイルなどは、ほぼ無償供与だった。前バイデン政権は、議会承認なしの武器送付(PDA)や防衛産業調達(USAI)で支えたが、2025年1月のトランプ政権復帰で状況は一変した。トランプ氏は選挙期間中から「ウクライナは金食い虫」「欧州が金を出せ」と主張し、2025年3月4日には、軍事援助を全面停止した。2月28日には、ゼレンスキー氏との会談で「感謝が足りない」と激怒し、支援再開にロシアとの停戦交渉を条件とした。5月2日、初の軍事装備販売(5000万ドル以上)を承認したが(The Guardian)、無償でなく、ウクライナが金や鉱物資源で支払う取引である。トランプ氏の「ビジネス」路線は、「金で買え」と迫るものだといえよう。

金欠とドルペグの限界

 このトランプ流の「金で買え」は、ウクライナにとっては重荷である。2025年5月の、ウクライナの外貨準備467億ドル(または420~440億ドル)は、債務返済(200億ドル)には短期的には余裕があるが、戦争で輸出は激減している。兵器の国内生産はドローンや砲弾の40%自給(ゼレンスキー氏、Al Jazeera)が限界だろう。ハイテク武器を買う金は乏しい。実際、2022年、米国の90億ドル緊急融資がなければグリブナは暴落していた可能性がある(WSJ)。トランプ政権の支援縮小は、ドルペグを支えた「米国の黙認」の終焉でもある。
 ウクライナのドルペグ経済は、米国からのドル流入(820~1740億ドル支援、IMF融資)で成り立っていたものだ。ウクライナ国立銀行(NBU)は、2022年の予算不均衡(財政赤字約500億ドル、ウクライナ財務省)を理由に、7月21日にグリブナを25%切り下げた(1ドル=29.25→36.6グリブナ、Reuters)。戦争で輸出激減(2022年35%減、UNデータ)し、外貨準備を圧迫したこと(7月228億ドル、NBU)が背景である。2023年10月の管理変動為替移行は、債務過多とドル枯渇リスクの表れである。債務1400~1500億ドルで、ドル依存は今後は持続困難となるだろう。こうしたなか、ウクライナのユーロ移行の検討は、ドルがないウクライナがEUに支援を切り替える戦略と見られる。対して、EUは2025年5月に新貿易協定や融資を検討している。すでに、モルドバは2025年1月にユーロ基軸に移行し、2億ユーロ融資を得た例は、ウクライナの期待を映すが、EUの支援は米国ほど迅速でなく、経済効果は弱いとも見られる。

アルゼンチンの教訓

 ドルペグという経済政策は、債務返済や貿易を安定させるが、外貨準備と支援国の後ろ盾が必須となる。歴史から学べる失敗例は、アルゼンチンである。1991~2001年、1ペソ=1ドルの通貨ボード制を採用したが、2001年に崩壊した。債務1000億ドル、外貨準備100億ドル、輸出低迷が原因(IMFデータ)。米国は支援せず、ペソは70%暴落、デフォルトと経済危機(GDP15%減)を招いた。2025年、アルゼンチンの債務は4000億ドル、インフレ200%超で、ドルペグは不可能となった(World Bank)。ウクライナは、2022~2024年の米国支援で外貨準備を維持したが、トランプ氏の支援縮小はアルゼンチンの「米国のお目溢しなし」に似ている。

大手メディアの沈黙

 ピシュニー氏の発言は、ウクライナの苦境を結果的に露わにしている。金欠で武器を買えず、ドルペグは限界となり、EU支援は不確実である。ウクライナ国民に「EUで明るい未来」と希望を売るカモフラージュの意図かもしれないが、もう隠せない絶望感も透けて見える。債務返済のピンチは、ウクライナを崖っぷちに追い込むことから、このニュースは、実際には希望というより悲鳴に近いものとなってしまった。それが大手メディアの軽視、あるいは反応の鈍さの理由かもしれない。米系メディアとしても、トランプ氏の支援縮小を米国の失敗として報じたくないかもしれないし、ウクライナの金欠を強調すると、支援継続を疑問視する世論を煽ることにもなるだろう。BBCやThe Guardianは、EUの負担増や団結の乱れを避けたい。「ウクライナの弱さ」を報じると、読者に「支援はムダか」と失望感を与え、希望のナラティブを壊すことになる。Reutersは、これを経済ニュースとして事実を伝えるが、一般向けメディアは暗い続報を嫌うだろう。

EUの限界と武器供与の疑問
 EUはウクライナの期待に応えられるのか。2025年5月、EUは新貿易協定や融資を検討しているが、予算は加盟国間の対立(ハンガリーなど)で遅れる。米国(820~1740億ドル)に比べ規模が小さい。ユーロペグには数百億ユーロが必要となるが、EUの財政規律が壁だ。ウクライナの泣きつきは、即座の対応を困難にする。
 結局、誰がウクライナに兵器を供与するのか。トランプ政権の路線変更で、米国は無償供与をやめた。が、EUの武器生産は限られ、ウクライナが必要とするパトリオットやHIMARSは米国製である。NATOや第三国(韓国やイスラエル)の関与も考えられるが、資金は誰が持つのか。

 

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2025.05.08

原油価格低迷の波紋

 原油高騰はメディアでも大きく報じられるが、価格低迷となると扱いは専門領域にとどまりがちだ。今年初め、原油価格は急落していたにもかかわらず、一般ニュースでの注目度は高くなかった。WTIは80ドル台から55ドル台へと25%も下落した。この背後には複数の要因がある。一つは、トランプ政権期に導入された対中関税である。25%の追加関税は一部の中国製造業に打撃を与え、原油需要の伸びを鈍化させた。ただし、需要全体が「半減」したわけではなく、成長率の緩やかな低下にとどまった。北京周辺の工業活動が一部停滞し、上海の港湾でもコンテナ船の動きが鈍る場面が見られたという。米国内では当時の政権が「ガソリン安」を成果として強調したが、その影には世界経済全体の冷却と、それに伴うエネルギー需要の構造的変化があった。この状況が長引けば、サプライチェーンの再構築が迫られ、アジアや欧州の市場にも波紋が広がる可能性がある。
 二つ目の要因はOPEC+の動向である。2025年5月3日、OPEC+は日量約41万バレルの増産を決定し、6月以降にはかつての自主減産(最大220万バレル)を段階的に解除していく方針を打ち出した。価格低迷にもかかわらず増産を続ける背景には、サウジアラビアの低コスト体質がある。1バレルあたり5ドル台という採掘コストの優位性を背景に、市場シェアの維持を優先している。また、米国からの増産圧力も無視できない。トランプ政権期に形成された「低価格維持」の期待が、市場に継続的な影響を与えている。こうした中、日本のガソリン価格も一時185.1円に達したが、原油安と円高の影響から、現在は下落傾向にある。ただし、ガソリン税(53.8円)や為替の変動が価格下落を打ち消しており、消費者への恩恵は限定的だ。課税構造の見直しが望まれるが、野党を含めた活発な議論はまだ表面化していない。

産油国の綱引きとシェールの苦境

 OPEC+内部は必ずしも一枚岩ではない。サウジアラビアは、生産枠を超えて原油を供給する国々に対し、価格を通じて圧力をかけている。ロシアはウクライナ戦争の財政需要を背景に、生産枠(約900万バレル)を超える生産を続けているが、国家歳入の約4割を原油に依存する現実があり、ルーブル安や財政赤字への懸念も付きまとう。カザフスタンは新油田開発に向けた資金確保を目的に増産へと動き、イランも制裁回避と経済立て直しのために供給を強化している。こうした各国の事情が重なり、市場全体として供給過剰の兆しが強まっている。宗派的対立を抱えるサウジとイラン、そしてロシアによるバランス外交もOPEC+の結束を不安定にしている。
 米国もまた、原油価格の低迷に翻弄されている。シェールオイルの採算ラインは1バレルあたり65〜70ドルとされ、価格がこれを下回る状況では掘削が停止される。テキサス州の油田では掘削機の稼働が止まり、主要シェール企業の一つであるダイヤモンドバック社は「2025年がピークとなる可能性」を示唆している。トランプ氏が掲げた「ドリル、ベイビー、ドリル」のスローガンは、現実との乖離を浮き彫りにしつつある。
 一方、中国にとっては原油安が南シナ海における資源確保の圧力を一時的に和らげる可能性もあるが、長期的な軍事戦略に変化はない。米国防総省は「2030年までに中国海軍の艦船数が435隻に達する」との見通しを示しており、中国は依然として実利と戦略の双方で動いている。
 再生可能エネルギーへの影響も無視できない。原油価格の低下は、化石燃料のコスト競争力を一時的に高め、欧州のグリーンディールをはじめとする環境政策にとっては逆風となっている。安価な原油が再エネ投資の採算性を相対的に下げてしまう懸念がある。

