2003.12.30
原子力発電削減の問題について
晦日になった。新聞各紙社説もスペフィックな話題は少ない。自分にはっきりとした意見があるわけではないが、原子力発電について読売新聞社説「原発建設中止 将来の原油高騰を招く『総崩れ』」が気になった。社説の趣旨としては、原子力発電所の建設中止が相次ぎ、このままでは将来、原油・天然ガスの価格高騰を招くから問題だというのである。それに、ジョークのような結語が付く。
二酸化炭素(CO2)の排出量削減を世界に約束した京都議定書の達成も、原発の新設なしには不可能だ。建設の必要性を粘り強く地元に訴えるべきだ。
いずれ京都議定書はナンセンスなので見直しになるだろうと思うので、この観点は事実上無視していい。ついでにいうと、代替エネルギーの議論も現実的には無意味だと思う。すると、読売の線で考えた場合、当面の問題は、将来の原油高騰を招くのは本当か、ということになる。この議論について読売のサポートはこうだ。
石油や天然ガスには価格高騰のリスクがつきまとう。中国の石油消費量は日本を超え、米国の天然ガスは発電用の需要増で記録的な高値をつけている。
石油危機後の長期にわたる石油、ガスの価格安定は、世界的な原発増設でもたらされたことを忘れてはなるまい。
説得力があるだろうか? 率直なところ、私は罵倒するだけの知識はない。まず、価格高騰のリスクについてだが、絶対的な枯渇や中国の石油消費が日本の存立を脅かすまでになるかについてはわからないし、読売も言及していない。しかし、むしろ問題は今後の中国の石油戦略自体が危機をはらむ可能性だ。というのは、中国は世界の資本主義のルールに対して新参者だし、対外事情を国内問題にしてしまう抜群の外交センスの悪さがある。
こうしたことをとりあえず置くとすれば、価格高騰というのは、単にマーケットの機能の一部ではないかと思う。もちろん、その時点になって日本人がパニックを起こす可能性はあるが、日本人とはそういう民族ではないか。この議論については、日本国としては原子力発電の問題というより、より視野の広いエネルギー政策の問題だろう。端的には天然ガスの問題であるように思われる。
関連して、読売の指摘である「石油危機後の長期にわたる石油、ガスの価格安定は、世界的な原発増設でもたらされた」については、端的にそうなのか? 違うのではないかと思う。読売の論法を見ても、なんだか嘘くさい感じが漂う。
こうして議論すると読売の批判のようだが、実は私は、原子力発電は国家の問題として大きく考えなくてはいけないのではないかと思っている。理由は単純でフランスの現状を見ると、まともな民族国家の指導者ならこう考えるのだろうというのが見てとれるからだ。つまり、フランスは原子力発電を大きく推進しているのである。少し古い資料だが「フランスの原子力発電開発の状況 (14-05-02-02)」(参照)によるとこうだ。
天然資源に乏しいフランスは、1973年の第一次石油危機を契機に原子力開発を加速した。2001年12月末現在、運転中の原子力発電所は57基、6,292万kWに達した。総発電電力量に占める原子力シェアも例年75%を越え、世界的にも1、2位と高い。炉型は加圧水型軽水炉(PWR)に一本化された上、標準化が進んでいるため、発電コストは安く、余剰電力は欧州近隣各国に輸出している。
もっとも、これはフランスという国の特殊なお国柄と言えないこともないのは、ヨーロッパの他の国と比較してみるとわかる(EU内での力関係もあるだろう)。これには「主要国の一次エネルギー供給量とエネルギー源別構成比」(参照)が参考になる。見てわかるように、日本という国の動向はアメリカとフランスを足して2で割ったような感じなっている。国力、人口、文化水準などを見ても、日本がそういう位置づけで妥当なところではあるのだろう。
気になることはある。まず、石油依存度がイタリアを除けば他の主要国より大きい。そして、それに対して石油の専門家からよく指摘されることだが天然ガスの利用が低い。イタリアの石油依存度の高さは天然ガスによって補われているので、実は、石油依存度の問題は主要国のなかでは日本が突出している。天然ガスについては、欧州独自の背景もあるのだが、それでもエネルギー政策の視点から見れば問題は問題である。ふと気になるのは、石炭の問題だ。こいつこそ環境破壊の悪玉なのだが、あまり議論されていない。
話を少し戻す。読売社説の議論は今回の特定な社説としてはふにゃけたものだし、短絡的に原子力に結びつけるのもすっとこどっこい的ではあるのだが、日本のエネルギー政策への警笛としては十分に意味があるだろう。実際の問題として、近未来的には原子力発電をある程度維持する以外の国策はないように思われるのだが、日本国民はまったくその意識がないようだ。
もちろん、原子力を選択しないということもありうる。であれば、具体的なエネルギー政策を出さなくてはいけないのだが、どうもエコ系の人はファンタジーになっているような気がする。
蛇足ながら、個人的な思い出であるが、私には原子力アレルギーはない。多くの人は忘れているのだろうか、「鉄腕アトム」の「アトム」は、原子力の平和利用への期待が込められていたのだ。私たちの世代はまさに、ららら科学の子として育った。浅田彰がオウム真理教や超能力に傾倒する若い世代に対して、うんざりとした侮蔑の言葉を投げかけるが、その感覚はよくわかる。
2003.12.30 in 環境 | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック
2003.12.14
地球温暖化防止会議は政治に使うっきゃないでしょ
ひどい話をのっけから書く。地球温暖化防止会議に本来の機能推進の意味はもうない。だったら、これって政治的に使うっきゃないでしょ、と。さあ、貧乏諸国のみなさん、日本の音頭で、アメリカ、ロシア、中国にいっせいにうんこをなげませう!という道具にするのだ。
私は、環境問題を愚弄しているのか。だが、日経新聞社説「後戻りできない温暖化対策」はすでにあっちの側に飛んでいる。
世界中の科学者が集まった気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の3次にわたる報告で、科学的な根拠に疑問の余地はもはやない。競争力についても、排出削減の努力をした企業が、むしろ市場での競争力を増すとされる。1990年比で6%という日本の削減義務は、森林の吸収分を差し引けば実質2.1%。欧州に比べ過大とは言い難い。
日経がそんなことを言っているようじゃ、日本経済の未来はねーなとも思う。が、「排出削減の努力をした企業」のくだりは、そういうストーリーでみなければ、別の意味で真実も含まれている。ニューズウィークでも扱っていたが、それができる企業は優良だし、また、全体コストからみれば、おそらくペイするような状況に変化してきている、と思われるからだ。
その意味で、私は、テメーのどす黒い裏腹を隠せば、地球温暖化防止推進!、排出削減の努力をした企業頑張れである。まったく人の裏腹なんてものはこんなものだ。
その意味で、日経のような旗を振るのも、うふふって微笑む。
気になるのは、発効への足踏み状態を見て、京都議定書そのものを反故(ほご)にしてしまおうという日本国内での動きである。論旨は6年前の京都会議で、さんざん聞かされたのと全く変わっていない。地球温暖化の科学的根拠への疑問、排出削減義務による国際競争力の低下、そして国家間での不平等性などだ。
だからさぁ、山形浩生はインテリやくざにしとかなちゃっなである、と書いてセンター試験以降の世代にはこうしたビミョーな皮肉が通じないかもしれないな。