2005.06.18

心の問題は現代の文化の問題とは言えそうだが

 スルーしようかなと思ったネタでもあったけど、少しだけ。先週、米国では、米国国立精神保健研究所(NIMH)の発表が話題というかネタになっていた。話は、現代米国人の26%はなんらかの精神障害の兆候を見せているものの、専門家の対応を受けているものは17%にすぎない…というようなこと。

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精神疾患は
つくられる
 こんな語り口もある、”健康プラスα 私の本棚:『精神疾患はつくられる ―DSM診断の罠―』”(参照)より。

NIMH(国立精神保健研究所)が行った疫学研究、いわゆるECA研究では、アメリカの成人の32%が生涯に何らかの精神障害にかかり、20%は常時その状態にある、という結果がでているからだ。

 リンク先を見ていただくとわかるが、この記事は、「精神疾患はつくられる―DSM診断の罠」という書籍がそう語るのだ、として、こう続ける。

 どうやら、科学的根拠に基づいて決められたとばかり思っていた診断基準も、政治や文化、経済などの要因によって左右されるかなりあやふやなものだったのだ。それでもこのバイブルには、診断基準の文章をほんの少し変えるだけで、何百万もの患者を増やしたり減らしたりする影響力がある。
 だから、「DSMは普通の人間的な感情しかないところに無理やり精神の病気をみつけだしている」と著者たちは批判する。この世にそんなに多くの精神障害者が「いる」のではなく、全世界に100万部以上も売れているマニュアルが、精神障害者に「した」というのである。

 よく言われることでもある。比較的知識層に読まれただろう十二日付けニューヨーク・タイムズ”Who's Mentally Ill? Deciding Is Often All in the Mind”(参照)も似たようなトーンだった。

But more than anything, historians and medical anthropologists said, the rise in the incidence of mental illness in America over recent decades reflects cultural and political shifts. "People have not changed biologically in the past 100 years," Dr. Kirmayer said, "but the culture, our understanding of mental illness" has changed.

 ということで、この話は、ネタとしては大筋で現代の文化のありかたに還元することが多い。ついだが、同記事では日本の状況についても文化的な背景として言及していた。
 ネタとしてはそんなところで終わりだが、もうちょっと踏み込むとどうなのかという話もないわけではないし、オリジナルと思われるNIMH”Mental Illness Exacts Heavy Toll, Beginning in Youth”(参照)もきちんと読み込むべきかもしれない。特に、若者の問題として考えなおす意味もあるのだろう。
 とはいえ、個人的にだがそれ以上あまり関心の進む話題でもない。この話いろいろ語られうるが、それで現代の文化のありかたがどうとなるものでもないし、具体的にこうした問題に現在苦しんでいる人たちの助けにもならない。
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青空人生相談所
 そういえば、橋本治の「青空人生相談所」だったか、相談者が別に日常生活どってことないけどエレベーターに乗ると少しパニックになってうんぬんというのに、橋本はそれって大問題ですよ、と答える話があった。言語化できないから身体に出るのだと。たしかにそういうこともあるろう。
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最新心理療法
EMDR・催眠・
イメージ法・TFT
の臨床例
 それに、宗教的な話をしたくはないが、人生にはなにか不思議な局面というのはあり、人の人生というか運命に強く関わっているようにも思うことがある。オリビア・ハッセーが演じるマザー・テレサの映画のスチルを見ながら、よく老けたなという以上に、マザーのことを少し思った。なにが彼女の心を動かしたかはわからないが、見方によっては、そう生きることしかできなかったとも言えるのだろう。運命に逆らわない生き方がその結果でもあっただろうし、それに逆らう生き様というのは可能だろうか。ふと、ヨナ記のことも思うが省略。
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EFTマニュアル
 心の問題は脳の問題とかにもされる現代の文化でもあるがそうとばかりも言えないだろうし、知的なアプローチだけで片が付くことでもないだろう。反面、個々人の具体的なケースでは、TFTやEFTといったシンプルなセラピーできっかけで好転することもありそうだ。

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2005.06.15

米国の話だが保障の薄い医療保険は無意味

 米国の話なので日本国内での報道はないんじゃないかとも思うが、今朝見たロイター系のニュース”A little insurance is like none”(参照)が心に引っかかった。標題が端的でわかりやすいので意訳すると「保障の少ない保険はかけてもかけなくても同じこと」という話だ。
 私事だが、このところ、保険はどうしましょうかと人の相談に乗ったりしていたので、その関連の資料をちらちらと見る機会があったのだが、なんとくなくだが、薄い保険って宗教的なお守り以上の意味はないんじゃないか、と思っていた。批難の意図はまるでないが、健康診断不要の保険というのは、いったいどういうバランスで成立しているのだろうかとも疑問に思った。
 ニュースを少し引用しよう。


A little health insurance is not much better than none at all, according to a study released Tuesday.

Officially, about 45 million people in the U.S. go without health insurance, but 16 million people pay for limited coverage that puts them in about the same boat financially and medically as those with no insurance at all, the study found.

These "underinsured" individuals are nearly as likely to be the target of medical bill collectors and to forego needed medical care, the study published in the journal Health Affairs found.


 米国では医療保険未加入が四千五百万人。とすると、五人に一人くらいは保険なしということか。そして、千六百万人が保障の少ない保険で、この部分は、今回の調査によれば、掛けていても掛けていなくても同じということだ。しかも、そういう薄い保障では、結局のところ、いざという場合の医療費はかなりの負担になる。
 この先、ニュースを読むと、その薄い保険というのは、収入の10%を当てている層らしいが、元の収入で違いがでそうなものだがそのあたりはよくわからない。しかし、ざっと収入の10%以上を医療保険にかけろという話でもあるのだろう。
 こうした話を聞くと日本というのは良い国だなと思うし、クリントン(当然ヒラリー)上院議員が大統領夫人だったころ必死に医療保険改革に取り組んで挫折したのも実に残念だったことのようにも思える。
 そういえば、米国の個人破産は高額な医療費によるというロイターの記事が二月にあった。"Half of Bankruptcy Due to Medical Bills -- U.S. Study"(参照)で読める。なお、なぜか米国民主党代理みたいな翻訳転載が多いブログ「暗いニュースリンク」に私的な翻訳がある(参照)。
 ここがポイント。

"Most of the medically bankrupt were average Americans who happened to get sick. Health insurance offered little protection."

 この記事は要するに、医療保険がないことが問題なのではなく、保障の薄い医療保険に意味がないことを示しているというものだ。
 日本の社会は米国化しており、「自己責任」とかいうおフダでこうした不運としか言えない疾病までも個人の問題に還元しつつある。しかし、根幹のところでは、まだまだ日本社会は大丈夫だとは言えるようにも思う。
 とすると、さしあたっては、保障の薄い保険にどれだけのメリットがあるのか、ある種の算定が可能なようにも思うのだが、そういう資料を見かけたことはない。私が知らないだけかもしれない。

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2005.06.10

新薬と世界のこと

 昨日の国家の適正サイズの話と少し関連するのだが、このところの医薬品業界まわりと国家の関係でぼんやり思っていたことをちょっと放談ふうだけどまとめたい。放談というのは本当はソースとかきちんと参照させつつ書くべきなんだけどそこを記憶に頼るよということ。間違っていることも多いかも。
 新薬の開発が非常に難しい時代になりつつある。その理由は、単純に言うと、安全性や効果調査を含めて開発費用があまりに莫大になるためだ。今後は巨大製薬会社しか生き残れないという様相でもある。こうしたこともあり、国際的には製薬会社の再編成がどんどん進み、少し遅れていたかに見えた日本国内でもそうした大きな潮流に呑まれつつある。
 新薬開発費用が増大になるということは、それだけの資本と市場が重要になるので、小さい国家に閉じては行なえない。するとどのレベルの国家のサイズが背景に必要となるか、とも思うのだが、すでにツッコミの声を聞きそうだが、医薬品業界と限らず大企業はすでに国家に閉じてはいないし、その資本も国家にまたがって存在する。一般論で言えば、ドイツなどは国内経済という面でみれば破綻かもの状態だがそこに根を持つ国際企業はいけいけの状態である。このあたりの、超国家(スーパー)企業と国家の関わりというのはよく言われていることではあるが、私などはすっきりと腑に落ちているものでもない。
 国内の医薬品産業をざっと見ると収益に占める市販薬(OTC)の比率がそう高いようにも思えないし、もともと日本は医療についてはそういうコングロマリットでもあるのだろう。いい悪いといことではなく実態の歴史として。国際的にはどうかというとちょっとよくわからない。きちんと調べとけでもあるが、それでも、海外先進国では意外なほど大衆薬の比率が高いように思える。
 こうした大衆薬の市場で最近までニュースの連発だったのはCOX-2選択的阻害というジャンルのもので、安全な鎮痛剤として、米国では発表時期がバイアグラと同じだったこともあり、それと同じくらい人気だったが、日本国内では規制もありしょぼく、大衆薬市場には影響を与えなかった。COX-2選択的阻害は大腸癌などの抑制にも関わっていると見られておりそうした研究が進められているなかで、副作用が発見された。副作用、つまり利用者にとってもナイマス要因がどれほど高いのかは、冷静にリスク判断してもよさそうなものだが、私の見た印象だが、製薬会社の情報隠蔽などと相まって米国などでは社会ヒステリー的な様相にもなった。別の言い方をすれば、ヒドロコドンなどの鎮痛剤の悪用とともに米国というのはそこまで鎮痛社会なのかとも思うし、日本ではそうした側面がただ隠蔽されているだけかもしれない。

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クスリ社会を生きる
エッセンシャル・ドラッグ
の時代
 大衆薬の話題としてはぼそっと現れては消えるというのを繰り返しているのがスタチン系の薬だ。これを英国では大衆薬化するかという話題はいろいろもめたが実施になる。米国ではまだそこまで進みそうでもないがどうだろうか。スタチン系の薬は日本では総コレステロール抑制の処方薬として、言い方は悪いがこれほど効く薬はなかったというくらいシャープなため、あっという間にン兆円の市場になった。これと昨今週刊朝日が頼みの綱としているコレステロールは高くてもいいのだネタと搦めて一部で騒いでいたが、あらかた国際的な常識に落ち着いたふうでもある。スタチン系の薬は他分野でもいろいろ重要な効果をもたらすようで、このあたりの身体代謝と人間の生存にはもう少し深い問題があるのかもしれない。が、極言すれば、スタチン系の薬はそれほど重要な薬とも私などには思えない。
 COX-2選択的阻害薬もそれほど人類に重要なのかというと、低容量アスピリンで足りるのではないかとも思える。ということだったが、昨日心臓発作抑制と血液凝固阻害のリスクバランスの点では低容量アスピリンにはそれほどメリットがないというニュースもあった。事態を総合的に見ればそうでもあるのだろうが、各事例と処方ではやはり有効なのではないか。そういえば米国では癌発生を促進するとして大騒ぎした女性のホルモン補充療法も結局は落ち着くところに落ち着きつつある。要はリスク・テークのバランスの問題でもあるし、やや不可解なのだが、日本人はある種の健康リスクから免れている不思議な国民のようでもある(特に乳癌の率が低い)。
 話が個々に移りそうなので大筋に戻すと、新薬開発は市場的には意味を持つだろうが、依然飢餓レベルの大量の人口を抱える現代世界にとってそれほど意味のあることなのか、そのあたりをどう考えていいのかよくわからない。WHOでは、基本的な医療に用いる基本薬をエッセンシャル・ドラッグとして三百種程度にまとめている。これにビタミンA投与の体勢があれば、世界の人々のかなり数が救済できる。
 反面、エイズなどは、おそらくエッセンシャル・ドラッグでは対応できないだろうし、まさに巨大製薬企業が作り出した新薬に希望を繋ぐことになる。その場合の、新薬の市場メリットであるライセンスがどうなるかということは、インドのコピー薬との関連もあって、けっこう国際的には話題になった。このあたりの話題は日本にはないとは言わないが、あまり見かけないし、通時的に追跡しているジャーナリズムも存在していないような印象も受ける。
 エイズは現状では国際的には恐ろしい広がりを見せているのだが、私は今でも覚えているのだが、大学生の時、Newsweek(当然英語版)の、金魚鉢を眺めている写真が表紙の号で、エイズという奇病があるよ、という、なんというかネタかぁみたいな話だった。四半世紀前か。それでも昨日のように思うのだが、奇病かと思っていたものが人類の危機にもなった。
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世界の
エッセンシャルドラッグ
必須医薬品
 気になるのは、エッセンシャル・ドラッグや栄養を充実させることで多数の人が救われるとして、少数の難病の人々を救済するにはやはり新薬が必要だろうし、そしてその手の新薬は大きな市場ではないと難病者の市場にならないという意味でグローバル化が必要になる。
 こんなことを言うと電波系のようだが、難病というのは将来の人類の問題を先駆しているかある種の本質に関わるのだろうとも思うので、やはりその研究は進めてもらいたい。それを世界全体のありかたのなかでどうバランスしていくのか。
 話のオチとしては、新薬開発はグルーバル市場の原理だけではうまくいかないだろうが、国家・国際市場の補助というわけでもなかろう。むずかしいものだが、それでも、先進国での大衆薬のあり方にはある種の抑制的な制御は必要かもしれないな、と思う。

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2005.06.09

国家の適正サイズ

 英語のニュースの標題をざっと見てたら、おっ、またネタがあるよ、と思えた話があったが、エキサイト・ビックリとかに明日出てくるかもしれないし、「あのなぁ二日続けてネタ書くからマジレス・マジトラバもらうんじゃん」とご示唆もいただいたので、少しマジな話に戻す、といって、ダルフール問題をマジにやるには鬱になるほど重過ぎる。そこでつまんない話でソースなしだが、このところぼんやり考えていることを書く。
 考えているのは、「国家の適正サイズ」ということだ。国家というものには適正なサイズというものがあるのではないか。各種の外交上の問題や国際問題はこの適正サイズの不都合から発生しているのではないか、とそんな感じが以前からしている。
 サイズといっても単純に領土の広さということではない。むしろ、その国の総人口が一番目安になるだろう。いったい国家というのはどの程度の人口が運営に最適なのだろうか。そういう問いは成り立つだろうか。

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台湾の命運
最も親日的な隣国
 「国家の適正サイズ」という発想は、私は歴史学者岡田英弘の「台湾の命運―最も親日的な隣国」で知った。この本は台湾を知る上では重要な本だがすでに現状とはズレが大きく、また表層的には岡田の予想は外れたかのようにも読める。特にこの本では、台湾というのは国家の適正サイズという条件で優れているので前途は明るい、というトーンで書かれている部分があるが実態はそうではない。それでも、国家の適正サイズにあるという指摘は正しいように私には思える。
 台湾の人口は二千二百万人。だいたい、二千万人と見ていいだろうか。統計上の領域には大きな違いがあるが、オーストラリアもその程度だ。
 これに一千万人ほど多いのがカナダで、三千万人弱。韓国が四千万人を越える。スペインが四千万人を割る。逆に、一千万人代くらいの国家というとギリシアがそうだ。スウェーデンが一千万人を割る。キューバが一千万人程度。チリが一千万人強。国民文化の色が濃い印象を受ける。
 二千万人の線で見ていくと、先の台湾、カナダの他に、マレーシアがある。オランダはやや欠ける。
 大雑把に五千万人クラスだとイギリス、フランス、イタリア、タイと軍事面や国際的なプレザンスが強くなる。
 こうして見ると国家の適正サイズというものがありそうにも思える。一つの国民文化なりが維持できるのが一千万人程度であり、二千万人程度で取り敢えず意義のある軍備がもてるようになる。国土や歴史の問題もあるのだろうが、二千万人から四千万人というのが近代民族国家の適正サイズだろう。
 そこを越えてくるあたりから、いわゆる対外的に国民国家的な主張が強くなり、米国やロシア、中国といったスーパー国家との対立も出てくる。韓国や統一朝鮮といったものの昨今のどたばた騒ぎも、そうした国家の適正サイズのある臨界の現象なのではないか。
 政治的な統合はできずとも、経済が優先される現代世界ではEUなども実質スーパーパワーになりうるし、おそらくその陰にある二千万以下の国家は事実上吸収されてしまう可能性もあるだろう。台湾は、岡田の指摘とは逆に、国家の適正サイズのもっともウィークな位置にあるかもしれない。
 日本はといえば、これから将来的には八千万人くらいに縮退するとしても、依然スーパー・パワーに近い国家なので、その意味では、いわゆる国家のお付き合い的な外交からは優位にズレる性質があり、それゆえ近隣のスーパー・パワーである中国や、軍志向の国民国家の朝鮮などは日本をできるだけ叩けるときに叩いておきたいところだろう。逆に言えば、日本は少し離れた同等のインドネシアなどと組み、また台湾、マレーシアレベルの国と連携して、中国や朝鮮を押さえ込むようにしていけばよいようにも思える。ただし、それでもスーパー・パワーの力学のほうが大きいから、中国のプレザンスに対しては日本も親米と親露の政策が重要になるだろう。
 スーパー・パワーとしての日本の内側という点では、国家の適正サイズを越えているため国民国家的な統合から外れる力学がもっと働いてよさそうなものだが、現状ではまだそれほどひどくはない。日本の都市部と地方は分離し、都市部は、他のスパー・パワーが内在しているスーパー都市(上海・北京など)と並ぶ形になっているが、そうしたかたちでもいまだ地方を分離しきってはいない。スーパー・パワーというものは、スーパー都市を機能とする超国家的な存在で、地方を効果的に従属させるものではあるのだろうが。
 もう一点、国家の適正サイズというとき、市民・社会(コミュニティ)・国家という三項がどう関連するかも気になる。ちょっと話がぞんざいになるが、国家の適正サイズを決定しているのは、内在的には、社会(コミュニティ)の限界でもあるのだろう。心理的には同国民が同胞に感じられるサイズがその限界だ。これには、現代のIT技術やメディアも関連してはいるだろうがいずれにせよ、社会(コミュニティ)がどれだけ内在的に意識されるかということになる。
 ところが国家の適正サイズを越えるあたりから軍事の色合いが濃くなるように、対外的な戦争なり暴力装置の様相が強くなる。レーニン流で言えば、国家とは暴力装置なのだろうが、現代世界では国家が内向きに暴力装置となるのは中国を含めた独裁国家の特徴であり、それ以外では、(シモーヌ・)ヴェイユ=吉本(隆明)の定理とでも言うべきか、軍の存在は相互に他国民を使って自国民を殺害可能にするためシステムとなる。愛国たれ=死ね、というシステムがこうした国家の臨界を決めている。
 ただし、そういう一方的なモデルでもない。国家の適正サイズは、おそらく市民を封殺する社会(コミュニティ)からその市民を国家が保護するという機能にも依存している。社会(コミュニティ)というのは公義(としての正義と法)を持ち得ないので、その調停として国家が必要になるし、おそらく福祉サービスもこの側面の国家の機能でもあるだろう。一見すると社会(コミュニティ)が福祉の原点であるかのように日本人は思いがちだが、公義の原則性を持ち得ない社会(コミュニティ)はその市民社会に内在する暴力性を制圧することはできない。
 杜撰な話に杜撰な話を重ねるのだが、現代は、国家の適正サイズを越えて国軍を含んだいわゆる民族国家とスーパー国家の経済、民族移動(労働者移動)という点で、まさに国家の適正サイズのバランスが崩れたために、さまざまな問題を引き起こしているように思う。

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2005.06.02

住基ネットを巡る二つの裁判判決

 昨日の大手新聞各紙の主要なテーマは、住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)からの離脱の権利を巡る、二つの異なる方向と見られる裁判結果についてだった。ひどく簡単に言えば、先月30日の金沢地裁では住基ネットの危険性を認め離脱の権利を示唆したの対して、31日の名古屋地裁ではその情報はプライバシーと言えるものではないとして原告の請求を棄却した。
 私はこの件について、昨日は、各紙社説を読み比べながら、どうでもいいやという思いと、なぜそんなにこのシステムにこだわる一群の人がいるのだろうかと、むしろ、そちらのほうを訝しく思った。さらに、社説によっては、住基ネットの保全性など関係ない話がごちゃごちゃと混じっているのも奇妙に思えた。
 今日になって、ぼんやりと少し再考してみたがそれほど考えはまとまらない。ただ、なにか心にひっかかる感じがするので、そのあたりをとりあえず書いてみたい。
 まず、情報システムとしての住基ネットの問題点については当面触れないことにする。それは当面の話題ではないからだし、技術の問題は技術で解決できるのが基本だからだ。次に、住基ネットが実現されればそれはとても有用だからという視点も捨象したい。有用性は国家のサービスの本質的な問題ではない。三点目に、住基ネットが住民の重要なプライバシーを扱っているかという点で言えば、そうではない。名古屋地裁判決のように、個別に扱われているのは、氏名、住所、生年月日、性別だけなので、これは例えば公共サービスを享受する際のプライバシーと言えるほどのものではない。
 ここまでで話をストップすれば、当然、名古屋地裁判決が妥当ということになるだろう。大手新聞紙の社説で言えば、ここまでの線が産経新聞社説”住基ネット訴訟 より合理的な名古屋判決”(参照)と、これにかなり近い線が読売新聞社説”[住基ネット]「離脱を認めるほどの危険はない」”(参照)だ。なお、毎日新聞社説”住基ネット裁判 なぜこうなってしまったのか”(参照)は論点も外れているし、技術的な側面でも頓珍漢なので読む価値はない。
 朝日新聞社説”住基ネット やはり個人の選択に”(参照)はその点、ここから一歩先の問題に踏み込んでいる。つまり、金沢地裁判決をよく読み取っている。


 住基ネットを使えば、全国の市区町村の窓口で簡単に「本人確認」をすることができて、どこでも住民票の写しを取れる。そうした便利さを認めたうえで、二つの裁判所の判断が分かれたのは、住基ネットで扱う氏名、住所、生年月日、性別の四つの情報と11けたの住民票コードをどう見るかだった。
 金沢地裁は住民票コードに着目し、その危うさを指摘した。行政機関には税金や年金、健康保険など様々な個人情報が集められている。住民票コードをマスターキーにして、別々に保管されている情報を結びつけると、「個人が行政機関の前で丸裸にされるような状態になる」と述べた。

 この問題を私から補足するとこうなるだろう。

(1)住民票コードが、IT用語、グローバル一意識別子(GUID:Global Unique Identifier)のように国民についての一意の識別子になる。
(2)これが各種のプライベート情報のマスターキーにされうる。
(3)国民に一意でかつマスタキーとなった識別子が国家によって保証される。

 金沢地裁が問題視したのは、(2)のマスターキーとしてのありかたそのものだろう。
 しかし、ある種のデータベースを作成するなら、そのようなマスタキーは必要になるし、特に設定しなくても、いくつかのカラム(列)の項目を連結してリレーションをかければ、事実上の、データベースに限定された、かなり一意に近いリレーションは可能だろう。少し、意図的に余談をするのだが、インターネットの世界ではすでにクッキーを使ってそのような巨大なデータベースが作られつつあるはずだ。
 そしてそのようなデータベースの作成ということを、国であれ企業であれ、法的なりに押し止めることはできないだろう。さらに、国家もこうした側面ではサービスでしかないのだから、こうしたデータベースを作成するな、とも言えないはずだ。
 私は間違っているのかもしれないが、問題は、(3)ではないだろうか。そのマスターキーを国家が保証してしまうかのように振る舞うことが問題ではないか。結果的にリレーションができるとしても、それが国家に統一的に、かつ個別のサービスから超越した形で直結されるのは問題だろう。
 とすれば、個別の住民サービスという限定された住基ネットはサービスの側から規定されるもので、全ての国民を一意に網羅する前提は不要だろう。
 考えてみると以上で行き詰まる。
 なるほど。考えてみると、昨日までの印象とは違って、自分が金沢地裁判決を支持しているという結果になった。さらに再考してみるが、そうなるものだなとちょっと不思議に思う。
 蛇足を少し。日本ではあまり話題にならないようだが英国ではブレア首相がやっきになって、主として不法就労者排除のために、生体識別情報を含めた国民IDカード法案を進めている(参照)。また、アジア各国でもそうした傾向はみられ、タイなどではその方向にあると聞く。現実問題として、こうした動向への国家側の要請は強く、日本もそうした流れのなかにあるだろう。以前にも少し触れたと思うが、日本の場合でも、英国のような意図があるのではないかとも思う。
 もう一点はまったくの蛇足だ。なにか忘れているなというのを書きながら思い出した。ダビデ王の大罪だ。といえば、つい文学的にはバテシバの事件を思い出すが、もっと神の怒りに触れたのは、民の数を数えようとしたことだ。なぜそれが罪だったのだろうか(モーゼも数えていたが罪ではない)。なぜだったのかなと考えてみたのだがわからない。民を数えようとする王は罪深いのだろうか。

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2005.05.31

伝統社会的な人間は現代社会において心を病むものではないのか

 話は海外小ネタものなので他のブログが取り上げているか、すでに翻訳が出ているかわからないが、今日付のロイター”Trauma common feature of American Indian life”(参照)が興味深かった。
 標題を現代日本語で訳すと「ネイティブ・アメリカンの生活ではその多数にPTSD(心的外傷後ストレス障害)が見られる」となるだろうか。いや、それはちょっと悪い冗談だ。シンプルに訳せば「アメリカ・インディアンの生活の多数にトラウマ(心的外傷)が見られる」となるだろう。
 冒頭も簡単に意訳しておこう。


More than two-thirds of American Indians are exposed to some type of trauma during their lives, a higher rate than that seen in most other Americans, new research reports.

"American Indians live in adverse environments that place them at high risk for exposure to trauma and harmful health sequelae," write Dr. Spero M. Manson and colleagues in the American Journal of Public Health.
【意訳】
 最新の調査によれば、三分の二のネイティブ・アメリカンがその人生において数種類のトラウマ(心的外傷)の症状に置かれており、この比率は他のアメリカ人よりも高い。
 調査を行ったスピロ・マンソン博士らは、アメリカン・ジャーナル・オブ・パブリック・ヘルス誌で「ネイティブ・アメリカンは、トラウマや健康にとって危険な後遺症を示すリスクの高い逆境のなかで生活している」と記載している。


 症例を持つ比率はアメリカ人の二倍程度らしい。
 オリジナルの調査は同誌のWebページ”Social Epidemiology of Trauma Among 2 American Indian Reservation Populations”(参照)で読むことができる。
 調査では大きな二つのネイティブ・アメリカンのグループが対象となっている。興味深いと言ってはいけないのかもしれないのだが、言語、移民、貧困の問題といった点で異なるグループでも、植民地化という点での共通点があり、その派生として、同質のトラウマが見られたようでもある。トラウマの内容については十六種に分かれていて、典型的な項目にはすぎないのだろうが、洪水や火事などが私には気になった。
 アメリカ国内でネイティブ・アメリカンの置かれている状況については、最近の私の読書のなかでは、極東ブログ「 [書評]蘭に魅せられた男(スーザン オーリアン)」(参照)に触れられている話が興味深かった。米政府としても、土着のネイティブ・アメリカンの文化を配慮しているようすは伺える(それが同書ではねじれた問題を起こしている)が、それでも、現代文明とネイティブ・アメリカンの生活の軋轢は強く印象付けられた。
 以下は私の印象で、多分に間違っているのかもしれないとは思う。というか、「パパラギ」「リトル・トリー」といった偽書のように、とんちんかんなことを言っているのかもしれない。
 この調査について私は、ネイティブ・アメリカンの生き方というものが、根本的に米国の現代文明とうまく折り合いが付かないのではないかと思った。凡庸な意見でもあるのだが、私なども若い頃はアメリカナイズした文化のなかに置かれてなんとか適合しようとしたが、うまく行かなかったし、歳を取るにつれ、より日本的な文化のなかに心の安らぎを見いだすようになってきた。
 日本人はかなり上手に近代化した国民と言えるのかもしれないが、西欧的な現代化の世界のなかではうまく生活していくことはできないのではないかとすら思う。そして、そうした生きがたさというのは、とりあえずは個人の心の問題として浮かび上がるのだろうが、これもなんというか、もっと大枠としての文化の無意識の病のように思えてくる。
 話はさらにそれていくのだが、バルザックだったか、後年人生を振り返って思い起こすことは四つだったとか言っていた。いわく、結婚した、子供が生まれた、父が死んだ、母が死んだ、と。
 「自己実現」ということはよくわからないのだが、自分の才能なりを充分に開花して生きるということが個人の問題に還元されているように思う。しかし、人というものは、男女であり(結婚した)、親であり(子供がうまれた)、子であり(父が死んだ、母が死んだ)というある種のひな型のようなものを辿るようにはできている。それは、もちろん、現代の社会では、選択として現れる。
 しかし、こうしたひな型的な人の経験というものは、選択として現れるものというより、それを元に我々を存続せしめた要因であり、それを「大事にせよ」とする個人を越えた心理的な枠組みが伝統的な文化の心性に存在するだろう。
 伝統的な心性は現代社会では病みうるものだし、それが病むということ自体がその重要性の側の問題を提起しているようにも思う。

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2005.05.27

社会事件と説明の関係ということ

 昨今の少女を拘束する事件にはあまり関心を持っていないというか、あまり立ち入った関心を持つのは品が悪いと思ってやりすごしてしまうのだが、先日NHKのラジオでこの問題について宮台真司が出てきて解説していたのを聞いて、奇妙な感じを覚えた。それって間違っているよ、と言いたいわけでもない。ちょっともどかしい感じがするので、書きつつ考えてみたい。
 彼はこうした事件を、まず心理面と社会面と二つ要因あるとして分ける。のだが、冒頭から私はちょっとつまずく。要するに、彼は事件ではなく、事件の背景を説明したいということらしい。そういうことかと思って聞く。
 彼の考えでは、心理面は、大半が古典的な精神医学で説明できる、としていた。正確な言葉ではないが、曰く、現代の青年は、精神発達の過程において必要とされる、全能感・万能感の断念ということができていないため未熟であることが多い。彼の説明では、人というのは、その精神的な発達において、母親的なものに全肯定され万能感を持つが、その後父親的なものに接して自分は限界づけられたものだということを受け入れていくものだ、と。これができないと……このあたり論理が飛躍していると私は思うが……対人関係で対等な人間関係を築けずに相手を支配下に置こうとする傾向が出てくる、と。
 フロイトやラカンの学問を少し学んだ人間なら前半は常識の範囲であり、これらがどのようにその後の国際的な精神医学で受け入れられてきたかという過程を多少なりとも知っている人は、ドン引きとまでは言わないでも、ちょっと引くのではないか。仮にこれが説明として十分であっても、父親的なものつまりファルスの復権が重要になるのだが、それは現代日本社会に可能なのか。この点は、この先の話で宮台は矛盾しているようにも思う。
 社会面ではと、彼は切り出すのだが、私には奇妙にも思えるのだが、心理面と類似だ、としている。そして、宮台の言説に慣れた人なら毎度の歌が流れ出す。曰く、90年代以降、日本の社会では、女性のほうが男性よりコミュニケーションで優位に立ちやすい、と。理由は、トレンドなど社会の情報を処理する能力が女性のほうが優れているためだ、と。これに対して、男性は、性的に開放されたという女性のイメージだけを勝手に受け取ったものの、未だに男性はコミュニケーションなしで女性に対して優位でいられると思っているようだ、と。だが、実際にはそういかないため、男性は劣位になってしまった取り返しとして暴力が出てくる傾向がある、と。さらに、宮台はこうした状況は、これは先進各国に見られるとしている。のだが、はて、これは何の説明なのだろうかと私は思う。当の事件は、日本的なものではないということなのか。
 と、私のちゃちゃがうざったい文章になってしまったが、事件の解説としては奇妙な印象を受けた。
 この先さらに、なぜ少女が自分が逃げられなかったについては、宮台は、恐怖の条件付けとストックホルム症候群を挙げ、そして、今後日本社会はどうすべきかということでは、人間の関係を支配と被支配の二項対立で見ることをやめて豊かなコミュニケーションが必要になる、と宣う。また、彼は、こうした二項対立は国際外交の世界でも同じだ、という。このあたりで、私はちょっと、それってジョークかと思える。
 最後に彼は、男女の関係で、男性が劣位でも構わないという社会に変える必要があるが、日本社会は未だに男性に対して男らしくなければいけないとメッセージを発信しているのが問題だ、とする。
 私はよくわからん。私の要約が間違っているかもしれないが、最後のところ、つまり、男性が旧来の男性らしいというイメージから自由になる必要性、というのは、それって先のファルスの必要性と矛盾しているのではないだろうか。
 書き方が拙いので、宮台真司への批判のように受け止められるかもしれないが、そういう意図ではなく、私が気になるのは、これが当の事件の説明として社会的に充足しえるのだろうか、という点だ。
 社会は、こうした事件について、それなりのある対応の見解を持ちたいものだ。そしてそれを常識と整合させて社会を営んでいく必要がある。それに、この説明が十分なのだろうか? 宮台と限らず、こうしたタイプの、とぞんざいにまとめるのもいけいないが、いかにも西洋輸入思想みたいなもので継ぎ接ぎされた説明の言葉が一般社会的に説明の意味を持つのだろうか。
 話の方向を変えて、お前さんはどうだね、こうした事件をどう思うのかね、と問われると、私はどう答えるか。
 まず、心理的な背景のようなものは原則的に捨象していいのではないかと思う。個人のこうした幻想域に社会はあまり関心を持つべきではないと思う。問題は、それが社会という契機で、つまり、私との関係性で問題になるとき、私はどのような原則で向き合うかということだ。
 今回の事件の一つでは保護観察のシステムにエラーがあった。その意味では、JR西の脱線事件と同じようにシステムの問題がまずある。そして、システムが十分に機能していてもなお問題が発生するかというと、そこがよくわからない。ある一定数の犯罪は、自由主義社会のコスト域にあるので、それを越えてるのかという点がよくわからないのだ。社会学者には、むしろ、そうした点での説明を期待したいと思うのだが。

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2005.05.25

橋梁談合って何が問題

 昨日の新聞社説のネタではあるが、大手紙はすべて橋梁談合事件を扱っていた。巨額な公金が投入される大型鋼橋建築に関わる橋梁メーカーに談合の疑いがあり、すでに公正取引委員会から検察庁に告発されている。検事らによる関係各社の家宅捜索も始まっている。
 なぜ談合がいけないかというあたりは朝日新聞社説”橋梁談合 ペナルティーが軽すぎる”(参照)が啓蒙的だ。


 公取委の資料によると、過去に入札談合で立ち入り検査に入った後、落札価格は平均で18%下がった。
 鋼橋の売上高3500億円を当てはめると、1年間に600億円もの不当な利益を業界は手にしていることになる。これはすべて税金だ。談合は数十年も続いていたという。罪はきわめて重い。

 朝日新聞は、このように「罪はきわめて重い」としているのだが、そのあたりに私は違和感を持った。業界はまるで罪の認識などしていない。ふてぶてしいと朝日新聞などは考えているようなのだが、傍から見ていると、実際には、それってたいしたことないよね的な業界内の空気があったのだろう。
 というのも、朝日新聞社説でも指摘されているが、談合の場合、受注額の6%の課徴金(来年施行の改正では10%)、また関わった個人には3年以下の懲役や罰金、会社には5億円以下の罰金が科される、となることがわかっていながら、業界は特に変わりもしなかった。
 読売新聞社説”橋梁談合事件 『官』とのなれ合いはなかったか”(参照)では一歩踏み込み、これって官民の癒着はなかったかと問いつめている。

 橋梁工事の大半は、国土交通省や日本道路公団などが発注する公共工事だ。本社の調べでは国交省が2003、04年度に発注した5億円以上の橋梁工事の落札率は予定価格の平均95%にも達する。こうした問題は、橋梁業界だけなのかどうか、という疑念が指摘されている。
 問題は、長期間、談合が繰り返された背景だ。発注側の国などが知らなかったとは常識的には考えにくい。談合を事実上見過ごしコスト削減の意識を欠く、予定価格の設定をしてはこなかったか。

 この業界は裾野が広いので、これが秘密裏に行われていたとは、読売新聞の言葉を借りれば、「常識的には考えにくい」。
 実際は、多くの人が知っていたでしょう。当然、新聞社の記者さんでも知っていたでしょ。つまり、知っていて、朝日新聞などは正義面して厳罰がとかほざいてみせている、というのが実態でしょ。いや、知らなかったというなら、それはそれで記者失格じゃないですか。
 新聞記者はプロでブロガーはアマチュアとだというけったいな議論が散見されることもあるが、こうした問題でちゃんとプロを通してこない新聞記者になんの意味があるのかわからないし、職業ブログが求められるとかの雰囲気で「実は今回の談合では…」とさらっと書ける人もいるわけもない。
 と、いうのがみーんなわかっていて、この手の議論をしているというのが、ジャーナリズムもブログも交えて仲良しの現状だし、私とてもやばげなネタは書かない。書くとどうなるかは腹をくくった人でもそれなりのダメージは受けているのも、なんかなぁ、こういう世界かと思うくらいだ。
 話を橋梁談合事件に戻す。端的にこの問題のなにがいけないかといえば、国民の税金をくすねていた企業は許せんということのようだが、それもこうした構図で見ると、国側や、独禁法改正をゆるくしたい日本経団連も、一種のコスト認識だったのではないか。あるいは、富の再配分という意味合いがあっただろう。
 そういうコスト認識と富の再配分という一種の暗黙の国策をこれから止めますよというディスプレイが今回の「事件」ということなのだろう。と、書くとそれだけで陰謀論扱いされますか。
 問題は、国の内部でどこがどう権力のシフトあって方針決定が変わったのか、また、その方針をこうして見せしめにするだけの背景的な意味はなにか、ということだろう。
 そこがブログとかで追及できるのかわからないし、ブログにはブログなりの社会認識と変革の意識が目覚めて別の道を開くのかもしれない。
 新聞記者さんたちがこの問題をどう考えているのかわからないといえばわからないが、先に、記者さんだって知っていたでしょと問いつめたものの、知ってて書かないという世間を知っていたからこそプロの記者さんだったかもしれないし、そこの甘い酸っぱいのわからない記者さんとか出てくると変な光景が見られるのかもしれない。

同日追記

 談合内部で大きな諍いがあった模様。
 日本経済新聞”橋梁談合、専業と兼業で対立”(参照


 国発注の鋼鉄製橋梁(きょうりょう)建設工事を巡る入札談合事件で、大手メーカー17社で構成する談合組織「K会」で激しい内部対立があり、受注調整の仕切り役が2001年度に三菱重工業から横河ブリッジに交代していたことが25日、関係者の話でわかった。個別工事の受注を巡る橋梁専業の10社と兼業7社の対立が根底にあったとされる。

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2005.05.18

世界経済フォーラムによる日本の男女格差調査

 日本は国際的に見ると男女格差(ジェンダー・ギャップ)の大きい国である、と言っていい。一六日に発表された「世界経済フォーラム」の報告書”Women's Empowerment: Measuring the Global Gender Gap”(参照)によると、主要58カ国のランキングでは38位と、中の下というか、下の部類になった。それだけ聞くと、先進国にあるまじき女性差別の国だよなということになるし、実際、そう言ってもそれほどハズしているわけでもないということになった。
 ざっと上位ランクキングを見るとこんな感じだ。

  1. スウェーデン
  2. ノルウェー
  3. アイスランド
  4. デンマーク
  5. フィンランド
  6. ニュージーランド
  7. カナダ
  8. 英国
  9. ドイツ
  10. オーストラリア

 上位は北欧が多く、次にコモンウェルスが目立つ。先日の国別学力調査でも北欧はよい成績だったので、さすがに平和な時代の長い国は社会が進展するものだと言いたくなる。
 ちなみに現実の主要国で見ると、米国は17位、フランスは13位、ロシアは31位、中国は33位、という感じの並びで、日本が38位。なんとなく国の民度を表しているようでもある。これに韓国54位と続けると、ちょっと笑える。韓流とやらで韓国人男性を好む日本人女性も多いと聞くが、恋愛はいいとして、現実にその社会でやっていくのは大変かなもと思える。
 このあたりで話を終わりにしておくと、いかにも日本の新聞とかの記事のように、それげな感じがする。私は、この結果を見て、かなり違和感を持った。
 ちょっと他の国も見てみる。逆に見る。58位エジプト、57位トルコ、56位パキスタン、55位ヨルダン…というわけで、イスラム圏の国が並ぶ。そりゃ、この手の調査をするとそうなるだろうとは思う。が、これらの国をどうやって上位させるかというのは見えてこない。ここには文化圏の価値観との衝突があるだろう。それをどう考えたらいいのだろうか。国力がアップすれば自然に女性の地位は向上するとも言える側面はあるが、それは解消に向かう指針でもない。
 もうちょっと見る。イタリアは45位と日本より低い。イスラエルは37位で日本とどっこいどっこい。そして、アルゼンチン34位。スペイン27位。その国の文化的な傾向への依存が感じられる。コスタリカ18位、ポーランド19位、ベルギー20位、ハンガリー24位、チェコ25位…この当たりはロシアや中国のように社会主義圏的な要因だろう。
 いったい、どうやって調査してのかというのは、オリジナルを読んでいただければわかるが、日本語で読みやすい朝日新聞記事”男女格差の少なさ、主要58カ国で日本は38位”(参照)を引用しよう。


国連のデータや聞き取り調査などに基づき、女性に関する経済への参加度、雇用機会の均等性、政治的な決定権限、教育機会の均等性、健康への配慮の5分野を指数化して算出した。

 やや恣意的なものも感じるがそれほど間違ってもいない。指標もこんなものだろう。というか、この手の指標を使うと、北欧のようなスモールサイズで重税的な先進国が上位にくるものだ。たぶん、隠れたパラメーターは国家の適正サイズというものと、経済学でいう比較優位ではないが、移動かもしれなない。というのは、米国などは、実際にはスモールサイズの国家の集合なのだが、移動が自由なので均衡してしまう。
 ざっと見た感じでは、私の印象では、こうした指標によるこうした調査が無意味だとは言わないが、それをもって、それぞれの国がどう受け止めるかというと、文化や国家体制の基幹が問われるので現実的には洒落にしかならないのではないか。とはいえ、日本については、政治的な決定権限などで、もっとアファーマティブな施策が求められるだろう。
 ついでにというか、データを取り出して、エクセルに入れて、教育機会の均等性と健康への配慮の順位を掛け合わせた値でソートしてみた。なんでそんなことを思いついたかというと、父性的な保護国家は女性の経済への参加度、雇用機会の均等性、政治的な決定権限といったその国家での男性領域と衝突せず、それでいて福利的な立場に立つんじゃないかと思ったからだ。この思いつきの結果はこうなった。

  1. スウェーデン
  2. デンマーク
  3. フィンランド
  4. アイスランド
  5. ノルウェー
  6. 日本
  7. アイルランド
  8. 英国
  9. ウルグアイ
  10. アルゼンチン

 予想はしていたが、もう一条件で北欧とか小規模国家をフィルターアウトしてしまうと、日本は1位になる。日本は国家が女性を保護している構造を持つ国家ということは言えそうだ。そして、それに英国やアルゼンチンが続くというのは、保守的な古い国家の枠組みを持っているということなのだろう。
 もっとも、日本がこれで上位になると予想したのは、健康への配慮が3位と際立っていたからでもある。
 日本は今後、その健康への配慮の順位が落ち、女性の経済への参加度、つまり、女性に労働させるという指標が上がるようになるだろう。そのあたりはバランスしてこうした報告では日本の中の下状態を保持する機能になるだろう。
 日本でのこの分野の問題は、雇用機会の均等性や政治的な決定権限だろう。後者はアファーマティブな施策が必要だろうが、前者は制度的には改善されているし、これだけ女性教育が普及しているのにその制度が改善されないとすれば、ちょっと批判を浴びるかもしれないが、女性の社会政治意識にも問題があることになるだろう。
 日本男性の社会意識はと問われればこれは苦笑領域にある。5日の毎日新聞社説”少子化 流れが変わるとすれば男が変わるときだ”(参照)を思い出した。


 家庭が幻滅の源泉であるとすれば、理論的には夫婦の共同責任だが、現実には男の責めに帰すべきだ。なぜ? 私はフェミニストというほどの人間ではないが、この社会で、そして家庭で女性が割を食っているのは自明だと思う。

 日本の中年男性はそんなふうに考えているわけだ。

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2005.05.06

An Englishman's home is his castle.

 どちらかと言うとブラックジョークみたいだが、創作童話「博士(はくし)が100にんいるむら」(参照)ほど不正確でもなく、でも日本人にしてみると洒落にもならない話。ネタ的にはちょっと古い。先月米時間で二六日、ブッシュといっても弟、ブッシュ・フロリダ州知事が、フロリダでは市民が正当防衛で銃を行使してもよいとする新法に署名した。ロイターでは"米フロリダ州の新法、危機回避義務のない正当防衛認める"(参照)と普通の外信扱いだったが、エキサイト・ニュースでは、同じくロイターではあるものの、色ものの(((世界びっくりニュース)))"身の危険を感じたら相手を射殺してもOK フロリダ州の新法案"(参照)にしていた。日本のエキサイトは洒落だと思っているのだろう。
 従来なら、服部君事件(参照)のように、州によっては、不法侵入者と見なされる場合には、銃行使が認められていた。が、今回の立法では、結果的に、公共の場でごく主観的に脅威を感じた人が行使してもよい(正当防衛)とするもので、日本人の感覚からすると、冗談でしょ?的な印象を持つが、しかし、洒落ではない。
 共同”市民の武器使用を大幅緩和 米フロリダ州、新法に波紋”(参照)では今回の件について、次のように伝えていた。


 新法は、自宅や勤務先だけでなく公共の場所での武器使用も認める内容。警察関係者からは「酒に酔った野球観戦帰りの群衆に脅威を感じた場合など、不必要な発砲まで認められる危険がある」との指摘が出ており、新法は波紋を広げそうだ。
 法の制定を呼び掛けていた全米ライフル協会(NRA)は「新法は自宅を安全な“城”にするものだ」と強調し、他州でも制定を求める意向。

 記事はこれで終わるので、後段の“城”の意味が取りづらいか、あるいは日本人にもそのくらいは常識でしょということか、ちょっとネットを見回したのだが日本語のサイトには解説が見あたらなかった。
 ので、老婆心で補足すると、まず、自宅の居住者を守るために不審な侵入者を殺害してもよいというのを"The Castle Doctrine"という。が、英辞郎にも用語としては掲載されていなかった。で、ここでなぜ"城"が出てくるかというと、高校英語で誰も学んだと思うが、英語の諺である"An Englishman's home is his castle."または"A man's home is his castle."、つまり、「自分の家は自分の城」という諺に由来している。
 英語のサイトを見ると、辞書の孫引きとして"Re: An Englishman's (a man's) home is his castle"(参照)があり、これが英国コモンロー(不文律原則)との関連で指摘されている。

A MAN'S HOME IS HIS CASTLE - "This saying is as old as the basic concepts of English common law.," From the "Morris Dictionary of Word and Phrase Origins" by William and Mary Morris (HarperCollins, New York, 1977, 1988).
 
"You are the boss in your own house and nobody can tell you what to do there. No one can enter your home without your permission. The proverb has been traced back 'Stage of Popish Toys' (1581). In 1644, English jurist Sir Edward Coke (1552-1634) was quoted as saying: 'For a man's house is his castle, et domus sua cuique tutissimum refugium' ('One's home is the safest refuge for all'). First attested in the United States in 'Will and Doom' (1692). In England, the word 'Englishman' often replaces man." From "Random House Dictionary of Popular Proverbs and Sayings" by Gregory Y. Titelman (Random House, New York, 1996).

 今回のフロリダ州でのこの立法支持者による興味深い解説" The “Castle Doctrine”The right to defend against attack"(参照)でもこの点が強調されていた。

The “castle doctrine” is enshrined as a sacred right in English common law. It holds that, if you’re wrongfully threatened or attacked in your home or on your premises, you have already retreated to the wall and can stand your ground and meet force with force.

 日本人の感覚からすると呆れるし、そんなにフロリダって危険なの?とか思いがちだ。はてなQでもこんな質問が立っていた(参照)。

「身の危険を感じたら相手を射殺してもOK フロリダ州の新法案 | Excite エキサイト : ニュース」http://www.excite.co.jp/News/odd/00081112929445.htmlというニュースを読みました。ビックリしました。フロリダってそんなに危険なのでしょうか? 日本にいるとこの法律の必要性が分かりません。マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」とかは見ましたけど。フロリダでこのような法律が必要とされている事情について、アメリカに詳しくない人でも分かりやすい、詳しいページがありましたらお願いします。

 しかし、そういう話のスジでもなく、英米法の法学的にもそう簡単な問題でもなさそうだ。
 なお、先の支持者サイトに次のようにあるように、米国社会では、この法案をSenate Bill 436 (SB436) / House Bill 249 (HB249)として参照している。

Two companion bills (Senate Bill 436 and House Bill 249) would allow Floridians to use deadly force to resist attacks in their homes or vehicles. Proponents say current case law is fuzzy, especially in the hands of liberal judges, when someone breaks into your house or car.

 この法案が実施されるとフロリダはどうなるのか? エキサイトのニュースでは次のようなコメントで締めていた。

反対者は、この法律は人種差別的な殺人と議論の果ての殺人が増加する可能性が高まるとしている。民主党のアーブ・ソロスバーグ議員は「この法案で、銃の販売が促進され、フロリダ州はOK牧場になってしまうだろう」と嘆いた。

 実際にそうなるのだろうか。私は、率直なところ、こんな法律はまったく支持できないが、すでに立法してしまったのだから、結果を社会学的に慎重に見てはどうかと思う。なんとなくだが、私の印象では、典型的な事件発生よりも、警察のあり方も大きく変わるのではないかと思う。
 現状このフロリダの傾向はまだまだ主流にはなっていない。アリゾナ州の場合は、州議会レベルで、酒場に銃を持ち込んでもよいとする法案が成立したが、ジャネット・ナポリターノ(Janet Napolitano)知事(民主党・女性)の拒否権(Veto)によって廃案になった。話が少しそれがちだが、アリゾナ州の政治というのは、ある意味で非常に面白いもので、日本の政治にも参考になる点はあるかもしれない。ネットを見渡すと、やや古いが"女性躍進のアリゾナ州政府"(参照)が手際よくまとめていた。

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2005.05.05

日本の小児科医療についての雑感

 連休中なので軽いネタがいいと思うけど、少し重めのネタ。ただし、扱いはごく軽く。日本の小児医療のことだ。最初におことわりしておくと、こういうふうに文章にすると、どうしても医療批判になりがち。しかし、それで済むことではない。現場がそれこそ医師の献身で成り立っていることを私も知っている。
 ニュース的には、「こどもの日」ということでのネタなのだろうが、NHK”1~4歳の死亡率 日本は高い”(参照)から。小児医療の現状について国立保健医療科学院の田中哲郎部長のグループが実施した比較研究の発表が元になっている。


研究グループは、アメリカやドイツ、それにフランスなど先進14か国について、WHO・世界保健機関に報告されているデータを基に、死亡率や死亡原因などを比較しました。その結果、日本のゼロ歳児の死亡率は、人口10万人当たり340人余りで、スウェーデンの337人に次いで低かったということです。ところが1歳から4歳の幼児に限ると、10万人当たり33人で、アメリカの34.7人に次いで高く、犯罪などで死亡したケースを除くと、死亡率はアメリカを抜いて14か国中、最も高くなっていました。

 私の認識違いがあるかもしれないが、ゼロ歳児の死亡率は計算上は平均寿命に影響するはずで、この部分、つまり、出産の医療体制をしっかりすることがまさにその国が先進国であるかどうかを分ける。日本はこの部分で戦後大きな進展を遂げた。
 問題は、引用はしなかったが、この報道の後段では、日本の一~四歳の幼児医療体制を、いわゆる先進国レベルにすれば、毎年三百五十四名の子供の命が救えるとしている。
 このニュースはそれほど驚くべきことでもなく、厚労省側もある意味で熟知していることでもある。ジャーナリズム的にも小児科医療の体勢としてときおり問題となる。
 私がちょっと気になるのは、以前のエントリでも少し触れたことがあるが、小児科という医学の側面だ。その分野が進展してないのがよくないという単純な話ではないのだが、こうしたニュースに接するたびに大西鐘壽氏による、16版メルクマニュアルの後書き(1994年)を思い起こす。

 最後に本書の小児疾患と遺伝の訳者として率直な感想を述べたい。本書には現代小児科学の膨大で複雑かつ多岐にわたる領域について極めて高度な内容で、しかも今日的な課題が取り上げられている。改めて医療における小児科学の重要性を痛感さざるを得ない。米国の医科大学では各診療科の教授以下のスタッフの構成は内科が最も多く、次いで小児科が内科にほぼ匹敵する位置にあり、以下外科、精神科、産婦人科などと続き、本書の各診療科別のページ数の比率もそれに準じた形になっている。翻って我が国における小児科学の現状をみるに目を覆うばかりの貧弱な体勢である。小児科学の卒前教育に費やされるべき時間は最低300時間とWHOにより提唱されているが、現下の我が国では実に150時間前後に過ぎない。

 この文章が起こされて10年が経過したが現状の変化はなかったと思う。
 なんだかったネタ元を忘れたが、先日読んだ英文の記事だったと思うが、……米国の地域医療や小児科医療にもっと尽くしたと考えている若い医学生は多いが、その進学に借り入れた際の学資の返済を考慮して、どうしても高所得な医療現場を志向せざるを得ない、そこが改善できるシステムはないか……、というような話があった。
 日本の場合、医学生と限らず、十分な奨学金は得難い。まして、出世払いで貸与する民間ローンもないように思う。小児科医を志向する医学生にどかーんと基金を打ち立てられないものかと思うが、そのあたりから夢想の領域になるのだろう。

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2005.04.15

外国人との婚外子と国籍の問題

 今朝の大手新聞各紙社説では、朝日、毎日、産経が国籍法をテーマにしていた。話は、13日の地裁判決を受けたもの。訴訟は、日本人男性を父とし、フィリピン国籍の女性から生まれ、日本で暮らす男児の日本国籍の確認を求めた行政訴訟である。地裁判決としては日本国籍が認められた。詳細を調べたわけではないが、このケースに限って言えば、個人的な感想としては、妥当なものでないかと思った。
 ただ、その感想にはかなり心情が混じる。たまたま私はこの男児を地裁判決前にテレビで見てしまった。すらすらと日本語をしゃべっている。その瞬間、私はこの子が日本人にしか見えない。やばいなやられた…やられたというのは映像メディアの威力を無防備に浴びてしまった。
 話がまどろこしくなるが、日本はアジア地域では珍しく家のシステムに血縁の原理がない。親子に血のつながりがなくても家族が構成され社会そして国家が構成される仕組みを持っている。現代日本人の常識からすると、嘘、と言いたくなるだろうが、客観視すれば現実だとわかる(養子ばかり)。そしてその現実と実態のゆがみを正すべく血縁幻想が天皇家に集約されている。天皇家ですら南北朝史などを見るに複雑な状況があるが、それが意識に表面化しないのは、この幻想が十分にイデオロギー的に機能しているからである。反面、庶民レベルでは、この非血縁原理がきちんと今でも機能しているので、親子の情といったものが社会的に認知されれば血縁の原理性が破棄される。話がうざくなったので切り上げるが、この男児もきちんと日本語を話し、日本の挨拶や所作を身につけていけば日本社会にそのまま受け入れるだろう。相貌もジャピーノ(差別語?)と言われればそう見えるが南方系の相貌の日本人は実際はかなり多い。日本の歴史は実際には千二百年程度でありそれ以前の雑婚的な状況は歴史からは見づらくなっているためだろう。
 今回のケースについては、父親も同居しているようだし、日本国籍を否定すると日本人の人情としても受け入れにくいものがあるだろう。また、朝日新聞記事”日本男性と比女性の子ら9人、国籍確認求め集団提訴”(参照)を見ると事態の根にはたんなるフィリピン人の無知もありそうだ(率直にいうと援護団体も気にはなるが)。


 ロサーナさんは姉妹で異なるパスポートを掲げ、「認知の時期が国籍取得にかかわるとは知らなかった。日本で生まれれば国籍がとれると思っていたのに」と話した。

 と、そのくらいに私は考えていたのだが、社会問題としてみるなら、これはそういうことではまったくなく、国籍法の規定を憲法違反と認めた判決というのが重要になる。産経新聞”「非嫡出子も日本人」 国籍法規定は違憲 東京地裁”(参照)を引用する。

 鶴岡稔彦裁判長は「日本国民を親の1人とし、家族の一員でわが国と結びつきがあるのに、法律上の婚姻関係がない非嫡出子に国籍を認めない国籍法の規定は、法の下の平等を定めた憲法14条1項に違反する」として男児の請求を認めた。

 鶴岡裁判長というところが案外ポイントかもしれない。国側の反論はこうだったようだ。

国側は裁判で「仮装認知が多発するおそれがある」と反論していたが、鶴岡裁判長は「仮装認知が横行するかどうかは疑問がある」として退けた。

 鶴岡裁判長は仮装認知の横行が疑問であるとしているが、このあたりは世相を知っている庶民としては苦笑するしかない。すでに横行していると見てよさそうだからだ。NHKクローズアップ現代でもこの話題を取り上げていた。ただ、私は、横行といっても国は実態をかなりすでに掴んでいるのではないかと思っている。
 同記事には過去判例の示唆があるが、読み方によっては、高裁で覆る可能性とも受け取れるだろう。

 国籍法をめぐっては、別の規定が違憲かどうか争われた訴訟の最高裁判決(14年11月)で、原告側の敗訴が確定したものの、2人の裁判官が「国籍法3条1項は憲法違反の疑いが極めて濃い」とする補足意見を述べている。

 今回の判決に所謂日本の右派はどういう意見を持っているのか気にはなる。私としては、こうしたケースでは日本国籍を認めるべきではないという意見を持っているわけでもない。反面、毎日新聞社説”国籍法違憲判決 子の地位を国会が考える番だ”(参照)のように、もはや司法の問題ではない、とまでするのは勇み足だろうと思う。

もはや司法で解決すべき問題ではない。立法府の国会が、時代の変化に対応する改善策を練り、法整備を進める必要がある。最高裁の補足意見も踏まえ、下級審の判断とはいえ、違憲とされた国籍法を早急に見直さねばならない。

 国籍法の違憲性については、高裁判決まで待ってもよいのではないかとは思う。ただ国籍法自体については、幅広い視点から再考も必要だろう。それより、こうした問題の背景となる実態について、日本国と国民がどう向き合っていくかという問題は見えてこない。私自身もこのエントリで書いたようによくわからない。

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2005.04.14

フリーターについて

 先日極東ブログ「ニートについて」(参照)というのを書いて、さて、フリーターは?と気になった。この機に書いてみたい。
 毎度ながら語義から。定義はすぐに見つかった。内閣府「平成15年版 国民生活白書」 ”第2章 デフレ下で厳しさを増す若年雇用 第3節 フリーターの意識と実態”(参照)にある。


なお、本章では、フリーターを、15~34歳の若年(ただし、学生と主婦を除く)のうち、パート・アルバイト(派遣等を含む)及び働く意志のある無職の人と定義している(注13)(第2-3-1図)。その際、「学生」、「主婦」を除いて分析を行うのは、学業や育児などの傍ら、自ら選んでパート・アルバイト、派遣労働等に就く場合が多い「学生のアルバイト」や「主婦のパート」の議論と区別するためである。

 厳密な定義ではなくて暫定的なものらしい。引用にある注13はこうだ。

(注13)働く意志はあっても正社員としての職を得ていない若年を広く分析の対象としている。すなわち、厚生労働省が「労働経済の分析」(平成12年版)で定義したフリーター(パート、アルバイトとして就労している人、またはパート、アルバイトを希望している無職の人)のみならず、いわばその予備軍も含めた広い範囲の人を対象としている。例えば、派遣労働者、嘱託、正社員への就業を希望する失業者なども含まれる。なお、厚生労働省の定義によればフリーターの数は2000年で193万人となる。

 さらに以下の説明もある。内閣府がどう考えているのか知る意味でこれも引用する。

 しかし、デフレ下で長期的に経済が低迷する中で、雇用環境は厳しくなり、近年では、正社員を希望していてもやむを得ずパート・アルバイトなどになる人が多い。
 こうした現実を重視して、ここでは働く意志はあるが正社員として就業していない人を広くフリーターとしてとらえ、分析を行うこととした。

 ようするに就労可能で正社員じゃなければ全部フリーターということだ。
 個人的には、バイトだろうが仕事をして生活をしているならうだうだ言われるスジはねーよと、も思うが、内閣府も、無意味にうだうだ言っているわけでもないのだろう。同じ仕事をしていても、正社員とフリーターで賃金や福利の面で格差があるならいかんよと、とれないこともない。そうであるなら、会社の制度を変えるべく(同一労働に対する正社員とフリーターの差を無くす)、行政的な対応をすればいいのではないか。
 が、内閣府の言い分は、そうでもなさげでもある。問題をフリーターの側に回しているようだ。”フリーターの職業能力”(参照)ではこうある。

 実際にフリーターの職業能力はどの程度あるのだろうか。職業能力として具体的に比較が容易なパソコンの能力についてみると、フリーターは、正社員に比べ全体的に作業可能な人の割合が低くなっている。こうした傾向は、フリーターを高卒と大卒に分けてみても同様にみられる。パート・アルバイトとして働いていても、正社員であれば身につけられる職業能力を得る機会が乏しいことを示している(第2-3-7図)(付表2-3-3)。パート・アルバイトから正社員への転職が難しいのは、職業能力が低いことも一因であると考えられる。

 好意的に見るなら、フリーターの人たちは正社員にならないと職業能力は身に付かないよ、と内閣府は言いたいらしい。露悪的に言うと、能力がないからフリーターなんだよとも取れないことはない。制度的な問題から逃げている印象はある。
 内閣府ではないが、就労に関わる厚労省も同じ路線上で、こんなことも考えているらしい。12日付け日本経済新聞”若者自立塾など活用・フリーター20万人を常用雇用へ”(参照)が興味深い。

 厚生労働省は11日、2005年度の若年向け雇用対策について、合宿型で就職能力を高める「若者自立塾」などを活用し約20万人のフリーターを常用雇用に転換する数値目標をまとめた。雇用の安定しないフリーターや職探しもしない無業の若者の増加が深刻なため、明確な目標を定めて政策の実効性を高める。

 これには正社員のほうが職業能力が高いという前提がある。常識的に日本の現状を考えると、それは、概ね、正しい、と言えるだろうし、正社員となることでそうした職業能力を高めることができるだろう。正社員になれるチャンスがあれば若い人は活かしたほうがいい。
 同時に常識的に言って、職業能力が高い=正社員、というだけでもない。というのも、現状、企業では正社員を減らし、その分の労働力をフリーターに切り替えて、その差分で企業益にしているからだ。切り替え可能な能力があるということだ。
 こうした正社員をフリーターに置き換えていく傾向はこのままでは今後も変わらないだろう。結局、行政的に無理矢理数合わせでフリーターを正社員にできるかということになりそうだが、政府や産業界はできると考えているのだろうか。そこがよくわからない。
 私は、今後の日本は、会社と職能向上の場を切り離し、さらに労働者を保護するという点から会社下の組織じゃない職能的な組合育成のような方向に向けるべきではないかと思う。職能別労働組合とか言わなくてもいいから、職能ごとにパートタイム労働者を支援するNPOができて、それによって、そういう労働者でも普通に(多分に貧乏だろうが)暮らせるよ、という社会を目指すべきなんじゃないか。しかし、それも空論かもしれない。
 この問題について極東ブログ「OECD対日経済審査報告と毎日新聞社説でちと考えた」(参照)で触れたOECD対日経済審査報告の"Economic Survey of Japan 2005: Improving the functioning of the labour market"(参照)をこの機に読み返すと、明確な単純な提言が盛り込まれていた。

Reducing employment protection for regular workers could reverse this trend by preventing the adjustment of the workforce from falling disproportionately on young people.

 OECDの報告書ではフリーターという言葉をいじるのではなく、"non-regular employment"(正社員ではない雇用)としているのだが、あえてフリーターという言葉で意訳すると、「若年層のフリーター増加という日本労働状況の不均衡・不公正を改善するには、手厚すぎる正社員の社会保障を低減すればよいだろう」となるだろう。
 なんだ、そういうことか、と思うのだが、日本の現状では、ある一定の社会的な層に組み込まれた人間だとそんなことはおくびにも出せない空気がある。

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2005.04.13

高度道路交通システム(ITS)の祭りは続くよどこまでも

 少し旧聞になるが今年の日本のエープリルフール大賞というのがあれば、自動料金収受システム(ETC: Electronic Toll Collection System)だろう。2日の時点で、開閉バーに車両が接触したトラブルは2300件を越えた。毎日新聞記事”ETC障害:接触トラブルは2300件に”(参照)はしらっと道路公団の言い分だけを垂れ流している。


 全国の高速道路の料金所でETC(自動料金収受システム)の開閉バーに車両が相次いで接触したトラブルは、2日午前0時現在で2300件に上ることが、日本道路公団のまとめで分かった。バーの損傷などの事故も3件になった。
 道路公団によると、3月末で廃止された「別納割引制度」の利用者が、制度廃止を知らないまま1日午前0時以降も別納用のETCカードで料金所を通過しようとしたため、接触が多発した。

 道路公団にしてみると今回のトラブルで悪いのは制度廃止を熟知しなかった利用者ということだが、既存ジャーナリズムっていうのかプロのジャーナリズムっていうのか知らないがそれ以上のツッコミはないように見える。ぇえぇえ?公団側の準備不足でしょとかの話もなしなし。そして済んだことだし、その後は大きなトラブルはない。めでたしめでたし。ということで、このトラブルについては過ぎてしまえば些事となった。ブログでざっとこのトラブルを見回したが、ちょっとしたエントリのネタにはなるが、なるほど大きなトラブルはないようだ。
 ついでに、ETCはどう受け止められているのだろうかというと、ある程度予想どおりなのだが、割引きになっていいじゃん、というのと、引き落としだからいちいちその場の支払い気にしなくていいじゃん、という感じか。
 割引き制度についてはカードよりも装置価格とのバランスが気になったのだが、ブログ「清史郎&清兎の部屋」”馬運車にETC車載機取りつけ・・・”(参照)が示唆的だった。

少し前まではETC車載機は贅沢品で結構高額でした。でも最近はどんどん安くなって、パナソニックなどの一流品のセパレート型でも25,000円以下で取りつけ可能です。
ダッシュボードの上に取り付ける一体型なら、カー用品店で10,000円以下で売っており、取りつけ料・セットUP料を含めても15,000円以下になりました。

ETCを取り付けたら、料金割引が魅力です。
まずは基礎割引とでも言うのでしょうか、50,000円前払いだと58,000円分使用できます。これで約86%に割引。


 というわけで、高速を使う人には装置が普及する印象はある。
 カードの引き落としという点では、ブログ「たゆたふままに」”ETCって便利なの?”(参照)が面白かった。

ETという映画はなかなか感動ものでした。では、ETCはどうなんでしょう。夫はこれを登載したくてしょうがなかったのです~。そんなに高速を使うわけでもないのになぜなのでしょう???それは知らぬ間に家計費の口座から高速代が落ちていくからなんですね~^^;)

 というわけで、こうした点で見るとETCにはメリットがあるよね、ということなのだが、ところで、ETCってなんのために存在してたんだっけ?という本筋の話はなんとなく、それは、ま、いちいち声高に言うのもなんだし…というごにょごにょになりつつある。でも、本当は高速道路の混雑解消だった。「たゆたふままに」では混雑のエピソードがある。

ところが、お財布を出さなくてらくちんだわ~もしかするとETCも感動ものかも?と思ったのは行きだけでした。。。。帰りは料金所で大渋滞!!!ETCだろうとなんだろうと一緒なのですよ~。びゅ~んと通り過ぎる前に、まずETC専用の車線に入るのに渋滞です。そして、ようやく出たかと思ったら、はて~???ん?十車線以上あった道路が、料金所を過ぎたとたんに二車線に???はー???これじゃぁ~だめじゃんー(>_<)

 まだETCカード普及の初期段階なので、これで混雑解消はだめじゃーんとも言い切れない面もあるのだが、それでも、この本筋はワッチしていく必要はあるだろう。古い話になるが、「サイゾー」1月(2001年12月18日発売)”ETC(自動料金収受システム)導入で、高速道路はますます渋滞する”(参照)ではETCがこの本筋で役立たないかもと指摘されていた。
 サイゾーの同記事では、ETCよりもITS(Intelligent Transport Systems)「高度道路交通システム」の問題が重視されていた。今では停滞日本では忘れかけているが、90年代後半の日本は国を挙げての「マルチメディアだわっしょい」というばか騒ぎをやっていた。正体は単純に言うけど道路利権の延長の情報利権だった。

建設省にとっては安全性の確保よりも、交通網におけるIT利権(=予算)を獲得した建設省族議員の政府、そして世界に対してのメンツのほうが大切だったのだ。

 この他、立ち消えになったかのような運輸省「スマートプレート」も今読み返すと面白い。
 いずれにせよ、本来なら、高速道路なんて資金回収したら無料にするか低価格にするかのはずのものを、永遠に料金取りまっせとするための公団の収受システムだったのが、その上にどかーんと国策レベルの省庁権益からみでITが乗っかってITSができた。現在ITSは9つの開発分野にまで膨れて(参照)、がんがんITコストを必要としている。
 需要があっていいじゃんというのは道路行政的な発想だが、現実的にはどこでコストを回収すんの(償却費年間400億円らしい)、というか、経営面で見ると、結局ETCのメリットは割引きということで、どっかの国の大手自動車メーカーみたいなことを日本国レベルでやっているわけだ。
 大丈夫?
 詳細がよくわからないので、アバウトな話になるのだが、普天間基地移設問題と同じで、最初からヤメトケ問題が、今となってはこれも引き返せないということのだろうか。
 余談だが、ブログ、情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)の” ETC機器関連で、財団と大手2社の癒着疑惑”(参照)に微笑ましい話があった。ETCと限定されず、このあたりのIT受注の関係が気になるが、「ITS白書〈1998‐1999〉高度道路交通システムの行方と関連400社の戦略」とかも高額だし、このシステム受注で恩恵を受けている層もぶぶぶぶ厚いのだろうなと思うので、弱小ブログはこのあたりで沈黙する。

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2005.04.12

ニートについて

 ニートについてなんだか、どうも踊りたくなるほどスカな話になりそうな感じもするのだが、もやっとしたあたりをもやっと書いてみたい。
 語義は、NEET: Not in Employment, Education or Training から。直訳すると「就職してないし、学校に行ってないし、職業訓練も受けてない」ということ。洒落元は、neat。米語と英語で語感が違うが、「こざっぱり」「身ぎれいに」ということで、無職でだらしなくしてんじゃないよ、という皮肉でもある。英国で使われてきた概念らしく、英国政府系 info4local"Young People not in Education, Employment or Training: Evidence from the Education Maintenance Allowance Pilots databas"(参照)にもこの概念を使った調査がある。ざっと見た印象だと就労より教育に主眼が置かれているようでもある。

cover
小杉礼子著
フリーター
という生き方
 なんで英国かというと、長く「揺り籠から墓場まで」とされた英国の福祉政策が、1970年代後半から鉄の女サッチャー政権下の経済改革政策により若年層の失業率が急増し崩壊。その対応策の研究が進んで就労研究が進み、「ニート」という概念も出来たものらしい。サッチャー改革は現状の日本にも似ているので似た状況はあるのかもしれない。が、違う面も多かろうとも思う。
 日本では労働政策研究・研修機構の小杉礼子副統括研究員あたりが言い出したらしい(参照)。なんかこの言葉は突然世間に躍り出たという感じでもある。
 定義は…というのがよくわからない。内閣府青少年育成ホームページに”「青少年の就労に関する研究調査(中間報告)」<就業構造基本調査特別集計>”(参照・PDF)というのがあるのだが、そこにはこう書いてある。

いわゆる「ニート(通学も仕事もしておらず職業訓練も受けていない人々)」とは、非求職型及び非希望型の無業者として、日本では通常理解されていると思われる。

 ヲイ、「思われる」ってどうよ、とツッコミたくなるのだが、ようするに内閣府的にはニートという言葉はなさげ。
 いったいどこでわれわれはニートを実体的にあるように思いこんでいるのかよくわからない。生活実感としては、学校を出ても就職しねー若者を「あれがニートだべ、んだ」ということなのだろうとは思うのだが、報道でもかなり実体的である。例えば、先月二三日の産経新聞”「ニート」再集計したら85万人”(参照)はこんな感じ。

 内閣府は二十二日、十五歳から三十四歳のうち、就職の意思がない人と意思があっても求職活動をしていない人を合わせた「ニート」と呼ばれる若者が約八十五万人に上るとの調査結果を発表した。

 ニートに括弧がついているのは実は定義なんかないんだよ照れるなオレ的な表現なんだろうと思うが、この括弧付けが実際には括弧が付かないと恰好付かないほどでもないというのが現状だろう。
 この報道では、総務省が平成十四年に実施した就業構造基本調査のデータを再集計して言い出したとある。オリジナルはこれでしょ、”平成14年就業構造基本調査について”(参照)。これには用語集(参照)がついているのだが、「ニート」なんていう用語はない。古いデータをマーケティング的に新しく見直してみました的な発表なんだろうが、ようするに新しい事実が出てきたわけではない。
 奇怪な印象も受けるのは、ニートが話題になったときは、厚労省周りからだった。

厚生労働省が昨年九月に発表した労働経済白書は十五年のニートを約五十二万人と試算したが、家事手伝いを含んでいない。内閣府は家事手伝いに相当数の若年無業者が含まれるとみて、今回の調査では加えた。

 保育園と幼稚園で厚労省と文化省が対立しているの同じように、省庁間のゲームなのだろうか。いずれにせよ、内閣府は、通称カジテツ、家事手伝いをニートにしちゃったわけだ。さっさと嫁に行け、という意図か、など書くと陰謀論だとか批判されちゃう?
 カジテツをニートにするのはどうかなと思うが、先の「青少年の就労に関する研究調査(中間報告)」に戻ると、ここに「表1 無業者とその類型についての定義」というのがあって、ニートに相当は非求職型及び非希望型の無業者の解説がある。

非求職型無業者
 無業者(通学、有配偶者を除く)のうち、就業希望を表明しながら、求職活動はしていない個人
非希望型無業者
 無業者(通学、有配偶者を除く)のうち、就業希望を表明していない個人

 そして、無業者の定義はこう。

無業者(通学、有配偶者を除く)
 高校や大学などに通学しておらず、独身であり、ふだん収入になる仕事をしていない、15歳以上35歳未満の個人(予備校や専門学校などに通学している場合も除く)

 あらためて定義を見ると、ツッコミたくはなる。
 ポイントは「独身」かぁと思う。ニートやめたきゃ、職探しより、所帯を持て、と。所帯をもてば、貧乏人なら親がかりってわけにはいかねーぞ、と。ちなみに金持ちの子供は昔からニートです。
 もう一つポイントは、ここに三五歳って年齢制限があるわけだね。つまり、三二歳くらいの通称ニートはあと三年で目出度くニートじゃなくなると。で、どうするってツッコミはここではしない。
 通称ニートはわれわれの日常生活で目にするので、あ、あれ、ということだが統計上の実態はどうかと…とブログを見てたらブログ「そーろんの憂鬱 f(^^;」”フリーター、ニートの実際値を求めよう(^O^)”(参照)が絵文字とともに示唆深かった。っていうか、パクラしてもらいます。

学生を除いた就業者の状況を知りたいので、学生を除いた総人口は、26,417,800人
男性:13,205,900人
女性:13,211,900人

これで就業率を計算して見ると、79.69%
男性:90.62%
女性:68.78%

あら……やっぱり、だいたい国が発表している数字って正しいのかなぁ…
(発表している失業率よりかはかなり多いけどね(--;)
これから見るとこの年代の男性の失業者って、10.32%なんだねぇ。

 この先にも考察があって、これが結論でもないのだが、いわゆるニートは男性で見ると、10%弱くらいなんじゃないかと思う。
 これが全然違うということもあるかもだが、仮にニート率10%とすると、豊かな社会ってそんなものじゃないかと思う。インドネシアで闘鶏に興じてるオッサンとか見ても、無業者はそのくらいいても不思議ではない。
 あと、日本には自衛隊はあるけど、国軍といったものでもないし、州兵・予備兵といったものもない。そういうものがあれば、10%くらいの無業者はすっと吸収されるんじゃないかという気もするが、別に軍政になれっていう意味じゃないですので、変な思い込みの批判はご免。

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2005.04.11

C is for cookie, that's good enough for me ♪~

 "C is for cookie, that's good enough for me"♪~、歌ってしまいそうだ(試聴7を参照)。そして、行進してしまいそうだ。Cのつくものといったらクッキーさ、オイラはこれさえあれば大満足。

cover
Sesame Street Platinum:
All-Time Favorites
 そ、セサミストリートのクッキーモンスター(参照参照)の歌。すでに一部で話題のとおり。この歌が子供の健康のために廃止となった、というか、歌詞が変わる。本歌はこれ(参照)。

Now what starts with the letter C?
Cookie starts with C
Let's think of other things
That starts with C
Oh, who cares about the other things?

