2004.06.26

青色一号

 最近流行もあってか、食品添加物の合成着色料である青色一号を多めに摂っている人が増えているようだ。この合成着色料は、通常は人間の消化器官から吸収されにくいため、大半は排出される。ってことは、便が着色されることになる。概ね黄銅色の便であれば、絵の具の三原色の加色混合により、緑便となる。ふふふ。
 青色一号は、その名称が鉄人28号に似ていることもからも推測されるように、戦後間もない昭和23年に食品添加物に指定された。といって、命名は英語の"Blue No. 1"のベタな訳語に過ぎない。英語では、長野県知事が好みそうな"Brilliant Blue FCF"という名称で呼ばれることも多い。そのスジでは、コード名E133で済ませている。
 青色一号は合成着色料だというと、健康に悪いんじゃないかなと気になる人もいるだろう。どうだろうか?
 「と」かと誤解もされかねないジャーナリスト渡辺雄二だが、その著作は概ね正確で、「食卓の化学毒物事典―安全な食生活のために(三一新書)」の同項目を見るとこうある。


お菓子や清涼飲料水などに使われている。青色一号は発がん性の疑いがもたている恐いタール色素である。そのため、ヨーロッパ諸国では使用が認められていない。飲料水やお菓子など子どもが好む食品に使われてことが多いだけに、その悪影響が心配される。

 とある。「恐いタール色素」といっても、近づいても噛みつかれる心配はない。毒性(ADI)も低い。1969年のFAO/WHOの正式報告"FAO Nutrition Meetings Report Series No. 46A WHO/FOOD ADD/70.36"(参照)を見ると、こうだ。

Estimate of acceptable daily intake for man
                     mg/kg body weight/day
  Unconditional acceptance -----------------------
                       0-12.5

 つまり、70kgの体重の人なら毎日0.875g摂り続けていても健康で緑便が観賞できることになる。この手のお粉1gって、けっこう多く感じられるものだが、その位は大丈夫なのだ。
 なーんだ、たいしたことないじゃん、というわけで、青色一号のお仲間赤色一号も摂ってみようかと酔狂な人もいるかもしれないので、ご注告するのだが、赤色一号はすでに添加物としては日本でも禁止されている。発がん性が高いからだ。じゃ、赤色二号はというと、米国では禁止されているが、嬉しいことに日本ではOKだ。狙い目ってやつか。
 話を青色一号に戻す。「食卓の化学毒物事典」によると、青色一号はヨーロッパ諸国では使用禁止、とあるが、これはちょっと曖昧で、現状EUでは禁止されていない。禁止されているのは、ベルギー、フランス、ドイツ、スイス、スェーデン、オーストリア、ノルウェー(参照)である。イギリスやイタリアなら大丈夫。だが、EU統一を考えると、多分、禁止の方向になるのだろう。
 アメリカには、青色一号を気にしない人と、とっても気になる人がいる。後者が医学関係者だろう。というのも、権威ある医学雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」(New England Journal of Medicine October 5, 2000; 343; 1047-1048.)に、ちょっと気になる記事"Systemic Absorption of Food Dye in Patients with Sepsis"(参照)が掲載されたからだ。標題を試訳すると「敗血症患者における食物着色料のシステマティックな吸収」となるだろうか。つまり、健康体ならいざ知らず、疾患のある人の場合は、合成着色料も吸収される…身体も青くなるということだ。
 身体が青くなるっておもしれーじゃんとか思う人もいるかもしれないが、まあ、冒頭を読め。

To the Editor: Critically ill patients who are receiving enteral feeding are susceptible to pulmonary aspiration of gastric contents. Measures to enhance the early detection of aspiration include the tinting of feedings with the food dye FD&C blue no. 1. During sepsis, gastrointestinal permeability increases because of enterocyte death and loss of barrier function at intercellular gaps. Thus, substances that are otherwise nonabsorbable may be absorbed during sepsis. We report two deaths associated with the systemic absorption of blue dye no. 1 from enteral feedings; in both cases, the absorption was heralded by the appearance of blue or green skin and serum.

 難しいこと言ってじゃんと読み過ごす人もいるかもしれないのだが、ポイントは、青色一号の摂取で死者が二人出たということ。死んじゃったわけだ。シャレじゃないんだよ。一人は54歳の女性。もう一人は12か月の赤ちゃん。「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」にはこの赤ちゃんの写真が掲載されている。
 もちろん、健康な人は青色一号で死ぬわけはないので、誤解なきよう。あくまで敗血症などの患者に限定される。

We encourage judicious use of this food dye in patients with sepsis or other illnesses associated with increased gastrointestinal permeability.

 ただ、ちょっくら医学・薬学に関心持つ人は次の話も覚えておいてもいいかもしれない。よくサプリメントなんかで、飲めば疲労が取れるというのがあるが、青色一号はその逆っぽい印象がある。

Artificial food dyes can inhibit mitochondrial oxidative phosphorylation in vitro by acting as uncouplers (as does 2,4-dinitrophenol), by blocking electron transport (as does cyanide), or by inhibiting energy transformation by blocking the generation of ATP. Blue dye no. 1, a triphenylmethane dye, is a potent inhibitor of mitochondrial respiration in vitro4 and reduces oxygen consumption by a factor of eight in mitochondrial preparations in vitro.5 It appears to inhibit energy transformation by blocking the adenine nucleotide translocator (as is the case with atractyloside).5

 それでも、死者は出た。米国の厚労省にあたる食品医薬品局でも、人が死んだたぁ黙っているわけにもいかねーかってことで、公式なアナウンス"FDA/CFSAN - FDA Public Health Advisory: Subject: REPORTS OF BLUE DISCOLORATION AND DEATH IN PATIENTS RECEIVING ENTERAL FEEDINGS TINTED WITH THE DYE, FD&C BLUE NO. 1"(参照)を出した。もちろん、出来レースっぽいので、結論は安全ということになる。

While we are not able at this time to establish a cause-and-effect relationship between the reported serious and life-threatening patient outcomes and the use of the dye, nonetheless, given the seriousness of the potential complications, we believe health care professionals should be notified of these reports.

 とはいうものの、ヘルスケアの専門家は注意せーよと言っている。が、日本にヘルスケアの専門家なんているのか? いたら、なんかこの件で発言してましたか?

2004.06.26 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.06.19

女の子の喧嘩には科学的に見て特徴がある

 当然とも言えるのだが、佐世保小六女児殺害事件に対するメディアのヒステリックな反応は終わりつつある。精神鑑定に持ち込むことでメディアから遮断し、人の噂も75日ということだ。イラク日本人人質事件も「新潮45」6月号で奇妙なルポが掲載されたが、もはや終わった話題となった。かくして本質的な考察は忘れ去れられ、類似の、あるいは、より悪質な問題が継続する、と偉そうに言ったものの、よくわからない。社会的な忘却は、社会精神の自浄作用なのかもしれない。
 佐世保小六女児殺害事件について、私は文書報道を除いて、NHKの報道番組以外は見ていない。が、気になるのは専門家からのコメントがなかったように思えることだ。あるいはあったのだろうか。あまりに馬鹿馬鹿しいコメントで私の脳がスルーしているかもしれない。少なくとも、私の意識にはなにも残っていない。精神医学関連の専門家はなぜ沈黙しているのだろう。メディアがあえて出さないようにしているのだろうか。私は、奇妙だと思う。
 少年・少女の行動は米国ではきちんと医学の類縁で扱われている。そして、そうした医学成果は、大衆向けには健康情報の一貫として扱われる。
 日本では、健康情報というと馬鹿げたテレビ番組の話題か、栄養士や医者の医学ぶった、戦前の医学かよと思われる旧態依然としたコメントくらいなものだが、健康というのは、養生法だの子どもの知能面の速成に限らない。
 ぼやきはさておき、この分野の専門誌" Archives of Pediatrics & Adolescent Medicine"の最新号(6月号)に気になる研究発表があった。例によってアブストラクトしか見ていないのだが、日本のこの分野の専門家は当然読んでいるだろうから、なにかしら社会的なコメントを出してしかるべきではないかと思う。
 発表標題は"Characterization of Interpersonal Violence Events Involving Young Adolescent Girls vs Events Involving Young Adolescent Boys"(参照)と簡素なもので、試訳すると「青少年期の対人暴力の男女差の特徴」となるだろうか。一般的な言葉でいえば、子どもの喧嘩に男女差がある、ということだ。
 このテーマが研究される背景はこうだ。


Background
Multiple studies have demonstrated that girls are engaging in interpersonal violence. However, little is known about the potentially unique aspects of violent events involving girls.

 当たり前と言えば当たり前だが、まず、女の子といえども喧嘩はする。しかし、女の子の喧嘩というものがどういうものかは、医学・心理学的にまだよくわかっていない、というのだ。
 馬鹿馬鹿しいこと言うよな、そんなの世間を生きる経験や文学でわかりそうなもんじゃないか、とも思うのだが、米国科学の良いところは、こういうゼロから考えるところだ。余談だが、大学の教科書などでも、ほんとゼロから書いてあるものが多い。ちゃんと読んで演習すれば実力が付くようになっている(演習がポイントなんだけどね)。
 研究目的も単純だ。

Objectives
To describe characteristics of interpersonal violence events in preadolescents and young adolescents and to determine if events involving any girl are different than those involving only boys.

 というわけで、女の子同士と男の子同士の喧嘩の差異を調査しようというわけだ。
 実験のデザインと結果も、アブストラクトには掲載されているが、率直に言って、たいしたものではない。エンロールも190名と少なく、これではちょっとした学部の卒論といった感じもある。しかし、だからといってこの調査が無意味というわけでもない。
 結果もあたりまえと言えばそうなのだが、きちんとこう言われると興味深い。

Conclusion
Violent events involving preadolescent and early adolescent girls are more likely to be in response to a previous event and to involve the home environment and family member intervention. Health care professionals should screen violently injured girls for safety concerns and retaliation plans and consider engaging the family in efforts to prevent future events.

 ここは意訳しておくほうがいいだろう。率直に言って、想定されている事態はかなり、現実的な暴力を含んでいる印象はある。

結果
前青年期および初期青年期の少女間で起きる暴力行為は、男子に比べて、単独で発生するというより、前回の暴力行為の続きとして起きる傾向がある。また、この暴力行為は家庭環境や家族による介入(その場の仲裁)を巻き込む傾向が強い。青少年の健全育成に関わる専門家は、安全を重視し報復を避けるために、暴力によって負傷したことのある少女を保護すべきである。また、暴力再発を避けるために家族を含めての対処をする必要がある。

 訳が拙いので、想定されている事態はかなり実際的な暴力だとして、日本の状況とは違うのではないか、という印象を得るかもしれない。が、そうではない。Violent eventsを単純に暴力行為とすると、原義が損なわれやすい。端的には実際の暴力だが、心理面に関わる面もある。
 問題は、表層に現れる暴力行為ではなく、女子の場合の対人暴力は報復性が強いという心理的な特徴なのである。
 さて、こうしたことは、私の世間感覚からすると、日本では素では言えないかなという印象を持つ。言うとすれば、偽悪的に、「命の大切さ」みたいなどろっとした空気がよどんでいるよね、という感じだ。
 しかし、そんなことはどうでもいいのであり、問題はきちんと医学、心理学、つまり科学的なレベルで対応が可能だという点が重要だ。偉そうなことを言うとかえって無意味なのはわかるが、このこと、つまり、科学的な社会への対処というものが、日本の社会に決定的に欠けているように思う。
 くどいが言う。道徳のような訓戒ではだめなのは、日本の敗戦と同じだ。戦時、「日本は負けるでしょう」と言えない空気があり、そう言う人間を道徳的に罰して沈黙させた。そして、道徳「絶対勝つぞぉ」みたいなもので進めていく。それを「命の大切さを知らせる」と言い換えても、構造的にはなにも変わらない。
 今回の事件で、誰もが、「なぜ女の子が」と思ったはずだ。そして、この事件にはまさに、そこが問われてもいいはずだったが、戦中と同じような空気で日本社会はそこを封じている。
 個人的な印象だが、こうした女児の行動特性は、私は多分に文化環境によるものではないかと思う。つまり、生物学的な傾向ではないだろうと考えている。このアブストラクトの出だしにもあるが、我々の社会は、女児の暴力性を女児だからとして過度に抑圧するようにできているため、その自発的な制御が効きづらいのだろう。
cover
「ソロモンの指環」
 このあたり、ふと、コンラート・ローレンツの愉快なエッセイ(愉快すぎて今読むと恐怖でもあるが)「ソロモンの指環―動物行動学入門(ハヤカワ文庫 NF222)」のウサギの話を思い出した。たしか、狼とウサギとどちらが残酷に争うかという話だ。もちろん、動物だと本能的な行動特性ということになるが、人間の男女ではそうでもなかろう。
 え、その学生、「ソロモンの指環」を読んでない? ダメだなぁ、って、これを読ませない先生がダメっていうこと、さ。

2004.06.19 in 生活 | 固定リンク | コメント (11) | トラックバック

2004.06.15

日本の野球を変えてくれ

 今日の新聞各紙社説では、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併の話が多い。といっても読売新聞にはこの話題はない。ナベツネの顔色をうかがう現状ではなにも書けっこない。朝日新聞は、それをいいことに、標題からもわかるが「球団合併――巨人を分割したら」というように、読売新聞へのおちょくりを書いている。社説でふざけるのもいいかんげんにせーよ。
 私は野球にはまるで関心がない。が、ちょっと気になることがあるので、書いておきたい。きっかけに毎日新聞社説「パ2球団合併 ファン不在許されない」をひく。


 プロ野球パシフィックリーグの大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併話が日本列島を駆け巡った。セ・パ12球団体制が定着して約半世紀。慣れ親しんだ2リーグ制は維持できるのか、これからも球団の合併や身売りはあるのか。国民の関心が高いプロ野球だけに、今後の協議を注意深く見守りたい。

 私のように野球に関心のない人間でも、この出だしは毒にも薬にもならないと思う。毎日新聞社説の話として意味があるのは次の点かな。

 この10年余の間、庶民が低成長やリストラにあえいでいる中、プロ野球の世界は、世間の常識からかけ離れた別天地の「金持ちゲーム」に狂奔した。


 プロ野球は、今回の合併を契機に、抜本的な改革に取り組むべきだが、一連の動きを見ていて痛感するのは「ファン不在」ということだ。プロ野球はファンがあってこそのビジネスだ。球団所有者の「経営判断」だけで物事を進め、ファンから見放されては、興行として成り立つはずがない。

 金持ちゲームと言われれば、なるほどそんな気もする。でも、それでもいいのではないか。というか、何が悪いんだか。気になるのは、「ファン不在」という点だ。「プロ野球はファンがあってこそのビジネスだ。」というのだが、日本の野球、というか、野球は日本にしかないのかもしれないが、ファンに何をしてきただろうか? 毎日新社説は「ファン不在」ということで何が言いたいのだろうか? ファンに見放されないように、プロ野球に何を求めているというのだろう? なんも書いてないけど。
 話を回りくどくする必要はないので、私が思うことを書く。プロ野球選手や球団は福祉サービスをせよ、である。球場があるからその地元なんじゃなくて、地元の病院回りとかきちんとせーよ、と思う。もちろん、今でもある程度やっていて私が知らないだけかもしれない。それにしても、アメリカと違い過ぎるじゃんと思う。
 例えば、River Catsというマイナーリーグのサイトには"River Cats Announce Dates For Sutter Health Summer Caravan"(参照)というページがあり、この球団の病院巡りキャラバンの情報が掲載されている。

WEST SACRAMENTO, Calif. -- The Sacramento River Cats announced today that they will begin their Sutter Health Summer Caravan through the Sacramento region on Tuesday at Sutter Memorial Hospital in Sacramento. The Caravan will include a total of six stops at different Sutter Health facilities in the months of May, June and July.

River Cats manager Tony DeFrancesco, catcher Mike Rose and outfielders Nick Swisher and Steve Stanley will join Dinger (mascot) at the Sutter Health Summer Caravan stop on Tuesday. They will sign autographs and visit hospitalized patients at Sutter Memorial Hospital from 10:30 a.m. to 12:30 p.m.


 病院巡りが吉例になっているのだ。Sutter Healthについてちょっと補足しておくと、これは、カリフォルニア州サクラメントの有名な医療組織ネットワークだ。もうちょっと引用したい。

The Sutter Health Summer Caravan is a great way for our players to meet their fans and put smiles on the faces of hospital patients,"River Cats President & Chief Operating Officer Alan Ledford said. During each of the last three years, we conducted a similar Caravan with Sutter Health during the winter months. This year, we decided to hold the Caravan during the summer so our players can see more people and visit more hospitals over a three-month span."

 私は政治的な発言では反米に見られたり親米に見られたりするが、こういうアメリカが大好きだ。"a great way for our players to meet their fans and put smiles on the faces of hospital patients"なんか、泣かせるじゃないか。こうした病院巡りのキャラバンは、球団選手が病院でファンに出会って笑顔を交わすのによいことだ、というのだ。そう、これがファン不在じゃない、ってことだと思う。
 病院巡りの他に、子どもとふれあう活動も活発にしている。それも大切なことだ。子どもが社会問題だというなら、地域のなかで球団が率先して関わってこいよ。
 このRiver Catsが気になって、もうちょっとついてぐぐっていたら、「車イス 世界のレジャー観戦情報」というサイトに「3A サクラメント リバーキャッツ」(参照)という楽しい記事を見つけた。

米国でスポーツの仕事に関わる友人が、メジャーリーグより、マイナーリーグのほうが
面白い。観客サービスがいいと強調していた。
日本では、マイナーリーグの情報なんてないので、半信半疑で訪れた。

 どんなふうに面白いかまで引用できないが、この感想は本当だと思う。

また、観客が早くに帰宅するのもマイナーリーグの特徴。
小さい子どもが多く見に来ることや、試合の勝敗にメジャーほどこだわらないのが理由。
野球に興味がない人でも、楽しみやすいのがマイナーリーグ。
娯楽としてのスポーツ観戦が、米国では都市から田舎まで、非常に充実しております。

とにかく、野球場にきて、こんなに笑い転げたのは初めて。
キャラクター・ショーかよと思ってしまうほど、ファンサービスが充実。
メジャー8球場、マイナー6球場を観戦したことがあるけど、
サクラメントがダントツで一番面白い野球場でした! 皆さんも体験あれ!


 私は、こういうのが野球じゃないかと思う。「フィールド・オブ・ドリームス」また原作「シューレス・ジョー」でも、「それを作れば彼はやってくる」というが「それ」っていうのは、こんな野球じゃないかと思うのだ。
 アメリカ独立リーグ所属、今関勝プロ野球投手のホームページでも興味深い指摘(参照)があった。

 当然、利益を上げることは大切なことですが、それだけでなく社会福祉、社会貢献、次の世代への野球の底辺拡大、理念があってリーグを運営しているように感じました。このあたりが日本野球界と、アメリカ野球界の最大の違いでは・・・・・?

 今後、日本の野球界が、このようなことを考えていけば、自然と良い方向に向かっていくのではないかと考えます。


 なるほどなと思う。
 私は野球に関心がないと書いた。そのとおり、今ではね。でも、私は物心付いたときから、野球を見ていた。「一番柴田」から「一番高田」になったアナウンスは心に焼き付いている。小学校5年生くらいか。金田が突然アンダスローを投げたシーンも覚えている。夏の夜は父親と延々とナイターを見ていた。
 そして、昼間は近所の高校の野球を見ていた。草野球と言ってもいいだろう。草原に座る観客はたくさんいた。あれが野球だと思う。懐古がよいと言いたいわけではない。でも、ああいう野球が野球だなと思う。
 最後に毒を吐く。全国高校野球選手権大会、そう甲子園なんて止めろよ。教育に百害あって一利なしだよ。それが無理なら、せめて、朝日新聞社は優勝校地元駅前の群衆に日本軍みたいな旗を配るのは止めてくれよと思う。醜悪過ぎ。

2004.06.15 in 生活 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

2004.06.13

異性化糖でデブになる?

 コカコーラC2をあちこちで見かける。"売り"はカロリー1/2というところだろう。ダイコクやコカコーラライトの系統だから、またしてもアスパルテームか、とつい思う。気になるのは、アスパルテームは過熱するとたしか変質するということだが、風邪薬の代わりにコークを過熱して飲む日本人はいないので、それでもいいのかもしれない。それでも、いまさら果糖とアスパルテームを配合する時代でもあるまい。スクラロースあたりだろうか……。
 と察しをつけてコンビニで手にとって仰天した。御三家だよ。アスパルテーム、スクラーロース、アセサルファムKが全部入っている。思わず、なぜ?とつぶやいてしまった。甘味としては他には、異性化糖(果糖ぶどう糖液糖)と蔗糖(砂糖)も加えられている。あまり想像したくもないのだが、これは日本コカコーラ社内にテイスターがいて、これでいいと決めたのだろう。
 そんな時代なのかと唖然とはした。カロリーを1/2にしたければ飲む量を半分にすればいいのだが…。もともとコカコーラ(クラシック)は甘味が強いのだから、少し薄めるくらいでもいい。ライムを入れるとなお良いのだが、このあたりは個人の趣味の問題だろう。米国では恐らく甘さが決め手でペプシに負けてしまったのだから。という話は、昔読んだ「コカ・コーラの英断と誤算」にあった。もっともマーケット的にペプシが勝ったのは1ボトルの量が大きくて米国の大量購入にマッチしていたことらしい。確かに米軍内でバーガーキングに入るとバケツみたいなカップでコーラが出てくるしな。
 ブログの時代なので、しかもこの手のネタはいかにも日本のブログ向きなので、と思ってコカコーラC2の評判をぐぐってみると、好くない。ポイントは味のようだ。しかも、アスパルテームがネックのように見受けられる。ぐぐったついでに日本コカコーラ社の資料を読むと世界に先んじてとあるから、こいつの味のテイスターは米国人なのか?
 カロリー1/2というのがそれほど日本のマーケットに訴求力を持つのだろうか。当然、マーケット調査をして売り出しているのだろうが、よくわからないところだ。
 と、ここで、アルパルテームを嫌う日本人は和菓子の伝統で甘味の感覚に優れているからな、と書きたいところだが、たぶん違うだろう。というのは甘味に敏感になれば、異性化糖のきつい、それでいてうわついた感じがわかるはずだからだ。でいないと和三盆の味なんかわかるわけもあるまい。現実の日本人の大半の甘味の感覚は異性化糖に合ってきているのだろうと思う。
 資料を詳細に当たるのがめんどくさいのだが、たしか日本の砂糖消費量は往時に比べかなり減少しているはずだ。「異性化糖による砂糖需給の変化」(参照・PDF)を見ると下げ止まりでもありそうだが、それでも砂糖の時代は終わったのは、異性化糖によると言っていいだろう。よく阿呆な自然食信仰者が砂糖は身体によくないとかわけのわかんないことを言うが、むしろ砂糖ならましなほうで、現代日本の甘味消費は異性化糖の比重が多いだろう。
 もしかすると、異性化糖って何?と思う人もいるかもしれないので、日本甜菜製糖株式会社HPの「異性化糖って何だろう?」(参照)を参考に簡単にまとめておく。異性化糖は、ブドウ糖(グルコース)と果糖(フルクトース)の混合液で、日本農林規格(JAS)では、果糖含有率50%未満を「ブドウ糖果糖液糖」、それ以上を「果糖ブドウ糖液糖」とする。これらに10%以上の砂糖を加えると「砂糖混合異性化液糖」になる。異性化糖は澱粉をもとに工業的に製造できるので、このおかげでサトウキビ農業が壊滅的となったと言ってもいいだろう。甘味については、砂糖を100とすると、ブドウ糖が65~80、果糖が120~170。蜂蜜は果糖を成分としていることもあり、人類はそれが砂糖より甘いことを知っていた。で、異性化糖の甘味度だが、果糖42%で70~90、果糖55%で100~120となる。つまり砂糖の偽物になる。話が前後するが、砂糖(蔗糖)はブドウ糖と果糖が結合したものだが、異性化糖は混合液である。
 ここで、気になるのは、人間の身体と果糖の消化の関係だ。現代文明がイカンというなら、異性化糖に害があるとでも言いたいところだが、毒性などありようもない。問題は過剰摂取だが、それとても、蔗糖とめだった差異があるというわけにもいかないだろう。ようするに、総量としての果糖消費が現代人を特徴付けているとだけは言えそうだ。
 そこで果糖なのだが、こいつの代謝がどうも現代科学で完全に解けているようでもないようだ。というあたりから、ブログのネタなのだが、先日"The Journal of Clinical Endocrinology & Metabolism"にちょっと面白い研究が発表された。"Dietary Fructose Reduces Circulating Insulin and Leptin, Attenuates Postprandial Suppression of Ghrelin, and Increases Triglycerides in Women"(参照)である。
 例によって本文を検討したわけではないが、標題や概要からでもこの話は面白い。標題を試訳すると「食用果糖は女性の身体において、血中インスリンとレプチンを減らし、食後のグレリンを抑制効果を減じ、中性脂肪を増加させる」というもの。レプチンはすでに現代人の必須用語になったが、食欲抑制効果を持つペプチドホルモン。グレリンは成長ホルモン分泌促進ペプチドである。概要の一部を引こう。まず、発表の前段となる前回の状況。


Previous studies indicate that leptin secretion is regulated by insulin-mediated glucose metabolism. Because fructose, unlike glucose, does not stimulate insulin secretion, we hypothesized that meals high in fructose would result in lower leptin concentrations than meals containing the same amount of glucose.

 つまり果糖がレプチンを弱めるだろうと推測していた。そして、今回の結論はこうだ。文中HFrはhigh fructose(果糖たっぷり)ということ。

Consumption of HFr meals produced a rapid and prolonged elevation of plasma triglycerides compared with the HGl day (P < 0.005). Because insulin and leptin, and possibly ghrelin, function as key signals to the central nervous system in the long-term regulation of energy balance, decreases of circulating insulin and leptin and increased ghrelin concentrations, as demonstrated in this study, could lead to increased caloric intake and ultimately contribute to weight gain and obesity during chronic consumption of diets high in fructose.

 科学的な言葉をやや不正確に下品に言うと、長期に果糖を過剰摂取していると、食欲を制御するレプチンが減り脳が十分に機能できずにデブになるよ、ということだ。
 この先は、ロイター系のニュース"Too much fructose may skew appetite hormones"(参照)をひこう。

After people in the study ate a meal followed by a drink flavored with the same amount of fructose found in two cans of soda, they showed relatively low levels of insulin and leptin, hormones that help people know that they are full.

On the other hand, they showed relatively high levels of ghrelin, a hormone that stimulates eating.

These hormonal changes "we think could promote overeating," and subsequently obesity, study author Dr. Karen L. Teff told Reuters Health.

