2011.11.13

[書評]どこから行っても遠い町(川上弘美)

 中学生にもなる娘のいる男が、同じく中学生の息子のいる女と、ふとしたきっかけで関係を始めてしまう。それがゆるく続く。あるいは、そうした男の妻であり、そうした女の夫である人たちの苛立ちと空虚がある。急降下するようなエレベーターにのっているような、尿意のような、ずぅんとした感覚。それが恋愛のような乾いた性のようなものを駆り立てていく。
 中年にもなった男女の、薄汚さもある恋愛。そんなことがあるのかといえば、あるとしか言えない。そんな物語があるのかといえば、山ほど語られている。だが、他人事として、普通は。

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どこから行っても遠い町
川上弘美 (新潮文庫)
 あなた自身は、どうなんですか? 私ですか。いや、そんなことはありませんよと答える。若い頃ならまだしも、と加えるかもしれない。嘘は、ついてない、たいていの人は、事実という意味では。
 でも心情としてはどうなのかというと、苦みというより、ある空虚な感じに突き当たる。そうでなければ、たぶん「ニンゲン」ではないだろう。そういう真実が、「どこから行っても遠い町」(参照)に、日本語とはこういう言葉だったのかという流麗な文体で、パノラマのように短い小説群で綴られている。珠玉と言いたいところだが、その味わいがわかるのは、たぶん40歳を過ぎてからかもしれない。あるいは、30代でもその渦中にいる人たちかもしれない。
 作者川上弘美は昭和33年4月1日の生まれ。私と同級生の世代。読みながら、その思い出の風景をなるほどなと思う。物語の、魚屋の平蔵さんの兄は疎開の経験があるというから、小林亜星くらの年代であろう。彼の疎開先には同級生となる私の母がいたから、私の母の年代でもある。ということは作者川上の父母の年代の思い出でもあるから、物語の恋愛の群像は昭和一桁生まれに始まると言いたいところだが、平蔵の妻となる幼なじみの真紀は、平蔵が十歳のときに六歳というから昭和10年代かもしれない。印象としては長嶋亜希子から上野千鶴子くらいの年代だろう。いずれ団塊世代より少し上の世代で昭和後期のある種のモダンな時代の風景でもあり、表紙の谷内六郎がよく似合う。あの時代の週刊新潮(今でもあるようだが)の痴話の掌篇も思い出される。
 だから懐かしい時代の空気でもあるのだが、回顧なのではない。40歳を過ぎたころから、父母や叔父叔母たちの青春やその後の人生から浮き立つ、どろっとしたもの、端的に言えば、性の関係性が共感できるようになってしまうし、そのことが、人生とは何かということを別の角度から問い詰め始めてしまう。若い頃なら、ありがちな恋愛や性の痴態で済んだものが、あるぞっとしたものに到達するようになる。
 連作に見える物語は、昭和40年代から50年代の空気をもった、ある意味で現在にも重ねられる東京郊外の町が設定されている。荻窪あたりであろうか。この年代の男女が住まわされた町には、しかし団地の光景ではなく、町は死者の霊を包みながら生きている。
 不倫といえばそれだけのことだし、だらしない性の関係性に至る衝迫力が、市井の人々を静かに、老いた怪物がゆったりと舌なめずりをするように覆っていき、物語は、他者の細い視線を連鎖するかたちで繋がっていくのだが、それが表題作「どこから行っても遠い町」にぎゅーっと絞り込まれ、嗚咽を催す壮絶な美に至る。ここで物語は終わる。
 いや、その先に川上らしい意匠として(処女作の暗示の蛇もだが)エピローグの「ゆるく巻くかたつむりの殻」が描かれ、連作の物語の冒頭へと輪廻するが、これは物語の外部に過ぎない。もちろん、人の人生が物語りとして見えるなら、死霊は町の老人たちの思いのなかに存在するのであり、死霊として生きるために、性の衝迫が老いを許さないように、人の人生の後半を襲う。
 
 

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2011.11.11

[書評]どうぶつしょうぎのほん(きたおまどか、ふじたまいこ)

 「どうぶつしょうぎのほん」(参照)は書名の通り、「どうぶつしょうぎ」(参照)の本だし、棋士でもあるふじたまいこさんのイラストがふんだんにあり、同じく棋士のきたおまどかさんのやさしい解説で書かれているので、子供でも読めるようになっている。が、読んだ印象は、どちらかというと、子供に「どうぶつしょうぎ」を教えるときの指導要領に近い。

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どうぶつしょうぎのほん
 本書がなくても、「どうぶつしょうぎ」は十分楽しめる。が、その面白さを子供に伝えようというときには、手元に一冊あるとよいだろう。もちろん、「どうぶつしょうぎ」に夢中になって、もっと強くなりたいという人にも向いている。
 「どうぶつしょうぎ」とは何か? 3×4という小さな盤面で、動きを簡略化した4種の駒を使う将棋である。将棋で言えば、駒は、王、歩、飛、角といったところだが、盤面が狭くどの駒も一回に一マスしか動けないから、飛・角とは違う。とはいえ、当然、将棋の簡易版、サブセット、入門用といったふうに理解されるだろう。
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どうぶつしょうぎ
 私もそう思っていた。私は、創作性のあるゲームが好きだが、啓蒙的にアレンジされたサブセットはあまり好まないし、いかにも将棋を子供向けに改作しただけのゲームなら面白くはないだろうと思っていた。実物の大きな木駒の手触りや、いかにも子供向けといった愛らしい動物イラストを見てもそう思っていた。
 違った。人にもよるのだろうが、やってみると、全然違うのである。どう違うのか。まず将棋の勘が働かない。序盤、中盤、終盤といった全体構図がそもそも存在しない。最初から取る取られるの戦い。一種の詰め将棋に近い。では、詰め将棋なのかというと、そうでもない。詰め将棋なら出題者の思惑や詰み筋といったものから思考するが、「どうぶつしょうぎ」はそうでもない。
 やってみて、ええ?と驚きもしたのは、局面ががらりと変わることである。盤面が狭いから当たり前だが、三手後の局面があっという間に入れ替わることがある。五手読むのがつらいというのかじっくりとした思考が迫られる。
 もうひとつ、違和感でもあったのだが、飛車・角・香車・桂馬といった遠隔的な飛び道具が一切ない。なんというのか、ボクシングでぼこすからやりあうようなもので、そもそも最初の一手目から、歩(ひよこ)が取る・取られるの状況にある。
 これは将棋とはずいぶん違うものだなと思ったが、逆にプロの棋士にしてみると、将棋のシンプルな姿というものは、こういうものなのかもしれないとも思った。将棋的な思考の本質はむしろ「どうぶつしょうぎ」に凝縮されているのではないか。棋士が考えだしただけのことはあるなと思った。
 で、実際に身近の小学生や中学生とやってみた。これがまた驚きだった。すでに知っているというのはいい。そんなものだろう。で、数手して、あっという間に私が負けた。どう負けたかというと、相手の王(らいおん)がぐんぐんと進んでこちらの陣地に入り一列目に入って、「勝った!」と勝利宣言を聞かされる。え?と思ったが、そういうルールがあった。要するに、将棋だと思っている固定概念がいけない。
 「どうぶつしょうぎ」といえば、当初聞いたとき、私は中国の闘獣棋という将棋を思い浮かべた。こちらは、いわゆる将棋とは違ったゲームである。iPhone用に3Dアニメで動く、Animal Kingdomというゲームもあり、動物たちの動きがかわいい。そういえば、「どうぶつしょうぎ」もiPhoneアプリがあるが、こちらは現物がはるかに面白い。木の手触りもよい。
 