C is for cookie, that's good enough for me
C is for cookie, that's good enough for me
 :


 新しい歌詞はよくわからないが、歌のタイトルは"A Cookie Is a Sometimes Food"らしい。「クッキーはときどき食べるもんだよ」……
 ああああ! そんなことがあっていいのかぁ!
 APニュース"Cookie Monster Eating Less Cookies"(参照)の記者も悲鳴を上げている。

"Sacrilege!" I cried. "That's akin to Oscar the Grouch being nice and clean." (Co-workers gave me strange looks. But I didn't care.)

 "Sacrilege!"はなんと訳そうか。中野好夫なら「なんて罰当たり」だろうか。まったく、そんなことがあっていいのか。クッキーモンスターからクッキーを取り上げるなんて。と、余談だが、Oscar the Grouchのほうは私がずっとMacintoshで使っていた必須アイテムだった(使っちゃだめだってさ)。
 APの記事では、この問題を"But what about their position on Cookiegate? "と追及していく。なかなかのお話。
 この大事件の余波も大きい。Seattlepi.com"Cookie Monster caves"(参照)ではいくつか関連報道をまとめているのだが、出だしがふるっている。

OK, it's not exactly the most important story of the week but people sure have strong opinions about the news that Cookie Monster's will cut back on his namesake treats.

Even the most vocal critics seem to agree that skyrocketing childhood obesity is a major problem -- they just don't think that changing a ravenous muppet's eating habits is part of the solution.


cookie_monster 健康志向よりも大切なものがあるような気もするのだが、という気持ちは米人・加人も同じ。
 この大事件、日本国内のブログでは、と、なんだかブログ時評みたいだが、ブログ「丸い卵も切りよで四角」”クッキーモンスター、クッキーの量を減らす。”が、わろた。

小池さんがラーメンを、ドラえもんがドラ焼きを減らすのとは、
訳が違う。
クッキーを食べるのが、クッキーモンスターの
存在する理由みたいなものだろうに。

 まったくね。
 しかし、時代がものすごく健康志向ということなのだ。したがないのだろう。
 ちょっと前のワシントンポストだったが、クラフトがスナックの広告を取りやめしたという記事"Kraft to Curb Snack-Food Advertising"(参照)があった。

Moving to address growing concerns about childhood obesity and unhealthful eating habits, Kraft Foods Inc. will announce today that it is going to curb its advertising of many popular snack food items to children under 12.

 米国では子供の肥満が深刻な社会問題というのだが、それとこれとは関係ないような気もする。が、時代というのはある方向に進んだらしばらくは元には戻らない。というか、二度と戻らないことも多い。
cover
熊を放つ
 ジョン・アーヴィングの「熊を放つ」じゃないけど、袋一杯チップス・アホイをもって、クッキー・モンスターに、お前、これ忘れたんかい、と差し入れしたい。あれだ、チップス・アホイだ。日本で売っている、あのちっこいんじゃなくて、米国のあの、でかいやつだ。アホイ(Ahoy)!

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2005.04.09

米州開発銀行(IDB)総会はよくわからないのだが海外送金の実態は少しわかった

 米州開発銀行(IDB:The Inter American Development Bank)の年次総会がこの六日から沖縄県宜野湾市で開催されている(一二日まで)。IDBは南米諸国の経済支援を目的とした国際開発金融機関で、規模で見ると昨日のエントリで触れた世界銀行に次ぐ。なのでということもあってか皇太子もご臨席される。ま、そういうことだ。
 日本での総会開催は1991年の名古屋市以来一四年ぶり。でもなぜ沖縄で? 六日の朝日新聞記事”米州開発銀行年次総会、6日に沖縄で開幕”(参照)はこう説明している。


 IDBは、中南米諸国向けの融資や技術協力をする国際機関として59年に設立。日本は76年に加盟し、域外国ではトップの5%を出資する。中南米には沖縄からの移民や子孫が20万人を超える縁で、開催が決まった。

 とってつけたような理屈にも聞こえるが、私も沖縄で八年暮らしてそのつながりの深さはいろいろ実感することがあった。ペルーから来た、見るからにうちなーんちゅといった三世の女の子がたどたどしく沖縄アクセントの日本語を学んでいたを思い出す。ディアマンテスのアルベルト城間(参照)のバイト時代の話なども酒の席でよく聞いた。そうした経験はうまくまだ整理できない。
 なにかと「県では」と沖縄県の人は言うが、他の県でもそう言うのだろうか、よくわからないが、県では、今回の総会をサミット以来のお祭りに盛り上げたいのだろう。新報(琉球新報)の記事”IDB総裁が来県 きょうから公式セミナー 10日総会開幕”(参照)からもそんな感じが伝わる。が、県主催の金融特区セミナーは盛り下がっているようでもある。沖縄タイムス”IDB海外参加者 県想定下回る”(参照)のこの記事のトーンがとても懐かしい。

 県関係者は「もっと来ると期待していたが…。(特区セミナーの告知が)IDB側のホームページで遅れるなど、広報も十分ではなかった」と困惑。県幹部はセミナーで使ったレジュメを総会期間中、配布することも検討する。
 金融特区の活性化策を検討する沖縄金融専門家会議の関係者は、海外参加者が少ない要因について(1)海外の経済ジャーナリストの参加が少ない(2)主議題とする中南米の地域開発とセミナーのテーマが合わない―などの背景を指摘。「今後は証券化構想やプライベートバンキングに関心の高い欧米人をピンポイントで狙い、紹介する方法。今回のセミナーを第一歩に次にどうつなげるかが重要」と指摘している。

 非難ではないが、沖縄県ってまいどこんな感じでなんくるないさなか。いずれにせよ、今回のIDB総会の意義が私にはよくわからない。報道も十分に伝えてないようにも思える。
 私にわかったことは一つある。IDBと直接関係ないかもしれないが、この機に発表された中南米向け個人送金の実態だ。これまで明確にはわかっていなかった。共同”出稼ぎ送金、2900億円 対中南米、日本2位に”(参照)から引用する。

日本に暮らす中南米の出稼ぎ移民が昨年、本国の親族らに総額26億6500万ドル(約2900億円)を送金したと推計され、米国に次ぐ第2位の中南米向け個人送金大国になった。


2003年の日本の中南米に対する政府開発援助(ODA)総額約4億6390万ドルの約5・7倍に当たる巨大な額。米国でも中南米への送金額は320億ドルとODAを上回っており、身内の送金が本国の経済を支える実態がより鮮明になった。

 なんなんだろそれ、という感じがする。
 このあたりの話をもっとディープに知りたいなと思うが、よくわからない。
 それでもNHKで聞いた関連の話も面白かった。面白かったというのと違うかもしれないが、備忘のメモをしておく。
 まず、中南米から世界に出ている労働者の総数二千五百万人。その送金総額は五兆円。ほんとかというくらいでかい。うち、日本へは三十万人。大半は当然日系人。送金内訳は、ブラジルが二千四百億円、ペルーが四百億円。足してみるとわかるが、つまり、日本ではこの二国に絞られている。これを、約三千億円として見て、そして送金手数料が三パーセントとすると、その手数料業務だけで九十億円の市場。ま、そういう話。
 メモしてみて思うのだが、すでに都市銀とかはそういう実態を知っているわけだな。そして、ブラジルとペルーの国家にしてもここから外貨をもっと吸い上げたいのでいろいろ工夫もするだろう。というか、その工夫っていうか、規制を含めて、そのあたりが、IDBのメインの話し合いなのではないか。報道からはよく見えないのだが。
 ついでに、他の国から日本への出稼ぎの実態はどうなっているのだろうとも気になる。その送金の業務はどうなっているのだろうかとも。カネの流れているところになにかと社会の真実というもがあるが、でも、その情報というのはダークというかミスティというかそんな感じなのだろう。首を突っ込むと危険だろうなという印象はある。

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2005.04.07

三角合併恐怖は見当違いだったか

 三角合併と外資に関わること。まいど自分でわかってないことを書くなよでもあるのだが、それもブログってことかなと。
 三角合併について私が気になったのはホリエモン騒動の前からだ。その実施で日本はどうなるのだろうと案じていた。例えば、かつては事実上国家の一部に近かった日立なども外資に買収される可能性もあるのだろうとなんとなく思い、危機感のようなものを感じていた。ただ、なぜ危機感なのかというあたりにすっきりとしないひっかかりはあった。
 当ブログのホリエモン話の切り出しともなった「新年好! ホリエモン」(参照)のエントリで私はこう書いた。


TOBについては、現時点だと現金を動かせるやつが強い。が、来年になると通称三角合併(参照)、つまり外資による日本企業の乗っ取りが活性化する、というわけで、外資の課税とかなんかより大きな問題になるようにも思う…が、と、そのあたりはなんだかわくわくするようなマネーゲームか、クレヨンしんちゃんの「やればぁ」でもある。

 ふざけて書いたのは、単純な危機感ということでもないだろうなという思いもあったからだ。ここで参照としたのは読売新聞の「アット・マネー」”来年にも解禁 三角合併 ”だった。冒頭、こう説明している。


 外国企業が日本の子会社を通じて日本企業を買収する「三角合併」が2006年にも解禁される。株式時価総額の大きい欧米の有力企業が積極的に活用するケースなど、国境を越えたM&A(企業の合併・買収)の活発化が予想されるが、日本企業にとっては、敵対的買収からの防衛が重要な課題となりそうだ。

 これはそれほど外した説明でもないだろうし、普通にこうした解説を読めば、先に書いたような私の懸念のようなものにもつながるだろう。
 しかし、このホリエモン騒動のなかで、なーんか違うんでないか、という感じが強くなってきた。識者にしてみればなにを今更かもしれない。が、一つの大きなきっかけは、立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」(参照)だ。ふっきれない違和感の部分が誇張されているように見えた。特に”第五回 浮き彫りになったアメリカ金融資本“むしりとり”の構図”(参照)である。
 立花隆のこれ、なんなのだろう? 環境ホルモン騒ぎのときの立花隆を思えば、洒落だってばさ、で済むことかもしれないのだが、それでも、かなり変な感じがする。変というのは、なんというか、自分の愚かさを鏡で見ているようなこっ恥ずかしさでもあるのだが、きちんと反論なりができるわけでもない(無知だな私ということ)。
 昨晩このエントリを書き出した時点では、同サイトは”第7回 フジのお家騒動から浮かび上がる「因縁の構図」”までが掲載され、一旦は掲載された”第8回 フジを追われた鹿内家とSBI北尾CEOを結ぶ点と線”と”第9回 巨額の資金を動かしたライブドア堀江社長の「金脈と人脈」”という二回分が消えたままだった。私の操作ミスかと思ってGoogleデスクトップで調べたらキャッシュが並ぶので単純に非公開になったようだ。
 今朝見ると、この二回分は復活しており、さらに非公開についての弁明”連載第8回及び第9回の記事が再度公開になるまでの経緯について”(参照)が追加されていた。弁明は特にどってことはない。見方によってはブログと紙媒体の差の象徴的な出来事ともいえるかもしれない。なお、以前掲載されていた二回分については、よいことか悪いことか判断しかねるが、「ヒートの情報倉庫」”立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」1~9”(参照)で読むことができる。詳細の突き合わせはしていない。
 立花隆のこの連載で私が気になったのは、詳細の正否より、この外資の陰謀だみたいな展開や、ある種陰謀論的なところに出口を見いだそうとする思考のパターンのようなものだ。それは、とてもメカニカルな、陳腐なことなのかもしれない。私のブログなども、陰謀論と揶揄されることがある。そうならないように気を使っていてもうまくいかないのかもしれないし、そう見えるということもメタなメカニカルな枠組みがあるだけなのかもしれない。
 ひどく単純に言うなら、立花隆の、こうした外部からの陰謀論的な思考は、恐怖というもののリアクションへの違和感なのだろう。国家の外から恐い者がやってくる、みたいなパターンだ。黒船とも比喩される。そして、そこまで単純化するなら、さて、この件で、本当に日本に襲いかかるような恐怖というのはあるのだろうか?
 吉本隆明の「共同幻想論」がなぜか書架にないが、その他界論だったかで私が学んだことは(大ハズシかもしれないが)、この手の恐怖というのは共同体の内部に閉じさせようとする幻想の機能でもある。
 三角合併など外資の活動の実際はどうなるはずのものだったのだろうか。そうしたことをつらつら思っているおり、先週のニューズウィーク日本語版4・6に掲載されたスティーブン・ヴォーゲル、カリフォルニア大学バークレー校准教授のコラム「外資を困惑させるライブドア狂騒曲」が興味深かった。読みづらいコラムではあるが、会社の買収行為に過剰な防衛を張るのは間違いだとして、彼はこう続ける。

 そういう意味で、ライブドア騒動への自民党の反応は、企業買収という難題へのまちがった対処法の手本ともいえる。自民党は、外国企業が株式交換を用いて日本企業を買収する「三角合併」の解禁を一年遅らせることを了承したが。敵対的買収が激増するとの懸念から、企業に防衛策を整備する時間を与えた。
 この論理には、致命的な誤りがある。三角合併は敵対的買収ではなく、友好的な買収の手段だ。解禁延期は的はずれな措置としかいいようがない。

 類似の主張は同誌「ライブドア 和製黒船が挑む鎖国経済 ペリー来航以来、外圧でしか変われなかった日本に生まれた内なる圧力」にもある。ライブドアの件では、外資が日本の放送会社を買収することなどありえないことだとしてこう続ける。

 それでも自民党は、ライブドアの一件を口実に、商法改正に盛り込むはずだった株式交換方式による外資系企業の日本企業買収の解禁を延期した。皮肉なのは、株式交換の解禁は、敵対的買収とはまったく関係ないことだ。「法律を読めばわかる」と、日本でM&AのアドバイスをするJTPコープのニコラス・ベネシュ社長は言う。「株式交換のスキームは本質的に友好的なものだ」

 そういうものなのかと無知な私は考える。だが、そうであっても私の無知ばかりでもないかもしれない。こんな話もある。3日付の朝日新聞記事”「堀江社長への十分な抑止力」SBI北尾氏、本紙に語る”(参照)だ。SBIの北尾へのインタビュー記事である。

 また、国内における敵対的買収について「銀行が株を売り、安定株主がいない今の危機的な状況で、敵対的買収の防御に法制度がついていっていない」と指摘。「外資はどんどん動いていて、うちにもたくさん話が入ってくる。このままじゃ手遅れになる。政治家と行政の怠慢だ」と強調した。

 もちろん、このインタビューだけで北尾って何?と思うまでもないし、三角合併を直接指しているわけでもない。でも、これって、すごく違うんじゃないのか。
 さてと考える。こうした問題を素人はどうとらえたらいいのか。というか、素人/玄人と切り分けると逆に話は混乱するかもしれない。どこかに常識的な、簡素な基準がないだろうか。
 私の当面の結論は、会社と株主の関係が健全なら、外資がどうのという問題はありえない、というか、それは問題にすらならない、ということだ。とりあえず、そういう視点を基準にしておく。

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2005.04.02

東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切事故から二週間が経った

 東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切事故から二週間が経った。ニュースを眺めても、この数日には最新の話はないようだ。赤旗が高架にせよというくらいか。この間、NHKでは、クローズアップ現代が取り上げ、そして首都圏特報も取り上げた。後者の番組を見つつ、私だけかもしれないのだが、あれ?と思った。事件について見落としがあったかもしれない。あれ?については後で話を展開する。
 今回の事故は、発生当初からある種の嫌な感じが私はしていた。複雑な思いもある。が、単純な面から言えば、自分もこうした踏切と身近に暮らしてきた経験もあり、単に踏切制御の人為的なミスとばかりは責められないのではないかと思った。ニュースや当地を生活圏とする人の各種ブログなども拝見しつつ、そうした印象を深めた。該当踏切の仕組みは「東京の踏切」(参照)が詳しい。
 この踏切は時間帯にもよるのだろうが、合法的な操作をすれば、一時間に三分しか開かないとも言われている。しかし、通行のニーズが強いとすれば、非合法的な実態があり、それは当然の危険性を含む。今週のSPAのコラムニスト神足裕司氏の「これは事件だ」では、さらにこういう指摘もある。


「駅務運転作業基準」というものがある。手動式遮断機は、電車が接近しているとき、下ろされると自動的にロックされる。「基準」に定められた駅ごとに作成する「踏切作業内規」には、ロック解除に「駅長の指示が必要」とある。
 内規を破った? だが1分の隙をつくためにわざわざ毎回駅長を呼びに行けというのか。

 基準の解釈がそれでいいのか私にはよくわからないが、それでも規定なりは、有名無実化した経緯もあったのだろう。ただ、このコラムでは、事故当時の時間帯はそれほど開かずの踏切というのでもなかったとしている。単純に開かずの踏切という実態があるのだということだけではないのかもしれない。
 こうした事件が起きると、志賀直哉風正義派はどこかに責任をもっていき糾弾したくなるものだが、多少なりの世間経験があればミスを犯した担当者だけを責められるものではない。三月二二日付け朝日新聞社説”東武踏切――危険を放置するな”はこうした社会問題に正面から向き合うより、昔懐かしい社会主義的なイデオロギーに退行してしまう兆候をはっきりと見せている。

 人口の密集地なのに踏切が残るのは、電車の入れ替え線があり、線路が錯綜(さくそう)しているなどの理由だという。経済的、技術的な問題もあるだろうが、東武鉄道は鉄道事業で年間220億円の営業利益をあげている。要は危険な踏切を放置しないという決意があるかどうかだ。

 この口調なのだが、産経新聞などで北朝鮮制裁の決意を問うのとまったく同質のパトス(情念)であることはすでに社会の一部では明白になっていると言っていいだろう。もちろん、正論ではあるだろう。大東亜戦争末期国民が戦艦大和に出て欲しいと願った「思い」が正論というのに似ている。具体的な現実問題にはあまり意味がない。
 もしかすると、この問題は死者まで出して、まるで改善されず忘れ去れていくのかもしれない。高架案(参照)を赤旗が説くのであればその経緯をちゃんとフォローしてくれ。すでに現在の状況とは言えないのかもしれないが、ブログ「音と言葉のアンテナ」”グッジョブ”(参照)が事故後一週間の状況をこう伝えている。キムタケ風に長くて申し訳ないが引用したい。

ところで、昨日、竹ノ塚の駅向こうを外回りしてたんですが、仕事が終わって帰るときに、ちょっと踏切を見ていこうと思った。まだ相変わらず手動でやってるのかどうか確認して見ようと思ったのだ。もちろん踏切はわたらずに、もう少し南の栗六陸橋を超えて帰ることができる。
 
ところがだ。私は踏切をみて驚いた。
 
踏み切りは相変わらず手動で行っているようだった。ただ、以前と違ったのは、踏み切りの中に、のぼりくだりの線それぞれに旗を持った警備員が立っていたことだった。いわゆる人柱みたいなもんだ。
このときの心境はうまく言葉に出来ない。ある意味感動的ですらあった。私はやすやすと先の決意を曲げて、踏切を渡ることにした。
 
なるほどお、とかいいながら、ぶつぶつニヤニヤしながら渡っていたに違いない。
仮に自動踏切を設置したところで、事故の衝撃が消えるまで、あの踏み切りは渡れなかっただろう。人を立たせましょう、という提案がどのような経緯で起こったのかは知る由もないが、現時点でのベストソリューションだと私は評価した。

 なんだそれ?と思う。ブログがちゃんとニュースの一次情報になっているなとも思うが、それより、ブログ記者サモッチさんの「このときの心境はうまく言葉に出来ない。ある意味感動的ですらあった」という心の動きが興味深い。ジャーナリズムの原点のようなものも感じる。
 人柱か、人間かというところで話を冒頭に戻す。四月一日のNHK首都圏特報(参照)で私があれ?と思ったのは、事故に遭遇したのは自転車だけだったという点だ。ここで明確にお断りしておくが、私は自転車に乗っていたのが事故の理由だとも言わないし、事故に遭われた方にも責任があるとも言わない。その点を誤解なきよう。
 自転車を明示した報道はあっただろうか。私はうかつにも見落としていたので、ニュースを読み直した。一六日の産経新聞”東武伊勢崎線・竹ノ塚駅踏切 遮断機上がり2人死亡 手動操作、係員誤る”(参照)はこうだ。

 十五日午後四時五十分ごろ、東京都足立区西竹の塚の東武伊勢崎線竹ノ塚駅そばの37号踏切で、踏切内にいた女性二人が太田発浅草行きの上り準急列車(六両編成)に次々とはねられ、二人は病院に運ばれたが死亡した。踏切周辺にいた女性二人も軽傷。踏切は係員が手動で遮断機の上げ下げを行っており、事故当時、遮断機は上がっていた。警視庁捜査一課と竹の塚署は係員が誤って遮断機を上げたと話しており、業務上過失致死傷容疑で捜査している。現場は「開かずの踏切」として有名だった。
 調べでは、死亡したのは同区内に住む保険外交員、宮崎季萍(きへい)さん(38)と主婦、高橋俊枝さん(75)。けがをしたのは、近くに立っていた女性(55)と自転車に乗っていた女性(44)で、足や頭に軽傷。自転車の女性は後部に女児(5つ)を乗せていたが、女児にけがはなかった。

 産経を責める意図はなく、一例に過ぎないのだが、ここから事故死されたかたが自転車に乗っていたとは読みとれないのでないか。この点、同日の朝日新聞”遮断機誤って上げた疑い、踏切保安係逮捕 東武線事故”(参照)は明確になっている。

3人とも自転車で踏切を渡っていたところを事故に遭ったが、佐藤さんの自転車に一緒に乗っていた娘にけがはなかったという。

 首都圏特報によると、遮断機が上がってから一台のバイクが踏切を渡ったのだが、接近する電車に気が付き、とっさのアクセルで該当線路を突き抜け難を逃れたようだ。異常事態でもあり、このバイクの方を責める意図ではないが、踏切横断中にバイクのアクセルというのはどういう状況だったのか少し違和感が残る。
 自転車は三台事故に遭遇したが、歩行者には事故はなかった。単純に思うのだが、歩行者のほうが機敏な動作が取れたからではないか。そして、そういえばと連想するのだが、自転車が踏切を渡るときは降りて手押しするのではなかったか? 警察はそう指導しているのではなかったかと、ネットを探ると警視庁「学ぼう! 交通ルール&マナー」(参照)では、クイズ形式を借りてこう説明している。

問題3
 ふみりきりをわたる時は、ふみきりの手前でかならず一時ていしをして、左右の安全を確認したあとにじてんしゃにのってなるべく早くわたる。

 あなたのこたえ:○  せいかい:×

<かいせつ>
 ふみきりをわたる時は、一時ていしをして、左右のあんぜんをかくにんしたあと、じてんしゃからおりて、おしてわたりましょう。


 これは子供向けの指導なのか、なにか法規的な裏付けがあるのかよくわからない。ただ、だから踏切では自転車を降りて手押しせよとここで主張したいわけではない。
 自転車が事実上存在しない沖縄での八年の暮らしから私が東京に戻ってなにより閉口しそして恐怖に思ったのは歩道を走行する自転車だった。自転車が走行していい歩道は指標が出ている。が、警官まで無視しているので私はその警官に小一時間といったこともあった。なにより、むかつくのは、チリンだ。なにがチリンだばかやろうと私はなんども怒鳴り散らした。自転車走行が認可されている歩道でも、歩道は歩行者が優先であり、その歩行を妨げていけない。チリンを鳴らすんじゃなくて、おまえが自転車を降りろ。交通法も知らんのか、と。第一、チリンは無礼だろう。しかし、二年が過ぎて、慣れた。この私が感じた違和感は社会問題ですらないのだろう。
 繰り返すが、踏切で手押ししない自転車を責めるわけではない。それは、竹ノ塚駅踏切が「合法」的に運用されていなかったことを責めるわけにもいかないのと変わらない。
 さて、このまま人柱方式が解決なのだろうか。NHK首都圏特報は散人先生もご覧になり、エントリ”NHK 首都圏特報「開かずの踏切で起きた人身事故」……なにが問題か、またしてもぼかされている!”(参照)で、遮断機開閉時には電車が自動的に停止するというシステムを提起している。それが現実的に可能か私はわからないが理念は正しい。同番組では最新の制御システムについても示唆していたが、詳細情報はなかった。
 現状の踏切については先にも参照させて頂いた「東京の踏切」(参照)が詳しい。特に「踏切探検隊」(参照)には自転車の状況を含め考えさせられることが多かった。

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2005.03.30

止まらないGMの転落が暗示する世界の先には

 昨日の朝日新聞記事"トヨタ、08年に970万台生産へ GM超えも視野に"(参照)では、標題どおり、トヨタ自動車(ダイハツ工業と日野自動車を含む)グループが2008年に生産の計画を970万台とし、米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜いて、自動車メーカーとして世界一になるとあった。朝日新聞、そう来たか。
 GMは確かに大変なことになっている。業績不振である。30%代を維持してきた市場シェも25%まで落ちる。転落が止まらないように見える。同記事にはこうある。


 GMは04年の世界生産台数を明らかにしていないが、ほぼ同規模の販売台数(小売りベース)は899万台。トヨタの04年の世界生産は754万台にすぎない。
 しかし、GMは主力の北米でトヨタなどに押され、多額の販売奨励金をつぎ込んで販売台数を確保しているのが実情で、経営悪化に苦しんでいる。

 やや旧聞だが今期GMは赤字に転落した。17日の日経記事"GM、1株利益が赤字転落"(参照)が詳しい。

 同社は1―3月期について収益トントンになるとの見通しを示していたが、前提となる北米の生産が過剰在庫圧縮を狙った減産で予想を大幅に下回っている。価格競争も激化した。通期の一株利益予想は従来の4―5ドルから1―2ドルに落とした。従業員・退職者の医療費・年金負担も財務を圧迫し、有力格付け会社の一部はすでに長期債の格付けを引き下げる検討に入っていた。

 金融市場にも影響が出てきている。28日の日経記事"米投資家心理は委縮、GM業績悪化や原油高懸念"(参照)ではこう伝えている。

米金融市場で投資家心理の委縮が目立っている。自動車最大手ゼネラル・モーターズ(GM)の業績悪化を機に浮上した企業の信用問題や原油高への懸念などが続いているためだ。

 とま、そういうことなのだし、この分野のビジネスに関わりのない私などがどうコメントすることもないのだが、いくつか思うこともある。
 まず、リストラ。赤字転落前に、GMは当然いろいろとリストラした。売れない車種は整理した。そのあたりはごく普通のことだ。気になるのは、金融子会社(GMACコマーシャル・モーゲージ社)の処分だ。GMは自動車ローン関係から金融子会社をもっており、以前はそれがけっこうな稼ぎ手でもあったのだが、これもリストラした。結果的にではあるが、GMほど大きな企業でも本業は何かと問われるものなのか。経営というのにはそれなりに王道というか根本原理というか倫理というかが、やっぱりありそうだな。
 倫理と思ったのは、近年のGMのリコール問題もある。もともと米国市場シェアが高いせいもあるのだがGMのリコールが目立っていた。作りに気合いが入ってなかったのかとも思うし、このあたりことは、物つくり好きの日本人には小一時間問いつめるネタになるかも。
 マーケティング的にもGMはつまづいた。2001年のテロ以降、販売店のインセンティブを高める目的でGMは高額なキックバックを行なっていた。短期的なカンフル剤的な効果はあったのだろうが、米国でありがちな値引き合戦とともに収益の圧迫原因になった。こういう、とにかく目先で売っちゃえ、という感じの経営って、いかにも米国的だなと思うし、この失敗は日本にとってもいい教訓であるのかな。
 GMは雇用もリストラした。一万三千人を整理。GM全体の20%ほど。先の日経の記事にもあったが、ただ雇用調整したというだけでなく、重要なのは「従業員・退職者の医療費・年金負担も財務を圧迫し」ということのほうだろう。医療費はGMにとってかなりの財政的な負担だったようだ。
 このあたりの、いわば企業の福祉切り捨てという動向は、GMだけとは限らない。とすれば、現在ブッシュ大統領が進めようとして逆風を受けている年金改革なども、クルーグマンがいろいろ理屈をこいても、いずれ順風ということになるような気もする。日本人にしてみると米国って社会保障の面では索漠とした国だなという印象が強まる。
 私はそういう国のあり方は少し違うのではないかとも思う。GMの件でも、社会の福祉を担う会社の雇用のありかた、つまり広義の経営が問われてくるようになる、ということなんじゃないか。社会と企業経営の関係において、よい経営がより強いのだという話にまとめるのはちょっとムリメでもあるが。しかし、福祉的な側面について国内的に切り捨てるほうが効率的な経営だぜ、という方向に進めば、結局、社会と国がじわじわ駄目になっていくっていう悪循環ではないのかと。
 別の言い方をすれば、利益を高めるには社会保障の薄い中国で自動車を効率的に生産できる体制にすればいいわけだ。それって、国内の雇用の差分の利益じゃないのか。もちろん、マクロ経済学的には…、などと私がいうのもまたも失笑であろうが、しかし、そうしたシフトはただの産業構造のシフトに過ぎない。そのシフトは、米国も日本も、いわゆる物つくりじゃないサービス産業に向かえ、ということなのかもしれない。
 私としては、内心ではこっそり、米国人や日本人にまだ欲しいものやサービスってあるのかよと思うのだ。質素な生き方という選択でもいいのではないか。その分、社会保障と雇用を考える国家のほうがいいんじゃないかと。

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2005.03.29

おそらく40歳くらいから始まる第二の人生

 職業とは何か、仕事とは何か。私はあまり関心に上らない。無業者(通称ニート)が増えているというが、施を受ける乞食(こつじき)こそ仏道でもあるし、いろんな生き様があってもいいのではないか。そんなことくらいしか思いつかない。それでも無意識にひっかかることはあるので、つらつらと考えてみて、いわゆるぶっちゃけ、なんで働くのかと言えば、ローンを返すことじゃないかと思い至った。
 実父に対する孝の薄い本なので好きじゃないし、しかも読んでもカネに縁ができそうでもないなと、引っ越しのおり捨ててしまったのだが、「金持ち父さん貧乏父さん」にも、たしかローンを背負ったら終わり(じゃなかったか、損だったか)みたいな話があった。働き始めた時点で35年といった住宅のローンを背負い込むと、まあ、35年は働かないといけないということになる。昭和32年生まれの私の世代だと男の場合、結婚年齢の平均は28歳くらいだったか。それで35年ローンを背負うと、終わるのは63歳。定年ちょっと前というあたりだ。
 と、現在こう書くとなんだか奇妙な感じがするのだが、当時はそういう世界が普通だったように思う。私はそうした世界の空気を吸いながら、まだまだドンパチ仕事をしていたつもりでも、反面、なんか世間から落ちこぼれてしまったなと思った。
 その後、日本の世間も変わり、都市部では30代前半の男性の半数くらいは未婚者のようだ。30代の女性もそうなりつつある。晩婚化、そしてそれゆえの少子化ということでもあるのだが、仮に35歳で結婚するとしたら、もう35年ローンは組めないんじゃないか。終わるのは70歳。70歳まで結果として働くことになっても、ローンの計画は難しいのではないだろうか。もちろん、35歳で結婚ということならある程度資産形成もできているので、頭金を増やして、20年ローンとかもありだろう。このあたりの現実の統計を知りたいのだが、そうなっているのだろうか? 印象としてはなってないような気がする。
 たぶん、結婚してローンを背負ったから、それゆえに働く、というのは少数とまではいえないけど、すでに普通ということはなくなったのだろうと思う。ローンがなければ、長期的に働くということの実際的な意味はない。もちろん、どっかに住まないといけないので、賃貸は発生するだろうが、いずれ短期的な計画だけとなる。
 それどころか、いわゆるパラサイトは、親の家をその老後の面倒と合わせて受け継ぐのだから、ローンどころか賃貸の見通しも不要ということになるだろう。そうした人口がけして少なくない。一つのモデルとしては長命化する老人介護につきあって気が付くと人生40歳、50歳ということにもなるのだろう。そう書いてみて、なんか不思議な世界になったなと思う。
 いい悪いではないし、統計を扱っていないので杜撰な議論だが、それでもそうした光景は現状から未来をそう外してるものでもないだろう。
 ローンも、そして賃貸すらない。となると、糊口がしのげるなら、仕事の経済的な意味は薄くなる。そこで、じゃ、適当に暮らすかというのと、自己実現を仕事に賭けるかというのの択一となるのだろうが、後者であっても、大半は40歳、50歳とういうところで人生は失敗するのだろう。なにも悲観的なことが言いたいわけでもない。
 話がずっこるが、目下話題のホリエモンだが、私の記憶だが、彼はこうしたビジネスを40歳くらいまでやるきはないみたいに言っていた。彼をメディアで通してみていると、毀誉褒貶という意味でもないのだが、彼にとって仕事とは40歳くらいっていうものなのだろう。彼はそういう人間の一つの象徴でもあるのだろう。
 で、人は、日本人は、そうして40歳から50歳となってどう生きていくのだろう。現在のその世代の人々の生き様はある意味では参考になるだろうし、ある意味では参考にもならない。全共闘世代の実際の全共闘の経験者の比率は少なく、この私より10歳も上の世代の大半はまだ古い枠組みの世界に生きている。たぶん、ローンも10年残っているのじゃないか。

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明日を支配するもの
21世紀のマネジメント革命
 そういえばと思って書架のドラッカーの「明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命」をめくる。彼は「自らをマネジメントする」という章で、知識労働者の生き方・働き方について5つの項目を掲げて説明するのだが、その最後の項目が「(5)第二の人生はなにか」とある。
 日本で普通、第二の人生というと、定年退職後を指すだろうし、ドラッカーもそうした文脈を大きく外しているものでもないのだが、自分の問題意識を変えて読み直すと、随分印象が変わる。

 今日、中年の危機がよく話題になる。四五歳ともなれば、全盛期に達したことを知る。同じ種類のことを二〇年も続けていれば、仕事はお手のものである。学ぶべきことは残っていない。仕事に心躍ることはほとんどない。

 こうした意見に反論もあるだろう。何歳でも学ぶことあるとか、IT化がさらに進めば全盛期は三五歳くらいでしょとか。しかし、自分の経験からしても、たいていの人は、四五歳ともなれば、仕事に心躍ることはほとんどないと言えるように思う。もちろん、そうでない人もいるだろうが、たぶん、大半の人は内心、自分はそれほど成功者ではないと思っている。
 ドラッカーはまさにそこをきちんと突く。

 知識社会では、成功が当然のこととされる。だが、全員が成功するなどということはありえない。ほとんどの人間とっては、失敗しないことがせいぜいである。成功するもがいれば、失敗する者もいる。

 ドラッカーはそこで成功の次元を変えるという話を進めるのだが、私はここでドラッカーがポイントとしているのは、別の形態の成功ではなく、絆(きずな)ということだと理解している。彼は日本にその期待を抱くという文脈でこう語る。

いかなる国といえども、社会が真に機能するには、絆が不可欠だからである。

 そして、こうした第二の人生というのは、助走が必要だと彼は説く。

 しかし、第二の人生をもつには、一つだけ条件がある。本格的に踏み切るにははるか前から、助走していなければならない。


 労働寿命の伸長が明らかになった三〇年前、私を含め多くの人たちが、ますます多くの定年退職者が、非営利組織でボランティアとして働くようになると予測した。だが、そうはならなかった。四〇歳、あるいはそれ以前にボランティアの経験をしたことがない人が、六〇歳になってボランティアになることは難しかった。

 そうした助走は、四〇歳くらいから始まるのだろうと思う。

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2005.01.25

OECD対日経済審査報告と毎日新聞社説でちと考えた

 理解してないこと書くんじゃねーと言われそうだが、気になるので書く、というか、ブログを通して教えていただければ儲けものという不埒な意図である。話のきっかけは昨日の毎日新聞社説"財政展望 本当に破たん避けられるか"(参照)である。内容の大筋は毎度毎度の、一部財務省パブリシティですかぁ、みたいなのだが、ちょっとスルーできないなと思ったのは、経済協力開発機構(OECD)対日経済審査報告とのからみだ。まず、毎日新聞社説の提起はこう。


 内閣府と財務省が中期の財政展望を公表した。また、経済協力開発機構(OECD)も対日経済審査報告で、財政再建に注文を付けた。日本経済が国、地方を合わせて国内総生産(GDP)の1.7倍もの長期債務を抱え、財政政策が機能不全に陥り、金融政策に過度の圧力がかかっている状況下では、財政再建の信頼できる改革と展望を提示することは何よりも重要なことである。

 OECD対日経済審査報告のキーワードが入ってなければスルーなのだが、そこを毎日新聞社説はどう捕らえているのか気になって読むのだが、そこがわからない。
 話が錯綜するかもしれないが、毎日新聞社説としては、状況をこう見ている。つまり、構造改革や予算改革が加速化できなければ、公債等の対GDP比率は190%に近付き、国債発行の幾何級数的な増加が起こりかねない、と。

それを避けるには、国債発行を減らしていくしかない。財務省は国債の海外での消化拡大を目指し、投資家説明会を開始した。海外の投資家の保有比率が高まることで、相場の乱高下を危惧(きぐ)する声もあるが、一方で、市場での評価も厳しくなり、常に有利な条件で消化できるわけではなくなる。財政改革の一助にもなりうる。

 国債発行を減らすというのはそうかもしれないとは思うが、海外の投資家の保有比率が高まるというのはわからない。あんなもの買うやついるのか?
 私がよくわかってないのだが、国債発行を減らすというのはそうかもしれない、として、それでどうやってデフレを克服せいと? もうデフレじゃないのか、と。まぁ、それとこれとは話が別かもしれないので、これはこのくらい。
 当初の問題意識に戻るのだが、OECD対日経済審査報告関連で、毎日新聞社説はこう書く。話のスジは、基礎的財政収支の黒字化が13年度と見られているということについてだ。

そうであれば望ましいが、OECDが指摘するように、仮に、基礎的財政収支が黒字化しても、国・地方の公債と借入金の残高が200%を超えている可能性がある。

 この点をOECD対日経済審査報告で確認してみた。キーワードは200%ということで単純に見たので、基本のハズシかもしれないが、該当箇所と思われるのはこれだ。"Economic Survey of Japan 2005: Achieving fiscal sustainability"(参照)より。

Even if consolidation advanced at the 1/2 per cent of GDP pace included in the Perspective, it would take more than a decade to meet the target, by which time gross debt might have risen to 200 per cent of GDP or more, imposing a significant burden on the economy and increasing the possibility of a rise in the risk premium.

 この部分について言えば、毎日新聞社説が外しているわけでもないのだが、この先はこう続く。

The negative impact of the high debt in Japan, however, is limited by the high private-sector saving rate and the low level of interest rates. Nevertheless, the medium-term plan should be more ambitious, even though special circumstances make fiscal consolidation more challenging in Japan than in other OECD countries. At a minimum, the government should achieve its goal of a 1/2 per cent reduction in the budget deficit per year.

 というわけで、トーンとしては地味な緊縮財政でなんとかなるっしょ、というのがOECD対日経済審査報告のように思える。それって毎日新聞社説のトーンと違うような…。
 些細な点だけ取りだしたようだが、ざっとOECD対日経済審査報告を読む限り、全体として毎日新聞社説のトーンとは逆のように感じられる。そのあたり、どうよ?というのが、冒頭、気になるということだ。
 OECD対日経済審査報告については、国内ニュースとしては、日経"OECD、日本の量的緩和解除は物価上昇率1%メドに"(参照)があった。先にちょっと触れたが「それでどうやってデフレを克服せいと?」というのの対応がやはりメインになっているとみてよさそうだ。

政策の焦点を「デフレからの脱却に当てるべきだ」と強調、金融の量的緩和策を巡り「日銀は解除の条件について、例えば物価上昇率1%とするなど十分高く設定するように」と注文を付けた。

 そして、具体的にはこう。

量的緩和策については、仮に消費者物価がプラスに転換しても拙速に解除しないよう強調した。日銀政策委員会が2003年10月に公表した解除の条件に基づくと「インフレ率がわずかでもゼロ以上になれば解除の可能性があり、日本経済がデフレに押し戻されかねない」と懸念を表明した。

 私もざっとOECD対日経済審査報告を読んだが、そんな感じだ。そして、この報告書を、単純な話、そっくり日本の財政政策にすればいいのではないか、あるいは、すでにそういうことになっているという感じもする。
 誤解されかねない言い方だが、毎日新聞社説批判とかではないが、今回の毎日新聞社説のトーンはたぶん財務省の一部あるいは特定の派の代弁ではあるのだろうが、対外的にみると随分ローカルな意見だなという感じがする。
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自治体破産
再生の鍵は何か
 が、だが、毎日新聞社説は明確に書いてないが、これってやがてくる地方財政の破綻実態への衝撃に備えよということではないのか。「日本経済が国、地方を合わせて国内総生産(GDP)の1.7倍もの長期債務を抱え」のポイントは「地方」か。
 先日、「自治体破産―再生の鍵は何か」を読んで、地方自治体というのはかつての銀行のように制度上破綻できない仕組みになっているだけで、実態は破綻に近いようだと思った。呆れたのだが、団塊世代地方公務員の退職金などのメドもまるで試算されていないようだ。

二〇〇七年度に大量の退職者が予想されているにもかかわらず、日本の多くの自治体がそれに対する備えも充分にすることなく、いたずらにときをすごしているのは無策の批判を免れないではないだろうか。この問題に関する限り、自治体の多くが「出たとこ勝負」を決め込んでいることが懸念される。

 ちょっとうなってしまう。地方自治に関してまだ開示されていないファクターが大きく、実際にはOECD対日経済審査報告のシナリオみたいには進まないのではないのか、っていうか、そのあたりがクリアに見えないものかと思う。

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2005.01.12

未婚男性急増といったことから

 SPA(1/18)の特集「独身オトコの肖像」をめくりながら、昨日しばしぼんやり考えた。副題に「マジで急増中!!」とあるが、身の回りを考えると、それがある意味フツーなので、それほど違和感はない。それでもSPAとしてはこれがネタになるなと踏んだのだろう。煽りを追うとこうだ。


Over35
紀宮さま&黒田さん(39歳)婚約内定で考える
35~39才男性の26%にのぼる未婚者の「彼女いない歴」からオナニー頻度までを本邦初調査!

 内容は、企画先にありきの取って付けたような出来合いの仕上がりなので、特に読み応えとか新奇性はないように思えた。というか、違和感が残った。実態がこの特集ではよく見えないというのもあるし、そろそろマーケットのシフトということかなという感じもした。単純な話、SPAという雑誌のターゲット層をそのまま5歳くらい上にシフトするのだろうか。他も同じく。
 話題を当の「独身オトコの肖像」という点に戻すが、私には特に結論のようなものはないといえばないし、あると言えばある。と言った手前、その結論を言うと、これって単純に所得の問題ではないのかということだ。これは、特集でインタビューされている、れいのパラサイ用語を出した山田昌弘東京学芸大教授の結論でもある。

 まず、35~39サイで独身なのは、どういう男性なんでしょうか。
「ズバリ、収入が低い人ですよ」
……二の句も継げぬシビアなお答え。実際、下のグラフのとおり、年収と未婚率はきれいに相関する。

 というわけで、いかにもという棒グラフも記事には掲載されている。そして、これはこれで終わりという感じはする。
 晩婚化とか少子化とかあるいは二子目をなぜ産まないのか…というのは、ワークシェアというような女性参画社会の問題というより、単に男性の所得の問題か? このあたりからちょっと迷路に入る気がする。
 当然ながら昔のほうが収入が低かった。しかし、結婚はしていた…と書き出すにこの話題はなにか全然外している感じがする。そういうことではないのだろう。
 単純なところ、というか、ごく当たり前に、幸福なりは可処分所得に比例している社会になったのだから、それを長期的に可能にする状態への希求が起こるのは当然のことだろう。
 露骨な感じでいうと、「人並み以下の生活はいやだな」という感じだろうか。その人並みはもちろん幻想といえば幻想だが、そこから抜け出せない現実といえば現実でもある、ということだ。
 話はずれるのだが、最近では私も引きこもっているせいなのか、周りで新興宗教の人々と会う機会はない。ものみの塔の人と愉快な神学論争をする機会も減った。が、ああいう共同体の中で半分隔離された現実的幻想あるいは幻想的な現実があれば、所得とかに比例した幸福みたいな基準からはかなり解放される。そういうものなのだと思う。
 もう10年以上も前の話題になるのだが、当時は原理教やオウムからどう子供を奪回させるか、マインドコントロールを解くかという話が賑わっていた。私は、違うよ、そういう思い込みというか思想の問題ではない、コミュニティの問題なのだ…と説得した。そう、そんな相談にそう答えたことがあったなと思い出す。帰るべきコミュニティがなければ帰れないものだ。もともと擬似的にですら帰属するべきコミュニティをそこに見た人々は、なんというか、私には外人みたいなものだ。私の所属する社会とは関係ない幸せを持つ人々…。
 話がだいぶずっこけたが、子供の教育費を含め、幸福なりが可処分所得と消費に構造化された世界のなかでは、そこから落ちこぼれていく人がいるというのは、まさにその構造の特性なのだろう。で、終わり、という感じがする。そこを出るということは、マイルドであれそうした構造に対立するという意味でカルト的なコミュニティへの所属希求になるのだろう。が、それが上位の一般社会を覆うことはない。
 そして、たぶん、人は自分の死をリアルに観念するまで社会的なありかたと自分の人生とは違うものだ、という精神的な自立というのはない。
 なにも自立せよというような偉そうな話ではない。精神的な孤立などたいていの人はできない。それでも、人は現実的にはどういう状況であれ自分の死を受け入れるという意味でみな孤独に死んでいくものだ。
 なんか臭い言い方だが、そうした中で自分の生を繋ぐ幻想に過ぎないとしても、子供でもいたらなぁという幻想はたぶん、かなり、社会依存よりも強固なものとしてあるようには思う。まぁ、家族ってやつですか。希望的に言えば、というか、今の私の生活感からすれば、都市部では、静かにそういう家族を大切に生き始めている人々が弱く社会正義を支えているように思う。それがメディアから、つまり、消費社会の側から可視になる契機があるのだろうか、よくわからない。

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2004.12.30

世田谷一家殺害事件から四年

 書いても年末の雑談になってしまうと思う。明日が大晦日かと思うと、あの事件を思い起こす。
 平成12年12月30日深夜から未明にかけて上祖師谷に住む宮沢さん一家四人が殺害された。あれから四年過ぎた。今年も事件解決の糸口すら見つからなかった。昨年大晦日に私はこのブログで大手新聞各紙社説がこの問題に触れないことに苛立ちを書き散らした。しかし、また一年ブログを続けてみて、あの苛立ちは諦観に変わってきてしまったと思う。恐らく、明日の新聞社説になにもこの事件に言及がなくても、そういうものかと私は思うのだろう。
 今年は災害の多い年で「災」という字がキーワードになったとも聞く。しかし、天災というのは絶えることなく起こりうるものであって、人知の及ばない面がある。道徳をたれるみたいだが、人間にはどうしようもなく運と不運というものはあり、天災は不運ということになるのだろう。人はそうした運や不運に流されつつも、それに流されまいとして生きていくものだし、生涯というスパンで見たとき、運と不運がその人の人生にどう意味づけられるかは、その人の生き様のあり方に側に取り込まれる…つまり、どんなに不運でもそれを生きた人生には意味がある…と思う。というか、そう信じたい。
 もちろん、それは大きな虚構かもしれない。スマトラ沖地震の被害者はいよいよ10万人に及ぼうとしている。天災とは、自然とは、依然畏怖を覚えるものだし、不運で済まされないような虚無がばっくりと口を開けているように思う。突然途絶えた人生には、生涯という意味への模索が閉ざされてしまう。
 世田谷一家殺害事件が社会にもたらした恐怖は、天災とも不運とは違うものだ。こうした悪事を撲滅すべく人の社会は努力していかなくてはいけない…しかし…と、それでもそれは、あたかも天災のようにどうしようもなく見えてしまう。11月17日に奈良県で起きた小1女児殺害事件も、その後解決の方向も見えない。このままこの事件も新しい年を迎えることになるのだろうか。いや、事情聴取が始まったようではある。追記同日:同県三郷町に住む男(36)が逮捕された。
 いや、世田谷一家殺害事件は、今年はどうだったのか、と、もう一度問うてみよう。
 Yahoo! JAPANにはこの事件記事のログがある。「Yahoo!ニュース - 世田谷一家殺害事件」(参照)がそれだ。著作権などの理由か、掲載されている点数はまばらになっているが、数えてみると18点ある。過去のものからめくっていく。なんども読んだ記事ばかりだなという思いがよぎるが、読んでいない、気になる記事もあった。先日23日の出された共同"15-45歳「少年」明確に 世田谷一家4人殺害4年"(参照)だ。


東京都世田谷区で2000年12月に起きた宮沢みきおさん=当時(44)=一家4人殺害事件は30日で発生から丸4年。現場に犯人の指紋が残りながらも捜査は難航しているが、犯人像は徐々に浮かびつつある。


冷蔵庫のアイスに興味を示す点などから「15歳-45歳」とし、少年の犯行の可能性を明確にした。

 少年犯罪?
 私は、その可能性は考えてもいなかった。もちろん、可能性としては考えられはするだろう。が、奇妙な思いがする。率直に書くが、この事件は当初、15歳というレンジの少年犯罪を予想させる情報はなかったと思う。そして、今頃こういう情報を出すのは、この四年間で、少年によってもこれほどまで残酷な事件が起こりえる、というふうに日本社会の空気が変わったからだろう。
 もちろん、残虐さというなら、あるいは少年が引き起こすというなら、この数年の社会の空気など言い出さなくても、戦後の世相などでもあったことだろう。しかし、この事件についてわれわれが恐怖を覚えるのは、その虚無性だ。どうやら怨恨でも、カネ目当てだけでもない、しかも犯人の挙動は血まみれの死者に動揺の様子もみせていない。つまり、こうした虚無を少年にだぶらせても不思議ではない社会の空気が出来てきたのだ。
 事件を社会問題に還元して社会を論じたいというオチにしたいわけではない。ただ、若い少年に及んだ虚無の、社会感覚は、今現在の私の感性の一部だとは思う。
 うまく言えないが、それはなんなのだろうか。一つには、たぶん、どのような社会でも失ってはいけない正義への希求感覚の、新しい形の麻痺なのではないか。

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2004.12.18

英国風に考えるなら愛子様がいずれ天皇をお継ぎになるのがよろしかろう

 9日のことになるのだが、英国で王位継承権のあり方を変更する法案が提出された。この法案にはいくつかの側面があるが、もっとも重要なのは、王位継承権を持つのは男女を問わず王または女王の最初の子とする、ということだ。従来は男性が優位だったので、王または女王の長男に姉がある場合でも年下の長男が王位を継いでいた。男子がいなければ女子が女王となった。この王位継承のありかたは、従来、毎日新聞"女性天皇:政府内で検討 皇室典範を改正へ"(参照)の記事にあるように、「英国型」と呼ばれていた。


 改正の素案では「男系の男子」と定めている皇室典範第1条を見直す。また、皇位優先順位は、欧州の王室で見られるような兄弟姉妹の中で男性を優先している英国型▽男女にかかわらず長子を優先しているスウェーデン型があり、識者の意見を踏まえながら骨格を固める。

 法案の審議は来年に入ってからだが、おそらく英国の王位継承権は改正されることになるだろう。王室もこの法案を好意的に受け止めている。その意味で、今後は王位継承のあり方として「英国型」というのはなくなる。
 この法案は労働党のダブズ議員(ダブズ卿)が提出したもので、彼は、この法案を出すにあたって次のように主張している。ガーディアン"Bill challenges 'outdated' royal succession rules "(参照)から引用する。

"Anachronistic rules of succession risk preventing the monarchy being acceptable to a full range of 21st-century British society," Lord Dubs warns.

"Support for changes that would reflect modern Britain's values on gender and religious discrimination would be all but universal."
【試訳】
「時代錯誤の王位継承規範には、王室が21世紀に英国社会に幅広く受け入れられることを妨げる、というリスクがあるのだ」とロード卿は警告している。「改正を支援することは、現代英国が掲げる男女平等と宗教差別撤廃が普遍的な価値であることを反映したものなのだ。」


 ここで宗教差別の話が出てくるのは、今回の法案では、従来、王位継承者はカトリック信者を配偶者としてはいけないという規制も廃止するためだ。現実的にはチャールズ皇太子がカトリック教徒のカミラさんを後妻にしてもいいよ、という意味になる。
 同じく、The Heraldの"Time for reason to rule in the outdated royal family"(参照)にあるダブズ卿の発言も興味深い。

"If parliament is unwilling and the monarchy is unable to discuss the issue, then royal reform risks becoming the Bermuda Triangle of the British constitution. Increasingly, the monarchy will suffer from this politics of 'benign neglect'. Most Britons support the monarchy but regard these anachronistic features as unacceptable."
【試訳】
もし議会が気のりしないまま先延ばしの態度でいたり、王位継承権問題は議論できなとするなら、王室改革がはらむリスクは、英国という国家の根幹において、船舶や航空機が蒸発する謎の水域であるバミューダ・トライアングルと化してしまうだろう。しかも、王室は、「慎み深い無視」という政策によって苦しむことになる。英国人は王室を支持しているのだ。この問題について触れるのはやめておこう、といった時代錯誤の誤りをおかしてはならない。

 ダブズ卿の雄弁がまるで指輪物語のシーンようにも思えてる。王室を愛するというのはこうした気迫を持つということでもあるのだろう。
 法案の解説については、ちょっとビックリしたのだが、すでにWikipedia"Succession to the Crown Bill"(参照)に手短にまとまっている。法案全文は英国国会のサイトにある(参照)。だが英国法と歴史の知識が必要とされるのでむずかしいったらありゃしない。
 さて、ダブズ卿が警告しているように、王室が社会に受け入れるには、社会の普遍的な価値を受け入れなくてはいけない。普遍的というのは、このあたりもしかすると日本人にはあまりピンとこないかもしれとも思うのだが、伝統より優先するということだ。日本の文脈で言えば、メディアが愛子様と呼び習わしている敬宮愛子内親王殿下をいずれ東宮とすべきだ、ということになる。
 とはいえ、この手の話は、日本国内だとなんたらかんたら収拾のつかない議論となるのだろう。ふと思うのだが、日本には本来的な意味での貴族制がなくなったために、ダブズ卿のように発言できる人がいなくなってしまったのがいけないのかもしれない。
 日本の皇室については、先日の秋篠宮発言に関連してだろうが、英国系のロイター通信だが、12月7日に"Japan royal succession crisis sparks drama"(参照)という記事があった。

Japan's monarchy is in crisis and, four decades after the last imperial male was born, many royal watchers say it can only be resolved by a decision to let a female succeed to the throne.
【試訳】
日本の皇室は、皇太子誕生後、四十年ものあいだ、危機状態にある。皇室を考える人たちは、この問題を解くには女性の皇位継承しかないと考えている。

 実際のころ、それしかないだろうし、それ意外はあまりに奇怪なウルトラC(死語)にしかならない。
 英国ロイター通信は、2007年には問題になるのでしょうな、としてこの記事を締めている。ま、そうでしょう。そのころまでには、日本の空気ももっと女帝承認になっているだろう。

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2004.12.09

米国内では州ごとに経済自由度が異なる、で?

 先日ラジオ深夜便で米国内の州ごとの経済自由度(Economic Freedom Index)という話があり、ちょっと気になった。しょぼいネタかもしれないが…。
 経済自由度というと、国際間での比較は日本経済新聞などにも毎年掲載されて話題になる。例えば、"経済自由度ランキング、日本は36位・米シンクタンク"(参照)によると、今年は、日本は36位だった。


米シンクタンクのケイトー研究所は2004年版「世界の経済自由度ランキング」をまとめた。金融市場の開放度や貿易の自由度などを評価したもので、1位の香港に続き、シンガポール、米国や英国などが上位に並んだ。日本はイタリアなどと並ぶ36位で、前年(35位)からやや後退。主要国ではフランス(44位)に次ぐ低い評価になった。

 そう言われてもねみたいなランキングではある。フランスより上というのが妥当かなという感じだ。
 この経済自由度という概念が、米国だと各州にも適応できるというわけだ。考えてみると当たり前のことで、米国というのはUnited Statesというように、法制度の異なる国家(state)の連邦制になっている。法制度が違うということは税制やその他の経済規制も違う。私事めくが、10年くらい前だと米国のショップで注文するとき、マサチューセッツ州の場合は税率はどうなるとかいう面倒臭い手続きの注意書きを読まされたものだった。最近では比較的ネットで簡単にできるようになっとはいえ、米国内では州ごとにいろいろ経済的な規制が今でも違う。なるほど経済自由度ということが話題になりうるわけだ。
 米国州ごとの経済自由度についての資料は、パシフィック調査研究所(Pacific Research Institute)(参照)にある。調査の概要はPDFファイルで配布している(参照・PDF)。手短にわかりやすくまとっている。
cover
州ごとの経済自由度
 この概要を見ると、米国に多少なり関心のある人間は、なるほど、面白いといえば面白い。結論は、一目でわかるように、先日の大統領選挙のように州ごとに色分けされている。
 これを見ていると、なんというか、先日の大統領選挙に似ているなという印象も受ける。つまり、ブッシュ陣営の地域のほうが経済自由度が高いかのようだ。しかし、実際には、この差異というのは、単に都市部かそれ以外ということで、都市部の場合は行政に求められるところが多いのために財源確保に経済規制も多いという単純なことなのだろう。
 調査結果によると、最も経済自由度がないワーストはニューヨーク州。なんだか苦笑してしまいそうだ。お手あげかな?(自由の女神がもう一方の手もあげたら独立宣言書が落ちてしまう)。ワースト方面でこれに次ぐのがカリフォルニア州。がんばれシュワちゃん、共和党。先日も日本に来て楽しいセールをやっていた。
 ベストはというと、カンザス州。二位はコロラド州。そしてバージニア、アイダホ、ユタと続く。と、見ていきながら、で?、こんなリストになんの意味があるのか?という気持ちにもなるかもしれない。だが、調査概要には面白い模範想定問答もあった。ぶっちゃけた話、経済自由度が高まると手持ちの金(かね)が増えるのか?、と。

Q: If we enact policies in our state that yield more economic freedom, will we have higher personal income?
A: Yes. Based on the economic model, a 10-percent improvement in a state's economic freedom score yields, on average, about a half-percent increase in annual income per capita. If all states were as economically free as Kansas, the annual income for an average working American would rise 4.42 percent, or $1,161, putting an additional $87,541 into their pocket over a 40-year working life.

 答えは増えるというのだ。全州がカンザス州並になると収入は4.42%アップするらしい。年間で1161ドル(12万円くらい)の儲けになる。日本だと国民年金をシカトするとこれよりちょっと多い差分になる。米国の場合、この差額を安全な米国財務省証券で40年運用すると8万7541ドルの差になる。ドルは今後下がるだろうが生涯で800万円くらいの差となるのだろうか。多いと言えるのかたいしたことないと見るべきかよくわからないが。
 そういえば、ワーストで二位のカリフォルニア州では、現在不動産価格が高騰し同州から逃げる人も増えているという話を聞く。州間であまり経済的な規制の差が出れば、米国の場合直接的な人間の移動が起きるのかもしれない。
 企業という点でも、カンザス州など経済自由度の高い州のほうが有利になる。通信と輸送が高度化されればこうした地域での企業はメリットになるだろう。こいうのは、ある程度技術とコスト面が飽和した状態で質的な変化が起きることがある。
 調査をぼうっと読みながら、日本のことも思った。日本でも地方行政の独立性が高まれば、県ごとの経済自由度なんていうものもできるのかもしれない。いやいや、そんなはずはないか。
 ところで、この報告書の発表者を見ているとYing Huangという女性がいる。漢字だと「黄英」だろうか。こうプロフィールがある。

Ying Huang, born in the Peoples Republic of China, graduated in 2000 with a B.A. in international finance from Shanghai University of Finance and Economics. Before coming to the United States in 2002, she worked in the Shanghai office of an Australian consulting company. Huang received her M.A. in economics from Clemson University in December 2003. Her master's thesis developed the economic freedom indexes used in this report.

 ざっと見る限り、国籍は大陸中国なのではないだろうかと思う。M.A.(修士)論文がこの経済自由度であったとのこと。この調査の実質は彼女のM.A.論文なのではないか。
 こういう経済自由度を重視するという考えの中国人の人材が、遠くない将来大陸中国で活躍するようになるのだろうか。

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2004.11.12

非配偶者間人工授精(AID)にまつわる英国の状況

 英国不妊治療専門誌「ヒューマンリプロダクション」の記事"Adolescents with open-identity sperm donors: reports from 12-17 year olds"(参照)が英国系のニュースで多少話題になっていた。標題を意訳すると「12~17歳の青少年期に精子提供者情報を開示すること」となるだろうか。第三者の精子提供によって生まれた子供が青少年期になった時、自分自身を形成するきっかけとなった遺伝子的な親についての情報をどう扱うべきかという問題だ。日本国内では非配偶者間人工授精(AID)の問題として扱われている。
 このニュースについて、BBCでは"Sperm donor ID fears 'unfounded'"(参照)として、精子提供者のいわれない恐れの感覚には根拠がないという点に焦点を当てていた。ロイター系の見出しはいろいろあるがヤフーでは"Identifying Sperm Donors Doesn't Cause Problems"(参照)というようにもっと直接的に、精子提供者情報を開示しても問題はないだろうとしている。
 原論文は医学誌でもあり教育心理学的な立場に立っているようだ。結論はある意味でシンプルになった。


CONCLUSIONS: The majority of the youths felt comfortable with their origins and planned to obtain their donor's identity, although not necessarily at age 18.
【意訳】
第三者の精子提供によって生まれた大半の子供は、青年期になって自分たちの起源やその提供者の情報を知っても不安を持たない。とはいえ、18歳までそうする必要もないとは言える。

 今回のニュースは特に目新しいものではなく、類似の調査はすでに近年「ヒューマンリプロダクション」に掲載されてもいる。むしろ、英国ではこの情報開示が権利の問題として扱われているといった英国ならでは背景もあるようだ。
 私の知識が古い可能性はあるが、英米圏、つまり、英国、米国、カナダ、オーストラリア(州によって違う)では、法律の特性もあるのかもしれないが、生物的な意味での父親を知る権利を法制化していない。当然、記録もないという。が、ニュージーランドは開示に改正された。フランスや南米などカトリック教徒の多い地域を含めた各国の状況について、私はわからないのだが、基本的には開示の方向には向かっているようだ。
 日本では昨年の春に、厚生労働省の生殖補助医療部会で「遺伝上の親(出自)を知る権利」を全面的に認めている。背景には、1994年に日本が批准した国連「子どもの権利条約」に、子供には「出自を知る権利」があると解釈できる条項があることだ。が、率直に言って、人権の問題や日本社会の問題を考えてというより、密室で専門家が決めているという印象はある。実際のところDNA鑑定が進めば遺伝子上の親かどうかはかなり明白になるので、そうなった際に完全開示を原則にしておけば、厚生労働省や関係医は関わらなくていいことになる。なにより、この問題が法制化とは関係ないところで進められているのが日本らしい。
 そもそも日本では非配偶者間人工授精(AID)の始まりも法律や人権の問題としては提起されてこなかった。1949年と終戦からそう遠くない時代に第一例の子供が誕生している。この子は現在55歳になるはずだ。その後、非配偶者間人工授精(AID)で誕生する子供の数なのだが、奇妙なことにとも言えるのだが、概算すらできない状況にある。1~3万人とも言われているのがブレが大きすぎる。この問題には日本特有の問題も絡んでいるようだが、ここではあまり立ち入らない。
 今回の関連ニュースで気になることが二点あった。一つは、ロイター系"Sperm donation children want to learn about donor"(参照)の解説にこうあったことだ。

Thirty-eight percent of them had single mothers, just over 40 percent had lesbian parents and 21 percent had heterosexual parents.
【試訳】
非配偶者間人工授精の実態の38%はシングルマザー。40%は女性同性愛者、21%は異性の親である。

 欧米では非配偶者間人工授精の問題は女性同性愛者のライフスタイルにかなり大きく関係しているようだ。
 もう一点は、同時期のニュースというだけで直接の関係はないのだが、BBC"Egg and sperm donor cash proposal"(参照)で取り上げられているが、英国では、精子および卵子提供を有償にしたらほうがよいという問題が起きている。背景には提供者の低下があるらしい。あえて先のニュースに関係付けるなら、精子及び卵子提供への対価というより、提供者情報の開示のリスク対価のようにも受け取れる。
 余談めくが以前、ES細胞研究関連で韓国の状況を見たとき、意外に人工授精が盛んだと知った。日本の場合も、視点によるのだろうが、盛んだと言えるようにも思う。どちらの国もこうした問題を法から切り離し、社会から隔絶するという文化の傾向を持っているようだが、こうした問題をどう考えていったらいいのか。また、少子化の日本社会でどういう位置づけになっていくのか、気にはなる。

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2004.11.05

増税すると労働時間が減り生産力が落ちる

 11月2日の政府税制調査会の答申とやらによると、本当に定率減税をやるのだそうだ。へぇ本気なのかと思う私が呑気過ぎるのだろう。朝日新聞系「『増税路線』に転換へ 政府税調、来年度改正答申で」(参照)の記事で石弘光会長は「減税や公共事業で景気を回復させ、税収増を通じて財政再建するという従来の考えから決別する必要がある」と強調したのことだ。構造改革路線はやめて、ひたすら税負担増ということになる。
 実際には、来年から減税規模を半減し段階的に廃止するらしい。定率減税が全廃されると年間3兆300億円の増税とのこと。と言われてもピンとこない。
 この政策、たしか公明党発だったよなとちょっとネットを見渡すと、赤旗のサイト「公明党が主張する 所得税定率減税の廃止」(参照)に具体的な計算がある。一年前の記事なので状況は違っているのかもしれないが、概ねこんなところなのではないか。

給与収入 現在納税額 増税額 増税率(%)
300 0 0 0.00
400 3.92 0.98 25.00
500 9.52 2.38 25.00
600 15.12 3.78 25.00
700 21.04 5.26 25.00
800 28.48 7.12 25.00
900 41.28 10.32 25.00
1000 55.04 13.76 25.00
1100 69.6 17.4 25.00
1200 84.16 21.04 25.00
1300 98.72 24.68 25.00
1400 116.6 25 21.44
1500 141.2 25 17.71
2000 283.7 25 8.81
5000 689.23 25 3.63
10000 1021.73 25 2.45

 モデル世帯(片働き夫婦、子ども二人の四人家族)で年収800万世帯だと7.12万円の増税になる。それほどたいしたことないとも言える。年収500万円だと2.38万円増。流行の300万円以下だと現状同様税負担なし。高額所得世帯の増税率が小さいので、これならそれほど社会的に文句はでないのではないかなと思う。
 やっぱ日本は増税しかないですか、とも思うが、米国ではブッシュの選挙公約では「減税恒久化、増税は行わず」ということだった。というあたりで、そういえば、今年のノーベル経済学賞受賞(参照)のエドワード・プレスコット(Edward Prescott)(参照)米ミネアポリス連銀エコノミストが先日ブッシュに「けちな減税するんじゃなくどかんと減税せーよ」とアドバイスしていたのを思い出した。"Nobel laureate calls for steeper tax cuts in US"(参照)に10月11日のこのニュースが残っている。


"What Bush has done has been not very big, it's pretty small," Prescott told CNBC financial news television. "Tax rates were not cut enough," he said. Lower tax rates provided an incentive to work, Prescott said.
【試訳】
TV放映CNBCフィナンシャル・ニュースでプレスコットは「ブッシュがこれまでにした減税は十分に大きいとは言えない。かなり小さい」と言った。さらに「減税は十分ではない。税率が低ければ人々はよく労働するようになる」とも加えた。

 プレスコットと言えば実物的景気循環(リアル・ビジネス・サイクル、RBC)理論とか有名なのだそうだがもちろん私は知らない。その理論に基づいての提言なのかとちょいと思って、調べると、へぇな話がある。「ユーロ圏:時間的不整合性」(参照)で、キドランドとの共著"Rules Rather Than Discretion:The Inconsistency of Optimal Plans"(Journal of Political Economy, 1977)をもとにこうなるのだそうだ。

両氏は、この論文の中で、政策当局は低インフレ政策にコミットできないと指摘している。両氏の指摘によると、インフレ期待が低いなら、政策当局は一時的に生産を潜在能力以上に押し上げるために浮揚策を実行するのが好都合と考えるかもしれないが、経済主体は合理的で政策当局の動きを予想して行動するため、経済主体は低インフレを予想せず、生産は拡大しない。経済政策における「動学的不整合性」は、このように「人々が期待を合理的に形成するとき、政策を実行する前には最適である政策が、実際に政策を行う段階では必ずしも最適ではなくなること」をさす。

 誤解かもしれないが、金融政策とかでインフレ期待を高めることなんてできないと言っているような気がする。
 それはそれとして、先のプレスコットの提言だが、こうしたRBC理論と無関係ではないのだろうが、ちょっと違うようだ。というのは、この話は、昨年11月のFRB Minneapolis Researchで公開された"Why Do Americans Work So Much More Than Europeans?(アメリカ人はヨーロッパ人に比べてなぜよく働くのか?)"(参照)につながっているからだ。

ABSTRACT: Americans now work 50 percent more than do the Germans, French, and Italians. This was not the case in the early 1970s when the Western Europeans worked more than Americans. In this paper, I examine the role of taxes in accounting for the differences in labor supply across time and across countries, in particular, the effective marginal tax rate on labor income. The population of countries considered is that of the G-7 countries, which are major advanced industrial countries. The surprising finding is that this marginal tax rate accounts for the predominance of the differences at points in time and the large change in relative labor supply over time with the exception of the Italian labor supply in the early 1970s.
【抄訳】
アメリカ人は、ドイツ人、フランス人、イタリア人に比べて50%も長時間働く。しかし、1970年代前半では西欧の人々がアメリカ人より長時間働くということはなかった。この論文で、私は、収入に対する税率がこの労働時間の差異をもたらす影響について、時系列にかつ国ごとに調査してみた。対象はG7の先進国の人々とした。私自身驚いたのだが、1970年代前半のイタリアで例外があるものの、限界税率こそが労働力と労働時間の推移を決定しているのである。

 え?!である。
 税率を上げたら人は働かなくなるというのだ。欧州で労働時間が少ないのは税率が高いからなのだ、と。とすれば、税率を上げるほど国の生産力は落ちることになるな。
 って、よくわからないのだが、それって経済学の常識なのか? プレスコット大先生が言うのではなく、匿名のブログで書いてあっておかしくないお話のような気がするのだが。
 というわけで、詳細については、この論文をPDFで読むことができる(参照PDFファイル)。ので、気になるかたはそちらへどーぞ。
 この説がトンデモなのか常識なのか、私はわからないし、日本に適用できるのかわからないが、がだ、なんとなくだが、これって本当なのではないか。
 というわけで、政府に国民生活の保証をさらに求めるままにしていくと、日本も税率をじわじわ上げていくことになり、労働時間が減少し、労働力が減少し、生産力が落ちてジリ貧化していくのだろう。
 それって、すでに年収300万円以下の世帯はそういうのの先取りなんだろうか。いずれによ、家庭団欒とか自分の時間が持てるビンボながらも呑気な日本になっていくのかもしれない。それもまたよし、かな。

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2004.10.29

南無量的緩和、南無低金利

 28日付のフィナンシャルタイムズに"Japan on hold(日本は保留中)"(参照)という標題で、日銀の量的緩和政策は継続しとけという記事が掲載された。ニュース的な意味としては、20日の参院予算委員会における福井俊彦日銀総裁の表明に賛意を表した形だ。
 たいした内容ではないのだが、国際的にはそう見られているのか、ふーん、という感じ。わかりやすくまとまっているのでブログにネタにでもしようかなと思っているうちに、日本語のロイターで抄訳のようなものが出た。「日銀の量的緩和政策の堅持、適切な判断=FT紙社説」(参照)である。原文とのニュアンスの違いのようなものがあるなと思ってざっと見比べたがないようだ。なので、うざったい英文引用はやめて、気になる人はそちらを読むといいだろう。
 その内容だが、フィナンシャルタイムズが量的緩和政策は継続しろというのは、こういう危険性があるからだというのだ。


  1. 原油価格の上昇はインフレ率の上昇を招くが、日本の場合、実質賃金や企業収益の減少も招き、中期的には期待されているインフレ圧力を減少させる。
  2. 現在の日本の景気回復は中国の外需頼みなので、中国経済が減速すれば、日本経済は失墜する。
  3. また今年前半のように最近の円高ドル安基調になってきている。

 私なんぞ、原油がもっと上がれば日本の製造業に本気で価格上昇のドライブになって良し、とか思っていたが、フィナンシャルタイムズのいうように、実質賃金や企業収益になるのだろう。例の一次産品の高騰の経過をみれば、そうよそうよ、である。
 二点目の中国経済の減速については、今回の中国利上の動向が気になるところだ。すでに原油バブルは少し冷えた。もっともこの程度では石油価格が下がったといえるものではない。むしろ期待するなら、中国利上が円売り材料になるかな、くらいだろうか。
 関連して三点目のドル安基調だが、このまま続くのかは、米国大統領選挙にも関係してくるので、しばらくすると動向がはっきりするのだろうが…と、つまり、ドル高って線があるかだ。
 フィナンシャルタイムズでは、円高基調になれば、日本はまた例の介入をやる気だろうが、やめとけ、と諭している。

Now as then, the Japanese authorities stand ready to intervene against the yen if it seems to be rising dangerously quickly and adding to deflationary pressures. But the best way of weakening the yen will be to hold interest rates low, reducing the yield available on Japanese assets and creating expectations of higher inflation down the line.

