2011.10.05

ユセフ・ナダルカニ氏の死刑判決

 イランのキリスト教信者ユセフ・ナダルカニ(Yousof Nadarkhani)氏(33)に死刑判決が下った。これについて国際世界では、死刑廃止論者と信教の自由を求める人々から大きな異論の声があがった。が、理由はよくわからないのだが、死刑廃止論者の活動が盛んで、しかも信教の自由は日本国憲法に国を超える普遍の価値と明記されている日本では、にもかかわらず、報道がないように見える。それほど話題にも上っているふうもない。
 不思議なことだなと検索してみると、福音派ではないかと思われるが、キリスト教インターネット新聞クリスチャントゥデイというサイトに「イラン福音主義牧師、絞首刑へ」(参照)として話題があったが、このサイトの方針から当然と言えないこともないが、この問題をキリスト教信仰の問題に矮小化している印象がある。また記事も伝聞のためか事実認識に問題がありそうではある。それでも日本語で読める資料という点でまず引用しておこう。


 29日、イランの福音主義牧師ユセフ・ナダルカニ氏(34)がイラン政府によって処刑される危機に直面しており、世界中のキリスト者へ祈りが求められている。米ワシントンD.C.を拠点とするインターナショナル・クリスチャン・コンサーン(ICC)は28日、緊急の電子メールを送信した。29日、米クリスチャンポストが報じた。
 ナダルカニ氏は、イランラシュにある400の堅強な家庭教会運動を進める指導者で、2009年10月にイスラム法による校内で非イスラム教徒もコーランを読まなければいけないという命令に反対したため逮捕された。
 同氏はイラン国内において子供たちをコーランに依らず、両親の信仰に基づいて養育することが許されるべきではないかと主張していた。これに伴い、2010年9月、イラン地裁がナダルカニ氏に対し、「キリスト教に改宗および他のイスラム教徒をキリスト教に改宗させようとしている」ことによる絞首刑を宣告した。イラン最高裁も7月に同氏の絞首刑判決を支持し、先週日曜日から同氏の絞首刑について再検討がなされてきた。
 28日に同氏はイラン当局からキリスト教の信仰を破棄することを告白するように4度求められたが、4度とも信仰の破棄を宣言することを拒否したという。
 同氏は6月に知人あてに書いた手紙の中で、「たとえ死に至るとしてもキリスト教の信仰を放棄することはないと心に決めています。多くの霊的な誘惑を投げかける試みがありますが、忍耐と謙遜をもってこれらの誘惑を乗り越え、勝利を得ることができるでしょう」と述べていた。

 日本の江戸時代初期をテーマにした歴史小説を読んでいるかのような印象もあるが、問題はキリスト教信仰ということではなく、普遍的な信教の自由と死刑制度が問われていることだ。
 州によっては死刑制度を維持している米国としては、この問題を死刑制度の問題としては捉えていないが、普遍的な信教の自由という点では、国家として明確な遺憾を表明することで、同じく憲法に信教の自由が明記さている日本国家と明確な違いを見せている。
 9月29日ホワイトハウス声明「White House on Conviction of Pastor Nadarkhani in Iran」(参照)より。

THE WHITE HOUSE
Office of the Press Secretary
September 29, 2011
Statement by the Press Secretary on Conviction of Pastor Youcef Nadarkhani
 
The United States condemns the conviction of Pastor Youcef Nadarkhani. Pastor Nadarkhani has done nothing more than maintain his devout faith, which is a universal right for all people. That the Iranian authorities would try to force him to renounce that faith violates the religious values they claim to defend, crosses all bounds of decency, and breaches Iran’s own international obligations. A decision to impose the death penalty would further demonstrate the Iranian authorities’ utter disregard for religious freedom, and highlight Iran’s continuing violation of the universal rights of its citizens. We call upon the Iranian authorities to release Pastor Nadarkhani, and demonstrate a commitment to basic, universal human rights, including freedom of religion.


米国はユセフ・ナダルカニ牧師の有罪判決をを非難します。ナダルカニ牧師は、自身の献身的な信仰を維持する以上のことをなにもしてきません。そして信仰というものはすべての人のための普遍的な権利です。イラン当局は、彼らが保護しようとする宗教的な価値に違反する信仰だとして、ナダルカニ牧師に棄教を強制しようとしています。これはあらゆる品位を逸脱し、イラン国家の国際的な義務を破棄するものです。死刑強行の決定は、イラン当局が信教の自由を無視し、自国市民の普遍的な権利を侵害しつづけることをいっそう明らかにするものとなるでしょう。私たちはイラン当局に対し、ナダルカニ牧師を釈放し、信教の自由を含めて、根本的かつ普遍的な人権への関与を示すことを求めます。


 言葉はかたいが、日本国憲法の原文にも調和した、日本人にとっても馴染みやすい声明ではある。日本国の声明ではないのが残念であるだけだ。
 この問題の推移とイランへの批判活動については、法と正義のための米センター(ACLJ: American Center for Law and Justice)(参照)に詳しいが、事実量が多く、逆にわかりづらい。
 その点で英国紙ガーディアン紙は、簡素ながらに、少し入り組んだ背景を説明している。「Iran: live free – and die」(参照)より。

There is no question that Mr Nadarkhani is a Christian, and an inspiringly brave one. That is, in theory, legal in Iran. The particular refinement of his persecution is that he is accused of "apostasy". The prosecution claimed he was raised as a Muslim, which is why his present Christian faith merits death. He was convicted last year. Mohammad Ali Dadkhah, the lawyer who was brave enough to defend him, was himself sentenced to nine years on trumped-up charges this summer. Both these sentences are offences against natural justice. Both were appealed. The supreme court in Tehran last week announced its judgment on one: Mr Nadarkhani might save his life if he publicly renounced Christianity. This he has twice this week refused to do. A third refusal – due at any moment – might spell his death sentence.

ナダルカニ氏がキリスト教徒であり、霊感から勇敢であることは疑いない。このことは、建前上は、イランにおいて合法的である。この迫害が手の込んだものであることは、告訴理由が「背教」であることだ。訴状によれば、彼はイスラム教徒として育てられ、それゆえに彼の強固なキリスト教信仰は氏に値するというのである。彼は昨年有罪となった。弁護士として勇敢にも彼を弁護したモハマド・アリ・ダカ自身も捏造された疑惑でこの夏、9年の刑を受けた。両判決とも自然法に違反している。両者とも控訴した。イラン最高裁判所は先週、一方に判決を下した。ナダルカニ氏仮に公的にキリスト教を棄教するなら、命は救われるかもしれないというものだ。彼は今週二度拒否し、時期はわからないが三度目の拒否は、死刑判決を明確化するかもしれない。


 つまり、イスラム教徒だったのにキリスト教徒になったから問題だというのだ。見え透いたこじつけである。
 そこで、日本のリベラル派に見られるようなご都合主義のないリベラリズムを固持するガーディアンの意見は明確である。

The proposed hanging of Youssef Nadarkhani is an outrage. It is also a terrifying glimpse of the injustice and arbitrary cruelty of the present Iranian regime. This paper opposes the death penalty always and everywhere, but at least when it is applied for murder or treason there is a certain twisted logic to the punishment. But Mr Nadarkhani's crime is neither murder nor treason. He is not even a drug smuggler. He is just a Christian from the city of Rasht, on the Caspian Sea, who refuses to renounce his faith. There is a pure and ghastly theatricality at the heart of this cruel drama which goes to the heart of religious freedom.

ユセフ・ナダルカニの絞首刑は暴挙である。それはまた不正の恐ろしい一瞥と現在のイランの政権の気まぐれな残酷さでもある。ガーディアン紙は、いつでもいかなるときでも、死刑に反対するが、少なくとも、殺人や反逆罪に適用されるときには、その処罰についていじけた論理もあるものだ。しかし、ナダルカニ氏の犯罪は、殺人でも反逆罪でもない。彼は麻薬密輸業者ですらない。彼は、棄教を拒むカスピ海沿岸のラシュト市生まれのキリスト教徒であるというだけだ。信教の自由の核心的な問題に行き着く、まじっけなしでぞっとするほど芝居がかった残酷さがこの事態の核心なのである。


 まあ、そうだろう。
 さて、私の感想も付記しておきたい。普遍的な信教の自由を明記した市民契約を持つ日本国市民として私もこの事態につよい違和感を持つ。だから、ブログに記しておく。キリスト教が理由ではなく、市民契約を遵守するがゆえにナダルカニさん処刑に反対を表明する日本国市民が一人はいることになる。
 しかし、私は今回の事態は死刑執行にはならないとも思う。その程度にはイランという国を信頼している。
 さらにごく個人的に言うのだが、ナダルカニさんは、過ぎ去りゆくこの世にあっては、形の上だけ棄教すればよいと思う。


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2011.10.04

オバマ流平和術:テロにはテロを

 イエメン拠点イスラム武装組織「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP: Al-Qaeda in the Arabian Peninsula)指導者アンワル・アウラキ(Anwar al-Awlaqi)師が暗殺された。暗殺の首謀者はいうまでもないオバマ米国大領である。ノーベル平和賞受賞者でもあるが。
 アウラキ師暗殺の発表は9月30日にあった。NNHK「“アルカイダ系指導者を殺害”公表」(参照)は次のように現地報道を伝えた。


