2004.08.22

対馬丸メモリアルデー

 1944年の8月22日、那覇港から出た学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県悪石島付近で米海軍潜水艦ボーフィン号の魚雷により撃沈された。氏名判明者に限定すれば、学童775人を含む1418人の民間人がこの攻撃で殺された。僅かに59人の学童は救出された。この殺戮については日本では当時機密ということになったが、県民の多くは戦中この惨劇を知っていたようだ。
 それから60年を経た今日、この惨事を追悼すべく、那覇市若狭の遭難学童慰霊「小桜の塔」近くに「対馬丸記念館」(参照)が開館されることになった。
 なぜこれほどの惨事になったのか、なぜ米軍は民間人を大量殺戮したのか。しかし、冷徹に歴史を見ればそれほど不思議はない。当時187隻の疎開船により約8万人にもが安全に疎開できていた。また、米軍はすでに商船も攻撃対象としていた。対馬丸は商船と見られていた。
 当時、潜水艦ボーフィン号で魚雷発射任務に就いていた米海軍下士官アーサー・カーター元二等兵曹(現在84歳)は、琉球新報のインタビュー「子供乗船『知らなかった』 対馬丸攻撃の米潜水艦乗員が証言」でこう答えている(参照)。


―どのような命令を受けていたのか。
 「日本の艦船を沈めるのが私たちの任務だった。商船のように見せ掛けて軍艦かもしれないし、(商船が)燃料など軍事物資を積んでいることもある。真珠湾攻撃の後、米海軍の総司令官は米大統領と米議会の同意の下、日本、ドイツ、イタリアに対し、潜水艦による無制限の戦いを命じた。太平洋や大西洋、そのほかの指定された戦闘地域を航海しているこれら3カ国の船であれば、種類を問わず撃沈させるという意味だ。軍需物資や原料の輸送を防ぐためだった」


―対馬丸に子どもたちが乗船していたことを知っていたか。
 「戦後35年ほどたってから、誰かが書いた本で知った。罪のない子どもたちが巻き込まれたことは、かわいそうなことだと思う」
 ―知っていたらどうしたか。
 「答えるのがとても難しい質問だ。潜水艦の命令を出せるのは、たった1人の人間(艦長)で、彼の責任は重大かつストレスが重くのしかかっている。普通の人間であれば、戦争中であれ、無実の人々を殺そうと思う人はいない。私には何とも言い難い。もし、私が知っていたなら、(魚雷を)撃たなかったと思う」

 この問いかけは虚しい。戦時下で軍規に背くことはできないからだ。
 だが、カーター元二等兵曹の証言は正しいのだろうか。「ボーフィン号航海日誌」は米国立公文書館で公開されている。調査を行った保坂広志琉大法文学部教授は琉球新報「対馬丸出港前から攻撃目標に」(参照)でこう発表している。

 1944年8月18日 鳥島南西海上で哨戒。
 8月19日 粟国島北東海上を哨戒。
 午前6時 煙発見。
 午前6時38分 三隻の船団発見。2隻に接近。中型輸送船2隻、小型輸送船1隻。駆逐艦3隻。
 午前7時7分 潜望鏡で見る。目標は4000ヤード。船団は那覇港へ向け基本航路を進み続けている。追跡を続ける。しかし接近に失敗。本艦は進行角度を変更し1時間ほど作戦を続行。予想航路を計算し損ねたようだ。引き続き追跡。スクリーンには船団の存在が確認されている。再び本艦が進行角度を変更。深度のコントロールを誤る。目標の船団が進路変更。魚雷発射が不可能になる。一時は目標を撃沈する位置につけていながら、絶好の機会を逃してしまった。残念極まりない失敗。
 8月20日 伊江島西方海上を哨戒。
 8月21日 久米島北西を哨戒。
 8月22日 鳥島南海上を哨戒。
 午前4時10分 船団発見。
 (中略)
 午後8時21分 悪石島を攻撃場所と決める。
 午後9時15分 アグニ丸(対馬丸)を目標に定める。
 午後10時11分 対馬丸に魚雷命中。
 午後10時21分 対馬丸が姿を消す。ボイラーが爆発したようなこもった激しい爆発音が三度聞こえる。火災が消え、レーダーにも映らない。

 別途戦時遭難船舶遺族会が入手した米軍の無線傍受記録によれば、対馬丸含む輸送船団が中国を出発して那覇に向かっていることを米軍は事前に知っていた。那覇で民間人の大量乗船が行われたことは知り得なかっただろうか。また、記録中、対馬丸がアグニ丸とされているが、米側のコード名なのか不明だ。
 私は、歴史好きの一人としてだが、この事態にはなにか不明な点がありそうに思える。ハーグ条約の海戦法規では交戦国の非武装商船に対しては、乗員の安全を確保した上でのみ、拿捕や沈没処分が認められているが、対馬丸の攻撃では米軍はあっさりと無視している。
 近年、対馬丸が特に話題になったは、1997年12月4日のことだ。深海探査機「ドルフィン3K」が、鹿児島県悪石島北西沖約10キロの海底870mの深海に眠る対馬丸の船名の撮影に成功した。船首部に描かれた「丸馬對」の文字を示す写真は、沖縄県民に強いインパクトを与えた。そこにはっきりと幼い子供が今なおいることがわかったからだ。
 沖縄では、その後、海底に眠る約1000柱の引き揚げができないものかと政府に陳情した。が、翌年12月24日、対馬丸船体引き揚げ可能性調査検討専門家会議(座長・藤田譲東大名誉教授)は総理府で記者会見し、現在の技術水準では、引き揚げは極めて困難とする最終調査結果を発表した。
 本当だろうか。タイタニック号の沈没地点は深さ約4000mだ。一部ではあるが船体は引き揚げられた。「対馬丸引き揚げ9億円 私が見たロシア海洋研究所の実力」(参照)など引き揚げ可能とする提言もある。いずれにせよ、いつの日かこの引き揚げて沖縄の地に迎えて眠らせてあげなくてはならない。対馬丸の惨事は終わった物語ではない。
 もう一つ、残された課題があると私は思っていた。真珠湾の復讐者と渾名される潜水艦ボーフィンについてだ。
 潜水艦ボーフィンは、現在、戦艦アリゾナ、戦艦ミズーリとともに真珠湾の観光用の記念館になっている。1997年12月13日の琉球新報社説「海底の対馬丸が語る」によれば、そこでは潜水艦ボーフィンの戦果として、商船40隻と帝国海軍船籍4隻を沈没させたと説明していらしい。ばかな。学童775人の殺戮が商船というだけで終わりなのか。その愚かさかを知らしめずに、なにが反戦だと私は当時沖縄で暮らしていて思った。
 しかし、今日、ネット上の潜水艦ボーフィンのサイト(参照)を見ると、対馬丸への配慮がある。"Tsushima Maru Sinking"(参照)には学童の死者についても説明されている。沖縄の人たちの説得によるものだろうか。いずれにせよ、米国側のこうした態度は公平であり、立派だと思う。真珠湾の復讐者潜水艦ボーフィンは栄誉に浴するのではなく、罪に穢れていることを米人も知らなくてはならない。

【追記 2004.8.28】
対馬丸撃沈について重要な仮説が出された。琉球新報「対馬丸撃沈の状況検証 當間栄安さん『遭難の真相』発刊」(参照)である。正確な書籍名は対馬丸遭難の真相』(琉球新報社)。


當間さんは「ボーフィン号の乗組員は『学童がいるとは知らなかった』と話すが、約1キロの距離まで対馬丸に接近し、潜望鏡で監視している。学童の乗船を知らなかったはずがない」と話し、「戦争になれば、無差別殺りくを禁止する国際法は完全に無視されてしまう。今、米国がやっていることも60年前と同じだ。

 つまり、故意に非戦闘員、しかも、未成年を米軍は虐殺したのである。

2004.08.22 in 歴史 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

2004.08.15

終戦記念日という神話

 終戦記念日というけど、終戦したのは日本だけ、ということを日本人は忘れがちになる。しかも、8月15日は。降伏勧告のポツダム宣言を受諾したと元首が国民に通知しただけで、実効の降伏文書に調印したのは9月2日。終戦記念日は9月2日とすべきかとも思うが、沖縄を含む南西諸島の日本軍守備軍と米軍との間で降伏調印が行われたのは9月7日。なので、沖縄戦が本当に終わったこの9月7日をもって、日本の終戦記念日としたほうがいいと思う。
 1945年8月15日、日本の国家元首である天皇はラジオを通して敗戦を通知した。玉音放送と呼ばれている。放送とはいっても、いったんレコードに録音されたものだった。録音場所は皇居なので最初から雑音が入った。その前日、新聞などで重大な放送があると発表されていたので、多くの日本人はたぶん敗戦宣言だろうと予断を持って聞いたようでもある。
 玉音とはいえ、日本国民は現実の天皇の声など聞いたこともなかったし、そもそも聞いてわかるような内容ですらない。書き起こした「終戦の詔勅」(参照)は今ではインターネットで読むことができる。玉音放送のmp3ファイルへのリンクもある。玉音放送など聞いたこともないという日本人もいるかもしれない。だったら、聞いてみそ。
 秋田県に疎開していた山本夏彦は、玉音放送を聴いたその日は、別に変わったことはなかったと言っている。ただ、その夜、突然拡声器で東京音頭が流れたそうだ。老は「僕のだいきらいな東京音頭、やーっとな、それよいよい」(「男女の仲」)と言う。
 余談だが、昭和天皇が崩御したその時、私は東京駅にいた。職場に向かうはずだったが、こんなことは人生にそうあることでもないと思って、そのまま二重橋に走った。明治大帝が亡くなったとき、あるいは敗戦時を連想させるような光景がそこに出現するだろうかと期待した。が、何も無かった。静かだった。人も少なかった。私はしばらく虚空を見ていた。歴史に遭遇するというのはそういう感じかも知れない。
 玉音放送のシーンは、その後ドラマなどで何度も再現された。だが、そのたびに、別の物語になっていくように思われる。本当はどうだったか、もっときちんと調べたほうがいいようにも思う。
 一例だが、春風亭柳昇の名著「与太郎戦記」によれば、柳昇は、負傷兵となり北京の病院に収容されているときに、玉音放送を聴いた。前日にやはり通達があったそうだ。


私たちは、翌八月十五日の正午、病棟前に整列し、玉音放送を聞いた。だれも、
「戦局が悪くなるし、みんな、がんばれ」
という陛下の激励のおことばだと信じ込んでいた。そのうえ、詔勅の文章がむずかしく、ラジオも雑音が多いので、ご放送が終わると、
「さァ、いよいよ決戦だぞ!!」
一同、武者ぶるいしながら病室に戻った。

 「与太郎戦記」を読めばわかるが日本軍は実にトホホとしか言いようがない、笑うっきゃないような戦争を展開していた。私は戦争をばかにしたいのではない。本当の戦争には、そういう側面もある。「与太郎戦記」のような、本当の従軍者の、しかも、高位軍人ではない人の実体験禄は、今後も日本人が読み継いでいく必要があるだろう。が、これは絶版のようだ。
 柳昇は玉音放送を聞いて疑問に思ったらしい。

だが、どうも私にはフに落ちないところがあったので、ただ一人残って、あとのニュースを聞き、戦争は日本の無条件降伏で終わったことを知った。助かったと思う半面、いい知れぬ悲しみをおぼえ、気持ちは複雑だった。
 当然のことだが、終戦になると同時に、食事は今までの半分になってしまった。なるべく体を動かさず、腹がへらないように努めた。
 炊事場へ行くと、昨日まで雑役で働いていた中国人が、一夜にして中国軍の中尉に変わっていた。スパイだったと聞いて、ビックリした。

 柳昇の話によれば、玉音放送にはちゃんと解説もついていたのだ。あれだけじゃなかった。
 さて、日本では終戦記念日だが、日本に支配されていた国では、当然、違う意味を持つ。
 8月15日は韓国では光復節として祝う(なお、台湾の光復節は10月25日)。北朝鮮では祖国解放記念日としているらしい。「光復」には日本の支配からの解放という意味合いがあるのだが、史実はやや皮肉でもある。
 1945年8月15日以降も朝鮮総督府の統治は続いていた。当然といえば当然で、この日を境に体制が崩壊したわけではない。沖縄から遅れること2日、9月9日になって、ようやく朝鮮総督府は米軍との間で降伏調印式を行い、これによって、朝鮮半島は日本から米軍下に置かれることになった。
 この間の1か月に満たない朝鮮の歴史は、かなり紛糾していた。
 朝鮮総督府は、朝鮮が米軍下になる前に、統治機構を朝鮮民衆に引き渡そうとしていた。なんらかの日本側の思惑もあったのかもしれない。17日に朝鮮総督府は、朝鮮の建国準備委員会に権限を委譲し、市中では太極旗の掲揚を推進させた。建国準備委員会では、現在のイラクよろしく、当時のリーダーであった呂運亭と宋鎮禹との政争もあったようだ。
 しかしこの権限委譲の動向を早々に察知した米軍は、16日の時点で暫定的な朝鮮統治を朝鮮総督府に命じていた。結局、米軍の命令どおり、統治の権限は18日には総督府に戻されることになった。太極旗も日章旗に戻った。朝鮮の人はいやな思いをしたことだろう。
 米軍は、朝鮮に主権が発生することを抑制し、朝鮮への支配をそのまま日本から譲渡するという形態を取りたかったようだ。米軍には、38度線で朝鮮半島を分割する、対ソ連の思惑もからんでいたのだろう。
 その後、国連決議では、南北朝鮮で総選挙を実施し朝鮮統一政府を樹立するよう推奨されたが、ソ連の反対により頓挫。しかたなく米軍は、韓国だけで1948年5月10日に憲法制定国会の総選挙を実施させた。
 この結果、李承晩を初代大統領として1948年8月13日に大韓民国が建国した(参照)。
 そう、韓国の建国記念日は8月13日のはずである。が、現状、韓国では、その2日後の15日の光復節をもって、建国記念日としているようだ。日本から独立したという意味合いを込めたかったからなのだろう。

2004.08.15 in 歴史 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

2004.08.14

DNAから日本人の起源がわかるものなのか

 宝来聰総合研究大学院大教授が10日に亡くなった。58歳。直接的な死因は肺化膿症とのことだが、別の病気から誘発したのではないのかとも思った。わからない。今後の活躍が期待される学者だったのに残念だ。

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DNA人類進化学
 書棚を探すと、宝来聰教授の本が一冊残っている。「DNA人類進化学」だ。アマゾンで見たら、在庫切れになっている。絶版だろうか。他の著書はどうかと思って、検索したがまずもって見あたらなかった。1997年の「DNA人類進化学」の知見はその後、本人が否定したともどこかで聞いたことがあるが簡単には確かめようがない。ネットをサーチしてみると、同書についてのコメントはちらほらとあるが、率直に言って、あまり要領を得ない。私の理解が足りないのかもしれない。
 「DNA人類進化学」で私が印象に残っていることは三つある。一つは人類をその起源から考えるとき、アフリカ人の多様性こそ重視しなければいけないのではないかということ。日本人は白人、黄色人種、黒人くらいにしか分類しないが、どうもこの分類自体が近代の偏見のようだ。二点目は、琉球人の祖先がいわゆる縄文人から遠いとしている点だ。この点については、率直なところそれ以上はよく読み取れない。それでも、私はアイヌと琉球が日本人の原型だとするのは間違っているように思うので印象に残った。三点目は、二点目に関係するのだが、日本人起源論ではおそらく定説と思われる埴原和郎説を否定しているように見えることだ。
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分子人類学と
日本人の起源
 ところが、読みやすい入門書である「分子人類学と日本人の起源」を見ると、宝来説が埴原説をサポートしているかのように書いてある。そう読めないこともないのだろう。
 宝来聰の研究は、「DNA人類進化学」でまとめられた時点では、母性遺伝のミトコンドリアDNAによる人類・民族起源を対象としていた。ミトコンドリアDNAは母系だけに遺伝する。このからくりから彼はこう説明している。

例えば、われわれ一人一人の一〇世代前の祖先は2^10、すなわち一〇二四人存在するから、われわれのもつ核のDNAは祖先の染色体の全部で四万七一〇四本(四六本×一〇二四人)のうちの四六本に由来するものを持っている。したがって、各染色体が一〇世代前のどの先祖に由来するのかを特定することはほぼ不可能である。一方、ミトコンドリアDNAでは、確実に一〇世代前の一人の母系の祖先が持っていたミトコンドリアDNAに行き着くことができる。

 それが本当なら、かなり確実性をもって祖先の推定ができそうにも思うが、この限定性には両面があり、端的な話父系にはかかわらない。むしろ、遺伝子学を使った祖先の特定はできないというふうに読んでもいいのかもしれない。
 東アジアや東南アジアのように、紀元前から華僑的な交易の盛んな地域では、男は単身で遠隔地に行って、そこで現地妻を作る特性がある。なので、文化的な特性及び父系の遺伝的要素がまるでわからないと、実際には無意味な結論になりかねない。
 率直なところ、こうした民族起源説は、私は話半分といったところかとも思う。
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日本人の
骨とルーツ
 しかし、古代史全般に言えることだが、こうした「科学的」な手法が古代の真実を表すと考える人は多い。しかたがないのかもしれない。以前、松本秀雄のGm遺伝子論(「日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く」)に固執する人と話をしたことがあるだが、それだけが科学的な日本人起源だとして譲らずに閉口した。
 同類の科学的な議論は、日沼頼夫「新ウイルス物語―日本人の起源を探る」にも見られる。栗本慎一郎はこれに偏って評価していた。しかし、科学というものは多面的だ。なのに、常識的な科学観が、古代史といった分野では欠落しやすいのだろう。
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母型論
 その点、吉本隆明はこうした問題を扱った母型論では、埴原説、松本説、日沼説を並べながらも一定の距離を取っている。だが、この本はあまりに独自すぎてどのように評価していいかわからない。また、言語をもって民族起源に迫ろうとしているようにも見える点は稚拙すぎる。言語の起源は民族の起源とはまったく独立である。
 文化様式も民族の起源とは異なる。だから、民族学や民俗学的な知見から日本人起源を探ることは無意味だ。縄文人も弥生人も本来は、洒落に過ぎない。縄文土器と弥生土器という文化様式があるだけなのだ。
 結局、日本人のルーツは何か、どう探るのかという問題になる。だが、この問いかけが倒錯しているのだろうと私は思う。宝来聰らのような研究が無意味だとは思わないが、それらの研究成果がもし我々日本人の起源幻想に答えようとしているならやはり倒錯だろう。
 問題は、「われわれ」というときの民族の幻想的な同一性である。これがどことなく血をや骨格を連想させることが科学の装いを持ってDNAだのという話になりやすい。だが、民族とは共同的な幻想による集団の行動特性でしかない。韓国でも、高句麗・渤海の起源を巡って中国と争い始めたが、この議論に潜む朝鮮族という幻想から抜け出ようとはしない。近代が民族国家を志向するなら、統一朝鮮ができても同じことになるのだろう。中国は中国で諸民族の統合を名目としつつ実際には巨大な民族国家的な志向をする。
 特に話の結論はない。
 余談だが、今日で極東ブログが一年経った。一年よく続いたものだなと思う。感慨はある。思うこともいろいろある。人生のある一年、よく書き続けたものだと自分をいつか思うのだろう。

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2004.08.13

北朝鮮残留日本人

 「流れる星は生きている(藤原てい)」を読み返しつつ、史料として見ると、ソ連と朝鮮を配慮してあえて書かれていないせいもあるのだろうが、反省するに、私も背景についてよく理解できないことが多い。満州の崩壊については、もっと組織的に勉強しなおしたほうがいいのだろう。単純な話、藤原ていが引き揚げのときに持っていた紙幣はどのように流通していたかさえわからない。紙幣など一夜にして紙くずになってもよさそうだが、そうでもない。
 引き揚げのルートがなぜ、あのようなものであったのかもわからない。38度線というと私などは朝鮮戦争後のイメージが強いが、満州崩壊後はソ連軍と米軍の管轄の線引きだったのだろう。宣川の状況についてもよく読み込めていない。ソ連の暫定的な管轄下だったのではないかと思う。そこで1年滞在後に彼らが移動を開始するのは、その管轄にも関係があるのだろう。別の言葉で言えば、ソ連軍には、難民を保護して日本本土に帰還させる義務があったと思うがそれが実質放棄されたのではないか。いずれにせよ、藤原ていなど日本人は、38度線越えてから米軍に保護された。
 当然ながら、こうした逃避行を実施し得ない人々も存在する。満州といっても、北の延吉や南の安東などすでに現在の北朝鮮域に近い。北朝鮮に残留した日本人も少なくないことは想像にかたくない。彼らはどうなったのか。
 私がこの問題に気になったのはそう昔のことではない。その存在は以前から知ってはいたが、日本国政府が動く気配はないようだった。中国残留の日本人とは違い、国政上顕在化したのはようやく、1997年12月5日にもなってのことのようだ。同日の読売新聞「北朝鮮残留日本人 一時帰国目指し親族調査へ 1442人中、67人/厚生省」にはその実態についてこう記している。


厚生省によると、北朝鮮からの未帰還者として現在、親族から届け出がある残留日本人は千四百四十二人。このうち、千三百七十五人は、死亡が確認されないまま、親族が裁判所へ申請して戦時死亡宣告を受けている。それ以外の六十七人については、同省は九一年まで随時、親族の所在確認を行ってきたが、住所が変更されて居住地がわからないままの親族もいる。

 私はこのニュースに驚いた。厚生省が関わるのは67人のみ。1375人については、死んだことになって終わりなのである。
 藤原ていは生死の境を越えて生き延び、当時の記憶もないほどの幼児だった藤原正彦はすでに初老といっていい歳になる。この同じ年代の日本人が、北朝鮮の地にあって、すべて死に絶えたのだろうか。そんなわけはないだろう。
 ふと気になって、過去の新聞を見ていると、奇妙な話があった。奇妙で済まされることではないのだが、樺太(サハリン)残留の日本人が北朝鮮に連れられたケースがあるというのだ。1991年読売新聞「 不明のサハリン残留邦人女性 北朝鮮へ移住させられた ソ連当局が認める」の記事だ。

 同州ユジノサハリンスク市(豊原)に住む秀子さんの妹、ザツェピナ・徳子さん(49)と大阪府内の兄、梅村時男さん(56)の二人が昨年十月にKGBサハリン州総局に対して行方を明らかにするよう求めたところ、徳子さんあてに十一月、U・N・ビスコフ総局長の名で回答書が郵送された。
 回答書は「あなたの親族の運命については、ソ連内務省の決定で北朝鮮との合意により、市民権のない人物として一九七七年十一月十九日、北朝鮮に引き渡された」などとしている。生死や現在どこにいるかなどには触れられていない。
 徳子さんは「秀子さんが日本移住を強く望んでいたので(日ソ冷戦で)好ましくない人物として強制移住させられたのではないか」と話している。

 これは特殊なケースだろうとは思う。しかし、それを言うなら現在焦点を当てられている拉致被害者についても特殊なケースのようにも思われる。もっとも、戦後処理と国家犯罪は別だとも言える。
 北朝鮮残留の他に、樺太残留の日本人にも複雑な問題がある。ぞんざいに書いてはいけないことだが、戦前の日本は朝鮮人を多数樺太に強制連行したが、この地で日本人女性と結婚した人も少なくない。日本人社会がそこにあったからだ。彼女たちも長く日本に戻ることができなかった。朝鮮人の樺太連行については、別途書きたいとも思う。
 樺太残留日本人の引き揚げは戦後ある程度組織的に行われたが、その後は個別の問題とされた。1993年に国際状況の変化からか社会の話題になり(参照)、永住帰国のニュースも聞いた。あらかたは解決したのか、最近はあまりこの話を聞くこともない。

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2004.08.11

李下に龍を顕す

 この14年間シンガポール首相を務めてきたゴー・チョクトン(63歳、Goh Chok Tong)が辞任し、明日12日、これまで副首相兼財務相を勤めてきたリー・シェンロン(52歳、Lee Hsien Loong)が首相となる。シンガポール建国の初代首相にして善き独裁者リー・クアンユー(80歳、Lee Kuan Yew)の長男である。単純に言えば、王位継承ということだ。世界が沈滞化してきたのか、自由主義国ですら、世襲が珍しくないが、直接的な国民投票によらないという点ではどこかの寒い国に似ている。もちろん、どこかの寒い国と同様に、表層的にはその国民に不満があるわけでもない。リー・シェンロンはシンガポール国民に強く支持されている。もっとも、盤石と言えないのは、かつてリー・クアンユーがその位置にいた上級相にゴー・チョクトンがつき、さらに心太よろしくリー・クアンユーは新設の顧問相に突き上げれたことからでもわかる。没問題、大丈夫。52歳のシェンロンには、パパがついている。かくして三首相体制となった。東南アジアの龍に首が三つもある。なんだかキングギドラみたいだな。
 今回の世襲は古い筋書き通りだった。もともとゴー・チョクトンは父クアンユーが長男シェンロンに国を嗣がせるための中継ぎに過ぎなかった。シェンロンが父に並ぶ生え抜きの経歴を持つのに対して、ゴー・チョクトンは見劣りがする。シンガポール大学を卒業し、政府系海運会社の役員を務めて、1976に政界入った。その後、国防相・副首相を歴任して、1990年リー・クァンユーから首相職を移譲された。リー・クァンユーにしてみると、英国自治領時代から通算31年後のこと。すでに、1984年に政界入りした世継ぎの嫡子シェンロンも、この時すでに副首相兼商工大臣となっていた。いい滑り出しじゃん、とパパは思ったか。
 人生というのは広く眺めてみると意外に公平なものである。あるいは、どこかに神の采配があるような気もしてくる。「天の将に大任を是の人に降ろさんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓えしめ、その身を空乏にし、行いには其の為す所を払乱す。 心を動かし、性を忍び、其の能くせざる所を曽益する所以なり」である。1992年、シェンロンは癌(リンパ腫)にかかっていた。妻は1983年に病気で亡くしていた。世の辛酸舐めた。
 シェンロンは、「そのことは今でも人生に影響していますか」と訊かれたとき(参照)、こう答えた。「それは誰の人生でもありうることです。人生の荒波に揉まれず自動操縦の飛行機に乗るようにはいきません。人はそうした不幸とともに生きていくものなのです。」
 彼は先妻との間の子を引き取り、再婚もした。どこかの国の首相と、とても、違う。人生いろいろではないのだ。庶民の普遍的な生き様には変わりえぬ根幹というものがある。それを見つめることができない人が首相となってはいけない。国民が不幸になる。
 シェンロン個人への表立った批判は少ないだろうが、リー王朝への批判は少ないわけではない。現在の妻ホー・チンはテマセク・ホールディングスの執行取締だ。この企業はシンガポール航空など国内の主要企業を傘下にしている。弟のリー・シェンヤンはシンガポール・テレコムの最高経営責任者。ま、もっとも、自由主義というのはそんなものか。米国大領選挙候補ケリーの最終的な金づるはかみさんだしな。ブッシュ? もう言うまでもないでしょ。
 世襲で、しかも、大企業をファミリーにしていて、それでいいのか?
 いいに決まっている。それ以外になにがあるというのだ。歴史は苛酷だ。それを思えば独裁制と言われようが屁のごときだ。
 シンガポールの歴史は1819年に始まる。今ではホテルにその名前を残すサー・スタンフォード・ラッフルズがシンガポール島に着いたとき、そこに中国人はいなかった。マレー人が150人ほどだけ。なのに、4年後には、住人は1万人を越え、中国人はその1/3を占めるまでになった。中国人といっても、出身はばらばらでお互いに言葉は通じない。この華僑たちは、今でもそうであるように、その地に現地夫人を作るから、混血の子供がたくさん生まれる。日本の古代もそんなものだっただろう。
 マレー人の女と華僑の間に生まれた子供たちはババ・チャイニーズと呼ばれる。母語とはよく言ったもので、母の言葉を指すが、マレー人の母を持つ華僑の子孫たちは、マレー語を母語とする。中国語なんか話せない。リー・クァンユーもそんな一人だ。頭が良かったのは確かだから、宗主国イギリスで教育を受けることができた。
 1957年、ようやくこの地にマレー人の民族意識の高まりから、マラヤ連邦ができたが、できてみると、華僑の子孫ははたして自分たちが何者かわからなくなった。彼らは1963年マラヤ連邦に入ったものの、2年後に追い出された。この理由をマハティールがこっそり書いているが物騒で再録できない。
 こうして1965年8月9日、シンガポールは華僑の国として独立することにした。華僑なんだから中国を話さなくてはということで、リー・クァンユーも普通語(北京語)を覚えた。もっとも、ババ・チャイニーズたちがすべて彼のように普通語が話せるわけもない。そもそも華僑が北京語を話すというのも変な話だ。ということで、英語を普及させることにした。We can speak English, laである。語尾になんか付いているがいいじゃないか。日本人はかくしてシンガポールの公用語は英語だと思っている。間違いではない。が、公用語は英語、中国語(北京語)、マレー語、タミル語。で、この国の言語はと言えば、歴史が示すとおりマレー語だ。法螺話ではない。JETROの「シンガポール;概況 」(参照)にも正直にそう書いてある。
 そうそう、リー・クァンユーは漢字で李光耀だった。この光輝くイメージは息子のシェンロンのあだ名、Rising Sunに受け継がれているようだ。Rising Sunとかいうと、つまらぬ歌でも歌いそうになるな。

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2004.08.06

空想過去小説「チーズとバギウム」

 毎週鉄人28号を見ている。今週は、ヤポンスキー(日本人)とニッポンとヒコポンデリーから造語したような、おなじみのキャラ「ニコポンスキー」も声優名を隠して登場した。面白くてたまらない。戦後に糸川英夫(バレーリーナ?でもあった)博士が作ったペンシルロケットも、戦前の設定で登場してきた。フィクションだからな。空想科学小説が未来ではなく過去に向けて描かれるのは、もしかするとなんらかの意味があるのかもしれない。私も過去に向けてちょっとフィクションを書いてみたい。
 というわけで以下は、フィクションである。

「チーズとバギウム」
 アジアの現代史はアヘン戦争から始まる。
 イギリスは中国人に麻薬のアヘンを売りつけていた。人間をダメにするには最適の薬だ。当然、中国に君臨していたモンゴル王朝正統の清王朝道光帝は怒った。1839年、イギリスとの交易を禁止した。が、翌年イギリスはこれに因縁をつけて中国に軍を派遣。42年に攻撃開始。清軍は大敗し、香港島、九龍地域が割譲された。98年には99年間の租借とした。契約を結んだとき返還が実現する日が来ると思う人はほとんどいなかっただろう。だが、1904年に生まれたポーカー好きの小柄な中国少年は心に誓った、必ず、この契約を実現してみせる、と。なお、この契約書は今台湾にある。
 こうしてアジアにヨーロッパが侵略を開始した。まるで大きなチーズを切り分けるような具合である。
 各国はイギリスのような汚い手口の真似を始めた。ロシアは黒竜江以北(これが今の北朝鮮とロシアの国境にもなる)とウラジオストックのある沿海州を割譲させた。フランスは清朝下のベトナム、ラオス、カンボジアを植民地化した。この地域を、だから、日本人は仏印と呼んだ。対向する西側のビルマをイギリスが植民地化した。タイは緩衝地域になったので植民地化を免れた。
 清朝下の国は植民地化される、というのがこの時代の常識になっていた。そして残りの李氏朝鮮をロシアが狙っていた。
 朝鮮半島がロシアのものになれば次のチーズは日本になる。日本は焦った。僕はチーズじゃないよ鼠だよ、というわけで、朝鮮に手を出した。半島の清軍を追い出そうして清朝と戦争を始めた。1884年日清戦争である。日本は勝利し、朝鮮を清朝配下から独立の名目で自国配下に置き、さらに遼東半島(大連・旅順)を割譲した、はずだったが、ロシアが怒った。そこは俺のチーズのはずだったと言うのだ。フランスとドイツをつるませて、いちゃもんをつけた。1889年三国干渉である。日本は遼東半島を失った。
 遼東半島の旅順を失えば、朝鮮半島支配などできるわけもない。逆に言えば、旅順を手に入れれば朝鮮半島が支配できる。ロシアは清朝から旅順を租借し、要塞を築き始めた。おまけに清朝の内乱義和団事件(1899)にかこつけて満州を占領した。やったね。実質半島はロシアの手に落ちた。余談だが、北朝鮮はソ連が作った傀儡政権なので、見方によれば今でもロシアの手に落ちたままなのかもしれない。
 日本は怒ってロシアに宣戦布告した。日露戦争である。日本はからくも勝利した。が、全面的な勝利でもなければ、さらに泥沼の戦闘に推し進めるだけの国力も日本にはなかった。
 このまま突き進めば最後はロシアが勝つだろうと、ロシア買いかぶりのアメリカ人ルーズベルト大統領は思った。
 アメリカは日本の植民地化に失敗し、ようやくフィリピンを捕ったばかりだ。日本を潰してロシアとことを構えるのはめんどうなことだとも思った。ここは日本にロシアを露払いさせて、あとで日本を潰せばいいのだ。というわけで、講和に乗り出した。かくして満州が実質、日本の手に入った。日本は、迫り来る最後の日も知らず、図に乗って朝鮮も併合した。最後の日を想像できる日本人もいたにはいたのに。
 アメリカは満州にちょかいを出し始めた。
 それを知ったロシアは、やべーぜと思った。今度は日本とロシアが満州の権益をきちんと山分けしておくべ、とした。
 が、矢先にロシアのロマノフ王朝が倒れた。1917年ロシア革命だ。レーニンのちょっとした勘違いのクーデターがひょんないきさつで革命になっちまった。これって、マルクス=エンゲルスの予言した共産主義革命かもと思うばかたれは、アメリカにまで出てくるありさまとなった。いずれにせよ、ロシアは極東から一時的に撤退した。それを見ていた愛国者スターリンは義憤した。俺がチーズを取り戻してやると思った。
 満州に居座った日本の関東軍は、なんくせだか屁理屈だかつけて、日本本土のシビリアンコントロールから外れてきた。シビリアンコントロールがあれば軍隊は暴走しない。シビリアンコントロールのない軍隊は暴走する。まんまじゃん。
 関東軍は、「清朝を倒すことに一役買った孫文も満州は中国じゃないからね」と言ったよ、ほいじゃね、というわけで、1932年関東軍は満州に清朝の傀儡政権を作った。
 日本本土の犬養首相は怒った。うぜーなと軍人は思った。軍人は犬養首相を問答無用で暗殺した。いや、こんなの軍人なんかじゃないか。軍人はこれから殺そうとする者にまず銃を渡す。そうでなければ、軍人の名誉が守れない。日本の軍人には名誉なんてものはなかった。それはやがて満州が崩壊したときに、恐ろしく醜いかたちで露呈したのだが…。
 満州をめぐり日本と米国が争う構図はできあがった。
 だが、国際状況が読めないとんちきな軍部はロシア戦争の勝利とソ連共産政権への恐怖から次の戦争はソ連に備えていた。まるで根拠がないわけでもない。
 1939年、スターリンの台頭とともに極東への関心を取り戻したソ連は、満州とモンゴル人国境ノモンハンで日本と衝突し、戦闘を始めた。ノモンハン事件と呼ばれるが、事件なんてものではない。戦争である。
 日本側の被害もひどかったが、ソ連側の被害もひどかった。スターリンは実は臆病ものである(ロシア軍の本質は臆病である)。しばらく日本と事を構えるやめとこうと考えた。1941年、日ソ不可侵条約を結んだ。
 もっとも、それで終わりなわけはない。スターリンは考えた。この愚劣なヤポンスキー(日本人)を南方に追い出し、アメリカに叩かせればいいじゃないか、と。
 かくして、諜報活動を駆使して日本の方向を転換させた。が、日本の軍事教練はいまだに対ソ連戦を想定して行われていた。そんなもの南方では役に立たない。役に立たないという点で、今の日本の教育と似ている。日本人は歴史からなにも学ばない。
 ソ連との関係が沈静化するなか、満州を巡り、日本とアメリカの対立は激化した。
 1939年以降戦時に盛り上がったアニメ、トムとジェリーよろしく、アメリカは日本鼠を巣から出してみるか、ということで、アメリカは日本の海路を封鎖した。日本に石油が来ない。資源のない島国はこれで終わりだ、と日本は妄想した。フセインくらいタフな悪知恵も働かなかった。
 かくして日本はアメリカのシナリオどおりに開戦したのだが、日本の戦闘はアメリカの予想に反して意外とタフだった。国家総動員で軍事生産に充てるなんてことは科学的な経済学では予想だにできなかった。おい、この国(日本)には民間部門はないのか。あ、今でもないか。
 アメリカ人は恐怖した。日本人は、そのまま自殺爆弾になって攻めてくる。そんなことは想像もできなかった。
 武士道とは死ぬことと見つけたり。武士は戦うと決めたら死ぬことと決める。考えれば人間は必ず生きることに向かう。己が生きることに向かえば戦闘には隙ができる。いずれ死ぬという状況にその隙は負けを誘発する。死が栄誉であるには、そして勝機を得るには、まず死ぬと決める。これが武士道だ。哲学としては素晴らしいが、近代戦の実戦には有効的ではない。
 それでも自殺爆弾となった日本人に、米軍の勇者の誇り海兵隊がまずびびった。こんなやつらに面と向かって戦うなんてやなこったと泣き言を上げた。
 それじゃ、殺虫剤を撒くように空爆でこいつらの家族を殺してやるに限るな、とファミリー思いのアメリカの上層部は考えた。実践した。
 害虫駆除のように東京を焼き払った。1945年3月10日。10万人の日本人非戦闘員が殺された。面倒よく家族ともども殺したから、その消息も辿れる生存者は少ない。
 それは恐ろしく無意味な殺戮だった。そんなに多数の日本人の民間人を殺す必要はなかった。
 日本政府もその時期、すでに敗戦の手続きを始めていた。が、目先の敵に目がくらんで本当の敵が見えなかった。日本は、こともあろうか、スターリンに泣きついていたのだ。日ソ不可侵条約のよしみで米英につないでくれよ、というのだ。泣けるほど、ダメ、日本。
 なぜならその1か月前にスターリンはそんな日本の泣きをネグって、ルーズベルトとチャーチルとで、クリミヤ半島のヤルタで日本の戦後処理の計画を始めていた。戦後処理といっても、戦後復興ではない。くずれたチーズを寄せ集め、また切り直そうというだけのことだ。
 スターリンは躍起になっていた。このままいけばルーズベルトにやられる。いや、ルーズベルトは阿呆だからなんとでもなるだろう。問題はこのハゲ(チャーチル)だ。取り敢えず、1年期間の残る日ソ不可侵条約なんてものは反故にしまっせ、とした。満州・極東については三国干渉の時に戻して、俺(スターリン)にくれ、と飲ませた。あとはヒットラーがくたばるのを待つばかりだ。
 が、ここでまるで偶然であるかのように4月ルーズベルトが死ぬ。え?とスターリンは思った。ヤルタの密談はどうなるんだ。
 アメリカは副大統領にして真の男、トルーマンを出してきた。今で言ったらチェイニーが大統領になったようなものである、いや、このスターリン嫌いの反共主義者は民主党だな。歴史的には民主党のほうが戦争好きに見える。トルーマンはヤルタの密談に怒った。スターリンにやるチーズはない。
 5月にヒットラーが自殺。ドイツ壊滅。スターリンは軍隊を急いで極東へ向けた。チーズが、チーズが、無くなっちゃうよ。
 トルーマンはトルーマンで焦りだした。ルーズベルトを消すのに手間かけすぎた。敵はスターリンだ。こいつの前で、どかんと一発、やつの嫌いなハゲ頭、をやるしかないだろう。俺(トルーマン)に刃向かえないっていうのを知らせるのに、ま、もう10万人くらい日本人でも殺すか。ビッグファイアー博士の弟子オッペンハイマー博士から届いたコード名「バギウム」の威力も見てみたいものだ。
 7月16日、原爆実験成功。
 すげーな、と実験報告を受けたトルーマンは満足した。まるで、この世の終わりみたいだ。これなら東京大空襲の10万人殺戮が一瞬でできそうだな、な、フォン・ノイマン博士。と、トルーマン大統領はコンピューターの父にきいた。
 ノイマン博士は原爆開発のマンハッタン計画で、爆発高度の計算を行っていた。また、爆発地の選定にも関わり、広島、長崎など4都市の攻撃に賛成していた。というのも、軍需工場地帯ではそれほど威力はない。
 トルーマン大統領に問われたノイマン博士は、内心困惑した。そ、そんな威力はないっすよ、とは言えなかった。
 同席していたオッペンハイマー博士は瞑目した。死ぬのはたぶん1万人だろう。だが、なぜ科学が民間人を殺すために利用されるのか。
 こうした博士たちの心中を見抜いていた一人の軍人がいた。彼は思った。これだからシビリアンは困るぜ。原爆といっても所詮は兵器。いいも悪いもリモコン次第、じゃない、使い方だ。こいつの破壊力は通常爆弾の2万トン程度。東京大空襲では16万トンを使っているのだ。普通に使っても威力は出ない。まして、鼠が巣に隠れてしまうなら威力はさらに半減する。
 ってことは、鼠を巣から出しておくのがこの作戦の要諦というわけだな、と軍人は思った。こっそり、やるか。
 1945年7月26日、広島を避けて、大阪市東住吉区田辺小学校の北側に原爆の模擬爆弾を落としてみた。
 1945年8月6日7時9分、広島で警戒警報が発令された。
 敵大型三機が豊後水道方向から国東半島を周り北上し、広島湾西部から広島中部を旋回した。外出していた人々は防空壕など避難所に駆け込んだ。が、何事もなく、7時25分、敵機は播磨灘に抜けた。
 7時31分、警戒警報解除。あれはなんだったのだろう。さて、敵機が去って、これから暑い一日が始まるのか。時刻は8時を回ったころだ。
 正確な時刻はわからない。後の長崎の原爆では長崎海洋気象台に保存されている気圧計のデータから爆発は十時五十二分ごろであることがわかった。定説より10分早い。広島原爆投下時刻は今も不明だ。
 その朝の8時過ぎ、突然フラッシュのような閃光が広島上空で走った。
 廿日市の自宅でこの日、広島文理大に向かう予定だった若木海軍技術大尉は、あれはなんだ、と思った。と、瞬間激しい爆風が襲い、ガラス戸が砕けた。
 若木は地獄図のような光景のなか文理大に向かった。
 その時、きちんとした身なりでリュックサックを背にした少女たちの一群に会った。「あなたたちはやられなかったのですか?」若木はきいた。
 「私たちは警報解除になったのを知らないでずっと防空壕のなかに残っていたんです。」と少女たちは答えた。

【参考】
原爆は本当に8時15分に落ちたのか―歴史をわずかに塗り替えようとする力たち
広島原爆―8時15分投下の意味
広島反転爆撃の証明
原爆機反転す―ヒロシマは実験室だった 光文社文庫

2004.08.06 in 歴史 | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

2004.07.16

良心的兵役拒否

 15日韓国で、宗教上の理由で兵役を拒み、兵役法違反の罪に問われた男性被告が最高裁で有罪となった。つまり、韓国は良心的兵役拒否を認めない国家となった。国内ニュースとしては、この手の話が好きそうな朝日新聞系「良心的兵役拒否の有罪確定 韓国最高裁『国防義務優先』」(参照)があるが、ベタ扱いに近い。


 判決は「兵役の義務が履行されず国家の安全が保障されなければ、人間の尊厳と価値も保障されない。良心の自由が国防の義務に優越する価値とはいえない」とし、北朝鮮という現実の脅威を背景に徴兵制を敷く韓国として、個人の基本権より国防・兵役義務など社会秩序の維持が優先されるとの考えを示した。
 男性は01年、陸軍入隊を宗教上の理由で拒否した。一、二審で懲役1年6カ月を言い渡され、上告していた。

 現代自由主義国家が良心的兵役拒否を認めないということは、国際世論からすれば国家的な恥辱とも言えるものだが、だからこそその点を考慮してか刑は軽いようだ。少し私の宗教的な判断が入るが、この程度の刑なら、むしろ宗教的な良心にとって好ましいのではないか。
 国民の30%がキリスト教信仰を持つ韓国で、この問題がどう扱われているか気になる。韓国紙中央日報「国家安保なくして人間の尊厳・価値なし」(参照)では、今回の判決を支持している。

もちろん良心の自由は自由民主主義国家にとって大切なものだ。 しかし、だからといってそれが共同体維持のための「国防の義務」に優先することはない。


  南北分断により北と軍事的対立を続けているわが国の安保状況では、良心の自由を掲げてすべての若者が国を守らなくなったら、どのような結果を招くかは火を見るより明らかである。

 この滑稽さはまるで産経新聞社説を読んでいるような錯覚をもたらす。もっとも、日本でも無知な左翼陣営は、日本で兵役復活したら大変だ、と言うが、現代の軍事に素人は不要だ。
 韓国紙東亜日報「『良心的兵役拒否』は有罪」(参照)は、基本的に判決を支持していながらも、もう少し深みがある。

しかし、軍隊の代わりに刑務所行きの選択を強いられる「エホバの証人」の信者たちの問題に終止符が打たれたわけではない。最終的に違憲法律審査権を持つ憲法裁判所(憲法裁)の決定を待たなければならない。本質的な問題は未解決のまま残っているわけだ。憲法裁が、憲法上の二つの価値が衝突する時にどのように調整するのか、合理的な決定を下すことを期待する。

 ここには朝日新聞が意図的に落としている二点がある。一つは本質的には未決であること、もう一つはこの宗教が「エホバの証人」であること。韓国世論がこれらの新聞からわかるわけではないが、今回の問題の重要なキーワードは「エホバの証人」だとは言えるだろう。
 「エホバの証人」というと日本では、カルト的な宗教のイメージを持ちがちだし、日本基督教団やカトリックでも異端としていることから、偽のキリスト教徒であるかのように見られることもある。しかし、宗教史の大きな流れを見るものなら、これが三育系(セブンスディ・アドベンティスト)と同系のルーツを持つものであり、米国では社会的にもモルモン教やクリスチャン・サイエンスなど同様、一定の評価を受けている宗教であることがわかる。むしろ、正統とされるキリスト教、つまり事実上今日のエキュメニズムは、ニケア信条に端を発するという点で、原始教団と初期教団の歴史的間隙について、神学的な課題を十分に追及してはいない。
 「エホバの証人」と良心的兵役拒否については、日本もまた貴重な歴史を持っている。元「エホバの証人」の戦前の組織である灯台社がそれだ。その中核的な人物は明石順三である。日本の戦時において、彼は、堂々と良心的兵役拒否を貫いた点で高く評価されてよく、その日本人の良心を支えたのは、「エホバの証人」の信仰であったということは、現代日本人は深い負い目としなくてはならない。
 残念なことに、正確には、「エホバの証人」の信仰とは言えない現状がある。明石順三は戦後、「エホバの証人」から異端とされているからだ。この問題は、1970年代にはある程度研究が進んだもの、現在では忘れ去られたように思える。日本人が良心的兵役拒否を論じるときに欠かすことのできない歴史的なくさびを忘れているがために、精神的に脆弱化した左翼はこの概念を国家の良心に拡張しようとしている。
 良心的兵役拒否の問題は、私も個人的に課題としたことがあり、「エホバの証人」の現状の内部資料を探ろうとしたこともあった。十分な資料は得られなかったが、平信徒には、本来は誇りであるべき明石順三について、異端であることの教育が進められているようだった。
 灯台社関連については、書籍としては、岩波新書「兵役を拒否した日本人」(稲垣真美)が読みやすいが絶版になっている。晩年の明石を知るという点ではむしろよく書けた書籍なので絶版であることは岩波の恥だ。参考までに、現在入手可能な稲垣真美のこの関連の書籍には「良心的兵役拒否の潮流―日本と世界の非戦の系譜」がある。また、ネットでは、「灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ」(参照)が興味深い。
 話がだらけるが、私は先の岩波新書が出た当初に読んだので、それは中学三年生の時だっただろうか。そのころの私は、ドストエフスキーなどの影響もありキリスト教に傾倒していたこともあって、日本が戦時になれば私は兵役拒否をしようと心に誓っていた。が、今47歳にもなり、もはやそんな誓いは無意味になったかのように思える。またその後、高校生になり小林秀雄を海馬にたたき込むほど読みながら、実際の徴兵があれば、私は一兵卒として従軍するだろうとも思うようにもなった。戦時のクリスチャンの生き様として山本七平からも強い影響を受けた。
 で、今、どうなんだ?、良心的兵役拒否をするのか?と問われると、答えがたい。国家の保証する権利であることは譲る気もないが、自分の宗教的倫理としては、よくわからないのが率直なところだ。ただ、いろいろ考えながら、いろいろ知るようにもなった。
 その一つは、軍事は人を殺すことではない、ということだ。たるい左翼は、戦争の本質とは人を殺すこと、というのだが、少なくとも、軍人は人を殺すのが役目ではない。敵軍の軍事リソースを潰すだけである。12人を殺害、とか言うのはジャーナリズムである。軍事では、戦車一台を爆破、とかになる。軍事が常識ならそんなことは当たり前のことであり、むしろ、敵軍人が負傷しているなら殺してはいけない。平和を希求するなら、軍事という歴史の産物を正しく理解してはならないと思うようになった。
 蛇足でつまらぬ感傷めくが、私が大学生のときの恋人が普連土学園を出たばかりお嬢さんだった(失恋したがな)。彼女自身はそれほど強いクエーカーの信仰を持っていたわけではないが、私はクエーカーという信仰のありかたに深く批判されるように思えたことがある。先に書いたように、思春期の私は「心に誓った」が、そうした「誓い」がキリスト教に反することをクエーカーの信仰は告げた。英語の法律・政治文書を読むと、oath or affirmation、または、oath and affirmationという表現がよく出てくる。oathは宣誓である。私の誤解かもしれないが、oathが信仰上許されない人の歴史が、affirmationを生み出したようだ。
 私はその知恵と信仰の深さに強くうたれるとともに、「誓って」と言明する人間を弱く、罪深いものであると思うようになった。また、私にとって狂気に見える他人は、もしかしたら、狂気をおしてまでして、私が担うべき良心を担っているのかもしれない、と思うようになった。そういえば、パウロもそうであった。


【追記 同日】
 拙い文章を一部改めた。内容に関係することではないので修正履歴は残していない。
 コメントを読ませていただいて、意外な印象を受けた。議論の正否以前に、先進諸国では良心的兵役拒否が事実上確立していることが日本ではあまり知られていないのだろうかという懸念を持った。つまり、もっとエレメンタリーな部分から書くべきだったのかもしれない。補足代わりに、この問題が深く議論されたドイツの状況について「概説:現在ドイツの政治」(参照)が参考になるので引用しておく。