 それより金利を下げろというのだが…はて、これ以下には下がらんが、と、おっと読み間違えた(わざとら)、ただ現状の低金利を維持しろ、というわけだ。それがthe best wayっていうのか英語って難しいなと思うが、要するに、円高になっても下手を打たずに我慢せいということなのだろうか。ゆっくり景気は回復するのだからってか。
 そのあたりが、よくわからん。というか、フィナンシャルタイムズは、量的緩和をもっと進めろとか、あれとかこれとかいわゆるあの政策をしろというわけでもない。そのあたりの機微がわからん。
 が、総じて福井日銀総裁を支援していると見ていいから、22日の財政制度等審議会での主張が暗に込められているのだろう。「日銀総裁が財政健全化の必要性強調、歳出カットだけでは困難」(参照)のこれだ。

 インフレを意識的に起こして、財政赤字を削減の議論があることについては、「もしこの方法を取ると、金利が急上昇するのは当然のこと。金利の上昇は、経済の活性化を損ない、経済の急速な収縮が起こる」として、否定した。

 つまり、フィナンシャルタイムズ的にもそういう含みなのだろう。
 フィナンシャルタイムズの話から離れ、量的緩和政策は、ま、それはそれとして、福井日銀総裁のこの表明だが…つまり、日本政府は無い袖は振れぬ的状況になっているわけで、どうするかと。当然、取れるところから取るぞー税なので、所得税の定率減税の廃止である。
 これはすでに計画段階のようだ。「定率減税の段階的縮小、常識的には半分ずつ実施=政府税調会長」(参照)だと、こう。

石会長は、首相発言について、「(定率減税は)あまりにも規模が大きいので部分的にやる。先行きの予測がつかない景気情勢の把握にも時間がかかる」として、段階的な縮小は現実的、との認識を示した。その上で、「一挙に全部やろうという人は不満が残るかもしれないが、少なくとも部分的にやる。その意味は半分なのか、3分の1か4分の1かわからないが、常識的に考えれば半分ずつということだろう」と語った。来年度から実施した場合は、2005、06年度の2年間で廃止することになる。

 ま、そーゆーこと。庶民的にはどんどんセピアなシビアな世界になっていくのだろうけど、餓死者がでる国というわけでもないし、ま、いいっか、なのだろう。
 これでどうやって「インフレ期待」かよとも思うけど、じわじわとなんとなるのでしょう。仮になんかのなんかでスポーンとなぜか資産バブルが起きても、以前と同じで直接に庶民に関係はないでしょう。貧乏人は気にしない気にしない。

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2004.10.28

日本の報道の自由の順位はチリ、ナミビア、ウルグアイに並ぶ

 今年で3回目になる「国境なき記者団(Reporters Sans Frontieres)の「世界各国における報道の自由に関する年次報告(Third Annual Worldwide Index of Press Freedom)が26日に発表された(参照)。日本の順位は42位。チリ、ナミビア、ウルグアイに並ぶ栄誉である。なんかおおらかで住みやすそうな国の印象を出して好ましい、わけはない。

世界各国の報道の自由の順位

1 デンマーク 11 スウェーデン 24 ジャマイカ 36 ブルガリア
1 フィンランド 11 トリニダード・トバゴ 25 ポルトガル 36 イスラエル
1 アイスランド 15 スロベニア 26 南アフリカ 38 カーボベルデ
1 アイルランド 16 リトアニア 27 ベナン 39 イタリア
1 オランダ 17 オーストリア 28 エルサルバドル 39 スペイン
1 ノルウェー 18 カナダ 28 ハンガリー 41 オーストラリア
1 スロバキア 19 チェコ 28 イギリス 42 チリ
1 スイス 19 フランス 31 ドミニカ 42 日本
9 ニュージーランド 21 ボスニア・ヘルツェゴビナ 32 ポーランド 42 ナミビア
10 ラトビア 22 ベルギー 33 ギリシア 42 ウルグアイ
11 エストニア 23 アメリカ 34 香港 46 モーリシャス
11 ドイツ 23 アメリカ領 35 コスタリカ 46 パラグアイ

 率直に言ってむかつくほどの低順位なので、日本の新聞やテレビ報道機関は無視するだろうかというと、無視するとすれば、その理由はたぶんそうではない。「国境なき記者団」が日本の報道の自由の問題で目の敵にする記者クラブの存在について、日本の新聞やテレビ報道機関が触れたくないというところだろう。
 「国境なき記者団」は2年前に記者クラブなんて廃止にしろよ、ということで、"Reform of Kisha Clubs demanded to end press freedom threat"(参照)という勧告を出している。これに対して、昨年末に「日本新聞協会編集委員会 記者クラブ問題検討小委員会」は「記者クラブ問題検討小委員会・2002-2003活動報告」として次のように明快に回答している。


結論から言えば、これらの疑問の大半は、誤解や曲解に基づくものです。しかし、結果として、彼らは記者クラブを「承服できない障壁」ととらえ、十分な取材ができなかった不満・怒りの矛先が<記者クラブ>に向けられる例が少なくありません。われわれ新聞協会加盟各社は「日本の記者クラブ制度は国民の『知る権利』の代行機関として重要な役割を果している」との基本認識を共有しています。

 なかなか面白いでしょ。というわけで、面白い反論がこの先と、「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」(参照)に書いてあるので、暇な人は読んみてもいいかもしれない。いずれにせよ、今年の発表でもそうだが、そんなの反論にもなってないと結果的に受け止められている。
 今回の発表について、日本のブログで触れているところはあるかとちょいと検索したら、CNNの日本語版が触れていた。"報道の自由度、中東、東アジア低く、日本42位"(参照)。

紛争地におけるジャーナリストの支援や、言論と報道の自由について調査している国際団体「国境なき記者団(RSF)」(本部パリ)は26日、世界各国における報道の自由に関する年次報告書2004年度版を発表した。経済先進国では日本が最低で42位。全体的には、最下位の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を含む東アジアと中東地域で、自由度の低さが目立った、としている。

 いったいどんな基準でこんな順位にしているのかというと、アジアというだけでベースの減点があるわけでもない。"How the index was compiled"(参照)に説明がある。具体的にこの順位が本当に気にくわないなら、これにそって反論すればいいのだろう。
 私はこの順位が気にくわないかというと、そうでもない。こんなものなんじゃないか、日本の報道ってと思う。そんな諦観で国民の知る権利はどうなる、と思うのだが、新しいジャーナリズムを模索していくしかないのではないかと思う。とはいえ、ブログや2ちゃんのようなものがすぐにその代替となると楽観しているわけでもない。
 基本的には国内問題はタレ込みがもう少し増えればなんとかなるかもしれない。外信関係はもうネットで十分でしょと思う。
 社会問題がグローバルな枠組みに置かれるようになれば、国内のボトムアップ式なジャーナリズムでなくても、大枠で抑えることができるのではないかとも思う。例えば、アメリカ産牛肉の輸入がストップしている例の問題だが、これなんか全頭検査という虚構はさすがにグローバルな照明によって維持できなくなった。類似の例だが、日本版Newsweekの編集長コラム「大統領選とすき焼きの中身」ではこんな話がある。

 狂牛病の発生によってアメリカ産牛肉の輸入がストップしている問題では、9月になって日本側の全頭検査要求の見直しという動きがあった。その背景に、大票田であるアメリカの畜産業界による圧力があったことは想像にかたくない。酪農の盛んなテキサス州出身のブッシュが当選すれば、よりアメリカ側の要求に沿った決着が図られるか、輸入の解禁がさらに遠のくかもしれない。

 コラムのユーモアと受け止めるべきかもしれないが、面白過ぎる。事態はそうではない。アメリカの畜産業界は、カナダからの牛肉輸入がなくなったので、日本に出せなくてほっとしているのが実態だ。日本との牛肉で儲かるのは、彼らがクズ肉だと見なしている部分に限定されている。そのあたりの利権はあるにせよ、米畜産業界全体としてマジに日本に外圧をかける状況ではない。また、米国からの牛肉が本当に減少して日本が困ることが確実になれば、オーストラリアのオージービーフが増産できる体制に入ることができる。現状その動向がないのは、日米に出し抜かれることを恐れているためだ。いずれにせよ、こういう問題は国際関係で成り立っているのだから、グルーバルな大枠が見えれば、国内報道の虚構は大筋でわかるようになる。
 ということは、日本の場合は、グローバルなネットリテラシーというのと、またまた英語の問題ということはあるかもしれないが、現状のコンピューターパワーの拡大で実用レベルの英日翻訳は可能になるだろう。
 むしろ、日本の場合、ブログなりが代替ジャーナリズムな志向をやめてしまう傾向が特徴的になるかもしれない。というか、そういう傾向と日本の既存ジャーナリズムが釣り合っていて、報道というより、プロパガンダやアミューズメントになっていくのかもしれない。

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2004.10.18

パラサイト・シングルの不良債権化現象

 先日「パラサイト社会のゆくえ ちくま新書」(山田昌弘)(参照)を読んだ。ベストセラー「パラサイト・シングルの時代 ちくま新書」(参照)の続編として位置づけられているのだが、雑誌掲載のエッセイをまとめたものらしく、読みやすく興味深いものの、当の問題への求心性に欠くために書籍としては雑駁な印象を受ける。ここでも書評としてエントリするより、雑駁な話題の一つとして「パラサイト・シングルの不良債権化現象」について、軽く触れてみたい。

cover
パラサイト社会
のゆくえ
 「パラサイト・シングルの不良債権化」現象というは面白すぎるネーミングだ。もちろん比喩である。事態は、親元暮らしのパラサイト(寄生)の未婚者が、結婚できないままの状態を不良債権に模したものだ。ちょっと長いが本文の説明を引用しよう。

親と同居して、「いつか結婚できるはず」と将来設計を先延ばしにしているうちに、年を重ね、三十代、四十代に突入する。自分が二十代には五十代だった父親も引退して年金生活に入り、家事をしていた母親も弱り始める。経済的にも、家事に関しても、徐々に、逆に親を支えなければならない立場に移行する。


 私が『パラサイト・シングルの時代』で指摘したように、一生結婚しないことを前提に親と同居生活を選択し、将来の生活設計をして行動している未婚者は問題ない。「いつか結婚できるはず」、「結婚すれば問題が解決する」と考え、準備をしないまま未婚中年になてしまう状況を問題視したいのだ。この状況は、いつか土地や株が上がれば問題は解決すると考え改革を先送りにし、不良債権を抱えて経営危機に陥る企業にそっくりだというのが、私が「パラサイト・シングルの不良債権化」という言葉で表したい状況なのである。

cover
パラサイト・
シングルの時代
 そして、同書によれば、かつてはリッチなパラサイト・シングルもいまや老人となる親の介護や不況につれて経済的な困窮からパラサイトを続けているという状況なのだという。
 そうかもしれないとも思うし、そう言われてもねというふうに思う人も多いだろうと思う。どだい、一生結婚しないことを前提にしている未婚者は少ないのが当然だろうから、それなら未婚で人生設計するなら問題ないと責められても困る。
cover
結婚の条件
 こうした問題について、著者山田は、この文脈では個人のライフプランのように見なしている。だが、社会学的には結婚というのは個人の選択の問題というより、単に世情の問題にすぎないだろう。社会現象というだけのことだ。かつて適齢期で結婚していた人が多かったのも、ただそういう世情だったからに過ぎない。そして、かつて世情のままに結婚した人たちの人生がその後幸せだったかというと、それは結婚とはまた別の問題だろう。むしろ、パラサイト・シングルは、小倉千加子「結婚の条件」にあるように、子供の未婚状態を支えているのが実は親の希望であるということからわかるように、親の結婚観の反映もあるのだろう。
 繰り返すが、世情は単に世情である。逆らって個人を打ち出すこともない。これからの日本はむしろ、パラサイトのまま家の財産を継いで老人介護する未婚者の層を社会を構成する重要な要素と見なしていけばいい。社会の課題としては、そこにどう社会的な連帯を発生させるかということのほうが問われるべきだ。
 むしろ、結果的に生じる少子化と、そうした厳選された子供への教育のための資産投下によって社会が階層分化することのほうが重要になってくる。この点について、「パラサイト社会のゆくえ」では「パラサイト親子の背後に祖父母あり」という章でこの関連問題が触れられているものの、階層分化については言及はない。
 話が散漫になるが、先日、私は東京から大阪まで新幹線で過ぎていく風景をぼんやり見ていながら、地方都市の近郊ほど一戸建てが多いなとなんとなく思っていた。日頃私が大型マンションに見慣れているからかもしれない。こうした地方の一戸建てに、それぞれパラサイト・シングルもいるのかもしれないが、率直に言えば、都市生活から隔離された地域の一戸建てに若い人が暮らしていても面白くもないだろう。
 とすれば、ひどい言い方だが、現状の日本の惰性のまま、こうした地方都市がどんどんだめになっていけば、若者は餌に惹かれるように都市に出てくるだろうし、都市のなかで連帯を模索するようになるのかもしれない。そうしたなかで、定常的な性関係を基礎とするかつての家族の維持は昔のようにはいかないだろう。が、モデルを変えていけばいいのではないか。フリーターが二人でなんとか一人前だが子供もいます、といった感じの人々の生活を都市が許容できるようにすればいいのではないだろうか。
 というか、家とパラサイトの問題というのは、大都市郊外の中産階級地域の崩壊の途中過程なのではないかと思う。それはもっと壊れてしまったほうが、新しいなにかが現れてくるだろうし、その壊滅から新しい都市のあり方を期待するのもそう悪いものではないように思う。

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2004.10.17

フリーペーパー雑感

 フリーペーパー(無料新聞)の部類に入るのか、あるいはフリーマガジンというジャンルになるのか、R25(参照)を地下鉄駅とかでチャンスがあればたまに拾う。あらためて配布所一覧を見たら、地下鉄駅だけではなく、関東一円に広がっているようだ。R25が面白いかといえば、私は面白いと思う。雑誌としても軽くて、ネタも文章の質もいい。それなりに成功したと言えるのではないか。
 内容的なノリとしてはブログみたいだなという印象もある。もちろん、編集が入っているからブログとはまるで違ったものとも言えるのだが、それでも、特定のブログのネタを継ぎ合わせて編集してもこんな感じのができるんじゃないか。というと逆にブログもフリーペーパー的なものになっていくのかもしれない。つまり、広告収入がある程度得られるほどのメディアに成長すれば、ブログで喰っていける人も出てくるんじゃないか。大手雑誌を見ても、特集という目玉に配慮するにせよ、実際は、連載エッセーで読者をつないでいる。
 しかし、既存の雑誌の業界あるいは既存の広告業界から見ると話は逆になる。雑誌というのは先に広告主ありきで、特定のマーケットに広告を打ちたい企業のニーズから生まれてくる。そのあたりは業界的にはごく常識。なので、広告が効率的にターゲットに行き渡ることを優先すると、フリーペーパーだとターゲットが絞れないし、かえってハズレにもなりかねない。
 おそらくやる気になればフリーペーパーなどどこでもできるだろうという気はする。現状はその兆候が本格化するかようす眺めもあって、R25が業界的に注目されているのだろう。そういえば、「競争優位を獲得する最新IT経営戦略」というすごい名前のサイトに"フリーペーパー「R25」に学ぶこと"(参照)という記事もあった。ま、考えることは誰も似ている。
 現状の雑誌の問題点は、その雑誌のマーケットの規模と、端的に言ってコンビニの流通の棚の確保なのだろう。雑誌は根が広告媒体だから、部数が捌けないとなるとやっていけない。それがダメなら潰れるというか潰す。同じ現象の裏側とも言えるのだが、現状、ある部数を出すにはコンビニ流通に依存しないといけないし、その流通に乗せるにはまたしても部数が必要になる。このあたりが雑誌のハードルだろう…とか知ったかぶりみたいに書いているのだが、最近、週刊文春が週刊新潮に比べて20円値上がりした意味とかはよくわからない。コンビニへのキックバックの関係だろうか。
 雑誌は宅配という手もある。マーケットが特化されていて規模が小さい場合はこれで行ける。というか、この配布方法も以前から使われている。業界誌系はこれだと言っていい。これが価格として高いような安いような価格帯である。月額にするとワンコイン500円から1000円くらい。宅配がより洗練されると配送費用も落とせるので、実質、コスト面では流通コストだけになるのかもしれない。
 そういえば現在の戸別に配達する日本の大手新聞も実際は広告媒体というのがその本質だ。紙面率でみると、広告が新聞紙面の半分になる。残り半分の半分、つまり全体の四分の一がニュースであり、このニュースは現在、もはや、ネットでほぼ足りている。残りが企画ものや、論説などとなる。この部分はブログを含めたネットである程度カバーできるか。できる、となると、それだけで新聞要らねーとなりそうだ。実際すでにそうなのかもしれない。
 フリーペーパーの海外の状況はというと、アメリカではけっこう盛んなようだが、どのように流通しているのかよくわからない。もともとアメリカでは、日本のような大手新聞というのはなく、基本的に新聞というのはローカルなものだ。
 韓国では地下鉄などで毎日各種のフリーペーパーが配布されていて、部数では旧来の新聞を抜いているらしい。ただ、これらは事実や各種情報を手短に記載したもので、論説的な内容や主張はあまり含まれていないと聞く。
 都市生活とフリーペーパーには流通の接点として強い関連があるのだろうと思うのだが、そうなると諸外国の都市部ではどうなのか。ふと洒落でfree daily newspapersに相当する"quotidiens gratuits"というフランス語をキーワードにgoogle調べてみると、検索結果のリストで、フランス語から英語の自動翻訳が選べるようになっている(余談だがこのサービスはけっこうすごい)。
 上位に"Les titres gratuits gagnent du terrain en regions"(参照)がひっかかり、その英訳を読んでみた。Metroというのが55.5万部、20 Minutesというのが75万部売れているらしい。けっこうな部数なので、既存の新聞にマイナスの影響はできないものかと思うが、それほどでもないらしい。自動翻訳を引用するとこうだ。


Do those cannibalisent the paying press? Mr. Bozo defends himself some: "According to Ipsos, two thirds of our readers did not read a daily newspaper . The daily press is on a slope of regression of its assistantship of 3 % to 4 % per annum. I think that the free press can have an impact of 3 % to 4 % additional."

 つまり、フリーペーパーの購読者の三分の二は既存の新聞を読んでいないというのだ。なるほど、新聞と棲み分けの状態なのだろう。
 日本の場合、既存新聞の代替となるようなフリーペーパーが出現するかわからないが、出るとしても、同様に、読者の棲み分けという現象は起きるようにも思う。というか、現状、新聞を読まない若い層は狙い目のニッチの可能性はあるのだろう。

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2004.10.08

売春は合法化すべきなのか…

 先日の極東ブログ「在外米軍の売春利用規制」(参照)で簡単に触れたが、先月23日韓国では性売買特別法が施行され、売春斡旋業者や買春男性への処罰を強化された。この産業セクターは韓国では無視できない規模なので、なんらかの社会反応があるだろうという点に関心を持っていたのだが、昨日(7日)、風俗街などで働く女性約2500人がソウル市内の国会前で抗議集会を開いたというニュースを聞いた。彼女たちは「生存権保障」や「2007年までの猶予」などを訴えたらしい。
 国内では日本経済新聞「韓国、性売買春取締新法で女性2500人が抗議デモ」(参照)などがニュースとして取り上げていた。韓国紙では朝鮮日報「売春街の女性3000人が国会前でデモ」(参照)や「性風俗業の職業認定を!」(参照)が詳しい。写真は集会の熱気と組織性を伝えている。帽子の色は出身地を示している。この整然とした組織性にはなにか裏があるのかもしれないという印象は持つ。
 まず誤解をして欲しくないのだが、私は韓国をこうした点で貶める意図はまったくない。また、売春それ自体に関心が深いわけでもない。しかし、私たちの社会の現実は売春やそれに類縁の風俗産業を含み込んでいることは確かなので、そうした社会の視点から無視すべきではないし、知的にチャレンジされている側面もあると思う。そこを少し書いてみたい。
 韓国の規制についてはその実態を私は詳しく知らないだが、私が理解している範囲では、ソウル集会に集合した女性たちは売春婦というわけではなく、広義に性風俗産業に関わっている女性である。というのも、今回の規制法との運用では、むしろ買春側に着目していることと、処罰対象の行為が「性交渉」から「性交類似行為」に拡大されているからだ。基本的に男の側を締め付けてお金の流れを止め、このセクターの産業を断とうとしている。これではこのセクターのサービス就労者はたまったものではないだろう。
 だから、この問題は単純に売春の問題ではない。が、国際的には、売春のあり方として総括され、またその枠内の問題としては、今後解禁の流れにあるように見える。示唆的なオランダの動向である。
 オランダでは、1999年に売春宿合法化案が議会で可決。2000年夏から売春の営業所が公認され、地方自治体への登録制が敷かれた。この立法の背景には、未成年者や不法入国の外国人の強制売春を効果的に規制するには、合法化によるガラス張りがよいとする判断があった。実際、ガラス張りの飾り窓の営業所は日本の江戸時代の吉原のようでもあるらしく、観光名所にもなっているようだ。もっとも、この政策が所期の目的を達していると言えるのかについては現状ではよくわからない。失策だとも言えないようだ。
 ヨーロッパでは伝統的に売春の規制が甘い。売春婦が一人で職業として選択している場合は基本的に合法のうちに入ることが多いようだ。それゆえ、ヨーロッパでの売春の問題は、彼女たちを支配する組織とその規制がまず問われる。売春の裏で操る組織が犯罪の温床になりうるからである。
 また、売春婦自身らによる自主組織の動向もある。売春という動労の権利と納税という点からも重視されてきているようだ。特にドイツでそうした意見が目立つ。今後、EUという形で欧州が統合がさらに進むと、売春規制も実質オランダ・モデルを志向ざるをえないのではないか。
 と、いうのが先進国における売春についての「民度」の高そうな意見といったところかな、とも思っていたのだが、日本の状況を考えると、多少ぶれる。
 日本の場合、敗戦の翌年1946年時点で、GHQ(連合軍総司令部)の指令という上からの直接権力で表向き公娼制度は廃止された。現実には、遊廓地帯と私娼街を特殊飲食店街の「女給」が自発的に行なう売春は黙認された。この背景にはGHQの都合もあるようだ。
 この時点ではまだまだ売春の撤廃にはほど遠く、特飲街指定地域は赤線地帯と呼ばれ、これに対し非指定の私娼街は青線地帯と呼ばれていた。赤線は1957年の売春防止法施行によって廃止された。ちなみに私は1957年の生まれなので、こうした歴史の後の人間だが、子供の頃には赤線・青線といった言葉がまだ生きていた空気を多少知っている。
 その後の日本は、と長い話になりそうなので端折るが、ようするに売春の規制対象となる本番を可能な限り迂回することで性風俗産業が発展し(警察との癒着の結果とも言える)、またかつての売春のニーズは一般社会の側に拡散された。かくして日本では売春の問題が消えたかのようにすら見える。
 だが、なくなったわけでもなく、日本では売春の実態把握がより複雑になっているだけだろう。いわゆる売春はすでに払拭したかに見える日本の性風俗産業だが、最近では対外的には、外国人をこのセクターで人身売買をさせている国のように見るむきもある。そうした視点も失当とはいえないのがなさけない。
 では、日本にもオランダ・モデルが適用されるべきかというと、普通の日本人の感覚としてはそう思えないということだろう。形式的に適用すると実質の対象は外国人だけになってしまうのではないかという懸念がふっと浮かぶ。問題はまさにこの「普通の日本人の感覚」にあるのだろうなとは思うが、どうモデルを建てて考えたらいいのかはよくわからない。

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2004.09.24

在外米軍の売春利用規制

 ぼんやりsalonのAPニュースを見ていると、22日付だが"Troops may be tried for using prostitutes"という物々しい見出しが気になった。ふぬけた試訳だが「米軍は売春利用で裁判を受けることになるかもしれない」ということだ。なんかまたやらかしたかとも思ったが、"may be"ということは事件でもあるまいというわけで、記事を読んでみた。ようするに、今後米兵や従軍関係者の売春利用の規制が厳しくなるから、不埒者が裁かれるかもよ、ということだ。
 同記事はワシントンポストにも"Anti-Prostitution Rule Drafted for U.S. Forces"(参照)として掲載された。こちらは「米軍向けに売春防止の規制が起案された」とわかりやすい。記事自体のアクセスは、salonと同じ標題のABC"Troops May Be Tried for Using Prostitutes"(参照)が容易だろう。冒頭はちょっと抽象的に書かれている。


U.S. troops stationed overseas could face courts-martial for patronizing prostitutes under a new regulation drafted by the Pentagon.

The move is part of a Defense Department effort to lessen the possibility that troops will contribute to human trafficking in areas near their overseas bases by seeking the services of women forced into prostitution.


 海外に派兵されている米軍兵士が現地の売春に手を出さないように規制するというのだ。そんなの当然じゃないか、今まで不十分だったのがおかしいというのが一応常識でもあるだろう。ただ、内情を少し知っている人間にしてみると、ちょっと複雑な印象も受ける。私もそのクチなので、なんで今さらという感じがした。
 記事を読み進めるとさらに違和感は深まる。

In recent years, "women and girls are being forced into prostitution for a clientele consisting largely of military services members, government contractors and international peacekeepers" in such places as South Korea and the Balkans, Rep. Christopher H. Smith (R-N.J.) said yesterday at a Capitol Hill forum on Pentagon anti-trafficking efforts.

 規制の対象者なのだが、米兵以外に軍関係者や和平監視部隊も含まれている。たしかにそこまで規制しないとザル法になる。気になるのは、"in such places as South Korea and the Balkans"、つまり、韓国とバルカン半島諸国と例が挙げられている点だ。バルカン半島諸国といえば、旧ユーゴが含まれていることからもわかるように戦地だったので想像しやすい。問題は、なぜまたここで韓国に言及されているのかということだ。記事はさらに韓国に注目して書かれている。

All new arrivals to duty in South Korea are instructed against prostitution and human trafficking, and the military is working with South Korean law enforcement agencies, he said.

 これでは、韓国で米軍相手に売春が頻繁に行われているようではないか。と、ここで失笑しない欲しい。私は本当に知らなかったのだ。それどころか、朝鮮ネタは、日本の隣国なのでどうしても話題は多くなるのだが、もう書くのはうんざりというのが正直なところだ。無意味な誤解を膨らましたくもない。
 と言いつつ、なぜ韓国?と思い、Koreaとprostitution(売春)でちょいと検索しただけでわかった。韓国では昨日から性売買特別法が施行されたのだ。先のAPニュースはこれとの関連があるのだろう。
 できるだけ邦文のほうがわかりやすいので、そうした記事として朝鮮日報「在韓米軍、基地周辺の性売買根絶へ」(参照)を引用する。

性売買女性の人権保護と性売買強要に対する処罰などを強化した性売買特別法が今月23日施行されることから、在韓米軍も基地周辺の性売買根絶に乗り出したと、星条旗新聞が21日報じた。

 米軍と韓国での売春については不要な誤解を招きかねないのでこれ以上は言及しない。
 米軍関連とは別にこの性売買特別法についてだが、かなり大規模で徹底したものになりそうだ。私の率直な印象を言えば、規制が成功すればいいだろうとは思う。
 私は、気取るわけではないが、売春には関心がない。あるとすれば、それが意外なほど経済効果を持つという点だ。そんなわけで、韓国の売春と経済の関連を少し調べたところ、中央日報「買春売春市場の規模、年間26兆ウォン」(参照)という記事があった。昨年の2月の記事なので最新ではないが、規制法以前の実態としてはそれほど違いはないだろう。

 政府が行った調査のまとめによると、韓国の買春売春産業は年間26兆ウォン(約2兆6000億円)台の規模であり、買春売買産業の専業女性がおよそ26万人にのぼる。 今回の調査は、政府が行った初の買春売春産業調査報告であり、民間団体まで含ませたケースとしても全国規模で行われた初の実態調査となる。
 26兆ウォンにのぼる買春売買産業の規模は、2001年の国内総生産(GDP)545兆ウォン(約55兆円)に比べるとき、その5%にあたる。また、専業女性数およそ26万人は、満20歳から34歳までの女性(2002年、統計庁)人口の4%にのぼる。

 ちょっと信じられない統計だなというが率直な印象だ。
 いつもながら他山の石として日本を考えるに、買春売買産業の専業女性は恐らく少ないのだろうとは思う。だが、日本はこうした問題からフリーかというと、現代日本の生活者の実感としてそうでもないようにも思う。あるいは、日本の場合、不倫がバランスしているのかもしれない。
 いずれにせよ、米軍と売春の関係については、日本の場合、過去のことしてしまうか、あるいは現在のそうした側面は十分に隠蔽できるだけの経済面での余力はあるのだろう。

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2004.09.01

キューブラー・ロス博士の死と死後の生

 精神科医エリザベス・キュブラー・ロス(Elisabeth Kubler‐Ross)博士が、米国時間の8月24日午後8時15分(日本時間8月25日)アリゾナ州の自宅で死んだ(参照)。享年78歳。彼女は、1999年タイム誌が選んだ20世紀最大の哲学者・思索者100人のうちの一人でもあった。
 彼女はもっと早い時期の死を予言していたので、長い読者の一人である私にはある種心の準備が出来ていた。中島らもの死を知った時のような驚きはなかった。また私は彼女の著作を通して、彼女が自身の死をどう捕らえているのかも理解していたつもりなので、その意味では哀悼とはまた違った思いが去来する。なにか書きたいという思いと、奇妙になにも書けない思いが錯綜しているが、やはり書いておこう。
 エリザベス・キュブラー・ロス博士は、世界的なベストセラー「死ぬ瞬間」(On Death and Dying)の著者として知られている。1969年に出版されたこの本の読者は日本人にも多い。この本はまさに死につつある人にインタビューし、死というものを探ろうとした驚くべき労作である。私も死を思い続けた思春期に読んで強く影響を受けた。当時の日本での翻訳書は川口正吉訳「死ぬ瞬間―死にゆく人々との対話」(1971)だが、近年鈴木晶による完全新訳改訂版「死ぬ瞬間―死とその過程について」(1998)が出ている(リンクは文庫版)。書名の違いも興味深い。新訳の副題が示唆するようにこの本は、人の心が死をどう受容するかという過程を科学的に取り組んだ点に大きな意義がある。ここではその過程(プロセス)についてはあえて触れない。
 この労作がきっかけとなってターミナル・ケア(終末期医療)の分野が確立したといってもいい。おそらく現代人の日本の大半は、一人静かに死と向き合うことになるだろうが、その時、医療とは異なったターミナル・ケアに頼むことになる。
 この労作に続けて、彼女は一連の書籍を著した。まず「続・死ぬ瞬間」(こちらのリンクは文庫版新訳)が刊行された。私にとって「死ぬ瞬間」よりも大きな影響を受けたのは、「死ぬ瞬間の子供たち」だ。標題どおり、まだ幼い子供が死をどう受け入れていくのかをテーマにしている。
 うまく言えないのだが、私などいまだに死というものに発狂しそうなるほどの恐怖を感じるのだが、それでも、人間というものはある程度生きれば「もういいかな」という感じがしてくるものだ。私も、キリストの死の歳を越え、ツアラトゥストラの死の歳も越えた。ラファエルやモーツアルトの歳はとっくに越した。太宰治の死の歳も越えた。三島由起夫の死と同年。もうすぐ夏目漱石の死も越えるのだろう。こうして「もういいかな」感は増してはくる。人生は生きればそれなりの意義はあるといってもいい部分はある。
 だが、幼い子供の死とはなんなのだろうか。あるいは、今ダルフールで死んでいく子供たちの死には、どんな意味があるのだろうか。それを考えると、やはり発狂しそうな思いが去来する。もちろん、その言い分に冗談のトーンがあるように、普通、私たちは、その幼い命を奪っていく死というものに向き合って生きているわけではない。
 ロス博士は、そこにきちんと向き合った。そこに向き合うということはどういうことなのか。一つの成果は、ファンタジックに描かれた「天使のおともだち」に見ることができるだろう。普通、我々はこれを比喩として受け止める。
 だが、ロス博士はこうして死の問題に取り組みながら、明確に死後の生というものを確信していく。先ほど私は「発狂しそうな思い」と書いたが、これにきちんと取り組めば、人間は気が狂ってしまうのかもしれない。ロス博士もついに、気が狂って、向こうの世界に行ってしまったのか、という思いもする。
 このことを決定的な形で描き出したのは彼女の自伝「人生は廻る輪のように」だ。これは、名著「死ぬ瞬間」に劣らぬインパクトを持っている。そこには死後の生を確信したロス博士の生涯が描かれている。そして、その確信から生まれ出る後半生の驚くべき活動(赤ん坊を含むHIV患者のターミナル・ケア)も描かれている。
 ロス博士はこういう人だったのか。これは狂気ではないのか? 私はこれをどう受け止めたらいいのか。やがて死ぬ私は、死後の生を確信しなければ、恐怖に打ちのめされるだけとなるのか。
 正直に言えば、私はこの問題に孤独に取り組みすぎ、知的に狡猾になった。信じる・信じないの危うい均衡のようなものを生きていけるようになった。それはちょうど河合隼雄のようなものだ。カール・グスタフ・ユンクも死後の生を確信していたが、河合はそういうユンクの思想を悪くいえば狡猾に吸収した。私はたまたまテレビだったか、河合がロス博士の生涯を、そうなる必然として理解していることも知った。
 この狡猾さは哲学的・神学的な言辞でいかようにも語ることができるように思う。しかし、問題はおそらく、やはり赤手空拳に死後の生に向き合うことだ。
 もちろん、私たち現代人の社会にとって死後の生は意味をなさない。「と学会」のような浅薄な知性は、死後の生をただ嘲笑うだけで通り過ぎていくだろうし、それぞれの自身の死もあたかも他者の死の光景のようにみなし、そして忘却のように彼ら自身も死んでいく。それで良しとするのだろう。それが健全な常識というものじゃないか?
 そうだろうか?
 中島義道が若い日に死の恐怖をかかえ、やはり哲学をするしかないと心に決めて、哲学者大森荘蔵を訪れたとき、大森は、死について「あのずどーんとする感じ」と答えていたという。そうだ、あのずどーんとする感じだ。その感じからすれば、健全な常識というのはただの虚想にすぎない。「物と心」で彼はこう言う。


 シャルル・ベギーの鋭い警句がある、「死とは他人にのみおこる事件である」。また人はエピクテトスの、死はありえぬことの証明を思い起こすだろう。
 だが人は自分の死後の家族を案じ、身辺を整理し、葬式は簡素にと遺言し、遺贈を約束したりし続けている。人は明らかに自分にやがて死がおどづれ、だが世界は何ごともなかったように続行すると信じている。

 そう身辺を整理しないと意外なものが孫に見つかることもあるからな(参照)。
 オカルティックな死後の生を信じない健全な常識人も、大森が指摘するように、自身の死後に世界は何ごともなく続行すると信じているものだ。

しかし、たとえばわたしは自分の死後の世界を想像できるだろうか。見るべき眼も聞くべき耳も、いやそれらを通して知覚するわたし自身がもはやないという条件下で、たとえば街の風景をどのように見えると想像できるのか。風景がどう見えるか、とはわたしに風景がどう見えるかとの意味である。

 そうだ、死後も続く生の滑稽さは、自分の死後にもこの世界は続くという確信と同程度に滑稽なものでしかない。我々の文明は、同じ2つの滑稽さの一つを選んだにすぎない。
 やがて消滅する私は、そもそもいつから私だったのか。記憶としては4歳くらいまでは遡及できる。私が生まれ、脳が発達し、自我が出来たというが、この私の精神はどこから来たのだろうか。その遡及の感覚は、ちょうど夢からこの世に覚めるのと似ている。私は無限の無の世界から目覚めてこの世界にいるのなら、また眠り、また目覚めないとどうして言えるのだろうだろうか。
 ロス博士は、子供のケンとバーバラ、その孫たち、そして友人に見守られて安らかに威厳をもって死んでいった。彼女は死に及び「これから銀河をわたってダンスをしにいくのよ」とも告げた(参照)。

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2004.08.27

性犯罪者につける薬?

 標題は別のブログのテーマみたいだが、久しぶりにお薬系の話。ロイター・ヘルス"Anti-Addiction Drug Treats Teen Sex Offenders"(参照例)を読んでへぇと思った。標題を試訳すると「抗中毒薬が十代の性犯罪者に有効」となるだろうか。これからの社会は、性犯罪者をお薬で対処しようとする傾向が出てくるかもしれない。なお、典拠は"Journal of Clinical Psychiatry, July 2004."の"982 Naltrexone in the Treatment of Adolescent Sexual Offenders. Ralph S. Ryback "(参照)だ。
 余談めくが、"Sex Offender"に定訳語があるのかとgooの三省堂提供「EXCEED 英和辞典」や英辞郎をひくと「性犯罪者」とある。英辞郎の用例には"teen sex offender"まであったのはちょっと驚いた。翻訳の世界では定訳語化している感じがする。ついでに、日本特有の「痴漢」は英語でなんと言うのかと見ると、molesterあたりがよく出てくる。しかし、痴漢も"sex offender"だがなと思ってぐぐると「彩の国高校生英語質問箱第158号」(参照)がよかった。英作文のMLらしい。お題は、「チカンを見たら110番!」だ。そこで痴漢をこう説明している。


痴漢は、性的いたずらをする男を意味しますが、英語では男女の区別をする必要はありません。英語では“sexual offender”が適当です。なお、動詞“offend”の意味は次のようになっています。
 ・to make somebody feel upset because of something you say or do that is rude or embarrassing
この言葉を使って、次のように表現します。
 ・Call 110 to report (a) sexual offender.
看板では、不定冠詞を省略して、短くすることも可能です。複数形にしても構いません。

 ま、そういうことだ。
 話を戻して、「抗中毒薬が十代の性犯罪者に有効」だが、こうある。

Naltrexone, a drug that has been used to treat various addictions, safely controls sexual impulses and arousal in adolescent sexual offenders, new research shows.
【試訳】
各種の依存症に処方されるナルトレキソンだが、最新の研究で、青少年期の性犯罪者の性衝動や性興奮を安全に制御するのに役立つことがわかった。


Ryback states that use of naltrexone "provides a safe first step in treating adolescent sexual offenders. It is possible that the benefits observed here will generalize to the large population of non-socially deviant hypersexual patients."
【試訳】
研究者リバックによれば、ナルトレキソンの処方は、青少年期の性犯罪者に対して、安全でかつ最初に試みられる対処になるとのこと。また、同研究員は、今回の結果から、多数の反社会的な変質者に対しても効果を持つだろうと推測している。

 これを読んで私は、え?という感じがした。性犯罪者までお薬で対処、で終わりという社会になるのかと思ったからだ。
 しかし、しばし考えてみると、それが実際的ではあるのだろう。現実日本でもアメリカでも精神疾患者への対処は薬物による治療がメインだ。また、日本ではなんだかんだと実現されていないが、米国では性犯罪者については社会的に徹底的にマークすることで社会の安全を実現する方向に向かっている。このようすは、先の用語でちょっとふれた"sex offender"で検索するとわかっていただけるだろう。上位にsex offenderの検索サイトがぞろぞろ出てくる。
 それにしても、ナルトレキソン(Naltrexone:Revia)か、というのが次に私が思ったことだ。ナルトレキソンは、アヘン受容体拮抗薬としてアルコール依存症の治療薬として米国食品医薬品局に承認されている。日本での扱いはどうかとネットを見ると、意外にも、「プラセボ以上の有効性を示す証拠は認められない」とする見解が目立つ(参照)。このあたりは、どうも日本の精神医学会になにか事情がありそうだ。というのは、スタンダードな医療事典であるメルクマニュアル「第7節 精神疾患 薬物依存と嗜癖」(参照)にはこう記載されている。

もう一つの薬物、ナルトレキソンは、人々がもしそれをカウンセリングを含む包括的な治療計画の一部として用いるなら、アルコールへの依存を減らすのに役に立てる。ナルトレキソンは、脳内の特定のエンドルフィンに対するアルコールの効果を変化させることで、アルコールへの渇望と消費に関連する。ジスルフィラムと比較して大きい利点はナルトレキソンが人々の気分を悪くしないということである。しかし不利な点は、ナルトレキソン服用者は(アルコールを)飲み続けることができることである。ナルトレキソンは肝炎あるいは肝臓病がある人が服用すべきではない。

 メルクマニュアルの解説は今回の""Journal of Clinical Psychiatry"の結果を理解する上での補助にもなるだろう。つまり、性犯罪は、脳内の特定のエンドルフィンに対する効果、という可能性があるわけだ。
 もちろん、そんなことは嗜癖という点からすればあたりまえのことじゃないかとも言えるかもしれないのだが、私は嗜癖という概念はそうむやみに拡張すべきではないと考えている。逆に言えば、嗜癖についてもう少し丁寧な研究も必要だろうとは思う。というあたりで、たまたま「東京都精神医学総合研究所 - 薬物依存研究部門 - 部門業績」(参照)を見つけた。

性的障害(sexual disorder)の分類やその治療については、すでにいくつかの論文や成書が公表されており、これらの知見をもとに、議論を一歩進め、「嗜癖」の概念や視点から、様々な性障害の成因や治療について、再度捉え直しを試みた。特に、従来別個に論じられてきた、小児性愛やレイプなど「性犯罪」に類型化される逸脱行動と、「セックス嗜癖」あるいは「恋愛嗜癖」と称される逸脱行動を、統一的に理解することは可能であろうか。本論は、こうした問題意識に基づいて、様々な性障害への治療的アプローチについて、最近の動向をまとめた。その結果、Marlattらに代表される物質依存の認知療法理論や自助グループによるアプローチが、治療の現場に積極的に取り入れられ、めざましく発展している動向が判明した。

 専門家でもそういう模索が進められているのだろう。
 さて、私はこうした問題をどう考えるのか?
 もったいぶるわけではないが、ちょっと言いにくい。特に「十代の性犯罪者」というのは実はすでに日本社会にとって深刻な問題ではあるのだが、そこが踏み込みづらい。
 なんとか言える部分としては、こうした議論を社会が受け取るとき、すでに「性犯罪者」として処理済みになっているので、彼らを社会から疎外しているのだなということが気になる。そのあたりの問題意識はたぶん日本の識者にもあり、それがこの分野での薬物療法をためらわせているようにも思える。また、余談として言及した「痴漢」だが、それを結果的に許容する日本社会は、こうした性犯罪者問題の社会システム的な制御を内包していたのかもしれない。しかし、もはやそういう社会ではないことは確かだ。

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2004.08.25

中絶船、ポルトガルへ

 中絶関連の問題について極東ブログはぼそぼそと言及してきた。あまり関心はもたれていない。もちろん、このブログ自体もそれほど社会的な発言力を持つわけでもないし、私に明確な主張があるわけでもない。問題自体も非常にタッチーなので、最近は書くことに気後れしている。しかし、日本での情報があまりに少ないというか無視されているのかもしれないとも思うので、今回の"Women on Waves"の通称中絶船についても簡単に言及しておく。
 日本語の記事としては、CNN JAPAN「オランダの「中絶船」、ポルトガルに向け出航」(参照)が読みやすいだろう。


 オランダ・ヘルダー 中絶が厳しく制限されている国の女性達に、公海上で中絶処置を施すための船が23日、オランダの港からポルトガルに向け、出航した。ポルトガル沖の公海上に到着後、約2週間停泊し、望まない妊娠をしたポルトガル女性に対して、中絶薬の処方などを行う。
 船を派遣したのは、女性の権利向上と危険な中絶の根絶を目指す非営利組織(NPO)「ウィメン・オン・ウェーブズ」。これまでにも同様の船を、2001年にアイルランドへ、2003年にポーランドへ送り出している。

 ロイター系なのだが、対応するCNNの記事がよくわからない。ざっと見るとCNN"Abortion clinic sails to Portugal"(参照)かなという感じはする。こちらの英文記事もそれほど情報はない。
 BBC"Abortion ship sails for Portugal"(参照)もそれほど深くこの問題を扱っているわけでもない。というか、CNNもBBCも恐る恐る扱っているなという感じがする。
 日本人の感覚からすると中絶は中絶手術なのではないだろうか。日本の現場が率直なところ私にはわからない。が、CNNでもBBCでも中絶薬と書かれている。英語では"an abortion-inducing pill"だ。BBCの先のニュースではなんらかの配慮があるのだろうと思うが、掲載されている反対派の写真にきっちりRU-486(RU-666については洒落か)と書かれている。つまり、この問題はRU-486の問題でもある。この点、カトリック系の報道"Dutch abortion boat sails for Portugal"(参照)には明記されている。
 もっとも、RU-486だけの問題でもない。端的に言うのだが、こうした表立ったラディカルな行動がなくても中絶船が向かう国では事実上、国内法で禁じていても国外で中絶を実際に行っているのであり、その意味で、中絶輸出国でもある。また、当然、そうした闇の中絶によって命を落とす女性が少なくない。
cover
ピル
 RU-468もまたモーニングアフターも問題にならないかに見える日本にとって、この中絶船のニュースはやはり問題にならないのだろうとは思う。そして、この無関心は恐らく低容量ピルの問題でもあるのだろう。世界の先進国のなかでたぶん日本が突出してピルの問題が隠蔽されている。少し間違った発言かもしれないが、日本のフェミニズムにはイデオロギー的な偏向があり、この問題を正面から見据えていないようだ。それどころか結果的に政府側の協力となっている。
 なにが問題か。北村邦夫医師著「ピル」には、日本が低容量ピルを抑制している状況が対外的にどう見えるかという事例ともいることが描かれている。

 一方、人工妊娠中絶数は、ピルの使用者が減少しているときは増加し、ピルの使用が増加してときは減少を示しています。
 こうしたデータをみると、欧米における避妊にはピルが役割を確実に果たしていることがうかがえますし、日本においても、ピルの承認により若年層の人工妊娠中絶の減少が期待できます。
 そうした期待の高まる中、「産婦人科が承認を遅らせている噂がある。彼らは、確な避妊法の登場によって、中絶手術に伴う収入減を恐れているのではないか」といった質問が、外国のメディアから私に向けらることがありました。

 北村邦夫医師はその噂に否定的だが、対外的に日本がそのように見えることは確かだろう。なお、同書に指摘されていることだが、日本は先進国のなかでは中絶数が高く、しかも見えない部分も多いようだ。いずれ国際的な問題になるのだろう。見える部分だけだが、先の「ピル」にはこうある。

 世界と比較しても、わが国の全妊娠数(出生数+人工妊娠中絶数)に対する人工妊娠中絶数の割合は、九四年には二二・七%と二二・三%のスウェーデンを上回り、きわめて高い水準となっています(男女共同参画白書 平成一一年反)。

 こうした高い中絶率について、同書ではアラン・ローゼン・フィールド元コロンビア大学公衆衛生学教授は次のように言及している。

日本は政策が的を得ていないため、中絶率の最も高い国となってしまった。政治の役割は、薬剤の安全性と有効性を審査し、各個々人がそれによって自ら判断できるような情報を提供することです

 北村邦夫医師はこうした海外からの指摘を、日本では「中絶が非常に安易に選択できる国」と見えるためだとしている。確かにそうなのだろう。そしてそれゆえにRU-486も問題にはならない。
 話が逸れるが、ピル問題の背景にはさらにコンドームの問題がある。国際的にはコンドームは性病の予防具というのが常識化し避妊具でなくなりつつある。しかし、そうした国際的な常識は日本には浸透していないし、浸透する気配もない。この件について、具体的にコンドームについて思うこともあるのだが、自分自身が男性でもあり言いづらい面もある。

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2004.08.10

消費上向きで100円ショップがなくなる?

 6日のフィナンシャルタイムズに日本の100円ショップの話が載っていた。そんな話も載るのかと思って読んだ。"100-yen shops fall victim to Japan's recovery"(参照・有料)である。記者はMariko Sanchanta。標題は「100円ショップは日本の経済回復の犠牲となる」とあるように、日本の消費経済が回復するにつれ、日本人は安物買いをしなくなったというのだ。


With economic recovery increasingly well-established and deflationary pressures continuing to abate, Can Do, an operator of Y100 shops, is set to close 34 of them by November. Meanwhile, Daiso, the leading owner of Y100 shops, has diversified its product range by introducing items that cost between Y200 and Y300. Y100 shops first appeared during Japan's economic “lost decade”,

 話にさして裏付けがあるわけでもない。昨年11月にキャンドゥで34店舗が閉鎖。ダイソーでは最初のウリだった100円以外に、高額が200円、300円が出てきた、というのだ。が、日本の「失われた10年」と結びつけるような話でもあるまい。
 山本夏彦はよくエッセイで300円は金の内に入らない時代となったと言っていた。先日亡くなったマクドナルドの藤田田は、ハンバーグの価格はタバコ一箱にしろと言っていた。タバコは300円くらい。300円が高額化というものでもあるまい。
 余談だが、タバコの価格の正体は税金なので鰻登りとまではいかないものの、ちょっとした一服の庶民感覚より上昇してきた。それでも、欧米の半額以下なのは、タバコは日本人の福祉的な意味があるからだろう。この話は極東ブログ「たばこという社会福祉(もちろん皮肉)」(参照)に書いた。週刊文春・週刊新潮もいよいよ300円を超えようとしている。恐らく日本の経済は、この300円ベースからワンコイン500円の間を結局のところを税金などが埋めていくという仕組みになるだろうと思う。隠された重税社会だ。
 記事に戻る。日本庶民の財布が緩みつつあるとして高額のモスバーガーが売れているというエピソードがある。

But there is anecdotal evidence that certain companies are taking advantage of the fact that consumers are beginning to open their purses, albeit cautiously. Mos Food Services, a company that operates Mos Burger, the fast food chain, last year introduced a Y610 limited edition hamburger that has contributed to a 2-3 per cent increase in the average spent by each customer.

 610円のハンバーガがよく売れて、総売上に寄与しているというのだ。記事にはないが、モスバーガーもこれに気をよくして今度は880円を出す。「モスが880円バーガー 高級路線をアピール」(参照)だ。

新商品は、昨年8月から販売している高級バーガー「ニッポンのバーガー 匠味(たくみ)」シリーズの新メニュー「アボカド山葵(わさび)」。静岡県の安倍川水系で栽培され、すし店などで使われる本わさびのすりおろしを付け、牛肉やアボカドのうま味が際立つようにした。当初は100店限定、一店当たり1日10食とし、改装の進ちょくに応じて取り扱う店を増やす。

 しかし、当面、これは恐る恐る話題作りということに過ぎないだろう。
 私は、庶民の財布が緩んでいるという実感はあまりない。モスバーガーの事例もフィナンシャルタイムズのエッセーの読みとは違うと思う。簡単でヘルシーな個食(参照)志向だろう。オヤジとタバコを避けて個食したいというニーズではないかな。現状、マクドナルドのほうも経営が持ち直してきているが、こちらは高級化というより基本サービスを向上させているからだと思える。
 財布が固いという実感はある。自分の趣味ではないのだが、夏休みということもあり郊外のファミリー対象の回転寿司に行く機会が増えたのだが、絵皿による値段差がなくなっていた。300円ネタがない。300円でネタを喰うという感覚は戻っていない。300円の寿司ネタは別の、それほど消費に寄与しないセクターに移行しているのだろう。
 100円ショップについても、このセクターが他の小売りに事実上吸収されているからではないかと思う。
 私も先日、ダイソーとキャンドゥで買い物をした。付箋やプラスチックケースなど簡単な文具がそこにしかないためで、特に買いたい商品が100円ショップにあるわけではないし、安いからというのも理由ではない。
 目的のものを買うと、あとはぶらっと面白いものはないかなと見て回る。そういうショップなのだ。ちなみに、なにを買ったか? アクリル絵の具、FMラジオ、韓国製の激辛ラーメン、書道の半紙…あまり意味のないショッピングだった。消費というより、ショボイ娯楽である。

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2004.07.26

ランス・アームストロングはがん患者の希望

 ツール・ド・フランスでランス・アームストロング(Lance Armstrong)が優勝した。最終日が近くなるにつれ、アームストロングでキマリでしょうっていう雰囲気だったので、あっと驚くニュースでもないし、国内でもベタ記事扱いっぽい。米国でもそれほど大ニュース扱いでもないようだ(これから話題になるのかも)。私はサイクル・スポーツに詳しいわけでもない。ので、ちょっと間の抜けた話になるかもしれないが、彼のがん克服に関心があるので書いておきたい。
 ツール・ド・フランスは、モントローからパリのシャンゼリゼまで163キロを走る自転車ロードレースで(注:この記述はミス。コメント欄おりたさんからご指摘があった。これは最終日のことだけ)、"2004 Tour de France"(参照)を見てもわかるが、まさに名前通り「フランスの旅(Tour de France)」という感じがする。今回は、それまで、スペイン人、ミゲル・インデュラインが持っていた大会5連覇の記録をアームストロングが更新し、史上初となる6年連続総合優勝を達成した。
 優勝者には「黄色いジャージ」が与えられる。と言うと、なんでかなぁ、という感じだが、これが「マイヨ・ジョーヌ(Maillot Jaune)」。この黄色という感じは"Tour de France"公式サイト(参照)を見るとわかるだろう。
 マイヨ・ジョーヌといえば、アームストロングには、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」という著作があるが、小林尊がアメリカの誇り大食い競争を制したように、米人アームストロングがフランス全土の競争を制覇したということがポイントではない。原題"It's Not About the Bike"(「自転車のためだけじゃないんだ」)が暗示するように、むしろ、がんからの生還がテーマになっている。ツリを引用するとアームストロングの紹介にもなるだろう。


人生は、ときに残酷だけれどそれでも人は生きる、鮮やかに。世界一の自転車選手を25歳で襲った悲劇―睾丸癌。癌はすでに肺と脳にも転移していた。生存率は20%以下。長くつらい闘病生活に勝ったものの、彼はすべてを失った。生きる意味すら忘れた彼を励ましたのは、まわりにいたすばらしい人々だった。優秀な癌科医、看護婦、友人たち、そして母親。生涯の伴侶とも巡り合い、再び自転車に乗ることを決意する。彼は見事に再生した。精子バンクに預けておいた最後の精子で、あきらめかけていた子供もできた。そして、彼は地上でもっとも過酷な、ツール・ド・フランスで奇跡の復活優勝を遂げる―。

 というわけで感動的な話なのだが、この物語のあとで彼は離婚している。人生はなかなか複雑なテイストがある。
 私がアームストロングに関心をもつきっかけとなったは、何年前だろうか、たしか、現在も協賛している製薬会社ブリストル・マイヤーズ・スクイブについてちょっと調べ事をしているとき、この話題の深みを知った。
 現在、Bristol-Myers Squibbは、マイヨ・ジョーヌのアームストロングと協賛して"Tour of HOPE"(参照)を推進している。また、アームストロング自身のこの方面での財団"Lance Armstrong Foundation"(参照)の目的もがん患者への支援だ。端的にこう書かれている。

The LAF believes that in your battle with cancer, knowledge is power and attitude is everything. From the moment of diagnosis, we provide the practical information and tools you need to live strong.
【試訳】
ランス・アームストロング財団は、あなたががんと戦うとき、がんについての知識がパワーとなり、また、がんに向き合う生き方が重要になる、と確信している。がんと診断が下ったときから、私たちは具体的にがん患者に必要な情報と、強く生き抜くのに役立つ情報を提供する。

 財団は機構的にはブリストル・マイヤーズ・スクイブとは独立はしているだろうが、支援も大きいだろう。米国ではがん以外にも各種の難病について、巨大製薬会社は同様の支援を行っている。臨床実験や薬剤市場への意図もあるのだろうが、問題はそれで患者の利益になるかどうかだ。日本では「メナセ」などでお文化の側面はこの言葉に訳語を許さないほど進んでいるが(皮肉)、福祉面での企業活動はよくわからない。なんとなく清貧のNPOという印象があるが、私の偏見だといい。
 アームストロング自身の睾丸がんは、診断時、腹、肺、脳に転移しており、生存率50%とのことだったようだ。そこからの回復は奇跡的というほどでもないのかもしれない。が、私は、そういう「奇跡の生還」といった健康食品的な煽りよりも、むしろ問題なのは、がん患者の社会復帰なのかもしれないと考えるようになった。
 このブログでも書評を書いた「がんから始まる(岸本葉子)」でも、強調されていたが、現在がん患者に必要なのは、5年生存率間の精神的サポートやその後の社会的な偏見を除くサポートの体制だろう。というのも、がんの完治の目安と言われる5年生存率は65%にもなるという。
 米国ではNCI(国立がん研究所)にがん生存者対策局(参照)があるが、先の岸本の本を読むかぎり、日本では厚労省レベルではそうした動向はなさそうだ。テーマが違うよと言えばそうだが、「ブラックジャックによろしく」などでもがん患者のあつかいは、日本のメディアのがん意識に偏向しているように思える。
 どこかにこうした情報をまとめたリンク集ももあるだろうが、がん支援団体Cancercare(参照)も付け足しておく。

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2004.07.21

公文書館なくして民主主義なし

 公文書制度の動向がピンと来ない。現状、細田博之官房長官の私的懇談会「公文書等の適切な管理、保存および利用に関する懇談会」(座長、高山正也慶大教授)が進行しており、先月28日、各省庁が保存する文書の国立公文書館への移管基準の明確化などを求める報告書が細田長官に提出された。
 懇談会の詳細については、内閣府ホームページ(参照)のかたすみの「その他の施策」にこっそりとリンクがある。リンクであることがわかりづらいように下線を消した項目の「公文書館制度」がそれだ。内閣府は公的ホームページの作りかたもわかってないな。とほほ。
 この「公文書館制度」(参照)の資料は、面白には面白い。が、専門的な議論が中心になるのはわかるのだが、率直に言うと、「わかってんのかこの人たち」という印象がある。
 同じ印象は昨日の読売新聞社説「公文書保存 政府が直接やるべき事業だ」からも受けた。内容はよく書けてはいるのだが、ジャーナリストたちは公文書館の意味がわかっているのだろうか、という印象がある。


 「公文書館なくして民主主義なし」という言葉がある。政府は、国の重要な意思決定について、その記録を保存し、公開することを通じて、将来の国民に対しても説明する責務がある。

 もちろん、まとめるとそういうことなのだが、読売新聞の憲法議論でもそうなのだが、主体が誰なのかよくわからない。ここでは、「国は」ということであり、読売粗悪憲法案だと「国民は」だろうか。
 現状の問題としては、読売社説が指摘するように、日本の公文書館のあまりにお粗末な現状がある。

 最大の問題は、その判断が、事実上、各省庁に委ねられていることだ。廃棄するか国立公文書館に移管するかは、内閣府と省庁の合意によって決まるが、文書の内容を把握しているのは省庁側だ。
 各省庁が、自らの判断で保存期間を延長し、保有し続けることも出来る。
 このため国立公文書館には、各省庁の重要な政策を記録した文書は、断片的にしか収納されていない。

 このように、まったくあきれた状態であり、読売社説はこれに対して、米国のように「政府が直接やるべき事業だ」というわけだ。
 だが…、と私はここでそのニュアンスが違うと思う。

 米国では、上院の助言と同意の下で大統領により任命される国立公文書館長が、公文書館へ移管する文書を決定している。公文書保存に取り組む姿勢が、日本とは根本的に異なる。

 大統領だから行政権というふうに読んでもよいのだが、ここには大統領と国立公文書館長に国民の、歴史に向き合う良心が委ねられている、と理解することが重要だと思う。
 日本では、民主主義というのが多数決と同義語になってしまっているが、まるで違う。民主主義とは、正義に国民が向き合う制度であり、その最大のポイントは権力の制御だ。だから機構もややこしい仕組みになっているのだが、そうした機構とは別に、さらにその「選択された正義」を歴史の審判に仰ぐことで、自分たちの正義を裁きうる謙虚さが含まれている。少数の意見や間違いとされた決定をけして歴史のなかで消失させないということをもって、今の正義の根拠ともしているのだ。
 この感触を山本七平が「日本人とアメリカ人」(「山本七平ライブラリー (13) 」収録。ただし、絶版)でよく伝えている。なお、アーカイブとは連邦政府資料館のことである。

 アーカイブのギリシア神殿そのままの建物の前に立ったとき、私は、いかなる精神がこの神殿を造りあげたか、という秘密を引き出し、それを日本と対比するには、たとえ何時間かかろうと、実務でおして行く以外に方法はあるまいと覚悟した。


 前にも記したが「天皇の戦争責任を天皇に直接問うた」のは戦後三十年である。だが重要な資料は、米軍に押収されてこのアーカイブにあるもののほかは、ことごとく焼却され、皆無に等しい。書類焼却は実に徹底しており、たとえば満州国壊滅のときに、日露戦争時の書類まで焼却されたときの大火事のような様子を、児島襄氏が記しておられる。


 焼却・抹殺は、敗戦時に必ず起こる現象であろうか? ドイツ人は、強制収容所の帳簿から、”処理”の原価計算まで残しているから、何もかも焼却することが、敗戦に必ず随伴する現象とはいえない。そしてこの保存という点で最も徹底しているのがこのアーカイブであり、政府の文書はすべてここに集積され、三十年後には一切を公開するという。戦後三十年、日米両国共に民主主義・自由主義のはずだが、この点で両者の行き方は全く違い、日本にアーカイブは存在しえいない。

 山本がこの文章を書いたのは昭和51年(1976年)である。長いがもう少し引用したい。

 アメリカ式にやれば”恥部”といわれる部分も遠慮なく白日のもとに出てくる。その一部はもう出てきて、さまざまな議論を呼んでいる。そして出れば出るだけ「病めるアメリカ」を、アメリカ政府自らが世界に印象づけかつ宣伝する形になり、甚だしくその国益を損ずるであろう。なぜ、こういうことを平気でやるのか?
 日本ではこういういことは起こり得ない。焼却もさることながら、戦後の”民主日本”の政府にも十六万五千の秘密があり(「毎日新聞」松岡顧問による)、さらにこれだけの「秘密があることすら秘密」にしているから、実態は国民にはわからない。

 山本がこれを書いてから、さらに30年近い時が過ぎようとしている。しかし、日本はなにも変わっていないと思う。なんだか、泣けてくる。「病めるアメリカ」としてあざ笑い、ムーアのインチキ映画を賞讃する日本の知識人の浅薄さをどう評したらいいのだろう。(後年山本はこのアーカイブのなかから洪思翊を読み出した。)
 なんだか長い話を書きそうな気になってきたので切り上げたい。特に糞なのが外務省だ。それがどれほどひどくむごいものか、「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(若泉敬)を読めと言いたかったのだが、これも絶版。図書館でめくってくれ、大学生。卒業試験より大切なことはこういう事実を知ることだよ、高校生。
 外交には秘密は必要だということくらい私もわかる。沖縄県人がどれほど、機密文書「日米地位協定の考え方」増補版の公開を求めても空しいかもしれない(参照)。しかし、この最初の文書は、沖縄本土復帰の翌年、つまり1973年に、外務省条約局とアメリカ局が作成したものだった。国会における政府答弁の基礎資料となる虎の巻でもあった。日本に公文書公開制度があれば、あれから30年後の今、この文書を私たちが読むこともできるはずなのだ。しかし、できない。これで民主主義国家なのか。

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2004.07.12

参院選であまり問われなかった女性議員の問題

 参院選も終わった。終わってみても、よくわかんない選挙だった。
 2chの声援も空しく又吉イエスは落選し、喜納昌吉は当選した。現代うちなーの神んちゅという点で似たような人に思えるのだが…。どのくらい「かみのひと」であるかは、沖縄タイムス 2002年10月16日朝刊文化27面より、喜納昌吉曰く、を読むべし。


二十一世紀の戦争のあり方はテロと報復から始まった。テロにいかなる理由があろうが、報復にいかなる正義があろうが、二つに共通するのは、死体の山しか見いだせないことだ。シンプルに思考すればどこかに間違いがあることに気づく。私たちはその間違いを正し、過去の植民地主義から脱却できない分裂した西洋精神と、常に西洋の恐怖の影におびえるアジアの精神とを和合させ、宇宙に浮かぶこの奇跡の惑星・地球こそが人類の聖地であるということを、そして人間が生きて輝く道を、この沖縄から日本・アジア・全世界に向かって示す時が来たのである。

 というわけで、今回は私はさすがに民主党も嫌になった。しかし、所詮、どーでもいい参院だしな。
 話は少し逸れる。選挙速報を見ていて、女性党というのを知った。まったく知らないわけでもないが、ほとんど関心がなかった。率直に言うと、こんな党を作るより、各党派に女性候補増加についてアファーマティブな規制をかけてもいいのではないか。民主党はそれなりに配慮はしているようでもあるが、まだまだ弱い。
 資料としては、内閣府発表の「平成15年度において講じようとする男女共同参画社会の形成の促進に関する施策」概要(参照)というのがちょっと面白い。まとめとしては、「第1表 各国の男女の主な参画状況と制度の充実度」(参照)を見ればいいだろう。
 これを見ると、日本ってちょっと先進国とは言えないな、韓国とはお友達…って感じだが、韓国ではすでにクォーター制度が導入されているようだ。クォーター制度は、政治関与における男女差を無くすためにアファーマティブに女性を割り当てる制度だ。詳細は先のページに説明がある。なお、このページにはアメリカについて否定的にもとれそうな言及がある。

 一方,アメリカにおいては,1970年代後半以降,雇用や教育分野でのアファーマティブ・アクションに関する訴訟において,違憲・違法の判決が出されるなどの動きがあり,政治分野においても各政党はクォータ制に対して慎重な姿勢をとっている。

 だが、実際には、アメリカの実社会における女性の力は強いので、ある意味で例外なのではないか。
 話を女性議員割合に戻すと、これもグラフがわかりやすい(参照)。スウェーデンとかは、これもちょっと例外っぽいが、日本の現状は、先進諸国という点では、ちょっと恥のレベルにある。参院、つまり、上院は日本の場合、女性を含ませる言い訳のように見えないでもない。ま、それでももっと多いほうがいいだろう。だが、今回もしょぼかった。
 この手の国際間比較の統計の元ネタによくなるのは、the Inter-Parliamenary Unionの一覧(参照)だが、見るとわかるように、上位が先進諸国というわけでもない。というか、このリストの意味はちょっと難しい。印象として思うのは、これが民族国家の適正サイズいうイメージだ。つまり、現在の巨大国家というのは国家としてすでに間違った方向にあるようにも思える。
 話がさらにずれるが、先月米国でおきたウォルマート集団訴訟がこのまま推移すると、先進諸国に大きな衝撃を与えるようになるのかもしれない。朝日新聞系「女性160万人原告 対ウォルマート、米最大集団訴訟に」(参照)をひく。

 米小売り最大手ウォルマートでの給与や昇進で男性社員に比べて差別的な待遇を受けた、として女性従業員が同社に損害賠償を求めている訴訟について、カリフォルニア州連邦地裁は22日、集団訴訟として扱う決定を出した。これにより、98年12月以降に働いていた元従業員と現従業員の女性160万人が原告となり、人権を巡る米国の集団訴訟としては過去最大となる。

 話が散漫になったが、ただのスローガンではなく、もっと大きな潮流として、日本でも女性がいっそう政治に大きく関与しなくてはならない時代になってきているのだろう。
 だが、率直に言えば、おたかさんのイメージではないが、女性の政治家であることがある種のイデオロギーの傾向を含むかのように見えるのは日本の問題だろう。もっと端的に問われなくてはいけない中絶問題や低容量ピルといった問題などは、女性問題のなかから置き去りにされている。原因はマイルドな左翼イデオロギーがブロックになっているようにも思えるのだが、それだけの問題でもないだろう。
 飛躍した言い方だが、女性が社会コミュニティの質を変化する主体とならなくてはならないのだろうが、今の日本の傾向としては、優秀な女性がむしろ、経済的な勝ち組に吸収されるような構造があるように見える。

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2004.07.09

今後エイズは日本の大問題になるかもね

 エイズの問題を扱うのはちょっと気が重い。重要な問題なのに、必ずと言っていいほど政治の思惑が絡むからだ。しかし、潜在的ではあるが、すでに事態は洒落にならない状態に移行しているように思われる。だから、少し書いておこう。
 最初にたるいニュースだが朝日新聞系「エイズ死者、累計2千万人超える 国連最新推計」(参照)をひく。


 国連合同エイズ計画(UNAIDS)は6日、世界のエイズウイルス(HIV)感染者が03年末に3780万人にのぼり、同年の新たな感染者が480万人、エイズによる死者は年間290万人とする最新推計を発表した。

 幸い、これは推定値より伸びが鈍い。UNAIDSの主眼はアジアに向いてきている。

 一方、アジア地区では伸びが目立ち、感染者数が740万人、うち03年の新規感染者数が過去最高の110万人に達した。中国では、感染者が01年末の66万人から03年末には84万人に増加。UNAIDSは、同国で効果的な措置が取られなければ10年に感染者数が1000万人に達する可能性があると警告している。

 わかりやすいようでわかりづらい。印象としては中国が本丸のようにも思える。ここはジャーナリズムも書きづらいのだろう。
 さて、エイズの問題は、日本人には、ピンとこないのが実際ではないだろうか。メディアも騒ぎ疲れた感じがあるが、統計的にも日本の危機には見えない。というのも、HIV感染者は米国で95万人、ロシアで96万人、ベトナムで22万人というが、日本は1.2万人と桁違いに少ないからだ。単純に言えば、日本人にとって、エイズは、外人の病気であり、薬害エイズのような国政側の人災といったところだろう。
 私もどちらかといえばそう思っているのだが、今朝のロイターでちょっと気になるエッセイがあった。配信の関係からちょっと変わったサイトからになるが"Oblivious Japan may be on brink of AIDS explosion"(参照)からひく。標題を試訳すれば「健忘症の日本でエイズ爆発の可能性あり」となるだろう。そう、日本人はすっかりエイズのことを忘れているのだ。なお、記事中の"Masahiro Kihara, a professor at Kyoto University"は木原正博・京大教授、また、引用部分ではないが、ボランティア活動をしている"Akaeda, a doctor"は赤枝恒雄医師である。

Some experts warn cumulative numbers could jump to 50,000 by 2010 due to increased youth sexual activity, less condom use, and official indifference, symbolised by falling budgets.