 中東イエメンの国防省は国際テロ組織アルカイダ系の武装組織の指導者でアメリカを狙った複数のテロ事件に関与したとされるアンワル・アウラキ容疑者を殺害したと発表しました。
 イエメン国防省は30日、イエメン国内を拠点とするアルカイダ系組織「アラビア半島のアルカイダ」の精神的な指導者、アンワル・アウラキ容疑者を殺害したと発表しました。現地からの報道によりますと、イエメン軍は30日朝、中部のマーリブ州と隣の州との境の地域でアウラキ容疑者が仲間とともに乗っていたとみられる車両を空から攻撃してアウラキ容疑者を殺害したということです。
 アウラキ容疑者は、アメリカ生まれのイエメン人で、流ちょうな英語で過激思想の拡散を図り、おととしにはアメリカの旅客機を狙った爆破テロ未遂事件に関与したとされるほか、アメリカ・テキサス州の陸軍基地で起きた乱射事件では、乱射をした軍医に対してインターネットを通じて洗脳していたということです。
 このため、アメリカはことし5月にアルカイダの指導者オサマ・ビンラディン容疑者を殺害したあと、アウラキ容疑者の殺害を最重要課題の一つに掲げていました。アルカイダ側は今のところ何の反応も出していませんが、殺害が確認された場合、アルカイダにとってはビンラディン容疑者の殺害に続く大きな打撃になるものとみられています。

 NHKとしては最初の報道にあたるため確認でなきかったのかもしれないが、「空から攻撃して」という表現はわかりづらい。また、アウラキ師が米国市民権を所有していたことにも触れていない。
 NHKは10月2日にも関連報道「アルカイダの他2幹部も殺害か」(参照)をし、殺害のようすを多少詳しく伝えている。

アメリカとイエメン政府は、先月30日、イエメンを拠点とするアルカイダ系組織「アラビア半島のアルカイダ」の精神的な指導者、アンワル・アウラキ容疑者を殺害したと発表しました。作戦は、CIA=中央情報局などが無人攻撃機を使って空から攻撃したものとみられています。これについて、ニューヨーク・タイムズなど、アメリカの複数のメディアは、1日までに、政府当局者の話として、作戦ではアウラキ容疑者と一緒にいた幹部2人も殺害された可能性があると伝えました。このうち、1人は爆発物の製造を担当し、去年、イエメンからアメリカに向けて発送された航空貨物から見つかった爆発物などを製造したとみられています。また、もう1人は、過激な思想をインターネットで広める役割を担っていたということです。

 無人機、つまり、ロボットを使って人間を殺害したのである。ここでもNHKは触れていないが米国市民権を持つ人間の殺害であり、これは「暗殺」というのが正しい表現だろう。
 具体的にどのように米国市民暗殺を実行したかについて、その責任者であるオバマ大統領は明言を避けている。時事「作戦の詳細公表せず=アウラキ師殺害「喜ばしい」-米」(参照)より。

オバマ米大統領は30日、ラジオ番組のインタビューで、イエメンの「アラビア半島のアルカイダ」のアンワル・アウラキ師の殺害に関し、米軍・情報当局の関与や自身の役割など「作戦上の詳細については話せない」と言及を避けた
 大統領は「アウラキが米本土や同盟国を直接脅かせなくなったことは非常に喜ばしい」と歓迎、イエメンや関係国との緊密な連携の成果であると称賛した。

 推測はされている。1日付け産経新聞記事「無人機、遠隔操作でテロリスト殺害 米軍と情報当局 ゲームさながらの「ハイテク戦」展開」(参照)より。

 AP通信などによると、アウラキ容疑者の動向を最初に探知したのはイエメン当局。情報はすぐさま米軍特殊部隊を管轄する統合特殊作戦軍と中央情報局(CIA)に伝達された。
 両組織は約3週間にわたってスパイ衛星や偵察機を駆使してアウラキ容疑者を追跡。本人と確認した上でホワイトハウスの許可を得て攻撃を実行した。
 両組織が所有する無人機は、ジブチなど周辺国から離陸。どこから操縦されていたかは不明だが、最新の機体は米国本土からの操縦も可能だ。上空には有人の米軍機も待機し、必要なら攻撃に加わる態勢が整えられていた。
 無人機による1度目のミサイル攻撃は標的を外して失敗。上空を旋回していた無人機は、猛烈な砂ぼこりの中を逃走する車両を再び発見し、2度目の攻撃で標的を破壊。車両は粉々で、アウラキ容疑者ら4人の遺体確認は不可能という。

 このやり口は、テロにはテロを、という以外はないだろう。
 いかなる法的な根拠で、米国市民を国家が暗殺可能になるのか。疑問の声は当然上がる。ウォールストリートジャーナル記事「Killings Pose Legal and Moral Quandary」(参照)はその要点をまとめた。同記事は翻訳も掲載された(参照)。

 イエメンを拠点とするテロ組織「アラビア半島のアルカイダ」の指導者で米国籍のアンワル・アウラキ師を、9月30日に米中央情報局(CIA)が無人機で殺害したとされていることについて、合法だったのか、さらには道義的に許されるのかをめぐって米国で論争が起きている。問題は、推定無罪の原則を守るべき国が裁判所の許可を得ずに市民の生命を奪うことができるのかどうかである。
 アウラキ師は、オバマ大統領によって米国の安全保障にとって危険な人物として「殺害標的リスト」に加えられた最初の米国民とみられているが、米政府は同師を正式起訴しておらず、同師の罪状を証明する具体的な証拠も明らかにしていない。同師はここ数年、インターネットなどを通じた反米演説でアルカイダへの勧誘に成果をあげ影響力を強めている。


 外国情報監視法(FISA)によれば、米政府は海外在住の米国民を盗聴するには裁判所の秘密許可を求める必要がある。連邦捜査局(FBI)は同法に従って裁判所の許可を得た上で、2009年にアウラキ師の電子メールを盗聴した。
 米司法省は、今回のアウラキ師殺害でFISAに基づく裁判所令があるかどうかだけでなく、殺害標的リストが存在するのか、アウラキ師が同リストに載っているのかも明らかにしていない。しかしオバマ政権は、戦争関連法により政府にはテロリスト集団に加わり米国に差し迫った脅威を与えている米国民を殺害する権利が与えられていると主張している。
 米議員の多くは、今回のアウラキ師の殺害を歓迎しているが、共和党大統領候補の一人であるロン・ポール下院議員(テキサス州)は、超法規的に米国民を殺害したことに困惑していると、不快感を示した

 つまり、テロリスト認定者の電話盗聴には裁判所の令状が必要だが、暗殺については政府独自の判断で実行できるということになる。オバマ政権は法的な手順をまったく踏んでいなかったのか。
 そうではないらしい。9月30日付けワシントンポスト記事「Secret U.S. memo sanctioned killing of Aulaqi」(参照)はアウラキ師の暗殺について米司法省の秘密メモで承認されていたことを報道した。日本語で読める情報としてはAFP「「米国籍を持つ米国の敵」、アウラキ師殺害で法律論議」(参照)がある。

 米紙ワシントン・ポスト(Washington Post)は30日、米国籍を持つアンワル・アウラキ(Anwar al-Awlaqi)師の殺害が、米司法省の秘密メモで承認されていたと報じた。
 米政府は今回の作戦の詳細の公開を拒んでいるが、米中央情報局(Central Intelligence Agency、CIA)と、CIAの管轄下にある軍の人員や装備によって実施された米軍の無人攻撃機による空爆でアウラキ師は殺害されたと報じられている。
 同紙によるとこの秘密メモは、バラク・オバマ(Barack Obama)大統領政権の上級法律顧問が、米国民を殺害対象にすることについて法的に懸念のある点を検討したうえで作成された。アウラキ師殺害を受けてある元情報機関幹部は同紙に、米司法省の同意がなければCIAが米国民を殺すことはなかったはずだと語ったという。
 別の複数の米当局者は同紙に、アウラキ師殺害の適法性について意見の食い違いはなかったと証言した。ある当局者は同紙に「このケースにおける適切な手続きとはすなわち、戦時における適切な手続きだ」と語ったという。

 推測の段階だが、米国の司法もまたこの暗殺を認めていたということになる。
 韓国のように、例えば安重根や姜宇奎のような暗殺者を賛美する東洋の伝統とは異なり、西欧の決闘の伝統を振り返れば、西欧では、武器をもたない人間に対して武器をもって殺害することは、人間の尊厳を汚す最大の恥辱ともなるはずだった。オバマ政権は倫理の面でもグローバル化し、東洋を学び、アルカイダの手法も学んだということだろう。
 もちろん、今回のオバマ大統領の決定を是とする人もいる。代表者は、ブッシュ政権を事実上支えてきたチェイニー元副大統領である。彼はこの暗殺作戦について「非常に優れた正当な攻撃だったと思う」と述べている。
 CNN「チェイニー前米副大統領「大統領は過去の批判を撤回すべき」(参照)はこう伝えている。