原油価格は不安定化の鏡

 結局のところ、今回の原油価格の下落は、単なる市場メカニズムの産物ではなく、国際政治と経済の不確実性を反映する鏡のような存在である。トランプ政権期の関税政策は、世界貿易に抑制効果を与え、IMFは2025年の世界経済成長率を2.8%と予測している。ウクライナ戦争は欧州の天然ガス供給に打撃を与え、中東ではイスラエルとイランの対立が供給リスクを高めている。
 ただし、エネルギー市場には多層的な支えもある。IEAによれば、原油が全体の約30%を占める一方、天然ガスは25%、再生可能エネルギーは15%まで拡大しており、石炭や原子力も一定の役割を果たしている。この多様性が単一依存のリスクを緩和するが、LNGターミナルの容量不足や高コストといった課題も依然として残る。原油安はLNGやガソリン価格の下支え要因ともなり、欧州のエネルギー危機を一時的に緩和している。
 日本でも、燃料価格は家計に直結する。2025年1月に政府補助が終了したことでガソリン価格は185.1円まで上昇したが、円高と原油安の影響で6〜8月には175〜180円台への緩やかな下落が見込まれている。ただし、ガソリン税や輸送コストの影響が大きく、値下がり効果は限定的だ。価格低下は電力料金や物流費を通じて一部消費者に恩恵をもたらすが、物価全体への影響は小さく、実感されにくい。
 より根本的な課題は、世界経済の減速にある。対中関税やサプライチェーンの分断は、輸出産業に逆風をもたらし、自動車・電機といった分野では減益リスクが顕在化している。2025年度の日本の実質GDP成長率は1%未満との予測もある。エネルギー自給率が19%にとどまる日本にとって、持続可能な電力供給の構築は急務である。政府は2030年までに再生可能エネルギー比率を36〜38%に引き上げる方針を掲げているが、原油安がその投資意欲を鈍らせる可能性もある。安価な燃料の恩恵に酔うことなく、不安定な国際環境を見据えた経済・エネルギー戦略が求められている。

 

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2025.05.07

マティアス・コルヴィヌス、復活。

 15世紀、ヨーロッパは世界史の十字路に立っていた。コンスタンティノープルがオスマン帝国に陥落(1453年)し、東から迫るイスラムの波がキリスト教世界を揺さぶる反面、南西ではルネサンスの光がフィレンツェやミラノで輝き、知識と芸術が新たな時代を切り開いていた。この激動の狭間で、ハンガリーは小国だったが、そのひとりの王が歴史を動かした。マティアス・コルヴィヌス(1458-1490年在位)、彼は、剣と知恵でヨーロッパの舞台を駆け抜けた。 オスマンを食い止め、ルネサンスを東欧に運び、小国を一時的にではあるが、冠たる大国にしたのである。
 そして、2025年、この「ルネサンスの戦士王」が、500年ぶりに世界を驚かせる。ハンガリーの中央、「白い城の座」を意味するセーケシュフェヘールヴァールで、聖母被昇天バシリカの地下から、その頭蓋骨が発見された。考古学者エメシェ・ガーボル氏は、その緑がかった骨に触れながら「これはマティアスだ」と思ったそうだ。王冠の痕跡、47歳での死、庶子ヤーノシュとの類似性、科学は彼の「復活」を裏付けつつある。エメシェ・ガーボルと研究チームは、DNA分析と同位体分析で、ヤーノシュや子孫の遺伝マーカーとの一致を検証中である。
 ハンガリーでは𝕏(ツイッター)で「#MatthiasLives」のハッシュタグがトレンド入り、ブダペストの若者は「我々の王が帰ってきた」と熱狂した。この15世紀の王が2025年のハンガリー人の心を掴むのは、彼が世界史の交差点で戦い、現代の「限界を超えることの」の物語を残したからだろう。

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火薬庫の時代

 15世紀のヨーロッパは、文字通り火薬庫だった。オスマン帝国はコンスタンティノープルを落とし、バルカン半島を席巻した。神聖ローマ帝国は内紛で分裂し、マキャヴェッリが『君主論』を構想するような権謀術数の世界となった。小国ハンガリーは、この地政学的嵐の中心にあった。日本の戦国時代さながら、強国に挟まれ、生き残りを賭けて戦っていた。マティアス・コルヴィヌスがそこに現れた。
 1443年、後世ドラキュラで有名になるトランシルヴァニアの貴族の家系、オスマン撃退の英雄フニャディ・ヤーノシュの息子として彼は生まれた。1458年、15歳のマティアスはハンガリー王に「選ばれた」のだが、これは現代の選挙とは別物である。凍ったドナウ川の上で、貴族たちは剣を握り、密約を交わした。ライバルのハプスブルク家は陰で牙を研ぐなか、実家フニャディ家の軍事力とオスマンへの恐怖が彼を、とりあえず、王座に押し上げた。。マティアスは、しかしこの「剣と陰謀のゲーム」を勝ち抜き、歴史の舞台に躍り出た。

黒軍が世界史を変えた
 マティアスの切り札は「黒軍(Black Army)」だった。黒い鎧の傭兵軍は、規律と機動力でヨーロッパ最強である。アベンジャーズの精鋭チームのようなものだ。彼は高給で忠誠を確保し、現代のスタートアップCEOのようなマネジメントで軍を強化した。かくして、1463年のボスニア戦役でオスマンを撃退し、1476年のシャバツ包囲戦でついに領土を奪還した。1485年には宿敵ハプスブルク家の本拠地ウィーンを占領するまでに至った。小国ハンガリーが、ヨーロッパの中心で勝利の旗を掲げた。
 この軍事力は、世界史に深い影響を残した。マティアスの勝利は、オスマンの進出を遅らせ、ウィーンやイタリアへの圧力を緩和した。彼がいなければ、16世紀のヨーロッパはオスマンの支配下にあったかもしれない。ウィーンもまたオスマン帝国の都市となっていただろう。

ルネサンスの架け橋

 マティアスは戦士であると同時に、ルネサンス的君主でもあった。彼の宮廷は、フィレンツェのメディチ家に匹敵する文化のハブ。ビブリオテカ・コルヴィニアーナを有した。それは約2000冊の写本を収めた図書館であり、知識の聖域だった。彼はイタリアの学者を招き、ラテン語の書物を集めた。かくして彼は、東欧を「野蛮な辺境」から知的中心に変えたのである。2025年の頭蓋骨発見でハンガリーのメディアが「彼の図書館は、デジタル時代以前のGoogleだった」と称賛するのもうなづける。この文化的功績により、ルネサンスは東欧に拡散し、ポーランドやボヘミアの文化に影響した。ブダペストのマティアス教会やブダ城の美しさは、彼の遺産の証でもある。

ハンガリー人民の王の魂

 マティアスは「正義の王」として民衆に愛された。伝説では、変装して市場を歩き、農民の不満を聞いたという。貴族を抑え、能力主義を導入した彼の統治は、まるで戦国大名が家臣を登用したように革新的だった。税制改革や中央集権でハンガリーを近代国家に近づけたが、しかし貴族との軋轢も生んだ。2025年のハンガリー人が彼を「人民の王」と呼ぶのは、この人間味ゆえだろう。今回の頭蓋骨発見は、このイメージを強化した。緑がかった変色は王冠の痕跡、推定年齢(43-48歳)はマティアスの死亡時(47歳)と一致する。庶子ヤーノシュの頭蓋骨との類似性は、父子の絆を現代に蘇らせる。ブダペストの若者が英雄広場の像に花を捧げる姿は、今もハンガリーの心に彼が生きている証である。

人間マティアス

 しかし、マティアスは完璧ではなかった。妻ベアトリーチェとの結婚は愛と政治の複雑なミックスである。庶子ヤーノシュへの愛は深かったが、王位を継がせることはできなかった。戦場では獅子だった彼も、夜にはむしろ、書物に没頭し、遺産を案じていた。1490年、47歳でウィーンで急死する。毒殺とも過労ともわからないが、かくしてハンガリーの黄金時代は終わり、オスマンの圧力と貴族の内紛でハンガリー帝国は崩壊した。彼の人間ドラマは、今もハンガリー人に響く。最新技術によって2024年の顔再構築で彼の顔が映し出されると、ブダペストの歴史家は「これが我々の王」と涙した。ヤーノシュとの頭蓋骨の関連は、まるで父子が500年後に再会した物語である。
 




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2025.05.06

次期教皇はアジアから? 

 カトリック教会の次期教皇を選出する選挙(コンクラーベ)が2025年5月に予定される中、フィリピン出身のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿(67歳)が、有力な候補者の一人として注目を集めている。アジア初となる教皇誕生への期待を担い、「フィリピンのフランシスコ」とも称される人物だ。その動向は、バチカン専門家や進歩派の枢機卿、そしてアジアのカトリック信者たちの間で大きな関心を集めている。

歴史的な転換点となるコンクラーベ

 カトリック教会の今後を左右する次期教皇選出のコンクラーベは、2025年5月7日からバチカン市国のシスティーナ礼拝堂で開催される予定である。投票権は80歳未満の枢機卿に与えられ、今回は134人がその資格を有する(存命中の枢機卿は252人だが、80歳以上の枢機卿や健康上の理由などで参加を辞退する者を除く)。
 今回のコンクラーベは、いくつかの点で歴史的な節目となる。第一に、史上初めてヨーロッパ出身の枢機卿が参加者全体の半数を下回る点だ。第二に、これに伴い、アジア(23人、約17.2%)、アフリカ、ラテンアメリカといった地域出身の枢機卿の影響力が増大すると見込まれる点である。アジア出身枢機卿の内訳を見ると、フィリピン(5人)とインド(4人)が多く、その他、韓国、ミャンマー、日本などからも参加者がいる。日本からは前田万葉(まえだ まんよう)枢機卿と菊地功(きくち いさお)枢機卿が参加する。 第三に、参加者の約8割が現フランシスコ教皇によって任命された枢機卿で占められる点も注目に値する。この構成は前教皇の進歩的な意向が反映されやすいとも考えられる。が、専門家の間では、任命された枢機卿の中にも保守的な思想を持つ者が少なくないとも指摘されている。

有力候補、タグレ枢機卿とは?