 

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2011.11.08

[書評]インナー・チャイルド 本当のあなたを取り戻す方法(ジョン・ブラッドショー)

 最初に言っておくと、本書「インナー・チャイルド(ジョン・ブラッドショー)」(参照)の副題「本当のあなたを取り戻す方法」は、私としては賛同しがたい。そもそも「本当のあなた」なるものがあるのかどうかもわからないし、「ああ、これが本当の自分だ」という実感が仮に得られたとしても、それが一般的なことなのか、あるいはその代償もまた大きいのではないかとも思える。その意味でも、本書はお薦めするという類のものではない。

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インナーチャイルド
本当のあなたを取り戻す方法
 では、なぜこの本を読んだのかというと、関心があったからだ。そして、当然というべきだが、私自身が「インナー・チャイルド」なるものに苦痛を感じていたからだ。
 「インナー・チャイルド」というのは、大人になっても心のなかに潜む、傷ついた子供のような心理のことだ。子供のころに得たつらい記憶が今も心的外傷後ストレス障害(PTSD)のように残っていることだと言ってもいいかもしれない。もっとも、本書などにもそれなりの定義やその考え方の背景はあるので、詳しくは本書などに当たってほしい。また、一般に「アダルト・チルドレン」といった概念も近いには近いのだろう。
 私が本書を読んだのは、自分の「インナー・チャイルド」の問題に対して、どこかに救いのようなものがあればなとは思っていたことはある。本書には、なるほど、その救いのためのいくつかのアプローチやメソッドが記されている。
 読みつつ、この手のアプローチは若い頃いろいろ経験したし、本書にもあるメソッドのいくつはその過程で実践もしたことがあることを思い出した。なのに今のこの苦悩の自分がいるという現実も了解している。だからこうした書籍を読みつつも、これでそれほど救われるという期待があったわけではない。結論から言えば、本書は私の手助けにはならなかったが、この分野がどういう構造をしているかということは、再確認できた。
 もう少し個人的なきっかけを語ると、先日、心を落ち着けるために瞑想していた際、幼児期の苦しい記憶がよみがえり、「ああ、これはいけないな。ここに触れてもどうにもならない」と思いつつ意識を引き返したのだが、その後もひっかかり、再度の瞑想で、少し触れたところを覗くと、心理的な激痛のようなものがあって驚いた。この手の心理的な外傷を抱えて生きているとは知っているし諦めてもいるのだが、あらためて心理的に接触すると耐え難いものがある。これは「インナー・チャイルド」というものかという認識と、最近の世相に見る幼児虐待なども連想した。
 幼児虐待の問題は、しばしば「子供が可哀想だ、なぜ保護できなかったのか」という、一見社会的な問題として扱われるが、その内部の心理的な問題もある。虐待する親は当然問題ではあるが、こうした親たち自身が心理的に「インナー・チャイルド」を抱えているのではないかという洞察が私にはある。
 これらの問題は、社会的な対応だけではどうにもならないとも思っていた。もう少し自分に引きつけていうと、この手の社会的事件に接すると、自分が虐待された幼児と心理的に同化してしまう傾向があり、それを見つめつつ、緩和するために親を許そうとして、親もまた幼い心のままなのだというふうに相対化して意識してきた。
 「インナー・チャイルド」について最近の書籍で、比較的読まれているものはなんだろうと思い、「インナーチャイルドと仲直りする方法 傷ついた子どもを癒し、あなた本来の輝きを取り戻すインナーチャイルド・ワーク(CD付き)」(参照)という書籍を買ってみた。CDにはアプローチについての具体的なメソッドもあるのではないかという期待もあった。中身はさほど検討していなかった。
 買ってから気がついたのだが、これは、いわゆるスピリチュアル系の本で、「ああ、まいったなぁ」と思った。私はスピリチュアル系の本やオカルトなんかも、ふんふんふんと読む人なのだが、ある程度距離を置いているからであって、そこにすぼっと入るときは心理的な抵抗がぐっと押し寄せる。同梱のCDも聞いたのだが、女性の語りの質は悪くないのだが、受け付けなかった。だが、冒頭、「あなたの体のなかのどこにインナー・チャイルドがいますか?」というのは心に引っかかった。体の部位にいるという感触はあるにはある。
 この本では、さらに「マジカル・チャイルド」なる概念が出て来る。いわば、守護霊さんみたいなノリである。それはそれでいいのだが、一体この奇っ怪なインナー・チャイルドやマジカル・チャイルドといったスピリチュアル系の概念は何に由来するのかという知的な関心も湧いた。
 インナー・チャイルドという概念は、おそらく、エリック・バーン(参照)の交流分析(参照)から発展しているのだろう。つまり、ポピュラー型のフロイト論の変形であろうという察しはあった。
 本書「インナー・チャイルド(ジョン・ブラッドショー)」を読むとまさにその通りなのだが、著者ブラッドショーはさらにこれに、ミルトン・エリクソン(参照)を加味しているようだった。特に、催眠術的なイメージ・ワークはエリクソンあたりに由来しているようだ。本書でもいくつか後催眠やNLP(参照)的な手法も採られている。
 また「マジカル・チャイルド」なる概念はどうやらブラッドショーがユング心理学あたりから創出したようでもある。さらに個別には言及されていないがシルバ・マインド・コントロールもありそうにも見えた。いわば、ごった煮のようなメソッドのようだがそれでも本書がインナー・チャイルド系の書籍の原点にもなった古典のようでもあるようだった。
 興味深いのは、本書は手法的には混乱しているかのようにも見えながら、バーンよりさらにフロイトを遡及したように、幼児期の各精神成長段階を想定している点だ。意外でもあったのは、思春期の精神的な外傷を扱う部分で、そのあたりまでインナー・チャイルドという概念が覆うものなのか。率直なところ、精神的な外傷というのは青年期にもありえるし、いったいいつになったらインナー・チャイルドは終わるのかという奇妙な思いもした。
 知的な読書としては以上ではあり、いずれなんらかのこうした心理的な対応というのが社会機能に含まれなくてはならないとも思うが、再度自分に引きつけてみて、しみじみと了解せざるを得なかったのは、セラピー的な要諦は、まさに心的な外傷に触れてみるという点だった。つまり、心的な悲嘆を抑圧から解くためにいったん出してみるという部分である。これはパールズ的(参照)でもある。
 個人的には精神的な外傷な苦痛に直面せずなんとか解消できないものかとも思ったが、やはりそうもいかないかという落胆がある。実際のところ、本書も、その悲嘆の露出時の精神的な危機への対応注意がいろいろと説明されているが、単純に読んでもわかるように、一人で読書してメソッドを実践するとかなり危険なのではないだろうか。逆にむしろその点でスピリチュアル系のほうが楽といえば楽なのかもしれない。
 おそらく、インナー・チャイルドというような心理的な問題は、傷ついた子供の心をかかえた大人が自分の子供を育てて癒していくというプロセスがあり、そもそもそれが人類に仕組まれているといった、もっと大きな問題かもしれない。
 つまりこの問題の対処は、セラピーといった特化したものではなく、社会機能のごく一部として文化的に要請されるのかもしれない。現代日本の社会にそうした心理的な社会機能の文化が欠落しているなら、スピリチュアルやオカルトが蔓延するのもしかたないことかもしれない。
 