 チェイニー氏はこの作戦について「非常に優れた正当な攻撃だったと思う」と述べたが、同時に「現政権が2年前に立ち返り、米同時多発テロへの『過剰反応』を批判した発言を訂正するよう期待している」とも語った。また、オバマ政権が「正当だと思うときには強硬な行動に出る」方針へ転換したのは明らかだとの見方を示した。
 同氏の長女、リズ・チェイニーさんはさらに、オバマ大統領がかつて、ブッシュ政権は米国の理想に背を向けたと批判することによって国の名誉を傷付け、「大きな損害」を与えたと主張。「大統領は米国民に謝罪するべきだ」と述べた。
 チェイニー氏も謝罪を求めるかとの質問に、「私にではなく、ブッシュ政権に謝罪してほしい」と答えた。

 確かに、現在のオバマ政権の「テロにはテロを」戦略が正しいとするなら、より合法的で人間的でもあったブッシュ元大統領についての、かつてのオバマ氏の発言は、今の時点で謝罪を要するものだろう。
 同様にではあるが、確たる証拠もなくイラクを攻撃したとしてブッシュ政権を非難してきた人たちも、確たる証拠もなく暗殺に手を出したオバマ大統領のようなテロリストと同じ地平に立ちたいのでなければ、多少の思索もあるのかもしれない。

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2011.09.27

小沢一郎元民主党代表の政治資金団体に関する地裁判決、雑感

 小沢一郎元民主党代表の資金管理団体・陸山会による土地購入をめぐって、同団体に関わる小沢氏元秘書3人――衆議院議員・石川知裕被告(38)、大久保隆規被告(50)、池田光智被告(34)――の、政治資金規正法違反(収支報告書虚偽記載)について問われる裁判で26日、東京地裁は有罪を下した。事件としては、陸山会事件と西松建設事件の2件が関わる。
 収支報告書虚偽記載の有無自体は争点ではないので、形の上からは無罪ということはないにせよ、初犯であり、政治資金規正法違反の過去の慣例からして、実刑になるとは想定されず、判決でもそれぞれに執行猶予がついた。また公判では、検察側が証拠申請した供述調書38通中11通について、威圧的な取り調べや利益誘導があったとして不採用となったこともあり、弁護側に有利かとも見られていた。
 しかし、弁護側が想定していたような軽微な裁判であったかというと、大久保被告に禁錮3年・執行猶予5年、石川被告に禁錮2年・執行猶予3年、池田被告に禁錮3年・執行猶予3年という禁錮刑から見て、そうとも言いがたい。慣例からすれば、衆議院議員・石川知裕は国会議員を辞職するのことになるだろうし、小沢一郎元民主党代表の監督責任も免れない。
 判決としては以上のとおりで、存外に重い判決だが、さほど特異な事件とも思われない。が、共同のまとめた判決要旨(参照)を読むと、地裁がかなり踏み込んだ判断をしていることがわかり、興味深かった。判決はまず、2つの事件を最初に描き分けている。


【西松建設事件】
 新政治問題研究会と未来産業研究会は西松建設が社名を表に出さずに政治献金を行うために設立した政治団体であり、西松建設の隠れみのにすぎず、政治団体としての実体もなかった。献金は西松建設が自ら決定し、両研究会を通じて実行。寄付の主体はまさに西松建設だった。
 岩手県や秋田県では、公共工事の談合で小沢事務所の了解がなければ本命業者にはなれない状況。小沢事務所の秘書から発せられる本命業者とすることの了解はゼネコン各社にとって「天の声」と受け止められていた。元公設第1秘書の大久保隆規被告は2002~03年ごろから天の声を発出する役割を担うようになった。
 西松建設は公共工事の談合による受注獲得のために寄付しているのだから、同社としては西松建設による献金と小沢事務所に理解してもらわなければ意味がない。献金の受け入れ窓口だった大久保被告が理解していなかったとは到底考えられない。
 加えて、献金総額や献金元、割り振りなどの重要事項は、大久保被告が西松建設経営企画部長とのみ打ち合わせ、献金の減額・終了交渉でも大久保被告は「まあお宅が厳しいのはそうでしょう」と述べた。大久保被告も捜査段階で、両研究会が西松建設の隠れみのと思っていたとの趣旨を供述している。
 大久保被告は、両研究会からの献金について、衆院議員の石川知裕被告、元秘書の池田光智被告が収支報告書に両研究会からの寄付だと虚偽の記載をすることを承知していた。大久保被告の故意は優に認められる。
 両研究会からの寄付とする外形は装っているが、実体は西松建設から。他人名義による寄付や企業献金を禁止した政治資金規正法の趣旨から外れ、是認されない。

 西松建設事件については、政治資金規正法が禁止する他人名義による寄付や企業献金を意図的に偽るための、虚偽記載として、いわゆる帳簿的なミスとはされていない。
 陸山会事件については、かなり踏み込んだ解釈をしている。

【陸山会事件】
 04年分収支報告書の「借入先・小沢一郎 4億円、備考・04年10月29日」との記載は、体裁から陸山会が小沢一郎民主党元代表から4億円を借り入れた日とみるのが自然かつ合理的。被告側が主張する「同年10月初め~同月27日ごろまでに小沢から陸山会が借りた合計4億円」を書いたものとすると、それを担保にする形をとって小沢元代表名義で銀行融資を受け、転貸された4億円を記載しなかったことになり、不自然。
 加えて、石川被告が4億円を同年10月13日から28日まで前後12回にわたり5銀行6支店に分散入金したことなどは、4億円を目立たないようにする工作とみるのが合理的。4億円を原資とする土地取得も04年分報告書に載ることを回避しようと隠蔽工作をしたとも推認される。

 陸山会事件で焦点となったのは、虚偽記載の形式性より、なぜ虚偽記載が行われたのかという動機から、小沢氏に由来する4億円の原資が問われた。
 地裁判決を見ると、小沢原資4億円とその資金洗浄のように見える操作が公判で解明されれば、問題は虚偽記載の形式性に還元されていただろう。それができなかった理由は弁護側にある。3月3日付け読売新聞「石川被告「すべてを合理的に説明できない」(参照)より。

 小沢一郎民主党元代表(68)の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件で、同法違反(虚偽記入)に問われた同会元事務担当者・石川知裕衆院議員(37)ら元秘書3人の第6回公判が2日、東京地裁で開かれ、3被告への被告人質問が行われた。
 郁朗裁判長ら裁判官が、同会が土地を購入した際、石川被告が行った複雑な資金移動の理由について説明を求めたが、石川被告は「うまく説明できない」と述べた。
 同会は2004年10月に東京都世田谷区の土地を購入。その際、小沢元代表から4億円を借り入れた上で、定期預金を担保に銀行から同額の融資を受けたが、融資の利子として年間約450万円を払っていた。
 石川被告はその理由について、「小沢議員から借りたことを明確にしようとした」と説明。登石裁判長が「借用書は作っていますね」「借金とはっきりさせていればいいのでは」などと尋ねると、石川被告は口ごもり、「すべてを合理的に説明できない」と話した。

 公判のこの時点で地裁判決の方向性は固まったと見てよいだろう。今回の事件は検察のあり方も問われたが、決定的な要因となったのは、こうした公判のプロセスであった。
 地裁判決要旨では次のようにまとめられているが、公判のプロセスからは妥当な推定の範囲である。

 4億円の原資は石川被告らに加え、用立てた小沢元代表自身ですら明快な説明ができていない。原資の説明は困難。
 当時の水谷建設社長は胆沢ダム建設工事の受注に絡み、大久保被告の要求に応じて、04年10月に5千万円を石川被告に、05年4月に同額を大久保被告に手渡したと証言したが、ほかの関係者証言や客観的証拠と符合し、信用できる。一切受け取っていないという両被告の供述は信用できない。
 陸山会は04年10月ごろ、原資が明らかでない4億円もの巨額の金員を借り入れ、さらに石川被告自ら、水谷建設から5千万円を受領した。小沢事務所は常にマスコミのターゲットになっており、これらのことが明るみに出る可能性があったため、4億円借り入れの事実を隠蔽しようとしたと推認できる。


 しかし預かり金と言いながら「預かった理由や返済時期、5団体が分けて預かる理由や金額も分からなかった」などと述べ、著しく不自然、不合理で到底信用できない。
 「石川被告から『小沢代議士から4億円を借りている』と聞いた」と述べ、元代表が巨額な個人資産を預ける理由もないことを勘案すると、池田被告は4億円を借入金と認識しながら返済を報告書に記載しなかったと認められる。1億5千万円についての主張も信用できず、故意があった。

 かくして判決の核心は、収支報告書虚偽記載という形式的に軽微な事案であるより、政治資金規正法の本義が、小沢原資4億円の謎について問われるところとなった。
 量刑理由では次のように述べられている。

