昔の大人の思い出
どうも世事に疎くていけない。実家に立ち寄ると母親が中学三年生の男子虐待事件の話をしていたが、他の話のごとく馬耳東風でいた。今朝新聞社説を見ると社説の話題になっている。これが、まるでわからない。いや、わからないものでもないのだが、まず思うことは、この事件は極めて特定の事件なのだから、社会がそれほど目を向けるべきなのかということだ。産経新聞社説「子供虐待 連係プレーで早期対応を」のこの言及の疑問と同じだ。
今回のケースは最初、長男と二男(一四)が虐待を受け、兄弟は何度か祖父母の家に逃げたが、連れ戻された。二男はさらに実母(三五)を頼って逃げたが、長男は逃げなかったという。恐怖心のためと思われるが、中学生なら、体が衰弱する前に、弟と一緒に自力で逃げられなかったのかなど疑問も残る。
錯綜した内実があるのだろうし、そういう問題にまで、社会の構成員としての他者として存在しえない私がどう考えていいのかわからない。あるいは、極めて文学的な課題だとも思う。
こうした世相に子供の虐待というくくりで社会問題にしたがる傾向があるが、子供の虐待という点では、このブログでも紹介した「芸者」など、その最たるもので、昔からあんなものだ。そうあってはいけないが、人間の境遇というのはそういうものだ。
もう一点。こうしたオヴァートな虐待を社会の言説は取り繕うのだが、私の思春期の感性を思うと、大人たちの子供への常在する心理的虐待のほうが大きな問題だと思う。みな、子供から大人になったはずなのに、あの頃の思いを忘れるのだろうか。私ですら、些細なことではあるが、ああ、僕は死んじゃうのかと伏せって息も絶え絶えに苦しんでいるとき、家族はテレビの馬鹿番組で笑い転げていたことを覚えている。家族を恨んでいるとは思わない。そういうものだとは思うし、あの時の自分を思うと、誰からひと言さりげない声をかけてくれてもいいのでないかとも思う。
思い出に浸りたくはないが、学校もひどくなった。小学校のころは、まだ復員兵の味のある先生や戦争未亡人の先生がいた。「でもしか先生」というのもいた。死線をさまよう経験や女や酒にやすした経験をもったが子供に適当に向き合う大人がいた。子供はそうした大人の大人らしさや不思議な優しさを感じ取った。だが、中学・高校とそういう先生はいなくなった。自分でも感じるのだが、そこに戦前と戦後の線があったようにも思う。戦前がいいわけではないが、そこにはそれを緩和する人間の経験があった。それは「芸者」を読んでもわかる。
そうした、感性と言いたくはないのだが、なにかを社会は失っている。し、それを復権することはできないのだが、こうしたトンマなサラリーマンの高校教師の作文みたいな社説を読むと、人間の薄っぺらさを感じる。
余談で締めたい。先日ラジオ深夜便をきいていて、ほぉと思ったのだが、フランスなどでは、子供を一人家に置いて大人が外出することすら法に触れる虐待になるそうだ。ホントかなと思うが、自分が外人家庭を覗いた経験からすれば、そうした精神が根幹にあるのはわかる。大人は大人、子供は子供といった社会だからこそ、大人たちは子供の最低ラインはきっちり守るのである。ああいう大人たちと日本人のへなちょこが戦ったら勝てるわけもないか、いや、戦前は日本にも大人がいたか。などと思う。今は、日本には、大人語をしゃべるシミュラクルばかりだ。
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コメント
>あるいは、極めて文学的な課題だとも思う。
そうですね。これはやはり文学的な課題だといえると思います。ちょっと見渡してみると、そういう文学的な課題というものが多いような気がします。
しかしながら、社会というかマスメディアはそういう認識をしていない、という感じがします。
比喩的な意味の「文学」ではなく、実際の文学も、そういう社会のバックグラウンドを支えるようなものよりは、ごく個人的な視点から周りを見渡すものが最近は多いように思います。