 というわけで、果糖を過剰摂取すると、食欲抑制物質が減り、促進物質が増えるというわけだ。デブまっしぐらである。糖については、カロリーも問題だが、特に過剰な果糖摂取が現代人の代謝を狂わせている可能性は高い。
 当然、こうした研究を先読みして、清涼飲料水の産業も異性化糖を減らす方向に向かわざるをえないのだろう。

2004.06.13 in 生活 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

2004.06.12

謎の超人間ケリーが暗示するもの

 あいもかわらず昭和32年生まれの私は毎週鉄人28号を見てうるうるしているのだが、前回の第10話 「謎の超人間ケリー」では、表面的な回顧のイメージの奥でいろいろ思い出すことがあった。ドラグネット博士の尋常じゃないヘアスタイルはなんとなく覚えているが、この話自体は記憶にはない。なのに、どうにもリアルに感じられるのは、戦争のために改造人間となったというあたりの設定だろう。(だから、たぶん、鉄人28号もあんなに巨大なわけがないのだが…)。
 あの時代、なぜかこういう話が多かったように思う。サイボーグ009でも、空爆機と一体化した敵のサイボーグ(薔薇を愛するキャラだったと記憶しているが)とか、手塚なんかにも特殊自動車のパーツとなるためのロボットだとかあった。日本に限らない。キャプテン・スカーレットも似たようなものだ。これってリバイバルしているのか?って、今やったらサウスパークのケニーかよという笑いを誘うだけか。レンズマン(小説のほう)でも、グレーレンズマンではやはり死体から再生する兵士のイメージがあった。SF版七生報国か思う。
 今回の鉄人28号の不乱拳博士はそうそうに死んでしまったが、モンスター良久は、アニメではぼかしていたが、あれはヒト胚性幹細胞(ES細胞)とハルク(緑だしな)の連想のキャラだろう。ES細胞が出てくるあたり、意外にリメーク鉄人28号は新しいのかなとも思うが、スティーブン・カーツ(Steven Kurtz)のこととか考え込むと、意外に洒落でもないように思えてくる。が、その話は今日は書かない。
 ES細胞といえば、ナンシー夫人による、幹細胞研究の拡大を提唱が気になる。このところ米国ニュースを読んでいてレーガン追悼ものにうんざりするのだが、イラン・コントラ疑惑でもっと叩けないのは、ブッシュの思惑なのだろう。政治の上っ面などどうでもいいことだが、なぜナンシー夫人が幹細胞研究の拡大を提唱しているか。ロイターの「故レーガン元大統領夫人、幹細胞研究提唱者に」(参照)ではこう伝えている。


 夫人は、故大統領が自分の手の届かない場所に行ってしまったとし、「だからこそ、(アルツハイマー病で)苦しむ他の家族を救うために、できることは何でもしようと決意した。私達は、これを無視することは出来ない」と語った。
 支援者はアルツハイマー病治療の突破口となる可能性があるとしている。

 思わず、え?、そんな単純なことでいいのか。ナンシー夫人も●●かよ、と思うが、よくわからない。ご存じのとおり、ブッシュは幹細胞研究に同性愛結婚なみの嫌悪を示しているのだが、そのあたりの背景とか空気がわからない。一応裏としては上院議員有志の動きがある。共同「ES細胞の研究拡大要請 米上院有志が大統領に」(参照)。

 【ワシントン7日共同】ブッシュ米大統領が、人体のどんな細胞にも成長できる胚(はい)性幹細胞(ES細胞)の研究に厳しい姿勢を取っていることについて、上院の過半数に当たる58議員は7日、超党派で大統領に対し研究の拡大を求める書簡を送った。患者団体や研究機関でつくる医学研究振興連合(CAMR)が明らかにした。

 このあたりがよくわからないのだが、実際のところ米国ではES細胞の研究は進んでおり、日本もその尻馬に乗っているというか、実質的に無宗教な国民性をいいことに適当に進んでいる。たとえば、共同「ES細胞から心筋細胞 信州大が国内初」(参照)。

人体のあらゆる臓器や組織に成長できるヒトの胚(はい)性幹細胞(ES細胞)を心臓の心筋細胞に分化させることに、信州大医学部の佐々木克典教授(組織発生学)の研究グループが国内で初めて成功したことが13日、分かった。


 佐々木教授によると研究グループは、米ウィスコンシン大が作ったES細胞を輸入して心筋細胞などに分化させる研究計画を文部科学省で認められ、2003年3月から研究を開始した。

 なんだ、それ?という感じもする。市民社会とジャーナリズムはこんな呑気なことでいいのだろうか。
 とはいえ、森岡正博のHPにある「ヒト組織・クローン規制法・ES細胞」(参照)も、正直なところよくわからない。この問題はどう考えたらいいのか、という議論と、現実の科学の動向の力学の関連がなにかずれているように思う。この問題はすでに超国家として国連も関与しているのだが、そういう問題なのだろうか?
 もっとも、じゃ、おまえはどうなんだと問われれば、受精卵を原料とする技術は悪魔的だと思う。そう思うのは、自分の宗教的な心情だし、その心情は、譲る気にもならない。
 話が横にそれていくが、ぼんやりと夢想しつつ、この研究で世界の尖端を行く韓国のことも気になった。韓国は米国から突き放されようとしているのだが、この時、トランプ(切り札)となるのは、もしかしたらこの技術か?というくだらないことを、鉄人28号の見過ぎだろうが、連想した。ニューズウィーク日本語版2004.3.3「韓国の格安ヒトクローン研究」が興味深い。

 アメリカやイギリス、フランスなどでは、クローン人間づくりに結びつくおそれがあることから政治問題化しており、研究者は身動きが取れないのが現状。そのなかで韓国の研究チームは、着実に研究を重ねてきた。
 もっとも、彼らが資金的に恵まれていたわけではない。年間200万ドルにも満たない予算は寄付金や授業料でまかなったもので、大学側はほとんど援助をしていない。政府にいたっては補助金ゼロだ。
 研究室も100平方メートル程度の狭いもので、研究員はひじをぶつけ合いながら作業している。「外国の研究者は、今回のプロジェクトにカネを使っていないことに驚く」と、黄は言う。「カネや物がありすぎて怠けるより、不足した状態で苦労したほうがいいときもある」

 私の考えは間違っているかもしれないが、ES細胞の研究の基礎は最先端設備ではなく、ロッキーホラーショーのような世界なのかもしれない。とすれば、頭脳さえあれば、どこでも可能なのではないか。
 もっとも、韓国が有利なのはどう記事にあるように、不妊症研究が進んでいるからだ。

 生殖産業が発達しているため、研究で使う卵子にも事欠かない。黄のチームも、16人の女性から計242個の卵子の提供を受けた。
 だが、実験を成功させるうえで最も有利に働いたのは、政府の介入がなかったことかもしれない。

 おぞましい感じもするし、こうした動向をつい韓国の文化的な背景に結びつけたくもなるが、そういうことでもないだろう。
 不死のバイオ戦士の夢想をSFが描いたのは、冷戦下だった。現在冷戦が終わったが、最終兵器としての核は国家を越えて分散された。と、同時に、バイオ戦死の悪夢も分散されてきているような気がする。気がするっていうだけの話なんだけどね。

2004.06.12 in 生活 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

2004.06.11

脳は40歳を境に衰えていくようになっている

 オンライン版のNatureに9日"Gene regulation and DNA damage in the ageing human brain"(参照)という記事が掲載された、といって、標題と概要しか見ていないのだが、標題は「人間の脳における遺伝子の規定とDNA損傷」だろうか。脳の老化には遺伝子的な仕組みがあるという話のようだ。概要を追ってみよう。


The ageing of the human brain is a cause of cognitive decline in the elderly and the major risk factor for Alzheimer's disease. The time in life when brain ageing begins is undefined. Here we show that transcriptional profiling of the human frontal cortex from individuals ranging from 26 to 106 years of age defines a set of genes with reduced expression after age 40.

 脳が老化すれば認知能力も低下する。そして老化はアルツハイマー病にも関連するのだろう。そういわけで、各年齢層で脳を調べたところ、40歳を境界として発現が減少する特定遺伝子が存在し、これが脳の老化を示しているのではないのか、というのだ。

These genes play central roles in synaptic plasticity, vesicular transport and mitochondrial function. This is followed by induction of stress response, antioxidant and DNA repair genes. DNA damage is markedly increased in the promoters of genes with reduced expression in the aged cortex. Moreover, these gene promoters are selectively damaged by oxidative stress in cultured human neurons, and show reduced base-excision DNA repair. Thus, DNA damage may reduce the expression of selectively vulnerable genes involved in learning, memory and neuronal survival, initiating a programme of brain ageing that starts early in adult life.

 40歳から脳が老化するというならそれほど科学的な知見とも言えないが、今回の研究のポイントは少し違う。
 人間が学習などを行う場合、脳の構造的な表現としてはシナプス形成としてして見られ(これを可塑性というのだが)、これは、ストレス反応や抗酸化物質やDNA修復遺伝子の援助を受けるらしい。そこで今回特定された遺伝子だが、これが特徴的にDNA損傷を起こすようなのだ。しかも、これらはそもそも酸化ストレスに狙われやすくなっているというのだ。当然、このDNA損傷が結果として脳の学習能力の衰えにつながる…。
 と、書いたものの、私は今ひとつこの特定遺伝子と学習の遺伝子の関係がよくわからない。
 話は別途"The Brain Starts to Change at Age 40"(参照)などで一般向けのニュースとなっている。話の切り出しは、40歳過ぎたら子どもとトランプの神経衰弱やっても勝てないでしょうということだが、そんなことはどうでもいい。気になるのは、この特定遺伝子と可塑性を担う遺伝子の関係だ。

One group of the genes plays a role in what researchers call synaptic plasticity - the ability of the brain to make new connections so critical to learning and memory.


Another group of genes, involved in processes such as responses to stresses and defense against damaging oxidants such as free radicals, are turned on in the aging brain. The researchers found that regions of particular genes are quite vulnerable to DNA damage in the aging brain.

 この解説によれば、可塑性を担う遺伝子と、今回特定された酸化ストレスに弱い遺伝子は別のようだ。この酸化ストレスに弱い遺伝子のために、遺伝子全体がやられ、結果的に可塑性も落ちるということなのだろうか。
 外堀を巡っているようだが、ロイターヘルス"The Brain May Start to Age at 40 Years"(参照)は、簡素にこう書いている。

According to the team, DNA damage begins to accumulate in these genes. This damage could affect vital brain activities, such as learning and memory. Moreover, this may initiate a program of brain aging "that starts early in life."

 概ね、この特定遺伝子自体が可塑性を担っているわけでもなく、むしろ、人間脳を必然的に老化=劣化させる機能を担っている、と言えるだろう。
 私の与太話はここからだ。
 どうやら人間の脳というのは、40歳を境に学習能力などが衰えていくように出来ているわけだ。従来はよく20歳を過ぎれば脳細胞はどんどん死滅していくというようなことが言われていたものだが、最近の知見では、おそらく、40歳くらいまでは知力は伸び続けるようでもある。
 しかし、そこまでか。実感としても、40歳を過ぎると、俺の頭もダメだなぁ、になってくる。若いやつにはかなわねーよ、である。権力のなかにいるなら、知力じゃない部分で、若い者を利用したり貶めたり画策するようになる。醜い。
 科学の知見など時代で変わってくるものだが、今回の発表が概ね正しいなら、人間の脳は、40歳あたりから徐々にぼけ出すといい、というメリットがあるのだろう。どんなに頑張ったって人間は死んでしまうし、どんな屁理屈こいても、死の恐怖などは克服できそうにもないのだから、ぼけるというのは、それだけでメリットだろう。あるいは、生物集団としてのメリットもあるのかもしれない。
 ここでまた実感でいうなら、40歳を過ぎると、過去が、つまり、過去の記憶がつらいなぁになってくる。どの程度の男がそう思うものかわからないが、若いときにつれなくした女に、すまねーなと思えるようにもなる。
 今回の知見では、基本的には脳の老化を、やはり酸化ストレスとしていた。やはりである。デンハム・ハーマンの奇妙な仮説と見られていた学説がやっぱり正しいのか?というより、酸化ストレス自体は生命に必須の出来事なので、むしろ、抗酸化機能をどう遺伝子が担っているかということが問題だろう。
 人間の老化は、機械の摩滅損傷に似ているという人もいるが、人間は鉄人28号のように完成品としてできるものではなく、正太郎のように成長し、そして老いていくというプログラムされた過程を取る。
 それでも、脳の老化の基底にあるのは酸化ストレスだろうとは言えるので、今回の例でいうなら、脳の抗酸化システムを援助できるようにしてやればいいのだろう。現状では、アルツハイマー病を例としても、効果について賛否が分かれるビタミンEだが、弱い効果はあると見てもいいのだろう。
 話はさらにゴマ臭くなる。メラトニンもどうやら脳で働く抗酸化物質のようだ。眠りというのは、ある種の酸化ストレスの修復なのだろうか? ここでゴマ臭い話なのだが、メラトニンを飲むとかなりの人が悪夢を経験するのだが、この悪夢というのは、先に書いた、思い出したくもない記憶の残存ではないのか? これらの選択的に排除された記憶は、それ自体が酸化ストレスではないのだろうか?
 もちろん、そんな話は冗談である。真に受けないで欲しい。
追記(040612)
 CNN"Research: Brain genes start to slow at 40"(参照)によると、40歳以降は、酸化ストレスとみられる損傷を修正するための遺伝子が活発になるとある。

Slightly less than half of the 400 or so genes -- including those involved in learning, memory and communication between brain cells -- were found to be functioning at a lower level, perhaps because of some kind of damage, the researchers found.

The remaining genes were found to be working harder after age 40. They included genes involved in DNA repair, antioxidant defense and stress and inflammatory responses.

Overall, the findings suggest that the first set of genes had sustained damage that hampered their functioning, and the other genes were working harder to try to lessen or repair that damage, said Bruce A. Yankner, a professor of neurology and neuroscience at Harvard Medical School.

2004.06.11 in 生活 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

2004.06.07

米の研ぎ方・飯の炊き方

 身近な者が、「米はあまり研いではいけない」といった話をしているので、なんとなく聞いていると、どうにも馬鹿なことばかりいうので、つい「その馬鹿な話はどこから聞いてきたのか」と問うと「あるある大事典」らしい。この番組は私はまれにしか見ない。まだネットにサマリーは出てないので、馬鹿話がその番組どおりかわかからないが、米の研ぎ方・飯の炊き方について、以前ネットで試しに調べて唖然としたことがあったので、実践的な方法を書いておくのもいいのかもしれない。というわけで、書いておこう。
 と、人の方法を馬鹿だのぬかすわりに、以下の方法が正解というものでもない(この手のことはそんなものだ)が、私はこれで通していてなんら問題ない。私が食っている飯よりうまい飯にありつくこともあまりないので、これでいいのではないか。なお、米の話は今日はあえてしない。
 まず研ぎ方。研ぐには木桶がいいようだが、なければしかたない。いわゆるボウルでもいい。ザルは用意する。ザルも竹のがいいのだが、なければしかたがない。ボウルとセットのザルでもいい。
 ボウルに米を量って入れ、これに水をたっぷり入れて、さっとさっと手で米を回し、白濁した水を捨てる。表面的な汚れを落とすわけだ。この作業を素早く行う。20秒くらいか。そして水をしっかり切る。
 次に研ぐのだが、これはそう簡単ではない。が、ようするに、米粒と米粒を適度な力で摺り合わせることを念頭に置けばいい。米粒が刷り合うときに、余分なぬかが落ちるのだ。ある程度力を入れないと研げないが、腰を入れてみたいに押し付けて研ぐことはない。もむ感じでよいと思う。これが1分ほどか。米に水を吸わせないように素早く行う。この時、米粒が割れているなら、失敗。やりすぎ。
 そしてこの状態で水をたっぷり入れ、先ほどのように回して水を切る。先ほどより白濁した水が出る。これを捨てて、もう一度同じことを繰り返す。このとき、水が少し白濁するかなという程度ならよし。水が透けるまで研ぐことはない。そして、ザルで水をしっかり切る。
 そして20~30分置く。ザルがまがいものなら、下にべちゃっと水気が残らないように気を配ること。この間、料理の下ごしらえでもしろ。
 次に炊き方。用意するものとしてはキッチンタイマー。それとできれば、お櫃があるといい。というか、お櫃は是非薦めたい。最近は3合くらいので檜のいいお櫃がある。鍋は蓋ができれば取りあえずなんでもいいが、できれば、肉厚の鍋がいい。蓋も重みのあるほうがいい。
 さらっとした米を適当なサイズの鍋に入れ、水を入れる。米に加える水の量は1.2倍。というか、米と鍋がよければ同量くらいでいい。蓋をして、がーっと強火にかける。ここが勝負だ。難しいのはここだ。米の量や火力にもよるが5分ほどで、ぶほほっと吹き上がる。このぶほほっとくるのがポイントだ。多少吹きこぼれてもいい。米のほうでもやる気満々じゃねーかというのを見て、吹きこぼれない程度の中火にする。中火よりやや弱くてもいい。この中火を5分。タイマーを使え。
 そして、中火5分が経過したら、とろ火5分。これもタイマーを使え。とろ火タイムが終わったら、火を消して、蒸らし10分。なお、5分で二回に分けるのがメンドイなら、ぶほほぉから弱火10分でもなんとかなる。
 10分たったら、お櫃に入れる。終わり。だが、お櫃がなければ、しゃもじで米の天地をかき回す。火が強すぎると、少し焦げることがあるが、そのあたりの調節は、1週間もすれば慣れる。

cover
今さらながらの和食修業
 以上で終わり。言葉にすると難しいし、慣れないとコツが掴めない点もあるのだが、くどいがやっていればわかる。とにかくやること。これで、炊飯器とは一生おさらばである。慣れれば、意識を入れるのは、最初のぶほほっの瞬間だけだ。あとは、ほとんど手間でもない。
 と偉そうに書いたが、このやりかたは、「今さらながらの和食修業」に掲載されている手法をまねたもの。同書は私がお薦めする料理本のなかのベスト5に入る。っていうか、できたら、文庫じゃなくて写真の多い、「今さらながらの和食修業 Maple book」のほうがいい。この本の料理ができる女がいたら、阿川佐和子のように嫁にいく必要はないだろう。

2004.06.07 in 生活 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

2004.05.28

幼保一元化は必要だが

 日経新聞社説「縄張り排し幼保一元化目指せ」を読み、しばし考え込んだ。批判があるわけではない、短いスペースながら、基本的な部分はよくまとまっている。だが、私が実社会を見て思うこととはかなりずれがある。
 同社説にはスペースの都合からか、時事的な背景への言及はないが、これは、21日、文部科学省と厚生労働省が共同して開催された、幼稚園と保育所の一元化を目指した新総合施設の検討会議の初会合をうけたものだ。参考として、共同系「幼保一元化で初の合同会議 総合施設検討で文科、厚労」(参照)をひく。


 小泉純一郎首相は「2006年度を待たず実施する」としているが、これまでは幼稚園を所管する文科省と保育所を所管する厚労省が、それぞれの審議会で別々に議論を進めてきた。
 検討会議では、これまでの両部会での議論の概要を報告。今後、月に1回程度会合を開き、7月中に意見を取りまとめる考えだ。両省で意見の隔たりがある保育料の設定などの費用負担の仕組みや、設置主体をどうするかなどが焦点となりそうだ。
 両省は、検討会議で取りまとめた意見を基に、来年の通常国会での「総合施設法案」(仮称)提出を目指す。

 二省がようやく顔を付き合わせ、しかも早急に法案策定に向かうというのだ。問題の背景は、日経社説が詳しい。

 背景にあるのは、三位一体改革の一環で保育所への補助金(運営費)を地方で自由に使える一般財源に振り替える動きだ。すでに今年度は前年度分運営費の4割に当たる1700億円が削減された。縦割り行政による非効率を排し、税源移譲で地域に見合った制度創設を図ることは、深刻化する幼稚園の定員割れや保育所の待機児問題解消のためにも急務といえよう。

 政府側の意識としては、幼保一元化はまず補助金の問題であり、省間の金銭や人事の権限の問題になる。その大義として「幼稚園の定員割れや保育所の待機児問題」がある。表面的な社会問題としては早急の課題ではあるのだが、なにか違うようにも思える。
 私事になるが、私は一昨年秋、8年間の沖縄生活に終止符を打ち、東京に戻った。この間、たまに東京に来ていたとはいえ、生活となると、この激変に慣れるのは1年以上かかった。今でもこの都市には十分に慣れていない。大江戸線には乗ることもできない。様々なものが奇異に見える。その一つが、街中を走る奇妙なデザインの中型バスだ。なんだろうときくと、幼稚園の送り迎えバスである。幼稚園児獲得競争の一環のようだ。呆れたが、呆れる自分がおかしいようだ。あれに乗りたいと児童に思わせることも幼稚園経営なのだ。
 他方、保育所の待機児問題が深刻化していることも知った。就学前児童を抱える親(実際には母親)が職を続けるなり、新規に職を得るには、子供を保育所に預けるしかないのだが、難しい。経済原理として見れば、園児を欲しがっている幼稚園に子供を預ければよさそうだが、そうはいかない。理由は、幼稚園は子供を預けるところではないからだ。下手すれば、自宅におくよりも子供に手がかかる。もっともそんなことでは幼稚園経営もうまくいくわけもないので、延長保育が進められ、実質子供を一日預けられるようにはなってきている。だが、それでも対象は三歳からなので、妊娠・出産を機に職場を離れていた女性にとっては、そこまで待つことは実際にはできない。
 と、いうことはどういうことなのか?これは、もしかすると、勝ち犬の二極化ではないのか。世間では、いまだ負け犬の側に関心が向いているが、負け犬論争などしょせん個人の生き方に捨象される問題に過ぎない。好きな人生を生きればいいでしょう、でケリのつくことだ。これが可能なのはシングルだからであって、子供を持てば人生の選択は単純ではなくなる。
 社会問題はむしろ勝ち犬側にあるのかもしれない。彼女らは、保育所児童の母親か、幼稚園児の母親か、に分かれることになる。これを勝ち負けで言えば、前者が負けで、後者が勝ち、という印象もある。この違いは単純に選択の問題ではなく、その家庭の経済格差が反映しているように見えるからだ。
 幼稚園も経営的に生き延びるためには、この経済的な階層化に対応しなくてはならない。上昇志向の幼稚園にとっては、幼保一元化なんてどこ吹く風になる。むしろ、そこからこぼれた幼稚園が保育所化することが、幼保一元化ということになるのだろう。
 こうした事情をマーケットニーズとして見るなら、まず、富裕階級には幼保一元化は無用だということになる。とすると、政府が、幼保一元化を打ち出すのは、基本的に今後増えつつある貧困層のセイフティネットの意味合いがあるだろう。女性をよりいっそう働かせる基盤の整備とも言えるが、実際に高所得の女性はこうした幼保一元化となった保育所を使うだろうか。
 地方では問題は少し違う側面があるかもしれない。日経の社説では、先行して幼保一元化に取り組んだ構造改革特区37例に言及しているが、この問題は地方においては、低所得層のセイフティネットというより、既存の体制の保護があるように思える。自分が比較的詳しい沖縄の事例で言うなら、沖縄では、基本的に、保育所に対立する幼稚園はなく、保育所を卒業してプレ小学校として同一組織の延長としての幼稚園に入る。組織的には小学校と変わらない。公務員の保護制度というか、行政による雇用創出になっている。これは、あまりに馬鹿馬鹿しいので、「なにか本土人として行政への提言はないか」と問われた機会に、「幼稚園を廃止にして、その運営資金を無認可保育に当てろ」と発言したことがあるが、いきなり危険視された。
 以上は、私の観察に過ぎないが、国政側としては幼保一元化に向かわざるをえないとしても、それでも富裕層側への幼稚園へのニーズは変わるわけもない。繰り返すが、幼保一元化は、低所得層向けの、幼稚園の保育所化を意味するのようになるだろう。それでいいのだろうか。
 もっとも、富裕層など少数なのだから、社会問題としては捨象できるという考えもあるだろうし、幼保一元化は、働きたい女性にとってはメリットになるからいいじゃないかという考えもあるだろう。
 未婚女性が負け犬論争を楽しんでいるうちはいいが、実際に結婚して子供を産むということになれば、幼保一元化の恩恵が、目に見える「負け」を意味するという世界になるのではないか。

追記(同日)
 幼保一元化について、自分の問題感覚と実態がよくわからないので、経験者の女性の意見をきいてみた。そこから得た私の印象なのだが、まず、幼保一元化だが、形態としては、三歳以降では、幼稚園が保育所化するという点ではすでにそうなっているとのこと。やはり、三歳児までの扱いが重要になる。もう一点、待機児童のせいか、保育所が選べないというのも問題のようだ。保育所が現在の幼稚園のように、育児方針などから選択できるといいらしい。なるほど。すると、幼保一元化がどうというより、どういう幼保一元化になるか、ということ(三歳児までの扱いと、選択できるか)が問題なのだろう。

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2004.05.15

残業100時間で身体壊すなよってな話

 民主党やら北朝鮮を巡る話にはあまり関心が向かない。一定の思考を強いられているような感じがして、いやだ。たるい話を書きたい。というか、人によってはたるいどころではないのだろう。残業100時間についてだ。
 コメント欄で残業100時間を見て、心にひっかかる。現場はそうなんだろうなと思う。世相の覗き穴らしいニュースをざっと見ると、サービス残業が多少問題になっている程度で(参照)、それほど社会問題化はしてない。「過労」がキーワードかとも思ったが、それほどニュースはひっかからない。ネットからは、よくわからないなと思う。
 が、私印象では、残業100時間的な勤労の状況はかなり深刻ではないだろうか。実態がわからないし、社会学的な統計として出てくるかもよくわからないが。
 私は昔(といって下手すりゃ20年近くも前なんで時代が違い過ぎるが)、流しのプログラマみたいなことをして大手の電気会社を数社渡ったことがある。大手だと系列を含めてちゃんと労組があって、残業がそれほどできないようになっていた。私のような流しのほうも、それに連動してそれほどの残業はできない。なるほどなとは思った。
 その後、知人と仕事を興したりなんだり、小さなオフィス経営などを覗き見るに、まず私生活と仕事の区別はなくなる、ものだ。そうなると、換算すると確かに残業100時間は軽く、いく。
 恐らく今でもそういう世界では変わりないだろう。つまり、いわゆる資本家との関係の労働者っていうのはそれほど仕事をしないが(と言うと語弊があるが)、ある程度自分のジョブに責任を持つなり、シビアな仕事をしている人にとっては、潜在的に残業なんてもんじゃないよの状況になる。
 自分が、あれっという間に40代半ばを過ぎてみると、そういう残業100時間みたいなことができるのは、40代ちょいまでではないかと思う。人にもよるのだろうが、「40歳になってしもうたぁ」みたいな感慨はあっても、まだなんとかできるような気がするものだ。が、さすがに厄年とは言ったもので(男の厄年だが)、42歳になると、だめぽの世界が来る。あ、俺ってダメじゃん、である。ふと気が付くと、最近朝立ちもしてねーんじゃん、みたいなトホホである。が、トホホのうちはいい。見渡しても、かなりの人がガクっと、ものすごいものが来る。経験で言うと、腰痛、歯痛(っていうか洒落にならない歯科系の病気)、慢性疾患(この年代ならがんも慢性疾患と言っていいだろう)、アル中…廃人っていうのもあるな。洒落にならないが。
 身体が元手だよみたいな説教をこいてみたいが、これっていうのは、経験してみないと通じる世界でもないので、それ以上は言わない。ただ、こうして書いてみると、下手な言い方だが、心の問題はあるなと思う。大きいのではないかというか。
 心の問題というのは、「なにかもっとできる」という感じと、実はこっそりなにかを避けているうっすらした感じだ。センター試験以降の世代だと、どうやらティーンエージの段階で序列意識を持たされるようだし、残念ながら、その頃の知的な能力はどうやらその後も概ね変わらないようだ。が、能力っていうのはいわゆる学力的な知的能力だけではない。また、感性っていうのも、けっこう30歳くらいから、出てくるものもある。そうした、なんか、俺ってなんかできるかも(女性もだが)、という感じが、自分を支えてくるようになるのだが、裏には、なにか避けているなとうっすら感はあるのではないか。
 42歳くらいっていうのは、そのうっすらした影のようなものが、あれ、その影って俺そのものじゃないかという、そうだな、英語のovercome、overwhelmっていう感じではないか。多分にユンク心理学の「影」的でもあるし、ゲド戦記の「影」的でもある。
 思わせぶりに書いてもなんなので切り上げるが、っていうか、何言ってんのかわかんねー感漂いまくりだと思うので一つだけ補助線を引くと、仕事をガンガンやっている時ほど、そして、俺が欠けたらこの仕事は実際にこける、というときでも、実は、その「俺」なり「私」がいなくても、世界は動くだろうなみたいな、感じは拭えないものだ。今朝みたいな空を見上げて、ああ、俺がいなくてもこの空はこんなふうだろう、みたいな感じは誰も持っている。公園に座って、遠くの団地に布団でも干してあると、俺がいてもいなくても、あの布団は干さなくてはいけないな、みたいな。
 自分で選んだ仕事ならある程度しかたないが、小児科医のように気が付いたら自分の責務だけがしっかりあるような、そんな苛酷な勤務とか見ていると頭が下がる思いがする。あまり社会的な負荷をかけないような社会にしなくてはいけないなとも思う。
 支離滅裂な話になったが。おしまい。

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2004.05.13

若者の労働状況に思う

 昨日のNHKクローズアップ現代「働く意味は何ですか」は、たるい内容だった。問題は、現在新卒者の5人に1人が就職できないということとだが、これについて、次の視点を立てていた。


学生達の就職に対する意識も変わってきているのだ。自分のやりたいことがわからないなど、就職活動の入り口から悩み、つまずいて就職から身を遠ざけてしまっている学生が増えつつあり、大学でもカウンセリングや個人指導などの対策を始めている。

 番組中キャスターの国谷裕子も、自分たちも若い頃、何をやりたいかわかってませんでしたが…というようにコメントを挟み、顔のシンメトリーを崩して微笑していたが、若い人の労働意識が現代において変わったわけでもない。番組でも、一応、そのあたりは含めてはいた。むしろ、会社が若者に就労意識を求めるようになったという線を強調していた。確かに会社側としても就職しても3人に1人は短期で辞めてしまうのだから、しかたがない面はある。
 しかし、この状況をもたらした大きな要因は、番組でも紹介していたが、「親が積極的に就職をすすめない54%」だろう。親が子供に働けとは言わない、あるいは、子供も親から自立したいと希望しない、しなければいけないという理由もない、ということだ。
 考えようによっては困ったことでもない。もともと先進諸国における大学の社会的な意味など、余剰な雇用を隠蔽する装置でもある。それがさらに家庭に延長されても、どうというわけでもない。実際のところ、日本社会は明確に、若い人の労働を必要としていないとうメッセージすら出しているに等しい。雇用問題でも、オヤジたちや老人の雇用維持が優先課題になっている。それは当然ながら、彼らが子供もだらっと養えよな、という意味でしかない。
 30代になって未婚の人口が増えているのも、これとまったく同じ構造だ。30代の未婚女性が多いというが、小倉千加子が解いたように、親が結婚を引き留めているのだ。端的に言えば、これだけ手間をかけた娘をそんな若造にやれるか、である。まさに、雇用も同じで、親がフォローできるのに、低賃金のバイトやパシリなどしなくてもいいだろうということだ。
 この問題はどっかで構造的にカタストロフして、いわゆる3K的な労働力の社会ニーズから海外労働者の導入になるようにも思える。若者や女性の労働力と対外労働力の、比較優位論のような状態になるわけだ。恐らく、日本の潜在的な生産力からすれば、このバランスが内部の労働力を活かす方向には向かないだろう。つまり、現状の延長に3Kを外人に任せる、日本の若者は仕事しない、という未来になるのだろう。
 話は少し逸れるのだが、今朝のVOAの"Child Labor Still a Concern in Industrialized Countries"(参照)が興味深かった。テーマは児童労働なのだが、これが北米でも問題だというのだ。私など、児童労働というとすぐ第三世界問題、搾取、じゃ左翼さんにお任せ、みたいに思うのだが、どうもそれだけではない。

Child labor is mostly identified with the developing world. However, an international congress on child labor heard this week industrialized countries, including the United States and Canada, are not immune to the problem, which affects sectors of the economy as varied as agriculture and the sex industry.