 陸山会は原資を明快に説明するのが難しい4億円を小沢元代表から借りて本件土地を購入。取得時期が、談合を前提とした公共工事の本命業者の選定に対する影響力を背景に、小沢事務所が胆沢ダム建設工事の下請け受注に関し、水谷建設から5千万円を受領した時期と重なっていた。
 そのような時期に原資不明な4億円もの資金を使って高額な不動産を取得したことが明るみに出れば、社会の注目を集め、報道機関に追及され、5千万円の授受や、小沢事務所が長年にわたり企業との癒着の下に資金を集めていた実態が明るみに出る可能性があった。本件は、これを避けようと敢行された。
 規正法は、政治団体による政治活動が国民の不断の監視と批判の下に公明かつ公正に行われるようにするため、政治資金の収支の公開制度を設けている。

 小沢原資4億円がどのように形成されたかについてまで地裁判決は言及していない。問題とされているのは、公共工事本命業者選定の時期に原資不明大金が政治家の活動に明示されないことである。
 地裁判決はさらに、その根深い構造にまで言及している。ここまで踏み込むと、政治資金規正法の本義すら超えているのではないかという印象もあるが、司法のあり方を明示したいという意図もあったのだろう。

 それなのに本件は、現職衆院議員が代表者を務める政治団体に関し、数年間にわたり、企業が隠れみのとしてつくった政治団体の名義による多額の寄付を受け、あるいは4億円の存在が発覚しないように種々画策し、報告書に多額の不記載や虚偽記入をしたものである。規正法の趣旨にもとる悪質な犯行だ。
 しかも、いずれの事件も長年にわたる公共工事をめぐる小沢事務所と企業との癒着を背景とするもので、法の規制を免れて引き続き多額の企業献金を得るため、あるいは、癒着の発覚を免れるため、国民による政治活動の批判と監視のよりどころとなる報告書に意図的に数多くの虚偽記入などをした。
 法の趣旨を踏みにじり、政治活動や政治資金の流れに対する国民の不信感を増大させ、社会的影響を見過ごすことはできない。被告らは不合理な弁解を弄して責任をかたくなに否認し、反省の姿勢を全く示していない。

 ようするに、小沢氏の錬金術の正体を「長年にわたる公共工事をめぐる小沢事務所と企業との癒着を背景とするもので、法の規制を免れて引き続き多額の企業献金を得る」とし、司法が政治を裁いているのである。
 この言明は、法の不遡及という原則を逸脱しているように聞こえないでもない。小沢氏としては、自民党経世会という歴史背景から、ごく普通にマネーに関わるビジネスのことを「政治」としていただけなのだが、気がつけば時代が変わり、司法はそれに対して、法の本義を剣として「政治」ではないとして処罰するというのである。もちろん、それは比喩であって、実際にそこまで裁かれうるかについてはわからない。それでも、現在の司法が小沢氏のような錬金術を非としていることを明確にする事態ではあった。
 この司法の意思が高裁でも維持されるのか、また、小沢氏自身の裁判に関わるかについては注視していきたい。

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2011.09.24

麻生太郎元首相いわく、「国会の会期を決めるのは立法府ですよ。与党・政府じゃないんだ」

 野田首相の訪米で開店休業の国会というのはしかたがないが、どうやら今国会会期の再延長はなく、9月の30日で閉めるとのことだ。どじょう内閣は泥にまみれて仕事をするんじゃなかったのか。しかも、国会の運営って行政府が決めることなのか?
 報道の確認から。23日時事「国会再延長せず=民主国対委員長」(参照)より。


 民主党の平野博文国対委員長は23日午後、自民党の逢沢一郎国対委員長が今国会会期の再延長を求めていることについて、「30日で閉めさせていただきたい」と述べ、応じない考えを明らかにした。同時に「今は2011年度第3次補正予算案の政党間協議を進めることに最大限のエネルギーを注くべきだ」として、本格的な震災復興策を盛り込む3次補正の編成に向け、自民、公明両党との早期の協議入りに期待を示した。和歌山市内で記者団の質問に答えた。(2011/09/23-21:02)

 かくして、与野党が通常国会で、次期臨時国会で成案を得ると合意した、野党提出の、(1)原子力事故調査委員会法案、(2)東日本大震災事業者再生支援機構法案(二重ローン救済法案)、(3)私立学校復旧助成法案、3法案に加え、国家公務員給与削減法案など次期国会に先送りという雲行きになった。
 まあ、低迷して、泥にまみれているのは自民党なので、なんとか民主党を攻めたいというのはあるだろうが、そのあたりを差し引いたとしても、せめて合意事項くらいはさっさと臨時国会で片を付けたらよいのではないか。
 と自民党を見ていると、麻生太郎元首相が、きちんと原則論を言っていた。党利党略部分を差し引いても、原則論は正しいと思われるし、そのあたり、麻生さんはマスコミに声が届かないという不信感を持っているようだから、ブログみたいなもので少し言及しておこうかね。

 先週金曜日の本会議でぇ、今国会のぉ延長がこの9月30日までと決まりました。きわめて短期間の延長なんですが、そもそも端から四日間で会期をぅいうところが間違っている、のは、はっきりしているんだと思いますが、何となく形として新しく内閣ができたにもかかわらず、本会議四日間だけで予算委員会もなく終わるという発想からしてそもそも間違っている、と私にはそう思います。

 今やんなくちゃいけないとよく言われているので、こ、与野党で合意している法案がぁだけでも、とにかくあれでしょお、に、原子力事故調査委員会設置法、これ間違いなく与野党合意、二重ローンなきあれも合意、それから私立学校補助のやつも合意、これみんな合意してんだよ。合意しているにもかかわらず委員会が開けない。おかしいじゃない、そのなんでマスコミは叩かんのかねこれ、理解ができねぇできない。で、これ何回約束を反故にするつもりかねとぉ私らは率直にそう思っているんですが。

 加えて台風、12、15号いずれも上陸やら何やらで、これの速やかな対応を求められておる。だからこぉ災害特区なんか、即やるべきなんではないのかねえ
 それをやらない理由が、え、なんだってぇ、予算委員会をやってない前にやるということはできない。だったらその後やりゃあいい。その前にいない、今総理いないときにやればいいやん。事は急いでんだから、と、いう発想が何で出ないし、向いてる方向が国民の方向に向いてない。またそれも叩かないからマスコミの方も、何かずれてますよ。僕にはそれしか考えられねえ、今の話は。

 あー、そういった意味で、あのぉ、国会やる気があるのかって僕がそう思って思っていたら、今度は官房長官なる人が出てきて、国会の、お、次の国会は、三次補正だけ、やれば、後はいいとか

 これは国会の開会を政府が要請する、というのはあっても、国会の会期を決めるのは、これは立法府ですよ。与党、政府じゃないんだから。行政府じゃありません。いつから国会の会期のえん、期間が立法府から行政府に移ったんだね

 おかしいでしょうが、ということを全然おかしいと思っていない人がマスコミの中にいるんですよ。

 だから書かない。だから、書かないから気がついていない、っていう人が多いんだと思うけど。明らかに、おかしいんであって、どこ見てやってんですかねっていうのが、率直な実感ですな。我々、私たちから見ていて。

 とにかくぅ、今月ぅ末の30日まで、って言うんだったら、臨時国会ってのは二回延長できます。通常国会とは違いますから。二回延長できるんだから、もう一回大幅に延長して、やるべき事はやったらいいんじゃないのぉ

 僕はそれが率直な、ぅっ、とこなんであって。これ懸案は今言ったけど、これ与野党合意してるやつだけでぇ、今それだけあるぐらいですから、他にもいっぱいあるんで、そういった意味では懸案は山積みだと思ってるんで、そういったのは全部やってく、予算もやる、三次補正もちろん、そういったのが全部やって、大幅に延長した上で、はいできがったらそれで、堂々と解散総選挙に問わないと。

 これ何時までたっても国会の運営が「いや、しぃ、変わりましたから」「いや新しい人ですから」「何とかですから」って言ったって、ずっと、俺たちだって毎回変わってたっていうのが続いたけれども、そんな事を言い訳にしたことは、一回もないよ。

 しかし今回はそれが堂々とまかり通って、誰もそれを言わないというほうが僕は異常だということを、是非多くの人に気がついてもらいたいものだと率直に思いますね。よろしくお願い申し上げて、ご挨拶に代えます。


 「自民党が」「民主党が」あるいは「麻生元首相が」とか、そのあたりはどうでもよい。
 民主主義の原則論として、国会の開会を政府が要請するというのはあっても、国会の会期を決めるのは立法府であり、与党または行政府ではないというのは、きちんとさせたほうがよい。
 国会議員がきちんと立法府の自覚をもって、仕事してくださいよ。
 
 

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2011.09.13

黒塗りの下には

 福島原発事故については東京電力も菅直人前首相も精一杯のことをしたではないかとも思うので、この意見は控えておくべきかとも悩んだが、事故調査に当たっている衆院科学技術・イノベーション推進特別委員会が東京電力に過酷事故時の対処マニュアルの提出を求めたところ、50行中48行を黒塗りした文書を提出したとの報道を聞き、さすがに呆れたので、こういう見方もあるということにすぎないが、簡単に記しておきたい。
 報道の確認から。NHK「衆院 原発事故時の手順書開示を」(参照)より。