 注目されているルイス・アントニオ・タグレ枢機卿は、1957年にフィリピンのマニラで生まれた。アテネオ・デ・マニラ大学で神学を修めた後、1982年に司祭に叙階され、その後、アメリカのカトリック大学で博士号を取得し、1997年にはイムス司教、2011年にはマニラ大司教に任命された。そして2012年、当時の教皇ベネディクト16世により枢機卿に任命され、現在はバチカンの福音宣教省長官として、教会の宣教活動を統括する要職を務めている。故フランシスコ教皇とは親密な関係を築いており、その進歩的な姿勢は、教皇の路線に通じるだけでなく、母国フィリピンが直面する貧困や格差といった社会問題への深い関与に根差している。スラム街への訪問など、貧困層との直接対話を重視する姿勢は、現地での活動を通じて信者からの厚い信頼を集めてきた。タグレ枢機卿は、公式な肩書よりも愛称「チト」で呼ばれることを好むと言われ、気さくで庶民的な人柄でも知られる。感情に強く訴えかける説教も彼の特徴であり、その親しみやすさはアジアのみならず世界中のカトリック信者からの共感を呼び、教皇候補としての魅力の一つとなっている。

タグレ枢機卿への支持と選出への課題

 タグレ枢機卿への支持は、主に進歩派の枢機卿やアジアのカトリック共同体から寄せられている。進歩派の枢機卿たちは基本的に故フランシスコ教皇の路線に共鳴することもあって、タグレ枢機卿が示すLGBTQや離婚・再婚者への柔軟な姿勢、そして貧困層への献身を高く評価している。また、アジアのカトリック教徒、特に人口の約8割(約8600万人)をカトリック信者が占めるフィリピンでは、彼が初のアジア出身教皇となることへの象徴的な意味合いも含め、大きな期待が寄せられている。フィリピン出身の5人を含むアジアの枢機卿23人が、地域の代表としてタグレ枢機卿を支持する可能性も指摘されている。加えて、バチカン専門家やメディアからの注目度も高く、例えばFox Newsは「多くのバチカンウォッチャーがタグレ枢機卿を最有力候補と見ている」と報じている。
 しかし、タグレ枢機卿の選出にはいくつかの課題も横たわっている。第一の課題は、保守派との対立である。先述の通り、故フランシスコ教皇が任命した枢機卿の中にも保守派は少なくなく、タグレ枢機卿の進歩的な姿勢は、保守派からの反発を招きやすいものと見なされている。したがって伝統的な教義を重視する保守派からの反発は必至であり、全会一致を目指すコンクラーベにおいて、この対立が投票の長期化や分裂を招くリスクを内包している。つまり、コンクラーベが長引くなら、その対立が内部に潜んでいることを示すだろう。
 第二の課題として、毎度の常として他の有力候補の存在が挙げられる。ヨーロッパ、アフリカ、ラテンアメリカの枢機卿たちが、それぞれの地域の候補者を支持する動きに出る可能性もある。過去に名前が挙がったアフリカのピーター・トゥルクソン枢機卿(ガーナ)や、ヨーロッパのクリストフ・シェーンボルン枢機卿(オーストリア)、マッテオ・ズッピ枢機卿(イタリア)などが、対抗馬として浮上する可能性も考えられる。アジア地域内ですら他の候補者がいる。韓国のラザロ・兪興植(ユ・フンシク)枢機卿は韓国メディアによって有力視されており、ミャンマーのチャールズ・マウン・ボ枢機卿も候補として名前が挙がっている。もちろん、アジア出身枢機卿といっても、その間で意見が必ずしも一致しているわけではない。
 基本的に、コンクラーベそのものが持つ不確実性がある。コンクラーベは完全に非公開で行われるため、事前の予測は極めて困難である。2013年のコンクラーベにおいて、当時アルゼンチンの枢機卿であったホルヘ・ベルゴリオ(後のフランシスコ教皇)が予想外に選出された例もあるように、現在の注目度が必ずしも選出結果に直結するとは限らない。

現代世界における教皇の役割

 教皇選挙はいつの時代も注目を集めてきた。そしてそれは常に時代の背景のなかで描き出される。現在世界はどうか。ロシア・ウクライナ戦争、米中対立、気候変動、移民問題、宗教的過激主義の台頭など、世界が分断と多様な危機に直面する。この状況下で教皇が担うべき役割はいまだ大きい。約13億人の信者を擁するカトリック教会のトップとして、また国際社会で独自の外交を展開するバチカン市国という「国家」の元首として、教皇には単なる宗教指導者の枠を超え、道徳的・外交的な指導者としての役割が期待されている。それは故フランシスコ教皇も示したものだ。彼は、貧困、環境問題、平和の重要性を一貫して訴え、特に2015年の回勅『ラウダート・シ』では気候変動への取り組みを促し、移民の受け入れについても強く呼びかけてきた。タグレ枢機卿が選出されれば、こうした故フランシスコ教皇の路線を継承し、格差是正や環境問題に対するメッセージを一層強化するものと見られる。特にアジアは気候変動や貧困の影響を色濃く受けている地域であり、アジア出身であるタグレ枢機卿の視点は、これらの問題に対する国際的な共感を広げる上で有利に働く可能性もある。
 外交面においても、バチカンは重要な役割を担う。中国との司教任命に関する暫定合意(2018年締結、2022年更新)や、ウクライナ和平に向けた継続的な働きかけなどは、その具体的な現れである。また、実はこれはメディアではあまり注目されない大問題でもあるのだが、中国国内の約1200万人のカトリック信者は中国政府の管理下にあり、そのためバチカンとの関係はデリケートな側面を持っている。タグレ枢機卿が教皇に就任した場合、アジア出身者としての視点を活かして中国との対話を進展させる可能性は期待される一方で、台湾や西側諸国との関係性についても慎重な舵取りが求められるだろう。
 グローバル化と宗教的多元主義が進展する現代にあっては、異なる文化や宗教間の対話を促進することも新時代の教皇に求められる重要な役割である。アジア出身の教皇が誕生すれば、キリスト教徒が少数派であるアジア地域(例えば日本では約0.5%、インドでは約2.3%)においてカトリック教会のプレゼンスを高めるだけでなく、仏教やヒンドゥー教といった他の主要宗教との対話や共存を一層深める重要な契機となる可能性もある。タグレ枢機卿の親しみやすい人柄は、こうした対話を進める上で有利に作用する可能性も考えられる。
 ポピュリズムやナショナリズムが台頭し、社会の分断が深刻化する現代において、教皇は人類の普遍的な価値を訴えかける上で、依然として重要な存在であるといえる。タグレ枢機卿が示す貧困層への献身的な姿勢や、多様な人々を受け入れる包容力は、経済的・社会的な格差に苦しむ世界中の人々にとって、希望のメッセージとなりうる。とはいえ、誰が新教皇となるのか。ここで、それは神のみぞ知るとすれば、たちの悪い冗談になってしまう。




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2025.05.05

AIの2時間学習革命が教室を変える

 教育の未来は、1日2時間の学習だけでどこまで到達できるかにかかっているのかもしれない。テキサス州オースティンの私立アルファスクールは、AIチューターを活用し、生徒を全国上位1~2%の学力レベルに導いている。従来の6~8時間の授業を2時間に凝縮し、午後は実社会のスキルを磨くこのモデルは、教育の常識を覆している。教室には伝統的な教師はおらず、AIが個別指導を行い、「ガイド」と呼ばれるスタッフが生徒の意欲を支える。

アルファスクールはどんな学校か
 アルファスクールは、テキサス州(オースティン、ブラウンズビル)とフロリダ州(マイアミ)にキャンパスを持つ私立校だ。2025年時点で、ヒューストン、フォートワース、タンパ、パームビーチ、オーランド、フェニックス、ニューヨーク市への拡大を計画している。生徒数はオースティン本校で約150人(幼稚園~8年生、9~12年生)、ブラウンズビル校で約60人、マイアミ校は10年生まで対応し、少人数制で個別最適化を徹底する。
 クラスは伝統的な「学年ごとの教室」ではなく、フレキシブルな学習スペースを採用している。オースティン校では、20~30人のグループがオープンな部屋でAIチューター(タブレットやノートパソコン)を使い、各自のペースで学習する。ガイドは1人あたり10~15人の生徒を担当し、進捗管理や質問対応を行う。ガイドは教師資格よりもコーチングやメンタリングのスキルを重視し、1キャンパスあたり5~10人と推定される。
 施設はテクノロジーと創造性を重視している。オースティン校(1201 Spyglass Dr)はモダンなオープン教室やワークショップ用スタジオを備え、ブラウンズビル校(591 N. Central Avenue)は小規模で地域密着型だ。学費はオースティン校が年間4万~5万ドル、ブラウンズビル校が1万ドルで、AIシステム(Trilogy Softwareの2 Hour Learningプラットフォーム)や施設維持費が影響する。入学にはMAPテストと面接が必要で、自己主導型の学習意欲が求められる。
 生徒の日常は、朝8時~10時の2時間で学術学習を終え、10時以降に公共スピーチ、コーディング、起業アイデアのブレインストーミング、インターンシップ(高校生)などのワークショップに取り組む。制服はなく、カジュアルな服装で学び、デバイス持ち帰りは低学年で制限される。この環境は自主性と創造性を育むが、集団授業や構造化された活動は少ない。学習成果は、AIによる効率化の副産物とも言えるかもしれない。

