ユセフ・ナダルカニ氏の死刑判決
イランのキリスト教信者ユセフ・ナダルカニ(Yousof Nadarkhani)氏(33)に死刑判決が下った。これについて国際世界では、死刑廃止論者と信教の自由を求める人々から大きな異論の声があがった。が、理由はよくわからないのだが、死刑廃止論者の活動が盛んで、しかも信教の自由は日本国憲法に国を超える普遍の価値と明記されている日本では、にもかかわらず、報道がないように見える。それほど話題にも上っているふうもない。
不思議なことだなと検索してみると、福音派ではないかと思われるが、キリスト教インターネット新聞クリスチャントゥデイというサイトに「イラン福音主義牧師、絞首刑へ」(参照)として話題があったが、このサイトの方針から当然と言えないこともないが、この問題をキリスト教信仰の問題に矮小化している印象がある。また記事も伝聞のためか事実認識に問題がありそうではある。それでも日本語で読める資料という点でまず引用しておこう。
29日、イランの福音主義牧師ユセフ・ナダルカニ氏(34)がイラン政府によって処刑される危機に直面しており、世界中のキリスト者へ祈りが求められている。米ワシントンD.C.を拠点とするインターナショナル・クリスチャン・コンサーン(ICC)は28日、緊急の電子メールを送信した。29日、米クリスチャンポストが報じた。
ナダルカニ氏は、イランラシュにある400の堅強な家庭教会運動を進める指導者で、2009年10月にイスラム法による校内で非イスラム教徒もコーランを読まなければいけないという命令に反対したため逮捕された。
同氏はイラン国内において子供たちをコーランに依らず、両親の信仰に基づいて養育することが許されるべきではないかと主張していた。これに伴い、2010年9月、イラン地裁がナダルカニ氏に対し、「キリスト教に改宗および他のイスラム教徒をキリスト教に改宗させようとしている」ことによる絞首刑を宣告した。イラン最高裁も7月に同氏の絞首刑判決を支持し、先週日曜日から同氏の絞首刑について再検討がなされてきた。
28日に同氏はイラン当局からキリスト教の信仰を破棄することを告白するように4度求められたが、4度とも信仰の破棄を宣言することを拒否したという。
同氏は6月に知人あてに書いた手紙の中で、「たとえ死に至るとしてもキリスト教の信仰を放棄することはないと心に決めています。多くの霊的な誘惑を投げかける試みがありますが、忍耐と謙遜をもってこれらの誘惑を乗り越え、勝利を得ることができるでしょう」と述べていた。
日本の江戸時代初期をテーマにした歴史小説を読んでいるかのような印象もあるが、問題はキリスト教信仰ということではなく、普遍的な信教の自由と死刑制度が問われていることだ。
州によっては死刑制度を維持している米国としては、この問題を死刑制度の問題としては捉えていないが、普遍的な信教の自由という点では、国家として明確な遺憾を表明することで、同じく憲法に信教の自由が明記さている日本国家と明確な違いを見せている。
9月29日ホワイトハウス声明「White House on Conviction of Pastor Nadarkhani in Iran」(参照)より。
THE WHITE HOUSE
Office of the Press Secretary
September 29, 2011
Statement by the Press Secretary on Conviction of Pastor Youcef Nadarkhani
The United States condemns the conviction of Pastor Youcef Nadarkhani. Pastor Nadarkhani has done nothing more than maintain his devout faith, which is a universal right for all people. That the Iranian authorities would try to force him to renounce that faith violates the religious values they claim to defend, crosses all bounds of decency, and breaches Iran’s own international obligations. A decision to impose the death penalty would further demonstrate the Iranian authorities’ utter disregard for religious freedom, and highlight Iran’s continuing violation of the universal rights of its citizens. We call upon the Iranian authorities to release Pastor Nadarkhani, and demonstrate a commitment to basic, universal human rights, including freedom of religion.
米国はユセフ・ナダルカニ牧師の有罪判決をを非難します。ナダルカニ牧師は、自身の献身的な信仰を維持する以上のことをなにもしてきません。そして信仰というものはすべての人のための普遍的な権利です。イラン当局は、彼らが保護しようとする宗教的な価値に違反する信仰だとして、ナダルカニ牧師に棄教を強制しようとしています。これはあらゆる品位を逸脱し、イラン国家の国際的な義務を破棄するものです。死刑強行の決定は、イラン当局が信教の自由を無視し、自国市民の普遍的な権利を侵害しつづけることをいっそう明らかにするものとなるでしょう。私たちはイラン当局に対し、ナダルカニ牧師を釈放し、信教の自由を含めて、根本的かつ普遍的な人権への関与を示すことを求めます。
言葉はかたいが、日本国憲法の原文にも調和した、日本人にとっても馴染みやすい声明ではある。日本国の声明ではないのが残念であるだけだ。
この問題の推移とイランへの批判活動については、法と正義のための米センター(ACLJ: American Center for Law and Justice)(参照)に詳しいが、事実量が多く、逆にわかりづらい。
その点で英国紙ガーディアン紙は、簡素ながらに、少し入り組んだ背景を説明している。「Iran: live free – and die」(参照)より。
There is no question that Mr Nadarkhani is a Christian, and an inspiringly brave one. That is, in theory, legal in Iran. The particular refinement of his persecution is that he is accused of "apostasy". The prosecution claimed he was raised as a Muslim, which is why his present Christian faith merits death. He was convicted last year. Mohammad Ali Dadkhah, the lawyer who was brave enough to defend him, was himself sentenced to nine years on trumped-up charges this summer. Both these sentences are offences against natural justice. Both were appealed. The supreme court in Tehran last week announced its judgment on one: Mr Nadarkhani might save his life if he publicly renounced Christianity. This he has twice this week refused to do. A third refusal – due at any moment – might spell his death sentence.ナダルカニ氏がキリスト教徒であり、霊感から勇敢であることは疑いない。このことは、建前上は、イランにおいて合法的である。この迫害が手の込んだものであることは、告訴理由が「背教」であることだ。訴状によれば、彼はイスラム教徒として育てられ、それゆえに彼の強固なキリスト教信仰は氏に値するというのである。彼は昨年有罪となった。弁護士として勇敢にも彼を弁護したモハマド・アリ・ダカ自身も捏造された疑惑でこの夏、9年の刑を受けた。両判決とも自然法に違反している。両者とも控訴した。イラン最高裁判所は先週、一方に判決を下した。ナダルカニ氏仮に公的にキリスト教を棄教するなら、命は救われるかもしれないというものだ。彼は今週二度拒否し、時期はわからないが三度目の拒否は、死刑判決を明確化するかもしれない。
つまり、イスラム教徒だったのにキリスト教徒になったから問題だというのだ。見え透いたこじつけである。
そこで、日本のリベラル派に見られるようなご都合主義のないリベラリズムを固持するガーディアンの意見は明確である。
The proposed hanging of Youssef Nadarkhani is an outrage. It is also a terrifying glimpse of the injustice and arbitrary cruelty of the present Iranian regime. This paper opposes the death penalty always and everywhere, but at least when it is applied for murder or treason there is a certain twisted logic to the punishment. But Mr Nadarkhani's crime is neither murder nor treason. He is not even a drug smuggler. He is just a Christian from the city of Rasht, on the Caspian Sea, who refuses to renounce his faith. There is a pure and ghastly theatricality at the heart of this cruel drama which goes to the heart of religious freedom.ユセフ・ナダルカニの絞首刑は暴挙である。それはまた不正の恐ろしい一瞥と現在のイランの政権の気まぐれな残酷さでもある。ガーディアン紙は、いつでもいかなるときでも、死刑に反対するが、少なくとも、殺人や反逆罪に適用されるときには、その処罰についていじけた論理もあるものだ。しかし、ナダルカニ氏の犯罪は、殺人でも反逆罪でもない。彼は麻薬密輸業者ですらない。彼は、棄教を拒むカスピ海沿岸のラシュト市生まれのキリスト教徒であるというだけだ。信教の自由の核心的な問題に行き着く、まじっけなしでぞっとするほど芝居がかった残酷さがこの事態の核心なのである。
まあ、そうだろう。
さて、私の感想も付記しておきたい。普遍的な信教の自由を明記した市民契約を持つ日本国市民として私もこの事態につよい違和感を持つ。だから、ブログに記しておく。キリスト教が理由ではなく、市民契約を遵守するがゆえにナダルカニさん処刑に反対を表明する日本国市民が一人はいることになる。
しかし、私は今回の事態は死刑執行にはならないとも思う。その程度にはイランという国を信頼している。
さらにごく個人的に言うのだが、ナダルカニさんは、過ぎ去りゆくこの世にあっては、形の上だけ棄教すればよいと思う。
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