2012.10.24

おなかいっぱいになるまで食っているんじゃねーよ。偉そうに人を批判なんかするなよ。

 スティーブ・ジョブズがスピーチの締めの言葉で使った、「Stay hungry,Stay foolish」をどう訳すか。ちなみに、この言葉自体は、「The Whole Earth Catalogue」っていう本に由来する。
 ジョブズの世代に近い僕なんかだと、うんうん、って思い出す。昔Macを使っているとき、これのハイパースタック版やCD-ROM版をよく見ていた。書籍ではミレニアム版もよく読んだ。
 で、「Stay hungry,Stay foolish」をどう訳すか。
 「ハングリーであれ、愚かであれ」というのが多いかもしれない。
 "hungry"を「ハングリー」とカタカナにしちゃうのは、「ハングリー精神」とかの印象なんだろう。
 "foolish"は「愚か」かというと、どうか。これを延々議論しちゃう人もいるけど、でも、「愚か」でいいと思う。違うとすれば、古風な響きがあるということかな。現代だと普通にいうと、"Stay stupid"、"Stay silly"とかかなんだけど、これだと、本気でオバか、になってしまう。古風な感じを汲めば、「愚者であれ」かもしれない。愚者の黄金、二枚とか。
 "Stay"は、「そこでじっとしてろよ」ということ。
 だから、「ハングリーなままであれ、愚者のままであれ」みたいな訳語でいいのかもしれないが、なにかしっくりこない。
 一年くらい、なんか違うなあと思っていた。
 違和感のコアみたいなのは、「Stay hungry,Stay foolish」とか持ち上げて、教訓にしちゃう人たちって、一番、この言葉が似合ってない感じがするんですよね。
 むしろ、某氏とか某氏とか某氏とかのほうが、ベタに「Stay hungry,Stay foolish」じゃないかと。でも、某氏とか某氏とか某氏とかは、シンプルに、「hungry,foolish」だけなのかもしれない。どうでもいいや。
 もわっとしていた。
 夢を見た。
 老師がやってきて、じゃあ、教えてあげようと言うのである。
 キタ━(゚∀゚)━!!!!!

老「まず、"Stay hungry"だがな、これは、おなかいっぱいになるまで食っているんじゃねーよ、ということだ」
僕「はあ?」
老「はあ、じゃないよ。腹減ったぁ、がっつり食いたいとか、すんなってこと」
僕「はあ? だって、食いたいもんじゃないですか」
老「だから、"Stay hungry"ということ」
僕「メタボ防止とか、あれですか、あの『やせる』っていうやつですか」
老「いや、そういう効果を求めるんじゃないんだよ。それじゃ、foolishじゃない」
僕「"Stay foolish"のほうはどういう意味なんですか?」
老「これはな、偉そうに人を批判なんかするなよ、ということだ」
僕「はあ?」
老「橋下と週刊朝日のごたごたを見てどう思ったかな?」
僕「橋下さんが正しいんじゃね。DNAとか持ち出して批判するってありえないと思うけど」
老「ははは、お前、お利口さんになったつもりだろ」
僕「え?」
老「橋下と週刊朝日、お前さんに何か関係あるのか?」
僕「ないです。ぜんぜん」
老「じゃ、どうして、どっちが正しいとか言うのか?」
僕「言っちゃいけないんですか?」
老「いいよ。言えば」
僕「じゃ、いいじゃないですか」
老「っていう、開き直った自分の状態をどう思う」
僕「あ、いけないなと思いますね」
老「偉そうに人を批判なんかするなよ」
僕「なるほど……しかし」
老「しかし、なんだ」
僕「バカっぽそうに批判するとか正義をまくしたてるのはどうですか」
老「いいんじゃないの」
僕「はあ?」
老「自分はバカだなあと思って、バカがまた正義こいちゃったなあと思っていたらいいんじゃないの」
僕「そういうもんすか?」
老「そう。じゃね」

 ということだった。
 
 Stay hungry,Stay foolish

 おなかいっぱいになるまで食っているんじゃねーよ。
 偉そうに人を批判なんかするなよ。

 うーむ。たしかに、そういうことかな。

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2012.09.21

会話がとてもつらいとき

 例えば、会話のなかでこういう発言が向けられることがある。

「補充には数日かかるらしいので、鈴木さんが困るといけないから戻しておきました」

 ここで、私の頭は飛ぶ。飛ぶというのは、ヒューズが飛ぶという、昭和的な事象である。脳髄に激打をくらったような呆然とした状態になる。意識が残っているなら、とりあえず、相手の言葉を繰り返す。「補充には数日かかるらしいので、鈴木さんが困るといけないから戻しておきました」 意味不明。

 「何を補充するのか?」
 「誰が補充するのか?」
 「なぜ鈴木さんが困るのか?」
 「戻しておいたものは補充された何かと同一物または類似物なのか?」
 「鈴木さんが困ることと私とはどのような関係があると話者は想定しているのか?」

 皆目わからない。

 少なくとも、主語と目的語の役割の情報を補って文章を完成してくれるだけでも、よいのだが。少なくとも、以下の空欄が埋まっていると、とても救われる。

 「( )の補充には数日かかるらしいので、鈴木さんが困るといけないから( )を戻しておきました」

 内心は茫然自失しているが、とりあえず自分の表情はここで固定しておく。固めるというのではなく、脳が混乱しているという表現を抑えるためだ。抑えておかないとろくでもないことが連続して起きるという経験から。
 さてと、脳内に広がる荒野に私はひとり立つ。
 常識的に考えるなら、その補充されるべきなにかは、会話の流れのなかで、参照されていたはずである。
 びゅーんと脳内の録音データを再生しなおす。
 これで答えが出るならよい。
 たとえば、「期限切れが近い消火器」とか。
 ところが探索できないことがある。
 もうお手上げ。
 そういう場合、「何の補充ですか?」と聞けばいいだけのことじゃないかと若い頃は思っていて、ひどい目にあってきた。まあ、そのあたりの話は省略。
 長いこと生きてわかったことは、まず、わけのわからない会話に対して、とりあえず同意の素振りをして、そこにさりげなく不可知アイテムに関連する情報を求めるキーを差し込むことだ。こんなふうに。