 衆議院の科学技術・イノベーション推進特別委員会は、福島第一原発の事故の原因を調べるため、東京電力に対し、9日までに事故時のマニュアル「事故時運転操作手順書」と深刻な事故で使う手順書を提出するよう求めました。これに対し、東京電力は、「事故時運転操作手順書」は内容のほとんどを黒く塗りつぶして提出し、また深刻な事故で使う手順書だとして12日提示したのは表紙と目次の3枚だけで、目次の大部分を塗りつぶしていたうえ、資料はその場で回収しました。東京電力は「知的財産が含まれていて、また核物質をテロなどから守らなければならず、公表できない」と説明しています。これに対し特別委員会の川内博史委員長は、12日、経済産業大臣に対し東京電力に原本のままの提出を法律に基づいて命じるよう求めました。この問題について経済産業省、原子力安全・保安院は「今後、どう対応するか検討したい」としています。

 朝日新聞記事「50行中48行黒塗り 東電、国会に原発事故手順書提出」(参照)では次の内容も報道されていた。

 東電が開示した資料は、「1号機運転操作手順書(シビアアクシデント)」の表紙と目次で、A4判計3枚。12日、保安院を通じて、非公開の同委員会理事会で委員に配られた。
 川内委員長によると、手順書は2003年7月1日に作成され、今年2月1日に改定されたと記されていた。目次の序文など50行のうち48行が黒塗りにされ、その場で回収された。読めた単語は「消火系」「不活性ガス」だけ。委員からは、「資料開示に応じないのははなはだ遺憾」などと批判が出たという。

 これではまったく事故調査にならなず、なんらかの対応が必要なのは論を俟たないが、一企業としての東電側の思いもわからないではない。
 そもそも、過酷事故に対処する手順書が東電側にのみ存在し、政府側の規制機関に存在していないというのも、今となってはの議論ではあるが、不可解な話である。それとも、この点、私が理解していないでいて、政府側の規制機関には過酷事故に対処する手順書が存在しているのだろうか?
 福島原発事故を引き起こした原子炉は米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社製「マークⅠ型」ということからもわかるように、GE側には非常用復水器の操作を含め十分な資料があり、また、米国でも同型の原子炉が利用されていることから、米原子力規制委員会(NRC)も規制のために十分な資料を持っている。例えば、1989年には「マーク1型」についてNRCは格納容器に圧力緩和用の緊急通気弁を取り付けるGE社側の提案を承認し、これは今回の福島第一原発にも影響していた。
 実際のところ今回の事故でも、東電および日本国側がなすすべもなく「ミッション・二階から目薬」(参照)を決死のパフォーマンスとして実施した後は、事実上の事故対応のヘッドクオーターはNRCに委ねられたと見てよい。この経緯についてはすでにブログで記しても来た。
 事実上のNRC指揮移管に至る最大の契機は、事故対応のための手順書である、3月26日付けNRC文書のリークだったと言える。この文書については、「放射性物質を含む瓦礫の撤去が始まる: 極東ブログ」(参照)でも記したが、この事態で特別に編まれたものであるが、アドホックに書かれたのではなく、NRCの標準手順に沿って書かれていただけのものだった。つまり、NRC側には過酷事故に対処する標準の手順書が存在しており、NRC側としては、なぜ東電および日本が、NRCの過酷事故に対処する手順書に従わないのか不審を抱いていた。だから脅しために意図的にリークした。
 米国であれば、過酷事故が発生すれば、NRCの過酷事故に対処する手順書に従うことになるし、NRCが事実上の指揮に当たる。当然ながら、原子炉を運営する企業は、いったん国家の側に移管されることになり、その後、国家機関としてのNRCが関与するということになる。
 NRCに相当する機関が日本にはなかったというだけの問題とも言えるかもしれないが、日本国も、結果としてNRCの指揮下に入ったのだが、最初の時点で、過酷事故対処を東電指揮下から切り離すべきであった。この点について、日本でもそうであったという議論もある。そして、その上で東電が政府側に従わなかった、または、政府側が混乱して指揮ができていなかったという議論もある。
 だが、現実問題として、過酷事故対処は東電に丸投げされており、そのきっかけ、および指針を出したのは菅直人元首相であった。
 菅直人前首相が3月15日未明に東電本店に乗り込んだ際の訓示の記録全文が、9月9日なって東京新聞朝刊で公開された(参照)。「命を懸けてください」といった戦中戦前の日本軍を思わせる威勢のいい言葉の実態には、東電への丸投げと米国など他国の介入の忌避が明確に描かれていた。

*前首相訓示全文
 今回のことの重大性は皆さんが一番分っていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。
 これは2号機だけの話ではない。2号機を放棄すれば、1号機、3号機、4号機から6号機。さらに福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。これらを放棄した場合、何ヶ月後かにはすべての原発、核廃棄物が崩壊して、放射能を発することになる。チェルノブイリの二~三倍のものが十基、二十基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。
 何としても、命懸けでこの状況を押さえ込まない限りは、撤退して黙って見過ごすことはできない。そんなことをすれば、外国が「自分たちがやる」と言い出しかねない。皆さんが当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達が遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。
 目の前のこととともに、五時間先、十時間先、一日先、一週間先を読み行動することが大事だ。金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に、撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。六十歳以上が現地に行けばよい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら東電は必ずつぶれる

 実際のところ、結果としては、横田基地で待機していた実動部隊によって、米国が「自分たちがやる」という事態にはならなかったが、放射性物質を大量にまき散らした後の対応は事実上、NRCの指揮下に入り、また対応の基礎資料はフランス、アレバ社にも依存することになった。
 東電という企業を国家の命令で命を懸けさせることは、日本の戦前戦中風の美談にも思えるが、現実的には、十分な対処手順を持っていたNRCとリソースを用意していた米軍の関与を遅らせ、事態を深刻化させてしまうことになった。
 東電側に過酷事故時の対処マニュアルがあったとしても、製造元のGEやNRCに準拠したものにすぎず、しかも実際にはそれを元に対応ができたわけでもなかった。


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2011.09.12

鉢呂吉雄前経済産業相、辞任

 福島第一原子力発電所事故を巡る不適切な言動を認め鉢呂吉雄前経済産業相が辞任し、後任には枝野幸男前官房長官が内定した。
 鉢呂氏の辞任に至る経緯はマスメディアによる吊し上げのようでもあり、ネットの世界では、社会党や農協といった鉢呂氏の背景もあってなのか、反原発派と見なされたことか、世論に比べて鉢呂氏の支持派が多く、マスメディアの暴走こそが問題とする意見をよく見かけた。
 確かにマスメディアの暴走といった傾向は今回も見られたが、以前の、麻生元首相や石原都知事の失言を狩る光景とさして変わるものではなく、いつものマスメディアの行動でもある。マスメディアの問題としては事前の仕込みがあったと思われるメア氏発言報道のほうが相当に悪質であるようにも思える。
 いずれにせよ、野田内閣発足間もないなかで、失言が理由での閣僚辞任は好ましいことでない。気の向かない話題ではあるが、それでも、今後の動向を考える上で基点となる可能性がないわけでもないので、現状の記載として簡単に取り上げておきたい。
 鉢呂吉雄前経済産業相の不適切とされる言動は、二点あった。(1) 9日、福島第一原発の視察後、議員宿舎に帰宅した際、近くにいた毎日新聞男性記者に近寄り、「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言と共に、「防災服をすりつける仕草」をしたこと、(2) 10日の記者会見で原発周辺の市街地を「死の街」と表現したこと、の二点である。
 2点目の「死の街」については、朝日新聞記事「鉢呂氏「死の街」発言 野田首相「不穏当」と謝罪求める」(参照)で報じられているように、野田首相が「不穏当な発言だ。謝罪して訂正して欲しいと思う」と明言したことを受けて、即座に鉢呂氏自身も不適切な発言であることを認めて弁明があった。首相も鉢呂前大臣も「死の街」という表現が不適切であると認めているのだが、ネットなどではこの、野田首相と鉢呂前大臣の認識を否定し、「死の街」という表現は適切であり、不適当な発言ではないする声もある。
 話題となった「死の街」という表現だが、小学館提供『使い方の分かる 類語例解辞典 新装版』(参照)で「死」の語用の解説に、はっきりと「死の街と化す」という用例がある。


[補足]
◇(1)比喩(ひゆ)的に、死んだように生気、活気のない状態であるさまをいうこともある。「死の街と化す」 (2)「急死」「刑死」「殉死」「頓死(とんし)」「脳死」「病死」「老死」など、形容する語について複合語を作ることも多い。