Worse though, may be general public apathy.

“It’s impossible for people to think AIDS has anything to do with them,” said Masahiro Kihara, a professor at Kyoto University. “AIDS is Africa. It’s America It’s gay.

“The ignorance is huge... so this is a very dangerous situation,” he added. “I think the estimate of 50,000 by 2010 might be an under-prediction.”


 現状では、統計的に見れば、たしかに日本でのエイズは問題でないかに見える。しかし、問題は2点ある。1つめは、先進諸国ではエイズは衰退の傾向にあるが日本は逆であること、2つめは、"The ignorance is huge"、つまり、無関心さだ。記事では、2010年に5万人を想定している。6年先は遠いのようにも思えるが、6年前はついこないだのことだったな。いずれにせよ、6年後、そのとき、日本のエイズ患者が5万人の水準になっているかが一つの目安になるだろう。が、そのときは、この不吉な予言の的中であり、事態はさらに難しくなっているだろう。
 この問題は、日本のメディアでは、若い人の性活動や避妊具流用の推進というお定まりの文脈で語られやすい。が、問題の大きな軸は、日本の性産業にもあるように思える。ロイターでは簡素にしか触れていないが。

But while in the past many cases involved foreign women in the sex trade or men who picked up the virus overseas, the sources of infection now are almost all domestic -- and spreading from major centres like Tokyo to cities around Japan.

 もうちょっとあからさまに言ったほうがいいのかもしれないが、控えておく。あと、以下についても引用だけはしておくが、コメントは控えたい。

Some 20 to 30 percent of 16-year-olds have sex, and nearly a quarter of these have four or more partners, said Masako Kihara.

“Only 20 percent use condoms every time,” she added. “They think they have a set partner, so it’s safe.”

Not surprisingly, both AIDS and other sexual diseases - such as chlamydia, which can cause infertility - are on the rise.


 ロイターの記事ではこの先、日本のエイズ検査の状況を問題にしているが、あまり踏み込んでない。ので、関連して、読売新聞に連載中の「エイズ・20年目の現実」の第四回(7.7)をひいておく。誰もが知っているが献血検査の問題を指摘している。

 こんな検査キットが、一年半ほど前から大手薬局の店頭などに並び始めた。一セット5000円弱と安くないが、販売元は「ほとんど宣伝していないのに、売れ行きは確実に伸びている。潜在需要は大きい」と話す。
 エイズ患者・感染者が増える中、感染の不安を抱える人の多さを物語る現象だが、こうした人たちを受け止めるはずの公的検査態勢が不十分であることの裏返しでもある。この現実は医療を支える献血の安全性をも脅かしている。検査目的とみられる献血が後を絶たないからだ。
 日本赤十字社は高精度検査を実施しているが、感染から二か月近くはウイルスが少なく検出が難しい。昨年末には、その「空白期間」に献血された血液が検査をすり抜け、輸血された患者の感染が報告された。
 厚生労働省は、再発防止策の一環として、検査目的の人には、献血窓口での正直な申告と日赤の提携病院で無料検査の受診を求める仕組みを整備する方針を打ち出した。
 しかし、日赤には反発の声がくすぶる。ある幹部は「保健所だけで不十分なら、全国の国公立医療機関で無料検査する枠組みを作ればいい。国は自らの努力を怠り、日赤に責任を押しつけている」と批判する。英仏などでは一般の医療機関で検査を受けるのが普通で、検査目的の献血は基本的にないという。

 端的に言えば、そういうこと言っている場合じゃないだろ、だが、日赤の問題の根は深い。というか、ブラジル沖までつながっていそうな井戸を覗き込むような感じだ。
 どうも喉にものが詰まったような言い方になってしまったが、どうもずばっと書くには危険なことが多いかなとつい思うようになった。ごめんな。

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2004.07.06

日本でも携帯電話投げ競技とかやったらいいのに

 ホットドッグ早食い大会はMr.尊・Tsunami・小林が12分53個半を喰って、自身の世界記録50半を更新。4連覇。おめでとう! 半分のを残すところがスゴイ。普通、無理して喰っちゃうものね。セレブは違います。
 って、この手のネタを続けるわけではないけど、似たような面白い大会のニュースがあった。フィンランドで5日、毎年恒例「妻担ぎ競争」大会が行われ、エストニアのカップルが優勝した。エストニア勢の優勝は、1998年以来7年連続とのこと。日本語で読めるニュースではCNN Japan「妻担ぎ競争、エストニア勢が7年連続優勝」(参照)がある。


この競争は、カップルの男性が女性を担ぎ、約252メートルの障害コースを走るというもの。この大会の由来は、19世紀末に近隣の村から女性を盗み出す習慣があったという言い伝えや、盗賊が男の価値を証明するために、ライ麦袋を担いで競争したという逸話を元にしているという。正式な夫婦でなくとも出場でき、今年は約7000人の観客が見守る中、カナダや英国などから18組のカップルが参加した。

 英語では、BBC"Estonian carries 'wife' to glory"(参照)など。これには写真もついておもしろい。
 私はこの風習は欧米に根強いのではないだろうかと思った。映画「ある愛の唄」でも新居に新妻を運び入れていたが、ああいう風習がベースなのではないだろうか、とね。
 妻担ぎ関連のたるいニュースをぱらっと見ていくと、他にもこの手のお笑い大会がフィンランドには多いようだ。"Estonian couple take home Wife-Carrying title"(参照)にはこうある。

Another "typical" Finnish event is the mobile-phone throwing competition at the end of August, which incidentally takes place on the same weekend as the infamous air guitar contest. Both are hugely popular with foreigners.

 携帯電話投げ競技や、ギターを弾く振り競技だ。いかにもネット的な話題なので、ちょっと探すと日本語で読める記事も多い。例えば、「FINLAND CAFE 80」(参照)など。
 それにしても、携帯電話投げ競技というのはいいなと思った(ノキア以外にソニーを投げてもいいらしい)。日本でもやったらどうだろうか、と思う。参院選前だからなのか、世の中、嘘くさい偽善ムードが漂っていて、うっとおしくてたまらない。2chが又吉イエスに騒ぐのもわからないではない(沖縄という背景を知らないとただのギャグにしか見えないのだろうし)。トリビアの泉でも、壊すネタがなんか最近減ってきた。番組に偽善ないちゃもんが多いのだろうが、お子様番組の本道を貫いてほしい。
 とま、話はそれだけなのだが、なんかこう痛快なおバカが足りないような気がするし、その欠如はどうもイカンのではないかと思う。という文脈で、小林よしのりの話題に振るわけでもないし、それに単純に批判するというわけでもないが、この人の考えにはついていけないなと思った分岐点を考えると、れいのAIDS問題の抗議活動で、当時の厚生省の食堂でバカ喰い計画を大々的に実施しなかったことじゃないか。あそこで、一端サヨクに取り込まれて、お手々つなぎとかでお茶を濁したのだが、元に戻ってバカを貫いて欲しかったな。その後はなんか、おバカが欠乏しているように思う。本当の批判力はものを恐れない自由なバカであることじゃないのか。
 話がたらっとするが、私は頭のなかにバカが足りないと不快になる。ので、Mr.Beanのコンプリート版だのサウスパークだのに没頭するのだが、そういえば、Beanのネタで、壁に貼った皇太子チャールズの写真の首を切るというギャグがあった。私は爆笑した。が、文藝春秋で井上章一は、このギャグには笑えなかったと書いていてちょっと驚いた。猪瀬直樹も似たようなことを言っていたように思う。
 そうか? 日本でもこれができるくらいでなくちゃ、天皇家はもたないよと私は思ったのだ。逆にいえば、ニューカッスル大学を首席卒業後、オックスフォード大学修士に進んだローワン・アトキンソン(Rowan Atkinson)のようなのがいないと、知性っていのはバックボーンが無くなるよ。東大出のタレントなんかどうでもいいから東大出の本格的なお笑いはいるのだろうか?
 マイケル・ムーアの「華氏911」は見ていないのだが、話を聞くに、マッドアマノみたいなとほほなセンスのような気がする。違っているといいのだけどね。

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2004.07.04

警察の不正は問題だが、もっと身近に変な警察をどうにかしろよ

 以前の話「身近な警察の問題」(参照)とかぶるが、このところ新聞各紙の社説で昨今の警察の不正を扱うネタが目に付く。でも、なんだか抽象的な話が多いなと思う。偉そうなお説教するより、具体的に警察を変えていかなくてはダメだと思う。ということで、まず、ここを変えろと思うのは、ネズミ取りだ。法治国家の日本でなんであんなことが実施されているのか、呆れて物が言えない。
 と言ったものの、最近、自動車に乗ることが少ないので、現状はどうだろうと、ネットをふらっと見回してみると、どうやら、ネズミ取りは少ないようでもある。そうなのか?
 kunisawa.netの「知っておくと便利です」(参照)にある「ネズミ取りは教え会うのがルール?」の話が面白かった。近年、一般道でのネズミ取りは少なくなったというのだが、どうやら最近復活の兆しもあるとのこと。そこで、あれ?と私も思ったのだが、ネズミ取りのマナーを知らないドライバーが増えているようなのだ。


 で、何が行いたのかと言えば、どうやら最近の若いドライバーは、ムカシから引き継がれてきた美しい行為を知らないらしい。「ヒジョウに安全だと思われている場所」でネズミ取りが行われてのを見たワタシは、突如ヘッドライトが壊れてしまい、なぜか対向車にパッシングしてしまう。困ったことであるけれど、ベテランドライバーは皆そうやってきた。突如ヘッドライトが壊れるワケね。
 普通なら対向車のドライバーも、これまたなぜかスピードを落とす。別に落とせと言ってるんじゃないのに、不思議にアクセルを戻したくなっちゃうらしい。ところが、である。元気よく走ってきて信号で止まった若い兄ちゃん風のシルビアにパッシングしてやったら、怒ってるじゃないの! 窓を開けて「何かモンクあるのか!」と凄み始めた。この時、全てを納得してしまったのだ。

 私も、え?と思った。そうなのか。

 そいつは美しい日本の風習を知らなかったのだろう。最初に書いた通り、確かに最近は高速道路でしかネズミ取りをやらなくなっている。となると免許取り立てのドライバーとしちゃ、パッシングの意味が解らない。きっとその兄ちゃんもネズミ取りやってるのを見たら(もしかしたら捕まったかも)、ああそうだったのね、と納得したろうけど……。後日、若いドライバーに聞いてみたら、皆さん案外と知らない。

 確かに、交通法規には書いてないけど、そうやって日本人庶民は、無法な警察に対処してきたのであって、考えようによっては、昨今警察が不正にまみれているのは、日本の庶民の知恵による睨みが利かなくなったからではないか。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、警察のなかでちょとくらい裏金作りがあってもいいけど、それだって、地域社会のなかでのお目こぼしの範囲であっただろうと思うのだ。
 引用が多くなっていけないが、もう一点。

 それより大切なことは「キチンとした取り締まりを行う」ことだと思う。20㎞制限となっている狭い学童の通学路などで取り締まりをやってくれるなら、警官に差し入れしたくなることはあっても、誰だって対向車にパッシングなどしない。交通の流れを滞らせるホントにジャマな場所の駐車違反などは、即刻レッカー移動したっていいのだ。警察当局(特に交通関係)は、多くの国民から嫌われていることを認識すべきであろう。

 これは、本当にそう思う。特に、学童やお年寄りがスーパーに通う道でこういう困った駐車が多い。っていうか、小さなスーパーに車で来るんじゃねーと思う。
 ついでに言うのだが、最近、歩道をちんたら自転車で走る警官をよく見かける。警官をどやしつけてやることもあるのだが、叱られて、のほのほんとしているんじゃねーよ。道交法を知らないのだろうか、警官は。歩道というのは、特別に標識で自転車の通行が認可されているところ以外は、走ってはいけないのだよ。警官が道交法を破ってどうする。
 また、自転車の通行が認可されている歩道でも、歩行者が優先なのだ。だから、歩道を走る自転車は、歩行者の通行を妨げてはいけないのだ。後ろから、ちりんとベルを鳴らすばかものが多くて困る。おまえさんにだって口はあるだろう。「すみません」の一言を言えと思う。
 とま、ボヤキ漫才のようになったが、マナーというほどでもないのだろうが、当たり前の社会自治の知恵みたいのが薄まった分、警察もおばかになってきたのだと思う。

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2004.07.01

子どもがキレて何が悪い

 こういう馬鹿には知の鉄槌を下してやらなくてはいけない、と思った。読売新聞系「キレる子供の脳には特徴?1万人追跡調査へ」(参照)を読んで、そう思ったのだ。
 この法螺話を真に受けるとこうだ。近年、ささいなことですぐにキレる子供が増えたのは、ゲームやインターネットの普及などと関連がありそうだが、因果関係はわからない。そこで、科学的に研究しようというのだ。


 少年犯罪の増加や学級崩壊、不登校のまん延などの原因を、最先端の脳科学で探ろうと、文部科学省所管の独立行政法人科学技術振興機構は29日、零歳児と5歳児計1万人について、行動の特徴と脳の働きの関係を5年間にわたって追跡調査すると発表した。
 同機構は、体を傷つけずに磁気や光で脳内の活動を調べる「機能的MRI(磁気共鳴画像)」や「光トポグラフィー」といった最先端技術を活用。子供の生活状況や心身の発達、言語の習得具合などを調べながら、脳との関係を長期間にわたって観察する。
 そのうえで、家庭環境の違いや地域差、男女差なども詳しく分析。問題行動を起こす子供の脳の特徴や、その原因などを突き止めるのが目標だ。

 私は一読して馬鹿かと思った。ふざけてんのか新聞と思った。が、そうでもない。この愚劣な研究はマジである。「科学技術振興機構報」(参照)を読んで、私の脳はキレた。いや、キレたらいいのだが、率直に言えば、落胆した。ものすごい疲労感を感じた(暑いしな)。というわけで、私は、たらっと書く。誰か、ネットの天才たち、きちんとこの汚らわしきものを踏みつぶせ、と期待するよ。
 あのなぁ、とまず言いたい。子どもがキレる。というのは、心の働きだ。でだ、その心の働きは脳と因果的に関係なんかない。脳の働きは心の働きと共時的な変化の相を示す。しかし、それは因果関係ではない。あれほどいそいそと脳をこじ開けて奇妙なコビトの絵を描きだしたペンフィールドも、だからこそ、脳と心の関係はつながっていないと得心した。近年では、脳の病変と心理を追及したファインバーグは「自我が揺らぐとき」で、こう結論づけるしかなかった。文章は難しいし、訳者たちはフッサールの現象学をまるで知らないので哲学的にトンチキな訳語を付けているが、そんなこたぁ、目をつぶれ。

 意味の存在論が個別的であるように、個々の目的も存在論的に一人称であって、自己の「内なる視点」でのみ存在する。観察者は相手の脳のなかに目的の在処をつきとめることはできない。「意志」は触ったり指摘したりできるものではない。意志的行動を創出する脳の神経細胞の発火パターンを明かにすることができても、その発火パターンが目的をもった行動の一部であることを示すものは何もない。

 ファインバーグは哲学的に偉そうなことが言いたいわけではない。本書を読めば、彼がきちんと患者に向き合っている態度がわかるだろう。そうした日々の積み重ねとまっとうな思考から、脳は意志とは関係ないと主張しているのだ。
 どだい、子どもがキレるというとき、今の日本人は、それは脳が壊れたとでも思っているのか?
 もちろん、子どもだから感情が制御できないことはある。しかし、そうした感情が制御できない訴えかけもまた、純粋に人間の行為であり、人間の意志の現れではないか。自分が子どもだったとき、つらくキレたときのことを思い出せないのか。そうしてキレることがどれほど人間的であることもわからないのか、馬鹿ども、と私は思う。
 私は先日の参議院の年金議論のとき、一人国会に行って、石でも投げ込んでやろうと思った。キレたからだ。もちろん、というか、残念なことに、実行はしなかった。ふがいないと思った。普通の国民なら、キレる。なぜ日本人はキレないのかいぶかしかった。そして、今度はキレない子どもをつくるというのだ。
 ちょっと話が前後するが、このニュースを読んだとき、私はテクニカルにはMRIの危険性を思った。MRIは必ずしも十分に安全ではないし、生育期の子どもに適用すべきではないと考えるからだ。しかし、この点は、実はこっそり、日立製作所フェロー小泉英明の研究について当たってみた。安全性はそれほど問題はなさそうだ。逆にいうと、だから、こんな馬鹿げた発想を得たのだろう。
 この記事は、読売新聞以外に、私の知るところでは、朝日新聞にも掲載された。ネット上では「TVゲーム、パソコンどう影響 子どもの脳、1万人調査」(参照)がある。

 インターネットやテレビゲームなどの仮想空間と現実との混同は起こっているのか――。子どもの脳のメカニズムについて科学的に解明する研究を、文部科学省が今年度から始める。医学や脳科学、教育の専門家らが、乳幼児1万人を10年かけて追跡調査する。育児や教育の現場で役立ててもらう狙いだ。

 なにが育児や教育現場に役立てるだ。おめーらきちんと取材しろよと思う。取材というのは、言われたことを垂れ流しするんじゃなくて、こういう問題の背後に潜む、およそまっとうな人間の常識に反する危険な臭いを嗅ぐことだ。
 ここで利用されている技術「光トポグラフィ」は、近赤外線を光ファイバーで脳の外部から当て、それが頭骨を抜けて脳表面でどのように反射するかをもって血流を測定する技術だ。動き回る子供でも簡単に検査できる。かなり安全だとは言えそうだ。が、ジャーナリストなら想像してみなさい。頭に多数の光ファイバーを付けたその光景を。なにか思い当たるだろう。同じだよ。それに気が付くっていうことがジャーナリストだ。
 いや、普通の常識だと言っていい。1959年、文芸評論家小林秀雄は当時の最先端技術としての嘘発見機の愚かさをきちんと見抜いていた。「考えるヒント(文春文庫 107-1)」より。

 機械が、望み通りに、驚くべき性能を発揮するとする。裁判官は言う、「嘘をつくと、嘘発見機にかけるぞ」。被告は主張する、「嘘だと思うなら、嘘発見機を使用されたい」。たったそれだけの事を考えてみても、既に良心の住処が怪しくなって来るだろう。だが、嘘をつくつかぬという事は、良心の複雑な働きの中のほんの一つの働きに過ぎない。嘘はつかなくても、悪いことはできる。もし、嘘発見機に止まらず、これが人間観測装置として、例えば、閻魔の持っている照魔鏡のような性質を備えるに至ったならどうなるだろうか。この威力に屈しない人間はいなくなるだろう。誰にも悪いことは出来なくなるだろうが、その理由はただ為ようにも出来ないからに過ぎず、良心を持つことは、誰にも無意味な事になるだろう。人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械なららば、その性質は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈だからである。それなら、人間を威圧する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。そうすれば彼らが、もはや人間ではない事だけは、はっきりわかるだろう。
 私は、徒らな空想をしているのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまう。…

 キレない子どもをつくるために、人間観測装置を作り出す愚かさは半世紀近くも前に一人の常識人が喝破していた。こんなものを真に受けるやつらは、おかしいぜ、と。

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2004.06.16

米国「忠誠の誓い」はいかがわしくまだ続く

 米国の多くの公立学校では、星条旗を掲げて「忠誠の誓い」というのをするのだが、この文言に含まれる「神のもと(Under God)」という表現が、米国憲法の政教分離原則に違反しないかということが話題になっていた。もちろん、選挙がらみもある。これの関連で、14日(米国時間)、米連邦最高裁はひとつの判決を出した。が、話題の中心には触れず、原告の提訴の資格の有無という問題に絞り、原告にその資格がないとした。もともと「俺の娘にこんな誓いをさせるわけにはいかねー」というオヤジの戯言で、親権を分けるオッカサンは「これでいいのよ」という痴話に近い。いずれにせよ、結局、今回は「忠誠の誓い」はそのままということになった。学校行事も変わらない。もちろん問題がこれで解決したわけでもない。
 「忠誠の誓い」というのは、社会現象として見れば、馬鹿馬鹿しさも昨今の日本の日章旗にセットした「君が代」と似たようなものだが、似て非なる点は多い。どちらもしょーもねー愛国心教育のようだが、日本場合はもろに国家に結びつく。が、米国は愛国心には結びつくのは確かだとして、本当に国家に結びつくかよくわからないところがある。というのも、この問題は、以前サンフランシスコ連邦高裁で違憲判決が出ており、今回はそれを覆した形なのだが、米国憲法の原則から考えれば、サンフランシスコ連邦高裁に理があるだろうと、私なども思う。
 問題の「忠誠の誓い」だが、こんなものだ。


I pledge Allegiance to the flag
of the United States of America
and to the Republic for which it stands,
one nation under God, indivisible,
with Liberty and Justice for all.

試訳
私はアメリカ合衆国の旗と、それが表す共和国に忠誠を誓います。このひとつの共和国は神のもとにあり、分断されず、全ての者に自由と正義を伴わせます。


 阿呆臭いのがいかにもお子ちゃま向けというわけで(しかし、それをいうなら君が代はもっと阿呆臭いが)、小学校とかでは毎朝やらされるようだ。このあたりのようすは、たまたまぐぐったら、日本技術者がシリコンバレーで働くのを支援するためのNPO JTPAのサイトの「アメリカの小学校」というページで面白い話があった。

私のいた小学校では、毎朝Pledge of Allegianceをクラス全員で唱和していました。私は当初”indivisible(不可分の、一体の)”というのを”invisible(透明)”だと思い込んでおり、「神様だから目に見えないのかな」と妙に納得してそのまましばらく間違えつづけていたのですが、その後毎朝復唱し、しかもクラス全員を前にして各節をリードする、という月代わりの当番まで担当したため、すっかり記憶に焼き付けられてしまいました。

当時の私にとっては、毎朝繰り返される挨拶代わりのもの、という以上の実感はありませんでしたが、後になって考えてみると、幼い私は、毎朝星条旗に向かい、直立不動の姿勢で胸に手を当ててこれを唱える事により、「連邦」「(キリスト教の)神」「共和制」といった、「人造国家」アメリカをまとめるもろもろの原理への忠誠を誓わされ、同時に「自由と平等を実現した偉大な国家」であるアメリカという国、そしてその象徴たる星条旗に対する誇りを持て、と教え込まれていたことになります。加えて、週に一回(このへん記憶があいまいですが)は「星条旗よ永遠なれ」も歌っていました。


 米国ではそういう風景なわけだ。私自身はこの経験はないが類似の経験があり、ばつのわるい思いをしたことがある。
 「忠誠の誓い」の文言を私は阿呆臭いとけなしたわけだが、よく読むと含蓄はある。というか、この文言は変だ。愛国心だからとして読み過ごしがちだが、なぜこんな唱和を必要とするのかと考えてみると、必要だった時期がある。つまり、愛国心の危機から生まれているに違いないと考えればいい。
 すぐに思いつくのは、米国というのは今でも北部と南部に分かれた国家だということだ。先日「博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話」を読んで、しみじみ南北戦争の陰惨さに呆れたが、この歴史の傷跡は未だに消し去れるわけでもない。滑稽なのだが、大統領はなんとしても南部から出すぞ、という意気込みがこの季節になると感じられる。実際、歴代米国大統領は牛とかが似合う南部人ばっかり。というわけで、勝った北部が「おれたちゃ一つの国家だよ」というのだろう。"The Pledge of Allegiance"(参照)にはその変遷が書いてある。

I pledge allegiance to my Flag,
and to the Republic for which it stands:
one Nation indivisible,
With Liberty and Justice for all.
(October 11, 1892)

I pledge allegiance to the Flag
of the United States of America,
and to the Republic for which it stands:
one Nation indivisible,
With Liberty and Justice for all.
(June 14, 1924)


 この変遷を見てもわかるが昔は騒ぎのもとにある「under God」はなかった。ワシントンポストは、昨日の記事"Justices Keep 'Under God' in Pledge"(参照)でこの件にこう触れている。

Only three members of the court -- Chief Justice William H. Rehnquist and Justices Sandra Day O'Connor and Clarence Thomas -- commented on the constitutional issue that had made this one of the most intensely watched church-state cases in recent memory.

Each supported some version of the broader claim advanced by the White House and Capitol Hill in friend-of-the-court briefs: that "under God," which was added to the pledge by a federal law adopted 50 years ago yesterday, does not amount to a prohibited religious affirmation.


 いきさつはニューヨークタイムズの記事"8 Justices Block Effort to Pull Phrase in Pledge"(参照)がわかりやすい。

But in voting to overturn that decision, only three of the justices expressed a view on the merits of the case. With each providing a somewhat different analysis, Chief Justice William H. Rehnquist, Justice Sandra Day O'Connor and Justice Clarence Thomas all said the pledge as revised by Congress exactly 50 years ago was constitutional.

The law adding "under God" as an effort to distinguish the United States from "godless Communism" during the height of the cold war took effect on Flag Day - June 14 - 1954.


 要するに、このしょーもない文言は冷戦のために出来たわけで、もとから米国の理念でもなければ、連邦国家に関わることでもない。あえて言うなら、ごく私的な習慣ではないのか。
 あまり触れたくもないが、こいつを作り出したのはJames B. Upham and Francis Bellamyという変なやつらで、これがどのくらい変かというのは、"The Socialist Pledge of Allegiance"(参照)を見ればわかる。これって、ハイ○ヒッ○ラー、まんまじゃん。歴史的にも実は、一つの社会主義的なイメージから来ているのだろう。ナチズムというのも国家社会主義なのだ。
 関連のネタはまだあるのだが、話が長くなったのでやめたい。一つだけ余談だが、朝日新聞系「ソウルの小中高『気を付け』『礼』廃止へ」(参照)がおかしかった。韓国の話である。

学校の授業の始まりと終わりに「チャリョッ!(気を付け)」「キョンネ!(敬礼)」と学級委員や班長の号令に合わせて教壇に黙礼する小中高校伝統のあいさつを来月から廃止する、とソウル市教育庁が9日、明らかにした。

 そんなものさっさと廃止しとけよと思うが、そう言う資格は現代日本人にはない。もっとも、韓国でも、これを廃止すると三歩一礼みたいな前近代が吹き出すのかもしれないのだが。

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2004.06.14

東京は今年も世界で一番生活コストの高い都市

 毎年吉例マーサー・ヒューマン・リソーシズ社による世界の都市の生活コスト・ランキング"Global Cost-of-Living Survey - 2004"(参照)が発表された。言うまでもなく東京は第一位である。生活していくのに一番金のかかる都市というわけだ。そして今回新しく二位に躍り出たのはロンドンだ。フィナンシャルタイムズ"Tokyo tops list of expensive expat postings"(参照)は、東京をdubious honourだと、おちょくっている。


Tokyo has retained its dubious honour as the most expensive city in the world for expatriates, with London leaping five places to clinch the number two spot.

 昔の大阪人なら、いらんこと言わんでもよろし、とか言うだろうか。かくいう大阪は昨年の三位から四位に落ちたが、大阪人の努力または脱力によるわけでもない。ようは、イギリスが変わったことだ。ポンド高なのだ。ロンドンが東京を笑う資格があるわけだ。ちなみに、50位までは次のようになる。けっこう含蓄深い。

04
03
city
04
03
1
1
Tokyo, Japan
130.7
126.1
2
7
London, UK
119
101.3
3
2
Moscow, Russia
117.4
114.5
4
3
Osaka, Japan
116.1
112.2
5
4
Hong Kong
109.5
111.6
6
6
Geneva, Switzerland
106.2
101.8
7
8
Seoul, South Korea
104.1
101
8
15
Copenhagen, Denmark
102.2
89.4
9
9
Zurich, Switzerland
101.6
100.3
10
12
St. Petersburg, Russia
101.4
97.3
11
5
Beijing, China
101.1
105.1
12
10
New York City, USA
100
100
13
17
Milan, Italy
98.7
87.2
14
21
Dublin, Ireland
96.9
86
15
13
Oslo, Norway
96.2
92.7
16
11
Shanghai, China
95.3
98.4
17
23
Paris, France
94.8
84.3
18
42
Istanbul, Turkey
93.5
78.8
19
34
Vienna, Austria
92.5
82.4
20
67
Sydney, Australia
91.8
73.7
21
41
Rome, Italy
90.5
79
22
48
Stockholm, Sweden
89.5
78.2
23
36
Helsinki, Finland
88.8
80.9
24
35
Abidjan, Ivory Coast
88.7
81.3
25
31
Douala, Cameroon
88.3
82.9
04
03
city
2004
2003
26
52
Amsterdam, Netherlands
88.1
76.8
27
22
Los Angeles, USA
86.6
85.6
28
58
Berlin, Germany
85.7
75.3
29
14
Hanoi, Vietnam
85.6
89.5
30
18
Shenzhen, China
85.6
86.7
31
29
Taipei, Taiwan
85.3
83.5
32
18
Guangzhou, China
84.9
86.7
33
40
Tel Aviv, Israel
84.8
79.1
34
37
Budapest, Hungary
84.5
80.2
35
25
Chicago, USA
84.5
83.9
36
16
Ho Chi Minh City, Vietnam
84.5
88.5
37
25
Beirut, Lebanon
84.3
83.9
38
30
San Francisco, USA
84.3
83
39
66
Luxembourg
84.3
74
40
63
Dusseldorf, Germany
84.3
74.2
41
74
Glasgow, UK
84.1
72.3
42
65
Frankfurt, Germany
84
74.1
43
62
Munich, Germany
84
74.4
44
56
Bratislava, Slovak Republic
83.9
75.7
45
38
Jakarta, Indonesia
83.9
80
46
32
Singapore
83.6
82.8
47
56
Dakar, Senegal
83.4
75.7
48
27
Riga, Latvia
83.3
83.7
49
49
Prague, Czech Republic
83.3
78.1
50
71
Athens, Greece
82.9
72.9

 今年の調査の特徴はマーサー・ヒューマン・リソーシズ社"Tokyo and London are world’s most expensive cities; Asuncion in Paraguay is cheapest"(参照)によれば次のようになる。


  • Tokyo and London are world’s most expensive cities; Asuncion in Paraguay is cheapest
  • Three of the five cheapest European cities are in countries that recently gained EU accession
  • Australian and New Zealand cities rise steeply in rankings due to appreciation of currencies against US dollar

 オーストラリアとニュージーランドが対ドルの関係で注目されているということは、皮肉に言うなら、こうした都市間の比較は、ある一定以上の水準を持つ都市なら、経済圏と通貨に依存しているだけのことなのだろう。先のフィナンシャルタイムズは、さらにもってまわった皮肉を言っているのかもしれないが、東京の暮らしだって給与が現地通貨ならさして問題ないと指摘している。

But foreigners living in Tokyo need not despair. Marie-Laurence Sepede of Mercer said that by custom executives posted overseas tended to be given full compensation by their employers for higher living costs.

She pointed out that they could take advantage of expat pay systems by buying local goods in places such as Tokyo, where what is produced at home is often considerably cheaper than what is imported.


 案外そうなのかもしれない。特に輸入品の扱いが気になる。というのも、今回の調査で、韓国ソウルは八位なのだが、現地に暮らす人から聞くに、家電品など工業製品は日本のほうが安いようだ。
 かくして東京はますます奇妙な都市になっていくのだろう。余談めくが、東京の特殊出生率は0.9987となり、1.0を割り込んだ(参照)。面白いといえば面白い。いずれ老人の都市になる。
 話を少し戻すと、問題は結局通貨じゃんかという考えを延長するなら、この調査は、調査方法が間違っているとは言わないまでもだ、あまりにフラット過ぎるというか、数値的なごにょごにょだけじゃんといった印象は受ける。
 むしろ、各高度化した都市におけるマルチカルチャラルなインフラというものからクオリティ・オブ・ライフを出してもいいように思える。それができれば、ロンドンなどはかなりカンファタブルな都市ということにもなり、一層手の込んだジョークが出来るかもしれない。ちなみに、現状のクオリティ・オブ・ライフで言うなら、東京は33位でロンドンは35位。ここでも仲間じゃないか。
 世界都市の動向について、アジアの側面も面白いと言えば面白い。先の調査をひく。

Asia
Four of the world’s ten costliest cities are in Asia, with Tokyo being the most expensive city globally. Osaka takes 4th position (116.1) followed by Hong Kong in 5th place (109.5) and Seoul, ranked 7th (104.1). Chinese cities, though still relatively expensive, have dropped in the rankings, as the Chinese currency is pegged to the US dollar and has therefore been affected by its depreciation. Beijing is at position 11 (score 101.1) followed by Shanghai in 16th place (95.3).

 つまり中国が躍り出てこないのは対ドルのせいという面がある。ここでも通貨がポイントのなのだが、常識的に社会インフラのリスクを算定すると、そうかなぁ?という感じもする。もっともそれを言うなら東京には震災リスクがあるが。
 生活コストは貧富にも関係する。この調査はニューヨークを基準としているが、北米の都市は概ね上位にはこない。単純に考えれば、チープに住めると言うことなのだが、多分に貧富差のセイフティネットなのではないかという気もする。EUにもそのような印象を受ける。北米もEUも別の側面で農業国の顔を持っているというのも、こうした国内の庶民生活のバックボーン(農産物が安ければ取りあえず食っていける)として影響があるようにも思われる。

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2004.06.09

ミステリーショッピング(mystery shopping)

 先日ラジオでミステリーショッピングの話を聞いた。もしかすると、「それってミステリーショッピングじゃん」と私が思っただけで、話にこの用語は出てこなかったかもしれない。
 そういえば、ミステリーショッピングという言葉は日本語になっているのか、と思って、最新用語の多いgooの日本語辞書をひいてみると、あった(参照)。三省堂提供「デイリー 新語辞典」に収録されているようだ。


ミステリーショッピング 【mystery shopping】
客に扮した調査員が,営業中の小売店などで顧客満足度を点検する調査のこと。接客態度・店舗設備・品揃えなどの項目を,顧客と同じ視点で調査する。調査結果は顧客満足の向上に役立てる。

 定義もそれほど悪くない。三省堂提供「EXCEED 英和辞典」ではこうだ。

mystery shopping
【経営】ミステリー・ショッピング (phantom shopping) ((調査員を顧客に仕立ててサービスや施設の清潔度,価格設定等を秘密裏に調査すること)).

 ついでに、ミステリーショッパーも収録されている。

ミステリーショッパー 【mystery shopper】
営業中の小売店などで,客に扮して顧客満足度を点検する覆面調査員のこと。

 この語については、むしろ英辞郎が弱く、"mystery shopping company"でしか掲載されていない。また、"mystery shopper"は「ミステリー・ショッパー、客を装った商品調査員{しょうひん ちょうさいん}」として掲載されているが、"phantom shopper"の「仮想買い物客{かそう かいものきゃく}」は誤訳語だろう。
 いずれにせよ、ミステリーショッパーとは、客に偽装した調査員ということなのだが、米国などだと、実態は、客が請け負いで調査するというのが近いかもしれない。というか、そういうイメージが強そうだ。
 現状の米国のミステリーショッピングのマーケットの統計値を探したのだが、簡単には見つからなかった。だいたいの予想で言えば、日本ではまだそれほどのニーズはなさそうだ。今後、日本でも増えるのだろうか気になる。
 日本だとフリーターとか専業主婦がたるいバイトでできそうだが、実際はそうはいかないだろう。売り手の側でも、きちんと買い手となる層の意識が必要になるからだ。だから、フリーターのお姉さんにきれいな服を着せビトンを持たせてミステリーショッパーに仕立てても、その購買意識やテイストまでは変えられないから、結局、使えねー、ということになる。つまり、ミステリーショッッピングのリソースとは、購買可能な階層に所属している意識そのものだろうからだ。
 米国のミステリーショッピングのサイトを見るとMSPAといった業界団体ができていて(参照)、ミステリーショッパーとなるための倫理規定なども設けているようだ。
 データベースには各種の資料も掲載されていて面白い。ミステリーショッパーについては、例えば"Be A Mystery Shopper"という記事では、こんなイメージで描いている(参照)。

The next time you're making a deposit at the bank, ordering a hamburger from a fast-food joint or checking into a hotel, the person standing behind you in line may not be a regular fellow customer; she may be a mystery shopper. Mystery shoppers work on a contract basis, and their job is to secretly evaluate consumer-service companies by posing as ordinary customers.


Mystery shoppers work their own schedule, typically going on as many assignments as they choose in a day's time. That flexibility combined with the perk that mystery shoppers often get to enjoy the goods and services they're told to purchase for free may make this seem like an ideal occupation. But, like any other field, this line of work has its disadvantages, not the least of which is the time and effort one must invest to excel and earn decent wages.

 この他、ざっと関連の情報を見ていくと、対象として、小売り店のマーケット以外に病院などもある。日本ではたいした根拠もなく雑誌や書籍で病院のランキングが掲載されているが、こうしたものもミステリーショッパーが利用できるとだいぶ違うだろう。
 ミステリーショッパーの組織・運用はインターネットが便利なはずだと思って、ぐぐると日本でもさすがにいろいろと情報はあるようだが、印象としてはかなりゴマ臭い。
 しかし、こうしたミステリーショッパーの管理はいずれインターネットと強く関連してくるように思う。気になるのは、例えば、「ネットは新聞を殺すのか-変貌するマスメディア」だが、次のようにネット社会と消費動向を示唆している。

 IDC社によると、製品やサービスの内容を形容する標準的な仕組みが開発され、2008年までにほとんどの小売業者がその仕組みを採用する確立は80%。消費者の意見を幅広く集め、効率よく表示する仕組みが2006年までに開発される確立も80%。携帯電話などの機器がバーコードを読み取り、商品に関する評判や情報を提示する仕組みが2008年までに普及する確立は40%。質のいい意見を発信する消費者に報酬を与えるための少額電子決済の仕組みが2008年までに普及する確率は60%と予測している。

 直接的にはアフィリエイトが想定されているのだが、ブログなどもGoogleの動向からして、すでにそういう消費行動の仕組みのなかに組み入れられてきている。
 総合して言えば、今後ネット社会は、なんらかのシカケでマーケットの評価を決定するようになるのだろう。
 その先、あれこれと想像してみるが、あまりイメージがわかない。

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2004.06.04

不妊治療と産後うつ病

 昨日「皇太子妃報道のうっとうしさ」(参照)を書いてから、出産経験のある女性と話したおり、「不妊治療を受けた女性はホルモンバランスを崩しやすいのではないか」と言われた。
 そうかもしれない。と、思い手持ちの資料やネットで情報を軽くあたってみたが、よくわからない。しかし、この問題は気になるので簡単に書いておきたい。
 不妊治療と産後うつ病について、直接は関係のない情報なのかもしれないが、BBC"Multiple births and fertility treatment"(参照)が興味深かった。話は、不妊治療によって双子が生まれやすくなるというものだが、次のような指摘がある。


 Many doctors are worried that they are being put under increasing pressure to use more of the fertility drugs to produce more eggs and so increase the chance of the woman getting pregnant.
 US research shows people undergoing fertility treatment would prefer to have multiple births than have no children.
 This is despite reports that those who have multiple births are more likely to suffer depression, anxiety and emotional problems and more prone to divorce.

 不妊治療によって双子が生まれやすくなるということと、双子を持つ母親が憂鬱や不安など感情問題を持ちやすいということ、その2つがどうつながるのかわからないが、不妊治療による精神への影響はありそうだ。
 雅子皇太子妃の場合は、すでに不妊治療を受けてからかなりの時間が経つので、そうした問題でもないと考えるのが妥当なようにも思える。が、そのときふと思ったのだが、そして悪い噂になっていけないのだが、現在再度不妊治療をやっているのだろうか。真相はわからないのだが。
 不妊治療の問題についてネットを雑見したところ、奇妙な印象をうけた。どうもきちんとした情報源がないように見えるのだ。
 非難するようだが、こうした場合のガイドであるべきAll About Japanの「不妊治療」(参照)の情報が混乱している印象を受ける。少なくとも私は混乱した。広告の入れ方が悪いのかもしれない。アトピー情報でもよくあるのだが、不妊治療についてのネットのソースは、医学的な情報なのか、迷信なのかわからない情報が混在している。さらに、All About Japanの「不妊治療」には「おすすめ書籍」とあるのだが、これはガイドが選定したとはとうてい思えない書籍がリストされていた。
cover
不妊治療
ここが知りたいA to Z
 気になって、もとになるアマゾンで「不妊治療」関連の書籍を検索して売れ筋に驚いた。All About Japanの「不妊治療」のリストはどうやらアマゾンから自動的にひいているようだ。率直に言って、売れている本ほど、情報の信頼性は低いように私には思われる。といったことを書いてもあまり意味はないので、私の情報は古いのだが、書籍については自分が参照している「不妊治療―ここが知りたいA to Z 健康双書」を薦めたい。ただし、この本には、不妊治療と産後うつ病の関連の記載はない。
 産後うつ病についてもネットで情報を当たったが、あまり適切なものがなかった。三重大学母子精神保健グループの"Postnatal Depression"(参照)のサイトがあまり充実していないのも気になる。社会的な話題としては、読売新聞の医療ルネサンス(参照)で扱われて話題になったようだ。が、その記事はネットからはすでに参照できないようだ。
 ついでに読売新聞の過去のデータベースを当たると、2002.7.2「『出産後うつ病』抗体で予測へ オランダ・ティルブルフ大の研究チームが発表」という興味深い記事がある。

 赤ちゃんを産んだ後、気持ちが不安定になり、一人で落ち込んでしまう「出産後うつ病」は、妊娠中のいわゆる“マタニティー・ブルー”より深刻な症状で、約15%の女性が経験するといわれている。
 オランダ・ティルブルフ大のビクター・ポップ教授らの研究チームはこのほど、このうつ病を妊娠中から予測できる目安となるたんぱく質(抗体)を見つけたと発表した。早期に発見する検査法につながる成果と期待される。
(中略)
 研究チームは「出産後うつ病になる女性は助けを求めず、放置されたままになっていることが多い」と、早期発見の重要性を訴えている。

 産後うつ病は産後数週から数か月以内に現れるうつ病で、この記事にあるように経験者は少なくはない。が、一般的には長期に及ぶものでもない。先日、極東ブログで「幼保一元化は必要だが」(参照)を書いたおり、育児が社会問題になるのは、女性が職場復帰できる産後の1年から幼稚園に子供を預けられる3歳までかとも思ったが、産後うつ病などのケアを含めて、産後1年以内でももっと社会的な対応が必要なのではないかと思う。
 時事的な話題の線で言えば、政府は今日少子化社会対策大綱を閣議決定する。大綱の原文は「少子・高齢化対策ホームページ」(参照)で入手できるのだが、これがなんとも理解しづらい。不妊治療にも言及はあるが、具体的にはわからない。
 以上の話に、とってつけたような結論をつければ、不妊治療と産後うつ病については、ネットが普及しても情報がないように見えることは社会的な問題だろう、ということになるか。
cover
シアーズ博士夫妻の
ベビーブック
 余談みたいだが、産後うつ病について、私が信頼している書籍「ベビーブック」を私なりにまとめておこう。

  • 赤ちゃんケアに専念するときは家事両立など考えない
  • 赤ちゃんケアをやるべき優先順位のトップに置く
  • 毎日数時間は外に出る時間を作る
  • グループカウンセリングを受ける
  • きちんと栄養バランスの食事をする
  • 身だしなみを崩さないこと(出産前にヘアスタイルを変えておくいい)
  • 休息をきちんと取ること

 日本の状況では、グループカウンセリングは難しいかもしれない。また、赤ちゃんケアを優先にしてまともな食事などできないということもあるだろうが、この点については、都心部ならケータリング・サービスを有効活用するといいと思う。

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2004.05.26

同性婚の動向

 米国時間で17日の話になるが、マサチューセッツ州で同性同士の結婚が正式に認められるようになった。日本でもニュースとして報道されたが、新聞社説でテーマとして取り上げるといった社会的な関心にはならなかったようだ。もっとも、「同性愛☆関連ニュース」(参照)を見ると同性愛者たちの間ではホットな話題のようではある。
 私自身は、米国の同性婚の動向にはそれほど関心はなかった。この問題が、毎度ながら、中絶問題などと一緒に、大統領選挙に関係することは知っている。むしろ社会問題としてはそちらの意味合いがあるのではとも思っていた。
 この問題に自分が関心が薄いのは、基本的に、同性愛をどう社会的に受け止めるかということで、「差別をしてはいけない」が正しいという単純なソリューションで自分のなかで終わっているからだ。このブログでは私はしばしば保守と言われることがあるし、どう言われてもいいのだが、自分では政治的な面ではウルトラ・リベラルではないかとも思う。そういうリベラルであることに価値を置く自分としては、同性愛の結婚というのも広く認められればいいのではないかと、まず考える。
 が、この数日この問題が、ぼんやりとこの問題を考えては、奇妙なひっかかりがある。うまくまとまらないが、書いておきたい気がする。
 奇妙なひっかかりは、社会が同性愛を差別しないということと、結婚という社会制度を同性婚に直結する関連性が判然としない、というあたりだ。
 北欧などでは、前世紀に世界大戦がないこともあり、近代社会が深化し、結婚というのは基本的にプライベートな領域の問題に移りつつある。あるいは、こう言い換えてもいいかもしれない。結婚や宗教的なり信条の問題なので、国家が関与すべきではない、と。このあたり、日本の別姓論者がどう考えているのかはわからないが、社会原理的にはそう考えていくのが正しいだろう。
 そう考えると、問題の根幹は、社会的な差別「意識」の問題ではなく、法的な問題であり、社会制度の問題なのだということになる。マサチューセッツ州での同性婚に関連して、朝日新聞系ニュース「米マサチューセッツ州が『合法的』同性結婚受付」(参照)では、制度面をこう報道している。


 同州最高裁は昨秋、同性の結婚を禁じるのは州憲法に違反するとの判断を下し、同性婚を認めるよう州当局と議会に命令した。結婚を認められたカップルは、社会保険や税制度、遺産相続、養子縁組などで男女の夫婦と全く同じ権利と利便を与えられる。

 だとすると、私は同性愛結婚に反対するというわけではないが、そうした結婚を契機とした利益・不利益を社会的に存在させなければ、とりわけ結婚という制度を同性愛者が必要するものでもないようには思う。と同時に、それは、異性間の結婚でも同じ問題ではあるのだろう。
 もう一歩踏み込む。問題は、相続と養子がポイントになるではないか。
 同衾者について社会制度がどう扱うかということになるのだろうが、結婚が暗黙のうちに前提としている二人の結びつきということだけではなく、三人以上の同棲者でも同じことが言えるのではないだろうか。もっと単純に言うなら、主に遺産相続についての共同生活者の権利を拡大し、その中に、自然に同性愛者のカップルを含めるということでもいいのではないか。
 今後日本でも、多分に、未婚の男女がそのまま老齢化し、共同生活を送らざるえなくなるだろう。彼らが互助のコミュニティを形成する場合、財産共有の制度は必要になる、と思うのだが、現状の日本の制度でも問題はないだろうか。
 制度面でもうひとつ気がかりなのは、養子だ。これも原理的には三人以上のコミュニティの子供としてもいいのではないかという点もだが、それはさておき、同性愛カップルが養子を持つ場合、親はいいとしても、子供はどうなのだろうか。
 当然こうした問題は心理学者なども議論していると思われるのだが、私は知らない。この問題にどういうアウトラインがひけるのかすら、まるでわからない。社会制度上ジェンダー差別を撤廃するということと、子供の心性における母性・父性の象徴の重要性はまた別だろうと思う。というか、人間の権利以前に、人間の心性というものに政治的な中立性がありうるのか、よくわからない。
 同性婚の制度面については、現在、主に欧米諸国では課題になっているのだが、日本の状況は、さらにわからない。この問題関連でぐぐってみると、「『同性婚』を取り巻く現状」(参照)また「同性婚はいま-世界の動向-」(参照)というページが参考になるが、原則なり原理面がわからない。それでも、北欧では同性婚の場合、養子については認められないという傾向があるようにも見受けられる。やはりなんらか、社会的な抵抗感の根拠性はあるように思える。

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2004.05.10

Winny開発者逮捕は時代錯誤

 Winny開発者を京都府警が著作権法違反(公衆送信権の侵害)の幇助容疑で逮捕した。また、京都府警かよだ。が、それについては、とりあえず今回は触れない。読売系のニュース「共有ソフト「Winny」開発の東大助手を逮捕」(参照)をひく。


 発信源などの特定が困難なファイル共有ソフト「Winny」を開発し、インターネットを通じて映画やゲームソフトを違法コピーするのを容易にしたとして、京都府警ハイテク犯罪対策室は10日、東京都在住の30歳代の東京大助手を著作権法違反(ほう助)の疑いで逮捕した。

 このニュースは逮捕前から早々に流れていた。最初にその話を聞いたとき気になったのは、いったい罪状は何?であった。ご覧の通り、答えは、「著作権法違反(公衆送信権の侵害)の幇助容疑」である。で、答えかよ。朝日新聞系のニュース「Winny開発の東大助手を逮捕 著作権法違反幇助容疑」(参照)にはこう補足されている。

 高速で通信するブロードバンド化が進むなか、ファイル交換ソフトによる著作権侵害は深刻化している。府警は、助手がWinnyが悪用される危険性を認識していたとして、立件は可能だと判断した。
 国際的に著作権侵害をめぐるプログラム開発者の刑事責任についての判断は分かれており、今後、議論を呼びそうだ。

 まず私が困惑するのは、前段の著作権法違反についてだ。単純な話、これは民事なので、著作権を侵害された人からの訴えが必要になる。日本では依然ソフトの違法コピーが盛んなようだが、以前、この問題に対してたしか米国系の業界団体が、ちくれば報奨金を出すというキャンペーンをしていた。ちくって実態がわからなくては訴訟にできないからだと私は理解した。つまり、著作権の侵害は親告罪でだから、著作権者からの告訴があって初めて成立する。そのあたりの関係が未だによくわからない。
 そして今回ある意味で多少びっくりしたのは、著作権法違反幇助容疑っていう奇っ怪な罪状だ。先の文脈で言えば、一般的に幇助罪はその前提の罪状、この場合は著作権侵害罪が成立していることが前提になる。朝日新聞系の先のニュースではこのあたりを配慮してか、次のような説明が入っている。

 府警ハイテク犯罪対策室などの調べでは、助手は02年5月からWinnyをホームページで無料配布し、群馬県高崎市の風俗店従業員(41)=同法違反罪で公判中=らが昨年9月、このソフトを使って米映画「ビューティフル・マインド」などの映画やゲームソフトを送信できるようにし、著作権を侵害するのを手助けした疑いが持たれている。

 とりあえず、問題は、「著作権を侵害するのを手助けした疑い」の意図が立証できるかというフェーズに移行していると見ていいのだろう。つまり、「助手がWinnyが悪用される危険性を認識していた」ということだ。
 この点、読売系でも朝日新聞系のニュースでも作者の次の発言をひいてさも、その意図があったかのように誘導している。朝日新聞系のニュースをひく。

 助手はインターネット上の掲示板「2ちゃんねる」上で「47氏」と呼ばれ、「そろそろ匿名性を実現できるファイル共有ソフトが出てきて現在の著作権に関する概念を変えざるを得なくなるはず。自分でその流れを後押ししてみようってところでしょうか」などと開発意図について説明していた。

 これは2チャンネルの発言を拾ってきているように思われるのだが、私が見た範囲では原文が見あたらなかった。もしかすると次の発言をねじ曲げているのだろうか。

89 名前: 47 投稿日: 02/04/11 00:26 ID:TuaSESIN
個人的な意見ですけど、P2P技術が出てきたことで著作権などの
従来の概念が既に崩れはじめている時代に突入しているのだと思います。

お上の圧力で規制するというのも一つの手ですが、技術的に可能であれば
誰かがこの壁に穴あけてしまって後ろに戻れなくなるはず。
最終的には崩れるだけで、将来的には今とは別の著作権の概念が
必要になると思います。

どうせ戻れないのなら押してしまってもいいかっなって所もありますね。


 この発言が対応しているなら、新聞のトーンとはかなり違うことがわかる。
 Winnyについては、それがこのような形で社会問題になったからには、社会問題の視点でどのような技術なのかという理解が必要になる。共同系のニュース「Winny」開発者、著作権法違反ほう助で逮捕へ」(参照)を参考にひく。

 Winnyはネット上で無料公開されている。特定のサーバーを使わず、暗号化されたファイルが自動的に複数の利用者間でリレーされていく方式のため、ファイルがどこから送受信されているのか特定しづらく、極めて匿名性が高いため、「ソフト違法コピーの温床」とされる。

 間違いではないのだが、このような新聞での解説では、47氏によって、あたかも著作権を侵害する独自技術が開発されたかのような印象を受けるのではないだろうか。しかし、Winny自体はそれほど独自技術を持ってできているわけではない。ただ、このあたり、開発過程で2chの応援で独自性が追加されたと見ることもできないこともないのだが、大筋の理論には独創性はない。
 もともと、Winnyは同種のWinMXの次世代版として2チャンネルで期待されていた話題の流れで出てきた。この話題を見ながら、たまたま47氏は、技術的な関心から米国で開発されたFreenetをWindowsに移植しようと試みた。しかもその動機は、FreenetのソースがJava(支持者が多いわりには基本的には非効率な言語。非支持者も多い)というプログラミング言語で書かれているから別の言語(C言語)に移植してみようというものだった。しかも、ニュースで騒ぐほど、匿名性にはそれほど関心は置いていなかった。

586 名前: 47 投稿日: 02/04/06 18:13 ID:tI2XpLS7
(略)
そもそもFreenetのアーキテクチャは匿名性ばかり重視して
しまっていて無駄が多いと思うんでFreenetプロトコルには準じない
(Freenetクライアントにはしない)で全部自分でやるって方針です。

 だからこそ、匿名性に関する技術は既存の、処理効率の高い暗号技術をとって付けたような形になっている。その意味で、ネットエージェント社(ネットワークセキュリティ専門)が暗号解読をした時点で、Winnyの匿名性など技術的にはなくなっていた。余談のようだが、この暗号化解読が比較的容易だったのも、暗号化に既存アルゴリズムを援用していたからだ。くどいが、こうしたことからも、Winnyの開発意図には匿名性はそれほど重視されていたわけではないことがわかる。
 さらに、こうした開発意図についての発言は、2002年4月の時点だという点も注意を促したい。ざっくばらんな話、高速回線が普及し、社会問題が深刻になったから、過去に遡って、しょっ引いてやれというわけだ。
 いずれにせよ、新聞に引用されたかのような、著作権概念への挑戦のようなコメントは、47氏にとっては余談の部類であり、すでにFreenetによって破られているからという時代意識のうえでなされているものだ。
 当然ながら、47氏を奇妙な罪状でしょっ引いても、Freenetやそれの類縁の技術が海外から押し寄せてくれば、京都府警の対応は無意味になる。というか、たぶんに今回の逮捕は見せしめだろう。
 さて、社会としてこの問題にどう対応したらいいのか。
 その糸口は、私は今回の報道を見ながら、もう一点些細だが、奇妙なことに気が付いたこと、にありそうだ。話を原点に戻して、いったい何の著作権侵害かというと、「映画や音楽などのソフトウエア」と3点上がっているものの、群馬県高崎市の風俗店従業員逮捕では、「米映画『ビューティフル・マインド』などの映画やゲームソフト」となって、なぜか音楽は抜けている。
 ここで米国の状況を知っていただきたいのだが、米国でもファイル共有ソフトで音楽がばらまかれた。が、このことに対して、音楽業界は訴訟で挑み、広範囲に脅しをかけたが、その反面で、妥当な価格でのダウンロード販売を推進した。つまり、利用者は、訴訟リスクの高いコピーを使うか、妥当な価格のコピーを購入するかが選択できる。これによって、事実上、音楽の著作権問題は解決した。
 すると問題は、映像とソフトウエア(ゲーム)だが、映像については、現状の回線速度では、およそ映像といったクオリティのコピーはできない。勇み足な言い方だが、そんなもののコピーは目をつぶってもたいした問題ではない。もともと配布に便利なセルDVDの価格を下げれば問題は解決する。
 ソフトウエアはどうするかだが、ゲームは映像性が高ければ、現状では配布にやや難がある。すると、残るは通常ソフトウエアなのだが、これも、現状パッケージ売りがほぼ全滅し、オンライン販売に移行しているのだから、適正価格にすればいいだけのことだ。
 つまり、今回のWinny事件は、日本の警察と業界の時代錯誤ということだ。

追記(同日)
朝日新聞系「『著作権法への挑発的態度』が逮捕理由 京都府警」(参照)によると以下のように供述しているとのこと。


 金子容疑者はこれまでの調べなどに「現行のデジタルコンテンツのビジネススタイルに疑問を感じていた。警察に著作権法違反を取り締まらせて現体制を維持させているのはおかしい。体制を崩壊させるには、著作権侵害を蔓延(まんえん)させるしかない」と供述。

 これが本当なら、確信犯というか、根本的なところで京都府警に逆らう気でいるとみられる。いわば、危険を冒してまでの思想の実践ということだ。そうであるなら、この問題については、さらに深い考察が必要になるだろう。「逮捕するのは時代錯誤だ」、あるいは、「ソフト開発だけなのに逮捕は許せない」といった次元ではなくなくなる。
 ざっくりとした印象を言えば、前段は私も同意する。後段の体制崩壊うんぬんについては、単純には同意できない。

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2004.05.01

人質会見に私は落胆した

 昨日のイラク邦人人質事件被害者の会見を見るためにテレビを付けた。見て、落胆した。この人たちは、テロリストのシンパなのだと思ったからだ。テロという人間の尊厳に対するもっとも卑劣な行為を憎むことができないのだ。それが心的障害による譫言だと信じたい。が、たぶん、そうでもないのだろう。他にも報道番組を見たが、私のように落胆している人の姿はなかった。むしろ、この会見を好ましくみているかのようだった。こうしたテロリストのシンパが私の同胞であり、このテロリストのお友達とともに、日本国はテロとの戦いというこれからの世界に向かうことになる。内憂外患というにはすまされないものを感じた。
 会見ではこうあった(参照)。


 --彼らについて
 レジスタンスだと思う。ファルージャの町を自分たちで守ろうという自警団。彼らは外国人を拘束しメッセージをああいう形で発信することしかできない不器用な人たちだった。まとまりはなかった。よくけんかしてましたから。

 人質だった人だった三人も日本に帰国して日が経つのだから、この間、同じような状況で殺害されたイタリア人のこと知っているはずだ。どう思うのだろうか。イタリア人人質を捕らえたグループはテロリストだが、日本人人質を捕らえたグループはレジスタンスということなのだろうか。そこまで詭弁はできないだろう。日本政府が尽力したから、日本人の命が守られたとのだと私は思う。
 いや、これには反論があるのか、曰く、自衛隊撤退のデモ行進が彼らの命を救ったのだ、と。それは、詭弁でも冗談ではない。それは、テロに屈するということだ。
 北朝鮮は、日本人を数多く誘拐した。下校途中の13歳の少女も誘拐した。テロである。これに「彼らは外国人を拘束しメッセージをああいう形で発信することしかできない不器用な人たちだった」と言うのだろうか。そんなふうにテロに屈していいのだろうか。冗談ではないと思う。テロリストは擁護することはできない。人間の尊厳に対するもっとも卑劣な行為だからだ。
 テロリストの認識が難しというなら、近代戦では、民間人を巻き込んではいけないという原則くらいは知っておくべきだ。
 事件の真相は会見からではわからなかった。人質たちの知らない真相というのもあるかもしれない。狭義に見れば、部分的には、狂言であることは明らかになった。日本国民は、人質の命を心配していた。が、会見からわかった事件の様相では、最初から人命は保護されいた。これが狂言でなくしてなんだというのだ。広辞苑を引くに、狂言の意味はこうだ。「うそのことを仕組んで人をだます行為」。用例に「狂言強盗」。

 --自作自演とか演出ともいわれているが
 あのビデオは、演出というより命令。あのような状況で否定できますか、みなさん。命の保証はされてましたが、いうこときくしかない。

 そう問われたら、私とても、「イタリア人の死に様を見せてやる」というほど腹が据わっているわけではない。なるほど、演出してくれと言えば、そうしたかもしれない、とは思う。が、私はこれは不自然な言い訳だと思う。私なら、「あの状況ではしかたがなかったし、映像が日本に報道されているとも知らなかったが、あの演出で日本国に心配をかけることになったのは恥ずかしい」と言うだろう。ついでに私の感想だが、撮影の前には饗応があったようだが、それも不自然だと思う。演出などせず、そのまま脅して撮影し、それが終わってから、実はこういうことだった、すまない(ソーリーソーリー)というのなら、わかる。
 ただ、演出して作ったものだから、日本国政府側は見破りやすかったのだろう。テロリストの要求である自衛隊撤退を早々に拒絶したのは、原則を貫いたというより、テロリスト側より日本国政府のほうが一枚上手という知恵比べだったわけだ。しかし、今後はそんな呑気な事態ではすまくなるだろう。
 警察側としては、ある程度満足のいく事情聴取はすでに完了しているだろう。そう見れば、認定された事件としてはすでに終了している。だから、事件の真相を自作自演とするのは、無理がある。私の言い方では、事件の全貌を狂言だというには無理がある。が、私は依然疑いを持つ。
 事件の全貌が、「自作自演」かどうかはわからない。が、今回の事件で、とくに2ちゃんねる系の意見は「自作自演」という言葉に自縄自縛になっていたように思う。その言葉を踏み絵にすれば、「自作自演」という説を押し通すのは難しくなるだろう。
 言葉による自縄自縛といえば、「自己責任」も似たような始末となったように思えた。「死ぬ覚悟でイラクに行きましたか」と問えば済むだけのことにしか私には思えない。彼らがまたイラクに行くというなら、日本国と日本人に迷惑のかからない計画を立てて貰いたい。

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2004.04.29

年金問題はまた五年後に蒸し返し

 年金問題について書くだけ馬鹿馬鹿しい気がする。率直な話、国会議員がふざけているなら、どうでもいいやという感じだ。こんなことで国はどうするという思いもあるが、気が抜けてにへら笑いしそうだ。普通の国なら、暴動が起きるか、国会にコーラの瓶でも投げ込むのだろうとなと思う。自分にもその気力がない。活動はプロ市民にお任せだよね。
 もちろん、考え詰めていっても、ある意味「どうでもいい」とも言える。それは極東ブログで書いてきたとおりだ。目先に迫ったと言われる年金危機はフェイクの可能性が高い。差し障りがある表現だが、共済年金が実は隠れた本丸じゃないのかとも思う。また、もしかすると、現状の公明党路線で日本の景気が上向けば(=インフレになれば)、問題は自動的に解決するのかもしれない。しかし、理性的に考えれば、年金問題はまた五年後に蒸し返しになるだけなのだろう。
 と、つい「公明党」と口走る。今朝の新聞各紙社説を読みながら、あるもどかしさの中心は公明党なのではないかという印象を持つ。私の印象は間違っているのかもしれないが、産経新聞が最近とみに公明党に配慮しているようだ。社説「年金法案可決 これじゃ誰もソッポ向く」は威勢のいいタイトルの割に、内容は散漫。同様に、毎日新聞社説「採決強行と未納 年金不信はここに極まった」も数値を示すなど毎日らしいトーンではあるが、主張というには弱い。この気の抜け方は、公明党への配慮ではないのか。
 読売新聞社説「年金法案可決 党派超えた改革協議の場を作れ」も気の抜けた感じだが、これは自民党への配慮か。ただ、結語は奇妙なものだった。


 先進各国が年金改革のモデルと注目するスウェーデンは、党派を超えた論議の末、抜本改革を実現した。合意形成への政治手法を、日本も学びたい。

 執筆者の精一杯の読売上層部への抵抗なのかもしれない。というのは、スウェーデンのように、党派を超えた論議をするには、専門家を入れるしかなく、専門家を入れれば、スウェーデンのように当たり前の結論しか出てこない。つまり、一元化だ。
 朝日新聞社説「年金大揺れ――これは一体何なんだ」は、他紙より公明党への怒りを含んでいる印象を持った。それでも、朝日は民主党案への支援の意志は弱い。そう、この態度は、社民党と共産党のそれと同じということなのだ。
 私は考えすぎかもしれないが、当面の問題は年金に見えながら、起きている事態は、新聞なりという公論の崩壊なのではないか。そしてその公論的な言説は、庶民の感覚からはすでに離れている。新聞の社説なんてそんなものだよというのはわかるが、そういうふうに総括したいわけではない。
 新聞がダメならダメでいい。しかし、国民は公論というか、整合できる意見をどうまとめていったらいいのだろうか。
 私の話も散漫になった。やけくそ的な気分は晴れない。
 私は、年金問題について、国会議員らよりもう少し国家というものを信頼していたと思う。私はどういう状況であれ年金のための金をきちんと払ってきた。払うのは大人の甲斐性だよとも言った。しかし、立法府は腐っていたのだ。甲斐性も糞もない。福田、谷垣、竹中、茂木、管、中川、麻生、石破…その面を見るだけでむかつく。台湾から専用の腐った卵を密輸してそのツラにぶつけてやりたいと思う。そうされるに値するだけ、こいつらは国民を愚弄してきたのだから。

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2004.04.28

大学非常勤講師は…

 朝日新聞社説「非常勤講師――こんな処遇ではいけない」が面白かった。大学の非常勤講師の実態の話だ。要するに、すごい低賃金なのだ。私も大学で非常勤講師をやったことがあるので、爆笑…もとい、苦笑した。
 実態を知らない人もいるかもしれないので、基本はこうだ。


 しかし、大学の先生は二つに分かれ、待遇に大きな格差がある。専任教員は月給が支払われ、個別の研究室と研究費が与えられる。一方で、非常勤の教員は講義に応じて賃金が支払われるだけで、研究室も研究費もない。

 賃金はこうだ。

 首都圏や関西の非常勤講師組合の調査によると、1コマ、90分の講義を受け持って、平均賃金は年30回で計約30万円。年齢は平均で42歳だ。講義の準備や試験の採点にかかる時間を考えれば、学生の家庭教師並みの時給である。
 専任教員並みに5コマの講義を担当しても、年収は150万円ほどにしかならない。講義のための本代や学会に出席する費用は自己負担だ。契約は1年ごとで、専任教員になれる保証もない。

 わっはっはとか笑ってしまいそうだが、これでもマシな部類かもしれない。時給6000円ならいいじゃんとかね。実際には、前後に1時間近くかかる。時給で割ると3000円くらいか。それでいいバイトじゃんとか思う? これに通勤費は含まれない。なにより問題なのは、大学によってはけっこう辺鄙なところにあるので、通勤時間が馬鹿にならない。1コマだけのために午前なり午後がつぶれるということになる。その影響のほうが大きい。つまり、その間は、生活費を稼ぐための仕事に充てられないのだ。とすると、ある程度稼ぐということで考えるとどうしても2コマ以上は入れることになる。
 と、すでに、実はボランティアだよ~んの雰囲気をただよわせているが、実感としてはそんなものだ。じゃ、なぜやるのか?というと、岸本葉子が、カルチャースクールの講師の話だが、「炊飯器とキーボード」に書いているように、断りにくいことがあったり、また、山本夏彦が、彼自身の経験ではないが、なにかのエッセイで、歳を取ると若い人に教えたいという欲望は抑えがたいと書いていたが、それもある。学生と飲むというのは楽しいこともある。
 大学講師は、ちょっとした肩書きにもなる。私の場合だと、図書館のフリーパスとかメリットだし、どうせ本でも読むなら静かなところがいいかというのもあった(専門書は自前で購入できないしな)。ま、いずれにせよ、金銭的には、わっはっはと笑ってしまうしかない。余談だが、学生たちに、「きみたちに教えているより、実仕事をしているほうが稼ぎの点ではいいんだよ」と言ったら、え?みたいな顔をしていた。
 繰り返すが、大学非常勤講師はボランティアだと思えばいいというのはある。私自身について言うと、失礼な言い方かもしれないが、大学生がつまんなくなったというのが、もうやりたくねーの最大の理由だ。私が歳を食ったからかもしれないが、もうちょっと言うと、ケースにもよるのだろうけど、講義が終わった後、「はーい、教室を出て」とか言って、ドアに鍵をかけるなんて指導込みっていうのも、どうよ?とかとも思った。
 問題はそうした賃金のことだけではない。

 文部科学省の調査によると、専業の非常勤講師は全国で延べ約6万7千人にのぼる。いくつかの大学を掛け持ちしている人が多いので実数は2万数千人と見られるが、こうしたパートタイム教員が科目の3~4割を担当しているのが日本の大学の現実である。

 ある意味、こっちのほうが問題なのだ。というと、講師の質が悪いからなと思うかもしれないし、そういうのもあるのだろう。私の立場の偏見もあるのかもしれないが、教えていることや背景知識の点で、講師は大学教師に劣るものでもない。というか、現場に近い人が多いので優れていることも多い。そういう点では問題はあまりないのだが、要は、この構図なくして大学が教育の場として運営されていないことだ。
 この問題について、朝日は次のような見通しを語っている。

 文科省は国立大学に対しても「4月の法人化後、非常勤講師はパートタイム労働法の適用を受けることになる」と通知した。法人化で教職員は公務員でなくなり、一般の労働法の適用を受ける。国立大学も専任教員の待遇とのバランスを考えなければならないというわけだ。各大学はこの通知を重んじてほしい。

 朝日は意図していないか、さらなる実態を知らないのかもしれないが、この話はさらに、わっはっはと笑ってしまいそうになる。って、笑ってどうするなんだが、笑う以外になんと言っていいのかよくわからない。極端な話をすれば、教員が今度は講師になり、講師がさらに下に落とされる。トランプの大貧民みたいな感じだ。
 私の認識は間違っているのかもしれないし、それなら幸いだ。私は、むしろ、こうしたひどいなという状況から、逆に大学を離れた場で教える・学ぶという意義が市民社会に広がる契機にもなるかと思う。
 カルチャースクールとかいうと、主婦の暇つぶしのようにも思われてきたが、先の岸本葉子でもないが、市場原理から優れた講師が教えるという場に増えてきている。語学や基礎の計算力といった勉強でなければ、優れた先生の謦咳に触れることは、人生の宝ともいえる経験になる。

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今日は沖縄デー

 読売新聞社説「主権回復の日 『戦後』はこの日から始まった」があまりに馬鹿なことを言っているので、書くのはやめようと思っていたが、少し書く。


 きょうは何の日か。こう問われて、すぐにピンと来る人はそう多くはないだろう。
 一九五二年四月二十八日に、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は、六年八か月にわたる占領統治から解放された。
 講和条約の第一条を読めば明らかなように、日本と連合国との戦争状態は、この日にようやく終了した。本当の意味での「終戦の日」、あるいは「主権回復の日」と位置付けることもできよう。

 今朝の朝日新聞に「『反日』とは何ですか」というくだらない社説があったが、読売新聞のこの社説こそ「反日」と言っていいだろう。日本という国のありかたに真っ向から反対しているのだから。
 きょうは何の日か、そう問われれば、すぐにピンと来る。沖縄デーだ。それ以外にあるのか。
 1952年4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は国土を分断された。沖縄は日本ではなくなったのだ。「占領統治から解放」されただの「主権回復」だのいう意見は沖縄を日本だとは思っていないのだ。
 講和条約を読めば明らかなように、日本と連合国との戦争状態は、この日から新たな問題の次元に突入し、戦争は終わったとはとうてい言えない歴史が始まった。
 日本国の主権を理解していない読売は、当然ながら領土も勘違いしている。