 「そうですかあ。鈴木さん困るでしょうね。いくつくらい補充する予定でしたっけ?」

 これで、「何言ってるんですか、自転車何台も置くスペースないですよ」とか返信があると、そうか、それは自転車か、という情報を得て、そして私は世界を新しく創造しなおす。どのように鈴木さんを創造するかが次の課題になる。
 なぜ、わけのわからない会話に同意の素振りをまずするようになったかというと、いったい人々はどうやってこの不可解な会話を乗り越えているのかと、人の会話を聞いていて発見したからである。
 人の会話を聞いていると、実は会話は成立していないことが多い!
 これは本当に面白いなと思うのだけど、どう考えても会話は成立していないはずなのに、会話のような状態は継続していく。なぜなんだろうといろいろ見ていくと、とりあえず、同意のようなシグナルを出していることが重要だとわかった。
 なるほど。とりあず、同意のようなシグナルを出しておけば、論理的には支離滅裂な会話でもあたかも会話のように進行するのだ、とわかった。
 しかし、苦しい。
 いや、もうだいぶ慣れた。
 こういうのを普通の人間は、幼稚園の砂場で学ぶのだろうか。
 私は学び損ねたのか、なんからの欠陥があるのか。たぶん、後者なんだろう。アスペに近いのだろうなと思う。
 先日、アスペチェックのサイトを見かけてそのチェックをしたら、ボーダーラインだった。
 そういえば、冗談交じりに「アンとサリーテスト」(参照)をやったことがある。こんなテストだ。

某「どっちだと思いますか?」
私「箱」
某「なんで?」
私「サリーがいない間にアンがビー玉を箱に入れたから」
某「なんでそう思ったの?」
「不確かな状況で不可解なことが問われるというときは、その状況から起きるべき事態と関連人物の行動パターンの可能性の事例をいくつか推測するんだ。この場合だと、ビー玉を探せという不可解な問いかけに対しては、アンがビー玉を隠すというのが一番ありそうなことだと思うね」
某「あなた、最悪ね」
私「え? なんでなんで?」

 
 

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2012.08.28

英語の「現在完了形」は、現在時制(テンス)+完了相(アスペクト)と考えると理解しやすいし、未来表現も相(アスペクト)が利用できる

 昨日だったか、はてなブックマークで「直感で学べる!英語ネイティブの11個の現在完了の使い方 - 大人気美女ブロガーミカエラさんの動画で英語学習」(参照)という記事に、644のブックマーク(参照)がついて目立っていたので覗いてみた。コメントが異常なほど多く付いているというわけではない。英語学習関係のブックマークは1000を越えるものも多いので、どっちかというとそれほど話題というものでもないだろう。ただ、アスペクトを教えているのかなと興味を持ったのだった。
 該当のエントリーだがそれなりに面白いし(女性がカワユス)、説明が間違っているというものでもないが、アスペクトの話はなかった。
 そういえば、学校英語ではいまだに「現在完了形」というのを教えているのだろうか。現在完了形というのは、現在時制(テンス)+完了相(アスペクト)と考えると理解しやすいのだが。と思って気まぐれに完了「相」のことをツイートしたら、どの文法書にありますかと問われた。

cover
文法がわかれば英語はわかる!
NHK新感覚・わかる使える英文法
 簡単に答えると、田中茂範著「文法がわかれば英語はわかる!」(参照)に詳しく説明されている。
 この本は、以前、NHKでやっていた語学番組「新感覚☆わかる使える英文法」を元にしている。番組では和希沙也さんが出ていて楽しかった。ツッコミのネイティブ役にはダリオ戸田さん。なかなかの才人だとも感心した。番組ではちょっとシュールなコントもあって、マイケル・ネイシュタットさんとSHELLYさんが演じていた。
 というわけで、「完了相」など「相」については先の本を読めばわかりやすく書かれているので、それで話はお終いでもあるのだが、簡単に要点をまとめると、五点ある。

  1. アスペクト(相)はテンス(時制)と組み合わせる。
  2. テンスは動詞の活用形に表れる時間で、現在と過去の二つがあり、英語には未来のテンスはない。
  3. アスペクトには、動作・状態のありようを示すもので、単純アスペクト、完了アスペクト、進行アスペクトの3つがある。
  4. 動詞のチャンク(まとまり)は、「助動詞+完了相+進行相+態」をテンスが支配して動詞に結合する。
  5. 動詞チャンクは必要情報を補い、構文を形成する。

 そこで、動詞の文法の要点は三点になる。

  1. テンス・アスペクトの調整を含む動詞チャンクをどう表現するか?
  2. 話し手の態度を表明するときどのように助動詞を使うか?
  3. 動詞チャンクを補う構文をどう表現するか?

 学門めいているのだけど、これは厳密には文法というより、学習者に英語をどのように教えるかという便宜を整理したもので、学門として文法と言えるかについてはまた別の話。ちなみに、イェスペルセン文法などでは時制を7つとしている。
 そんなことを学んで具体的にどうなのか?
 例えば、「越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文」(参照)にある次の問題などはすっきり理解できる。

A-11 His father writes scientific novels.

 これにこう解説がある。

英語の時制で一番誤読・誤訳が多いのは現在時制。理由のひとつは「~いる」という日本語に引きずられて進行形と混同するから。

 先の田中文法なら、これは現在テンス単純アスペクトなので、現在テンス進行アスペクトとは区別され、こうした解説は不要になる。
 似たように田中文法が活用できる例としては。

I'm leaving for New York tomorrow.

 現在テンス進行アスペクトなので、今この時間、話者は「leaving」の相にある。つまり旅立ちの状態にある。機能的には未来表現になってもいる。
 こんな感じですかね。

単純アスペクト: (゚Д゚)
進行アスペクト:((((゚Д゚))))

 とはいえ。

A: What time are you finishing?
B: I'm finishing at six tonight.

 みたいに進行アスペクトによる未来形を会話ですらっとは出て来ないんじゃないかな。ある未来の時点から現在の進行アスペクトとして未来を表現するということで、こうも言える。

I'm graduating in two years.

 未来表現の意味合いの違いはこんな感じ(参照)。

A: I’m graduating from the nursing program next semester.
B: After I graduate, I’m going to apply for nursing jobs.
C: I will probably find a good job at a hospital.

 使い分けだが、進行相は"arrangments(スケジュール上)"、"be going to"は"plans&intentions(計画)"、"will"は"predictions&hopes(期待)"といった感じ(参照)。
 BBCの学習サイトにも例文があったが、これが面白い。

  • be going to: I'm going to visit my cousins in Leeds over the coming weekend.
  • future progressive: I'll be visiting my cousins in Leeds over the coming weekend.
  • present progressive: I'm visiting my cousins in Leeds over this coming weekend.