 VOAの英文はやさしいのでその先も読んでいただくといいのだが、ようは、米国の性産業にどっと海外の児童が「労働者」と流し込まれているということだ。つまり、貧困、帝国主義的搾取、世界システムってな気の利いた左翼の洒落で済む問題ではない。メディアや高度資本主義の世界システムが、どうやらまさにシステム的にこの問題を起こしているようだ。
 もう一点、VOAのニュースでほほぉと思ったのだが、北米の児童労働は農業分野にも顕著だ。考えてみれば、米国は農業国である。

Ms. Adkins said that agriculture is also a sector in which abuses are taking place. “Agriculture is one of the most dangerous industries in the United States and we have as many as 800,000 children under the age of 18 who are actively working, harvesting fruit and vegetables,” she said. “These children are dropping out of school at very young ages to assist their families.”

 まいったな、そうかと蒙を啓かされる思いだ。
 ただ、VOAでは触れていないが、英国でも状況はやや似ていて、親が子供を学校にやらずに労働させている。が、これは階級的な意識から来ているようだ。このため、英国では親を処罰する法律も作って規制を始めた。おそらく、英国だけはなく、広く欧州の社会構造だと言ってもいいのだろう。
 違う2つの話を洒落でミックスしたみたいなことになったが、日本の若い世代の労働の状況が、まさに、国際的にはハイパーな状況にあるとはいえるだろう。このハイパーな状況からとんでもない人たちがボランティアとして海外に出て行くのか、と言いたくもなるが、ま、言わないでおく。

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2004.04.03

男の幸せ

 ちとわけあって、「男の幸せ」というのを問われた。ついでなんでブログのネタにする。なお、この話、これ以上のフォローはなしです。ま、そういうこと。

 酒井順子「負け犬の遠吠え」を巡って、女性の幸せについて話題になっていますが、それでは男としての幸せとは、いったいなにが決め手になるとお考えですか?

 結婚っていうことだと、男の場合、その意味は世代で随分違うと思うんですよ。私は昭和32年生まれですが、上の団塊の世代で大学とか行けた中産階級予備軍はフリーセックスとか不埒なことを言っていたし、下の世代になると大学をレジャーランドにして不埒なことをしていたこともあって、って冗談ですが、私の世代くらいまでは、結婚というのはまだ性欲とかに結びついていました。富島健夫の青春小説とかまだ読まれていた時代です、って、そんな作家知らないですよね。女性は性的な憧れであり、それは20代中頃くらいまでは、けっこう幸せというのに大きな比重を持っていたと思います。もっとも、結婚すれば、サザエさんの旦那みたいに性的に滅菌したようなツラして会社に通って、裏で日活ポルノロマンを見るとか奇譚倶楽部で団鬼六を読む…ま、そんなふうに性とは退屈なものになります。ただ、性が退屈なものになるっていうのは、普通の日本人の男の人生においてごく普通なことじゃないかなとは思います。
 それと引き替えに、30代くらいから、社会的な成功っていうのが大きな意味を持つ……かのようですが、そうでもないでしょう。普通の男の大半は少年時代にすでに「僕は負け組」っていうのをしっかり納得しているものです。「どうせ俺なんかさ」っていう感じですね。でも、今の30代とか見ていると、あまりそういう負け意識がないみたいなので、のびのびと育っているのでしょうかね。あるいは、男の負け意識って静かなものですから、現代だけでも見えづらいのかもしれません。少数だけど世の中には「僕は勝ち組」っていうヤツとか勝ち組と勘違いしたヤツもいるし、そういうのが、えてしてメディアとかにも出てくるので声高に見えますが、どうでもいいことです。勝手に勝ってな、っていう感じですね。
 大半の負け組の男は、密かな幸せを追及するようになります。っていうか、たいてい男の人生なんて、そういう密かな些細な幸せを大切にして生きていくものです。それが、ちょといびつになって勝ち組ダンスを踊るのが、いわゆるオタクじゃないかな。メディアとか出しゃばるオタクってなんか、勝とう!ってしているじゃないですか。本当のオタクは俺だぁ!、みたいな。でも、オタクの大半は負け組だし、オタクっていう自意識なんかどうでもいいものです。なんかさ、適当に楽しいな、コレ、みたいな感じですね。それほど、こだわりというほどでもないけど、ちょっとこだわることがあるくらいなものです。たいていの男はそういうのを、それなりに大切にして幸せの種にしていますよ。
 でも、そういう趣味だけで十分ということはなく、男の幸せっていうので大きな意味を持つのは、情けないことかもしれないけど、とても保守的に、家族的な愛情だろうと思います。「うまく通じなけど、奥さんを大切にしてる」とか、「煙たがられるけど子供を大切にする」っていうごく普通の感じですね。もっと言うと、俺みたいな負け男と運命を共にするこの人たちが一番大切だよ、っていう感じです。これがあれば、他はもっと負けてもいいっかぁっていう感じですよ。トイレで座って小便してもいいかぁ、と。でも、そのあたりが、女性の感覚とはずれるのでしょうけど。
 こういう普通の男の幸せの感性っていうのは、案外、昔も今も変わらないかなと思います。江戸末期の国学者でもあり歌人でもある橘曙覧(たちばなのあけみ:1812-1868)に「独楽吟」という一連の歌がありますが、これなんか、そういう男の幸せというものをよく表現しています。どういういきさつか知れないけど、不埒男の元米大統領クリントンも1994年天皇皇后両陛下の訪米のスピーチで、「独楽吟」から一つ引用しています。


たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時

 ここで朝の一服マイルドセブンをぷふぁとする感じでしょうか。でも、私が一番好きなのは、こっちほうです。

たのしみはまれに魚煮て児等皆がうましうましといひて食ふ時

 橘曙覧は赤貧洗うがごとしという生活だったようです。福井の生まれだから、魚のうまいのを知っていてもそうそう子供に食わせることができなかったのでしょう。でも、たまには魚を買って、煮て、子供に食わせると、子供たちが「うめぇ」とか言って骨までしゃぶっていたのでしょうね。このとき、橘曙覧は幸せだったでしょう。男の幸せなんてこんなものです。
 もう一つ、さっきの負けオタクじゃないけど、こういうのもあります。

たのしみはそゞろ読みゆく書の中に我とひとしき人をみし時

 マルクス・アウレリウスとかヒルティとかアランとか、エミ-ル・シオランとか、そぞろ読みつつ、にこりともせず奇妙な至福を感じるっていうのも、男の人生です。
 現代なら、そぞろ読み行くブログの中に、自分と似た思いの人のいることを知る時でもありますね。もちろん、男とは限らないのでしょうけど。

2004.04.03 in 生活 | 固定リンク | コメント (13) | トラックバック

2004.03.29

自動ドアを敵視するセンス

 コメントとトラックバックへのレスも兼ねてもう一文起こしたい。が、それがこの記事の一番の目的でもない。もう一度、極東ブログ「回転ドア事故雑感」(参照)を書いたときの自分の心情に戻ってみたい。私はこう書いた。


社説の展開はごく常識的なもので、特に異論もない。が、この事件について、私はなにかもやっとした感じがしている。主張というわけでもない。が、その感じを書いてみたい。

 もやっとたした点については、明確には書かなかったが、子供を事故で亡くされた親の気持ちが自分にはとてもつらかった。Nakajimaさんからコメントもいただいたが、私もPL法に少し関わったことがあるので、その観点と他の状況から見て、過失は六本木ヒルズ側にあり、親御さんにはないと判断した。裁判でもそうなるだろう。現在の世相から判断して、まさか自動回転ドアにあれほど恐ろしい罠が潜んでいるとは普通考えづらい。そこは親御さんを責められるわけもない。また、自動回転ドアの危険性は技術的には緩和できるはずだ。問題は、あくまで欠陥した自動回転ドアの問題であり、どちらかといえば特殊なケースだと考えた。
 そのことと、同様の状況における子供の安全について、ただ六本木ヒルズを責める世論の流れに違和感を感じた。それじゃ子供が守り切れない。親たちしっかりしてくれよ、と。
 もちろん、六本木ヒルズみたいな糞を弁護する気なぞさらさらない。余談だが、私が極東ブログの筆者であることを知るわずかな人の一人に、なぜ、俺は批判されているのだろう?と訊いたら、「六本木ヒルズの弁護側に見えるからじゃないの」と言われた。そうなのだろうか。私は六本木ヒルズや三菱ふそうの事件には確かにあまり関心ない。もはやバックレも効かない古典的な悪としてお陀仏しているからだ。
 私は47歳にもなる。子供たちを守りたいと思う。親たちしっかりしてくれ、国家も企業も「正義」すらも、あてになんかならないんだぞと言いたい。「事故というものには本質的に責任は取りきれるものではない」なんて言う頭でっかちさんでは、なにがなんでも子供を守るという気概は持てやしないよ。みなさん、都市内で就学前の子供を引率してごらんなさいな、と思う。人の命を守るっていう場に立ってご覧なさい。理論も糞ない。必死だよ。子供を都市から守る経験をしてみなさい、っていうか、それを親たる年齢の人は学びなさいと思う。そんなことは当たり前だろうと言われるなら、それでもいいのだが。
 しかし、そう言ってしまえば、結局、回り回って、事故の親御さんを傷つけることになるなと思った。どう言ったらいいだろうか。黙るのもなんだしな。ああ、これはセンスの問題として考えてもらえたらいいのかな、と。それであの記事を書いた。
 実は、私も同年代の子供を引率して、大きな自動回転ドアを通した経験がある。その時のことを思い出した。私のセンスはこう働いていた。
 まず、そいつ(自動回転ドア)を見て糞っと思った(この時の俺の眼はたぶん野獣と同じだろう)。私は自動ドアが大嫌いだ。自動ドアというもの自体を敵視している。そして、ある意味、無視している。私のセンスからすれば、自動ドアというのは本質的に糞なシロモノだ。イマージェンシー(緊急時)に開閉困難になる可能性がある。自分のセンスではいつでもコイツは叩き割る気でいる。が、次に、だから、必ずバイパスがあるはずだと瞬間に見回す。私のセンスでは、ドアというのものは自力でこじ開けるものだ。そして、私のセンスでは、ドアというのは本質的に危険なものだ。だから、後続の人の安全を配慮せねばならない。
 しかし、この時、私は、敢えて、子供を引率しつつ、自動回転ドアを通させた。慣れさせるためだ。ここだけでこっそり言うが、私は子供を引率しつつ、安全を配慮しつつ、立ち入り禁止の柵を越えさせることもある。それも慣れさせるためだ。私は柵を壊し、自動ドアをたたき割る意志というものも、それとなく子供たちに伝えたいのだ。暴言だが、盗むことも教えたいくらいだ。
 私のセンスがあれば、おそらく六本木ヒルズでも安全だろう、と思った。今こう書いていて白々しいのだが、そう書くのはためらわれた。だから、センスだけの部分を書いた。通じなかったな。通じるもんじゃないのかもしれないなと思う。通じない責は俺にあるだろうなとも思う。
 前回の暴言部分についてだが、これも通じづらいことだったかなと思う。甘かったなと思うのは、吉本隆明の共同幻想論自体、もはや読まれていない時代なのかもしれない。あるいは、国家幻想と対幻想の違いが「国家」に「家」という字面やその幻想性を漂わせることから、国家との連続性を考えてしまいがちなのだろう。しかし、吉本はこの機序には配慮して説明してはいる。しかし、吉本読めよ、という時代でもない。この点は、俺が時代錯誤だったかな、と思う。
 話が少し逸れる。私は、この事件の詳細が気になる。今朝になって、位置センサーの設定が子供を排除したようになっていたことを知った。それを知って、少し納得する。私の技術屋的な感じでは、この事件は、ちょっとありえないという感じもあり、そのありえないはずがあるのは、かなり特殊なケースのように思えるからだ。くどいが、東海村事故じゃないが、たいていの場合、「ありえない」ことが起きるのは、技術的な非常識が背後にあることが多い。なにがあったのかが知りたい。この点でいうと、敢えて書かなかったし、ここで言っても矛盾になるのだが、自動回転ドアの死角をゼロにするにはかなりの技術が必要で、その技術は飽和していないかなとも思う。
 詳細に関連して、私は子供の行動パターンに関心を持つほうなので、今回の状況にその点からも疑問点がある。なぜ、頭が事故部位なのか。もちろん、子供は頭から突っ込むことはあるのだが、それでも、子供も動物的な勘として、頭だけが通れる動的な隙間に身体まで突っ込むとは私には考えにくい。身長と事故位置が10センチ違うので、転んだでもないのだろうが、率直なところ状況にはもう一つ因子があるように疑っている。
 話がおちゃらけるが、蛇足で私流の子供のしかり方を書く。原則は2つ。1、できるだけ叱らない。叱ることで自己充足してない。できるだけ、子供に危険のフィードバックが効くように学習させるためには、ぎりぎりまで叱らない。もう1つは、叱るときは、本気で叱る。理性的に叱らない。本気が通じれば、子供は安心感を持つ。
 もう一つ蛇足。世の中子供と関わらない人が増えてきた。それも生き方だということで是認するのが前提だみたいな表向きの言説だけがふらふらしている。確かに、子供を持つ、育てるというのは、運命もあり、なしたくともなしえない人すらいる。だが、子供の関わることはできる。子供と関わることは、そこに危ねー命があるのだから、こんな難儀なことはない。しかし、それを大人はもっとすべきだと思う。やってみなくちゃわからんことがいろいろあることの重要な一つだ。っていうか、それをすることで、大人になる。もっと、大人語なんか読んでないで、動物的な大人が増えろよと思う。

2004.03.29 in 生活 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

2004.03.28

子供はまず親が守る

 「回転ドア事故雑感」(参照)について、わずかなコメントとトラックバックを見た範囲だが、不思議な違和感を感じた。私の考えを整理しておこう。
 まず、今回の六本木ヒルズで起きた事件の責任は、六本木ヒルズと警察にある。疑いのないことだ(警察にも責任はある)。(この判断は妥当ではなかった。「回転ドア事故雑感」3.30追記参照)
 では、親の責任はないのか。今回の事故という範囲でいうなら、まったくない。親御さんに手落ちがあったとは思えない。責められる理由はまったくない。
 この以上の点については、先の記事から変心したわけでもない。
 私が、ここに記事を書こうと思ったのは、しかし、一般論として、子供を守るという責任は第一義に親にある、という点について、明確にしておきたいからだ。
 そう考えたのは、典型例であると思うのだが、トラックバックでいただいた「反資本主義活動等非常取締委員会」の主張に、錯誤を感じるからだ。


 しかし、子供とはそもそも馬鹿だから子供なのだ。大人なら行わないようなとんでもないことをしでかすし、ほんの数秒前まで親が手を繋いでいた子供が、突然駆け出すなんてことはよくある。子供は親に叱られたり、自ら痛い目に遭うことでやってはいけないことや、やったら危険なことを自ら学習するのであり、学習する前に死ぬこともある

 喧嘩を売る気はないが、で?、という感じがする。
 この文章には、「だから、親が、第一義的に子供の安全を守らなくてはならない」と導くことができるはずだ。
 しかし、「反資本主義活動等非常取締委員会」では

まさか、極東ブログでこういった気味の悪い文章を見ることになろうとは思いもしなかった

 というのだから、私の意見とは反対なのだろう?
 推測するに、子供は馬鹿なのだから、その馬鹿さかげんをシステム的なり制度的なりに保護せよ、ということなのだろう。そうか?
 もしそうなら、それはあまりに非現実的な考えではないか。
 例を挙げよう。「ゆりかもめ」をご存じないかたもあるかもしれないが、この鉄道(モノレールか)の駅には、安全のためにプラットフォームを囲い、電車に乗り入れるときのために専用の自動ドアが付いている。これなら、フォームに人が落ちる危険性はなく、優れたシステムだ。
 では、このようなシステムを、全ての駅に応用すべきなのだろうか?
 考えてもみて欲しい。大半の駅のフォームは非常に危険な場所だ。私が引率した馬鹿な子供は危うくフォームから落ちそうになった。
 この危険性から守るのは誰か?
 技術か? より安全なフォームの構造か?
 現状の危険な駅のフォームでも、規則を守れば安全だ。
 では、その規則を子供に告げ、あるいは、身体を張ってその子供を守るのは誰か?
 親ではないか。あるいは、親の代わりの大人ではないのか。
 よりよき未来を想定するなら、全ての駅は「ゆりかもめ」のようであるべきだろう。だが、そうではない駅を欠陥と呼ぶような議論は、あまりに常識を逸しているのではないか。
 エレベーターエスカレーターでもそうだ。あれは非常に子供に危険だ。子供の手を引くのは大人の勤めである。それを、子供は馬鹿だから手を離す可能性があるのを見越したシステムにせよ、と言うのだろうか。
 言うか。本気か?
 話を少し変える。自動回転ドアについてだ。六本木ヒルズの自動回転ドアは欠陥品であることは明かになった。だが、すべての自動回転ドアに、同様の本質的な危険性があるとは私は考えていない。私は、自動回転ドアについて、好悪の考えを持たない。一般的な技術論で言うなら、技術的には可能な限り安全性が確保できるだろうと考える。別の言い方をすれば、自動回転ドアの一般論の問題ではなく、あの六本木ヒルズの欠陥回転ドアが問題なのだ。
 さて、最近、暴論をなんとなく手控えている極東ブログなので、少し暴論に走ろうと思う。
 親子の関係とは、対幻想の延長にある。そして、対幻想は、国家幻想と対峙した独立領域であり、そこには本質的には、国家の法は及ばない。俺の子供が殺されたら、俺は国法など無視して、その場で報復し、そいつを殺す。なんのためらいも、疑いもない。俺と俺の子供の関係は、国家を越える。子供を守るのは親だ。あるいは、子供は守られる必要があるから、親が要るのだ。

2004.03.28 in 生活 | 固定リンク | コメント (28) | トラックバック

回転ドア事故雑感

 大手では毎日新聞だけが社説「回転ドア事故 弱者の目線で安全を見直そう」で六本木ヒルズで起きた6歳児の事故を扱っていた。社説の展開はごく常識的なもので、特に異論もない。が、この事件について、私はなにかもやっとした感じがしている。主張というわけでもない。が、その感じを書いてみたい。
 どちらかというと速報のようにこの事件を聞いたとき、安全基準があるだろうから、事件の背景にはなにかディテールがありそうだなと思った。一番気になったのは、子供の行動だった。
 先日、私もひょんなことで、その年代の子供を引率して都心に出かけることがあったのだが、なんどもその子を叱った。その子は、親でもない人に叱られるというのが了解できないような顔をしているのだが、やがて私が本気だということがわかった。それでも、叱る回数は減らない。エスカレーターの乗り方もなっていないわ、地下鉄で電車を待つにもラインを出る。歩道はさっさと歩かない。親はどういうしつけをしているのかと思った。ある意味で、都市部で住んでいても、都市を生きるという生活習慣ができていないのだろう。そんなこともあって、この事件でも子供の行動の問題が背景にあるのでは、と思ったわけだ。
 しかし、後続の情報を知るに、回転ドアに安全基準はないどころか、センサーや動作について安全性の面で欠陥商品であることがわかった。六本木ヒルズなんてリッチかましているが、貧乏臭いシロモノだった。さらに、警察ではこの回転ドアの危険性を知っていたとしか思えないこともわかってきた(この判断は妥当ではなかった。3.30追記参照)。目も当てられないふざけた話だ。さらに、またまた社会ヒステリーのように、回転ドアへの危険視が始まってきているようだ。
 人づての話だが、アメリカの大都市のビルは回転ドアが多いと聞いている。とすれば、それに潜在的な危険があれば、なんらかのトピックになっているに違いない。そう思って、少しサーチしてみたが、重要な安全情報は見つからない。足こぎのスクーターやローラ付きの靴などの危険性などきちんと指摘されているのに、この回転ドアの問題は見あたらなかった。事故は少ないのだろうか。あるいは、自動式ではないのかもしれないのだが。
 自分の経験を思い起こしながらぼんやり考えてみる。なんとなく思うことが3点ほどある。1点目は、日本はなぜこんなに自動ドアが多いのだろうか、ということだ。
 といっても、あまり先進国での経験はないのだが、自動ドアの多さというのは日本特有の文化ではないだろうか。例外は大半のセブンイレブンだが。
 自分の感性はこのあたりもずれているのだが、ドアがあるのに、アクセス権を問わないのは変だという感じがする。日本でも「アクセス」という言葉が定着してきたが、この基本的な意味には、認可ということが含まれている。単純なイメージでいえば、ノックだ。あるいは、May I come in? とかWho's it!という言葉に相当する日本語を聞いたことはないように思う。
 ついでに言えば、私という人間の独自行動かもしれないが、私は開いているドアと閉まっているドアを同じに扱う。多くの人が開いている入り口から入るときでも、私は私の基準で閉じているドアを押すなり引っ張るなりする。ロックされている確率は半分くらいだ。開いているドアということ自体にもやや違和感もある。余談だが、自動改札で切符やカードにエラーがあると、自動的に扉が閉まるが、私はこれは踏み越えていこうかなといつも思う。
 2点目は、なぜ日本人は閉まるドアに駆け込むのだろうか?ということ。これは、正直なところ、私もそれに近いことはするので、あまり違和感ないといえば違和感ない。しかし、他人を見ているに、電車の乗り降りが典型だが、明らかに閉まり出したドアに突進していくケースをよく見る。あの神経はわからない。アジアなどで、よく車に乗りきれない人がなんとかへばりついているのを見かけるが、ああいう感じなのだろうか。
 3点目は、若いころ米国的なカルチャーにいたせいか、ドアで後ろから人が来るときは、私はかならず、その人が来るまで手でドアを押さえる。これは米人なら誰でもすることだ。ほとんど無意識にしている。私も無意識にしている。が、日本人でこれをしている人をあまり見かけない。ただの習慣の違いなのかもしれないので、自分が偉いとも思わない。
 と、つらつら文章を書きながら、ドアというものが元来西洋の文化そのものであるのに、その文化性は日本に定着していないのだな、と思う。良い悪いの問題ではないのだが、日本社会は一見西洋化したように見えて、根幹において西洋化していない。その奇妙なひずみがあちこちで出てくるように思う。今回事故に巻き込まれた子供は痛ましいが、どうやら頭から突っ込んだようだ。英語でいうと、Head firstだ。これには別の意味もあるが、あえて書かない。子供を非難したいわけではないからだ。

追記(同日)
 死んだ子供のことを思うともう一つ強く書けなかったのだが、どうもこの記事は誤読されることになりそうだ。なので、あえてもう少し踏み出した点を追記しておこう。
 この事件は、安全基準がない面を考慮しても、明らかに安全面で施工側や警察に非がある(警察については、この判断は妥当ではなかった。3.30追記参照)。しかし、こうした事件の再発を防ぐという問題で見るなら、こうした企業側・警察側の安全対策では解決されはしない。もし、そう考えるならそれは間違った安全神話を信仰していることになる。一義的には、子供の安全は、親や付き添いの大人が考えなくてはならない。(そしてそれにはセンスが必要になるのだ。)

追記(2003.3.30)
 その後のニュースを点検してみるに、警察がこのドアの危険性を理解していたとまでは断言するのは妥当ではないようだ。ただ、過去に10回も救急車が出動している。また、ビル側も警察が知っているはずだとしている。現状の判断としては、警察がまったく知らないことだったと断定するのもあまり常識的ではないように思える。

2004.03.28 in 生活 | 固定リンク | コメント (13) | トラックバック

2004.03.24

ユニクロ野菜の失敗

 通称ユニクロ野菜こと、ファーストリテイリング全額出資子会社「エフアール・フーズ」(ブランド名「SKIP(スキップ)」)が解散することになった。私の率直な印象は、かなりのショック、だった。そのあたりを少し書いておきたい。
 ビジネスとしての失敗要因を表層的に指摘することはそれほど難しくはない。イトイ(糸井重里)の絡んだ企画はポシャルもんだよな、みたいな皮肉は要らないほどだ。が、ニュースを見ると、失敗の説明は、ややまばらな印象は受ける。共同系「ユニクロ、野菜事業を断念 割高で客足伸びず」(参照)では、プライスに着目していた。


 しかし、品質を売り物にしたためスーパーの店頭価格に比べると2割程度値段が高くなって利用者が伸び悩み、03年6月決算では、9億3000万円の経常赤字に陥っていた。

 朝日系「ユニクロ、野菜販売から撤退 会員確保できず子会社解散」(参照)ではより抽象的に会員不足としていた。もちろん、会員不足の理由はプライスかもしれないのだが。

 カジュアル衣料専門店「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングは22日、02年秋に参入した野菜・果物の販売事業から撤退する、と発表した。事業に対する見通しが甘く、会員制の宅配で目標の会員数を確保できなかった。店舗販売でも集客が伸び悩んで、黒字転換のめどが立たないと判断した。

 同記事には会長のコメントもある。

柳井正会長は、「衣料品と異なり計画生産できなかった。これ以上赤字が膨らむと取引先や株主に迷惑を広げる恐れがあり、撤退を決断した」と話した。

 これは意外に含蓄深い。が、もう一点、先に進めて、産経系「会員数伸びず… ユニクロ「農産物」撤退 復調アパレルに専念」(参照)を引く。

このため、初年度十二億円前後と見込んだ年商も六億五千万円と半分程度にとどまり、十億円近い経常損失の計上を余儀なくされた。需給をうまく合致させることも難しく、現状の社内ノウハウでは収益化は困難という。

 ユニクロ野菜の事業失敗に、どういうイメージが湧くだろうか?
 私はスキップの会員だったので、その点から言うと、個々の野菜の価格はさして問題ではない。へたな有機野菜よりはるかに安い。が、送料のコストはどうしても割高になるので、ある程度のグロスが必要になる。それがオーダーのめんどくささにつながる。
 オーダー自体はネットから簡単にできる(が、当初はクレジット決済のみ)。難しいのは、どういう野菜の組み合わせで買うかだ。スキップ野菜はあまり保存の利かない生鮮食料だし、ある程度はグロスで買うので、買ってからの献立を考えておかなくてはいけないのだが、配送日が不明。
 献立が難しくなる、というかめんどくさい。結局、私の場合、ジャガイモやサツマイモ、カボチャなど保存の利くものをメインに買って、他に配達時に即食えるサラダやお浸し用の葉野菜や果物ということになる。
 ある程度共同購入のサークルか店舗があればいいなとは思った。その後、店舗はできたが、私の生活圏にはない。店舗はある程度富裕な地域を狙ったのだろうが、マーケティングのミスだ。そういう地域ではニーズはないのだ。むしろ、そこから2段階くらい落ちたところを狙うべきだった。単純な指標で言えば、低温殺菌牛乳の販売状況を参照すればよかったのだ。低温殺菌牛乳の味の違いがわかる地域なら、2割高くらいでも売れる。
 こうした通販の問題は、生鮮食品だからというわけではなく、スキップより前に失敗していた千趣会の食品部門e-shopでも同じような問題があった。こちらは、生鮮ではないが、ざっとした印象で言えば、在庫管理がいわゆる千趣会とは違うマネッジができなかったのだろう。
 高級野菜の需要という点では、産経系に暗黙にあるように、総じてワンランク上の食材へのニーズとしてあるだろう、というか、実際スキップでも、これはという商品はよく品切れになっていた。
 話を戻して、私がショックというのは、あの永田農法の野菜を簡単に食うのがこれから面倒臭くなるのかということだ。私は永田農法の野菜をうまいと思うからだ。特に残念なのは、カボチャとサツマイモだ。
cover
永田農法
おいしさの育て方
 と、「永田農法」というキーワードを出したが、これが非常に面白い。すでに各所で語られているので、同じような解説をここで書く必要はないし、それに書いてもうまく通じはしない。有機農法でもそうなのだが、どうしても、「頭でっかち」とでも言うべき、一群の雑音のような、味覚もない支持者が出てくる。だが、永田農法の野菜は、極めるところ、その野菜の味になるので、それに直面した驚愕感と知識がどうしてもうまく結びつかない。関連書籍もいろいろ読んだが、かろうじてお薦めできるのは、「永田農法 おいしさの育て方」だけだ。あるいは、類書の「食は土にあり―永田農法の原点」もいいかもしれない。
 永田農法の創始者永田照喜治はまぎれもない天才だ。これがどのくらいすごいかというと、糸井のエッセイにあった逸話だが、永田は野菜はセラミック包丁で切ったほうがいい、とさらっと言う、ことだ。私は、おおっと思う。言われてみれば当たり前なのだが、少なくともその味覚の違いがわからないと永田農法の野菜の真価がわかりづらい。ただ、しいていうとスキップの野菜はそれほどには永田農法に徹したわけでもなかったが。
 永田農法は非常に不思議な意味で、有機農法の否定でもある。また、これほど管理化を必要する農法もない。うまい野菜を作るというのだが、これが植物にとってよいことなのかすらわからない。が、できた野菜は奇跡に近い、と言うだけ、まどろっこしいことになる。
 頭でわかりやすい範囲でいうなら、野菜の硝酸塩の問題がある。なぜ識者が指摘しないのか不思議なのだが、日本の野菜の硝酸塩の濃度はヨーロッパの基準なら、市場に出せないはずだ。そんなものがまかり通っているのだが、批判はあまり見かけない、と、私もあまりこんなところで雑駁に言うのもよくないので切り上げる。が、永田はそれより進めて、野菜のエグ味や青々しい色まで、良くないのだとまで語る。特に、緑のお茶は不自然だと断言した。私はお茶が好きで、蘊蓄の領域になりつつあるのだが、今まで疑問に思っていたことが永田の指摘で得心した思いがした。