なぜアルファは成功しているのか
 アルファスクールの学力成果は顕著だ。NWEAのMAPテストで生徒のスコアは全国上位1~2%に位置し、初の卒業生クラスはスタンフォード大学、ノースウェスタン大学、ケースウェスタンリザーブ大学に進学。平均SATスコアは1410点(全米平均約1050点)、高校新入生平均は1350点を記録した。この成果が2時間で達成される事実は、効率性の証である。
 成功の鍵はAIチューターの精密な設計にある。AIは知識レベルを継続的に評価し、適切な挑戦を提供。即時フィードバックで誤答の原因を明確化し、長期記憶の定着を促す。スタンフォード大学の研究(2023年)によれば、適応型学習システムはエンゲージメントを30%向上させ、学習速度を1.5倍にする。伝統的な学校では授業時間の半分が生徒の待機や反復作業に費やされるが、アルファではAIが無駄を排除。午後のワークショップはクリティカルシンキングやコラボレーションスキルを育成し、卒業生の大学GPA(平均4.0)が応用力を示す。

共同創業者マッケンジー・プライスのビジョン
 アルファスクールの原動力は、共同創業者マッケンジー・プライス氏である。スタンフォード大学で心理学を専攻した彼女は、娘が画一的な授業で退屈している姿を見て、「なぜ子供たちは時間を無駄にするのか」と疑問を抱いた。この思いが2014年のアルファ設立につながり、夫のアンドリュー・プライス氏(Trilogy EnterprisesのCFO)と2016年にオースティン校を開校。現在は3キャンパスを運営し、7つの新キャンパスを計画中である。
 プライス氏のビジョンは、「子供たちが学びの喜びを感じ、人生のために学ぶ」こと。彼女の心理学の知見は、自己効力感と個別最適化を重視するモデルに反映される。AIチューターは成功体験を提供し、ガイドは感情的なつながりを強化。彼女のポッドキャスト『Future of Education』は、この理念を広める場でもある。
 アルファスクールの学習モデルは、古典的な学習理論に支えられている。ベンジャミン・ブルームの「マスタリーラーニング」(1968年)は、内容を80~90%以上習得してから次に進むことで学習効果を最大化する。AIチューターはリアルタイムで理解度を評価し、個別最適化を実現。レフ・ヴィゴツキーの「最近接発達領域(ZPD)」も影響を与えている可能性があり、AIは生徒の能力範囲に合わせた課題を提供する。ゲーム化要素(進捗バー、バッジ)はドーパミン報酬系を刺激し、ミハイ・チクセントミハイの「フロー理論」に基づく没入状態を誘発しやすい。ジョン・ハティのメタ分析(2009年)によれば、個別指導とフィードバックの効果量は0.73と高く、AIチューターの有効性を裏付ける。

AI教育への懐疑
 当然ながら、現状ではAI教育には懐疑的な声もある。テクノロジーが教師の情熱や直感を代替できるか疑問視する意見や、教師の人間的影響の重要性が指摘される。アルファスクールはAIと人間の協働を前提とするが、これはまだ異例といえる。しかし、AIはデータ駆動型の指導で教師の負担を軽減し、ガイドは感情的・社会的成長を支える。
 公平性の懸念もある。アルファスクールの学費(4万~5万ドル、ブラウンズビル除く)は富裕層向けとの批判があるが、プライス氏は技術コスト低下とスケールメリットで公教育への適用を目指している。Khan AcademyやEdXの適応型プラットフォームは公立校で低コスト導入され、成果を上げており、アルファスクールもクラウドベースのAIアプリでコストを1/10に削減可能だろう。
 日本では「独学」が話題だが、自己主導型学習には限界もある。認知科学の研究(Bandura、1997年)によれば、人的介入があれば、自己主導型の効果は全年齢で安定するというのだから、AI活用の独学の重要点は効果的な人的介入かもしれない。

 

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2025.05.04

カシミール紛争は再燃するか

 2025年4月22日、カシミールの観光地パハルガムでテロ事件が発生し、観光客26人が銃撃され死亡した。シャングリラにもなぞらえられるこの「平和の楽園」は、過去にも度々流血の舞台となっており、そのたびにインドとパキスタンという2つの核保有国の緊張を世界に再認識させてきた。今回の事件では、家族旅行の風景が一瞬にして暴力に変わった。この悲劇は日本でも報道されたが、扱いは小さく、一般の関心も高いとは言えなかった。しかし、カシミールは核リスク、テロの波及、中国やトルコの地政学的影響力が交錯する潜在的な火種である。なぜ今テロが起きたのか、そして悪化すれば世界はどうなるのかを考察しておく。

カシミール紛争の構造

 カシミールは、インドとパキスタンが70年以上にわたって領有を争う地域である。1947年、英領インドの分離独立時に、ヒンドゥー教徒のマハラジャがインドへの帰属を選んだことで、イスラム教徒多数の住民との対立が激化した。現在、インドがジャンムー、カシミール渓谷、ラダック(全体の約55%)、パキスタンがアザド・カシミールとギルギット・バルティスタン(約30%)、中国がアクサイチン(約15%)を実効支配している。1947–48年、1965年、1999年には全面戦争が発生し、現在に至るまで断続的に衝突が続いている。1993年の米国家情報評価(NIE)は、こうした小規模衝突の誤算が核エスカレーションにつながる危険性を警告していた。
 2019年、インド政府はジャンムー・カシミールの特別自治権(憲法370条)を廃止し、地域を連邦直轄領に再編した。この措置により、土地購入や定住の自由が認められ、人口構成の変化を意図したのではないかという批判が一部に存在する。これが過激派組織のThe Resistance Front(TRF)やLashkar-e-Taiba(LeT)によるテロ活動の口実となったとされる。パキスタンはこの政策を「占領」と非難し、インドはパキスタンの軍や情報機関ISIがテロ組織を支援していると主張している。ただし、これらの応酬はしばしば定型化した政治修辞の域を出ない印象もある。
 そして2025年4月22日、TRFはパハルガムで観光客26人を殺害した。犯行は、ヒンドゥー教徒の男性を選別し公開処刑するという残虐な手法で、インド政府の「正常化」政策への露骨な挑戦と見られている。2019年以降、インド政府は観光産業を活性化させ、2024年にはカシミール渓谷に350万人が訪れた。パハルガムはその象徴的存在であり、今回の事件はモディ政権にとって政治的打撃となった。事件後、実効支配線(LoC)で銃撃戦が発生し、インドはインダス川水利条約の見直しに言及するなど、緊張が高まった。
 国際社会は今回の事態に迅速に反応した。米国務長官マルコ・ルビオはインドとパキスタン双方に「自制」を求め、訪印中だった米副大統領JD・ヴァンスはインド支持を表明した。英国は中立を維持し、国連は対話を呼びかけたが、その影響力は限定的であった。国際政治学者の高橋和夫教授は、トルコからパキスタンへのドローン供給や、中国による衛星情報の提供が、紛争の国際化を加速させていると指摘している。カシミールは今や、南アジアの地域紛争を超えたグローバルな緊張の温床となっている。

なぜ今起きたのか:偶発性と大国の影

 今回のテロが起きた背景には、偶発的要素と戦略的意図、そして大国の地政学的思惑が交錯している。まず、事件の実行には偶発性がある。パハルガムは軍事化が比較的少なく、観光客の集まりが警備の隙を生んだ。実行者はパキスタン人2人とカシミール出身者1人とされ、うち1人は地元を3年以上離れていたという情報もあり、計画性よりも即興性がうかがえる。観光地としての人気が高まっていたことも、標的としての「選びやすさ」に拍車をかけた。
 他方、TRFによる公開処刑という残虐な演出は、明確な戦略的意図を含んでいた。事件は、憲法370条廃止以降の「正常化」路線を粉砕しようとする試みとされ、国際メディアの注目を集める狙いがあった。事件の直前、パキスタン軍のアシム・ムニール将軍が「カシミールは我々の首筋」と発言しており、政治的扇動の意図をにおわせる。パキスタンは国内的にも不安定であり、経済危機やTTPによるテロ、野党指導者カーン支持者による抗議運動の高まりが、政権や軍の圧力となっている。こうした状況下で、軍やISIがテロを黙認した可能性も指摘されている。また、事件当日には、米副大統領ヴァンスがインドを訪問し、イスラエル製ドローンの供与を含む米印防衛協力を象徴的に示していた。TRFおよびその背後にある勢力が、これに対抗するかたちで国際的挑戦を仕掛けたという見方もある。
 大国の動きは事件の構図をさらに複雑にする。トルコはイスラム世界での影響力拡大を志向する「新オスマン主義」に基づき、パキスタンへの軍事支援を続けている。中国はCPEC(中国・パキスタン経済回廊)への巨額投資を通じ、インド牽制と南アジアの覇権確保を進めている。米国と英国の対南アジア関心がウクライナやガザへの対応で後退しているなか、この国際的空白がパキスタンやその支援勢力に「行動の余地」を与えた可能性は否定できない。
 TRFやLeTの過去の活動を考慮すると、ISIが関与した可能性や、大国が黙認していたという憶測も完全には排除できない。2008年ムンバイや2019年プルワマの事例がこの懸念を補強する。ただし、2025年時点では具体的な証拠は確認されていない。

