2026.03.12

中国「民族団結進歩促進法」が完成させるもの

5年以上前になる。2020年9月、内モンゴル自治区で異例の事態が起きた。新学期の初日、教室は空だった。モンゴル族の親たちが、子どもを学校に送ることを拒んだのだ。きっかけは、教育当局がモンゴル語による授業を標準中国語(普通話)に切り替えると発表したことだ。この地域のモンゴル語教科書を廃止し、北京が編纂した全国統一教科書に置き換えるという方針への反発だった。

抗議は瞬く間に自治区全域に広がった。学生たちは校門を突破して街に出た。牧畜民も、公務員も、教師も声を上げた。ある親はSNSにこう投稿した。「私は中国人だ。私はモンゴル人だ。何を奪ってもいい。でも母語だけは奪うな」。当局はモンゴル語のSNSプラットフォーム「Bainu」を閉鎖し、顔認識技術で抗議者を特定し、数千人規模の拘束に踏み切った。登校拒否を続けた家庭には解雇、資産差し押さえ、子どもの退学処分が突きつけられた。

2026年3月12日、中国の全国人民代表大会(全人代)で「民族団結進歩促進法」が成立する。この法律は、少数民族の言語と文化の同化を、国家の恒久的な制度として完成させるものではないのか。

「団結」という名の同化装置

法案の名称に違和感を感じない人もいるだろう。「民族団結進歩促進法」。団結を促進し、進歩を図る。字面だけなら、多民族国家の調和を目指す制度に見える。中国政府もそう説明している。NHKもそう報道するかもしれない。全人代常務委員会の李鴻忠副委員長は、この法律の目的を「中華民族共同体意識を国家の意志として法制化すること」だと述べた。

だが、問題の核心は、「中華民族共同体意識」である。習近平政権の民族政策は、「第二世代民族政策」と呼ばれる学術的潮流の影響を色濃く受けている。その骨格はこうだ。かつての中国は少数民族に一定の自治権を認め、独自の言語や文化を政策的に保護してきた。だが、それは「分裂」のリスクを孕む。だから、56の民族を「中華民族」という上位概念のもとに統合し、共通の帰属意識を持たせるべきだ、と。

習近平はこの考え方を「民族工作の改善と強化に関する重要思想」として体系化し、「十二の堅持(堅持すべき十二の原則)」として定式化した。そこで繰り返されるのが、「中華民族共同体意識の鋳造」「共有の精神的故郷の建設」「広範な交流・交際・交融の促進」といったフレーズだ。そして、今回の法案は、これらのフレーズをそのまま章のタイトルに使っている。第二章は「共有の精神的故郷の建設」、第三章は「交流・交際・交融の促進」、第四章は「共同繁栄と発展の促進」。法律の条文というより、党のスローガン集のような構成だ。

NPC Observer(全人代を独立的に追跡するイェール大学中国法センター提携のサイト)の分析が的確に指摘するように、これは習近平の民族ドクトリンを法的に正統化し、確固たる制度的基盤を与える作業にほかならない。

言語の周縁化が制度になるとき

法案の具体的な条文に目を向けると、「同化」の輪郭ははっきりする。まず、標準中国語(普通話)の普及が強く打ち出されている。法案は、2025年12月に改正されたばかりの「国家通用言語文字法」の関連規定を取り込みつつ、さらに踏み込んでいる。就学前の幼児に普通話を習得させることを目標に掲げ、公共の場で少数民族の文字を併記する場合には漢字をより目立つ形で表示するよう求めている。教育面では、「中華民族共同体」に関する教科書を教育部と民族事務委員会が共同で開発し、すべての学校でその概念をカリキュラムに組み込むことが義務づけられる。

法案には「少数民族の文字の標準化、デジタル化、保存を支援する」という文言もある。しかし、これは一見すると文化保護の条項に見えて、その実態は大きく異なる。専門家の間では、こうした「保存」の意味するところは、言語を生きた日常のコミュニケーション手段として守ることではなく、博物館的に「忘れられないようにする」ことだ、という見方が共有されている。