 サンフランシスコ講和条約は、日本の領土についても規定している。
 中国や台湾が尖閣諸島、韓国が竹島の領有権をそれぞれ主張しているが、講和条約を素直に読めば、日本が主権を放棄していないことは明らかである。

 この話は、最近では、極東ブログ「尖閣諸島、領土と施政権」(参照)、「領有権=財産権、施政権=信託」(参照)にも書いたので繰り返さない。
 読売のこうした主張は、日本国民として恥ずかしいと思う。

四月二十八日は、昭和史の大きな節目となる記念すべき日であるはずだった。だが、この日の意義は、日本の占領体験と同様に忘れ去られようとしている。

 そのとおりだ。でも、忘れているのは、読売新聞だ。
 しかし、当の沖縄でも、「沖縄デー」は風化してきている。だが、その日が残した米軍基地がある限り、風化しきることはできない。
 沖縄デーについては、「やがて「壁」は崩れる 4・28の運動に学ぼう」(参照)がよく書けているので参照して欲しい。

楽観も悲観もせず、ひたすら兵力削減と基地返還を求め続ける。4・28は、その愚直とも思える運動がやがて厚い壁を突き崩すことを教えている。

 それがこの日の意義だ。

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2004.04.27

郵政民営化問題が象徴するかもしれないこと

 今朝の新聞各紙社説は、昨日、郵政民営化の法案作成ための「郵政民営化準備室」が小泉内閣発足したことを受けて、郵政民営化をまたテーマとしていた。同じ話の蒸し返しめくが少し書いておきたい。
 朝日新聞の社説は無内容だった。産経は視点がややぼけている。が、少し触れておく。


 日本郵政公社の職員は郵貯・簡保業務だけで十万人、全体で二十八万人に上る。事業の縮小・効率化は大幅な人員削減を伴う。それをせずに民営化を進めれば、逆に経営が一気に行き詰まるのは必至だろう。

 それはそれほど大きな問題とは思えない。業態を変えていけばいいだけのことで、経営の行き詰まりを懸念している産経のそぶりは誰の利益を代表しているのだろうか。
 読売新聞社説「郵政民営化 改革の狙いが不鮮明な中間報告」はそう悪くない。はっきり言って、郵便事業など問題から外していい。

 郵政民営化は何のために行うのか――その目的を再確認しながら、今後、検討作業を進める必要がある。
 最大の狙いは、郵便貯金や簡易保険で国民から集めた約350兆円に上る資金を国の管理下に置く構造を改めることだ。巨額の資金は特殊法人に流れ、非効率な事業を支える要因となってきた。
 財政投融資の改革に伴って、その資金を財投に全額預託する義務がなくなったものの、国債や財投債を大量に引き受けており、同じ構図が続いている。
 その資金を民間に取り戻すことで、民間経済の活性化につながる。財政や財投の改革を一層促進することになる。

 問題はまさに、この第二の国家予算ともいえる資金が国債や財投債に流れる構図をどう見るかだ。読売のように、その資金を民間に戻せばいいと単純に言えることなのかが、率直なところよくわからない。陰謀論めきたいわけではないが、この件について、米国からの圧力がいつのまにか消えているように思えることもよくわからない。私は頓珍漢なことを言っているのかもしれないが、日本国民の財産について、まるで国際化なりグローバル化なりが進んでいるとはとうてい思えない。米国銀行がもっと日本に入って、日本人も米国金利で貯蓄などができればいいと思うのだが、なぜできないのだろう。米国側の理由で阻まれているような気がする。
 日経は読売と同じ内容をもう少し正確に説明している。

 国営金融事業の規模は郵貯と簡保の合計で約360兆円、民間の預金と保険の約6割に当たる。国債発行残高の約23%の約126兆円を保有する郵政公社は最大の国債投資家だ。「財投改革」で郵貯・簡保から財投機関への自動的な資金の流れは断ったが、政府が財投機関に貸し出す資金を国債の一種の財投債の発行で調達し、郵貯や簡保が引き受ければ実態はそう変わらない。
 この仕組みを温存すれば、政府の借金の膨張に歯止めがかからず、財政危機が拡大し、金利上昇などを通じ経済全体をむしばむ危険が増す。「金融の衣を着た財政」の仕組みを改め、持続可能なものにしなければならない。郵政改革は日本を危機から救う改革という意味を持つ。

 日経の説明は確かに具体的ではあるのだが、その結論が「日本を危機から救う改革」とするあたりが、どうもきな臭い。
 以下、少し陰謀論めいた話に聞こえると思うが、この件で、「ウォルフレン教授のやさしい日本経済」の指摘が気になっている。ウォルフレンは小泉にインタビューした後、彼が実際に彼自身の主張を理解していないのではないかという疑問を持った。

 彼が初めて郵貯民営化を主張したとき、このアイデアはどこから出てきたのか、と私は考えました。おそらく当局の担当者が長期的に考えていくうちに、思いついたものでしょう。担当者自身、自分たちでしてしまった間違った投資を隠すために使おうと考えていたのが、将来ひょっとすると、政府の資金源である財政投融資(郵貯はその主要部分です)が底をつくかもしれない。そこで、二〇〇三年に郵政事業を公社にしようと計画したのではないでしょうか。
 そして郵政を公社化した後で、旧・国鉄のような形で民営化を進めようとしているのかもしれません。旧・国鉄は世界最大の赤字垂れ流し企業でしたが、それを「民営化」することによって、株式を売り、新しい資金創造ができました。NTTが民営化されたとき、その株式総額は、ドイツ一国の株式市場全株式総額を超えるとも言われたものです。これだけ円を経済に投入する方法があったのかと驚かされました。
 それは新しい形での「創造的な」帳簿つけでした。日本の当局は、歴史上最大の創造的な帳簿つけ名人なのです。

 おそらくウォルフレンの言っていることは、日本の言論の世界では、陰謀論なり素人の見解としてせせら笑うという反応が返ってくるのではないだろうか。私自身、国鉄や電電公社についてはウォルフレンの読みでいいのではないかと思うが、郵貯についてはその線でうまく読み取れない面がある。
 問題をクリアにするには、「政府の資金源である財政投融資が底をつくかもしれない」というリスクがきちんと計量化される必要がある。だが、それはかなり不可能だろう。というのも、年金問題にしても、庶民からは民主党はなにをごねているのだ、みたく現状では見えるからだ。官僚が年金計画の算定のための資料を提示してこない。まして、郵貯については不可能に近い。また、道路公団問題でもよくわからないグレーなものになってしまったことを思えばが、郵貯ではさらにひどいことになるだろう。
 話が皮肉になるのだが、ウォルフレンが嫌悪するような解決の仕方が、結局日本社会にそれほど悪いものでもないのかもしれないという思いもある。国鉄の赤字問題も、気にしないで済むようになってしまった(もちろん、これは皮肉だ)。
 結局のところ、なんだかんだと、日本国は民営化をよそに国家側が肥大化し、隠された重税化になって「解決」するかもしれない。その方向はまさに奇妙なナショナリズムだ。
 縮退していく日本が流民を含めてグローバル化することが避けられなければ、どこかで大きなクラッシュになる。若い知性が「降りる自由」とか議論しているようだが、そうした事態への皮肉な予感なのかもしれない。つまり、「降りる自由」はこの奇妙なナショナリズムにしなやかに荷担していくのだろう。

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2004.04.24

三菱自動車を潰してはいけないのか

 今朝の新聞各紙社説では、ドイツのダイムラークライスラーが三菱自動車の金融支援の打ち切りを表明したことを扱っている。だが、率直なところ、なにが問題なのだろうか。もっと率直に言うと、三菱自動車を潰してはいけないのだろうか。なぜこれが新聞の社説に取り上げられる事件なのだろうか。私はよくわからない。
 日経新聞社説「ダイムラーに見限られた三菱の衝撃」の文脈はこうだ。


 三菱自を支援していた三菱重工業、三菱商事、東京三菱銀行の3社を核にする三菱グループにとっても、再建の唯一の切り札だったダイムラーの「逃避」で最悪の事態を想定することを迫られている。
 突然の翻意だった。今月初旬のダイムラーの株主総会で、ユルゲン・シュレンプ社長は三菱自の再建支援を言明、2日前にはダイムラーの取締役会で増資など7000億円の資金提供など再建策の大枠も決定したと報じられていた。
 それが最高意思決定機関の監査役会で筆頭株主のドイツ銀行や労組代表が反対し、「増資計画への参加を見送り、これ以上の金融支援を打ち切る」と明快な支援打ち切りを表明した。三菱自の筆頭株主で、社長を派遣し、経営の主導権を握っていたダイムラーが金融支援を打ち切ることは、事実上資本提携解消を前提にした三菱との決別宣言に等しい。

 私はめちゃくちゃなことを言っているのかもしれないが、そんなことは、三菱グループの問題であって、日本社会の問題とは違うように思える。
 いずれにせよ、新聞社説では、三菱自動車の再建を期待するというトーンで終わっている。引用するまでもないように思う。
 少し気になるのは、読売社説「三菱自動車 裏目に出たダイムラーとの提携」のトーンだ。

 日産は、ルノーから派遣されたカルロス・ゴーン氏の指導で大胆なリストラに取り組み、新車開発でヒットを飛ばしたことなどで短期間に業績が回復した。日本人社員のやる気をうまく引き出したのが、成功のカギとされる。
 だが三菱自動車では、ダイムラーからの首脳陣と日本人幹部との意思疎通が円滑ではなかったようだ。ダイムラーは米ビッグスリーの一つであるクライスラー部門でも赤字を続けている。海外事業の経営ノウハウに欠ける、と言われても仕方ないだろう。

 つまり、外国のダイムラーの経営が悪いから日本の三菱自動車がうまくいかないのだというトーンを感じる。しかし、経営なんて別に日本だろうが外国だろうが、どうという問題でもない。
 と、いう以上に私はこの件についてコメントはないのだが、「ウォルフレン教授のやさしい日本経済」の次のくだりを思い出した。

 欧米の資本主義経済では、企業が利益を上げることが健全だとされます。もちろん日本でも企業は利益を上げるべく、さまざまな努力をしています。しかし日本経済全体でいえば、利益を上げることによって健全であろうとする考え方はそれほど重要とは思われていません。現に、一〇年も二〇年も利益を上げていない大企業はたくさんあり、なかには設立以来ずっと利益を上げることがなかったという企業があります。これは会計処理の仕方とも関連しています。日本経済システムの中核をなす企業であっても、これはとくに製造業がそうなのですが、きわめて曖昧な会計処理をしています。

 私はドラッカーの著作をある程度系統的に読んだのだが、彼は利益というものを企業の健全性の指標としていた。これほど日本の経営者がドラッカーをよく読むわりに、しかし、実際にはこうした基本的な部分は影響を与えていないようにも思える。
 話が違うのかもしれないし、実際は海外でも同じなのかもしれないが、日本では株式の配当というのは実質上、ない。資本主義の根幹が資本ということで、この資本が利潤を生み出すというなら、株の配当のない制度は資本主義とは言えないように思う。
 話をウォルフレンの指摘に戻すのだが、今回の三菱自動車の件も、結局はそういうことなのではないか。社説などでは、ダイムラークライスラーでの決定は監査役会でなされたものであり、その筆頭株主のドイツ銀行やドイツの労組の反対などが背景にある云々、また三菱自動車の経営体質といった話を問題視しているが、これは、単純に、会計と利益の構造の問題なのではないのか。つまり、当たり前のことをしただけ。
 日産の復活があったので、つい三菱自動車という一企業のありかたに目が向けられるが、根幹にあるのは、こういう基本構図ではないのか。つまり、三菱グループが曖昧な会計を許す日本国家のものではなくなったというだけのことではないのか。見当違いかもしれないが、そういう財閥の残滓を整理する機会にすればいいだけのことに思える。(と、こういう言い方はその関連の方にひどく聞こえるだろうが、有能な人の雇用がより流動的になればいいのだろう。)

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イラク人質事件、さらに雑感

 イラク人質事件のことは新しいファクツでもでないかぎり書くべきことはないと思っていたが、事件そのものより事件の社会への反照について、なんとなく思いが溜まっているので書いておきたい。
 一番気になるのは、奇妙な言いづらさ、みたいなものだ。浅田農産事件のときもそうだったが、一斉に社会ヒステリーのようなバッシングが発生したものの、事件の中心人物が自殺するとそれが急速に収束したかのように見えた。しかし、誰もが知っているはずだが、「なんか、言いづらいよね」という空気に圧倒されただけのことだった。事件の真相は、情報操作なのか、カラス騒ぎのなかで曖昧になった。普通に考えたら疑わしいはずだと思って、このブログでは、「浅田農産事件で隠蔽されている日に何があったのか?」(参照)を書き、人的感染経路への疑念を指摘したが、その解明も消えてしまったかのように見える。
 人質事件も似たような経緯を辿っているように思える。そして、真相の解明はうやむやに終わるのだろうか。私は依然、狂言事件と思うのだが、メディアは産経系を除いて、こぞって「自作自演」説は政府側が意図した陰謀論ということで終わりにしようとしているように見える。変な言い方だが、それで終わりというのもしかたないようにも思う。というのは、いずれ真相解明自体がまた政治の枠組みに置かれることになるだろうし、そうした政治との関わりはなにかうざったい気もするからだ。
 「自己責任」という話題には私は当初から関心はないし、それはすでに書いてきたとおりなのだが、その後なんとなく現れてきた、「自己責任」を問うべきではない、という空気には奇妙なものを感じる。これにル・モンドなど海外メディアの援軍も加わるに至り、変な感じは深まる。まぁ、ル・モンドだしな、とかいうことで、どうでもいいかと思ったのが、他にも広がりつつはあるようだ。
 が、ここでも私はひっかかる。日本人人質事件の際、オーストラリアでもエイド・ワーカー(支援作業者)の女性Ms Mulhearnが人質になり、解放される事件があった。ご存じのとおり、オーストラリアも派兵について日本のように世論が割れているので、世論やメディアのありかたは類似の傾向が見られるかとも思ったが、そうでもなかった。
 例えば、こんな記事"Aust hostage 'foolhardy': Howard"(参照)がある。Downerはご存じ通り外相である。前段にはハワード首相も同じように非難している。


 Mr Downer told the John Laws radio program he was puzzled by Ms Mulhearn's decision to travel to Fallujah.
 "She's gone into a war zone ... I'm not sure what an Australian would do wandering into that area, it was very reckless," he said.
 "I think Australians have got to be enormously careful, whatever their political opinions, she claims to be a member of the Labor Party, ... to make sure that they are as safe as possible.
 "Otherwise other Australians then have to go and try and help them.
 "I worry about all the Australians of goodwill, who nevertheless have had to look after people who describe themselves as human shields and go into Iraq to make all sorts of political points ... and get themselves into trouble.
 "Then our people have to take risks to try to help them."
 Mr Downer said political comments by Ms Mulhearn concerning the Australian government were also unhelpful.

 ご覧のとおり、DownerをKoizumiに、AustraliansをJapanese置き換えてもいいような記事になっている。他にもオーストラリアのABCだが"Australian government slams 'reckless' activist in Iraq "(参照)では短くこうある。

 The prime minister, John Howard, has accused the peace activist of behaving in a foolhardy fashion.
 "Irresponsible behaviour, whatever the cause may be, is not acceptable and should be criticised," Mr Howard said.

 問題は、こうした報道がどうオーストラリア社会に受け止められていたのかでもあるのだが、在住者のブログ「オーストラリア・シドニー海外生活ブログ」の記事「人質事件で家族を考える」(参照)を読むと、拉致された女性への擁護の声はなかったようだ。
 とすると、日本の場合、擁護の声も高まってエキゾチックな社会現象に見えたから、取材能力のない海外特派員などのコラムネタになったのではないだろうか。と、くさしっぽく書いたのは、少し取材すれば、人質女性が以前のイラクでの「人間の盾」のグループとの関係があることくらいわかる。だとすれば、少しは考察すべきこともあることくらいはわかるだろうからだ。
 先の「オーストラリア・シドニー海外生活ブログ」では、さらに興味深い指摘があった。

 でも、日本の報道姿勢と決定的に違っていたのは、拉致された人の家族については一切触れないというところではないかと思う。
 最初に拉致された日本人3人のうちの1人は未成年だったけれども、後から拉致された2人も含め、その他は全員30歳以上。
 今回問題になったオーストラリア人女性も34歳と、皆いい大人。
こういった場合、家族が出てきて、あれこれコメントするということは、この国ではまず見られない。
 だからか、日本人の人質家族が泣いて訴える映像を流した後、ニュースキャスターの反応は冷ややかだった。
 欧米の家庭では、(ほとんどの場合)高校を卒業すると同時に家を出て独立し、たとえ親が高齢になっても同居することは稀。大人になったら、自分のことは自分でする=責任を持つのが当たり前とされている社会。
 自分に責任を持てる大人がとった行動に、親・兄弟は関係ない――
 という欧米人の考え方と、家族は共同体というお家制度みたいなものが根強く残る日本を垣間見た気がした今回の事件だった。

 この感覚に私は当たり前のこととして同意する。「自己責任」という以前に、大人のしていることに親が出てくるのは変な話だと私は思う。
 私は日常テレビをほとんど見ない。この事件についてもテレビ報道は見ていなかった。人質家族の動向はほとんど知らなかった。というか、そんなものに関心の持ちようもなかった。事件とは関係ないという感じもしていた。
 が、人質帰国後はテレビがどう報道するものか関心があって少し見た。そこで、一番奇妙に感じたのは、人質だった3名が自宅に入るシーンが放映されていたことだ。そんな映像になんの意味があるのかという疑問と同時に、未成年は別として、この人たち、親の家に帰るというわけなのか、と思った。
 非難に聞こえてはいけないが、それって、パラサイトであり、「負け犬」であり、フリーターであり…ということで、現代日本ならではの世相のてんこ盛りではないだろうか。解放された人の恋人が抱き合ってキスをするというシーンは、まるでないのだろう。日本的だなと思う。
 日本的な事件だということでは、浅田彰が「イラク人質問題をめぐる緊急発言」update版(参照)でこう言っているのを思い出した。

結局、謝罪と感謝でひたすら頭を下げて回るだけってところまで人質と家族を追い込んじゃうんだから、まさに前近代のムラ社会だね。

 だが、それ以前に、親が出てくるところでムラ社会なのだろう。と、いうことを浅田は指摘もしないのはなぜだろう。
 もう一点、この関連で、「善意でしたことは良いこと」という空気もあるのだが、社会というのは実際には善意の結果が重要になるものだ。この話も書きたい気がするが、そうでなくてもつまらない説教みたいになりそうなで、やめとく。

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2004.04.16

鷺沢萠、松田新平

 高校生のころだったか私も自殺しようと思っていたことがある。そのあたりの記憶はぼんやりとしてる。なにかを無意識に抑圧してしまったためだろう。なにが自殺を押しとどめたのかということでは、ぼんやりと歎異抄の「念仏申さんと思ひ立つ心の起る時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり」が思い浮かぶ。
 当時の私は亀井勝一郎や三木清、梅原猛などの影響もあり、親鸞に傾倒していた。それが自分を救いうるのだろうかという若い思いでもあった。
 歎異抄は、唯円の聞き書きとして、この文言の前に「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて」とある。信仰が先行するのである。が、私はその時の体験から、これは逆だと思った。つまり、念仏申さんと思ひ立つ心の起るその時に、弥陀の救済が働き、そして、誓願不思議と往生の確信となる、という順なのだろう、と。
 そう考えることで、親鸞の信仰と唯円との落差が見えたように思った。親鸞は、変な言い方だが、「念仏申さんと思ひ立つ心」をある種、絶望の極北と見ていたのではないか。他力とは、ある意味、絶望の極北ではないか。そこにあるとき、人を貫いて念仏申さんと思ひ立つ心の起ること自体が、弥陀の誓願不思議の顕現ではないのか。もちろん、真宗学の人は否定するだろう。私はその後、その何かをキリスト教の中に見ていこうとしたが、その話はどうでもいい。
 その後自殺を思うことがなくなったが、死んだほうがましということは、今思うと二度あった。一つは青春を打ち砕いた。と、言うも恥ずかしいが、私のような無名な人間のそういう生き様はごく普通の人の生き様でもある。過ぎ去れば、どういう話でもない。もう一つは、正確には死んだほうがましというものではなく、単に生きる苦悩だった。大げさな言い方ついでに言えば、乾巧がウルフオルフェノクに変身したように絶叫した。人生には存在の底から絶叫することがあるものだ。が、それも、沈静して考えれば、わりと普通のことでもある。
 自殺や懊悩というのは普通の人生の一部だと思う。というか、私はそうして生きることにした。ふん、俺は生きるのか、という感じだ。
 こんな光景も思い出す。人っ子一人いないある西洋の断崖に立ったことがある。柵もなく注意書きもなく、眼下に遠くただ美しく静かな海が広がっていた。怖くもあった。死ねるな、である。自殺の思いがふっとよぎった。小林秀雄が若いころ、断崖から見る海が美しかったら死のうとしていたことを思い出した。彼が自殺しなかったのはその日曇りだったからだろう。そういうこともある。
 慰撫的な前振りが長くなったが、鷺沢萠と松田新平の自殺ということを聞いて、さて自分は、とそんなことを思ったわけだ。
 鷺沢萠という作家の作品は読んだことはない。その内面はまったく知らない。が、気になったのは、たぶん、メディアでも取り上げることになってしまうのだろうと思うが、彼女が昨今言うところの「負け犬」の代表の一人であり、その生き様の一つとして、自殺ということを刻んだのだということだ。そんなのは勝手で不謹慎な解釈と非難されそうだが、言わずにも世の中はそう受け止めるだろう。現在発売の「野生時代」で、まさにそのテーマで酒井順子と対談していた。読んだ。この時点で読めばいろいろ思うこともあるのだが、それでも、端的に言えば、こうした残された文章から自殺へはつながらないのではないか。そして、それは、負け犬の生き方の一つの結末として自殺があるとしても、そこはそう簡単に文章でつなげるものでもないだろう。本質的につながらないかもしれない。ただ、酒井順子は、もし、物書きの魂というものがあるなら、何かを書かなくてはいけないだろうし、書くだろうなと期待する。
 ネットで鷺沢萠のことを軽く見回したら、「鷺沢萠連載エッセイ かわいい子には旅をさせるなvol.28 メシのモンダイ  その2」(参照)という面白い話がった。このシリーズのエッセイではこれが最後になるだろうか。


 韓国人も実に頻繁に「メシ食った?」のひと言を口にする。もっとも韓国人の口から出るそのひと言は、アメリカで私を驚かせた「ジュイッ?」と違って、純粋な意味での質問である。
 これは私見だが、韓国人は「ひとりで食事する」ことをあまり好まない。韓国人には「メシは複数人数で食うもの」という観念があるように思う。だからこそ頻繁に「メシ食った?」と訊ねるのであろう。つまり彼らはそのことばを介して、「一緒にメシを食う相手」を探しているのではないか、というのが私の個人的見解である。

 エッセイに無粋な重箱つつきをする意味はないが、この挨拶は中華圏では当たり前のものだ。私の父は、10代を朝鮮で過ごしたので、この話を私が子供の頃よくしてくれた。鷺沢萠の祖母は朝鮮系であるというが、家庭内ではそういう文化の伝承のようなものはかったのだろうか。ふと気が付いたのだが、私はそういう意味で、引き揚げ者の子供なわけだな。
 松田新平が誰かという詳しい話はしない。最近、松田新平が死んだという噂は飛んでいたことが気になっていた。先月から「みんな」心配していたのだ。「松田新平をかまってやれないほど忙しかったわけですが、最近毒電波も飛んでこないところを見るとイジケテいるのかもしれません。今頃うんこ我慢しながらインターネットしている彼に激励の言葉をどうぞ。」(参照)というわけだ。そうしたら、今日の山本一郎のブログに追悼が出ているじゃないか。「松田新平が死んだ件について」(参照)。現代における名文だな。本当に死んでしまったのだなという心の思いがこの文章にすーっと引き寄せられる。

しかしまあ、松田が死んだってことで、これで少し世の中が生きやすく、そしてつまらなくなったってことだ。あれだけ人を騒がせておいて、自分勝手に逝きやがって。

 山本は意図的ではないのだろうが、結果的に暗示するように、彼の死はこの現代の日本の一つの大きな象徴なのかもしれない。またしても、ここで時代がぐぃんとつまらんものに曲がってしまったか、あるいは、この世代をつまらない世界に押し込んだのか。ある意味、今というこの時は、その不思議な頂点でもあるのだろう。ああ、そうだ、僕らみんな松田新平が好きだったのだ。そういう「好き」という人間への感性が、今から変容していくのだ。
 松田新平は、はてなでこう問いかけたことがある(参照)。

わたしはだれでしょうか。nameforslashdotだのnameforhatenaだの1967.08.02生まれの男性だの住所だの学歴だの病歴だの人間だの動物だの生き物だの無機物の集合体だの三次元空間の存在だのわかりませんだの知っていますだの誰に聞けだのなにを読めだのはぜんぶだめです。

 私はこう答えた。

「ゲド」です。
漢字の「外道」ではありません。
参考:http://homepage1.nifty.com/ima-dame/matuda.htm

 彼の応答はこうだった。

なに、おれの本名は「ゲド」だというのですか?それでいいのですか?
それはそれとして、参考URLとしてあげられている、クリッカブルでないほうのURLがどうして参考になるのかわかりません。減点しようかな、、どうしましょうか?

 減点はされなかったが、貰ったのは2ポイントだった。通じなかったな、と思った。彼は、彼と私にある重要な共通の知人がいることに気が付かなかったようだ。が、私はそれでもいいやと思った。私は彼が面白い人だとは思うが、ある一定以上近寄るのはやめようと思った。
 私はそうして、少しずつ、本当に孤独になっていくのだろうなとは思う。それは、自分の死というものの一つの形だ。自殺しないという決意は、反面崩れていくような死の受容でもある。だが、それは本当は虚偽なのだろうとも思う。

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2004.04.07

年金改革は民主党案を支持するのだが…

 年金問題を扱うのは気が重くなった。これまでこのブログでも何度か扱ってきたが、それは、問題の解決の原則はシンプルだということと、互助としての国家というイメージを対話的に描いてみたい、ということがあったためだ。率直なところ、現在はそうした関心は自分の中で薄れている。それはなぜなのかということ自体も課題ではあるのだが、とにかく気は重い。
 そんな気分で、産経新聞社説「年金法案『抜本改革』の呪縛を解け」をざっと読みながら、次のくだりに心がひっかかった。


 抜本改革は行わなければならない。しかし、それには時間がかかる。一方で、当面の年金財政の悪化も放置できない。「抜本改革」の呪縛を脱し、当面の措置であることを明確にして法案の審議は進める必要がある。

 この前段にも年金問題は5年に一度見直しで今年は節目だ、とまるでオリンピックの興行のような呑気な振りがあるのに呼応していることを考えに入れれば、産経の意図は、抜本改革はやめとけ、ということなのだろう。つまり、現状の公明党案への擦り寄りがあるわけだ。産経って公明党・創価学会傾倒を始めているのだろうか。さらに、フジ産経系全体にそういう兆候はないか、ちょっと疑心暗鬼になる。
 年金についての新聞各紙の主張がおかしいと思う。のであまり社説という文脈で取り上げたいわけではないが、朝日新聞は議員年金問題なんかでお茶を濁している。読売新聞は自民党化しているので民主党バッシングをしているつもりなのだろう。が、読売はあまりのめちゃくちゃに笑いを誘う。「野党審議拒否 年金不信を助長しかねない」(参照)。

 対案を出すまで審議に応じない、という理屈も通らない。民主党は、昨年十一月の衆院選で、年金改革を政権公約(マニフェスト)の柱の一つに据えた。仮に政権を獲得していれば、今国会で自らの年金改革案を明示し、論議の方向を示さざるを得なかったはずだ。
 与党内には、民主党が審議拒否しているのは、対案をまとめ切れない党内事情を取り繕うためだ、との見方もある。

 民主党のお家の事情はお寒いかぎりだが、読売はタメの言いがかりにすぎない。民主党が政権を取っていれば、官僚による情報隠蔽がこじ開けられたからだから。その意味で、ごーちゃんこと木村剛の「年金改革に関して菅直人民主党党首に期待すること」(参照)のほうが急所を突いている。

 したがって、年金改革法案の関連で、まず第一に実現しなければならないことは、厚生労働省による試算の前提になっている諸データを国民に大々的に開示させることです。そのデータさえ開示されれば、数多いる専門家は保険数理やシミュレーションなどを駆使して分析し、現行の厚生省案をそれぞれに評価するでしょう。そこで各種の評価が互いに研鑽されてこそ、本当のソリューションに辿りつくことができます。
 そうしたデータが開示されない状況下で、民主党が対案を出そうとしても、与党は「正確な数字を示さなければ議論にならん」とか「憶測に基づく新しい制度でうまくいくわけがない」などと高飛車なコメントを繰り返すだけですから、議論は平行線を辿るだけです。

 前段はようするに年金のテクニカルな面をきちんと指摘している。ある意味、年金の問題は専門家には難しくもなんともないのだ。そして、後段の理由で民主党は対案を作り込めないわけだ。
 もっとも、木村剛がそれゆえ「その真っ当な要求に対して、おそらく与党が応えないであろうことを見越した上で、『年金脱退論』を唱えるべきなのです。」というふうに展開するのは、もちろん、ユーモアなのであろうが、いただけない。政策を根幹とする政党政治を否定して、権力をむき出した政治取引の世界に郷愁があるのかもしれないが、そういう日本は止めにしようよ。
 いずれにせよ、マスメディアやブログなどをざっと見渡しても、民主党を支持する声は少ないように感じる。なぜなのだろう。専門家の大半は民主党案しかありえないと思っているのではないか。しかし、政治的な言及は控えているのだろう。小泉の一元化発言は猫だましふうに捕らえるむきもあるが、小泉が身近の識者に説得されているからではないか。ついでなんで、私はここで明言しておくが、年金問題では断固民主党を支持する。抜本的な改革の必要性があると考える。
 話が逸れるが、年金議論の基礎データが開示されていないということで、この間、エコノミスト紺谷典子が主張する230兆円年金積立金説が気になっている。年金積立金は147兆円といわれるが、厚生年金の代行部分30兆円、共済年金の積立金50兆円がが例外となっている。これは国会でも主張されていて誰もが知っていることなのだが、彼女以外にフォローしている気配はないように見える。そんなの問題でもないということなのだろうか。「第159回国会 予算委員会公聴会」(参照)より。

二〇〇一年度の数字で申し上げますと、年金の保険料収入二十七兆円でございます。それから国庫負担分が五・六兆でございましたかね。それから給付が三十九兆だというんですね。しかし、二百三十兆前後の積立金があるわけでございますから、これが従来の年金の運用利回りの半分以下である三%で回ったとしても、六兆円を超える運用益が上がってくるわけでございます。経済が立て直ってその程度の、三%程度の利回りというのは決して過大な期待ではないと思うんですね。そういたしますと、六兆円入ってくると年金は赤字から黒字になっちゃうんですよ。現に四年前までずっと黒字で推移してきたわけでございます。

 識者には当たり前のことかもしれないが、年金問題というのは、デフレが解消してまともな経済発展の状態になれば、まるで問題にもならないことではないのか。
 そうなら、むしろ、そこを前提にして、楽な気持ちで、抜本改正へ踏み出していくという考えの道筋が取れないのだろうか。
 というのも、この政局の推移からは、恐らく、民主党は小沢新進党や自由党のように玉砕してしまうだろう。それでは、あまりに国民に希望が無さ過ぎる。

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2004.04.04

些細なことには首をすくめておけばいい

 朝日新聞社説「国旗・国歌――産経社説にお答えする」を読んで、まず率直に思ったのは、産経の社説に応答するなんて朝日も大人げないなということだった。が、先日も朝日は読売の社説と読み比べてほしいとか言っていたので、そういう傾向なんだろう。これって、つまり、ブログだよね、と思う。社説ってブログになっちまえばいいのに思って、こちとらの極東ブログを始めたという経緯もあるのだが、こっちの影響なんざあるわけもないが、世の中のメディアの言説っていうのがブログ化しているのは確かだろう。この傾向は、たぶん、新書を覆うんじゃないだろうか。電子ブックリーダーがマジで使えるようになると、この傾向はさらに一段階進むのだろうが、さて、そこはどうかなという感じがする。電子ブックリーダーを買って烏賊臭いか試してみたい気もする。
 朝日の社説の内容だが、産経同様、面白くもない。本人たちはつまらないこと言っているという自覚が多分ないのが、極めてブログ的だと思う。っていうか、極東ブログでもそうだが、面白くねーとかくだらねーというフィードバックを戴くことがあるのだが、その度、ちょっとふふっと思うのだが、このブログを従来のメディアの視点で読まれるからだろう。ブログなんて編集が無ければ読者の視線をそう反映できるものじゃないし、プロのライティングとの決定的な違いはそこにある。と同時に、プロのライティングにはブログのようなある種の自由はない。
 私が古くさい人間なので、そういう書き方のスタンスをしているのがいけないのだろうが、ブログなんていうのは、つまんなければ、即捨てだし、本質的にサブカルだろう。と、ここでサブカルというタームを出すと話が違うので、もとに戻すと、大手新聞が自分たちの言説のスタンスと時代の変動への感性を失って、じわじわと崩壊というか壊れていく様子は面白いと思う。
 話を当の国旗・国歌への態度に移す。ちょっと自分も言っておきたいなと思うことがあるからだ。ブログ的に言うということだが。で、結論から言う。国旗・国歌なんて熱くならねーことだよ、である。そんなことに入れあげるんじゃねーよである。具体的に国旗・国歌で「ご起立を」と言われたら、その時の状況の利害判断で、適当にすればいい。立ってもいいし、座っていてもいい。ただ、そのことが踏み絵のような状況になるなら、さらに状況の利害判断でことを決めちまいなと思う。ここは絶対に譲れないっていう感じがするなら、そうすればいい。でも、そういう絶対に譲れないなんていうことはほとんどない。立ちたくないなと思ったら、ちょっと小便でもしてこいやと思う。俺はそうするね。ゲロ吐くかもね。昨晩飲み過ぎましてぇとか、適当に繕う。
 国旗・国歌に敬意を持つかといわれると、率直のところ、よくわからない。それほど反感もない。以前はとっても嫌だったし、自分が成人式の時は、拒否して周りの者に忠告もされた。今は、自分の気持ちを大切にしたい。自分の気持ちを大切にしたいっていうことに、とやかく言われたくないっていう感じだ。もちろん、礼儀なんていうのは、形だから礼儀だよというのがわからないほど幼くもない。
 左翼は昔から国旗・国歌には嫌悪を示すのだが、同様になんか追悼黙祷とかは好きだ。私の感覚ではこれも嫌だ。自分が追悼したいという気持ちがないときに、「ではみなさんご一緒に」って言われてもなあである。
 「降りる自由」とかいうのがブログで話題になっているふうでもある。が、私はよくわからない。単純にわからない。こそっと卑怯にその場しのぎできればそれでいいんじゃないか、ってことじゃないのか。些末なことは些末だ。些末なことに思想と言論を無駄遣いするなよとも思うが、ま、どっちかというとこういうのは熱くなれるエンタテイメントなんだろう。じゃ、俺、その手のエンタテイメントは降りるよと思う。

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2004.03.31

筋弛緩剤事件は冤罪ではないのか

 本当は、東電OL事件のように冤罪であると主張したい。が、筋弛緩剤事件は冤罪であると主張するだけ自分のなかで考えが詰められていない。どうしても市民からは見えづらい事件なのでそれを精力的に探るジャーナリズムの援用が欲しい。
 しかし、にも関わらず、冤罪であるとの疑いは消えない、ということははっきり書いておきたい。
 理由は3点ある。


  1. 状況証拠しかない
  2. 動機がまったく理解できない
  3. 自白への不信感

 詳しく知らないで無知を晒すのだが、このような裁判で、自白が重視されるのは先進国において通常のことなのだろうか。
 今回の判決はある程度予想されていたもので、恐らく法学的には間違いない、のではないかと思う。しかし、違和感は強くある。この感覚は、松川事件とそれを文学の視点から追及した広津和郎のありかたから得たものだ。こう言うと不正確だが、松川事件裁判の検察は法学的には正しいのではないか。このような裁判を考えるとき、自分の感覚と法学のズレを補正するのにいつもこのことを想起する。
 今回の裁判について、朝日新聞社説「筋弛緩剤判決――裁判員が裁くなら」は搦め手に出た。ちょっとずるいなという感じもするが、この手は私なども思ったことなので、評価はしたい。つまり、この事件は、裁判員制度なら異なる判決がでるのではないかということだ。私が裁判員なら、無期懲役を下すことはできないと思うからだ。
 読売新聞社説「筋弛緩剤事件 これを裁判員制度で裁けるか」は朝日と逆の論を張った。

 スピード審理とはいっても、これほど時間がかかるようでは「裁判員制度」など、本当に機能するのだろうか。そんな疑念を抱かせる判決である。

 ひどいこと言うよなというか、日本人を舐め腐ったことを言うよなと思う。しかし、現実の日本社会にとって、読売の示唆はあながち外していないことになるだろうということは、ちょっと理性的に考えればわかることである。
 ただ、意図的かどうか、読売は美しい墓穴を掘っていてくれた。

 今回の判決は、筋弛緩剤の混入の事実を示す「科学鑑定」などを足掛かりに、多数の状況証拠を積み上げた「合理的推認」の結果である。「合理的推認」を重視して、裁判の核心である犯罪事実の認定を行ったのは、新制度を視野にいれた変化の表れだろう。
 この場合、事件全体の詳細な立証がないと、被告が、例えば、量刑などで不利になる可能性がある。だが、こうした問題点は、これまでの政府の司法制度改革推進本部の制度作りの過程でも、国会でも審議されていない。

 話は逆に読める。今回のケースでは、裁判員制度の場合は、より緩和な量刑となったのだろう。
 この事件と裁判については、私としてはまだ考え続けたい。被告は「そんなことってあるのでしょうかね」と言ったらしい。多くの人が人生のなかで、これほどのことでもなくても、そう呟きたくなる経験をする。私は、ことの是非以前に、被告の心情の一端がわかる気がする。そうした思い入れが判断を誤らせているのかもしれないとも思う。しかし、そうした心情を大切にしておきたい。
 参考:「識者はこう見る 筋弛緩剤事件判決」(参照

追記(同日)
 自白について、「【日弁連】 被疑者取調べ全過程の録画・録音による取調べ可視化を求める決議」(参照)が参考になる。

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2004.03.14

2004年3月世相メモ

 今朝の各支社説はまばらな印象を受けたが、どれも読み応えがあった。逆に、そういうときは、私はとくに口を挟むまでもない。が、散漫ではあるが、世相のメモとして簡単に書いておく。
 読売が今朝になって日墨FTAを扱っていた。よく書けていた。昨日の私のブログの記事は少し「陰謀」に傾きすぎたなと反省する。ただ、大筋で見解を変えるものでもない。同じく読売が全国人民代表大会(全人代)閉幕に言及していたが、全人代というのはわかりづらい。言葉と実際が乖離しているからだ。
 中国の動向という点では、朝日が香港の民主化に肩入れするような発言をしていた。え?サヨサヨの朝日がなぜ?という感じだ。台湾絡みもあるのだろうか。ちょっと違和感を残した。
 日経と産経が九州新幹線について触れていた。どちらも、無駄じゃないかとの議論だ。それはそうだなと思う。言っている理屈はどちらも正しい。が、私は理性度外視で九州新幹線だ、わー嬉しいと思う。阿呆だな俺、と思う。この阿呆にもそれなりに歴史から生まれたものでもある。
 毎日が年金施設売却の責任はどうすると問うていた。そう問うてみたいものだ、と苦笑するしかない。合わせて、現在の資産を二束三文で売却するんじゃねえと加えていた。それもそうだ。ごもっとも。と皮肉るのも。それにはかなりの人材を必要する。誰がやるのか。そごうの再建をぼんやり見ながら、私は誰がやるのか、ということが気になる。カネボウの再生についても、誰がやるのか?(もちろん、これはわかる) 組織やシステムが正しければ経営ができるというものではない。余談だが、週刊新潮に掲載されていた新生銀行の裏話は高橋の法螺なのか。これってほんとなら、ハゲタカファンドどころの話でもないのだが。
 朝日の他方の社説で、天下りを論じていた。これもな、である。言うはやすし。そういえば、道路公団民営化はどう総括されるのだろうか。猪瀬も功罪相半ばだなという感じがする。責めるもやすし、好意的に見るにも…。週刊文春掲載の裏話が、猪瀬は真面目なのだろうが、ギャグにしか読めない。私が単純に猪瀬を批判するとすれば、すでにブログでも書いたように、民主党の敵に回ったなテメーである。ま、それも稚拙ではあるのだが、上から圧力をかけないとどうしても小手先になる。と同時に、あまり上から圧力をかけると日本は壊れる。
 三菱ふそうの問題は…なんか言及するに疲労感が漂うので放言めくが、米国の訴訟社会っていうのも悪くないか。木村の剛ちゃんがCSRと企業不祥事という関係ねーテーマを結合して楽しいブログを書いていたが(「CSRを語る前に、内部管理体制を整備せよ 」)、って、こういう言い方がクサシっぽいな、すまない、ま、金子勝ばりに企業不祥事を叩いていた。確かにご説はごもっとも。しいて言うなら、CSRはシステム的な問題でもあるのだから、切り離して考えてもいいだろう。私の視点でいうなら、CSRなんかより、企業は奨学金制度を創設して、若い貧しい人材を育ててほしいと思う。どうやっていいかわかんない? 簡単だ、大学を出るだけの金をどかんと出す。卒論チェックを企業がするのだ。卒論が阿呆なら金を低金利ローンで返却してね、とする。それだけ。貧しい家庭出身のよい人材を20人育ててみぃ。20年後に日本はよくなるぜ、と思う。

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2004.03.13

ジーザズ・クライスト・ムービー・スター

 先日、極東ブログ「時代で変わるイエス・キリスト」(参照)を書いたのは、この映画とニューズウィークの評について、新約聖書学と日本人の視点を含めてコメントしておいたほうがいいだろうと思ったからだ。単純な話、ニューズウィークの評が歴史ベースにギブソンの映画を論じている割には、共観福音書もQにも言及していないヘンテコなシロモノ。困ったものだ、ということだった。ニューズウィークとしては特集並の扱いでもあり、また、翻訳にもちと疑問も残るなど、あまりたいした記事ではないなとも思った。
 が、その後、端的に映画として見た評がニューズウィークに掲載された。日本版だと「加熱する『パッション』大論争」(3.10)である。原文もネットで参照できる。オリジナルタイトルは、"Jesus Christ Movie Star"(参照)と洒落ているのに日本版では捨てられたので、私がブログ記事のタイトルとして拾うことにした。洒落の解説は、全回の私の記事を当たってほしい。
 デービット・ゲーツ(David Gates)が書いたこちらの記事はよく出来ていた。記事としては満点というところか。なので、特に口を挟むこともないのだが、いくつか自分なりのメモを書いてもみたい。
 映画「パッション」ではイエスがアラム語を話し、その部分は英語字幕になっているらしい。この点は、アラム語を若い日に研究しようかとも思ったことのある私などはうらやましいと思う。脚本が新約聖書との関係でどのようにアラム語を再構成しているかは気になるところだ。イェレミアスの研究なども参考にされているとしたら、すごいと思う。そこまでいかなくても、この映画で、イエス自身の母語がアラム語であることが英米圏に広まってよかったとは思う。CNNのニュースだったが、アラム語研究の補助金みたいな話もあったかと記憶している。
 R指定の問題は、暴力にナーバスな米社会にはやはり重要な意味をもったようだ。イエスの受難と苦しみについては、神学的にややこしい問題もあるのだが、いずれにせよ受難とは、ブルトマンをひくまでもなく、象徴として見るべきものだ。が、映画では、というか、映像化すれば、残虐シーンになる。まさに、そのことが現在的でもあるわけだ。
 同様に、この映画の存在が、「キリスト教徒である」ということの主張になっているというゲーツの指摘はなかなか鋭い(なお指摘自体はJonathan Bockのコメントから)。
 近代キリスト教徒にとって、キリスト教とは、他宗教との対比で置かれる宗教ではなかった。基本的に他宗教とはエスニックな異教に過ぎない。彼らにとって宗教的な問題とは、デノミネーションズ(denominations)や、国民(国家)宗教としてのキリスト教、あるいは昔ながらの異端との対立ということにすぎなかった。が、9.11によって、世界のキリスト教は結果的にイスラム教との対比に自己相対化を起こしたと言っていいのだろう。ただ、この点については、西洋のキリスト教というのは、近代の始まりにすでにそういうものでもあった。パスカルの「パンセ」など、日本では気の利いた箴言集のように見られているが、あれは、本来は、イスラム神学への対抗を期した組織的な思索となるはずのものだった。
 ゲーツの評のなかで、特にこれはいいなと思ったのは、ジョン・ウェスト神父(Father John West)のコメントを掲載した点だ。


 「神学者の立場で評価するなら、あの映画はあくまで『メル・ギブソン版の受難劇』だ。見るなとは言わないが、注意深く冷静な見方をしてほしい」と、デトロイト大司教の顧問を務めるジョン・ウェスト神父は語る。

 "Speaking as a theologian, well ... what Mel Gibson does is give us the Passion according to Mel Gibson," says Father John West, an adviser to the Archbishop of Detroit and a pastor in suburban Farmington. "I would never tell anybody not to see the movie. But I would caution anyone to watch it carefully and critically."


 日本語では「冷静な」としているが、原語の"critically"に重点を置いてほしい。これは、まさに、そのとおりなのだ。神学を多少なりとも勉強した人間にとっては(余談だが私はキリスト教神学を少し学んだ)、それがカトリックの神学であれ、プロテスタントのそれであれ、ギブソンの映画は「見るなとは言わないが」程度のものだ。奇妙な信仰の地点から、先の私のブログ記事などに反感を持たれても困惑してしまう。と言いつつ、視野の狭い福音派から攻撃も予想されるので、もう少しこの記事から補足しておきたい。誤訳とは言えないが、この翻訳はちとまいった感はあるのだが。

 キリスト教徒は社会グループとして自己主張を開始したのだと、ボックは言う。「キリスト教徒がポップカルチャーの重要な担い手になったのは、ここ数十年間で初めてかもしれない」
 もちろん、リベラルなプロテスタント主流派や、第2バチカン公会議の結論を受け入れるカトリック教徒の多くは、必ずしもギブソンの映画を「自分たちの」信仰の望ましい表現とはみていない。ボックも認めるように、「保守派のキリスト教徒以外の人々にとっては、(『パッション』は)ただの血なまぐさい映画」だ。

Bock, of course, is talking about a certain group of Christians - not liberal mainline Protestants and post-Vatican II Catholics, many of whom may have their doubts about whether "The Passion" is an ideal, or even a desirable, expression of their Christian faith. And, as Bock admits, "if you don't have a relationship with Jesus, I think you just look at it as a gore-fest."


 概ねそのとおりだ。端的に言えば、この映画は、現代キリスト教の信仰などはまるで関係がない。という意味で、こんな映画に信仰の意味づけなどしないでほしいと言いたいくらいなのだ。
 ところで、読み落としていたのだが、以下の和文と英文を比較して欲しい。特に説明しないが、この編集の意図はなんだ?

 だが、キリスト教徒向けの広告会社グレースヒル・メディアのジョナサン・ボックは、ギブソンが先鞭をつけた『パッション』現象はこの先「何度も繰り返される」可能性があると指摘する。
 キリスト教徒は社会グループとして自己主張を開始したのだと、ボックは言う。「キリスト教徒がポップカルチャーの重要な担い手になったのは、ここ数十年間で初めてかもしれない」

But Jonathan Bock, head of Grace Hill Media, a PR firm that markets to Christians, thinks the "Passion" phenomenon can repeat "again and again" now that Gibson's opened the door. Bock calls "The Passion" an "Ellen moment" - Ellen DeGeneres, he means - in which a group of outsiders is embraced by Hollywood. "Christian is the new gay," he says, laughing. "Maybe for the first time since Billy Graham started his Crusades, Christians are involved in something significant in pop culture."


 さて、ゲーツの記事の締めはふるっている。私のブログと同じセンスじゃないか。共感者ここにあり、といったところだ。

 「私は平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために(地上へ)来たのだ」と、イエス・キリストは言った。その点に関するかぎり、メル・ギブソンは主の言葉に忠実だった。

 Jesus said he came to bring not peace, but a sword; in this if in nothing else, Mel Gibson has proved his disciple.


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2004.03.11

「酒鬼薔薇聖斗」事件に思う

 今朝の社説は産経を除いて神戸連続児童殺傷事件を扱っていた。どれもまるで読み応えはない。それを書くことになっていたスペースを無難に埋めた程度だ。執筆者も別に書きたいという思いなどないのだろう。私もこの事件について書きたいかというと、もうなんとなく避けておきたい気もする。そして、心のなかにある種のどんよりとした感じが漂う。やはり少し書いておく。
 社説はどれも、「酒鬼薔薇聖斗」が罪の意識を忘れず甦生されることを願うという展開である。それ以上、新聞の社説に望めるものはないだろう。庶民感覚からすれば、率直に言うのだが、キモイ、じゃすまされねーだろう、といったところか。ただ、日本人大衆の知的レベルは上がっているので、「腫れ物に触らず」「私の身近にいないといいな」くらいものだろう。もっと知的レベルが下がったときに見られるある種の宗教的な大衆の包容力が彼を受け入れるということはないのだろう。もう少し言えば、今の日本の現状では、彼にRFIDでも付けておけみたいなのが社会の本音というところだろう。そこで、この本音と社説的なきれい事の乖離をわれわれはどう抱えていくのかも、気にはなる。
 私は以前、極東ブログ「世界のデジタル・バイドなど:少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ」(参照)でこの事件についてこう書いた。


少年事件とは日本社会の崩壊の跫音なのだ
 少年事件と呼ばれる少年の問題は、この10年間さまざまに議論された。私は全然その議論は的を得ていないと思う。そう思うのは、酒鬼薔薇事件が十分に問われていないと思うからだ。私は彼の書いた神曲を引用する脅迫宣言は天才の筆になると読んだ。その文学的な闇がなぜ問われないのかと思う。大人は左右陣営とも、はなから彼を子供として見ているが、君たちより優れた文学者がそこにいたのだ。文学とはそこまで狂気と暴力を内包していることを社会は忘れていると、というか、現代に悪霊が書けるほど強い文学者がいないのだ。

 今でもこの意識は変わらない。そこにネチャーエフがいるのにドストエフスキーがいないのだ。もちろん、酒鬼薔薇聖斗はネチャーエフのような「理想」が悪霊化したものではない。だが、「悪霊」に変わりはない。われわれの時代は、悪霊に渾身の力を込めて向かい合う文学、そう、本来の意味でのヒューマニティーズの力を失っている。
 もちろん、精神医学的はいろいろ言いうる。統合失調症はほぼ確かではあるだろう。そして、われわれの社会は、「医療」への信頼を介してそれに依存することは正しい。だが、精神医学と称するもののアウトプットは、ひどい言い方をすれば、三流の文学なのだ。
 と、くだを巻いたようなことを言っても、私自身の文学的な力量がなければこれ以上は進めない。
 その後の日本の歴史を見るに、ある意味、酒鬼薔薇聖斗のシミラクルは出現したようでもあり、そうでもないようでもある。「オタク」への非難のようなものも、いつの間にか消費社会のなかに融合された。
 オタクたちは変だとは思わないのだろうか、自分らが知を模倣してその感性を失っていることに。そう私などはいぶかしく思う。だが、今や知がオタクを論じるのである。それは、酒鬼薔薇聖斗の持つ文学的なインパクトを消費社会のなかに緩和し、また、論じるものの知性とやらの階級を作り出している。ああ、醜悪だぜ、と思う。
 私は酒鬼薔薇聖斗の行ったことを擁護する気はない。それを社会に還元したくもない。異常を野放しにした社会をシステム的になんとかしろと小賢しいことをいう気もない。
 私は、本当は、ちょっと言いたいことがある。だが、あえて書かない。もったいぶるわけではない。信仰の領域に入るような気がするからだ。私は私で、彼が甦生してくれと祈るというのではなく、信仰なき私が言うのも変な話だが、神のなされる業を見ていきたいと思う。私は自身の悲痛の叫びに変えて、静かに神に問いかけてもみたいと思う。

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2004.03.09

身近な警察の問題

 ちょっと身近で触れる警察のことを書く。話のきっかけはmuse-A-museさんのブログ「実録『黒いカバン 2004 ver.』(あるいは『職業としての警官』(?))」(参照)と私のコメント(参照)だ。ついでに、そこで引いた迷宮旅行社「コッペ川と行く福井警察署・取調室ツアー」(参照)も関連する。
 話は端的に言って「みなさん、警察でイヤな思いしてませんか」である。私もなんどかイヤな思いをしている。どころじゃねー経験もある。指紋とかも取られた。
 ただ、この手の話は、韓国問題と同じで、警察への怨念をぶちまいてもあまり益はない。結局のところ、警察というのは市民サービスなので、サービスをより向上させる手だてというかヒントを知恵出して考えるほうがいい。
 と言いつつ、最近、また一段と警官の質が落ちてきたなと思う。先日、犬に紐もつけないで商店街を闊歩している馬鹿がいて、しかも交番の前を過ぎるので、ぼんやりつったているお巡りに「あれ、注意しなさいよ」と言ったら、昔の表現だが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。あ、こりゃ馬鹿だと思って、ああいうのは都条例違反ですよ、市民に危険ですよと諭したら、「犬のサイズが問題であります」とぬかした。ぜんぜんだめ。
 先日といえば、歩道を二人乗りしている高校生の馬鹿ップルっていうのかがいるので、降りろ、二人乗りは違反だ、しかも、歩道というのは歩行者優先だと、怒鳴る。と、そこにお巡りがまさに回ってくるので注意しろというと、このお巡りがにへらにへら注意していたので、こっちはむかっぱらを立てて、全員を怒鳴りあげると、お巡りが退散。高校生のあんちゃんが俺にくってかかるので、ここでドンパチやるかと思ったら、スケのほうが「あんたやめなさいよ」とか仲裁に入った。上等! というわけで俺も引き下がった。ま、若いやつとどんぱちやって勝ち目はなかっただろうな。
 と、すでに私もヤキ入りまくりだが、と言っておきながら、マジで戦うときはこんな大衆的なそぶりはしない。左翼インテリオーラぎんぎんモードにする。っていう左翼が落ち目なんでこの手ももう効きづらいし、田舎出身の警官もインテリに対する恐れがなくなってきているので(いいことでもあるが)、もう有効な策ではないかもしれない。
 でも、ヤルと決めれば、俺はやる。インテリなめんじゃねーぞ、と、冷静に慇懃に。実戦的にはどうするかというと、単純。その場では争わない。その場での争いはできるだけ引く。そしてできるだけ引きつつ、ログを取る。メモでいい。ログを取りつつ、警官の裏にある組織側から、後で法的に社会的に攻撃しますからねという脅しをちょろちょろと怒らせないよにかける。
 そこで、自分の頭を冷やすというのも当然ある。
 頭を冷やしても、俺は正しいと思えば、やる。これは断固としてやる。重要なことはここで折れないことだ。そして、やる以上、終戦ラインに腹をくくること。
 とま偉そうに言ったが、これは、市民誰もが、そういう局面の常識として知っておいていいと思う。
 話が前後するが、ヤクザだの大門だの、もともと市民の業界じゃない。別業界に殴り込むには、それ相応の武具が要る。端的に言って国家装置を使うしかない。国家は、くどいようだが、市民を社会から守るための装置だ。
 それと、あまり詳しく言えないのだが、裁判にもちこんだら、弁護士の能力がものを言う、が、有能な弁護士はコストが高い。どうするか? できるだけ、実証を自分で積み上げるしかない。そこで重要なのは、実はプレゼンテーション技術だ。事実なんてものは、裁判官がわかってナンボである。弁護士にかける費用をバイト代にあてて、プレゼンテーション資料を作ったほうが裁判は勝てる、というか、民事において勝ちはない。どこまで有利に金をふんだくるかだ。もっとも、相手が警察になるとこのあたりは、難しいものがある。
 話を戻して、警官の質が落ちるのは、ひどい言い方だが、地方出身者の産業だからという面がある。自衛隊にもそれがある。反面、エリートはただの官僚だ。日本社会全体のゆがみの反映というのは多分にある。困ったなと思う。

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設計ミスっていうのは抜本的にだめぽ

 社説ネタとしては読売新聞の「H2A報告 手順の“甘さ”が失敗をもたらした」なんだろうが、これは単に社説として面白くない。私の読みが悪いのかもしれない、とも思う。が、何を書きたいのか未整理なメモのようだな。ずばり言って、「問題は設計ミスなんだろぉ」と、ちょっと叫んでしまう。
 というのも、なんか、設計ミスかよと思ったら、マジで背中に蹴り入れられたみたいにくずおれたよ、俺、っていう感じだ。ちょっと引く。


 開発時の五回の地上燃焼試験でも、ノズル浸食は起きていた。その際、徹底して調査し、設計変更を含め抜本的な改良を加えていれば防げた可能性がある。
 ところが、開発陣は、設計そのものを見直さず、内壁の削れを補うため厚さを増すなどにとどめ、「完成」とした。

 読売がなぜか口はばったくうだうだ書いているが、それって、「設計ミス」って言うのだよ。設計がミスっていたら、すべてはダメなのだよ。
 朝日新聞系のニュース「H2Aロケット失敗、ノズル設計に問題 調査部会が見解」(参照)を引く。

なぜ6号機の片側のSRBだけでトラブルが起きたかについて、調査部会は「ノズルの設計に潜在していた問題が、6号機の片側のSRBで初めて顕在化した」と指摘するにとどまった。落下したSRBが回収されていない現段階では、原因究明に限界があることも示した。また、「今回の事故原因を予見できなかったのはやむを得ない」として、当時の設計、開発関係者の立場に配慮した。

 内情を知らない人間がここでぷんぷんしてもいかんのだろうが、「当時の設計、開発関係者の立場に配慮した 」はねーだろと思う。設計ミスっていうのはなぁ…絶句。
 と書きながら、プログラマー時代の自分の怨恨が反映しているくさいのでやめにする。という流れで、プログラム設計に関していうと、現状では、設計ミスっていうのはあまりないのかも。ソフトは上から下へずーどーんと作る時代でもないのかな。
 逆にそういう柔軟な設計環境(シミュレーション環境)を含めて、設計への決意が甘くなっているのかもしれない。
 でも、と思う。設計者っていうのは、なにか一つ魂を込めるものだと信じる。その魂が生きてこの世の出現するために執念をかけると思うのだが、私も、どっちかというとプロジェクトX世代なのか。
 先の記事ではこうまとめている。

 文部科学省は「打ち上げ再開には宇宙機構の組織体制や意思決定システムの改革が必要」としており、今後宇宙機構は、ロケット、衛星全般について問題点の洗い出し作業を行う。

 産業的な設計で定石が決まっているならそれもありかと思うけど、先端を切り込むなら、設計者は「狂」にならなきゃできないと思う。

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多分、大丈夫だよ、毎日新聞経済担当さん

 毎日新聞社説「押し下げ介入 こんなむちゃは許されない」が面白かった。まったく、面白いという意味で面白い。わっはっはである。罵倒しているわけではない。単に面白いのだ。話は、財務省・日銀がさらなる円売り・ドル買い介入を行っていることへの批判だ。
 最初に私の意見を言うと、これはそれなりに批判してもいいことではあるのだろうとは思う。が、すでに収束局面であり、日本という最大ヘッジファンドにしてみれば、残務処理に近いものではないか。その意味で、財務省・日銀もグリーンスパン(つまり米国)にもストップ(もうよせ)を言い渡されているのに、非不胎化介入というリフレ策をさらに進めるというものであるまい。もっとも、昨日の日経社説が提言するように、もう一歩国内的なリフレ策はあってもいいとは思うが。
 この問題について、しいて言うと、私は日本の米国債買い込みには政治的な意味合いもあるとも思うので、もう少し続くかもしれないとも思う。また、中国絡みもあり、米国も本気でストップ信号を出すのは意外に先かもしれないとも思う。8日スノー米財務長官発言でもまだ日本を名指しで批判はしていない。このあたりの米国の意向が大統領選絡みだとちょっと鬱になりそうだが。余談だが、ケリーっていうのは健康は大丈夫なのか?
 ぷっと吹くのは次のようなくだりだ。


 為替介入はもともと、補助的、限定的な手段でしかない。ドルと他通貨の相場を固定する固定相場制が終わった後の変動相場制度下では、乱高下をならす円滑化介入が典型である。急落時や急騰時にも、相場を持ちこたえる介入があり得る。この論理から言えば、円がドルに対してじり高となった昨年来は、小口での介入はありえても、年間20兆円もの介入は荒唐無稽(こうとうむけい)としかいいようがない。

 グリーンスパン発言にほっかむりしてまだこれを言うという態度がイケテル(死語)っていう感じか。また、また次の指摘は逆だろう。

 この考え方には重大な疑義がある。政府が円安方向に相場水準を動かすということは、円の価値を下げることであり、国民にとっては財産権の侵害である。また、円売り・ドル買い介入でドル売り安心感を与えた過程では、ドル資産の目減りをもたらし、同様に財産権を侵害してきた。米国や欧州の通貨当局が介入に慎重な姿勢を堅持しているのは、為替相場を政府や中央銀行が動かすことの怖さを認識しているからだろう。

 外貨準備ががぽーんと増えて政府はわっはっはじゃないの。と言ったものの、国民サイドに立てば毎日の言い分にも理があるか。というのも、日本国民は外貨預金とかいっても、実際に自分の資産を外貨で運営するっていうことはない。このあたり、日本内の階級化が進んでいるようでもある。が、そこまで金融面で遊べる個人っていうのは日本にはいなくて、未だに外貨運用も企業ベースか。山本一郎とかは多分例外。
 とま、聞きようによっては毎日へのクサシになってしまったが、次の提言は、この一連のどたばたを追いながら私も痛感したことではある。

 介入が財務省の聖域になっていることも問題である。財務省は外為資金特会の枠内で、随意に巨額の介入資金を短期証券発行で賄い、介入で得たドルを米国債に投資している。その規模が月間7兆円にも達しているのに、国会や国民の監視の目は届かない。

 まったく、国を傾ける危険のある決断が、まるで国会や国民から独立しているというのは、いったい日本っていう国はなんなのだと思う。とはいえ、実際上、国会コントロールというのは無理だし、まして国民にこんな問題が扱えるわけもない。さらに、諸外国においても、実質は同じだろう。毎日新聞もこのあと、結局、市場に任せよというのだから、この提言はそれほどマジでもない。
 ただ、国民のなかのある種の知識層の厚みがあれば、こうした問題の動向は変わるのではないか。率直に言って、財務省・日銀の動向は、日本という国の威信の舵取りには失敗したり成功したりするが、いずれにせよ、日本というのを産業部門として見ている。これがまだまだ続く。ウォルフレンが「日本の権力の謎」を出したとき、後書きだかで、成功した社会を批判することは難しいと言っていた。しかし、その後の日本の凋落と社会システムの腐敗は彼が結果的に予言した通りだった。日本の舵取りはまたこれで成功の局面に向かうかもしれない。が、依然、ウォルフレンの指摘するように、日本というシステムはその国民を幸福にしていない。するわけもない、産業部門のための政府なのだ。抜本的に間違っているよな感が疲労感のように襲う。
 ウォルフレンは直接中産階級の政治意識の向上に期待をかけた。それはある意味、地味に成功しているようでもある。先の衆院選挙でも都市部では民主党が実は勝利していることでもわかる。だが、それは都市部と田舎の亀裂、また、世代間の亀裂をも生み出している。

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2004.03.07

教育委員会は本質的に地域教育の点では欠陥組織

 社説からは読売新聞の「教育委員会 役割と責任を明確にしよう」が気になったので、少し関連した雑談でも書こうかと思うが、その前に、ひと言だけ。日経新聞社説「巨額介入の次の一手が大切だ」が今朝になってグリーンスパン発言を取り上げていた。あれ?なんで今さらという感じがした。内容は特にない。
 読売新聞社説「教育委員会 役割と責任を明確にしよう」だが、まず冒頭が面白かった。


 新しい土地に人が集まり、町が出来ると、まず学校と教会を建てる。学校の運営には、住民の代表が当たる。アメリカの開拓史を彩る伝統である。
 教育委員会は、教育に対する住民自治の伝統を持つアメリカの制度が戦後、日本に移植されたものだ。

 これは以前PTAの歴史関連で調べて、「あ、そうなのか」と思ったことがある。ただ、アメリカ開拓史というのであれば、教会は宗教、学校は教育という別範疇ではなく、どちらも宗教範疇のようだ。むしろ、教会は、コミュニティセンターというか、まさに行政の場でもある。そういえば、テレビ版の「大草原の小さな家」は今でも再放送されているようだが、若い人たちは見ているのだろうか。歴史を学ぶ点でも面白いのだが、現代アメリカが奇妙に混入してもいて、ちょっと困った点もあるにはある。
 地方の教育委員会に関わったことのない人間は、あれは学校組織の一環だから文科省管轄かと思うのではないか。私も実際にとある交渉をするまで組織がよくわかっていなかった。今でもよくわかっていないのだが、教育委員会とその実質サポートの部分も分かれているようで、後者は市町村と一体化している。いったい、これはなんなのだろうと思う。
 原理的に考えると教育委員会のほうは、市町村から独立しているはずだと思って調べると、あれれだった。このあたりは自分の無知で恥ずかしい。私は高校の英語教師の資格を持っているので採用に関する教育委員会の決定権については知ったつもりでいたのが、逆にいけないかったようだ。で、教育委員会という組織なのだが、特に教育長だが、これって考えてみたら、公選ではない。たいてい校長の天下り先であり、しかも、なにかと市町村レベルの香ばしい政争が関係する。なんだコレである。
 ちょっと基本に戻って字引レベルの話をする。大辞林ではこうだ。

地方の教育行政を処理する機関。都道府県および市(特別区を含む)町村などに設置。大学・私立学校を除いた学校その他の教育機関の管理、学校の組織編制、教材の取り扱い、教育課程、社会教育などに関する事務を扱う。

 なんとなくそう思っているというあたりがぼよーんと書かれている。広辞苑はもう少し面白い。

地方教育行政を担当する機関。都道府県委員会と市町村(特別区・組合)委員会がある。1948年教育委員会法に基づいて成立。初めは公選制であったが、56年任命制となる。

 なるほどねである。やっぱしGHQの名残りらしく、最初は公選であったようだ。56年に任命制となるというわけで、骨抜きになっていったわけだ。というわけで、現状では、読売新聞社説がちょっと基本事項をわざと暈かしている。
 読売の主張はこうだ。

 国と自治体、教委と首長部局の役割と責任は何か。明確な区分けをする論議が中教審には求められる。

 その背景には、現状が違うというのがある。

 本来、地方分権そのものの制度だ。それなのに、地方分権時代の到来を理由として、文部科学省が中央教育審議会に、教委の在り方の見直しを諮問した。歴史の皮肉である。
 教育改革に熱心な自治体に、現行システムへの不満が少なくない。文科省→都道府県教委→市町村教委という“上位下達”の指示系統ができ上がり、独自の施策を実施できないとの不満だ。趣旨と実態の食い違いが、諮問の背景にある。

 しかし、実際には、読売の基本的な認識の間違いと言っていいだろう。確かに、市町村というレベルでは地方分権と言えばいえる。が、すでに公選を廃した段階で地方の民主主義からは迂回し、地方行政下に一元的に組み入れられている。
 話がくどくなるが、発足時には、地方分権、一般行政からの独立、民主公選制という3原則があった。しかし、1956年「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」により教育委員会の委員は地方の首長による任命制に変わった。この時点で、「本来の教育委員会」ではない。しかも、会議は非公開が原則である。歯止めは唯一、任命時の議会承認だが、いかされているとは言えないというか、制度的に非承認はせいぜい不祥事暴露時くらいではないか。
 というわけで、なにもGHQ様が正しいというわけではないが、教育委員会という制度そのものが欠陥というか、あるいは改革不可能というべきか、いずれにせよ、本来の独立した機能は原理的になさない。もっとも、読売の主張のように市町村下という限定でなら、地域の独立性がまったく出せないわけではないのが、そういうものなのだろうか。
 ついで、PTAも同じようで、率直にいえば、こちらは実際には法的な根拠性がないだけ(厳密にはゼロではないようでもあるが)、突っ込むとけっこう醜悪なのだが、この話はまた別の機会にしよう。

追記
 ブログ本文は少し原則論に傾き過ぎたかもしれない。というのは、単純に公選にせよと言いたいわけではない。公選を目指して、準公選とした自治体でも、実際には機能していないようだ。
 中野区の例については「どないなっとんねん(2)」(参照)が興味深かった。

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2004.03.06

四月から消費税内税表示(総額表示)方式になる

 今朝も新聞社説に気になる話題はない。朝日と産経が全国人民代表大会(全人代)十期第二回会議に触れているが、つまらない。静岡県警のカラ出張問題など、警察と触れることの多い地方で暮らしていた経験から言えば、ことさら騒ぐことでもない。ただ、警察の経理をもっときちんとして欲しいとは思う。というわけで、今朝の話題は、消費税の内税化についての雑談だ。
 私は消費税の問題には詳しくはない(他の領域でも同じだが)。が、この問題は、日々の生活で直面することでもあり、基本的には、普通の生活人としての意識という視点で雑記してみたい。
 ご存じのとおり、この四月から消費税の総額表示、つまり、従来の内税表示が、全ての価格表示で義務付けられることになる。今までのようなめんどくさい消費税意識はなくなる。いろいろ思うことはあるのだが、なにより、この世界の変化の切れ目の感覚を忘れないでおきたいと思う。私はコンビニ行って、レジでは請求額を目視確認し、ざらざらと財布から一円玉を出して、渡す額を口頭で言い(口頭確認)、おつりをもらって、レシートを眺める(再チェック)。そういういう2004年早春の風景が変わっていく。
 と、書いたものの、渡す金額を口頭確認したり、コンビニのレシートを眺めるという習慣を持つのは私くらいなものか。若い人は、ゴミでも捨てるようにレシートをレジの専用のゴミ箱に捨てていく。ゴミですかねと思う。最近はセブンイレブンは教育がしっかりしているのであまり見かけないが、間抜けなバイトさんが内部用のレシートを手渡してくれることがある。けっこう楽しい。スーパーで買い物をするときも、私はレシートをざらっと眺める。まれに、ミスを発見する。すてきな奥さんになりたいわけでもないし、彼女らは別にレシートをいちいち点検するだろうかは知らない。
 こうした風景が桜の後に変わる。そして、それは歴史の感覚となる。私は、そういう些細な歴史の感覚の断層がとても気になる。
 内税化について、社会ではあまり批判は起きていない。起きていても、タメ臭い。いわく、これから消費税をさらに上げるための準備だとか、100円ショップは105円ショップにするわけにもいかないのでさらにデフレが進むとか、キリのいい額にするために値上げになるなど。どうでもいいといえばどうでもいい。
 3%の税が導入されるときはあれほど日本は騒いだ。薩摩隼人山中の胆力をもって断行した。それも歴史の向こうの世界だ。たしか吉本隆明は原則としては消費税は好ましいというので、ふーんと思ったものだ。
 私事めくがあのころ、ひょんなことで会計システム開発の一端に加わったことがある。私には関係なかろうとも思うがとりあえず、税の講習を一日受けたような記憶がある。内容はたいして覚えてもいないが、課税はレシート単位と個別があって、計算が違うことがあるというのを知った。ふーんと思い、あの時代、たまに、暇そうなコンビニに入ると「ちょっと待って、これ三つ、別々に買います」とレシートを分けさせたことがある。バイトのお姉さんなどによっては不快な顔をしたが(男というのは女の不快な顔に慣れる訓練も必要だしな)、たいていは彼女自身も機械のようだった。詳細は忘れたが、1円くらい誤差がでる。「こうすると1円もうかりました」と言うのだが、ユーモアを解してはくれなかった(女がユーモアを介さないということではない)。私は外人めきたいわけではないが、この手の私のユーモア感覚はちょっと日本人離れしてしまっているかなとも思う。そんな楽しみも5%時代にはなくなった。細川の殿様がご乱心したとき7%という話があり、ふふとか期待したものだが。
 消費税は早晩10%上がる。この調子だと、20%くらいまでは軽く上がるだろう。すでに内税化されているので、国民の税への抵抗感はなくなるに違いない。そのうち、一円玉というのも廃止されるのだろう。考えてみると、私が大学生のころ、一円玉なんて使うことはなかった。デノミが真面目な議論にもなったくらいだ。歴史の感覚とは不思議なものだ。
 内税化で、個人的に気になるのはヤフオクなどだが、価格は統一されるわけだから、これもあまり意識されないということになるのだろうか。
 日本の消費税は米国を除いて欧州と比べれば低いと言われる。が、詳しく説明するほどの知識はないが、これはほぼ嘘っぱちで流通のコストが実質税のように加わっている。まさかと思う? これは一つの商品が製造され消費者に渡るまで、どれだけ、官僚天下りの団体の規制下にあるかを想像したら、そーだよねととりあえず納得してもらるだろう。その意味で、リフレ派はよいデフレなんかねーよというし、理論的にはそうなのだが、この流通改善のプレッシャーというくらいの意味はあるだろうと私は思う。というわけで、コンピューターも店頭で買うのは初心者だけになった。
 ちんたらとした雑談になった。本質的な問題は、野口悠紀夫が指摘するようにインヴォイス(INVOICE)の問題だ。仕送り状方式とも言われる。もともと消費税というのは、インヴォイスと対になった制度だが、日本ではそうなっていない。というわけで、本質的な欠陥があると野口は言うのだが、私ははっきりと意識はしていない。要点は、仕入れ時に負担した税額が売上高に課税された税額から控除できるということだろう。いずれにせよ、複数税率になれば、現在のような帳簿(アカウント:account)方式では精密な対応はできないだろう。
 と言ったものの、それにもそれなりの社会的な意味があるかもしれない。日本の社会は、多分にアンダーグラウンド・マネーで成立しているからだ。国家はなぜだか富裕国民の所得を把握しようとしない(またぞろヤの問題だろうか)。老婆が趣味でやっているような小売り(沖縄は多いぞぉ!)も保護しよとする。このあたりの、行政の間合いというか極意を知った人間が、日本というある意味変な国家を始めて手綱取りできるのだろう。と、思って、小泉の顔を浮かべると、ありゃ、男前のうちだろうが、馬鹿面だな、日本が扱えないわけか。
 最後にプラクティカルなインフォ。内税化の具体的な説明は「総額表示方式」(参照)にあるので、以上の話をへぇとか思う人は、ちょっと目を通しておくといいだろう。ついでにいうと、このWebページ誰が作ったのか知らないけど、mof.go.jpとして恥ずかしくはねーのだろうか、と八つ当たりも書いておく(というのは改善しろよねという意味だ)。