紛争悪化のシナリオ

 カシミール情勢がさらに悪化すれば、地域のみならず世界全体に影響が及ぶ。最大の懸念は核リスクである。インドとパキスタンの軍事的衝突が拡大し、誤算によって核使用に至る可能性は1993年のNIE以来、繰り返し警告されてきた。インドによるインダス川条約の破棄が検討されるような状況に至れば、戦争の現実味が増すとみられる。そこまで至らずとも、アフガニスタン(タリバン支配地域)や中国支配下のアクサイチン地域に波及すれば、南アジア全体の不安定化を招く。経済面でも、インドの航空路は燃料費の高騰と回避経路の必要性に直面し、パキスタン側のCPEC事業(グワダル港など)も停滞すれば、グローバル貿易への影響も避けられない。
 中国はこの地域の重要プレイヤーであり続ける。620億ドル規模のCPEC投資により、パキスタンのインフラを支えており、中東貿易の拠点となるグワダル港も含まれている。しかし、パキスタンの国内情勢は一枚岩ではない。2024年にシャングラで発生した中国人技術者5人の殺害事件は、CPECへの信頼を損ね、中パ関係にも不穏な影を落としている。これにより、中国の投資と新疆ウイグル自治区の安定が脅かされることになる。
 加えてトルコもこの紛争における端役ではない。パキスタンとの歴史的関係(ムシャラフ元大統領のトルコ時代など)を基盤に、ドローン供給を含む軍事協力を強化しており、NATO内の分断要因となりつつある。特にウクライナ問題や対中戦略に影響を及ぼす可能性があるため、NATOにとっても無視できない懸念材料だ。
 最後に、テロの波及リスクは見逃せない。TRFやLeTはタリバン、アルカイダとの歴史的つながりを有しており、カシミール発の過激主義が欧州や中東に波及する懸念もある。2011年に米軍が殺害したイリヤス・カシミリは、カシミール過激派とアルカイダの連携を象徴する存在だった。



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2025.05.03

バイデン暴露本ダービー。翻訳のバラは誰の手に?

 さあ、2025年の政治論壇ダービーのゲートが、今、開く! 舞台は日本の知的出版市場。トラックはリベラルメディアの偽善とトランプバッシングの泥濘だ。出走馬は、米国で出版された、あるいは近日発売予定の9冊のバイデン政権暴露本! ゴールは日本語訳の出版契約。しかし、このレース、完走馬ゼロの過酷なコースだ! 目が離せない見場がてんこ盛り。ジョー・バイデンの蛍光テープ迷走、討論会の昼寝、トランプのMAGA軍団の暴走――これらを暴く本が、なぜなのか日本の書店に並ばない、かもしれない、のだ。NHKや朝日はいまだにトランプを怪物のように煽り、バイデンの老馬ぶりを愛嬌くらいに誤魔化して時代を通り過ぎようとしている。だが、これらの暴露本は真実のムチを振るう! どの本が「翻訳のバラ」を掴むのか。血統(著者の知名度)、近走(米国の話題性)、トラック適性(日本の市場性)をハンディキャッピング。ブックメーカーの諸君、Exactaで勝負か、はたまた全滅か!?

出走馬紹介:9冊の暴露本、ゲートイン!

 このダービーの出走馬は、バイデン政権の内幕を暴く9冊。蛍光テープの失態、NATOへの妄執、Project 2025の暗雲――日本のリベラルメディアはこれらをノーマークだ。センセーショナルなエピソードと視点を、競馬の実況風に紹介する。どの馬が東京優駿の栄光、いや、ジュンク堂や紀伊國屋書店の棚に突き進むか?
 では、各馬登場。

  • 『戦い:ホワイトハウスの狂乱バトル』(Fight: Inside the Wildest Battle for the White House)
    • 記者: ジョナサン・アレン(NBCニュース)、エイミー・パーネス(The Hill)
    • 出版社: Crown Publishing Group(Penguin Random House傘下)
    • 概要: バイデン政権末期の混乱を、ゴシップ満載で描く。2024年選挙での民主党の敗北を、バイデンの認知能力の衰えと側近の隠蔽に帰す。核心は、バイデンが小さな募金イベントで移動に蛍光テープを貼られたエピソード。ニュージャージー州知事の邸宅で、老いた大統領が迷子にならぬよう、床にテープが敷かれたのだ。ジル・バイデンは「影の調教師」として夫を操り、ハリス陣営はバイデンの在任中死亡を想定し、大統領就任のシナリオを密かに準備。2023年には民主党幹部がバイデンの撤退を非公式に議論していたが、トランプへの恐怖が再選を強行させた。日本の東スポが裸足で逃げ出すスキャンダル!
    • フック: 蛍光テープの視覚的インパクト、ジルの支配力、ハリスの冷酷な計算。日本のゴシップ好き読者に刺さる。
    • 血統: 『ヒラリーの復活』や『ラッキー:バイデンの辛勝』の共著者コンビ。日本の一部政治オタクに認知。
    • 近走: 2025年4月1日発売、Amazon政治書籍でトップランク。蛍光テープが保守派の格好のネタに。
    • 日本の適性: JBpressがジルのエピソードを既に紹介。トランプ勝利の背景は、日米関係に関心の高い層に需要。早川書房や文藝春秋が食いつく可能性大。
    • オッズ: 3-1(本命)。ディープインパクトの堅実な末脚でゴールへ!
  • 『未知の領域:トランプがバイデンとハリスを打ち破った奇跡』(Uncharted: How Trump Beat Biden, Harris, and the Odds in the Wildest Campaign in History)
    • 記者: クリス・ウィップル
    • 出版社: Simon & Schuster
    • 概要: 2024年選挙の内幕を、バイデンの側近ロン・クレインの証言で描く。バイデンの認知能力の衰えが、トランプの勝利を招いたと分析。討論会準備中のバイデンは「プールサイドで昼寝」し、90分の模擬討論を45分で切り上げた。声は枯れ、主題を把握できず、インフラ計画と雇用創出の話に終始。クレインはバイデンが「NATOの大統領」と半ば本気で思っていると嘆き、ホワイトハウスは「否定と妄想の霧」に包まれたと告白。討論会後のインタビューでは、バイデンの「心が痛む」姿が露呈。日本の政治オタクがニヤリとする生々しさだ。
    • フック: 昼寝の滑稽さとNATOへの執着。ホワイトハウスのカオスが日本のコメディ好きにウケる。
    • 血統: 『バイデンの闘い』の著者だが、日本では無名。米国の政治ジャーナリズムでは評価高い。
    • 近走: 2025年4月発売、Vanity Fairのプレビューで話題。クレインの証言が保守派に支持される。
    • 日本の適性: 討論会の失態は日本のメディアでも報じられたが、ウィップルの知名度不足がハンデ。米国のベストセラー化が必要。
    • オッズ: 8-1(中穴)。オルフェーヴルの気まぐれな爆発力に賭ける!
  • 『原罪:バイデンの衰えと隠蔽の惨劇』(Original Sin: President Biden’s Decline, Its Cover-up, and His Disastrous Choice to Run Again)
    • 記者: ジェイク・タッパー(CNN)、アレックス・トンプソン(Axios)
    • 出版社: Little, Brown and Company(Hachette Book Group傘下)
    • 概要: バイデンの認知能力の衰えと、その隠蔽を「前例のない公衆への欺瞞」と糾弾。200人超のインタビューを基に、バイデン一家(ジル、ハンター)と側近(ロン・クレイン、マイク・ドニロン)が、トランプ再選の恐怖と自己利益から再選を強行したと暴く。討論会のパフォーマンスは「長年の低下の結果」で、ホワイトハウスの「ナルシシズムと自己欺瞞」が民主党の2024年敗北を招いた。タッパーのリベラル寄り過去が保守派に「裏切り」と呼ばれ、議論を呼ぶ。日本の保守層が「ほら見たことか!」と反応しそうな一冊。
    • フック: バイデン一家のドラマとタッパーの豹変。日本のスキャンダル好きに訴求。
    • 血統: タッパーはCNNの顔、トンプソンはAxiosの敏腕記者。米国では有名だが、日本ではマイナー。
    • 近走: 2025年5月20日発売予定、CNNのプレスで注目。トンプソンのスピーチが保守派に支持。
    • 日本の適性: バイデン批判は保守派に需要あるが、リベラルメディアのトランプ偏重が障壁。
    • オッズ: 12