 この辞典からは、「死の街」は、「比喩的に、死んだように生気、活気のない街」として自然に理解できる。実際に鉢呂氏が見た光景はそのようなものであり、であれば、失言にあたるとは思えない。
 むしろ、ジャパンタイムズなどが「死の街」発言を「ゴーストタウン(ghost town)」(参照)と訳したことなどから、「死の街」は「ゴーストタウン」と同じだから問題ないとする持って回った擁護論も見かけたが、そうした英語を挟んでの手間をかける必要もない。
 なお、海外では、この他の表現も見られたが、"City of Death"といった直訳的な表現は避けられている印象を受けた。これだと黒死病のように、死者が充満した街というイメージになり、あまりに奇矯に思われたからだろう。
 では、「死の街」は日本語としてまったく違和感がない表現なのかというと、戦後の苦難の歴史を歩まれた年代には、1952年大映映画「死の街を脱れて」が想起されるだろう。昭和二十年、日本軍が中国大陸を敗退し、現地に無防備にとり残された日本人婦女子には悲惨な現実が訪れた。映画「死の街を脱れて」が描く日本人街では、恋人を殺され、辱めを受けた婦女子の惨状を見かねた婦人会長が日本人として清く自決しようと提言する。映画では、まさに死に溢れる光景が「死の街」として表現された。比喩的な表現と直接的な表現のどちらが強いかを考えても、死に満ちた「死の街」が一義的になるのは自然な言語のありかたである。
 2点目の、毎日新聞男性記者に近寄り「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言と共に、「防災服をすりつける仕草」をした点については、どうか。
 これは誰が考えても、重責を担った大国の大臣とは思えない子供じみたものではあるという以前に、報道されたように「放射能」を意図して発言が随伴していたとするなら、原発事故被災者がこうした差別に苦しんでいるさなかであり、誰もが不快に思う軽率な行動と言える。
 毎日新聞の経産省担当記者としても、鉢呂氏が原発施設を出た後には厳重な除染を行うことは認識しているだろうから、なぜ鉢呂氏が「防災服の袖をつけるしぐさ」したのか、子供じみた行為だという以前に、まずもって不可解に思えたはずである。同じ場にいた他の記者たちにもその行為は奇異に見えたことから、その行為の意味が問わることになった。毎日新聞の報道の後、NHKの報道が遅れたが、その間、NHKとしても、鉢呂大臣のこの言動の事実性を確認していたのだろう。
 まず、鉢呂氏が「防災服の袖をつけるしぐさ」をしたことは、事実であったと見て妥当だろう。また辞任会見でも、そのしぐさがあったことは鉢呂氏も否定していない。ではそのしぐさの意味はなんであったか。
 報道では、このしぐさに「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言が伴われていたとされている。だが、その表現は各メディアによってまちまちであり、また、辞任会見でも鉢呂氏は、「そういう発言をしたと確信を持っていない」と述べていることから、正確な発言がなんであったかは明確にはわからない。
 鉢呂氏の辞任会見「非公式記者懇の気楽さあった」(参照)ではこう語られている。

記者さんは仲間たちという感じで、現地に行っていないということで、大変厳しい状況を共有していただくというか、そういうのを込めて、そういうしぐさから出たと私自身は思う

 そのまま受け取ると、類人猿などに見られるグルーミングの行為のようにも思えるが、当然、「グルーミングでした」は、常識的に了解できるものではない。

 --非公式という場があだになって、そういう軽率な言葉を発したのか
 「軽率というか、深刻的な話になったものですから、そこを何というか、親しみを込めて…。相手から言えば、そういう風に受け止められたのではないかなという風に…」
 --親しみを込めて何と言ったのか
 「ちょっとはっきりと分からない」

 鉢呂氏本人はどのような発言をしたかということは、わからないとしているが、発言がなかったという否定にはなっていない。別の言い方をすれば、そのような発言は断固としてなかったという表明はなされなかった。おそらく、そのような発言がないとなれば、類人猿のグルーミングような行為だけが謎として残ることになっただろう。
 まとめると、「防災服の袖をつけるしぐさ」は複数の記者に観察されていることから事実性は高く、それに随伴し、そのしぐさを意味づける発言があったらしいことも事実と見てよいだろう。しかし、その発言がなんであったかについて、「放射能」という発言を含んでいたとする記者の証言の妥当性は検討を要する。
 以上の妥当な事実性から、常識的に推測されることは、おそらく冗談としてではあろうが、「防災服をすりつける仕草」の意味となる「放射能をつけたぞ」といった主旨の発言の存在である。
 さて、仮に、「放射能をつけたぞ」(推定)として「防災服をすりつける仕草」(事実)をしたとするなら、それは、大臣辞任に値するほどの失態だろうか?
 鉢呂前大臣辞任を受理した野田首相はこの個別の点については言及していないようなので、政府としての判断はわからない。
 私の意見としては、「あの言動はあくまで冗談でした」と釈明し、「ご批判は受けるが、断固として大臣の職を貫徹したい」と鉢呂氏が述べるなら、辞任に値することではなかったように思われる。もちろん、減給なりのなんらかの処罰も受けるべきであろうが。
 逆に言えば、なぜ鉢呂前大臣にそこまでの使命感・重責感がなかったのか、大臣の資質が問われるならそこであり、次に、野田首相の内閣運営の原則に疑念を残すものになった。
 それでも、鉢呂前大臣がこうした顛末として辞任したことで、子どもたちがふざけて「放射能をつけたぞ」「放射能がついたぞ」としても、一国の大臣でもする冗談だからかまいません、ということはならなくなった。その一点だけは、鉢呂前大臣が国民の品位を高めてくれたと言えるだろう。


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2011.09.07

民主党政権が廃した事務次官会議を民主党野田内閣で復活

 野田内閣が事務次官会議を復活させた。これもまた野田内閣の自民党化の一環のようにも見えるが、微妙な部分もある。
 事務次官会議は、民主党政権では、鳩山内閣時代には廃止されたが、菅内閣時代では震災対応の会議としてすでに事実上復活されていた。野田内閣はさらにそれをぐっと推し進めるということになる。
 問題はわかりやすそうでわかりづらい。例えば、NHKのニュース「首相 官僚側に全面協力を要請」(参照)だが、これなどもわかりづらい。


 野田総理大臣は、各府省庁の事務次官らを集め、政治家だけで世の中をよくすることはできないとして、政権運営に対する官僚側の全面的な協力を求めました。
 総理大臣官邸で開かれた会議には、財務省の勝事務次官や外務省の佐々江事務次官ら各府省庁の事務次官ら16人が出席しました。
 この中で野田総理大臣は「各省の皆さんは、試験を通じて公のために尽くそうという志を持って、この世界に入ってこられた。われわれは、選挙を通じて公のために尽くすチャンスを頂いた。選挙を通じて入ってきた政治家は、最終的には結果責任を負うので、やるべきことをやらなかった場合には、政権を降りなければならない」と述べました。
 そのうえで野田総理大臣は「選挙を意識して、どうしてもポピュリズム=大衆迎合主義に陥って、つらいことは先送りしようという傾向があった。私どもの政権は、やるべきことはやるという姿勢を貫徹したい。政治家だけで世の中をよくすることはできないので、各府省の皆さんの全力を挙げてのサポートが必要だ」と述べ、政権運営に対する全面的な協力を求めました。
 民主党は政治主導を掲げて、おととし政権を獲得しましたが、野党側からは大臣ら政務3役と官僚との間で意思疎通がうまくいかず、行政の停滞を招いているといった批判も出ていました。これを受けて野田総理大臣は、先の民主党の代表選挙で、困難を伴う仕事を遂行するためには、政治と官僚機構、それに民間などのあらゆる力を結集しなければならないとして、官僚との協調姿勢を打ち出していました。

 野田首相が、「民主党はポピュリズム=大衆迎合主義に陥っいた」ということを明確に反省されたのはよいのだが、NHKの報道からは事務次官会議の復活は明確に読み取れない。これはNHKの報道が正確だからともいえる。事務次官会議の復活は、いわばなし崩しの自民党化であって、明確に言える筋のものでもないということなのだろう。
 そのあたりを突かれた藤村官房長官は、面白い答弁をしていた。TBS「藤村長官“自公時代の次官会議と違う”」(参照)より。

 藤村官房長官は、東日本大震災以降に開かれている各府省の事務次官を集めた連絡会議を野田内閣でも続けることについて、自民党・公明党政権時代の事務次官会議とは違うものだと強調しました。
 「かつての事務次官会議は正に事務の官房副長官のもとで行われていたわけだが、私ほか政務の副長官も参加する会議なので、相当内容的には違うと思う」(藤村修官房長官)
 藤村長官は、政府の各府省連絡会議が自公政権時代の事務次官会議の事実上の復活ではないかという指摘が出ていることについて、官僚だけでなく、政治家が参加していることなどを挙げ、これを強く否定しました。
 各府省連絡会議は東日本大震災の発生以降に開かれるようになり、野田政権発足後初となる6日の会議では、今後、週に1回のペースで行われることが確認されました。
 民主党は、野党時代に事務次官会議が官僚支配の象徴だと強く批判し、政権交代後、鳩山・菅両政権は官僚と一定の距離をとっていましたが、野田総理は、逆に官僚組織と協調し、会議の機能を強化する考えを明確にしています。(07日13:09)

 まず確認したいのは、「政権交代」の民主党では、そもそも事務次官会議は廃止されるものだったということ。これを根幹に見れば、まず藤村官房長官が詭弁にならざるを得ないことは明らかである。
 しかし三分の理すら聞くべきだとして、ではどこが違うのか。いわく「かつての事務次官会議は事務の官房副長官のもとで行われていた」しかし、「私ほか政務の副長官も参加する」から違うのだ、と。
 やはり詭弁であって、どのように参加するかが明言されなければならない。参加だけでよければ、椅子に座って寝ているだけでも違うことになる。そもそも誰が参加するかとことではなく、次官が政策課題をフィルターすることが問題なのだが、その言及は藤村官房長官にはない。認識がないのかもしれない。
 事務次官会議(事務次官等会議)は設置に法的な根拠をもたないが、政策決定に重要な役割を担ってきた。事務次官会議で調整がつかなかった案件は閣議にかけられない。ここで官僚の合意が取れない問題があればフィルターアウトされて政治決定に上らず、事実上隠蔽されてしまう。
 野田内閣での事務次官会議で問われるのは、なにを課題としてどのように決定されるかという仕組みであって、その仕組みのなかで、行政側の参加者がどのような権限を持つかというということになる。
 そこが問われなければようするに、野田内閣の事務次官会議は自民党時代のそれと違いなどないのだ、と言いたいところだが、実は自民党のほうが、事務次官会議を廃そうとしていた経緯がある。
 象徴的なのが安倍政権時代で、国家公務員の「押しつけ型天下り」に関する政府答弁書をめぐりを巡り、2007年3月26日の事務次官会議で反対があり、慣例として閣議に上がらないはずであった。だが、安倍元首相は事務次官会議は法的根拠のない慣例にすぎないとして、閣議に持ち込んだことがある(参照)。裏方で采配していたのは、当時の渡辺喜美大臣であったとも言われる。
 安倍政権はこの件でも官僚を敵に回し、直情的に改革を推進しようとしたが、頓挫した。続く、鳩山政権も頓挫したと言ってよいだろう。
 事務次官会議は官僚主導だからいけないといった、民主党マニフェストのような単純な話が通らないのはこの数年のプロセスで明らかになってきた。だが政治が主体的に機能しなければならないときもあり、そうしたときに野田内閣ではどのようなプロセスを取るのかが、現状では皆目見えてこない。

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2011.09.06

さらに民主党の自民党化、党税制調査会の復活

 予想されていたことではあるし、とやかく言うほどの話でもないのだが、民主党野田どじょう政権が着実に自民党化していくワンシーンとしてメモしておきたい。
 報道の確認から。NHK「民主 党税調復活で財源議論へ」(参照)より。


 民主党は、おととしの政権交代の際に党の税制調査会を廃止して政府の税制調査会に議論を一本化し、その後、党内に税制改正の作業チームを設置したものの、政府税調が税制改正の議論を主導してきました。
 こうしたなか、民主党の前原政策調査会長は、党の税制調査会を復活させ、会長に藤井元財務大臣を起用する方針を決め、5日、野田総理大臣に報告しました。
 党の税制調査会は、震災からの本格的な復興に向けた今年度の第3次補正予算案の財源を確保するための税制上の措置などを巡って早急に議論を始める方針です。

 さて。
 それほど昔のことではないが、現状との比較のために、二年前の読売新聞「2009.08.26 税制改正論議を政府税調に一本化 民主党税調廃止へ 会長は財務相に」(2009.08.26)を読み返してみよう。民主党とは、このような主張をする政党であった。

会長は財務相、議員20人
 民主党は25日、衆院選で政権を獲得した場合に創設する新たな政府税制調査会の骨格を固めた。税制改正過程を透明化するため、与党としての税制調査会は設けず、新政府税調に一本化する。会長は財務相、副会長は総務相が兼任、各省庁に置く税制担当政務官らの計約20人で構成することとし、政治主導を明確にする方針だ。
 現在の税制改正は、首相の諮問機関で、有識者で構成する政府税調が基本的な方針を首相に答申するものの、個別の税率など細部は自民党税調での調整が不可欠となっている。与党での調整について、民主党は「責任が不明確なうえ、既得権益維持や政官業癒着の温床となる」などと批判してきた。
 現在の民主党税調は政権獲得後に廃止する。各省庁の税制改正要望は、税制担当政務官が集約し、新政府税調で調整する。

 同種の内容だがもう一点、読売新聞「消費税論議 連立3党に溝 民主「将来は増税」 社・国「絶対ダメ」」(2009.09.12)も読み返してみよう。

税調は一元化
 税制改正の流れも変わる。民主党は、与党としての税制調査会は作らず、新たに組織する政府税制調査会に一元化する方針。会長は財務相、副会長は総務相、メンバーは国会議員で、政治主導をより鮮明にする。
 これまでは与党の税制調査会と政府税調の2本立てで審議が行われ、実質的には自民党税調のベテラン議員が各業界などの意見を踏まえ、議論を仕切ってきた。
 新政府税調は、さまざまな利害が対立する税制のあり方を政治主導でどう決めていくかが問われることになる。

税制改正要望先、業界団体は困惑
 各業界団体は例年9月、与党である自民党や中央省庁などに税制改正要望書を提出していた。だが、今年は政権交代を控えているため提出先が決まらず、困惑しているという。
 日本経団連は、例年なら9月下旬に自民党などに税制改正要望を行っていたが、今年は「様子を見ながら適切なタイミングで要望書を提出するしかない」という。日本商工会議所も、「新税調が決まるのを見定めて対処する」としている。

消費税据え置き、一つの政治決断
 森信茂樹・中央大法科大学院教授 「連立合意で消費税率の据え置きが決まったのは、一つの政治決断だ。徹底した歳出削減を行えば、自公政権よりも消費税率引き上げの環境整備が進みやすいのではないか。来年夏の参院選後くらいから議論を始め、次の総選挙で『引き上げる』と公約に掲げることを期待している。ただ、ガソリン税などの暫定税率廃止は、消費税1%分を失うと同じ影響がある。新政権は、市場メカニズムに沿った経済運営をするだろうから、天地がひっくり返るような税制の方針転換はないだろう」 


 過去を顧みるに、こうなる。2年前の8月の民主党は、「税制改正過程を透明化するため、与党としての税制調査会は設けず、新政府税調に一本化する」と言っていたのだから、現在の民主党がそれを受けるなら、「税制改正過程を不透明化する」という主旨になるだろう。
 実際、復興の大義のどさくさに明後日の方向の増税をやってしまうというのだから、不透明にしておかないとまずいというのはある。
 かつての民主党は自民党流の党税調と政府税調の二本立てを「責任が不明確なうえ、既得権益維持や政官業癒着の温床となる」などと批判してきたのだから、これからの民主党は、当然、既得権益維持や政官業癒着の温床を作るのである。
 もちろん、看板くらいは付け替えるだろうけど、政府の仕組みが自民党と同じなら、自民党と同じ構造ができあがるのは理の当然である。
 2年前の読売新聞記事に出てくる森信茂樹・中央大法科大学院教授は「連立合意で消費税率の据え置きが決まったのは、一つの政治決断だ」と述べたが、その連立合意はどうなったのだろうか。
 いずれにせよ、税制議論は自民党政権時代に戻るのである。
 自民党時代は、税制論議は国会議員による党税調と、学識経験者らで構成する政府税調の二本立てだった。
 自民党時代、この二本立ての仕組みを調整していたのは、山中貞則のような大物議員で、たばこ値上げなどを抑えてきた(参照)。また基点となる業界の要望をも調整してきた。別の言い方をすれば、党税調との二本立てシステムは、自民党の大物がいると機能する仕組みともいえた。
 そこでどじょうは考えた。自民党を使えばよいではないか。
 古き自民党で1977年から1993年のキャリアを持ち、大蔵官僚出の藤井裕久元財務相を党税調の会長に据えた。
 関連して今朝の産経新聞「党税調復活で増税鮮明に 民主、会長に藤井元財務相」(参照)に面白い話がある。

 財務省OBの森信茂樹・中央大学法科大学院教授は、税制をめぐる民主党政権の混乱について、「自民党政権では族議員たちを『もっと勉強してこい』と一喝できる長老議員がいたが、民主党にはいなかった」と振り返る。藤井氏はかつて財務相として野田首相を財務副大臣に起用した「師匠格」とされ、財務相退任後は「税と社会保障の抜本改革調査会」の会長として、党内の一体改革論議をリードしてきた経緯がある。政府内には「藤井氏なら存在だけで反対派を抑えられる」との期待も強い。
 自民党的な手法への回帰を批判する声もあるが、増税に向けて「名を捨てて実を取った」(政府関係者)との見方も出ている。

 この森信茂樹教授は2年前の読売新聞記事に出てくる森信茂樹教授と名前も役職も同じだが、どうも逆のことを言っているようにも思えるので、もしかすると別の人物かもしれないが、それはさておき、自民党の党税調システム要件である大物議員についても、「藤井氏なら存在だけで反対派を抑えられる」ということで満たされる。
 私は思うのだが、政権交代というのは、小泉郵政選挙のときに起きていたのではないだろうか。そして、その後の古き自民党政権に戻そうとした反動の安倍政権からの迷走はそのまま、滑らかに菅政権まで続いていたのではないだろうか。
 意識的に古き自民党に戻ろうとしている野田政権もその反動の連続になるのだろうか。