社会構造の変化ということだけで割り切っていいものかどうか判断することは、私にはできません。
日本はビジョンを持っていないというような文脈で語られる文章をよく見かけます。それは結局のところ文学性のなさ、ということにつながるのでしょう。
しかしながら、「日本人」というくくり方がもう通じなくなって来ている中で、共通のビジョンなんてものを提示できるとはおもいません。
個人が個人として生きていく社会がもう扉をノックしているのかもしれません。
いまいち、まとまりませんが、要するに、新聞各社がもっている認識がもう古くて使い物になっていないのに、そのこと事態に気付いていないんじゃないか、ということが言いたかったわけです。
投稿: らした | 2004.01.27 13:09
らしたさん、ども。そうでね。今回の芥川賞でも「文学」っていうのはあるだろうし、それはそれでいいのだけど、なんというか、普通の社会の生活のなかで問われている文学的みたいな問題、つまり、苦しみを言葉に変えていく、っていうことがうまく表現されているのかと疑問です。昨日、クローズアップ現代で自傷少女の話題があったけど、問題は親子関係であり、カウンセリングで話し合えばいい、みたいなオチで、そうかぁとか思いました。むずかしいですよね。
投稿: finalvent | 2004.01.27 14:32
え・・と
たいしたことことではなくて恐縮なんですが、ちょっとコメントです。
>ああ、僕は死んじゃうのかと伏せって息も絶え絶えに苦しんでいるとき、家族はテレビの馬鹿番組で笑い転げていたことを覚えている
これはぼくもありました。
ぼくのときは家族は「おしん(少女編)」みてました。
で、
なにか大切なことを言おうとしていたのに「いまこれ見てるから黙って!!」って言われたのを覚えています・・。
あと、「大人」ってことについて書いてくださったんだと思いますが・・・
まぁ、これはもうちょっと・・っていうかそれなりの大人は見てきたつもりなので・・(そういう人たちはいずれもみょーなプライドはもってなかったです)
じっくり考えていこうと思います
(たぶん、責任感だとか思いやり・配慮だとかが絡むんだと思いますが・・)
あと、付記です
>今は、日本には、大人語をしゃべるシミュラクルばかりだ。
これ見てちょっと思い出したんですが・・
いまNHK教育で朝8:00からやってる「にほんごであそぼ」ってのが面白くて・・
その中では李白の例の詩(「国敗れて~」)とか読ませたりするんですね。
(斉藤孝さんの、声に出して覚える日本語の流れだと思います)
そういうのを見てて「・・シュールだなぁ」って思って・・。
そういう風に番組の中で言わされている子供たちと、社会環境の中でカタカナ語で踊らされてる人たちとどっちがシミュラクルなんだろう・・って思ったりしました (^-^)
(あ・やばい。黒いですかね?)
では、また寄らせてもらいます
投稿: m_um_u | 2004.01.27 16:36
ども。「にほんごであそぼ」はこないだまで見てました。野村萬斎、Konishiki、神田山陽の芸を見るためです。彼らのクオリティはすごいと思いました。斉藤孝については、すみません、また評価低くてです。おい、この馬鹿、可燃ゴミか不燃ゴミかとか、言ってましたし(おいおい)。斎藤を抜きにすると、ああいう朗読っていうのは、ルドルフ・シュタイナー教育のシュプラッハというので10年前にやってまして、私もオイリュトミーと併せて少し学んでました。
投稿: finalvent | 2004.01.28 08:41
あ・シュタイナー教育の流れなんだ・・。
・・勉強になります m(_ _)m
投稿: m_um_u | 2004.01.28 11:05
m_um_uさん、ども。このあたり、単純にシュタイナー教育の流れとも言えないのですが、といのは、シュタイナー派には、いわゆる西洋かぶれと、日本意識派と、分かれるみたいなんです。後者ではかなり近いですよ。
投稿: finalvent | 2004.01.28 12:28