 

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2011.11.01

[書評]ボードゲームカタログ(すごろくや)

 「ボードゲームカタログ(すごろくや)」(参照)は、名前とおり、ボードゲームカタログである。簡素なのに、すごくよく出来ている。

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ボードゲームカタログ
 ただ、「ボードゲーム」と言われても、ピンと来ない人もいるかもしれない。ようするに「すごろく」である、というと別の誤解を招く。「人生ゲーム」みたいなゲーム、「モノポリー」(参照)とかね、なんて、あー、すまん、この二つは載ってないんです。ちょっと違う。
 基本は、「ドイツボードゲーム」と呼ばれるタイプのゲームだ。ドイツで10年くらい前から話題になって毎年、各種作成されるようになった、卓上で数名で遊べる創作ゲームである。
 ポイントは、大人も面白いということ。頭を使うタイプが多いが、チェスみたいに頭だけというゲームではない。リアルな人間が集まってわいわい、一、二時間を熱中して過ごすことができる。麻雀みたいな面もあるし、僕は麻雀とかやらないけど、麻雀より面白いんではないかと思う。いかが。
 著者は「すごろくや」となっていて編著という側面もあるのだろうが、実際に書いたのは、代表の丸太康司氏である。あとがきがふるっている。

 私がすごろくやを展開する以前は、15年以上にわたり「MOTHER2」「風来のシレン」など、テレビゲームの開発の仕事に携わってきました。しかしその市場が大きくなるにつれ、次第に黎明期の創作性の豊かさが失われていき、業界は一部の層を対象にしていくスパイラルから抜け出せなくなりつつありました。もともと私は20年ほど前から、この本で紹介されているような、ゲーム本来の魅力溢れる作品の数々に触れてきたこともあり、現状のテレビゲーム業界のズレを特に大きく感じていたのかもしれません。ならばその魅力をひとりでも多くの人に伝えたいと一念発起し、2006年春にボードゲームの専門店・すごころくやをオープンしました。

 起業というのはこういものなんだなというのが、ジンと伝わってくる。カネで評価される成功よりも、まず社会的な明確な使命が重要だし、こういう市民社会を豊かにする起業こそ大切だと思う。いや、なにより、ボードゲームが本当に面白いんだということに、人生賭けちゃうっていうのがよろしい。

ボードゲームには、人の顔を見ながら遊ぶというコミュニケーションの面白さがあります。今まで気がつかなかった相手の内面を知ることができたり、みんなエンターテイナーとなって人を楽しませる作用が生まれます。これらは参加者の思考と意思で成り立つ「小さな社会」とも言えるものです。