 最後に付け加えておくと、ドイツにおいて、こうしたさまざまな社会福祉団体でのマンパワーの供給源になっているのは、いわゆる良心的兵役拒否者とよばれる若者たちです。ドイツには徴兵制があり、18歳になると青年は兵役に服す義務があります。しかし、憲法は「なんびともその良心に反して武器をもってする軍務を強制されてはならない」(第4条)と定め、良心にもとづく兵役拒否を認めています。兵役を拒否したものは、軍務につかない代わりに非軍事分野での代替役務(Zivildienst)につかなければなりません。兵役が9ヶ月なのに対し、代替役務は11ヶ月とより長期間つとめねばなりませんが、1999年には代替役務従事者は13万8千人を超え、兵役従事者数を上回りました。代替役務従事者のほぼ7割の約10万人が福祉関連の仕事に従事し、福祉業務の1割相当がかれらによって担われています(市川ひろみ「社会国家の安全保障と管理-ドイツにおける軍隊の変容から-」文部省科学研究費補助金成果報告書『グループウェアを活用した欧州統合と福祉国家体制の変容に関する共同研究』2002 年)。

 また、基礎的な知識として「兵役拒否」(佐々木陽子)も役立つかと思う。

2004.07.16 in 歴史 | 固定リンク | コメント (10) | トラックバック

2004.07.13

キトラ古墳の被葬者は天皇である

 キトラ古墳壁画劣化の話を、朝日新聞と毎日新聞が社説で扱っていたが、こんな話題もよかろうか、くらいの飛ばし書きなので、内容はない。キトラ古墳壁画の現地保存には、ちょっとした政治の裏がありそうにも思うが特に言及がないどころか、朝日社説「キトラ壁画――いずれ現地で公開を」ではあっけらかんと書いているため、かえって裏の臭いがする。


 「文化財はその地の歴史、風土から離れると価値が少なくなる。現地で公開するのが原則だ」と歴史学者の上田正昭さんは指摘している。その通りだと思う。

 そうなのだろうか。毎日社説「キトラ古墳 美しく後世に残したい」のほうにはちょっと含みがある。

 この機会に、従来の壁画保存方法が適当だったかどうか、徹底した科学調査と検証が必要だ。

 しかし、この問題はうやむやになるのではないかと思う。そして、なんとなくだが、しかたないよね感が漂う。
 キトラ古墳壁画劣化のニュースでは、あまりキトラ古墳というものには触れていない。私はなんだか変な世の中になったなと思う。
 高松塚古墳が実質発見されたとき、その壁画も衝撃的だったが、なにより被葬者が話題になったものだった。正確にいうと、話題にしたのはメディアや梅原猛など学者であれ、門外漢たちだった。考古学では被葬者の特定(比定)というのは分野外なので、眉をしかめただろう。情けないのは歴史学者だ。被葬者の議論を怖がって避けているとしか思えない状態だった。
 日本の古代史では、なぜか歴史学が戦後考古学と不分化な状態になっており、極端な話、毎度毎度の邪馬台国の話題なども、考古学的な知見が重視されるといった方法論的な錯誤があたりまえになっている。
 他にも、日本史学のばかばかしさは聖徳太子についてなどでも顕著で、今さら谷沢永一などに「聖徳太子はいなかった」と言われるまでもない。世界史学的に見れば、推古朝とされている時代の日本の大王は男王であるのに、遠山美都男など若い日本の古代史学者たちも巧妙にこの問題を避けている。
 日本の古代史学が実質タブーを多く含むこともあり、そのニッチで、アマチュアの古代史愛好家の被葬者推理はどうしてもトンデモ説になりがちだ。このため、逆に科学的であろうとするために、同じくアマチュアの一部は、考古学的な方法論を、本来別分野なのに史学混入し、さらに被葬者議論を封じている傾向すらある。ネットなどでもちょっと小賢しい者たちが、被葬者比定をただ嘲笑うだけで終わっていることもある。嘆かわしい。
 キトラ古墳でもっとも重要な問題は、高松塚古墳も含めて、被葬者の推定だと私は思う。理由は簡単で、考古学的にもそれが天武時代あたりであることは明かであり、そのまさに天武時代に日本の歴史が作成されたからだ。我々もまた、その創作された歴史の内部にいる。
 端的に言うとトンデモ説っぽくなるが、日本の歴史を創作した集団の裏をさぐることから、日本古代史を解体するといいと思う。そして、日本も万世一系のような天皇家の歴史物語から解放され、フランク王国のように7世紀に出来た王朝としての日本という国民史とその国民理解に変更していくべきだろう。
 余談めくが、被葬者の比定は、考古学的には、それを明記した木簡なりが出てこないとわからないということになっている。つまり、それが出なければわからないというのがこの学問のデッドエンドなので、出土の可能性が低ければ、史学はそんなものに見切りを付けるべきだ。
 被葬者ではないが、木簡が出土しても、古代史学は無視を決め込むこともある。長屋王の評価にいたっては、明確に親王号が出てきたのだから、父の高市は天皇位についていたと考えるべきなのだが、そういう議論はアカデミックの世界ではどうも見かけない。
 天武天皇の子とされる高市皇子が天武崩御後皇位についたとすれば、大津皇子や草壁皇子などの死も見直さなくてならないし、なにより、長屋王の殺害は、天武・高市・という皇統に対するクーデターであったことになる。しかも、この系統は女系側から見ると蘇我の系統でもある。この先は自覚的にトンデモ風に言うと、蘇我の系統こそ皇統だったのではないか?
 さて、この手の話より、キトラ古墳の宿星図について、あまり基礎的なことがあまり報道されていないし、教育もされていないようなので、ここで簡単に解説をすべきかとも思ったが、またの機会としたい。いやいや、すでにわかりやすい解説「キトラ古墳の星宿図」(参照)があったので参考するといいだろう。
 私が補足するとすれば、星宿図と四神(蒼竜・朱雀・白虎・玄武)が描かれている意味だ。古代の人は天体に呪術的なロマンを抱いていたというようなわけはない。朝日新聞社説の次の言及はあまりに恥ずかしい。

 キトラ古墳で壁画が発見されたのは83年秋だった。3次にわたる調査で、方位をつかさどる古代中国の四神「青竜」「白虎」「朱雀」「玄武」が見つかり、天井には飛鳥のプラネタリウムといわれる「星宿」が描かれていた。

 説明を端折るために、吉野裕子のもっとも一般向けの「カミナリさまはなぜヘソをねらうのか」をひく。

 そうして古代中国の天文学では、その唯一絶対の存在を象徴する星を「北辰」すなわち北極星としたのです(北斗七星をあわせて、北辰ということもあります)。
 さらにこの北極星を神霊化したものが「天皇大帝」です。

 「天皇号」は、たしか北魏でも見られたかと記憶しているが、その場合でも、中国の皇帝号に対置した意味合いを持っていた。
 古代日本が、大王号から天皇号に変更したのは、トンデモ説でなくても、天武朝だろうと推定される。もともと天皇号は死者におくる号だが、天武は自身をそう号したらしい。天武天皇は壬申の乱の際は劉邦に自分を擬しているが、日本人なのか疑わしいほど中国の世界観にも精通していた。

黄道と宿星
カーソルが現代的な意味での北極星
 キトラ古墳の星宿図が天皇大帝を中心とした宇宙を描いているのはどういうことなのか。「千字文」にある李暹の「千字文注」の訳が参考になる。「日月盈昃辰宿列張」の部分の注だ。
 以前にも書いたが、千字文は東洋人の常識である。そしてその常識には李暹注が含まれていると言っていい。そしてその常識があれば、キトラ古墳の星宿図が何を意味しているか明かだろう。先に朝日新聞社説の言及が恥ずかしいのは単に東洋の常識に欠けているからだ。ついでに老婆心ながら、この蒼竜・朱雀・白虎・玄武の四神は東西南北(東南西北)に配されているとはいえ、地上の東西南北ではない。

 北極星は五つの星である。『論語』(為政)に言う、「北辰、其の所に居て、衆星之を拱く(北極星は固定した位置にあり、他の多くの星がそれに向かってあいさつしている)」と。これのことである。
 天には二十八宿がある。四方にそれぞれ七宿ずつある。東方の七宿は蒼竜の形をし、南方の七宿は朱雀の形を作る。西方の七宿は白虎の形をし、北方の七宿は玄武(亀と蛇がからまった図)の形を作る。そしてそれらが四方に輪になって連なり、天帝(北極星)を補弼(天子の政治をたすけること)しているのである。

 この李暹注をよく読めば、キトラ古墳壁画の四神に囲まれていた被葬者が天皇以外にありえないことがわかるはずだ。

2004.07.13 in 歴史 | 固定リンク | コメント (7) | トラックバック

2004.07.08

新暦七夕のこと

 昨日は七夕ということで、その手の話題をネットでもよく見かけた。が、そのうち、なんだか変な気がしてきた。七夕というのは本来は旧暦でやらないと意味がないのだが、そのあたり知識がまるでわかってないんじゃないか、というか、ネットって、百科事典的な知識がコピペで伝搬しているだけなんじゃないか。なんだ、これは、という感じだ。なので、ちょっと書いておくのもいいのかもしれないと思うのだが、顧みて、自分の考えが正しいと強弁するものでもない。
 まず、「七夕」と書いてどうして「たなばた」と読むかについてだが、このあたりの解説はけっこう多い。字引にも載っている。広辞苑にあるように、読みの元は「棚機」であり、「すなわち横板のついた織機の意」ということ。
 これは、「棚機つ女(たなばたつめ)」の略だ。ところで、この「つ」の意味についてはあまりネットでは見かけなかった。わかってないのかも。これは「国つ神」の「つ」であり、現代語の「の」つまり、「棚機つ女」は「機織りの女」ということだ。「まつげ」の「つ」もこれと同じだから「目つ毛」なのである。高校の古文とかでこういうのちゃんと教えているだろうか。ま、いいか。
 「棚機つ女」については、万葉集にこんな歌がある。


我がためと棚機つ女のその宿に織る白たへは織りてけむかも(2027)
天の川梶の音聞こゆ彦星と棚機つ女と今夜逢ふらしも(2029)

 表記は適当。意味もよくわからない。偉そうな解釈は明治以降いろいろついているが、2027は民謡臭いし、性遊戯が連想される。2029は、文字通りの意味ではなく、なにかの当てこすりなのか、いずれ歌の機能がありそうだ。というわけで、文学としてはなんだかわからない。わかるのは、万葉集の時代にすでに七夕の伝説はあったということだ。
 この「棚機つ女」を、近代の歌の表記によっては「織女」とすることもあるように、一般的には、これが理由で、中国の織女伝説と、日本の棚機姫の神が習合した、とかいう説明が多い。例えば、大辞林にはこうある。

奈良時代に中国から乞巧奠の習俗が伝来し、古来の「たなばたつめ」の伝説と結びついて宮中で行われたのに始まる。近世には民間にも普及。また、盆の習俗との関連も深い。七夕祭り。星祭。[季]秋。

 たしか古事記や日本書紀にも記録にあるのだが、私はこれは変だと思っている。というのは、日本の古来というのは幻想に過ぎない。日本列島の住民は、二、三世紀あたりで、すでに、北方系のツングース(かな)と南方系の海洋民の混血が進んでいたようだが、文化的に見れば、というか、権力的な家族システム的に見れば、早々に中華圏の影響を受けた辺境であり、端的に言えば、日本人はすべて中国人の子孫である。とだけ言うと、とんでも説になるのだろうが、原日本人なる実体を想定するよりはまともだろう。
 つまり、日本古代の氏族的なファミリー組織は基本的に中華圏の移民(華僑)のように構成されていたと考えるわけだ。とすれば、こうした七夕伝説なおは、日本と中国の習合ではなく、古中国(おそらく越人であろう)の文化と、万葉集時代の中国である唐(これは実はユーラシア民の王朝)の文化の混合からできたのものであり、基底には、古いか新しいかの違いはあるにせよ、道教があるはずだ。
 もう一点。七夕が今日の民間の風習になったのは、大辞林がいうように近世のことだ。どうも、潮干狩りだの七夕だのの年中行事は江戸時代にその時代の社会的な要請からできたようだ。ついでにいうと、ねぶた祭りだが、これの解説は概ね変だ。マイペディアではこうある。

青森,弘前など東北地方の七夕行事。弘前では「ねぷた」という。青森では8月3~7日に行なわれ,竹,木,針金,紙などで作った大きな人形(ねぶた)に灯をともして町を練り歩く。7日には船に乗せて海上運行が行なわれる。坂上田村麻呂の蝦夷征伐の故事によるともいうが,元来は睡魔を払い流そうとしたもの。

 「睡魔」があきれるが、これは柳田国男だったか、「ねぶた」を「ねぶたし」の洒落にしてしまったためだ。しかし、「ねぶた」が「たなばた」行事であり、古代にその名称で確立していたのだから、「たなばた」→「たねぶた」→「ねぶた」といった音変化であることは間違いない。
 さて、とうの七夕の行事だが、これは、広辞苑にあるように実際の天体の状態が欠かせない。

五節句の一。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に1度相会するという、7月7日の夜、星を祭る年中行事。

 そこで、新暦で天の川の両岸に牽牛星と織女星が見えるのか?
 見えると言えば見える。だが、それでいいのか、というのが、冒頭、私の変な気がしたということだ。ちょっと説明したい。
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新暦7月7日21時<東>
 牽牛星は、鷲座 α Aquilae Altair、つまり、アルタイルなのだが、Altairと聞いてピンとこないコンピュータ技術者もいるご時世になってしまった。そして、織女星は、琴座 α Lyrae Vega、つまりヴェガだ。これに白鳥座座のデネブを加えると夏の大三角形ができる、のだが、都心だと見づらい。新暦の7月7日だと東の空のやや低い位置に大三角形が見える。ヴェガは高いのこれでも夏の大三角形らしさはある。深夜過ぎると月齢19日の月が東の下方向から登り始め、星は見づらくなる。あまり、七夕に適した夜ではない。まして、梅雨時である。
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新暦8月22日21時<西>
 これに対して、旧暦の7月7日、今年の場合は8月22日になると、やや西空ではあるが、21時頃には天空の中央に夏の大三角形が現れる。ちょうどステージに現れたという感じだ。そしてこの晩は月のじゃまがない。あたりまえの事だが、旧暦というのはムーンカレンダーなので、15日で満月になる。7日だとその半分というくらいだ。
 その他、ちょっと気になる天体シミュレーションをStella Thater Pro(参照)で行ってみた。天文ソフトだが、古代史と限らず歴史に関心のある人間には必携のソフトなのだが、そのあたりの話はまたなにかの機会にでも。

2004.07.08 in 歴史 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

2004.07.07

国松孝次元警察庁長官狙撃事件の裏にあるもの

 この話は書こうかどうかためらった。私が書かなくても、誰かが書くだろうというのと、私でないと書けない部分がありそうな点だ。後者については、書いても誤解されるだけで、うまく書けないだろうが…。
 話の切り出しは、朝日新聞系「オウム元幹部ら4人を殺人未遂容疑などで逮捕 長官銃撃」(参照)あたりがいいだろうか。意外に、若いネットの世代はすでにこの事件を知らないか、あるいは、この事件の持つ歴史的な感覚を持っていないだろう(批判しているのではないよ)。


 国松孝次・警察庁長官(当時)が95年3月、東京都荒川区の自宅マンション前で銃撃された事件で、警視庁は7日、オウム真理教(アーレフに改称)の信徒だった警視庁の元巡査長と教団元幹部2人の計3人が事件に関与した疑いが強まったとして、殺人未遂容疑で逮捕した。もう1人の教団元幹部も別の容疑で逮捕し、銃撃事件について事情を知っているとみて調べる。警察トップが銃撃されるという日本の犯罪史上例を見ない事件の捜査は、発生から9年ぶりに解明に向けて重大な局面を迎えた。

 ということなのだが、率直なところ、こんな話は、今さら、といった問題でもある。そのあたりは、「勝谷誠彦の××な日々」(参照)の今日7日のエントリがよく表現している。

ご存じのようにこの事件は今回逮捕された小杉敏行元巡査長が一度メディアに対して告白したもののそれを警察庁は認めなかったという「一度は終わった事件」である。

 そして、勝谷は、当然ながらというか、北朝鮮との関連に思いをはせている。勝谷の表層的なレトリックの部分については捨象して読むといいだろう。つまり、一度は終わった事件がなぜ、今蒸し返されたのか。

それがどうしてここへきて寝た子を起こすようなことになったのか。当時と今とで変化したことは二つある。一つは小泉首相がブッシュに続いて金豚の狗にも成り下がったことであり参院選に向けてのなりふりかまわぬサプライズのために次々と国を売り渡していることである。明らかに北朝鮮が関わっていると思われるこの事件がここで急に解決に向かうこととそれとを結びつけない方が不自然ではないのか。もうひとつはあの事件当時の国家公安委員長が野中広務だったことだ。闇同和の帝王が警察のトップを務めていたということ自体笑うほかはないが北とのパイプ役でもあった彼が権力のラインから退いたことがどういう影響を与えているのかどうか。ことは単純に金豚に恩を売るということではなくもっと複雑な「ラインの付け替え」が行われているのではないか。

 ジャーナリズムに関わった人間なら、勝谷のレトリックを除けば、特に驚くような話ではない。幾人かのジャーナリストはある程度まで食い込んだが、たぶん、ある鉄壁を前にしているはずだ。ちょっと下品な言い方だが、今朝の朝日新聞社説「北朝鮮――金総書記の小泉頼み」はこの観点から深読み出来そうなのだが、省略する。
 問題は、しかし、そこではない。勝谷は北朝鮮との疑惑以前にもっと重要なことを、ちょっととぼけながら、想起している。

また今回逮捕された中に含まれている石川公一は法王官房長官という麻原の側近中の側近でありながら処罰らしい処罰を受けずにそのことから公安のスパイではないかという見方まで出ていた。彼は小松島の医者の息子で灘の後輩です。すみません。それがここへ来ての驚きの逆転逮捕劇である。

 勝谷はこれ以上はここでは触れていない。朝日系の先のニュースではこうある。

 殺人未遂容疑で逮捕されたのは、教団元信徒で警視庁本富士署の元巡査長小杉敏行(39)▽教団元「防衛庁」トップの岐部哲也(49)▽教団元「建設省」幹部の砂押光朗(36)の3容疑者。
 教団「法皇官房」の事実上のトップだった石川公一容疑者(35)も、別の爆発物取締罰則違反容疑で逮捕した。

 ここで、少し私も逡巡するのだが、小杉敏行元巡査長と言えば、苫米地英人(英斗)を外すわけにもいかず、実は、彼は、かなり明確にすでにこの問題を多方面で語っている。というか、語っても空を切っているため、しだいに脇が甘くなっているかのような印象すら受ける。ネットのソースとしてこれをリファーしていいのか悩むが、重要な証言なので、利用させてもらう。「実話ナックルズ5月号」での彼のインタビューだ。これはたまたま阿修羅サイトに転載されている。阿修羅サイトには私は率直に言うとできるだけ距離を置きたいのだが、そういう気取った状況でもあるまい(参照)。

オウムの洗脳をふくめ一大体系を作り上げたのは、法皇官房の石川公一元幹部その人です。石川元幹部は地下鉄サリン事件の謀議をしたリムジン謀議の場にもいました。これは証言されています。また、そのリムジン謀議がサリン謀議として今回の麻原の第一審で初めて認定されたことは記憶に新しい所です。その認定されたサリン謀議に参加したにも拘わらず何故か罪に問われず、いまも社会で生活をしています。灘高から東大医学部を出た彼こそ、オウムの洗脳を作りあげた張本人です。ナルコとニューナルコ。ニューナルコは記憶を消すやつでナルコは自白させる。これを発明したのは、林郁夫みたいに言われてますが、違います。これを発明したのは、石川公一元幹部です。麻原の側近中の側近は、石川公一元幹部なのです。またオウムの教義を作り上げたのも石川公一元幹部です。麻原の側近中の側近であり、麻原のブレインは石川公一元幹部その人なのです。現在、石川公一の面倒を見ているのは、オウムや被害者の救済をする立場にある阿部三郎管財人です。被害者を今の立場に追いやった中心人物の一人である石川公一元幹部を、被害者を救済しなければならない阿部三郎管財人が面倒を見ているというのは日本特有の現象といえるでしょう(阿部氏は何も知らずに石川公一に同情したようです。石川公一は、『爺殺し』はうまいですからね)。

 取りあえず、この件の考察はちょっと中断する。私が書く必要もない。苫米地英人はこれ以上のことを知っているのであり、いずれ明るみに出るだろう。
 少し話の向きが変わるように思われるかもしれないが、苫米地英人はこの先、こう語っている。

苫米地  オウムの教義は中沢新一氏の唱えた物そのものです。中沢氏の書いた『虹の階梯』です。実際に麻原は獄中からも取り寄せています。氏がどう思っているかに関わらずオウムにとっては中沢新一氏こそオウムの教義そのものといっても過言ではないでしょう。オウムの教義編纂の中心人物でもあった石川公一元幹部が中沢新一氏のいる中央大学へ再入学したのも記憶に新しいところです。ほかにもタネ本はあります。これは私がある脱退した最高幹部から、催眠によってごく一部の人間しか入れない麻原の部屋を再現させ、彼の本棚にあった本をいくつも探し出しました。その中で、麻原がもっとも影響を受けた書物がこれです。

苫米地氏は青色の本を差し出した。
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』(ダンテス・ダイジ著/森北出版)

苫米地  この本は、オウムの一番のタネ本です。佐保田鶴治氏の『ヨーガ根本経典』も麻原が獄中から取り寄せた本として知られていますが、コアのヨガ的な洗脳の一番のエッセンスがちゃんと入っているのがこの本なのです。この書がオウムのタネ本であることはここで初めて紹介するわけですが、ここであかすことはきわめてリスクがあります。なぜなら、これを読むとカルトをつくれるから。
これだけでつくれてしまうのです。ですからずいぶん悩みました。しかし、オウムの洗脳を暴くためにも、あえて決断しました。このタネ本はオウムの高弟たちのごく一部しか知り得ません。


 このあたりの様相は、あの時代の空気を吸った人間ならそれほど秘密のことではない。中沢新一「虹の階梯」はよく知られている。また、佐保田鶴治訳「ヨーガ根本経典」は恐らくヨガに関わったことのある人間は誰でも持ち、読んでいる。ヨーガ・スートラについてはさておき、この本は、ヨーガ・スートラ以降のインド・タントラの古典を合本にしているので、きちんと知的訓練を受けていない人は、その流れで読んでしまいそうになる。つまり、タントラ側からヨーガ・スートラを理解するということだ。これは、もっとも合理的なアイアンガー・ヨガ、およびその源流のクリシュナマチャルヤ(Sri T. Krishnamacharya)との関連するのだが…ちなみ、昨今日本でも流行のパワーヨガはこの系統のもっとも合理的なもので、アイアンガー・ヨガに近いが、アシュタンガ・ヨガの亜流だ。アイアンガー・ヨガの公式教師も実際面では混同しているのだが、アイアンガー・ヨガにはもっと重要なセラピュイックな側面があり、これは米国でもあまり注目されずまして日本ではの状況だ…その話もここまで。
 タントラとヨガの関係、さらにそれがオウム真理教のようにチベッタン・システムと融合してしまうのは、成瀬雅春(例えば、「空中浮揚」)などでも同じ傾向がみられる。ちなみに彼と麻原の直接的な関係はなさそうで、むしろ、麻原の稚拙なインディアン・システムのヨガは桐山靖雄の初期の修業(例えば「人間改造の原理と方法」、なお本書は歴史文献である)に近い。桐山と麻原の関係については、よくわからない。さらに、桐山のヨガ的な源流は、本山博(例えば「密教ヨーガ」)と天風(例えば、「成功の実現」。廉価版もあるかもしれない)だろう。生長の家をこれらと密教とで味付けしなおしたという印象はある。なお、成瀬雅春や阿含宗を非難しているわけではないので、誤解無きよう。
 インディアン・システムのタントラとチベッタン・システムの融合は、Theos Casimir Bernard(参照)の"Hatha Yoga: The Report of a Personal Experience"にも見られるので、20世紀初頭のインディアン・オカルトの嫡流であるかもしれない。当然ながら、これに神智学が関与してくるのだが、この話もここまで。同様に、この神秘主義への探求は、バナードと同様、エリアーデにも見られるし、彼もまさに実践を通じてあの大著「ヨガ」を書き上げる。この傾向は、その後の立川武蔵にも影響している(「マンダラ瞑想法」など)のだが、くどいが、この話もここまで。
 いずれにせよ、オウム真理教における、インディアン・システムとチベッタン・システムの融合(またそれゆえに仏教が絡む)は、この分野をある程度系統的に見た人間ならそれほど違和感のないものなので、麻原の神秘体験記述は吉本隆明が驚嘆するものではなく、すぐに出典が連想されるようなものだった。と、私はなにを書こうとしているのか? オウム真理教における教義の、こうした宗教学的な側面の欠落についてなのだ。キリスト教と聖書学の分離のように、オウム真理教はなぜこの背景の流れを学的に相対化できなかったのか? また、その後も、日本ではこの研究がなされていない。宗教学者たち自身、神智学の基本もわかっていないようだし、まして、そこからの派生である人智学もこの流れを十分に了解していない。
 話を少し戻す。オウム真理教では、パーリー語訳などを行っていたわりには、教義は十分に史的に対象的に考察されてはいなかったのは、端的に、文献を読み下すことができなかったからではないだろうか。あの時代の、インディアン系の神秘学は、カリフォルニア・ムーブメントとしての文献は入っていても、大きな流れは見逃していたように思える。当然、そこからは、教義と神秘体験の融合がおこり、さらに、奇妙な亜流の解説書が溢れ、オウム真理教も一義的にはそうした解説書教義のパッチワーク化していった。このあたりは、麻原自身のケチャリー・ムドラの挫折体験なども興味深い。いずれにせよ、十分な文献に当たっていれば、佐保田訳だけを読むわけもないのだ。
 そして、だから、ここで、ようやく、これが出てくる。ダンテス・ダイジだ。彼は日本人であり、ネットを引いて驚いたのだが、情報がある。「ダンテス・ダイジについて」(参照)によくまとまっている。同サイトには他にもダンテス・ダイジについて触れているが、これを読めば、あえて私が書くまでもなく、いろいろ得心できることがあるはずだ。
 と、ここでこの文章を終わる。これ以上は、うまく書けそうにないからだ。文章が拙く、特定の宗教を批判しているかのように聞こえる部分もあるかと思うが、私の関心は世界史の潮流における宗教学の意味づけなのだ。そして、オウム真理教事件の一部もそのなかで位置づけられる部分があるとは思う。

2004.07.07 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.06.23

「慰霊の日」に思う雑感

 今日は「慰霊の日」である。慰霊の日のことは書くのをやめようと思っていたが、なんとなく書く。
 小泉首相は、今日、国立沖縄戦没者墓苑で献花し「私たちはこの歴史を後世に語り伝えるとともに、2度と悲惨な戦争を起こしてはならない責務を負っています」とあいさつしたそうだ。カート・ヴォネガットふうに言えば、他に何を言えばいい?
 慰霊の日は、日本軍の組織的戦闘が終結した日だと言われている。嘘である。組織的な戦闘はその後も続いた。沖縄戦が終結したのは本土より遅れて9月に入ってからだ。琉球列島守備軍が嘉手納米第10軍司令部で正式に降伏文書に調印したのは、9月7日。沖縄の慰霊の日はこの日に移すべきだと思う。
 じゃ、この23日って何よ?であるが、日本軍第32軍司令官・牛島満中将と同参謀・長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日だと言われている。嘘くさい。22日じゃないのか? 私は沖縄でいくつか資料を読んだ。23日であるかは疑わしいと思った。こうした儀礼的な史実はかなり疑わしいものが多いのではないか。広島原爆投下が8時15分というのも本当なのか? (「原爆は本当に8時15分に落ちたのか」
 22日説が強いのに、なんで23日が「慰霊の日」となったのか? 答えは、ちょうど6月23日が本土の安保デーだったからだ。本土左翼の運動デーを沖縄に持ち込んでいたので、それに近い日付をかぶせたのだ。それ以前の沖縄では本土から分断された4月28日を沖縄デーとして社会運動をしていた。
 いったい、慰霊の日というが、23日以降も沖縄の民間人は殺され続けた。なのになぜ本土の軍人への慰霊が先行するのか、私はまるで理解できない。節目? それは間違った節目じゃないのか。
 沖縄戦では二十数万人が戦死したと言われている。どうやって推定したのか知って私は唖然とした。戦前の人口引くことの戦後の人口である。私が間違っているのかもしれない。しかし、私は、どの戦闘で何人死んだというのが積み上げられて、つまり、加算によってこの数値に至っていたのだと思っていた。そうではなかった。どこでどのようなかたちで沖縄の人間が殺されていったのか、いまだにきちんと調べられいないのだと思った。そう知ったとき、なんか、泣けた。おかしいじゃないか。二十数万人が死んだというなら、万単位の人が死ぬ戦闘、千人単位の人が死ぬ戦闘などが、具体的どの地区の戦闘で、どこの聚落の人であったかなどが推定されるべきではないか。もちろん、私が無知なのかもしれないとも思う。だが、沖縄で8年暮らし、折に触れて調べたがわからなかった。それどころか、未だ遺骨が収集されていないガマの存在を知って驚いた。
 先日(3/16)、NHKの「その時歴史が動いた」の「さとうきび畑の村の戦争~新史料が明かす沖縄戦の悲劇~」(参照)では、23日以降の沖縄戦を描いていた。


●その時を、「昭和20(1945)年9月7日 沖縄戦が公式に終結(沖縄戦降伏調印日)」としたのは?
「沖縄戦終結の日」は、牛島満司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘が終了した6月23日、アメリカ軍の沖縄戦終了宣言がなされた7月2日、そして日米両軍の司令官が調印をおこなった9月7日、の3通りが考えられます。
国際法上は、両軍の調印をもって戦争の公式な終結としますが、6月23日は「沖縄慰霊の日」ともなっており、この日が「沖縄戦終結の日」という印象が強いかもしれません。
今回の番組では、以下の理由から9月7日を「沖縄戦終結の日」とし、「その時」としました。
①沖縄県が、9月7日の降伏文書調印を、「沖縄戦の公式終結」としていること。
②同様に、沖縄県の施設である「平和の礎(いしじ)」では、沖縄戦の期間を「昭和20(1945)年3月23日から、9月7日」としていること。
③取材した中に、8月の末まで戦闘を続行していた方がいらっしゃいました。牛島司令官は自決する前に、最後まで戦うよう訓令していたため、「組織的戦闘」は終了しても、部隊ごとに抵抗を続けていたのです。
この方の所属していた部隊などが武装解除に応じた結果、9月7日の降伏文書調印となったので、この方のご体験を描く意味でも、9月7日をその時としました。

 基本的には正しい。そして、新資料をもとに23日以降の沖縄戦を描いてたのだが…。

●新たに発見された日本軍の作戦文書とは?
アメリカ国立公文書館(新館)に所蔵されています。一般閲覧も可能です。
請求番号は、RG407/ENTRY427/BOX5352です。
アメリカ軍が戦場で入手し、翻訳した物です。発見したのは、関東学院大学の林博史教授です。
史料名・内容は以下の通りです。

① 「日本軍の防衛召集計画」(中部地区、昭和20年3月6日)
日本陸軍第62師団が、管轄している村ごとの割当数を示した召集計画表。
待機者6940名に対して、5489名を召集する「根こそぎ動員」だったことが判明した。
② 「西原地区における戦闘実施要領」
奇襲攻撃の際の注意事項が記されていた。
例として「服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である」(放送)、
「住民の服を借りてあらかじめ確保せよ」(放送)、「一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人割り当てよ」(放送せず)、「攻撃の案内として現地住民を連れて行け」(放送せず)など。


 沖縄戦というが、この番組で描いたのは「西原地区における戦闘実施要領」のみであり、史実としては、そこに限定されていた。

●西原村の犠牲率47%
人口10881人の内、5106人が犠牲になりました(「西原町史第3巻 西原の戦時記録」より)。

 約五千人についてはわかった。でも、他はわからない。他も積み上げていかなくてはいけないのだと思う。
 なお、番組を見ながら思ったのだが、NHKの取材班は西原町の資料だけを当たっていて、他の南部住民の動きを総合的には理解していない。私は現地の人から実際に聞いて、この番組とは違う住民の動きなども知っている。
 話を少し戻す。先にNHKではこう触れていた。

沖縄県の施設である「平和の礎(いしじ)」では、沖縄戦の期間を「昭和20(1945)年3月23日から、9月7日」としていること。

 では、そこに刻まれている戦死者はこの期間の戦死者だろうか? 違うのだ。また、戦死者名は地域分類と役職分類があり、オーバーラップはどのように排除されているだろうか?
 私はたぶん、その真相を知っているが、ここには書かない。「平和の礎」に行って調べれば誰でもわかる。
 沖縄戦は知れば知るほどわからなくなる。
 話は少しそれるが、先日の、6月7日、宮城悦二郎元琉球大学教授が肺癌で亡くなった。米留組で、米軍「星条旗」の記者となり、73年に大田昌秀現参院議員に誘われて琉球大に来た。90年に法文学部教授に就任。英語の授業は新聞英語が主体だったという。学問的には沖縄の米軍占領史を専門とした。なんどかお会いしたことがあるが、私は、うかつにも彼が名護の生まれであることを、訃報で初めて知った。名護んちゅうだったのか。だったら、訊きたいことがあったに…、いや、まだ生きていて欲しかったと悔やまれた。

2004.06.23 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.06.17

参議院についてのたるい話

 参議院についてたるい話を書く。もともと私は参議院にお笑い集団以上の関心はない。普通に考えても無意味な存在だしな。だが、先日年金法案が参院に回ったときは、もしやという期待を抱いた。誰が考えても、っていうか公明党とかは除くが、あんな法案ダメに決まっている。厚労省はあとから出生率を出して国民の失笑を買ったが、国政をジョークにしてくれるよ、官僚。しかし、参院もまたジョークだった。むなしい。
 あたりまえことだが、参議院の「参議」という言葉は、広辞苑を見るに、字義は「朝議に参与する意」である。朝議は、これもあたりまえだが、「朝廷の儀式」である。参議の歴史的な意味は、その役職だった。


奈良時代に設けられた令外官。太政官に置かれ、大中納言に次ぐ重職で、四位以上の者から任ぜられ、公卿の一員。八人が普通。おおいまつりごとびと。宰相。

それが、表層を古代に模し、内容を欧米に模した明治時代にはこう変わる。

1869年(明治2)太政官に設け、大政に参与した官職。71年以降は太政大臣・左右大臣の次で、正三位相当。85年廃止。

 この役職が廃止になったのは、1889年(明治22)、憲法によって帝国議会として貴族院と衆議院ができたからと言ってもいいだろう。英国の真似っこである。夏彦翁風に言えば、サルがモーニングを着てみたようなものか。
 貴族院を構成していたのは、皇族と「公・侯・伯・子・男」の貴族。天皇を中心とする朝廷の儀式に参加するのは当然貴族である。戦前は字義通りの貴族院だったわけだ。が、これに、多額納税者、帝国学士院会員からの互選者、勅選議員がおまけになる。お恵みである。そんなところだ。こんな呑気な社会でやっていけるのは平時に限る。戦時にはちと変わり、役職としての参議がなぜか復活する。

1937年日中戦争下、重要国務を諮問するために近衛内閣が設置した官職。内閣参議。43年廃止。

 そんな貴族院の歴史はどうでもよかろうと思う人も多いかもしれないが、昭和32年生まれの私が子どもの頃はまだ「貴族様」という言葉にはかすかに意味の面影があった。貴族院を継いだ参議院も近年まで貴族院時代と同じ「公衆傍聴券」を使っていた。
 戦後、当然貴族院は廃止。GHQは、廃止は廃止だから、衆議院だけでいい、と当初想定したのだが、それが覆ったのは、歴史学者によっては、日本側が二院制を主張したからだとしている。
 私はちょっと疑問だな。日本国憲法の英文原点を読むと、nationとstateは使い分けられ、この用法は、どうやら日本国憲法が連邦憲法を想定したように思われるからだ。もう一つは、GHQは当初から天皇の残存を決めているので、英国のようにするのがいいと思っていたのではないか。
 いずれにせよ、GHQは考えを変え、「じゃ、二院でもいいかぁ」として、それなら、英国式に両院不一致の立法については、下院(衆院)で三回可決し、一年ほど経過したら、上院(貴族院・参議院)の決議にかかわらず成立としたらいいんちゃう、と思っていたようでもある。が、それも変わって、どういうわけか今のようになる。わけわからん。
 現行では、近代国家らしく、当然、下院(衆院)の優位がある。立法も下院=衆議院だけでできる。が、その場合でも衆院議員三分の二の多数を必要とするから、現実的には単独で立法はできない。週刊こどもニュースが以前子どもに嘘教えて謝っていたが、しかたない面はある。それと、余談みたいな付け足しだが、参議院にはなぜか首相の指名権がある。よくわからん。なにがよくわからないか? 憲法はどういう思想で参議院を規定しているのか、ということだ。
 先に日本国憲法はもともと連邦法ではないかと書いたが、基本的に二院制を取るのは地方の法の独立性が高いためでもある。連邦制国家である米国、ドイツ、ロシア、カナダなどは、下院が個々の国民を代表し、上院は各州を代表するようになっている。フランス上院はちょっと変わっていて、というかよくわからないのだが、下院議員と地方議員からなる選挙人団などによる間接選挙らしい。イタリアは、日本に似ているが両院は対等になっている。これもよくわからない。イタリアを理解しようとするのは無駄だが。
 とはいえ、こういうのは法理論上の問題ではなく、歴史の問題なのだろう。現在の世界の国の約六割は一院制と、むしろ二院制が少ないのだが、サミットなど自由主義側の主要国はみな二院制を取っている。残念なことは、日本のこの半世紀はその歴史になっていない、ということだろう。やめようぜ、と言ってもいいのかもしれない。
 たるい話はこれで終わりにしようと思ったのだが、ふと気になって、英辞郎で「参議院」の英語をひいてみる。やっぱり、"House of Councillors"、"Upper House"である(theが付くが)。で、"House of Councillors"の英語を日本語にすると、ちゃんと「参議院」に戻る。ふーん。ついでに「衆議院」は"House of Representatives"となり、逆引きすると、「衆議院、下院」になる。ちなみに、英語の上院は、"senate"である。対応しているのかどうか、これもよくわからない。制度が違うってことか。
 制度と言えば、米国の両院の上には大統領がいて、こいつがvetoつまり、拒否権を持つ。由来はラテン語の「私は禁じる」らしい。ローマ帝国の名残りというかパロディだ。vetoは元来ローマ部族時代の護民官が持つ権限だったが、帝国になり皇帝の特権となったものだ。まぁ、そんな歴史の話はどうでもいいが、英文を読んでいるとなにかと、vetoが出てくる。
 なんか、こーゆーvetoみてーなものは、日本人にはわかんねーよな、と思っていたが、今回の年金法案のような愚法を拒絶するためのものだろう。それが日本にはない。
 っていうか、こういうとき、近代市民はvetoの代わりに暴徒になってもいいんじゃないのか、って危険思想かね? 

2004.06.17 in 歴史 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

2004.06.06

天安門事件から15年

 4日夜に香港で行われた天安門事件犠牲者追悼集会は返還後最大規模となった。15周年という区切りを意識してのことか、香港における民主化運動が高まりという意味か。私には後者のように思われるが、それは香港返還記念日の大規模デモで様相がくっきりとしてくるだろう。当然ながら、当の天安門はこの間、戒厳令に近い警備下に置かれ、なにごともなかったようだ。
 日本国内の報道も、香港の追悼集会を報道するに留まった。日本国内ではこの問題の関心は薄い。かく言う私にしても、率直なところ、単純に中国の民主化を支持できるというものでもない。そうでなくても社会インフラがいまにも崩れそうな中国は世界経済の爆弾のようにすら見える。
 天安門事件の解明についても、ほぼ「天安門文書」でケリがついており、また、当時の事件に関わった学生も、この10年間でその存在基盤を失っているかに見える。極端な様相としては、新しい中国の世代が国粋化していくなかで、事件の世代は馬鹿な米国かぶれということにされていく。
 ニューズウィーク日本語版6・9に寄稿された王丹の「天安門事件のたった1つの教訓」も読み応えはなかった。王丹などすでに象徴でしかなく支持している身近な同士はないのかもしれない。それにしても民主化への希求は弱く、むしろ共産党への断罪に執心している。無難すぎる。政治的には奇妙な違和感も感じた。


 89年には多くの人が趙紫陽に望みを託していた。だが天安門事件の直後、彼は共産党総書記の地位を追われた。92年以降は朱鎔基に期待が集まった。そして今、われわれは胡錦涛国家主席と温家宝首相の指導力に期待している。

 ジョークなのだろうか。それとも、これが中国の政治の現実というものだろうか。そうなのかもしれない。胡錦涛はうまく江沢民を出し抜くのかもしれない。
 王丹が当初の期待としていたのは当然ながら趙紫陽だったが、今回の追悼集会関連のニュースでは奇妙なほど、趙紫陽の名前を耳にすることが多かった。香港では未だに趙紫陽への人気が高そうなのだが、率直なところ私には不可解な印象もある。今さら趙紫陽が復権するということはありうるのだろうか。90年代後半あれだけ期待を持たされて、結局つぶれてしまったというのに。
 しかし、ことが中国だけにきな臭い線が捨てきれない。端的に言えば、趙紫陽は実際の権力を裏で掌握している江沢民降ろしのための御旗に過ぎないのではないか、とは思う。それを伺わせるニュースもある。産経系「天安門事件 党内で映像回覧のナゾ 「無関係」江氏アピール?」(参照)をひく。

【北京=野口東秀】中国の民主化運動が武力弾圧された天安門事件(一九八九年)について、中国共産党宣伝部は当時の経緯を映像記録でまとめたCD-ROMを作成した。幹部向けの内部資料として回覧されているが、資料作成の真意をめぐっては、弾圧正当化の公式見解を若手幹部に刷り込むものか、あるいは事件後総書記に抜擢(ばってき)された江沢民中央軍事委主席が事件の再評価に備えて自身の生き残り工作を始めたのかなど、評価が二分されている。

 このニュースはこうコメントを付け加えてもいる。

 事件後、上海市の党委書記から党総書記に抜擢された江沢民氏は、弾圧にはタッチしていないものの、趙紫陽氏の失脚によって政権を委ねられている。事件評価の行方は、江沢民政権の合法性にかかわる問題だけに、弾圧に「無関係」と訴えるだけでは事件再評価への江氏の備えはまだ薄弱とみることができる。

 産経新聞的な勇み足のコメントなのか、あるいはなんらかの裏の感触があるのかわかりづらい。
 この機に天安門事件について新聞のデータベースを当たってみて、当たり前のことのようだが、記事がリアルタイムにDB化しているのに呆れた。歴史がこのように電子化されるものだろうか。ハンガリー騒動が、こうして電子的に検索されたらさも面白いだろうとも、少し思った。
 天安門事件の経緯をDBを通して、今の時点でざっと眺めていくと、すでに天安門文書が出た現在でも、鄧小平という人間はわかりづらいな、という印象を持った。彼が即座の弾圧に及んだのは間違いないのだろうが、趙紫陽を切ったのは、思想の相違というか権力への勘だったのだろうか。あるいは、解放軍との関連でやもうえないという判断だったのか。さらに資料を遡って眺めていくと、天安門事件がなくても趙紫陽は屠られていたようでもある。
 趙紫陽がこの間生き延びてきたのは、中国の歴史を見れば、不思議でもない。口を割らないかぎり、責めることができないというが中国の歴史だ。最初に剣を血で塗った人間がえんがちょ、じゃないが、弱くなる。誰も手出しができない。
 さらにDBを見ていると、鄧小平は最晩年、趙紫陽が復権できるように画策していたという話もある。まったくのガセでもないのだが、そうした脈絡が今でも生きているということがあるのだろうか? 中国という国はわからないものだと思う。

2004.06.06 in 歴史 | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

2004.05.27

インド下院選挙とソニア・ガンジー(Sonia Gandhi)

 インド下院選挙についてなにか書こうと思っているうちに状況が変わり、書きそびれていた。それに、率直のところ、私にたいした話があるわけでもない。むしろ、以前BJP(インド人民党)が台頭してきたとき、当然とはいえ、危機感を抱いていたくらいだ。それが杞憂に終わったのだから、失礼な言い方だが、インド人は想像以上に賢いものだと思った。
 インド下院選挙(定数545)開票が13日に始まったものの、私はそれほど関心はなかった。寄り合い所帯(国民民主連合)とはいえ、経済政策をうまくこなしているBJPの優位に変化はないだろうと思っていたからだ。もっとも、コングレス(国民会議派)が押してくれば、日本の公明党のように小さい政党の動きで大きく政治勢力が変わることになる。が、蓋を開けてみると、意外にコングレスがリードして、むしろ、そうした不安定要因をコングレスが抱え込むことになった。
 ここで私はあれ?と思った。ソニアが首相になるわけはない、と私も思っていたのだ。彼女はイタリア人だし…というわけだ。もちろん、それは間違った言い方で、国籍はインド人である。だが、あの顔を見たら、ヒデとロザンナじゃん、と思っていた。つまり、私は最近のソニアの顔を見ていなかったわけだ。が、この機にネットなどで見るに、おお、ちゃんとインド人らしい体型だし、義母みたいな雰囲気ばっちしじゃん。これならいけるかも、と思い直した。が、やはりダメだったな。だめだよなと思うあたりが、どこかで自分の感性がインド人になっている。
 老婆心ながら、 ソニア・ガンジー(Sonia Gandhi)は、1946年イタリア生まれ。ラジブ・ガンジー首相の夫人。結婚は1968年。その当時、ラジブはパイロットであり、ソニアもインド国籍を取っていない。ラジブは、首相だった母インディラの暗殺を契機に政界に入り、1984年に首相となる。この機に妻ソニアもインド国籍を取得した。ラジブは1991年に暗殺された。夫の意志を継いでソニアが正式に政治活動を始めるのは、1997年にコングレスに入党してからのことだ。すぐに同党総裁となる。渡る世間は鬼ばかりどころではない陰惨な歴史だ。
 ところで、今回の選挙のニュースでは、日本と限らず、「ガンジー王朝」とかいう洒落をよく見かける。反面、日本のニュースなどでは、ガンジー家は、建国の父マハトマ・ガンジー(マハトマという言い方には私はちょっと抵抗があるが)の一族とは関係がないよ、と注釈が付く。この関係は今の若い人たちに理解されているのだろうか。

cover
父が子に語る世界歴史
 ん? それ以前にネールのことを知っているかすら、気になってきたぞ。今の高校生って「父が子に語る世界歴史」とか読んでないかもしれないな。絶版かと思って調べるとまだ大丈夫だ。出だしが泣かせる。

お誕生日がくると、おまえは贈りものをもらったり、お祝いのことばを受けたりするのがならわしだった。けれども、このナイニー刑務所から、わたしはなにを贈りものにしたものだろうか?

 かくして、14歳の一人娘のインディラちゃんは獄中のパパから200通の手紙を貰った。こってり世界史を教えてくれる手紙だった。パパっていうのはこうでなくちゃな。
 ジャワハルラール・ネール(Jawaharlal Nehru,1889-1964)はインド独立運動の指導者の一人で、イギリス支配に抵抗し9回も投獄された。その娘がインディラ・ガンジー(Indira Gandhi,1917-1984)。彼女もインド首相となった。が、先にも触れたように1984年にシーク教徒に暗殺された。
 彼女がガンジー姓なのは、だんなのフェローズ・ガンジー(Feroze Gandhi)によるもの、なのだが、フェローズがガンジー姓を持つのは、インディラとの結婚を機にしたものだ。それまでは、カーン(Khan)姓だった。なぜフェローズがガンジー姓になったかというと、よくわからないのだが、マハトマ・ガンジーの養子となったとも言われている。が、別説もある。細かいことを忘れたのでぐぐってみると、あった。"Nehru-Khan-Gandhi dynasty"(参照)によると、フェローズは"GHANDI"という姓(正確には姓とは言えない)を持っていたが、マハトマが洒落で現在の"GANDHI"としたとも言われている。この説は案外信憑性がありそうで、どうやら、フェローズの母はGHANDI姓のイスラム教徒だったとのこと。"GHANDI"は宗教名だったのかもしれない。なんだかトリビアの泉ネタだが、日本では受けないだろう。
 話を今回のインド下院選挙に少し戻すと、結局、ソニアが首相を辞退し、マンモハン・シン元財務相が指名された。おっと、シンかよ、って、プロレスじゃないのだが、シンとくればシーク教徒である。つまり、ソニアの義母を暗殺したシーク教徒を立てるあたり、お見事。初のシーク教徒の首相だ。というか、そもそもソニアが辞任したのは暗殺を避けるという含みもあったのではないだろうか。
 ここで、唐沢なをきの好きなチャヒルをダシにシーク教徒の話を書きたい気もするがやめとく。が、一言だけ、あのターバンを巻いているインド人はシーク教徒で、ヒンドゥー教徒はターバンを巻かない。ちなみにあのターバンの中身は…おっとこの話はまた。
 インド国民としては、シーク教徒の首相を選んだんじゃないよという感じもあるかもしれないが、むしろこれがうまく行けば、さらにインドは近代化を進める契機にはなるだろう。
 問題は、各種ニュースでも言われているように貧困問題だ。ニュースではあまり報道されていないようだが、厚生行政の課題も多い。コングレスの復権はこうした社会問題への対応を背景としている。こうした取り組みに積極的な共産党も62議席と少なくない。
 シン首相率いるインドはどうなるのだろうか? この問題を扱った20日のフィナンシャル・タイムズ"Incredible India and its reformers"はインドの近代化(世俗化)を評価していた。

If Mr Singh becomes India's first Sikh prime minister, there is no reason why politicians who back the Congress party's secular vision of India would want to weaken the government or allow the return of the Hindu fundamentalist BJP. Nor will they necessarily feel the urge to reverse reforms begun by Congress and built on by the BJP. On the economic front it may be business as usual.