内モンゴルで近年、何が起きたかを思い出してほしい。2020年に始まった教育言語の切り替えは、その後さらに拡大した。モンゴル語の授業は幼稚園から完全に排除され、小中学校でも週7コマから3コマへと削減された。高校入試は2025年から中国語のみとなり、大学入試からも2028年までにモンゴル語が消える見通しだと報じられている。これは内モンゴルだけの話ではない。チベット自治区では以前から寄宿制学校への就学が強力に推進され、チベット語教育の機会は著しく制約されてきた。新疆ウイグル自治区ではさらに深刻で、大規模な「職業技能教育訓練センター」の運営とあわせて、ウイグル語の使用空間そのものが急速に縮小している。

今回の法案は、こうした各地で個別に進められてきた言語の周縁化を、全国レベルの法律として一本化するものだ。もはや地方ごとの行政判断ではなく、国家の方針として制度化される。

「精神的故郷」を誰が定義するのか

言語の問題は、単に「何語で授業を受けるか」にとどまらない。この法案が射程に入れているのは、少数民族の文化的アイデンティティそのものだ。法案の第二章は、「偉大なる祖国、中華民族、中華文化、中国共産党、中国の特色ある社会主義」への帰属意識を、愛国教育や公式の歴史叙述の普及を通じて育むことを掲げている。つまり、何に帰属意識を持つべきかを国家が決め、教育を通じてそれを浸透させる。

メディアやインターネット事業者にも、党の民族政策の普及が義務づけられる。「民族的憎悪、民族差別、その他民族団結を損なう情報」の伝送を速やかに停止する法的義務が明記されている。この定義の曖昧さは、少数民族の権利を主張する言論がいつでも取り締まりの対象になりうることを意味する。

さらに注目すべきは、親に対する規定だ。法案は、保護者が「民族団結と進歩に有害な観念を未成年者に植えつけること」を禁止している。子どもに何を教え、何を伝えるかという家庭教育の領域にまで、国家が介入する根拠を法律で用意したことになる。

つまり、モンゴル族の親が子にモンゴルの歴史を語ること。ウイグル族の家庭で祖父母の言葉を教えること。チベット族の親が信仰について話すこと。これらが「有害な観念」と見なされる可能性が、法的に排除されていない。

第四章の末尾には、「遅れた風俗習慣の変革」と「文明的で進歩的な新文化の促進」という条項がある。これは少数民族の独自の文化的・宗教的慣行を「遅れたもの」として位置づけ、その変革を国家の政策目標に据えるものだ。「団結」と「進歩」の名の下で、多様性は「克服すべき遅れ」に変換される。

「交融」という名の空間的統合

法案の第三章が掲げる「交流・交際・交融」も、その中身を見れば、同化政策の空間的側面であることがわかる。

政府には「互嵌式社区環境(相互に入り組んだコミュニティ環境)」の整備が義務づけられる。異なる民族が「共に暮らし、学び、建設し、分かち合い、働き、楽しむ」ことを目指すとされている。具体的には、地域を超えた人口移動の促進、就業・就学支援、教師や青年の交流事業が列挙される。そして、

都市計画やガバナンスのあらゆる側面に「中華民族共同体意識」の鋳造を組み込むよう、地方政府に求めている。文化施設(図書館、博物館など)、観光産業、ボランティアサービス、さらにはオンラインメディアまで、すべてが「統合」の手段として動員される。

ここで「交融」という言葉の含意を正確に理解する必要がある。「交流」や「交際」であれば、異なる文化を持つ集団が互いの違いを認めつつ関係を築くことを意味しうる。しかし「交融」は「溶け合う」ことだ。この言葉が政策目標に据えられる以上、目指されているのは多文化の共存ではなく、差異の融解である。

習近平自身が2021年の重要講演で、中華(漢族中心の)文化と各民族の文化の関係を「幹と枝葉」に喩えている。「根が深く幹が太くなってこそ、枝葉は繁る」と。この比喩は明快だ。少数民族の文化は「枝葉」に過ぎず、「幹」である漢族中心の中華文化に依存し、従属する存在として位置づけられている。