 まさにそれこそが、豊かな新しい市民社会の原点でもあると思う。日本国家の行く末が心配だとかでわけのわからない反TPP議論をしている人、国のことなんかすこしそっちに置いといて、もっと、仲良く遊べ。
 というわけで、彼が厳選した「一生手放したくない200タイトル」が収録されてる。カタログというだけあって、かなり網羅的だ。反面、一つ一つの記載はちょっと物足りないなというくらい少ない。が、少ない字数でかなりきちんと書かれている。やっぱ、ネットで拾ってくる情報と、本にまとまっている情報って違うんじゃないかとも思わせる。
 ボードゲームだから、トレーディングカードふうの「ドミニオン」(参照)はないかというと、そんなことはない。「ドミニオンパンツ」について知らなかった僕は、これ買おうかと真剣に悩んでいる。
 ざっと見ると、名前と概要は知っているゲームが多いなという印象だが、いろいろと考えさせられる。「国富論(Wealth of Common)」なんていうゲームもあったのか。ちょっと難しそうだが、やってみるとどうなんだろう。比較優位もわかならない大学教授が出鱈目な議論をぶちまける日本だと、この手の教育的なゲームがあってもいいし、そもそも学校で採用したらいいんじゃないか、いつまでも陳腐なイデオロギーで騒いでいるんじゃなくて。
 超定番の「カルカソンヌ」(参照)や「カタン」(参照)も載っている。「カルカソンヌ」については、「「草原」と「最終未完成得点」の要素を抜いて遊ぶルールをお薦めしています」とあり、たしかに最初やるときはそうしたほうがいいなと思う。ただ、僕個人としては、この二要素が囲碁みたいで気に入って、そこで逆転勝ちに持ち込むのが好き。
 本書は写真もきれいなのだが、「カタン」についても最近のこの4月に出た、それなりにしっかりしたバージョンが記載されている。待ち遠しカッタンですよ、これ。早く、海のほうのリメークも出ないか。余談だが、「カルカソンヌ」と「カタン」については、iPad版もけっこうきれいでやりやすい。戦略を試すときに使っている。
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Amigo 虹色のへび
 とま、個別のお薦めをしていってもなんだが、ひとつ特に薦めたいのが、AMIGOの「虹色のヘビ」(参照)である。どこがいいかというと、カタログにも書いてあるが、これ、3歳でもプレイできる点だ。3歳児とかの相手を頼まれることがある人なら、是非一セット持っておくといい。お相手の子供がうじゃっといるなら、二セットあるとなお吉である。単純な色合わせなので3歳でも、おk、というゲームだが、いや、ガキにまみれてやっているとこっちの熱があがってきて、癒されるものがありますよ。
 
 

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2011.10.27

[書評]サイバー・クライム(ジョセフ・メン)

 日本でも、「サイバー・クライム(ジョセフ・メン)」(参照)がようやく今月13日に翻訳・出版されるというので予約を入れておき、読んだ。情報産業の業界と限らず、その他の産業人や政治家にとっても必読といえる書籍である。これからの情報社会の問題や国際情勢を語る上で、すでに避けがたい古典ともなっている。逆にいえば、本書通読が可能なくらいの予備知識がないと、ビジネスも政治も立ちゆかないだろう。

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サイバー・クライム
 本書はもちろん一般読者向けに書かれ、基礎的な事項についても丹念に説明されているのだが、おそらくこの分野の基本知識のない人にとっては内容が難しいだろうとも懸念する。あと一段階から二段階かみ砕いた別の補助説明書が必要になるのではないか。ボットネットの仕組みなどについても、DNSとは何かということも含めて絵解きでじっくり説明したらよいのではとも思えた。しかし政治家にそうした説明書を読んでもらう時間はない。政治家をサポートするブレーンのかたは、本書が提起する問題点を手短にまとめて伝えたほうがよいだろう。
 本書は、ノンフィクションではあるが、上質なフィクションのように読めるので、逆にこれはそもそも上質な小説なのではないかと誤解するかもしれない。二人の主人公たちのキャラクターは際だっているし、悪役や悪の組織も魅惑的だ。情報技術な部分への抵抗がなければ、物語に引き込まれるように読める。作者メン氏の筆致は鮮やかすぎる。そして、ふと、これがフィクションではなくリアルな現実世界なのだと知ったとき、背筋が凍る。だからこそ、本書の提起するリアルな問題提起を早急に社会が受け止める必要もある。
 この点は出版社もよく理解しているようだ。この分野の専門家であり本書監修の福森大喜氏による「はじめに」は簡潔に書かれ、また巻末には筆者メン氏との対談が添えられていて、読書の便宜になっている。「はじめに」については、書店で手短に立ち読みもできるが、ネットでも公開してはどうだろうか。
 原書は昨年年頭、英米圏では「Fatal System Error」(参照)という表題で出版された。直訳すると「致命的なシステムエラー」となり、よくあるパソコンのエラーメッセージのようだが、含意は、わたしたちのこの現代世界というシステムが孕んでいる致命的な問題ということである。インターネットに依存しその恩恵にあずかる現代世界は、それゆえに強烈な悪をも含みこんでいる。その意味で、本書が日本で「サイバークライム」つまり、情報化社会の犯罪と改題されたのは理解できる。
 問題は、インターネットにメリットがあればデメリットがあるといったものではないことだ。現在世界の国家システムの本質的な悪がここに露出しているということが大きな問題なのである。
 本書では、特に米国のマフィアの実体と、国家と関連したロシア・東欧のハッカー集団が悪の絵柄で登場するため、あたかも国家間のサイバー戦争といった構図にも読めるのだが、問題は現状もう一歩進んでいる。国家と結託したハッカー集団はすでに軍事的な要素と不可分になっているのである。だから、そこには国家間の軍事協定と類似の国家間の調整が必要になるのである。この意味が日本の政治家に通じなければ、日本は高齢化問題や貿易問題、表面的な軍事脅威以前に、早々に立ちゆかなくなるだろう。神経系が麻痺した生物が生存できなのと同じことが起こりうる。
 本書は、2つのパートに分かれている。前半の主人公は、若き情報セキュリティの専門家、バーレット・ライアンである。天才的な能力を持つが、子供時代には読字障害も持っていた。日本では成功した天才を後から賛美する傾向があるが、今の時代に注目しなければならないのは、バーレットのような青年像である。
 物語は、バーレット青年に、インターネットを使ったカジノ、つまり、オンラインのギャンブル会社の防衛が依頼されるところから始まる。オンライン・ギャンブル会社はインターネットで賭博を行っているのだが、ここにハッカーたちが、「インターネット攻撃によってギャンブルシステムを利用不能にさせるぞ」と脅して大金をせびる。その要求を拒めば大量の通信がギャンブルシステムに集中し、システムがダウンする。
 バーレット青年はそれを当初、情報セキュリティの問題として対処していくのだが、彼自身、情報産業で起業したいという思いもあって、気がつくと、オンラインのギャンブルの世界に嵌っていく。そこにはマフィアに関連をもつダークな世界もあった。どうしたらよいのか。何が悪なのか。こうした問題を個人の倫理に問いかける、米国的精神風土の隠れた一面も興味深い。
 この時期、米国では新種のポーカーとしてテキサス・ホールデムが流行し、それがオンラインゲームと関わりをもっていた。あの熱狂の時代を知っていると、パート1の物語はさらに面白みが増すだろう。
 パート2は、英国サイバー犯罪対策庁(NHTCU)捜査官のアンディ・クロッカーの物語である。中年の彼はバーレット青年とは違い、根っからの情報技術分野の人ではない。むしろ、旧式な、いかにもタフでジョンブルの捜査官である。ハッカーを追い詰めるために、バーレット青年から情報を提供してもらい、単身悪の巣窟であるロシアに乗り込む。ロシアのなかでいかに味方を見つけていくのか、それは捜査以前に生存の条件でもある。パート2の物語は、上質なハードボイルドであると同時に、ロシアというものの本質をえぐり出す。この世界を熟知せず北方領土返還を息巻く日本人はいかに幼稚なことか。
 パート1とパート2、この二つの物語は完全に分離しているわけではなく、有機的に繋がっている。そしてそれは共通にサイバークライムの本質も描き出していく。見事というほかはない。
 しかし物語的に描かざるを得ないこともあって、サイバークライムの現状理解にとっては、筆者メン氏も理解しているのだが、すでに一時代前の話題になっている。古いのだ。
 それでもベーグルと呼ばれるウイルスの歴史はもはや基礎知識ではあるし、スタックスネットについても本書で言及されている。スタクスネットは、イランの核施設制御のウィンドウズを破壊するウイルスで、言うまでもなくこれはもう軍事兵器そのものである。本書は、通説どおりこれがイスラエルと米国が関与して作成されたとしているのだが、本書を仔細に読むと、マイクロソフトに食い込んだロシアのスパイとの関連は仄めかされている。
 現状、本書で言及されているボットネットの大半は昨年、マイクロソフトが尽力してかなり弱体化している。そのマイクロソフトの物語も別途読みたいところだが、なかなか見当たらない。
 いずれにせよ、マイクロソフトのおかげで、依然ボットネットはサイバークライムのインフラではあるものの、従来のように多勢で押していくタイプの攻撃はもう一時代前のものになっている。現下、標的型のサイバークライムが出て来たのは、こうした背景がある。と同時に、現在は、アンドロイドがサイバークライムの前線となる夜明けである。
 