 もっとも、フィナンシャル・タイムズは、大衆はソニアを求めているのだが、というふうな指摘もしていた。
 私はといえば、率直なところよくわからない。BJP台頭のときの懸念も一応杞憂に終わったので、なんとも言えない。だが、感覚的には、シン首相の行政はかなり困難なことになるのではないか。というのは、インドの大衆はどこかでインディラ時代のモデレートな社会主義的な期待を抱いているのではないかと思うのだが、それを許す世界ではないからだ。

2004.05.27 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.05.25

ロシア正教の現代の動き

 たまたまニュースを見ていたら産経系「海外のロシア正教会、本国総主教と初会談 80年ぶりの和解へ一歩」(参照)が面白かった。海外に分散するロシア正教会がロシア内の正教会組織と和解を始めたというのだ。と、書いてみて面白いと感じる人はもしかすると少ないのかもしれないなとも思った。
 私の感じでは、ロシアとは正教と分けて考えることができないものだ(もう少しいうと米国のロシア文化はユダヤ文化の側面も強いのだが)。ロシアがソ連となっても、世界に散らばったロシア人は正教をもとにロシア人であることを捨てることはなかったし、むしろ、19世紀的な骨格を持つその知識人たちは欧米化する現代文化に戸惑いも隠せなかった、と思う。
 先日、NHKでたしか「ラフマニノフ・メモリーズ」という番組を見て面白かったのだが、ラフマニノフのロシアへの思いが切々と綴られていた。あの感じは、もしかするとわかる人にしかわからないのかもしれないのだが、私は勝手に思い極まってなんども泣いた。どうもパセティックな話になるが、私の魂の根幹にはアリョーシャ・カラマーゾフがいるようだ。私の人生とはゾシマ長老が彼に命じたこの実践でもあった…てな思いがある。私の心は、今でもイワンのようにシニカルになり、ミーチャのように俗世に狂い、スメルジャコフのように悪の衝動に駆られる…が、酒も飲めなくなったのでフョードルや、話は違うがマルメラードフのようにはならないだろう…ま、そんな感じだ。1957年生まれの私がなぜ1950年代の左翼崩れのロシア好きになっていたのか、今となってはよくわからない。サブカル的には、「サイボーグ009」「宇宙戦艦ヤマト」などにもあの雰囲気はある。「アンパンマン」ですらある…なんだかな、というところで、身近に10歳年下の女性がいるので「ステンカラージン、知ってる?」と訊く。「襟の色?」 話になりませんな。
 ロシアには行きたいと思いつつ、行ったことがない。トランジットでモスクワ空港で夕日を見ながら、そんなタイトルの歌があったよなとか思い出したくらいだ。そんな話をアテネのギリシア人に言ったら、是非ロシアに行きなさいと熱弁していた。その熱気がなんか面白かった。ギリシア人の庶民にしてみると、ギリシア正教とロシア正教はあまり違いがないのかもしれない。
 正教について語ることは難しい。「多様性の中の同一性」というギリシア語のイオタ一個に延々たる神学的議論がある…というくらいだ。だが、困ったことにきちんと語ることが、必ずしも正しくない、と言うと、詳しいかたに当然教義的に批判されるだろう。このあたりは、エバンジェリックの人たちと似ていて、通じねーところだ。ちなみに、ぐぐってみると、「東方正教会とアトス」(参照)というページがあり、よくできているのだが、基本的にギリシア正教とロシア正教の関連や歴史が、神学的な教義面で書かれていて、かえって実態がわかりづらいように思う。
 いきなり厳しい話に飛ぶが、コプト教会や、イラクなどにもいるネストリアンたちについて、現在の正教はどう考えるかというと、ほとんど何も考えていない。異端というくらいだろう。ただ、西洋世界のような気違いじみた異端の概念ではなく、むしろ、普通のイスラム教徒が異教徒を見るような感じだろう、と書きながら、日本も結果的に含まれる西洋世界は、イスラムと言えば、アラブ・イスラムばかりでちょっと辟易とする。少し話を戻すと、米国のネストリアンは以前調べたとき、正教に吸収されている面もあるとのことなので、今後は消えてしまうのだろうか。いずれにせよ、キリスト教史という総合のなかで正教をどう位置づけるかという関心が正教側にはない、というか、そういう疑問が彼らにはない。もっとも、カトリックにもプロテスタントにもないので言うにナンセンスなのだが、キリスト教史において正教がもっとも本流なのだから、そういう脱宗教化があるといいとは思う。
 私は正教について語るほどの知識もないのだが、そういうわけで、だから逆に、資料もなくざらっと書いてみたい。まず、冒頭のニュースをひくのがよいのかもしれない。


【モスクワ=佐藤貴生】「無神論に迎合した」として、旧ソ連時代から約八十年にわたり本国組織と関係を断絶してきた海外のロシア正教会が、ロシア国内の正教会組織と初のトップ会談を行い、和解に一歩を踏み出した。具体的な取り組みの第一歩として、内外の両組織はスターリン時代に大粛清の舞台となった処刑場跡地での教会建設に着手したが、社会主義政権が残したしこりを取り去るまでには時間を要するようだ。

 ニュースとしてはそういうことだ。具体的には、こう。

 「海外ロシア正教会」のトップを務めるラブル・ニューヨーク府主教は、ロシア正教会総主教のアレクシー二世と今月十八日にモスクワで初の公式会談を行った。この会談で、アレクシー二世は「政府は現在、教会に介入せず、教会は自由な存在だ」と述べ、信仰の自由がロシア国内で保障されたことを強調した。
 両トップは、スターリン時代に大粛清の現場となったモスクワ南郊のブトボ射撃場の跡地を訪れ、三万人ともいう犠牲者に祈りをささげた。ここに建設される「ロシア受難教会」の起工式で、アレクシー二世は「テロの犠牲者に対するわれわれの義務は、同じことを繰り返さぬよう信仰の下に国民が結集することだ」と話した。

 同記事にもあるように、政治的にはプーチンの思惑といった読みも当然でて来るのだが、まぁ、それほど政治的な話でもないだろう。むしろ、こうしたニュースを西洋社会は、ついカトリック(the Holy See)との比喩で考えがちなのではないか。つまり、ロシア正教が教皇といったふうな理解である。が、これがまったく違う。正教というのは、そういう頂点を持たない。ある意味、原始キリスト教というかヘレニズム結社というかある種の長老制(これがプロテスタントにも組み入れられている面はある)というか、恭順の組織性というか、そういうものだ。
 ついでに言うと、教皇というのは、元来ローマ皇帝のことで、西洋史ではビザンツとして奇妙な扱いをしているが、通称ビザンチン帝国とはローマ帝国のことであり、ギリシア人というのはローマ人のことなのだが、というとほとんど混乱してしまうだろう。というか、それほど西洋史は近代以降錯誤を繰り返している。この点、ロシアの皇帝は、モンゴルの系統を引いているので、話はさらに難しい。
 さらについでが、カトリック(the Holy See)の組織は命令の関係でできているが、正教の組織性は、そうとばかりも言えず、その最たるものは隠者が多いことだ。歴史的見るとこの隠者たちはスーフィズムと関連がありそうなのだが、オカルト系以外では研究を見たことがない。というか、西洋ではオカルトは日本でいうオカルトではないのでそれでいいのかよくわからないが、それでも教義面や神秘学への偏りが多すぎる。さらに余談に暴走するのだが、スーフィーズムが現代イスラムのなかでどのように位置づけられているのかも、よくわからなくなった。
 話が散漫を窮めることになったが、ロシアなら正教かというと、そのあたりはそう簡単でもない面もある。すでにウクライナは独立しているが、ここでは、ウクライナ正教はあるものの、むしろ宗教的にはカトリックが特徴的だ。困ったことかそうでもないのか、ウクライナ正教はモスクワ主教の系列に入るが、ウクライナ独立でキエフ主教ができている。むしろ、今回の和解は、こうした面での影響も出てくるのではないかなと思う。
 フランシス・フクヤマなどはヘーゲルを借りて原理的には現代は歴史が終焉したというし、確かにそういう面はある。さらにそれがITと結合し、すでに日米のマスカルチャーには歴史が見えない。ただの洒落だが、日本の若い娘のファッションを見ていると究極のニヒリズムとしての永劫回帰のようでもある。また、アラブ・イスラムの台頭で文明が衝突するというな洒落もある。だが、実際は、歴史終焉の前で、西洋史の大きなぶり返し時期ということなのではないか。あるいは、ロシアというのは、むしろ19-20世紀の遺物の挑戦かもしれない。あー、古くせーと笑えるならいいのだが。魂を失った我々にはきつい相手かもしれない。

2004.05.25 in 歴史 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

2004.05.11

47氏が見たラジカルな世界

 話は、昨日のテーマ「Winny開発者逮捕は時代錯誤」(参照)の続きのようだが、私自身の思いとしてはそうでもない。率直なところを言えば、47氏が、「逮捕はしかたがないでしょう」と確信していることに、少し衝撃を受けた。
 「少し衝撃を受けた」というのは矛盾した言い方だ。率直に「衝撃を受けた」と言うべきなのだろうが、「少し」の部分に少なからぬ思いがある。私なりにある程度背景的な知識をもっていたからまったく新しい事態ではないということもあるが、問題の深みに自分が鈍感すぎたことへの悔やみがある。
 大げさな表現になるが、47氏の逮捕によって表明された「逮捕はしかたがないでしょう」というのは、現在の日本社会への本質的な、もっともラディカルな批判なのではないか。それに比べれば、ま、比べなくても、私の考えなど、ぬるすぎ、だ。「少し衝撃を受けた」というのは、ぬるい私だから、少ししか衝撃が感じられなかったということだ。
 たるい言辞を弄せず、現状思うことを書きとどめておきたい。自分の考えがよくまとまっていないのだが、これほどまでに、思想的な挑戦を受けたのは久しぶりに思える。
 47氏の言動は、明白なラジカリズムなのだ。これは、現代において、アナクロニズムでもなく、カリカチャライズされなくても、ラジカリズムが可能であることを明白に示している。このラジカリズムによって日本国家の限界がくっきりと対象化されてしまった。
 拙い言い方だが、自由に生きたいという根源的な欲望に対して、日本の国家は今回の京都府警のように抑圧者として立ち現れてきた。「著作権違反は悪い、だから、むしろ権力で取り締まるのことが自由を保障する」とは言える。だが、昨日からゲロっとWinnyの利用者が減った状況に、俺のキンタマ縮こまってんじゃん、と率直に思わないわけにはいかない。それどころか、「おや? おれのキンタマどこ?」的恐怖を意識の対象とせざるを得なくなった(Winnyウイルスのことじゃないが)。問題はだから、Winnyをがんがんやれ、ということではない。こういうキンタマ縮こまりが意識のなかで対象化し、それが国家の相貌を持っているということだ。その相貌に私の自由への欲望は、むかつく。
 そのむかつく状況への裏付け説明というわけではないのだが、デジタルコンテンツに対する著作権というものが国家的な恐怖の相貌を持つことは、技術の理想論から言えば、テッテ的に間違っている。
 昨日NHKの報道番組を見ていたらWinny問題と著作権についてどっかの弁護士がぬぼっと出てきて「デジタルコンテンツを守る技術が必要です」みたいな阿呆なことを言って脱力したのだが、デジタルコンテンツの著作権を守る技術、というのは、レトリックに過ぎない。このあたり少し粗雑な議論になるのだが、「著作権」を変更しなければいけないのだ。
 もちろん、そうした著作権を考え直すという思索は試みられている。例えば、スタンフォード学ローレンス・レッシグが提唱するクリエイティブ・コモンズライセンスなどだ。あるいは、ストールマンのコピーレフトとなどもそうだろう。ま、フツーの学者さんなどは、そのあたりをしれっとまとめて偉そうに言えばいいのだろうが、はて、と、考えると、それは依然、オリジネーターという個人と国家的な権力を結合する(マーケットメカニズムではない)という意味で、根本的な錯誤を含んでいないか?
 47氏は、おそらく、Winnyを作り上げてから、そこに気が付いたのだと思う。そこというのは、デジタルコンテンツの持つの本質、というか、その真理についてだ。そして、真理が見えてしまった以上、現状、つまり国家と癒着した著作権のマーケットは虚偽にしか見えなくなったのだろう。
 すでにネット上では消えているが、47氏は「Winnyの将来展望について(2003/10/10)」(参照)には次のように、思索の過程を残している。


1.はじめに
 ここのところバージョンアップ無しですいません。いろいろ首突っ込んでいるので忙しいのと、ここのところ疲れ気味なのと、別に考えているのがあるのと、現状のWinnyであまりやりたいネタが無いということでWinnyの方は放置になってます。

 まず、言えることは、47氏は現状のWinny自体にはそれほど関心を持っているわけでもないということだ。問題は次だ。

4. コンテンツ提供者側の集金問題
 話変わりますが、最近私の方ではコンテンツ流通側とは逆側のコンテンツ提供者側に関するシステムについて考えてることが多いです(コンテンツ提供者向けのシステムであって、よくあるようなコンテンツの保護技術に興味があるわけではないので注意)
 そもそも私がファイル共有ソフトに興味を持ったのは、当時ファイル共有ソフト使用ユーザーから逮捕者が出たということ(これは明らかに変だと思った)というのもありましたが、どうやったらコンテンツ作成側にちゃんとお金が集まるのか?ということに、もともと興味があったからです。
 インターネットの一般への普及の結果、従来のパッケージベースのデジタルコンテンツビジネスモデルはすでに時代遅れであって、インターネットそのものを使用禁止にでもしない限りユーザー間の自由な情報のやりとりを保護する技術の方が最終的に勝利してしまうだろうと前々から思ってました。そしてFreenetを知って、もはやこの流れは止められないだろうと。

 これは当たり前のことを言っているのだ。これが当たり前ということは、恐ろしい意味を持つ。恐ろしいというのは、先に触れた国家との衝突だ。
 47氏の逮捕にあたって、私はこれは不当な逮捕であり、それがいかに不当かということにまず思いを巡らした。それが昨日の「Winny開発者逮捕は時代錯誤」だ。しかし、実は、そんなことはまるで本質的な問題ではないことを、47氏の確信犯的な言動から思い起こした。「話は変わりますが」とさらっと書いているので余談のように思い、ふんふん、そーだよねで、読み過ごしていたが、ここに問題の本質があった。
 「インターネットそのものを使用禁止にでもしない限り…」というのはなんと正確な歴史認識なのだろうか。なにもARPAの歴史からひもとくことはしないが、インターネットを以前私たちは「土管」と呼んでいた。なにを通すか? そんなことはご自由にということだ。それはコミュニケーションのための土管なのだ。しかも、本質的に超国家的な土管だ。その後、HTTPがインターネットのプロトコルの主流のような時代になぜかなった。そのHTTPのブラウザ表示のせいか、ブロードキャストのようにも理解されるようになったが、それはプロトコルの可変性というか、インターネットの本質のちょっとした現れに過ぎない。インターネットという土管はプロトコルの合意があれば、なんでもいいのであって、通じたいなら守ればいいというだけだ。国家的な支配のルールとは違う。守らなくてもいい、でも、それなら通じないかも、というだけだ。駄言が多くなったが、Freenetこそ、インターネットの本質を露わにする本命なのだ。
 47氏は明確に考えていたのだ。というか、これこそラジカリズムだ。

 まぁそう考えて2ちゃんの某スレで書いたは良いが、冷静に考えるとJavaで書かれているFreenetそれ自体はどうやっても実用的でなく、一般に広まらないだろうということで、衝動的に設計部分から煮詰めなおしてWinny作ってしまいましたが(私はJava信じない派)
 ここで私はこういうFreenet的なP2P技術が本質的にインターネットの世界では排除不可能と考えていますし、その事実が認知されていけば必ず自然に別のビジネスモデルが立ち上がってデジタルコンテンツ流通のパラダイムシフトが起こるだろうと考えていました。もしこの問題がクリアできなければインターネットそのものを学者などだけへの許可制にして一般では使用禁止にするしかないだろうとも。よってこれが将来インターネットでキーになる技術であろうと。

 Freenetこそ本質なら、それが歴史の地上に生み出してしまえというのは、哲学と実践のもっともまともな結合である。Freenetの意味がわからないなら、目の前に見せてやればいい、というわけだ。そして、私たちはそれを見たのだ。
 問題は、逮捕なんてことではない。それが「その事実が認知されていけば」という事実を認識したか、ということだ。私たちに思想的にきつい課題になったのは、それが事実なのに、事実として認識できないという、ぬるさなのだ。
 47氏が「逮捕はしかたないでしょ」としたのは、すでに彼の真理の知覚では、現状のほうが歴史の過去になっていたからだろう。それで、世間の処遇がどうなろうと、くだらないことでもあったのだろう。
 私は…とここで私を想起する。私は、47氏を賞賛しているのか? もちろん。心酔しているのか。そこは、むずかしい。
 私は、47氏はラジカリズムであると考える。私が47氏と、ある一線を引くとすれば、ラジカリズムということだ(才能不足は抜きとしてだが)。
 ちょっとたるい余談のような話になるが、日本の歴史は浄土教を徹底的に解明しないかぎり見えない(だが解明されていない)。特に、浄土教は多数のラジカリズムを生んだ。死=浄土という真理が知覚されたとき、ラジカリズムは「とく死なばや(さあ、死のうではないか)」という運動を生み出した。こうした日本史のラジカリズムは皮肉な形かもしれないが欣求浄土という形での安定体制を生み出したが、思想はむしろ、残された。浄土教の中心の親鸞は、「とく死なばや」を無化した。
 ラジカリズムには、独自の本質的な欠陥があることを私は思想的なものに関わってきたから防衛的に知っている。小賢しい言い方をすれば、破壊を先行させたとき、大衆はその破壊の線上にはついて来れない。それは、共産主義国家を批判したハイエクの思想などにしつこく描かれている。
 47氏についていえば、新しいFreenetの現実から、新しい著作権を歴史に強引に受胎させようとした。彼は、その先に「デジタル証券システム」(参照)という、著作権に変わる構想もあった。
 が、ラジカリズムらしいのは、その構想、つまり、希望の種を荒野に撒いたことだろう。新しい荒野が現実となっても、そこに種を撒くには、荒野を荒野と認識した上で開墾が必要になる。その機能はWinnyにはまだ組み込まれていなかった。
 地域通貨のような仕組みと、デジタル証券システムのような仕組みを、Winnyに追加する天才が出るとき、47氏は「無罪」となるのだろう。
 残念ながら、歴史は、47氏に続く天才を必要としているようにも見える。

2004.05.11 in 歴史 | 固定リンク | コメント (23) | トラックバック

2004.05.07

鉄人28号

 リメークの鉄人28号(参照)を毎週見ている。5回が終わった。前回あたりから話がちとたるくなってきたかなというのと、今回に顕著なのだが、見え見えのオチをひっぱるひっぱるの脚本はなんだろと思う。だが、ふと考えてみると、このプロットのノリも、作画と同じでレトロのパロディなんだろう。アレだ、黄金バットを思い出してもらいたい、って、思い出せるやつなんか、いねーって。かく言う私もその世代ではない、が、その雰囲気はわかるぞ、ローンブロゾー!
 そういえば、ショタコンという言葉の元になった正太郎だが、今回の作画はかなり正太郎にリキが入っている感じだ。基本的にオリジナルを踏襲しているわけだが、この作画の美観っていうのは、アレだ^2、赤胴鈴之助を思い出してもらいたい、って、思い出せるやつなんか、いねーって。かく言う私もその世代ではない、が、その雰囲気はわかるぞ、剣を取ったらニッポンイチ…そういえば、トリビアの泉の日本刀とピストル勝負ネタは不覚にも感動してしまった。物理屋的に考えればわかりきった結果ではあるが、技術屋的に言えば、個別の日本刀の構造が理論どうりであるとは限らない。タモリも不覚にも熱くなっていたあたりが、笑えた。日本刀の精度について、も一度考え直してみたくはなった。と、余談ついでに言えば、日本刀っていうのは、魚包丁が原型で、あれは和冦の武器なのではないかと思うが…と話、それまくり。
 今回の鉄人28号を見ていると、なーんでもないシーンで、自分が熱くなり、そして泣けてしまうことがある。なんつうか、戦前の科学っていうあたりだろうか。死んだ父の兄、私の叔父伯父は、二十二、三歳くらいでインパールで殺されたのだが、彼は無線技士だった。私の父もエンジニア志向の青年だった。そうしたせいか、なにか、ああいう戦前の科学を想起させるものは無意識にズンとくる。
 このリメークの鉄人28号がどういうふうに今の日本社会に受け止められているか気になる。そうだ、はてなダイアリーには言及が多いだろうと思って、みると、うーむ、多いといえば多い(参照)んだけど、なんつうか、アニメ世界にヲタ過ぎ。かく言う私だって、元版の鉄人28号を見ていた口で、つい、グリコグリコグリコーとか口をつくくらいだから、ヲタ話もできねーわけじゃないけど、モンスターを緑色にすんなよとか、っていうか、なんというのか、この系譜学的な考察とか、映画評論ばりに監督がどうのだかいう説明言説って、なんなのだろう。なにも単純に批判しているわけじゃないんだけど(だからウンコ飛ばしはナシ)、橋本治とか昔、少女漫画対象に評論をやっていたころは学問的なパロディだったけど、現在では…、うーむ、よくわからん。ただ、今回の鉄人28号を見ていて、歴史感覚というのはかなり大きなポイントだなとは思う。というわけで、なんことはない、私も勝手に私なりのヲタ話になる。
 今回の鉄人28号では早々に不乱拳博士を殺してしまうのだが、不乱拳博士の懊悩は、多分に731部隊(参照)のパロディでもあるのだろう。ただ、この731部隊は遠藤周作の「海と毒薬」的な文学的な反照であり、現実の731部隊は、内藤良一がミドリ十字創立し、そして…という展開を辿る。そのほうが、戦争という不気味なものが現代まで覆っている姿なのだが、今回の鉄人28号はそこまでの物語あるいは脱物語的な射程を持った象徴でもないだろう。ただ、731部隊の多数は、その後の日本の医学界の中心を担っていくという意味で、広義に今回の不乱拳博士的な部分はあるのかもしれない。
 不乱拳博士が金田博士とライバルだったということや、敷島博士という名称にも特に過剰な読みは必要ないのだろうとは思う。不乱拳博士は漫画らしいネーミングというわけだ。が、それでも、金田姓ときいてなにもピンとこないわけにはいかない。まして、その弟子が「敷島」というのも暗示的過ぎる。あまりこの話はツッコミたくはないが、金田、新井、井川といった姓にピンとこない日本社会というのは、まさに戦後ではあるのだろう、が…と少し口ごもる。うまく言えない。そのうまく言えない暗さの部分は、今回の鉄人28号とかなり基本的なところで、重なる。敷島博士が「しかたがないとしか言えない」というのだが、そのあたりの屈曲した感じだ。
 物語はこれから冷戦の世界の枠を重ねていくのか、単に漫画的な世界を洗練していくのかわからない。奇妙なノスタルジーだし、意外に、ノスタルジーというのは、昭和32年生まれの私など、こういうふうに暗く想起すべきなのかもしれない。今でも思い出せるが、幼稚園児の私は帰りのバスを待ちながら、地面に鉄人28号の絵を描いていた。あの幼稚園は、たぶん、兵舎の払い下げだったのだろうと思う。

2004.05.07 in 歴史 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

2004.03.30

The high ideals controlling human relationship

 どうせそう簡単に答えはでないだろうと思いつつ、日本国憲法前文の"the high ideals controlling human relationship"という表現が気になってしかたない(「試訳憲法前文、ただし直訳風」参照)。少し愚考したので書いておく。
 一番の疑問は、なぜ"control"という妙ちくりんな言葉が使われているのかだ。
 それと、the high idealsという表現も少し気になる。こちらは、ちょっと考えると、theの語感から、単に文脈を受けているだけなのだろうが、複数形になっているidealsは列挙するなら、なんなのだろうか? "a universal principle of mankind"は単数形なので、これを直接受けているわけではない。そして、これが相当しないとなると、それ以前の部分がidealsに含まれるわけにもいかない。端的に言えば、"a universal principle of mankind"は「主権在民("sovereign power resides with the people")」ということだろう。
 このidealsは、"human relationship"をcontrolする機能を持つのだから、その側面の意味の反映を受けるわけだ。すると、"human relationship"とはということに、少し話を持ち越す。
 "human relationship"は難しいと言えば難しいが、人間というのは利害が対立するから司法があると考えれば、それほど難しい概念でもない。刑事的な場合は正義だが、民事的には利害と言っていい。どちらかといえば、ここでは、「利害」の意味を帯びているはずだ。
 が、文脈上は、"the Japanese people desire peace for all time"に関連するから、基本的に、人間の関係というのは、日本人と他民族との争いという意味合いがあるのだろう。
 つまり、各種の理想というツールで、日本人と他の民族間の利害をコントロールする、ということだが、このコントロールは、制御、というより、「抑制」だろう。
 というのは、ふとCDC(米国疾病対策センター)の略語を思い出した。これは、"Centers for Disease Control and Prevention"である。歴史的には別の略語だったようだが、いずれにせよ、日本国憲法のcontrolの含みは、マラリアなどのdisease controlのcontrolに近そうだ。birth controlもこれに近いだろう。時代の語感も近そうだ。
 こうした考えで当時の状況はなにかとぼんやり考えていて、もしかしたら、ウィーナー(Norbert Wiener,1894~1964)じゃないのかと思い至った。サイバネティックスだよな、これって。
 しかし、その主著"Cybernetics or Control and Communication in the Animal and the Machine"が出版されたのは1948年。概念的には1947年と考えてもいいが、完成したサイバネティックス理論が直接日本国憲法に影響したとは考えにくい。
 それでも、ウィーナーは、第二次大戦のために、自動照準器を研究し、そこから、計算機理論・情報理論を開拓して、さらに、動物制御と通信技術を統合していたたので、この時代の知的ヒーローでもあったし、ポリティカルにフリーだったとは到底思えない。
 関連するcivilian controlという言葉のの歴史状況はどうかと言えば、"Civilian Control Agencies"は朝鮮戦争時の"Federal Defense History Program"の一環のようなので、やはりGHQ的な雰囲気のなかにはありそうだ。
 ぼんやりとだが、やはり、ウィーナー的な世界観から、controlling human relationshipという考えができてのであり、それは、ざっくばらんに言えば、人間という動物の制御として国家間平和を考えていたのだろう。
 なんか屁理屈をこいているようだが、Controlの語感としては、そんな時代を反映しているのではないかと思われる。
 問題は、これが我々日本人の憲法であるというとき、"We are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship."というのは、どういう意味合いを持つのだろう?
 ちょっとやけっぱちな言い方だが、これは、「オメーら危険なジャプは理想というのを心得て他民族へのちょっかいは自制せいよ」っていうことじゃないだろうか。というのは、高い各種の理想っていうのを他民族に持ち出しても、へぇ、みたいなものだ。朝日新聞がいくら平和と理想を説いても金正日は聞く耳を持たない。
 日本国憲法のスキームでは、太平洋戦争(大東亜戦争だがね)をおっぱじめたのは、政府であって、日本国国民ではない。だが、米国様がこの悪い政府を転覆して、国民が政府を立てられるようにした。だから、今度の政府を使ってまた隣国に悪さをしちゃだめよーん、というのが、"We are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship."の含みとしていいように思う。
 これって、正直屈辱感あるよね。っていうか、先日、イラクの民衆意識調査でイラクの人が少なからずアメリカに屈辱感を持っていることが表現されていたが、これは日本とも同じ面があるな。
 日本人は、この屈辱感をどうしても、忌避するから、排除したり、そんなことはないのだぁみたいなオブセッションとしての平和主義になるのだろう。
 ま、でも、それって、やっぱ、屈辱だよね。でも、日本民衆はあの戦争阻止できもしなったんだしねと考えると、しかたないっか、っていう気にはなる。英語の日本国憲法のこの部分は、要するに諸外国には、「ごめんねぇ」というニュアンスに聞こえるのだろう。しかたなよね。

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対幻想と正義

 自動回転ドア事件の関連でちょっと暴言を吐いた。無意識に対幻想を基軸とした自分の考えが露出した。暴言だからなというのはある。通じると思っていたわけでもないが、それがほぼ無内容に響く世代があることは知らず、自分が不覚に思えた。俺はヤキが回っているぜと本気で思った。そして、対幻想についてぼんやりと考えた。そして考えるほどに、対幻想のありかたがまるで変わっているのだとしか思えないことに、気が付く。
 対幻想とは家族幻想であり、これに対応するのは国家幻想としての共同幻想だ。そして、もう一領域、個人幻想がある。吉本隆明の公理と言っていいだろう、悪い意味でも。
 駄本だなと思った橋爪太三郎「永遠の吉本隆明」を昨日ぱらっとめくりながら、いろいろ思った。駄本は駄本なのだが、こういうことを言う状況の必要性というものはあるのだろう。ただ、この本は、イントロダクションとしてはあまりいい本ではない。そして、率直に言えば、吉本本人の「共同幻想論」はお世辞にもいい本ではない。編集者的な視点や欧米的な視点で見るなら、電波としかいいようがない。これを丹念に読み解くことは簡単なことではないし、もしかすると、それは未だになされたことはないのかもしれない、とぐぐると、「書評1 吉本隆明『共同幻想論』」(参照)が出てきた。読みという点では、きれいに読んでいる。へぇと関心した。だが、これで読解されているかというと、そうでもないようにも思うというのは正直な印象だ。


今回、私はじっくりとこの本を読み込んでみたが、論理の展開にやや錯綜している印象を抱いたものの、何度も考え直してみたくなるような深いテーマに知的興奮を感じないわけにはいかなかった。

 非難をしているのではないが、共同幻想論は「知的興奮」として読まれたものではなかった。全共闘世代の大半が読んで大半は理解しえなかったのだが、それでも、ある核心的なメッセージだけは伝わっていた。やさぐれた言い方をすれば、「おまえは正義の前に、その女の身体を抱け」ということだ。女性なら「男根くわえてみな」っていうことだ(もちろん、そうしたマスキュリニズムが対幻想ではない)。
 共同性が正義なり倫理として人を支配しようとするとき、吉本は、それを原理的に無化して見せた。もちろん、そういう総括や理解は違うよ、という批判もあるだろう。というのは、吉本は「国家」の否定原理として対幻想を挙げたのであって「正義」や「理想」ではないのだと。しかし、私は、正義・倫理・理想とは、吉本のいう国家幻想に含めてよいのだと考えている。
 そして、吉本が国家の幻想領域を無化したとき、ある意味、市民社会の正義の可能性というものの芽も断たれた。社会学的に見ればニヒリズムにも転化したと評価してもいいだろう。吉本自身は80年代半ばまで実は「革命」の可能性を模索していたのだが、それも原理的に解消された。そこから先は、超資本主義という新しい国家の相貌をどう解体するかという積極的な理念が出現したのだが、ここで吉本主義者の大半は脱落した。
 アポリアも多かった。おそらくその新しい闘争の次元の地平となるのは、吉本原理でいうなら、対幻想であったはずだがそこがまさにアポリアだった。対幻想=家族が、どう超資本主義に向き合うのか、また、超資本主義が個人の欲望を疎外したように見える点についても、対幻想は確固たる橋頭堡たりえるか、そこは十分に問われていなかったように思う。いや、家族の解体として、問われていたのかもしれないが、思想を課題に生きる人間にとって十分なエール(声援)にはなりえなかった。
 くどいようだが、恋愛と家族の問題にくたくたになるまで擦り切れて生きる。それだけが真の人間存在であり、人生っていうものなのだが、そこからどう超資本主義に向き合うのか。そのアポリアの脇に、くだらねぇニューアカのあだ花が咲きまくり知性を誘惑した。それはある意味、必然だっただろう。知性を抱えた自己幻想が、対幻想のなかから十分に意味を汲み出すことができなければ、知性そのものが危険な外化を遂げてもおかしくはないのだ。そして、それが今やある種の大衆化を遂げているのが、たぶん、ブログの風景の一端なのだろう。
 こう書きながら、おめえさんはどうなのかと言えば、知性に与しないと言いながら、そして対幻想だけが原理だと抜かしながら、なぜ、極東ブログなんてものを書くのか? 答えられやしない。自己満足なんて揶揄は承知の上。矛盾はそんなところにあるわけでもない。
 話を少し戻す。正義がそのように原理的に無化されたとき、人は本当に生きることが可能か。ちょっと問いの出し方が正しくないのだが、私がこの20年間考え続け、ある意味、吉本から離れているのは、自己幻想・対幻想と共同幻想=国家幻想のその中間に、「市民存在」というものをある種確信するしかないのではないかと思えることだ。
 端的な命題からいえば、今や自己幻想・対幻想に敵対するものは国家としての共同幻想ではなく、ある種の疑似国家のような正義の幻想ではないか。そこから、どう自己幻想・対幻想を内包した市民存在を救い出すのか。
 わかりづらいので例を挙げるが、社会の正義幻想が田中真紀子の娘を追撃するとき、彼女を救い出すには権力が必要になる。その意味での、あたかもルソーの一般意志のような国家幻想が必要になるのではないか。
 複雑な状況にあると思う。吉本隆明ももう老いてしまって、思想というもの根幹を支えるエールとしては存在しえない。そして、多分に対幻想というもが崩壊してしまった。対幻想というのは難しいといえば難しいが、ごく単純に言えば、「私はこの女とこの女の子供の視野の中で死のう」ということだ。正義のためにも国家のためにも死ぬことなんかできやしない、ということだ。だが、そうした対幻想はすでにある本質的なところで崩壊した。もしかすると、歴史の運動のなかでそれが再現されることもないのかもしれない。
 すると、個人とそれを抑圧する社会と、個人を社会から保護する国家という三極になるのだろうか。私にはわからないし、私の考えの道筋が間違っているのかもしれない。
 それでも、個人を抑圧する社会は正義の相貌をしていることは、このブログを書きながら確かだと思えてきた。私は正義に誅せられる状況にあれば、ぎりぎりまで対幻想の立場から防戦して、アッパレ戦死を遂げてみせようかという欲望にも駆られる。ある種のニヒリズムでもある。また、そう言いながら、どこかで対幻想から別の防戦の正義(それは本質的に倒錯したものだ)をひねり出すかもしれない。いや、そうしているのだろうとも思う。
 こうしたスキームのなかで、自分が対幻想と、一般意志としての国家への依拠という矛盾したスタンスが出てくるように思う。そして自分が矛盾しているのは、まさにその二極をどう扱っていいのかまるでわからないことだ。(一般意志としての国家は今や超国家にもなりつつある。)
 くどいが、それでも私は現在の状況のなかで、言説的には正義たりえないし、私がひねり出した正義は一般意志としての国家として奇っ怪な相貌を見せることになるのだろう。
 結語はない。ふと吉本の顔が思い浮かぶ。麻原事件の件で、社会正義で血祭りに挙げられたことを、「俺の勝利だよ」と呟いたのではないのか。いや、気にも留めなかったのだろうな。

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2004.03.27

領有権=財産権、施政権=信託

 昨日書いた「尖閣諸島、領土と施政権」の続きのような話。識者がどこかにいるのだろうと思うが、わからない。しかたない、自分の頭で考えよう。愚考である。
 尖閣諸島問題について、国内には外務省の公式見解を含め、各種の議論がある。が、それはほとんど領土問題を扱っている。つまり、領有権がどこにあるかを議論している。また、中国や台湾もつねに領土問題として扱っている。だが、米国はこの問題を一度として領土問題としては扱っていない。あくまで施政権の問題だとしている。
 米国の立場は、この点では、日本を叩きつぶした連合国、つまり、国連の立場と同じだと見ていい。だから、国際世界としては、暗黙裡にこの問題を施政権の問題だとしているわけだ。なのに、日本で、この問題をきちんと施政権の問題として議論しているのを私は知らない。なぜなのだろうか。私が無知というだけなら、それでもいい。だが、日本人は、施政権という考えをまるで理解していない、できない、ということなのではないだろうか。
 「施政権」という言葉の歴史をざっと探ってみたのだが、はっきりとしない。基本的に西洋世界の概念だとは言えそうだ。中世の用例がよくわからない。近世になると、植民地との関係でよく出てくる。現代的な意味での「施政権」の考えは植民地などと関連していると言ってもいいのだろう。
 現代では「施政権」は「信託統治」との関連で使われている。言語学的な考えでもあるのだが、この現代の用法から、逆に「施政権」を炙り出してみたい。
 「施政権」は英語では、昨日触れたように、"administrative right"、あるいは"administrative power"となるのだろうか。英語でこのあたりの法学を読んでいないので、私はよくわからないと言えばよくわからない。少し先回りするが、この用語は法学というより、経済学に近いのかもしれない。ので、そちらである程度規定されているのかもしれない。
 いずれにせよ、「施政」とヘンテコな訳語が付いている言葉の原義は、administrationではあるのだろう。
 OEDの系統を色濃く残す、私の愛用のPOD6thでは、administratorが項目となり、一義をmanageとしているのだが、おおっ!POD6thはすげーなと感動したのだが、その対象は、こうある。"affairs, person's estate etc"。うわ、いきなりファイナル・アンサーだな。それ以外にも、"formally give out (sacrament, Justice)"ともある。administrationでは、administering (esp. of public affairs)だ。OEDって神!だな。
 が、話の都合でちょっと語源を覗くと、F,f,L (MINISTER)だ。で、話を端折ると、つまり、原義はservantだとはいうが、管財人の語感があるようだ。
 っていうか、あ、わかったぞ、それで、Prime Ministerが出てくるわけか。OEDの歴史原則ってものすごいな。もうちょっと近世よりにすると、ministerは非国教会派と長老派聖職者を指すわけだが、おそらくこちらのほうが聖公会より古い雰囲気を持っているだろうから、教区の管財のニュアンスがあるのだろう。そして、米語のsecretaryはministerの言い換えなわけか。なるほど、今頃納得したぞ。って、読んでるみなさんにはわからなかいかも、ごめんな。
 いずれにせよ、昨日、administrationに「行政」の意味があるとし、追記で、やべ、三権分立が原則化した現代だと信託統治における「行政」だけではねーぞと補足したが、「行政」の概念は、より現代的なものだ。
 話が錯綜して見えるかもしれないので、まとめると、現代語の「施政権」は主に信託統治に対応する言葉だが、その際の「施政」="administration"には、すでに、manage estate、つまり、「管財」の原義が含まれているのだ。そして、「信託統治」="trusteeship"であるように、これは、Trust(信託)の概念でもあるのだ。識者にはなんと当たり前のこと言っていると聞こえるだろうか。
 つまりだ、施政権というのは信託の概念であり、それに対応する領土はestateつまり、「財」なのだ。だから、施政権=信託、領有権=財、という関係なのだ。
 そんな当たり前と言われるかもしれないし、当たり前なのだが、これは、「富」と「資本」の関係にもなっているのだよ。「富」は古い英語で言えば、wealthの概念だが、現代の英語では、financial resourcesに近いだろう。そして、これは、財産権によって「所有」の権利でもある。このあたり、当たり前のようだが、日本では財産権が実質的に確立しているのだろうか?
 で、「富」が「資本」に転換されるのは、広義の信託=trustによって、運用(経営)が任されるからだ。昨今、ネットで「資本主義というのは気持ち悪いものだ」みたいな議論があるが、若造、こういう関係を理解しておるのかぁ?
 現代日本の場合、国富はあるし、それを金額的に換算することもできるが、資本としては転換されていない。そうできないシステムになっている。そこが、日本が資本主義国か疑問な点でもある。が、その話は別として話を戻す。
 領土は財であるから、領有権は財産権に相当する。そして施政権は信託に当たる。で、なんでこんな、日本人や中国人、韓国人なんかに理解できそうにもないヘンテコな発想が西洋に生まれたのか?
 日本の史学者が誤解しまくっている封建制度に根がありそうだが、というのは、この概念は日本史学にはユニバーサリズムとしてのマルクス主義から入ったため、日本史にも適用させようとして元の概念が壊れてしまっている。無視しよう、日本史学なぞ。
 が、推測するに、この考え方の原則は、西洋における封土と領土に関係がありそうだ。もしかすると、領土とは王に関連する概念で、封土は信託(トラスト)に近いのではないか。
 西洋の封建時代と言っていいのかわからないが、この時代は、領民と領有域が基本的にキング的な王の財になっていた。だから、結婚とかで財産分与すると、これが、まるでピースの欠けたジグソーパズルのような状態になる。西洋の地図を見て、変なパッチワークになるのはそうことだ。
 当然ながら、これを国家として見ると、国家に所属する領土のような、まるで鉄柵や壁で囲むような領土の概念ができない。
 話は逆で、むしろ、領土概念ができるのは、このようなキング的な王の財の制度が崩壊してからのことだ。それは、ある意味で、王を倒して、王の代替としての国民の主権を確立し、王から没収した財をその主権に帰属させたからだ。だから、米国など、西洋の発想では、領土が主権との関係で議論されるのだ。
 昨日、こうした関係を考えていて、はっと気が付いたのだが、極東ブログ「試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)で、日本国憲法を直訳したとき、奇妙なひっかかりがあったのだが、これもこのスキーマに関係したのだ!


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。
the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。
the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、
and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。

 考えながら、この文章を睨んで、うぁと私はうめき声を出してしまったよ。これは、まさに今日のめんどくさいスキーマ通りなのだ。
 つまり、元来、領民と領土は王のものであったが、市民革命によって、領民と領土は国民の主権に収奪された。しかし、国民=主権というのは、概念的なものなので、実際に国家の経営は、信託としてつまり施政権として、政府に貸与されているのだ。authorityというのは財産権なのだな。
 くどいが、日本国において、政府とは日本人=主権が信託したものなのだ。
 でだ、先に富と資本の関係に触れたが、領土と領民という資本を任された政府はその活動による利潤を、オーナーである主権者日本人に返せ、というのわけだ。
 この文章は、そーゆーことを言っていたのだ。そんな解釈は電波か? いや、これが正当な解釈ではないのか。そんなこと当たり前? 
 つまり、そのように信託された政府の「管財代表」だから、Prime Ministerなんだよ。
 小泉、テメーはわれわれの番頭さんなんだよ。きちんと経営して国民に利潤を返せよ! っていうか、おそらく封建制度における「税」という概念は、この財と管財の分離から派生したものだろう。
 書いていて、溜息が出る。西洋ってすげーなである。日本国憲法って偉大だなと思う。そして、私はまた断固憲法改定反対論者になろう。もちろん、米国憲法のように、修正項はあってもいいし、追加もされるべきだが。
 同じ論理が憲法前文末にも徹底されている。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける
to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、
with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。

 これって、ヘンテコな英語で書いてあるが、ようするに、日本国という財(all our resources)を資本として政府に運営する際の、経営方針なのだ。日本というのは、高い理想のために運営されるNPOみたいなものなのだ。で、それは、ちょうど資本主義における資本の投資(馬から落馬した見たいな表現だが)によって、「しまった、すってんてんになっちまったぜ」というのを日本人は覚悟しているということなのだ。
 また、言う。日本国憲法って偉大だなと思う。本気で泣けてくるぞ。
 それにしても、どうしてこんな奇っ怪な考えが西洋に出てきたのか。先に触れたように、「税」(=利潤)が関連しているとは思うのだが、この考えのスキーマは、聖書にもある。タレントの語源タラントが、神の信託であり人はその才能(タレント)を運営して神が喜ぶことをなせ、というスキーマだ。が、聖書のこの発想は、当時のヘレニズム世界の世界観でもあったのだろう。おそらく、ヘレニズム=アレキサンダーによる世界統治、がこの考えを人類に産み出し、ローマに引き継がれ、西洋に渡り、より洗練されて、日本人が引き継いだのだろう。

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2004.03.26

尖閣諸島、領土と施政権

 尖閣諸島・魚釣島に24日、中国人活動家7人が上陸し、入管難民法違反の疑いで逮捕された。率直なところ、よくわからないニュースだと思う。中国人がなんか派手にやらかすときは、たいていの場合、中国社会でなにかその必要性があるのだ。犬を指して豚の罵るの類だ。時期的に見れば、台湾総統選挙との関連だろうか。こうした問題も基本的に、中国内で、誰が困惑し誰が利するか。と見ればいい。中共としては現政権が困る。台湾としては、民進党側が困る、ということか。いずれにせよ、こうした線がはっきりしてこない。日本国内のメディアの大半の言及はほとんどが失当だろう。
 今回の動向を見ていて、日本の空気が変わったなという感じもする。まるでこの活動家たちは北朝鮮の工作員のように扱われている。もちろん、違法行為という点では同じではあるだろう。左翼の朝日新聞がこうした空気を嗅いでなにを言うのかと思ったら、社説「尖閣――火種の管理をぬかるな」では、海上保安庁を責めていた。そう来たか。左翼とかインテリ、ジャーナリズムもなんか、言論をゲームにしているな。ということは、もう知性の限界ということなのだろうか。
 確かに海上保安庁の怠慢はあるのかもしれないが、それが本質的な問題であるわけもない。日本国としては上陸を見逃すわけにもいかないし、そうなれば逮捕する以外の道もない。そして、中共側とて、言葉で引くわけにもいかない。しょうもない外交問題起こしやがってと思うがそれが、活動家の狙いだ。
 が、今回、ちょっと違った風景かなと思ったのは、米国が早々に助け船を出していることだ。やっぱ、日本の外交戦略は金で頬をひっぱたけ、だよなである。産経系「『尖閣は日本の施政下』米副報道官」(参照)を引く。


 エレリ副報道官は「尖閣諸島は沖縄返還以来、日本の施政管理下にある。日米安保条約第五条は、日本の施政のもとにある領土に適用される。したがって、安保条約第五条は尖閣諸島に適用される」と述べた。その一方で、日本と中国、台湾が領有を主張していることにも言及、「米国は最終的な主権に関する問題については、いかなる立場をもとらない」と述べ、主権問題にかかわることは慎重に避け、当事者に対して平和的解決を図ることを強く呼びかけた。

 結局、これまで尖閣諸島については微妙に言及を避けてきた米国だが、この事件をきっかけに軍事的な意味合いについて尖閣に関連して明言せざるを得なくなった。これは、日本の空気も読んでのことだろう。
 こうなると、胡錦涛も苦虫を噛むしかない。活動家たちは、先日の台湾民進党への米の冷ややかな態度を読んでいたのだろうが、日本を甘く見て、結局のところ地雷を踏んでしまった。というわけで、この問題は日中という枠組みではそれほど問題にはならない。
 ところで、今回の事件で、国内報道を見ながら、やたらと尖閣諸島を「日本の領土」だとする表現が目に付いた。私は最初は、最近のジャーナリストも馬鹿になったものだなと思ったが、この横並びはなんなのだろうか疑問に思えてきた。
 ネットをぐぐると当然、雨後の筍のごとく、尖閣諸島は日本の領土論が出てくるが、率直なところ、歴史好きって政治音痴みたいなのが多くて閉口する。端的な話、清朝時代の話などはどうでもいいのだ。
 米国は依然、明確に、尖閣諸島の領土は未決と断言しているのだ。そして、それが国連、つまり日本を叩きつぶした連合国の公式見解であり、国際評価なのだ。重要なのはそれだけ。その意味で、尖閣諸島は日本の領土ではないのである。日本人ならその事実に目をふさいで、わっしょい言ってちゃだめなのだ。
 だが、「尖閣諸島が日本の領土ではない」ということはどういう意味かというと、これは沖縄に及ぶ。沖縄は依然日本の領土ではないのだ。まさかとか電波とか、うんこ飛んで来そうだが、米国は言わなきゃならなくなれば、そう言うわけだ。というか、今回のエレリ副報道官の言及には、それが暗黙に含まれている。
 とんでもねー話で、せめて沖縄県の範囲くらいは領土的に落ち着けなくてはいけない。そこで、最大の秘策としてできたのが沖縄サミットだったのだ。沖縄に先進諸国の雁首を並ばせておけば、もう日本の領土ではないとは口が裂けても言えやしない。小渕よ、野中よ、そこだけは感謝するぜ。反面、このとき、沖縄サミットに産経新聞が田久保忠衛を使って陰湿に反対しているのを俺は絶対に忘れないぜ。
 というわけで、沖縄はもう事実上日本の領土になった。加えて、李登輝が援軍を出して、尖閣諸島は日本の領土だと言明してくれた。彼はようやく事実上民進党になったので、あとは民進党が憲法を改定すれば、尖閣諸島と沖縄は日本の領土として中共の手が及ばなくなる。台湾独立、自主憲法制定というのはそのくらい日本の国策に大きな意味があるのだが、と、罵倒してもわからんやつが多い。
 話を少し戻すと、正名台湾となっていない中華民国、つまり国民党も未だに、沖縄県を含めて尖閣諸島の領有権を主張している。台北から那覇に飛んでみると面白いものだが、その逸話はすでに書いたので、ここでは書かない。
 問題は、糞な「中華民国」というお題目にある。そこで、奇っ怪なのだが、国連は、現在の中共、中国共産党、もとい、中華人民共和国を中国の政党政府としているのに、国連内の文書は改定されていないようだということ。未だ、中華民国のままのだ。え?みたいな話だが、中共側がこれを突いた形跡もない。ただ、この問題がそれほど大きな問題にならないことは、香港の帰還で片づいている。日本では報道されなかったようだが、香港割譲というのは契約に基づいたものだが、その相手は中華民国であり、契約書は台北にあるのだ。なのに、この契約書事体は事実上反故にされたので、その意味で、「中華民国」の名前の威力も、要約事実上無効になった。
 どうも長ったらしい話なったが、この最近の歴史経緯を歴史好きの人たちが見逃しているように思えるので、ふれておいた。
 で、問題は、エレリ副報道官が、「日本の施政管理下にある」として「主権」を避けたのだが、この「施政管理」とはなにかだ。話を切り上げるために端的に言えば、施政権である。1972年に沖縄本土復帰というが、ここで復帰したのは、施政権だけである。領土ではない。
 領土と施政権の関係について、もう少し突っ込むべきなのだが、話が長くなってのでまたの機会としたいが、今回の阿呆な事件で、施政権について日本がどう考えているのか気になった。法学ではどう扱われているのだろうか。というのも、英語では、administrative right、あるいはadministrative powerとなるはずで、日本語でいうなら、行政権である。で、法学の行政権の考えに、沖縄の帰属に関する施政権の問題が含まれているのか、というと、それがまるでわからない。だれか、きちんと整理して欲しいというか、そういう文書があれば読んでみたい。
 つまらない話のオチのようだが、administrativeというのは、Windows XPとか使っている人なら知っているはずの、administratorと同じ英語だし、つまり、施政権や行政権というのは、Windows XPマシンという領土に対するadministratorログインの感覚なのだ。なんとなくわかるだろうか。あれ?っていう語感の齟齬があるとすれば、われわれがいかに、領土と施政権をきちんとイメージしていなかったか、ということになる。

追記(同日)
 託統治の場合は、施政権に立法・司法・行政の三権が含まれる。

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2004.03.21

命一つ、娘一人、骨壷一つ

 陳水扁が勝った。一昨日「陳水扁が勝つと信じる」(参照)を書いたとき、理性的な判断ではなく、「精神」として、そう確信した。昨晩は欧米のメディアが陳の勝利を伝えるのが異様なほど遅かった。今朝の新聞各紙の社説は産経ですら、腰砕けの内容だった。日本人は政治を遠いものと見るようになった気がする。政治とは人間が作り出すものだ。李登輝がまざまざと見せてくれたのに、見えなくなっていくのだろう。
 陳の勝利を聞いたとき、私の心に浮かんだのは「命一つ、娘一人、骨壷一つ」という言葉だった。葉菊蘭(ようきくらん)本人の言葉だと言われているが、本当にそうなのか調べたことはない。彼女はそういうパセッティックな言葉を使うのか少し疑問もある。Googleを引くと民主党大出彰のHPが出てきたが、それだけだった。
 葉菊蘭は台湾の活動家鄭南榕(ていなんよう)の妻だ。鄭南榕は宜蘭生まれの外省人二世と紹介されるが、その父は国民党とともにやってきたのではない。日本統治下のことなので、「日本人」だった。鄭は、1980年代当時の国民党政権を批判する言論誌「自由時代」を主宰していた。それは当然毎号、発禁になっていった。出版ということが直接政治活動に結びつく時代でもあった。日本国憲法に明記される「出版の自由」はそういう歴史の臭いを残すものとしてプレス(報道)の訳語として選ばれた。作家池澤夏樹は、芥川賞作品を初めてワープロで書いた作家だが、彼が翻訳業として初めてワープロを持ったとき、これで出版が可能になると喜んだと聞く。

cover
台湾
 戒厳令が続く1987年4月18日、鄭は台北の集会で台湾独立を主張した。台湾独立(台独)運動は、邱永漢などを先鋒とし、台湾国外が拠点となっていた。そうしたなか、公然と台湾内で台湾独立を主張したのは鄭が初めての人だとされる。この主張は文字通り決死の覚悟だった。
 1989年1月、許世楷津田塾大学政治学教授が起こした「台湾共和国憲法草案」を「自由時代」に掲載したことを理由に、台湾高等検察庁は鄭を反乱罪容疑で、多数の警官を動員して、強行連行しようとしたが、鄭はこれを拒否。自宅の椅子に座ったまま静かに焼身自殺を遂げた。関連する民主化の話は伊藤潔「台湾」に詳しい。
 鄭の妻、葉菊蘭は夫の意志を継ぐかたちで、政治運動に関わるようになる。葉は苗栗県郊外の農家に客家人として生まれた。自宅では当然客家語を使うものの、学校では北京語(国語)を流暢に使いこなした。秀才でもあった。政治家になる前は広告やメディアの仕事に就いたこともあり、その経験を活かして客家テレビ創設にも関わった。
 葉は1989年、台湾史上初の野党が加わった国政選挙となる立法委員選挙で民進党から立候補し、当選した。選挙の際、彼女は民衆の前に当時8歳の娘とともに現れ、母親としての政治を訴え、夫の鄭のことは持ち出さなかったという。
 私は、率直なところ、鄭のような激烈な運動家を理解できない。そして、葉や陳水扁や李登輝のような忍耐強さも自分の遙かに及ばないところだと思う。
 私は1998年、台南師範出の沖縄のかたと台南旅行をしたおり、2.28が残す傷跡を当時を経験するかたから聞いた。想像に絶する歴史だった。本来なら教育界の重鎮にあってもおかしくない人たちが生涯冷や飯を食わされた。その一人は「日本人には日本精神がない」と熱弁された。恥ずかしく思った。が、こうして台湾が本当に自立する姿を見ると、それは日本精神ではない、台湾精神なのだと思う。われわれ日本人が静かにその姿を学ぶ時代になったのだ。