国境を越える管轄権の主張

この法案には、国内の少数民族政策にとどまらない条項も含まれている。第63条は、中国に対して「民族団結と進歩を損ない、または民族分裂を生じさせる行為」を行った国外の組織や個人にも法的責任を追及できると定めている。

この条項の射程はきわめて曖昧だ。しかし、曖昧であること自体が機能する。2020年に香港に適用された国家安全維持法を想起すれば、その効果は明らかだろう。香港当局はその後、海外の活動家34人に懸賞金をかけた。法の域外適用が直接的な執行につながらなくても、萎縮効果は現実のものとなる。

ハーバード大学の法学者レイハン・アサットは、この法律について、「政府にあらゆる種類の人権侵害を行う口実を与える戦略的ツール」だと評している。アサット自身、弟のエクパル・アサットが新疆で民族差別の扇動を理由に15年の禁固刑に服している当事者でもある。

海外のウイグル人コミュニティ、チベット支援団体、モンゴル族の活動家、中国の民族政策を研究する学者、これらの人々に対して、この条項は「あなたの活動は中国の法律に違反しうる」というメッセージを送ることになる。研究発表を控え、発言を自制し、連帯の声を上げることをためらわせる。法律が実際に適用されるかどうかに関係なく、そうした萎縮こそがこの条項の本質的な機能だ。この法案は中国の憲法自体が定める民族区域自治の原則と矛盾する側面を持つ。憲法は少数民族の自治権を保障しているが、今回の法律はその実質を骨抜きにする方向に設計されている。

すでに進んでいた同化を「法」にする意味

ここで重要な点がある。というか、いまさらに驚くべきことかもしれないが、この法案は、何か新しいことを始めるものではないということだ。

内モンゴルの教育言語切り替えは2020年に始まった。チベットの寄宿制学校は以前から運営されていた。新疆の「訓練センター」は2017年頃から大規模に展開された。普通話の普及強化、民族区域の「安定維持」、宗教活動の管理強化、これらはすべて、すでに現場で進行していた政策だ。

では、わざわざ法律にする意味は何か。第一に、正統化である。これまで行政命令や地方レベルの規則で進められてきた施策に、全国人民代表大会による「基本法律」という最高位の法的根拠を与える。異論の余地を制度的に封じる効果がある。第二に、恒久化である。行政命令は撤回できる。地方の政策は政治的な風向きで変わりうる。だが、「基本法律」として制定されれば、それは国家の恒久的な方針として固定される。将来の指導部が仮に異なる姿勢を取ろうとしても、法律の改廃という高いハードルが立ちはだかる。第三に、全面化である。個別の地域、個別の政策分野で進められてきた同化の施策を、ひとつの法的枠組みのもとに統合し、国家のあらゆる機関と民間主体に実施義務を課す。法案は政府機関だけでなく、企業、宗教団体、大衆団体、居民委員会、軍に至るまで、広範な主体に「中華民族共同体意識」の鋳造に関する一般的義務を課している。

この法律の政治的重要性は、その立法過程にも表れている。2024年の中央委員会第三回全体会議(三中全会)で制定が明示的に求められ、共産党の最高指導機関である政治局が法案を討議したことが公表された。これは約40年ぶりの異例の対応だ。全人代常務委員会ではなく全人代本会議での採択が決まったのは、この法律が「民族事務に関する基本法律」に該当し、憲法上、全人代でなければ制定できないと判断されたためだ。

言語を奪うことの意味

最後に、この問題の本質に戻りたい。言語は単なるコミュニケーションの道具ではない。言語は、世界の切り分け方であり、思考の枠組みであり、集団の記憶の器である。ある民族の言語が日常から消えるとき、消えるのは単語や文法ではない。その言語でしか表現できなかった世界の見方、祖先から受け継がれてきた物語の語り口、子守唄の旋律に乗せられた感情のかたち、そうしたものが、取り返しのつかない形で失われていく。