-1(大穴)。ウマ娘のキタサンブラック並みの逆転狙い。

  • 『2024:トランプのホワイトハウス奪還と民主党の崩壊』(2024: How Trump Retook the White House and the Democrats Lost America)
    • 記者: ジョシュ・ドーシー、タイラー・ペイジャー、アイザック・アーンスドルフ(Washington Post)
    • 出版社: Penguin Press(Penguin Random House傘下)
    • 概要: 2024年選挙の包括的分析で、トランプの勝利と民主党の失敗を解剖。バイデンの認知能力の衰えとハリスへの急な交代が、選挙準備不足を招いたと指摘。トランプへのインタビューを基に、MAGA運動の戦略とバイデン陣営の内紛を詳細に描写。ナンシー・ペロシら民主党指導者との対立や、ハリスのキャンペーン混乱が露呈。学術的なアプローチは日本の政治学者に刺さるが、ゴシップ不足で一般読者には地味。
    • フック: トランプの生の声と民主党の内紛。日本のアカデミック層にニッチな需要。
    • 血統: Washington Postの精鋭トリオだが、日本では無名。
    • 近走: 2025年7月8日発売予定、Washington Postでプレビュー。トランプインタビューが注目。
    • 日本の適性: 出版時期が遅く、話題性が薄い。トランプ視点は保守派に需要あるが、ニッチ。
    • オッズ: 20-1(超大穴)。ステイゴールドの奇跡に賭けるレベル。
  • 『プロジェクト2025:トランプのアメリカ再構築』(The Project: How Project 2025 Is Reshaping America)
    • 記者: デビッド・A・グraham(The Atlantic)
    • 出版社: W.W. Norton & Company
    • 概要: トランプ2期目を支える極右の政策計画「Project 2025」を徹底分析。バイデン政権の弱さが、ラス・ヴォートやポール・ダンスら保守派の台頭を許したと批判。Project 2025は、連邦政府の縮小、移民規制強化、対中強硬策を掲げ、日本の安全保障(日韓の軍事役割強化)に影響。バイデンのリーダーシップ欠如が、トランプの「アメリカ第一」を加速させた。日本の外交関心層に響く知的な一冊。
    • フック: Project 2025の日本の安全保障への影響。リベラル批判を超えた政策分析。
    • 血統: The Atlanticの敏腕ライターだが、日本では無名。
    • 近走: 2025年早期発売予定、The Guardianで高評価。日本のメディアでProject 2025が一部報じられる。
    • 日本の適性: トランプ2期目の政策が日米同盟に影響を与えるため、外交関心層に需要。The Atlanticの信頼性がプラス。
    • オッズ: 5-1(対抗)。アーモンドアイの堅実な追い込み。
  • 『狂気の議会:トランプとMAGAの破壊劇』(Mad House: How Donald Trump, MAGA Mean Girls, a Former Used Car Salesman, a Florida Nepo Baby, and a Man with Rats in His Walls Broke Congress)
    • 記者: 不明(寄稿者集団か)
    • 出版社: 未確定(独立系出版社の可能性)
    • 概要: トランプとMAGA運動が2024年選挙後に議会をカオスに変えたと風刺。バイデン政権の混乱が、MAGAの「Mean Girls」や「ネポベイビー」(縁故主義の若手政治家)の跳梁跋扈を招いたと皮肉る。バイデンの衰えは間接的に触れられ、民主党の内部分裂が議会支配の失敗に繋がったと分析。過激な表現と断片的なエピソードは、日本のゴシップ好きにウケるが、まとまりに欠ける。
    • フック: 「MAGA Mean Girls」の風刺的キャラ。日本のコメディ好きに刺さる可能性。
    • 血統: 著者不明、知名度ゼロの雑草馬。
    • 近走: 2025年発売予定、Amazonでプレオーダー。風刺タイトルが話題。
    • 日本の適性: 風刺は面白いが高級すぎる。著者不明が致命的。
    • オッズ: 30-1(圏外)。地方競馬の無名馬並み。
  • 『トランプの凱旋:アメリカの復活』(Trump’s Triumph: America’s…)
    • 記者: ニュート・ギングリッチ ニュート・ギングリッチ(元下院議長)
    • 出版社: Center Street(Hachette Book Group傘下)
    • 概要: トランプの2024年選挙勝利を保守派視点で礼賛。バイデンの認知能力の衰え、経済失政、移民問題がトランプの復活を後押ししたと主張。MAGA運動の文化的影響と、バイデン・ハリス陣営の内紛を批判。日本のトランプ支持者に訴求するが、強いバイアスが一般読者を遠ざける。
    • フック: トランプの勝利物語。日本の保守派にニッチな需要。
    • 血統: 米国保守派の重鎮だが、日本ではマイナー。
    • 近走: 2025年発売予定、Barnes & Nobleで署名版販売。保守派の支持を集める。
    • 日本の適性: 保守派バイアスが強く、リベラルメディアが無視。ギングリッチの知名度不足。
    • オッズ: 40-1(圏外)。ダート短距離の低級馬。
  • 『急ぐ若駒:ニューサムの回顧録』(Young Man in a Hurry: A Memoir…)
    • 記者: ギャビン・ニューサム(カリフォルニア州知事)
    • 出版社: Knopf(Penguin Random House傘下)
    • 概要: カリフォルニア州知事の政治キャリアと、2024年選挙後の民主党の展望を描く回顧録。バイデンの選挙戦略の失敗とハリス陣営の混乱を間接的に批判。ニューサムの次期大統領候補としての野心が垣間見える。日本の政治オタクにニッチな訴求力。
    • フック: ニューサムの野心と民主党の内紛。日本の民主党ファンに刺さる可能性。
    • 血統: 民主党の次期候補だが、日本ではほぼ無名。
    • 近走: 2025年発売予定、Barnes & Nobleでプレオーダー。民主党支持者の支持。
    • 日本の適性: ニューサムの知名度ゼロ、ニッチすぎる。
    • オッズ: 50-1(圏外)。新馬戦で即失速。
  • 『権力と金:トランプとマスクの共謀』(The Power and the Money)
    • 記者: テビ・トロイ(元ブッシュ政権高官)
    • 出版社: Regnery Publishing
    • 概要: トランプとイーロン・マスクの結びつきを、バイデン政権の経済政策の失敗と対比。バイデンのリーダーシップ欠如が、トランプの「アメリカ第一」を後押ししたと分析。マスクの影響力は日本のテックファンに訴求するが、学術的なトーンが一般読者を遠ざける。
    • フック: マスクとトランプのタッグ。日本のマスクファンにニッチな需要。
    • 血統: 保守派ライターだが、日本では無名。
    • 近走: 2024年発売済み、The Guardianで注目。マスク関連で話題。
    • 日本の適性: マスクは関心あるが、学術的すぎる。
    • オッズ: 60-1(圏外)。ゲートインすら怪しい。

トラック分析:日本の出版市場の泥濘

 日本の出版市場は、東京競馬場の重馬場だ。トランプの『炎と怒り』は即翻訳、ボブ・ウッドワードの暴露本は棚を飾るが、バイデン暴露本は蚊帳の外のまま。

予想オッズと推奨ベット:翻訳のゴールライン

 さーて。ゴール前の直線だ! 本命は『戦い』(3-1)。蛍光テープとジル・バイデンのエピソードは、東スポも裸足で逃げ出すゴシップ力。著者の実績とJBpressの先行紹介が、早川書房の契約を後押しした。対抗は『プロジェクト2025』(5-1)。トランプの極右計画は日本の安全保障を揺さぶり、The Atlanticの知性が外交オタクに刺さる。単穴は『未知の領域』(8-1)。討論会の昼寝は笑えるが、ウィップルの無名さがハンデ。『原罪』(12-1)と『2024』(20-1)は米国のベストセラー化次第。残りは圏外、ゲートで躓く運命。

推奨ベット

  • Win:『戦い』。翻訳のバラは蛍光テープの輝き!
  • Exactaボックス:『戦い』+『プロジェクト2025』。ゴシップと安全保障の二刀流で高配当!
  • 穴狙い:『未知の領域』3着以内。昼寝エピソードが奇跡の追い込み!

ゴール後の写真判定:リベラルに問う

 ゴールラインを駆け抜けたのは『戦い』か? それとも全馬失速か? 日本のリベラルメディアは、トランプをウマ娘のキラキラ演出で悪魔化し、バイデンの蛍光テープを放送カット。NHKは「安っぽい偽物」を垂れ流し、朝日はトランプの『炎と怒り』にベット。だが、暴露本は真実のムチを振るう。アレックス・トンプソンが叫んだ、「誤りを認めることが信頼を築く」。リベラルよ、真実の写真判定を受け入れろ! 次走は2028年ダービー。ブックメーカーは今から眠れない日々だ!