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2004.03.19

イラク戦争一年

 朝日、読売、日経が、イラク戦争1年というネタで社説を書いていた。特にどうという内容でもない。私もこのブログでイラク戦争についてはいろいろ書いてきたので、新しい話もない。ので、繰り言になる。
 私の場合は、このブログを始める前に米国の開戦を支持していた。大量破壊兵器があるとも信じていた。だが、さすがにもう実際は大量破壊兵器はなかったと言うしかない。すると開戦の理由はない、ということになる。それもそうだ。では私は判断を間違えていたのか。
 そうすんなりともいかない。私はイラク戦争のミスは、戦後処理のミスであり、フセインなきフセイン体制を維持しなかったことにあると思う。しかし、そう主張することは醜いなとも思う。また、仏独露の死の商人たちや、こいつらのフセインとの裏取引を潰せとも思っていた、が、それも十分な自己主張の理由にはならない。
 では私は十分に反省したのか。そうでもない。同様な事態になったとき、私は、態度を変えるかというと、そうでもないように思う。実に歯切れが悪い。
 テロは世界に拡散し、イラク統治は泥沼化しているようにも見える(そうでなくも見えるのだがそれは今日は触れない)。だが、この戦争で世界の構成は確実に変わった。リビアは完全に屈した。イラン、パキスタンもだいぶ折れた。北朝鮮もほぼコントロール下に入った。冷戦後のならず者国家は軒並みもぐらたたきの状況になった。イスラエルを挑発する国も事実上なくなった。そして、おそらく表層的な国際テロの背景で、中露とEU(独仏)と米国の関係が、冷戦のような、それでいて経済的にはもつれ合うような事態が進んでいる。この事態に、旧来の反戦だの平和だの悲戦というような懐メロで対応できるわけもない。

cover
マクナマラ回顧録
 話をイラク戦当初に戻す。戦争自体は予想以上に首尾よく終わったのではないか、と私は思っていた。が、それは、明確に間違いだった。もちろん、短期に終わるという点では首尾良しとも言えるだろうが、戦略の内実をNHK「クローズアップ現代」イラク戦争3回シリーズの初回で知ったときは、ベトナム戦争についてのマクナラマラ回顧録より落胆した。というか、ベトナム戦争の非を認めるのはそれほど難しい問題ではない。
 NHKによれば、今回のイラク戦では、当初、要人空爆を50回も行ったものの、すべて失敗していたという。「言うよなアメリカぁ!」と思う。歴史の段階に移ったことについて米国という国は政治的な配慮はしない。この点は、糞転がしのように糞文書を抱え込む日本の外務省の歴史文書隠蔽主義と雲泥の差がある、と言えば、米国だって重要文書は同じ、ということにもなるだろうが、それでも、このあっけらかんとした戦略への取り組みは、そら恐ろしいものがある。生成文法史に置けるチョムスキーみたいじゃないか、と言って爆笑される方はいかほどか。
 この馬鹿みたいにあっけらかんと、全て失敗でした、とぬけぬけと、おばあちゃんのクッキーのレシピのように語る米国というのは、本気で怖い。そして追い打ちをかけるように、その際の民間人殺害がどの範囲なら国際法に触れないか、マクロ経済のように計算していたともいう。背筋が凍るな。しかし、これは米国戦史の反省でもあるのだろう。そうでもなければ、東京大空襲をまたやりかねないのだ。
 いずれにせよ、要人をピンポイントで殺害し、国家体制を転覆するという戦略はとんでもない失敗だったことは確かだ。ふと常識に立ち返るならそんなことはあり得ないと思うのだが、そういう常識は機能しづらい。
 「クローズアップ現代」には、「ヴァ-チャル・ウォ-」の作者マイケル・イグナティエフが出てきて、間抜け面を晒していた。コイツ、こんな馬鹿だったのか。とはいえ、イラク戦争はヴァ-チャル・ウォ-ではないと言うだけまともなのか、それとも米国世論を配慮していたのか、判然としない。だが、戦争はゲームのようだみたいな議論は、なんとも薄っぺらなものだ。が、そう私もその間抜け面の一人だよ、とされて、さしたる反論もないか。
 日本のマスメディアでは、未だ中道左翼みたいな論者がインテリめいて生き残ったようにも思う。幸いイラク状勢もそれに追い風のようになった。が、私は秋以降、そんなことはどうでもいいと思うようになった。反面、急に気になりだしたのは、有志連合と韓国、沖縄の動向だった。
 有志連合が成功すれば、日本は人的な面で米国の属国になるぞと思った。その兆候は韓国に見られた。韓国の内政は現状紛糾を窮めているところに、ブラックな皮肉を投げるようだが、あのどたばたに米国が呆れている事態は、韓国に益なのだ。米国の本音は「こーんな馬鹿、使えねー」だろう。同じく、日本についてもそう思っているに違いない。が、米国債の買い入れという身銭を切る同盟国には随分米国は配慮していた。
 現状、有志連合という悪夢が完全に消えたわけでもない。が、イラク戦争がすんなりシナリオ通りに進んでいたら、米国州兵の代わりに、韓国人・日本人・オーストラリア人が狩り出される世界になっていただろうと思う。

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2004.03.16

九州新幹線開業を巡る雑談

 九州新幹線開業について少し雑談のような話を書く。社説としては今朝の毎日新聞「九州新幹線開業 ブレーキなき整備新幹線」がよく書けている。ようは、このまま採算を度外視して新幹線を作っていっていいのかということだ。理詰めで問われれば、いいわけもなかろう。だが、先にも少し触れたが私はこの問題はまるでピントが外れている。日本全土に新幹線が走るのが嬉しくてしかたない。阿呆だなと思う。
 「おめめの超特急」こと新幹線が東京大阪間を走ったのは1964年。あの時の興奮は人生何物にも換えられない。私が小学校一年生の時だ。記憶では、幼稚園児の私はブリキでできた新幹線の玩具で遊んでいたのだから、実際の運行開始以前に玩具は出ていたのだろう。後に0系と呼ばれるあれだ。今でもあれが好きだ。100系はちょっと性格が悪そうじゃないか。最近のは、アヒルだか靴だかわからないようなデザインで嫌いだ。工学的には意味があるのだろうし、それなりに美しいと思う人もいるのだろうが、私には関心ない。かくして私も歴史の彼方に追いやられ、消えていくのだ。
 新幹線は広軌である。満鉄だ。私の父は朝鮮で満鉄の学校を出て、引き上げ、逓信省に勤めた。国鉄に勤めたかったのだろうが、そうもいかなかった。彼のハイティーン時代のエンジニアリングは満鉄のブレーキ技術だった。そう語った父には、今思うと、今の私より若いのかと泣けるものがあるが、そこには夢があった。新幹線は満鉄の夢だった。プロジェクトXでももちろんテーマになっていたが、偏った話だなとも思った。
 新幹線が、自強号となって台湾を横断するのもいいなと夢見る。中国人が理解できるなら、華南の地を行くのもいいだろう。彼らに新幹線の夢が理解できるかな。と、政治だか思想に傾きすぎる歴史語りからすれば、こんな夢は批判の対象だろう。なにかとごちゃごちゃしたこともあるのだろう。
 話は少し飛ぶ。私は人生ひょんなことで長く沖縄で暮らすことになり、うちなーんちゅの鉄道の夢のような一端を知ることがあった。沖縄には鉄道はない。戦前は小さい規模だがあった。それを老人たちは懐かしく語る。島が焦土になったこともあるが、米軍統治が長すぎて、もう鉄道に戻ることはなくなった。ある意味、復帰の成功が鉄道の夢を終わりにした。余談の余談のようなものだが、大東島にも鉄道はあったのである。
 不況下の今となっては、国鉄債務問題も昔話のようだが、なぜこの債務が関係ない沖縄県民にも課せられているか疑問に思い、過去の本土側の新聞を調べたことがある。意外なことに、当時の国鉄上層部は、この負債を沖縄県民に課すわけにもいかないと認識していたようだ。が、いつのまにかそんな話は消えた。ある種の責任感というのも歴史の産物であり、それを担える人々はそれを担う前に死んでいくのだ。
 昨年那覇にモノレールが開通した。沖縄県民の多くは単純に嬉しく思ったものだ。が、ちょっと理性的に考えれば、とんでもないシロモノであることはわかる。本土の人間なら呆気にとられるだろうが、こいつは二両編成なのだ。江ノ電以下と言ってもいいだろう。また、その経路と他の交通網を見たら、どこの馬鹿がこんな路線を考えたのかと呪いたくなるようなものだ。維持するだけでも赤字になる。
 が、それでも、鉄道は夢なのだ。国家とは鉄道だと誰か言っていたな。国家は鉄道を敷かなくてはならない、ということはない。それは過ぎ去った歴史の夢だ。
 だが、私のような人間はその歴史の微睡みの中に生きている。あまりごりごりと経営的な観点で論じるのではなく、歴史の夢を活かすように、鉄道を活かすことはできないものかと思う。

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2004.03.14

盧武鉉はなぜRoh Moo Hyun

 識者にとっては愚問かもしれないが、韓国関係のニュースを英語を通して読んでいて、さしていつもは気にしてないのだが、盧武鉉はなぜRoh Moo Hyunなのだろう?と疑問になった。
 盧武鉉がノムヒョンと呼ばれることには、私もわずかに韓国語を勉強したこともあり、とりあえず、それほど違和感はない。「盧」をノと読む件についてもだ。もっとも、「柳美里」は、個人的には「やなぎ・みさと」と読むが、別に公的にそう読みたいわけでもない。「金明観」はキムミョンガンと読む。ファーストインプレッションが原因か。盧泰愚はロタイグと読む。盧武鉉をどう日本読みするかは、ちょとわからない。
 問題は、Roh Moo Hyunの表記だ。アメリカのジャーナリズムはどういう見解に基づいているのか。というのと、ついでだが、韓国はこれについてどういう見解を持っているのだろうかということだ。
 ちょっと背景として、日本での韓国人名読みについてだが、これは一応相互主義とか呼ばれている。理解しづらいものでもない。歴史的な背景としては、しかし、そう割り切れるものでもない。1988年最高裁判決「NHK日本語読み訴訟」(判例時報1266号)が原因だ。在日韓国人崔昌華(チォエチャンホァ)牧師がNHKに対して、その氏名を日本語読みしたことで、人格権侵害による損害賠償請求を求めるというものだった。判決は常識通り(当時はそういう慣例がなかった)なのだが、この裁判の影響で、NHKは韓国や北朝鮮の人名地名をその母国語読みにするように改め、他マスメディアも事なかれ主義で現在に至った。
 実際問題、現代の韓国人の若い世代は漢字がほとんど読めないので、漢字を介した日韓の文化交流というのはむずかしい。その現状を踏まえれば、漢字を無視して、母語の発音を尊重してもいいだろうとは思う。そのわりに、韓国では東京をトンギョンと呼ぶが、まあ、苦笑して済ますことにしてもいい。
 で、これが相互主義というなら、中国に適用されるかというと、ご存じのとおり、そうではない。とはいえ、理屈はなんとでも付くのであり、中国人も日本人名を漢字でそのまま読むからいいのだと。ついでにひらがなも否定されるので、「小林善紀」となるわけだ。
 実際のところ、韓国人名については、相互主義だの国際化だのといった理屈は要らないローカルルールというふうに理解したほうがいいだろう。
 だが、そうすると、冒頭の問題に戻るのだが、盧武鉉はなぜRoh Moo Hyunなのだろうか。ざっと、ぐぐってみても回答はない。というか、なぜでしょう?みたいな意見ばかりだ。「はてな」で訊いてみるかな?(S/N比悪そう)。
 ぐぐっていると、ひょんなものが見つかった。中央日報コラム「【噴水台】ミスターノー」(参照)である。


 盧次期大統領の直説話法について、ソウルの外国人友達は、当惑している様子が歴然である。あるアメリカ人の友人は、「盧次期大統領の名字、盧は英語でロ(Roh)だが、韓国語発音はノ(No)」という事実をあえて強調する有力コラムニストの文が、米国の有力日刊紙に掲載される雰囲気を伝える。
 もちろんそれほど敏感に反応する必要はない。だが一度形成されたイメージとあだ名を変えるのは、作るのに比べて数倍の努力が必要だ。
 ホームページのアドレスを「knowhow」と書く盧次期大統領が語法のために自分を「Mr.Roh」でなく「Mr.No」と刻印させる必要はない。ましてこれは国益にも役に立たない。

 63へぇ、くらいか。韓国でもその差はよく理解されているわけだ。ただ、当の問題はこれで解決されたわけではない。
 もうちょっと言語学的な解説はないかとぐぐっていくと、「東アジア諸言語のローマ字表記: 3.韓国語」(参照)というページがヒットした。面白いには面白い。が、よくわからん。これで、私の愚問の答えになるだろうか。

 前述した朴を Park と書く方式は何というのか知らない。 李承晩を Rhee Syngman, 朴正熙を Park Chunghee, 全斗煥を Chun Doowhan, 盧泰愚を Roh Taewoo, 金泳三を Kim Youngsam, 白南準を Nam June Paik, 現代を Hyundai, 大宇を Daewoo, etc. というのは何に由来するのだろうか。

 というわけで、疑問としては残るのだろうか。
 ちなみに、このページの関連の中国語の説明も、簡便でよかった。「東アジア諸言語のローマ字表記: 1.中国語」(参照)である。歴史好きの場合、近代化の文献に出てくる表記はWade-Giles式が多い。特に、中国茶の歴史(これがたまらなく面白い)などを読む場合は必要になる。が、え?と思ったこともある。ちょっと脇道に逸れるのだが。

 なお, 北京を Peking, 広東を Canton と書いたりするのを「Wade-Giles式」と書いてある文献が非常に多いが, まったくのでたらめなので信用しないように。

 「でたらめ」なのか。と非難しているわけではなく、単純に知らなかった。そして、その判定も現状、私はできない。ただ、ちょっと気になるのは、この時代の代表的な中国語は広東語である。北京語ではない。
 国民党が北京語を普通話にする経緯は、歴史的にみると、けっこう偶然っぽい。さらに余談だが、あれはいつだったか、私が高校生くらいだったか、英語の勉強がてらにJapan Timesとか読んでいたころ、PekingをBeijingに変更があった。もっとも、今でも国際線ではPeking/Beijingだが。そういえば、日本ではいまだに「ペキン(北京)」と発音している。これは、いったい何故?
 というわけで、当の問題は答えがわからない。どさくさで想像を言うと、Roh Moo Hyunは中国表記じゃないのか?

追記(同日)
 Ririkaさんから、有益なコメントをいただいた(参照)。ありがとう。
 それと、2ちゃんねるで参考になる発言を見つけたので追記。

韓国◆「Samsung」の「u」に違和感を持つ人、集合!(参照


25 :tiki :02/03/14 21:37
 道路標識は政府標準案に従って表記しています。地下鉄の英名とかもそうですね。
 個人名の綴りに関しては政府は干渉しません。同じ李さんでも「Lee」「Rhee」「Yi」など人それぞれです。
 李王朝の英語表記は「Yi Dynasty」ですが、韓国初代大統領の李承晩は「Syngman Rhee」です。今の政府標準表記だと「Seungman Ri」です。
 「李」の実際の発音が「イ」なのに「リ」に綴るのは、韓国の漢字辞典に載っている発音が「リ」だからです。しかし韓国語には「頭音法則」があって語頭に「r」の音は置けないので(外来語を除く)「イ」に変わるのです。
 「Mr.李」と書く場合はちゃんと「ミスターリ」って発音します。語頭じゃないので。北朝鮮は頭音法則がないので語頭でも「リ」と発音します。
 韓国でも「柳」という苗字を例外に「リュウ」と読ませる場合もあります。

 韓国語のローマ字表記は日本語より複雑で、学校で正式に教えたりしません。
 多くの人はローマ字=英語と勘違いしているのも事実です。
 だから大人になっても政府標準の表記法を覚えてない人がほとんどです。
 パソコンでハングル打つ時もローマ時入力ではないので覚える必要性を感じる人は少ないですね。僕はちゃんと教えるべきだと思いますが。


 李承晩がSyngman Rheeなのは、もうこれは慣例のようだ。とすると、日本人が歴史の人物である李承晩を「りしょうばん」と読んでも、なんら問題なさそうに思える。


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2004.03.11

天皇制について

 天皇制について、少し書く。おまえは天皇制をどう考えているのかと問われているような気もするので。
 この答えは、非常に簡単だ。天皇制は、制度としては、日本国憲法で規定されている。それ以上でも、それ以下でもない。九条のように解釈改憲はされていないのだから。
 なので、天皇制反対とかは、まったく無意味だと考える。天皇制反対とは、ようするに現行憲法反対ということだし、それなら、改憲するしかないだろう。この問題は解釈改憲でどうなるというものでもあるまい。
 話はこれで尽きている。
 なのに、なぜ天皇制が未だに憲法を超越してイデオロギー的な問題になるのか私には理解不能。憲法を愚弄するんじゃねーという思いがするばかりだ。
 日本国民が憲法を改正し、現行のような立憲君主制の国家ではない、共和制の国家にするというなら、同胞国民の多数の意見に私は従いたいと思う。おまえは共和制移行に賛成するのかと問われるなら、私は弱い反対意見を持つ、というだけだ。それはイデオロギーではない。むしろ、皇室への敬意からだ。
 皇室に敬意を持つかと言われれば、持つ。これは歳を取るにつれてそう思うようになった。端的な話、日本人の象徴としての人間像を考えるに、それなりの品性というものをもっていてもらいたい。あの情味の薄い小泉なんか大嫌いだ。下品だすらと思う。日本人たるもの、対外的には品性をもってもらいたい。マックス・ヴェーバーも品性というのを大切にしたが、日本人は1200年からの歴史を持つのだから、その国民国家の歴史・伝統の品性というものを体現した人間が必要だ。それこそ皇室である。その点で、今の天皇家は十分に評価できると思う。なお、日本の歴史はせいぜい1200年である。この点については、昭和天皇も言及していたことだ。歴史学的に見ても推古朝以前に天皇家の歴史を遡及することは無理だ。日本列島に存在した古代人いたが、国家以前の列島居住民は「日本人」ではない。
 国家神道についてはどう思うかと言えば、これは、明治時代にでっちあげた国家宗教でもあり、国家とは分離すべきだと思う。日本は弱いライシテの原則を持つべきだ(それは移民に国を開くためにも)。靖国の問題は複雑だが、原則として国家が介入すべきではない。対外的にも別途の慰霊の施設があってほしいと思う。もっとも、私が見る限り、現行の靖国神社自体になにが問題があるのか皆目わからない。さっさと、慰霊施設を造れ、内閣と思う。
 天皇の戦争責任問題については、すでに歴史上既決だと考える。歴史のIFとしてあれでよかったのかと問われれば、天皇は戦犯以外の何者でもありえないと思う。先日書いた洪思翊の処刑の論理で行けば、戦犯を免れるものではない。昭和天皇ご自身もそう考えておられたと思う。今上天皇も若いころそう考えていたふしがある。
 日本国家の戦争責任については、それは話は別。むしろ、天皇だの一部の軍人にその罪を着せて、国民が無罪というGHQ史観は間違っていると思う。日本国民はあの戦争の責任を持つと思う。しかし、もう半世紀たったのだから、それなりの対応があってもいいだろう。
 以上。
 ついでに言う、さっさと女帝に皇室典範を変えるべきだ。女性の天皇は日本の歴史から見ても違和感はない。なにが女帝を妨げているのか、私は理解できない。

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冗談じゃない、「昭和の日」法案を潰せ!

 むかつく。産経新聞社説「『昭和の日』法案 『三度目の正直』成立急げ」についてだ。「昭和の日」法案を通せというのだ。


 自民、公明の両与党が、四月二十九日を「昭和の日」とすることを柱とした祝日法改正案を今国会に提出する方針を決めた。法案は過去に二回、参院と衆院でそれぞれ可決しながら、もう一方の院で政局の波をかぶり廃案となっている。「三度目の正直」の今度こそ、政治のかけひき材料とすることなく成立をはかってほしい。

 冗談じゃねーよと思う。「昭和の日」法案は潰せ!、恥知らずめ。臥薪嘗胆の心を持て。せめて沖縄から米軍が撤退されるのを待つのが愛国の心ではないか。
 ポチ保守のくせに臭い説教たれくさって。

 今、日本が米国と戦争をしたことも、東京でオリンピックが開かれたことも知らない若者がいると言われる。自らの国や祖先たちの歴史がいかに軽んじられているかを示している。最近指摘される国家意識の希薄さや、若者のデラシネ(根なし草)現象ともつながっているといえる。
 そんな時代だけに「昭和の日」は必要だといえる。年に一度だけでも親子で「昭和ってどんな時代?」「日本はどんな国?」といったことを話し合えば、自らの国への思いは変わってくるだろう。その意味で、この法案は単に祝日の名称変更だけにとどまらない重要なものである。

 全然違うね。歴史の知らねー恥知らずはオメーら産経だよ。
 極東ブログ「夢路いとしの死に思う」(参照)で、別話題と混ぜてしまったが、繰り返す。

 今日も目立ったニュースがないことになっているのか、新聞各紙社説はまばら。それぞれ悪くもなくどってこともなくという感じなのだが、ひとつ、つい「この愚か者!」とつぶいてしまったのが産経新聞社説「『昭和の日』法案 政局絡めず成立をはかれ」だ。なにも左翼ぶって昭和天皇の批判がしたいわけでもないし、「昭和の日」が国会の手順に則ってできるっていうならしかたないと思う。「海の日」なんてもっと愚劣なものもすでにあるのだ。愚かだと思ったのは産経新聞の歴史感覚の欠如だ。単純に昭和時代の天皇誕生日が4月29日だというだけしか念頭になく、4月28日の次の日であることに思い至らないのだ。もっとも産経新聞にとりまく、小林よしのりがいうところのポチ保守どもは、この日をサンフランシスコ対日講和条約発効による日本独立記念の日だとかぬかしているのだから、病膏肓に入るだ。4月28日とは国土と国民が分断された痛恨の日だ。昭和天皇は生涯この悲劇に思いを致していたことを考えあわせれば、彼がその翌日の4月29日を誕生日というだけの理由で「昭和の日」とすることを喜ぶわけがない。もちろん、国民が「昭和の日」を望むというのなら国民の歴史の感覚が失われていくだけだ。

 昭和天皇を記念するというなら、まずその臥薪嘗胆の思いを察するべきではないか。国の長(おさ)でありながら、国土を刻まれた。沖縄を米軍に手放した。なにより、沖縄を本土のために焦土としてしまった。その昭和天皇の痛恨が思い至らない脳天気な馬鹿者が、この日を祝祭するというのか。彼がその後半生、沖縄の地を踏み入れることができないことがどれほどの悲しみであったか。その悲しみをぬぐい去るのは、米軍を沖縄から追い出す時ではないか。もちろん、それが現実的ではないことぐらいはわかる。だが、今の沖縄の状況のままでいいわけがない。
 誰だったか、老婦人だったが、私が沖縄に暮らしているという話で涙されていた。追悼でなく沖縄に行くことは恥ずかしいとも語った。それが歴史の感覚というものだ。
 以上のようなことを書くと、私はウヨ扱いされるのだろうと思う。小林よしのりみたいに、産経より右寄りからウヨ批判をしているのだろうとも。ああ、そんな小賢しいことなど、知ったことか。
 昭和天皇は至誠の人であったと私は信じる。そう信じることには、もちろん虚構も入る。まして宗教的な信ではない。歴史を負った日本国民ということの同義でもある。三島も現実の天皇と本来の天皇像に悩んだ、馬鹿じゃないからだ。その本来の天皇像は2.26事件を含め、日本の病理ともなった。そんなことは、ちょっとばかり西洋風の理性があればわかる。だが、そんな小賢しいことで、問題が解決するわけもない。天皇が日本人の象徴であるのは、そこに日本人の至誠のありかたの象徴を見るためだ。その点で、昭和天皇も今上天皇も、我が国民の誇りであると言っていいと信じる。
 昭和天皇の心中に思いを致せ。日本人は悲劇の歴史を負った国民であることを忘れてないけない(てなことを書くと、侵略の歴史のなにが悲劇だよとか、まだなるのか。それもなんだかなである)。

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2004.03.09

洪思翊

 韓国ネタはしばし書くまいと思っていたが、書く。頭に血が上りすぎかとも思うし、ディテールを書くほどの知識もないので簡単にする。
 中央日報「【噴水台】親日派『洪思翊』」(参照)で次の文章を読んだとき、脳内血管がぶちっと切れたような感じがした。


 洪思翊が、自らの死の前で詩篇を聞こうとしたのは、戦争犯罪によるものではなかった。彼の内面を苦しめた親日行為を贖罪するためだった。洪思翊にとって、親日は出生の時に持って出た、原罪のようなものだった。

 「親日行為を贖罪するため」と、そこまで言うかよ、と。「日本帝国の将軍だったが、創氏改名は最後まで拒否した」というのなら、ただの歴史の無知だが。
 しかし、その先を読み続けながら、筆者全栄基(チョン・ヨンギ)政治部次長とやらは、なんとか洪思翊の名誉を守ろうとしているのかもしれないとも思った。少なくとも、全は洪への敬意を持っていて、なんとか親日反民族行為の真相調査対象者から洪を守りたいと思ったのだろう。
 百歩譲って「親日行為を贖罪するため」だとしてその歴史を生きた人間としてなにがあり得たのか、全はそのことをわかって書いているのだろうとも思う。
 そう思えば、なんか、涙が出てくる。
 先日、「韓国反日法に唖然とする」(参照)を書いたおり、自分の文章の稚拙さもあったから、単なる反韓感情に取られてしまってもしかたがないとは思った。が、懸念していたのは、むしろ、洪思翊のことだった。そのことはあえて書かなかった。
 洪思翊については、事実上の復刻である、山本七平ライブラリー「洪思翊中将の処刑」に詳しい。とアマゾンを見ると、こちらも絶版か。しかし、この絶版は希望だ。当初の刷りはすべて捌けたのだから。日本の読書人の層の厚みを李登輝は驚嘆を持って語ったが、この書物をきちんと読み通す日本人が少なくはない。と書きつつ、私自身、洪思翊について、山本が書き残したこと以上のことは知らない。
 だが、その書物によって、洪に罪なきことが歴史に刻まれたと信じている。山本七平は、関連するイザヤ・ベンダサン著で本多勝一を批判したことや、鈴木明を支持したことから、徹底的に左翼に極度に嫌われた人間だが、歴史が過ぎていけば、左翼の醜悪をよそに山本の真価が際立つ。しかし、そんな表層的なことはどうでもいい。「洪思翊中将の処刑」という書物の持つ意味だ。もちろん、多様な意味はある。また、読みやすい書物でもない。
 私にとって決定的な意味は、この書物は、洪の無罪を証した書物だということだ。山本は明言していないが、恐らく洪はクリスチャンだったのだろう。そして戦争という罪は罪としてキリストを真似て死んでいったのだろう。神がその無実をいつか明らかにするという希望もあったのに違いない。その願いを山本はきちんと聞き届けていた。山本自身、折に触れ、執拗なほどヨセフスの話を語ったものだが、まさにヨセフスのように神に生かされるという苦難の経験をしたからこそ、罪なきものが世に裁かれていく様を否定してみせたのだろう。
 先の中央日報の全は、次のように牧師の名を明らかにしていない。

 1946年9月26日、フィリピンの刑務所の絞首台。大日本帝国南方軍総司令部の洪思翊(ホン・サイック)中将(当時57歳)は、立ち会った牧師に対し、聖書の詩篇、第51篇を読んでくれと頼んだ。彼は、第2次世界大戦のA級戦犯として判決を受けた。

 片山師である。当時はまだ牧師ではなかったようだ。彼の証言によれば、この詩を読んだのち、心配する片山師にこう言ったという(「洪思翊中将の処刑」より)。

 片山君、何も心配するな。私は悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところに行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな。

 すでに神のもとある者を地に引きずり降ろそうすることはやめよ、と願う。

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2004.03.03

雛祭り余話

 今日は三月三日、雛祭りである、と言いたいところだが、これも本来は旧暦で祝う行事。旧暦でなくても不都合がなければいいじゃないかということだろう。桃の節句とも呼ばれるが、新暦では桃の花は咲かない。それよりも気になることがある。この三月三日に行われる祭りの起源に関係した話だ。
 旧暦の三月三日は、沖縄では「浜降り(はまうり)」が行われる。今年は四月二十一日になる。浜降りは、菓子やよもぎ餅などを重に詰め最初仏壇に供えた後、浜辺で遊ぶという行事だ。基本的には女の行事である。行事の名称としては那覇などでは「サングゥチサンニチィ(三月三日)」と言う。八重山では「サニジ」と言う。「三の日」だろう。

cover
失われた海への挽歌
 現在では昔のような行事は珍しいがそれでも浜は人で賑わい、人は屈み込んでチンボウラという小さな巻き貝を取る。ウミヌチンボーラーグァと歌う「海ぬちんぼうら節」のあれだ。この歌はサントラには入っていないが、映画「ナヴィの恋」にも絶妙のシーンで出てきた。そういえば、この映画で見納め感のある嘉手苅林昌の声でも聞けるのは、「失われた海への挽歌」だ。嘉手苅林昌の歌声は神!であるが、このバージョンがこの歌の最高バージョンであるかはわからない。
 以下、表記は私が適当にした。囃子は抜いた。

海ぬちんぼうらぐぁ 逆なやいた立ぃば
足(ひさ)先々 危なやさ

海ぬさし草や あん清らさなびく
我身ん里前に 打ち靡く

海ぬちんぼうらぐぁ 恋する夜や
辻ぬ姐ぐゎたん 恋すらど

辻やいんどー豆 中島や豆腐豆
恋し渡地いふく豆

辻ぬいんどー豆 噛でぃんちゃんな兄様達
噛でぃやんちゃしが 味やうびらん


 意味は解説しない。私もよくわからないということにしておく(そこのうちなーんちゅ、爆笑しないように!)。滑稽に変えたテルリン・バージョンもある。
 このチンボウラを油で炒めて味噌にしたアンダンスーが絶妙にうまい。マチヤグァなんかで売っている三枚肉のアンダンスーとは違う。うちなーんちゅでも食べたことない人も多いようではある(おばぁに作ってもらいなさい)。
 話がそれてきたが、浜降りは沖縄の行事だと、うちなーんちゅも思っているので、うちなーびけんな話も出てくる。たとえば、「宮古島ダイビング事件と水産振興」の「沖縄の海面利用と漁業権」にこうある(参照)。

 沖縄が他府県と違った海面利用の状況がみられるというのは、事実と思う。身近に感じるのは、旧暦の3月3日に行われる「浜うり」の行事であろう。全県的に行われる様子は、まさに「海はみんなのもの」という県民感情を裏付けている。本土では、このような行為はみられず、地元の漁業者に遠慮する姿勢が一般的である。このような違いはどこからきているのか、これまでの歴史的な背景も踏まえて説明を加えてみたい。

 違うのだ。これは、本土にもある。「磯遊び」と呼ばれている。同じく旧暦三月三日の行事だ。浮き世の題材にもなっているようなので、江戸でも盛んだったのだろう。これが現在の、潮干狩りに結びついている。
 マイペディアでは「浜降り(はまおり)」の項にこうある。

海辺で禊をすること。全国的に祭の際に見られ,神輿を水中でもむのをこのように呼ぶ所もある。沖縄では特に厳格で,海辺で3日2晩潔斎謹慎したり,親類縁者が集まって浜辺で酒宴を開き,深夜まで歌い踊って遊ぶ等の習俗が見られた。⇒磯遊び

 というわけで、「磯遊び」はこうだ。

3月3日に海や山に遊びに出る風習で,もと雛を送ったり祓に水辺に出たりした行事の変化である。雛壇の前でするままごとを磯遊びというところもある。九州西側の沿海地方では雛祭の日に海岸に出て一日遊び暮らし,山口県大島郡などでも同じ日に磯遊びをする。磯祭と称して乙女たちが浜で草餅を食べる風習もある。

 類似の民俗は川辺のバージョンとして韓国にもあるようだ。儒教=道教的な行事なのか、海洋民の民俗なのかよくわからない。女が主体になるところも、いま一つわからない。本土の磯遊びと沖縄の浜降りの関係もよくわからない。
 重要なのはいずれも旧暦の三月三日とする点で、この日は旧暦の朔日に近いこともあり、大潮に近い。だから、貝が取れる。その意味で、この行事も旧暦でないと本来の意味はない。
 中国の行事との関係でいえば、五節句の一つ、旧暦三月初めの巳みの日を祝う上巳(ジョウシ)との関連はある。日本書紀で言えば、顕宗天皇元年三月上巳に曲水の宴が開かれたとある。これが現在に定着するのは、江戸時代に整備された五節句(五節供)による。単純に考えれば、江戸のナショナルホリデーなので、浜辺に遊んだというところだろうか。
 私事だが、午前中にぶらっと近所の和菓子屋に行くと、いつもより混んでいた。菓子の種類も多い。「引千切り」もあった。「左近の桜」「右近の橘」という名の菓子もあり、同行の物に知っているかと訊くが知らないらしい。今の高校生は内裏を参観したことはないだろうか。

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2004.03.02

ゲームのこと

 ちょっとゲームの話を書く。またも古い話ばかりになりそうなのでできるだけ簡単に切り上げるようにしたい。
 今後日本も韓国ばりにオンラインゲームの時代になりそうなので、それに対して、オヤジ界から「ゲーム脳」だの、引き籠もりを増長するだの、しょーもないゲーム批判を見かけることが多くなった。それに合わせて、きまじめな若い世代の反論もよく見かける。どっちが正しいかといえば、反論のほうが正しいのだが、オヤジ界のニーズには合ってないので、同じような議論は繰り返される。そして、早晩、オンラインゲーム中毒の病人が社会問題に浮かび上がり、さらにしょーもない事態になるのだろう。
 私はそういう傾向や今後の予想に対してどう考えているかと、なーんも考えていない。テレビが出てきたとき大宅壮一は一億層白痴化などと批判したものだが、実際一億白痴化になってみたが、どうかというと、ただ、そうなっているだけ、ということだ。ゲームでも同じようなものでだろう。
 しいて言えば、私はほとんどテレビは見ない。ゲームもしない。本もろくに読まない。別段さして困らない(本については昔の本を読んでいるだけでよいということになるかもしれない)。そういう分衆が各種出現するだろうし、その分衆に社会的にまとまった意識があるわけでもない。ただ、そういう分衆の世界で、より親密な人間への希求は始まるだろうなとは思う。すでにネットやブログの世界にそういう傾向が見えてきている。はてなの顔出しとかもそうかな。ブログの多くは基本的にはそういう分衆の世界に閉じていくだろう。それが悪いことでもなんでもない。ただ、そーゆーこと、というだけだ。
 私は二十代の後半(80年代)だが、パソコン・ゲームを中心とした交友を持っていた。ゲーマー? インベーダーゲームからの世代で、そのままパソコンでもゲームをやっていた(BASICゲームの話は省略する)。流しのプログラマとしては86をメインにしていたので、仕事の面では早々にDOSに近い環境に移行していたが、自宅で遊ぶマシンはほぼ最後までPC-88にこだわった(FM音源なので「イース」の音楽がきれいだった)。それからX68000だのMacに移った。PC-98というのは自分の専用マシンとしてはつまらないしろものだった。DOS/VもWindowsもそんな感じはするが、しかたない。
 あのころのゲームだが、ハイドライドの解説冊子に、たしか、こういうのを邪道と言う人もいるでしょうが、といった記述があったのを覚えている。批判しているわけではないが、その後の日本のゲームはその「邪道」の上に乗っていたのではないだろうか。他は、ロードランナー風の条件反射的ものか。たまに、倉庫番風なパズルもの。格闘物では、Apple用のアラビアンナイトみたいのが原点のように思うが、名前を忘れた(アラジン?)。シューティング系は3Dが面白い。フライトシミュレーターもそれなりにはまる。
 現状のゲームはよくわからない。身近の子供たちがやるのを見てもなにが面白いのかまるでわからない。自分はどうしちまったのかとは、ときたま思う。
 MacではCYAN兄弟の初期の作品(HyperCardベース)は楽しかった。"the Manhole"、"Cosmic Osmo"、そして、"Spelunx"。彼らのウィットというかユーモアというかセンスは良かった。ついでなんで、MYSTもほぼ完了までやった。これは絵がきれいだったからだ。ああいう絵だけでも評価できる世界というのは、今でもいいなと思う。他に、それ自体がアートたりうるようなゲームというのもあるのだろうか。"Uru: Ages Beyond Myst"? 気になる。日本語版が出るのか?
 パソコン・ゲームをよくやっているのと同じころ、ゲーセンにもよく通った。すでにヴィデオゲームの時代だったが、私は、ピンボールがやりたったのである。あの時代、探すとなかなかシックなピンボールゲームがあって楽しかったものだ。村上春樹の「1973年のピンボール」のような世界である。ちなみに、アマゾンのこの小説の読者評を見たのだが、ピンボールやってみないとこの小説の面白さはわからんと思うよ。
 ピンボールの面白さはいろいろあるのだが、その一つはTILTだ。TILTは違反ではない。体重をかけて、腰を入れて、タイミングを見て、台をずんと押す。これってFU*Kっていうやつだろうな。ああいう熱狂が楽しめるゲームというのを私は他に知らない。スポーツだとなんか健全過ぎて萎える。
 沖縄から東京に戻ったろ、渋谷とかのゲーセンを覗いて回ったのだが、萎えた。ヴィデオゲームとお子様ばかりだ。沖縄にも北谷などにゲーセンは多いが、東京ならなんとかあると思っていた。ネットで調べるとピンポール台はまだいくつかはあるようだが、ほぼ、ない。一種の骨董品にもなっているようだ。詳しくはわからないのだが、米国の老舗のメーカーもなくなりつつあり、しかも、メンテナンスもできないようだ。
 大金持ちになって、広いフロアにお気に入りのピンボールマシンを4台くらいおけたらいいなとも思う。米国人にとって夢というのはそういうものなのだろう。しかし、私は、過ぎたものは過ぎたものだと諦めることにしている。

2004.03.02 in 歴史 | 固定リンク | コメント (12) | トラックバック

西武鉄道が総会屋と癒着、で?

 今朝の新聞各紙社説の話題は、西武鉄道が総会屋と癒着していたという話題だ。私はあまり関心ないので簡単に触れるだけにする。
 各紙ともに「まだ総会屋と癒着していたとは」と呆れてみせるのが、なんか白々しいなという感じがする。このニュースを聞いたとき、私はほとんどなんの驚きもなかった。堤康次郎(つつみやすじろう)の息子じゃないか、なにを世間は驚いているのだ、という感じである。ちょっと面白い歴史の小話でもまた聞けるかなくらいに思った。そのうち、週刊新潮あたりが書いてくれるかなと期待している。
 各紙社説を読んでみたが、そういう私のような印象をほのめかしている記述はなかった。なんだか、隔世の感がある。というわけで、あとは全部余談みたいな話だ。
 私は堤康次郎についてさして好悪の感は抱かいていない。西武園遊園地の前に立っている銅像を指して、周りに身近のものがいれば、「あれなんだか知ってる?」ととりあえず聞くだけだ。たいていは知らない、という時代になった。あの銅像は悪くないないなとも思う。息子(弟)似てるしな。
 柴田翔の「されどわれらが日々」は文庫で古典のようなものだから、絶版にはなってないと思うが、と調べてみると、大丈夫。どころか、けっこう柴田翔の作品が残っていて不思議な感じを受ける。この本は、およそ読書人たるものの必読書だが、六全協など解説を付けたほうがいいのではないか。古い時代の青春小説を読みたいなら石坂洋次郎でも読めばいいのだから。で、「されどわれらが日々」には箱根の国土開発の話が挿話のように入っているのだが、考えてみると、これも「国土開発」という歴史もつ陰影が失われて読まれているのかもしれない。
 私事めくが私の父の実家は軽井沢なので、住民であった祖父母などから、国土開発の裏話を聞いて育った。ディテールは忘れたが、子供ながらに爆笑ものの話が多かった。
 強盗(五島)慶太みたいな話も、もう歴史の向こうなのだろう。ああいうワイルドな世界は、実は我々の今の世界の裏に貼り付いた歴史でもあるのだ。今回のような西武の事件でも、そういう歴史がときたま、でこぼこフレンズのオーガーラのように戸を開けて覗き込むこともあるだろう。
 そういえば、堤康次郎は近江の人だったなと思い出して、ぐぐるとそのようだ。「堤康次郎の略歴-<日本成功研究所>」(参照)というサイトに略歴があった。29歳のときに、「長野県沓掛の開発に着手」とある。そういうことかという感じだ。ところで、このサイト、「偉大な起業家に学ぶ事業創造の理論と哲学」というのが理念らしい。確かに、堤康次郎は偉大な起業家と言っていいのだけど、「学ぶ」のはやめといたほうがいいと思うよ。

追記
猪瀬直樹の「ミカドの肖像」に言及するのを忘れた。が、ま、良く読まれた本なので、追記程度でいいだろう。

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2004.03.01

ケンウッド(トリオ)で思い出す秋葉原

 社説からの話題は特にない。が、しょーもない事に心が引っかかったので、それで今日のブログはお茶を濁すことにする。ごめんな、また昔話だ。きっかけはフジテレビではなく、日経新聞社説「プロの経営者が流動化する時代が来た」だ。この社説もさして面白くもないが、ケンウッドという言葉が妙に気になった。


 ケンウッドの経営を立て直した河原春郎社長は東芝時代に米国で合弁事業を経営した経験がある。上席常務として東芝の事業構造改革を担った後、リップルウッド・ホールディングス日本法人のシニア・アドバイザーを経て、一昨年ケンウッドに招かれた。

 MP3が流行る前、私はケンウッドの6連奏のCDプレーヤーを買った。私は基本的にソニーな人なのだが、それでもケンウッドのオーディオを買うのがちょっと嬉しかった記憶がある。が、ケンウッドは経営が低迷しているとも聞いた。そのあたりは詳しくは知らない。
 私はオーディオマニアではないがケンウッドに親近感を覚える。理由は、単純で、ケンウッドは春日無線、つまりトリオだからだ。私が人生において親に買ってもらって一番嬉しかったのはトリオのJR-310(SSBで50MHzまでカバーした)だった。小学6年生のときだ。これは送信機TX-310と連動するはずで、局申請書も書き終えたまま、その頃、たまたま父が研修していたコンピューター技術のほうに、私もずるっと関心が移ってしまった。おかげで中学時代はコンピューター技術に夢中になったが、局も作れずに父にすまないような思いが今でもする。ちなみに、コンピューターはまだミニコンも出ていない時代だった。ミニコンでもあれば、ビル・ゲイツのような人生があっただろうか。ないな。
 中学時代だったが、ひょんなことで、学校のクラブでプラスチック製の米国のコンピューター教材を手に入れた。これがけっこう面白かった。がちゃがちゃとプラスチックを動かしていると、簡単な論理演算ができるのだ。コンピューター技術というのはエレクトロニクスとは原理的に関係のない技術だというのがよくわかった。後に、時たま、「4ビットくらいのCPUなら、公園にピラミッドを造って、上から石の玉を落とすことでもできるのだよ」と人に説明しても、理解してもらえなかった。実際にカイロで本物のピラミッドを見たときも上から玉を転がしてみたい気がした。
 トリオの由来は、とネットを探ると、いい記事「パピーの昔噺:TRIOブランド時代の送・受信機の変遷」(参照)がある。

日本も戦時中、乏しい資源の中から、浅虫海岸の砂鉄鉱床資源から報国製鉄が精錬したフェライトなどを北大研究室に持ち込んで平社(JA8BNの御尊父)・北川(曉)(後の日立中央研究所長)両教授のもとで、実用化研究されていたようでした。戦後これをいち早く工業化して実用品に活用する道を開いたのが、後のJA1KJ春日二郎氏他2名計3名の技術者、詰まり「トリオ」だったのでした。ブランドがトリオ、社名は春日無線工業でした。

 プロジェクトXかなんかで復古話になっているだろうか。
 話は逸れる。私は物心ついたときから秋葉原にいた。父と中央線に乗って、オリンピックで変わっていく東京の光景を見ていた。私の記憶間違いかもしれないが、秋葉原の総武線のあんパンとミルク(牛乳)のスタンドは、あのころからあるような気がするがどうだろう。
 秋葉原に着くと、ジャンク屋というか、汗くさいパーツ売りのあの長屋にしけ込む。コンデンサーだと抵抗だの買う。途中から抵抗がカラー識別になったなとか思い出す。最近、秋葉原に行ってみたがあそこだけは変わらないね。変わって欲しくもないなと思う。
 それとは別によくヤマギワにも行った。なぜかしらないが、父はヤマギワ電機がご贔屓だったようだ。なぜだろう。そういえば、今頃ふと思い出すのが、なぜ父は秋葉原が好きだったのだろう。そりゃ電気屋だから当たり前なのだが、案外職場が近いせいもあったのかもしれない。先日ヤマギワに火事があって、なにか心痛むものを感じた。
 秋葉原の思い出は、無線時代、マイコン時代、パソコン時代と続くがそこまでは書かない。それぞれの時代になにかを残してくれた。秋葉原という町は、なにか、自分の、戦後日本のコアのイメージになっている。

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2004.02.27

網野善彦の死

 肺癌、享年76歳(参照)。もうそんなお歳だったかと思う。訃報を聞いたとき、心のなかでなにやら、「しまった、しくじった」という思いが湧いた。なにを俺はしくじったのか、と心に問うてみてもよくわからない。奇妙な喪失感がある。
 私は網野史観から影響を、当然、受けた。が、畏れ多いが、ライバル視っていう感じか。父親に対する思いのようなものか。

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異形の王権(新書)
 網野史観が1986年「異形の王権」で論壇に可視になったとき、俺はその歴史の光景は知っているぜ。俺だって山野を歩いて自力でその世界をこじ開けてきたぜと思った。幼い嫉妬心のようなものでもあるが、この世界をこじ開けることが、どのように精神に負担をかけるかはそれなりにわかっていた。世人は網野の結果を受け取ったが、私は網野の見えない努力を信じることができた。なお、できれば「異形の王権」は新書版でないほうを薦めたい。絵に意味があるからだ。
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異形の王権(お薦め)

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日本とは何か
日本の歴史
 「しまった」というこの一つに、網野の最終的な著作がなんだかよくわからないというのがある。論壇的には「異形の王権」ということになるのだろうか。あるいは、概論的にはシリーズの巻頭たる「日本とは何か 日本の歴史」なのか、とも思うが、この本は存外に軽い。軽いという点では三巻にする必要もない岩波新書「日本社会の歴史」も同じだ。網野のこうした概論的な本は金太郎飴的でもある。
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日本の歴史を
よみなおす
 存外に読みやすく面白いのは正続「日本の歴史をよみなおす」だろう。女性論など、今から読めばどってことはないのだろうが、90年代前半には物議を起こしかねた。むしろ、その後の歴史学の女性論や性の問題は、現代思想に引きずられるせいか、糞面白くもない。更級日記すら文献として読むような、感性の枯渇した研究者が小賢しいことをほざいて新書にしてどうするんだ、という感じか。その点、網野は良かった。網野は糞な現代思想などに一度も媚びなかった。網野は古色蒼然たるマルクキストでもあった。遺体は故人の遺志で献体された。
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日本王権論
 死なれてみて、網野著作から一冊だけ選べというなら、対談集というのもなんなのかもしれないが、宮田登と上野千鶴子を交えた「日本王権論」がいいと思う。こんなものがイチオシか言われると網野ファンとしては恥ずかしいのかもしれないが、この対談で網野はいまでもブルーフラッグを振るんだと言っていたのが、泣けるじゃないか。泣けよと思う。この爺にそう言われて泣かないやつに歴史がわかるかよと思う。
 ひどい言い方だがテーマたる天皇制など、どうでもいいと思う。今じゃ魔法使いのお婆さんみたいに干上がった上野千鶴子だが、父親同伴だと、かわいげがあるじゃねーか、ってなこともどうでもいい。網野は宮田登との対談が楽しくて、つい心情を解いたのだ。そういえば、宮田登は早々に死んでしまった。享年63歳。2000年2月のことだ。
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もののけ姫
 二人の対談には「神と資本と女性」「歴史の中で語られてこなかったこと」がある。後者は宮崎駿「もののけ姫」の参考にもなるだろうが、とちとタルイ感はある。余談だが、「もののけ姫」は南方熊楠と熊野の世界がある。
 網野は甲州人である。中沢新一と家系のつながりがあったかと記憶しているのだが、ぐぐってみてもわからない。ま、そんなものぐぐるなってことか。同じく甲州人、林真理子とも関係があったはずだ。甲州人というのは深沢七郎的世界でもある。信州人に近い面も多い。
 かく追悼の思いを書きながら、近年は私は網野自身より、彼が晩年プロデュースした宮本常一のほうに思いが流れて行った。網野がなぜ宮本常一を強調したのかは、私にはわかる。これも恥ずかしい言い方だが、私は網野が見てきたものを見てきたから網野に会えたように、網野が見ようとしたものを見続けたいと思った。
 ふと気になって宮本常一の享年を調べると、73歳(1981)、胃癌。網野より若く死んでいたのかと思う。宮本常一は網野より格段の巨人だった。そう言っても網野は怒るまいと思う。本物のマルキストだけが持つ、強くやさしい笑みを返すのではないか。