2020年の内モンゴルで、ある親はこう言った。「モンゴル人である限り、最後まで抵抗する」。だが、その「最後まで」の先に何があるかを、この法案は示している。抵抗の手段そのものが、法的に封じられる世界だ。親が子にモンゴルの歴史を教えれば「有害な観念の植えつけ」になりうる。SNSで民族の権利を訴えれば「民族団結を損なう情報」として処理されうる。海外から声を上げれば「民族分裂を生じさせる行為」として管轄権を主張されうる。

「民族団結進歩促進法」。この法律の名称を構成するすべての言葉は肯定的だ。団結、進歩、促進。しかし、その実質は、少数民族が自らの言語で考え、自らの文化を継承し、自らのアイデンティティを次世代に伝える余地を、制度的に消していく枠組みにほかならない。

中国政府の公式な説明はこうだ。この法律は56の民族の高質量な発展と共同繁栄のための法的基盤を提供するものであり、民族団結を法的に保障する制度である、と。しかし、「団結」の中身が「漢族中心の単一のアイデンティティへの収斂」を意味するとき、それは多様性の保護ではない。「共同繁栄」が「独自の言語や文化の放棄と引き換えの経済発展」を意味するとき、それは少数民族自身が望んだ「進歩」ではない。

この法案を「中国の内政問題」として片づけることは簡単だ。だが、ひとつの国家が、法律という最も強力な制度的手段を使って、少数民族の文化的同化を恒久的な方針として固定しようとしているという事実は、ことの是非を問う以前に、まず知られるべきだと思う。言語が失われるとき、それは一つの民族の記憶が失われることだからだ。

 

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2026.03.11

日本型アンダークラスという問題

「貧困」ではなく「階級」の問題である

日本社会の変化を考えるうえで、「貧困」がキーワードとして浮かび上がる。しかし、いま見えつつあるものは、「貧しい人が増えた」という量的変化とは質の異なる現象である。正規雇用を中心とする安定した就業世界の外側に、低賃金、不安定就業、結婚や子育ての困難、将来保障の薄さを特徴とする、ひとつの層が沈殿しつつある。これを「アンダークラス」として論じる議論はすでにあるが、ここでは「日本型アンダークラス」と呼びたい。なぜ「日本型」なのかは、後に述べる。

総務省の2025年平均結果では、非正規の職員・従業員は2128万人にのぼる。男性678万人、女性1450万人。もちろん非正規雇用のすべてが同じではない。家計補助的就労を主とする層を除いてもなお、日本社会の底部に、雇用上の不安定を共通条件とする大きな集団が存在する。この問題に取り組む橋本健二氏はこの層を約890万人、就業人口の13.9%と推計している。平均年収は216万円で、正規雇用層の486万円を大きく下回る。これは一時的な困窮ではない。階層としての固定化を疑わせる規模と持続性を持っている。

格差は市場で生まれ、十分に補正されていない

この層の拡大は、単なる景気循環の帰結ではない。厚生労働省の令和5年所得再分配調査によれば、当初所得のジニ係数は0.5855と過去最大を記録した。再分配後でも0.3825であり、1999年以来ほぼ横ばいのまま高止まりしている。しかも改善度34.7%のうち、社会保障による改善が31.6%を占め、税による改善はわずか4.4%にとどまる。日本では、市場で生じた格差を税で大きくならす構造になっていない。

OECDも繰り返しこの点を指摘してきた。2024年の対日経済審査は、若年層や女性の非正規雇用比率の高さが家族形成を遅延させ、男女間賃金格差を拡大させていると述べた。日本の男女賃金格差は22%で、OECD加盟36カ国中35位である。労働市場の二重構造を解消することが優先課題だ、とOECDは何年も前から言い続けているが、事態は改善していない。

ここで重要なのは、この問題が「低所得者がいる」という事実だけでは語り尽くせないということである。日本型アンダークラスの核心は、労働市場の周縁に押し込められたまま、生活の再生産そのものが困難になっている点にある。