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2004.03.05

週刊!木村剛の「厚生年金はネズミ講か?」はすげー反動

 「週刊!木村剛」の「厚生年金はネズミ講か?」(参照)を読んだ。私の率直な印象をそのまま書くと、「このお兄さん、すげー反動!」である。もう一つの印象は、こんなの退官したとはいえ、国家を担う官僚やっていたのか、世も末か、いや、待てよ、この反動、実に、国家主義どおりじゃねーか、ってなものである。というわけで、ゴーちゃんファンのくさしに誤解されてもなんなのでトラックバックにはしない。
 以下、簡単に、「厚生年金はネズミ講か?」についての私のメモをまとめる。
 (1)年金財源不足の危機的な状況についての木村の認識は正しい。確かに、ディテールは明るみに出してほしい。だが、この議論は、年金官僚へのルサンチマン(怨嗟)に直結して済む話ではない。私は、政治的な立場としては、民主党側に立つせいもあるが、これは、民主党案、ないし、民主党政権に置けば、自動的に、その方針から是正される問題であり。ルサンチマンを喚起すべきではない。また、負債の問題は、タスカが指摘しているように、日本が経済的に復興すれば問題とはならない。
 (2)年金制度改革の試算はまともな数値なのか、についても木村が正しく、まともではない。ここから先が違う。だからまともにしようではないか。民主党案の所得比例方式ならまともになる。代案がありうることを忘れて、扇情者の鉄砲玉にならないように。
 (3)年金のシステムはネズミ講ではない。この木村の議論は本質的に頓珍漢だ。どこに国でも国たるものは年金制度を持っているのだと考えてもみよ。ネズミ講はトップが儲かるシステムである。年金とは、国民の互助のシステムだ。強者が弱者やお年寄りを助けるために、働けるものが損をこくのである。これは、年金システム内部でみると、民間保険のように損得に還元されるが、広義には国民の税を使って、損をこくのである。総体的に年金とは損が避けられるシステムではないのだから、損かどうかの議論は無意味。
 (4)木村の提起する厚生年金脱退権は、ジョークである。これは、木村もジョーク、つまり、架空の話として書いているのだ。このあたりは、ちょっと悪意を感じる。これも考えてもみよ、といいたい。そんなことそもそも実現するかね? しねーよ。実現しない仮定の上に、国家の施策を考えるのは、なんと形容すべきか。
 (5)木村の議論に隠蔽されている国民年金に注目せよ。彼の今回のテーマは厚生年金に絞られている。が、現行の年金制度では、この2つは分離できるものではない。野口悠紀夫が指摘しているように、実は国民年金は厚生年金から補填されている。厚生年金は企業に負担が大きい。企業はできれば、厚生年金をやめたいのだ。というあたりで、木村が誰の利益代表をしているか気付け。少なくとも、若者の国民年金不払い動向を、この議論でバックアップするという恥ずかしい誤解はしないように。
 (6)そして、木村の意図は、厚生年金をチャラにして、税方式にせよというのだ。予想通りじゃないか。というわけで、ちょっと繰り返しておきたい。極東ブログ「多分、年金問題は問題じゃない(無責任)」(参照)。


 昨日、年金問題なんてテクニカルには税方式か所得比例方式だよ、と書いた。私は所得比例方式がいいとも書いた。しかし、考えてみると、官僚が国民皆税申告制にするわけもないのだから、この方式は頓挫する。
 だとすると、曖昧な形で国家の名目を取り繕うなら税方式化、あるいは部分的に税方式化するしかない。つまり、国民が音をあげない程度に増税するということだ。もっとも、そんなことするより、日本の景気を高めれば、経済面での年金問題がかなり解決するのだが、官僚連?はそうする気はないようだ。
 つまり、若い人が、年金なんか払いたくねー、ということが、システマティックに、増税となる。税金なんて払うのはヤダとか言えるのは、わずかな人なので、普通はぐうの音も出ない。このシステムなら若者をうだうだ言わせず絞りあげることができる(内税で価格に反映してもいいしな)。
 正確に言うと、若者を絞るのではなく、その親である団塊世代を絞るのだ。どうせ彼らを優遇しているのだから、少し絞ってもOKという読みである。

 さらに。

 で、結論。ようは、年金が大問題だとかいうけど、上のような落としどころ、ってのがすでにできているのだ。
 その意味で、極東ブログお得意の「どうでもええやん」になりそうだが、それだけ言うとおふざけすぎる。もっと積極的に年金問題なんて議論するだけ無駄よーんとは言ってみたい気がするが…が、まだ、ちょっとためらうな、国民年金未払の若者より、無責任な態度としての思想を表明すってのは、アリなのかと、まだためらう。

 というわけで、ということでもないが、民主党が本気で、所得比例方式が導入できないなら、年金議論なんて無駄だ。その決戦はそう遠くない。
 その意味で、木村の雑音は、民主党の所得比例方式案潰しの鉄砲玉なのだろう。
 所得比例方式が転けたら、私は、もう年金なんて議論するだけ無駄だ、というのを、もっと積極的に言いたい。あるいは、気力も失って、黙るかな。
 「ごーちゃん」を敵に回すようなことは言いたくないのだが、まだ、ちょっと黙るには、早いような気がする。

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韓国のクレジットカード破綻と日本の内需

 今朝も新聞社説からはネタはない。余談だが、ちょっと期待して「フジサンケイ ビジネスアイ(Fuji Sankei Bussines i)」を買ってみたが、全然ダメだった。
 気になる話題といえば、日本版ニューズウィークの今週の記事「韓国 国を挙げてのカード破産 借金と浪費を奨励する奇策で破産者急増の異常事態に」がある。この関連で雑談を少し書く。
 話は、標題どおり、韓国でクレジットカード破産が増えているということ。もっとも、銀行経営側から見れば別に目新しい話ではない。例えば「韓国市中銀行主要19行の昨年純益」(参照)やLGカードについては「LGカード一時経営危機に」(参照)など。
 背景は前述のニューズウィークの記事がわかりやすい。


 通貨危機がピークを迎えた97年12月のわずか数ヶ月後、韓国政府はクレジットカードを使ったローンの貸し出し上限を撤廃。カードによる支払いの一部を所得控除の対象とし、後はカード保有者向けの宝くじも導入した。
 韓国人はこれらの奨励策に飛びついた。カード利用額は急増し、99年、00年は経済も高成長を達成。だがそれは、借金の返済期限が来る前の話だ。

 同記事によれば多重債務者が100万人。返済の三ヶ月遅滞者は400万人。現役世代の約15%がカード破産状態だと言う。
 こういう話を聞けば当然思うことはいろいろあるし、つい「韓国人は…」という国民性についても床屋談義もしたくなる。が、してもオチも見えていてつまらないので、省略する。
 国家経済的に見るなら、韓国では、通貨危機時の不良債権処理が1400億ドルだったが、今回の個人負債は約300億ドル、ということなので、たいした問題ではないと言えないこともない。だが、実際問題としてこれだけの数の個人の債務を国家がそのまま棒引きにできるわけもないだろう。経済問題を越えて社会問題として深い病根となるに違いない。
 日本もクレジットカード破産が問題になるが、「個人の自己破産、最悪 年間22万件超す/2003年」(読売新聞04.01.26)によればこうだ。

 個人の自己破産申し立てのうち、消費者金融からの借り入れやクレジットカードの使いすぎなど貸金業者の利用が主な原因だったケースは、初めて二十万件の大台を突破して二十万千八百二十八件(91・4%)に達し、申立件数を押し上げている背景に、多重債務者の広がりがうかがえる。

 数値の意味合いが違うので直接的な比較はできないが、日本とはかなり異なる状況がありそうだ。
 韓国のような状況は同じく、経済危機に陥ったタイにも見られたようだ(読売新聞2002.05.09)

 行きすぎたクレジットカード利用による“カード破産”が新たな金融危機を引き起こす可能性がある――。タイ国家経済社会開発委員会は17日、第1四半期の国内総生産(GDP)が内需拡大などによって昨年同期比3・9%増と、当初予測を上回る伸びを示したと発表したが、同時に、金融機関に対し、内需拡大をもたらす一因となったカードの利用が過剰傾向にあるとして注意を喚起した。18日付ネーションが報じた。

 ある種のパターンがあるのだろうと思う。と同時に、現在のマクロ経済学の処方というのはそういうものなのかもしれないとも思う。
 日本も「流動性の罠」とやらでか、需要が落ち込んでいるとされているようだが、手っ取り早い需要喚起はクレジットカードなのだろうか。しかし、生活者の実感はない。
 重要という文脈で新三種の神器といったデジタル小物がタメで語られることもあるが、技術の基盤としては重要かもしれないものの、そのままの製品として見れば市場規模が小さい。やはり目立った需要というなら、やはり自動車や不動産などになるのだろう。
 特に不動産について、日本でどのような需要が見込まれるうるのだろうか、と考えてよくわからない。長期的には人口縮退を起こしているので需要は減少するはずだ。個人家のリフォームも進んでいるようには見えない。地方と都市部の落差は広がる。
 つらつら書くに、日本の内需を喚起するイメージが湧かない。
 話がそれるが、日本では若い人の就職が大きな問題になっているが、それはそれとして、特に高校生のフリーター率が高いとも言われるのだが、気になるのは、現状、大学入学など、親に金銭の余裕があれば、誰でも可能だ。なのに入らないのは、実際には、学力の問題や勉強嫌いということではなく(日本の大学生は今も昔もそれほど勉強していないように見える)、単に親の金銭的な余力だろう。そう考えると、若い人に、国家がまとまった金を貸すという制度でもあればいいように思う。
 とま、書いたものの、私のこうした考えは、考えの筋が違っているようにも思う。が、その根にあるのは、極東ブログで他の記事でも書いたように、日本の政府は民間部門より産業部門向けにそもそも出来ているので対応できない、という限界性だろう。
 もともとも、日本の政府は、民間部門の需要喚起には向かない政府なのだろう。

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2004.03.03

アジア人に日本を開く

 朝日新聞社説「アジアに開く――外国人と生きる覚悟を」の問題提起は、別面企画の宣伝でもあるのだろうが、悪くなかった。日本にこれから増えるアジアからの外国人とどう接触するかは重要な課題だと思う。
 と、文章を書き出すとき、自分の頭では数段先がいつもなんとなく浮かんでいるのだが、ふと、インターヴェンション。アジア人の外人問題といえば、在日朝鮮人問題はどうか、という思いが浮かんだ。彼らは日本人にとって、外国人問題のティピカルなケースなのだろうか。あるいはモデルだろうか? 違うのではないか。あまり結論だけ書くと誤解されるが、在日朝鮮人問題というのは日本人問題ではないかと思う。日本が歴史を背負うときに必然的に出てくる問題。という意味で台湾人もそうだ。とりあえず、アジア人の外国人問題からは、捨象する。
 朝日の社説は、予想通り、つまらないきれい事に満ちている。執筆者自身にアジア人との交流はあるのだろうか、というのは、文章というのはどこかしら、その人の経験というか思いの一端がにじむところに真価があるのであって、巷の文章術の類がアホくさいのは、その経験を問わないからだ。経験が人に強いて書かせるのであって、書くために書くのが書くという行為ではない。
 例えば、実際にアジア人と日常や職場で苦戦した人間ならこんなことは言わないと思う。


 問題は、こうした現実があるにもかかわらず、増え続ける外国人にどう向きあうのかという哲学が、政治にも行政にも国民の意識にもまだ希薄なことだ。

 私の経験論が間違っているのかもしれないという留保はしたい。が、この問題は、哲学でもなければ、意識でもない。この問題は、覚悟とルールの問題だと思う。「つきあうぞ」という覚悟と、「おめーも日本の社会のルールを守れよな」という二点だ。
 この二点というのは、極限すれば、喧嘩をすることだと思う。「おめーそれはないだろ」っていうのを言葉や身振り(つまり演出)でわからせることだ。私自身喧嘩がうまい人間ではないのだが、昨今の世相を見ると、特に若い人間だが、それってて喧嘩かよ、と思うことが多い。まず暴力っていうのは喧嘩ではない。暴力っていうのは基本的にプロの領域だ。暴力っていうのは、ちゃんと訓練や修行をつんだヤの方や警察がやること。暴力で方を付けるのは素人がやるこっちゃない。が、これが、もうダメなんだよな。ヤも桜大門も全然ダメだと思う。だから暴力の規制緩和になるのか。この話はそこまでにする。で、民間の喧嘩というのは、コミュニケーションの重要な要素だ。コミュニケーションっていうのは、円滑にするとか、相手を意のままにするとか、そーゆーこっちゃ全然ないのだが、どうも本屋に並ぶ本の表紙のツラをみると、バカかコレ、みたいな本が売れているみたいだ。なさけない。コミュニケーションは、わかってくれない人間にわかってくれよ、ここまで俺はカードを切るよと、関わることだ。ま、これも説教臭いのでこの話もこのくらいにする。
 この手の喧嘩を外国人、とくにアジア人とやるのは、すげーしんどい。ほぼ全滅なのはインド人、といってもターバンを巻いている、日本人からのインド人のイメージはヒンズーじゃない(あれはシーク教徒)。ヒンズーはもっと直接的には穏和、だけど、鉄壁感は同じ。次に、中国人。これは各バリエーションはあるけど、基本的にすげーむかつく。が、韓国人と違い、こっちのむかつきがつーじねーの。で、相手も全然違うところで傷ついたりするから手に負えない。タイ人やフィリピノ、マレーなどは比較的通じるような気がするから、逆にめんどくさい(基本情報が通じてない)。と、愚痴だな、こりゃ。だが、そういうことは体験して学ぶしかない。というのは、体験すれば自分の力量がわかるからだ。タイの子供の頭をなでるのはやめましょう、お坊さんをからかうののもダメよ、みてーなノウハウっていうのは、自分の力量を換算していないからほぼ無意味。どうも、話がずっこけるのだが、よーするに朝日の言うようなきれい事の世界ではない。
 朝日の話で一点、これは汚ねーなと思ったことを一点だけ指摘する。

 例えばアジアの国々との自由貿易協定は、物と金だけではなく人の移動ももっと自由にしようとするもので、フィリピンやタイは日本に対して介護士や医師、マッサージ師などの受け入れを求めている。

 誰かが手を入れたのかもしれないが、こういう曖昧韜晦文は困る。この文脈でフィリピノは看護婦だよ。思わずそこら辺のブログのように、看護婦のところをfontタグで囲みたくなる。ま、そうはしない。それに正しくは看護師(看護士ではないらしい)だ。朝日も社会派っていうのなら、この問題を日本人の社会イメージのなかに絵になるように書けよと思う。
 最後に毎度の自分の回顧話。20代のころのあるバイトの相棒がフィリピノだった。まぁ、仲良かったかな。仕事が終わって、自分の自転車のケツに乗せて居酒屋に行く。カーペンターズとか英語で声出して歌っていくのだ(他に何を歌えってか)。青春だよなと泣けてくる。居酒屋に着いて、適当につまみでも思うと、彼が、大丈夫、今日は私の奢り、ってことを言う、と同時に、テーブルにばっと、かっぱえびせんを広げた。アリ、かよ? BYO!! 思わず、YMCAのノリで踊りそう。そのまま、当方も中国系フィリピノしてもよかったんだけど、ま、飲み屋の人に了解してもらうよう話をしました。名前も忘れたが、彼、今頃偉くなっているのだろうか。

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2004.02.29

育児休業法もだがサービス産業主体の行政が必要

 日経新聞社説「実効ある育児休業法を」が興味深かった。ある意味難しいのだが、よく書けていたと思う。テーマは標題どおり育児休業法の改正案についてだ。例題の取り上げたかたがうまい。


 現行法は子供が1歳に達するまでしか育児休業を認めていない。だが保育所の多くは年度替わりの4月入所となっており、早生まれの子供などは親の休業期間が終わった後の翌春まで入所を見送られがちだ。改正案が、こうした特別な事情がある場合に限り最長1歳半までの休業延長を認めたのは、妥当といえる。

 保育所の現状を知る人間は社会的には少ないのかもしれないが、日経が指摘するこの保育所問題は、経営努力を進める企業の視点から見ると、けっこう呆れた印象を与えるものだ。現在、文科省管轄の幼稚園は少子化の影響と、それの派生であるシックスポケット(一人の子供のパトロンが六人もいる状態)効果から、保育所とは異なる奇妙な洗練に向かっている。がそれでも、幼稚園には変化はある。厚労省管轄の保育所については、ただひどいな、という印象を持つだけだ。
 日経は現行の保育所のシステムを前提としたうえで、育児休業法側の問題で見ているが、社会と育児の関係でいえば、まず、保育所のシステムを改革し、それに補う形での育児休業法が必要になるだろう。もちろん、正論を言うは易く、実際は難しいというのもわからないではない。
 今回の育児休業法の改定で重要なのは、パート労働者の問題だろう。日経はこう切り出している。

 画期的なのは、期間を限って働くパートタイマーや契約社員への適用拡大だが、これについては疑問も残る。過去1年以上雇用されていて、子供が1歳になっても雇用継続が見込まれること、ただし2歳時点で雇用関係の終了が明らかな場合は除外という厳しい条件がつくからだ。

 当然ながら、この条件自体、生活人の実感すると、ほぼナンセンスだ。日経もこの先の文脈で指摘しているが、事業主は雇用の期間を短縮するだけだろう。ではどうしたらいいかというと、私もまるで解決策が見つからない。この問題の背景は、またしても年金問題、つまり第三号被保険者の問題である。企業側で第三号被保険者の対応ができなくなり、増える女性のパート労働者に国としても対応したいということだ。
 日経の批判というわけではないが、次の結語には違和感が残る。

 すでに女性雇用者に占める非正社員の割合は過半数に達し、有期契約者も500万人程度と目される。企業にとって代替要員確保などの人件費増は頭痛の種だが、公正な処遇が労働意欲の向上や良質の人材確保につながれば、長期的には企業にも有益なはずだ。現在、女性の育児休業取得率(64.0%)に比べて男性のそれ(0.33%)は極端に低く、政府の目標値10%にも遠く及ばない。法案は触れていないが、男性の取得促進策も今後の課題だろう。

 違和感というのは、男女という言葉からはあたかも対等のようだし、また頭数という点でもそれほど男女差の問題は大きくはないのだろうが、女性雇用者の多くがパート労働者であることから考えても、日本の産業全体に占める彼女ら貢献の比率は、おそらくかなり低い。日経のこの結語では、そうした点で、女性の労働力をある意味捨象している印象を受ける。そこを見逃して、理想のようなものを述べてみても、違うのではないか。
 日本の産業は今後さらにサービス産業に向かわざるを得ない。だから、女性の活躍の場は広がるようにしなくてはならない。また、基本的にそうした女性の雇用の場は、形態としてはパート労働者に近いものであっても、現状のスーパーのレジといったパート労働者のイメージを変えていかなくてはならないだろう。
 端的に言えば、女性が常勤でなくても十分にサービス産業から所得が得られるような社会に変革していけば、常勤でないメリットが育児を含めた個人の生活に活かせるようになる。もっとも、育児を女性に任せろという暴論ではないが、育児される子供の側は「母親」をどうしても必要とする機会は多いというのが育児なのだ。男性の休業が取りやすいというのも解決の一端だろうが、よく見かける育児パパといった面白い話題ではシステム的な対応にはならない。
 とすれば、問題の基底には、いわゆる男社会とされている産業の構造を、製造業(輸出産業)主体からサービス産業主体に変えていく必要性があるはずだ。が、それを志向せできないことこそ、日本の行政のシステム欠陥なのだ。

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2004.02.28

麻原裁判に思う

 昨日麻原裁判が終わった。予想通りの死刑だった。今朝の新聞各紙は当然これを扱うのだが、社説一本でこれに充てたのは大手では朝日新聞と読売新聞だけであり、他紙は短く扱うにとどめた。判決が予想どおりなので、社説の下書きはすでにできていたと見ていい。が、長短あるにせよ、どれも読むべきほどの内容はなかったと私は思った。しいて言えば、朝日があの時代を総括しなにかを学ぼうという視点を出したのは評価してよいと思う。また、新聞ではないが、日本版ニューズウィークのリチャード・ガードナー上智大学教授「オウム判決で裁かれる日本社会の『罪』」の寄稿も、河野義行と森達也に視点を当てていたが、率直なところ、そういう気取りがいかにも外人臭くてたまらないと思った。
 オウム事件に知はどのように取り組むべきなのか。この問題について言えば、判決が出たといってなにかが変わるわけではない。私に残されたこの問題の意味については、極東ブログ「麻原裁判結審と吉本隆明の最後の思想」(参照)に書いた以上はない。吉本隆明が自分に残す遺産のようなものだ。
 どの社説も触れていなかったが、この裁判で私がどうしても気になることがあった。すでに外堀から埋めていった(弟子たちをぞろぞろと死刑にした)ことで、麻原を世論的には追いつめていったのだが、法学的にこの麻原裁判は正しいのだろうか?ということだ。
 吉本はこの件について、たしか、死刑になんかできるわけないよと言っていたと思う。私もこの裁判(検察)は、法学的に間違っているのではないかと思っていた。やや、やけっぱちな言い方をすると、法学関係者はこの問題にはあえて沈黙するのではないだろうか。嫌なやつらだよな、法学関係っていう感じもする。
 しかし、この問題をとりあえず即刻日垣隆は解いてみせた。これは早晩、なにかのメディアに掲載されるのではないか。いずれにせよ、日垣はたいしたものだと思う。私の理解が違うかもしれないが、彼の説明は興味深かった。少し触れたい。
 と、その前に、私の視点を明確にしておきたい。私は、この裁判の問題は、かつての下山事件などと同様に、キーになるのは証言の信憑性だと考えている。オウム事件でも弟子の証言がポイントになるということだ。
 日垣の説明に簡単に立ち入る。彼の説明によれば、弟子の証言が問題ではないということが、すでに裁判の前提に織り込まれていた。日垣は、この裁判は「共謀共同正犯を認定」する裁判だとまとめている。「刑法60条 二人以上共同して犯罪を実行した者は、すべて正犯とする」だ。これに、大審院1936年5月28日判決や最高裁1948年11月30日判決が加わる。このあたりの説明自体は、日垣と限らず、法学者のイロハなのだろう。
 裁判上の争点自体は、麻原は共犯かということだ。ここで、当然だよ、とか楽しいツッコミはできない。というのも起訴は「首謀者」としてであって、共犯者ではない。
 日垣は「共謀共同正犯」という考えが極めて日本的であると考察している。それはそれでとても興味深い。彼は、日本は、忖度(そんたく)社会だから、ヤクザなので親分の思いを慮って犯行に及ぶ、と説明する。
 確かに、目上の人の意思を推量することで子分の意義が決まるから日垣の視点は重要でもあるし、率直に言えば、世間常識でもある。会社で出世したけりゃ、上司を忖度すればいい。それができないのは、上司が怖くないとか、上司は馬鹿だなと思っているからだ。
 日垣はこれに次いで、真相解明がだから放棄されたのだとしている。それも正しいだろう。
 さてと、しかし、そう言われても私の疑問は取り残される。多分、少なからぬ人にとってそうなのではないか。
 生活者の実感として、この事件は過剰な忖度によるというのは納得できる。誰か言及しているか知らないが、その意味で、オウム事件は2.26事件とまるっきり同じなのだ。冗談を言うようだが、この事件を止めることができる可能性を持っていたのは小天皇たる麻原自身だ。それをしなかったことを麻原自身がどう捕らえていたかが、オウム事件を理解する上で重要になる。
 まずかなりはっきり言えることだが、麻原は、弟子の暴走を是認していた。しかし、私は、彼は、裁判でいう忖度を是認していたのではなく、麻原は麻原の現実をただ見ていただけなのではないかと思う。彼は、常人には理解しがたいのだが、現実とは彼の意思だと思っていたのだろう。
 彼は、こう考えていたのではないか、「国政選挙に敗れた。どうも我々オウム真理教はサリンで虐殺されることになるだろう。そうだ、サリンのような虐殺は我々だけではなく世界に及ぶ。その死滅した世界こそ肯定すべきものだ」と。そして、弟子達は、その麻原の現実世界=幻想世界、を、実際の現実世界に移し替えることを宗教的な課題にしたのだろう。
 まず、誤解して欲しくないのだが、麻原に罪がないと私は考えているわけではない。
 だが、そう考えると、法的に麻原を首謀者とするのは無理があると思うし、なにより、証言の信憑性は解明を必要としているのではないか。
 繰り返す、私の上のような「読み」なら、「指示」は要らない。そして、実際、指示は証言ということでは、無かったのでないか。
 私たちは、社会や自然に向き合って、意思を持つ。意思とは、この社会と自然を意思に接近させるためのもであり、であるから、前提として、自然・社会は意思と本質的に対立している。そして、通常我々の思惟というものは、この対立を克服する道具となる。
 だが、宗教に顕著なのだが、人間はそうではない思考回路を取りうる。つまり、「私の意思が自然だ」という宗教的な意識だ。これは、どうやら、ある意識の状態で人間のなかに発生するようだ。それが人間の歴史・社会において、個人と自然・社会が向き合う二項のモデルを越えさせる契機となっているように見える。
 自然と同一化した意識にとってまず顕著なのは、人を殺せるようになることだ。なぜか。自然は、育むと同時に殺すからだ。汎神論の神学考察で、どうしても口ごもりになるのはこの点だ。自然が神であるなら、なぜ、彼は、育み殺すのか。しかし、汎神論的な枠組みでは、その殺戮は前提的に肯定されている。そして、この関連から見れば、オウム真理教は奇矯な宗教ではない。
 少し奇妙な理屈になってきたし。この問題は、たぶん、ブログの読者のわずかにしか関心がないだろうからこの程度で切り上げる。率直なところ、私は無意味に自分が誤解されてもやだなという思いもある。
 麻原裁判の問題に戻す。真相は解明されなかった。日本社会は、真相を欲してはいなかったとすら言える。ここで急に話の位相を変える。「と」がかかって聞こえるかもしれない。が、私はオウム事件の真相の大きな一部は村井秀夫暗殺にあるのだろうと考えている。もう少し言う。村井秀夫のトンマな妄想は残酷だがお笑いを誘う。この間抜けな人間に組織化した殺戮のプロジェクトがこなせるとは私は思わない。およそ、ビジネスでプロジェクトを動かした人間ならその背後に、それなりの玉(タマ)が必要なことを知っているものだ。

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2004.02.27

多分、年金問題は問題じゃない(無責任)

 年金の雑談をさらに続ける。また、たるい話かよ、である。すまんな。問題は、年金という看板じゃなくて、その裏にある、若い人たちの国家イメージなんだろなと、昨日なんとなく痛感したという、団塊下のオヤジのボヤキのようなものを書く。
 今朝の新聞社社説としては毎日が「年金改革 先送りすれば信頼を失う」として扱っていた、が内容はない。先送りにしてはいけないというなら、どうしろという話も書くべきだが、そこがスコーンと抜けていた。午後のお茶にもならん。
 昨日の極東ブログ「多分、年金からは逃げられない(無根拠)」(参照)で、正直にいうと、わざとたるい話を書いた。問題の背景には、若い世代と対話しなくてはな、で、俺はどういうスタンスなんだ?という配慮の感覚は、もちろん、ある。46歳だしな。オヤジだしな。
 だが、同時に、そういう自分の側を折るようなスタンスが、この問題にとって重要なのではないかとも思えた。で、なにが重要なのか? という点で、年金より、ああ、国家というもののイメージなんだろうなと思えてきたのだ。
 話の順がよくないのだが、若い世代にしてみると私のような46歳と、それよっか10年くらい上の団塊・全共闘世代と何が違うんだよ、と思うだろう。あれ?宮台なんかも45歳くらいか。ま、彼なんか意図的には、逃げか若作りしたエリート・インテリか、ま、げなげなスタンスも取っているよーだが、いずれにせよ自身の世代的責任(つまり歴史を負う)という意味では、私なんかとはかなり違うのかもしれん。
 で、何が言いたいかというと、私は私で、団塊・全共闘世代が大嫌いなのだ。これは感性的にも徹底してしまっているので、ビートルズとか聞くと吐き気がする。Love&Peaceみたいなメッセージを見ると、STD感染で氏ね、とか思う。が、なにより嫌なのは、国家への従属的な立場と大衆への見捨てかただ。あの時代、ゲバ学生っていうのはエリートだった。で、大半はさっさと国家に組み込まれていった。企業は国家じゃない? 同じだね。しかもエリートらしく同世代の高卒の大衆を見捨てていった。団塊・全共闘世代といわれてもわからんなぁ、芋焼酎くれぇ!みたいなおっさんたちは、そういう世界に慣れていった。私は、こういう社会が反吐が出るなと思った。
 さらに言う。彼らは、国家とは暴力装置だとか、よくぬかすのだ。今なら馬鹿、で終わりだが、彼らのいいところは酒の力で本気になれるところだ。「暴力なんだよぉ」とかといって実際に暴力をふるってくださるところ、すてき。いや、ホントに。しかし、国家の本質は暴力ではない。
 国家は民族幻想(この幻想性はいわゆる幻想じゃない。非常に強固なものだ)による互助組織だし、市民を社会から守る装置だ。この市民を社会から守る装置というのが、どうにも理解されないような気がする。日本は、小社会を積み上げできるた大社会としての国家、というのではない、のだ。日本の社会はかなり陰湿なものだし、いまだにそうだ。フランスのような国家の原理の一つであるフラタニティ(fraternity)が無い。無いからこそ、日本近代は国家愛と国家宗教が必要になったのだろう。いずれにせよ、社会は市民をあっさりと圧殺する、これを、イカンぞ、殺してはいけないと命じるのが国家なのだ。が、日本はそういう国家ではない。社会向けに統制された国家の暴力であるはずの警察は機能しない。オウム真理教事件で批判されるべきは警察なのだが、そうもならない。日本には、市民を守る国家には未来永劫ならないのかもしれない。
 だが、名目上はそれでも国家は市民を守る。近代国家とはそういうものだから。と、このあたりで話を年金に戻そう。
 金銭のない日本人の老人がいたら、日本国家はこの老人を守らなくてならない。若者=社会が、俺は知らねーよ、と言っても、国家はこの社会(を排除して若者を蹴散らして)権力を介して、老人を守らなくてはならない。それが年金という形であらわれた国家の意思だ。
 つまり、私は、年金っていうのは、経済範疇の問題じゃねーよと言いたいのだ。そんなの回りくどく言うなよだが、私は若い世代を説得したいわけでもない。説得なり啓蒙なりは無理ではないか。そりゃ無理だな、と現状を認識するのが思想というもの立場ではないか。
 昨日、年金問題なんてテクニカルには税方式か所得比例方式だよ、と書いた。私は所得比例方式がいいとも書いた。しかし、考えてみると、官僚が国民皆税申告制にするわけもないのだから、この方式は頓挫する。
 だとすると、曖昧な形で国家の名目を取り繕うなら税方式化、あるいは部分的に税方式化するしかない。つまり、国民が音をあげない程度に増税するということだ。もっとも、そんなことするより、日本の景気を高めれば、経済面での年金問題がかなり解決するのだが、官僚連?はそうする気はないようだ。
 つまり、若い人が、年金なんか払いたくねー、ということが、システマティックに、増税となる。税金なんて払うのはヤダとか言えるのは、わずかな人なので、普通はぐうの音も出ない。このシステムなら若者をうだうだ言わせず絞りあげることができる(内税で価格に反映してもいいしな)。
 正確に言うと、若者を絞るのではなく、その親である団塊世代を絞るのだ。どうせ彼らを優遇しているのだから、少し絞ってもOKという読みである。
 こうしてみると、「若者ってのは馬鹿なものよのう」である。自分がかつて同じような馬鹿であったことを私は忘れてしまったので、そう言う(洒落だよ洒落)。
 で、結論。ようは、年金が大問題だとかいうけど、上のような落としどころ、ってのがすでにできているのだ。
 その意味で、極東ブログお得意の「どうでもええやん」になりそうだが、それだけ言うとおふざけすぎる。もっと積極的に年金問題なんて議論するだけ無駄よーんとは言ってみたい気がするが…が、まだ、ちょっとためらうな、国民年金未払の若者より、無責任な態度としての思想を表明すってのは、アリなのかと、まだためらう。

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観光立国日本をグローバル化しないとね

 麻原裁判を控え、今日のような隙間の日の社説が意外によい視点を提供することがあるようだ。各紙それなりに面白い話題だった。なかでも気になったのは毎日新聞社説「観光立国1年 外国人客を阻む閉鎖体質」だった。日本が昨年観光立国の看板を再び掲げたものの効果が上がっていない、という話がまずテーマとされている。毎日は問題点の半分はビザだという。


 なぜ日本に海外からの観光客が少ないのか。特に中国など近場の国から来ないのか。その答えの半分は分かっている。彼らが日本に入国するためのビザ(査証)を取るのが至難の業だからだ。
 ビザさえ取れれば日本への観光の5割は終わったようなものだと言っても過言ではあるまい。

 そう言われてみると、ビザが問題というのは、自分の過去の知人の話などを思い返しても、それほど頓珍漢な答えでもないような気がする。
 具体的にビザが問題になるのとして毎日が列挙しているのは、意外に少数の国であるのも面白い。

 中国ほどではないが観光希望者が多いにもかかわらずビザなどの障壁を設けているのは韓国、台湾、香港などからの入国だ。このうち香港はようやく4月からノービザになるが、これだけの措置で日本への観光客がざっと3割増と予測されているほど効果は大きい。

 この数年私も引きこもりぎみなので知らなかったのだが、韓国・台湾がまだビザだったのか。と書いてみて、どちらも、単に緩和という問題でもないなとも思い出した。韓国のほうについては事情に詳しくない私などがコメントしても失当するが、台湾のほうがけっこう政治絡みがあることはある程度知っている。
 私は以前沖縄に長く暮らしていたので、沖縄を訪れる台湾人客もよく見かけた。沖縄自体、あまり知られていないが台湾人ソサエティがある。余談にそれるが、秘密にしているわけでもないが、あのソサエティはあまりおもてには出ない。だが、面白い生息をしている。私が高級な中国茶を茶商から買うときに知ったのだが、高級茶には店頭にない別ルートがあるようだ。ほぉと驚いたものだ。ヤクの売買ルートとは違うが、高級中国茶など店頭に置いても売れないので、理解できるソサエティにだけ流通している。しかもそれが、どうやら華人ネットワークとつながっているようなのだ。私の見当違いかもしれないのだが。ついでに言えば、沖縄への中国密航者は台湾観光客を装っておおっぴらに国際通りなどを闊歩していることがある。通報するかしないかは、華人ソサイティに依存しているのではないか。
 沖縄も一応日本なので台湾客はビザが必要になる。が、客船だと不要になるらしく、沖縄でそうした客も見かけたものだ。また、私自身台湾に行って現地の人に話をきくと、彼らは本島より石垣とかにするっと行きたいらしい。が、そのルートは政治的に閉ざされている。の、わりに物流には変な抜け道がある。これには2.28事件などの歴史も関係しているようだ。
 話がそれたが、毎日がビザが問題と強調しているわりには、その視点はようするに韓国と台湾ということだとすると、話の筋が違うようにも思う。
 一般的なビザの問題でいうと、発行手順を簡略化すればいいのでないかと思う。これは私の経験なのだが、カイロ空港で乗り継ぎを失して困ったときのことだが、空港の人に相談したら、ビザを取れという。ビザが簡単に取れた。観光やホテルの手配も簡単にできた。ほぉと思った。もっともこの方法はエジプト人の気質を知っている人にしかお勧めはできない。いずれにせよ、ビザなんてものはすぐに発行してもいいのだ。とすると、日本でも相手国からその人の認証情報のようなものをもう少ししっかりして、ビザをその場で出すようにすればいいのではないか。
 話を一般的な観光に戻す。最近では少なくなったが、よく外人に日本滞在について相談をもちこまれた。が困るのだ。困るのは日本のステイの料金が国際的にお話にならない高さだからだ。ビジネスなら会社持ちでいいのだろうが、個人で若者がやってくるときなら、せいぜい一泊30ドルがグローバルな相場だろうと思う。それが日本にはない。バリに言ったときチャンディダサに数日ステイしたのが、コテージが一泊20ドルくらい。ああいうものが沖縄にあるといいと、機会あるごとに関係者に話したのだが、通じない。まぁ、そんなビンボ人の外人を日本に寄せてどうかと思うかもしれないが、各国の若い人間に日本を見てもらうことはいいことだと思う。これも自分の体験だが、アテネの路上で飯くっているラテン系の若者がいたのでどっから来たと聞いたら、チリと言っていた。少し話をした。ああいう気安さが東京にあればなと思った。
 経験からもう少し提言。実際にはビンボ外人たちは東京のステイのノウハウをよく知っている。ネットワークもある。私自身は現在そのネットワークにもうつながってないのだが、ああいうネットワークにNPOがうまく結合できればいいのではないかと思う。沖縄にいたとき、ドイツの少女だったが、日本に来たいという話があり、現地のNPO的な団体に打診したら、ホームステイが可能になった。そういう国の開き方は、もっとできないものかと思う。日本人もよい経験になるのだし。

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2004.02.26

多分、年金からは逃げられない(無根拠)

 さらに年金。さらにたるい雑談。らしたさんから疑問を投げかけられ、それがなにか自分の心のぼんやりとした部分につきあたる。疑問はこうだ。


すごい単純な疑問なんですが、日本の年金制度がいろいろな側面から見て破綻しているというのは明らかだとおもうのですが、なぜ政府はその「制度」を維持しようと必死なのでしょうか?

 なるほどなと思う。そりゃそうだと思う。以下、すまん、たるい話になる。
 なるほど、年金制度が破綻しているというのはそのとおり、としていい。が、名目は破綻できない。国家というのはとりあえずそういうものだ。互助組織でもある。すると、このままだと弥縫策に次ぐ弥縫策ということになり、結局年金受給は今の40代だと70歳くらいになる。私は70歳まで生きられないだろうなとも思うので、そう思うと年金なんてものは空しい。今の30代、20代にしてみれば、70歳と言われても、関係ねーよ、だろう。
 統計的かつ科学的に見るなら、ちょっと変な絵を描くことはできる。男性の平均寿命は80歳、女性は85歳くらい。すると、その破綻したような年金の受給から死ぬまで男で10年、女で15年、ある。その間、この老人をどうやって喰わせるか。想像しようにもまるでピンとこない。自分の80歳という像が見えない。想像力不足なのだと思う。
 現在日本では少子化と晩婚化・未婚化がものすごい勢いで進んでいるので、例えば、現在30歳の人間が50年後どういう80歳になるのか。まるで想像がつかない。モデルもない(そういえば、モデル世帯について極東ブログで考察しようとして宿題のままだったが、この宿題もまた延期)。半数は生涯独身ではないだろうか。身寄りのない爺婆が日本に溢れるようになるが、日本はかなり縮退している。現状から推測するとその年代で、身体的に自立している日本人は少ない。膨大な介護が必要になる。
 それ以前に60歳から70歳の支給まで、働くことができるか。現状の日本から類推するにその大半の人間に仕事はない。年金もなし。とはいえ文明は進歩しているから、実際には喰うに困らず、医療も現在の途上国よりはいいに違いない。そうばたばた死ぬわけでもない。
 私はおふざけを書いているのか? そんなつもりは毛頭ない。どうしたらいいのか?というとそれは基本的には連帯の再構築しかない。まずは、家族の可能な形での再構築であり、友情だろう。しかし、その話は今は触れない。
 話を戻して、なぜ国は年金を維持しようとしているのか。私はこの疑問に自動的に「それが国というものだから」と答えるのだが、なぜそう答えるのか、自分に再度問うてもよくわからない。そして気が付くのだが、いつからか、私は、日本という国から逃げなくなっているようだ。あれ?なぜだ?と自分に問いかけてしまった。
 私事めくが、私は20代に比較的外人の多い環境に置かれた機会も多かったせいもあり、米国人になるとも思わないが、いつか日本人をやめてもいいなと思っていた。そういえば、周りに国籍選択で悩む者も少なからずいた。いつから、日本を逃げちゃえ、と思わなくなったのだろう?
 いや、最近でも、晩年はオーストラリアに移民しようかなとか考えることがある。どうも自分が矛盾していることに気が付く。話も混乱してきた。
 むしろ、若い世代、特に国民年金未払いの人に聞いてみたい。「年金から逃げられると思ってる?」である。そう思っているのではないか。
 私自身、若い時、年金は面倒臭いし、家にもいつかないので、親に代わりさせていたような時期がある。が、逃げられると思っていたかというと、よくわからない。そう思うと、今の若い世代も、私の若いときと同じようなものだろう。私は国民年金不払いの若者を批判できる立場にまるでないと思う。
 だが、国民年金は建前上は、国民年金法、督促及び滞納処分についての第96条を読むかぎり、義務としか理解できない。
 つまらない結論でもあるのだが、若い世代で国民年金未払いというのは、「こんな制度すでに破綻しているじゃん、俺(私)の未払いなんていつか逃げられる」と考えているということだろう。
 恥ずかしい話だが、その問題に、どうも私はうまく答えられない。らしたさんの疑問にもまるで答えになっていない。が、それでも、制度がいくら破綻して見えても国家があるかぎり名目的には年金は破綻しないし、逃げることはできないはずだ、と思う(全然説得力ないが)。
 たぶん、「年金なんか払わなくていいXデー」とか、「結婚するXデー」とか、そういう「未来」を、若い世代は30代にまで持ち込んできている。それが、40代にまで持ち込めるものだろうか。あと5年もすれば、なにか世相が変わるだろう。ちなみに同質のXデーはまず皇室に象徴的に現れるだろうから、象徴的に社会問題になるに違いない。たぶん、世継ぎのオノコは生まれない。サーヤは現代版斎宮かな。非難しているわけではない。茶化しているわけでもない。日本が変わるのだ。
 私はそういう若い人を含んだ日本の世相の変化を見物していようと思う。単純に興味がある。どうも、倫理的・道徳的にはなにも言えそうにないのだから。「いつまで子供でいられるかやりたきゃ、やっていてごらん」という感じもする(ちなみに私はそういう意味の子供をやめてしまった)。
 余談だが、「作家」の日垣隆はたしか国民年金不払いを宣言していたと記憶しているが、逃げおおせるのだろうか。年金ではないが税関連で西原理恵子も笑いを取っている。経理が終われば脱税ではない。でもなぁ笑っていい問題かなとも思う。

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国内製薬会社再編成がようやく始まる

 今朝の新聞各紙社説はどれもヤフーBBの個人情報漏問題を扱っていたが、面白い視点はなかった。この話の関連は昨日「個人情報漏洩雑談」(参照)で書いたので繰り返さない。少し極東ブログの視点を強調すれば、固定IP化とCookieのトレーサビリティ、さらにアクセスログ集積がより実質的にかつ深刻な個人情報漏洩になりつつある。だが、社説執筆者たちにこの問題は理解させることはむずかしい。
 今朝の話題としては、日経新聞社説「大型医薬再編を加速させよ」が面白かった。結論としての、標題どおりのメッセージは違うのではないかと思うが(そうしても外資に太刀打ちできないから)、社説としてはよく書けていた。冒頭をひく。


 国内製薬会社3位の山之内製薬と同5位の藤沢薬品工業が来年4月に合併する。両社はすでに大衆薬事業の統合を昨年10月に発表していたが、国際競争の激化の中で本体の完全な合併に踏み切った。合併して誕生する新会社は連結売上高で9000億円に迫り国内業界トップの武田薬品工業に次ぐ2位になる。
 しかし、これでも世界の業界地図を見るとベストテンにも入らず、トップの米ファイザーと比べると7分の1の規模でしかない。しかも世界の医薬業界は、新薬の研究開発費が巨額になるのに対応して、このところ90年代前半に続く第2のM&A期に突入した。昨年ファイザーが米ファルマシアを買収してさらに巨大化し、今年に入っても世界13位の仏サノフィ・サンテラボが4位の独仏系アベンティスに6兆円を超える金額での買収攻勢をかけている。この買収の帰すうはともかく、再編の連鎖反応が世界的に進みそうだ。

 嘘はないのだが、背景を知らないとM&Aの嵐は一昨年前に起こったかのような印象を受ける。が、この動向は1999年あたりから進行している。むしろ、この間、国内製薬メーカーの安閑としているように見えるのが不思議なくらいだった。国内でのM&Aの動向は、ある意味、日本が経済停滞を脱出した兆候なのだろう。
 社説でも強調されているが、国内トップの武田ですら世界ランキングは低い。余談だが、武田は90年代アスコルビン酸市場の寡占化などでしょーもない利益を上げていたのはむしろ苦々しい感じする。
 M&A激化の理由は日経がいうように、開発費の問題でもあるのだが、市場のグローバル化も背景にある。なにより、国内市場は八兆円なので、とても「おいしい」。外資が目をつけないわけはない。また余談だが、ファーマシューティカルズの概念がなく粗雑にサプリメントと呼ばれている日本市場もおそらく将来的には一兆円から二兆円規模はあるだろう。粗雑に概算するのはこの市場が特定されないからだ。この問題も大きく、国内に専門家が存在しない。外資はすでに厚労省に攻撃をかけている。
 日経社説を全部引用するわけにもいかないのだが、この社説では明確にはTOB(株式公開買付け)について触れていなかった。片手落ちという言葉は禁忌のようだが、なぜお茶を濁しているのだろうか。製薬会社のTOBといえば、エスエス製薬が思い浮かぶ。ヤフーのファナンスをひくと、「【特色】大衆薬2位。ドリンク剤に強い。医療用にも展開。TOBで独ベーリンガーの傘下に」(参照)とある。歴史好きの人は参照として「日本ベーリンガーインゲルハイム」(参照)も見ておくといいだろう。
cover
メルクマニュアル
 こうした状況はかならずしも日本の市民に不利益でもない。なにより、国内だけしか流通しないしょーもない医薬品が減り、医薬品がグローバルスタンダードになることはよいことだ。MR(Medical Representative)のありかたもグローバルになる。ついでに些細な例だが、万有はメルクの完全子会社化される前からメルクマニュアルはネットで公開されていた(参照)。外資のほうが情報公開に積極的なので、市民にとって基調な情報源が増える。例えば、故小渕総理の処置が間違っていたことなどメルクをひくだけでわかる。
 と書いてみるとこの問題は錯綜していきそうだし、また私のクセとしてジェネリック薬の話でも書きたくなるので、結語もなく適当に切り上げたい。が、余談めくが、結語の代わりに、薬剤系の外資はとても慎重だという印象を受けるということを書き添えたい。
 ファイザーのバイアグラなども解禁され、一時期市場を広めようとしたが最近はそうでもないようすを受ける。低容量ピルなども売る気がなさげに見える。こうしたある種の日本社会の文化との、結果的な調整は、日本の医療体制が自動的に行っているのか、日本市民に医療知識がないためなのか。その双方でもあるのだろうが、劇的な変化が生じない。健康エコナのトランス脂肪酸含有量などもさして議論されない(それほどひどくはないのが幸い)。今後もそう劇的には変わらないのではないか。こうした日本社会の保守性はそう悪いものでもないだろう(が、個々人の選択は少ない)。

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2004.02.25

年金雑話

 また、年金の話というのも芸がないのだが、産経新聞社説「年金改革 参院選挙の道具にするな」を読みながら、なんだかわざと話を難しくしているなと思った。もやっとした感じがするので、関連して少しメモ書きしておきたい。きっかけとなった産経社説の主張は標題どおりである。なお、さすがに今回は世代間の不公平や、年金族の無駄遣いなどの話は除く。


 年金改革法案が与野党の駆け引きに使われている。参院選を控え、国民に痛みを求める法案に及び腰の自民党と、徹底的に反対して強行採決させ、票を稼ぎたい野党の思惑が絡み合っているからだ。

 なんでも政局絡みにする思考法なのだ。
 ところで、この野党は民主党のことだろう。私は民主党の年金改革案は大筋で正しいと思うので、政治的に争ってなにが悪いのかと思う。しかも国会の盲腸、参院だ。
 産経の主張は結局、与党案をなし崩し的に是認させようとするだけだ。産経はそんなに創価学会寄りだったのか少し奇妙に思える。
 年金改革は、すごく単純に言えば、すべて税負担による税方式か、最低保障は決めておくものの所得に応じて払う所得比例方式の2つしかない。あるいは、現在検討されているように曖昧な折衷案になる。率直に言って、あまり議論の余地はない。
 しかも、仮に税方式ですべて年金は国の保障によるとしても、実際には民間の年金がそれに上乗せになるのだから、社会的には所得比例方式に近くなる。
 さらにそうなる結果を見越せば、税負担は軽減されなくてはならないのだから、国の保障は最小限になるだろう。税方式を選択しても所得比例方式に近くなる。
 そう考えるなら、実質的な意味で年金らしい年金というなら、すでにスウェーデンで実施された改革のように所得比例方式にするのがいいのだろう。
 それがすんなりと日本でいかないのは、これも端的に言えば、国民の所得の把握が難しいからということなのだろう。
 しかし、これも考えてみればむちゃくちゃな話だ。米国などサラリーマンもきちんと税申告をしている。日本は行政のIT化とか言っているが、実際面で個人の税申告をサポートしないのでほとんど無意味だ。
 つまらない結論なのだが、日本という国は、産業部門の発展に力を入れる代わりにその富みを配分するサラリーマンから自動的にお金を吸い上げるシステムを作った。これは日本の行政にとっても都合がいい。行政自体がいわばサラリーマンみたいなものだ。反面、自営業者はそのシステムのあぶれものだから、実質的なお目こぼしがあったといことだろう。国民年金が事実上補填されるのもそうした原理によるのだろう。
 この根幹を改革すれば(米国のように各人の申告に変えれば)、当然、日本国民に納税者意識が高まる。行政としては、それが一番嫌なのだろうなと思う。
 と、つまんない話になってしまったが、現実性はない。野口悠紀夫が提言するようにサラリーマンが個人企業になれば面白いのだが、そういう社会にはならない。「13歳のハローワーク」より「17歳の確定申告」という本が売れなくては話にならない。
 余談だが、フリーター諸君は確定申告しているのだろうか。しているなら、できるだけ、きちんとやるようにしたほうがいいことだけは確かだ。

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2004.02.22

医師の偏在はまずは金で解決せよ

 社説ということでは今朝は目立ったテーマはない。しいていうとイラク統治勧告とアナン来日に併せた国連問題だろうが、これは理想論(きれいごと)を書いても意味はないだろう。ということで話題として気になった朝日新聞社説「医師の偏在――金で釣るより知恵を」を取り上げる。幸い、サヨクがどうのいう話ではない。
 問題提起は標題のとおり、医師の偏在の問題だ。医師の絶対数が少ないわけでもないし、あまり議論されないが、これから縮退していく日本では医師は余るのだ。
 医師偏在の問題が最近一段と悪化したのは、新人医師の新しい研修制度だと、朝日は言う。


 新制度は、日常的な病気を幅広く診ることができる医師の育成をめざして、一人の研修医にいくつもの診療科で手ほどきを受けるよう義務づける。研修医の受け入れ病院も増える。
 これまでは新人の大半が大学病院の一つの診療科に所属して、下働きの役割を担ってきた。ところが新制度の下では研修医があちこちに散らばるし、研修医を受け入れる病院は研修の内容を充実させなければならない。このままでは人手が足りなくなると考えたのだろう。大学病院が地域の病院に送り込んでいた医師を呼び戻す動きが広がっているのだ。

 話が読みづらい。研修医(新人)を受け入れるために、従来田舎にいた熟練医師を都市部の病院に集合させている、ということか。とすると、その規模の実態が気になるが、朝日新聞社説にはフォローはなく、名義貸し問題に文脈を移っている。
 名義貸し問題に朝日は怒ってみせるのだが、これは無意味だと思う。この話は旧極東ブログ「医師の名義貸し問題は単純ではない」(参照)で触れた以上のことはない。
 しかし、話をごく単純にすれば、事態は金(かね)の問題ではないのか。「金で釣るより知恵を」ではなく、「小賢しい知恵より金で釣ろう」でいいのではないか。医療というのは金のかかるものなのだから。
 もっとも、それで根幹の問題(医師の偏在)が解決するわけもない。朝日はいろいろと理想論を掲げてみせる。

  1. 病院の適正な配置(県立病院と市立病院を隣接させない)
  2. 地域の中核病院や大学病院と密接なつながりを持たせる
  3. 医学部入試で地元出身者を優遇する
  4. へき地医療の報酬を増す

 悪い意見ではないし、実現可能なようだが、実際は4以外はダメなのではないかと思う。
 私は日本の医療を規制緩和したらどうかと思う。変な意見に聞こえると思う。どういうことかというと、医療相談の窓口を医師以外に広めるネットワークを作ってはどうかということだ。例えば、夜中に高熱で引きつけをおこした子供が病院たらい回しで死ぬといった事件を見るに、医療の前段となる基本介護があると思える。子供が40度近い熱を突発で出したら、まず、子供の年齢に合わせて少量アセトアミノフェンを使うといった指導は欧米の育児書には記されている。OTCで対応できる部分もある。アトピーの問題でも、それが皮膚科なのか内科なのかということは、大衆にはわかりづらい。総じて、ごく初歩的な健康問題でも、専門が違うことで対処がとんちんかんになることもある。
 と、この私の意見も、実際に運営するには組織化が必要だし、それは日本の現状を考えると無理だろう。せめて、実践的な大衆向けのガイドブックがあるといいのだが、私は知らない。インターネットにも類似の情報があるが、現実としてはこれがGoogleなどサーチエンジン系に頼るか、特定の視点のリンク集に頼るしかない。しかも、その大半の情報は「あるある大辞典」レベルの嘘情報か、正しいけれど役に立たない情報ばかりなのだ。

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2004.02.20

栄養教諭の恐怖

 朝日新聞社説「栄養教諭――肩書だけ増えては困る」は良い問題提起だった。論の展開に異論はあるものの、そういう考えもあるだろうとは思う。話題は、中央教育審議会が文部科学相に、義務教育の範囲で、栄養指導の「栄養教諭」を設けることを答申したことだ。法制化される見込みは高いように思う。
 栄養指導は良いことではないかと社会通念では思われるだろうが、各人の食生活や栄養指導を受けた体験を持つ人なら、通念の裏にある、欺瞞や押し付けに眉をひそめるだろう。やめてくれよな、と呟きたくなるが、その声は、うまく論としては組上がらない。
 朝日は次のように懸念を表明する。


 学校に栄養教諭がいることで、目配りがこまやかになり、子どもの食生活が良くなるのならば、歓迎すべきことだ。それぞれの子どもにふさわしい食事をつくるのは本来は家庭の責任だが、そう言っているだけでは何も解決しないのが現状だからだ。
 気がかりなのは、「先生を置きさえすれば、万事がうまくいく」かのように計画が進んでいることである。

 確かにそこまでは朝日の指摘は正しい。朝日の論点が変なのはその先だ。

 たとえば、家庭との連絡帳を活用して、日頃から子どもの食生活や家庭の悩みを聞く。子どもと保護者に集まってもらい、栄養教室を開く。そうしたきめ細かい手立てを考えておくべきだろう。
 食べ物について教えている技術家庭や保健体育の教諭との役割分担も考える必要がある。学級担任との連携が欠かせないのはもちろんだ。学校の外へ出て、地域の人たちと一緒に活動してもいい。

 きれい事を並べているが、それが実現した世界を想像してほしい。私は背筋が寒くなる。私は、夏の陽射しに子供を集めて、青一号だの赤一号だので色づけ、サッカリンで甘くしたかき氷でも作ってやりたいなと思う。いや、本当にそういう行動を起こすべきかもしれないと考え込んでしまう。
 なぜ栄養指導が問題なのかとあらためて問えば、せせら笑われるようだが、栄養指導自体が問題なのではなく、学校から家庭まで栄養を指導するという権力の浸透がたまらなく不快なのだ。ここは礫を投げられる覚悟でいうが、指導者は、どうせみんな女だ。それも不快だ。
 そもそも栄養学など、歴史の流れでみるなら、兵站の課題だった。三大栄養素を喰わせておけば兵士は大丈夫かというとそうでもないな、じゃなんだ? ほう微量栄養素かという流れだ。ビタミン・ミネラルだの話題になるのは、それで兵士を維持するためだ。近代国家とは皆兵によってできるのだ。そして、皆兵とは身体を締め上げることでできる。体操させ行進させ、栄養指導をする。
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五訂食品成分表 (2004)
 栄養学など半世紀前から進歩などしていない。あえていえばそれでよかったのかもしれない。栄養士のバイブルというか必携に五訂というのがある。正確には「五訂食品成分表」というものだ。女子栄養大学出版部学長・医学博士香川芳子監修である。香川綾の娘だ。若造、「女子」だの「綾」だのキーワードにモエないように。
 夫の香川昇三ともに偉い女だぜとは言える。敬虔なクリスチャンでもある。自宅に家庭栄養研究所をほっ立てできたのが後の女子栄養大学だ。同大学には、当然、「香川昇三・綾 記念展示室」がありホームページまである(参照)。

昭和8年~20年
香川昇三・綾は昭和の初期、東京大学島薗内科で各種のビタミンを研究。特に胚芽米はビタミンB1が多く含まれることを証明し、胚芽米の普及につとめ脚気予防に大きく貢献しました。以来、二人は栄養学に一生を捧げました。

 おかげで日本兵の脚気が減ったとはいえるかもしれない。そして、戦後米国の豚の餌の流用が終わり、高度成長期の、日本の給食の原理を確立する。

綾は、昭和3年「主食は胚芽米、おかずは 魚1・豆1・野菜4」を提唱。その後、いろいろ研究を重ね昭和45年「4群点数法」を完成させました。

 っていうか、給食だけじゃねー、主婦雑誌に添付され、企業戦士に喰わせるようにしたのだ。そして、日本の栄養学は昭和45年に熱死を遂げて今に至る。
 と言いつつ、香川綾を責めるわかにもいかないだろう。それがどうして女の権力と化し、日本人の食を拘束するイデオロギーになっていったのか。フーコーが日本に生まれていたら分析するだろうか。
 五訂の前には四訂がある。私は現在の栄養士の現場を知らないのだが、まだ実質四訂が使われているように思う。四訂と五訂には大きな差がある。単純に言えば、ビタミンB6とB12が四訂では無視されているのだ。ビタミンB6とB12を無視しておいて、栄養士が計算するから栄養は万全だなんていうのは、ちゃんちゃらおかしい。その上、脂肪酸の代謝などは試験には組み込んでおいて、実践には適応されていない。米国で壮大に議論して、トランス脂肪酸に縛りができたのに、日本ではほったらかしだ。これが日本の栄養指導の現状であり、進展もありゃしない。
 とまで書いたからには、礫を受ける覚悟は少ししよう。
 いや、もう少し書こう。四訂の世界でビタミンB6とB12が無視されていたのは、腸内菌がこれをサポートしていたからだ。そういう腸内菌を飼って置ける状況ならそれでよかったのだ。それをサポートしていたのは端的に言えば、漬け物だ。ヨーグルトじゃない(余談だが、メチニコフ学説が生き残ったのは北欧と日本など辺境である)。お笑いを言うのかと思われるかも知れないが、一汁一菜でも生存できるのは、人間は腸内菌と共生しているからだ。日本人は、と言いたいくらいだ。あるいは、朝鮮人は…と加えてもいい。
 少し危うい領域に足をつっこむが、日本人のそうした腸内菌との共生は終わったのだろうと思う。最大の問題は抗生物質だろうとは思う。食の構成にも関係はあるだろうが、腸内菌自体は免疫制御下にあるらしいので、そういう外的要因は少ないかもしれない。
 ビタミンB6とB12の代謝不全がなにをもたらすかは今日は書かない。書けば面白いだろうとは思う。これに葉酸も加えるべきだろうとも思う。
 それでも、そうした栄養を栄養素の視点から見てもダメだと思う。食とは栄養が一義ではない。文化なのだ。味覚というのは文化がもたらす先人の恩恵である。まず、味覚がなくては話にならない。しかし、それを栄養教師に求めるべきでもないだろうし、家庭でもどうにもならない。グルメは論外だ。
 かくして、どこにも日本の悲惨な食の突破口はないのかもしれない。いや、なにが悲惨だと反論すらあるだろう。これだけ長寿の国家は存在しないのだから。

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2004.02.18

数学とは何か

 迷宮旅行社「数学とは何か(というほどのこと)」(参照)を読みながら、よく書けたエッセイなのだが、ちょこちょこと部分部分には苦笑した。今の若い者は困ったもんだみたいな感じである。が、それ自体はたいしたことではない。むしろ、大学で学ぶべきことを逸したら、大学出てから学んでもいい。先日、池澤夏樹のなんかのエッセイを読んでいたら、彼がごく最近グロタンディエクを知ったという話があり、ずっこけた。それでも、知らないよりはいいことなのだ。
 迷宮旅行社エッセイでは、数学とはなにかということを次の二点にまとめていた。


  • 1つは「数学は現実世界の法則を表わしたものではない」ということ。
  • もう1つ。現代数学が開花するなかで、無限の扱い方も飛躍的に進展したというが、そこにも想像を超えた話があった。

 二点目は無限の濃度(cardinality)のことだ。大学で教わっていないのかと思ったが、ふと、吉本隆明も大学出てフリーターしているころ、遠山啓のもとでこの集合論の基礎を知って驚いたってなことを書いていた。かくいう自分もブルバギ流の数学史の関連でカントールを学んだとき、おもろいやっちゃとか思ったものだ。対角線論法など、中学生でもわかるのだからもっと初等教育で学んでおいてもいいかもしれない。
 だが、そうした細かいテクニカルな問題は実はどうでもいいのだ。ちょっと自分のブログで書いてみたいなと思ったのは、迷宮旅行社エッセイのような数学というのもののイメージについてだ。なお、迷宮旅行社エッセイの批判ではまるでない。誤解されないように。
 日本では、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」だの柄谷行人あたりがゲーデルだのと言い出すあたりから、ニューアカの雰囲気のなかで、数学がなんだか、文系的な世界で小洒落たアイテムみたいになってきた。が、どうも私は馴染めないのだ。ゲーデルの不完全性定理とか哲学めかした文脈で持ち出す輩は、元になる自然数論がわかってない。ゲーデルを持ち上げるわりに、その後彼がライプニッツに傾倒する心情もわかっていない。ま、でも、そんなこともどうでもいい。
 重要なのは、数学というのは、我々の社会にとって、まず工学の補助だということだ。私にとっても、数学はまず工学の補助だった。工学を学ぶために数学があった。自慢話のようになるのを恐れるが、私は初等数学を父親から学んだ。父はエンジニアだった。三角関数から微積分の基礎くらいまで小学生の時に理解した。早熟だったわけではない、アマチュア無線の免許が欲しかったからだ。まだ筆記試験の時代だ。共振回路やアンテナの特性など計算しなくてはいけないのである。工学的なニーズがあるから、数学を学んだのだ。
 数学とは、そういう技術屋の道具なのである。そのあたりが、哲学めかした輩も、教育を論じる輩も、とんちんかんなことをよく言うぜ、と思うことが多い。「分数の割り算もできない」とか言うなよと思う。分数に割り算は不要。数学的にもそんな演算は無意味だし、なにより技術屋の数学は合理的でないといけない。
 そこで自分にとって、なにより便利な数学の本の紹介でも書こうかと思って、書架を見ると数学書が少ないのに呆れた。直に学んだこともある野崎昭弘先生の本も、今じゃ一般向けのエッセイがあるくらいだ。と、書架を見ていくと、これだよ、大切な本がちゃんとあるじゃないか。
 矢野健太郎訳補「現代数学百科」である。数学といったら一も二もなくこの本だろ。と思って、ふと、よもや絶版?か。アマゾンをひくと絶版。ああ。
 さすがに古すぎるのか。昭和43年だものな。しかし、こんなに便利な本はねーぞと思う。付録に公式集に加えて数表も載っている。電卓がなくても三角関数や対数がわかる便利なものなのに!というのは今では洒落にしかならない。父親に数学を教わったときの電気磁気の本にもこの数表はあった。こういうのはもう今の時代にはたしかに不要かなとは思う。そういえば、計算尺は現代ではどうなっているのだろう。技術屋が手放すわけもないと思うが。
 現状で絶版であれ、この本の価値は、変わらず矢野健太郎の序のとおりだと思う。

教師は自分自身のみならず学生たちのために、この本の出たことを喜ぶだろう。父兄もまた同様。学窓で学んだ数学への興味がまだまだ残っている人にもうれしい本であろう。私が若かったらとびついて欲しがるだろうし、今でも、書だなに入れておきたい本にはちがいない。

 そのとおりだ。2004年でもそうだ。と言っても、回顧と洒落になってきたが、それにしてもこの本の価値が薄れるわけもない。原典の状況が気になるので見ると、"The Universal Encyclopedia of Mathematics"は、まだちゃんとある。古典だ。
 しかし、「現代数学百科」はできれば訳本のほうがいい。数学の訳語がよくわかるからだ。数学など工学は、できれば、英語で学び直したほうがなにかと便利なものだ。余談だが、技術翻訳の監修で糊口をしのいただときも、辞書用語の関連を知るのに、単純な技術用語辞典より、「現代数学百科」は便利だった。なお、同じく矢野健太郎で共立から「数学小辞典」も出ているが、概要を見るに類書のようだが、こちらの本は私は知らない。
 そういえば、「ヘロンの公式」は載っていたはずだと、「現代数学百科」を見ると、ちゃんとある。私が高校生の時だったが、父は線路設計・監督をしていた。ある日、雑談のおり父が、「直線で囲まれた不定形な土地の面積計算に簡便な方法はないか」というので、私が「ヘロンの公式」を使えばいいと話したことがあった。簡素な式を見せると、これで面積が出るのか、と怪訝そうだったので、私は余弦定理から証明をさらさらと書いた(今の自分はできるだろうか)。それを見て、父は納得した。後日、父は、あれは便利な公式だなと言った。
 そうだ。数学とは、なにより、便利なものでなくてはいけない。

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2004.02.14

食料自給率を上げる意味があるのか?