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2004.02.24

陀羅尼助(だらにすけ)・百草丸・リローラ

 胃腸の調子が悪いものが身近にいたので、陀羅尼助(だらにすけ)でも飲むかと言ったところ、陀羅尼助ってなんだということになった。そうかと思った。それほど有名でもないのかもしれない。確かに、今時、陀羅尼助を飲むやつなんかいないか。
 辞書をひいてみると、広辞苑と大辞林には載っていた。広辞苑にはこうある。


もと陀羅尼を誦する時、睡魔を防ぐために僧侶が口に含んだ苦味薬。ミカン科のキハダの生皮やリンドウ科のセンブリの根などを煮つめて作る黒い塊。苦味が強く腹痛薬に用いる。吉野・大峰・高野山などで製造。だらすけ。

 ちょっとわかりづらい。大辞林はこうだ。

〔僧が「陀羅尼」を唱える時、眠気を防ぐために口に含んだことによるという〕キハダの皮やセンブリの根を煮つめてあめのように固めた、黒くてにがい薬。腹痛などに効く。奈良県の吉野大峯の洞川(ドロカワ)製を良薬とする。

 「吉野大峯の洞川製を良薬とする」というのがおかしい。なんでだろう。余談だが、以前仕事の同僚が大辞林編集に人生をかけた人の知人だったらしく、いろいろ裏話を聞いたものだが、なにか思い入れがあるのだろうか。いや、単に「洞川製を良薬とする」ということは古典常識だよと諭したかったのだろうか。
 ネットをひいてみると、洞川製といっても奈良県吉野郡天川村洞川にはいくつか老舗があるようだ。ネットからは「銭谷小角堂」というのが、ドメイン名からして目立つ(参照)。名前からして小角の伝説が語られているのだが、小角については今回は立ち入るのはやめておこう。
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死者の書・身毒丸
 私は陀羅尼助というと、奈良の当麻寺に詣でるたびになんとなく買っている。面白い時代になったもので、ネットでも購入できるようだ(参照)。当麻寺にホームページがあること自体面白い。当麻曼陀羅もネットで拝見できるが、こういうものは現物を見に行くほうがいい(なお、拝観できるのはレプリカで、現物自体は拝観できない)。当麻寺では曼陀羅の画像も販売している。私は折口信夫に傾倒した時期があり、池田弥三郎注を越える注を付け「死者の書」を現代語訳したいと思ってすらいた。死者の書は当麻寺の中将姫の物語でもある。
 当麻寺の陀羅尼助についての解説は、先の当麻寺のサイトでも見ることができる(参照)。まぁ、どれを見ても成分などは同じで、基本はキハダ、つまり、黄檗になる。
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フジイ陀羅尼助丸
 黄檗(黄柏)は、漢方材の一つ。アルカロイドであるベルベリンを含む。中国の禅宗黄檗宗の由来にもなるくらいなので中国にも多い生薬なのだが、古典的な漢方である傷寒論の主要な処方では見あたらない。有名なのは、黄連解毒湯だが、半夏白朮天麻湯、荊芥連翹湯にも含まれている。が、いずれも、中成医薬に近い。むしろ黄檗は和薬と見ていいだろう。日本人は千五百年は利用し続けていた。何に効くかといえば、とりあえずはベルベリンの抗菌作用(グラム陽性・陰性菌・淋菌へ)だが、収斂剤として、健胃・整腸にも利用されてきた。単純に言えば、万能薬と言っていいだろう。
 この黄檗が日本近代では、クレオソートと配合され、「正露丸」ができる。余談だが、「正露丸」は歴史的には「征露丸」である(参照)。日露戦争に勝ったことを記念して命名されたものだ。「正露丸」に変わったのは第二次世界大戦後であろうか。テレビのCMなどで「ラッパのマークの」とあるのは、そうでないマークの正露丸もあるためだ。ちなみに、大幸製薬の成分はこうである。

正露丸 9粒、成人の1日最大服用量、中
日局クレオソート…400mg
日局オウバク末…300mg
日局アセンヤク末…200mg
日局カンゾウ末…150mg
陳皮末…300mg

 余談だが、なぜ「ラッパのマーク」かということも解説が必要な時代になってしまった。ネットを引くと誤解も多い。ラッパといえば、死ぬまでラッパを話さなかった木口小平(キグチコヘイ)である。彼が亡くなったのは日露戦争ではなく日清戦争とされているが、おそらく伝説であろう。
 関西の薬屋でよく見かけるのは、藤井利三郎薬房のもので、本店の蛙も見たことがあるが面白い(参照)。この成分は次のようになっている。

一日量(60粒中)
オウバク軟稠エキス…1000mg
日局 ゲンノショウコ末…1000mg
延命草末…570mg
日局 ゲンチアナ末…500mg
日局 センブリ末…30mg

 成分中、ゲンチアナは、フランス料理好きならご存じかもしれないが、苦みのアペリティブSuzeの苦み成分である。Suzeについては触れないが、これはなかなかうまいので、お試しあれ。
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御岳百草丸
 私はこの陀羅尼助を愛用していたかというと、そこはそれ、ディアスポラの信州人である。百草丸を好んでいた。気分が悪いときなど、仁丹のように舐めていると、その苦みに癒される。百草丸もまた黄檗主体の和薬である。百草丸にもいくつかブランドがあるが、私が好んだのは長野県製薬御岳百草丸である(参照)。長野県製薬にもホームページがあり、百草丸の歴史が書かれていて面白い(参照)。いや、まったく面白い時代になったものだ。

修験者の間で脈々と受け継がれたオウバクエキス薬は大和国では「だらにすけ」として、そして後に高野山では空海の教え「大師だらに錠」として、また御嶽には覚明、普寛両行者の教え「百草」として伝わる事となる。当然の事ながらその製法は漢方にない日本独自のものである。

 成分は黄檗主体だが、やや違う。

60粒、成人の1日服用量、中
オウバクエキス…800mg
コウボク末…700mg
ゲンノショウコ末…500mg
ビャクジュツ末…500mg
センブリ末…35mg

 こうして改めて成分を見るといろいろ考えさせられる。ふと思い出したのだが、天武天皇が晩年病気になるとき、確か日本書紀では白朮(ビャクジュツ)が献上されていたはずだ。天武天皇は信州文化と奇妙に関係が深い。
 そして、あれっと思ったのだが、厚朴がこんなに多いのかということだ。これでは、黄檗と厚朴の製剤といっていいほどだ、というあたりで、奇妙なことを思い出した。これって、Reloraではないか。
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リローラ
 Reloraは一昨年前あたりから、アメリカで多少ブームになっているダイエット薬である。甘味欲求を減らしストレスを軽減させることで痩せるというのだ。もっとも、それは効能ではなく噂のようでもあるが、販売元では小規模な臨床実験をしていて(参照)、それなりの効果があったという。日本でも輸入品で販売されているようだ。サプリンクスというショップからひく(参照)。

ストレスからの過食予防ハーブ!
リローラは、ミカン科キハダとモクレン科ホウノキから抽出された成分を合わせて配合した商品です。ストレスから来る、過食に対して非常に効果があるという事で、アメリカ国内でも注目をされている新成分です。ストレスホルモンのコルチゾールを減らすことも分かっており、リラックス効果とストレスによる過食を抑え、まさにストレスの多い現代人向けのサプリメントです。

 成分はどうやら、黄檗と厚朴の配合らしい。配合比が特許らしいのだが、基本的にこの配合でなんらかの効果があるというなら、百草丸でも効きそうな気がする。
 とま、健康情報にガセ話を流布してもなんなのでこのくらいにするが、こんなものが特許サプリメントというのは、日本の百草丸を考慮すると、イカンのではないかとも思う。ところで、百草丸で痩せた、ストレスが軽減したという人がいたら、教えてほしい。私も使っているが、特にどってことはない。肥満でもないからか。

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2004.02.23

正しい日章旗の色について

 昨日は天気も良いので所沢の航空公園まで散歩した。自衛隊機などをぼんやり見ながら、機体の日章旗の色に心惹かれた。いい色合いだなと思った。そう思う背景には、日本の国旗として掲揚される日の丸の色が、どうも間違っているとしか思えないのだ。日の丸掲揚を叫ぶ人たちは、このことをどう考えているのか気になる。もちろん、問えば、つまらない答えが得られるのだろう。そんなことは本質的ではないとか云々。つまり、日章旗を愛でているのではなく、イデオロギーに心酔しているだけなのだ。
 詳細を書くのはめんどくさいので省略するが、日章旗は法律で国旗として規定されるようになった。小渕の残した遺産のようなものだ。私は技術屋の末席くらいにはいたので、なんであれスペック(仕様)が気になる。日章旗は国旗及び国歌に関する法律の別記で次のように決められている。


日章旗の制式
(図省略)
一 寸法の割合及び日章の位置
 縦 横の三分の二
    日章
    直径  縦の五分の三
    中心  旗の中心
二 彩色
    地   白色
    日章  紅色

 歴史好きのものからしてみると、日章がやや大きいかなという印象はある。それでも明治3年1月27日太政官布告第59号では十分の七だった。が、それはそれでいいだろうとは思う(日章が本質だから)。白地もさして問題はない。問題は日章の彩色である。「紅色」とある。これは太政官布告第59号を踏襲している。つまり、戦前戦後で日章の色に違いはないはずだ。
 当然ながら、「紅色」というのは曖昧な色ではない。工業的な色彩はJISで決められている。"JIS Z 8102(2001)"「物体色の色名」である。色はマンセル体系で規定されていて、"3R4/14"である。パソコンで再現するにはこれをRGB値に変換しなくてはいけないのだが、この変換式が各人各様といった状況のようだ。モニターの基準によるのだろう。マンセル規格の大元の団体でもRGB値の変換プログラムを配布しているのだが、日本で普及しているモニターだとやや色合いが違う。日本ではシェアウエア「色出し名人」(参照)が普及しているようだが、これだと"BE003F"である。

 まぁだいたい自衛隊機の日の丸の色に近い。というか、これが日章旗の色のはずなのだが、まずもって、日常見かける日章旗でこの色を見たことがない。まったく日本人の色彩感覚はどうしちまったのだろうと思う。
 今朝の産経新聞社説「国旗・国歌 正面に掲げ堂々と歌おう」である。またかよであるが、こう言う。


 まもなく卒業式のシーズンである。どの学校でも、国旗を正しく掲揚し、心をこめて国歌を斉唱する。そんなすがすがしい厳粛な卒業式が行われることを願いたい。

 「国旗を正しく掲揚」する前に、「正しい国旗」を掲揚してほしいものだなと思う。
 なにか些細なことを論じていると思われる人も多いかもしれないが、英霊を乗せた軍機の日の丸の色は、現在の自衛隊機の色と同じである。軍機の展示を見て、その日章の色がくすんでいるように思うような日本人がいては情けないではないか。

追記
広辞苑の電子版を持っているのを思い出し、そこで紅色をひいてみた。マンセル系は同じだが、RGB値が違う。次のようになっていた。こちらのほうが実際に近い。


法制化にあたり、しょーもない議論の記録があった。こんなのを理由に曖昧な色合いとされてはたまらんなと思う。


第145回国会 内閣委員会 第11号(平成11年7月1日(木曜日))

竹島政府委員 紅色というふうに書いてありまして、赤とは書いていないということについてお答え申し上げます。
 一つは、赤とした場合には、白に近い赤から黒に近い赤まで、赤という色の意味する範囲が広い。それに対しまして、日章旗の日の丸の色というのは御案内のとおり鮮やかな赤。その鮮やかな赤ということを意味するために、赤色ではなくて紅色ということで特定性をより正確にしよう、こういうことで紅色という表現にさせていただいております。

145回-参-本会議-43号 1999/08/09

山崎力
 むしろ、法案の中に日の丸の色を赤色ではなく紅色とあるのを見て、違和感すら覚えました。確かに、一般的に流布されている日章旗の色自体は紅かもしれません。しかし、紅色は広く赤色の系統に含まれるものですが、逆に、紅色は赤色系全体を示すことはできません。何より広く国民に浸透している赤のイメージを覆すものであり、同僚議員が異例にも特別委員会で独唱した「白地に赤く」との歌詞は、正確には間違いということになってしまいます。

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2004.02.21

時代で変わるイエス・キリスト

 今週のニューズウィーク日本語版(2.25)にメル・ギブソン(Mel Gibson)監督映画「パッション(The Passion)」(参照)の評を兼ねた「誰がキリストを殺したのか(Who killed Jesus?)」(参照)という記事が掲載されていた。一読して、記事はそれほど悪くはないのだが、現代とはこういう時代なのかと落胆させるものだった。いくらニューズウィークだからといっても、ここまでユダヤ人ロビーに配慮しなくてはいけない時代なのか、と。昨年あたりから、「メリー・クリスマス(Merry Christmas!)」ではなく「ハッピー・ホリデーズ(Happy Holidays!)」が増えたとも聞く。10年以上も前だが、私はDelphiという米国のパソコン通信システムを使っていたのだが、ある日オープニング・メッセージに"Happy Hanukkah!"と出てきて面食らったことがある。が今では不思議でもなんでもない。なんだかな、という感じだ。フィリップ・ロス(Philip Roth)のように毒づきたい気も少しするが、それができるのはロスだけだろう、"Bring back Monica Lewinsky"。
 ギブソンの映画は日本では受けないだろう。タイトル「パッション」という訳出も笑わせる。そういえば、昔「ミッション」というのもあった。ミッションは宣教、パッションは受難である。マタイ受難曲は"Mathew's passion"である。パッションフルーツのパッションも受難に由来する。この花を見たスペイン宣教師がそこにキリスト受難のシンボルを感じたのだそうだ。そうか?みたいな話だ。余談だが、パッション・フルーツは沖縄で人家でもよく栽培されていたので、あの奇っ怪な形状の花をよく見た。
 この映画はキリスト磔刑までの半日を描いているそうだ。バッハなどの受難曲を意識したものだろうと思うが、そうした示唆はニューズウィークの記事にはない。カトリック的な視点から、聖書に含まれる四福音書を満遍なくつなぎ合わせたらしい。それだけで、史的イエスに関心を持つ人間には、まで見る価値がないことがわかる。だが、記事の筆者ニューズウィーク副編集長ジョン・ミーチャム(Jon Meacham)はなにかと史的イエスと映画の対比を論じてみせる。共観福音書、原マタイ、Q資料といった言及もないのにだ。もっとも、そんな言及をしても空しいかもしれない。すでに新約学的には史的イエスというのは、もう終わった話題でもある。史的イエスというものは、再構成できない。Q.E.D.
 それでも、ミーチャムは、少しは勉強しているのか入れ知恵なのか、ヨセフスなどもひいてみせる。


聖書以外では最も信頼度の高いイエスの記録を残した歴史家のヨセフスとタキトゥスは、イエスはピラトに処刑された断定している。カヤパより地位が上のローマ総督は、宗教儀式の日時を決める権利さえ持っていた。
(The two earliest and most reliable extra-Biblical references to Jesus - those of the historians Josephus and Tacitus - say Jesus was executed by Pilate. The Roman prefect was Caiaphas' political superior and even controlled when the Jewish priests could wear their vestments and thus conduct Jewish rites in the Temple. )

 そうだ。歴史的には、イエスはピラトに処刑された見るべきだし、なにより、磔刑はそれがローマによることを意味している。史的イエスはおそらくローマに対する政治犯であったとみるのが妥当だろう。
 ギブソンは描いてなさそうなのだが、イエスを裏切ったのはユダだけではない。鶏が鳴く前に三度否認するという伝承は、原初イエス教団自体の内部からの解体を意味しているとみていい。だから、ミーチャムの次の言及は苦笑を誘う。

イエスが死刑に処すべき重大な脅威だったのなら、周りに支持者の群れがいないのはおかしい。数人の弟子や母マリア、マグダラのマリアだけなのは変だ。
(it seems unlikely that a movement which threatened the whole capital would so quickly and so completely dwindle to a few disciples, sympathetic onlookers, Mary and Mary Magdalene.)

 イエス自身が裏切られたのだ。イエスはきちんとこの世から見なされた。そして磔刑の叫びからは、きちんと神からも見放されていることがわかる。エリエリ・レマサバクタニ。イエスが神から見なされている意義を明確に指摘したのは北森嘉蔵牧師だったな、と懐かしく思い出す。
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最後の誘惑
 顧みると、私はイエス関連の映画を好んで見てきたようにも思う。一番よく出来ていたのは「モントリオールのイエス(Jesus of Montreal)」だ。日本で見た人は少ないのではないか。これはメタフィクションなのだが聖書の引用が多数織り込まれている。聖書を読み込んでいないとわかりづらい点が多い。ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」にもそういう部分がある。ニコス・カザンザキス(Nikos Kazantzakis)原作映画「最後の誘惑(The Last Temptation of Christ)」も冗長だったが、面白いには面白かった。ゾルバ的な世界(「その男ゾルバ」)と対応しているのだろう。この「誘惑」という概念も聖書を読みこなしていないと理解しづらい面があるに違いない。カラマーゾフの兄弟にある大審問官とも関連する。この世を救わんとすることが誘惑なのだ。また、文学的な深みはないが、「ジーザズクライスト・スーパースター」の映画版は映画版ならではの面白さがあった。なにより歌がすてきだ(参照)。と、よだれのように書いてもしかたないな。それでも昔のほうが、イエス物はクオリティが高いと思う。
 「パッション」は、エバンジェリックだのカトリックだのの聴衆を対象としたこの映画の仕立てなので、いろいろ評してみても空しい。とはいえ、ミーチャムの紹介で、一番変な印象をうけたのは、ここだ。

裁判のクライマックスは、カヤパがイエスに「お前は救世主か?」と聞く瞬間だ。イエスが「そうだ」と答え、自分が「人の子」であることをほのめかすと、カヤパはイエスを冒涜者だと宣言する。
(The climax comes when Caiaphas asks Jesus: "Are you the Messiah?" and Jesus says, "I am..." and alludes to himself as "the Son of Man." There is a gasp; the high priest rends his garments and declares Jesus a blasphemer.)

 おやまぁ。イエスが自身を救世主=キリストと宣言したことになってしまったか(もっとも、英文のほうはもう少し含みがある)。これで「メシアの秘密」の問題もおちゃらけだな。シュバイツアー「イエスの生涯 メシアと受難の秘密」などもナンセンスになった。現代とはそんな時代なのだ。
 ミーチャムの記事の結末はブラックユーモアかもしれない。

イエスを救世主と信じる者も、道徳的哲学を残した紀元1世紀の歴史的人物とみる人も、この点については同意するはずだ。ナザレのイエスは、暴力を前にして平和を選んだ。憎しみに愛で、罪には許しで応えた全人類の手本だった。
(Amid the clash over Gibson's film and the debates about the nature of God, whether you believe Jesus to be the savior of mankind or to have been an interesting first-century figure who left behind an inspiring moral philosophy, perhaps we can at least agree on this image of Jesus of Nazareth: confronted by violence, he chose peace; by hate, love; by sin, forgiveness?a powerful example for us all, whoever our gods may be.)

 イエスはこの世に平和をもたらしに来たのではない。ちゃんと聖書を読めよと思う。史的イエスは再構成できないが、福音書はイエスをそう描いているのだ。イエスを現代の安っぽい平和主義やヒューマニズムで評価しようとするのは小賢しいことだ。マザー・テレサがなぜカルカッタに路上に死につつある人を助けたか。ヒューマニズムなどこれっぽっちもない。彼女はイエスの奴隷だったからだ。イエスがそうしろと命じたからだ。それだけだ。
 イエスは自身への罪に許しで応えたのではない、「あなたが許しなさい」と伝えて回ったのだ。「そうすれば許されるから、ちょっといい話じゃないかね」と。「おまえさんの罪を許す相当な対価がなくてもいいんだぜ、棒引きだぜ、いい話じゃないか」というのが、福音、Good New!の意味だ。イエスはアラブ商人のようなユーモアにたけた人として聖書に描かれている。イエスの言葉や行いにはたっぷりジョークが詰められている。
 残虐好みの西洋人には、イエスが理解しづらいのだろう。そうそう「パッション」は、予告宣伝を見てもR指定がわかる。子供に見せる映画じゃない。

2004.02.21 in 歴史 | 固定リンク | コメント (8) | トラックバック

2004.02.19

岡本行夫・佐藤陽子・池田満寿夫

 品のない関心なのだが、文藝春秋「イラク派遣『立役者』が落ちた陥穽 首相補佐官 岡本行夫『二つの顔』 総理補佐官と上場企業役員「二足の草鮭」の大矛盾」(歳川隆雄&本誌取材班)に描かれている岡本行夫のプライバシーに関する話が、どうも心に澱のように残るので、少し関連して思うことを書いてみる。
 文春のこの記事は、記事としては、岡本の「二つの顔」、つまり、公私のありかたが問題なのだろう。が、私はそのことにはあまり関心がない。岡本がなんらかの事件が隠しているわけでもない。なんとなくだが、これは岡本へのやっかみであり、読者もそんな気持ちを共有しているのでないか。私は、やっかみというより、岡本に羨望のような感情を抱いていた。あの歳(58歳)で仕事もでき、頭も切れる。なにより、かっこいいじゃないか。というわけだ。だが、うまく言えないのだが、やっかみの気持ちより、この男、なにかを隠しているな、それはなんだろう?という感じがずっとしていた。
 吉本隆明が文学者を評価するとき、これは実に面白いことなのだが、その文学者自身の美醜をつねにまぜかえしていた。具体的な文脈は忘れたが、池澤夏樹の父福永武彦を表して、あれは美男子だからダメだね、ってなものである。そのダメさ加減は、いくばくかという以上に池澤夏樹にもあてはまるような気がして、不思議な滑稽さを導く。もちろん、そんなことは文学にも人物にも評価に関係ないこと、というのが我々の社会の建前だ。しかし、実際、世の中を生きていけば、そうでもないことがわかる。たぶん、35歳から40歳くらいのところに、美男美女達を収納するリンボのようなものが世の中にはあるのだ。逆に、私は鈴木宗男のことはほとんどしらないが、あのツラは仕事をする人間のツラだなと思う。それなりの男の色気のようなもすらあるのだとも思う。女もそうなのだが、男のほうがわかりやすいのは、そのリンボを越えた人間のツラというものだ。男についていえば、40歳を過ぎた男には女の恨みとでもいうのだろうか、女の汁か、なんだか知らないがなにかがべったりとこびりつく。それは凡庸である以外、避けることができないものだろう。
 岡本に私が関心を持ったのは、沖縄の問題だ。1996年、彼は橋本内閣で沖縄担当の首相補佐官となる。約8年前か。もうそんなに経つのか。彼は50歳だったのか、と奇妙な感慨がある。文春の記事によれば、昭和63年(1988)北米一課長時代、そして経世会に接近したという。平成2年(1990)イラクがクウェート侵攻をしたときも小沢と連携して活躍したようだ。そして、翌平成3年に外務省を退職する。
 私はそういう表向きのパーソナルヒストリー自体にはあまり関心がない。私はもっと品のないことをあれこれ思う。彼が頭角を現す昭和63年というと43歳。厄を終える歳だ。自分を省みても、そのあたりは、まだ若い頃の気力と経験が充実している。そして、北米一課と言えば、当然連想するのは小和田雅子だ。岡本は彼女の直の上司だったわけだ。彼女が結婚したのが平成5年(1993)である。彼女がけんもほろろにマスコミを蹴散らしていた映像が思い浮かぶが、その頃、彼女の課長さんは退職されたのだろう。
 文春には早坂茂三の回顧として昭和54年(1979)のことが出てくる。目白御殿に34歳の北米一課首席事務官がやってきたというのだ。そのころ、彼は早坂に離婚のことを語っている。相手は佐藤陽子だ。知らなかった。私はそこを読んで、なにか、胸と胃の中間に、ずしんという感じがした。岡本が離婚していた。あれは離婚した男のツラかということもだが、佐藤陽子という名前に、まるで女房に大学時代の恋愛相手の名前がばれたような感じもした。私は高校時代佐藤陽子が好きだったなと思い出す。岡本と佐藤は熱烈な恋愛結婚だったそうだ。もちろん、そうだろう。女は佐藤陽子なのだ。

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カルメン
マリア・ユーイング
 インターネットにまみれているような自分だが、それでも不思議な時代になったものだと思うのは、すぐにモニター(そうモニター!)に佐藤陽子のホームページとやらが出てくることだ。プロファイルも掲載されている(参照)。1949年、福島生まれ。1975年には「1月、6月とカラス女史唯一の弟子として薫陶を受け、10月、ルーマニアのブカレスト国立歌劇場から『蝶々夫人』でデビュー、絶賛を浴びる。」とある。私は見ていないのだが、カラスは近年「マスター・カラス」で、そして「永遠のマリア・カラス」で伝説的に回顧される。私はどちらも見ていない。私の眼には障害があるので映画は通常どおりに見ることはできない。が、それほど見る気もない。マリア・カラスのシュミラクルなど要らないからだ。映画では、劇中劇「カルメン」が再現され、そこで全盛期の歌が使われているらしい。マリア・カラスのカルメンを見た人間は幸せというものだろう。録音からすら、その激しい劇の心情が伝わってくる。もっとも、カルメンについては、ファニーな顔つきのマリア・ユーイングも悪くない。これはこれで、哀れに揺れる女が出ている。と、話が逸れたようだが、マリア・カラスというのは、まさに女のなかの女だろうし、歌姫として絶世の存在だろう。おそらく、「マスター・カラス」の資料になったと思われる彼女の指導録(「マリア・カラス オペラの歌い方―ジュリアード音楽院マスタークラス講義」)を読んだことがあるが、歌というものへの恐ろしいほどのインサイトに満ちていた。
 佐藤陽子はそのカラスの弟子なのだ。レトリカルに言うのではない。そうでなければその音楽と生き様はわからないだろうという気がする。プロファイルでは、1979年に「池田満寿夫とM&Y事務所(有)を設立」とある。早坂の回顧に出てくる岡本の年でもある。岡本と佐藤との青春の残像はそこで完全に終わった。佐藤陽子、30歳である。岡本と結婚した年代はわからないが、そう長い日々でもなかっただろう。
 池田満寿夫はいつ死んだのだったっけ。正確に思い出せない。彼もネットにプロフィールがある(参照)。「その旺盛な制作活動のさなか,1997年3月8日に63歳で逝去。」つい最近のような気もするし、けっこう昔のような気もする。63歳かまだ若いなとも思う。私の父は62歳で死んだ。私もあと20年は生きられないだろうなと思う。しかし、そのくらい生きたらいいかとも思う。
 池田の死因は、急性心不全だった。避けられなかったかとも思うが、その前年、体調の不調で脳梗塞と診断されている。栗本慎一郎みたいなものか。そういえば、小渕恵三も似たようなものだ。そのたあたりで、地獄の門が一度ぱかっと開くのだろう。邱永漢が無理をしても50歳までは生きる、と言っていた。そこでまず第二陣が倒れる。第一陣は尾崎豊のような部類だ。池田満寿夫や私の父などは第三陣だ。
 池田満寿夫は昭和9年(1934)、満州奉天で生まれる。現代中国語で言うなら、中国東北部瀋陽だ。長野に引き上げている。長野県は満州引き上げが多い。そう長野県、信州である。どこで生まれようが、信州人は信州人だ。二世でも私はわかる。彼が後年書いた高校のころの思い出にある感性は信州人だなと思ったものだ。
 高校卒業後、芸大に挑戦しては失敗した。が、昭和32年(1957)、第一回東京国際版画ビエンナーレ展に入選。私が生まれた年だ。以降版画家として名声をなす。1966年にはベネチア・ビエンナーレ版画部門大賞を受賞。私は池田の作風が好きだが、そのエロス性はどこかピカソの版画を払拭しきれないような感じがする。ピカソの性の力は、あのケンタウロスに象徴されるように、どこか西洋人らしい獣性に満ちている。が、池田は果てしない母性のような、あるいは母性の恐怖のようなものが感じられる。
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女のいる情景
  1977年に「エーゲ海に捧ぐ」で第七十七回芥川賞を受賞。自ら監督として映画化。私の青春が始まらんという時代なのでよく覚えている。1980年に佐藤陽子と披露宴を開き、以降、池田と夫婦のようになるのだが、入籍はしていない。入籍はできない。池田の前妻が厳格なカトリシャンで離婚に応じなかったとされている。先妻と佐藤の間の、池田の女遍歴は、「女のいる情景」から伺い知ることができる。面白いといえば面白い。
 今にしてみると、後年の池田はマスメディアに擦り切れていったような印象も受けた。本当の才能を些細な分野に分散させすぎたような気もする。が、それでも、古典的な意味で芸術家というイメージの最後の人だったようにも思う。彼のぼさっとした頭髪と、ぬーぼーとした表情、語り口は、いつも、男のイノセンスのようなものを与える。それが魅力でもあるが、それは同時に狂気的ななにかでもあったようにも思う。
 池田の喪主は佐藤陽子となった。池田とは18年くらいの日々だったか。幸せであっただろうなと思う。池田と佐藤の歳の差は15年。以前は随分と歳の差があるように思えた。しかし、自分も中年になってみると、そのくらいが男と女の許容範囲かなと思う。ルチアーノ・パバロッティとかポール・マッカトーニーは例外だね。

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2004.02.17

韓国の大相撲興行にふれて

 今朝は社説ネタで気になる話題はほとんどなかった。朝日新聞社説が「大相撲訪韓――じかに触れ合う面白さ」と韓国で興行中の大相撲について触れているが、せせら笑いを誘うようなものだ。


日本の衛星放送が韓国でも映るようになった90年ごろには、相撲中継がやり玉にあげられ、文化侵略論が高まった。「シルム(韓国相撲)があるのに、子供たちが日本の相撲のまねをするようになった。親日的な人間になってしまう」といわれた。

 韓国中央日報記事「<取材日記>わだかまり残る『シルムと相撲』」(参照)も戦後世代の記者なのだろうなと思う。

 まず、文化交流の韓国側当事者である民俗シルム関係者が、誰一人招待されなかった。 「行事の参加の是非を問うファックスが1枚届いただけ」と、シルム連盟関係幹部は不快さを隠せずにいる。 相撲の本流であるシルムへの待遇がなってないという思いがある。 植民期に相撲から受けた弾圧も、忘れていないようだった。
 一方、ある日本の新聞が最近のコラムで、シルムを「スポーツ刈りにパンツ姿」と書いた。伝統と体系が弱いという彼らの理由からシルムを相撲と同格に扱うことを敬遠する日本人の本音が見え隠れする。
 そうしたわだかまりと視点の違いを残したままかけられた、文化交流の最初のボタン。 なにぶんにも、重く冷たい印象だった。

 んなこと言われてもよー、みたいな話だ。むしろこの手の制度的な発想を今回の興行は破ったとも言えるのだろう。が、今さら相撲かねとも思う。
 関連で面白いなと思ったのは、朝鮮日報記事「【記者手帳】隠された歴史“韓国人横綱”」(参照)だった。

 1971年、日本で力士1人が若くして亡くなった。シルム(韓国相撲)の天下壮士にあたる「横綱」玉の海が、急性肝炎で27歳の生涯に幕を閉じた。彼が相撲界を制して1年8カ月目のことだった。
 彼の故郷、愛知県には記念館と銅像が建立されたが、彼が「ユン・イギ」という名前を持つ韓国人だったという事実を知っている日本人はほとんどいない。
 1979年、57代横綱に昇進した三重の海も、李五郎(イ・オラン)という韓国人だ。相撲界入門直後に帰化した彼は、日本人、石山五郎になった。日本のメディアはこのような事実を一切取り上げなかった。日本の国技の頂点に韓国人が上り詰めたことを認めたくなかったのかもしれない。

 というわけで、高信太郎は日本人ではないということになった。「おもろい韓国人―愛があるから、ここまで言える」を韓国人に読ませたいなと思う。キョッポは都合のいいとき名誉ある韓国人なのだ。また、日本に帰化したら日本人だよ。それ以上にメディアが私生活に立ち入るべきなのか。
 話は変わる。沖縄には伝統的な「沖縄角力」というものがある。「沖縄角力」のホームページ(参照)に写真と簡単な説明がある。ついでにもう一つ池澤夏樹がさらっと書いた「沖縄角力(おきなわすもう)」(参照)の話もある。現地では現在子供も祭りではシマ(沖縄角力)をやる。戦前からやっていたようだ。よく見かけた。
 モンゴル相撲との関連では「ブフ(相撲)文化から見るモンゴル世界」が示唆深い(参照)。読めば、あれこれ思うことがあるのではないか。
 なんか脱力してまとまったことを書く気にならないが、日本人も韓国人ももっと沖縄の文化のことをきちんと考えるべきではないか。沖縄=琉球をパラメーターに入れることで、日韓の各種の問題が違った様相になる。

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2004.02.16

仏教入門おわり(補遺)

 今月の文藝春秋の仏教特集を読みながら、自分と仏教との関わりをちょっと書いてみたくなり、書いてみると、思ったより長くなりそうなので、4回に分けた。書き残しはいろいろある。が、あとは余計なことだ。とはいえ、その余計なことを少し書いて、終わりにしたい。
 法華門については触れなかった。日本の仏教は天台宗を基軸としているし、私は比叡山から坂本の地が好きだ。酒井阿闍梨も素晴らしいと思う。法華経は教養として誰も読み下し文なり、口語訳なりは読んでおくべきだとは思う。日蓮の主要著作も歴史的には興味深い。特に、その弟子たちの活動が歴史的には面白いと思う。日蓮については、私は千葉の誕生寺とその界隈の伝説が好きだ。私の気質はむしろ日蓮に近いかもしれない。が、それ以上の関心はない。ご覧通り、私は、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊である。
 仏典については、法華経以外に、ドラマティックな維摩経や勝鬘経など教養人は口語で読んでおくべきだろう。それは読みものとしても面白い。柄谷行人が中論などに関心をもったように、ナーガルジュナの中論などはウィットゲンシュタインのような知的な関心を誘う。困ったことに、この分野の知性は、そこに究極の答えがあると幻想する。仏陀の正覚がそれを解消するのだという思い込みがある。困ったことだと思う。そんなものはない。予見する脳は見いだすことができないからだ。
 仏教をいくら書籍で学んでも、日本の歴史に刻まれた仏教文化はわからない。なぜ阿弥陀、薬師、観音がセットになっているかを知るには、まったく違ったアプローチが必要になる。また、民俗にとけ込んだ仏教的な要素もなかなかわかりづらい。四十九日の由来などは、バルドトゥドゥル(チベット死者の書)など読んで勝手に理解したつもりでもいいかもしれないが、民俗仏教については、道教も含めて、もっとわかりやすいガイドブックがあってもよいように思う。が、一冊の例外を除いて知らない。その一冊は絶版だろうから、記さない。
 私は良寛についてなにか書きたい気もした。彼は、若い日に道元を深く理解していながら、なぜあの人生を歩んだのか。こういう考えは文学に過ぎるのかもしれないが、道元には不思議な優しさがある。ある程度、道元を読み込むうちに、その気品ある優しさに気が付く。そしてそれに虜になってしまう。懐奘が道元に従ったのは、それだろうと思う。この優しさのなにかに、なしかしら苦悩と悲しみも感じられる。それは、良寛にも感じるなにかだ。私の勝手な妄想かもしれない。が、道元の教えのなかに、良寛のような生き様が含まれているように思える。漱石は晩年、良寛の書を心の慰みとしたと聞く。良寛には、道元と通底する、悲しみのような優しさがある。
 私は仏教を含め、宗教には救済を求めない。それが矛盾でもあるのはわかる。そうでなければ、こんな泥を這うような愚かしい知の営みはなかっただろう。うまく言えないのだが、宗教的に語られる救済には、なんの意味もない。信じること、知ること、そうした営みとして形成される追加物としての救済に、意味はない。恥ずかしい表現だが、魂の孤独に至り、その無間の闇のなかにあるとき、歴史を越えた仏徒たちをほのかに感じるだけだ。神秘的な感覚ではない。あたりまえの感覚として。
 と、そういえば、文藝春秋の宮崎哲弥は手塚治虫の「ブッダ」をお薦めから落としていたが、あれは面白い物語だ。ダイバダッタ(提婆達多)の話がいい。仏徒は人間の憎悪というものを知らなくてはいけない。この漫画は、登場人物が手塚らしくエロティックに描かれているのもいい。ついでにいえば、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」も面白い。ここでは、仏陀はゴータマとして、主人公のシッダールタ(これは仏陀の名前でもあるのだが)とは別の人間に描き、そのシッダールタの悟りを最後に語らせている。ここからヘッセの哲学だのユンク心理学などを読み取るのは愚かだ。この物語から読むべきは、愛欲と子を持つ人間の苦しみだけである。それだけで十分だ。

2004.02.16 in 歴史 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

仏教入門その4

 禅について書いても、無意味なのではないかという気もする。世人は玄侑宗久「禅的生活」で満足しているようだ。日本の禅は臨済禅か。私には関係ない。が、今禅について思うことを少し書いてみたい。

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臨済録
 禅について書かれた本は面白いが。それは罠だ。禅の障害である。そうわかっていても、面白いものは面白い。この一冊というなら、臨済録だろう。最後にオチもある。臨済の禅は臨済の死をもって終わる。本当に終わったのだ。
 臨済に関連して中国禅の話は柳田聖山「禅思想」が面白いには面白い。柳田聖山のものはよく読んだが、もういい。我が邦の禅師では一休宗純。その狂雲集はどうか。隠元、白隠、鈴木正三の語録はどうか。もういいなと思う。
 碧巌録はどうか。無門関はどうか。趙州無字。犬に仏性はあるか。くだらない。この公案の答えは、くだらない、だ。
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正法眼蔵
 なぜか。それは「一切衆生悉有仏性」をなんと読み下すかにかかっている。そこに禅は極まると思う。これは、「一切は衆生であり、悉有は仏性である」と読み下す。これを「一切衆生は悉く仏性有り」と読み下す者は、外道である。
 この話は道元の「正法眼蔵」の「仏性」に説かれている。と言いつつ「正法眼蔵」は難解で読み切れない。仏教用語については、水野弥穂子がこれ以上ないというほど懇切に注をつけているし、さらに、彼女は原文対照現代語訳・道元禅師全集で正確な現代語訳も付けている。でも、わかりやすくはない。正法眼蔵をわかりやすくすることはできない。石井恭二の現代語訳は無意味だ。
 恥ずかしい言い方だが、恐らく、道元の世界はフラクタルに出来ている。彼の禅の全ては「悉有は仏性である」で極まる。それは現成公案と同型だろうし、現成公案は正法眼蔵と同型だろう。幸い現成公案は、正法眼蔵とは異なり、道元が世俗の弟子にあたえた詩文なので、読みやすい。私は、現成公案の解釈、どれ一つとして納得したことはない。
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正法眼蔵随聞記
 懐奘のノートである正法眼蔵随聞記は、正法眼蔵にくらべ難しいところはない。水野弥穂子校訂のちくま学芸文庫「正法眼蔵随聞記」は長円寺本を元にしていて正確であり必携でもあるのだが、読みづらい。和辻哲郎によるワイド版岩波文庫「正法眼蔵随聞記」は読みやすい。改定は中村元だ。長円寺本との差異を知りつつ、これはこれとして読まれてきたのだと弁解を加えている。難はある。が、江戸時代の面山本は現代人でもそのまま読める。訳語なくそのまま読めるのは嬉しい。
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『正法眼蔵随聞記』
の世界
 随聞記にこだわるようだが、水野弥穂子「『正法眼蔵随聞記』の世界」はお薦めしたい。丹念に道元や懐奘らのドラマを描き出している。立松和平が話を加える必要などない。
 禅については、それだけである。正法眼蔵随聞記を読み、正法眼蔵の頭に置かれた現成公案を暗記するまで読み、正法眼蔵をひもとくことができれば、そこまでである。

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西行忌

 あちゃー。と、呟いてしまった。書けば非難に聞こえるかもしれん。とも思うが、しかし、この話は言及しておいたほうがよさそうだ。最初におことわりしておくが、以下の話、非難の意図はまるでない。ご了解願いたい。
 ネタ元は、余丁町散人先生の今日の話題だ(参照)。


2/16 Today 西行忌 (1190)
西行が死にました。73歳でした。生前望んでいたとおりの時期でした。

   願はくは
   花のしたにて
   春死なん
   そのきさらぎの
   望月の頃 

以来、これにあこがれる人が続出。だから、梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体がいっぱい」と喝破したのだと思う。


 今日が西行忌とされることは、間違いとは言えないご時世なので、それはそれでいいのかなと思うが、それに併せて、この歌がくると、ちょっと、困る。冒頭、あちゃーと呟いたのはそれだ。
 エレメンタリーな話を書く。「望月の頃」というのは、「満月の頃」という意味だ。そして、「きさらぎの望月」といえば、これは、如月が二月、そして、満月は十五夜ともいうように、十五日のことだ。だから、「そのきさらぎの望月の頃」と言えば、二月十五日を中心に、せいぜい二月の十三日から十七日くらいのことを指す(ところで現代では十三夜は死語であろうか)。
 新暦になってしまった現代人にはわかりづらいのかもしれないが、旧暦で生きる人間(私がそうだ)にしてみると、旧暦でその月の十五日はかならず満月なのである。旧暦とは月の満ち欠けでできているムーンカレンダーであり、日本人と限らず、アジア人はこの月を見ながら歴史を刻んで生きてきた。
 その意味で、「そのきさらぎの望月の頃」が、新暦の今日であるわけはないのだ。今日は、旧暦の一月二十六日、これから新月に向かうのである。余談だが、新月は朔日、つまり旧暦の一日で、太陽と月と地球の位置関係を想起していただきたいのだが、この日には、日食が起こる可能性がある。そういうわけで、朔日には古代の人は太陽の満ち欠けを気にする。なぜか、太陽は皇帝の運命に関わるからだ。
 話を戻す。新暦の今日の日では、西行の死の情感は薄いのである。また、旧暦を考えれば、「花のしたにて」もわかりやすい今年を例にすれば、旧暦の閏二月十五日は、新暦の四月四日。その日、日本は桜が満開になっているだろう。なお、散人先生に計算していただいたところ、西行が死んだ1190年の旧暦二月十六日は新暦では三月二十三日になる。桜が咲くのである。
 この歌にはもうひとつ背景がある。なぜこの日に死にたかったのかというと、この日が釈迦入滅の涅槃会だからだ。余談だが、涅槃とはニルヴァーナのことだ。知らない人が多くて泣ける。西行は釈迦の涅槃になぞらえて死にたいと思ったのだ。
 実際に西行が死んだのは、旧暦の二月十六日(1190)。というわけで、一日違いはあるものの予言どおりの死に近代人は驚嘆し、西行忌も十五日とするのだが、あの時代に、彼のような僧の人生を考えれば、これは、自殺だろう。といって、服毒などではなく、餓死であったと思われる。
 餓死説は山折哲雄も言っていたが、彼の場合は最近の彼の趣味のようなものだが、私は、西行ゆかりの歌枕である「壺の碑(つぼのいしぶみ)」を想起してそう思う。歌枕がなんであるかは、さすがに面倒臭いの解説しない(高校で教えるのではないか)。
 私は大伴家持の人生に関心を持ち、多賀城へ旅したことがある。そこに、歌枕「壺の碑」があるのだが、これは、近世以降の誤解。壺の碑は、坂上田村麻呂が蝦夷征討を記念して建たと言われ、伝承では青森県上北郡天間林村らしい。これが後世、芭蕉の奥の細道を読めばわかるが、江戸時代には宮城県の多賀城の碑と混同された。
 話の順をとちったが、健脚西行は青森まで旅をしているのである。当然、その風土を見ただろう。風土とは、藤原三代を想起してもいいが、ミイラの文化だ。私は西行はここで、ミイラとしての即身成仏を見ていたのだと思う。

追記(2004.3.3)
 今年は2月が閏月になること、及び散人先生のご提言を合わせて、本文を修正しました。

2004.02.16 in 歴史 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

2004.02.15

仏教入門その3

 浄土教については、自分の宗教的な関心から歴史的な関心がおろそかになりがちになる。だが浄土教に宗教的な救済を求めることは無意味だとも思う。が、それは確実に私の一部となっている。
 15年くらい前になる。一人熊野詣で山を越えて歩き回ったことがある。山の中腹でふと振り返ると、眼下に昔の大社跡が、それがなるほどというくらい、浄土のように美しく見えた。浄土教というのは、あの美しさや輝きを持つものだと思った。また、のたれ死にも悪くないと思えるほどの孤独に感覚が麻痺していたころ、当麻寺の練供養会式の後の春の夕暮れが浄土を連想させるほど美しかった。飛鳥のレンゲ田にたたずみながら、多数の天人たちが今、大空から駆け下りてきても不思議でなく思えた。あの陶酔感や、沖縄のエイサーのもつ躍動感のなかに、浄土教の歴史的な扉があるのだと思う。その美に惹かれる。それでいて私は宗教的にはいつも浄土教にはなにかに戸惑っている。

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人生論ノート
三木清
 浄土教は、日本の宗教史としては、法然を経由し親鸞、そして蓮如、清沢満之というように影響を与えてきた。特に、歎異抄が明治に発見されてから、親鸞は門徒から離れて独自の宗教的かつ知的な対象となった。なかでも三木清が痛ましい。獄中で彼は親鸞を選び取っていた。そうさせる思想の力が親鸞にはある。昭和20年9月26日。彼は独房寝台から転げ落ち死んでいた。それこそ摂取不捨の利益というものなのだ。皮肉を言っているのではない。思想家はそのように死にうるものなのだ。
 親鸞について書かれたもので私が一番深く影響を受けたのは亀井勝一郎の「親鸞」である。旺文社文庫のものだ。現在では全集でしか読めないのではないだろうか。この本の評価は難しい。だが、とにかくそれが私の一部であったことがある。亀井勝一郎については全集も読んだが、今となっては親鸞以外残るところはあまりない。保田與重郎も忘れた。
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最後の親鸞
 吉本隆明「最後の親鸞」については、私はわからないではない。が、それはほぼ吉本の思想と一体化していて、親鸞という文脈では面白くはない。吉本の親鸞論で重要なのは、オウム真理教事件を介した造悪論だけだ。が、彼はそれを明確には展開していない。展開することなく、このまま彼は死んでしまうのだろう。
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歎異抄
 歎異抄は、すこし粘りけがありすぎるが梅原猛による現代訳と解説のものが面白い。また、その考察面でも悪くない。「教行信証」は金子大栄注のものが岩波文庫にある。読みづらいといえば読みづらいし、退屈といえば退屈だ。晩年の親鸞がなぜこれを成したか、またそれは浄土教史にどのような意味を持つか、私は十分な論説を読んだことはない。
 教行信証関連で、自分にとって気になるのは、親鸞が阿弥陀という存在を「自然(じねん)を知らしむる料なり」としている点だ。この問題は私にとってキリスト教的な神学的な問題でもある。妙好人において、阿弥陀は「あなた」という二人称的な存在であったが、親鸞の内部ではそうした人格性の存在(マルチン・ブーバーの言う我-汝の存在)が解体されていたのではないか。それは、人の究極の救済において可能なのか、という点だ。わからない。
 親鸞は和讃も面白い。「親鸞和讃集」も岩波文庫にある。親鸞の言葉の感覚の繊細さを文学として論じたものは、先の亀井以外に見たことがない。
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法然の哀しみ
 法然については昨今話題だ。面白いには面白い。特に面白ければいいというなら、「法然の哀しみ」が面白い。私はしかし、浄土教の点でそれほど重要な考察だとも思えない。蓮如については丹羽文雄「蓮如」が優れている。長いのが難点だが、読みやすい記述になっている。蓮如以前の歴史記述が特に優れている。晩年の親鸞を想起しやすい。また、覚如などについてもわかりやすい。丹羽の「親鸞」はつまらない。
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蓮如
 蓮如については、彼自身の思想というより、おふみ(御文章)を読むことは日本人の役目になりつつある点が重要だろう。岩波文庫の「蓮如文集」が手頃だ。私は父の死に際して、おふみを聞くことになった。現実にいうそう場で、声の厚みのある僧の声で聞くことは、不思議な印象を与える。日本語という言葉の持つ魔力のようだ。信はそのなかにあるような錯覚がする。
 浄土教については、まるで藤原道長のごとくだが、自分の死の瞬間という問題ともときおり関係している。私は確実に死ぬ。私が死を迎えるとき、その意識性はどのような自然性を持つのだろうか。雑駁に考えれば、死の恐怖は、死の瞬間にピークを迎えるようでもあるし、諸生物を見ても、差し迫る死から逃れるように出来ている。が、生物には、死を歓喜として促すなんらかの仕組みが埋め込まれているようにも見える。それが、死の瞬間に作動するのではないか。それが浄土教の意味ではないか。そのまばゆいばかりの美のなかで人は死ねるのではないか。それは、たぶん、妄想である。恐らく、死は眠りと変わりないだろう。

2004.02.15 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

朱子学は道教

 朱子学なんていうものは、道教できまりと思っていたが、ネットをちょっとぐぐってみたら、まだ定説にもなっていないのかと、ちょっと唖然とした。そしてちょっと反省した。こりゃちょっくら世間様にすり寄るべきだったか、なと。
 そう思ったのは、ryoさんの次のコメントだった。


それに朱子学が道教だというのはいったいどっから来てるのですか.超越性の内在という点で禅と似てるというのならまだしも(もちろん朱子は道教も仏教も批判しますけど,一面では相当継承している箇所があるわけです).それこそ(やな言い方ですが)「と」じゃないですか(笑)極言なんていうけど,単に不用意だと思います.

 とご指摘いただいて、あれ、と思ったのだ。
 ただ、ryoさんは、極東ブログのレトリックをお楽しみにならないようなので、ちょっと残念。というのは、次の指摘は、ちょっと、トホホ。

以上の話は実はどうでもよくて,僕は単に読みながら冷笑的に傍観していただけですが,ちょっと今回の話はひっかかる.漢字が表音文字だと強弁されるのはまぁいいとして,だからといって四書五経が無内容だというのはあまりにひどい妄想(笑).そりゃあなたのように音声によって担保されてなければ意味がない,とまでおっしゃるのならば,四書五経が無内容ということになりますが,意味はべつに音声だけで決定されるもんじゃない(まぁソシュールのラングをむちゃくちゃに解釈されてるんだから仕方ないけど.もちろん「正しい」解釈に訓詁学的にこだわるのもくだらないわけですが).