 ところが、あのお茶の緑色こそ、硝酸態窒素の色なのです。昔の茶畑を知っている人ならば覚えているでしょうが、本来のお茶の葉は山吹色なのです。この原因は、油粕などの有機肥料、窒素肥料の多用にあります。(中略)
 緑の茶畑は悪夢なのです。安全意識を高めて、本物を見分ける目を養ってください。

 「茶色」という表現がなぜ、茶色なのか。各種の説があり、実際の茶色を見るに茶染めかとも思う。が、それでも茶は、茶色に近いものだったのだろう。
 永田の言葉は表現が拙い点や常識を外れた点も多いので、人によっては「電波」扱いするかもしれない。くどいが、永田の真価はその野菜なのだ。あの奇跡の野菜を食ったら、「電波」だみたいな阿呆な評は口を出ない。
 世の中には本当にうまい野菜がある。しかも、その基本的な「農」の原理がたった一人の天才で確立された。しかし、その野菜を日本に流通させることは難しい。ユニクロは失敗した。
 どうにかならないものなのか。日本の社会にとっても大きな問題だとも思うのだが。
 極東ブログもどうやら社会派ブログの仲間入り臭いが、社会派とはなんだろうと思う。政治にぼやくことやエコを声高に語ることだろうか。私は、社会は生活と切り離されてはならないと思う。そして、生活は、われわれが生命体であるその官能性に拠っているのだ。理論的には味覚のない人間にだって理想社会を論じることはできるだろう(ネットにもいるじゃないか)。だが、味覚のある人間は理想社会を味覚でしか納得しない。
 栄養士どもは、健康のために野菜を食えだのとぬかすが、日本の野菜の惨状を知らないのだろうか。なぜ、大根がみんな同じ長さなのだ? ニンジンをなぜ子供が嫌わなくなったのか? キュウリがつるっとして、触って指に刺さらないのか? ホウレンソウの葉のギザギザはいつ消えたか? それを看過して、何が野菜を食え、だ。

2004.03.24 in 生活 | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

2004.03.12

食用の鶏の話

 たいして意味もない雑談になるが、浅田農産船井農場の鶏処分のニュースをぼんやりと聞きながら、ずっとそこに飼われてた大量の鶏というのが気になってしかたがない。写真などを見るに、農場というより、工場に見える。もちろん、現代の鶏があのように飼われていることを知らないわけではないのだが、日ごろ意識しているわけでもないので、こう頻繁にニュースで取り上げられると、どうしても気になる。ニュースはできるだけ映像で見ないようにしている私だが、だからなのか、あの工場とそこに飼われて死んだ鶏のイメージがつきまとう。
 素朴な話、あんなふうに生き物をいじめるように育てて食うのか、という嘆息でもある。かわいそうに思うなら食わなきゃいいだろと言われそうだし、実際、私は一時期厳格に菜食に徹したこともあった。そのまま菜食でもよかったのだが、人生、乗り切らなければならない難事があって、食のことなどかまっていられなくなってしまい、そのまま菜食はやめた。逆に沖縄で暮らすにあたり、豚の内臓だの足だのをごちそうとして食うことにした。そして、今はそれほどは肉は食べないのだが、菜食に戻ろうとも思わない。
 そういえばと気になって、日本の鶏の抗生物質の投与の状況をざっとネットで眺めてみた。よくわからないが、日本では現状でも建前では、投与した抗生物質が鶏肉には残らないようにするという規制があるようだ。信じるしかないだろう。が、家禽や家畜には現状どれほど抗生物質や成長ホルモンなどが投与されているのだろうか。ま、ナーバスになるくらいなら、食べる量を減らすほうがましかもしれないのだが。
 鶏といえば、バリ島のウブドに十日ほどコテージを借りてぶらぶらしていたことを思い出す。夜にデンパサールに到着した。ウブドで水田の小道を借りたコテージまで行くと、蛍が舞ってきれいなものだった。星空は澄んでいた。コテージには小さなプールがあり、籐のベッドで寝る前に、夜空を見上げて少し泳いだ。朝、なんというのだろう、地の呻き渡るような怒号で目覚めた。なにが起きたのかと思った。ガラスのない窓を押し開け、南国風の森の向こうからその音は響き渡るのきいた。鶏の声なのだろう。何万羽という鶏が朝の声を上げているのだ。
 ウブドではよく鶏を見た。籠で蓋をされている。逃げないようにしているのかとヴァラニーに聞くと、もうすぐ食うから肉が固くならないように、運動させないようにするのだと言う。なるほどね。食ってみるか。

cover
Really Rosie
 旅の仲間の数名は米人ヴェジテリアンだったこともあり、ヴェジテリアンの食が多かったが、ときたま、ウブドの通りのロータスカフェとかで鶏肉の料理を食った。身が絞まってうまかった。いつも思う。日本を出ると鶏がうまい。鶏肉というのは、ほんとうにごちそうなのだ。仲間の一人に英国人がいて、風邪をひき、チキンスープが飲みたいとか言っていた。薬飲まないなら、勝手にしろよと思ったが、彼女にとってみれば、チキンスープこそ風邪薬でもあるのだろう。そういえば、モーリス・センダック(Maurice Sendak)の絵本に"Chicken Soup With Rice"があったっけな。Really Rosieの歌も歌ってしまいそうだ。キャル・キングの話にずっこけそうなので話を戻そう。
 米国でもチキンはホールで売っているものだし、中華圏に行けばホールで吊してある。首を切り、羽をむしるなど、カボチャを切るがごときだ。情け容赦もないようだが、あれでも、人と鶏の関わりかたなのだろう。と、ここで、日本の養鶏場がひどいものだと言う気はない。むしろ、ああいうアジア的な鶏の関わりかたので、ベトナム人に鶏インフルエンザの死者が出たのだ。
 こういう鳥インフルエンザはけして現代の病気とも言えないのだろう。歴史のなかでなんども繰り返していたには違いない。ただ、これほど大量の鶏を食う文明でもなかっただろうなとは思う。
 文明に罪があるとも思わないし、鳥インフルエンザが罰だとも思わない。ただ、ある種、恐怖と生命への畏敬感のようなものがどう心のなかで落ち着くのだろうという奇妙な感じがする。楳図かずお「14歳」に出てきたチキン・ジョージをふと思い出す。彼に会えるなら、人類とはなんだろうねと、もう一度訊いてみたい気がする。

2004.03.12 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.02.18

味噌の話

 味噌の話。沖縄で暮らしているころは、現地の風土のせいか、麦味噌が美味しかった。魚の汁にも合う。本土の大量生産の味噌も販売されているのだが、現地のものも流通している。沖縄の食には奇妙ながんこさがあって、今でも松山容子のボンカレーが売られている。本土外装のも販売されているのだが、松山容子を払拭はしない(参照)。夢路師匠ズバリ買いまショーのオリエンタルカレーもマース付きで販売されている。これは、けっこうありがたかった。日本のカレールーは実は脂肪の塊なのだが、オリエンタルカレーの脂は少ない。本土でも健康志向で売ればいいのにと思う。話を味噌に戻す。

cover
ボンカレー
 本土に戻ってから、高級食材などで大仰な味噌が販売されているので、高ければ味噌の味がするだろうと思ったのだが、ダメだ。ぜんぜんダメという感じだ。通販で製造元から買っても、ダメ。私は自分で味噌を造ったことがあるので、そんな難しいものではないと思うのだが、まともな味のする味噌がない。
cover
オリエンタルマースカレー
 
 これには、嗜好もあるなとは思う。私はどうやら、ある種の味噌の味を求めているようなのだ。と、種を明かせば単純な話、私は信州の味噌の味噌汁が飲みたいのである。というわけで、ある程度、絞り込んで探しまくり、とりあえず見つけた。かなり癖のある味噌なので、人にはお勧めしない。
 ポイントは、味噌玉だった。味噌について、樽がどうの、豆がどうのという蘊蓄などうるさい。味噌玉で味噌を造ってほしいのだ。母の実家では私の子供の頃でも味噌玉で味噌を造っていた。建築史家藤森照信の「みそ玉」の話が面白い(参照)。

 当時は秋になると、どこの家でもみそを作った。水田のあぜに植えた大豆を取り入れ、風呂おけのような鍋で煮て、ミンチ状にする。これに塩とこうじを加え、直径10センチほどの「みそ玉」にした。この玉に一つ一つ指で穴を開け、わらを通して物干しざおに下げ、風通しのいい軒下にかけた。「指で穴を開ける作業が子ども心に楽しかった」
 壊れて地面に落ちるみそ玉もあるが、しばらくすると発酵が進み、表面にカビがふいてきて、牛のフンのようにひび割れる。これをつぶして貯蔵した。

 味噌玉は信州のものだけかと思って調べると、全国にあるようだ(参照)。古くからの製造法なのだろうか。
 詳しくは知らないのだが、最近の味噌が、味噌っぽくないのは、梅干しと同じで、塩のせいかもしれない。自然塩だのどうでもいい。塩が甘すぎるのだ。もちろん、麦味噌のように甘い風味の味噌もあるのだが、それにしても、昨今の味噌は塩が少なすぎると思う。梅干しの連想で適当なことを言うのだが、塩がきつくないと、味噌の風味はでないのではないか。というか、三年以上寝かせることは難しいように思う。
 味噌関連で困ったことだが、手頃な味噌漉しもないことだった。100円ショップのせいか、安物ばかりなのだ。これも考えてみるに、味噌漉しの不要な味噌が多いからかもしれない。ダシ入り味噌なんて論外なものすらある。日本人の味覚はどうなってしまったのだろうと思う。もちろん、味噌玉で作った癖のある味噌では、調味の味噌には使いづらいので、それは別にしておくほうがいい。
 さらに味噌漉しから連想である。最近、「みそっかす」という言葉を聞かない。気になって辞書をひいたら、「おみそ」という言葉が載っていない。確かに少子化というか「おみそ」のいない時代になったのだと感慨深い。こういう言葉自体、共通一次試験以降の世代には通じないのかもしれない。困ったなと思う。が、「みそっかす」で字引を引くと、広辞苑には「(遊びの中で)一人前に扱われない子供。みそっこ。みそっちょ。」とあるので、まるで死語でないのだろう。それにしても、「おみそ」と書けよと思う。
 男のグルメだか知らないが、しょうもない美食に蘊蓄をたれる輩が多くなったような気がする。そういう自分もその口なのかもしれない。しかし、日本人の食っていうのは、一汁一菜だろうと思う。この味噌の体たらくをみると、「一汁」がなってない。それで、日本食の蘊蓄も糞ないだろうと思う。
 とま、味噌糞の話でオチとしたい。

2004.02.18 in 生活 | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

2004.02.16

セレブレクス制癌作用メモ

 関連「アスピリンとCOX-2阻害薬」(参照)。

 うかつに書くべき話題でもないのだが、ネットのどっかにインフォはあったほうがいい話題でもあるだろう。誰か書いているだろうかとぐぐってみると、ないわけではないのだが、胡麻臭い感じがする。ので、私は私なりに書いておく。リファラを見ると、この問題に関心をもっている人はそう少ないわけでもないようだ。話は、セレブレクス(Celebrex)つまり、セレコキシブ(celecoxib)の制癌作用である。以前にもぼかしてふれたが、少しぼかしを取ってもいい段階かなと思える。
 ネタの出所はBMJ系のGutである。
 Chemoprevention of gastric cancer by celecoxib in rats (Gut 2004;53:195-200)(参照)。
 ごらんとおり、まだラットの段階であるが、日本人に多い胃癌に関連する話題だ。日本では癌の代替医療が伝統的に茸系のアジュバントを使うことが多いのだが、私の知る限り、この療法は胃癌にはあまり有効ではない。もっとも、アジュバントなどせせら笑う向きも多いのであろうが。
 Gutの概要は手短なものなので関心のあるかたはリンクを辿って読んで頂きたい。一般的には、ロイター系のニュースのほうがわかりやすい。各所に配信されているが、一例を挙げておく。
 In Rats Celebrex Suppresses Stomach Cancer (参照)。


NEW YORK FEB 13, 2004 (Reuters Health) - Treatment with celecoxib -- also known as Celebrex -- suppresses chemically induced gastric tumors in rats, scientists report. "This finding lends further support to the use of COX-2 inhibitors in the (prevention) of gastric cancer," they write.

 意訳しておく。

セレブレックス(セレコシキブ)の処方によって、胃の腫瘍を化学的に抑制することができた。この発見は、胃癌予防にセレブレックスのようなCOX-2抑制薬の利用の支援になるだろう。

 当然ながら、以下のような限定は付く。

Whether this result can be translated into clinical benefit in humans deserves investigating, he added.(意訳:この結果を人間の臨床に応用できるかについては研究が必要になる)

 確かに、この「予防」がどのような意味を持つのか、解釈は難しいところだ。サプリメントのように飲んでいいものではないだろう。
 同記事には、もう少し詳しい説明があるので、関心のあるかたは読んで頂きたい。ここでこれ以上言及するのは危険性が高い。
 繰り返すが、この示唆は日本でももう少し研究されてもいいのではないか。なお、申し訳ないが、この話題はコメントではフォローしない。

2004.02.16 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.02.15

風力発電に意味があるのか?

 暴論とまではいかないが、よくわかんない問題をそのまま、よくわかんないなということで書く。お題は、朝日新聞社説「風力発電――促進どころか抑制法か」だ。毎度ごとく単にくさすということではないのでご安心を。
 朝日新聞の提起はこうだ。風力発電は「適地は多く、費用も比較的安く、環境の負担も小さいという、期待されるエネルギーである。なのに、普及しないのは、政府の義務づけが問題なのだ」と、ね。


 昨年、北海道、東北、北陸、九州の各電力会社が新たな風力発電の事業者を募った。全体で200万キロワットをこえる応募があったが、肝心の募集枠がわずか計34万キロワットだったことから、大半が事業化をあきらめざるを得なかった。風力発電の適地は北海道と東北に多い。それなのに北海道電力は「新たな募集は当面しない」、東北電力も「今後は未定」という。
 こんな調子では、2010年度に風力を昨年度の6倍以上にまで普及させようという政府自身の目標達成はおぼつかない。
 なぜこうなったのか。大きな理由は、RPS法で電力会社に購入を義務づけた新エネルギーの量自体が小さすぎることだ。
 この法律によれば、発電量全体に占めるその割合は年々上がってはいくが、最終年の6年後でも1・35%に過ぎない。北海道電力のように現在でも風力発電の規模が比較的大きく、義務づけ分を当面こなせる会社は、新たなコストを払ってまでいま以上に買う量を増やす必要がない。

 だから、法で規制して買い取るようにせよというのだ。欧米は普及しているぞとも言う、曰わく、ドイツは日本の約30倍、スペインは約12倍だと。
 私の印象を言う。欧米なみにアップしても、どってことないんじゃないか。そもそも、風力発電なんかまだまだ現実に電力供給源とはみなせないのではないか。そんなことに、エコがらみで拘泥しているより、全国の電力分配システムを見直せよ、また、家庭の電源200Vを普及させろよ、無駄ばかりじゃんか、と思う。
 つまり、そんなことは問題なのか、というのは私の印象だ。
 というものの、風力発電があれば、なんかナウシカみたいでいいじゃんと思う人もいるかもしれない。私は、沖縄で暮らしていて、近所にあれがあったのだけど、率直に言って目障りでうるさかった。日本の都市部の電線・電話線の貧乏臭さはある意味風情があるが、風力発電施設はよほど僻地じゃないと、違和感のあるものだった。もっとも、そんな違和感はどうでもいいかというレベルのことでもある。
 よくわからないのは、というか、私の勉強不足だろう。この手の代替エネルギーの総合的なビジョンが見えない。効果があるのか。京都議定書みたいなアホーなフィクションがドン詰まってトチ狂った意見噴出の兆候、ってことはないんだろうか。
cover
すばらしい新世界
 風力発電については、池澤夏樹「すばらしい新世界」が新聞小説ということもあり漫画のように面白かった。この話でよかったなと思うのは、風力発電の規模が小さいことだ。実際、読みながら、こう小型設備があるといいんじゃないかと思った。現実の日本では無用のようだが、すてきな奥様たちが、情報家電機器のコンセントをこまめに抜き差ししているホラーな世界もあるのだから、日本でも安価でもとが取れるなら売れるのではないかと思う。といいつつ、これはエネルギー問題ではないな。
 だらっとした話になってしまったが、北朝鮮問題だの核拡散防止だの、今日はもういいやという感じだったので。

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2004.02.08

一次産品高騰、で?

 今朝は日経新聞社説「世界経済の構造変化映す一次産品高騰」が気になった。率直に言ってよくわからないのである。だからなんなの?という感じだ。事態は標題どおりだ。


 原油、石炭、鉄鉱石、金、大豆、綿花など世界の一次産品の市況が昨年から高騰している。代表的な指標であるCRB先物指数は年初に266まで上昇、現在も260前後で高止まりしている。2年足らずで40%近く上昇した計算だ。
 原油価格は昨年春のイラク戦争後下落するとみられていたが、米WTI原油が1バレル=30ドル台半ばで高止まりしている。石炭は発電用の一般炭のスポット価格が1トンあたり40ドル前後と昨春に比べ、70%近く値上がりした。

 で? みたいな感じがする。日経によれば、その原因は中国なのだそうだ。

 一次産品の全面的な値上がりの背景には第一に経済成長に伴う中国の需要爆発がある。中国の昨年の原油輸入量は前年比31.2%増の9110万トンと過去最大となった。中国はすでに2002年に石油消費量で日本を抜いて米に次ぐ世界第2位となったが、原油輸入量も急速に日本に追いつきつつある。一般家庭の電力需要の増加、「世界の工場」としての産業用エネルギー需要の伸びもあって、エネルギーの輸入急増が起きている。

 これも、ふーんという感じだけだ。数字に間違いはないだろう。読んでいてなんか、腑に落ちないなと思うと、途中でこうある。ちんたらした引用で申し訳ないが、問題は、この「とらえどころのなさ」なのである。

 ただ、過去の石油危機などと違って、今回の一次産品市況の高騰局面では世界的に目立った形でインフレ傾向が出ていないことに特徴がある。原料コストが上昇しても製品価格が上昇しにくい構造が世界経済に生まれているからだ。

 でしょ。で、終わり、じゃないのか。何が問題なのだ?
 引用がもううざったいので、簡略にするが、とりあえず問題は、一次産品に依存する産業分野がもたないから、価格に反映すべきではないか、ということか。反映すりゃいいじゃん。
 それと、その問題についての中国の影響はどんなものだろうか、よくわからなかった。
 まどろっこしい話になったのは、私はこの日経の話は基本的に法螺ではないかと思うからだ。だが、うまく説明できない。私は素人、日経の執筆者は玄人のはずである。少なくとも何が問題なのか、それをえぐり出すように玄人は書くべきではないのか、とは思う。
 それとも、この世界の変化はたんに変化というだけのことではないか。いずれにせよ、現状、債券相場は落ち着いている。というか、一次産品の問題は、投機の思い込みには影響しても、単純な影響はないということだろう。
 一次産品に依存する産業の製品の価格が上げられないのは、マーケットの力のほうが強いとからだろう。そのマーケットとはなにか? 単にデフレということか。もっと簡単な話、この問題は、中国がクローズアップされるが、世界的には、先進国と途上国の労働格差のなかで、実質的な解消に向かっている、というだけのことではないだろうか。
 もちろん、今後の中国の一次産品輸入は増える一方だろう。むしろ、中国にマーケットが機能しないかもしれない、あるいは、中国が世界市場に統合できないかもしれない、ということが危機の可能性ではないか。

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2004.01.29

ヒト・メタニューモウイルス(Human metapneumovirus)

 今朝も社説ネタはない。各紙ザップするに主要なテーマ、国連安保理問題と裁判員制度。どちらも朝日新聞社説が扱っているが、「国連と同盟――小泉流の一国平和主義」は支離滅裂。駆け出しライターが必ず言われることだが「あのさ、どこが悪いか言える文章ならまだいいんだよ」である。裁判員制度は、現状、善戦しているとしていいのではないか。
 他に気になるネタはと、ザップするに、ちょっとなんだかなと思われるかもしれないが、今週のNEJM(The New England Journal of Medicine)のトップ記事がちと気になった。Human Metapneumovirus and Lower Respiratory Tract Disease in Otherwise Healthy Infants and Children(参照)である。
 英文を引用しても専門過ぎてなんなので、簡単に言うと、定訳語を知らないのだが、ヒト・メタニューモウイルス(Human metapneumovirus)が、幼児の気道感染の12%を占める、というものだ。
 で? なんて言われそうだが、確かに、SARSや今話題のトリ由来のインフルエンザほど、社会的なネタではない。ヒト・メタニューモウイルスについてはSARSに関連した話題もあった。気になる方はこちらを参照のこと。SARSの原因かと疑われてもいたわけだ。この問題を決着したのも、ヒト・メタニューモウイルスの発見者アルバート・オスターハウス(Albert Osterhaus)である。
 NEJMが大きく取り上げているのは、背景にヒト・メタニューモウイルスってそんなに人間に関わっていたのかということがあるのだろう。というか、私は、その点に、へぇ~98点、という感じだった。ここでいきなり妄想をたくましくしてはいけないのだが、こいつはレトロウイルスで、しかも人間と事実上深く共生しているのは、なんか意味がありそうだ。似たようなウイルスもまだいっぱいいるのだろう。
 日本でもこの感染の状況はほぼ同じだろうと思う。すでにヒト・メタニューモウイルスは検出されているからである。
 社会問題としてみれば、日本の小児科が手薄すぎることが気になるが、実際の治療面では、この発見によって診断が変わってくるだろう。臨床面で対処に大きな変化はないのではないか。このあたり専門家のコメントが聞きたいと思うが、難しいか。
 ヒト・メタニューモウイルスが話のネタとして面白いのは、これが発見されたのは、2001年とごく最近のことという点だ。私は医学というのは20世紀で終わったと考えるのだが、逆にいえば、こうしたウイルスの発見は、新世紀の医学に大きな意味をもつだろう。人類とこれだけ深い関わりがありながら、わかっていないことが多いのだなと思う。SARSについても、社会ニュース的にはなんだかわからないが、免疫になんらかの影響をしているのではないだろうか。あまりこの手のことをうかつに言ってはいけないのだが。
 不埒な極東ブログなのでちょっと放談として先の妄想を書いておく。人間は幼児期に自然状態ではヒト・メタニューモウイルスの免疫を獲得するのだが、むしろ、この獲得過程は進化的に選択されたものではないのだろうか。こんなことを思うのも、SARS感染についてニュースを通して知る限り、子供の犠牲者が少なかった。子供を守るシステムが存在するのではないかと思う。ここで野口晴哉を出して「と」全開にする気はないが、子供の風邪の対処は自然な経過が重要なのかもしれない。

2004.01.29 in 生活 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

2004.01.26

牛肉の話

 狂牛病問題については、極東ブログは、それなりにつっこんだネタを出してきたと思うし、これ以上言うこともないのだが、ちと、気になる余談めいた話を書いてみたい。ちなみに、私はBSEとは言わない。先日のクローズアップ現代でもハーバード大の担当がどうどうと、mad cow diseaseと言っていた。字幕でBSEって訳すなよと思った。
 まず、気になるのは、私が目にする意見が偏っているのか、米国牛肉の輸入再開なんで許せない、国が米国に屈しても消費者は許さない、みたいな意見をよく見かけること。なんだ、それ?という感じがする。確かに、米国は日本の狂牛病のときは、日本からの輸入を全面的に禁止したのだから、米国お得意のダブルスタンダードかよ、と思う。だが、このとき日本も統計的に有効とかぬかして適当な検査態勢をとれば米国は折れたのではないか。つまり、このとき日本は全頭検査だぁ!とかやったわけだけど、これって、どうせ米国で狂牛病の牛が出るのはわかっていたことだから、振り返ってみるに、しかけたのはどっちなんだ? しかも、若年検査までやって新種の狂牛病を発見した。このタイミングが絶妙だったという話もすでに書いた。
 お笑い本「買ってはいけない」が出たとき爆笑したのだが、あの感覚からすると、だ、今の日本の状況は、またお笑いやってんじゃないかと思う。なんかこの雰囲気で言うのはスッパマン勇気の指みたいだが(ってギャグ通じる?)、米国が全頭検査をしないでも大丈夫というのは、ちゃんと科学的なことじゃないのか。もっとも、検査の現場が、あの怠慢な米人のことだから大丈夫かなとは思うが、理論的な部分では検査態勢はこれでいいのではないか。それと、日本の国民もそんな馬鹿でもないから、米国牛肉が入ってきたら、ほいほい食うと思う。でも、と、ちょっと口ごもるけど、私は食べません。米肉、小売りのはまずいんだもの。
 米国人はいまでもがつがつ牛肉食っている。怖くねーのと思うが、そうでもないらしい。なぜなのだろう。馬鹿?というのもあるかもしれないし、米国って民衆レベルでは情報の流通がすげー悪いのもあるだろう。っていうのは、一部健康志向な人はオーガニックな牛肉にちゃんとシフトしたというのを私は確認しました。やるぜ、である。それと、もう一点、米国って知的階層がまだあるので啓蒙が意味を持つ面がある。政府が安全っていうのだもの、である。で、この米政府が日本なんかと比べものにならないほど、てんこ盛りに科学的なのだ。まいど、FDA文書を読むたびに、うんざりするほどである。ちと気になるのは、狂牛病が人間に感染するには人間側の遺伝子の条件があるとの噂があるのだが、まだ確認していない。調べるの、面倒臭ぇとか思ってしまった。
 日米の牛肉問題の落としどころは、結局、あのちんたら検査の現場の問題になるから、そこで日本の商社あたりがなんか三者団体でも作って日本チャネルを作るっていうことになるのだろうか。どうも吉野屋問題とかで騒いでいるが、米国牛肉の日本の消費総量は1/4くらいだ。それほど問題になるわけでもないし、吉野屋の悪口言うわけじゃないけど、あの肉は米国人にとってはくず肉なんだから、ちと問題の観点が違うよと思う。
 ところで、この話をぐだぐだ書くにあたっては、実は、オーストラリアからのセーフガード撤廃陳情のその後が気になったからだ。オーストリアからの陳情というかは先週くらいはニュースになったのが、その後はどうなったのか? 日本政府はどう対応しているのか。情報がねーぞ!
 そもそも、あのセーフガードっていうのはなんなんだよと思う。お忘れの方は、「『自動発動』批判続々 牛肉関税引き上げ 」(参照)。同記事にあるこの下りが気になる。


「世界貿易機関(WTO)で認められた措置を実行しなければ、現在交渉中の新ラウンド(新多角的貿易交渉)でも譲歩を迫られかねない」(農水省の貿易担当者)との思惑もあるようだ。

 なんか、おいおいじゃないのか。世界の安全問題は国連主義でいいかもしれないけど、WTOを傘にして日本は誰と戦うつもりなのか。間違ってねーか。関連して「豪経済外交、米・中に照準 熱冷める日豪のFTA協議」(参照)もなんだかなと思う。日本の国策が間違っているなと思う。
 さらに余談。セーフガードでちとぐぐったら愉快な記事があった。「2004/07/30 牛肉セーフガード発令について」(参照)である。どういう文脈の話なのか、親ディレクトリが不明なのだが、ようはこう言いたいらしい。

皆さんは輸入牛肉を心から「おいしい♪」と思って食べていらっしゃるでしょうか。もしそうだとするならば私は心からその方を哀れみます。なぜならば食べ物の味を理解する舌を持たない可哀想な人だからです。私自身決して富豪の家に生まれたわけでは無いですし牛肉に関する専門知識があるわけでも無いですが、幸いにして国産牛肉と輸入牛肉の味の違いは理解する事が出来ます。正直に言わせてもらいますがおそらくスーパーで売っている一番高い輸入牛肉よりも一番安い国産牛肉の方がおいしいと思います。輸入牛肉は私の舌には合いません。っていうかマズイです。とってもとってもマズイ。というか味が無いっていう言い方の方が正解かも知れませんね。