OECDのワーキングペーパーは、25~29歳および30~34歳の年齢層で、正規雇用者は非正規雇用者に比べて婚姻率がおよそ2.5倍高いことを示している。雇用の不安定さが、そのまま家族形成の不安定さに直結している。ここにあるのは、所得格差だけではない。人生設計の格差である。50歳時点で出産経験のない女性の割合は、2005年の11%から2020年には27%へと急上昇し、OECD諸国で最も高い。出生率は1.20にまで低下した。これらの数字は、アンダークラスの問題が個人の不運ではなく、社会の再生産機能そのものに関わる構造的な問題であることを示唆している。

米国型でも欧州型でもない――日本型の輪郭

国際比較をすると、日本型アンダークラスの固有性がよく見える。

米国で「アンダークラス」という概念が強い意味を帯びたのは、都市部の貧困が人種的分離と空間的に重なり合い、犯罪や家族崩壊と結びついて可視化されたからである。シカゴのサウスサイド、デトロイトのインナーシティ。米国型アンダークラスは、特定の地区に凝縮し、目に見える形で社会の亀裂を露呈させた。

欧州では状況が異なる。低所得層の問題は存在するが、多くの国では失業扶助、住宅支援、職業訓練、家族給付といったセーフティネットがより厚く張られている。フランスのバンリューのように移民の集住と社会的排除が結びつく例はあるが、それでも雇用保険や職業訓練への公的支出は日本とは比較にならない。ドイツの「ミニジョブ」や英国のゼロ時間契約のような不安定就業は拡大しているが、それを補正する再分配の規模が違う。欧州型の問題は「排除」と「不安定就業」の間で揺れているが、底が抜けるのを防ぐ仕組みは曲がりなりにも機能している。

日本はそのどちらでもない。米国のように貧困が特定の地区に極端に凝縮しているわけではない。だから暴動も起きないし、テレビカメラが向かう先もない。かといって欧州ほど再分配と雇用移行支援が強くもない。OECDの統計で見れば、日本の最低賃金は中位賃金比で加盟30カ国中5番目に低く、再分配の効果はG7で最弱の部類に入る。

その結果、何が起きたか。都市暴動でも黄色いベスト運動でもなく、静かで見えにくい分断が広がった。誰も声を上げないまま、890万人が社会の底部に沈殿した。これが日本型アンダークラスの特徴であり、その「見えなさ」こそが問題の深刻さを倍加させている。

雇用区分が人生の上限を決めてしまう

この意味で、日本型アンダークラスは、日本社会に固有の雇用システムが生み出した最下層だと言える。正規雇用にはいまだ長期安定、企業内訓練、年功的昇給、家族賃金の要素が残っている。リクルートワークス研究所の分析によれば、正規雇用者の年平均昇給率は4.0%であるのに対し、非正規雇用者は2.2%にとどまる。OJTの経験率も、仕事のレベルアップの機会も、正規と非正規の間には明確な断層がある。内部に強い保護を持つ中心と、外部化された周辺が、同じ企業社会の内部に併存している。

問題は、この周辺がもはや一時的な待機場所ではなくなっていることだ。かつて非正規雇用は、正規への「入口」か、あるいは主婦の補助的就労と位置づけられていた。しかし現在、そこに長期的に滞留する人々が増えている。勤続しても昇給は鈍く、訓練の機会は乏しく、正規への移動障壁は2018年以降むしろ高まっている。雇用区分そのものが人生の上限を決めてしまう構造が出来上がりつつある。努力や能力の不足よりも先に、どの雇用区分に入ったかが、その後の軌道を規定する。

構造問題として向き合うために

新しい最下層階級をめぐる議論は、日本社会における怨嗟を煽るためのものであってはならないだろう。むしろ逆である。分断を感情の言葉で語るのではなく、雇用、再分配、家族形成、老後保障を貫く構造問題として捉え直すことが必要だ。

日本社会が直面しているのは、「貧しい人が増えた」という量の問題だけではない。働いても中流に届かず、家族も資産も持ちにくく、老後の見通しも立てにくい人々が、社会の下部にひとつの層として沈殿しつつあるという、階級構造の変化そのものである。それは米国のように目に見える暴力として噴出するのではなく、欧州のように黄色いベストをまとった抗議として街路に現れるのでもなく、ただ静かに、確実に、社会の再生産能力を蝕んでいる。

 

 

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