 ありゃま。私は四書五経の評価については、すでに述べていた。以下のように考えているのである。

「極東ブログ: 教養について」参照
 こうした自由七学芸に相当するのは東洋では四書五経である。四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」、五経とは「書経」「易経」「詩経」「春秋」「礼記」。大学生になったら、いちおうイントロダクトリーな部分くらいは読んでおけよなとも思うが。そういうと、日本の文脈では「論語」「孟子」がメインになる。だが、重要なのは、「易経」「詩経」なのだ。と言っても空しいが、が、それより重要なのは、「三字経」や「千字文」なのである。

 というわけで、四書五経なんて無内容でもいいのだよというのはレトリックで、日本の大学生はこのくらい教養として読んでおけよと思う。
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大学・中庸
 で、その四書五経なのだが、四書「大学」「中庸」「論語」「孟子」だが、こういうセットはもろに朱子学のイデオロギーによるものだ。大学と中庸は、もとは「礼記」にあったものだが、朱子、つまり、朱熹が独立的に抜き出して四書として並べた。並べただけならいいのだが、これに念入りの注を加えた。というか、その注が四書五経の四書の正体なので、この古典を現代注で読んだのでは、四書五経の理解にはならない。というか、四書の理解っていったいなんなのだということになる。この問題は、朝鮮史の理解に波及する。
 この話は、実際に岩波文庫になっている特に「大学・中庸」を読むと面白い。またしても、金谷治先生なのがいいのか軟弱なのかわからないが、先生の訳・解は読みやすい。何より、先生の解釈はよいのである。大学と中庸について。

この両書を朱子学の「四書」の枠の中に置いて読むのは、近世以降の正統的な読み方である。

 そうなのだね。が、この先がふるっている。

 ただ、朱子の解釈に従って忠実に読むというのは、十二世紀の朱子の哲学を学ぶことに他ならない。もちろん、それもそれとして意味のあることではあるが、それでは原典との間で大きな隔たりができる。厳密にいって『大学』と『中庸』とをそれとして正しく読んだことにはならない。

 ということなのだ。この先、金谷治先生は仁斎にふれる。が、それはさておき、「朱子が定めた四書の大学、中庸を朱子の注で読むと、読んだことにならない」と喝破される点が需要だ。そのくらいまでは言っても「と」でもあるまい。
 で、朱子学だ。一般的にはこう言われている。広辞苑を引く。

宋の朱熹によって大成された儒学説。禅学の影響に対抗しつつ、周敦頤に始まり程コウ・程頤などのあとをうけて旧来の儒教経典に大胆な形而上学的新解釈を加えて成立。理気説による宇宙論・存在論、格物致知を基とした実践論を説く。日本には鎌倉時代に伝えられ、江戸時代に普及して、官学として封建社会の中心思想となった。朱学。宋学。道学。

 というのを真に受けると、ryoさんのように「超越性の内在という点で禅と似てるというのならまだしも(もちろん朱子は道教も仏教も批判しますけど,一面では相当継承している箇所があるわけです)」という評価になるし、ふーむ、世間ではそういうことか、となる。茶化しているわけではない。悪意はない。ああ、世間はそうなんだなと当方ちと反省しているのである。
 で、朱子学は道教だという主張を反省するかといえば、しない。するわけない。道教だもの。
 朱熹の「大学章句」が先の岩波文庫に訳文だけ掲載されているのだが、その注がよい。読んでミソっていうくらい。気と質について金谷先生はこう解説する。

朱子の哲学では、あらゆる存在は理と気によって成り立っている。人間はみな理による本性をわりつけられていて(『中庸』の「天命の性」)、それは倫理的には絶対善としての「本然の性」でだれもが共有しているとさるが、他面では気というガス状の流動するものによって人間としての物質性が与えられ、その気と気の凝縮した質とによってもたらされる「気質の性」というものができる。(後略)

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世界史の誕生
 冗談?と思うだろう。冗談ではない。金谷先生も真面目だし、むしろ、きちんとまとめてくださって大いに助かる。って、なにに助かるか? つまり、それって、道教じゃん、である。
 朱子学って道教じゃないか。「ガス状の流動するもの」なんて禅にもないし、相当継承しているってなものでもなく、ずばり、道教そのものではないか。
 岡田英弘「世界史の誕生」ではこの状況を史学者として端的に説明している。

道教は、仏教と儒教の教義を総合して、大きな体系を作り上げたが、それをそっくり借りて、術語だけを儒教の教典の熟語で置き換えたものが、宋代に興った新儒学、いわゆる宋学である。宋学を大成したのが南宋時代に生きた朱熹(1130-1200)であった。

 朱子学は道教というわけだ。この珍妙なものがなぜ国家に採用されたかというと、それはその国家が元、つまりモンゴル王朝だったからだ。漢人の宗教に寛容だったからであり、明朝や李朝朝鮮もだらっと引き継いだ。ご存じのとおり、日本人は、そんなものは受け付けなかったのである。

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2004.02.14

仏教入門その2

 密教には随分と心惹かれた。が、今はほぼその興味を失ってしまった。そんなことを書くのもどうかと思うが、なにしかしら書いてみたい気だけはする。
 日本人として密教といえば、空海ということになる。空海は非常に難しい。原典もなんどか挑戦したが歯が立たないという感じがする。この恐ろしい知識人は本当に古代人なのか。人間離れしている。道元も恐ろしいほどの知識人だが、それでもまだ人間という感じがするが、空海に至ってはほぼ人間とは思えない。空海、つまり弘法大師はそれ自身が伝説のようでもあり、その伝説からもアプローチしたが、よくわからなかった。
 日本人はなぜこうも御大師様に惹かれるのだろうか。10年以上も前だが高野山密厳院に泊まった小雨の深夜、人っ子一人いない奥の院を詣でたことがある。四方墓ばかりの暗く湿った参道を歩きながら、そうして行けば、生きていらっしゃる大師に会いできそうな気がした。神秘的な体験はなかったが、不思議な体験だったような気もする。

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空海の風景
 空海についてアマゾンをひくと、そんなものかという本が出てくる。司馬遼太郎の「空海の風景」これはほとんど小説というよりエッセイだ。つまらないと言えばつまらないが、漫画のように読める本だ。司馬遼太郎の育った風土だと御大師様には一度向き合うしかないのだろう。
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曼陀羅の人
 陳舜臣の「曼陀羅の人―空海求法伝」も漫画仕立てだが、入唐の中国の風土の描き方が美しい。日本ではなぜか司馬遼太郎をありがたがる読者が多いのだが、司馬の作品はどれも明日のジョーと力石徹かよという感じで辟易することが多い。歴史物は陳舜臣のほうがうまいように思う。余談だが、陳舜臣は「耶律楚材」が面白いといえば面白いが、薄いといえば薄い。
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空海の思想について
 アマゾンの売れ筋は、梅原猛の「空海の思想について」も上位に出てきた。ペラっとした本だが、著作面から宗教家・思想家空海を知る入門書としてはこれがいいのだろうと思う。梅原猛の本は私などがいうとお笑いだが、どうも濃すぎて、中年以降に読むにはつらいものがある。
 空海についてお薦めできる本は他に知らない。新書できちんと整理したものがあってもよさそうなものだが、あるのだろうか。松岡正剛関連は「極める」をやっただけあって物を見ている感じは伺えるが、私は嫌いだ。
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般若心経
 私の勘違いでなければ、般若心経の原典は空海が日本にもたらしたサンスクリットのものがもっとも権威があるはずだ。空海の思想・宗教はある意味、般若心経に極まると言ってもいいのかもしれないが、そう言うにためらう。よくわからないが、なぜ多くの人は般若心経なんぞに心惹かれるのだろう。短くて暗誦しやすいからだろうか。私もたまたま高校生のとき暗記して、それなりに重宝した。密教のサマリーになっているともいえるし、寺参りに唱えれば信心者を装うことができる。般若心経の解説は最近の研究は反映されていないが、金岡秀友のものが一番よいと思う。あるいは、「般若心経 講談社学術文庫」だが、とくに薦めない。しかし、こう言うのもなんだが、金岡秀友の研究は妥当なのだが、根幹を見落としていると思う。この点については、佐保田鶴治「般若心経の真実」が面白い。面白すぎる面がもあるが、確かに般若心経の密教的な側面がわかる。幸い絶版のようだが、紀伊国屋の各地店舗在庫を見ると、数冊は残っているようだ。本として面白いかといえば文句なく面白い。奇書とも言える。
 空海は自身をその師匠恵果の師匠不空三蔵の生まれ変わりだと思っていたようだ。いずれにせよ、恵果は中国において義明、また扶桑(日本)にあっては空海を密教の正嫡と決めていた。義明の法統は廃れているので、密教の本流はこの日本となると言ってもいいのかもしれない。日本はそれほどの伝統を負った国なのだろうか。しかし、空海以後の歴史を追っていく皮肉な出来事も知るようになる。特に覚鑁について少し学ぼうとしたが、彼も空海ほどではないが歯が立たないほどの知識人だった。現代の真言宗は空海をシンボリックに扱うがもし覚鑁がなければ新義と限らず古義も存在しえただろうか。余談だが、小林よしのりの父は密教系の僧であるらしく密教文化に入れ込んでいるふうもあるが、そうした面ではひどく浅薄な印象も受ける。
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悪魔祓い
 不空三蔵(不空金剛:Amoghavajra)とはなに者だろうか、私は随分と不空三蔵のことを考え続けたことがある。北インドの出身だという。720年、長安で金剛智三蔵に師事。余談だが、金剛とはダイヤモンドのことである。不空三蔵は金剛智の死後、「金剛頂経」など密教典を求めてセイロンに渡り、龍智からさらに密教を学んでいる。そして、教典を持って746年長安に戻る。セイロンといえば、今も仏教国なので、その8世紀以前からの伝統だと誤解しやすい。しかし、それは間違いで、現代セイロンの仏教は西洋神智学から近代に発生したものだ。この歴史を端的に記した書籍はあるだろうか。記憶を辿るのだが、上田紀行「悪魔祓い」でも多少ふれていたはずだ。同書は、スリランカの民俗を知るのに面白い。その呪術のほうに竜智時代の密教の残存があるのかもしれない。この本は、難しいこと抜きに読書家にとっても面白い本である。上田紀行のその他の著作はお薦めしない。
 密教の正嫡は逆に辿るとこうなる、空海→恵果→不空→金剛智→龍智→龍猛→金剛薩タ→大日如来。これが付法八祖と呼ばれる。が、金剛薩タと大日如来は明かに実在の人間ではない。また、龍猛は大乗仏教の祖龍樹と解されているが、時代が合わない。それでも、龍智の師匠は存在したのだからそれを龍樹と別に龍猛を想定してもいいようには思う。が、こう言ってはなんだが、不空のセイロン求道の旅の話自体は間違いないだろうが、その伝承は虚構ではないかとも私は思う。もちろん、そこにある種の密教は存在しただろう。
 高野山に行けばでかでかと、付法八祖ではなく、伝持八祖の絵を見ることもできる。伝持八祖は、金剛薩タと大日如来を抜いて、善無畏三蔵と一行禅師が不空の次に追加されている。こうなっている理由は密教の初歩でもあるのだが、金剛界と胎蔵界の二系の融合(金胎不二)のためで、この二者は胎蔵界の系譜の必要性からだ。
 話が少しそれるが、日本人のイメージだと通称シルクロード経由とされる北伝仏教と異なる南伝は上座部仏教(旧称小乗)というイメージが強い。タイなどではそうだからだ。だが、アンコールワットやボロブドゥールは密教であろう。私はバリ島のウブドに二週間ほどぶらぶらしていたことがあるが、近在のゴアガジャなどもヒンズー教というより密教遺跡のようであった。6世紀から8世紀にかけてのセイロンからバリ島に至るまでの密教文明とはなんだったのか今でも気になるのだが、それを俯瞰する書物を知らない。
 私の密教関心は、不空三蔵を契機にインド系の唯識瑜伽行との関わりからチベット仏教に移ったった。偶然か知らず私が影響を受けたのか、80年代中沢新一だの暴走前のオウム真理教だのと近い関心域にあった。が、ヤッベーなこいつらと思い、できるだけ避けた。欧米でもこの時期、チベットを追われた僧たちの活動が盛んになってきた。
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タントラ叡智の曙光
 ダライラマについては私はよくわからない。彼自身の説法として書籍になっているものは俗人向けなので、物足りない感じがする。書籍では、初心者向けなのだろうが、チュギャム・トゥルンパとハーバート・ギュンターの講義録「タントラ叡智の曙光」から深く啓発を受けた。ある意味、これほど仏教についてわかりやすく解説した講義はないと思う。とくに、ギュンターの解説が優れている。
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チベットに生まれて
 トゥルンパはトゥルンパ・リンポチェ(活仏)とも言われる。私は彼に関心をもち、邦訳はすべて読んだ。本としては「チベットに生まれて」が面白い。彼は西洋世界に教えを広めたのだが、僧を捨て結婚し、そして酒に溺れて死んだ。48歳だった。その事実を知れば、彼の仏教は彼を救えなかったのかとも思うが、難しい。アリョーシャ・カラマゾフも恐らく暗殺者となったことだろう。世界には簡単に解けない問題があると私は思う。
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チベット旅行記
 チベット密教関連や立川武蔵の著作なども面白いには面白いが、お薦めしたくない。チベットと言えば、河口慧海の「チベット旅行記」が読書家には面白いだろう。私は国立博物館が所蔵している、彼が持ってきた仏像を見たことがある。美術品に耽溺する悪弊のある私は素晴らしいものに思えた。河口慧海については、その晩年の思想について、もう少し考えてみたいと思うのだが、いい書籍がない。

2004.02.14 in 歴史 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

2004.02.13

漢字という虚構

 さらに漢字について書く。ご関心のないかたも多いことだと思うので、おつきあいを願うものではない。そして、おつきあい頂いたかたの反論や反感も多いのではないかと思う。ある程度、しかたがないと思う。というのは、これまでの漢字についての私の話は虚構といえば虚構なのだ。「白川静は『と』だと思う」(参照)で、なぜソーシュールなんかをひっぱり出したかというと、虚構を打ち立てるためだ。
 虚構は、ここでは、嘘という意味ではない。言語学の方法論というのは、こういう虚構を必要とする。そして、この虚構がなければ、果てしない混乱になるし、私は白川静の漢字研究はその混乱の果てであると考えている。以上の考えに変更はない。
 が、もう少し述べる個人的な必要性を感じている。私のこの分野の思想を少し展開してみたい気がするのだ。
 関連して余談めくが、この間、暗黒日記から批判のようなものがあった。ご関心のあるかたは、先の記事の長いコメントを読んでいただいて、ご自身の考えを深めていただきたい。私の考えが正しいと強弁するものではない。また、茶化していると受け止めてほしくないのだが、その後の暗黒日記の平成十六年二月十二日のコメントが、愉快だった。おそらく、私のコメントを読んでの感想であろう。私は暗黒日記の批判に対して、端的に言えば、ソーシュール言語学の根幹であるラングとパロールを理解していないよと指摘したのである。喧嘩を売る気でないことが了解されて幸いではある。


平成十六年二月十二日
服部四郎氏が時枝誠記氏を非難した時にも「ソシュールの言語学を誤解している」「ラングとランガージュを混同している」式の言ひ方をしてゐるのだけれども、「ラングの學問」に反對する人間に「ラングの學問」の信奉者のする非難のやり方はパターン化してゐる。「お前はラングを知らない」――そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。

 愉快と思ったのは、そこがソーシュール学理解の天王山なのだろうなと思うからだ。そして、その天王山は、普通の日本人の常識からすれば、「そんなにラングと云ふものは素晴らしいのですかね。」と言い捨てるべきものだろう、ということだ。それでいいのだと思う。ソーシュールの言語学など理解する必要などはない。時枝誠記の認識論とまざったヘンテコな文法論を三浦つとむが展開し、吉本隆明がさらにスターリン言語論のように発展させても、それは、近代言語学とは関係ない。けっこう脳天気な服部四郎にしてみれば時枝の議論など雑音のように聞こえたたのではないか。そんなものだ。ふと思い起こすが、吉本の言語論を川本茂雄は晩年できるだけ好意的に理解しようとしたが、川本さんは善人だなという印象を与えるだけに終わった。
 ラングの素晴らしさ、それはソーシュール学の学徒の至福でもある。それがなければ、近代言語学という虚構が成立しない。と冗談を込めていうのだが、それなくしてはブルームフィールド(Leonard Bloomfield:彼は実は巧妙にソーシュールを避けている)もなければ、構造主義言語学を大成するかに見えたハケット(Charles Francis Hockett)やハリス(Zellig Harris)もなく、ハリスからチョムスキーが出てくるわけもない。チョムスキーのLinguistic competenceとはソーシュール学のラングと中世以来の述語論理を合体させ、認知心理学だの生物学だのの装いを変えてみたもの、と冗談を込めて言えるだろう。
 ラングがなぜすばらしいかは、ソーシュール学をソーシュール自身の学の大成の過程を追って学んだものにしかわからない面がある。と同時になぜソーシュールが偉大な言語学者なのかわかりづらいだろう。と、れいの阿呆なWikipediaの「フェルディナン・ド・ソシュール」(参照)を見ると、不思議に悪くない。英語の解説よりはるかにましだ。誰が執筆したのだろうか。いずれにせよ、この記述が重要だ。

1878年暮れ、「インド・ヨーロッパ語における原始的母音体系についての覚え書き」を発表する。これは、ヨーロッパ圏の諸語の研究から、それらの祖となった印欧祖語の母音体系を明らかにしようとしたものである。この論文において半ば数学的な導出によりソシュールが提出した喉頭音仮説が、後にヒッタイト語解読によって実証され、これが20世紀の印欧祖語研究に大きな影響を与えることになる。

 この方法論も恐るべきものだが、重要なのは、この問題が19世紀の言語学の最大の課題であったという点だ。つまり、言語学とはソーシュールの一般言語学講義以前は、イコール比較言語学だったのだ。比較言語学(Comparative linguistics)は、比較文化論のような比較でではない。言語学ではその「比較」はcontrastiveと言う。comparativeとは、印欧語の祖語を探す学問なのである。
 なぜこんな学問が当時言語学の主流だったか現代からはわかりづらいし、米人の言語学者など端から関心がない。というか、Edward SapirやBenjamin Whorfなどはインディアン言語の関心に向かっている。もともと米国言語学とは人類学の下位なのである。
 話を戻して、印欧語祖語の研究とは、端的に言えば、インド植民化でインドの知的財産特にサンスクリット文献が欧州に知られ、そしてその祖語がギリシア語と同源であることに気づいた驚愕感が起点でもあっただろう。これに、18世紀以降の言語起源論がベースになる。西欧のこの時代の原形なのだが、ギリシア哲学的なアルケーの考えが、ネイチャーに変化する。そして、諸学の基礎をこの「自然状態」から説明しようとした。ホッブズの社会思想は端的にそうだし、マルクスの自然概念もこれに由来している。言語学では自然から言語の起源が課題になっていた。ルソーの「言語起源論」もこの流れにある。
 こうした経時的な組織の課題のなかから、ソーシュールは言語の共時性を発見した。この発見はその学徒にすれば革命的なものだ。同時に、文法=ラテン文法から、諸言語を開放したとも言える。ラングが概念構築されて、始めて、言語の研究が可能になったのだ。素晴らしいとしか良いようがないのだが、他分野から、また、歴史を離れた人間からは阿呆に見えるだろう。
 ラングは虚構なのである。そんなものは存在しないと言えば存在しない。実際の言語現象のなかから、ラングを帰納することは、たぶんできない。ラングはある意味、超越的な理想原理なのである。
 長い前振りになったが、漢字の起源に戻そう。漢字の起源において、意味をその音価とし、その音価を古代中国語のラングに私は措定した。それが言語学の方法論として近似的に正しいはずだからだ。
 だが、それは虚構なのである。しかも、それは近代言語より危うい虚構だ。漢字起源時の音の体系が存在すれば、漢字の起源学はこう議論しなければいけないというシミュレーションである。チョムスキーの生成文法のようなねじれがある。
 が、虚構は虚構として成り立つ。
 が、虚構は虚構である。漢字起源のどこに最大の問題があるか、といえば、その音の組織性が実は、ラングとしての古代中国語によるものではなく、「切韻」のように、ただの規範の反映かもしれないのだ。簡単にいえば、「漢字」を読むために、こういう音を与えようという便覧である。そもそも、漢字一文字に単音しか与えられていないのは、不自然極まる。これは、漢字を読み下すための便宜であると見るのが妥当だろう。
 とすれば、その音価は、ある程度しか、古代中国語の音価を反映していないことになる。たぶん、それが言語学ではなく、歴史学的に考察したときの妥当な結論だろう。
 するとどうなるのか? そもそも漢字の意味はどうなるのか。常識的に考えて、漢字一文字に単音を与えたところで、そのバリエーションはたかが知れている。日本語など「声」がないので、「ショジ」といわれても「諸事」「諸寺」「所持」「庶事」となんの意味ももたない。すでに、この日本語の熟語ですら二語(二字)の組み合わせになっているように、中国語でも、よほど基本的な語彙を除けば、二語がないと言葉にならないのである。つまり、一語の音価だけでは意味が十分に担えないのだ。そして、そのことは古代においてすらそうだったことだろう。仮借が多いのも、単一漢字の意味がない(弱い)ためだとも言える。
 すると、そういう側面で極論すれば、漢字単体の意味などないとまで言えるのか。言えるのかもしれない。じゃ、意味をなす熟語はどのように発生するのか、といえば、だから文脈が必要になるし、文脈をプールして文脈全体をコード化するしかない。
 それが、四書五経の一つの正体でもある。
 ひどい言い方をすれば、その内容はどうでもいいのだ。とまでは言い過ぎか。しかし、日本人が儒学を中国から輸入したと思い込み、論語だの研究しているが、同時代の中国人はそうした古代的な儒学などすでに廃棄している。儒教とは道教のバリエーションなのだ。ちょっと極言するが、朱子学とは道教なのである。
 こうした中国の世界、つまり、四書五経がなければ漢字が利用できないという変な世界が変革するには、別の文脈のプールが必要になる。
 それを提供したのは、明治の日本だ。大量に西洋語を翻訳して言葉=熟語を生み出した。革命なども本来は「易姓革命」である。ちなみに易姓革命というのは日本人は理解しづらいだろう。ところが、日本近代の革命はrevolutionの訳語だ。同様にこうした言葉は西洋の言葉の翻案として膨大に作成され、それが、清朝末の中国人知識人に湯水のように流れ込んだ。資本論が中国語で読めるのは、近代日本人が翻案の熟語を作ったからだ、とまで言えば、批判もあるかもしれないが、そう言っても妥当だろう。同じことは朝鮮にもいえる。朝鮮が漢字を捨てて嘆かわしいと思うが、漢字を表に出せば、近代文が日本語であることが明白になってしまうのだ。
 さらに日本の明治時代の言文一致運動は中国にも影響して、口語をなんとか漢字のようなもので記述しようと試みられた。近代日本語を日本の文学者が形成したように、その影響をうけて現代中国語もできた、といえば、中国は怒るだろう。なにも、そんなことは理解してもらう必要などない。日本人が知っておけばいいのだ。
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阿Q正伝
  ふと、この努力を行った魯迅を思い出す。現代の若い人たちは「阿Q正伝」を読んでいるだろうか。この一冊を読めば、中国の98%がわかるのではないかと思う。という私が中国を理解してなければお笑いだが、少なくとも、「阿Q」の響きの意味は知っている。気になって、アマゾンの阿Q正伝の評を見たが、嘆かわしい感じがした。お薦めしたいが、すでに読みづらい古典なのかもしれない。

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2004.02.12

漢字は表意文字という話

 たまたま先週週刊現代を読んでいて、京大教授阿辻哲次「漢字道楽」というエッセイが面白かった。話は、数年前まで「阿辻哲次」の「辻」という字を中国人によく問われたというのだ。


数年前まで、初対面の中国人と名刺を交換する時には必ず、貴殿の苗字には奇妙な文字があるが、この「辻」とはいったいどういう意味か、まともな漢字なのか、それとも日本で作られた記号のごときものか、漢字であるとすれば、中国語ではどう発音すればいいのか、などとあれこれとたずねられたものだった。

 この話でまず五分は盛り上がったのだそうだ。ま、中国人としても承知の上の洒落である。「辻」は国字といって日本でできた漢字なので中国にはない。それ自体は別にどうっていう話でもないのだが、中国人が気になるのは、「どう発音すればいいのか」である。
 そうはいっても、国字に中国音などありようがない。が、実際には困らない。どう見ても、これは、「十」で音をとるしかない。このエッセイにもあるように、中国の最近の辞書「現代漢語詞典」には"shi"と記載され、意味も日本の国字であり云々の意味が記されている。
 いずれにせよ、漢字であるかぎり、中国では音価が与えられているし、音価は1つに決まっている。これは朝鮮でも同じなので、中国人や韓国人からすると日本の漢字の状況が理解しづらい。
 中国では、音価が同じなら別の漢字を当てることもある、というか、それが慣例化すると、漢字は入れ替わりが固定する。この現象は仮借という。歴史的に見ると、漢字のかなりの部分が仮借から成り立っているので、漢字の語源を考える場合は、仮借をまず考慮する必要がある。仮借については、山田勝美を引くだけだが、清朝朱駿声「説文通訓定声」がほぼ原典となる。
 私の言い方にすれば、漢字というのはまず音価ありき、である。音価が同じなら、どのような面を使おうがそれほど問題にはならない、というのも、音価が意味を担っているからだ。
 山田勝美は「漢字の語源」でこう説明している。

 たとえば「馬」という文字を問題にするばあい、この字の出現しない以前から、あの動物を「バ」という音で呼んでいたのである。であるから、「馬」の字は「象形字」で、ある動物の形をかたどったにすぎないが、字がまだ作られておらず、あるいはすでに作られていても、「バ」という音でこれを呼んでいた時には、なぜこの動物を「バ」と呼んだのか、その理由を考えてみることが必要となってくる。

 「馬」の意味は、「馬」という字面が担っているのではなく、「バ」なりという音価が担っているのである。さらに引く。

さらにもう一例あげると、「鼻」という字を考えるばあい、この字は字形としては「自」(鼻の象形)と「(鼻の下の部分で、音価はビ)」(音符)からなる「形声字」であるといえば、これで一応の字形は説明されたことになる。しかし、この字の作られる以前から「自」あるいは「(鼻の下の部分)」の音で「鼻」のことを呼んでいた。すなわち、「音」は文字の作られる以前から存在していたのである。すると、「鼻」を「自」あるいは「(鼻の下の部分)」の音で呼んだのはなぜか。その「音」はいかなる意味であったのか。鼻のいかなる特徴を捉えて、この「音」で呼んだものであろうか。

 仮借と音義で考えると、例えば、「商」という漢字は、女性の生殖器の形象だが、その形象の意味はなくなっている。「商売」の商は仮借で、本字は「唱」。呼び売りの意味だ。あれを買え、これを買えと呼ぶ。「商量」の商も仮借で、本字は「称」。つまり、「称量」。
 このように、漢字は基本的に、表音的な性格を持ち、表意ではない。では、なぜ、それが表意文字とされるのか?
 このブログの記事を書こうと思ったのはその点の補足だ。漢字は、表音文字ではない、という強調だ。2つ理由がある。
 一つは、漢字はそれぞれ古代の音価によって意味を担っているが、その古代の言語の音声を写し取ることができない。恐らく、日本語で言う「てにをは」に相当する格は含まれていない。つまり、漢字という音価をもつ記号をどうならべても、文章は構成できない。これは、かなり現代に至るまでの中国語の特徴で、たとえば、論語など、中国人はすらすらと音価を与えて読み出せるが、まるで、意味をもたない。その音価の羅列が中国語にならないからだ。彼らも漢籍は現代注釈書を使って読んでいる。
 もう一つは、漢字の本質的な利用法は、異言語・異民族への通知の機能を担わされてきた。漢字は音価を持つが、その音価は、意味が均質に伝達できる集団から逸れれば、音価と漢字の意味を分離して、別の音価を与えることができる。一番顕著な例はまさに日本の漢字だ。
 「日月盈昃」とあっても、「ひ・つきは、みち・かく」と読み下してしまう。そして、同様に、「ほしのやどりはつならなりはる」とつぶやいて「辰宿列張」と書くことができる。他の民族でも同じことができる。なにより、中国大陸の多数の言語間でこの便宜によって意思疎通ができる。
 もともと、漢字が中国に必要になったのは、むしろ、こうした便宜、つまり、多民族を支配するためだ(同時にいつでもいかなる民族でも王朝を打ち立てることができる)。
 その意味で、漢字は、表意文字として利用される。多民族でない中国世界すら想起しづらい。
 私の考えをまとめておこう。「漢字は表音文字的に発生したが、表意文字として利用される」ということだ。漢字の起源や原義を考察するには、音価が一義になる。しかし、漢字が多言語間で利用されるときは、表意文字となる。
 別の言い方をすれば、中国語に、会話や思いを表現するための表音文字は存在しない、ともなる。
 そんな馬鹿な。現に現代中国語は漢字で書けるではないか、と。あれは、歴史的に見ると近代日本語の影響なのだ。

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2004.02.11

仏教入門その1

 私は仏教を理解しているとはとうて思えない。私の仏教入門など、お笑いぐさだろうと思う。が、メモがてらに書いてみたい。自分の人生のちょっとした追想のようなものであるからだ。
 仏教を知るのに最適な書籍はなにか。私の結論は「大乗起信論」である。現代語訳付きで安価な岩波文庫のものが近年出ているのだが、アマゾンを見たらすでに在庫がない。ある意味、よいことだと思う。大学の教科書などで利用されているのだろうと推測する。皮肉を言えば、よって、古書でより安価にありそうなものだが、アマゾンの古書にもない。
 現代思想かぶれには、井筒俊彦の「東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学 中公文庫BIBLIO」が受けるだろうが、井筒俊彦はあまりお薦めしたくない。デリダとかお薦めしたくないのと同じ理由だ。私は井筒のファンとも言ってもいいのだが、こうした本は若い人には害があるように思う。
 現状、大乗起信論は安価なものはなさそうだ。「訳注 大乗起信論」はデータベースを見る限りよさそうだが、私は読んだことがないので、お薦めはできない。リンクはあくまでご参考まで。
 大乗起信論を薦めておきながら、大乗起信論をおまえは理解しているのかと言われると、胸をはってそうだとは言い難い。迂回した経緯がある。私は大乗起信論を英語で読んだ(正確には大乗起信論解説書)。"Outlines of Mahayana Buddhism"である。おそらく仏教を研究する人間でこの書物を読まない者はモグリである。マックス・ヴェーバーですらこれを基礎文献とした。この翻訳は全集などに存在していないのかと思って、戯れに検索してぶったまげた。あるのだ。しかも、しかも新刊ではないか! 岩波書店から「大乗仏教概論」。残念なことに値段が6300円なので、おいそれとお薦めできない。しかし、この書籍を読まずに現代で仏教を語ることは、やはりモグリと言っていいだろう。
 著者は鈴木大拙である。私は、大拙の著作の大半は読んだ。大衆向けの啓蒙書も多いので読みやすい。が、現在私は大拙の仏教理解には批判的だ。それはなにも彼が戦時国粋主義だったとかいう浅薄な問題ではない。禅について、私はまったく異なる立場に立つようになったからだ。恥ずかしい言い方だが、私は道元の徒である。臨済禅や禅文化など認めない。禅文化が日本文化に寄与した美については恥ずかしいが耽溺しているのも事実だが。
 Outlines of Mahayana Buddhismは大拙の30代の若いころの作品で、英米圏の読者をターゲットにしているせいか、逆に英米圏の文学的な参照やレトリックが多いので、現代人には辟易する部分もあるかと思うが、それでも仏教の抹香臭い概念を英語でずばりと置き換えていく大拙の明治人の胆力には驚嘆する。おそらく、英文とつきあわせてよめば、仏教とはこういうものだったのかと愕然とする人もあるかと思う。私がそうだったからだ。
 大拙の著作もまた薦めない。彼の弟子気取りの秋月龍岷の啓蒙書など読む意味はない(ひろさちやなど噴飯)。が、「一日一禅」は手頃な便覧として便利である。彼の解説はご無用。大拙については、例外として、岩波文庫の「日本的霊性」は薦める。教養人の必読だろう。だが、この書物も実際にはあまり読み込まれていない。重要なのは、この「第4篇 妙好人(赤尾の道宗)浅原才市」の信仰なのだ。つまり、親鸞・蓮如を経由して出現する妙好人という存在をどう考えるかは大きな課題であり、大拙の実は難しいところだが、彼は禅よりも親鸞に傾倒している。余談だが、大拙は今から40年くらい前か、現代人は漢文が読めないで困るとぼやいていた。
 大拙は、仏教理解に大乗起信論、そして禅の理解に楞伽経を薦めている。楞伽経については、中村元の「『華厳経』『楞伽経』現代語訳大乗仏典」がある。初期禅の持つ存在論的な経緯を知るにはよいのだが、難しいすぎると思う。それでも、昨今の日本の浅薄な禅ブームから離れるために、目を通されるとよいのではないかとも思う。
 中村元の著作についても薦めない。文藝春秋の仏教入門で宮崎哲弥は彼の訳書「ブッダのことば―スッタニパータ」を薦めていた。私はこの本をよく読んだ。絶えず携帯し紛失しては再購入した。でも、これも私は薦めない。この本は、あたかも仏教の原点を早呑み込みして宮崎哲弥のような浅薄な者を生み出すだけだからだ。読むならこの本に描かれている「ブッダ」の伝承が、実は、どれほど呪術にまみれているのかをよく読み取らなくてはいけない。また、オウム真理教の小利口な者たちもこうしたパーリー語文献の世界に墜ちていったが、パーリー語文献から原点となる真の仏教なるものが発見できるわけではない。諸宗教に言えるのだが、原点の集団はあくまで社会学的な再構成モデルに過ぎない。教義もまさに社会学的モデルとしてその歴史社会の相関としてみなくてはいけないものだ。それをいきなりエクストラポーズして現代に持ち込んではならない。
 私は、仏教理解には、大乗起信論がよいとしたが、これには大きな問題がある。人をこの迷路に誘うのではないかと懸念もある。この問題を端的に表しているのが、「本覚思想批判」だ。現代の仏教書でこれほど面白い本はないとも言えるが、6500円は学生の小遣いで買う本でもないだろう。内容は、まさに大乗起信論を批判する点にある。類書といってはなんだが、「縁起と空―如来蔵思想批判」も面白い。
 と書いていて、中論や唯識まで触れる気力が失せてきた。唯識からチベット仏教にまで触れなくてはいけないし(欧米の仏教学はチベット仏教が主流だ)、途中、密教の問題にも触れるべきだろう。迷路のようだ。また、日本民俗のなかの仏教には、こうした教典系の知識は役にたたない。なぜ日本の仏像は阿弥陀、薬師、観音なのか、端的に考察した書物を知らない。
 なにも知識をひけらかしたいわけではない。
 大乗起信論で本当の仏教が理解できるのかと言えば、私は「本覚思想批判」の袴谷に近い。しかし、歴史的に仏教がなんであったかという問題にすれば、やはり大乗起信論を理解しなければいけない、とは言えるだろう。つまり、歴史学の視点だ。騙すようだが、宗教学なり私自身の宗教的な見解ではない。
 ついでだが、「道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元」について、私はよく理解できない。私は近代に出来た「修証義」は総体としては間違いだと考える。私は曹洞宗にはまるで関心がない。修証義を講ずる僧をまるで信じない。そして、道元については、―十二巻本「正法眼蔵」は不要なのではないかと考えている。
 袴谷が「法然と明恵―日本仏教思想史序説」で明恵を廃するのは理解できる。だが、日本史の理解にとって、明恵は北条泰時という傑物の文脈で見なくていけない。また、法然はその実践である親鸞に下るしかないだろう。そうした、袴谷と私の考え方のズレは、―十二巻本「正法眼蔵」の理解にも影響している。端的なところ、私は道元の晩年というものがよく理解できない。

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2004.02.10

今日の日本人の誇りは日露戦争にある

 標題を「馬鹿野郎、毎日新聞」としようかと思った。やめた。ブログもあんまり粗野に物が言える雰囲気でもない。それに、そこまで直情的になるのもどうかとも思う。しかし、その思いはあるな。毎日新聞社説「日露関係 『開戦100年』から『下田150年』へ」についてだ。
 詳しく書かないといけないし、私が書いても、特に新しい指摘などない。私は右翼じゃないが、日本国民の常識として、こんな社説は許せないという思う。そのあたりを、簡単に書く。
 毎日の出だしを引く。


 日露戦争から100年になる。(1904年2月8日開戦、10日宣戦布告)。最初の戦闘で攻撃を受けた巡洋艦「ワリャーグ」は仁川港内で自沈し、砲艦「コレーツ」も自爆した。100年後、ロシア太平洋艦隊に所属する同名の「ワリャーグ」「コレーツ」を含む3隻の艦船が10日、韓国親善訪問として仁川に入港する予定だ。日露戦争に対するロシアのこだわりが伝わってくる。

 そりゃこだわるだろう。ロシアが負けたからだ。それだけのことだ。負け面して、さらに原潜解体の費用に賄賂を乗せてせびるのが現代のロシアだ。ふざけんな。
 次の文で私は切れたね。

 日露戦争は世界史的意義を持った。10年後の第一次世界大戦に先立つ総力戦の様相を帯びたほか、列強の植民地となっていた国々の民族独立志向を刺激した。帝政ロシアでは第1次革命の引き金となり、社会主義革命につながった。日本においては、軍事大国ロシアに勝利したという慢心がその後の韓国併合、日中戦争、太平洋戦争へと日本を引きずり込んだ。

 「民族独立志向を刺激した」じゃねーよ。そのおかげで、トルコで日本人は韓国人や中国人とは違うとして扱われる。そういう言い方もねーな、とは思うが、それは我々の祖先の誇りの利息を貰っているのだ。日露戦争に勝ったことは日本のためだけじゃない。
 たしかに「軍事大国ロシアに勝利したという慢心」はあったと思う。そして、それが日本の命運を迷わせたとも言えると思う。だが、「韓国併合、日中戦争、太平洋戦争へと日本を引きずり込んだ」と言われると違うぜ、と言いたい。そんな短絡的なものじゃない。日本が単独で慢心とやらをいましめれば、「韓国併合、日中戦争、太平洋戦争」はなかったか。歴史のIFは無意味だが、なかったかもしれない、が、別の気持ちの悪いものがあっただろう。そして、日本たるかけらもない陰惨な姿だ。現代の日本に少し似ているという皮肉は言いたくはないが。

日露関係を概観した場合、日露戦争だけでなく、その前も後も不信と警戒の時代が長く続いた。シベリア出兵、シベリア抑留も両国関係における負の歴史だ。

 これも酷いこと言うよな。シベリア抑留を「両国関係における負の歴史」にするのか。執筆者の親族にはシベリアで殺された者はいないのか。
 あまり引用を多くするのはなんだが、「日露戦争から100年後の日露関係は、領土問題を除いてはおおむね良好である。」というのは、そりゃ、日本が舐められてねーからだよ。日露戦争に勝ったからだ。
 ロシア=ソ連は、8月9日のぎりぎりまで日本を恐れていた。条約を守っていたわけではない。父祖の誇りが抑えていたのだ。
 と、書きながら、これじゃ、ウヨか小林よしのり、じゃねーか、と苦笑する。でもなぁ、と思う。これじゃ、なぁと思う。
 ああ、むかつく。朝日新聞社説よりむごいもの見ると思わなかったぜ。

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2004.02.08

朝日新聞、ロシア大本営代理となる

 なんだか毎度朝日新聞をくさすのも芸のない話だなと思う。今朝の朝日新聞社説「日露戦争――『坂の上の雲』の先に」を読みながら、この馬鹿たれ、どうしたものか、と思ったものの、さすがに言葉につまった。阿呆臭くて話にもならない。ちょっと書いたけど破棄…、ま、いいか、というわけで以下。
 朝日新聞の社説は、今日が日露戦争開戦の日にあたることをきっかけに、昨今日露戦争を肯定的に評価しようとしているがそれはイカン、とブルのである。


 だが、歴史を未来に生かすには、そのできごとの全体を正確にとらえる必要がある。日露戦争は多面的で複雑な性格を持っていた。そうした見方が、最近の研究の成果をみても深まっている。
 たとえば、日露戦争が朝鮮や満州(現中国東北部)の支配をめぐる帝国主義戦争の性格を持つことは、定着した評価となっている。戦争で朝鮮の支配権を得た日本は、併合による植民地化へと進み、中国侵略へと行き着いた。こうした対外進出路線の火種となったロシアの東アジア進出の脅威は、実際にはそれほど強くなかったとする研究がロシアにもある。
 逆に、中朝国境にロシアが軍事施設を造ったという情報が、十分に確認されないまま日本の軍部から政府にあげられ、開戦論の有力な根拠となったことを示す研究が現れている。イラク戦争での大量破壊兵器の脅威を思わせるような話である。

 歴史の評価が多面的なのは当たり前のこと。こうした修辞は無意味。歴史の評価というのは、全体のバランスを取ることが大切だ。朝日はまるで基本がわかっていない。
 日露戦争は日本の帝国主義戦争の正確を持つという評価が定着している、というのは、基本的には正しい。が、それってあの時代を背景に入れれば、ほぼ無意味な評価でしかない。朝日はそれがイカンといいたいのだろうが、ちょっとあの時代の世界全体を見渡してみたらいい。
 異論があるのは知っているが、言っておくべきことだと思う。あの時代をテーマに「中国侵略」って無定義に「中国」っていうのを持ち出すなよな、ということ。「中国」とやらは、歴史の文脈において、清朝なのか、中華民国なのか? まさか、共産党じゃないだろ。清朝だとしたら、「中国」と呼称する場合の関係はどうなのか? 同じものだというなら、てめーらこそ未だに帝国主義者だぜ。台湾の国民党と同じ。大陸の共産党と同じ。モンゴルを分断し、チベットを支配し、ベトナムにもちょっかいだす。「中国」が中華民国だというなら、歴史の流れを見ても、満州は所属していない。孫文すらそう考えていた。
 「ロシアの東アジア進出の脅威は、実際にはそれほど強くなかったとする研究がロシアにもある。 」にいたっては、朝日新聞の大本営はロシアかよ、と思う。ロシアっていう国はいまだに帝国侵略で日本国土を侵略しつづけている国ということ忘れているなら、とほほだな。「黒竜江上の悲劇」は無視か。1900(明治33)年、ロシアは満州に侵入し、五千人もの清国人を虐殺した。ま、そのくらいなら脅威じゃないと朝日新聞がいうなら、それはそれで上等!
 そして、朝日新聞のネタである「中朝国境にロシアが軍事施設を造ったという情報が未確認」というのは、1903(明治36)年、ロシアが鴨緑江河口を占領して、要塞工事を始めたことを指すのか? それって「中朝国境」と言うかぁ? と、それ以前になぜそこにロシアがいるのか説明しろよ。
 最後に朝日新聞タレて曰わく。

 作家の徳冨蘆花は、日露戦争の勝利に浮かれ軍拡に走る日本を批判し、「戦勝はすなわち亡国の始(はじめ)とならん」と警告した。
 戦争の大義、実像、影響などを繰り返し問い、本質に迫る努力を続けて後世を誤らないようにする。それは、いまだに戦火が絶えない21世紀に生きる我々にとっても重要なことである。

 そうこく前に、おめーらの先輩たちが日露戦争後なにやっていたか調べてみるのが先決だぜ。「バイカル湖以東を割譲せよ」って新聞はがなり立てていた。国民をまどわし続け、冷静な外交の足をひっぱり、国民暴動を誘導するようなことをやっていたのが、まさに新聞なのだ。
 とはいえ、徳冨蘆花かよ。気骨をもって幸徳秋水を出せよ。そこまできちんとサヨクの筋を通してみい。

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2004.02.07

朝日新聞の台湾観、もろ脱力

 朝日新聞社説「台湾総統選――『両岸関係』を凝視する」は、またしてもやってるなという感じだが、脱力したな。書いている本人も多少はわかっているのだろうなとは思う。絶妙なところで端的な歴史認識の誤りを避けている。執筆者は専門家の朱注を反映したのか。それにしても、以下のような文章には溜息が出てしまう。


 国民党の独裁が続いた台湾で、野党が公認されたのはわずか15年前のことだ。

 そりゃ間違いはないよ。ただ、歴史を知る人間はこう言うか。「台湾」が時事上自明になったからこう言えるのだということが、この執筆者にわかっているのだろうか。だが、正確に言えば、未だに表向きは「台湾」というものは存在しない。
 次のような朝日新聞の言いかたは、脱力しつつ、ふざけんなよ、と思う。

 台湾には、内戦に敗れた国民党とともに大陸から来て大陸とのきずなを尊ぶ外省人と、それ以前から住んでいた本省人がいる。両者の対立はなお残るが、いまや台湾生まれが人口の大半を占め、「台湾人」という意識が強まっている。

 なにこいているやら。さて、この文章から高校生は「両者の対立」をどう読み取る? 正解は何も読み取っていけないこと。事実が隠されているからだ。
 事実とは、1947年に起きた台湾の二・二八事件だ。余談だが、戦後史で隠蔽していはいけない事件にはもう一つ、韓国の済州島四・三事件がある。
 二・二八事件について、ちとぐぐったが、意外にプレーンな解説がない。この手の話題は「はてな」のキーワードにもないだろう。と調べるとない。映画関連もないようだ。晒しの意図はないが、ある台湾旅行記らしい記事「7月28日(土) ... これが台湾だったのか…」(参照)が面白かった。

二二八?
 予備校街を抜けてしばらく南下をつづけると、二二八公園に行き着く。二二八というのは台湾の何か歴史的な日付けなんだろうが、今回の旅行は全くの準備不足であっため詳細はわからず。ギリシア風の建物(国立博物館)や中国風の建物が建っている緑の多い美しい公園だ。整備も行き届いている。ただ、この日は雲一つない晴天で、暑かった。木はあるのだけれど、涼し気な木陰は見当たらなかったな。

 ま、それもいいのかもしれない。ただ、その上に今日の朝日新聞社説がのっかる日本っていうのは困ったものだと思う。ついでにこんなのも見つけた。ネットの世界とは不思議なものだ。「台北旅行2日目」(参照)である。

省立博物館と二二八和平公園
省立博物館はギリシャ風で、かつての植民地政府すなわち日本が建てたものである。一方、二二八和平公園の「二二八」とは、戦争が終わりせっかく帝国主義日本から開放されたと思った台湾人(本省人)が、今度は蒋介石の政府(外省人)の手により大弾圧を受けた有名な事件を指している。なぜこの名前が市の中枢部の公園の名前になったのだろう。とにかく、これだけでも台湾の複雑な事情が伺える。

 批判ではない。批判されても困るだろう。が、こういう教育を受けてしまう日本人はちと困るなとは思う。「帝国主義日本から開放されたと思った台湾人」はあの日、惨事の前にどんな唄を歌って凱旋していたか、もはや語られないのだろう。♪天に代わりて不義を討つ 忠勇無双のわが兵は…右翼・戦争賛美の歌ということなのだろうから。
cover
わが青春の台湾
わが青春の香港
 ついでに中華民国公式サイトに「二二八事件五十四周年記念式典開催」(参照)があった。当然と言えば当然だが。ついでだが「なぜ今、『台湾青年』をやめるのか?」(参照)には泣けるものがあるな。こう言ってはなんだが、みんな歳をとったのだ。
 この時代が日本にどう関わっているか、邱永漢の最高作「わが青春の台湾 わが青春の香港」を薦めたいが、絶版らしい。今となっては中央公論で出したのが不運だっか。しかし、他の選択もなかっただろう(参照)。こういう本を刷らないでなにが出版社だと思う。

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2004.02.06

死者たちよ、正月である

 干刈あがたがまだ作家として世に出ていないころに自費出版した「島唄」に、こういう唄がある。


後生じ札渡ち
戻らんでとしやしが
後生のあんだ王が
戻しならむ

cover
樹下の家族/島唄
  島唄といっても、沖縄ではない。奄美だ。彼女が現地で採集した唄だ。
 はてなのキーワードに干刈あがた(参照)が掲載されているのはいいが、奄美についての言及がない。ちょっと情けないなと思う。自分で追記しておくべきか。どう追記しようか、少し悩む。干刈あがたについては、干刈あがた資料館(参照)が詳しい。彼女の文学がこうして生き続けていることが不思議なような、それでいてあたりまえのような気がする。彼女に芥川賞が授与されなかっのは、芥川賞がくだらないからに他ならない。
 干刈あがた資料館の年譜を見る。1943年(昭和18年)0歳にこうある。

1月25日、父柳納富(明37生・青梅警察署勤務・警部補)、母アイ(明45生)の長女として東京府西多摩郡青梅町勝沼(現青梅市東青梅1丁目)に生まれた。本名和枝。長兄茂樹(昭14生)・次兄哲夫(昭15生、幼児の頃病死)・妹伸枝(昭22生)。
両親は鹿児島県沖永良部島和泊町の出身。

 両親が奄美の人だ。この青梅時代のようすは「真ん中迷子」に詳しい。私と彼女では歳が15年近く違うが、そこに描かれている立川の雰囲気は思い出せる。
 「島唄」には、昭和28年、彼女が10歳の12月25日に、奄美が本土復帰したときの光景も描かれている。大森海岸近くの会場で沖永良部島出身の人たちが集まりあでやかに復帰の祝いをした。「いったいあの貧しげな人々が、どこからあんなに美しい衣装や楽器を次々に持ち出してくるのかが、不思議でたまらなかった」と彼女は書く。ある意味、そこで奄美に強く出会ったのだと言っていいだろう。
 年表によれば、1975年(昭和50年)彼女が32歳とき、「島尾敏雄の呼び掛けでつくられた『奄美郷土研究会』の会員になった。奄美・沖永良部の島唄に惹かれ、島唄を採集し始めた」とある。彼女にとって、島の言葉はどう響いていただろう。初めて奄美に行ったのは20歳。その後、34歳で再訪するとき、言葉の消失を感じている。
 彼女にどのくらい島の言葉は息づいていただろうか。私は東京で生まれ東京育ちだが、生まれてから毎年盆暮れ、親の帰省で長野県に行った。その言葉の深い響きは私の存在の芯にある。沖縄で8年暮らしたが、芯には届かなかった。