 ご覧のとおり進行相が"will"と結合している。BBCのサイトでも"polite enquiries about people's plans"とあるように、これは実は、英語の敬語。なぜ、これが敬語になるかについては、先の田中文法の本にも説明があるので気になるかたはご参照を。
 未来表現のほうに話題が移ったが、英語は未来テンスを持たないので、アスペクトを駆使してこういうことになる。

cover
越前敏弥の
日本人なら必ず誤訳する英文
 話を戻して、英語圏での英語学習者にはどうアスペクトについて学んでいるのか、ざっと見回したが、はっきりとしない。「Collins Cobuild Active English Grammar」(参照)を見ると、日本での英文法書と同じだし、未来を表現する進行相などについての言及はない。ネットをざっと見回すと、ないわけでもない。"Understanding English Grammar"(参照)というサイトでは、4つのアスペクトを上げている。

A. The simple (infinite) aspect
B. The perfect (complete) aspect
C. The progressive (continuous) aspect
D. The Perfect Progressive (continuous) aspect

 田中文法の単純相を"simple (infinite)"として、"infinite"を強調しているのが興味深い。テンスについては"future"を設定しているので、機能・意味論的な傾向になっている。
 ESL(第二言語学習)関連のサイトでもこの4分類は見かける(参照)が、"Perfect Progressive"を単独の相として取り上げるかは議論が分かれるだろう。
 他、"The Internet Grammar of English"(参照)では、単純相を設定せず、テンスとアスペクトの2×2のマトリックスに単純に納めている。

 全体的には、英語圏の英語学習者ではアスペクトを学ぶという流れはありそうだ。が、日本の英語学習も明治以来長い伝統と歴史があるので、それはそれで日本独自の伝統として大切にしていきたいところ。
 
 

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2012.08.27

ヒメネスさんのキリスト画が優れたアートである5つの理由

 北東部ボルハ(Borja)の教会でエリアス・ガルシア・マルティネス(Elias Garcia Martinez)による「この人を見よ」(Ecce Homo)と題するキリスト画を元に描かれたるセシリア・ヒメネス(Cecilia Gimenez)さん(80)のキリスト画が、優れたアートである5つの理由ついて考察したい。


「この人を見よ」(Ecce Homo)

1 斬新なインスタレーションでありストリートアートである
 ヒメネス画は、教会という固定化された空間を作家の意匠によって異化させ新しい体験を促すインスタレーションであり、また既成権力によって形骸化された美術館やギャラリーといった閉鎖空間に圧殺された芸術の本質的な力を広い空間に解放し、人々のコミュニケーンを活性化させる斬新なストリートアートとして評価できる。


キリストを描いたストリートアート

2 ルオーの精神性を現代に再現している
 ヒメネス画は、素朴な筆致によって、作者の精神性のプロセスをなぞるように、逡巡しつつ、純真な信仰表現として、なんどもなんども上書きされていくという点から、ルオーのキリスト像、とくに同じタイトルの「この人を見よ」(Ecce Homo)との類似性が顕著である。その精神性は人々に感動をもたらす。


ルオーによる「この人を見よ」(Ecce Homo)

3 ベーコン風のデフォルメによって人間存在を描き出している
 ヒメネス画は、激しいデフォルメによって歪められた具象表現によって、人間存在の根本を描き出したアイルランドの画家フランシス・ベーコンの作風にも似いる。人間とキリストの存在をその違和感の衝撃をもって新しく現代人の魂に呼びかける。


Study of Head of Lucian Freud


4 諧謔はアートの伝統である
 印象派と深い関係にあったエドゥアール・マネの代表作「草上の昼食」(参照)はマルカントニオ・ライモンディの版画「パリスの審判」(参照)の一部をパロディにした作品でありながら、芸術作品として定着している。そのように画家が古典作品をベースに諧謔の作品を創作するのも芸術の伝統であることを、ヒメネス画は訴えかけている。


ダリによるモナリザ

5 芸術とは本質的にスキャンダラスなものである
 ヒメネス画は、現代世界に騒動とも言える大きな衝撃を与えたが、芸術はそもそもスキャンダラスな性質を持つものである。古典的な例としては、フランスの写実主義の画家ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)の「世界の起源」などがある。


ギュスターヴ・クールベ作「世界の起源」

 
 

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2012.08.02

夕涼みにマクドに立ち寄る

 夕涼みにマクドに立ち寄る。食事時も過ぎたせいか混んでいるふうもなかったが、カウンターではいろいろ注文している中年の男がひとりいた。私はその後ろに並んだ。
 注文が終わると彼はカウンターの横にずれる。さて私の番か。というとそうでもない。カウンターの店員は注文の対応に追われていた。他の店員もいるので、そう待たされることもないだろうと私は思ったが、しばらくそのままだった。そうしているうちに、別の若い男の客がカウンターの前に立った。私の前に立ったのである。割り込みということである。ありゃ。
 困ったなと思った。さてどうするか。客の動向を見ている店員もいるだろうから、カウンターに店員が戻れば、それなりの対応もあるだろう。お先のお客様は……私、ということにね。
 そうなるだろうか。
 ふと興味が湧いてしまった。案外、このまま、私は後ろに回されるということになるんじゃないかな。
 で? 考え込んだ。他にすることもなかったし。私はこの件で、不利益を被っているのか。
 私は、そうだな、もしかすると怒るべきなだろうか?
 怒るとしたら、誰に怒るのだろうか。私を無視してカウンターにつかつかと割り込んできたこの客に「あのー、私が先なんですけど」と言うべきだろうか。
 私の前に立った若い痩せた男を眺めると、なにかおなか空いてたまらんという感じでメニューを見つめている。カウンターに店員がまだ来ていないのだ。店員を待っている。
 私も店員を待ってみるかな。店員がカウンターに戻れば、私がさっきから並んでいたことを覚えているだろうし。
 店員がカウンターに戻った。
 「お客様ご注文は」と私ではなく、私の前の若い男に声をかけた。おおっ。
 私の後回しは決まった。
 こうなるとしかたないな。
 しかたない? 違うだろ。私のほうが先だよと言えばいいじゃないか。
 ここでまた考え込む。誰に? 割り込んできた客に? それとも店員に?
 注文を取り始めたカウンターに「私のほうが先なんですけど」と申し立てる意味はどのくらいあるのだろうか?
 どうせ私は、コーヒーかコーラを頼むくらいの些細なお客なのである。
 前の若い男は、ハッピーセットくらいは注文しているだろう。利益の上がらない客は後回しというのが、新しいマクドの方針かもしれない。まさかね。まあ、いいや。
 割り込んだお客の注文もそう長くかかるわけでもないだろうし。
 ところが、長い。
 そのうち、店内に新しく入ってきた客が私の後ろに並ぶ。そりゃそうだ。そして数名の列が出来る。わっはっは。私が先頭だと思った。空しい。
 それでもしばらくすれば、今度は割り込みもないから私の番になるだろう。そのときこそ、リベンジのチャンス到来。ふふふ。悪魔の微笑み。
 悪魔なのだから、まず表向きは紳士らしく、丁寧に注文をしたあと、ワン・モア・シング、そうだ大切なことを言い忘れていたよ、と言う。君、さっき私を無視してくれたね……。
 いや、そんな大人げないことしなくてもいいんじゃないか。大したことじゃないんだ。そもそも私になんか、マクドで認められるプライドなんか、ありゃしないのだし、敗者は敗者らしく黙って過ごしていけばいいんだ。
 そうだな。別に大したことじゃないな。
 というわけで、時は流れ、ようやく私は憧れのカウンターに立ち、コーヒーを注文した。
 お砂糖・ミルクはお使いになりますか? いえ。レシートはご利用になりますか。いえ。店員は私の脳内劇場を知らない。
 店員はコーヒーサーバーに向かって、コーヒーを注いでいた。そのときだ。
 割り込んできた若い男がまだそこにいたのだ。注文がまだ揃っていないのだろう。私のほうを見て、ちょっと済まなさそうな顔をして、もしかしてお先でしたか?と言った。
 かまいませんよ、と私は言った。
 彼は、そう、私が並んでいるのではなく、注文を待ってそこにぼうっとしている客だと思っていたのだ。ようやく私が注文する段になって、彼の世界の構成が変わった。この人、もしかして私の前に並んでいた客だったのか、と。間違いに気がついたのだ。
 それは、誰もがよくする間違いの一つということでもある。
 私は内心ちょっとほっとした。俺が先だみたいな変な主張しなくてよかったなと思ったのである。
 でも、とも思った。店員の態度のほうは、それでいいんか? 私が店のマネージャーだったら、これはまずいんじゃないかと思う。だが、これも考えてみると、店員もちょっとした間違いの部類だろう。
 これでこの話はお終い。
 教訓は……、うーん、なんだろ。まあ、些細だけど教訓に富んだ経験ではあったなと思うが、うまくまとまらない。
 コーヒーを持って、二階のゆったりした椅子でも探そうかと、二階を見回すと、食べたままのゴミがそのままになっているテーブルがいくつかあった。なんかいつもより汚い感じだ。今日の店員さんたちはもともとゆるい人だったということかもな。
 それでも、コーヒーは美味しかったです、とかなるといいオチなんだが、まずかったです。
 