 

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2025.05.02

GECによる米国民監視疑惑

 2025年4月30日、FOXニュースが報じたルビオ国務長官の暴露内容が、米国の言論の自由とプライバシーのあり方に深刻な疑念を投げかけている。政府のグローバル・エンゲージメント・センター(GEC)は、バイデン政権下で、米国市民のソーシャルメディア投稿を監視し、「偽情報拡散者」をリストアップしていたというのだ。この問題は、民主主義の根幹に関わる重大な事態として注目される。私は、他国の政治にすぎないとはいえ、この話にある種の怒りを感じるが、話題自体すでに陰謀論に流されつつあり、ゆえに冷静に事実を見つめる必要があるとも感じている。ここでは、ルビオの主張、GECの役割、ロイター報道を通じた陰謀論との境界、問題の核心、そして今後の展望を整理したい。

FOXニュースでのルビオの暴露

 ルビオ国務長官は、2025年4月16日、GECの後継機関「対外国情報操作・干渉ハブ(R/FIMI)」を閉鎖した。FOXニュース(参考)によると、ルビオ国務長官は閣議で、GEC(グローバル・エンゲージメント・センター)がトランプ政権関係者を含む市民のソーシャルメディア投稿を監視し、「偽情報拡散者」として個人情報をまとめた「ドシエ」(いわばブラックリスト)を作っていたことを暴露した。彼が「このテーブル(執務室)にいる少なくとも1人が標的だった」と述べると、副大統領のJD・バンスが「私かイーロン(マスク)か?」で冗談で返したが、冗談ですまされる話でもない。ルビオ国務長官は、GECが年間5000万ドル以上を浪費し、「検閲」を通じて言論の自由を抑圧したと批判し、その後継機関の閉鎖を「勝利」と位置づけた。
 この報道は、保守派の間で大きな反響を呼び、バイデン政権への批判を加速させた。「ドシエ」という言葉も、政府による不当な監視を連想させ、センセーショナルな印象を与える。しかし、この問題は微妙だ。GECの役割と問題の背景も理解する必要がある。

GECとは何か

 GECは、2016年にオバマ政権下で国務省内に設立された情報操作の機関である。予算は約6100万ドル、スタッフ120人で、ロシア、中国、イランなどの外国による偽情報やプロパガンダに対抗することが任務である。ソーシャルメディアの監視や分析を通じて、偽情報キャンペーンを暴露し、米国の外交政策を支えもする。2020年代には、コロナウイルスの起源や選挙干渉に関する偽情報にも対応していた。ルビオの言う「ドシエ」は、GECが市民の投稿を収集し、「偽情報拡散者」として記録したデータベースや報告書を指すと推測される。端的にいえば、ブラックリストでもある。なお、「ドシエ」(dossier)という言葉は、元来フランス語で「書類の束」を意味し、政治文脈では機密調査ファイルを連想させる(例:2016年の「スティール・ドシエ」)。フランス語にはこうした含意はない。
 今回の話題の中核となる「ドシエ」の具体的な内容や対象者は未公開で、ルビオの主張は現状曖昧だが、このニュースは、政府が市民を監視した可能性を示唆し、言論の自由への脅威として重大である。しかし、保守派の政治的アジェンダが混じる中、陰謀論との境界が曖昧になりつつある。それもまた問題でもある。

ロイター報道で検証

 ルビオの主張は、保守派メディアやXで拡散され、「検閲産業複合体」「ディープステート」といった陰謀論的なフレーズが飛び交った。イーロン・マスクは2023年にGECを「民主主義への脅威」と批判し、保守派活動家のマイク・ベンツは「主流メディアも偽情報を流す」と主張した。これらは、ルビオの「ドシエ」の話題が保守派の「リベラルな陰謀」ナラティブに利用されている印象を与える。メディア的な検証のためは比較対象としてロイターの報道(参考)を読むといい。これは比較的に中立的な視点を提供しているように思われる。ルビオがR/FIMIを閉鎖し、「検閲と税金の無駄遣い」を理由に挙げたと報じた。共和党の批判(GECが保守派メディアを抑圧)を裏付ける証拠として、「Twitterファイル」(2023年、マット・タイビ)や訴訟(2022~2024年、テキサス州、The Federalist、Daily Wire)を挙げてもいる。
 「Twitterファイル」では、GECがコロナの武漢研究所説や選挙関連の投稿を「偽情報」と誤分類し、国内アカウントを監視した。訴訟では、GECの資金提供先(Global Disinformation Index)が保守派メディアを「偽情報」と分類し、広告収入を損なったらしい。
 ロイターはまた、民主党(シャヒーン上院議員)や元GEC職員(ジェームズ・ルビン)の反論(「検閲の証拠はない」「外国が焦点」)も併記している。この報道は、GECの監視活動に問題があったことを否定せず、ルビオの主張に一定の根拠があると示唆する。だが、ロイター記事では「ドシエ」には言及していない。とはいえ、ロイターが監視問題を事実として報じる内容は、データベースのような記録の存在を暗に前提している。このニュアンスが、ルビオの主張を「本当臭い」と感じさせる。この話題は、完全な陰謀論とは言い切れない。

なぜ問題なのか

 GECの監視活動が、なぜ重大な問題なのか。核心は、政府が国内市民の言論を監視し、誤った分類で実害を与えた点にある。「Twitterファイル」によると、GECはコロナの武漢研究所説を唱えるアカウントを「偽情報」と誤分類し、データベースに記録した。訴訟では、GECの資金提供先がThe FederalistやDaily Wireを「偽情報」と評価し、広告収入を減少させた。これは、言論の自由を抑圧し、経済的損失を招く行為だ。The Federalistの編集者ショーン・デイビスは、「政府の介入でジャーナリズムが脅かされた」と批判した。
 監視はプライバシーの侵害にもつながる。市民の投稿を収集・分析するデータベースは、意図的でなくとも、監視社会への懸念を高める。2022年のミズーリ州・ルイジアナ州の訴訟で、GECがソーシャルメディア企業と連携し、コンテンツを「偽情報」とフラグ付けした。これは、保守派だけでなく、すべての市民の表現に影響を及ぼす。政府が「偽情報」を名目に監視を正当化すれば、自由な議論が萎縮し、自己検閲を招く。民主主義にとって、この問題は深刻だ。政府による監視は、国民の信頼を損なう。保守派メディアの実害は、特定の政治的見解が標的にされた印象を与え、バイデン政権への不信を増幅した。
 GECの規模(6100万ドル、120人)は小さく、FBIやNSAに比べ影響は限定的ともいえるが、誤分類の実害と監視の先例は、民主主義の透明性を脅かす。
GECの任務は当初は外国の偽情報対策だったが、国内へも波及したことは「過剰な監視」の結果でもある。政府としての説明責任が欠かせない。

問題の行方と課題

 ルビオ国務長官は「ドシエ」を対象者に渡すと約束したが、2025年5月1日時点での進展はない。公開されれば、内容(対象者、投稿、規模)が明らかになり、彼の主張が事実か誇張かが判明する。もしトランプ関係者専用のブラックリストを含むファイルが存在すれば、政治的監視として歴史的なスキャンダルとなる。しかし、「ドシエ」が日常的なデータベース(例:投稿リスト)に過ぎなければ、問題は「誤分類」に限定され、保守派の誇張だったという話にもなる。
 現時点でも、GECの監視は重大な問題だ。言論の自由とプライバシーの侵害は、民主主義の基盤を揺るがす。後継機関とはいえ実質GECの閉鎖は、共和党の政治的圧力の結果だが、偽情報対策の空白を招けば、ロシアや中国のプロパガンダに有利に働きかねない。適切な運用のためには監視の範囲、誤分類の原因、責任の所在を明らかにし、再発防止策を講じる必要があるともいえる。まったく廃止していいというものでもないだろう。そこでこの問題は、言論の自由と国家安全保障のバランスをどう取るかの議論に発展する。GECの監視は、当初は外国の脅威に対抗する意図だったが、国内への波及は許されないことは国民国家の原則とも言えるだろう。

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2025.05.01

[Eng] Thorium Molten Salt Reactors and the Spirit of Eizaburo Nishibori

Fourteen years ago, in 2011, I first read Kazuo Furukawa’s Nuclear Safety Revolution and wrote a clumsy review, utterly captivated by the promise of thorium molten salt reactors (MSRs). It wasn’t just a safer kind of nuclear power—it felt like a vision to rewire energy itself, turning reactors into something as civic and essential as a water utility. I saw a future in it, sparked by the same audacious spirit I’d found in Eizaburo Nishibori’s You Can’t Cross a Stone Bridge by Tapping It—a book I read in my youth, which preached boldness over paralyzing caution. After Fukushima’s meltdown, with Japan stuck in a haze of distrust and inertia, I believed Nishibori’s call to action could cut through. Fast-forward to April 2025: China’s announcement of the world’s first continuously operating thorium MSR, complete with live fuel recharging, hit me like a jolt. It’s thrilling, but Japan’s stagnation leaves a lingering sense of regret. With Nishibori’s spirit as my lens, here’s a look back at the last 14 years, the tech’s progress, and what lies ahead.