 ふーんである。別に批判はしない。正直だなとは思う。
 で、ご存じのとおり、日本の牛肉の嗜好と欧米は違う。だから嗜好の違いを云々言ってもあまり意味はない、というのはある。だが、どうも米人の動向を見ていると、彼らも実は霜降り肉がうまいと思っているみたいだなというのもありそうだ。
 も一つなのだが、牛肉って冷凍すると不味くなる。これは沖縄在のとき、元米領事館のピザハウス本店で冷凍してないプライムリブ食ったのだが、うまい。ほぉと思った。牛肉をうまく食わせるには技術がいる。
 また、韓国料理屋でもそこそこの値段でめっぽううまい店もある(荻窪とか)。牛肉を食わせる技術の問題はある。
 ちなみに、私はホテルとかフレンチの店で牛肉がうまいと思ったことはない。鉄板焼きとかサイテーだと思う。
 で、この話もおしまい。沖縄に行ったら、浦添の元米領事館のピザハウス本店でプライムリブがあるか訊いてみるといい。あ、米国輸入だからもうないのか、残念。ちなみに、米軍内は冷凍肉ばっかだった。でも、きっと、あの肉、フェンスの向こうにあると思う。フェンスの向こうは米人のつてがあれば、簡単に入れますよ。ただ、うろうろしていると銃口向けられますが、撃たれたことはありません。

2004.01.26 in 生活 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

電子政府なんて、要らない

 自分の考えがまとまらないので、書くだけ間抜けな次第となるだろう。でも、率直な思いをメモ書きにしておきたい。日経新聞社説「便利な電子社会へ万全の安全対策を」が提起する問題だ。社説自体は、なんともぼよ~んとしたトーンで書いてある。それが悪いわけでもない。ヤッシーみたいに騒いでも、もうオマエは門外漢だよレベルの事態を別のレベルで騒いでも、意味なんてない。というのは、住基ネットの問題。その安全性についてのバトルだ。厳密に言えば、ヤッシーが正しいが、実用面でヤッシーの危機感はほぼ無意味だ。むしろ、危機のポイントはヤッシーや櫻井よし子が騒いでいる点ではないと思う。ちょっと悪口を言うのだが、このレベルの人が騒ぐだけ問題がおちゃらけになるし、本当はもっと発言して欲しい人が産業と国家に巻き込まれ過ぎている。じゃ、オメーがなんか言え、なのだが、難しいには難しい。RFIDについても、技術系の知識がある人ですら、トンチキな話になりがちだ。
 日経からネタとして引用する。


「e―Japan戦略」に基づく電子政府構想が本格始動する。19日から電子納付システムがスタートし、29日には公的個人認証サービスが始まる。これで2月から国税の電子申告・納税、3月からはパスポートの電子申請が可能になる。行政手続きの電子化は国際的な流れだが、成功させるには万全な安全対策を急ぐ必要がある。

 まず、気になることだし、識者と思われる人が言及していないのは変だなと思うこと、から書く。日本が公的個人認証サービスができるって、すげーなである。私の感覚からすれば、そんなこと米国が許すわけねーだろ、である。どうですか、みなさん?
 で、私は古い人間だし、頭も固くなっていて、おまけにひねくれた性格なので、やっぱ、米国は許すわけないよ、と思う。陰謀論めきたいわけじゃないが、私の常識からすればだね、この話には、裏があるよ、きっと。どっかにホワイトハウスへのバックドアがあるんだろうなと思う。
 次に思うことは、ひたすら呑気なことだ。端的にいう、「そんな、システム、要らん」 便利になってなにが悪いと言われそうだが、そうなのか。あのさ、思うのだが、みなさん、郵便番号が7桁になって便利になりましたか? あれってなんのためにやったのだろう? 秋田県孫様、だったっけかな、で、届く郵便配達システムが未だに成立しているから郵便事業が成立しているのであって、システム的な問題は従属的だし、もっとコストパフォーマンス優先の解法があるではないか。と言いつつ、郵便事業まで民営化してしまうのか。なんだかなと思う。お役所の不便さには、いちいち立腹する私ではあるが、世の中多少不便であってもいいと思うし、その不全さは、ポストマンパットとぶち猫の世界を守っていると思う。
 住基ネットで気になるし、いろいろ発言してみるが、空虚だなと思うのは、これって、今後日本の移民問題の予備なのではないかと思うことだ。端的に言えば、日本国家に外人を入れないよ、外人は電子的に区別してやっからね、ということではないかと思う。あれまぁ、である。ちと、余談だが、極東ブログがどんなふうに検索されているかというと、端的にはGoogle様の気まぐれ評価どおりのキーワード検索なのだが、それでも、例のフランスのスカーフ問題、つまり、ライシテ関連で覗きに来られるかたが多いようだ。あの記事で、フランスのライシテをむしろ擁護したのだが、でも、ドイツじゃ問題ないんじゃんと思われているとしたら、とんでもない。どっちがより開かれた国家と考えてみるといい、ドイツも日本と同じ血統主義だ。いつまでたってもトルコ人は外人なのだ。むしろ、国家を理念から開くフランスのほうが近代国家だし、ライシテというのはその不可欠な条件なのだ、っていうのが、呑気な日本人はわかりづらいし、この呑気さはこれから、電子システム的に保護されることになる。で、いいのか?
 日経の先の社説だが、結末がけっこう微笑ましい。個人情報は自分で守れというのだ。

 だが最も大事なことはまず国民一人ひとりがセキュリティー意識を持ち、自分の情報は自分で守る姿勢を持つことである。電子社会の進展は利便性が高まる代わりに個人情報が社会に流れることを意味する。自分の情報が正しく扱われているか常に政府や企業へ情報開示を求め、確認していく姿勢が求められている。

 なにが言いたいのでしょうね。個人情報は個人で守れ、って、無意味。それが無意味だとわからない人に解説するのがうざったいくらい。利便性とプライバシーのバランスはこういうフレームワークでは当然のこと。日経もうっすらわかっているらしく、だから、公的機関を市民が監視しなくてはいけない、と正論を吐く。確かに正論なんだけど、そのためには、国家に取り込まれない識者と団体が必要なのだ。日本にあるか。サヨだったら、やめちくれよ。
 最後に余談で締める。極東ブログ、誰が読んでいるのか、もうどうでもいいやではあるが、読んでいるかたに問いかけたい。「あなた、表札に名前書いていますか?」 書いているならなぜですか? 表札になんて書いていますか? と問いかけられて、あれれ、って変な気になりませんか。ちなみに、他の国のご事情知ってますか?

2004.01.26 in 生活 | 固定リンク | コメント (8) | トラックバック

2004.01.25

マーミナー・チャンプルーの作り方

 極東ブログでチャンプルーに言及することが数回あった。どうも、皆さん違うなぁと思うからだ。じゃ、どうなの?ということもあって、マーミナー・チャンプルーの作り方でも書いておこう。
 こんなもの作り方もなんもないような料理だが、本土の食材ではできない。まず、島豆腐がない。沖縄のスーパーとかで売っている島豆腐も鍋の香りがきつすぎてうまいものがないのだが、それでもチャンプルーの素材にはなる。
 マーミナーの語源は「豆菜」である。といっても、エンドウ豆の若葉ではなく、ようするに、もやし、だ。が、このもやしがくせ者なのである。本土のもやしはブラックマッペから作る。しかたないのだが、沖縄のものは緑豆から作る。緑豆についてはいろいろ言及したいことがあるが、省略する。本土で作るなら、ブラックマッペでいいから、必ず根を切る。これにちょいと手間がかかる。この手間を省くと、マーミナー・チャンプルーはできない。中華料理の銀絲と同じ。
 チャンプルーの語源はインドネシア語のチャンプールに由来するが、現在の沖縄料理とナシ・チャンプールなどのチャンプールとは違う。うちなーんちゅでも、チャンプルーといえば、いろいろ混ぜて炒めると理解されているが、豆腐を入れるのがチャンプルーとしたい。
 以下の作り方は多分に私のオリジナル。でも、うまいと思う。
 用意するものは、木綿豆腐一丁(国産大豆だのうるさいこと言う必要なし)、もやし一袋、塩(自然塩がベター)、豚バラ肉100g(できれば肉は上等なのがいい)、ニラ1/4束、そして、泡盛大さじ1か2(できれば43度以上がいい)。珍しいのは泡盛くらいだろうか。ニラがなければネギでもいいにはいいし、なくてもいい。
 もやしは丁寧に根を切る。手間を惜しむな。
 豆腐は電子レンジ500Wか600Wで2分加熱し、一口大よりちと大きめくらい切って、3分くらい置く。すると、水がだいぶ出るので、この水をよく切っておく。島豆腐ならこんな手間はいらないのだが。
 ニラは1~2センチに切る。ひとつまみくらいの量でいい。沖縄料理は香り付けにニラを多用する。根に近いほうは細かく刻むほうがいい。
 豚バラ肉は3センチくらいに切る。薄いほうがいい。
 さて、作り方。中華鍋を中火で熱する。フッ素フライパンでもいいにはいい。熱したら、さっと油を引く。弱火にする。肉を入れる。焦げないように炒める。このとき、脂、つまりラードを出す。チャンプルーの味はこのラードで決まる。フィリピン料理も同じ。豚はかりかりに炒めるする必要はないが、適度な堅さをもつくらいまで丁寧に炒める。ちと手間がかかる。5分はかからない。
 ラードが出たら塩を小さじ2くらい入れて、脂と塩をよく馴染ませる。ここが味の決め手になる。
 少し火力を上げ中火程度でもやしを入れ、さっくり炒める。もやしに少し熱がまわったかなというあたりで、水を切った豆腐(まだ少し温かいもの)とニラを入れ、木べらで丁寧にかき混ぜる。
 味が全体に回り、もやしが少し透き通るくらいで、泡盛を回しがけし、少し強火にして泡盛のアルコールを飛ばしたら、終わり。
 これで終わり。これだけで終わりだ。
 もやしや豆腐から水をあまり出さないようにするのがコツ。塩加減と豚の品質の目利きもコツのうちだが、練習して勘を掴むしかない、と思う。
 なお、島豆腐があれば、もやしの前に豆腐を入れ、少し焼き目を付けるようにする。また、バラ肉ではなく、スーチカー(塩漬け肉)を使うほうがいい。超本格なら、島豆腐ではなく六十(るくじゅう)を使う、が、そんな料理、沖縄でもお目にかかることは、たぶん、ない。

2004.01.25 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.01.23

氷砂糖など

 雑談である。健康だけが理由というわけでもない。うまくないな、という理由もある。たばこを止め、酒を止め、コーヒーまで止めた。たばこはもともと体にあっているわけでもないし、吸っていたのも二十代の終わりの二、三年程度。しかもパイプタバコかシガリロ。酒は止めて三年近くなる。酒を止めたときに2ケース残った年代ものワインも、ワインのわかりそうな人に譲って残りわずかになった。1980年代ものはもうない。シングルモルトも幾本があったが、これも味のわかりそうな人に譲った。どうせいつか死ぬのである。死ぬっていうのは、酒を飲まなくなることだ。
 コーヒーも昨年後半からほとんど止めた。飲むと僅かだが脈が変わるのだなと気が付いた。
 二十代の頃から中国茶はよく飲む。三十代になってからは、高い中国茶に金に糸目をつけず飲んでみた。高いといったって、それほどたいした額でもない。飲んで飽きた。六十年以前の茶も中国人茶商に譲ってもらって飲んだ。
 数年前から台湾烏龍茶や岩茶が日本でもブームだが香りがきつくて好きではない。中国茶で今飲むのは龍井くらい。作法だのは気にしない。ガラスコップに熱湯を注ぐという中国人式であるが、今の中国人はそんなことするだろうか。
 紅茶も飲む。以前はキャッスルトンだの昔から名の通った農園のものを飲んでいたが、最近はプッタボンやマカイバリのオーガニックのほうがうまいと思う。気取った国内の紅茶販売店が嫌いなのでネットで海外から取り寄せる。最近のダージリンは香りがいい。烏龍茶の香りは苦手だが、このダージーリンの香りはまだ飽きない。紅茶の作法など気にしないが、茶碗はけっこうなものを使う。
 朝は英国風のミルクティを飲む。アッサムのブレンドだ。日本人はなぜミルクティを飲まないのだろう。美味しいのに。セイロンティはあまり飲まないが、しいて言えばヌワラエリアが好きだ。トルコ紅茶も好きだが、あの茶器はめんどくさい。捨てた。
 お抹茶も飲む。利休の極意どおり、点てて飲むばかりだ。お薄だ。茶碗は朝鮮茶碗。楽は嫌い。当然、干菓子・和菓子を好む。幸い、近所に腕のいい職人の和菓子の店がある。この正月に別の店のはなびら餅ももらったので食ったが、不味かった。はなびら餅はゴボウの香りと味噌餡をうまく調和させなくてはいけない、と思う。
 普段のお茶は煎茶とほうじ茶だ。我ながら、ほうじ茶にもうるさい。外食の日本料理でいつもがっかりするのがほうじ茶だ。まともな日本食の店は高額すぎるのだろうか。余談だが、うるさい鮨屋がでーっ嫌ぇだ。ネタの目利きができて、仕込みがきちんとできる鮨屋が近所にある。ピカ一ではないが、これも幸いである。鰺のつらを見て食べ頃かきめるうるさいオヤジだが、客にうるさいやつじゃない。
 歳で味覚が変わる。特に甘みにうるさくなった。以前、仕事の関係から飯田橋の紀の善によく行ったものだ。今でも紀の善が好きだが、それでも甘味屋の甘みは苦手になった。きつすぎる。いわゆるコンビニのデザートはもう食えない。基本的に香料の入ったものが食えない。洋菓子なんか食わんでもよろし、と思っていたら、近所にかなり腕のいい洋菓子屋があった。フルーツを多用するので軽くてうまい。紅茶にも合う。
 とか言って、キャラメルコーンとかある種の駄菓子も好きだ。追憶的な心理をかき立てるからだろう。煎餅も好きだ。煎餅職人が一枚焼いたのがいい。
 飴が好きで佐久間式を選ぶ。が、これもちょっと苦手になってきた。口さみしさに、昨年あたりから氷砂糖を舐めるようになった。まるで爺だなと自分を思うが、甘さにトゲがないので助かる。自前で八宝茶を作るので、それに入れるように買っておいたものだった。
 甘みにうるさくなってから、どうも気になることがある。缶入りの飲み物はほとんど飲まないし、ジュースもホテルウェルチが好きという我ながら憂鬱になるのだが、たまに缶入りの飲料を飲むと、甘みが変だと思う。異性化糖のせいだろうか。
 日本の消費者運動は砂糖を目の敵にしてきたが、なぜだろうか。異性化糖を叩くべきではないのか。と言って異性化糖には害はない。が、本当にそうかなと思う。長期にこんな甘味ばかり摂取していいわけがないだろうと思う。
 日本人の甘味の感覚はどうなるのかと思っていたら、最近はとんでもねぇ甘味料が増えてきた。あえて書かない。健康がどうこういう問題ではない。不味い。
 あ、キシリトールは好きだな。というわけで、一貫性はない。雑談終わり。

2004.01.23 in 生活 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

2004.01.17

阪神大震災から9年

 1月17日である。今夜の月は曇るのである、という話もさすがに聞かれなくなった。私たちの世代のアイドル山口百恵の誕生日である。先日国立の増田書店に入ったら、入り口にミニコミ誌の広告なのか旦那の写真が貼ってあった。現代は17日といえば阪神大震災だ。新聞各紙もこの話題を取り上げている。予定原稿だったわりに、読ませるのは日経の「切迫する地震へ備え急げ」だけだ。文章を練りすぎたのかちと趣味が悪いのが残念だが、ネタは、昨年3月、ドイツのミュンヘン再保険が発表した大都市の災害危険度指数だ。それによると、地震の切迫という点では東京がダントツで、防災関係者や企業経営者に大きな衝撃を与えたというのだが、どうだろうか。


 東京・横浜地区は、710と2位のサンフランシスコ(167)を大きく引き離し1位となった。首都直撃の地震が切迫していると指摘されているのに、何もせずに活火山の火口で暮らしているような無防備ぶりに警告を発したものといえよう。

 そう書いて間違いでもない。この問題は極東ブログでもいろいろ考え続けた。特に昨年9月の串田予言はいい機会だった。ご関心があれば、「地震が来るのか?」(9.12と「地震予告とその後のこと」(9.25を読んでいたたきたい。阪神大震災については、「どこに日本の州兵はいるのか!」(11.17)で書いた以上の思いはない。
 私の結論から言えば、前回の関東大震災レベルは来ない。要点はこうだ。

M8レベルの、関東南部の周期は200年。ということは、プレート移動の隣接で起きるタイプの関東大震災はまず私の目の黒い内には来ない。ただ、M7レベルの直下型は断層で発生する可能性はある。阪神大震災がこれだ。この直下型地震の周期は活動期に入ったと見ることもできる。

 阪神大震災レベルの地震は東京でも起きうる。日経の社説は恐怖を駆り立てるタイプのレトリックに堕している部分があるが、都の被害推定である、死者7100人、建物全壊は4万3000棟、とするは、まさに阪神大震災レベルを意味している。被害規模の推定が少ないようにも思えるが、妥当な線ではないか。そして、この妥当な線には、阪神大震災の時の政府の無策が含まれているとすれば、都行政の尽力でその半分くらいまでに被害が縮小できるのではないかと思う。
 その意味で日経の社説ではなく毎日新聞社説だが、「巨大地震対策 住民、地域の防災力高めよう」の結語は良いことを言っているようでいて、実は大間違いである。

こういった対策が十分に機能するには、住民や地域が「安全」と「安心」のために、みずから知恵を出し、汗を流す心構えが、なにより肝要である。

 くどいが、そういうふうに考えていくことは無駄だ。合理的な行政の課題なのだ。
 関連した話題を追っておく。朝日新聞社説「震災対策――住宅支援制度に賛成だ」は標題のように震災時の支援制度を扱っている。朝日にしては冷静に、そうした制度が運営できるのか懸念しているが、その点は私も朝日に同意見だ。また、朝日は結語近くで補強費用についてちらと肯定的に言及したものの、論述は逃げているが、私は耐震補強の有効性に疑いを持っている。産経はもう少し耐震補強を肯定しているが、裏が書いてないので、くだらない。
 「耐震補強」というのは意味があるのだろうか? ブログなので言うのが、正確な情報のトラックバックが欲しいなと思う。

2004.01.17 in 生活 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

2004.01.13

キムチ、たくあん、野沢菜漬け、違うぞ!

 読んで悲鳴を上げる文章というのは多くはない。私は感情が不安定な人間なので、少なくもないのだが、今朝絶叫した。中央日報の「日、キムチがたくあんを抜いて『代表的なおかず』へ」(参照)である。最初に断っておくが、なにも中央日報の記事が悪いわけではない。


日本で、キムチがたくわんを抜いて「代表的なおかず」になった。
日経新聞が10日、全国の1476人を対象に、漬物の人気順位を調べたところ、韓国のキムチが日本固有のおかず、たくあんを抜いて、第1位になった。

 日経の記事は見落としていて韓国紙で知るのもなんだかなであるが、その事実、そーなのか。と、絶叫した。理由は、「日本に韓国のキムチは、ほぼ、ない」からだ。日本人ご同胞、あれはキムチじゃねーよ、あんなもの食うなよ!、で、二位のたくあんもだ。あんなのたくあんじゃねーよ、である。そして、「おまえはもう死んでいる」の一撃はこれだ。

長野県野沢の温泉で生産される野菜を塩漬けした「野沢菜塩漬け」が第3位だった。

 ぎゃ~がぁ~ぎゃ~がぁ~、バカヤロバカヤロ日本人である。信州人ディアスポラの一員としてオルフェノクになって日本人ををを……である。あんなの「野沢菜塩漬け」じゃあなーい!
 と書いてみて、しばし沈静化してみて、あああ、立ち上がれません。俺がうまいものを知っているとかうんちく話に誤解されるのだろうなと思うので、あああ、立ち上がれません。
 こうなれば韓国にやつあたりである(つまんねー断り書きだが、冗談ですよ)。あんな偽物のキムチを輸出するなよ。わかってんだろ、こんなの日本人が食うのかと嘲笑してんだろぉ。日本人はあの浅漬け(いかん、名前を忘れた)もキムチだと思っているのだよ。
 唯一たくあんはまだ救いがある。その気になれば、ほんまものが手に入る。キムチもなんとかなる。野沢菜はダメだな。信州ですらもう作ってないんじゃないかぁ!!!!
 正月を越える。春が来る。野沢菜だが高菜だかわからない酸味が出る。まずいと思っていたよ、子供のときはね。今じゃ、あれが本物だよな、と思う。泣ける。

追記
ネットにも元情報があった。「何でもランキング 通が好きな漬物」(参照)。これを見て、私は、また吠えた。なにが柴漬けだよぉ~(きゅうりもねーのに)。

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2004.01.07

冬の沖縄 その2

 なるほど「東京ウォーカー」に綴じ込みの沖縄観光の広告が載っていた。紙質がいいので豪華な作りのようだが、いただけないな。広告主は内閣府。総費用は3600万円。それだけお金をかけるなら、沖縄の若い編集スタッフをごっそり東京に呼べよ、すげー面白いのができるから、と思う。
 「東京ウォーカー」には東京の沖縄料理屋の情報もある。めくりつつ、銀座にこんなに出来ていたのかと、少し驚く。料理はどれもたいしたことなさそうだなと思うが、ZENは、けなせない、すりの王様だしね。他、高円寺の抱瓶は写真で見ると、昔と変わってないみたいだ。あまりうちなーんちゅは集まっていないのではないか。総じて、「東京ウォーカー」に出ている店には、うちなーんちゅは客に来てなさそうな気がする。吉祥寺近鉄裏の「琉球」はどうだろうか。
 今、東京に出ているうちなーんちゅはどんな層になっているのだろうか。明治の一世から数えれば、四世、五世か。そうなればもう沖縄の文化から、とぎれているだろう。といって、島のほうでも復帰っ子の世代は、それ以前と文化的にとぎれている。それで沖縄の文化が失われてきているかというと、そうでもない。
 本土には沖縄好きが多い。沖縄通も多い。少し皮肉に聞こえるかもしれないが、現在、観光的なイメージで見せられている沖縄というのは、80年代以降、観光のイメージと共鳴しつつできたものなのだ。端的な話、それ以前のうちなーんちゅは泡盛すら飲んでいなかった。いや、泡盛は飲まれていたが今みたいな上品なものじゃなかった、と言えば、批判されるだろうが、戦後から復帰まではあめりかーの文化であり、戦前の沖縄はまた違ったものだった。
 「東京ウォーカー」のような「沖縄」は本土側のイメージなのだ。そういえば、本土では反戦ソングとして定着している「さとうきび畑」という歌があるが、あんな歌を知っている50代以上のうちなーんちゅはいないと思う。歌の意味も通じないだろう。あの歌に描かれた光景は、沖縄戦からはほど遠い。逃げまどう民衆は「夏の日差しのなかで」はガマに潜んでいた。そのガマで爆殺されたり、病で死んでいった。「鉄の雨にうたれ」というフレーズは沖縄タイムス社が1950年に出した沖縄戦記「鉄の暴風」の連想だろう。「さとうきび畑」という歌はメディアのイメージが出来ている。戦前にもさとうきび畑はあったものの、それが島の「基幹産業」となり、沖縄の風景になるのは米軍の施策の結果なのである。と、くさしたいわけではない。沖縄戦の実態とかけ離れた詩に酔うことは私は不愉快なだけだ。
 復帰っ子たちはある意味、不思議な新しい沖縄を作り出していく。その象徴は、「ちゅらさん」でお墨付きを得た、あの「やまとうちなぐち」だろう。あれならとりあえず、日本の方言にも聞こえるし、現地でも使われている。飲み屋のオヤジ役でも出ていた藤木勇人の指導によるものだが、あれだけでも日本文化史の偉業だ。そういえば、藤木勇人は映画「パイナップルツアー」で爆弾掘っていた彼である。
 話がそれた。「東京ウォーカー」の写真をぱらぱらめくる。「ごーやーちゃんぷるー」は正統。ちゃんとポークが入っている。チューリップ吉。SPAMじょーとー。スクガラスの豆腐は島かな? 「みぬだる」はちと違う。「なーべーらちゃんぷるー」とあるが「んぶしー」だろ、と思うが、豆腐が入っているのが「ちゃんぷるー」の定義であったか。ちなみに「そーめんちゃんぷるー」は「そーみんたしやー」だが、うちなーんちゅにも通じない。いか墨汁(さぎぐすい)はニラ入りかぁ。折り込みのほうのぐるくん唐揚げはじょーとー。この形でじっくり揚げてないと骨は食えない。「ニンジンしりしり」も今やメジャー料理かと思う。これは本土でも定番になっていい、と思うが、本土には、うちなーんちゅの家庭ならどこにでもあるしりしり器がない。
 うんちく臭いのでこの話はやめようと思うが、一つだけ泡盛のお薦めはしておきたい。いろいろ好みがあるだろうが、私のお薦めは八重泉の黒真珠である。泡盛は43度はないと味は出ない。迷うならコレを買え。飲むときは、うちなーんちゅのように水で割らないこと。「からから」を使ってちびちびと飲む。肴はなんでもいいが、「豆腐よう」吉。似ているからといって腐乳はだめ。「六十(るくじゅう)」なお吉、といって、うちなーんちゅでも知る人は少ない。
 冬の沖縄と言えば…雨期である。「東京ウォーカー」などを見て、行こう!と思った人は、天気予報にご注意。これから3月までは1か月以上、陽の目を見ないこともある。そして、意外に寒いこともある。12月22日は、正月。中華圏の春節に同じだが、沖縄では旧正月を祝う地域と、新正運動が行き届いた地域が分かれている。糸満も港のあたりは、しょーがちらしくてよい。この季節美しいものは、きび(さとうきび)の穂だ。これが夕日に映える光景は極楽のようである。ほかに冬の沖縄でなにか忘れたかと、うちなーんちゅうに訊いてみる。
 「あのさ、ふん、これからおきなわに行って、でーじ面白いもの、何?」「桜」……。そうだ、緋寒桜があった。が…あ、すみません。これって本土の人が見ても、美しいものじゃありません。それでも、うちなんちゅーに連れられて北部に行くときは、路脇でタンカンを買うといい。個人的にはクガニ(黄金)のほうを薦めたいが、種が多い。

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2004.01.02

雑煮の作り方

 正月なので雑煮の作り方を書く。最初に断っておく。正確な作り方ではない。我流だ。必要なものは、カツオのダシパック、薄口醤油、みりん、餅、小松菜、鶏もも肉、蒲鉾。ニンジンはあってもいい。準備は、ニンジンを薄切り半月で小松菜と一緒に最初に湯通ししておくことくらい。鶏もも肉は食いやすいように切る。炙っておけるならそうするといい。餅はかならず焼き目を入れる。
 ダシ汁を作る。2人分なら400CCくらいか。パックを入れて2分も煮立てればいい。ダシについてはうるさく言う人が多いがそんなことを気にしていては料理が煩瑣になるだけだ。気にしない。鶏肉を入れ、火を通す。ダシ汁に薄口醤油と味醂を大さじでそれぞれ半分ほど入れる。あとの具を全ていれて、熱くなれば終わり。料理とも言えないようなしろものだ。雑煮とはそんなものだ。手間をかける食いものじゃない。
 醤油は薄口がいい。たいていの日本料理は薄口でいい。なのに、なぜか醤油は濃い口のしかも戦時醸造が日本の主流になった。みりんはできれば3年ものがいい。いんちきな発酵調味料とやらに比べると安くはないが酒に比べれば安いものだ。みりんで日本食の味が決まる。餅はちゃんとした餅がいい。ちゃんとした餅がわからなければ、この時期、和菓子屋で売っているのし餅がいいだろうが、量が多すぎるかもしれない。蒲鉾には選択の余地はない。できれば、物にもよるが昔ながらに作っている沖縄のものがうまい。

cover
京料理の福袋
 当たり前のことだが、雑煮は具を単純にすればお吸い物になる。お吸い物にしても味噌汁にしても、きわめて簡単にできるものだ。もともと、家庭の日本食は手間をかけるものじゃない。20分でできないような料理は失格だ。
 雑煮と言えば、村田吉弘「京料理の福袋」にある「雑煮の難儀」というエッセイが面白い。この料亭の三代目は芋頭入りの雑煮を毎年食わされたという。嫡男なので「かしら」を食わされるのだ。でかいらしく、それを3日かけて食うという。食べきれなければ残りが連続して出てくるのだ。