 

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2012.07.30

「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」

 人生を振り返って、あのとき、これしか選択できなかったということがある。客観的に考えるなら、他の選択もあった。しかし、その可能な選択をしていたら、今の自分ではない。まあ、そこまではいいとしよう。
 今の自分が不幸だとする。その不幸の原因はあの選択にあったと考えるのが合理的だったとする。幸福であるためには、あの選択は間違っていたということになる。そういうこともある。
 そこで悔やむならつらい悔恨でもあるのだが、問題として難しいわけではない。難しいのは、不幸であっても、あの選択の上に生きて来た自分というがまさに自分なのだという自覚だ。これがやっかい。
 この問題でいつも思う挿話がある。「長崎先生」という人の人生だ。歴史に残る有名な人ではないと思う。明治30年頃の生まれではないかと思う。ちなみにグーグルとかで関連キーワードらしいもので検索しても特に情報はなかった。
 「長崎先生」は小樽教会の牧師だった。廃娼運動で逃げてきた女性を若い日の「長崎先生」はかくまったため、暴漢に殴打され聴覚を失い、その結果、職を失ったという。牧師を辞めることになったということだと思う。
 廃娼運動についてちょっと補足すると、と思ったが、意外と難しい。事典的には、売春婦公認制度を廃止の法整備を目ざす運動ということ。現代では当たり前のようだが長い運動の歴史がある。主体となったのは、この運動が世界的に展開されていたのと並行した近代主義者やキリスト教徒などあった。1886年(明治19年)に英国が世界初として公娼制度を廃止し、北欧国がこれに続いた。日本ではキリスト教派の救世軍が熱心に活動し、遊郭街で救世軍に逃れよとするチラシをまいた。
 「長崎先生」が救世軍だったか、あるいは彼のもとに逃げ込んだ女性が「長崎先生」を救世軍と思ったか、救世軍以外のキリスト教として「長崎先生」がこの運動に携わっていたかはわからない。私の印象では、逃げた女性は牧師さんならなんとかなると単純に思っていただけで、「長崎先生」としてもそういう当時の通念を普通に受け止めたくらいの偶然のことではなかったかと思う。
 聴覚を失い、職を失った「長崎先生」と夫人は、その後、彼らを支援してくる人に炭などを売って糊口を凌いだが、「長崎先生」の最期は踏切事故だった。聴覚のない彼は警報が聞こえなかったからである。
 「長崎先生」の人生とは何か?
 彼の元に逃げ込んだ売春婦の女性をかくまわなければ、暴漢に殴打されることもなく、聴覚を失うこともなく、そうであれば、職も失わず、踏切事故死もなかった。
 「長崎先生」にとって売春婦の女性をかくまわないという選択はあったか。牧師という手前、そんな選択はできないことだったかもしれないし、かくまうときは気安かったのかもしれない。どうだろうか。たぶん、「長崎先生」にとって売春婦の女性をかくまうことは自然な行為であり、同時に避けがたい行為でもあっただろう。他の選択はなかっただろう。
 暴漢に殴打されても聴覚を失うというのには偶然という要素も大きい。だが、「長崎先生」とっては、そうなっても違和感はないと思っていただろうし、おそらくそれによって殺害されることになっても、なんらためらうことはなかっただろう。
 これはさらっと聞くと倫理的な美談か、あるいは、牧師さんという宗教者にありがちな例に過ぎないようにも思うし、まあ、それはそうだろう。普通の人はそんな信仰はもたないし、そんな強い信仰は別の面で恐ろしいものだ。
 で、私にとって話の要点は、「長崎先生」って偉いすぎて自分とは関係ないとうことではなく、一つの生き方のなかには、選択に見えて避けがたい道があるということだ。
 それしか生きる道がないよ、ということだ。悲壮であるかもしれないし、諦観であるかもしれないが、いずれにせよ、自分が自分なら一つしか道がない。
 それが自分の欺瞞かもしれないということはある。そこまで自分というものに拘らなくてもいい。人は自分に拘って、英雄気取りで不可避の道を生きてみせることもある。あるいは、内心、躊躇したり、動揺したり、後悔したりする。
 でも、それが過ぎ去ってみると、自分のなかで、これは避けがたい道だったなという自覚に沈んでくるものがある。後悔に彩られていても、今の自分が生きるという前提をなしているとき、まあ、これ以外に生きる道なんてなかったじゃないか、あはは、みたいな部分がある。
 「長崎先生」にしてみれば、傍から見たら、不運で不幸だったかもしれないが、ごく普通の人生というだけだったかもしれない。
 さて、ネタバレというほどでもないが、「長崎先生」の話は、山本七平の「静かなる細き声」に出てくる。彼は「長崎先生」の人生をこう見た。


 人の生涯はさまざまであろう。外面的には、幸運な人もいようし、不運な人もいるであろう。しかし晩年になってみれば、おそらくその人の外面的な運不運に関係ないものが、一言でいえば、振り返って生涯に何の悔いもない「恵まれた生涯か否か」が、自ずとその人に表れてくるのであろう。そしてそれは、求めれば与えられるのでり、その人の幸不幸とは結局それだけであろうと思う。