 食料自給の問題をいきあたりばったりで書く。私は、日本の食料自給なんて気にすることはないんじゃないかと思っている。日本は先進諸国の中では食料自給率40%と最低であると言う。それがどうしたと思う。なにが問題なのだと思う。そういう意見はどのくらいあるのだろうと思って、ぐぐってみる。唖然とした。見つからん。それどころか、日本の食料自給率の低さが問題だというのである。ほぉと思う。読んでみた。まるでわからん。
 朝日新聞社説「食料自給――『保護』では高まらない」を読んでもまるでピンとこない。


 牛海綿状脳症(BSE)に感染した牛が見つかった米国からの牛肉輸入が止まり、外食チェーン店から牛丼が消えた。鳥インフルエンザで、タイ、中国産鶏肉の輸入も止まった。国内消費量のうち、牛肉の3割、鶏肉の2割が手に入らなくなるという異常事態が続いている。
 一連の出来事は、食料の多くを海外に頼っているこの国の危うさを、改めて浮き彫りにした。私たちは、米国が日本に輸出する牛肉にも日本国内と同等の検査を実施する必要があると思うが、その問題とは別に、騒ぎが長引けば、「自給率を高めるべきだ」という主張が頭をもたげるだろう。

 まずわかんないのは、牛肉と鶏肉の話でどうして「この国の危うさ」なのか理解できない。米国に日本と同様の全頭検査を要求する嘘については、すでに書いたので繰り返さない。せめて米国が日本の牛肉を解禁するくらい歩み寄るなら、私は輸入再開論者になってもいい。まぁ、そんなことはどうでもいい。
 輸入の牛肉と鶏肉の減少で連鎖で他の食品の価格が上がることが問題かというと、上がればいいじゃんと思う。それこそインタゲである。ふざけているみたいだが、それはそんな悪いことでもないだろう。むしろ、それでもそれほど、その市場に影響ないかもぉの状況に見える。食料が本当に問題なのか?
 朝日の主張に戻る。それほど農本サヨク臭があるわけでもない。そーゆー意見もあるかなくらいだ。

 日本の食料自給率はカロリー換算で40%と、先進国の中でも飛び抜けて低い。無理なく引き上げられるならそれに越したことはないが、何が何でも、手段を選ばず、というわけにはいかない。
 戦後の食糧難が遠い思い出になった豊かな日本で、「食料の安全保障」はもっぱら米作りを中心とした農業保護の口実に使われてきた。自給率を高めるために保護を強めるのでは、ただでさえ弱い農の足腰をますます弱めることになる。
 味の良さや安全さで国産の優位性を高めていく地道な努力こそが、自給率向上に結びつく。それが基本だろう。

 まず、農業保護はよくないというのは、最初に抑えておいていいだろう。どうも食料自給問題は利権が絡んでいる臭くてたまらん。次に自給率というのだが、カロリー換算なのだ。これがまたわからん。朝日は結語で次のようなトンマな教訓を述べている。

 もうひとつ、忘れてはならないのは、世界一の食料輸入国であるこの国で、食べられないまま捨てられる食品が日々、大量に出ていることだ。コンビニやデパ地下から「賞味期限切れ」で廃棄される弁当だけでも大変な量だろう。食生活がいまのままでいいか、考え直すときでもある。

 勝手にしろ阿呆臭という説教だが、先の文脈に戻り、そういう状況があるのに、カロリー換算で40%っていうのはなんの意味があるのだ? すでにWHOは肥満を疫病に認定している。カロリーは問題の指標かよと思う。
 さらに先の文脈なのだが、「味の良さや安全さで国産の優位性を高めていく」というのは、自給率の話じゃねーだろと思う。SKIP野菜のように、国産のほうがうまいから買うという、いわばブランド志向だ。ちなみに、SKIP野菜・果物は国産でもなく有機農法でもない。永田農法なら全世界ユニバーサルで、この発想はものすごいものがある。私個人は、できるだけ有機農法のものを好むのだが、それにこだわらない。
 食料自給の話は、現状では、安全と絡められている。しかし、それだって、別に輸入で問題となるわけでもない。米国小麦にはポストハーベスト農薬がかかっているがそれだってオンオフの話のわけがない。他に、他国から食料を止められたらという話もたまにあるが、阿呆臭い妄想につきあってられんと思う。将来中国が食料を輸出しなくなるだの、米国が遺伝子組み換え穀物を独占するだの、それで何が問題だというのか。輸出するかしないかは経済活動で決まる。遺伝子組み換え品がどうのというのは、それを除きたいなら、それを価値としてマーケットに問えばいいだけだ。
 少し古いが朝日新聞のニュース「自給率4割、9割超の国民が食料供給に不安 農水省調査」(参照)でこうあった。

 将来の食料供給については、農業従事者の58%、消費者の44%が「非常に不安を感じる」と回答。「ある程度不安を感じる」を加えると、農業従事者の94%、消費者の90%にのぼり、国民の9割以上が不安を抱いていることがわかった。「あまり不安を感じない」という農業従事者は5%、消費者は9%で、「全く不安を感じない」は、いずれも0.4%だった。

 そんなに不安なのか?
 私が気になるのは、食料自給っていときの食料ってなんだと思う。特にそれが現状カロリー換算なんだから、どうせ、それは穀物の問題じゃないのか。穀物だよ、つまりは。だけど、それはコメであるわけがない。余っているんだし。すると、小麦とコーンか。
 つまり、小麦とコーンを外国に依存しているのはよくなっていうことか? でも、そんなもの国内でまかなえるわけないじゃないか。と考えてみるに、食料受給の問題というのは、なんか「飢え」や「食の安全」とか「国産品ブランド」みたいなぼよーんとしたイメージを醸すだけの詐術ではないのか。
 ついでにいえば、そんなに小麦だのコーンだの食っている日本人の食生活っていうのが問題じゃないのか。というのは、栄養学のおばさまたちは偉そうなことこくけど、この少子化・パラサイト、かたやど田舎の日本の食の実態として、野菜たっぷり健康手作りの食事とか言っても無意味ではないか。コンビニ食、外食、中食が現状だろう。つまり、そういう流通の問題なら、やはり、食料自給とか言う以前にマーケットの問題に還元されるはずだ。
 と、以上、暴論。こりゃ、ほんとに暴論だなと自覚しているので、違うよ、食料自給率は大切だよと私を説得してほしいものだ。

追記
農水省「日本人の食卓の現実」(参照)というPDFファイルを発見して読む。面白いと言えば面白い。ブログの見解を大幅に変更する必要性はやはり感じない。ほほとおもったのは、「国民一人一日当たり供給熱量の構成の推移」だ。畜産物の比率はコメに次ぐ。その次が油脂類で小麦はされにそれに次ぐ。ざっと見た印象では、昭和50年時点から類推して、畜産によってサポートされるべきたんぱく質がなくても日本人はそれほど困らないと思えた。ポーランドの経済改革で推進側が気にしていたのは卵だというが、卵の生産・流通が可能なら大筋でたんぱく質の問題もないだろうと思う。

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2004.02.04

市町村合併は法的に行え

 産経新聞社説「自治体合併 将来見据えた決断のぞむ」は概ね良かった。今朝の社説である必要があるのかわからないが、誰かきちんと言っておくべきだ。東京の住民なんか問題をまるでわかっていないというか関心すらないのだから。話題は「平成の大合併」についてだ。問題点は表面的には合併が進まないことだが、ここに来て、話がねじくれてきている。


問題は、第二十七次地方制度調査会が「合併を促す人口規模についてはおおむね一万人未満を目安とする」と最終答申したにもかかわらず、これが法案に盛り込まれていないことだ。総務省は、全国町村会などが反対していることに配慮し、法案成立後に策定するガイドラインで示す方針という。

 溜息が出る。日本人は法をなんだと思っているのだろう、と、当方、法をよく理解しているわけでもないのだが、要するに、本来法で行うべきことが、ガイドラインになってしまう。ところで、この手のカタカナ語止めろって思うぜ。「法に根拠を持たない官僚のご指導」っていうやつだよ。この無法な権力を日本から減らせと思う。裁量だとかぬかして官僚が膨れ過ぎている。
 いずれにせよ、裁量になるわけだから、狙いを定めて金の真綿で首を絞める(爺臭い表現)ってわけだ。陰惨なことになるなと思う。むしろ、明文化したほうがなんぼかましだ。
 産経の結語はこれでいいだろうか。

 地方の借金は十六年度末には二百四兆円に達するとされる。この巨額負債の解消を目指すための“最後の一球”は地方に投げられたといえる。

 地方に投げられたっていうのは逃げじゃないか。

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読売新聞に日本文化なんか言われたくない

 日本文化なんて構えて議論するっていうのは漢心(からごころ)だよなと思う。無粋なやつが産経新聞とか読売新聞に多い。読売新聞社説「国語教育答申 精神文化の『核』を確立しよう」が文科省(っていう省略は気持ち悪い)の文化審議会国語教育答申をネタにほざくほざく。


 答申の特徴は、国語教育で、美的感性や懐かしさの感情、日本の文化、伝統、自然を愛する祖国愛、名誉や恥といった社会的、文化的な価値にかかわる情緒面の育成を重視していることだ。

 むしろそうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな、である。実際はかなり阿呆臭い。

 答申は、小学校で国語の時間を増やし、教科書の漢字に振り仮名を付け、古典や名作を数多く読めるようにすることを提案した。音読や暗唱を重視することも求めた。その上で、中学校で論理的思考力の育成を図ることが必要とした。
 正しい方向性である。国際化、情報化が進む今、長い歴史の中で蓄積されたものとつながってこそ、人は本来の自分になれる。

 斎藤孝の弊害もここまできたかという感じだ。国境(こっきょう)の長いトンネルをぬけたり、「こいすちょう」をやるのか。馬鹿乱造だな。まぁ、小学生なら振り仮名でもいいかと思うが、中学生くらいになったら、全部がとはいわないが、GHQが作らせたインチキ略字じゃなくて、正字で伝統仮名遣いのものをそのまま読ませたらどうか、というとちとアナクロか。しかし、驚くのだが、今の子、漢字の旧字が読めないのだね。台湾とか行っても看板読めてないようだ。
 ま、この手の話題はこの手のおちゃらけになってしまう。それに、思うのだが、国語の教科書、あれはひどいシロモノだよ。もっと実務的にすべきだと思う。すべての人が恋愛に向くわけじゃないように、文学なんてものはむしろ向く人はわずかだ。たいていの大衆は大衆文学でいいのだし、大衆文学なんてものは、軽蔑するわけじゃないが、市井に生きているならわかるものだ。
 ついでなんで、もう一つ引用。これが、読売新聞馬鹿丸出しだよ。

 リストカットを繰り返した女子大生が「核になるものが心の中にない」と、語ったことがある。今の若者たちにある寄る辺のない感覚は、自分の中に「核」を見いだせないことにもよるのだろう。
 国語教育がすべてではないにしろ、母語としての国語に愛着を持ち、日本人としての自覚や意識を確立することで、失われつつある精神文化の「核」を再生することが必要だ。
 ただ「個」の尊重だけでは、子どもたちは荒野に投げ出されるのと同じだ。

 これ書いたのは何歳だ。30代だったら、そして俺が本気なら殴るぜ。人間の核というものは、愛だ。今の時代の子たちが愛を見いだせないのだ。そして、その不在は、慟哭すらもたらさないのだ。愛がなければ心は生まれない。心がなければ心が声振りを求めることもない。声振りの身のなかで、身体が現れるのだ。斎藤孝の身体論などふざけた冗談でしかない。
 もちろん、そう言うことは空しい。愛は言葉ではないからだ。
 そう、愛は言葉ではない。言葉は愛のあとから来る。日本語を美しくする以前に、日本の文化のなかで培った愛が問われているのだ。

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2004.02.01

年金と老人介護の問題

 年金と老人介護の問題について、いきなり書いてみる。いきなり、というのは、書くにあたって資料にもあたっていないし、あまり考えもまとめていない、という意味だ。物書きなら失格という状態だ(失格の物書きは多いのだが)。日頃、私自身も生活人として気になっているので、そのあたりのもやっというのを書いてみる。
 話の発端は、別記事に書いた私自身のコメントだ。


若い世代の立場で年金問題ついて端的に言えば、2点あるかと思います。1つは、受給は多分70歳になるでしょう。男性だと平均寿命は80くらい。その10年という問題ですが、その10年が年金で暮らせるわけもない、ということで、それ以前に若い人だと70歳は無意味でしょう。つまり、年金は無意味と結論するのは、ある意味しかたがないことです。2つめは、これをリスクの投資とみることです。この場合、相手は国家なのでケツ割れはありません。悪くない投資だと。もうちょっというと、この先、若年の不払いが解決するわけもないので、いずれ皆保険ではなくなるでしょう。すると、払っているやつのほうが利回りがいいはずです。

 これをもうちょっと介護問題の側に軸足を移してみたい。で、私事を書きたいわけもないし、むしろ書きたくもないのだが、私をモデルとして書いてみよう。
 私は昭和32(1957)年生まれ。父は大正15(1926)年生まれですでにこの世にない。母は昭和8(1933)年生まれ。父母の歳が7年違う。モデルとしては、母を基準に補正すると父は昭和4(1929)年くらいが妥当か(ちょっと自分としてはイメージがわかないが)。私は母が24歳の時の子供だが、このあたりはモデルとして妥当だろう。母は今年71歳になる。そろそろ年金(彼女の生活費)と老人介護の問題の渦中に入りつつある。
 すでにこの問題に突入しているのは団塊の世代である。命名した堺屋太一によれば団塊の世代は昭和22~26年生まれだが、人口統計的なコアは昭和22~24年になる。ので、都合で昭和22年生まれをモデルとする。都合というのは、私より10歳上なので私が感覚的に捕らえやすい。
 団塊世代のモデルはかくして私のモデルを10年シフトするといい。団塊君は昭和22(1947)年生まれ56歳。父は大正8(1919)年85歳、母は大正12(1923)年生まれ81歳、となる。ちなみに、森重久弥の相棒役とも言える加藤道子(私はファンでした)が昨日84歳で死んだ。膵臓癌。だいたいこのモデルの範囲に入る。
 自分の世代意識からすると、私が小学校から中学校くらいの時期に、上の世代が暴れていたので、私にとって上の世代、というと5歳くらい上かなという感触はある。
 戦後文化のコアの部分は団塊世代を中央として私の世代で消えて、私の世代から現在のオタク的サブカルの文化が始まる。私の世代は遅れてきた世代であり、先駆的な世代でもある。ま、それは当面の話題ではない。
 団塊世代のモデルでみると、すでに、介護の問題は現実になっている。また、その親たちの年金問題(生活費)もだ。だが、見渡してみて、そういう風景が見えるか? 見えないことはない。だが、私の感じからすると、意図的ではなく社会システムの機能で隠蔽されているように思える。
 その社会システムの機能は、(1)伝統システムが働く、(2)社会システムが働く(年金や国家の補助)、(3)家族システムが働く(端的に言えば子供が兄弟を形成している、「渡る世間に鬼ばかり」を参照せよ)、(4)労働社会システムが働く(会社に温情がある)である、と考える。
 これが団塊世代に下るにつれウィークになっていき、私の世代でほぼついえる。その意味で、年金と老人介護が問題化するのは、私の世代からで、おそらく5年以内のスケールで社会に激震が走るのではないか。
 それでも、現状の団塊の世代の問題、端的にいって、その生活苦が見えづらいのは、社会システムによる作用もだが、マスメディア的に話題とされないということもあるのだろう。さらにいえば、マスメディアの側の人間はエリートなので個人対応として金銭的に解決できる余裕があるのだろう。
cover
親と離れて暮らす長男
長女のための本©角川書店
 具体的に可視な部分で私が思い浮かぶのは、久田恵(参照)と舛添要一(参照)の二人だ。ちょうど先のモデルに当てはまるので、光景としてイメージが湧きやすい。久田が昭和22(1947)年生まれ。桝添がその翌年だ。
 この二人の著作や発言を折に触れて私は読む。いろいろ共感することが多い。特にディテールが重要になる。マスメディアもある程度彼らの視点をとりあげているが、二人ともベストセラーというようなインパクトは社会に与えていない。というか、ベストセラーがそういう社会機能を持たなくなっているのかもしれない。また、ドラマもそういう意味での家族の光景を映し出さなくなってきている。
 話がちんたらとしてつまらなくなってきているので切り上げようと思うが。私より10歳下の世代、つまり35歳くらいの世代はこうしたイメージを課題としていないような気がする。私自身10年前には考えてもいなかったのだから、当然だろう。だが、この世代には特徴がある。都市部に住み未婚率が多いことだ。つまり、都市民化している。都市民になるとき、一番の援助となるのは、私の常識からすれば国家システムなのだが、この世代はそうした国家のイメージをまるで持っていないように見える。
 現在35歳の世代には、私の視点からすれば、(1)伝統システムが働かない、(2)社会システムもこのままでは働かない(年金はない)、(3)家族システムは働かない(兄弟の互助はない)(4)労働社会システムはすでに破綻した、ということになる。しかし、それが問題となるには、前段として私の世代が崩壊するから、それを待てばいいことになるだろう。
 モデルとして見ると、私の場合、その世代の結婚年齢から計算すれば18歳と15歳の子があることになる(おぇっ?と思うが)。公務員でなければ年収は800万はないだろうから、実際にはすでに階級分裂が進んでいる。年収300万円時代を楽に生きるという冗談はさておき、社会的には私の世代は400~500万円の枠内で、5年後のスパンで子供を大学にやり、親の負担を見ることが可能かということになる。親たちはまだ70~75歳のラインで現状は意外にピンとしているが、5年後には介護の領域に入る。
 そして、クラッシュ!、だろう。その時点で、夫婦関係のしわ寄せも大きいのではないか。団塊の世代から私の世代にかけてクラッシュが勃発する。
 と、暗澹たる未来を描いて微笑む趣味はないが、あと5年で私の世代つまり現在45歳の世代がクラッシュするから、それを見ながら、それから5年くらいでおたおたしつつ、共通一次試験以降の世代は国家を再構築していけばいい。
 それが可能だろうか。おい、若者、国家を互助組織として考えたことがあるのか?ってうオチにはしない。
 私は理性的に考えるのだが、35歳を中心とした日本人はこの問題を解決できないだろう。というか、階級に逃げ込もうとする兆候が今見える。ネットの言説もすでにエリート化しているじゃないか。ナースはフィリピン人にすればいいというのが解決になるだろう(近未来に実現する)。
 つまり、5年後以降は、実質の、年金や介護の問題は下層階級の互助の問題にならざるをえない。と考えてみるに、創価学会や共産党そのものか、それに類したものが社会に強く台頭せるを得ないのだろうと思う。

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2004.01.31

企業内特許の対価は企業経営の一部

 今朝は日亜化学工業と、その特許の対価を巡る元社員中村修二(現米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)の訴訟を避けるわけにはいかない。結果は中村の勝訴で二百億円の請求が認められた。金額面がいわゆる庶民感覚から飛び抜けているという点で意外感はあるが、ことの成り行きやこの発明の評価という点では、ある程度予想された判決で、逆にいえば、適当な減額でとほほ感を狙ってもしかたのないことだ。下手すりゃ、中村にノーベル賞がやってきて日本がコケにされるのがオチになる。
 新聞社説の受け取り方には、意外に陰影がある。理由はおそらく、端的に言って、執筆者たちがジャーナリストというよりは大企業のサラリーマンであり、彼らもそうした巨額の報酬を得てみたいなと思っているからだろう。朝日新聞社説「200億円判決――優れた発明に手厚く」の出だしが笑える。


 サラリーマン研究者でも、能力次第でベンチャー企業の創業者やスポーツのスター選手のような巨額の報酬を得られる時代が始まったのかもしれない。

 朝日の作文は書き飛ばしで出来ているので、この先読む価値もないが、概ね、肯定的に捕らえられている。というか、そうしないと頭脳流出(死語か)になるというくらいなものだ。
 読売新聞社説「発明の対価 『報酬』巨額化の時代に備えよう」は中村という異能な発明者への理解があるものの、むしろ企業よりの発言である。が、結論は朝日新聞と同じだ。
 毎日新聞社説「200億円判決 発明補償は経営リスクだ」は鮮明に企業に立っている。ある意味で小気味よいほどだ。

 米国の高額発明補償のシステムは、契約にたずさわる濃密な法務サービスに支えられている。日本にはそうした法務サービスが発達していない。だから米国流の高額発明補償の社会に移行するのは難しいと考えられてきた。
 ところが、特許制度の変更なしに、米国にも例がないような超高額補償の判決が出た。日本の企業社会は、司法からの爆弾をどう受け止めるか迫られている。

 「司法からの爆弾」という表現が面白い。それにしても、他紙がいまだにサヨクという線で論を対峙している間に、毎日新聞はなんか奇妙な次元に突入している。読者層が他紙と違うのだろうか。論の傾向としては、産経新聞社説「特許の対価 日本社会になじまぬ判決」も似たようなものだが、こちらはいわゆるポチ保守トーンで覆われていて面白くはない。
 社説としては日経がまともと言えるかもしれない。今回の訴訟について、経営に携わったことのある人間なら日経新聞社説「社員への巨額発明報酬判決の衝撃」のこのくだりに共感を覚えるだろう。

 青色LEDは世界的発明にもかかわらず、会社側が合計2万円の報奨金しか払わないなど対応のまずさもあった。企業内の研究者の独創力をきわめて高く評価するプロパテント(知財重視)の判決で、研究者の士気は上がるだろうが、企業の研究開発強化、技術立国にプラスになるかどうかは意見が分かれる。

 率直なところ、私の意見はこの日経に近い。
 私は、今回の訴訟は、研究者対企業という一般論の構図で捕らえるのは勘違いではないかと思う。というのは、もともとも独創的な研究に支えられる企業というのはそれによって特徴づけられる企業であり、そのような企業の健全な経営のありかたに、今回の事態への対応も必然的に含まれると考えるからだ。これも率直に言うのだが、私のこの感覚のほうが一般的なものだと思うがどうだろう。新聞執筆者たちの骨の髄からサラリーマンな態度のほうがおかしいと感じる。
 話は少しそれる。気になることがあるのだ。ちょっと物騒な話題かもしれないのだが、メバロチンなどスタチンの発見をした東京農工大学の遠藤章名誉教授(現バイオファーム研究所長)についてだ。秋田県のサイトにある「カビから夢の特効薬を発見」(参照)が参考になる。

大学を卒業して会社に就職し、食品製造に用いるカビとキノコの酵素の研究を8年間続け、その後、32歳のときにアメリカに留学しました。そこで、血中コレステロール値を下げる良い薬があれば、心臓病で苦しむ1億人以上の人々の命を救うことができることを学び、カビとキノコからコレステロールを下げる薬を探す研究をしようと心に決めました。
 帰国後の1971年からカビ、キノコなどを6,000株集めて、一株ずつ調べ、2年後に青カビの一株から強力なコレステロール低下剤(スタチン)を、世界で初めて発見しました。この発見から更に10数年の歳月と100億円以上の費用をかけて、スタチンの薬効と安全性が徹底的に研究されました。この間幾度も困難に遭遇しましたがすべて克服し、ついに夢の特効薬が実現しました。スタチンは1987年の欧米を皮切りに、100ヶ国以上の国で商品化され、現在約2千万人の患者に投与されています。

 スタチン剤が生み出した富を巡り、遠藤章と当時所属の三共発酵研究所の関係については、当人と会社間に問題もないのだろう。その後の経緯にも相応の配慮がされていると思われる。だから、今回の問題とは違うのかもしれないが、こうしたケーススタディが知りたいと思う。あと、「この間幾度も困難に遭遇」についてで、そこでコレステロール低下剤の特許が国際的にどう扱われているのかが気になる。一時期調べてみたのだが、よくわからなかった。ちょっと裏がありそうな印象は持った。

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2004.01.28

給食費払いたくないというネタ

 言い訳じゃないが、あまり面白いネタは書かないことにしている。が、これは面白ろすぎるので書く。河北新報社「給食費『払いたくない』 身勝手な親、滞納が急増 仙台」(参照)だ。


 仙台市の小中学校で給食費の滞納が急増している。2002年度は滞納が過去最高の1568世帯、約3501万円に上った。生活困窮も少なくないが、半数以上は「払いたくない」などの身勝手な理由。滞納のしわ寄せで給食の質を落とさざるを得ない学校もあり、親の間で不公平感が強まりそうだ。

 なんかすごい話だなと思うが、実際のところは、未納者は10%に満たない。河北新報社では、義務教育だから払う必要はないと抗弁する親の例を挙げているが、ま、ネタっていうあたりだろう。端的に言えば、これこそ親の義務の放棄なのだが。

 太白区のある小学校では近年、11月ごろから給食のデザートが1品少なくなったり安い食材が使われたりと、献立に変化が生じている。独自に給食を作っている「自校方式」の小中学校で見られる光景になった。

 常識的に考えれば、給食費払わないなら、食わせなければいいじゃん。昔といっても私の世代にはないが、私の上の世代にまじでそういうことがあった。
 しかし、現場では、給食を差別化したり、給食を廃止するなんてことはできないことになっているのだろうと察する。
 それにしても日本の給食制度っていうのはすごいものだ。こんなもの辞めろよと思うが、しかし、冷静に世界を見渡すと、この制度は優れていると判断してよさそうだ。アメリカなんか、学校のなかにファーストフード店があるようなものだし、ジャンクフード会社からの補助金とかも学校の運営費用なのだ。
 話を河北新報のニュースに戻して、この事態だが、生活困窮という理由は42%ということなので、嘘もあるだろうが、実態調査して、そこまで給食したいなら、補助金にすればいいじゃないかと思う。

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2004.01.27

昔の大人の思い出

 どうも世事に疎くていけない。実家に立ち寄ると母親が中学三年生の男子虐待事件の話をしていたが、他の話のごとく馬耳東風でいた。今朝新聞社説を見ると社説の話題になっている。これが、まるでわからない。いや、わからないものでもないのだが、まず思うことは、この事件は極めて特定の事件なのだから、社会がそれほど目を向けるべきなのかということだ。産経新聞社説「子供虐待 連係プレーで早期対応を」のこの言及の疑問と同じだ。


 今回のケースは最初、長男と二男(一四)が虐待を受け、兄弟は何度か祖父母の家に逃げたが、連れ戻された。二男はさらに実母(三五)を頼って逃げたが、長男は逃げなかったという。恐怖心のためと思われるが、中学生なら、体が衰弱する前に、弟と一緒に自力で逃げられなかったのかなど疑問も残る。

 錯綜した内実があるのだろうし、そういう問題にまで、社会の構成員としての他者として存在しえない私がどう考えていいのかわからない。あるいは、極めて文学的な課題だとも思う。
 こうした世相に子供の虐待というくくりで社会問題にしたがる傾向があるが、子供の虐待という点では、このブログでも紹介した「芸者」など、その最たるもので、昔からあんなものだ。そうあってはいけないが、人間の境遇というのはそういうものだ。
 もう一点。こうしたオヴァートな虐待を社会の言説は取り繕うのだが、私の思春期の感性を思うと、大人たちの子供への常在する心理的虐待のほうが大きな問題だと思う。みな、子供から大人になったはずなのに、あの頃の思いを忘れるのだろうか。私ですら、些細なことではあるが、ああ、僕は死んじゃうのかと伏せって息も絶え絶えに苦しんでいるとき、家族はテレビの馬鹿番組で笑い転げていたことを覚えている。家族を恨んでいるとは思わない。そういうものだとは思うし、あの時の自分を思うと、誰からひと言さりげない声をかけてくれてもいいのでないかとも思う。
 思い出に浸りたくはないが、学校もひどくなった。小学校のころは、まだ復員兵の味のある先生や戦争未亡人の先生がいた。「でもしか先生」というのもいた。死線をさまよう経験や女や酒にやすした経験をもったが子供に適当に向き合う大人がいた。子供はそうした大人の大人らしさや不思議な優しさを感じ取った。だが、中学・高校とそういう先生はいなくなった。自分でも感じるのだが、そこに戦前と戦後の線があったようにも思う。戦前がいいわけではないが、そこにはそれを緩和する人間の経験があった。それは「芸者」を読んでもわかる。
 そうした、感性と言いたくはないのだが、なにかを社会は失っている。し、それを復権することはできないのだが、こうしたトンマなサラリーマンの高校教師の作文みたいな社説を読むと、人間の薄っぺらさを感じる。
 余談で締めたい。先日ラジオ深夜便をきいていて、ほぉと思ったのだが、フランスなどでは、子供を一人家に置いて大人が外出することすら法に触れる虐待になるそうだ。ホントかなと思うが、自分が外人家庭を覗いた経験からすれば、そうした精神が根幹にあるのはわかる。大人は大人、子供は子供といった社会だからこそ、大人たちは子供の最低ラインはきっちり守るのである。ああいう大人たちと日本人のへなちょこが戦ったら勝てるわけもないか、いや、戦前は日本にも大人がいたか。などと思う。今は、日本には、大人語をしゃべるシミュラクルばかりだ。

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2004.01.25

韓国フリーペーパーの話など

 先日ラジオ深夜便で韓国在住日本人による大衆文化の話があって、面白かった。まず、れいの日本文化解禁のようすなのだが、ごくフツーに受け止められているらしい。反発もなく熱狂もない。視聴率の面でも韓国ドラマとどっこいどっこいといった程度らしい。解禁はケーブルテレビに限定されているせいもあるのかもしれない。放映されているのは、ちと古い作品のようだ。実際に見た韓国の若い女性の話では、登場人物が少ないとのこと。そうした話を聞いて、あ、そうかもねと思う。そういえば、NHKの大河ドラマを見なくなって久しいが、昔は、けっこう登場人物がいた。歴史ドラマのせいもあるのだが。
 現状、韓国では日本のドラマは熱狂的に受けているわけではないが、ある種新鮮な感じはあるらしい。どのあたりかというと、家族が出てこない、ということらしい。それもわかるなと思う。私は韓国には疎いが、沖縄には長く暮らしていたのでああいう家族はわかる。ある意味、「渡る世間に鬼は鬼ばかり」も、そうした時代の名残りであるかもしれない。ついでだが、韓国ドラマは、大企業の御曹司と貧乏な娘の恋愛というのがパターンらしい。すごく、つまんなさそうである。
 私はあんまりドラマを見ない。最近のものでは、って最近でもないか、沖縄にいたので「ちゅらさん」は見た。もちろん、いろいろ思うことはある。その続編は、しょっぱな挫折した。今度パート3ができるらしい。どーでもいいよと思う。あんな番組本土で受けているのだろうか。昨年だが、テレビガイドを見ていて「幸福の王子」というドラマのシノプシスにちと関心があって、最終回だけ、ザップしつつ見た。最終回だけ見たというせいかもしれないけど、ひどいシロモノだった。みなさん、青春の残骸をどう始末して生きているのか気になるが、あんなお笑いなのか。
 このところ、ちょいとした偶然で「ちょっと待って、神様」を見ている。といって、HDに自然に溜まるのを見るだけだが、原作大島弓子「秋日子かく語りき」じゃ、見るっきゃないじゃないか。マンションを買った金策もあってなのか、角川ベースになってから数年の大島弓子の作品は、ものすごいクオリティだった。あれはいったいなんなのだろう。その後、なんだかサバの話ばっかで、大島弓子の作品は追っていないが、井の頭公園でぼーっとしていると、大島さん何を考えているのだろうと思う。
 話を戻す。韓国での日本ドラマは字幕らしい。吹き替えじゃない。大衆ものは吹き替えがいいのだがなと思うが。台湾で見た日本のトレンディ・ドラマみたいな感じなのだろう。今韓国でどのくらいの人が日本語の口語を聞いてわかるのだろうか。60歳より上なら、聞いてわかるだろうが、衛星放送で入ってくる日本の放送を定期的に見ていた層はどのくらいなのだろう。そう少なくもないはずだ。私の歳、40歳半ばくらいになると韓国人は漢字がどのくらい読めるのだろう、と、同級生の朝鮮人留学生を思い起こすが、ま、たいしたことないな。漢字がわかれば、日本語の印刷物はたいていわかる。わからなくなるのは、カタカナ語が増えるあたりだろうが、それにしても英語の基礎があれば、発音してみればカタカナ語もわかるだろう。印刷メディアの間では、ハングルでべた書きしなければ、日韓にあまり隔たりはない。
 現状、韓国では日本ドラマを見る世代にとって日本語は外国語だろう。たぶん、でいうのだが、日本に遊びに来ている層も多くなっているのではないだろうか。ネットで阿呆なこと書いている韓国人はダサイやつらなんだろう。
 話が少しずれるのだが、韓国ではフリーペーパーが盛んらしい。部数から言えば、主要紙を抜くようだ。ほほぉである。極東ブログもネットから韓国主要紙をちらちら覗くのだが、注意しないといけないのは、主要紙といっても日本の新聞事情とは異なることだ。韓国でも基本は地方紙。地方から発言される、か、というと、やはり都市集中はさけられない。が、その都市部がフリーペーパー志向らしい。
 韓国のフリーペーパーは地下鉄ベースで配布されていて、内容はというと、けこうベタなニュースと広告だけらしい。エディトリアル、つまり、社説みたいのはないようだ。広告取りの関係から、主張などはうざったいのだろう。
 日本ではなぜフリーペーパーがいまいちなのだろうか。逆にチープな雑誌が盛んだ。チープといってもその英語の語感とは逆に雑誌の作りとしてはクオリティが高い。基本的に日本の雑誌なんか、フリーで配布してもよさそうなものだが、そうもなっていない。年明け早々、またまた各種雑誌が統廃合される気配だが、なんとも経営面で踏ん切れないのだろうか、という感じはする。
 日刊ゲンダイや夕刊フジなど、フリーペーパーにしてしまえばいいと思うのだが、経営的に無理なのだろうか。そんなわけないと思う。一番構造改革が遅れているのが出版界だしな。
 関連して気になるのだが、特に日刊ゲンダイなのだが、なぜああもサヨくずれなのだろう。あれ読んでいるとサラリーマンの知性が摩滅していくような気がする、が、ま、そういうものでもないのか。ニュース性はなんもない。ジャーナリスト魂などフォーカスの100分の1もないように思うが。
 日本になぜフリーペーパーがないかというと、ようは、出版界でいうところの棚の問題だろう。キオスクに置けるかということだ。韓国だと無人の台に置いてあるだけだが、日本ではそれができない。昔、レディコングというタブロイドの試みがあったが、早々にずっこけた。後続は無理だろう。
 じゃ、コンビニで撒けばと思うし、実際ある程度撒かれているが、どれもサブカルというかポップカルチャー系ばかりだ。TVブロスあたりが価格といいビミョーな線だが、サイゾーといい、日本のサブカルっていうのは、なぜ、ぐだぐだ物が言いたいのだろう、って、なんて言えば、極東ブログがせせら笑われるようではあるが。
 そういえば、昔、六本木レオパードキャットがつぶれたころだったか、Tokyo Journalが面白かった。港区でナイトライフに飢えた流しの米人とかがけっこう情報交換に使っていた。私も暇になるというか、適当にまざったりした。FENも地域コミュニティ情報が多い。あの時代、そうした話からつるんでいると、六本木で金がなくても遊べた、といって、「六本木で遊ぶ」という現代の表現ではない。
 話にオチはない。私にはサブカルの関心もない。おわり。

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地銀の問題は国の補助金問題ではないのか

 新聞各紙社説のテーマはそれぞれまばらという日だ。そしてどの社説もそれなりに読ませるものがあるが、なにか、こう奥歯にものがはさまったと昔の人が言うような、あるいは隔靴掻痒といった感がある。一巡ザップしてみて、印パ問題や狂牛病問題よりも、身近な生活に関わる経済面が気になる。余談だが、国内では狂牛病の呼称はBSEで統一されているが、先日NHKクローズアップ現代を見ていて、米人の英語の発言を聞いていると大半は狂牛病と言っているのに翻訳でBSEにしていた。やりすぎじゃないか。
 朝日新聞社説「企業の再生――この好機を逃さずに」にもう少し明確な主張が欲しかった。問題の取り上げはいいし、展開も政治思想が絡んでいるわけでもない。よって、冒頭からある程度読みやすい。


 足利銀行の一時国有化をきっかけに、地方の金融機関が抱える不良債権が注目を集めている。
 不良債権の解消は、その裏側にある借金漬け企業の再建や処理と一体である。小泉首相は施政方針演説で、産業再生機構や各県に設けられた中小企業再生支援協議会の役割を強調した。03年度の経済財政白書が「早期に事業再生等が図られるべき」上場企業が132社に達すると、あえて具体的な数字を挙げたのも、企業再生の加速を促すためだ。
 企業の業績は持ち直してきており、株価も一時の低迷を脱し上昇している。今こそ、長年の懸案を片づける好機だ。

 そう主張したい気持ちはわかる。そしてこの先、どんな解決案があるのかと読み進めても、たいした展開はない。
 自分が気になる点だけ、書いてみようと思う。まず、些細なことだが、足利銀行の国有化と北朝鮮送金の問題については、大手新聞は皆解明を避けていたように見えたのはなぜだろう。私はてっきりこの手の話題はガセかと思ったが、そうでもないようだ。きちんとした記事を読んでみたいと思う。いずれにせよ、足利銀行のケースは特例だったのだろうか。もちろん、週刊誌などで危ない地銀の一位にあったことは知っている。
 次に、地銀の不良債権なのだが、これは朝日が言うように「不良債権の解消は、その裏側にある借金漬け企業の再建や処理と一体である」ということなのか。もちろん、そうした側面があることはわかる。
 率直な疑問を出したい。地銀の不良債権というのは、国の地方ばらまき金でふくれあがった、地方権力と結びついた企業の国頼みの経営の破綻がしわ寄せしたものではないのか。ある地方と秘す意味もないが、地域経済の実態を見ていると、いわゆる民間企業の問題ではないように思える。
 もちろん、産業再生機構に預けられた企業名を見ると、そうした傾向は少ないのかもしれない、が、現状の地銀の問題はそこなのだろうか。
 「企業再生の加速を促すためだ」と朝日は言うが、舌の根の乾かぬうちに「再生機構には焦りの色が見えるが、むやみに件数をこなせばいいという話でもなかろう」と断ずる呑気さ加減はなんなのだろう。これは国の方策が間違っているのだから、ジェネラルな部分で方針の転換が必要なはずだ。
 曖昧な話を引き延ばしてもなんなので、私のこの問題へのコメントはここまでにしたい。だが、結局、これは企業と一括されているものの、補助金産業と地域産業と別であり、前者については、つまるところ不動産価の問題ではないか。地域産業については、酷いことを言うようだが、救い道なんかないのではないか。

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2004.01.24

理系・文系

 お茶を濁す程度の呑気な話だが、朝日新聞社説「学力テスト――理数教育の底上げを」で、ほぉと思った。毎度の朝日新聞罵倒はしない。


 全国の高校3年生を対象にした学力テストの結果が文部科学省から公表された。
 おおむね予想通りの水準だった国語や英語に比べ、数学と理科の正答率は文科省が期待した成績をかなり下回った。しかも、基本的な知識や原理、法則が十分理解されていなかった。
 さらに数学では、できる生徒とできない生徒に分かれ、二極化がうかがえる。理科では平均点より低い生徒たちの層が最もふくらんでいた。かねて専門家が指摘してきたように、理数系の教育が深刻な状態なのは間違いない。

 ふーんという感じがする。高校三年生なのに「理科」なのかというのも変な感じだが、些細なことはどうでもよかろう。で、この問題は深刻なのか? 朝日はごにょごにょと作文を書いているが、端的な話、二極化というのは、受験の時の文系・理系を反映しているだけではないのか。
 私は共通一次試験前の最後の世代だが、高校のときは明確に文系・理系が分かれていた。私は小中学校と科学小僧だったのだが、高校のときなにを思ったか民族学を学びたいと思って、結果文系にした。一浪して数学ばかり一生懸命勉強したが、その後、ひょんなことになった。二十代半ばでやさぐれて流しのプログラマーをちとやっていた。8ビットCPUくらいの設計はできるぞと思うが、さすがに今は無理か。ま、自分のことなどどうでもいい。
 いつごろだったか、15年くらい前だったかな、知り合いの子の中学生の勉強をちと見ているうちに、あれ?と思った。一円玉は何グラムか知っているかと訊くと知らないという。磁石で吸い付くコインはどれか知っているかというと、そんなこと考えたこともないらしい(たぶん、今の若い子も知らないのではないか)。おいと思って、そこいら本だの花瓶だの持たせて、何グラムぐらいかと訊いたらまるでわからない。一リットルの牛乳パックは何グラムかと訊いたがまるでわからないと言う。おまえ、それで学校の勉強できているのか、というと、それほどひどくはないらしい。なんだ、この世界は!、と思った。この時ある種ショックを受けたので、その後の世代の子供たちの理解には役だった。最近、小学生に、一円玉は水に浮くかと訊いたら、関心なさそうだった。やってごらんと水のはいったコップに一円玉を入れさせる。沈む。終わり、といった顔をしている。おい、そーじゃねーんだよ。ほれと浮かせ見せる。関心ない。なんだ、おめーである。
 環境問題の裏にサヨがいて、恐怖のデマをまき散らすという世相も一段落したが、あの時も変な世界になったものだと思った。「買ってはいけない」がお笑い本で面白いと思ったが、けっこう世の中マジで受け取っていたのを知って驚いた。結局、日垣隆が笑いのめしたが、どうやら、理系のオヤジたちは、言っても無駄だしと思っていたようだ。ま、そうなんだけどね。
 朝日新聞はこう言うのだけど、違うだろう。

 一方で、勉強が進学や受験、社会生活に役立つと考えている生徒ほど成績はいい。何らかの動機があれば、勉強する意欲も出てくるわけだ。
 問題は、勉強する動機を見いだせない生徒をどう指導するかである。簡単ではないが、学校や大人たちが動機づけの場を幅広くつくっていくほかあるまい。生徒自身が気づかなかった将来の目的や職業意識、適性が引き出されることもある。

 学校でする勉強なんてどうでもいいんだよ、と思う。学校に行くのは友だちがいるからであり、50人教師がいたら一人くらい優秀なやつがいるかもしれないという博打だ。それより気になるのは、女の子に多いのだが、世の中すれっからしているというか、世の中割り切ってしまいすぎ。たしかに、大人の世の中なんてたいてい、金で割切れる。それに相貌だの知力だの普通の人間には欠落するからそれを金で補おうとするゲームが始まる。このゲームはアイテムさえ獲得できれば参加できるし、勝つかもしれない。それだけのことだ。
 なぜ、世界を感じようとしないのだろうと思う。世界を知ることは、他の誰かでもできる。世界を感じ取ることができるのは生きている間の「私」だけのことだ。自分が世界から感じ取ることが理科や社会、文学の基礎になる、と思う。
 学力なんか問題ではない。感覚が麻痺していることが問題なんじゃないかと思うが、そう言ったところでつまらない結論か、である。

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医師名義貸し、ま、そりゃね

 今朝の新聞各紙の主要な話題は医師名義貸しだったが、毎日と産経の社説を読んでいるうちにうんざりした。意外にも読売新聞社説「医師名義貸し 地方の医師不足の解消が基本だ」がまともだった。この問題については旧極東ブログ「医師の名義貸し問題は単純ではない」(参照)に加えることはあまりない。問題は深刻だが、うわっつらの正義を振りまいてもどうしようもない。
 余談でお茶を濁す。
 最近ちと別件で日本の健康という漠たるお題で調べて驚いたのだが、前から知ってはいたことではあるがが、米国人の100歳以上の人口比は日本の3倍くらいになりそうだ。
 また、詳しい統計がわからなかったが、90歳以上の自立者の数も米国は群を抜いているようだ。
 ほぉと思った。昔親しんだガルブレイス、ドラッカー、トフラー、みんなまだ知の世界に生きているのである。70歳まで生きることができたらいいやと思っている私などからすると、すごい世界だ。
 米国の健康統計はあのごちゃごちゃした社会を伸してしまうので、めちゃくちゃな結論が出がちだ。が、ある程度の層にフィルタをかけると、なにかとえ?みたいな世界が出てくる。ぼんやりと米国を見ていると、デブ、アホ、マッチョしか見えないのだが、利口なヤツは馬鹿みたいに利口だし、文学も深い。
 とはいえ、飯もろくに食わない米国人が長生き・自立というのはどういうことなのだろう。生存競争の勝ち組というだけだろうか。医療の根幹で日本が学ぶ点は多いような気がする。
 100歳以上で思い出したが、長寿沖縄というは嘘、で男性の平均寿命は国内平均以下。女性は長寿であるが、このイメージは100歳以上の人口比に依存したものだ。香港なども統計上は長寿なので、近代化と温暖な気候は長寿に良いのではないか。
 米国ではカロリー制限で長寿みたいなブームも若干あるが、人間などもともと飢餓に適用する生物なのであまり食わなくてもいいのかもしれない。

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2004.01.23

国立劇場おきなわ、で、トホホ

 朝日新聞社説「南の劇場――チャンプルーの新風を」をよんでトホホとかつぶやいてしまった。知らない人もいるかもしれないで冒頭を引用する。


 沖縄県浦添市に政府の沖縄振興策としてつくられた「国立劇場おきなわ」で、きょうから開場記念公演が始まる。
 国立の劇場はこれまで東京と大阪にしかなかった。琉球王国以来の芸能を伝える劇場を。そんな地元の誘致が実現した。

 そりゃよかったと言いたい。トホホなんて言いたくない。というわけで、あまり詳細に触れる気はない。でっかい箱ができて終わりにしないでくれとも思うが、沖縄県民に関係ないこの箱を沖縄県民が利用できるような宴会場にしたほうがいいと思う。
 朝日新聞社は沖縄の地元新聞社沖縄タイムスと記者交換をやっている。交換された記者たちはそれぞれよく相手を理解しているから、朝日新聞は沖縄の現状をよく知っている。沖縄タイムスのほうも本土のサヨっていうかよく知るようになる。筑紫哲也も復帰時のそういう青年であった。娘の名、ゆうな、も洒落ではない。沖縄は記者によっては深い経験を残す。
 この社説も裏もよく理解して書いてある。トホホなんて言うべきじゃないなと思うが、トホホと口をつく。

 こけら落としを前に「国立劇場にふさわしい出し物にできるのか」といった不安の声も聞かれた。組踊の役者たちは長く生計を立てることに追われ、発声や演技を十分磨いてきたとは言い難いからだ。

 そーゆーことなのだが、が、沖縄のものすごい結婚式に参加した経験者なら、吉例余興で沖縄人の尻もジークル(自黒)とも限らないなと知るともに、演芸が消えることもないことを知っている。二十代半ばの女性だって、「あんたももうおばんさんなんだらカジャデフー(かぎやで風)練習しなさい」である。組踊りとは違うが、組踊りに派生するものもが消えることはないだろう。そして、戦後の状況を見れば、沖縄の芸能を民衆が支えていたのである。国立劇場もいいのかもしれないが、玉城村にある「うどい」を支援したほうがいい。ご関心があれば琉球新報ニュース 公演5000回達成/玉城村の琉球舞踊館「うどい」を参照して欲しい。近くにチャーリーという戦後沖縄料理の代表のレストランもある。
 些細なことだが、朝日新聞もわかっていて言うのだろうがこれは、ちといただけない

 沖縄にはチャンプルーという名物料理がある。外来のものを地元の食材と混ぜて調理し、独特の風味を生み出す。新しい劇場もそんな精神で沖縄の外にも目を向け、知恵や活力を取り込んで幅を広げたい。

 うちなーんちゅうもそう考えている人が多いが、ちゃんぷるーは、島豆腐を必ず使うのである。アジクーター味と泡盛も欠かせない。残念ながら沖縄で普通の島豆腐を探すことは簡単ではない。アジクーター味はMSGとポークになっている。これもトホホである。
 トホホついでの余談だが、古賀潤一郎は高卒で確定した。週刊文春に調査の原コピーがあるが学位がないと記載されていた。B.A.が問題だったようだ。それにしても、他の米大学も学歴が嘘らしい。胡麻臭いやっちゃなと思うが、この男、私より1つ歳下。ある意味似たような境遇で似たような時代を生きてきたのだろうなと思う。私はきちんとB.A.はあるが、人生の面では敗残者である。我ながら胡麻臭い人生でもある。日々之トホホである。が、古賀潤一郎みたいに生きてこなくて良かったなとは思う。人生のなかに嘘を組み込んで生きるほど自分は強くない。アメリカの大学の卒業式は、映画などで見るように、あのヘンテコなガウンと大隈重信のような帽子をかぶる。あの帽子に変なちっこいハタキみたいなぶら下がっているが、あれは実は伊達でも洒落でもない。それを知った経験は忘れられないものだ。学資を出してくれた親の恩でもあるし、教師への恩でもあるし、自分の青春でもある。忘れることはない。
 古賀潤一郎さん、今からでも欠落した単位を取れ。Undergraduateなら再入学は難しくはないよ。

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2004.01.21

市町村議員を減らすだけでは危険なことになる

 産経新聞の尻馬に乗るみたいで痔が痛むのだが(嘘)、社説「地方議会 合併特例の肥大化許すな」はよかった。これは誰かきちんと言わなくていけないと思う。問題は、こうだ。


「平成の大合併」が進む中で、合併する市町村の全議員が合併後もそのまま議員として残ることのできる合併特例法の特典で、各地にマンモス議会が誕生している。報酬も高いところに合わせるケースが多く、合併の焼け太りともいえる肥大議会が、財政圧迫の新たな要因となっている。議員の定数や報酬は、各自治体ごとに条例で定めるのが決まりで、特例法への安易な「右へならえ」は許されることではない。

 都市民には関心ないけど、これって、もう喜劇じゃなくて悲劇。なんて言ってないでなんとかしなくてはいけいない。だが、産経がこの後続けるように、議員に任せず住民がなんとかせい、ではダメなのだ。全然地域のことがわかっていない。
 日本の地域社会は、フィリピンの地域社会のように伝統的なパトロン-クライアント関係で成り立っているのだ。パンドーレとか言うのだったか忘れたが、地域には親分がいる。ま、社会学的な話はさておき(ほら、そこの社会学専門さん、ツッコメ)、こういうボスの安定機構が市町村レベルの議員の半数以上、およびその派生の権力構造で地域社会の実質的な治安的な権力が維持されているのだ。だから、これを潰せという単純な話では地域社会が壊れてしまう。ああ、もうちょっというと、この権力構造は地域に残留させられた弱者の保護装置でもあるのだ。
 もっともだからといって、こんな阿呆な状況を温存させておくわけにもいかない。なんとか代替的なNPOでもぶったてて名誉職を組織化したほうがいい。そして、はっきりいうけど、金はある程度ばらまく必要がある。餅を買うのだ、餅を。
 これに関連して、非常にやっかないなのが、地域社会に介在してくる市民団体だ。端的に言えば覆面サヨクか創価学会なのである。特にサヨクは、貧乏に耐えるから組織経験ありすぎ。
 関連して毎日新聞社説「公共事業改革 住民参加で意識転換図れ」で標題どおり、住民参加、よーし!とかヌカしているが、これもそう単純な話ではない。まず、地方行政の規模が問題になる。ある程度規模があれば、中産階級の沈黙の市民が圧力となってそう阿呆な事態にはなりづらいが、規模が小さければ、馬鹿丸出し暴走するは必死。
 結論は先に述べたとおり、代替の権威のシステムということだが、ついでに言うと、都市民のこの、地方への鈍感さはなんだろうと思う。もちろん、メディアの問題も大きい。大手新聞なんて基本的に都市部のものだし、日本の地域には宅配もされないのだ! もっとも宅配されればいいっていうものでもないが、すくなくとも市民社会構成のための情報伝達としてのメディアは事実上存在していない(NHKがあるか)。あるのは、大衆文化だけであり、大衆文化は、なんだかんだ言ってもこれも都市集中なのである。

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2004.01.11

初等教育が変だ

 日経新聞社説「気がかりな止めどない労働組合の衰退」で指摘されている労組衰退の事実が面白かった。論旨は別にどってことはない。日経としては労組頑張れとしたいのだろうが、無意味だろう。私としては、労組の衰退に心からどす黒い喝采の声を上げたい。おまえらこそ、派遣労働者や非日本籍の労働者の敵だ、つまり、本当の労働者の敵だと呪いたいのである。そう呪わせる経験が私はある。でも、それはあまりに複雑な私怨かもしれないので、話は膨らまさない。
 読売新聞社説「決断の年 教育のグランドデザイン描け 基本法改正の時だ」のネタをなんとなく取り上げる。読売の社説はつまらないし倒錯している。が、読売新聞に批判を投げても無意味だろう。教育について、こうした読売的な考えの人たちに私は違和感を持つ、というくらいだ。彼らは教育を良くするにはこうしろという。


 そのためには、基本法を改正し、家族や国など、自分を超え、自分を支える共同体の価値について、子供たちに学ばせる必要がある。

 罵倒したい気もするが、どうも萎える。自分も爺臭くなったなと思うのは、気力のある人間には馬鹿野郎と言いたいが、この読売社説のような意見の持ち主には気力なんかないのだ。共同体の価値を知る者やものを学ぶということはどういうことかわかっている人間なら、けしてこんな戯けたことは言わない。共同体の価値を子供に学ばせたいなら、電車のなかで中年の男が老人や妊婦、障害者に席を譲ることから始めるべきだ。くどい徳目のリストを書くまでもない、大人が共同体の価値を信じているなら、子供に伝わる。この手の教育議論が無意味なのは、大人が問われているからだ。
 話はずっこける。NHKクローズアップ現代で学力低下のテーマをやっていた。なんでも、小学校の学力調査をしたら、子供の学習が思ったように達成していなかったというのだ。番組自体の作りは悪くない。小学校教諭の情熱と、「なんでこんなの覚えてないのか」という悔し涙の映像も悪くなかった。しかし、率直に思ったのだが、こういう情熱的な先生がいる学校なんか嫌なものだ。無気力なロボットのような先生よりはましかもしれないのだが。
 番組中、こんなふうな問題が出てきた。

    46×7+54×7

 これの解き方は、(46+54)×7としてから数値を出せということらしい。ぼんやり見ていて、はっと目が覚めてしまった。おい、冗談はよせ。そんなもの教育でもなんでもないぞ。
 実はその前に、いやな予感はあった。たとえば、この手の問題だ。

    40-16÷4

 この手の問題で割り算を先にすることができないという生徒が多いと、教員は嘆いていたのだ。ちょっとまいった。今の算数教育の馬鹿さかげんだな、とちらと思っていたのだ。確かに割り算という演算規則ではそうなる。
 だが、割り算という演算は掛け算の逆算だし、引き算という演算もマイナス値の加算なのだから、さっさと合理的な演算体系を習得させたほうがいい。関連して思うのだが、分数の小数だの数の集合の違うものをごちゃごちゃにするのをやめたほうがいい。
 それにしても、数学者はこの惨状になにも言及しないのだろうか。この話は以前も書いたな。
 言っても無駄なのだろうか。同じようなことは他の学科にも多い。国語の漢字はただの丸暗記だ。康煕字典など知らなくていいのだろうか。英語にはいまだにフォーニックス(Phonics)が導入されていない。理科教育もひどい。社会科も意味が抜けている。
 と、言葉につまる。

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2004.01.08

朝日新聞の「外国人」意識

 どうでもいい話ではあるが、朝日新聞「ちょっと元気に――町の小さな『大使館』」に苦笑した。日本人と結婚し気仙沼で暮らしている42歳のクェート人が、地元の「外国人」をサポートしているという、ありがちな美談だ。私など、そのクェート人の出目自体に下品な関心を持つのだが、そういうインフォはないし、それはとりあえずどうでもいい。苦笑したのは、結語だ。


 外国人抜きには産業や生活が成り立たない時代が来つつある。日本の将来を先取りする知恵と工夫を広げよう。

 私には、これは、未来永劫「外国人」として差別しようというかけ声にしか聞こえない。朝日新聞は、所詮「外国人」など日本を出稼ぎ先と見て安心しているのかもしれない(朝日新聞なんか購読できる金銭的な余裕もないしね)。
 私の感覚からすれば、そういう外国人に日本籍を与えて日本人にするか、居住の保護を強めて実質上の国籍の保護をすべきだと思う。そういう発想は朝日新聞にはないのだ。サヨクってのは、反米だからじゃないけど、結局民族主義者なのだ。民族仲良くとか表向きほざいているけど、日本国家を開こうとはしない。
 やけっぱちのようだが、それはサヨクの戦争反省の意識にも現れている。つねに、アジア対日本という構図で、アジアに謝罪するのだ。なにも謝罪ばかりがのうでもあるまいというのは私にはどうでもいい。私が気になるのは、そういうアジアに向き合う実体としての日本だ。そんな日本を固持することで、沖縄がますます理解できなくなる。端的に言う、沖縄は日本か? そうだということになる。だから、沖縄人もアジア人に謝罪せよというのだ。おい、おまえさん、沖縄戦知っているか? なに吉田司が、沖縄人だって戦争に荷担したと言っている? あのな、誰が誰に殺されたのかと考えて欲しいよ。それが戦争っていうものだよ。アジア人っていつ国家に閉じこめられたのか。靖国神社には台湾人も韓国人も祀られているが、彼らはどっち? 日本に荷担した悪いやつだから、日本人の側に入って、アジアに謝罪せよか。もう、そういうゲーム自体、やめろよと私は思う。国家としての国策のけじめが必要だし、そのラベルが「謝罪」であってもいい。でも、問題はそういう日本の国策の問題というゲームに閉じるべきだ。日本文化は大切にすべきだし、日本という国が確固としてあってもいいと思うが、それは日本国民の政治表明であって、無前提な民族主義は右翼も左翼もやめてもらいたいものだと思う。
 朝日新聞は正義面してこうも言う。

 日本にはいま超過滞在者を含めて200万を超す外国人がいる。少子化に伴う労働力不足や国際化の進展で外国人は増え続けるのに、政府の態勢は省庁の枠を超えて総合的に考える機関すらできていない。

 絶句する。アメリカは少子化ではない。理由はなぜか。ヒスパニック系が子供を産むから。国というものはそういうものなのだ。「少子化に伴う労働力不足や国際化の進展で外国人は増え続けるのに」というふうな発想は、米国の文脈でいえば、白人主義と同じだ。朝日新聞って、実は、そういうことを言っているのだ。
 この話はこのくらいで止めよう。日本人の庶民がなんだかんだと「外国人」と摩擦を起こしつつ、それを終局的に日本に包括するという方向で考えるほうがいいと思う。ちょっとうんこ投げられるかもしれないけど、在日が減って、朝鮮系日本人が増えるほうが、日本社会にはいいことだ。ああ、抑えられない。キョポ(僑胞)と呼ばれるより日本人になれよ、と。そうすることで、日本を開いて欲しい。

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2004.01.07

社会の男女差別は問題だが…

 朝日新聞社説「男女差別――和解は大きな前進だ」を読んで複雑な気持ちになった。極東ブログ毎度のくさしをするつもりはない。この手の問題は無視するほうがいいのかもしれないとも思う。ただ、自分の心のなかのもやっとした気持ちに向き合ってみたい。またしても私的な話かよと、言われるかもしれない。そうなのだ。ごめんな。
 社会問題としては表面的にはそれほど難しくはない。朝日社説のきっかけも単純といえば単純だ。


 「女性であることを理由に、昇進や昇給で不当な差別を受けた」。住友電気工業の女性社員2人がこう訴えて、同社と国を相手に損害賠償を求めていた8年越しの裁判が、大阪高裁で和解した。
 会社は50代の原告2人をそれぞれ課長級と係長級に昇格させ、500万円ずつの解決金を支払う。国は実質的な性別による雇用管理をなくす施策を進める。そんな内容だ。一審判決を覆す事実上の勝訴である。働く女性たちは、大いに励まされるだろう。画期的な裁判所の判断を評価したい。

 裁判としては当然の結末ではないかと思う。朝日は後続段で昇級に踏み込んだ点を評価しているが、今回の裁判のポイントはそこだろう。国への施策にも踏み込んでいるように、会社内での女性差別の問題は金銭の問題ではなく組織の問題とせよということだ。当たり前のことだ。
 この判決の影響で住友電気工業は他に4人の女性を昇級させたという。それも当たり前といえば当たり前のことだ。だが、と口ごもるのだが、庶民の感覚としては、朝日のように威勢のいい正義のラッパを吹いて済むことでもない、と苦笑話になるのではないか。些細なことだが長年の差別に500万円の解決金が見合うのかわからないし、そうして昇級した人がやっていける人事を持てる大会社っていいな、呑気だな、と大衆の標準は思うのではないか。私のようなスネ者でも、娑婆ってそうじゃないよということくらい知っている。
 娑婆の会社は女性にさらに厳しいかというと、そうとばかりも言えない。というのは会社の競争生存の原理がキツイから、有能な女性をタメておくことなどできない。大会社を呑気だと思うのはそんなところだ。社会学的に補強できるかわからないが、私の世間知からすれば、能力のある女性はその能力に腹をくくれば30半ばで社会にきっちり生きる。日本にはそういう能力主義がある。馬鹿なと非難するやつがいたら、少しばかり中年男のドスを効かせて「そういうもんだよ」と言ってみたい。
 もちろん、そんなことが本質的な解決になるわけでもない。なにより、女性の一生でそんな腹のくくらせを迫るというのはどういう意味なのか、実はよくわらかない。男はといえば、ある意味もっと苛酷な状況に10代くらいから腹をくくっているものだ(ああ、俺の人生なんてこんなものだなぁ、いい天気だな今日も、という感じである)が、問題は、そういう内側の腹のくくりではなく、イヴァン・イリーチのいうシャドーワーク的なもの、なんて気取ることもあるまい。端的に、中年に至る時期の家事育児の問題だ。
 中年までフェアに男が生きてみれば、社会の仕事のきつさというのは家事育児のきつさと同じくらいものだ。若いころの「恋愛」のなかで密かに誓った思いというのは、端的に家事育児のきつさにも耐えようという決意であるものだ。昨今、恋愛難民だの恋愛なんかいらないと吹聴するヤカラがいるが、ふざけんなよ、男の純情なくして家事育児の修羅場は耐えねーよ、と思う。
 だが、それに耐えようとしても、男は無力なものだし、また、その無力を覆うように日本の会社社会ができていた。と、甘えんじゃねーと言われるかもしれないが、率直言うのだが、男はたいていそんなに強かぁねーよ。
 日本は絶対的には貧しい社会ではなかったが、相対的に貧しい社会だったので、家庭の収入が家庭の運営の一義的なモチベーションになっていた。だが、それはあくまで相対的な貧困であって、絶対的な貧困ではない。その分、家庭はフィクションにならざるを得ない。稼ぐ旦那と主婦というフィクションで、それにがんばる子供を加えてもいいかもしれないし、少しエコや市民運動的なフレーバーを付けてもいいかもしれない。消費を増すことで相対的貧困のスレショルドを高めてもいいかもしれない。いずれ、フィクションだから意味がないのではなく、フィクションだからフィクシャスにその姿は変わるというだけだ。現代の離婚などもそういう普通のフィクションの変奏でしかない。今その相対的な貧困をパラメーターとするフィクションは、多様ではあっても、すでに男を守らない形態になっている、と思う。
 話が曖昧になってきたが、現在大手の呑気な会社や公務員はさておき、女性の社会評価を根本で狂わしている、男のその無力感の回避メカニズムはもう機能しなくなった。以前も十分に機能していたわけではないが、隠蔽するだけの相対的な貧困があった。今は男の無力はうまくサポートされない。もっとも、それでも、女のように腹をくくるかという切羽詰まったものもないから、甘チャンであるとは言える。
 と書きながら、そんな濃い世界自体、若い人間なら、男も女もパスしてしまいたくなるだろうなと思う。私としては、パスするなよと言いたいが言えるほどでもない。ついでにに、今朝の朝日新聞社説「ちょっと元気に――京の町家に住む新鮮さ」では若い世代が古い町に生きるみたいなことを美談仕立てにしているが、30代前半の子供のない夫婦二人だけの生き様など、あえて言うが、どうでもいいことだ。
 話が重くなったので、先の朝日の社説の結語でも笑い飛ばして締めよう。

 どの企業も労組も今回の和解の意味をかみしめてほしい。日本では、まもなく労働力が不足する。年齢や男女を問わず、一人ひとりの意欲と力を生かす。そういう職場にしなければ、会社は生き残れない。

 けっ、朝日の労組さんたち、ご勝手に。

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2004.01.06

景観が問題ならまず標語の立て看をはずせ

 本題前にちと横道。朝日新聞社説「ちょっと元気に――跳んでみよう団塊世代」がすごい話だった。高齢化を向かえる団塊の世代に頑張れというのだ。もちろん、それ自体はどうっていうことではない。


 「ぬれ落ち葉」なんて言葉がはやったのは、バブル景気のさなかだった。定年後の亭主は、ほうきで掃き出そうにも、女房にへばりついて離れない、と。
 バブルがしぼんで、気がつけばサラリーマン受難の時代。定年後どころか、まずは会社にへばりつくことが先決、といった気分が世の中を覆う。

 え? 団塊の世代って男を指すのかとまずツッコんでおこう。そして、「挑んでみよう」として新たに事業を起こしたい人たちはどうすればいいかについて、杉本さんというかたのアドバイスを4点挙げているのだがこれがすごい脱力もの。

  1. 1、2年分の生活費を準備
  2. 生活費と事業資金を分ける
  3. 家族の理解を得る
  4. 何事も楽天的に考える

 杉本さんというかたはそれでいい。がこれを社説の記事として書いた執筆者を早期定年させて娑婆の空気を吸わせろよと思う。この話題はこれで終わり。
 今日社説であれ?っと思ったのは、日経新聞社説「にっぽん再起動(最終回)子孫に誇れる美しい国土をつくろう」だった。といっても、この社説の内容自体は標題から連想される以上のことはなにもない。私が変な感じを受けたのは例えば次のようなくだりだ。

議事堂の景観問題は日本の都市計画の貧困を象徴している。日本人は欧米の街の美しさに驚く。古城や教会などはもとより普通の商店街や住宅までが美しいのは、都市計画に基づいて質の高い景観を維持しようと地元が努力を続けてきたからだ。

 私は欧米の街に深く馴染んだことがないので、嘲笑されてもかまわないのだが、端的に問う、「日本人は欧米の街の美しさに驚く」か? 普通の商店街や住宅までが美しいか? なにか勘違いしていないか。もちろん、感性の問題かもしれないのだが。
 関連してこれも私は変だと思う。

日本もかつては美しい風景を誇る国だった。家々の落ち着いたたたずまい。緑あふれる街並み。日本の情緒を映す風景は戦後、次々と姿を消した。街はコンクリートで固められ野山を公共事業が蹂躙(じゅうりん)した。無計画な東京一極集中と、地方の過疎化に拍車がかかった。

 本当か? この文章を読むと戦前の風景は美しいというのだから、執筆者は何歳だ。戦時の国土を美しいというわけもないとすれば、昭和15年以前か。すること執筆者は70歳。老いのたわごと? もし、経験者でないなら、その風景とやらはどこから来たか? メディア? すでに現実と幻影の区別が付かないのか。
 と、皮肉るわけでもない。こうした日本の景観論はおかしいのではないか。つまり、欧米は美しい、日本の戦前は美しい…。
 私としては、率直に言うと、そんなこともどうでもいい。新潮「考える人」連載中島義道を真似るわけではないが(参照)、日本の景観が美しくないのは、まず、街に溢れる標語の立て看などはないのか。ドイツ人の若いお姉さんだったが、「目の侮辱」と書いていた。
 美観というのは、多様なものだ。比較的最近のニューズウィークの日本語版だったが(と探す手間を省くが)、日本の都市の夜景の美しさを賛美している外人がいた。他になんだったか、日本の文字に埋め尽くされた繁華街に奇妙な美観を感じている外人もいた。なるほどと思うかよけいなお世話と思うか。
 個人的な思いを少し書いて、今日は終わりにしたい。中央線で荻窪あたりから新宿までの高架で街を見ていると、私は東京というのはスラムに見える。だが、あの赤さびのような家々とその路地には、舞い降りて見れば、奇妙な秩序が存在していて不思議な宇宙を形成している。次の震災で一掃されるのだろうが、火災と流言飛語がなければ、このスラムのほうがはるかに安全なのかもしれないとも思う。美しい光景とは思わないが醜いとも思わない。ある生物のある最適な生息の形態かなと思うし、それには関心を持っている。いつもあそこを電車で通るときは、昔の子供のように、私は電車のガラスに額を押し付けて飽きもせず見ている。

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2004.01.03

靖国参拝問題がわからない

 新年の新聞各紙社説はあまりピンとこなかった。自分の受け取り側の問題もあるのかもしれないと思う。ピンとこないと言えば、私は靖国参拝がよく理解できない。私は歴史に関心をもつ人間だし、よく寺社仏閣巡りなどもしたほうだとは思う。僧坊に泊まっていたとき、どっかの婆ぁさんに「お若いのよい信心なさいますな」と若い頃は褒められたくらいだが、かく書くように実は私には信心はない。宗教に関心を持つほうだと思うが、なにも信じていない。宗教的な苦しみはもちろん持つのだが、既存宗教にその解決を求めたことはない。ようするに音痴みたいなものだ。
 昨日雑煮にかこつけて、父のことや家系のことを書いた。それからインパールで戦死した叔父のことを思った。父なき今、叔父を追悼するのは棟梁たる私のつとめかとふと思った。彼は靖国に祀られている。参拝にいかなくてはなと思うが、そこにさして英霊がいるとも思っていないし、それほど靖国に思い入れはない。叔父は私の生前に無くなったが、どうも、亡き父や祖母に聞いたことを思い起こすに、私のような人間であったようだ。私は彼らの目からは叔父の生まれ変わりのようにも見えたのではないかと思う。叔父といっても、22、23で亡くなった青年であったのだ。
 小泉の靖国参拝もさして私の気にとまらない。彼は知覧で号泣したというから英霊への思いも強いのだろう。イラク派兵の死者を見越しているのかもしれない。
 私は英霊という問題については何年も考え続けた。彼らは犬死になのか?騙されていたのか? 私は叔父は国家に殺されたと思う。それにあらがうことなどできなかったのだと思う。私もその状況にあれば、国家に殺されるのだと思う(そして実際に殺されるときに「ああ、俺はお国のために死ぬのか」と思うだろう)。私は国への愛はあるが、あの悲惨なインパール戦は評価しづらい。だが、私の英霊問題の解決は年とともに自然に解決した。不気味なことを言うようだが、英霊の思いは私のなかに生きているのである。端的に彼らの思いは私に蘇って生きている。それだけのことだ。それはとても自然なことだ。だが、それをうまく語ることはできない。神秘的な話をしているつもりはない。そうした自分のありかたに対して、靖国の持つ地歩は、しかしあまりない。繰り返すが、こうした問題に私は音痴だからなのだろう。
 小泉が靖国を参拝した問題について、朝鮮日報はこう言う。


日本がアジアの被害国家に最低限の礼儀でもわきまえる思いがあったなら、第2次大戦の戦犯を除いた新たな追悼施設の建立論議を、あれ程簡単に放り出しはしなかったはずだ。

 私は端的に、そうだなと思う。追悼施設を作ればいいだけのことではないかと思う。対するに産経新聞社説はこうだ。

 日本における戦没者慰霊の中心施設は靖国神社である。首相の靖国参拝が中国からの抗議で中断される前、歴代首相はほぼ毎年、春秋の例大祭や終戦記念日などに靖国参拝していた。小泉首相が「年一回」と言わず、何度でも靖国参拝を続けることにより、それが慣例として再び定着することを国民とともに願いたい。

 「日本における戦没者慰霊の中心施設は靖国神社である」そう言われても、そう思う人がいるんだなというくらいにしか理解できない。大平首相や速見日銀総裁はクリスチャンだったから、日曜には礼拝に行っていただろうと思う。個人がどんな信仰を持つのもさして問題になるわけでもないし、大平首相や速見日銀総裁のような大人が国のために死んだ兵士を追悼する心がないわけもない。靖国などめんどくさいこと言うなよ、なのではないか。
 書くだけくだらないことになる。私は、英霊が犬死にだとも思わない。強い思いを私に残したのだから。あの戦死者は我々が弔っていかなくてはならない。だが、それが靖国である必要が私には理解できない。

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2003.12.27

「学力重視」の退屈さなど

 年末である。今日から日本の都市部に出稼ぎに来ていた日本人が本来の日本に帰るのである。もちろん、多少の悪意ある皮肉だ。私は東京で生まれ育ち、どこにも帰る日本はないはずだが、それでも父母の故郷長野県に帰りたいような奇妙な錯覚を僅かに持つ。
 今朝の新聞各紙社説はそれほど面白くはない。毎日は「藤井総裁の反乱 道路ではなく権力のために」で、藤井総裁の動向をネタに多少ヒネリを効かせたエッセイを書いて見せたつもりなのだろうが、話が腰折れしていた。読みながら、これはたぶん社説に書く話ではなく、ブログのネタなのだろうと思った。毎日新聞の社説のブレはある種、脱新聞の兆候を示しているのだろう。
 社説ネタとしては、朝日の足利銀行、読売の石原銀行(皮肉である)など、極東ブログで触れたほうがいいのかもしれないとも思うが、さして新規視点はない。先日の為替問題でもそうだが、私自身、新しい世界の経済動向を勉強しなおしたほうがよさそうだなと思う。これには二つの含みがある。一つはそのまま単純に「勉強しよう」ということ。もう一つはリフレ論の背後に共通一次試験世代の影がちらつくことの意味を正確に理解できるようになろう、ということ。端的に言って、ある種の知的なサブカルの風景のなかで山形浩生がこんなに巨人だったのかと最近ようやくわかって呆れた。もちろん、彼がかつての浅田彰などのようにアイドル的な中心というわけでもない。この問題は語ると長くなりそうだが、団塊世代の知が瓦解していく前に、その下の空白の世代の一人として少し知識を補強をしておこうと思うのだ。
 社説ネタで多少気になったのは、「学習指導要領の一部を改訂」の問題だ。読売、日経、産経が扱っていた。どれも話はつまらない。読売に至っては、お笑いである。


 今、脳科学の立場から、小学校では基礎、基本を中心にする授業が望ましいとの指摘がされている。文化審議会国語分科会が、小学校の国語の授業時間を大幅に増やすことを提言もしている。

 おまえ、馬鹿だろ、といきなり言いたくなるようなこと書くなよと思う。産経もお笑いを外さない。

 日本人は本来、学問が好きな国民である。江戸時代には藩校や寺子屋が普及し、武士から庶民まで読み書き算盤(そろばん)を習った。明治五(一八七二)年に学制が公布され、義務教育(当時は小学校)が急速に普及したのは、江戸時代からの寺子屋教育が基礎になったからだといわれる。これが日本の近代化の原動力にもなった。

 なんだかなである。学問というものの意味がわかってないよ。それを言うなら近江聖人の話でもしろよと思う。産経のようなポチ保守が日本の文化を理解していないだ。
 こんな馬鹿な爺ぃが教育をテーマにしている醜態な日本の現在なのだ。と、言うものの、そういう自分はどうかと顧みて、この話題にあまり首を突っ込むのも下品だなと恥じる。
 テーマの扱いとしては、日経は多少ましだ。

その一方で、教科ごとに教える内容の上限を定めた「歯止め規定」については、中央教育審議会から見直しの提言を受けながら、従来のままとされた。教科書ではすでに制限を超えた教科内容がコラムなどの形で採用されており、指導要領の「基準性」の解釈を巡る行政と学校現場のギャップは放置された格好だ。

 ふーんという感じがする。教育の行政などどうでもいいじゃないかと言いたくなる。米国に文部省はない。要らないからだ。なにも米国にならえというわけじゃないが、文部省は自由主義国家に不要だ。あ、現在は文部科学省か。科学かぁ。
 科学はつねに最先端が面白い。ダークエナジーなど小学生高学年に話してやれるだけの器量のある啓蒙家はいるのだろうか。知は一面楽しむためにある。人生は知がなければ退屈なものだ。センター試験以降の世代にとって知とは己の値札になっているようにも見える。蓮実重彦が言うような、知の放蕩という感覚は知の基本になるのだろう、と思う。

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2003.12.24

たばこという社会福祉(もちろん皮肉)

 各紙社説からはとくに取り上げるべき話題はない。ふと思ったのだが社説というのはなにかを取り上げないための饒舌なのかもしれない。社説ネタではないが気になっていた、たばこ税のことで雑文を書いてみたい。
 ニュースにならなかったわけではないのだが、どうもマスメディアの問題の扱いが軽いように思えるのはJTがCMに影響力を持ちすぎているからなのだろうか。喫煙反対の市民運動も多いはずなのだが、たばこの税の問題には沈黙しているように思える。私の感性がずれているのかもしれない。、
 話は15日のことだ。国と地方の税財政改革、通称三位一体改革で、首相諮問機関である政府税制調査会は「2004年度の税制改正に関する答申」をまとめ、この15日に小泉首相に提出した。答申では、個人住民税が応益性や自主性の要請に最も合致しているとしたものの、委譲は2006年度とし、その間の暫定措置としては、次年度のたばこ税の移譲が現実的だとした。そんなところだろう。ところが、翌日16日に、政府税制調査会の答申したたばこ税は、所得譲与税に切り替えられた。なんだそれ。これが民主政治なのか。自民党税調なんてものは、国の機関じゃない。自民党の党組織上の、政務調査会の一つの調査会に過ぎないはずだ。
 その晩にミステリーがあったわけではない。読売系の「『たばこ税』一夜で葬られ『所得譲与税』」(参照)では次の軽くまとめている。