もし、あなたが長男なら、お気の毒なことですわ。あの、誇らしくもみじめな雑煮。

 村田は雑煮について、楽しい記憶はないという。芋を食うたなぁという記憶だけらしい。立派なものだと思う。嫡男というのはそうやって育てなくてはいけないと思う。嫡男というのは、父親の葬式を出し、老母と弟・妹の面倒をみることのできる人間ではなくてはならない。つらいものだが、運命だ。
 私は嫡男である。祖父が嫡男ではないので、一族郎党の主ではない。父は、戦後で順送りで長男となったので、戦後は長男の役を果たしたが、故郷は捨てた。親を捨てたと言ってもいいかもしれない。そのスキを見て叔父は父が生きている内に家の財産をくすねた。盗人である。が、父はそれを知って耐えた。耐えることで長男たることをことを示した。父は墓を分けた。静かな怒りである。父の死後、叔父が私に勝手を言うので、私は激怒して縁を切った。私が正嫡なのである。私は村田のように嫡男の教育を受けたわけではないが、父が嫡男であればその嫡男は嫡男になるものだ。いくら武家の血を引くからといって、まさか自分自身がそういう古めかしい倫理を持つとは思わなかったが、気が付けばそうなった。私は単純に正義を愛する人間だが判官贔屓ではない。頼朝の立場に立つ。天武天皇を認めない。嘘歴史だと知りながら弘文天皇を是とする。あきれたものだと自分を思う。
 元旦、実家に挨拶し、手持ちぶたさなので、昔の書棚から氷川清話を取り出してぱらぱらと読んだ。氷川清話は講談社文庫のものがよいが今絶版だろうと思ってネットにあたると、学術文庫から出ている。日本も捨てたものではない。読みながら、小吉は鱗太郎を嫡男して育てているなと思う。小吉自身は妾腹三男だったが、夢酔独言にはその父が小吉を人としてまっというに生きさせるためにこっぴどく叱る話がある。書棚には夢酔独言があるはずだが探すのが面倒になった。南州遺訓も書棚の奥のようだ。まあいい。それよりもと思い、父の墓参りに行く。
 雑煮の話からそれまくった。お年取りの飯の話なども書こうかと思って書き出したのだが、やめにしたい。

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2003.12.31

世田谷一家殺害事件を思う

 新聞各紙社説を見ながら、各話題はそれほどつまらないでもないと思ったが、結果としてひどく落胆した。あえて昨日書かなかった。今日まで待った。一紙でもいい、世田谷一家殺害事件をテーマにせよ。心から祈るような思いだ。だが、今朝に至り、一紙も触れていない。てめーら本当に社会の公器なのか。落胆と絶望感をごまかすために、そう息巻いてみたい気もする。かつてTBSで筑紫哲也は「今日テレビは死んだ」とかぬかしたが、その後ものうのうとゾンビになっているように、今日、新聞はゾンビになったかと思う。誰か、額にお札を貼れよと思う。ああ、オレがそうしよう。
 Yahoo!のニュースを覗く。特集がある。「世田谷一家殺害事件」(参照)だ。昨日の午後に共同で「犯人は生活臭ある若い男 世田谷の一家殺害から3年」というニュースが入っているものの、3年という以外にニュース性はなく、つまり、メディアの用はない。社説もネタに困るし、修辞に慣れた爺ぃどもが嘘くさい正義の言辞を振り回すのも醜悪なので、自己規制したのかもしれないと皮肉も言いたくなる。もちろん、それは八つ当たりだ。
 Yahoo!の編集上の問題かもしれないのだが、読売と毎日の特集へのリンクがある。開いてみて、また落胆するのは、それが去年のままだからだ。他のニュースのリンクを開いても、はっとするようなことはなにもない。毎日新聞系のニュースではこうある。


東京都世田谷区の会社員、宮沢みきおさん一家4人殺害事件から3年がたつのを前に、宮沢さんの父良行さんが23日、埼玉県にある一家の墓を訪れ、冥福を祈った。

 おいまた「冥福」かよという思いの前に、親たるものが今、なんの社会的な解決も見ずに冥福など祈れるものだろうか。記者は親の思いを多少なりおもんばかってこの文章をなしたのか。新聞記事の常套のレトリックなのではないか。怒る気にもなれない。新聞記者などにはおよそ文章は書けないのだなと皮肉を追記しておこう。
 関連の遺族・支援者のHPを開いて、自分の無力さにさらに落胆する。言葉もない。週刊新潮がこの問題にしつこくガセのような記事を書いているが、あえて言う、ガセでもいいからこの問題を忘れてはいけないのだと思う。
 こうした無気力感をさらにひどくしているのは、坂本堤弁護士一家殺害事件の記憶だ。随分昔の気がするが、1989年のことだ。年が明ければ15年になるのか。昔と言ってもいいのかもしれない。今の20代の人には、この事件とその後の社会とメディアの臭いはわからないだろう。私は忘れない。当初多く騒がれて、そして解決の糸口もなく社会は無気力になっていった。この事件は解決しないのではないかという思いが社会を覆っていた。しかし、解決したのである。その時点からこの事件を見てはいけないと私は思う。あの無気力な絶望感からこの事件を見るべきだ。
 坂本堤弁護士一家殺害事件もひどい事件だった。今にしてみれば悪いやつはオウム真理教ということになる。そう言えば、アレフの人々は今でも理屈をこねるだろう。裁判ですら、正当な法を遵守して麻原彰晃を罪することができるかわからないとも言える。言えば言える。だが、本当に悪いのは、神奈川県警本部である。もっと言う。大悪人は、当時の刑事部長、古賀光彦、オメーだ。そしてこんな恥知らずを栄転させていった警察庁は最低だ。恥を知れと言いたいところだが、私にはそれほどの倫理はない。つまらぬ余談をするが、若い女が援交といって売春をする。水商売で金を稼ぐ。なにが悪いとほざく。私は密かに思う、「恥」。警察官も同じだといえば、地面を這うような現場につばを吐くことになるなとも思う。
 小林よしのりについて、多くの人がなんだかんだという。私も彼とは思想が違う。だが、一点彼を理解すると極東ブログで書いた。もう一つ忘れていた。彼は、この迷宮化した当時、堂々とオウム真理教を糾弾して見せた。まだ江川紹子をフォーカス(これも新潮だったな)がときおり支援する以外、私が知る限り、メディアで堂々とあの事件の糾弾に乗り出した人は小林よしのり以外いなかった。立派だと思う。
 そう書きながら、自分が世田谷一家殺害事件への無力さに修辞で逃げているなという思いがする。だが、忘れてはいけないのは、それが正義への希求であり、なにより今の日本の社会の根幹となるべき正義への希求だからだ。青年が正義を疑うのはいい、社会が正義を信じているうちは。社会の側は正義を希求しなければならない。およそ、社会と言葉で向き合うものは、正義を忘れてはならないと思う。社説執筆者たちよ、恥よ。

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2003.12.14

児童養護施設をどうしたらいいのだろう

 率直な話、児童養護施設をどうしたらいいのだろうか、私にはわからない。頭の痛い問題だ。朝日新聞社説「養護施設――地域とつながる好機に」は、その視点を投げかける点で評価したい。最近の社会問題としての背景はこうだ。


 社会保障審議会の「社会的養護のあり方に関する専門委員会」の報告を受けて、厚生労働省が大規模な施設から、子ども6人程度のグループホームや里親など家庭的な養育に転換する方針を打ち出した。
 欧米先進国ではすでに大規模施設ではなく、里親やグループホームが主流になっている。これらの国々から20年以上も遅れたとはいえ、子どもの人権という視点に立って、戦後半世紀ぶりに施設が生まれ変わることを歓迎したい。

 朝日の言い分を聞いていると、ほほぉ、いいじゃないかと思えてくる。もちろん、些細なことを別にすれば悪いわけでもない。
 ただ、朝日も記しているが、この問題はそういう視点から見えないのだ。というのは、問題化されているスコープがわざとらに小さいのだ。現在日本では、約3万人の子供たちが550の児童養護施設で暮らしている。1施設60人になる。
 60人はなんだかなと思うが、問題は3万人のほうだ。これが上限なら、朝日のような美談調の説教もいいだろう。だが、社会を見渡せばわかるように、本当は家庭から引きはしたほうがいい子供の潜在的な数はこの何倍もあるだろう。「引き離したほうがいい」などと軽く書いたが、単純にはそうもいかないし、現実的には現体制ではは無理だ。
 と、書いて、ここで始めて気が付いた。私はうかつだった。社会保障審議会の真意はそこにあるのか。つまり、今後家庭から放逐される子供の組織的な受け皿を作る試みなのか。
 私はひそかに高齢化社会も悪くないなと思っている。その一つは、現在のマスメディアのイメージだと、老後の暮らしが心配だわという貧困のイメージで捕らえているが、金持ちの老人がこれからわさわさ増える。それほど長く生きられもしないのに、そんな金握ってどうするかといえば、子供を金でふん縛るとか、子供をアッパーな階級に送る算段でもする。愚かだ。だが、歳を取った人間はそれなりに愚かでない者もちゃんといる。私はその存在をある社会的パワーとして信じている。彼らが、家を開放するのではないかと期待している。子供や青年や外人を受け入れる家がその内増えてくるのではないだろうか。いつも、絶望で締める極東ブログだが、金子勝のような芸風ではない。希望も書いておくのだ。

2003.12.14 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

農業の所得の直接補償はばらまきでいいじゃないか

 朝日新聞社説「FTA――農業で身を切る覚悟を」はやや意外だった。かなり意外だったというほどでもないのは、標題が明確なのに内容はぼよ~んとしているからだ。朝日お得意のサヨク・反米の文法で読み取るのが難儀な文章だが、深読みはこの際どうでもいいだろう。
 意外なのは、朝日が農業を切るだけの腹をくくったかということだ。そうではないことは、文章のぼよよんでわかる。しかし、本音はそうだ。


総選挙ではどの政党も、高関税や補助金で農家を守ってきたこれまでの保護政策から、所得の直接補償に切り替えていくと公約した。世界貿易機関(WTO)が認めるやり方に変えていこうというのだ。
 問題は、それが自民党の農水族議員らの横車で従来型のばらまきと変わらないものに終わる懸念が強いことだ。

 率直に言って問題の根が深すぎて、簡単にコメントできそうにない。後段、農水族議員云々の話はどうでもいい。所得の直接補償がばらまきを意味するのは現実を知る人間ならわかる。私が何を逡巡しているかというと、日本の地方をどう守るかだ。FTAは日本の存続の要になる。だが、日本の地方をこのまま崩壊させれば、日本がなくなる。妥当なところとしては、地方には税を優遇し、ある程度金をばらまいてもいいのではないかとすら思う。
 朝日の次の言い分はおためごかしだ。

 意欲と能力に満ち、みずからリスクをとる農家に耕作地を集中させる。企業の農業参入も促進する。農産品の流通の大部分をおさえ、補助金の受け皿にもなっている農協の改革を早急に行う。

 これがオヤジの言うことかね。こんなことを言う青年を殴ってやるのがオヤジの役目ではないか。嫌われ覚悟で端的に言う、農家はリスクが取れないのだ。そのインテリジェンスがない。馬鹿な理想をこているんじゃない。足下を見ろ。朝日新聞の社員を下放したほうがいい。
 嗚呼。嘆息するなぁ。サヨクっていうのは、どうしてここまで農民の実態がわからないのか。もちろん、現在の日本に農家など実際にはいない。だが、農民はいる。農民というのは階級なのだ。この階級という言葉が、長いことマルクス主義者に完璧に誤解されてきた。
 階級というのは、クラスだ。そしてそのクラスというのは、Javaのクラスと同じなのだ。けっして貧困層でもなければ、労働者でもない。そう、労働者ではない。労働者とは生産のリソースを持たないクラスを指すのだ。Javaを囓った人間ならクラスの意味がわかるだろう。クラスが定義されてインスタンスができる。個々の農民というのは、インスタンスなのだ。
 マルクスの資本論は本当に左翼に読まれてきたのか? レーニンのようなお銚子者の実務家というのは歴史には必要だが、彼はけして理論家ではない。エンゲルスは解説者であってマルクスの思想を知っているわけでもない。マルクスは生産のリソースを持たない労働者というクラスを社会主義革命の起点とした。だから、敵は資本家だけではなく、生産リソースを持つ農家も含まれるのだ。農奴なんておためごかしの概念を出すんじゃない。その点、スターリンは農民が敵だという単純な骨太は理解している。だから、農民を虐殺したのだ。そんなことが社会主義の理想とどうつながるかなどわかってもいなかったが、レーニンのクーデターが社会主義革命だと思いこめば、その理想に実態を合わせようとしただだけだ。ま、そんな背景話もどうでもいい。
 農民というのはクラスだ。だが、日本という超資本主義の世界ではそれらはもはや階級闘争的な問題ではない。もちろん、それではナショナルな問題はどうするのかという問いはあるだろうが、ああ、ややこしいが、農民を滅ぼせば日本を失う。

2003.12.14 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.12.12

なんとなく思う脳機能のこと

 日付上は昨日になるが、11(木)ラジオ深夜便午前1時「人権週間インタビューシリーズ『本当の自分を生きたい』」で埋橋里衣さんが話された「"覚えられない私"を知って!」が興味深かった。外観からは普通に見えるのだが、高次脳機能障害を負って生きる話がたんたんとしているものの痛切に感じられた。
 私は高次脳機能障害の定義がよくわからない。手元のメルクマニュアルを引いても載っていなかった。メルクはあまりこういうシーンで役に立たないことが多い。ぐぐると、毎日新聞のサイトの「ことば」にあった(参照)。


高次脳機能障害
病気や事故などの外傷で脳が複雑なダメージを受けた結果、脳の高次機能である言語・記憶・感情等の機能に生ずる障害のこと。脳神経のつながりが絶たれるなどして、記憶力や注意力が低下したり、感情がコントロールできなくなったりする。従来救命が難しかった症例でも医学の進歩で意識回復できるようになったために、生まれた「新しい障害」とされる。

 最後の文章が間違っているようにも思う。だが、今回はそれは問題としない。気になるのは、言語の障害が筆頭になっていることだ。これには、「日本失語症学会」が「日本高次脳機能障害学会」と改名したことの影響があるのだろう。国内におけるST(言語聴覚士)との対応も気になるが、今一つよくわからない。ただ、率直な印象だと、現在の日本社会における高次脳機能障害の問題は、言語治療とは一線を画すだろう。現状のままでよいのだろうか。
 社会的には高齢者の脳卒中の後遺症のように思われているふしがあるが、交通事故などが原因で若い人にもある。支援団体「高次脳機能障害若者の会『ハイリハ東京』の主張」(参照)は参考になる。

中でも、自分の人生をこれから築くという時期にある、「若い世代の高次脳機能障害者」は、多くの障害に取り囲まれています。

 こうした問題をどう社会的に考えていけばよいのかよくわからない。
 話がかなり脱線する。こういう脱線はよくないのかもしれないが、自分も30代から40代後半に差し掛かり、若い時とは脳の働きが違うなと思うことがある。よく言われる記憶力の低下や集中力の低下もある。それは日常に支障を来すわけでもないし、健全な老化の一端と言えないこともない。むしろ、私などは、若いときはこういうのは恥ずかしいことなのだが、強い感受性で苦しんだので、老化による鈍化でちょうどいい。気になるのは、そうした一般的な話ではなく、なんというか、物の考え方や関心の脳処理が、もどかしくうまく言えないのだが、歳とともに変わってくる感じなのだだ。多分に脳の劣化なのだが、たんに劣化なのかもよくわからない。
 先日三島由紀夫が自分の歳に自殺したことに気が付き、ああ、この歳だったのかとも思うのだが、歳とともに、自分の、魂とでもいうのかなにかが変成してくる。魂というより、端的に脳機能だろう。日常の些細なこと、記憶の遠近感が狂う。10年昔と20年昔がきちんと遠近法的に記憶されていない。なぜ生きているのかといったなんとも根元的な悩みが、常時きつく脳に負荷をかけているようだ。もっと端的な話、なぜこんなブログを書き始めたのかも、脳の問題が関係しているような気がする。
 4か月ほどブログを続けて思うのは、一面ではある苦しみから解放されたことだ。脳がすっきりというのではないが、それなりに世界に向き合ってその不正の怒りを言葉にして確認しないでいることが実存的な苦痛だったと気が付いた。
 もう一点は、自分の多面性を表現せずにいられない。そんな多面的な人間でもないと思うだが、自分の内部の人格とまでもいかないまでも、知的な志向を、ある意味、野放図に開いてみたいとも思っていたようだ。ブログとの関連はそのくらいだろう。
 しかたがないなというレベルの脳機能の微細な変化もだが、もっと危険な変化を内包しているような恐怖も感じている。うまく言えないのだが、人生の過程でおそらく誰でも、ある程度、人間というのは孤独なものだと胸にひりつくように得心するものだが、それがそれで終わらない。精神的に苦しい。もちろん、社会関係や各種の直接的な愛情のつながりのようなものが私にもある、というかそれをよすがに生きているのだが、どうも、その孤独は脳のなかで現実の知覚や処理に悪い影響を与えているような気がするのだ。
 高次脳機能障害の話の文脈にまぜるような述懐でもないのだが、高次脳機能障害者の問題の話を聞いていると、それとは違うがそれに似たなにかが自分に、いつも、思い当たる。

2003.12.12 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.12.10

ごく個人的な述懐

 以下、つまらぬオヤジ(私)の述懐である。説教ではないがつまらなさの点で説教に匹敵するのが述懐というものである。と、冒頭に謝辞を書く。さぁ、センター試験以降の世代のみなさん、ここでバックせよ。
 述懐の内容はというと、岩月謙司の「女は男のどこを見ているか」(筑摩書房)だったかに、「男は歳を取るにつれ魂が清められていく」というのがあったが、そういう話だ。もちろん、魂が清められるとか言われたら爆笑してもいいだろうと思うし、岩月謙司とか中谷彰宏とか読むなんて知性が疑われるぜというのも当たりだろう。ま、しかし、この手の読書も一種の愚行権の行使のようなものだ。
 ただ、たぶん、それでも、42歳の厄年を過ぎた男なら、「男は歳を取るにつれ魂が清められていくものだ」と言われて、心のどこかで、そうかぁと思う部分があるだろう。もちろん、単純に肯定するわけじゃない。肯定なんかできっこねーよというくらい世事に汚れて生きていたなと思うものだ。が、そういう汚れたなという思いの後ろのほうに、どっかしら「魂」みたいなものが生きている。「男なんてものはしょーもない、いつまでたっても子供だなと同じ」くらいに女は思うのだろうが、そう思われたって、どうしようもない。
 週刊朝日のくらたまのエッセイに、30過ぎの女の目として、子供と遊んでいる父親の男っていうのも悪くないなぁみたいな話があった。彼女に言わせると、10代、20代にはわかんなかったよなということらしい。日本の世の中はこぞってお子ちゃま志向だから、女も男も若いのがいいのかもしれない。特に男なんか老けた女なんか嫌だと思う人も表向き多い。実際は人間の魅力というのは複雑なものだ。誰だったか女のエッセイで、よーするにチンコが合わないとどうしもようないというのがあったが、そういう人間観だってある。
 で、なんの話だっけ、そう中年男の魂ってやつだ。普通は仕事で磨かれるとか思うかもしれないが、多分に、子供や女との関わりで磨かれてくるものじゃないかと思う。そうかよと突っ込まれるとそれほど説得力もないのだが、で、それがうまくいかないというのは、生きてみて思うのは、端的に言って、酒と権力だなと思う。
 権力のほうは、金と地位に分けてもいい。酒と権力のなかに溺れて、男は魂を失っていくのだ。なんて甘っちょろいことを言っているのだ、俺はとも思うが、しかし、酒を止めて2年以上経つ。そして、回りにぼろぼろと酒という戦場で崩れていく男たちを見ると、そう思う。男が酒で死ぬっていうのは、とてもまっとうな死に様なんだろうなとも思う。
 権力は複雑だ。もともと男は権力がなくては生きられないのだ。というか、そう思い切ることが青春との別れのような気がする。すでにそれを吹っ切った人間はいくら実際の歳が若くても、オヤジの相貌になってしまう。権力の怖さはそれに麻痺していくことだ。もちろん、自分が行使する権力もだが、実際の社会の権力は自分に根ざしていないから権力の網になる。つまり、自分も権力下に置かれるということだ。そこにある種の快感を持つあたりで、男は壊れていく。
 俺はそういう権力から逃げた。そして、逃げたことにすごい罪責感がある。その罪責感は権力の毒と同じだ。でなければ、こんな述懐は書かない。

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暗室
 ところで、女というものは難しい。女は常に両義的んだ。女につぶされていく男もいる。女の怖さというのは、そら恐ろしいものだと書いてみて全然表現にならない。吉行淳之介のように、古今東西女は怖い、東西南北女は怖い、春夏秋冬女は怖いと念仏をしても、まさに吉行のように撃沈されるのだ。この歳になってみると、若いころは、なーんてエロと思った小説、「暗室」「砂の上の植物群」「夕暮まで」なども、エロではなく、女に滅んでいく男の姿なのだ。噂の真相に池澤夏樹に愛人というのがあったが、ガセでもそう書かれて、そーかもぉと思えるあたり作家というのはすごい。なに、渡辺淳一先生はもっとすごいか。
 栗本慎一郎が昔、「女は個別のトランザクションである」と言っていた。なんとも謎めいていて意味不明に近いが、男のトランザクションはルールであったり原則だったりするのだが、女のトランザクションはその場その場なのだ。で、トランザクションってなんだ?なのだが、この文脈では男女の交渉といってもいいだろう。不思議なことに、変わった男というのはどこから見ても変わった男なのだが、変わった女というのは必ずしもそうではない。女に個性なんかあるのかよと男は思いがちだが、誰も理解できないような孤立した男を女は個別にこっそりと理解する。男も女も性をタイプで見てしまいがちだ。「こういうタイプがいい」とかいうわけだ。だが、女はこっそり抜け駆けをする。原則がない。男は原則に拘束されてしまう。ロリコンというのもどういう心情なのか私にはよくわからないが、そこに男の性を拘束するようなものとして存在しているのだろうなという直感は働く。萌え萌えによって、実は、自己を拘束しているのだ。もっとも、女も似たようなものでもある。酒井順子がいまさら結婚するなら、ロイヤルストレートな男でなくちゃいやだとか言う。ま、彼女の商売らしい物の見方だと思う。だが、実際にはそういう理想は現実には存在しない。理想はただ自分を拘束するだけだ。
 で、話はどうなるのか。もう終わりだ。オチもない。魂の浄化はどうなったか。ま、いいじゃないか。どうでもいいが、鴨ちゃんの「南の島で」に泣けるなぁ。

2003.12.10 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

「コレステロール」にご注意

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私は薬に殺される
 駅前の本屋にぶらっと寄ったら「私は薬に殺される」(幻冬舎・福田実)が平積みだった。話は、医師に処方された中性脂肪・コレステロール降下剤の副作用で横紋筋融解症(参考)となり、骨格筋細胞の融解・壊死が進行した人の話だ。もちろん、話の仕立ては生活の苦しさや裁判などが盛り込まれている。売れているのだろうか。幻冬舎なのである程度の市場の読みがあるだろうが。ちなみにアマゾンには読者の評として「安直なFUD(fear, uncertainty, doubt)的企画本」というのがあって批判的だった。
医療に対する不安感をFUD的手法をもってあおるのは簡単だろうが、~~現実に苦しんでいる患者の役に立つとはとても思えない本である。一般読者には本書より、むしろNHK出版「今日の健康」を購読するなどして積極的な情報を収集するほうが良いのではないだろうか?~
 世の中いろんな見方をする人がいるなと思う。それと、「今日の健康」というのはそれほど有益なものだろうか。  話を被害者に戻す。問題を起こした処方(ジェネリック)を見ると、当初「ペザフィブラート」で、それに「プラバスタチンナトリウム」を追加したようだ。それを見て私は、あれ?という感じがした。  最初の処方時の状況を見直すと、コレステロール値は257とたいしたことないが、中性脂肪は651と高い。ペザフィブラートの処方はそこに着目したためだろう。ただ、フィブラート系で長年利用されてきたし海外評価も高いクロフィブラート(1965年認可)ではなくベザフィブラート(1991年認可)が選ばれているのはなぜだろうか疑問がある。それと、中性脂肪は一日の内でも変化しやすいので、再検査する気はなかったのだろうか。だが、それらの疑問はあれ?というほどでもない。  あれ?の最大の理由は、フィブラート系とスタチン系の併用についてだ。この併用は薬剤師なら誰でも知っている禁忌なのに、なぜそんな処方がされていたのだろうか。そんな馬鹿なという感じすらする。  この禁忌の情報は比較的最近に出たものだったっけかなと、ちょっと調べなおすとそうでもない。ちなみに、この副作用を扱った「医薬品副作用情報 No.112」(参考)の発表年は1992年。ベザフィブラート認可の翌年だ。被害に遭われた福田さんが処方されたのは7年前というからすでに、禁忌情報は行き渡っていていいはずだ。初歩的なミスだと言っていいだろう。  スタチン系の薬が追加されている点にも時代的なものを感じる。「プラバスタチンナトリウム」つまりメバロチンは1989年に発売、1993年には国内医療用医薬品として初めて年間売上1000億円を越えた。もともと日本が開発した薬ということもあって当時の厚生省も随分がんばった。動脈硬化学会もメバロチンの発売に合わせてそれまでコレステロールの正常値250を220まで下げたので、日本国中高脂血症患者ができた。  薬学的に気にかかるのは、横紋筋融解症の副作用は当面の問題としては、フィブラート系とスタチン系の併用なのだが、どちらにより問題があるかといえば、すでに一昨年のセリバスタチン(バイエル)の回収からもわかるように、スタチン系にその薬理が潜んでいそうだ。スタチン系薬剤による横紋筋融解症の発現頻度は0.5%以下と言われているが、潜在的な危険性は高いののではないだろうか。薬理学会に北海道薬大・薬理・市原和夫氏による「スタチンと心疾患予防 」(参考)と題する興味深い話題が掲載されていた。
 生体細胞内でメバロン酸経路は,その細胞の生命維持や機能発現に重要な係わりを持つ多くの物質を産生する.コレステロールでさえ,生体に必須な物質である.スタチンは,メバロン酸経路の律速酵素であるHMG-CoA 還元酵素を強力に阻害する.したがって,薬理学をかじった者であればその当初からスタチンの多面的作用に気付く.筆者は,水溶性スタチンと脂溶性スタチンの相違について1993年に第1報を報告した(J Cardiovasc Pharmacol 22, 852-856).  同年,スタチンによる動脈硬化改善を観察した最初の臨床試験が報告された(Ann Intern Med 119, 969-976; Circulation 89, 959-968).肝臓細胞膜に存在する有機アニオン輸送担体にその細胞内移行を頼らざるを得ない水溶性スタチンと異なり,細胞膜透過性に勝る脂溶性スタチンはあらゆる臓器・組織の細胞内へ移行し得る.
 現在スタチン系の薬剤はアスピリンとならんで各種の効果の研究が進んでいるがそれだけ、身体全体に関わる効能を持っていると見ていいだろう。当面の問題としては確かにセリバスタチンのような脂溶性のスタチンの危険性は高そうだ(メバロチンは水溶性)。  いずれにせよ、スタチン系薬剤の副作用が現在考えられているより高いかもしれないとすれば、できるだけその潜在的な被害を減らすべきだし、端的に言って、コレステロールの基準値はもとの250に戻すべきだろう。  たまたま今週の「週刊朝日」を買ったら、「医学界の「タブー」徹底検証 脂質栄養学の専門家が問題提起 コレステロール『高い方がいい』の衝撃」があって読んだ。なにが徹底検証だよというお粗末な内容。徹底検証ならもっと検証しろよと思う。いずれにせよ、特に高齢者の場合、220を基準にコレステロールを下げることは危険だし、リノール酸も問題。記者は賛否両論併記のつもりだろうが、そうすることで、脂質栄養学会の成果に実質無視しているに等しい。なんでこんなつなんない記事になるのか呆れるが、リノール酸やトランス脂肪酸の問題など、おまえさんたちメディアがタブーを作っているのだと思う。呆れたことに、ついでだが「買ってはいけない」系の人々はまるで脂肪酸についての理解がない。「安全な食品」を標榜してマーガリンを入れるのかよっていう感じだ。

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2003.12.08

スプーンの話

 新聞各紙の話題は私にしてみると蒸し返しばかりだ。ニュースでは予想していたがメキシコのFTAが年内締結が困難という話題に落胆した。今日がどんな日かという話題も昨日書いた。というわけで、スプーンの話を書く。そう、食器のスプーンである。
 邱永漢「もしもしQさんQさんよ」の「食器にお金をかけています」という話が面白かった(参考)。と、のっけから余談になるが、そろそろネットでも「邱(きゅう)」という漢字を使うことにする。古いパソコン機種では第二水準までに含まれていないが、こうした制限に固執する時代でもないだろう。
 話は題名のとおり、家の新築の話の流れで食器にも金をかけているということだ。簡単に言ってしまえば、金持ちの話なので庶民にはピンとこないのだが、邱さんの金持ちレベルになるとそこいらの金持ちではないので、ここまで抜け切ると話は面白い。


 私の家で紙コップを使ったりすることは先ずありません。ナイフやフォークや箸や器が立派なものでないと、折角、心をこめてつくった料理の味が冴えなくなってしまうからです。
 私の家ではナイフやフォークは、ジョージ・ジャンセンとクリフトフルともう1つ、イタリア製の純銀の物を使っています。