 若い日にこれを当時の雑誌連載で読んだ私は、深く胸打たれもしたが、「晩年になってみれば」まで生きられた人はそれだけで幸せってもんじゃないか。それって、生存バイアスってもんじゃね、みたいに思った。ブログの記事に罵倒コメントを付けるようなことを思ったのである。
 この話を書いた山本七平は当時60歳で、まあ、晩年に近いという思いはあったのかもしれない。自分も生きていたらあと5年で60歳になるということに、びっくらこいちゃうんだが、晩年を意識してよいお年頃になってきた。
 結局、そんな年まで自分も生きられたんじゃないか、ラッキーと思うし、ラッキーというのは、生涯という何かが、ずずずんと沈んでくるようになった。
 ただ、それも欺瞞だろうな。
 生きられた人間だからラッキーということにすぎないからだ。
 どこまで生きられたらラッキーなのかというと、逆にそういう、なんであれ自分というものを受け取れるようになったということなのだろう。
 そうでない人生もある。
 最初からそうでない人生だってある。
 その意味は何かというと、さっぱりわからないから、「晩年になれば人生は……」という思いは欺瞞である、Q.E.D.と思う。
 それでも、この問題に背後に潜むなにかは、実は、晩年や人生などどうでもよく、「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」と問いかけているには違いない。
 
 なにか「君は今という時間、不可避の選択をしますかね」
 わたし「不可避だったら選択じゃないでしょ」
 なにか「これしかないという選択はないんですか」
 わたし「今日はちょっと暑いんでご勘弁」
 なにか「じゃ、また明日ということで」
 わたし「そういうことで、ここはひとつ」
 
 

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2012.07.29

誰が弱者か?

 2ちゃんねるのまとめサイトだろうか、「どっちが弱者ですか?」(参照)というネタが上がっていた。ネタだというのは一目見ればわかるが、この絵はちょっと奇妙な後味を残す。誰が弱者か?という難問の、どこかしら本質を突いているからだろう。

 5人の人がいる。左から。

 (a)貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人。
 (b)年収300万円の疲れ切ったブラック会社員。
 (c)年収250万円の派遣社員。
 (d)年収200万円のフリーター。
 (e)旦那が年収1000万円の専業鬼女。

 もちろん、ネタ元の「あなたの優しさで席をゆずりましょう」というときは、妊婦(e)や老人(a)に席を譲ろうという話だったのだが、これを「弱者」に問題をすり替えたとき、譲られるべき老人(a)も妊婦(e)も社会的な「強者」ではないのかというアイロニーである。
 もちろん、とまた言うが、この局面では座っている権利を持っている人が身体的な安逸の権利を持つ強者であって、身体的な安逸を望む弱者は、貯金がいくらあろうが老人であり、旦那の稼ぎがいくらよかろうが妊婦である。この局面でその権利はカネでは買えない。とすると、このことはこのネタの考案者の逆説になっていることがわかる。つまり、社会的な強者は、あらゆる場面で強者でもないということだ。
 しかし、と思う。カネで買えないのか? 貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人(a)や旦那が年収1000万円の専業鬼女(e)は、座る場所もない電車を交通手段に使わず、カネを使ってタクシーを使えば、当面の問題は解決するし、そうしたカネを使うこと、消費は他面においてタクシー産業の生産になり、それが経済を潤すなら、この社会的な弱者に回るカネにもなるのではないか。
 あるいは、とさらに思う。貯金4000万円の働かなくても年金生活の老人(a)や旦那が年収1000万円の専業鬼女(e)は、他の空いている時間帯が選べるのではないか。そうすることで逆に弱者に権利を譲ることができるのではないか。そうだなあ、それって、満員電車にベビーカーを乗せるなという問題にも似ている。
 さて、問題はなんだろう?
 ごく簡単にいえば、こうした局面はネタというか問題性を問いかけるトリックであって、問題自身は、年収300万円の疲れ切ったブラック会社員(b)、年収250万円の派遣社員(c)、年収200万円のフリーター(d)といった社会的な弱者を社会的にどうすべきかということであり、さらに言えば、そうした問題が社会問題であるのに、席を譲るといった個人の倫理の問題にすり替えたりそちらを突出させるのではなく、社会に問え、ということだ。
 それはそうだと思う。
 そしてこれらの社会的弱者をどうするかといえば、それは普通に政治的な課題でもあるのだろう。
 それは例えば、昨日の朝日新聞社説「最低賃金―底上げは社会全体で」(参照)にも通じる。


 賃金が安く、雇用が不安定なワーキングプアが増えれば、結局、生活保護費はふくらむ。
 こんな悪循環から脱出するためにも、最低賃金は引き上げていきたい。
 ただ、低い賃金で働く人が多い中小・零細企業ばかりにコストを負わせるのは酷だろう。社会全体で取り組むべきだ。
 経済構造を変えて、まともな賃金を払えるような付加価値の高い雇用をつくる。そこへ労働者を移していくために、職業訓練の機会を用意し、その間の生活を保障する。
 雇用の拡大が見込まれる医療や介護の分野では、きちんと生活できる賃金が払えるよう、税や保険料の投入を増やすことも迫られよう。
 非正社員と正社員の待遇格差も是正する。そのために、正社員が既得権を手放すことになるかもしれない。
 いずれにせよ、国民全体で負担を分かち合わなければならない。私たち一人ひとりにかかわる問題として、最低賃金をとらえ直そう。

 「賃金が安く、雇用が不安定なワーキングプア」の問題を解決するには、朝日新聞的には、「付加価値の高い雇用をつく」り、「そこへ労働者を移していくために、職業訓練の機会を用意し、その間の生活を保障する」というのだ。
 一見正解のようだが、「付加価値の高い雇用をつく」りというあたりで、社会主義の失敗がよく理解されていない。成長産業が何かは大筋で市場が決めることであって、計画経済では基本的に対応はできない。しかもそのために「税や保険料の投入を増やすことも迫られよう」とすれば、ますますその問題を悪化させてしまう。
 朝日新聞の提言はもう一つある。「非正社員と正社員の待遇格差も是正する。そのために、正社員が既得権を手放す」というのだ。それはとても大切だと思うし、よい提言である。ただ、そのことは「国民全体で負担を分かち合わなければならない。私たち一人ひとりにかかわる問題として、最低賃金をとらえ直そう」ということにはつながらない。
 冒頭のネタにあるようなブラック企業の社員も本来はその会社を逃げるべきなのだから非正社員のようなもの。なので、正社員の待遇格差も是正するという政策課題は明確にある。
 しかし、それが現在の政権からはもうまったく見えない。
 経済学的に見るなら、朝日新聞社説は話が逆になっている。