関係者によると、政府税調が小泉首相に「たばこ税」を答申した15日夕、すでに自民党税調はたばこ税の不採用を決め、16日昼に幹部が「不採用談話」を発表する段取りまで整えていた。政府税調がこれを知ったのは答申直後で、答申はすでに小泉首相の手に渡っていた。

 本当か? もちろん、このストーリーに嘘があると言いたいわけではない。この文章からでは、ちょっとスケジュールミスっていうトーンになっているのだが、それは本当かと疑いたいのだ。なにしろこの読売系の話には山中貞則の「や」も出てこない。現代版枢密院自民党税調とナベツネの結託は恐ろしいものがある。産経は、「理念より参院選意識 首相の指導力不足指摘も」(参照)もう少し掘り下げている。

 この日の党税調で所得税への移譲を提案したのは片山虎之助前総務相だったが、税源移譲問題は最後まで迷走した。
 「かつてたばこ税導入を苦労してまとめ上げたのは山中(貞則・自民党税制調査会最高顧問)さんだぞ。そのたばこ税を『つなぎ財源として地方に譲ります』と誰が山中さんに言うのか」
 十二月初旬、財務省幹部とひそかに会談した麻生太郎総務相は、自民党税調の“ドン”と呼ばれ、財務省にも強い影響力を持った山中氏の名前を出して、基幹税の地方への移譲を迫った。

 誰が猫の首に鈴を付けるのか、大の大人が爆チュー問題やってんじゃないよと笑いたいところだが、その醜態に泣けてくる。なんなんだよ、山中貞則って爺ぃは。
 山中の思惑もわからないではない、おそらく内心、「馬鹿ども」と思ったことだろう。たばこ税がねらい打ちされたのは、税収の偏在が少ないうえ納税者全体への影響が少なく、しかも手続きが楽だからだ。要するに弱い者いじめである。酒税だとめんどくさいし、納税者に負担が大きい。産経の記事にあるように、もともと地方からの反発も強い。そしてなにより、「馬鹿ども」の思惑は、税を小手先でいじる政府税制調査会の態度だったことだろう。そう思うと、山中貞則は国の税の根幹と地方を守っている守護神ようなものか。
 今回のスラップスティックはいただけないが、たばこ税だけの問題に絞れば、私は原則は山中が正しいように思う。だが、たばこ税自体は上げてもいいのではないかとも思っていた(過去形)。理由は簡単でニューヨーク右にならえである。ニューヨークのたばこは高い。1箱7.5ドルだよ。800円くらいだ。20年くらい前、発展途上国に行くときは、ボールペン、100円ライターなどにならんでたばこをお土産にするといいと言われたものだが、今やカートン必須はニューヨークである。そして、今やたばこ増税は健康面でも良い効果を出している。ファイザーの調査では、7月1日のタバコの増税をきっかけにした禁煙は効果が高いとしている(参照)。調査項目を見るとこうだ。

禁煙を始めた理由として、「健康のため」が50.0%と、「小遣い節約のため」(33.6%)という増税による金銭的負担を上回りました。タバコの増税による金銭的負担がきっかけでも禁煙挑戦者の健康に対する意識の高さが伺えます。また禁煙して良かったことは、「小遣いが節約できたこと」(28.8%)が最も多く、「体調が良くなった」(21.4%)、「家族に喜ばれた」(17.7%)、「食事がおいしくなった」(14.9%)と続きました。

 これも泣けてくる。小遣い節約か。マイルドセブン一箱270円。一日一箱吸うか。二日に一箱くらいか。月額で4000円くらい。たしかに、小遣い節約という線だ。それにしても、この小遣い額で「家族に喜ばれた」のだから、きっと純正オヤジからSPA世代の若オヤジども、みんな便器に座って小便をしていることだろう。という話を書いていると、むかつくので路上でほかほかと湯気たてて立ち小便でもしたくなるな、というのは冗談、としておこう。
 以前は、宮内庁では皇居を清掃する勤労奉仕団(あれはなんの宗教だろう)への恩賜たばこ支給していた。止めて久しいから、ヤフオクで高値が付くが、出品できない。今では菊の紋章を焼き付けたお菓子になったらしい。時代だ。それでも、感謝の意はたばこだったのである。たばこというのは、日本の社会制度的にみれば、一種の福祉なのだろう。これ以上、増税して庶民を苦しめるものではないなとも考えをあたらためる。が、かく言う私は、街中の喫煙者をどなりちらすオヤジでもあるのだが。

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2003.12.23

毎日新聞曰わく、溝口財務官は狂気の沙汰

 日々之社説というわけで社説を読むだけのマシンと化した極東ブログが、ふっと我に返る瞬間は少ないのだが、今朝の毎日新聞社説「溝口財務官の介入 究極の円高政策だった?」は久々のクリーンヒットで目が覚めた。素直に言うのだが、私がいかに経済に無知であるかということの告白にもなる。ちなみに基礎知識はこちら
 問題は、覆面介入こと溝口善兵衛財務官が円高阻止のため自国通貨売りを続けてきた問題だ。毎日新聞社説の言葉を借りるとまさに「狂気の沙汰」だ。先日もふっと1兆円である(参照)。しかし、そんなことに驚いていたわけではない。やられたなと思ったのは、結語だ。


 米国の「双子の赤字」に不安が高まっている状況下では、ドル買い・円売り介入を続けても、ドル安傾向に変化はない。いくらでも介入するとの決意は、ドル売りに安心感を与える。介入が膨らめば外為特会のドル資産も増える。その資産は円高では目減りする。
 何のことはない、溝口財務官の選択は究極の円高政策、海外資産目減り政策だったのではないか。

 なかなか秀逸なブラックジョークだなと微笑んだものの、顔が引きつってしまった。それってジョークじゃないのかもしれないという思いが脳裡をよぎったからだ。そんなことアリなのだろうか。なんちゅう国策なんだろう。と思うものの、それもアリかもと悪魔のささやきがこだまする。
 昔の人の言葉で来年のことを言えば鬼が笑うというのがあるが、次年度の市場介入調達枠は60兆拡大(参照)。そこまでするのか。健康のためなら死んでもいい健康マニアみたいだなとも思うが、率直に言って、国家と経済のなにか根幹が私はわからなくなってきている。

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2003.12.21

同性愛が理由の難民について

 こんな話題に鼻をつっこむのもどうかなとは思うし、特に自分になにか決まった考えがあるわけでもないのだが、無意識にひっかかる感じがするので書いてみよう。話題は、同性愛が処罰となる国から逃れることは難民かということだ。もちろん、難民だという判決がこの9日オーストラリアの連邦高等裁判所で出た。認定されたのは、バングラデシュ出身のゲイのカップルだ。バングラデシュでは同性愛は犯罪とされるらしい。毎日新聞によると、「9年前から交際している2人は警察ややじ馬に殴られ、仕事をクビになるなどして、99年に豪州に移住した。」(参照)とのこと。
 些細なことだが今から9年前ということなのだろうか。この4年はするとオージーたちとハッピーに暮らしていてそこで権利意識というか、政治意識を高めたのだろうか、とも思うがわからない。記事を書いたシドニーの山本紀子記者は「シドニーでは同性愛者の全世界的な祭典『マルディグラ』が毎年開かれ、豪州は同性愛に寛容な地とみられている。」というが、祭典はいいとして、この推定もそれでいいのか、どうも判断に苦しむ。
 裁判では、国連の難民条約にある難民の定義「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員で、政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがある者」にこのような同性愛者が該当するのだと判断したわけだが、判決は4対3と僅差だったようだ。毎日新聞の記事には書かれていないが、確か、この裁判の判事自身がゲイであることをカミングアウトしている人だったはずだ。もちろん、それが判決に直接影響するわけではないが、多少驚きの感はある。関連して気になるのは、オーストラリアはコモンウェルスなので、確か法体系もそれに従っているはずなのだが、そのあたりの波及的な影響はどうなっているのだろうか。
 この問題は、現在社会の文脈では、イスラム圏諸国の同性愛者を難民と認定すべきかとなるだろう。ふーんと言ってはいけない。日本でもイラン人のゲイであるシェイダさんを難民と認定すべきかが目下争われ、近く結審する。この話題については「チームS・シェイダさん救援グループ」(参照)に詳しい。特に、「彼をイランへの強制送還から救うには、日本の多くのレズビアン・ゲイの力が必要です。シェイダさんに暖かいサポートをお願いします。」ということだそうだ。
 私はこの問題をどう考えるか? 実はよくわからない。なにか無意識に錯綜している感じがしてもどかしい。一般論的に言うなら、そういう特殊ケースより日本はもっと広義の難民をなんとかしろよとも思うし、このようなケースを突破口に全体の改革を求めるべきだというのもわからないでもない。
 話の文脈がずっこける。私は若い頃、ゲイに襲われかけたことがある。こりゃやばいぜという窮地に陥ったこともある。飲んでいて、相手にカミングアウトされたころもある。と書くと苦笑するなぁとごまかしたくなるが、一面ではけっこう真剣な問題でもあるはずだ。というのは、それぞれの局面で結果としてその愛に応えない私は彼らの内面を傷つけたようでもあるし、彼らはそういう傷に慣れながら活きているのだろうなというつらさはわからないでもない。そのつらさを切なく描いたマヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」は美しい小説だった。映画のほうはちと趣向が違うが美しい映像だった。
 話を少し戻す。もちろん、同性愛者の難民問題はそういう私的な経験の問題じゃないだろというのは理屈ではわかるし、すっかりオヤジの自分に迫るゲイは、たぶん、もう、いないだろうからのんきでもいられる。また、一般的なマイノリティの問題でいうなら、ここには書かないがもっと深刻な問題のほうが自分に近い。
 マイノリティであるというのは、その内側に運命付けられてみると、どうも世界はしっくりとこないのだが、「さあ、各種のマイノリティ同士が連携し、多様な世界を求めましょうとされても」、それもなんだか違うような気がする。というのは、社会とはそういう差異をある程度捨象して成り立っているように思うからだ……「私」の本質的なことは「あなた」はわからない。あなたの社会で「私」は苦しみ傷つけられているのだが、「私」はそれを隠して活きている……その隠蔽力のありかたが社会の水準だろうとは思う。
 別の言い方をすれば、そうした他者の苦悩への「察し」が社会にこもるなら、基本的には制度だけの問題になるだろうし、そうなれば、イラン人同性愛者も基本的に同性愛者であるがゆえの問題ではなく、その特定の人の政治状況によって制度的に解決されるものではないかと思う。

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2003.12.18

年金問題をさらに取り上げる

 昨日朝日新聞社説の年金問題を取り上げ批判した。年金問題とは団塊の世代の問題ではないか。なのに、それを結果的に温存するさせるような仕組みの社説に違和感を覚えた。それにしてもなぜこれを論じたのが朝日一社だけだったのか、不審な感じがした。が今朝になって、大手他紙が横並びに年金問題を扱っていたのを見て落胆と安堵を覚えた。安堵というのは、どれも朝日よりはまともな話になっていたことだ。団塊の世代をという隠れたキーワードは出さないものの、世代間の問題に意識が向くようにも書かれていたからである。
 各社説のうち、毎日と読売は文章がぼやけていた。読売のぼやけは小泉のロビー気取りでいるからしかたがないが、消費税アップについては明確に書いているので、苦笑する。毎日の論旨がぼやけているのは朝日寄りというか、プチサヨクの正体見たり団塊さん、ということだ。話のオチを小泉のリーダシップ欠落にもってくるようでは床屋談義だ。
 残る日経と産経は手短に逃げているものの悪くない。これを台にしてもう少し掘り下げてみよう。日経の出だしはよい意味で社説のお手本のようだ。


 自民、公明両党がお互いのメンツを大事にしながら、一方でぎりぎりの妥協も重ねた結果の数字。来年度の年金改革に関する与党の案は、そんな印象を強く与える内容となった。日本の社会の中で年金制度をどのように位置づけるのかという強いメッセージは伝わってこない。これでは年金離れが進んでいるとされる若い世代が、ますます遠ざかっていくのではないか。

 当面の問題として、明確に公明連立と若年層年金離れとしている点はよいだろう。ただ、話の内容は結局、公明連立の問題に終始し、年金問題についてはごく結語で触れているだけになった。

 つまり将来の年金の姿を考えるときには、少子化や雇用対策など他の政策をどのようにするかも同時に論じその道筋も合わせて示さなければならない。また医療や介護といった他の社会保障の仕組みによっても、年金水準のあり方は異なってくる。そうした全体像を見ようとしないで、年金だけの世界で数字のつじつま合わせをしているようでは、国民に訴える力は生まれてこない。

 概論としては確かにその通りで、一つの社説でそこまで掘り下げることはできない。私も、問題の複雑さに溜息が出そうだ。年金問題とは、個別にテクニカルな意味での年金問題の裏に、日本の社会構造の問題の2つが隠れているのだからしかたがない。
 新聞各紙はその社会構造を人口構成的に見ているが、極東ブログとしては、2点、(1)これは団塊の世代の問題である、(1)共通一次試験以降の世代の消費行動の問題である、として今後も考えてみたい。
 産経の次の視点は、すでになんども言われていることではあるが、わかりやすい。

 しかし、負担が五割も重くなる経済界や若い世代の反発が強いため、政府・与党案は上限を二十九年度の18・35%に圧縮した。その結果、給付水準(現在59・4%)は現役世代収入の50・1%程度まで低下する。若手の負担を緩和しつつ、中高年にも配慮した結果だが、まだ世代間格差は大きい。
 たとえば、昭和三十年生まれ(現在四十八歳)は、上限20%なら保険料(自己負担分)の三・五倍支給されるが、18%なら三・二倍に低下する。昭和五十年生まれ(二十八歳)は、20%なら二・五倍、18%で二・四倍だ。

 ようするに今回の改革は団塊の世代対応だと読める。また世代を下るにつれ、ふざけんな的になるのも数字で見える。当然、この数字はさらに低くなる。
 産経はオヤジ極まるのでその面で良いことも言う。

 若い世代もいずれは受給者になるので給付水準低下の影響を受ける。それでも全世代で給付総額が使用者負担を含む保険料より多いのだから、年金が「払い損」になることはない。

 ここを強調したい気になるのは私もオヤジだなと思うが、国というのはそういう存在なのだ。思わず、若年層に向けて「若者たち、君たちはマジで日本が破綻すると思うか? そうなることを見越して社会参加するのか? そうでなければ、年金は払うほうが得だよ」と言いたくなる。そしてそれはおそらく正論なのだが、若年層が説得されるわけでもなく、単純に若年層バカだというわけでもない。若年層の未払い問題は彼らの消費活動の自然な帰結であるとともに、その総体として、団塊世代より上の国家運営に「否」を投げかけているのだ。
 オヤジに説得されて年金を払うやつのほうがずる賢いのであって(団塊の世代のようにローンを背負って銀行の金利に目をまちくりさせた経験がないとわからないだろう)、年金なんかまじめに払えば現体制を温存させるだけじゃないか、もっと現在の生活の強度(快楽)を優先するということで、彼らは結果的にこの体制の変容を求めているのだ。繰り返すが、超資本主義にあっては消費の世代的パターンは明確な政治力なのだ。
 そう書き進めてみて、私は、若年層の消費行動にもっと目を向けるべきではないかと思う。モデル家族(世帯)についても論じたいが、別の機会にしよう。

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2003.12.17

薬販売の規制緩和はさして問題でもない

 日経新聞社説「これだけなのか薬販売の規制緩和」は悪くないのだが、少し言及しておきたいと思う。まず、最初に言うが、日本人と薬剤の問題の根幹はジェネリック薬だ。この問題は極東ブログで扱ったのでその論点は触れない(2003.8.23)。
 まず、日経社説で違和感を覚えたのは、結語だ。


 専門家の検討結果を軽々に扱ってはならないが、これでは消費者の深夜の苦痛が解消しないのも事実だ。

 それは「大義」にならないと私は思う。ちょっと私の意見はピントがずれているかもしれないが、鎮痛剤でなんとかなる問題なら、深夜でもお隣さんを起こしてわけてもらえよ。なにも昭和レトロで言うのじゃない。お隣さんというのはそういうためにあるのだ。3件も回れば、市販薬の鎮痛剤くらいあるよ。子供のひきつけでもそうだが、同じ年代の子供をもつご近所さんと面識くらいもっていろよと思う。お隣さんよりコンビニというのは社会の流れかもしれないが、そのくらい大衆の常識として覚えておけよ、日経さんと思う。
 それと簡素に述べるが、日経の次の文章はタメで書いているだけだ。

 厚生労働省の依頼を受け、薬剤師のいない一般小売店で売れる薬の範囲を検討してきた作業グループは16日、下剤や消化薬、体に塗り風邪の症状を和らげる薬など15製品群、350品目が「安全上、特に問題ない」とする報告をまとめた。厚労省はそれらの医薬品を「医薬部外品」に変更し一般小売店で売るのを認める方針だ。しかし、この程度なのかと思う向きも多いだろう。

 それ以上に増やしてもOTC(市販薬)なんて効かない。だったら、ちゃんとした医療の対象にしたほうがいい。コンビニに置く程度の薬は家庭の薬箱に入れておけよとも思う。
 あとは余談だ。市販の風邪薬はほぼ無意味だという話はさておき、ちょっと気になることがある。

 どうもすっきりしない。離島や辺地には薬剤師を置かずに幅広く薬を売れる「特例販売業」が約4700店ある。また厚労省の昨年度の調査では一般薬店の2割強が調査時に薬剤師が不在で、この割合は高まる傾向にある。そうした店が大きな問題を起こした話はあまり聞かない。

 こんなことを書いてはいけないのかもしれないが以前それなりに調査してわからなかったので、もしかするとブログに書くことでたれ込みであるといいなと思う反面、書いていいのか悩むのだが、書く。詳しく書くと問題があるのだが、離島や辺地の薬剤店には、都会とは違った「家庭計画」薬がおかれているとしか思えないのだ。この歴史的な背景はなにか、どうなっているのだ?

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年金問題の基礎に隠されている問題

 今朝の朝日新聞社説「年金改革――やはり大手術しかない」は、まず標題からしてげっそりしてしまうのだが、半ば義務のように目を通す。面白くもなんともない。年金問題など、あたりまえの理性とスェーデン改革でも参考すれば、最善とはいわなくても次善の解決案は出る。なにをぐだぐだやっているのだと思う。毎度ながら朝日新聞的社説の愚劣さは「朝日新聞的社説(自動生成)」(参照)を使っているのではないだろうかと疑うほどだ。ちなみに、このソフトは「朝日新聞社説」という固定観念でできているが、実際の朝日新聞社説はもっと表層的にはやわらかく主婦を見下すような語り口になっている。これにオントロジー上位のサヨク・反米文脈ルーチンを追加すれば、本物の朝日新聞社説になるという冗談を書いている場合ではない。ざっと読みながら、「次」とつぶやくその瞬間に脳のなかのクオリアが凍り付く(いかん、どうも冗談モードから抜けられん)。しばし瞑目して思い当たることがあった。ミダス王の指のような文章がこの社説のケツにあったのだ。


 「団塊の世代」が年金の受給者に回るのはあと数年である。改革のために残された時間はわずかだ。

 あっ、と次の瞬間うかつに声が出てしまい候(←冗談よせ)。そうなのだ、これまでもわかってはいたのだが、年金改革とは団塊の世代の問題なのだ。あいつら、70年代に懲りたかと思ったら、こんなところで、でっかいうんちをしているのだ。思わず「あいつら」とか呟いてしまったぜ。
 「国の年金問題」じゃない、「団塊の世代の年金問題」が年金問題なのだ。そしてそのことはすでに私より下の世代共通一次世代やセンター試験以降の世代の大衆意識にすでに折り込み済みなのだ。彼らは「自分たちの年金であるわけがない」という前提で行動している。もちろん、それはアイディオロジカルな命題ではない。もっと社会の消費構造的に年金が選択されないような社会を作り上げていることの社会学的なモデルだ。
 あえていうとすれば、現在の若者の消費社会を作っているのは、電通の東大出のグループがビデオリサーチを一社に限定するっていうような陰謀じゃなくて、「キミたちの欲望の正当な反映」なのだ。もちろん、責めているわけではない。大衆の無意識を責めても意味はない。端的な話、月額1万3千円が払えない若者は、ほぼインポだ不感症だと70年代用語を書いてもしかたがないが、それだけの余剰を常識で考えれば働き出せないわけはないのに、社会構造的にできないのだ。誰だったが、松下幸之助だったか経営者の爺がたんまり税金を払うことに「お国のためですから」と言っていたが、月額1万3千円の労働が「お国のためですから」にならない消費社会の構造ができあがっているのだ。
 この「あいつら」の感じはどっかで最近読んだよなと思って、記憶を探るに、「はてな」のhazuma(名前はあえて書かない)の日記にあった(参照)。子供の夜間徘徊(←ちなみにこれ沖縄用語)の規制についての文脈だが。

しかし、この条例改正の動きが具体的に何を背景にしているのか知らないけど、一般的にこの国の世論は、年少世代を叩きすぎだと思う。普通に考えて、この国がいまメチャクチャなのはバブル期にいい気になっていた年長世代(世代名を出すのは控えよう)が原因なのであって、10代や20代のせいじゃない。僕だってもう30代だし、あまり若者の味方をする気もないけど、そういう過去の愚行を棚に上げて、プロジェクトXとか60年代小説とかに涙しながら、未来の話といえば年金をいかに確保するかばかり、あとは生活の漠たる不安から目を逸らすために少年少女と外国人をスケープゴートにして満足している連中が一掃されないかぎり、日本に未来はないと思うよ、マジで。扇情的なマスコミの責任も重い。

 後段についても思うことがあるというか、それは違うよと思うのだが、さておき、この世代的な敵視の感覚が重要だと思って記憶にひっかかっていた。
 もちろん、いつの時代もどの世代も上の世代を敵視するものだが、日本についてはそんなクリシェでまとまるわけではない。端的に言うのだが、日本の社会では世代間が人間として正常な軋轢を産む場は私企業内でしかない。それも、なくなっている。世代間の正常な軋轢を団塊さんも共通一次さんも避けているというか、避けることが可能な社会構造を、結果的に平和に作り出してしまったのだ。
 なにも私のことを強調したいわけではないが、私のような昭和32年生まれなど、団塊さんと共通一次さんの狭間に落っこちて、概ねそのスペクトラムのなでグラデがかかるような位置づけにされている世代だ(私自身がオタクの走りでもあるし)、というか、サブカル以外に共通の世代間などないのだが、その空白におかれた私にしてみると、なんとも奇妙な図だ。
 話が散漫になったが、冒頭、あれっと思ったのは、この世代間の問題だけではない。結果的にそれにつながるのだが、もう少しマジな部分がある。「モデル家族(モデル世帯)」だ。
 単純に言えば、日本の年金制度は、「妻は専業主婦、稼ぎ頭は夫」という理想(マックス・ヴェーバーのいう「理想」)モデルからできている。この「モデル家族」は日本のふにゃけた知の風土ではしばしばフェミニズムから議論されがちだが、批判覚悟で言えばそんな問題はそれほど重要ではない、問題なのは、このモデル家族が実際上、団塊の世代より上の世代から団塊世代までのモデルになっているということで、実は、団塊世代をプロテクトするような機能がイデオロギー的に埋め込まれている点だ。ちょっと飛躍するが、このモデルは公務員が楽園になるモデルでもある。現実の公務員を見れば、庶民なら誰でも知っているが夫婦とも公務員で楽々な暮らしをしているケースが目につくのだが(これには言葉では批判はあるだろうが事実だということを譲る気はない)。
 話が混濁してきたが、ようは、年金問題の基底にある「モデル家族」の方法論に、団塊の世代を守るためのシカケがしてあり、朝日新聞もすでにそれが当たり前の方向だとして啓蒙しくさっているのが問題なのだ。そこを言語で議論可能な、かつ単純な問題にしないかぎり、共通一次世代以下が「あいつら」意識で社会の消費構造を攪乱することは止まらない。
 だからといって、その攪乱的なハイパーシミュレーションの上澄みとしての消費税で問題を解決するのは本質的な倒錯だ。と、やや論理が飛躍しているが、私はこれまで、「消費税はがんがんあげろぉ」と思っていた。しかし、考えを変える。消費税はやもうえないのかもしれないが、消費税を国庫とする思考法は、この国の根幹のゆがみ(団塊の世代をきちんと新しい国のビジョンに位置づける)の妨げになるのだ。
 だから、朝日新聞社説は根幹で間違っているのだ。

 世代によって払う保険料ともらう年金が違う「世代間の不公平」、自営業者らが加入する国民年金の保険料を払わない人が急増している「年金の空洞化」……。現行の仕組みをそのままに、表面を手直ししただけの今回の案では、年金が抱える病気を根本的に治療できず、制度は安定しない。

 違う。その不公平は是正できない。また、「自営業者ら」としてそこをスケープゴートにすれば、実際には現在の若い世代が将来的に潜在的な自営業者になることを閉ざしてしまう。むしろ逆なのだ。その不公平は治らない、自営業をさらに優遇するという方向で考えなくてはいけいないのだ。

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2003.12.12

記者クラブがお笑いを一席

 今朝の新聞各紙の社説に見るべき内容はない。FTAについても日墨問題を看過してうまくいくわけもないだろうと思うし、あるいはそうではない秘策でもあるなら、きちんと論じてもらいたいが、そういう話でもない。くだらない。補助金削減についても、いまさら言ってもしかたないし、地方の問題を掘り下げるわけではない。危機感を装うその日その日のパフォーマンスが社説であっては困るなと思う。
 そんななか、世にも愚劣なニュース入ってきて心が浮き立つ。EUがかねてより、日本の記者クラブ制度の廃止を提言してきたこと(参考)に対して、10日、日本新聞協会は「歴史的背景から生まれた記者クラブ制度は、現在も『知る権利』の代行機関として十分に機能しており、廃止する必要は全くない」との見解を公表した(参照)。あーあ。サイテーです。
 いや、サイテーでもないか。爆笑できるからな。いわく。


 EUの優先提案は
A 外国報道機関特派員に発行されている外務省記者証を、日本の公的機関が主催する報道行事への参加認可証として認め、国内記者と平等の立場でのアクセスを可能にすること。
B 記者クラブ制度を廃止することにより、情報の自由貿易にかかわる制限を取り除くこと。
 の2点です。
 Aは日本政府に対する要望であり、日本新聞協会は異論を差し挟む立場にありません。しかし、Bの「記者クラブ制度の廃止」は日本の報道機関の役割に密接にかかわることであり、無視できない問題です。

 Bについてはサイテーです、で終わり。Aについては、笑った、そう来たか。馬鹿だなぁの笑いが取れる。Bが実現すればAが実現するじゃん、という話はさておかないと笑い話にならない。でだ、ほほぉ、それって日本政府の問題なのかぁ。そりゃそりゃって感じだ。民主党が政権を取ったらヤッシーを要職に据えようっていうジョークでタメ張りたいものだ。ま、冗談はさておき、「外務省記者証」ですかぁという感じだね。ちなみに、EUの文書はIn their annual wish list of regulatory reforms(参照PDFファイル)だ。
 ちなみに、穏和に書かれているがこの手の問題の参考として、Japan Media Reviewの記事EU Pressures Japan to End Closed-Door Press Practices(参照)にはこうある。

 Japanese government officials replied that they actually don't control the kisha clubs -- they come under the authority of The Japanese Newspaper Publishers & Editors Association -- known also as Nihon Shinbun Kyokai, or NSK.
 The NSK writes the recommendations for kisha club behavior, but says it doesn't actually control the system -- the individual kisha clubs are responsible for membership selection.

 つまり、政府側としては事実上、記者クラブを統制していないというのだ。ま、アンオフィシャルにだろうけど。で、ちと頭を冷やして考えてみると、確かに個々の記者クラブを日本新聞協会が統制しているわけでもないか。しかし、このあたりもヤッシーおお暴れの結果、裏のカラクリは炙り出ている。こうしてみると、ヤッシーもたいしたものなのか。いずれにせよ、日本の新聞がまさに日本的な権力として言論を弾圧している、つまり、不可視で狡猾な手法を使っているわけだ。
 恐らく現実的にはこの問題は日本の内部から崩すことは難しいだろう。日本の新聞自体が日本のジャーナリズムの主要な問題なのだというのは、わかりづらい。日本がある程度国際世界から注目される存在を維持するなら、そう遠くなくこの問題は国際問題になるだろう。
 ふと思ったのだが、日本の難民の扱いすら大きな問題になっていないのはなぜなのだろう。なぜ、こんなにも日本は甘やかされているのだろう。米国の保護なのか。

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2003.12.11

韓国世論にはついていけないなぁ

 韓国の新聞から見る世論にはついていけないなと思うことが多い。日本人にはマジかよと思うがそういう思いも通じないだろう。中央日報社説「鬱陵島は日本領土、韓国は中国領土、海外サイトの韓国情報デタラメ」はまさに標題の通りだ。鬱陵島とは日本名の竹島だ。


 世界地図のサイト「djuga.net」は、独島(ドクト、日本名・竹島)はもちろん鬱陵島を日本の領土に含ませていたが、広報処の要求で、最近是正した。とくに、韓国歴史についての無知から始まった誤入力が多かった。英国の世界歴史情報サイト「spartacus.schoolnet.co.uk」は「韓国は1637年、中国の一部に併合され、1895年まで独立できなかった」とし、韓国を中国の属国に表現した。

 竹島については、あれが韓国領土だと海域の問題が面倒になるので、話し合ってどちらの国でもないということにすればよさそうなものだが、ダメなのだろう。日本側でもダメだと言い張る人がでくるだろうし。
 「日本海」に至ってはそこまで問題にするかと思う。これについては率直に言ってまるで議論の余地もないのだろう(参考)。

とりわけ、今回見つかった誤った情報のうち70%にあたる約1300件は、東海(トンへ、日本名・日本海)を日本海(Sea of Japan)に表記したけースだった。はなはだしきは、国連傘下の技術協力機関のサイトである「intracen.org」も、東海を日本海に表記、政府レベルの広報が急がれていることが分かった。

 「日本海」の呼称については、それほど韓国がこだわるなら、日韓で妥当な名前を考案すればいいだろうと思う。その場合でも、東海(トンへ)はいただけない。理由は簡単で、中国も「日本海(Ribenhai)」と呼んでいるうえに、「東海(Donghai)」は「東シナ海(East China Sea)」を意味している。そんなまどろっこしい名称にすべきではない。仮にあれが「トン海」というように漢字を意識しないというなら、アジアの漢字文化の否定になる。それはあまりに愚劣だ。くどいが、韓国が問題視する理由もわからないではないのだから、そうした背景を含めて新提案すればいいではないかと思うが、現実にはダメなのだろう。
 なんだかなぁという話の連想だが、朝鮮日報社説「ついには情報化でも追い抜かれたか」も変な後味が残る。いわく、日本に情報化で負けるなというのである。

 しかし日本が「自宅まで光通信を」といった“野心に満ちた”計画を実行に移し、インターネット普及率が激増している。総加入者数ではすでに韓国を抜いた。韓国はまだ手始めの段階にある。

 なんと言っていいか言葉につまる。日本は日本の都合でやっているだけで、韓国との問題ではない。韓国も別に日本の情報化など気にすることはないのではないか、と思うが、そうもいかないのかもしれない。
 以上、なんとなく、日本人として優越感のような響きがしたら、いかんなとは自戒するし、そういう気は毛頭ない。ただ、日本人としては、こういう文脈では絶句してしまうなという感じがするのだが、その点はどうしても伝わないのだろう。歴史的に交流の深い隣国ですらそうなのだ。

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2003.12.09

小規模市町村の税率は低いままで良い

 読売新聞社説「住民税均等割 『地域の会費』の見直しを急げ」がおかしな内容だった。基本的に税制の問題は改革しなければいけいないのだが、均等割に目をつけて小規模市町村の税率を上げろというのは、違うんなじゃいか。まず、山中貞則を引退させろ、だが、とりあえずそれに触れないとしてだ、読売の議論は間違っていると思う。
 まず、読売に沿って簡単におさらいをしておけば、住民税というのは、所得に応じて課税される所得割と、一定額を課税の均等割で構成される。


 都道府県税の均等割(標準税率)は年間千円で全国一律だ。しかし、市町村税は人口の規模によって異なり、五十万人以上の市が三千円、五万―五十万人未満の市が二千五百円、町村と五万人未満の市が二千円と格差が設けられている。

 読売はこの格差は無意味だというのだ。その議論はこうだ。

 かつて小規模市町村の行政サービスは大都市に劣った。しかし、例えば中学校の木造校舎の面積比率は大規模市の0・2%に対し3%、ごみ処理実施率も100%に対し97%と、ほとんど遜色(そんしょく)がない水準に追い付いている。
 小規模市町村の税率を低くすることの根拠はもう失われた。人口規模別の格差は撤廃すべきである。

 読売をここで罵倒しまくりたいところだが、単純な例で反論したい。デジタルバイドはどうなんだよ。端的に言って、ブロードバンド状況はどうか。もう一点加えたい、公共無料貸本業こと図書館の整備はどうか。おまけにもう一点加えるなら、行政機関(例えば裁判所)アクセスのための都市部への交通サービス(時間と金額)はどうか。地方で暮らした人間なら知っている。改善なんてほど遠い。とんでもない格差があるのだ。
 所得の伸びが止っている現状、地方が国から税源移譲されれば、さらに地方は苦しい状況になる。地方の独自の税制が必要になるが、それにはインテリジェンスも必要になる。だが、それが地方にはない。そうした足下を見るように、読売の誘導は狡猾だ。

 高知県は「水源税」として、均等割を五百円割り増し徴収している。各自治体がそれぞれの状況に応じて税率を決めるのが理想だが、単独での引き上げは政治的に難しい。次善の策として、国が標準税率を引き上げる手もある。

 ようするに国主導にしろということか。読売新聞ことナベツネは小泉内閣のロビーになろうとしているのだろうか。
 税制の強化のために地方の合併は必要だが、どのように合併してもある種の僻地はできる。その人々を厚く保護する税制は日本を維持する上に不可欠なのだ。

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2003.12.06

PSXがわからない

 いよいよ12月13日にソニーのPSXが発売ということになる。CMも明日あたりからがんがん打つらしく、一部はソニーのサイトでストリーミングで見ることができる。で、私の話は、PSXがわからないということだ。もちろん、私は仕様が読めるので仕様レベルはわかる(発売直前の仕様変更でけっこうお馬鹿になっている)。わらかないのはそんなことじゃない。
 なにがわからないのか? 私の関心事から言うと、テレビのハードディスク(HDD)レコーディングの機能が現行のCocoonと比べてどうなのかということだ。もちろん、すでにスペック比較の情報も見ているから、PSXには自動録画ないというのは知っている。疑問は、違いってそれだけなのか? だとすれば、PSXというマシンは、この値段なのだから、いよいよ本格的に格安の家庭用HDDレコーダーになる。そういう話なのか、ということだ。
 私の疑問はわかりづらいかもしれない。前提があるのだ。私は2年前からソニーのHDDレコーダーの先行機種であるClip-onを使っている。その他、I-Oデータ型の小物をWindows XPに接続できるので、やる気になればテレビ番組をDVDに落とすこともできる。だがあまりやらない。やらないのは手間が食うしめんどくさいからだ。ずばり言って、2度見る番組は少ない。あるいは、2度みたらもう「お腹いっぱい」なのである。だから、Clip-onでまるで問題ない。
 Clip-on以前もVHSなどに録画していた。私という人間の癖のようなものかもしれないが、私は衣服以外の物を身につけたくないし、時間に拘束されたくない。午後9時にテレビの前に座れと言われるがとても嫌だ。食事の時はメディアをオフにしたい。テレビは私にとってむかつくような存在でもある。が、番組自体を見るのが嫌でもない。仮面ライダーのファンでもあるくらいだ(とほほ)。
 Clip-onを使いだしてから、テレビ嫌いに拍車がかかり、あっという間にリアルタイムでテレビを見ることはなくなった。ほぼ皆無だ。見たいときに見る。そして、自分の行動パタンに決定的な変化があったのは、率直に言うと、CMを見ないことだ。端からNHKしか見ない人間なのだが、それでも「トリビアの泉」のような番組は嫌いではない。世の中の話題でもあるし、唐沢商店も儲けているなとも思うし、ま、見るのだが、CMは飛ばす。率直に言うとタモリを見るのがむかつくので出てくると飛ばす。HDDレコーダーはCMを飛ばすが実に楽だし、慣れてくると、操作は非常に簡単なのだ。おまけに民放はCMの前後にご親切にかぶりを作っているから飛ばしミス5秒くらいはなんとかなる。そう、私はCMをまるで見ない。
 CMを見ない生き方をしていると、さらにCMを見なくなる。なんか自分が時代を先取りしているかのような傲慢をかましたいわけではない。自分の変化に自分自身が驚いているのだ。CM自体が不快なのだ。さらに言おう、テレビのCMが嫌いになると同時にWebの広告も嫌いになった。詳細に書かないが、私はIEに小細工をしてCMをカットしている。もっともCMという存在自体すべてが不快というわけではない。これだけ叩かれても宅配の朝日新聞を読んでいるのは新聞の広告を見るためだ。もっとも、新聞とは実は広告媒体なのだが、その話も割愛する。
 なにが言いたいか。私は、私に起こったような変化がみなさんにも起こる、と言いたいのだ。PSXでなくてもかまわない。EPGとテレビHDDレコーディングに家電並みのインタフェースが装備されれば、世界が変わる。大げさなことを言うようだが、テレビのリモコンによってザッピングが可能なることで視聴率の意味が大きく変わったように、HDDレコーダーの普及で視聴率自体が無意味になる。テレビの視聴率がじり貧に下がっているがなんとか打つべき手があるとか考えている人間が無意味になるのだ。
 もちろん、私は困らない。私は快適だ。だが、それは陥穽だ。私はCMだの視聴率だのを含めたメディアの世界を先行してザップすることで満足しているのだが、その世界の側が変われば反射するように私は変わらざるをえないだろうと思う。どう変わるのかわからないが。
 PSXがわからないのは、それだけの起爆剤となるだけのインタフェースを持っているかに尽きる。技術だのスペック的な機能などどうでもいい。「あたしンち」のおかあさんレベルが理解し使えるか、それだけが問題なのだ。
 もう一点、PSXについてわからないのは、結局コンテンツの入り口であるテレビとそのアウトプットであるHDDとDVDの関係だ。単純に考えれば、テレビ番組をHDDにプールして、簡単にCMカットのエディットを施し、DVDに焼き込むとなるだろう。だが、そうじゃないはずだ。まず、エディットはできないだろう。映像については、現行のアナログは見逃しとなるだろうが、それ以上のクオリティにはごちゃごちゃした規制が加わるはずだ。すでに音楽はDVD焼きはできないはずだ。
 でだ、そんなものが意味あるのか? HDDからDVDに出てこないということを大衆が納得するだろうか? 恐らく作り手の側は、作り手の都合を大衆に理解させようとするだろう。私は思う、甘いんじゃないか。大衆はもっと素直に欲望を剥くと思う。そして、剥かれた欲望を止めることができないというのが、DVDの暗号化の歴史じゃないか。
 ようするにPSXが大衆に納得されるマシンなのかということだ。納得されるというのは、単純なテレビHDDレコーダーであり、かつ、DVD出力が可能かということだ。ゲーム機なんかどうでもよろしい。
 私の疑問はあと数ヶ月で当面の結論は出るだろうと思う。この手の話題に敏感な「はてな」でPSXのキーワードを繰ってみたが、ぼよよ~んとしていた。みなさん、テレビのHDDレコーディングすらまだ日常化していないようなのだ。この人々にメディアの革命が起きるのだろうか。見ものだ。

追記
PSXの仕様変更情報 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031205-00000205-reu-bus_all


  1. HDDからDVDへのダビング速度が最大約24倍から12倍速に変わった
  2. DVD+RWの再生ができない
  3. CD─Rの再生ができない
  4. 音楽機能でMP3が再生できない
  5. ソニーのデジタルカメラ「サイバーショット」から動画の取り込みができない
  6. 静止画で取り込める種類が減った
  7. 一部のネットワークサービス機能が利用できない

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補助金というシャブ

 朝日新聞社説「公共事業――撤退できる仕組みを」(12.6)がよかっと言っていいだろう。あまり斬新な視点でもないのだが、この問題は口酸っぱく説いたほうがい。他紙は時事ということもあり、米国の鉄鋼セーフガード(緊急輸入制限)の即時撤廃をテーマにしていたが、呆れるほど読むべき内容がない。こんな内容なら社説に書く必要はない。こんな話には慌てるから日本の対抗措置撤回もまともに議論されていない。問題はWTOじゃないだろ。FTAだよ。
 さて、朝日が取り上げていた公共事業撤退についての問題だが、これはヤッシーこと田中康夫のおかげで周知となったことなのだが、ようは国庫から補助を受けた公共事業を途中で撤退すると、それまでに受けた補助金を返さなけれならないから止められないという問題だ。
 朝日の提言はプラクティカルだ。


補助金適正化法や政府が昨年12月に定めた方針によると、自治体が公共事業の再評価の手続きをきちんと踏んだうえで中止した場合、補助金の返還は求めないことになっている。つまり、正当な理由があれば補助金は返さなくてもいいのだ。

 朝日はだが問題はこの方針の基準がないため、実施されにくいと言う。反面、朝日の啓蒙節なのだが、自治体に向けてはきちんと公共事業の再評価をしろも言う。いずれも正論だ。
 そんな正論は空しいと切り捨てたら未来はなくなる。かといって、実際上、これを実施できるタマはまたもヤッシーくらいしかいないだろう。ヤッシーについては私は評価相半ばという感じなのだが、とにかくこの問題の切り込み隊になってもらうしかない。一度できれば、あとは右にならえでなんとかなる。
 もちろん、問題は複雑だ。この点については朝日はさらりと身をかわす。黙ってないだけましだ。

 事業の中止には、ほかにも多くの問題が伴う。いったん決めた都市計画決定をどうやって取り消すのか。請負業者への違約金の支払いをどうするか。こんなことにも、しっかりとした備えが要る。
 公共事業の恩恵と負担を住民が自分のこととして考える。そうした社会に近づけるためにも、補助金をなくし、地方への税源移譲を急ぐ改革が欠かせない。

 もちろん、そううまくいかない。この文脈を高校生的に読めば、請負業者への違約金は税源移譲でなんとかせいとなる。あれ、これってジョークだったのという結語なのだ。はっきり言う。円満な解決策なんかない。あるのは一種の惨事だ。まず、極東ブログとしては、嫌われるのを覚悟で言う。地方は統合を進めるしかない。知恵者を都市部に逃がさないようにしなければならない。

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2003.12.05

問題は診療報酬ではない薬価だ

 昨日の毎日新聞社説だが、「診療報酬改定 引き上げ理由が見当たらぬ」に奇異な感じがした。医師に支払う診療報酬を引き上げる改定はよろしくない、というのだ。あれ?という感じたのは、そういう言い分は大衆迎合として心地よいものだ。


 医療法人などの病院長の給与は2年前の報酬引き下げで下がったとはいえ、平均給与は235万円(今年6月、同省調査)だ。医療側には、医療保険制度の現状を冷静にみてもらいたい。「診療報酬の引き下げにより、医療の安全性を損ないかねない事態が懸念される」などという主張は、医道の尊厳を自ら否定するものだ。患者の健康と安全を守るのは医師の使命ではないのか。

 こういう文章を私もつい書いてしまいがちなのだが、これは悪いレトリックだと思う。まず、「患者の健康と安全を守るのは医師の使命ではないのか」という煽りは実は無意味だ。医師の使命があれば報酬はなしでいいというわけにはいかない。病院長の給与がいくら高かろうが、その病院の経営の問題にすぎない。
 「患者の健康」といったうすら寒い大義を除けば、ようは、支払い側の健康保険組合が「これ以上金は出したくないのぉ」ということだ。それは理解できる。健康保険組合がつぶれたら元も子もないということになる。
 私は端的に現行の医療費とは結局薬価ではないかと思う。8月23日の旧極東ブログ「薬剤師の社会的な重要性は市販薬についてではない(2003.8.23)に書いたように、ジェネリック薬に切り替えていけば、問題は大きく改善するはずだ。代替調剤制度(参考)を大きく進めるべきだ。
 と書きながら、毎日新聞社説でもこの問題が隠蔽されているように、実は代替調剤制度は日本の薬剤メーカーに大きな問題となる。なぜ日本の薬剤メーカーが社会問題にならないのか。問題というのは端的に資本力と開発力だ。銀行統合より先に、日本の薬剤メーカーを統合しなくてはいけなかったはずだ。識者はなぜ黙っているのか。

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自転車に課税しろ

 読売新聞社説「放置自転車税 鉄道に負担を課すのは筋違い」が、面白いといえば面白かった。放置自転車の対策費を得るために、豊島区が鉄道会社に課税する法定外目的税創設の条例案をいかんというのだ。確かに、駅前放置自転車の責任を鉄道会社に帰すというのは、変な話だなとは思う。読売も大衆迎合のいいところに目を付けた。
 とはいえ、問題の放置自転車の対策はどうなるのか。読売はこう怒鳴る。


問題の責任は、放置者にある。撤去作業の回数を増やすなど、放置しにくくすることが、最も効果的ではないか。

 なんだかなである。放置者ってみなさんのことですよ。みんなそろってアモラル(不道徳)なことやっているのだ。現代日本人のプチアモラルの代表ともいえるのが自転車だ。歩行者に警告音を出して歩道を走る(これは違法です)、二人乗り、携帯電話しながら走行、喫煙走行、こういうのを見ながら、私は中島義道のように、「おめーらみんな叩き切ってやる」とどなりまくってきたが、疲れた。
 だいたい、なんで自転車なんか乗るのだ? 自転車の必要性っていうのはなんだ? 馬鹿なことを問うんじゃないと言われそうだが、駅やスーパーまで歩いて20分だったら、歩けよ。もっとも、そんなこと言っても通じないのだ。
 どうしてこんなことになったのか。日本の歴史を見ると大衆はけっこうプチ・アモラルなので、実際にはそれほど責めても意味がないし、そういう大衆の性質というのは自然なものでもある。とはいえ、事態はひどすぎる。
 端的に言う。自転車が安すぎるのがいけないと思う。映画自転車泥棒ではないが、自転車が盗まれることは生活の資が断たれるような時代があったのだ。自転車を放置するっていうのは、自転車を愛していない証拠ではないか。だから、課税しろ、と思う。
 自転車にがんがん課税しろ! それに尽きる。

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2003.12.04

「センター試験以降の世代」という壁と知識化人

 草莽堂さんのココログ@ニフティから興味深い指摘を受けて、実はこのことを考えていたこともあって、ちょっと書いてみたい。ただ、話はかなり難しくなってしまうだろうと思う。まず、草莽堂さんの日記からの引用。


外から「センター試験以降世代」と規定されちゃうと、規定されちゃった人はどうしようもない(規定された側はどうしたらそうした規定の外に出られるのか分からない。出たつもりでいても、判定者が「出てない」と言えば、そうなのかと頷かざるを得ない)という側面があって、その点少し引っかかるのだが、極東ブログさんが「人間」に寄せる思いは少し分かる気がする。

 それはわかる気がする。バカの壁ではないが、センター試験以降の世代の壁みたいなものを自分が作り出しているなという反省は、多々ある。というのは、自分もかつて若い世代だったし、団塊の世代のちょうど下にいたので、かつて私も団塊さんとかに理屈をこくと単純に「本音を言えよぉ」とか殴られそうになったものだ。うわぁ通じないよぉとも思った。「戦争を知らない子供たちぃさぁ~」と手をつないだ歌えって言われても、お姉さんたちブスいじゃないないですかぁ、っていう感じだ(たぶん私はかつて美少年だった、照笑)。それがついに自分にも回ってきたなと。
 これっていうのは自分の思惟が若い世代から突き上げられているというか、自分より若い思想をはっきりと認めるようになったという点はある。例えば、「北田暁大インタビュー 2ちゃんねるに《リベラル》の花束を」(参考)。

ニューアカに惹かれつつ、でも終わってるんだよなとか思いながら、受容していたような感じがします。柄谷行人が好きな人もそこそこいましたし。そこには、独特の世代的な共有体験はあるのかもしれない。多分、ニューアカをバサっと斬り捨てられない、なんか影響受けちゃったんだよなっていう感覚というか。

 ふーんという感じだ。そこに北田のように思索する新しい世代があるのだと思う。私などは柄谷行人と聞くと、「あ、三馬鹿トリオのブントさんだね、奥さん大変でしたね」とか思うし、柄谷ってアカデミックなレベルだと文献の読みがずさんすぎて投げ出したくなる。ま、しかし、それはどうっていうことじゃない。
 北田暁大インタビューの引用を続ける。とても示唆に満ちている。

でも、四年ほど前に大学で教えるようになってから、そういう背伸びの感覚が学生からまったく感じられない。だから、昔のニューアカ的な語り――フランス現代思想の言葉をおりまぜて世の中を分析する語り――というのが、もはや通じません。東さんのいう動物を生きている人たちに届ける言葉というのは、別の回路が必要なんじゃないかと。

 私からすると、ここでトゥーフォールド(二折り)なってしまう。すごく単純化すると、共通一次世代とセンター試験世代がいる。私は随分老いてしまったと思う。引用が多くて申し訳ないのだが、北田暁大が秀逸なのは次のような指摘だ。

「動物化」というのは「馬鹿になった」というのとは全然違いますから、「お前ら人間になれ」と説教しても始まらないんです。重要なのは、動物化という現象を道徳的な予断なしにしっかりと分析したうえで、かれらに届く言葉を見つけ出していくことだと思うんですね。「歴史意識」の回復を説くだけでは、もう言葉が届かない時代になっている。ぼくは全然実践できてませんが(笑)。

 私などうまく批評射程で射止められたなと思うのは、歴史意識の回復を説くだけではもう言葉が届かないという点だ。もうちょっと言うと、そういう世界になってしまったからこそ、(なんだか昨今批判ばかりしているように見えるのだろうが)小熊英二が作り出すような既存文献集約的な歴史像が歴史代替の言葉として出てきてしまう。そこには、ひどい言い方だが、言葉しかないのだ。フーコーがかつて歴史を言説の考古学として見せたことに世界の知性は驚きを感じたが、それはまだどこかで社会学的な方法論であった。しかし、現在は生きられた空間が生きられた歴史性を失い、すべてフラットな言葉(文献)に埋められてしまっている。私がこだわっているのは歴史になるのだが、私の歴史語りは言葉であって、つまるところ、トリビアの泉だ。
 私の内面では今にして思うと小林秀雄に没頭したことが恵みであったようにも思われるのだが、小林は歴史を死んだ子の歳を数えるようなものと言っていた。小林らしい気のきいた表現として看過されてしまうが、そこにある、人の思いが理想に届かない痛切さや悲劇性を彼が歴史の本質としていることがよくわかる。
 こういう言い方自体なんか年寄りの説教のようだが、歴史は絶対に戻らない。だがそういう思いは通じない。最近でも痛切に思う例がある。名前を出すのは失礼かもと思いひかえるが「はてな」で(たぶん)若い人から質問を受けた。そのなかに私の考えの一部がドグマだというのだ。そこでドグマとはと問い返すと、反証可能ではないと答える。反証可能性とはポパーの科学論であって社会学的な命題には適さない、ポパーを学んだ人間ならこの文脈で反証可能性など言い出すわけもない。ポパーなら批判的合理性が問題とされるのだ。だが、「社会学的な命題に反証可能性はないですよ」と再回答しても彼は受け入れない。私は溜息をつく。私が彼の教官なら、ポパーとウェーバーの訳本でも貸して2000字くらいのレポートを書いてきないさい、と言うところだ。だが、たとえそうしても、問題の本質は伝わらないだろう。社会にも歴史にも反証可能性などないのだ。そもそも生きられた人間社会に再現可能な実験を施しうる者は誰か?それがいるなら、私は思想の矢を放たなくてはならない。矢はドグマか?そんな問題ではない。私が友愛だけを信じて戦いをいどむだけなのだ。もちろん、私は隠者だ。そういう思想の矢を表で投げることはない。だが、その友愛のメッセージがあれば、私のできることはわずかでもそのわずかなことをする。
 話がそれてしまったが、こういう話がそもそも通じないのだ。いや、もう少し言うと、私の文章からは以上のようなパセティックな心情だけが通じるだろうと思う。そしてそれが危険なのだという批判は正鵠でもあるだろう。
 話を方向を変える。最近西尾幹二の最近のエッセイを読んで、彼は私より遙かに爺なのに、私は彼にセンター試験以降の世代と同じものを感じた。羅列した知識の断片はどれも正解なのに全体像が間違っているのだ。この現象はなんだろう。簡単に言えば、私はつい、センター試験以降の世代というふうに世代論めかしてしまったが、そうではなく、ある種の人間の思考タイプの問題なのかもしれない。
 吉本隆明は社会思想の原点に「大衆の原像」という概念を置いた。あえて概念として私はとらえる。それは吉本は嫌うだろうが、モデル化が可能ではないかと思うが、「大衆の原像」は団塊の世代より上では解釈というか吉本教の教義化してしまった。いずれにせよ、普遍的な「大衆の原像」があれば、センター試験以降の世代もそのなかにモデル化できるはずだ。だが、そうではない。
 まったくテンポラルな思考実験なのだが、すでに世界は(日本の知の状況は)、知識人+大衆+知識化人の三局化したのではないか。言葉の遊びのようだが、知識化人とは、DB化される知識をもって大衆と区別される存在だ。その欲望が、大衆のような肉体的なものにならないのは、上位の「知識」というものにエロス的なカラクリが存在するのではないかとも思う(ロリは現象ではなく本質だろう。知識化人とエロスの問題は別の機会に考えたい)。
 いずれにせよ、私や団塊の世代より上は、知識人+大衆という二局のスキームのなかにいた。率直に言えば、団塊の世代の人の多くはまともに勉強する環境もないせいか知識に乏しい。その分、むしろスペクトラム的には近代化した大衆に近い。だが、そのスペクトラムの近代化方向の先に知識化人が出てきたわけでもないだろう。
 先の北田や東の言う「動物化」ではなく(東はDB化を見据えているが)、知の状況のなかで浮かんできたのは、「知識化人」ではないかと思う。それがセンター試験以降の世代に出現しやすいのだが、西尾幹二のような老人にも現れる。その出現の背景は、世界が文献の集積としての言葉に還元されてしまったからではないか。世界が断片的な言葉の集積になるとき、そこに最適な生存者として知識化人が出現するのは、おそらく不思議でもなんでもないようにも思える。

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2003.12.02

「冥福」は祈らない

 外交官殺害事件について各種ブログをザッピングしていて、「冥福」という言葉が奇妙に心に引っかかった。なにか痛ましい事件があると、メディア、とくにTVで「ご冥福をお祈りします」と来る。いつからそういう風潮になったのだろう。自分の少年期や青年期を思い起こすのだが、よくわからない。ただ、阪神大震災あたりから「あれ?」という違和感があった。この手の問題はどうも気持ちが悪い。
 話がそれるが、最近の若い子は食事の前に「いただきます」と言って合掌をするのだが、これもどこから入ってきた風習なのだろう。育児のことを現在ではあたりまえのように「子育て」と呼ぶが私の記憶では三好京三「子育てごっこ」以降のことだ。昭和50年である。広辞苑を見ると浮世風呂に「子育て」の用例があるのでこの時期の造語ではないようだが。
 「冥福」に話を戻すと、浄土真宗つまり門徒は「冥福」という言葉を使わない。御同行御同朋使だけで使わないわけでもない。この手の話はネットにあるだろうと探すとある。「浄土真宗の弔辞の例文」にはこうある(参考)。


 仏教でも、浄土真宗でも、故人の冥福を祈りません。
 既にご承知と思いますが、冥福とは、「冥土(冥途)で幸福になる」と言う意味です。そして、この「冥土(冥途)」とは、仏教以外のものの考え方なのです。
 つまり、ご遺族に「ご冥福をお祈りします」とご挨拶されることは、「亡くなられた方は、冥土(冥途)へ迷い込んだ」と言うことを意味し、「お浄土の故人を侮辱する無責任で心ない表現」と言えます。
 亡くなられた方は、何の障害もなく、お浄土に往かれています。亡くなれば「迷う者」として、「祈る(供養)」と言うことは、果たして遺されたご家族の悲しい気持ちに対してふさわしいものでしょうか。
 浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶なら、「○○さんのご冥福をお祈りします」ではなく、「○○さんのご遺徳を偲び、哀悼の意を表します」と、浄土真宗の教えにふさわしい言葉に言い換えましょう。

  「浄土真宗にご縁が深い方へのご挨拶」と限定されているが、門徒の信仰者ならどの人にも冥福は祈らない。門徒でない人間なら冥福を祈ってもいいのだろうか?と、そんな理屈をいうまでもなく、「ご冥福をお祈りします」は礼儀を示すというだけの空文なのだろう。つまり、「私は礼儀正しい人間だ」という表明なのだ。
 たまたまテレビのニュースで井ノ上正盛書記官のご夫人の映像があった。身重の映像で痛ましかった。TVに映す必要があるのか私にはわからない。痛ましいものだった。井ノ上正盛のご冥福を祈ると私はとうてい言えない。生まれてくるお子さんには「お父様はお国のために命をかけられたご立派なかたでした」と聞いて育ってもらいたいという思いが湧く。
 近代人は脱宗教化を遂げ、死後の世界など信じない。だから、こそ冥土の幸福が祈れるのだとしたら、そうすることで大きなものを失っているとしか思えない。

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2003.11.28

産経新聞さん、ポチ保守ではいられないよ

 産経新聞を読んでいると小林よしのりが「ポチ保守」といったことがよくわかるなと思う。それでも曾野綾子と高山正之の話が読めているうちはよかったが、合理化やデジタル化を進めていくうちに、あれ?内容も劣化しているじゃんかと思った。台北でも読める日本の新聞だったが、なんだかなこりゃダメだなと思った。
 のっけから脇道にそれる。多くの知識人は小林よしのりを右傾化を甘く見つもって馬鹿にした。が、ざっとみても全滅だった。かく言う私も、小林よしのりに傾倒はしない。批判的立場かというと、どっちかというとそうなる。なにせ、彼の歴史認識、特に日本の国家起源の神話解釈は大間違いでその上に国家観が成りっているという古色蒼然には辟易とする。彼の愛する「日本」イメージは近代化の疑似物に過ぎない。だがそれでも、白黒つけてくれと言われたら、私は小林に与しよう。それに加えて、最近の「ゴーマニズム宣言SPECIALよしりん戦記」を見ても、特にどういう印象もないが、冒頭の小児喘息の話だけは深く共感している。私事だが私もそうだったからだ。私については彼ほど元気に生き延びた感じもしないが、とにかく生きてきた。この思いは率直に言って同じ経験者でないとわからない、という意味で小林よしのりを深く支持するだけだ。もちろん、そんなことは言うべきことじゃあない。なのにそう言ってしまう私は孤立して暴走しているのであり、小林もそうなのだろうなと思う。
 話をポチ保守に戻す。今朝の産経新聞社説「駐留米軍再編 抑止力への悪影響避けよ」はポチ保守のトホホが極まった。端的に言って、「在日米軍さん縮小しないでね、お願いだから、うふっ」というのだ。もちろん、この在日米軍縮小という大問題を社説で取り上げたという点は評価したい。日本人が在日米軍を無視して生きていること自体問題だからだ。
 在日米軍は日本を未だ占領下におくためのものだ。今でも白人は日本人を怖いと思っているから、そうじゃないと日本の首に匕首を突きつけてくださっているのだ。もっとも、それがなければどうなっていたかという話もあるし、ポチ保守が現実主義なのだというのもわからないではない。また、小林よしのりはアイビー出の本格的な米国のインテリを知らないから米国の真の怖さを知らない面もある。もっとも知って田中宇みたいになってしまうのもなんだかなだけど。あいつらの頭の良さに向き合うなら二歳から千字文を書き、四歳で四書五経を読み、六歳で「葉隠」を読むという素養が必要だろう。話がいつのまにか冗談になってしまった。
 問題はこうだ。問題を明確に書くという点で産経新聞は朝日新聞より明確に優れている。


 ブッシュ米大統領が世界に駐留する米軍の配置見直し協議に着手するとの声明を発表した。対テロ戦争に迅速かつ柔軟に対処するため、在外の米軍兵力を変革・再編すると同時に同盟国の役割の拡大などを求める内容になるとみられ、日本の安全保障にも大きな影響を与えるのは必至である。

 これは事実と正当な推測だ。だが、その先、その編成変更に日本が及ばないと主張しているのは変だ。以下の話は、表層的にも変だ。

 約四万人の在日米軍の中核は、沖縄に駐留する約二万人の第三海兵遠征軍など、機動性に富むため、在韓米軍見直しとは一線を画すとみられる。
 だが、国防総省が駐沖縄海兵隊を豪州に移す案を検討と米紙が報じている。一方的な米軍の抑止力低下は日本の安全保障の根幹を揺るがしかねない。北朝鮮の弾道ミサイルなどの脅威に対し、在日米軍は、自衛隊が持たない「矛」の役割を担っているだけになおさらだ。沖縄の負担軽減とのバランスをいかに取るかである。

 率直に言う。「在韓米軍見直しとは一線を画す」のはソウルが火だるまになったとき、米兵を巻き込まないためだ。そして、在沖米軍を含め今回の東アジアの戦力見直しは、冷戦終了時に既決の事項だった。ぐずついたのは、北朝鮮問題と将来的な中国との問題(つまり台湾問題)が背景にあり、そんなおり沖縄が暴走したのでさらにぐずったというだけだ。北朝鮮の現状は大きな問題だが、米国が死守するほどの意味はないと判断されている。戦争になっても北朝鮮の勝ち目はない。問題はソウル市民が大量に殺戮され、中国と日本に大量の難民が流れ込むことだが、このあたりで米国は困るか。困らないんじゃないのぉという冷酷な判断なのだ。
 台湾問題は大きいし、日本をあまり痛い目に遭わせると、経済的に米国への貢ぎ君の機能がへたるのでそのあたりのバランスは難しい、というのが米国の本音。
 現実をどう日本の国益に利益誘導するかは、端的に言って日本側の軍事の問題じゃない。軍事オタクは要らん。日本の自衛隊は所詮戦時に米軍の末端でしか機能しない。米軍下に組み入れらるのだから、日本が軍事面で議論することは畢竟末端の戦略にしかならない。
 問題は日本の政治だ。このあたりの問題を直感的に把握して大局でさばけるのは小沢しかいないと思うし、小沢には最後に泥をかぶってお国への勤めをしてもらうしかないだろう。国難を円満に解決することなど不可能だということをハラから認識している政治家でなくてはダメだ。
 日本を守るのは、日本の経済力だし、それを眺望的な国家戦略で動かせるのは政治であって軍事ではない。今、政治的なメッセージを国外に向けるよう示唆することが本来の産経新聞の社説でなくてはならなかったはずだ。

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2003.11.25

幼児虐待には男が問われる

 このところ、ブームのように幼児虐待報道が続いているようだ。「ようだ」というのは、賢い生命体の比喩ではなく、私自身が詳細にニュースを読みたくないからだ。むごくてたまらない。大きな問題なので社会の問題とすべきだとは思う。それゆえ、朝日新聞社説「児童虐待 ― 危険信号を見落とすな」で、この問題を社会制度の側に押し返そうとすることは理解できないことでもない。このところの悲惨な四事件について朝日新聞社説はこう切り込む。


四つの事件のうち三つは虐待の事実を知った児童相談所の職員が家庭訪問をしたり、子どもを一時保護したりしていた。専門機関がかかわっていながら死なせてしまったことが返す返すも残念でならない。

 つまり、虐待事実は専門機関側でもわかっていたのにというわけである。ただ、これが機能しないことを単純には責められないとして次のように展開する。

とはいえ、虐待への対応の中心になる児童相談所の働きは限界に達している。00年に児童虐待防止法が施行されたあと通報がふえ、02年度の虐待相談の処理件数は2万4千件と、5年前の3倍になっている。
 警察庁のまとめでは、今年6月までの半年間で24人の命が児童虐待によって奪われた。県と政令指定都市が設ける児童相談所は全国に182カ所ある。その仕事の内容や態勢の抜本的な見直しが欠かせない。

 つまり、現状では件数が大きすぎるし、制度も十分に機能できないのが問題だとするのである。そして、解決は次のようになる。

 自信をもって親子の間に割って入り、援助できるような専門職員を増やし、職員一人ひとりが能力を発揮できるような人員の配置を考えなくてはならない。児童相談所の権限強化や司法のいっそうの関与も検討しなければならないだろう。

 私はそれでは解決しないと思う。こう言いながら自分のいつもの主張と矛盾しているとも思う。私は、社会問題は倫理・道徳に還元するのではなく構造的に対応せよ、というのが私の基調だ。その線なら朝日新聞と同じだ。なにも毎回朝日新聞をくさしたいと思うわけではない。
 解決しないだろうなと思うのは、この件について、一生活者の実感があるからだ。まず、ひどいことをあえて言う、公務員は無責任なのだ。そういう職員ではこれほどの難問は解決できない。もっとひどい事を言う。公務員は優遇されていて、いわば日本のエリート層だ。社会の底辺の実態とかけはなれすぎていて対処の感性がない。もちろん、専門職員は公務員に限るものではない。この問題は、情熱のある人材を中心としたNPOに期待をかけることを先決に考えたほうがいい。
 もう一つの問題は、構造的な対処ではだめだろうという直感だ。つまらない言い方だが人間の生き方がもろに問われているのである。
 率直に言うと、幼児虐待とは女が子供を虐待しているということだ。なぜ女が自分の子供を虐待するのか?この問題になぜだろう?と考え込むような人は人生経験が足りなすぎる。女というのは子供をもてば虐待するものなのだ。まさかぁといったきれい事はやめて欲しい。もちろん、例外はある。だが、現実が重視されなくてはいけない。
 以下、トンデモ説に聞こえるだろうと思う。が、書く。女は自傷を外化したかたちで自分の子供を虐待するものなのだ。それが基礎にあるのだ。
 冗談のように聞こえるかもしれないが、女はつねにある種の直接的な性的な権力構造のなかに置かれている。そうした権力を必要としているからでもある。端的な話、つねに社会的な美醜概念を性的な権力への接合としてリフレクトしている。その戦略に失敗すれば自滅してしまう(それがこの権力のオートマティズムである)。あるいは、その直接的な権力構造を緩和することができなくても、自滅する。新しい権力の構図を求めて過去である自分の子供をまさにそれが過去であるかのように消去することもある。
 冗談に聞こえるだろうが、この性的な権力の安定構造は、「父に愛される娘であること」→「男に愛される女であること」→「子供に愛される母であること」という展開になる。どの遷移でも「愛されること」という性的な権力の充足が必要になる。それぞれにおいて、その失敗の像があるが、これらの権力のいわば暴走に対しては、性的な外部からのインターヴェンションが必要になる。難しくいうよだが、幼児虐待のケースでは、端的に男が「やめろ!」ということだ。そして、それの「やめろ!」に必要なのは、男の配慮でも単純な暴力でもなく、女の性的な権力を停止させるだけの男性の性的なメッセージが含まれなくてはいけない。「父性」や「子供への責任」ということではない。男が、まさに男の性として露出することが女の自傷や幼児虐待を止める。
 単なるエロ話のようなことを難しく書いているように聞こえるかもしれない。とんでも説のようにも聞こえるだろうし、あまりこうしたことを書きたいわけでもない。だが、成人の男女なら、難しい性的な権力の構造に巻き込まれるという生活実感はもつべきであり、その生活実感からしても、以上のことはそう理解しづらいとは思えない。
 岩月謙司のことを知識人は馬鹿にするか、香山リカのように困惑するかもしれないが、私は岩月に同意するものではないが、あのような視点はあながち知的に解体はされない。以上の議論にラカンのファルス(phallus)を読み込む人もいるかもしれない。だが、ラカンのファルスの問題は現代の日本の知的な風土ではただ知的な言説のゲームにしかなっていない。現在の一種のラカンブームは、ラカンの提出した問題を若い日の佐々木孝次のように自分の現実に引き寄せては考察されていない。ラカンがフランスの知識人に問題となるのは、知的だからではなく、現実の問題だからだ。
 もちろん、私の論はラカンに依存しているわけでもない。だが、論などどうでもいい。男が問われている、というだけでもいい。
 女は問われないのか。いや、問われているだろう。しいていえば、女の前段である少女が喪失の内在を抱え込み過ぎていることだ。以前、I塾というフランチャイズの塾の社長(女性)が、たしかこういうことを言った…女の人は大切なものを失い過ぎている、それでは子供が愛せない…。そうだと私は思う。宮台真司などは、現在の若い人の恋愛の過剰流動性ということをいうが、その前段には価値の可換性がある。すべての価値が可換になることで、自己を失っているといえば、アナクロニズムかもしれないが、女性の内在側の問題はそこだと思う。自分が本当に大切だったもの(おそらくファルス)が、可換性によって再び手に入るということに駆られているのだ。だが、本当に大切だったものの消失は可換性によっては取り戻せない。それは悲劇であるが、その悲劇を生きるしかないだろう。

[コメント]
# junsaito 『はじめまして。女は夫に放置されることによって、男は社会に放置されることによって虐待に走りやすくなるように思います。』

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2003.11.18

読売新聞社説のIP電話の説明は大間違い

 今朝は、大きな話題がうっとおしいので、ブログにありがちな細かいネタのアラカルトにしようかなと思った、通常は軽い小ネタがブログなんだろうから。しかし、IP電話なんていう小ネタが実際長くなってしまったのでこれで1本まとめる。
 読売新聞社説「IP電話 通信の世代交代は止められぬが」は、おおっ柄にもないこと書いて墓穴掘るだろうなという期待を満足させていただきました。という点で、とりあえず、ごちそうさまです。


一般家庭でIP電話に加入するには、ソフトバンクBB、NTTコミュニケーションズ、KDDIといったサービス会社と契約する必要がある。
 通常は光ファイバーやADSL(非対称デジタル加入者線)の利用料、インターネット接続サービス料とのセットで、月四千円前後の固定料金がかかる。
 しかし、通話料は、同一グループのIP電話間では無料、国内の固定電話向けで三分七・五―八円、米国向け国際電話で一分二・五―九円という安さだ。

 この話、前提がとち狂っている。「一般家庭でIP電話に加入するには」って、話が逆。IP網が常接になっているから、ほいじゃ電話も統合すべぇという話なのだよ、読売さん。だから、さらに金がかかるってなご心配はご無用。
 爆笑は、「通話料は…」のくだり、IP電話は料金が安いといいたいのでしょうが、阿呆か。奥さん家計簿つけたことないのぉ、のしょぼい突っ込みを入れたくなる。「国内の固定電話向けで三分七・五―八円」と味噌糞にしているが、通常の家庭の電話利用は市内が大半だ。
 なんだか、むかついてきたぞぉ。庶民を騙すんじゃねぇぞ!なのだ。平成15年10月23日(木)発表のこの資料を読んで貰いたい。「【別紙】 固定電話からIP電話(050番号)への通話サービス提供料金」。俺様が間違っているっていうご指摘は大歓迎だが、どう見たって、IP電話から一般のNTT固定電話にかけるには3分10円以上かかっている。
 読売は「国内の固定電話向けで三分七・五―八円」、だから安いと言いいのだろうけど、頭を冷やせ、考えろ、読売! 逆にだね、固定電話からIP電話にかけると10円なのだよ。おまえさんら、人様に迷惑をかけるようなヤツは金輪際承知しねって教わってこなかったのか。
 それに実際の大衆の家庭で利用されている市内通話に限れば、東西NTTのマイラインプラスなら3分8.5円だし、これにエリアプラスをちと加えれば5分8.5円になるのだ。詳しい話はちゃんとデータを元にシミュレーションしなくちゃいけないが、市外通話だってマイランの各種サービスでディスカウントされるされるからその頻度で採算ラインを出せば、IP電話なんてものには魅力はないのだ。そういえば、第一、おまえさんがたマスコミはマイラインについてきちんと説明もしてこなった。
 このあたり、ちょっとルール違反だが、ビジネスマンの東山櫻を出すとだ、以上のように読売を一喝したものの、恐らく、IP電話化には、それほどデメリットはない。ビジネス感覚でいうなら、読売くらいはだませても、ビジネスマンはだませないから、現状のIP電話のコストは通常の固定電話のコストとバランスするように料金設定されているはずだし、大衆家庭ではないなら、IP電話にメリットは若干でるだろうと思う。
 だが、新聞というのは社会の公器でなくてはいけない。特に読売新聞は大衆紙ではないか。その大衆にIP電話はどういうメリットがあるのかきちんと書かなくていけない。デスクだか上部のチェックの爺にわからない話を書くなら、きちんと裏を取って書く気構えが必要だ。少なくても、IP電話は一般大衆家庭に負担を強いるシステムであることを言明しなくてはいけない。東西NTTにやつあたりしてもいいが、大衆の側に立て、新聞、特に読売新聞!
 読売新聞社説ではIP電話のありふれたデメリットにこう触れる。

 ただし、一部のサービスを除いて、1