 

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2011.10.23

[書評]信長協奏曲(石井あゆみ)

 「信長協奏曲(石井あゆみ)」(参照)が面白いというので、じゃあと注文してみたものの、表紙を見て怯んだ。

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信長協奏曲 1
 釣り文句の「ごくごく普通の今どき高校生サブロー。そんなサブローがひょんなことから飛ばされたのは、なんと戦国時代! そう、彼はタイムスリップしてしまったのである」を読んで後悔した。
 が、この程度の後悔、我が人生の後悔の峻峰に添えても微々たるものよ。ところが、はずれた。面白いのである。めったくそ面白い。というわけで、出ているだけ、5巻まで買って読んだ。大人はいいぞ。
 はっきり言ってタイムスリップの小細工は、狂言回しであって、良くも悪くもない。道三や弾正に充ててくるのも、まあどうでもよい。漫画は漫画。面白いのは、プロット(筋立て)とキャラとディテールである。
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信長協奏曲 2
 キャラで、これはすごいなというのは、秀吉である。秀吉ってこういうやつだったんだろうなという疑念があったのだが、それがするするほどけて快感になってくる。浅井攻めの際の殿軍(しんがり)とか、ああ、なるほどねという感じ。もちろん、真相がそうだったかという話ではなく、こういうふうに解釈するのは面白いじゃんかということ。
 プロットですごいな、まいったなと思ったのは、協奏曲(コンチェルト)という、モダンというだけの思いつきの命名ではないかという印象のタイトルの意味がきっちり開示される3巻目の末である。つまり、この物語の主人公はサブロー信長一人ではない。ここまでは前振りであったか。やるなあ。
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信長協奏曲 3
 ディテールもなかなか笑える。桶狭間の戦いの功労者に武士名をつけるところで、いいかげんに「やなだまさつな」が出てくるが、簗田政綱である。戦の後、サブローに「でも場所は桶狭間ではなくて田楽狭間だったな……」とかつぶやかせるのも笑える。信長記との異同を含めた議論を踏まえていて、これはかなり資料を読み込んでいるなと思わせる。竹千代に鯛の天麩羅食わせるところやエロ本の逸話も笑える。なにかとディテールは笑える。作者は女性らしいので、いわゆる「歴女」というのか、よくわからないが。
 作者については、公式サイト(参照)に、「1985年9月24日生まれ。神奈川県出身」とあるので、26歳ということになる。若いな。他に代表作もないようなので、これが代表作として意気込んで書かれたか、出版編集側でかなりリキを入れたかなのだが、結果がよければよいでしょう。
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信長協奏曲 4
 印象にすぎないが、歴史の読みのあたりは、作者ひとりによるのではなく、スタッフの練り込みかなという思いは残る。プロットは小池一夫風味もありそう。また、絵の構図も、武者絵などを参照している印象もあるが、これは他にも見たことある感じだなという印象は強く、絵自体の斬新さはあまり感じられない。漫画通の人なら、この絵のタッチはなになにと系統的に分析できるのではないか。しかし、それがどうたらという話でもない。
 いずれにせよ、面白くて、成功しているし、この先、20巻くらいは続きそうなで今後も楽しみ、というところなんだが、作者の資質は、ちょっとこの路線とは違うんじゃないかなという感じもした。ので、そのあたりも。
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信長協奏曲 5
 1巻の巻末に特別ミニ読切「吸血鬼タマクロー」という、いい意味でしょーもない短編がおまけで付いているのだが、これが、作者のギャグの資質をよく表している、という点で見ていくと、そのあたりの資質が、お市の方や上杉家の女忍の表現に反映されていることがわかる。その微妙に、女性的と言うとまたそれは少し違うのだが、あまり類例のない性的な表現の資質が感じられるのが、この作家の才能ではないか。それが今後の表現にうまく統合できるとよいと思う。帰蝶のキャラを膨らませるのは無理っぽいので、つまり、そのあたりを強烈にした女性のキャラが途中から出せるか。あるいは、この作品が成功裏に終わっても、あまりこの歴史物語路線に拘らないほうがよいのかもしれない。
 3巻の表紙裏というかカバーの折り返しに、作者のひとこととして「日本各地、行ってみたい場所はたくさんあるんですけど、旅行とか嫌いなもんでなかなかどこにも行けません。かなしいです。」とあるが、案外すでに行っているのかもしれないが、安土には行ってみるといいんじゃないか。僕は安土の水郷に行って、シーズンはずれのせいもあって、たまたま舟を一人借り切って、船頭さんにいろいろ話をきいたことがある。よかったすよ。
 