 私は金持ちではない。多分、人生の落伍者でもあり金には縁がないだろう。だから、食器に金をかけることはできないし、一点豪華主義も趣味ではないのだが、量は食わないが味にうるさい食いしん坊なので、その延長で食器に気を遣うことはある。特にナイフとフォーク、そしてスプーン、つまりカトラリーだ。これが日本ではとても困る。銀製のものはレストランや金持ちのニーズもあるせいか、ある程度金を出せば買えるのだが、私は別に銀製のものがいいとは思わない。むしろ持ち手のところが金属というのが好きではない。困るのは、いい重量感ときちんとした面取りの仕事がされているカトラリーが少ないことだ。見てくれはどうでもいい。機能性を重視するのだ。
 いろいろ意見もあるだろうが、カトラリーにはある程度重量感がないと所作に落ち着きがでないし、その落ち着きがないと食事自体がうまくないのだ。なにも重ければいいというのではない、もった時や動作している時の重心の位置も問題になる。ある意味、靴と同じで重くてかつ重心のバランスを取りやすいほうがいい。
 重さの次に気になるのが、スプーンで口にあたる部分の面取りの作業がきちんとされているかということだ。これがしっかりできてないとスープがうまくない。実感としてはスプーンの違いでスープの味が変わる。
 とま、こう書いていて実に自分が細かいことが気になる嫌ヤツだと思うのだが、毎食イライラしているより、いいカトラリーを見つけたほうがいい。同じような悩みを持っている人もいるかもしれないので、私の場合の解決を簡単に書いておくと、結局アメリカ製品を購入した。やはり使い込まれた文化のものがいいようだ。
 食事用のある程度まともなスプーンもだが、ティースプーンもけっこう大変だ。100円ショップのせいか、コスト減が進むのでこの手の小物が手作りではなくなってきている。高価な品物はくだらない装飾が多い。困ったことだなと思う。ティースプーンと限らないが、気のせいか東急ハンズでもなかなか気の利いた小物が手に入らないと思うことが多い。となるとネットということになる。こうした傾向はしかたがないのだが、これもなかなか面倒なものだ。
 食器については一点一点はどうということはないが収納の問題があってまともに揃えることはできない。さすがに紅茶カップと抹茶茶碗はある程度まともなものにしないと茶を飲んだ気にならない…と、その手の話はうざったいので切り上げよう。この手の問題になると多分に趣味の問題になる。
 ついでに調理器具の話…というのもまたの機会としたいが、ついでなので人に勧めたいのは分厚いフライパンだ。中華鍋とは別に底板の厚いフラットなフライパンがあると、目玉焼きが格段にうまくなる。大げさに言うと朝食が愕然と変わる。その他、簡単なソテーでもかなり味が変わる。この手のフライパンは2万円くらいとお高いのだが、それだけの価値がある。一つ買えば一生物なのになと、他人の台所や料理を見ながらいつも思う(もちろん、黙っているけどね)。

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2003.12.07

アスピリンとCOX-2阻害薬

 新装開店極東ブログになってからお約束の薬学系の話がないので、ちと追加する。
 先日なにげなくNHKの「今日の健康」というような番組を見た。健康番組はあまり見ないのだが、テーマがアスピリンの新しい効能といったようなものだったので、ちょっと気になった。話は3点だった。1つ目は従来からの鎮痛作用。2つ目は血小板凝集の抑制で血栓の再発を予防する話。3つ目はCOX-2を阻害することによる大腸癌予防だった。この分野をワッチし続けている私としては特にどってことない話だし、それ以上のことをNHKに期待するわけでもない。ただ、細部で変な印象を受けた。
 まず血小板凝集の抑制による血栓再発予防だが、これに少量アスピリンが処方されるようになったのは一部の有能で良心のある医者以外はごく最近のことだ。なにしろ、この用途には薬価が決められていない。つまり表向き処方できないのだ。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるなと思ったものだ。さすがにこの事態は改善された。余談だが、小渕総理が卒中でなくなったおりtPAではなくウロキナーザなど使っているのを見て、ぎょっとしたというか、悪い意味で日本の医療は公平なものだと理解した。私は自分自身を冷静に見ると卒中で死ぬ確率も高いので人ごとではない。そういえば栗本慎一郎もその点ではうかつだった。彼の40台くらいの著作に自分の血は濃いのだみたいなことを自慢げに語っていたが、やばいよと私は思っていた。その通りになってしまった。彼も当時は少量アスピリンについては知らなかったようだった。
 欧米ではこの用途にバイエルの腸溶81mgを利用する。ジェネリックも多数で出ているし、歴史的経緯からアスピリンはOTCの代名詞のようでもあるので入手しやすい。日本ではどうなのだろうか。ざっとOTCを見渡してもよくわからない。詳しく調べてないので、ブログならではの放言になってしまうかもしれないが、OTCには存在していないのではないか。なお、ご存じだと思うが、小児用バッファリンはアセトアミノフェンであって、期待される効果はない。余談ついでだが、先週のSPAによくきくOTCの特集のようなものがり、薬剤師の監修が入っていたが、ちょっとこれはないなと思った。日本のOTCの状況はSJS(スティーブンス・ジョンソン症候群)問題がより健在化するのではないだろうか。といって、ようやく解禁になるドンキホーテでのTV電話による夜間OTC販売やコンビニでのOTC販売を止めろという意図ではない。
 NHKの話でも腸溶の少量アスピリンは処方薬扱いのようでもあり、人によっては安易に利用しないようにとも言うところを見るとOTCのようでもあり、判然としなかった。変な印象の一つはこれだ。
 もう一点は大腸癌予防だ。欧米ではすでに常識であり、その用途に一部サプリメント化している実態もある。NHKはそれを想定しての話なのかよくわからなかった。ただ、「そういう機能が見つかりました。その背景はCOX-2阻害です」というさらったした感じだった。そんなことだけのためにNHKで放送する意味があるのだろうか?
 話が前後するが欧米では腸溶の少量アスピリンがサプリメント化しつつあるが、卒中の再発予防よりも最初の発作の予防という用途も見られる。まして、大腸癌予防効果もある。さらにごく最近の研究成果だが胃癌予防の効果も期待できそうだ(Journal of the National Cancer Institute, December 3, 2003.)。薬学的な課題としては、これらの主要な機能はCOX-2阻害だけに由来するのかはまだはっきりとはわかっていない。
 とはいえ、ある程度COX-2阻害をうまく誘導できれば、これらのベネフィットが得られる可能性も高い。幸いにしてというか最低にしてというか、国内に存在するCOX-2阻害剤の効き目はあまりシャープではないようだ。だが、セレブレックスがOTCで解禁されれば、こうした用途に目をつける人は出てくるだろう。
 すでに厚労省側ではそうした読みもあるのかもしれない。当面は、セレブレックスは鎮痛剤だし、これを先の用途で少量利用するノウハウは確立されていない。
 と、ここで戸惑う。こんな考えようによってはヤバイ話をブログに書いていいのか? と書いているじゃないかとツコッミされるかもしれないし、あえて荒く書いたのでなんのことやらかもしれない。ただ書いているのは、これらはうまく統制すれば、国民の健康にベネフィットになることはかなり確かだと思うからだ。
 現在の、がんの健康食品の大半はアジュバントを使っているが、これと緩和なCOX-2制御を加えてはどうなのだろうか。「免疫力」(安保徹)がベストセラー快進撃だが、その結論がストレスを減らすでは「脳内革命」の二の舞だし、刺絡療法だけに絞られるのもなんだかなという感じがする。現状の医学は抗がん剤治療を志向していてアジュバントはお笑いのようでもあるのだが、まったく希望がゼロというわけでもない。
 たいした展望はないのかもしれないのが、希望がゼロというわけでもないのだ。

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2003.12.06

冬の沖縄

 沖縄に数年暮らしていた。沖縄は多くの本土人のイメージだと熱帯なのだろう。正確には亜熱帯。同じく亜熱帯とされる台北のほうが冬は寒く、夏は暑い。熱帯の雰囲気が知りたいなら、台北から台南まで自強号で降り、鄭成功の館でぼんやりと檳榔でも噛むといい。あの熱帯に比べれば、沖縄本島は小さい島なので、気温も32度を超えることはない。嘘でしょと思う人もいるかもしれないが、気象観測の状況ではそうなる。気温が40度近くまで上がる沖縄の都市部が変なのだ。コンクリ作りの家々にアスファルト道路、そしてエアコンの外気を吹き出すからなのだ。それは沖縄の自然とはかけはなれたものだ。
 沖縄には四季がないと思う本土人も多い。四季は温帯だけだと思っているのか、亜熱帯の気候への感受性がないのか。沖縄にも四季がある。秋の紅葉はないがトックリキワタの花が咲けば秋が深まったことがわかる。沖縄の四季の情感が見えてこなければ、沖縄が生み出す美というものもただのエキゾチシズムにしかならないだろうとも思う。
 沖縄の冬の風景に欠かせないのはばポインセチアだ。庭木に植えている人が多く、けっこう巨木になる。本土ではクリスマスのイメージでしか見ないから北の地方の植物くらいに思われているのだろうが原産はメキシコ。沖縄に近い風土なのだ。鉢植えは本土にも出荷される。仏壇用の黄菊なども本土向けだ。沖縄の人は普通仏壇に黄菊は飾らない。
 もう一つ沖縄の冬の風物詩といえば夜のライトアップだろう。東京の街のように計画された美しさも彩りもないのだが、普通の民家にまるでやけくそのように無数の電球が輝く。不思議な華やかさだし、それにつられて夜遊びをする沖縄の人の光景も面白い。そうそう、沖縄の夜は寒いのだ。沖縄本島には気象データ上は雪が降ったことがないというが、嘘。小雨の来そうな一番寒い晩に久茂地にぱらぱらと雪が降ることもある。
 風物詩ではないがちょうど今なら沖縄でちょっと変な光景を見ることができる。道路脇にやたらと数字が並ぶのだ。82、79、76。ガソリンの安売り看板だ。本土人ならそれがガソリンの価格だと信じられないかもしれない。リッター72円なんてね。年に一度か二度、ふとしたきっかけで、こうしたガソリンの安売り合戦がまるで疫病のように広がる。利用者としては嬉しいので、ちょっとしたお祭り騒ぎになったり、「今どこが安いか」というのが話題になる。この祭りは1つガススタンドがつぶれると終わる。
 ところでなぜ、沖縄のガソリンが安いかって? 米軍と関係ある? その話にはちょっとした歴史を知らなくてはいけないし、まず、屋良朝苗を知っていなくては話にならない。センター試験には屋良朝苗が出題されたことがあっただろうか。

2003.12.06 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

パトカー追跡事故の真相はどうなんだ

 毎日新聞社説「パトカー追跡事故 逃げ得許さぬ態勢作りが先決」が面白いというか腹立たしいというか不快な話ではあったが、重要な問題提起でもあった。問題は、パトカーや白バイが不審車や交通違反車を追跡中に起こす事故の続発だ。毎日の言い分は、警察の威信を高め、さらに追跡の体制を万全にせよというのだ。
 そうなのか。違うんじゃないか。そう思うのは、庶民感覚として思うことだが、最近と限らないが、警察官が変だ。警察官に意外なほど年配が多く無気力なオーラをかましているし、若い警察官はなんだかオズの魔法使いのブリキのロボットのような感じがする反面、なんか感情制御ができてない。もちろん、こういう話をブログのようなうんこ投げまくりのメディアで言うのは危険なのだが、それでも自分の庶民感覚が起点になる。ついでにいうと、毎日新聞の社説が他紙にくらべていつも暴走するのはなぜなのだろうか。
 ブログとはいえ話の筋立てとしては、この問題を警察官にもセンター試験以降の世代が多いからねといって笑いをとってもしかたがない。警察官側に大きな問題があることは、他の不祥事でも明らかだし、神奈川県警を見ても組織的な問題だろうとも思う。
 気になるのはそれではない。毎日の指摘を引こう。


事故が目立つようになったのは一昨年からだ。パトカー側が起こす事故もないわけではないが、ほとんどは追われた車が対向車などと衝突したり、自損するケースだ。追跡を振り切ろうとスピードを出して無謀運転するからだ。

 なぜ一昨年からなのか。こうした問題には3つの視点が成り立つと思う。1つはこの年に社会の構造変化をもたらすなにかが発生した(もちろん、数年のディレイもあるだろう)。2つめはすでに変化の圧力はあり、一昨年前に顕在化した。3つめは事故を浮き出す警察側になにか構造変化あった。
 そのどれなのだろうか。毎日も思慮しないように、通常はこの手の問題は潜在的な問題が顕在化すると考えていい。だが、私の直感にすぎないが、違うだろう。個々の事例の背後からなにか構造が引き出せると思うのだが、わからない。
 この手の問題こそ、社会派のブログとしては、ツッコミレベルではないトラックバックが欲しいところですね。

2003.12.06 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.12.03

パソコン技術の実際上の停滞

 ラオックスに確か中古パソコン館が出来たんじゃないかと思って情報をぐぐってみて、出てこない。名前が違ったようだ。PC EXPOT(ピーシーエキスポ)というらしい。「スポット」を洒落たのだろうがセンス悪いなと思う。明日が開館。ラオックスのサイトを見ると、BOOK館を潰して買い取りセンターを格上げしたような形になる。確かにパソコン雑誌や書籍には往時の勢いがない。悪ぶっていた「ネットランナー」なども、人にもよるのだろうが、もう見る影もない。タブブラウザー特集でSleipnirを今年もベストとかやっているのは、ほとんど紅白歌合戦の世界。中華キャノンあたりが旬だった。来年は「萌え」だけか。パソコン書籍もみんなその流れだだろう。鬱。
 ラオックスの経営戦略が変更になるように、中古パソコンの売買がさらに盛んになる。デフレってやつですか。それはいいことか悪いことか、と考えて、思考が中断する。いい悪いもない。ただ現実なのだ。いまだに新型パソコンは季節ごとに出るのだが、これはもうただのタメでやっているようなものだ。DVDだのAV機能に付加価値を高めるのは、新製品という見栄と単価を高くするためだけ。なにより、もう高性能のパソコンなんて市場には要らないのだ。高性能なのが欲しい人は別のチャネルで買うか、自分でファブリケートしている。
 パッケージもののアプリケーションソフトも悲惨だ。どのくらい悲惨かというと、年末に年賀状ソフトだの、年賀状ソフト特集をする雑誌の存在でわかる。アプリケーション関連で話のネタがないということなのだ。年賀状ソフトで汚いフォントをしこたまインストールしてマシンを重くするのはやめとけとか思うのだが、そういう声も聞かない(聞きますかぁ?)。
 WindowsはInternet Explorerを使うだけでリソースががくっと食うし、すでにこれがモジュールでOSに組み込まれているわけだから、そもそもWindowsっていうのはOSなのかとも思うし、最近のパッチはぜんぜん信用できないので、私もさっさと昔の古巣であるMacintoshに戻りたいよとも思うのだが、あれやこれやでなかなかそうもいかない。
 ブロードバンドがけっこう普及したから、アプリケーションをパッケージ販売する必要もないだろう。先日Paint Shop Pro8にリニューしたら、すぐそのあとにパッチバージョンが出た。ん十メガというしろものをダウンロードしろってっさ。最初からパッケージ売りの意味ないじゃん。まっくろメディアのSTUDIO MX 2004のアップグレード版も来たので開けたら煙しか出てこないので、わたしゃ、おじいさんになってしまいましたよ……マニュアルもなし。アドビみたいに読めないマニュアル(日本語文字で書かれた日本語でない言語)なら、なしでいっしょぉ!って軽快すぎますね。鬱。
 アプリケーションの市場が行き詰まっていると、その業界の人も思っているだろうけど、なんつうか、もっとまともな日本語環境が欲しいです。簡単にできる音声読み上げとか、読み上げのMP3化ツールとか、作文添削ソフトとか。ま、現状の技術でも組み合わせればできるのだから、なんとかしてほしい。
 話が散漫になってしまったが、ラオックス中古館の話に加えて、CNET「遅々として進まないOffice 2003の導入」を読んで、そーだよな、もうOffice要らないよなと思ったのだ。記事によれば、「Microsoftの最新版Officeへの移行を来年計画しているのは全体のわずか35%程度だという。」とのこと。そうだろう。現状の機能の上になにが必要なのだろう。個人的にはもっともましな単独のVBA環境があればいいだけなのだが、他にはなにも思いつかない。Officeは私が見る限り、Windowsの上にもう一個別のOSを載っけたようになっているので、本当ならこんなソフトインストールしたくない。CNETの話は米国ベースなのだが、日本ではどうだろうか。
 マイクロソフトがこれからもドットネットとXMLを推進していくのはわかる。名前はまたころころ変えるのだろうが、技術的な動向と必然性は理解できる。だが、いちユーザーとしてみるとそんな技術になんのメリットがあるのかまるでわからない。個人ユーザーなんてXMLをパージングする必要なんてないものな。
 Windows XPのライセンス認証もうざったいので、いっそ、Lindowsにするかとも思うが、現実的にはこんなの使えるのだろうか。また話が散漫になってきたが、マシンをリニューしたところで何をやりたいかまるでわからない。夢がないよなと思う。鬱。
 あと、これを言うと、とーっても恥ずかしいのだが、日本語コードの話。いちおう実生活的にはUTF-8でしょ、やっぱり、にっこり、とかしているのだが、使いづらいったらない。あれこれ言われたけど、実際にちょこっとした文書処理するならShift_JISがいいやと思う。昔のツールはありがたいことに、SEDやAWKでSJIS処理ができる。Perlじゃダメなんだものな。
 ふと思ったが、このココログのTypePadって、ちゃーんとUTF-8なんだ。ほほぉっていう感じだ。最初にごりごりと日本文化にUTF-8という黒船を送ったのはGoogleだよ~と思うのだが、そんな話も聞かない。日本語コードについてはうざったい議論が好きな人が多いのだが、なんか現実とはまるで関係ない事態になっている。
 いや、そう言っちゃいけないのだろう。正論っていうのはそれなりに正論なのだ。スリランカにしちゃいけないってオヤジギャグ言ってどうする。ただ、技術における正論というのは本質的に空しいものだ。応用あっての技術だからだ。
 もしこの歳こいてサンタさんにクリスマスに欲しいものと言われたら何が欲しいだろう。iPodは要らない。ラジオマニアの私はトークマスターがちと欲しいが、電池の問題がめんどくさい。欲しかったヘッドフォンも買ってしまったし、注文しといた伊羅保茶碗ももうすぐ届くはず…、なので、お薄で一服…ちがう!

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2003.12.01

アドベント(待降節)になった

 教会暦を見れば昨日は待降節第1主日だった。子供用にアドベントカレンダーをいくつか買い込んだ。ノエルとは書いてないが、輸入食品屋カルディのはフランス製が多かった。昨日はチャペルによっては五本の蝋燭が点っていたことだろう。あるいは、四本だったのか。教会にも行かなくなったのでわからない。10年前までは世俗のクリスマスが辛かったのでこっそりイブの礼拝に座っていた。今日の話は私事である。
 キリスト教も宗派によって歌う讃美歌が違うようだし、現在の讃美歌はもしかすると口語なっているかもしれない。私が歌えるのは文語だ。たいていは歌える。キャロリングのメンバーですらあったのだから。


94 降臨

  ひさしく待ちにし 主よ、とく来たりて
  み民のなわめを ときはなちたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  あしたの星なる 主よ、とく来たりて
  おぐらきこの世に み光をたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  ダビデのすえなる 主よ、とく来たりて
  平和の花咲く 国をたてたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや

  ちからの君なる 主よ、とく来たりて
  輝くみくらに とわにつきたまえ
  主よ、主よ、み民を 救わせたまえや


 13世紀に出来たらしいこのメロディ(*1)は美しいが、詞は率直に言うと変な感じがする。「ダビデのすえなる」とあるので出典は詩編ではなく、これも12世紀のものだが、ラテン語の詩とはけっこう違うようだ。
 讃美歌は私は文語を好むが、それでも「また合う日まで」を「またおーおーひまで」とは歌わなかったように思う。高島俊男先生の話はごもっともだが「こいすちょう流」は時の流れだ。それでもメロディは変わらない。手元のiMacのiTuneにはBGM用にしこたまクリスマスソングが入れてある。わざとノー天気なものも多いが、明るく聞こえてもカレン・カーペンターの声は辛い。好きなのは、モノラルから起こしたマリアン・アンダーソン(Marian Anderson)の讃美歌だ。崇高なものを感じる。
 日キ(日本キリスト教団)の教会では聖書も今では共同訳なのだろうか。あの聖書は私にはなじめない。戦後の口語訳のほうがいい。口語訳は随分非難を浴びたものだ。大正訳を好む人からはイエスの威厳が感じられないだの、暗唱しづらいだの言われた。私は聖書ギリシア語を学んでいたので、ひそかに大正訳はあまり正確ではないなと思っていたし、口語訳は意外に直訳に近いと思っていた。しかし、今度は口語訳が非難を浴びる順序になった。福音派(エヴァンジェリック)の系統のクリスチャンは新改訳に移行していた。エキュメニズムの影響もあって、プロテスタントとカトリックが協調して共同訳が着手され出した。
 初期の共同訳試訳では折衷で「イエスス」だった。主格だからそれでいいのかもしれない。この問題はカトリックが折れたのだったのか。小川国夫なども入ったせいか、共同訳はこなれた文章になったが、反面こなれ過ぎて解釈が入った。
 聖書の言葉はすぐにわかるほうが良い面もあるが、すぐにわからなくてもいいのではないと歳を取ると思う。口語訳では「心の貧しい人は幸いである」だった。共同訳ではたしか「ただ神により頼む人」になったか。昨今の事情はよくわからないのだが、また、「心の貧しい人」に戻るようでもある。「心の貧しい人」なんていう日本語はない。あっても、意味は、知的でない人や芸術がわからない人、教養のない人のような含みになるだろう。原語では「霊において欠乏のある人」だ。皮肉を言う。世のクリスチャンのように霊的に充足した人は幸いではないのである。
 日本では国益の関係からかニュースでしかたがないのかイスラムのラマダンの季節の話はよく出てくるが、世界のキリスト教国のアドベントはあまり聞かない。クリスマスセールの時期と同じなのだから、それはそれでいいのかもしれない。それでもスペインを含めキリスト教国ではアドベントのこの季節に国の仕事で死んだ兵士を迎えている。韓国も金大中を挙げるまでもなくキリスト教徒が多い。記憶では30%だったが、最近はもっと多いとも聞く。すでに多くの兵士をイラクに送っている。そこでも苦渋に満ちたアドベントがある。
 日本のクリスチャン人口はプロテスタントとカトリックを合わせて1%に満たない。統計を見たことはないが、多くは世襲だろう。日本人口の1%というと沖縄人と同じくらいだ。マイノリティと言っていいのかはよくわからない。以前、なにかのおりで仏壇のカタログを見ていたら、キリスト教用のがあった。冗談のようだが、それはそれでいいのかもしれないとまじめに思う。
 話が散漫になったのでおしまい。そういえば、仏教では「臘八会」(禅宗の臘八接心)である。

注記
*1:MIDIはこちら → http://www.ylw.mmtr.or.jp/~johnkoji/hymn/xmas/Veniemma.mid

2003.12.01 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.15

お菓子のような避妊薬

 極東ブログお得意のお薬ネタが最近ないので書くか…という気はないが、ぐぐってみてもどうも国内の情報がないので、ある程度公益のために書いておこう。新型オブコン35(オヴコン35:Ovcon-35)についだ。昨日RU-486について触れたが、こいつについては国内でも若干情報がある。欧州や米国の流れを見れば田中宇でも言及できる問題でもある。だが、新型オブコン35になると、ちとビミョーだ。率直なところ、私も、そりゃなんだ?と思って調べたので、メモ書きしておくというような話だ。
 ニュースはロイターヘルスからだが、チュアブルのオブコン35が解禁になったというものだ。フレーバーはスペアミントらしい……なんだそれ? オブコン35は有名な、日本でいうところのピルだが、それがチュアブルになるっていうのがなぜニュースなんだ?
 チュアブルというのは、かみ砕けるということで、ウェハタイプ(日本だとヨーグルト風味のでかい錠剤みたいなお菓子があるがあんなの)とグミタイプがある。米国ではサプリメントに多い。というのも、嚥下が難しい老人や飲料水がアベイラブルではない状況が多いためだ。あ、アベイラブルって日本語は変ですね。グミや子供向けのビタミン剤に多い。ヤミーベアってやつだ。えぐいフレバーにチアミンやリボフラビン臭のするヤツだ。子供向けにはあとバルーンガムのがあるが、ま、そんな感じだ。
 で、なんだ? ロイターヘルスのニュースはこの件について簡素すぎてなんだかわからなかったが、そう、あのヤミーベアがピルになるっていうことなのだな、要するに。
 ヤミーベアっていうことは子供向け。プレティーンの子供になんで避妊薬を? ふと思うのは、日本でも最近盛んになっているジェンダーフリー教育だが、米国だとプレティーン(10歳くらい)でがんがんやっている?ってな妄想を浮かべるのは、常識的に言って、大間違い。たいていの米国人は保守的です。特に、子供に対してはですね。じゃ、なんだ? レイプ予防? 確かに、モーニングアフターはそのように利用されている。日本はそれがないから、中絶天国が続くのだが…。
 とま、???ばっかしなので、ちと調べて、ある意味唖然とした。そうかぁである。もったいぶって申し訳ない。では解答にはならないが私の推測を言うと、ピルで女の子の性徴発現を遅延化(正規化)させているようなのだ(参照)。もっとも、初潮年齢を遅延させたり、性徴発現を抑えるわけにはいかないので、実際には初潮後にメンスを軽減させたり、コントロールするわけだ。通常の低容量ピルの使用からの推測なので間違っているかもしれないが、そうする意図はわからないでもない。
 この問題、日本でも問題になる可能性があるので、もう少し解説するけど、実は、女の子の初潮の低年齢化っていうのは、世界的な現象で、かつ大問題なのだ。環境ホルモンで女性化するなんておちゃらけじゃない。これがなぜ人類に進行しているか謎なのだが、とりあえず栄養がいいからっしょぉ、みたいな話に落ち着いているが、専門家ほど謎に苦しんでいる、はずだ。
 もしかすると、と話をぼかすまでもなく、初潮の低年齢化が各種の社会問題の根底にある可能性は高い。それについてある程度私もインサイトを持っているのだが、物騒なので控えておくとしても、だ、ジェンダーフリー教育ってなことでごちゃごちゃやっているより、実際問題の初潮の低年齢化に対応したほうがいいのだが、で、対応ってなんだ?ということになる。
 そこで保守的な米国では、社会的な文脈として性徴の発現を制御すりゃいいじゃん、となってきているのだろう。それって人権にひっかからないのかと反応してしまいそうだが、そういう反応をたたきこまれた戦後日本人の悲しさですな。
 こうした問題をフェミニズムはどう考えるか…なんて考察するだけ無駄。次、行ってみよう!というわけで、次の展開としては、性徴発現のセーヴィングというのはありとして、もう少し上のローティーンによってはこのチュアブルピルが実際にピルとして機能するわけだ。
 日米間に差があり、さらにばらつきも大きいだろうが、最低線で見て、13歳くらいでレイプや軽率な妊娠対象になる。そこでプレティーンからの性徴発現を実質的に制御するためのチュアブルピルは、そのまま避妊の用途として継続するという図ができあがる。
 実際日本ではどうなるのだろうか? 女子中高生あたりに広まるだろうか? という問いはレトリカルだ。広まらない。入手できない。機転が利くという意味で頭のいい子はいるけど、そこまで頭のいい女子中高生は日本に少ないし、また、いてもそのレベルになると、チュアブルピルを使わなくても対処できるだけのインテリジェンスはあるだろう。
 しかしなぁ。なんか、そーゆー問題じゃないなと思う。これを書くとイカンのかもしれないが、チュアブルピルはOTCなので、サプリメントと同様に入手できる。ってことは、どっかの悪オヤジとかおばさんが売りに出すっていう危険性を社会は注意したほうがいいだろう。予言しておくが、「ダイエットにもいいしぃ、胸も大きくなるし、メンスが軽くなってグッドよん」ってなことになるだろう。うへぇ~である。大人って悪いやつ多いから、若いかたがた気を付けてくださいね。つまり、必要な状況があるなら、ピルについて勉強してピルをきちんと使いなさい。さかもと未明のいうようなコンドームじゃ対処できない状況は多いし。

2003.11.15 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.10.27

読書の秋にお薦めの悪書

 各紙社説に目を通しながら選挙やイラク復興絡みの話にうんざりしている自分に気が付く。産経新聞社説の「参院埼玉補選 実証された小泉安倍効果」は阿呆かとも思うが、フジ産経系の調査はそう実態から離れているわけでもないのだろう。
 九月下旬の本紙とFNN合同世論調査では総選挙後の望ましい政権に関しては「自民党中心」55%、「民主党中心」25%、「わからない」20%だったが、自民党への期待が強いことを改めて示している。
 この期に及んでなぜ日本国民は政権を交代させようとしないのだろうという苛立ちが自分にもあるが、そういう苛立ちは自分の思想の劣化なのかもしれない。

 今日もつまらない話題と言えばつまらない話題だ。読売新聞社説「読書週間 学校は系統的な指導に取り組め」を読んで、とほほな気分になった。最初に「とほほ」を気分を解説しておくと、「いくら若者が本を読まないからって言ったって、読書なんてものは学校で指導するこっちゃねーよな」である。
 そうは言っても、学生さん本当に本を読まないね。


全国学校図書館協議会などの昨年の調査によると、小学校六年生の男子は月平均五・三冊、女子は六・五冊の本を読んでいたが、中学一年生になると、二・五冊、三・七冊しか読んでいなかった。高校生は、一・五冊に過ぎなかった。

