嫌うことの自信
昨日、「嫌うことの自由」という話を書いたあと、少し心に引っかかっていたことがあった。「嫌うことの自由」ということと、「誰かを嫌うことで、他者と共感を得ようとすること」の差異のようなものである。
単純に言うなら、「誰かを嫌うこと」と「誰かを嫌いだと言うこと」の違いである。
言うまでもないが、ネットの世界は、「誰かを嫌いだと言うこと」に溢れている。嫌いなら嫌いでいいじゃないか、嫌うのも自由だし、勝手に一人で嫌っていたらいい、はずなのに、ネットでは(ネット以外でもそうだろうが)、「誰かを嫌いだと言うこと」に溢れている。どういうことなのか?
何かが嫌いだという自分の思いに承認を求めているのだろう。
なぜ、個人的な嫌悪に承認が必要なのだろうか? そんなの個々人の自由でいいじゃないかというのが昨日の話であったが……
実際は、そうした個人の沈黙の思いで閉じていなくて、嫌いであることの承認が求められている現状がある。なぜか?
嫌うということに、ある種の不自由を感じているからだろう。
嫌うということに、自信がもてないから、といってもいいだろう。
人は、心のなかで、何かを嫌うとき、「それを本当に嫌っていいんだろうか?」というためらいの感覚を持つのだろう。だとするとそれはなぜか?
親とか先生に「好き嫌いをもってはいけない」と言われてきたからだろうか。「自分が嫌われる立場になるといやだから、自分もそうしようにしよう」とするのだろうか? はて?
と、ぼんやり考えて、もしかしたらと思ったことがあった。
好き嫌いというのは、雑食と関係があるんじゃないだろうか?
人間とか豚とかは、雑食である。
雑食というと、なーんにも考えずになんでも食うおバカみたいな印象があるが、実際は、逆で、何が食えるか食えないかをいちいち判断して食って生き延びるという動物である。
人間や豚は、食い物みたいなものがあるとき、これ食えるか、食えないか、自問するのである。まずは、くんっと臭いを嗅ぐだろう。
そして、うっ、これは食えない、という感覚を持つことがあるのだが、そのときの感覚の根は、これは嫌い、いやな臭い、だということではないだろうか?
ただ、そうやって自分で食えるか食えないか判断している豚と人間の差は、人間のほうは、文化的に、これは食えるという観念体系を継いで来ているのだろう。納豆とか食えるのも、これは食えるという伝統と教育だろう。
話を戻すと、嫌いということに承認を求めるのは、この雑食と文化の枠組みにあるんじゃないかということだ。
これをどう裏付けていいかよくわからないが、こう考えると1つ明確になってくることがある。2つといっていいかもしれない。
1 人間や豚は雑食性ゆえに好き嫌いを区別する動物である
2 人間は文化的に食えるものを、最初嫌いでも受け入れる
嫌いであることに承認を求める心性というのは、この2の残存ではないか?
そうであれば、この2の文化性をネットとかの承認ではなく、きちんと文化のなかで見直せば、あらかた十分なのではないか。
どういうことかというと、これは嫌いだなという自分の感覚があり、でもそこに、嫌うことの自信がなければ、人間の文化のなかで、それを嫌う根拠性を理解すれば足りるということだ。承認は概ね不要。
具体的にどうか? 例えば、ワーグナーの音楽。好きな人もいるが、嫌いな人もいる。嫌いな理由はすでに文化的に積み上がっている。その嫌いな理由に合意できれば、「ねえねえワーグナーの音楽は嫌いだ!」という必要はなくなる。
こういうふうに考えると、好き嫌いということと、善悪ということは、分離できるんじゃないだろうか。何かが潜在的に悪であるという感性は、最初は嫌いということに根を持つだろうが、そこで承認を広げていくより、悪の構成要素を理性で訴えたほうがいいだろう。
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