 

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2011.09.23

[書評]あなたが輝くとき(西村由紀江・sasaeru文庫)

 西村由紀江さんのピアノ曲は好きだが網羅的に聞いてはいない。以前になるが、気にはなっていて、1986年デビュー以降の作品の、2002年時点の当時のベストアルバム「西村由紀江BEST しあわせまでもう少し」(参照)を聞き込んだら、ほとんどの曲を知っていたことに驚いた。

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あなたが輝くとき
(西村由紀江・sasaeru文庫)
 ベスト曲の大半はテレビ番組などで使われていたのだろうが、テレビをほとんど見ない私でも知っていた。なじみやすい曲想と演奏で、どちらかといえばコマーシャリズム的なイージーリスニングのようでもあるが、聞いているうちに、明るい曲想は気分転換になるのと、遠く懐かしいとでもいうような、ある種の情感を喚起させられるのが不思議な魅力に思えた。この人の魂のコアにあるものはなんだろうかと思った。
 それは文章にそのまま表れるというものではない。彼女は音楽家なので、音楽のなかにしか表れないものだ。それでも、あの、下品極まりない猥雑な「モーツアルトの手紙」(参照)の文章からトリステという情感を読み出した小林秀雄のように(参照)、どこかに通底路もあるに違いない。松任谷由実の、本当は出版したくなった「ルージュの伝言」(参照)にも、こっそりとその天才の秘密が書き込まれている。饒舌ともいえる中村紘子も言葉にもひっそりと秘密は明かされている。
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あなたが輝くとき
西村由紀江
 西村由紀江のアルバム「あなたが輝くとき」(参照)にあわせて本書が出版されたとき、すぐに飛びつき、アルバムの曲にあわせて読んだ。下品な言い方になるが、期待以上の文章がそこにあり、驚きもした。
 文章と彼女の音楽は、予想以上にきれいに結びついていた。文章家ではないので、文章の表現は稚拙にも見える部分あるが、心情は率直に表現されていて、その部分で彼女らしいピアノの旋律が正確に連想される。
 当たり前といえばそうなのだが、話すことが苦手な子どもだったからピアノに向かったというのもよくわかった。そのまま、プロの音楽家となってからも、言葉を求められることのつらさもよく表現されていた。彼女のあの旋律が、そうした子ども時代の感性にも由来していることもわかった。
 プライベートに近い部分の話にも驚かされた。移籍にまつわるつらい話は、おそらく業界ではごく当たり前なのだろうが、つらかっただろうというのがよくわかる。その章の言葉にはしっかりとした重みがある。

「どんなにイヤなことがあっても、ピアノが弾けなくなるわけではないし、曲が作れなくなるわけでもない。私が得てきた技術は、誰にも盗めない」
 辛いことがあるたび、自分に言い聞かせていた。それは、大きな強みとなって私を支えてくれたと思う。
「ピアノが天職なんですね」と羨ましがられるが、そんな簡単なものでもない。10年も20年も30年もかかって、はじめて「天職」と思えたのだ。蓄積は財産。それがあればこそ、リスクを冒してでも「きっといことがある」と、新しい世界に飛び込めた。

 書き写しながら、文章にライターの手が入っているなという臭いは感じられるが、心情は西村さんのそのものだろうと思った。むしろ、ライターの手が入っていたとしても気付かれなかったのは、「10年も20年も30年も」という表現の暗号的な意味合いだろう。デビュー25周年記念の「Smile Best」(参照)は、その蓄積の達成だし、このアルバムはベストアルバムでありながら、現在の彼女によって演奏しなおされていることもそうだ。そういえば「しあわせまでもう少し」も大半はその時点で演奏しなおされていた。
 新しい演奏のほうがよいと単純には言えないが、以前の演奏と比べて聞くと、ピアノの音の響きという点で、ぐっと引き込まれるものがある。「10年も20年も30年も」ということは具体的な音できちんと裏付けられるし、そのように彼女は生きて来た。
 技術の部分は本書にも書かれている。

「速く弾く」より「弱く弾く」方が難しいのと一緒で、「速く弾く」より「ゆっくり弾く」方が難しい。「ゆっくり」の究極といえば能。あの中腰、すり足の歩き方をマスターするには、たゆまぬ稽古による筋肉の鍛錬が不可欠だろう。ピアニストもまた、ゆっくりとした指の動きをコントロールするには、速く弾くときとは別の神経や筋肉が必要となる。

 それを頭で理解するのと、演奏に現れる差の感覚は異なる。意図してということではないのだろうが、西村さんが結果的に伝えている、ピアノの音というものの秘密である。
 この本では他に、ピアノ演奏家ならでは裏話や、彼女の多少意外にも思える、生い立ちに関わる話もある。知らなかったのだが、彼女は大阪出身で、大阪的な文化のなかで育ち、大阪人的な感性も持っている。テレビで鍾乳洞のレポーターをしていたという話もおもしろい。

そこに大阪からの観光客が何組もやってくるのだが、入るとみんな判で押したように同じことを言うのに気づいたのだ。
 まず入ると「暗っ」となり、2、3歩進むと「寒っ」、岩がぬれているので滑りそうになって「怖っ」、上から水滴が落ちてきて「冷たっ」と続く。その「暗っ」「寒っ」「怖っ」「冷たっ」というのが、くる人くる人、同じ順番で延々と繰り返されるので、おかしくてしょうがない。また、感情がこもったときには形容詞に「い」がつかないことも発見し、一人で満足した時間でもあった。

 「寒っ」という表現は先日のニュースでも話題なったが(参照)、彼女の感性はまたそれとは多少違う。子どものようにおもしろいなあという受容でもあり、それがまたあの明るい旋律にも通じている。
 
 
 

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2011.09.22

小坂明子の「Pianish」と「Pianade」

 「小坂明子」という名前を聞いて、「ああ、あの少女か」と思う人は多分、昭和32年生まれの私と同年代か、それより上の世代だろう。彼女も昭和32年生まれだが、1月生まれなので私より学年は一つ上になる。まあでも同い年。同じ時代を生きた人。「明子」という名前は巨人の星の「星明子」を連想させる。声は白石冬美。チャコちゃん。私以外の人にとってみるとどうでもいいことだが、私の初恋の人の名前でもある。姓は知らない。
 小坂明子のデビューは1974年。その年の紅白歌合戦にも出演している。17歳である。朝イチレポーター篠山輝信のお母さんのデビュー年齢で見るなら、普通にアイドルといった年齢でもあるが、前年の世界歌謡祭最優秀グランプリを16歳で受賞というのは衝撃的だった。作詞作曲も彼女自身である。天才と言っていい。その曲「あなた」は一世を風靡し、誰もが、世界の中心で「あなたぁ~」と絶叫した。ここは昭和33年生まれのしりあがり寿のイラストが欲しいところ。


もしも私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう
大きな窓と小さなドアと
部屋には古い暖炉があるのよ

真赤なバラと白いパンジー
小犬の横には、あなた、あなた
あなたがいて欲しい
それが私の夢だったのよ
いとしいあなたは、今どこに


 宅建のCMソングなのか、小犬の横に恋人を並べる、ジョン・ファウルズ的な世界なのかよくわからない。たぶん、チッチとサリーの世界というのが当時を知るものの証言である。水森亜土の世界というのも許す。

ブルーの絨毯、敷きつめて
楽しく笑って暮らすのよ
家の外では坊やが遊び
坊やの横には、あなた、あなた
あなたがいて欲しい
それが二人の望みだったのよ
いとしいあなたは、今どこに

そして私はレースを編むのよ
私の横には、私の横には、あなた、あなた
あなたがいて欲しい


 怖すぎるだろ、それ。逃げるだろう、男、フツー。
 おちゃらけはさておき、そして、描かれた詩の世界も1970年代。欧米でもビートルズの甘ったるい歌謡曲がべちょべちょ流れていた時代。しかし、そのピアノの旋律は、美しいものだった。
 その後彼女は、1982年「あきらめないで―小坂明子のやせる本」(参照)がベストセラーになり、それはそうだろうという世間の声と、彼女自身のヨーヨーな日々もあった。が、そのあたりから、普通に作曲家となって成熟していたらしい。セーラームーンのアニメソングなども作ったらしい。が、私はよく知らない。
 才能というものの一つの安定的な帰結であるかもしれないとも思っていたが、私は同年の親近感を超えて、気になることがあった。簡単に言えば、おちゃらけでなく言えば、「あなた」の絶叫は暗いのである。メロディは美しさよりも不安なのである。本当の才能というものが抱え込む、魔的な深淵のようなものが、そんな成熟なんぞで片が付くものか。
cover
Pianish
 それは2006年の「Pianish」(参照)に静かに覚醒していた。小坂明子のピアノ曲アルバムである。ジャンルとしてはニューエージになるだろう。ここに「あなた」のピアノ曲が収録され、それはiTunesでの販売を通して、世界のニューエージ・ピアノでも高く評価された。
 正確に言えば、それは1970年代の「あなた」ではない。よくある、サザンオールスターズや宇多田ヒカルの曲のピアノ・アレンジ曲のようなものではない。もちろん、旋律は活かされているから、聞きながらつい歌詞に引き込まれ、それはエレガントなメロディに流されていくのだが、人の声を誘った歌は、聴いたことのないピアノの旋律のなかに溶け込んでしまう。別の曲なのか、これがそもそも小坂明子という天才の本質なのか、戸惑っていると、最後のリフレインで、ピアノの響きではあるが「あなた」の絶叫がある。なぜ、この人は絶叫するのか?
 答えは、同アルバムの「Dark Clouds」にある。タイトルに暗示される、暗雲らしい不安な、そしてある意味でニューエージ・ピアノ曲らしい手法のなかから、ラフマニノフ的な展開が出現し、能「井筒」の怨霊のように舞始める。ああ、これだ。懐かしくゲドの影に出会うような戦慄がよぎる。おそらくこの曲は、もっと壮大な曲に自らを変化させたいという呻きのなかで、しかし、短く静かに悲しく終わる。北斗の拳のトキの命の悲しみのような何か。
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Pianade
 その悲しみを均衡させるような静寂はアルバム全体を覆い、その部分は後続の「Pianade」に継がれていく。「Dark Clouds」にあった深淵は、このアルバムの「春雷」に少し現れるが、舞おうとはしない。そこでワキのようなギターが入る。総じて、音楽的には「Pianade」が優れていると言えるだろうが、何かがまた消えてしまう。
 この世ならざるものに焦がれて人生を翻弄されてしまうしかない人にとって、偽装されたオアシスのような作品群のなかで、静かさに悲しみとして敗退する光景として、「初恋」も切ない。タイトルからして、ツルゲーネフ的な初恋のイメージに潤色されている戦慄だが、深淵のほつれが見える。たぶん、「あなた」という絶叫の隠喩は、あらかじめ失われた初恋として啓示された何かであったのだろう。
 
 
 

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2011.09.19

キャサリン・マリー・チャールトン(Catherine Marie Charlton)のピアノ曲

 ピアノ曲が好きな人は多い。私もそう。クラシックやジャズ以外に、いわゆるニューエージと言われるジャンルのピアノ曲もけっこう好きで、明確にジャンル分けできない曲想もいいと思っている。最近キャサリン・マリー・チャールトン(Catherine Marie Charlton)の曲をよく聞くので、ご紹介。