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2011.09.05

野田内閣の「国家戦略会議」は小泉内閣の「経済財政諮問会議」のふざけた焼き直し

 まだ構想の段階で四の五の言うべきではないのかもしれないが、さすがに呆れた展開であり、急速に進む可能性もあるのでとりあえず書いておきたい。ようするに、野田内閣の「国家戦略会議」は小泉内閣の「経済財政諮問会議」のふざけた焼き直しだということだ。どこが「ふざけた」かについては後で触れる。
 報道の確認から。4日付け日経「「国家戦略会議」政官民で新設へ 経済財政の司令塔 野田首相方針 日銀・経団連首脳ら参加」(参照)より。


 野田佳彦首相は3日、新内閣の経済財政運営の目玉として首相直轄の「国家戦略会議(仮称)」を新設する方針を固めた。野田首相を議長に、関係閣僚、日銀、経済界、労働界などの首脳らがそろって参加。経済財政運営の司令塔となり、予算編成や税制改正、社会保障改革など日本が抱える重要課題で基本方針を示す。小泉内閣時代の経済財政諮問会議をモデルに政官民が知恵を集めて日本経済を再生する体制をめざす。
  「国家戦略会議」のメンバーは、首相、古川元久経済財政・国家戦略相、安住淳財務相ら関係閣僚、 白川方明・日銀総裁、米倉弘昌・経団連会長、古賀伸明・連合会長ら。学者や企業経営者も参加する見通しだ。同会議は定期的に開催する。

 政府と経済界および日銀のコミュニケーションの場ができるのはよいことであり、これが民主党に存在しなかったのが不思議なほどでもあった。
 問題は、「小泉内閣時代の経済財政諮問会議をモデルに」という点で、小泉内閣の「経済財政諮問会議」と、野田内閣の「国家戦略会議」はどこが違うのか。

 国家戦略会議を閣議決定で設置するか、強い権限を与えるため法律で規定するかは今後検討する。 経済財政諮問会議は内閣府設置法で定められており、法律上は今も残っている。
諮問会議をそのまま復活させることもできるが、諮問会議の活用には「旧政権色が強い」との指摘もある。

 現在でも、法律上、「経済財政諮問会議」は残っている。簡単な話、日経記事が指摘するように、「諮問会議をそのまま復活させることもできる」のにかかわらず、なぜそれを活用しないのか。同記事が触れているのは、「旧政権色が強い」ということだけのようだ。もし、それだけなら、これは、「ふざけた」話ではないか。
 産経記事「野田政権の船出 野党時代の批判どこへ 急速に進む「自民党化」」(参照)はこの点に着目している。

 背景には「政治主導」「脱官僚」を掲げた鳩山由紀夫元首相、菅直人前首相が政権を統治できず、あらゆる政策に行き詰まったことへの反省があるようだ。
 ただ、実態は小泉政権時代の経済財政諮問会議の看板を掛け替えたにすぎない。民主党はかつて経済財政諮問会議を「財務省主導」と批判し、政権交代後に廃止しただけに会議復活には与党からも異論が出る可能性がある。


だが、実態は自民党政務調査会の仕組みとほとんど同じ。民主党は自民党政調を「族議員の温床」「業界との癒着を生む」と散々批判し、先の衆院選マニフェストで「内閣での政策決定の一元化」を掲げただけに批判は免れない。

 率直なところ、事ここに至って民主党批判をしても意味はないので、現実的な話に戻せば、ようするに、早急に「経済財政諮問会議」を開催すればよいのである。
 それができないとするなら、その理由に対する説明責任(アカウンタビリティー)を野田内閣は負っている。
 自民党化がいやだとかいうお子様みたいな話は鳩山内閣と菅内閣という代償で十分に支払ったのだから、どじょう内閣らしく、現実的に対応していただきたいし、さらに言えば、そうすることで、自民党対民主党という不毛な対立や、「政権交代」という幻影も消し去ることができる。

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2011.09.03

野田どじょう内閣発足

 野田どじょう内閣が発足した。人事を見てさして驚きはなかった。幹事長の輿石氏の起用ですら、なるほどねと思った。多少曖昧な推測になるが、どうも小沢氏は野田氏選出を読んでいたふうがある、というか、小沢・輿石ラインで野田側との妥協線があったように見える。その符牒がそもそも「どじょう」であったようだ。読売新聞「野田さんのドジョウ、輿石さん直伝・相田作品で」(参照)より。


 演説を聴いて野田氏への投票を決めた議員も少なくない。演説の核の一つとなった、自らを「ドジョウ」に例えたくだりは、書家・詩人の相田みつを氏の作品を下敷きにした。作品は、民主党の輿石東参院議員会長の紹介で知ったという。
 原典は、相田氏の単行本「おかげさん」に収録されている「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」という作品だ。野田氏はこの作品を「大好きな言葉」として引用し、「ドジョウにはドジョウの持ち味がある。金魚のまねをしてもできない。泥臭く、国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。ドジョウの政治をとことんやり抜きたい」と語り、「飾らない人柄」を印象づけた。
 野田氏周辺によると、野田氏が8月上旬、輿石氏の国会内の事務所を訪れた際、輿石氏が「あれ、いいだろう」と壁に飾られた相田氏の作品を紹介したという。野田氏はその後、輿石氏に作品が入った本をプレゼントする気配りもみせた。

 読み過ぎのきらいもあるが、シャレを除いても輿石氏側との実質的な妥協の線はさぐられていて、これも率直にいえば、小沢氏がもっとも気にしている党資金を小沢氏の代理人の輿石氏に渡すということで、この時点で幹事長役は決まっていたということなのだろう。
 野田氏にしてみれば、それで小沢派を抑えることができるし、小沢・輿石氏にしてみれば党資金を牛耳れたのでウインウインということでもあるのだろう。上手な政治と言えないこともない。
 この暗黙の協定が存在するかどうかは、朝日新聞社説がいち早く察知していたが、岡田克也前幹事長が決めた「300万円以上の組織対策費を個人に出す場合は外部監査の対象にする」というルールを輿石氏が継承するかでわかる。しないでしょ。
 かくして、それだけ決まれば後は些末に近い。
 やや意外だったのはもれなく付いてくると思われた与謝野馨氏の入閣がなかったことだが、おやこれはどうしたことか、などと疑問に思うまでもなかった。
 野田代表の選出時に与謝野氏は「政策の連続性が担保できた。ほっとしている」(参照)と述べ、野田氏への信任をさも語るようにも見えたが、与謝野馨前経済財政担当相で、その後継の経済財政担当相はどうなったのかと見れば、与謝野氏の思惑もわかる。古川元久経済財政担当相である。元大蔵官僚で霞が関パイプに通じる適任者である。あはは。与謝野さん、いい仕事したな。
 その他の閣僚メンツについては、また女性閣僚が二名という惨状。野田氏を筆頭に40歳の細野氏など若い政治家が印象的だが、平均年齢は58.3歳。菅内閣が59歳、鳩山内閣が60.7歳。なんだか古色蒼然の感のあった鳩山内閣より2歳ほど若い程度。新入閣は10人。ちなみに鳩山内閣では14人。個別に見ていくと、自民党時代のように党内派閥を考慮しましたねというくらいでさしたる特徴はない。
 前原氏が外務相か防衛相に就くかとも思ったがそれもなく、政調会長となった。実際のところ、外務・防衛については民主党では党内意見集約が最初に問われるし、同盟国はほぼ匙を投げているので、これでよかったのかもしれない。財務相が安住淳氏で驚きの声も聞かれたが、ここは風通しの良い間を配するのが日本文化というものだ。財務相の声もしぐさもわかりやすくなりました。
 ないものねだりをしてもしかたがないので、これでやると野田首相が決めたのだから、うまくいくことを願いたい。それに、よい面もある。
 政調を据え、さらに自民党政権のように「法案事前審査制」を導入を目指していることだ。以前のエントリー「民主党鳩山政権はなぜ失敗したのか: 極東ブログ」(参照)や「小沢独裁を機構的に押さえる政調の復活はよかった: 極東ブログ」(参照)でも触れたが、民主党政権の本質的な問題である。
 報道を拾っておく。読売新聞「民主党、法案事前審査制を導入へ」(参照)より。

 民主党は2日、政府提出法案の閣議決定前に党側が了承を与える事実上の「事前審査制」導入を柱とした、政策決定システム見直しの原案をまとめた。
 「政策にかかわる党議決定の審議に際して、部門会議などに付託する」と明記。政府提出法案を政策調査会の下部組織である「部門会議」が審査し、了承しなければ閣議決定ができないとした。
 部門会議の結論は、前原政調会長ら政調幹部と政府代表の官房副長官らによる協議で了承を得て「党議」とすることも盛り込んだ。党側は「これで政策決定の政府・与党一元化は維持される」(政調幹部)としているが、実質的には党による事前審査の仕組みとなる。

 これで、小沢派の暴走や党内造反を防げるし、自民党時代のように官僚も政治がしやすくなる。
 当然、当初、民主党が政調の代わりに構想した国家戦略局だか国家戦略室だかは不要になるので、事業仕分でさっさと廃止するとよい。ついでに、古川元久国家戦略担当相も廃するとなおよしではあるが、本人いわく「もう一度、戦略局への格上げを目指したい」(参照)なので、兼任の経済財政担当相として国家戦略局を増税ヘッドクォーターにするのかもしれない。


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