My 2011 Review and Thorium Fever

Back in 2011, I called Furukawa’s book a “vista glimpsed through the trees on a mountain trail.” His thorium reactor wasn’t just an alternative to traditional nuclear—it challenged the whole arc of energy history. Drawing on Eugene Wigner’s insight that “nuclear fission is a chemical reaction, best handled in a liquid medium,” the molten salt reactor, born in the 1960s at Oak Ridge National Lab, should’ve been Japan’s post-Fukushima beacon. The “FUJI-II” concept—compact, community-friendly—sketched a future where citizens could democratically manage sustainable energy. Nishibori’s spirit dovetailed perfectly here. A mountaineer-scientist who summited Nanda Devi and shaped Japan’s nuclear program, he warned that “tapping a stone bridge” with endless caution makes crossing impossible. That boldness, I thought, was what thorium needed. Late in life, disillusioned by the nuclear establishment’s rigidity, Nishibori backed Furukawa’s MSR work with fervor. In my review, I wrote that I could “hear Nishibori’s voice clearly” and urged readers to pick up his book. Post-Fukushima, thorium felt like Japan’s shot at technological redemption. But truth be told, even I let that spark fade over the years.

What Makes Thorium MSRs Tick

Thorium MSRs use molten salt (lithium-beryllium fluoride, or FLiBe) as both fuel and coolant, converting thorium-232 into uranium-233 via neutron bombardment to drive fission. Unlike pressurized water reactors, they operate at atmospheric pressure, slashing explosion risks. If things overheat, a “freeze plug” melts, draining the molten salt into a safe tank—a passive safety feature. Thorium is 3–4 times more abundant than uranium, produces less long-lived radioactive waste, and is harder to weaponize. Challenges? The salt is corrosive, and you need uranium-235 or plutonium-239 to kick things off. But advances in materials like Hastelloy-N alloys have tamed corrosion, boosting practicality.

Over the last 14 years, while my attention drifted, the world didn’t stand still. China led the charge. In 2011, the Chinese Academy of Sciences sank $444 million into MSRs, breaking ground on a 2MWt test reactor (TMSR-LF1) in the Gobi Desert by 2018. It hit criticality in October 2023, reached full power by June 2024, and achieved in-reactor fuel recharging by October 2024, proving thorium-to-uranium-233 breeding through the detection of protactinium-233. China’s eyeing a 10MWt demo reactor by 2030 and a 100MWt commercial one in the 2030s, backed by Inner Mongolia’s thorium mines, which they claim could “power the country for tens of thousands of years.”

Elsewhere, India, sitting on 25% of global thorium, aims for 30% of its power from MSRs by 2050 but lags in molten salt tech. The U.S. (TerraPower, Flibe Energy), Denmark (Seaborg’s floating MSRs), and Europe (NRG’s salt irradiation tests) are in the game, but only China has a running reactor. My 2011 thorium dreams? They’re coming true—in China.

Japan? Stalled. Post-Fukushima mistrust, a slump in scientific ambition, and a fixation on uranium and plutonium sidelined thorium. A 2013 “Molten Salt Nuclear Applications Committee” and Furukawa’s Thorium Tech Solution carry the torch, but funding and talent are scarce.

China’s Win and What It Means

In April 2025, China’s TMSR-LF1 ran continuously, recharged fuel, and churned out 2MWt of heat, confirming fuel breeding over 10 days at full power. Mixing thorium and a dash of uranium in molten salt, it uses specialty alloys to curb corrosion. Its passive safety cuts Fukushima-style risks. Next up: a 10MWt demo reactor starting in 2025 (60MW heat, 10MW power, plus hydrogen production) and a 100MWt commercial unit in the 2030s, eyeing power, hydrogen, and ship propulsion to hit China’s 2060 carbon-neutral goal. Corrosion is being tamed with better nickel alloys and ceramic coatings; breeding cycle tweaks reduce reliance on starter fuels. Waste and regulations remain hurdles, but China has cracked open the path to commercialization. The gap’s widening. We may one day find ourselves relying on China for the very technology we once overlooked.



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トリウム溶融塩炉と西堀榮三郎の精神

 14年前、2011年、私は古川和男の『原発安全革命』(参照)を読んで、拙いながら書評を書いたことがある。トリウム溶融塩炉(MSR)の可能性に心を奪われ、原発を市民社会に根ざした「水道施設」のような存在に変えるビジョンに未来を見たのだった。加えて、若い日に読んだ西堀榮三郎の『石橋を叩けば渡れない』(参照)の精神が、福島第一原発事故後の閉塞感を打破する力になると信じたものだった。2025年4月、中国が世界初のトリウム溶融塩炉の連続運転と燃料補給に成功したニュースは、私の胸を熱くするが、日本の停滞には複雑な思いも抱く。西堀の精神を軸に、この14年の動向を振り返り、技術的進展と今後の展望を考える。

14年前の書評とトリウム炉への情熱

 2011年、私は古川和男著『原発安全革命』を「山道の木々の隙間から見る眺望」と評した。彼の描くトリウム炉は、単なる原発の代替ではなく、エネルギーの歴史を問い直す存在に思えたのだった。ユーゲン・ウェグナーの「核分裂は化学反応、液体媒体が理想」という洞察に基づき、1960年代のオークリッジ国立研究所で開発された溶融塩炉は、福島事故後の日本で安全なエネルギー源として輝いてもよかった。しかも、小型で地域に溶け込む「FUJI-II」のビジョンは、市民社会がエネルギーを持続可能かつ民主的に管理する未来を展望させた。このビジョンに、西堀榮三郎の精神が重なった。登山家・科学者としてナンダ・デヴィの初登頂や日本の原子力開発に貢献した西堀は、「石橋を叩けば渡れない」と説いたものだ。過度な慎重さが機会を逃すことを戒めるこの言葉は、トリウム炉の推進に必要な大胆さを象徴する。彼は晩年、原子力界の硬直性に失望しつつも、古川のトリウム炉研究を支持し、社会実装に情熱を注いだ。私は書評で西堀の声を「明確に聞きとる」と書き、彼の『石橋を叩けば渡れない』を推した。福島事故後の日本で、トリウム炉は技術復興の希望に思えた。だが、そう思った私自身、この年月で忘れていた。

トリウム溶融塩炉の技術的特徴

 トリウム溶融塩炉は、燃料と冷却材に溶融塩(フッ化リチウムとベリリウムのFLiBe)を使用し、トリウム232を中性子照射でウラン233に変換して核分裂を起こす。従来の軽水炉と異なり、大気圧で運転するため高圧爆発リスクが低く、過熱時には「凍結塩プラグ」が溶けて溶融塩を安全タンクに排出する受動的安全性を備える。トリウムはウランより3~4倍豊富で、長寿命放射性廃棄物が少なく、核兵器転用リスクも低い。だが、溶融塩の腐食性や初期にウラン235・プルトニウム239が必要な点は課題だ。腐食対策にはハステロイ-Nなどの特殊合金が使われ、最近の材料科学の進展で実用性が向上している。
 トリウム炉技術は、私が関心を薄くしていくなかも、この14年で世界で伸展した。牽引役は中国だった。2011年、中国科学院は4億4400万ドルを投じ、2018年にゴビ砂漠で2MWtの実験炉(TMSR-LF1)の建設を開始。2023年10月に初臨界、2024年6月に全出力運転、2024年10月に運転中の燃料補給に成功。プロタクチニウム-233の検出で、トリウムからウラン233への増殖が実証された。中国は2030年までに10MWt実証炉を、2030年代には100MWt商業炉を目指す。内モンゴルのトリウム鉱山が「数万年のエネルギー需要を賄える」との主張は、エネルギー安全保障のスケールを示す。
 他国も動いた。インドはトリウム埋蔵量の25%を保有し、2050年までに電力の30%をトリウム炉で賄う目標を掲げるが、溶融塩炉では後れを取る。米国(TerraPower、Flibe Energy)、デンマーク(Seaborg Technologiesの浮体式MSR)、欧州(NRGの塩照射試験)は研究を進めるが、運用は中国のみ。14年前に私が感じたトリウム炉は、中国で現実化しつつある。
 日本はといえばトリウム炉技術は伸展しなかった。日本人の科学技術意識低迷に合わせて、福島事故後の不信感とウラン・プルトニウムサイクルへの依存が、トリウム研究を阻んだ面もあるかもしれない。2013年に原子力学会内に「溶融塩の核応用研究委員会」が設立され、古川の「FUJI」炉を継承するトリウムテックソリューションも存在するが、資金・人材不足は深刻だ。

中国の成功と技術的意義

 2025年4月、中国のTMSR-LF1は連続運転と燃料補給に成功した。2MWtの熱出力を生成し、10日間の全出力運転で核燃料増殖を確認した。この炉は、溶融塩にトリウムと少量のウランを溶かし、特殊合金で腐食を抑制。受動的安全性は、福島型事故のリスクを軽減する。次のステップは、2025年から始まる10MWt実証炉(60MW熱で10MW電力と水素を供給)、2030年代の100MWt商業炉だ。電力に加え、水素製造や船舶推進への応用も視野に入り、2060年のカーボンニュートラル目標を支える。技術的課題も進展している。溶融塩の腐食は、ニッケル基合金やセラミックコーティングの改良で軽減。初期燃料のウラン235・プルトニウム239依存は、増殖サイクルの最適化で低減可能だ。廃棄物管理や規制枠組みの構築は残るが、中国の成果は商業化への道を開いた。彼我の差は開きつつある。まあ、いつか中国に技術を請うでもよいだろう。



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