日本が創薬支援を強化する背景と問われる「基盤の安定」
日本政府はここ数年、創薬力の強化を明確な国策として位置づけている。2023年末に始まった「創薬力の向上により国民に最新の医薬品を迅速に届けるための構想会議」をきっかけに、医薬品産業を成長産業・基幹産業と定め、官民一体でエコシステムの構築を進めている。岸田政権下で本格化したこの流れは、高市政権のもとでさらに加速し、成長戦略の17分野の一つに「創薬・先端医療」を据え、専用ワーキンググループを設置して具体的なロードマップを議論している。
背景にはいくつかの現実的な課題がある。第一に、ドラッグ・ラグやドラッグ・ロスの問題がある。だいぶ改善されてきているが、いまだ海外で承認されている薬が日本で使えない、または承認が遅れる状況が続き、特に小児用や希少疾患の薬で顕著となりつつある。第二に、日本の製薬産業の国際競争力低下だ。基礎研究の水準は高いものの、事業化やグローバルな臨床開発、ベンチャーキャピタルの規模で欧米に後れを取っている。第三に、経済安全保障と健康安全保障の観点がある。パンデミックや地政学的リスクを背景に、医薬品の供給網を国内で強靭化する必要性が高まっている。そして第四に、高齢化社会への対応だ。認知症や加齢関連疾患に対する革新的治療の需要は今後も増え続けると見込まれることだ。
これらの課題に対し、政府はAMED(日本医療研究開発機構)の機能強化、創薬スタートアップへの支援、国際共同治験の基盤整備、AI活用の推進など、具体的な施策をパッケージで展開している。かなりの注力と見られる。令和7年度補正予算では創薬力強化に向けた事業規模として約3300億円(国費約1800億円程度)が措置され、革新的医薬品等実用化支援基金(481億円程度)や治験環境整備などが含まれる。さらに成長戦略全体では、創薬・先端医療分野で2040年度までに官民合わせて約43兆円から64兆円規模の投資を想定するロードマップが示されている。
しかし、この創薬支援の強化に対しては、私には根本的な疑問が残る。医療イノベーションの追加的な便益が、結果として富裕層や高齢層に偏りやすい構造になっているのではないか、ということだ。新しい高額治療の多くは加齢関連疾患を対象とし、受益者が70〜90歳前後の層に集中しやすい。その一方で、そのコストは保険料や税を通じて社会全体、特に中間層以下が負担する形になりがちである。公的資金で基礎研究を支え、成功した部分だけが民間企業に高額で還元される流れは、分配の公平性という観点から見て、どこかで限界を迎える可能性がある。
この文脈で特に注目すべきは、エッセンシャルメディスン、特にジェネリック医薬品の供給網の安定性である。基本的な感染症治療や慢性疾患管理の多くを支えているジェネリックは、利益率が低いために生産ラインの維持が難しく、製造停止や出荷調整が慢性化しやすい
2025年9月末時点の分析では、安定供給不安事象が約396成分(医薬品成分全体の約12.3%)に上り、感染症関連医薬品などで長期化しているケースが多い。ジェネリック製薬業界全体では、2025〜2029年度の5年間で約2580億円から2700億円規模の設備投資を計画し、追加供給量として約140億〜144億(薬価収載単位)を目指しているが、2026年度時点でも需給が拮抗する程度で、完全な安定にはまだ時間を要する見通しだ。限定出荷や供給停止品目数も、2024年3月の579品目から2025年6月時点で382品目まで減少したものの、依然として医療現場に影響を及ぼしている。
こうした基盤が揺らぐと、最初に困るのは低所得層や医療アクセスが限定的な人々である。新薬の開発を後押しする政策がいくら進んでも、今ある治療を確実に届ける仕組みが不安定では、本末転倒になりかねない。
政府が創薬に関わること自体を否定する必要はない。市場だけでは解決しにくい公共的な課題——抗菌薬耐性対策やパンデミック対応——は存在する。だが、その関わり方は選択的であるべきだろう。高齢富裕層向けのニッチな高額イノベーションに資源を集中させるより、エッセンシャルジェネリックの生産拠点安定化、国内複数拠点化、物流の強靭化にこそ、優先的に公的役割を果たす意義がある。予防や社会的決定要因への投資も、長期的に見て費用対効果が高い領域だ。
結局のところ、創薬支援の強化は「何を、誰のために、どの程度のコストで」行うのかという問いを常に伴う。技術の進歩を否定するつもりはないが、それが社会の基盤を支える人々により広く、かつ持続可能な形で還元される仕組みを同時に整えなければ、政策の正当性は揺らぎ続ける。エッセンシャルメディスンの供給網を確実にするという、地味だが本質的な課題にこそ、今こそ目を向けるべきではないだろうか。
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