 今年中には報告書がとりまとめられるが、デフレ傾向を反映して保護費が引き下げられる可能性が高い。
 その動きに連動し、最低賃金を抑えようという考え方では、デフレを加速させかねない。賃金が低迷すれば、人々は低価格志向を強め、それが人件費をさらに押し下げる圧力になる。

 デフレは実質的な賃金を押し上げているから、その面でも、固定給のある正社員は守られているし強者である。デフレを解消することで、実質的な賃金を下げることで雇用が促進される。
 具体的な経済状況からすれば、デフレの圧力が掛かるのは非正社員なのだから経済構造的に非正社員が弱者だとは言える。
 しかしこうした考えも、朝日新聞のみならず、現在の政権には可能性が見えない。
 現実を考えると、お先真っ暗だなあという印象ばかり先に立つ。
 弱者はいつまでも弱者なのか。
 個人の倫理なりの面で考えるなら、まさに個人の価値観になる。
 そこで私はどう考えているかというと、弱者というのは偶然だろうなと思っている。
 先のネタ絵の5人しても、誰がそのポジションにあるということは、ただの偶然の采配に過ぎないのではないかと思う。
 むしろカネで解決できる問題に還元することが、弱者という偶然の構造を変えるための解決手段なのだから、モラルに問うより、カネに還元する社会構造が望まれるのではないか。
 貧富や労働という文脈では、経済の問題なのだから、経済の弱者は救済可能に思える。だから政治理念もあるのだろう。
 が、ここで個人の価値観に戻ると、弱者が偶然の産物であるということはもっと深刻な問題なのではないか。
 端的にいうと、人の美醜という問題がある。
 強者・弱者という文脈でいうなら、イケメンとブサメンと言ったところだろうか。人の美醜というのは、強者・弱者に深く関係していて、整形して解消できるという問題でもない。
 こういう問題というのは、いったいなんなんだろうか? 
 哲学で存在や認識を問うなんてことより、よっぽど本質的な課題ではないのか?
 「そうだよ」と言い切ってみせたのが、私の知る限り思想家吉本隆明だけだった。へえ、やっぱりそうかと思ったものだった。人の美醜というのは愛情という個別の人間の距離の関係においては無化されうるが、それでも本質的な問題として残るというふうに彼は言い切った。
 そうなのだろう。
 美醜ばかりではない。頭がいい悪いといったことも、おそらく同じように、やすやすとは解消されない根の深い問題だろう。
 強者・弱者であることが偶然だということを合わせると、およそ個人に帰する権利のようなものは存在しないことになる。むしろ、そういうことになっているから、「努力」によって自己なるものを獲得しようと人はもがくのだろう。
 だが、「努力」で獲得したものが自分だとも、やはり問い詰めていけば、言えないように思う。努力もまた偶然の産出に近いのではないか。
 すると、何が自分なのか? 偶然ではない自分の固有性というのは何なのか?
 これも吉本隆明は実質的に解いていた。この問いの文脈ではないが、人が生きるというのは、それしかないという不可避の道を辿ることだというのだ。
 それをちょっと無理矢理に先の文脈に乗せるなら、強者・弱者の偶然性を生きて、それ以外にはないというあり方を見出せるなら、それはその人の固有性になるということだろう。そこで、おそらく強者・弱者の偶然性は消失するだろう。
 これは奇妙に神学的な問題かもしれない。強者にせよ弱者にせよ、その偶然性がもたらす課題を不可避のものとして受容していく過程にしか、自己の固有性は得られないということだ。
 強者が幸せな人生を送る。弱者が不幸な人生を送る。しかし、どちらもその人生の不可避性に行き当たらなければ、そもそもその人の固有性などないのだから、幸・不幸には偶然的な意味しかない。
 ざらっと書いたが、また、吉本隆明がなぜそう考えたのかという背景を辿るのを省略したので、まるで宗教みたいだが、概ね、人の存在というのはそういうふうに出来ている。
 じゃあ、どうせいと?
 それを自分だけが答えるしかない。そのなかで、弱者も不幸も意味を失うのだろう。
 社会的に弱者であり、他者からは不幸に見えるし、社会的にも不幸というべき状態でも、これだけが自分の人生であったという不可避性にあれば、そこから、弱者の意味も、不幸の意味も剥落する。
 
 

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2012.07.27

人は誕生日に死ぬ確率が高い

 人が23人ほど集まると同じ誕生日の人が二人いる確率は50パーセント。半々というところ。本当だと思いますか? これって科学的? あるいは数学的? いや、知っている人は知っているよくある話だが、知らないと、ちょっと奇妙に思いがち。そう思う理由は、自分の誕生日と同じ誕生日の人というふうに暗黙に想定してしまうからだ。ところで、人は誕生日に死ぬ確率が高い、というのはどうだろうか。本当だと思いますか? これって科学的? あるいは数学的? 
 スイスの統計学者が、1969年から2008年までの250万人を対象に統計処理したら、そういう結果になった。論文のタイトルは「死は誕生日を好む(Death has a preference for birthdays)」(参照)。いや、ほんと。これは冗談ではない。"This is not a joke."と、この話題を扱ったBBCも書いている(参照)。偽科学でもない。じゃあ、なんなの?
 もちろん、科学的な事実だから、なんらかの科学的な説明を要する。あるいは科学的だからこそ、科学的に吟味したら非科学的あることがわかることもある。あるいは、「血液型がB型の人は自己チューな人が多い」みたいな血液型性格学のように、偽科学とかよく言われているけど、実際には日本人のように多数の人がそれを信じていると、自己予言のように統計的にその結果が出てしまうという奇妙なものかもしれない。……いや、これもその部類かな。
 科学というのはまず仮説を考える。「人は誕生日に死ぬ確率が高い」なぜなんだろう。うーむ。そうだ。人は誕生日まで死ぬの我慢しているのではないか? 何歳まで生きたいものだとか、思うというのも理解できる。これが誕生日忌日仮説その1。
 他にも思いつくことがあるぞ。誕生日というのはスペシャルデーだ。だから、何か普通の日と違う行動パターンをしがちで、それが死につながるんじゃないか。落とし穴を作っておいて、そこで自分が落ちて窒息しちゃうとか。仮説その2.
 仮説1は却下されている。理由は、もし人が死ぬまで我慢しているというなら、日付の思い違いなども手伝って誕生日当日を中央として死亡の確率が前後の日に偏るはずだが、そういうデータはない。ただ、誕生日に、ころっと死ぬらしい。
 仮説2はどうか? これも却下。これが当てはまるなら、事故死などが多いはずだが、そのデータもない。しかも、誕生日に死ぬリスクは事故や自殺よりも高い。
 なんてこった。
 何か合理的で科学的な説明はできないものか。
 そうそう、あれがありそうだ。統計にありがちなこと。データの収集はそれでいいのか、である。つまり、死亡届を出すとき、誕生日の欄と書き間違えることが多いんじゃないの、ということである。
 はっはっは、なーんだ。それでしょ。
 それも仮説。検証されたわけではない。ただ、誕生日に死ぬ確率は、性別や年齢などの要素に左右されないことから、生体としての人間の特性と関係ないことで発生したとは見られるようだ。
 書き間違え説が正しいのだろうか。科学的に考えるなら、書き間違いがその率で発生するという別の証拠が必要になる。しかも、その扱いがけっこう難しそうだ。というのは、そもそもこの問題は「人は誕生日に死ぬ確率が高い」なのだが、その検証の前提に「人の死は特定日に左右されない」という仮説を置くわけにいかない。
 いや書き間違いじゃないぞ、その書き換えにインセンティブが存在するんじゃないか、という疑念もある。スイスで相続の税法がの変化がありその影響がありそうだというのである。
 その話もへえと思うが、統計学者たるもの、そんな素人考えは考慮しないものだろうか。考慮はされているようだ。どうやら書き間違え説であっても、やはり4パーセントほど「人は誕生日に死ぬ確率が高い」。
 どうして「人は誕生日に死ぬ確率が高い」のか?
 答えは?
 わからない。
 