 小学生と中学生の読書傾向が違うのでなんだかよくわからない統計値になっているが、ようは高校生は本を読んでないわけだ。困ったなとは思う。だが、それへの対応としてこれはひどいな。

 小学校では、読むことの楽しさを分からせ、中学、高校では、名作や基礎的な専門書に親しませる。大学では、課題図書講読で単位を与える図書講座を開設する。年齢に応じた指導が必要だ。
 子供同士が課題図書について話し合ったり、読んだ本のリストを交換するなどの、取り組みの工夫も求められる。

 自分も少年から青年を経て大人になった人間だからこそ、こーゆーことは言えないねと思うのだが、いったいこの手のきれい事をいうヤツのツラが見たいね。馬鹿だろおまえって、言ってやりたい気分だ。とま、くさしても意味はないか。昔から日本の大学にはReading Assingmentなんてないしな。
 私は、小学生は面白い本を読めばいいと思う。他になにも要らない。面白い本がないという世界のほうが間違っているのだ。「かいけつゾロリ」のコミック化はやめてくださいよ、はらゆたかさん、ポプラ社さん、という感じだ。
 中学生以降は悪書を読めばいいと思う。大人に隠れて、悪い本をいっぱい読むのだ。こういう言い方も爺臭いかもしれないが、悪書っていうのが世の中から少なくなったなと思う。もちろん、エロ小説でもいいぞ。でも、エロ写真はダメだ。ホームページのエロなんて論外だ。見て反応していたらサルになっていまう。で、コミックは? ベルメールみたいに絵がよければいいんだけどね。誰か絵のうまいのいる?
 江川達也も絵が荒れたなぁ。塔山森時代は下手だっただけだが、山本直樹も絵が荒れている。石井隆の絵はなんか今だと本人のがパロディみたいだね。江口寿史? おだて過ぎたんじゃないか。
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高丘親王航海記
 エロ本のお薦めは「閨房の哲学」だ。読書指導をしてあげるが、いくら小遣いがないからって渋澤龍彦が訳した「閨房哲学」の文庫本はやめとけよ。渋澤の翻訳なんかで読んじゃだめだ(矢川澄子の翻訳みたいなもんだからね)。渋澤が読みたいなら、「高丘親王航海記」にしておけ。とはいえ、こんなエロ本じゃモエモエじゃないというなら、さっさとなかに入っている「フランス市民よ、共和主義者でありたければ、もう少しの努力だ 」だけ読んで、他を探せ。これがこの本のキモだ。この文書を読まずに社会思想や評論なんかしているヤツを信じちゃだめだ。きっと、日垣隆だって読んでないぞ(冗談ですよ、もちろん。ダンボール箱で書籍を買うほど読書家を豪語されているのですからね)。
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二千万ドルと鰯一匹
 女子高校生にお勧めの悪書は、村上春樹が訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」なんかじゃなくて、素九鬼子の「旅の重さ」だ。ちなみに高橋洋子が出ている映画のほうは見なくてもいい。と、本を調べると、あれ、これって絶版かよ。なんてこった。サガンの「悲しみよこんにちは」なんてお薦めしたくもないよな、文学だし。暇つぶしだったら、これも古くさいが絶版になっていないので、アルレーの「二千万ドルと鰯一匹」がお薦めだ。悪書というよりはユーモア小説なので爆笑していただきたい。ちなみに、アルレーは近年になるほど面白くない。
 本のお薦めなんかしていると、ダカーポみたいなビンボー臭い感じがするので、おしまひ。

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2003.10.22

紙巻き煙草は個人的な意見だが不味い

 日経新聞の社説「“官僚統制教育”脱却の方向が見えない」を読んで、民主党が「学力低下」を懸念し学校週5日制の見直しを提言していることを知った。今回の選挙は民主党を支持たいと思うが、この提言はくだらないと思う。学校なんか学力とは関係ない。学校に拘束される時間は少なければ少ないほどいい。他、読売新聞社説「ガリレオ計画 弾みをつける欧州版GPS」が興味深かった。当然、米国GPSへの対抗になる。社説では日本もこっそり独自代替システムを開発していることへの言及がある。が、この社説は米国GPSの問題については触れていない。あんこのない鯛焼きのような社説だった。今朝の大問題としては、東電OL殺人事件の逆転無期懲役が確定したことだが、どの社説も触れていない。明日あたり扱うのだろうか。ここでさらっと扱うには重すぎる問題なので、ひとまず、パス。

 今朝の話題はまたくだらない話だ。朝日新聞社社説「たばこ判決 ― 怖さが伝わらない」に関連してだ。肺がん患者ら6名(3名死去)が、日本たばこ産業と国を相手に、煙草の有害性を認識しながら適切な喫煙規制対策を怠ったとして、損害賠償を求めていたが、昨日東京地裁で判決が出た。判決はごく常識的なもので、喫煙以外の要因がないことについて検討がなされていないとして訴えを退けた。もともとくだらないデモンストレーションの裁判なのだから、このニュースだけでももとがとれたようなものだ。民主主義というのはこの手のノイズが必然的につきまとうのだが、それはそれで悪いことでもない。
 朝日新聞がトンマなこと言ってくれるのではないかと期待して社説を読んだが、概ねつまらない。
 たしかに、有害と知られているたばこを長い間吸っていたのだから、病気になったからといって製造元を訴えることに違和感を持つ人も多いだろう。しかし、それにしても、今回の判決はたばこの害や怖さについて認識があまりにも足りない。
 早々に論点をすり替えた。でないと話にはならない。そしてこの先の話はお説教である。煙草の警告文は曖昧であり、これでは「吸い過ぎなければ害はないと言っているようなものだ」と言う。このあたりはただのお笑い。依存症という言葉を巧妙に避けて「依存性」についてはこう言う。
 だが、世界銀行の報告では、禁煙を個人的に試みても成功率は低く、成功しても大半の人が1年以内に再びたばこを手にするとされている。日本で禁煙指導に熱心な医師たちも「意思と努力で禁煙できるという思い込みは間違い」と口をそろえる。
 確かにそれは事実には違いないが、裁判で持ち出す話では毛頭無い。とはいえ、この朝日の社説に私は悪い気分はしない。煙草の害については、もっと社会に周知させなくてはいけないと考えるからだ。なぜ医者や教師が現在でも人前でぷかぷかやっているのか理解に苦しむ(こっそり吸えよ)。次の朝日の指摘は重要だ。
日本の喫煙率は全体として減少傾向にあるが、20代の男性はほとんどの世代と同じく5割を上回る。女性は20代の増加が目立ち、この年代の2割がたばこを吸う。
 高校生の調査では、男子の半数以上、女子の4割が喫煙経験ありと答えている。
 若い女性に煙草を吸うなとは私も言わない。だが、2割はさすがに目立つ。都市部ではこの倍ではないか。マクドナルドなどファーストフード店を覗けば若い女性が多数ぷかぷかやっている。電車の中で化粧をするのは恥知らずで済むことだが、このぷかぷかの光景は私には異様だ。我ながら偏見になってしまうが、総じて若い女性の多くが煙草臭い(受動も多いのだろうが)。そうでなければ、シャンプーなのか化学物質臭がきつい。笑いを取るような言い方だが、私は電車や人混みではできるだけ若い女性の近くを避けることにしている。エレベーターなどでも若い女性が乗っているなと見れば見送る。
 なんてこったと思う。もちろん、公平に見れば、社会に溢れる煙草の煙は昔に比べて数段に減った。だから私のような煙草嫌いなど社会的にどうでもいいことで、全体としてはよい方向に向かっていると言えるだろう。ただ、なにかが違うように思う。
 朝日新聞は科学に無知なことが多いので、ことさらに批判するまでもないが、医学的には煙草の害については病理学的には確立されていないし、過去の経緯を見ても、およそ確立しそうにもない。疫学的には関係は明白だし、依存性についてもほぼ立証されていると見てもよさそうだ。だが、こららについても統計的な世界として導出されるもので、我々の社会の指針としてよいのかは判断が難しい。
 私が個人的にひっかかるのは、煙草が不味いことだ。私はもともと煙草が体質に合わないようだが、それでも若い頃2、3年吸っていたことがある。やめたのは不味いからだ。まず、紙巻きが不味過ぎて、煙草の味がしない。かろうじて吸えたゲルベゾルテがディスコンになった。まさかと思ったが、そうなのだ。この煙草が市場から消えるなんて信じられない思いがした。
 オリエント種ブレンドとはいえキャメルみたいないい加減な味はいやだ。黒煙草(*1)もそれほど好きではない。ヴォネガットの小説は好きだがペルメル(*2)は口に合わない。マルボロも赤玉(*)3も合わない。米国物の紙巻きではウィンストン(*4)がかろうじていけたが、やはり紙巻きは不味い(*5)。バーレイ種なんか煙草の味がしない。こんなものなら、ビディー*6のほうがまだまし。
 国産はピースを除いて概ね不味かった(*7)。とはいえ、パイプ煙草(*8)や刻み(*9)の品質を見るに日本たばこの技術力は意外なほど高い(*10)。やる気になればいくらでもうまい煙草ができる潜在力があるとしか思えないのだが、今でもあの手の不味いものを作り続けている。いや、公平にいうなら、日本人好みカップラーメンのではないが、市場に合う味を作り出しているだけなのだ。キャビンやパーラメントみたいな煙草もマーケットをよく見ながら調整して出荷しているようだ。メインのマイルドセブン(*11)系はアジア人向けの味としてよく出来ているのかもしれない。
 さてあの頃の私はといえば、しばらく刻みを自分で巻いたり(*12)、葉巻やパイプも併用したが、大仰なのでしだいにやめた。最後まで吸っていたのは手軽なウィッフスというシガリロだった(*13)。日本には葉巻やパイプが吸える場所なんてありゃしない。若い人間が吸っても様にならない。いずれにせよ、自分が吸える煙草はなくなった。こんな煙草を吸っているやつには嗅覚も味覚もないんじゃないかと思った。が、ソムリエ世界一の田崎真也は、日本の紙巻き煙草をぷかぷかやるし、それでいて料理の鉄人も負かす味覚の持ち主でもある。だから私の言い分は暴論だ。それに、みなさん、煙草がうまいからという理由で吸っているわけでもない。病むに病まれなくて吸うなら、病むことなど気にするなって。

注記
*1:ゴーロワーズとかね。こいつのフィルター付きは論外。
*2:Pallmall。読み間違えないように。
*3:日の丸とも言う。
*4:注を付けるまでもないが、赤いソフトパッケージのやつだ。白い箱にWinstonって書いてあるやつじゃない。
*5:意外にバージニアスリムのメンソールじゃないのが悪くない。
*6:吸い方にコツが要る。
*7:缶ピがうまいという人がいるが、缶ピよりも新鮮で湿度管理のいい箱入りのほうがうまいのだ。
*8:「飛鳥」「シルクロード」「桃山」が好みだった。洋物ではイギリスのやつ。Half&Halfは論外。
*9:「小粋」は上質だが、ちと辛い。
*10:花作りもよい。
*11:こいつの香りはトンカ豆。ちなみにHopeは蜂蜜。甘ったるいよね。
*12:巻紙を選ぶと燃焼速度が調整できる。
*13:こいつはお薦めしたい(参照)。

2003.10.22 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.09.25

地震予告とその後のこと

 話題は先日の地震予知のその後の話だ。9月12日に書いた追記が多くなったので、今日の分にまとめておこうと思う。
 話のつなぎで言えば、今回、騒動の元になった串田嘉男の地震予知は当たるのではないかと思っていた。私はそれを判断するだけの器量はない。ただ、阪神大震災のおり、米国ニュースが奇妙に関東大震災に関心を持っていることから、日本の株式を実質握っている外人株式投資家にはこのインテリジェンスが存在しそうだなと考えていた。そこで、私としては地震予知の精度は株価に織り込まれるだろうと想像していた。
 現在の心境からすると、関東大震災はけっこう予知できそうなので、今後はもっと信頼するだろう。
 以下は、過去のおりおりの時点のメモ(追記)の再録だ。

9月16日9:30am

 株価の異常はない。ちと早い追記だが、ネットでの地震情報サーチが盛んで、このブログも地震の情報源になりかねない。というわけで、間違ってこんなとこ見た人は以下へ直行。

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/8896/hannou.html
http://epio.jpinfo.ne.jp/

 それと訂正。「発表によると発生の確率は60%。」と書いたが、そんな公式発表はないらしい。週刊朝日の取材能力を徹底的に疑うべきだった(週刊朝日だものね)。

9月20日12時

 ま、地震は来ませんでした。我ながら苦笑っていうかテレるが、この数日、東京が崩壊する幻想で甘美な思いをしたので、それはそれでヨシかな。一連のオウム事件のおかげでノストラダムス予言がおちゃらけになったように、今後は地震予想はおちゃらけになるだろう。串田氏の研究については、社会的にはだからボツっていうことになるだろうが、FM電波の計測についてより精密な研究が進むとよいのではないかと思う。率直な印象を言えば、私はこの手法は地震直前の予測が可能なのではないかと思っている。地下に巨大なエネルギーが充溢してカタストロフを迎える時期にはなんらかの影響は出だろう、と。

9月20日13時20分

 ありゃ、来ちゃいました。震度4。震源は千葉県東方沖M5.5なので、串田予測が当たったのかビミョーだが、これで9月20日12時の追記で書いたように串田予測がお笑いとは言えなくなるんじゃないか。つまり、地震が怖いのはこれからってことか。

9月23日

 その後、串田氏は予測の誤りを公表しているというので雑見。その考察を先にやっておけよ、と言いたくもあるが、あながち地震予測を外したというものでもないようだ。この間、「くるぞーくん地震予兆電磁波観測」(参照)という同種のサイトの情報を読んだが、20日の地震をかなり正確に当てていた。率直な感想だが、FM波観測は現状一番関心を寄せていい地震予想なのだと思う。

さらに追記

9月26日

 まさかさらに追記するとは想定していなかったが、今朝の釧路沖の地震は、概ね「くるぞ~君」の信頼度を増す結果になって驚いた。予想では盛岡・仙台方向に不穏な状況ということだったが、北海道だった。くるぞ~君のHPでは観測地点が北海道にないことが精度を上げられなかったこととしていた。そうだろうなと思う。

10月5日

 その後、NHK「あすを読む」で関東南部の直下型地震についての解説を聞き、基本的なことを自分が理解していないことに気が付いた。M8レベルの、関東南部の周期は200年。ということは、プレート移動の隣接で起きるタイプの関東大震災はまず私の目の黒い内には来ない。ただ、M7レベルの直下型は断層で発生する可能性はある。阪神大震災がこれだ。この直下型地震の周期は活動期に入ったと見ることもできる。串田嘉男がM7にこだわったのは阪神大震災が念頭にあったのだろうが、我々は関東大震災のイメージで捕らえていた。もちろん、阪神大震災も被害は甚大だったが、地震の理解を混同していた。また、その意味で、串田予測で使うFM波観測はある程度有効だろうが、直下型地震という意味では発生地域を大きく外していた。くるぞー君のほうがやや精度が高いようだが、それでもその地点を当てたわけではない。活断層の地理データを総合する必要があるのだろが、ぶっそうな話になるのだろうか。

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2003.09.22

アスピリン喘息の患者はどう扱われているのか

 数日前から気になっていたアスピリン喘息について書く。なぜ今アスピリン喘息が問題なのかって? とくに理由はない。しいていうと「はてな」の質問に関係している(参照)。この話題は一般の読者には関係ないかもしれないが、たまにこんなことも書くことにしたい。
 以下の話はアスピリン喘息患者が利用できる鎮痛剤についてだ。
 その前に、アスピリン喘息とは何かだが、アスピリンなどの消炎鎮痛剤の服用によって起きる喘息だ。成人の喘息の約1割がアスピリン喘息であるとも言われている。日本の喘息患者は人口の3%程度らしい。とすると、アスピリン喘息の推定患者数は30万人程度だろうか。そんなには多くないし、重篤な症状を起こすことが少ないのか、社会問題になっていないと見ていいのかもしれない。
 次になにがアスピリン喘息で問題なのかというと、この患者は市販の鎮痛剤が使えないということだ。現場、結論は医者に行くしかない。それ以外は鎮痛剤を使わないようにということになる。雑駁にいうと、医者の処方薬もあまり鎮痛作用がない。つまり、痛みの対処が事実上ない。それが問題といえば問題なのだ。私の考えを率直に言えば、苦痛を放置するというのは人道的ではない。
 そもそもアスピリン喘息にかからないようにするほうがいい、と言えるかどうか疑問だが、あまりアスピリンを多用しないほうがいいにこしたことはない。テレビでバファリンのCMをよく見かけるが、一般のタイプのはアスピリンに加え、胃の保護にアルミニウム化合物(ダイアルミネート )が加えられている。アルミニウムの害が科学的に確定していないが個人的にはお薦めしない(ふくらし粉にもアルミニウムが含まれている)。一般的な鎮痛剤なら、以前にも書いたがアセトアミノフェンのほうがよいだろう。ただし、アセトアミノフェンでもアスピリン喘息を誘発する危険性がないわけではない。
 アスピリン喘息にかかったらどうしたらいいか。例えば、健康@niftyの「アスピリン喘息について教えてください。」*4には、次のように書かれている。

アスピリン喘息といわれたら


  • その原因となる薬物の名前を必ず聞き、手帳などにひかえ、今後、薬を飲む場合には必ず医師・薬剤師にそのことを伝えるようにしてください。
  • 薬局で購入した風邪薬や鎮痛剤にも入っている可能性がありますので注意が必要です。
  • 痛みや発熱は冷やすなどして症状を抑えるようにして、薬は最小限にするように工夫ましょう。どうしても必要な場合にはアスピリン喘息の方にも比較的に安全であるとされている薬がありますので、かかりつけの医師にご相談ください。
  • もしも、再びアスピリン喘息の発作が起きてしまった場合には、すぐに医師の診察を受けてください。ひどくなりそうなら救急車を呼びましょう。

 誰の執筆かわからないが間違いではない。読むとわかるように、アスピリン喘息の患者が風邪や頭痛になったとき、具体的にどうしたら苦しみから解放されるのかについては、医者に行けという以外の情報はない。確かに、アスピリン喘息に対する市販薬(OTC)の利用は危険なのでしかたがないかもしれない。
 日本では、アスピリン喘息の患者の鎮痛剤としては、炎症を引き起こす酵素(COX)を阻害しない塩基性抗炎症剤のエモルファゾン(ペントイル)(参照)が処方される。塩基性抗炎症剤には他にエピリゾール(メブロン)(参照)、塩酸チアラミド(ソランタール)(参照)などがあるが、アスピリン喘息患者には禁忌とされている。塩基性抗炎症剤の鎮痛効果は高くない。エモルファゾンが市販薬(OTC)でないのはなぜなのかよくわからない。アスピリンに比べて危険性が高いのだろうか。単に、市販しても売れないというだけなのだろうか。
 以下は、治療の代替になる情報ではない。が、アスピリン喘息の対処について、できるだけ最新の情報を簡単にまとめておく。
 アセトアミノフェン:アスピリンより安全性高いとされているが、注意書きにあるように、すでにアスピリン喘息の患者は利用しないほうが良い。
 セレコキシブ(セレブレックス):日本ではまだ発売されていないが、近く解禁になるらしい。セレコキシブを含めCOX-2選択阻害剤は、アスピリン喘息患者にとって安全性が高いとする研究がある(いずれも鎮痛はリウマチを想定しているようだ)。日本でもセレブレックスが市販薬(OTC)になった場合、こうした知見がすぐに臨床に活かせるかどうか。たぶん、表向きはダメということになるだろう。現場でもエモルファゾン以外は塩基性抗炎症剤ですら禁忌なのだから。

 ナブメトン(レリフェン)参照):リューマチの鎮痛を対象にしているようだが、アスピリン喘息について次の研究がある。市販薬ではないが医師の参考にはなるだろう。

"Safe full-dose one-step nabumetone challenge in patients with nonsteroidal anti-inflammatory drug hypersensitivity."(Allergy Asthma Proc. 2003 Jul-Aug;24(4):281-4. )

 ザフィルルカスト(アコレート)参照):アスピリン喘息の予防に効果があるとする研究がある。市販薬ではないがこれも医師の参考になるだろう。

"Aspirin induced asthma, urinary leukotriene E4 and zafirlukast"(Rev Alerg Mex. 2002 Mar-Apr;49(2):52-6)

 アスコルビン酸:民間医療に近いが、風邪などの症状の緩和は期待できる(参照)。アスピリン喘息との関連の研究はないようだが、悪化することとはないだろう。
 漢方薬、中医薬、ハーブ(ナツシロギク)などの適用についてはまったく研究されていない。が、現状の経験の累積からみて、風邪によく処方される葛根湯はアスピリン喘息を引き起こさないようだ。葛根湯にはエフェドリンが含まれているのでその面からも、喘息の症状が緩和されているのだろう。同様に、小児の場合、麻杏甘石湯が伝統的に処方される(摂取量に注意)。
 ちと専門的になるが、アスピリン喘息患者にCOX-2阻害薬が有効であるということは、喘息を起こすロイコトリエンの生成に関与しないためだろう。とすると、このアラキドン酸カスケードの原点となるアラキドン酸の摂取を減らすことは日常の食事にとって注意すべきだ。具体的にはリノール酸の摂取をできるだけ減らそうほうがいいだろう。

2003.09.22 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.09.16

幼い子供のいる家庭に必須のアセトアミノフェン

 今日は新聞休刊日。毒づくネタもなく、地震もまだなので平穏だ。書くこともなにもない…では面白くないですね。といってさして面白いネタがあるわけでもないが、最近になって漫画『ブラックジャックによろしく』をはじめて読んだので、その関連で思ったことをちょっと書いておこう。

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神罰
  知り合いの自称漫画評論家に「今一番面白い漫画は?」と訊いたら答えは『ブラックジャックによろしく』だった。『神罰』(田中圭一)ではないようだ。ま、そうかな、というわけで、評論家の蛭子能収、もとい漫画家の立花隆も薦めているので(あ、逆か)、6巻まとめて買って読んでみた。面白いと言えば面白かった。どこが一番面白かったかというと6巻目で主人公が看護婦と70年代の青春みたいな性交をしているシーン、というわけでもない。
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ブラックジャックによろしく
 『ブラックジャックによろしく』はよくできた漫画だなと思うが、率直なところ意外な事実というのもあまりなかった。「けっこうフツーで、学習漫画みたいだな」とも思った。特に批判もないが、どうせなら、ドラマティックな効果よりも、悲劇をできるだけ回避できるための、ちょっとした知恵のような話を盛り込んだらよかったのに。
 気になったのは小児科医療の話のところで、夜間に駆け込む子供の話だ。実態が、あーであることは知っているが、それにしても、なぜ日本の家庭にはアセアミノフェン100mgがないのだろうか。
 アセトアミノフェンときいてぴんと来こない人もいるかもしれない。欧米では標準的な解熱鎮痛剤だ。が、日本人はほんとこれを使ってないね。アスピリンもそれほど使わない。代わりにけっこう変なといっては語弊があるが鎮痛剤のOTCを飲んでいる。家庭の常備薬っていうのは昭和40年代からあまり変わっていないのではないか。しかも、家庭の文化で定着しているようでもある。ま、薬などあまり使わないに超したことはないのだが、有効性のあるものを選んで常備しておけば、いざというときの助けにはなる。特に、アセトアミノフェンだ。子供のいる家庭なら座薬タイプ100mgが2つあればいい。大人向けの沈痛解熱用には、別に宣伝するわけでもないが、タイレノールがスタンダード。でも、やや量が多めなので、アスピリンを含まないアセトアミノフェン成分の小児用バッファリンを大人が多めに飲んでいいだろう(くれぐれも成分を確認のこと)。
 とま、アセトアミノフェンについてこれ以上、こんな不正確な情報提供のブログに書くべき内容でもないので、小さい子供のいる人はこちらの「解熱剤とひきつけ止めの使い方」(参照)をご覧下さい。というか、大人というのは子供を守るべき存在なので、誰でもこのことは常識で知っておいて欲しい。米国の育児書などには記載されている(日本の育児書や妊婦向けの書物は実用的ではない)。こうした知識で子供の夜間の救急患者が救えるというものではない(参照)。が、緊急の状況によっては役立つこともあるはずだ。
 ついでに『ブラックジャックによろしく』でも小児科医療の問題が取り上げられていたが、問題は構造的だ。医者の卵の負担を重くするのは必ずしもいいとはいえないが、WHOでは小児学科の学習時間は300時間が提唱されているのに、日本の現状はその半分。日本の医学は小児科を重視していない。それを放置している日本の構造自体、実は子供を大切なんかしていないという証拠でもある。

2003.09.16 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.09.11

麻薬問題は思考停止では解決できない

 今日は9.11。日経新聞を除き新聞各紙、お約束ということで無意味な社説を掲げていた。あとは話題にする価値のない総裁選。朝日新聞が石原都知事発言をネタに息巻いていたが醜い。というわけで、ネタのない平和な一日だ。私にとってニュースはない…と思っていたら意外なところにあった。
 Wired(日本語)で「ドラッグ『エクスタシー』が脳損傷を引き起こすという研究結果は間違いと判明」(参照)というニュースが上がっていた。やっぱしなという思いと、MDMAについて複雑な印象を覚えた。
 日本でも麻薬扱いになっている「エクスタシー」、つまりMDMAについて、今さら基本的な説明が必要だろうか。通称「エクスタシー」は、日本の警察ではMDMA成分を含まない錠剤も雑駁にMDMA等錠剤型麻薬としている。2CBなどもごちゃまぜになっているようだ。それでも、その名称は、一応社会に広く知られてはいるのだろう。先日のクローズアップ現代(参照)では、「若者をむしばむ新型麻薬」として扱われていた。映像はベタに蝕まれていく若者の一例を挙げていたが、あの所見は医学的に間違いではないかという印象を持った。
 Wiredのニュースの事実関係はこうだ。


 科学雑誌『サイエンス』の2002年9月27日号で発表された研究では、娯楽目的で使う場合の1回分の通常投薬量でも、MDMAが重度の脳の損傷を引き起こす恐れがあるとされていた。米国の科学界は研究を称賛し、エクスタシーに手を出さないよう若者に警告した。だが今回、リコート教授は薬瓶の中身が違っていたことを明らかにした。

 Wiredはちゃんと笑いのツボもある程度抑えていて、「ヒロポン」みたいなルビは振らない。歴史を考えてもしかたないということかもしれないが。

 研究を行なったジョンズ・ホプキンズ大学医学部のジョージ・リコート教授は、実験で霊長類の動物に投与されたのはエクスタシーではなく『メタンフェタミン』だったと述べた。

 やはりお約束で、そんなの間違えるわけねーだろ、と突っ込みを入れておくのが礼儀だろう。こんなボケをサイエンスに載せるあたり、サイエンスの一流科学誌ならではのユーモアを感じさせる。経口薬として非合法に流通している薬物に対して注射の実験というのも「いかがなものか」的だ。
 ことはお笑いではすまない。サイエンスもフライングしてしまうほど、我々の社会は麻薬をとにかく科学的・医学的に葬りたいわけだ。日本の場合は「麻薬」というだけで、キョンシーの額に貼るお札(比喩が古すぎ)のようになる。
 面白いことに日本では麻薬は、マックス・ウェーバーの目的合理性の議論のようだが、非合理的には流通しない。システマティックになっている。そしてそのブラックマーケットのシステムは依然スピードしか流していない。暴力団自体が厚労省の外郭団体であるかのようだ。これは流通としてみれば他の流通システムの老骨化と同じだ。警察も昔のままでいられるわけだ。
 MDMAが問題なのは、先日のクローズアップ現代にあったように、その流通が従来の麻薬と違うことだろう。これは、どこかでブラックマーケットに収斂されるのか、そのまま警察の現状のままで撲滅できるのか。はっきりとはわからないが、どこかで入力側の物量が増せば警察側の対応は破綻するだろう。副次的に暴力団関係のブラックマーケットも破綻するかもしれない。SFチックだが不思議な光景が出現する可能性もある。
 現状の社会問題としては、「麻薬は悪い、悪いものは悪い」でとりあえず収まっている。芸能人の大麻狩りなどその業界の提供するエンタテイメントと見る方がましだろう。
 その意味で、現状の日本には麻薬問題はないといってもいい。あるとしてもその業界の55年体制が正常に運行しているだけだ。しかし、それが破綻したとき、麻薬に対して社会はどう取り組むのだろうか。
 麻薬の社会浸透は欧米がその先端を行っているともいえるが(規制の方向はヨーロッパと米国では違うが)、そういう事態に日本もなるだろうか。直感的にいうのだが、直接的な麻薬問題より、それを宗教的に忌避するために、日本社会に根の深い強烈な差別意識のようなものが突然惹起してしまうのではないか。
 その可能性があるなら、現状の麻薬患者をどう現在の社会と接合させるかという新しい社会のビジョンが必要になる。「更正」というような理念はたぶん、ダメだろう。

追記
 再考するに、「麻薬患者が」というより、日本の場合、アルコール依存症なども同類。アルコール依存症が現状日本社会にある程度受容されているような具合になるのかもしれない。
 自分では大麻には関心ないし吸ったこともないが、大麻についてはもはや麻薬ではないというのがEUの認識のようだ。

2003.09.11 in 生活 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック