若葉して御目の雫ぬぐはばや
今日は鑑真和上が来朝した日だそうである。1日違うような気もするがあまり細かいことはどうでもいいだろう。また、ネタ元を書くとご負担をかけそうなので、あえて書かない。
私は鑑真和上が好きで、これまで何度も唐招提寺に行った。天平の甍にはあまり関心はない。エンタシスとされる柱にもあまり関心はない。私が好むのは、廟の静けさと凛とした孝謙天皇宸筆だ。私はこの二人に問いかけて時を過ごす。そういえば、夏になれば、前の売店でよく冷やし飴を飲んだ。
鑑真について、いつも気になることがある。和上は失明するほどの辛苦をしてまで、なぜ日本に来たのか。もちろん、仏教にかける宗教的な情熱であることは間違いない。日本の衆生を救おうとしたことも間違いない。だが、あの時代も、そして今も、日本人は和上の思いをまるで理解していないじゃないかと、私は思う。
和上は戒を授けに来たのだ。戒なくして仏教はない。日本の歴史家は仏教を根本的に理解していないのではないかとすら思うのだが、仏教の根幹は、戒である。あの時代、戒なき東方の島国日本では仏教のような呪術宗教が広まっていただけだ。和上は、それを仏教だと思ってはいなかった。
仏教は出家者の宗教である。仏陀につながる師匠から戒を受け(受戒)、僧となるものの宗教である。戒とは具足戒ことである。諸説があるが、常識的に広辞苑の解説を取るに、比丘(男)に250戒、比丘尼(女)に348戒ある。受戒には、戒を授ける戒師、作法を教える教授師、作法を実行する羯磨師の三師と、受戒を証明する七人の尊証師の十師が必要になる。三師七証だ。和上はその中心の戒師たるべく日本に来たのだ。来訪年については、広辞苑にある天平勝宝5年つまり753年を取る。旧暦で12月26日。この日に太宰府に到着。ちなみに今日は旧暦の25日。
和上は日本に来て、受戒のために戒壇を作った。日本国の根幹となる戒壇であるから、国分寺の元締めである東大寺に作った。そして、聖武天皇、光明皇太后、孝謙天皇にまず菩薩戒(三聚浄戒)を受けた。が、菩薩戒とは、不殺、不盗、不淫、不妄語、不酒といった道徳に過ぎない(余談だがヨガの第一段階も同じ)。戒といえば戒であるが、僧たる戒ではまったくない。
当時の日本人は和上を心待ちにしていたわけではない。和上がいらっしゃるのに、現在の自民党のような醜悪な闘争を繰り広げていた。旧来のインチキ僧速成法である自誓作法や三師七証不要論など、僧の名を借りる仏敵が続出した。和上は嘆かれたはずだ。
その後も酷い。758年(天平宝字2年)、淳仁天皇が即位にあたり、前天皇である孝謙天皇は、鑑真に大和上の称号を与えるも、実際の権限を伴う大僧都の任を解いた。つまり、左遷である。ポイ捨てである。その蟄居先とも言えるのが唐律招提寺であり、後の唐招提寺である。
和上は763年(天平宝字7年)、76歳で死んだ。非業の死であると思う。日本人の酷い仕打ちもだが、もっと惨いのは、その後の日本仏教史だ。
和上死後数年の後、767年、後の最澄が生まれる。最澄は戒を徹底的に破壊した。具足戒を菩薩戒で良しとした(十重戒と四十八軽戒になった)。三師七証を廃した。つまり、鑑真以前の自誓受戒に戻した。
話を現代に戻して終わりたい。8年前、世間はオウム真理教を偽仏教のごとくあざ笑ったが、日本の仏教自体、戒もないのだ。戒を捨てた仏教は仏教とすら呼べない。日本仏教史こそ、ちゃんちゃらお笑いなのである。
そして、現在、世間は仏教ブームだそうである。肉食女犯の輩が恥もなく墨衣を着て仏の教えをたれているのである。
地獄は一定住処なりというならまだいい。多くの人が誤解しているが親鸞は僧ではない。自身そう宣言している。弟子も教えもないのである。そこまで徹するならいい。だが、そこまで徹するなら仏教はいらない。
| 固定リンク
「歴史」カテゴリの記事
- 荒地派のスペクトラム(2016.02.15)
- 新暦七夕のこと(2004.07.08)
- 一番大切なものが欠落していた戦後70年談話(2015.08.15)
- 日本国憲法の八月革命説について(2015.08.11)
- 日本国憲法の矛盾を考える上での参考書……(2015.08.02)
この記事へのコメントは終了しました。





コメント