 

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2012.07.21

昨日の夜のノンアルコールビール

 お酒が飲めなくなったものの、夏の夜にはちょっとビールみたいなものが飲みたいなというときに、偽ビール。ノンアルコールビールを飲むことが多い。実体は炭酸水とさして変わらないが、まあ気分というもの。最近はそれなりに味もいいように思えてきた。昨晩も深夜、ふとノンアルコールビールが飲みたくなって、小雨のなか近所のコンビニに買いに行ったのだ。それだけのために。いつもは、スーパーとかで六缶入りとか買うのだけど。
 深夜のコンビニっていつも人がいる。きみたち寝ないのかねと思うが、そういう人がいるっていうのは、眠れない夜の優しさの部類じゃないか。さてと、とコンビニの冷蔵庫を開けて、キリンのにするかなと手に取ると、きんきんに冷えている。持っているだけで冷たくて指が痛い。これはいいと思って、いそいでレジに持っていく。これね、と言ってレジの台に乗せると、店員、まだ20代のお兄さんだろうか、バーコードでレジして、そこで「パネルにタッチしてください」と言うのだ。え?
 レジの機械のパネルを見ると、20歳以上であることを確認する、OK?みたいになっている。え? 俺、54歳ですよ。酒が飲めないからって、中年太りしてないからって、見りゃ、わかるでしょ。見えないネットですら、爺って言われるくらいなんだから。
 にへと笑って、そのとき僕はちょっと勘違いしたのだ。店員が冗談ではないけど、深夜で手順を間違えたんじゃないかと思ったのだ。これって、そのパネルの表示を見てもわかるけど、20歳以下の人にお酒を売らないというためのシステムですよね、むふっ。それにこれはお酒でもないし。
 で、なんとなく僕はぼけっとして、店員がちょっと困惑げな感じだったので、あ、それ袋に入れてくださいと言ったのだった。シールを貼った缶のまま持って、コンビニを出て、そこで一気にぐびーと飲むおっさんだと思ったんじゃないか。そうじゃないんだよ、家に戻って飲むんだよ。手で持ってると、冷たすぎるじゃないか。
 そうではなかったのだね。
 あの、パネル、と店員の兄さんは言うのだった。
 パネル? ああ、パネルね、そんなのあったよね。あは?
 あれれ、なんか世界が白いぞ。なんでここで凍るんだ?
 パネル確認してください、と店員は言うのだった。さっきのちょっとだけ困惑げな感じで。
 その時になって、わかった。そうか、俺も、これで20歳以上であることの確認するというか。俺、これに、同意するのか? え? 20歳以上の確認を54歳の俺が?
 ここで同意したからって、世間で下げる頭と同じようなもので減るわけでもないし、世の中というのはもともと理不尽の塊だし、じゃあとiPadでも触るようにタッチする。と、なんか、かすかにねちょとしたオーラみたいのが指先を、ちょりり~んと伝わってくる感じがして、なんかヤダなあという感じだった。でも、これでこの変なぷち凍った空気は終わるのでしょう。生きてるってめんどくさいね。
 小さいレジ袋に偽ビールを入れてもらい、受け取る。それでほんとに終わりでもよかったのだけど、他にレジに来る客はなさそうなので、ちょっと聞いてみた。
 これって、僕みたいにあきらかに20歳以上の人でも、タッチするの?
 はい、と店員は言うのだった。そして、それ以上聞くなよという感じもしたので、そこで、本当に終わりにした。こんな些細なことでも、深刻な恋愛でも終わりにするときは、そんなふうに理不尽をごくんと飲み込むものなのだ。
 もちろん、納得は行かないわけですよ。
 仮にですよ、あそこで、この俺が、いやあ、俺っち19歳だぁ、とか抜かして、こんなのタッチできないわ、とかこいたら、どうなっていたんだろう。
 そこまでやる勇気はない。むかし、マクドのお姉さんに、あとスマイル!スマイル!とか言ってたのはもう30年も昔のこと。
 家に帰る。深夜だし、やさぐれているので電気は明るくしない。節電のためでも反原発のためでもない。ただ、やさぐれているときは、薄暗いほうがいいじゃないか。さてと、と、グラスを取り出す。ビアグラスはあるのだった。
 偽ビールのプルリングを引き、どどっとグラスに注ぐ。まるでビールみたいだよなと思う。そして、あれ、僕はいつから缶ビールをグラスに入れて飲むようになったんだっけと思う。いや、そうじゃない。僕はいつまで缶ビールをそのまま缶で飲んでいたんだけっと思った。
 いつもそうしていた。
 いつもって、いつまでだい?
 30代まではそうだったんじゃないか。旅先でもそうだった。マルタ島にはなぜかハイネケンのビール工場があって、そのハイネケンも缶で飲んだ。香港で飲んだ青島はでっかいビンだったが、オリオンは缶だ。
 でも、もうずっとグラスに入れて飲んでいるなあ、俺。
 虚空に、ビールは缶で飲みますか?という架空のパネルが現れる。OKのほうを押してみる。なんか虚空のパネルからすーっと冷たく寂しいものが流れてきて、哀しくなる。
 そのあと、正確にいうと、すごい憂鬱になった。
 いやあ沈むなあと思った。沈む理由はわかっていた。こういうとき、酒が飲めるといいだよなあと思った。
 虚空のパネルに、お酒飲めますか、と出てくるけど、OKはタッチできない。キャンセルのほうをタッチする。
 キャンセル?
 なんだよ、それ。
 
 