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Undershore
Catherine Marie Charlton
 一番気に入っているのは、「Undershore」(参照)。iTunesでも購入できる。
 ベスト曲は、タイトルにもなっている、オープニングの"Undershore"。瞑想的で複雑で情熱的。能に使えそうな幻想性もある。サビはラベルのガスパールやショパンのプレリュード嬰ハ短調のような、この世ならざる存在者の快楽的な失墜感もある。
 2曲目の異国風な"The Lonely Cobbler"や、パーカッションが導入される3曲目の"Moon Twist"も"Undershore"と同じコンセプトから引き込まれる。"Asymptote"では、メロディアスな具象性と数学的な抽象性の交錯も美しい。アルバムのエンディングは"Undershore"にパーカッションとフルートを入れてアレンジした"Undershore Flow"で、幽玄の余韻がある。
 ただ、このアルバムはジョージ・ウィンストン(George Winston)的ないわゆるニューエージ・ピアノのイメージで聞いているとちょっと違和感があるかもしれない。その点で、普通に聞きやすい曲は、なじみ深いメロディーをモチーフにした"Shenandoah"だろう。癒しの音楽のようにも聞くことができる。まずこの一曲だけ切り出して聞いてもいい。
cover
River Dawn:
Piano Meditations
Catherine Marie Charlton
 6曲目の"River Dawn"は、彼女の以前のアルバム"River Dawn"によるもの。このアルバムは副題にピアノ瞑想とあるように、彼女の瞑想的な作品。
 "River Dawn"のモチーフはアルバム"Undershore"に含まれている曲が短い分だけ、くっきりとしているが、アルバムのほうでは、このモチーフで1時間にわたる演奏が続く。
 瞑想ということもあって、"Undershore"のような情熱は抑えられているが、離散的な部分は、ジョン・ケージ(John Cage)の初期作品「In a Landscape」(参照)に似た印象もある。もちろんチャールトンは、ケージのような音楽的な実験といった作風はなく、いかにもニューエージ・ピアノ曲的な心地よさでもある。即興的な演奏ミスではないかとも思えるような不協和音も面白い。
 同アルバムは、脳波に影響すると言われるバイノーラル音を入れたバージョンもある(参照)。
 と、書いてみたものの、チャールトンについてはピアノ音楽以外にはあまり知らない。彼女自身のサイト(参照)に、各種情報があるにはあるのだが、それ以外の客観的な情報はわからない。
 背景としては、クラッシックからジャズに進んだ人のようでもあり、なるほどその双方の技法はよくわかる。が、そのいずれでもないピアノ曲になっている。
 10月に新しいアルバムが出るらしく、プレビューも聞くことができる。聞き込んでいないのでよくわからないが、期待している。
 
 
 

音楽は"Moon Twist"

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2011.09.17

[書評]Say It Better in English: Useful Phrases for Work & Everyday Life(Marianna Pascal)

 先日ツイッターで英語の勉強法の話題があって、「それならいいのがありますよ」みたいなことをつぶやいた。念頭にあったのは、この本、「Say It Better in English: Useful Phrases for Work & Everyday Life(Marianna Pascal)」(参照)。タイトルを訳すと、「英語で上手に言う方法。職場と日々の暮らしで役立つ言い回し」となるだろうか。そういう感じの本。

cover
Say It Better in English:
Useful Phrases for Work & Everyday Life:
Marianna Pascal, Lee Shee
 日常的な英会話でよく使われる表現を368個まとめて、それに簡単な解説とイラストと例文が付いている。ちょっとした絵本といった風情なので、中学生が読んでもいい。英語のレベルからすると、中学生くらいが相当かもしれない。日本で高校英語を普通に終えた人なら、おそらく半分はすでに知っているのではないだろうか。ということで、いまさら薦めるのもどうかなというためらいもあった。

 もう一つためらいがあった。日本のアマゾンを見ると中古のプレミアムがついていて、それがちょっととんでもない価格になっている。米国アマゾンはどうかと見ると、やはり在庫はなく、中古でお高い。まいったなとも思うのだが、これ、それだけのお値打ちの良書だという意味もあるのだろう。
 幸いというべきからキンドル版がある。キンドルで買うと12ドルほど。とはいえ、キンドルもってない人にこの本のためにキンドルを薦めるというのもどうかいうのはある。そういえば、先日、キンドルの話(参照)を書いたおり、もうすぐ新しいのが出るのにもったいないことをしたねみたいなことも言われたが、近日出るのはキンドルパッドというiPadみたいなものらしい。キンドルのほうはさして変わらないみたいだ。
 さてと。
 というわけで、ここまでエントリを読んでくれた人をがっかりさせるわけにはいかない。
 実は、本書収録の言い回し部分だけをリストにまとめた冊子が無料でPDF形式で配布されている(参照)。これだけダウンロードして、知らない言い回しをチェックしておくといいのではないかな。知らない言い回しを覚えたら、たぶんだけど、「あれれ、少し英語が上達したしたかも」という感じがするのでは。"I enjoyed your presentation very much."から"I really enjoyed your presentation."になるとか。
 先にも書いたが、すごく当たり前な言い回しも多いのだけど、意外と、へえ?というのもあるのではないか。私は英語が苦手なので、へえと思う言い回しがいくつもあった。
 例えば、"Can I get by?"
 状況によって意味が変わることもあるけど、「あの、ちょっと通してくれませんか?」という意味。リストには"Say this when you need someone to move so you can go past them." と説明がある。本書のほうだと、エレベーターを降りたいのだけどなあ、みたいなイラストで一目でわかる。
 例えば、"You shouldn’t have."
 これも状況で意味が変わる、というか、たぶん逆の意味にもなりかねないけど、説明はこう。"Say this to show appreciation when receiving a gift." つまり、ちょっと値の張る贈り物なんかをいただいたとき、日本語でも「こんなことなさらなくても」というけど、つまり、英語でもそういう言い方をする。
 例えば、"What are you up to these days?" なんかもよく言われるけど、"Tell me about your recent life"という意味。
 まあ、そんな感じ。リストを見るとわかるけど、電話関連の言い回しや、ちょっとした仕事関連の言い回しが多く、けっこう実用的。"Can I take a rain check?"とかも。
 本書のほうだと、イラストの他に、ちょこっとした一行程度の解説があったりする。私なんかだと、へえと思うような話もあった。


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