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2012.07.19

2ちゃんの、英語のfriendを「ふりえんど」って覚えた奴w

 英語学習ネタはしばらくやめようと思っていたのだけど、2ちゃんねるのまとめサイトで「英語のfriendを「ふりえんど」って覚えた奴wwwwwww」(参照)というのを見かけ、いつもどおりざっと笑いながら読んで終わりとしようと思ったけど、もしかしてこれ説明しておいたほうがいいんじゃないか、と思い直したので、ちょっと書いてみますか。それほど正しい説明でもないし、他所で見かけない話というのでもないけど。
 具体的にタイトルにあるように英語の"friend"を「ふりえんど」って覚えるという話だけど、このスペリングはどう見ても、/fɹɛnd/とは読めない。なので強引に覚えるしかない。「ふりえんど」もしかたないということになる。
 それでも英語にはスペリングのルールのようなものがある。例えば、母音が二つ並ぶシラブルの場合は前の方ので代表する。これが当てはまるのは"people"の"eo"で、"e"が発音のカギで、続く"o"は発音しないといった場合。他にもこんなの。どれも、後で説明するlongの母音になる。


fair, paint, wait
dial, trial, vial
dua, fuel, juice
clean, hear, people
boat, coat, four

 ルールとはいっても"people"の場合"e"の後ろが"o"であることはやっぱり覚えないといけない。ついでにいうと、発音しない後続母音字は脱落しやすい。英国英語だと"colour"だけど、米語だと"color"になった。
 "friend"だがこのルールだと「ふらいんど」みたいになるはず。でもそうなっていない。じゃあ、ルールもなんもないじゃん、なのだけど、母音が二つ並ぶシラブルの場合で"i"が先の場合はそれを無視というサブのルールがあるにはある。ただし、"friend"と適用が違う。

field, lied, piece

 "diet"もそれと違う。ああ、残念。
 次。
 2ちゃんの例では、

baseballを「ばせば11」って覚えた奴

 これはスペリングのルールどおり。
 "baseball"は、"base"+"ball"と分ける。
 "base"なんだが、この語末の"e"は英語国民は"Silent e"参照)として習う。意味は「発音しないE」なんだけど、機能はその前のアクセントのあるシラブルの母音をlongにすること。
 で、longって何?だが、ようするに、a・i・u・e・oというラテン語母音字を英語では、longとshortに発音し分ける。longのはいわゆるアルファベット読みになる。発音表記はIPAを借りるとこう。なお、これが英語学習によいというわけではないのはまた別の機会にでも。

   long    short
A   eɪ   æ
I   aɪ   ɪ
U   uː   ʌ
E   iː    ɛ
O   oʊ    ɒ

 以上から、"base"は、b + long a +sで、「べいす」みたいになる。
 "Silent e"のルール例はこんな感じ。

      Without silent e   →  With silent e
slat      slate      /slæt/ → /sleɪt/
grip      gripe      /ɡrɪp/ → /ɡraɪp/
run      rune      /rʌn/ → /ruːn/
met      mete      /mɛt/ → /miːt/
cod      code      /kɒd/ → /koʊd/

 なお、"Silent e"は、頻繁に使う語彙に例外が多い。

come, done, give, love

 次は"ball"だけど、これは"al"と"aw"は/ɔ/と発音するルールから「ぼーる」になる。「ぼうる」みたいに「う」の感じは入らない。日本語だと「あー」に近い。なお、"aw"は語末でないと、"au"になる。"launch"は、「らうんち」ではない。「らーんち」みたいな感じ。
 いずれにせよ、"baseball"は発音ができると、以上のルールからスペリングも決まる。
 ということで、英語を母国語としている人は、子どものころから発音を先に覚えて、それをスペリングにするルールを覚える。
 発音ができて、スペリングの基本ルールを覚えておけば、たいていの英語のスペリングが書けるということにもなり、実際のところ、英語のスペルチェッカーはそれが主目的になっている。まとめると、発音どおりに英文ワープロに入力すればほとんどのスペリングは修正してくれる。もっとも、やばい例外もあるにはあるので注意は大切。
 次。

soccerを「そっけら」って覚えたやつwwww

 これもだいたいルール通り。
 重要なルールは、単語はシラブルで分けるということ。シラブルって何かだけど、母音を1つ含んだ発音の単位。詳しくはこれも別の機会に説明するかもしれないけど、いずれにせよ、"soccer"は、"soc"+"cer"にわけられる。"Silent e"もなく、longの母音もないので、発音の /ˈsɑk.ɚ/ からだいたいスペリングが決まる。
 ただし、英語単語の慣例からすると、"socker"となりかねないし、"sucker" ( /ˈsʌk.ɚ/ )という単語もある。"c"がどういうふうに英語単語に出てくるかというのは、Centum-satem isogloss(参照)という問題がある。GIFを「ぎふ」と読むか「じふ」なども関連する。外来語の語感でだいたい決まる。でも、これらも明瞭化のために変化しやすい。英国英語だと"licence"だけど米語だと"license"になった。
 次。

Favorite ファヴォリテ

 これもだいたいルール通り。ポイントはシラブルに分けてアクセントの位置を確かめること。"favorite"は、fa + vor + iteになる。"Silent e"があるけど、"ite"にアクセントがないので、shortの母音になる。"vor"もshort。そして、"fa"にアクセントが来てlongなので、「ふぇいう゛ぁりと」になる。ちなみに、"ite"は現代語ではschwaになっているようだし、"vor"はr母音ではなくr音だけになっている。
 次。

acquire 
は覚えにくかった
qがマジ曲者

 シラブルで分けると、ac + quireで、"q"は通常"u"伴って"k"の子音を示す。アクセントは二番目になるので、quireが「くわいぁ」みたいになる。で、qの前のshortの"a"を示すために、"ak"なんだけど、Centum-satem isoglossで"c"になる。
 次。2ちゃんではないけど、

フィラデルフィアは「ぴーえいちあい ラデル ぴーえいちあい ア」だお。

 というけど、これもほぼルールどおり。シラブルに分けてアクセントの位置を確かめる。delにアクセントで、fila + del + fia。可能性としては、lを重ねてfillaかもしれないが、そこにアクセントはないのでshort母音でlが一つ。すると、filadelfia。おっとこれはスペイン語。英語ではギリシア語の外来語として、fをphにするので、"philadelphia"になる。
 すべての単語がこういくかというと、発音で覚えるんじゃなくスペリングから覚えやすい単語だとたまに混乱がおきる。たとえば、"jewelry"はネイティブも戸惑う(参照)。

I always said it like "JEW-LER-REE".
Is it suppose to be like " JEW-ELLE-REE"?

 いずれにしても、英語ってどうして発音とスペリングがめちゃくちゃになってしまったのかという大きなテーマがあって、これはまた別の機会にでも。
 
 

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