後生じ札渡ち
戻らんでとしやしが
後生のあんだ王が
戻しならむ

 干刈あがたはこうルビを振っている。

ぐしょじさつわたち
むどらんでとしやしが
ぐしょのあんだおうが
むどしならむ

 彼女の訳はこうだ。

冥土で金渡し
帰ろうとしたが
冥土のあんだ王(えんま大王)が
帰してくれぬ

 意味は間違っていない。しかし、こう訳すことで大きなものが抜け落ちてしまう。そこを干刈あがたはどう考えていたことだろう。
 「札渡ち」の札は、紙銭である。中華世界に馴染み深いものだ。沖縄の「かびじん」である。かびじんはスーパーマーケットでも売っている。どんなものか見たければ、スーパーの店員に「かびじんはありますか」と聞けばいい。300円もしない。死者のために燃やす。死者はこれを受け取って、「札渡ち」となるのである。
 「後生」は沖縄でいう「ぐそー」である。表記は沖縄でも「後生」とされることが多い。音から考えると「後生」かもしれないし、本土の「後生」が伝搬したのかもしれないが、意味的には「世」が近いと思われる。「世」、つまり「ゆ」は、英語のregimeに近い意味がある。そこは、あんだ王の統治なのである。
 今日は、旧暦の1月16日。グソーの正月である(参照)。沖縄では「16日祭」「ジュールクニチー」とも言う。奄美では先祖正月とも言う。あの世の死者たちのための正月である。 今日、沖縄の各地では、酒と重箱を携え親族(門中)が墓を訪れ、後生正月(グソーショーガチ)を祝う。
 後生正月は中華圏では旧暦15日のランタンフェスティバル(花燈會)になる。籠燈(花燈)、つまり提灯を飾り、それ熱気球のように空に舞い上がらせる。このランタンフェスティバルを春節と勘違いする馬鹿者も多いが、さっさと今生に別れを告げたいのだろうか。
 干刈あがたが収集した先の唄は、グソーショーガチの唄だと私は思う。札を渡すこともだし、これが会合で歌われたものだろうということもだが、もう一つ符丁がある。あんだ王だ。
 「あんだ王」は干刈が解しているように閻魔大王だろう。「あんだ」は「えんま」の音変化だろうとは思うが、「あんだ」とだけ聞くと、ウチナーグチでは「てぃーあんだ」「あんだぐち」を連想させる。多分、違うのだろうが。
 本土の人間でも知らない人が多くなったし、しかたがないとはいえ、恥ずかしい勘違いも多くなったのだが、旧暦の1月16日は初閻魔(はつえんま)である。薮入りと言った方が通りがいいかもしれない。本土では旧暦が、戦後のGHQと社会党政権下のなごりか、撤廃されたため、新暦の1月16日に初閻魔(藪入り)ということになっている。「恥ずかしい勘違い」とはそういうことだ。
 本土でも正月と七月の16日閻魔堂に参る。閻魔参り、閻魔詣とも言う。大辞林を引くと、「俗にこの日は閻魔の斎日といわれ、地獄の釜のふたがあいて、亡者も責め苦を免れるという」とある(広辞苑もほぼ同じ)が、死者たちの正月だからであろうか、正月と解したのはウチナーンチュであろうか。藪入りについても、平凡社のマイペディアを見ると、使用は「元禄のころからで、もとは単なる休み日というだけでなく、大切な先祖祭の日で、他郷に出た者、嫁にいった娘などが実家に帰る日であったと思われる。」と呑気なことを書いている。日本の歴史を知るのには、沖縄や中華圏のことも知らなくてはいけないのに。
 さて、かく考えるに、この島唄は今日の日のものだろう。死者たちも、現世に帰りたいのだが、帰ることができないというのだ。
 干刈はこの後にもう一点、後生の唄を収録している。

後生の里主や ( ぐしょのさとぬしや )
如何る里主や ( いきゃるさとぬしや )
我が愛し子 ( あがかなしぐわ )
戻しならむ ( むどしならむ )

 彼女の訳はこうだ。

冥土の里主よ
どんな里主よ
私のいとし子
返してくれぬ

 干刈が先の唄と同じコーダ部分の「戻しならむ」を訳し分けている点に注意したい。後生(グソー)については先と同じだ。今度は、幼い子を失った母側の思いで切ない。「愛し」を「かなし」と読ませるのは、万葉集に馴染んだ人には不思議でもないだろう。

多摩川にさらす手づくり
さらさらに
何ぞこの子のここだ愛しき


父母を見れば貴し
妻子見ればめぐし愛し
世間はかくぞことわり…

 沖縄ではウチナーグチでは今でも使っている言葉だ。というか、民謡に多い。「かなさんどー(愛さんどー)」である。「みーあもーれ」である。
 愛がなぜ本土で切ないの意味になるかは古典の先生たちはきちんと教えているのだろうか。まあ、いい。「愛し」は室町時代ころまで本土では生きている。
 愛し(愛しゃる)と奄美と言えば、先頃結婚した元ちとせのラブソング「サンゴ十五夜」が連想される。この唄では「拝むいぶしゃた」が耳に残る。干刈の島唄にもこのフレーズは出てくる。現代の沖縄では聞かない言い回しだが。

アメリカ世暮らち ( あめりかゆくらち )
御頑丈見せる ( うがんじゅみせる )
御年寄ぬ姿 ( うとしゅいぬしがた )
拝みぶしや ( うがみぶしや )

 彼女の訳はこうだ。

アメリカ統治時代を経て
なお身心の毅然とした
お年寄りの姿
尊いことです

 沖縄なら、「うちなんかおじぃ、しにガンジューやっさ」である(ここで笑)。「拝みぶしや」は「尊い」でもあるだろうが、元ちとせの唄のように、「お目にかかりたい」という含みがあるのだろうなと思う。そして、私は亡き干刈にそう思う。

2004.02.06 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.02.05

アメリカという国

 朝日新聞社説「大統領選――『二つの米国』でいいか」は朝日新聞らしいつまらない社説だった。緩和に書かれているが毎度のサヨク・反米というだけのことだ。ちょっと引用しておく。


 指名争いの決着はまだ先だ。しかし、分裂よりも統合を大事にする民主党候補の政策に支持が広がれば、それを取り込む形でブッシュ陣営の政策にも変化が起きるかも知れない。誰が大統領に選ばれようと、そうした方向への展開なら大歓迎である。

 なぜ、ケリーを望むと言わないのか、そのあたりの朝日の毎度の啓蒙韜晦に辟易とする。ケリーを望むと言えば、責任が生じるからだろう。俺はこういう朝日みたいに曖昧なやつは嫌いだな、というのは日常の感覚だが、それもさておく。ようは、朝日のいう「統合」とやらが何か、だが前段はこうだ。

1980年代の「レーガン保守革命」が終わった後、無党派層や、共和、民主両党の穏健派を引きつけるための中道路線が政権獲得の鍵とされた時代が続いた。90年代のクリントン大統領がその典型だ。ところが、いまの米国は右と左、富む人と貧しい人の距離が離れすぎてしまった。選挙の構図もかつてのようになりにくい。ケリー氏もブッシュ政権に対して、大企業寄りの姿勢や利益誘導をあげて激しく批判する。

「右と左」が何を言っているのか曖昧だが、保守(右)とリベラル(左)くらいの意味だろう。もうひとつの分断は貧富の差だ。そして、それを招いたのがレーガノミックスだと言いたいわけだ。ソ連を倒したレーガン憎しというお笑いか。
 保守かリベラルかというのはアメリカ政治のダイナミズムであり、あの国の二大政党の基盤だ。それを統合というのはプロ独裁くらいしかありえないのだから、これも朝日の馬鹿話にすぎない。
cover
クルーグマン教授の
経済入門
 問題は貧富の差だ。これは問題ではある。だが、ちょっと待て、米国の現在の問題は貧富の差に還元されるのか。あれ、それってサヨク丸出しじゃないの、とも思う。もちろん、米国の貧富の差は大きな問題だし、意外にこれは近年の問題でもある。文庫になって最新の山形浩生の注が加筆された「クルーグマン教授の経済入門」の指摘は参考になる。クルーグマンが結果的にブッシュ攻撃をしている背景にはこの米国社会の経済学的な病理への懸念もあるのだろう。いずれにせよ、朝日のいうような古いサヨクの歌で心情をときめかす問題ではない。
 今回の民主党の動向を見ていて、民主党の提灯持ちであるニューズウィークの動向でもそうなのだが、私は本命はディーンかなと思っていた。しかし、あれを見て、ブッシュより馬鹿じゃん、とアメリカ人もさすがに思ったのだろう。極東ブログではアホ・デブ・マッチョが米人のという枕詞だが(日本はイジケ・ヒンソー・インシツか?)、アメリカというのは強い健全性というか、正直なところ脱帽するほどの正義と謙遜(modesty)の国だと思う。まぁ、多面ではあるが。
 ちょっとおおざっぱすぎるが、言語や倫理というのは、一般的に伝搬の僻地にいくほど古層を残存する。現代沖縄が大正時代を保持しているような感じだ(そうなのだ)。同じく、米国の田舎は古層のイギリスに近い気がする。機関車トーマスとか読んでいると、実に面白い。映像になってしまったし、続編あたりからおかしくなってしまったが、あれはけっこうお子様ものではない。共産主義は危険だという思想まで含まれている。いずれにせよ、トーマスのテーマは傲慢にならないこと、である。あれが米国の田舎の、ある古層の倫理なのだと思う。現地を見た人は、まさかという批判もあるだろうが。
 私はディーンはわらかないでもない。ケリーはわからない。しかし、ケリーを支持する民主党の層はわからなくもない。ある意味、共和党より古層の雰囲気を感じる。
 もうちょっと言おう。私はアメリカの古層の倫理と家族主義がとても好きだ。なぜだろうと思うに、子供時代に米国のファミリードラマをしこたま見たせいかもしれない。題名は覚えてないが、子連れ再婚のドラマだったが、その子連れが双方に3人ずつ。男3、女3というのがあった。もちろん、そうすることで脚本にダイナミズムが出る。ディテールは忘れたが、ああいう家族主義は米国の古層のイメージに近いものだと思う。ニューヨークパパというドラマはけっこう人生観に深く残った。ちょっとかっこいい、しかも金持ちの一人暮らし、しかも召使いがいる。そこに両親をなくした幼い兄弟をひきとってパパになるという話だ。けっこう人情ものだったのだが、特に、パバロッティにちと似た召使いことフレンチさんがよかった。
 この手の話はネットにあるはずと、ぐぐるとある(参照)。1966年? そんなに古いか。原題はThe Family Affairというらしい。ちょっと洒落ている。ちなみに「奥様は魔女」の原題はBewitched(参照)。高校生ならこの原題の洒落、調べておけよ、と塾の講師のようなことを言っておく。The Family Affairも洒落だが、こちらは今の高校生ではわからないだろう。
 ニューヨークパパの幼い子供役は私より少し年下くらいか。だいたい私と同世代の米国中流階級はああいう環境で育ったのだろうなと思う。ヒップの世代より下で、保守への揺り戻しがあったのかもしれない。
 話がまた回顧モードに入ってしまったが、私より上の世代の日本の親米政治家には、これに類した米国への親和感があると思う。あるいは、私より上でも団塊あたりのエリート層はなんであれベトナム戦争の傷があるだろうからその上の世代になるか。アフガン・イラクで陣頭に出てきた池澤夏樹は私は一回り上だが、そのあたりまでの層から上だろうか。ちなみに、池澤も古層にはこの親米性があるのは芥川賞受賞前の仕事を見ているとわかるだろう。
 日本を理解するうで、戦後のこの米国メディアが残したある種の親米基盤みたいなのは、うまく論じられていないような気がする。私からすれば、福田和也がなんかシュールな菊池寛のシミュラクルに見えたり、坪内祐三がなんか疑似レトロに見えるのはそんな感じだろう。しかし、実際の戦後は例の団鬼六が英語教師でカーボーイものに心酔していたように、昭和後期の右傾化や日本的なるものは、ある種のキッチュなのだ。さらにこのキッチュがねじれて白洲次郎などが今頃メディアに出てくるが、あれはただの帰国子女というか中身はただの外人だ。
cover
私は英雄じゃない
ジェシカ・リンチのイラク戦争
 話が散漫になったが、団塊世代より下の日本人にとって、アメリカという国はどういうイメージなっているのだろうかと思う。確かに留学生や長期滞在者は増えた。しかし、アメリカという国がその歴史の厚みを持って見えているのだろうか。まさか古賀潤一郎みたいな馬鹿ばかり、そんなことはないと思うのだが、あまりアメリカを舐めていいわけはない。日本人のなかから、ジェシカ・リンチが現れるか?と問うてみるがいい。任意の米人からあの正義とオネスティ(honesty)が出現するのだ。アメリカの本当の強さはそこにあるのだ。

2004.02.05 in 歴史 | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

2004.02.04

ガストン・ジュリア

 昨日はガストン・ジュリア(Gaston Maurice Julia)の誕生日ということで、Googleのトップのロゴは、ジュリア集合のフラクタル画像を模したものだった(参照)。いかにもGoogle的というべきか、私などには、ある種の時代性を感じた。
 ジュリア自身は1893年2月3日生まれ(1978年3月23日死去)。元号でいうなら明治26年生まれ。古い人だなである(参照)。日本人数学者岡潔(参照)がジュリアのもとで学んでいる。
 「時代性」というのは、ちょうどMacintosh IIが出たころ、という意味だ。確か、1988年だったか。カラーデプスは8bitなので今にしてみると、ちょっとなぁであるが、あの画面を見たときはその美しさに驚いたものだ。CPUも68020で扱いやすい、というか、コンパイラ向き、というか、いかにもMacintoshらしいPascal向きなものだった。
 私は自宅ではSE/30を使っていたので、それにカラーボードを入れて、アメリカからユーザーグループのソフトなどを取り寄せたりしたものだが、この時代、よくジュリア・セットのフラクタル画像を見かけた。
 記憶が曖昧になるが、マンデルブロが話題になったきっかけはなんだっただろうか。ぐぐってみると、エール大のフェローとなったのが1987年とある。その時代かなと思う。ところで、ネットをうろついてめっけた「マンデルブロ集合計算・描画プログラム 」は面白い(参照)。ジュリアではなくマンデルブロなのだが、ただの画像描画ではなく、部分を拡大・再描画できるので、微細部分のフラクタルな様子がよくわかる。こういうのが、中学生くらいで見られるっていうのは、ちょっとうらやましいぞ。
 広中平祐がフィールズ賞を取ったのはぐるってみると1970年。そんなだっただろうか。もうちょっと後だったような気もする。私が高校生のころは、広中の啓蒙書のようなものを読んだものだった。コッホ曲線とかの解説もあった。マイコンが世界に登場するちょっと前だったと思う。
 フラクタルという概念自体はBASICでもモデルにできないことはないので、いろいろ記事が出ていたかな、と思い起こすが、さすがに美と思えたのはMacintosh IIでプログラムしたジュリアだった。
 あの時代、Google技術のコアの人々がおそらく高校生から大学生のころだろう。とするに、私より10歳くらい年下の人たちなのだろうか。日本ではどうだろう。ジュリア・セットとか見て、現在35歳くらいの層は、あの時代だなと、思いあたるのだろうか。
 コッホ曲線で思い出したが、そういえば、あの頃、LOGOやシモア・パパートが話題になったことがあった。LOGOについては、最近とんと話題を聞かない。APLがJになったように(参照)、どっかでこそっと生きているのだろうかと気になってぐぐると、なんというか昔のままのようでもある。安価で高性能なフリーソフトがあるかと探すと、あるにはあるが、どうも時代遅れだなという印象だ。代わりに、学習ソフトとしてけっこうな金額で販売されているのを知って、ちょっととほほな感じがした。
 LOGOやパパートについて解説もしないで、それが学習に向いているか、と話を進めるのもなんだが、いつのまにかまるで状況は変わってしまったなと思う。パパートの連想でケイ(アラン)を連想するのだが、こちらは現在もう少しましなSQUEAKを出している、が、これってむしろオブジェクト志向の思考のためか。Small-talk80などはどうなったのか、調べるのもうっとおしい。余談だが、思考ツールに向いた気の利いたコンピュータ・システムはないだろうか。テキスト処理も以前のDOS時代よりもやりづらくなっている。AWKとLISPをまぜたようなシステムがあれば便利だと思うのだが、どうだろう。
 昔の話が好きな歳になっていけないなと思うが、そういえば、SMC-777にはLOGOが付属しいたと思うが、あれが思い出になって大成した技術者はいるのだろうか。ヘンテコなシンボリック・アセンブラもあったっけな。
 と、ぐぐると、懐かしいものがある(参照)。SMC-777のアイドルだったが聖子だが、すでに娘の歳のほうが上だろうか。1983年。懐かしいなと思う。20年前か。

追記
 日本のWebページにはジュリアについての基礎情報がないようなので、お子様たちのために以下を追記しておく。

ガストン・モーリス・ジュリア(1893-1978) (参照)

 フランスの数学者ガストン・ジュリアは、1980年代以降、カラーグラフィックがパソコンで実現できるようになると、彼が考えたジュリア集合という数学的なアイディアもコンピューター画像として見ることができるようになった。
 ちなみに、ジュリア集合は、

zn+1 = zn2 + c

において、定数c=a+bi に対して|zn|が∞へ発散しないような初期値z0の集合。
 ジュリア集合の画像は、ちょっと見ただけでも植物のような動物のような不思議な印象を与える。全体の姿が細部の姿と同じという特徴をもっているフラクタル画像とよばれるものだ。似たものにマンデルブロー集合というのがある。それとジュリア集合はほとんど同じと言っていい。フラクタル画像が生命体の構造に似てしまうのは、もともと生命というのが、フラクタルに近い構造を持っているからだ。人間は一つの細胞から生まれたものだし、その内部に全ての情報を持っているという点でもフラクタルに近い。
 ジュリア集合は有名だが、ジュリアいう数学者については、Googleをひいてみてもあまり情報はでてこないようだ。もちろん、専門以外ではあまり関心をひかないのかもしれない。
 ジュリアは1983年(明治26年)、フランスの植民地だったアルジェリアの、北西部地中海近い都市シディベルアベスで生まれる。第一次大戦に従軍して負傷。鼻を失う。22歳くらいのことか。後年のジュリアの写真に、鼻を黒く覆った小さな皮のマスクがあるのは、この時の負傷によるものだ。
 25歳ですでに有理関数の研究で著名な数学者となる。この時期の研究ですでにジュリア集合の考えを発表している。もっとも、その後の研究には目立ったものはないとされているが、どうだろう。日本人数学者岡潔はジュリアに学ぶためにフランスに留学した。
 ジュリアは1978年、85歳でパリで死んだ。

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2004.01.30

テコンドー

 韓国ネタである。このてのネタは物騒だからやめとこうかと思ったのだが、ま、いいや、軽く書いてみよう。話は、朝鮮日報社説「『テコンドー』五輪種目に維持すべき」(参照)からである。標題からはわかりづらいが、国際オリンピック委員会(IOC)副委員長の金雲龍(キム・ヨンウン)が先日、横領・収賄などの容疑で逮捕されたことに関連する。
 このニュース日本での扱いはなぜかしょぼんとした印象を受ける。ニュース自体の概要は、28日共同の「金雲龍IOC副会長を逮捕 韓国スポーツ外交の転機に」のほうがわかりやすい。


韓国の検察当局は28日未明、金雲龍・国際オリンピック委員会(IOC)副会長を、特定経済犯罪加重処罰法の横領・背任収財や外為取引法違反の容疑で逮捕した。

 そーゆーことなのだが、実態はけっこうえぐい。そりゃあ韓国ニュースに強いのは当たり前のYahoo!ニュースをお抹茶の名前のような「金雲龍」で検索してみると、そのえぐさがわかる(参照)。が、そうしたことはとりあえず、どうでもいい。
 先の共同のニュースの終わりにこうある。ここがポイントだ。

 IOCは23日に金副会長のすべての資格、職務を当面停止すると発表している。検察当局の逮捕で、金副会長に対してさらに重い処分を行うのは確実。金副会長が大きな役割を果たしてきたテコンドー競技の今後の国内外の役員人事や競技のあり方にも影響を与えるとみられる。

 そう、問題は金雲龍がオリンピックにおいてテコンドーをごりごりと押さなくなったので、やっぱ、やめようかという雰囲気になっていることである。ここで、ようやく、朝鮮日報社説「『テコンドー』五輪種目に維持すべき」に話が入る。

 こんな中、海外メディアは「韓国文化の看板種目であるテコンドーの地位も危うい」と警告している。2008年の北京五輪の開催を控え、中国の伝統武術「ウシュー(WUSHU)」と日本の空手が、テコンドーの代わりに正式種目として採択されるため積極的なロビーを展開している。
 IOCも来年、五輪種目の採択を全面的に見直す予定であるだけに、テコンドーを五輪の正式種目として守り抜くことは国を挙げての緊急課題となっている。

 ふーん、そうなのかである。日本が空手を推しているのが韓国にとって困るのである。なんだか、まいどおなじみのぉ…という話になってきた。そしてその先の結論が、こうだ。

 IOC委員の中には、韓国寄りの人物がまだ20人以上いる。彼らとの関係を維持できる人物とシステムをただちに探し出し、テコンドーが引き続き五輪種目に採択されるよう必要な環境を作ることが急がれる。

 なんか、すごい発想だなと思う。私の印象からいうともうついて行けない。のわりに、さらに物騒なテコンドーの話に突き進む。
 すでに日本では常識だと思うが、テコンドーは戦後日本の松涛館空手を元にできた…一種の空手である…はずなのだが、それを韓国では言っちゃだめということになっている。最近日本でもそういうふうになってきているようだ。というわけで、韓国5000年の歴史からテコンドーができたような話になってきている。なんだかなと思うが、私は、たいして気にしない。そんな話、むちゃくちゃやん、ほっときなはれである。それよりか、日本の空手、とくに沖縄の空手をどないすんねんと思う。関西弁で言うこっちゃないが。
 沖縄の空手の伝統と本土の空手がどう関連しているのか、いまいちよくわからないし、極真空手は空手なのか?とすら思う。テコンドーに対して、あれは日本の空手の亜流と言うにせよ、本流の日本の空手ってなんだ? 余談だが、「空手」は「唐手」と表記されるべきものではないか。沖縄の那覇手、首里手、泊手は唐手(とうて)と呼ばれる。
 話を戻して、テコンドーの実質的な歴史だが、「HISTORY OF TAEKWON-DO」(参照)、「また書かざるを得ないテコンドーの歴史」(参照)、「テコンドーがカラテの影響を受けたのは事実」(参照)、「テコンドーの歴史」(参照)などが参考になる。ま、偏った資料だとも言えるが。
 偏った資料を基にまとめるのだが、テコンドーは1960年年代に故崔泓熙(チェ・ホンヒ)が松涛館空手を元に「[足台]拳道」を創始したもののようだ。この際、韓国の伝統芸テッキョンを融合したとのことで、その伝統性を主調している。この点については、どこが融合されているのか具体的な研究が必要だろう。
 崔泓熙は1966年に国際テコンドー連盟(ITF)を創立し総裁となる。1973年朴正煕再選に反対し、戒厳令下の韓国からカナダに亡命。同年は金大中の拉致事件のあった年で、私などには生々しい。「朴正煕」には「ぼくせいき」という以外の読みができない。
 その後、韓国では世界テコンドー連盟(WFT)を創立。これで、ITFと分離した状態になる。どこにもある香ばしい話というには、歴史が悲惨すぎる。
 WFTとITFの違いは、「テコンドー ~WTFとITF~」(参照)が参考になる。掲載されている写真が面白い。率直にいって、ITFは空手にしか見えない。
 オリンピック2000年シドニーで五輪正式種目となったテコンドーは当然、WTFである。で、この「正式種目」の背景に金雲龍が活動していたようだが、あまり邪推するのはやめにしょう。
 以上、誤解されないように強調するのだが、テコンドーを貶めるものではない。歴史は歴史、また、五輪正式種目となったWTFの背景追及はきちんと行ってもらいたいと思う。空手については、沖縄の伝統がもっと研究されていいのではないか、と思う。それだけ。

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2004.01.28

岸和田、雑感

 この話もためらうのだが、書いてみよう。れいの岸和田市で起きた中学三年生への虐待事件に関連したことだ。この事件は、私はまるでわからないし、世間の受け止め方や新聞社説の取り上げ方も理解できない。コメントとして述べることもできないし、批判もできない。そうした点に変わりははない。
 が、気になるブログ(はてなダイアリー)を読んだ。岸和田市出身のかたの話だ(参照)。ちょっと引用をためらうのだけど、岸和田という土地からすればああいう事件は不思議でもないというのだ。私には岸和田はよくわからないのが、地元を知るがゆえに落胆する思いというのはわからないではない。昨年沖縄北谷で中学二年生が残虐に撲殺される事件があった(参照)。私は、不思議でもなんでもなかった。現地を知っているからである。そしてしょせん本土人である私はなにも言及できない。何を言っても無駄だなと思った。こういう感じってなんなのだろうか。
 岸和田の話では、そして追記もあった(参照)。だんじり関係の話だ。これは引用してもいいかなと思う。


だんじりは、町単位で一台づつ持っています。で、各町に「年番」と呼ばれる責任者がいます。年単位で持ち回りなんですが、それは2、3人の間での持ち回りです。そして、「年番」は時に行政以上の実力者になります。はっきり言うと町のボスになるわけです。今は無いと思いますが(そう信じたい)かつては、年番が土地の境も水路の流れも決められたそうです。

 「年番」は他の山車を持つ文化でも見られる。私には語感と歴史的な由来がわからない。だが、山車がなくても、こういう組織は各地にあり、そしてそのまま行政以上の実力者になっているものだ。極東ブログ「市町村議員を減らすだけでは危険なことになる」(参照)でも書いた。

 日本の地域社会は、フィリピンの地域社会のように伝統的なパトロン-クライアント関係で成り立っているのだ。パンドーレとか言うのだったか忘れたが、地域には親分がいる。ま、社会学的な話はさておき(ほら、そこの社会学専門さん、ツッコメ)、こういうボスの安定機構が市町村レベルの議員の半数以上、およびその派生の権力構造で地域社会の実質的な治安的な権力が維持されているのだ。だから、これを潰せという単純な話では地域社会が壊れてしまう。ああ、もうちょっというと、この権力構造は地域に残留させられた弱者の保護装置でもあるのだ。

 この文脈で考えるなら、岸和田の事件は、「年番」さんの機能の問題だとも言えるかもしれない。ま、言っても詮無きであるが(年番の関心は山車だけだろう)。
 もう一点、歴史に興味を持つ人間としては、先のブログにある「水路の流れ」というくだりが気になった。
 少し地域は違うが、奈良の吉野山には、吉野分水神社がある。この地域は、奈良から大阪南部は水の配分が重要な意義を持っていた地域なのだろうと思う。
 「分水」の意味は字義通りだが、「みくまり」と読む。語源は「水配り」であろう。分水神社はなにも吉野ばかりではない。枕冊子では音転から「みこもりの神」ともある。これは、「御子守神」になっているのだろう。
 古事記など平安初期にできた偽書に過ぎないのだが、書かれている伝承にまるで価値がないわけでもない。その上巻には、速秋津日子と速秋津比売の子として、天之水分神と国之水分神が書かれている。かくしてこの二神(柱)は分水神社に祀られる。
 分水と権力の関係は、日本の歴史を考える上でもとても気になるところだが、この問題についてはまだ自分でもよくわからない。
 余談だが、岸和田ではないが、大阪南部、古市には知人の奥さんの旧家があり、大きいのをいいことに、夏その家族が帰省されているときに、訪問してなんどか泊めてもらった。20代後半から30代前半のことだ。私は、休みができればぶらっと新幹線に乗り、奈良を放浪した。京都もときおり行くが、きたねー学生の町だとばかり思うせいか、好きではない。京都人は嫌いだと言ったら、大阪の人が同意していた。
 奈良から明日香をぶらつきながら古代史を思ったのだが、自然に、奈良から二上山を越えて、河内飛鳥に関心を移した。日本の古代史にとって重要なのは、こちらの地域ではないのかと思うようになったからだ。そして、古市は非常に面白い地域だった。あのあたりは、河内のまんなかのようなイメージを持っていたが、住民の対人的な関係のありかがた、西洋人のような個人の感覚をベースにしているように思えた。不思議なエレガンスがあると思った。城壁都市の文化なのだろう。
 岸和田まで南下するとわからない。文化的には楠公の伝説がまだ生きているようでもあるし、「悪党」の文化なのかもしれない。
 観光なんかどうでもよく、ぶらぶらとすべて忘れて、あの地域を数日かけて散歩してみたいなとは思う。

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2004.01.27

幻想のクルディスタン、クルド人

 クルド人問題に触れる。非常に難しい問題だし、極東ブログの姿勢などに政治的な一貫性を期待しているむきもたぶんないだろうが、イラク・シーア統治を述べたところで、ポロっと「シーア派を使ってクルド人を抑制するほうがいい」という趣旨の本音を言ってしまった手前、補足しておきたい。「本音」というが、心情としては本音でもない。クルド人の歴史を見ると胸が熱くなる。クルド人が望むように支持してあげたい、そのほうがいいではないかという思いも強い。だが、なのに先のポロが出る背景を書いておきたい。
 クルド人問題について、ネットではどんな情報が飛び交っているのか見ると、「クルド人問題研究」(参照)という良質なサイトがあった。内容を見るまえに参考文献とあるので、それを見たほうが見識がわかると思って見ると、国内文献が多くしかも新しいので、研究者ではないのかと多少落胆した。非難しているわけではない。専門家のサイトを期待しすぎた。

cover
トルコのもう一つの顔
 プロフィールを見ると運営者は1972年生まれとのこと。そのことを非難するわけではないが、そういえばと思って、参考文献を見ると、トルコ関連の資料がないことに気が付く。ノー天気な大島直政などに言及する必要などないが、このトルコ関連の手薄さは少し気になる。また、奇書「トルコのもう一つの顔」(小島剛一著、中央公論社 1991年)が参考文献に含まれているが、この本の影響はどのくらいなのだろうか。
 同サイトに「クルド人問題とは」という総括があり、概ね正しいのだが、が、と躊躇するのは、すでにここに私の認識とは大きな乖離があるのだ。

 クルド人は、中東のトルコ、イラン、イラクにまたがる一体の地域(「クルディスタン」:クルド人の土地)に居住するインド・ヨーロッパ系の民族である。人口は推定2000万~3000万人で、アラブ、ペルシャ、トルコに次ぐ中東で4番目に多い人口を持つ大規模な民族である。しかし、現在の世界地図上に「クルド」もしくは「クルディスタン」という名の国は存在しない。クルディスタンは現在、トルコ、イラン、イラク、シリア等の国家に分断されている。数千万の人口規模があり、一定の領域に居住しながら、独自の国家を持たない民族は他に存在しない。

 間違っているとは言わない。そういう見解のほうが主流かもしれない。だが、私は本質的にこの認識は間違っていると思う。理由は、クルディスタンは排他的な領域ではないのだ。クルディスタンとされる地域にザザ人を筆頭として、多民族が存在している。また、「現状の世界地図」の現状の時刻は、現代ではなく、セーブル条約の時代だろうとみなす。
 セーブル条約は、第1次世界大戦後を終えた1920年フランス、セーブルで連合国側とトルコとの間に結ばれた講和条約である。講和とはいうが、ようするに、オスマントルコを列強が分割することだ。この条約が実現すれば、現在のトルコ南東部にクルド自治区ができることになっていた。これは狭義の国家としてのクルディスタンの原形と言えないでもないが、この時代の広義のクルド人居住域としてのクルディスタンの南部であるモスール州は、イギリスの手前勝手でイラクに編入ということになった。すでに国家としてのクルディスタンの原形の段階で分裂させられていたのである。しかも、イギリスの勝手。恣意である。ご都合である。こうした歴史を持つイギリスは熱心にイラク戦に参戦する素地がある。
 しかし、ご存じのようにと言っていいのか、日本をモデルにしてできた近代国家トルコ共和国は、列強とローザンヌ条約を1923年に締結し、トルコ領土を確立。ということで、モスール州を除くクルディスタンはトルコに編入させられた。かくして、クルディスタンという国家樹立の夢は消えた。
 この歴史に消えたクルド自治区とモスール州を加えると、幻想のクルディタンができる。「クルド人問題研究」でなんの限定もなく、クルディタンとされているのがこれである。極東ブログはこれを幻想のクルディスタンとするのである。もっとも、「クルド人問題研究」の「クルディスタンとは」(参照)では、アルメニア虐殺問題を含め、かなりきちんと状況認識が書かれているが、結論は読みづらいだろう、と思う。
 問題は、この幻想のクルディスタンに、一つの民族としてクルド人が住んでいるのだろうかということだ。もちろん、クルド人は住んでいる。だから、つい「一定の領域に居住しながら、独自の国家を持たない民族」と言ってしまいたくなる。
 おまけに、トルコはひどい。建前としては、トルコ共和国に住んでいるのがトルコ人=トルコ民族、よって、トルコにはクルド民族はいない。ということになる。だが、これを笑う資格は日本人にはない。まったくない。ゼロだ。クルド問題に関わる日本人ならまず日本の状況から関わってもらいたいとすら思う。目を遠くに向けるのは偽善だ。
 しかし、こうしたトルコの言い分は、時代とともに緩和されてくる。世界に散ったクルド人やその支援を受けて、トルコも建前だけでは通らない時代になってきた。そこで、現状のトルコ共和国では、それを構成する多民族の一つとしてクルド人を認めるものの、クルド人もトルコ共和国という国民国家の構成員としてトルコ人なのだから独立の必要はない、ということになってきているようだ。
 こうしたトルコについて、なお、クルド人は非難するし、独立を求めている、というふうに、欧米ジャーナリズムは時折あおり立てる。日本でも同じだ。私も、その口に乗せられていた、10年前、イスタンブルを見るまでは。
 イスタンブルの郊外をドライブしていると、やけにスラムが多い。先日イランで地震のあったバルではないが、泥煉瓦でできたような速成のスラム街である。しかも、そのスラムの形状が、なんというか、無秩序に増殖しているとしか見えない。なにが起きているのかとトルコ人に訊くと、クルド人だという。「東部から一族でやってくる」と言う。「やつらはすごい、子供を10人産む」と言う。どこまでが本当なのかわからない。それから、その人口の流れについて、簡単に説明してくれたが、その数値を忘れた。公式統計などないだろう。
 その後、トルコはますます下層民からイスラム原理主義が強くなっていったが、トルコのイスラム原理主義というのは民衆の互助組織である。つまり、国家の福祉が及ばないのだ。なぜこんな事態になるかというと、中国の盲流と同じ現象が起きていると考えるのが妥当であり、クルド人ばかりとはいえないせよ、クルド人などが都市スラムにかなりの量流れ込んでいるのは間違いない。
 そして、イスタンブルの町を見ながら、クルド人について考えた。まるでわからなくなった。夕暮れにホテルにつくと、人なつっこくよってくる靴磨きの少年がいて、同行のトルコ人は追い払おうとしたが、ま、ホテルに着いたことだしと別れ、少年に靴を磨いてもらった。翌日、トルコ人は、あれがクルド人だよ言った。
 以上、大局的な話と個人的な話を奇妙にくっつけたので「と」のような珍妙な話に聞こえたことだろう。私もこの体験と観察を公的に言う確信はない。だが、事態の総合的な意味での認識に間違いはないと思うようになった。クルド人の少なからぬ人口がすでにトルコの都市スラムに流動し、その住民になっているのだ。幻想のクルディスタンに残されたのがクルド人の全てではないし、そこにクルディスタンという国ができても、もはや、クルド人が帰れるわけもないのだ。
 小島剛一によれば、クルド人同士もすでに言葉が通じるわけでもないようだ。まして、イラク北部のクルド人たちと、トルコのクルド人と言語が通じるのだろうか。この点もはっきりとはわからないが、通じないのではないか。少なくとも、トルコで都市民化したクルド人は、クルド語を捨てているのではないか。
 こうした状況下で、イラクにクルド人の自治区ができるとすれば、それはどんな意味を持つだろうか? クルド人がクルディスタンの幻想を持つのはしかたないし、そこが幻想の拠点になるだろう。そして、トルコは猛反発を始め、トルコで都市民化したクルド人は取り残されていく。
 EUの勝手な思惑でトルコはEUに編入されるかもしれない。いずれにせよ、トルコ側にクルド人の自治区ができる可能性は少ない。結局、イラク北部だけが残されるだろう。クエートのように石油に依存した小さな国家を作ることはできるが、そのようにしてできた国家は拡大と統合の幻想を放棄することはないだろうから、つねに火種を持ち続けるだろう。
 なんという悲劇だとは思う。だが、現状では、クルドが新しい火種になることを避けて、歴史の時間の進み方を遅くするしかないのではないか。

2004.01.27 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2004.01.22

良い正月である

 正月である。中国では春節の祝い。韓国も旧暦で正月を祝う。ふと気が付いたのだが、正月に韓国ではトックという餅に似たものを雑煮のように食べるのだが、これってまさに雑煮なのではないか。まさか日本の風習?とも思うが出だしからこの話題ではつらいのでパス。
 沖縄も地域によっては旧正月を祝う。ヰーショーガチデービル! 沖縄テレビは今日午後二時から正月吉例東西民謡歌合戦の再放送を流す。古い町並みを歩けば民謡がやけに聞こえる日である。
 「沖縄も地域によっては」といったものの、その地域は主に漁撈民(海人)の地域だ。今日を正月休日とするせいか糸満が例によく挙げられるし、港の大漁旗は確かに絵になる、が、糸満市自体は西崎を中心に新興住宅地になっているので、糸満とひと言でくくれるわけでもない。むしろ、玉城村の奥武島のほうが面白い。短い橋一本の先に実は沖縄から独立した島があるのだ(半分冗談)。
 沖縄の正月行事はいろいろ言われているが、総領家(嫡子の家、とーとーめーのある家)でないとあまり見られない。が、今、そんな家はどのくらいあるのだろうか。100軒に1軒くらいじゃないか、と、うちなーんちゅ訊いてみると、いや10軒に1軒はある、と答える。話にならん(ちなみにこの話はジョークである)。
 若水の風習は表だって見られない。が、この話は民俗学的に収録されているので、ネットなどにも散見する。困ったことだな、ともちと思う。沖縄のこうした風習は、つい、日本民俗学のバイアスがかかるのだ。そして、文章化されたものが伝聞ゲームで広まる。オリジナルな情報は少ない。と、愚痴るのだが、うちなーんちゅですら、その伝言ゲーム的情報を沖縄の伝統だと思いこむ例は少なくない。ま、いいか。なんくるないさ
 総領家に限らない正月の風習としては、キッチンに潜んでいる火ヌ神(ひぬかん)へのお供えがある。あれは、香港などで見られる「火土君」である。「ひぬかん」の語源は「火土君」かなとも思うが、香港あたりのお札の表記では火土が一文字なので違うだろう。いずれにせよ、起源は同じでも沖縄のは香港のほど派手ではない。かまど神ということでは本土にもあるが、この話には今日は立ち入らない。
 沖縄の線香と礼拝も香港とほぼ同じだが、「恭禧發財」とは言わない。那覇あたりでは、「ウワカク ナミソーチ」と言うらしい。が、那覇近在で正月を何度も過ごしたが、聞いたことはない。南部のうちなーんちゅに聞いてみる。「ウワカク ナミソーチ」って言うのか? 答え「知らん」。話にならん。意味は「若くなりましたね」と言うのである。年取りなのだから、「老」を祝っているのだろうが不思議だ。この風習は鹿児島あたりでもあるらしい。いみくじわからん
 沖縄の旧正月が表面上撲滅したのは、新正運動の成果である。と、書いてものの、「新正運動」でよかったのか。ネットを検索したら極東ブログしかヒットしない。やべぇ。もちろん、正確に言えば、「新正月一本化運動」である。これを略して「新正運動」だと記憶しているが、どうだろう。
 それにしても、旧正月を撲滅すべく「新正月一本化運動」ってなことが沖縄で行われていたのである。呆れたものだが、こうした問題を歴史学なり社会学で扱った例を知らない。あるのだろうか。小熊英二は知らないんじゃないか。
 「新正月一本化運動」を推進したのは、新生活運動推進協議会である。これは、広義に「新生活運動」と呼ばれている。1947年片山哲の内閣が推進したものだ。新生活運動として「新日本建設国民運動要領」とやらを作り、県単位に新生活運動推進協議会を作った。もしかすると歴史に疎い世代も増えてきたようなので老婆心ながら補足すると、片山内閣は社会党の内閣である。おタカさんだの福島瑞穂だののご先輩である。戦後社会党政権が日本の伝統である旧正月の撲滅に邁進したのである。社会主義政策だね。
 1951年から52年にかけて、主婦連、総評、全国地婦連(「ちふれ」である)も参加。新生活推進主婦大会なども活発に開かれた。おいおいである。こいつら戦後も千人針みてーなことをやっていたのである。で、本土の場合は、旧正月撲滅というより、お盆の撲滅にかかった。みなさん、変だとは思わないか、日本のお盆。休日が工場労働シフトになっているのはこのウラがあるのだ。歴史とはこういうことを知るために学べである。
 ちなみに、この覆面社会主義運動のその後はどうなったのか、実はまだ二階に暮らしているのである、みたいなオチになる。1974年第1次石油危機が一息つくや、(財)新生活運動協会は生息地を省エネに定めて、「資源を大切にする運動関係団体推進会議」から「資源とエネルギーを大切にする国民運動中央連絡会議」へと進化! 地方組織は「省資源・省エネルギー国民運動地方推進会議」とした。そして、1982年、(財)新生活運動協会は「(財)あしたの日本を創る協会」に名称を変更し、何をするかというと、環境問題に取り組むようになったのである。ポケモン進化!のようではあるが、サヨ丸出しである。が、よくわかんないが、地方によっては、いまだに新生活運動協会が存在しているようだ。なんだそれ?である。
 話を沖縄の旧正に戻す。沖縄でも、本土に遅れること5年、1956年、米軍下の琉球政府に新生活運動推進協議会ができて、新正月一本化運動のエンジンになった。に、してもだ、1956年、私が生まれる前年、沖縄はまだ日本に復帰していなかった。ちなみに、奄美は1953年12月25日米軍の本土へのクリスマスプレゼントとしてか日本に復帰を果たしていた。この時の話は干刈あがたのエッセイが興味深い。1956年といえば沖縄には焦りもあったのだろうし、新正運動もそうした文脈にあったのだろう、と言って間違いでもないのだが、実際のうちなーんちゅうの女性にしてみれば、ショーガチが二度ある、はぁ、デージナンギやっさである。ギョージはすべてオードブル5000円で終わりにしたいものである、と書いても本土人には通じないかもしれないが、解説は省略する。
 旧正月の話はこれでおしまいとしたいのが、も一つ余談。こうしてみると、沖縄は旧正月を大切にしてアジアっぽくていいじゃんと思う馬鹿者もいるかもしれない。違うぞ。2001年、中国と沖縄で旧暦が一日ずれたことがある。同じ旧暦といっても、暦の基準となる地点が違うので旧暦でも時差が起きるのだ。え?その基準ってどこ?と思って調べてみたことがある。たしか、中国は西安だった。つまり、長安である。燕の都にして北方の駐屯地北京ではなかった。ほほぉである。旧暦の季節感覚は確かに長安であるなと思う。で、日本は?というと標準時を流用しているので源氏物語ゆかりというわけではないのだが、明石なのである。ほいじゃ、バンクーバーの春節はどうなるべぇと思って調べたら、長安基準の暦を使っていた。というわけで、実は、沖縄の旧正月も極めて近代日本的なのである。

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2004.01.16

若葉して御目の雫ぬぐはばや

 今日は鑑真和上が来朝した日だそうである。1日違うような気もするがあまり細かいことはどうでもいいだろう。また、ネタ元を書くとご負担をかけそうなので、あえて書かない。
 私は鑑真和上が好きで、これまで何度も唐招提寺に行った。天平の甍にはあまり関心はない。エンタシスとされる柱にもあまり関心はない。私が好むのは、廟の静けさと凛とした孝謙天皇宸筆だ。私はこの二人に問いかけて時を過ごす。そういえば、夏になれば、前の売店でよく冷やし飴を飲んだ。
 鑑真について、いつも気になることがある。和上は失明するほどの辛苦をしてまで、なぜ日本に来たのか。もちろん、仏教にかける宗教的な情熱であることは間違いない。日本の衆生を救おうとしたことも間違いない。だが、あの時代も、そして今も、日本人は和上の思いをまるで理解していないじゃないかと、私は思う。
 和上は戒を授けに来たのだ。戒なくして仏教はない。日本の歴史家は仏教を根本的に理解していないのではないかとすら思うのだが、仏教の根幹は、戒である。あの時代、戒なき東方の島国日本では仏教のような呪術宗教が広まっていただけだ。和上は、それを仏教だと思ってはいなかった。
 仏教は出家者の宗教である。仏陀につながる師匠から戒を受け(受戒)、僧となるものの宗教である。戒とは具足戒ことである。諸説があるが、常識的に広辞苑の解説を取るに、比丘(男)に250戒、比丘尼(女)に348戒ある。受戒には、戒を授ける戒師、作法を教える教授師、作法を実行する羯磨師の三師と、受戒を証明する七人の尊証師の十師が必要になる。三師七証だ。和上はその中心の戒師たるべく日本に来たのだ。来訪年については、広辞苑にある天平勝宝5年つまり753年を取る。旧暦で12月26日。この日に太宰府に到着。ちなみに今日は旧暦の25日。
 和上は日本に来て、受戒のために戒壇を作った。日本国の根幹となる戒壇であるから、国分寺の元締めである東大寺に作った。そして、聖武天皇、光明皇太后、孝謙天皇にまず菩薩戒(三聚浄戒)を受けた。が、菩薩戒とは、不殺、不盗、不淫、不妄語、不酒といった道徳に過ぎない(余談だがヨガの第一段階も同じ)。戒といえば戒であるが、僧たる戒ではまったくない。
 当時の日本人は和上を心待ちにしていたわけではない。和上がいらっしゃるのに、現在の自民党のような醜悪な闘争を繰り広げていた。旧来のインチキ僧速成法である自誓作法や三師七証不要論など、僧の名を借りる仏敵が続出した。和上は嘆かれたはずだ。
 その後も酷い。758年(天平宝字2年)、淳仁天皇が即位にあたり、前天皇である孝謙天皇は、鑑真に大和上の称号を与えるも、実際の権限を伴う大僧都の任を解いた。つまり、左遷である。ポイ捨てである。その蟄居先とも言えるのが唐律招提寺であり、後の唐招提寺である。
 和上は763年(天平宝字7年)、76歳で死んだ。非業の死であると思う。日本人の酷い仕打ちもだが、もっと惨いのは、その後の日本仏教史だ。
 和上死後数年の後、767年、後の最澄が生まれる。最澄は戒を徹底的に破壊した。具足戒を菩薩戒で良しとした(十重戒と四十八軽戒になった)。三師七証を廃した。つまり、鑑真以前の自誓受戒に戻した。
 話を現代に戻して終わりたい。8年前、世間はオウム真理教を偽仏教のごとくあざ笑ったが、日本の仏教自体、戒もないのだ。戒を捨てた仏教は仏教とすら呼べない。日本仏教史こそ、ちゃんちゃらお笑いなのである。
 そして、現在、世間は仏教ブームだそうである。肉食女犯の輩が恥もなく墨衣を着て仏の教えをたれているのである。
 地獄は一定住処なりというならまだいい。多くの人が誤解しているが親鸞は僧ではない。自身そう宣言している。弟子も教えもないのである。そこまで徹するならいい。だが、そこまで徹するなら仏教はいらない。

2004.01.16 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

朝鮮日報さん、ご同情します

 韓国ネタはちとなんだなと思うのだが、朝鮮日報社説「米国が韓国の主敵だとは」(参照)はすさまじかった。日本人の私ですら、情けなくて涙が出そうだ。事態はこうだ。


 韓国の安保における最大の脅威国を聞くアンケート調査の結果、北朝鮮(33%)と答えた人より米国(39%)と答えた人が多いことが分かった。
 特に20代の場合、回答者の58%が米国と答えた反面、北朝鮮と答えた人は20%にとどまった。この調査の結果だと、大韓民国の主敵をもう北朝鮮でなく、米国に変えなければならないだろう。

 え?である。そう、読み間違いではないのである。悲憤するしかないではないか。

 それだけでない。学校の授業でも、北朝鮮に対しては主に和解と協力の対象として強調される反面、米国は好戦的な国として取り上げられている。多くの国民が納得できないとみている今回の世論調査の結果は、有職者のこのような一方的な発言と行動の必然的な結果と言える。
 若い世代の誤った認識の背景には、過去の権威主義政権下で弾圧を受けた人々の反発的な歴史観が働いた面もあるはずだ。さらに、このような認識をもつ代表的な人物のほとんどが、現政権の友軍か元老として待遇されており、このような世論の混迷は簡単にまとまりそうもない。

 ここで韓国の現代両班を茶化すのはあまりに非礼なので、しない。しかし、問題の根源は歴史教育にあると思う。私のような日本人が韓国の歴史教育に言及するのは韓国人には不快だろうと思うが、古代や中世史、さらにいえば日本と関わりが深い近世史はあえてどうでもいい。第二次世界大戦後からベトナム戦争、それから民主化のごたごたをきちんと韓国の青年は知る機会がないのでないかと思うだけだ。それはまだ生きた歴史なのだから、60代以上の大人が懇々と若者を諭せばいいではないか。若者をトルコに連れていき、朝鮮戦争に加わったトルコの人の声を聞くというのもいい体験になるだろう。私の言及はここまでにしよう。言い過ぎたかもしれない。
 この問題は他山の石でもある。小林よりのりが西部にかこつけて言う「礼儀としての反米」の、礼儀を失すれば日本も同じことになるのだ。
 私は日本人だから、もっと内向けにはお下品なこと言うが、日本人の女性の多くは非アジア人羨望の行動をいまだにしている。それが悪いと言ってもしかたないし、道徳がどうのいう問題でもない。問題は実態であり、社会科学的な理解だけだ。いずれにせよ、日本人は反米と叫んでも、ちまたにはパンパンの娘や孫がまだまだ絶えることはない。それは、あえて親米と言ってもいいとすら思う。繰り返す、現実だ。属国日本が反米に気炎をあげることは恥の上塗りでもあるのだ。
 と、いいつつ、私こそここで恥の上塗りをしているのかもしれないとは思う。が、いてもたってもいられねーなという思いは強いから、書く。日本も、小熊英二のように歴史経験のない世代に戦後史の文献的な総括をまかせていないで、飢えも貧困も関係ない福田和也みたいなぽっちゃり坊やに満州なんか語らせていないで、団塊の世代より上の世代こそ、きちんと若者にわかる生きた歴史を語らなくてはいけないのではないか。だが、無理なのだろうか。戦争経験の世代と団塊の世代の間の言論が、なにかぽっかり抜け落ちているように思うのだが。

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2004.01.14

額田王

 「余丁町散人の隠居小屋」(参照)の「きょうは何の日 (Today)」の14日に、額田王の話があった。


1/14 Today 額田王「熟田津に......」と詠む(661)(参照

 その結語にこうある。

額田王といえば次の歌も有名:

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

この説明をすると長くなる。要は不倫ぽい歌だ。壬申の乱の原因がここに潜んでいるとする説もある。額田王は中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の両方を夫とした女性なのだ。この歌の野守とは天智天皇(中大兄皇子)、君とは天武天皇(大海人皇子)。まことに大胆な女性であった。
彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。


 私はこの歌とその背景についてまったく違った考えを持っている。中西進だったか歌姫を「オコ」として捕らえていたが、私もそうした芸能の視点に立つ。つまり、これらの歌は、茅野弟上娘子の歌なども含め、劇なり余興のような芸能であっただろうと考えている。そして、壬申内乱についても明治浪漫主義的な解釈は取らない。気になるのは、先日の朝日新聞の文化欄かにあったが「袖振る」の意味だ。これもあまり呪術には取らない。しかし、こうした問題には今日は立ち入らない。問題は、散人先生の疑問「彼女が天智と天武の戦いである壬申の乱の中でどうなってしまったのか、散人は知らない。ご存じの方が居られれば、お教えください。」である。
 まず、先生の勘違いか誤記であろうと思うので軽く流すが、「天智と天武の戦いである壬申の乱」ではない。天智はすでにこの世にはない。
 さて、額田王がどうなってしまったか、だが、それはその後を考えれば推測が付くだろう。そして、額田王の歌を好む者なら、万葉集二巻111の「吉野の宮にいでます時、弓削皇子の額田王に贈る歌」を思い起こす。

 いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく

 白痴のごときイノセンスな解釈や屁理屈のような解釈を取らなくても、弓削皇子にいにしえと言えば壬申内乱に纏わる死者への思いがあると見ていいだろう。が、この歌についてもここではあまり立ち入らない。
 問題はこの吉野行幸の時期である。確定はされない。が、皇子は693(持統7)年浄広弐に叙せられ、699(文武7)年に死去している。弓削皇子と限らず天武自身の生年すら、おそらくワケありで書紀にも記されていないのだが、官位などからも推定して、20代、そして693年あたりのことだろう。そこから逆算するに、額田王は60歳過ぎまで生存していることになる。いずにせよ、額田王は50歳を越えて天武の皇子たちとも交流があったことは間違いない。
 このことから当然わかることではあるのだが、彼女の娘十市皇女が死んでなお、その時代を生きていたことになる。十市皇女の死は書記にあるように奇っ怪極まる。678(天武7)年、斎宮に選ばれ、伊勢に向かうときに急死している。いずれ自殺か他殺だろう。謎は多い。そもそも既婚であり葛野王までなしていながら、なぜ斎宮になったのか。また、この時期の斎宮である大伯皇女との関連もわからない。これについて、若干推測できることがあるのだが、それも今日は触れない。
 いずれにせよ、額田王は娘の非業の死を見ていたのであり、その孫を抱えてもいただろう。そして先の弓削皇子との歌のやり取りからも人生の陰影は感じ取れる。
 それにしても額田王は生没年未詳とはいうものの、60歳近くまで生存していたと見ていい。後半生は歴史のなかで語ることを禁じられたに等しい不思議な人物である。
 この話にはなお続きがある。奈良国立博物館の国宝、粟原寺の伏鉢に、「比売朝臣額田」が715(和銅8)に粟原寺を建立したとある。普通の歴史家ならあまり妄想を逞しくはしないものだが、高松塚に弓削皇子を鎮魂した梅原猛のことである「塔」(集英社)で、この「比売朝臣額田」を額田王と比定した。梅原には手の込んだ冗談を言う才はない。かくして額田王は80歳近くまで生きていたことになった。慶賀の至りである。
 粟原寺は中臣大嶋(藤原鎌足の従兄弟)の発願によるとされている。書記を見るかぎり、神道を天武時代にでっちあげたのは、この大嶋くさい感じが漂うのだがそれもさておく。「比売朝臣額田」が額田王なら、彼女は大嶋と再婚したということになる。梅原はそう考えている、というわけだ。

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2004.01.10

乙支文徳

 中国が高句麗史を中国史に位置づけようとしていることに対する韓国の反発が激しい。日本人にしてみると、当面は関係のない騒ぎではある。韓国の民族主義は怖いものだなというのが私などの率直な感想だ。そうした中、韓国で象徴的に取り上げられるのが乙支文徳(ウルチ・ムンドク)である。
 中央日報「高句麗歴史歪曲糾弾集会」のニュース(参照)では民族史観高校の生徒と中国歴史歪曲対策民族連帯会員らが、ソウル孝子洞の中国大使観前で、乙支文徳に扮して、中国の高句麗歴史歪曲を糾弾する集会を開いている。
 現代日本人にはちょっとなぁではあるが、確かに、乙支文徳を英雄と評価したい気持ちはわからないでもない。それにしても、なぁという思いが私のような歴史家(毎度ながら嘘です)にはあるので、ちと書いてみたい。あまり偉そうなことを言うつもりはないが、日本人は乙支文徳のことを知らないのではないか。テコンドーの型名として知っている人もいるだろうか。少しGoogleを引いてみたが、韓国政府発表の垂れ流し情報ばっかりで、がっくりしたので、少し書いておきたいのだ。
 背景となる話は隋と高句麗の対立がある。一応日本人なら、遣隋使ということで隋については知っていることだろう。だが、日本人の中国史の知識は正史に阻まれて中国のバイアスが入りがちだ。煬帝を「ようだい」と訓じるのも呆れたものだ。
 隋を起こした文帝は同時に、その前の時代の南北朝対立に終止符をうち中国を統一した、というのは史実なのだが、ちと裏がある。文帝こと楊堅はその名が中国名なのだが、この楊氏初代は燕に仕えていた。燕は鮮卑慕容部族が打ち立てた国で、中原からの亡命民なども受容していたったので楊氏もそうした部類かもかもしれないのだが、彼が太平太守(軍事司令官)となっていたことを考えに入れると、軍才に長けた鮮卑であったと考えるほうが妥当だろう。岡田英弘の「世界史の誕生」を参照すると、楊堅の父楊忠は普六茹という鮮卑名があるとのことだ。隋は北魏同様、鮮卑の王朝と見ていい。ちなみに、唐も鮮卑である。
 この文帝は、中国統一の勢いをかって、598年に第一次の高句麗侵攻を開始した。もののだ、準備も整わず天候や疾病なのでほぼ戦わずして敗退。当時の高句麗平原王も、侵攻が現実となるや、びびって表向き謝罪でことを収めた。隋の侵攻の理由はもともと拡大の意図もあったのだが、高句麗側も防戦準備から隋を刺激し続けたこともある。
 ここで重要なのだが、現在の韓国の歴史は、しゃーしゃーと韓国対中国の図を描いているのだが、この時代の朝鮮半島は全然統一されていない。どころか、百済は元から北魏重視政策から高句麗を攻勢することが国是でもあり、この第一次侵攻でも高句麗攻めの先頭を隋に申し出ている。これが高句麗の怒りを買うことにもなるという香ばしい関係が半島内にあった。日本の古代史もこの香ばしさに包まれているのだが、その話は避けよう。
 煬帝の時代になると、親父の意図を継いで、高句麗侵攻の夢がもたげてくる。それに併せて、半島内でも高句麗に対立する百済や新羅が隋にすり寄りといった事態にもなる。詳細な話は省くが、隋は、前回の反省からロジステックスとしての運河ができるのを待って、612年に第二次高句麗侵攻を開始した。200万という大軍なのだが、高句麗に近づくやロジステックスに不備。隋内部でも山東半島などで反乱勃発。
 かくして、第二次の高句麗侵攻の軍も疫病で大軍が自滅していくことになる。もっとも、韓国の歴史ではこの大軍を小勢で打ち破ったのが乙支文徳であるということになっているのだ。そういう見方が成立しないでもない。
 乙支文徳に着目すると、戦時当初は、さっさと隋軍に降伏しているのである。が、隋軍の惨状を見るや降伏を自主撤回。逃げる逃げる。高句麗軍に戻り、「がんばれるかもぉ!」ということになった。不屈と評価するか、私のように下品な評価を我慢するかは意見が分かれる。そして、隋軍が平壌近くまで侵攻してくると、乙支文徳はまた停戦を申し出て、平原王とともに隋に謝罪しようと提案。ごめんねで済むなら謝っちまえ主義である。
 が、これもまた嘘。乙支文徳、あっぱれにも、引き上げる隋軍を後ろから打つ打つ。よって隋軍壊滅。いやぁ、これこそ武術ってやつです。乙支文徳、さすが。こうした歴史は韓国で知られているのだろうか。
 煬帝は怒る。613年第三次高句麗侵略開始。でも、隋だってもうぼろぼろ。内乱が起きて、途中で引き返す。くそぉである。が、煬帝不屈の精神である。プロジェクトX(ばつ)こと、翌年第四次侵略開始。
 しかし、隋軍の兵士だって逃げる逃げる。それでも平壌近くに攻め込むや、またしても高句麗はやってくれるぜ。当時の嬰陽王は降伏を願い出る。以後、きちんと朝貢しますと泣き落とし。なんぼ頭を下げても減るもんじゃない! この時、乙支文徳が何をしていたのかわからない。
 かくして、煬帝も怒りを静めて兵を引いたものの、高句麗嬰陽王は隋軍が帰還すれば、ばっくれ。朝貢なんて知らんぷり。煬帝、怒る。が、理性を失ううちに、突厥が反乱。さらに反乱はつづき、618年煬帝は家臣に暗殺。かくして隋一巻の終わりとなる。
 歴史は鏡である。乙支文徳に模して中国に楯突く現代の韓国が、もし本当に中国の怒りを買えばどうなるか。私はだいたい予想が付くのである。

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2003.12.29

日本語の数詞に潜む謎

 愚考だが、ときおり考えては解けない日本語の数詞に潜む謎について少し書いてみようという気になったので書く。誰かこれを見て、謎が解けたら教えてほしいものだ、とも率直に思う。
 日本語の起源は喧しく議論されているが、要領を得ない。大野晋など岩波などにおだてられて快進撃を続けている。白川静といい、こうした「と」な老人をなんとかしろよと思うが、ほっとけか。
 日本語は、比較言語学的には朝鮮語との対応がある程度システマティックに見られる。文法構造に至っては日本語と朝鮮語はほぼ同じだ。というあたりまではわかる。また、スワディッシュの法螺話を応用して、日本語と琉球語の分裂年代という議論もある。これは端的に間違いなのだが、日本史学と同様国語学は手がつけられない。ほっとけである。
 とりあえず、文法構造的には朝鮮語と同型で、それに音韻の構造からみてポリネシア系の単語が加わったのが日本語になるということは言える。ここでいつも思うのだが、ここから導かれる結論はたった一つしかない。日本語は人工言語だということだ。
 現代インドネシア語を少しでも知っている人ならわかってもらえると思うが、インドネシア語はマレー系の現地語の単語を英語の文法構造に押し込んでできた人工言語だ。分化したコミュニティを国家的に言語統一するとなると、支配者の知的な層の言語構造に民族アイデンティティを示す語を押し込むことになるのは必定だ。そんな簡単なこともわからないで日本語の起源とか議論している学者が多いのには呆れる。いずれにせよ、文法構造のほうは疑問の余地がないのだが、問題は単語の起源のほうだ。いったい日本語の単語はどこから来たのか?というのが仮の日本語起源の問題になる。
 スワディッシュの理論はふざけたしろものというか、閉鎖モデルでしかないので日本語には原理的に適用できないのだが、それでも、比較言語理論の基礎として基本語彙というのが設定されている。結論から言うと、私はこの基本語彙というのが間違いのもとだと思う。
 基本語彙にはいくつか特徴があるが、身体語と数詞というのがある。もともと比較言語学は西欧語の起源論から出来たもので、あいつらの言語の場合、特に数詞はわかりやすい。もともと算術に弱いのだ、あいつらはね。だが、日本人の祖先たちは、縄文時代から海洋交易が盛んなので、数詞は山羊を数えるといったものではなく、即マーケットニーズに結びつく。だから、本質的にポリネシアや沿岸地域のリンガフランカはマーケット性の人工言語という相貌になる。このあたりの説明はどうも話を端折りすぎて難しいかもしれないのだが。
 つまり、数詞について、言語起源論的に基本語彙に持って行くのは間違いだと私は言いたい。逆にこの日本語の数詞というのは、古代のどのようなマーケットを反映しているのか気になる。というのは、私の直感にすぎないのだが、日本語の数詞というは言語アバカスだと思うのである。言語アバカスというのは私の造語だ。算術用言語ということだ。もう少し直感をくだいてみせよう。ある程度話は雑駁になる。
 日本語の1つは、pitotuである。2つはputatuである。tuは個数につく添え語のようなものだ。語幹をpitoとするか、ひーふーみーよーというようにpiで切ってtoを構成語にするかはよくわからない。仮に1をpiとするとこの倍がpuである。同じ構造が3と6にある。3がmiであり6がmuだ。これだけなら偶然かもしれないが、4がyoで8がyaだ。こういう構造がある。

1系   pi  pu
3系   mi  mu
4系   yo  ya

 yoとyaは構造的には、yiとyuになればきちんと整合するが、この流音yは口蓋に近い母音と分化しにくいので、あとに両唇に近い母音で分化されたのかもしれない。

   yi+a→yia→yoa→yo
   yu+a→yua→ya

 この変化はこじつけ過ぎるかもしれない。
 5と10では、itutuとtoで一見すると構造が見られない。だが、itutuのtuは個数の添え語とするとituで、iの前のなにかがドロップしたとすると、構造は予感される。

5系   xi  to

 xはt音かもしれない。
 さらに、100がmomo、1000がti、1000がyoroduということで、3系のm、5系のt、4系のyが繰り返される。子音が少ないとするには構造性が感じられる。倍数から残された7と9はnanaとkokoというようにそれなりの類似性がある。
 以上の考察のままでは、ほとんと「と」だ。そんなことを主張したいわけではない。わかるのは完全な構造の解明ではないにせよ、倍数の計算原理がこの数詞に潜んでいることは間違いないということだ。
 だから、その倍数構造がどのような算術に活かされていたのかと問いを出してみたいのだ。
 この先はやや「と」が入るが、古代の浜辺のマーケットでは半裸の商人たちが、「これがpi、これがpu、これがmi、倍のmu」と計算していたのだろうと私は思う。それは、どういう算術なのだろうか。倍数を原理とした商用計算はどのように可能だろうか。
 もう一点の疑問は、こうした計算がポリネシアのどこかに残っているかだ。これがわからない。"Numbers from 1 to 10 in Over 4500 Languages"(参考)をときたま眺めるのだが、類似の数詞構造をもった言語はない。あるいは、だからこそ、日本語の数詞は日本語というより極めてマーケット性の強い言語アバカスだとしたい気持ちになる。
 古代マーケットでもそうだが、マーケットは基本的にバランス(等価交換や収支)によって成り立っているので、倍数原理がこのバランスのために利用されていたと思われるのだが、わからない。
 身体語については、めが眼と芽、はなが鼻と花、といった作物との関連がありそうだが、こちらはさらにわからない。ついでにどさくさで言うが、稲作というのは日本の古代では交易のための商品として発生したものだろうと思う。稲作をしてコミュニティに富を蓄え国家ができるというモデルは抜本的な間違いだと思うが、私が死ぬまでにそうした見通しいいの古代理論はできるのだろうか。無理かな。

2003.12.29 in 歴史 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

2003.12.22

サンタクロース雑談

 今朝の新聞各紙社説はあらためて見るべきことはなにもなかった。本当にこれが今朝の社説なのかとも思うが、新聞社も年末進行で社説に手間をかけていられないか、新聞社のサラリーマン諸君は年末で押せ押せになっているのだろう。
 社説系のネタはない。時事・社会問題はなんとなく気が重い。奥菜恵の結婚話も関心ないし、ネット系のネタに振ると極東ブログらしくなくなる(冗談)。ので、歴史の雑談を書く。さしてまとまった話でもない。サンタクロース雑談である。
 サンタクロースことセント・ニコラスは、ご存じのとおり、と念を押すが、トルコの生まれだ。出生地主義でいうなら、サンタクロースはトルコ人なのである。といっても古代の話なのでトルコ人というのもなんだかなというのが常識だろうが、朝鮮史に檀君建国や日本史に卑弥呼が登場するようでは、お笑いとも言えない。ようするに、古代史というのは近代国家が作り出したものにすぎない。
 サンタクロースの話の起源や近代都市神話の話は、インターネットに五万とある。本当に5万かもしれない。そうでなくても、ネットの情報はコピペでダブリばかりなので、極東ブログで書くことはないだろう。と言って以下の話もさして新味があるわけでもない。サンタクロースについてのおおざっぱな情報は英語版のWikiPediaを読むといいだろう(参照)。なお、日本語版はゴミなので読む意味はない。
 ニコラスの生没年は諸説があるが、概ね4世紀の人と見てよい。出生と活躍した地域は現在のトルコのミラ(Myra)である。と言ったが、間違ったかもしれない。ミラは古代の都市名で現代のトルコではデムレだろうか。地図を見るとMyraは掲載されているので、その辺りだろうとは思う。ちなみに、イズミル近くの古代遺跡エペソまたは聖書でいうエペソスは、現代ではエフェスである。現地のようすは高橋のぶ子「エフェソス白恋」に詳しい、というか、つまらん小説ではあるが、当地の光景が子細に描かれていて懐かしい思いにかられる。トルコの地名は難しい。もともと日本人の知識人は西欧化された世界史観でしかトルコに関心がないので、とりあえずアナトリアと呼び直す(「小アジア」は下の下)が、そうすることで現代のトルコとのつながりを見失って架空の世界に漂うことになる。
 ミラは地中海沿いだが、エジプトに向き合った側にある。近辺のダルヤナーズ(アンドリアス)もリゾート地ではあるが、日本人のお上りさんとしては都市アンタルヤのリゾート地がいいだろう。のんびりと滞在して、ついでタルソまで足を伸ばしてみたいとも思うが、また旅に出られる日はいつになるだろうか。
 ミラは古代にはリュキア文明が栄えたところだ。ちなみに、リュキアは英語ではLyciaと綴る。リュキアの研究は多分に漏れずイギリス人考古学者であったことから、リュキアについての基礎文献はこの英語のキーワードで英文献を辿ることになる。遺跡の現状だが、たしか世界遺産になっていると思うのだが、誰か確認してくれ。なお、リュキアについての話は「リュキア建築紀行」(参照)が面白い。
 リュキア文明は古代文明ということでヒッタイトに通じる紀元前というイメージがある。だが、リュキア王国が栄えたのは紀元前4世紀あたりであり、いわば古典ギリシアの世界と通底する。その後、ヘレニズム時代を迎えるのだが、多様性を残すヘレニズムはリュキアの土俗的な文化も残していたようだ。その文化はニコラスの時代を覆い、6世紀くらいにまで及んでいたらしい。
 西欧化された日本の知識人はキリスト教を西欧の文脈で捕らえがちだが、イスラム圏が拡大し、カトリック教皇が西欧に力を及ぼす以前は、キリスト教というのは極めてアジア的な宗教である。というか、ヘレニズムそのものであり、つまり、ペルシャ的な宗教なのであるが、と雑駁に書くとスキだらけだが、いずれにせよ、ニコラス時代、リュキア文明と当時キリスト教とは多少の反目あっても、ある種の調和を見せていただろうと考えてよい。
 その調和のイメージに私は感心を持つのだが、奇妙なことにふと気が付く。そういえばと思ってギリシア神話をぐぐってみて思い出す。アポロはレトの息子(レトイデス:Letoides)ということから母名を継いでいる。福音書のイエスや当時のユダヤ人(あるいはスラブ人)のように父名を継いでいるわけではない。母系である。リュキア人も母系だったようでもあるし、アポロン信仰はリュキアで興隆していた(参考)。
 私は何を言いたいのか。そう、ニコラスの伝説は多分にリュキア人のアポロ信仰の焼き直しではないかと思うのだ。ただ、アポロ信仰自体は、地中海を通じて西欧世界へ伝搬されるのだが、カトリック地域ではローマとナポリの中間に5世紀モンテ・カッシーノにアポロ神殿があった。これを聖ベネディクトは異教として打ち壊すのだが、文化現象としては事態は逆で、ベネディクトにアポロ信仰が継承されたのだろう。もっとも、そんな説はこの聖者の名前を引く団体からは嫌がられるだろうが。
 聖ベネディクトに比べれば、ニコラスの伝承は遅れた。骨マニアのカトリックのことだ、その遺骨は1087年にイタリアのバーリに移した。ここが西欧でのニコラス信仰の伝搬拠点となる。聖人の日としては12月6日である。これがおそらく海洋の守護神としてオランダに伝承され、そこからアメリカへ移り、現代の伝説ができあがるのだろうが、6日から冬至の祭りであるクリスマスへの習合はルター派によってなされたようだ。福を授ける者をイエスに集約したいのだろう。だが、そのわりに、現代ドイツでも依然、ニコラスの日として子供にプレゼントを与える日は6日のままであり(現代ドイツではクリスマスにも与えるようだ)、その意味でもドイツというのは土俗信仰の強いところだということがわかる。
 ところで、クリスマスを冬至の祭りと書いたが、その起源はミトラ教のようだ。いずれにせよ異教である。西欧のキリスト教というのはとてもローカルな宗教なのである。

2003.12.22 in 歴史 | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

2003.12.07

明日は12月8日

 明日は12月8日。釈迦が悟りを開いたとされる臘八会だ、っていう話はボケ。対米英開戦の記念日、と書いてそれでいいのか。あの馬鹿なWikipediaはなんと呼んでいるのかなと見ると、太平洋戦争勃発とある。ふーん、というしかないな。いわく「日本軍、ハワイの真珠湾を奇襲(真珠湾攻撃)」、これも、ふーん、というしかない。英語の翻訳かと思い英語版を見ると、こうある(参考)。


1941 - The United States Congress passes a declaration of war on Japan, bringing the United States of America officially into World War II. Hitler's Germany declares war on the United States. Congresswoman Jeannette Rankin casts the only "no" vote. First use of Gas Vans on the Jewish by Hitler's Germany occured at the Chelmno camp, near Lodz.

 ジャネット・ランキン(Jeannette Rankin http://www.rankinfoundation.org/)に言及するあたりに、ちとエスプリがある。よく読むと、真珠湾奇襲みたいなことを素で書いてないなというあたりにも歴史家のセンスがある。
 1941年というのは、自分が生まれる随分前のことなのだが、思い起こすと小学生のころの教員には復員兵もいて、この日に限らず戦争の話をいろいろ聞いた。こういうといけないのかもしれないし、教員の個性にもよるのだが、復員兵の教員がする戦争の話は面白かった。そういうとドンパチのどこが面白いのかと詰問されそうだが、ようするに春風亭柳昇と同じようなものだ。春風亭柳昇も今年亡くなった。
 予備校時代、私はそこで講義を持っている数学のW先生に傾倒した。べたべたと先生の回りにまとわりついたわけではないが、彼の講義は欠かさず聴いた。ひどいずんずう弁だったが、講義は面白かった。数学の教え方もとびきりうまかった。教師という点であれほど優れた人はいないだろうと思う。彼は、私の記憶違いかもしれないが、中国で諜報員の活動もしていた。中国語が出来たためだろうとも思うし、単なる諜報だけではなかったのかもしれない。ある講義の途中で、「僕はあの戦争を一生懸命やった」と語った。単純な戦争肯定ということではなかった。面白い話だったが、ようは、中国人捕虜を見殺しにして撤退しろという命令に背いて、捕虜の延命・解放をしたということらしい。そのことを人道的に誇っているというわけでもなかった。如何に上司が理不尽であったかに激怒して死ぬ気だったようだ。先生はそういうことをなんどもやっていたらしく、死地に放り出されたこともあったようだ。そうそうに中国人のような身なりで逃げ出したなど…。まさに物語だった。
 あの戦争を実体験のレベルで感受できるのは私が最後の世代になるのかもしれない。そのあたりはよくわからない。自分より上の団塊の世代のほうが遙かに戦後民主主義的だった。むしろ、私の世代は戦後民主主義に最初にねじれた世代だったのかもしれない。高橋留美子のマンガもそういう世代背景があるだろう。
 「十二月八日」というとこの日付を題にしてあの日に書かれた太宰治の小説がある。当然、恰好の批評のテーマにされるのだが、これがなんとも奇っ怪な作品なのである。新潮文庫の「ろまん燈籠」にも入っているが、現在ではネットでも読める(参考)。

 きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。

 話はその主婦の目で開戦に喝采しつつ、それとはまったく同じ次元で、赤ん坊を銭湯に連れて行く。まるで開戦とは関係のない日常をその主婦の行動から浮き立たせる。太宰一流の皮肉としてしまうこともできないだろう。

ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。

 引用だけにすればこんな奇妙な話もある。

台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。これからは私たちの家庭も、いろいろ物が足りなくて、ひどく困る事もあるでしょうが、御心配は要りません。私たちは平気です。いやだなあ、という気持は、少しも起らない。こんな辛い時勢に生れて、などと悔やむ気がない。かえって、こういう世に生れて生甲斐をさえ感ぜられる。こういう世に生れて、よかった、と思う。ああ、誰かと、うんと戦争の話をしたい。

 私はこれにユーモアを感じる。女と限定せず、日本人などそういう状況下に置かれれば依然そんなものではないかという点で可笑しさを感じる。それを戦後は理屈で押し込めていった。だが、必要なのは、平和だのの理屈ではなく、ユーモアではないだろうか。小林よしのりのまじめくさった戦争論にも似たようなユーモアを感じる。笑いのめすというような面倒くさいことではない。
 そういうユーモアが大切だと言いたいわけではない。むしろ、言えることは理念を先行にしても感性は変わらないということだ。
 ところで、衆知のことをあらためて書くことになるのだが、先に銭湯におんぶしてつれて行かれた園子は実名で津島園子だ。旦那は衆議院議員津島雄。オフィシャルサイトがある(参考)。津島姓なのは養子だからだ。
 特に話がまとまらない。12月8日についてまとまる話など書きたくもないのだが。

2003.12.07 in 歴史 | 固定リンク | コメント (1) | トラックバック

日本人の姓というもの

 新聞社説関連ではとくに目新しい主張はないようだ。テレビで外交官追悼は見ない。痛ましい事件だが、この美談をもってして外務省の評価を変える気はない。そう思いながら、なにか重要な問題を見落としているなと思う。イラク派兵問題や道路公団問題など構図が単純すぎる。こうしたことでなにかが隠蔽されているという直感があるが、よくわからない。足利銀行の破綻についても、当初、「ふーん」という感じだったが、根は深そうだ。週刊誌は北朝鮮絡みにひっかけるがそういうことでもあるまい。「あすを読む」ではこの問題について、突然なぜ?という疑問を投げかけていたが、修辞に過ぎない。ただ、この問題はテクニカルな要素が強すぎて簡単には書けそうにはない。そうそうイラクについてだが、これまで書き落としてきたが、派遣予定地サマワはかなり安全だと見てよさそうだ。もちろん、これにも異論があるだろうが、逆に1000人気規模の友好団を送るのは悪くなさそうだし、オランダ軍とも連携できそうだ。自衛官がマリファナでも楽しんでくるかもしれないという不謹慎な冗談はさておき、派兵を選んでも、実は大きな差がないとも言えそうだ。
 いきおい雑談になる。日本人の「姓」についてだ。「性」の誤記ではない。以前、たまたまmsnジャーナルだったかで見たと思うのだが、日本から中国に留学している学生が教室で中国の少数民族の子に「ねぇねぇあなたどこの民族?」と問われたという話だ。そうだろうなと思う。中国人の場合、姓はたいてい一文字だ。二文字のこともあるが、それはたいてい少数民族か本来なら中国に内包されるべきではない異文化の地域の民族だ。日本人が好きな諸葛孔明こと諸葛亮の姓は二文字だ。異民族の含みがある。さらに異民族性が高まるのだが「愛新覚羅」のように二文字以上のこともある。
 日本人の姓の大半は二文字以上でもあるし、地理的にもは中国からは中原につながらない。だから異民族鬼子として「東洋鬼」になる。日本人はあまり知らないようだが、「東洋」という言葉は中国では日本を指す。ちと広辞苑を引いてみたら、ちゃんとその意味が載っていたので、教養人なら常識だよと言っていいだろう。いずれにせよ、日本人の名前はその名前からして、中国ではない異民族に見える。その点、朝鮮は早々に中華化してしまった。彼らは日本の奈良朝くらいまでは別の姓を持っていたようだし、金春秋の例のようにすでに中国的な姓を持っていた人もいる。
 実は日本人の姓というのは「姓」ではない。このことが痛切にわかる例は沖縄(琉球)だ。沖縄の場合、久米姓などはちゃんと姓をもっているが、その姓が現在につながるのは尚家くらいのもので、たいていは家系図には姓を記載しても、「氏」を姓名としている。もっとも、琉球の場合島津の政策の影響なのか、擬似的な氏銘に変更されている。我如古は金子ではないだろうか。また、明治にかなり氏名を日本化した。私の知人に嘉納さんという人がいるが、嘉納治五郎のような嘉納ではなく、「嘉手納」の「手」を抜いたのだ。池宮さんは池宮城だったりする。読みだけの変化もあるエッセイストの与那原恵(よなはらけい)の氏名は沖縄では「よなばる」である。歴史をもっと深くみていくと、こうした明治期の姓名の変成は日本本土にも見られる。だが、私の知る限り、この問題はあまり日本史で扱われていないようだ。代わりに韓国の改姓が話題になり、日本の侵略といったイデオロギーの問題に変換される。挙げ句は日本という実体が韓国や沖縄という実体と向き合うような近代史像を造り出し、文献を整理して歴史書のようなものを分厚く書き上げる。
 先に金春秋の例を挙げたが、こうしたことは日本でも奈良朝から平安時代に見られる。日本の教育では教えていないだろうが、紀貫之など「きのつらゆき」と読ませるから日本風なのだが、はっきりとした読みはわからないが、東アジアの文脈では姓が「紀」の「キカンシ」のように読んでいいはずだ。いずれにせよ、中国文化の姓名なのである。
 このことを愕然と思い知らされたのは光明子のことを調べていたおり、正倉院宝物にある彼女の自筆署名に「藤三娘」としてあるのを見たときだ。これは「とうさんじょう」と読む。「三娘」は名前ではなく、「藤」家の三娘だろう。インドネシアのワヤンさんのようなものだ。いずれにせよ、彼女は姓を明確に意識しており、それが「藤原」ではなく「藤」であった。しかも、皇后位についてもこの姓を維持していたことは、婚姻の制度が中華的であったことを示している。こんなことあたりまえ過ぎる話なので書くも恥ずかしいことかもしれない。
 啓蒙は嫌いだが、もともと藤原と佐藤、伊藤、加藤などはすべて同じだ。元になる「藤原」はおそらく「藤」の「原」という氏名(うじめい)だろう。姓は「藤」である。そして、西行の名である佐藤義清の佐藤は、異説も多いが、平安中期藤原北家秀郷流の公清が左衛門尉を名乗ったことによる役職名に由来するのだろう。いずれにせよ、姓として「藤」であることは間違いない。荻生徂徠など、自らを物徂徠と称するほどだ。さすがにこれは日本人として恥ずかしいなとは思う。
 いずれにせよ。日本人でも姓はある程度意識されているのに、日本では同姓の結婚が許されている、どころか日本人はまるでその禁忌の意識はない。「本貫」はないのだ。この話を知らない人もいると思うので、すこし解説したほうがいいのかもしれないが、割愛する。いずれにせよ、現実の日本社会の実態上は姓の意識はない。中華世界から見れば乱交の異族に見えてもしかがたない。
 些細な、つまらない話のようだが、こうした事は陰画的に中国には恋愛から婚姻という経路が原理的に存在しないことを示すし、日本には血統意識がないことも示している。文化人類学的に見るなら、ファミリーシステムが中国とはまったく異なるので、日本人は中国人とはまったく異なると文化(または文明)と結論してもいいだろう。日本を中国とは分離した文明としてみるハンチントンがまるで見当違いをしているわけではない。
 特に話のオチはない。知識をひけらかしたいわけではない。それどころか、こうした記述のディテールに間違いも多いだろう。ただ、私としてはこうしたことは日本人の常識でなくてはならないとは思う。

2003.12.07 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.12.03

ベストなドイツ人はトホホな結果

 そういえば、極東ブログの「ベストなドイツ人というトホホ」(11.11)で扱ったビルト紙とZDFテレビの共同が企画した偉大なドイツ人の結果が出た。以下の通り。



  1. コンラート・アデナウアー
  2. マルティン・ルター
  3. カール・マルクス
  4. ゾフィー・ショルとハンス・ショル
  5. ウィリー・ブラント
  6. ヨハン・セバスチャン・バッハ
  7. ゲーテ
  8. グーテンベルク
  9. オットー・フォン・ビスマルク
  10. アルベルト・アインシュタイン


 結果を見て、ちょっと言葉に詰った。そりゃないでしょっていう感じだ。なんかドイツって内部で競り合っているんだなという感じがする。
 アデナウアーは旧西ドイツということ。つまり、旧東ドイツへの面当て。ルターはプロテスタントなので、半数いるカトリックに面当て。マルクスはアデナウアーの西ドイツ勢力に対抗した東ドイツ勢。ゾフィー・ショルとハンス・ショルはユダヤ人勢力っていうことだろうか。単純にしすぎだが。
 同じドイツとはいえ、難しいものなんだというのがかいま見られて面白いと言えば面白かった。

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2003.12.02

朝鮮民族の起源を考える

 韓国の新聞東亜日報の社説で以前朝鮮史五千年という話がマジで語られているのに仰天したことがあるが、それ以前にそこでの朝鮮民族という概念にも驚いた。私はどう考えても、朝鮮史は新羅統一をもって始まると考えていて疑ったことがなかったのだ。盲点があった。もちろん、統一新羅以前の古朝鮮を否定するわけではないが、古朝鮮の民族的な状況についてはあまり考察したことがなかった。理由は意外に単純だ。歴史学者岡田英弘から直接、前漢時代の東ユーラシア大陸の「朝鮮」は現代の朝鮮とは違うという話を直接伺って、疑念すら持たなかった。気になって手元にある岡田の著作を読み直したが、はっきりした言明が見つからない。もしかすると私の聞き違いかもしれない。それにしても、疑念すら持たなかったのは、百済が日本と同様に越人の起源を持つだろうと思っていたからだ。つまり、統一新羅以前には朝鮮民族の単一的な起源はないだろうと単純に考えていたわけだ。
 現状でも、その考えが違っているとも思っていない。また、くわしく考察できているわけでもないのだが、メモがてらに書いておきたい。
 史記によれば周の武王が殷を滅ぼしたとき、殷の最後の王である紂王の叔父箕子は現在の朝鮮に封ぜられたとある。これがいわゆる箕子朝鮮だが、殷自体が伝説なので史的考察の対象とはなりにくい。箕子は燕下の喀喇沁のキ(己其)侯をさすと見てよいので、朝鮮半島北部は燕下にあったことだろう。
 その後漢代に、燕人満(衛満)が部下とともに東方(半島方面)に亡命し立国したた。そのおり当地の民族衣装をきて紛れたというが、これを現代韓国の史学者は朝鮮族の服(椎結蛮夷服)だと考えている(参照)。
 満は現在の平壌を都とし、当地の真番、朝鮮、臨屯を服属させた。これが衛氏朝鮮(衛満朝鮮)である。衛満は漢の外臣扱いとなったが、その孫衛右渠は漢に敵対したため、漢によって滅ぼされ、楽浪・玄莵・臨屯・真番の四郡が置かれることになった。完全に中国下になったわけである。これがBC108。
 四郡の位置についてだが、岡田英弘は現在の朝鮮半島を分割するように比定しているが、井上秀雄は現在の北朝鮮に比定している。岡田が正しいようにも思われるが、井上の説が正しいなら、以上の古朝鮮の歴史は現在の韓国の地域とは関係のない歴史なのかもしれない。
 韓人については、BC44に真番の原住民として現れ、後の辰につながる。


建武二十年、韓人廉斯人蘇馬[言是]等詣樂浪貢獻。【廉斯、邑名也。[言是]音是】光武封蘇馬[言是]爲漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。 靈帝末、韓、wai[扁水旁歳]並盛、郡縣不能制。百姓苦亂、多流亡入韓者。

 高句麗が出現するのは先の井上はBC37ごろとするが、そうだろうか。いずれにせよ、後漢の衰えとともに高句麗が現れるのであって、檀君建国とはつながりようがない。また、以上の流れから見て、衛氏朝鮮をもって朝鮮民族の歴史起源とするのもやはり無理があるようには思われる。
 話は飛ぶが、現在中国域吉林省、黒龍江省、遼寧省など東北三省に二百万人の「朝鮮族」がいる。この人々の由来は現在の北朝鮮の朝鮮人と異なるものではないだろう。歴史的には10世紀に滅亡した渤海遺民かもしれない。日本の併合から逃れたとも言われているが、そう言われれば政治問題なので日本人による否定は難しいだろう。
 鴨緑河で北朝鮮の国境が引かれたのは、中ソの蜜月時代と北朝鮮がもとからソ連の傀儡国家として生まれたことによるのだろう。
 朝鮮の置かれた歴史状況に同情すると言えば、朝鮮人からは嫌がられるかもしれない。私はいずれなんらかの形で、半島に統一朝鮮が出現し、日本と並べる一億人の近代国家になるだろうと思っていた。だが、古朝鮮を巡るナショナリズムの動向を見ていると、そうならないのかもしれないとも思う。中国は現在東北工程によって中国域内の朝鮮族の中国化を進めている。そして、中国は突き詰めてしまえば、歴史的に朝鮮を独立した国家と認めているわけでもない。統一朝鮮はつねに中国と対立しつづけるだろうし、その対立は民族を分断させるだろう。

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2003.11.30

西尾幹二というオタク

 たまたま買った「諸君」2003.12に西尾幹二の「江戸のダイナミズム」という連載があり、読む気もなかったのだが、読んで驚いた。ひど過ぎるのである。間違い箇所を指摘するということができないほど、抜本的に間違っている。そして、この間違いかたは、自分でも意外だったのだが、センター試験以降の世代と同じに思えた。個々の知識はむしろ正しい。偏差値は高いだろうな。…もちろん、そういう言い方は杜撰すぎるのだが、なんとも奇妙な感じだ。
 西尾幹二については「国民の歴史」でずっこけてしまったことがあるので、この人はぜんぜん歴史というものがわからない人だなと思ったものだった。当然、読むのも苦痛なので読まないのだが、今回連載の一部を読んでみて、唖然としてしまった。こう言うほどたいした知識が自分にあるわけでもないだが、西尾幹二は体系性のない知識の羅列を都合よく組み立てているのだ。まるで根幹がわかっていない。儒教と儒学の差もわかっていないようだし、「義理」の「理」の意味もわかっていない。「理」という漢字の字面から「理性」の「理」と解しているようだ。なぜこんな情けないことになっているのかと考えたのだが、西尾幹二はまず易の素養がないのだろうな。易がわからなくては中華思想はわからないと断言してもいいほどなのに。
 中華思想はさておき、ほとんど腰を抜かしたのは、「葉隠」をテロリストの思想だというくだりである。


 やはりテロリストの思想というべきでしょうか。戦国時代から離れ、平和がづついてかえってこういう思想が生まれたと考えるべきでしょう。

 まいったな、とほほだな。絶句するな。しかし、物は考えようでテロリストの思想と評価されても、もし現代に山本常朝がいたならびくともしないだろう。
 そういえば、9.11について吉本隆明はあれをテロだということで単純に否定しなかった。彼は、あれが日本人なら関係ない乗客を降ろしてから実行しただろうと言っている。私などはそれだけでわかる。吉本隆明もだから根は軍国少年と言われるのだろう。とほほであるな。吉本隆明は9.11がいけないのは、つきつめれば非戦闘員を巻き込んだことだ(だから日本人被害者にも着目している)。とはいえ、非戦闘員を巻き込まないテロなどないといわれればギャフンだな。
 いずれにせよ、「テロは絶対悪である。日本軍の行動は絶対悪である。…。」これらがクレドになってしまっているのだ。西尾幹二ですらそうなのだ。
 なにも「テロだって悪ではない」とか「日本軍の行動を肯定する」ということでは全然ない。そういうことでは全然ないのだ、と言って、まったく通じない時代になったのかもしれないし、そう言うことが空しいだけで、「葉隠」の思想は生きているのかもしれない。「生きるべきか死ぬべきか」という状況が迫られたとき、あらゆる思考は「生」によってかたどられるのだから、自由は死の選択の行動にしかない…そうでなければ武士ではない。武士である必要などないが武士という生き方(倫理)はそうするしかない。確かにアナクロニズムの極みか…とほほ。
 とほほとか言ってもしかたない。また、こういうことはうまく言葉に尽くせないものかもしれない。

[コメント]
# shibu 『葉隠に関して、「閉じ込め」についてNHK教育でやってましたですね。講座名が「武士道」だったかな?確か最初の頃は「葉隠」自体についても少し解説していたような。ただ、絵柄が講義者の後ろに鎧兜なんか配してしまったりして、あらら?な雰囲気でしたが、中身はどうして極めて説得的だった記憶です。外地なので手元に何も無いのが残念ですが...』

2003.11.30 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.28

韓国の歴史は五千年かぁ(嘆息)

 昨日の東亜日報の社説を見ていたら「高句麗が消えた」(参照)とあり、「高句麗」という呼び名は変だなと思って読んでみた。変だなというのは、高句麗という呼称は日本史の用語ではないかと思っていたからだ。もちろん、翻訳の彩かもしれないのだが。
 話を読んで、正直なところぶったまげた。うっ、これがマジなのかぁという感じだ。ことの説明は私がヘンテコにまとめるより引用から進めよう。


世界の有名インターネットサイトが、韓国の歴史の起源を、新羅が三国を統一した時点にあたる、西暦668年として紹介しているというニュースだ。民族的な憤りとともに恥ずかしさを覚えずにはいられない。檀君王倹(タングンワンゴム)から始まった5000年の歴史が、僅かに1300年あまりに縮小され、歴史上、我が民族の最も誇らしい国家だった高句麗が、一瞬にして「消え去った王国」となったわけだ。

 率直にいってそのサイトがどこなのか知らない。しかし、韓国の歴史の起源を新羅による統一とすることはそれほど間違った見解だとは私は思わない。ただ、そういうためには、日本の起源を近江朝に置くとしなければフェアではないが。と、いいつつ余談だが昭和天皇は天皇家の成立を七世紀と認識していたし、今上天皇も同じように考えているようだ。天皇家に「と」が入っていないというのは国民として助かりますですぅ。
 ぶったまげたのは「檀君王倹五千年」である。え?マジ?東亜日報って北朝鮮の報道機関? それって確かに「紀元は二千六百年(歌ってしまいそ)」より古いですなぁ、って洒落にもならん。なんか、そんな話を新聞社説に載せるようだと、およそ対話の前提もありません。すごすごと引き下がる耳(のみ)っていう感じだ。まぁ、韓国の国定教科書にも檀君が歴史のように記載されているのは知っているのだが、それってマジとは思ってなかったのですがねぇ。
 というわけで、檀君に至っては議論の余地もないのだが、話は別展開で面白い。

中国は最近、高句麗史を中国史の一部に編入するため「東北工程」というプロジェクトを進めている。5年間莫大な予算をかけて、高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権であり、中原の政府に代ってその地域を委譲、統治した割拠政権であったということを立証するというのだ。中国は、昨年ユネスコが北朝鮮の高句麗古墳を世界文化遺産に指定するのを妨害し、高句麗が満州一円を掌握したことを立証する決め手となる「物証」の、広開土王(好太王)碑と、集安一円の高句麗古墳に対する大掛かりな整備に乗り出したのも、この事と無関係ではないだろう。

 ほほぉっていう感じだ。「高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権」のどこがいけないのだとかツッコミそうなるが、ヤバイのだろうか。って、ヤバイってことになったら学問の自由は無いぜ。中国側の歴史解釈なんか別にほっとけばいいじゃないかと思うが、檀君が許さないのか。高句麗史を明確にすることは中国に恥かかせることなんで、そのあたりにキリ入れたほうがいいと思うのだが…。
 他にも知らなかったことがある。

学界もまた、この20年間1000本を超える論文を通じて高麗と渤海史を中国史と主張してきた中国に対応して、十分な史料の発掘と対応論理の開発を急がなければならない。

 そりゃ中国がむちゃくちゃ。
 古代史なんて日本だと「と」と無能な学者のたまり場だと思ったけど、いやぁ日本ばかりじゃありませんねぇとくさしてどうする。
 それにしても参ったなぁという感じだ。政治的に見れば、この動向は「太陽政策」の一貫というか、北朝鮮との民族同一化の布石なんだろう。なんであれ、こいうこう国政を反映する歴史観はいただけませんな。済州島の歴史なんかも実質見向きもされていないのではないか。私も一度きちんと古朝鮮についてまとめたものを書いておいたほうがいいかもしれない。

[コメント]
# shibu 『「私も一度きちんと古朝鮮についてまとめたものを書いて」』
# shibu 『上記、是非、お願い申し上げます。散見しますに、擦り寄ったのしか見かけませんのでw』
# shibu 『金泳三かな、ニヤついた地場お面おやぢ。次ぎが遺物的大中。シノ雑貨屋がおんなじ屋号だね。挙句に投票直前のネット効果だとか言われて、ジャガイモのむひょぉ~。民主化の結果なんかじゃなくって、両班党争先祖帰りだ!ってな解説みました。直後の朝ナマで、貧相正直もんの山本一太が「全然予想外でした!」ったら、例のキモイ生姜東大政治学きょうじゅ殿が、ニヤリと予想通りですとかほざいたのには呆れ返りました。東大政治って、そんなもんだったっすか~w』
# shibu 『高句麗・渤海VS小国家群・三韓のようで、大陸に属する半島根元と所謂半島は根本的に違うのではないでしょうか。現金王朝だって始祖は擬似チャイナでシナ語で教育受けて育ってるし、二代目は極東ロシアで生れて育ってますものね。親父はチャイナ訪問時が寛いでるみたいだし、息子はチャイナじゃむっつりロシア行ったらニコニコしちゃってるじゃないですか。あれって言葉のせいでしょうね。育ちは偽れませんですね。つまり両人とも白唐辛子wというか「同一民族」なんかじゃ決してないんで、「ソウルを火の海?まぁさかぁ~」ってな韓国側の勝手な思い込みは相当危険水域でしょう。間合いを取った在韓米軍はそんな勝手な思い込みに冷水を浴びせたのでしょうね。瀋陽軍区は緊張してるはずです。大連上空は毎朝昼戦闘機が低空飛行しておりますね。外地暮らしはその意味でもいい経験です。』

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2003.11.26

小熊英二に寄せる脱力

 たまたま「小熊英二さんに聞く 戦後日本のナショナリズムと公共性 『七人の侍』をみて、『これが戦後思想だな』と思った」(参照)をざっと読んで、脱力した。最初に断っておくが、小熊英二を批判したりくさしたいわけでは毛頭ない。と、うんこ投げの防御を張っておく。
 まず、このインタビューなんだろ?と思ったらブントなわけね。もうそれだけで、脱力する。が、ま、読んでみるかぁ。と読んで、さらに脱力。よくわかんないですぅ。
 私は「〈日本人〉の境界」はざっと読んだが、「〈民主〉と〈愛国〉」は読んでいない。大池文雄とかに触れているのだろうか?だったら、ちと読んでみたい気もするけど、「〈日本人〉の境界」の感じだったら、なんか読むだけ無駄だなという印象がある。
 インタビューを読んでさらに、小林よしのりに対抗している部分があるらしいと知ってさらに関心を失う。
 意外に吉本隆明への言及が多いのに不自然というか変な感じもした。ちと引用も長くなるが、こんな感じ。


 吉本隆明についていうと、彼の著作を集中的に読んだのは、今回が初めてです。理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。もしかしたら、20歳前後で読めば、もうちょっと違ったかもしれない。でも30代後半になって初めて読んだのでは、50年代から60年代の吉本さんが使う「反逆の息子」とか「壊滅的な徹底闘争」とかいうフレーズには、共鳴できないと感じた。
 ピエール・ブルデューは、フーコーを批評して「青少年向きの哲学者」と言っています。フーコーはそれだけの存在だったとは思いませんが、60年代の吉本さんの影響のあり方については、ちょっとそういう印象を感じますね。ああいう戦闘的ロマンティシズムというか、「壊滅的な徹底闘争」で「擬制」を倒せみたいな思想として吉本さんの著作が若者にうけてしまったというのは、全共闘や新左翼を政治的な観点から評価すれば――文化的な観点から評価すれば別の基準があるでしょうし、「政治」と「文化」がそうはっきり分けられるのかという疑問もあるでしょうが――幸せなことではなかったと思う。
 私が『〈民主〉と〈愛国〉』で述べた見方では、吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果は、党派や社会運動、あるいは「公」の解体を促進したということだった。彼の力で解体したわけではないけれども、解体を促進する触媒としての機能を果たしたと思います。

 ふーんというか、橋爪が「ひんやり」というのはわからないではないなと思う。くさしみたいに聞こえてはいけないが、「理解しようとできる限り努力したつもりですが、正直なところ好きにはなれなかったですね。」という論理破綻した独白の本音が面白いといえば面白い。理解することと好きっていうことは違うでしょと、ちとツッコミを入れたくなるが、小熊英二という人は理解する=好きになるというのがけっこう前提なのだろう。それと、ようするにここで彼が独白していることは、「理解できなかった」ということだ。不思議なのだが、理解できなければ、理解できないとしておく、ということはできなかったのだろうか。皮肉を言いたいのではなく、そういうところに小林秀雄流の批判精神はないだろうし、彼がひんやりと扱っている吉本隆明だが、むしろ彼は表層的にパセティックに見えながら、理解できない点を強引にまとめることには禁欲的だ(ま、これには異論は多いか)。
 ちとうかつだったのだが、橋爪大三郎が小熊英二をさらっと引き合いにしている背景は、小熊英二が吉本の「共同幻想論」など主要著作について「まるで読めてないよ、おまえさん」、という諭しの意味合いがあったのだろう。考えてみると、「共同幻想論」を抜きにして語れてしまう吉本隆明ってなんなのだろうという気はする。だが、当時の吉本に思いをいたすと、いずれ70年代安保には関心なかったし、あのトンマな状況に対峙するには、もっと原理的なものへの追及が必要だと感じていたのだ。吉本すらこの状況がトンマなものだ(昼寝していろと言っていた)と理解していたのだから、そういう状況性だけを小熊英二に取り上がられると、往年の吉本ならなんというだろうか。にっこり笑うだけだったりして。
 こうしてみると、小熊英二が捕らえたのは吉本隆明ではなく、「60年代の吉本さんの影響のあり方」という現象なのだろう。だから、それは「吉本隆明の思想が残したおもな政治的効果」と同義なのだが、そういう認識ができるのは、ある種社会学的な装置の結果でしかなく、装置によってアウトプットは変わるのだから、その装置、つまり方法論をきちんと突っつくと小熊英二の言説というのは意外なほど簡単に壊れるのではないかという印象を持つ。
 と言いつつ、そうした批判にはそれほど関心はない。また、小熊英二のこのまとめ方が妥当でないとも思わない。小林秀雄風に「青年は深く隠れる」と言ってもお笑いにしかならないだろう。
 だから、次の小熊英二の言い方は、明白なパラドックスなのだ。ちと長いが引用する。

 ただ吉本さんの文章は、おそらく当時から相当に誤読もされていただろうとも思います。だから吉本さんの思想が社会運動を解体したというと、反論する人もいるでしょう。あるいは『〈民主〉と〈愛国〉』で、吉本さんがじつは戦中に兵役を免れたことに罪責感をもっていて、その罪責感から「死ぬまで闘う皇国青年」みたいなイメージを作っていたことを書いたことで、自分の吉本イメージとちがって驚いたという人もいると思います。
 そういう人に幾人かお会いしましたが、そのときはこういう言い方をしています。吉本という人は、要するに思想家というより詩人なんだと。吉本さんの文章は、私が書いたようにその内容をダイジェストして、要するにこういうことを言っていますみたいな形にしてしまうと、特有の魅力が発揮されなくなってしまう。詩のあらすじを書いてしまうようなものですから。だから、「確かにあらすじはそうかもしれないけれど、私のあの感動した心はどうしてくれる」みたいなことをいう人の気持は、否定しません。
 だけどそれは、あくまで文学的な次元の話です。もし吉本さんや、あるいは江藤淳さんもそうですが、ずっと詩や文芸評論だけを書いていたら、私はこういう研究で彼らをとりあげる必要はなかったでしょうし、批判をすることもなかったでしょう。しかし彼らが政治評論を書いて、そういう方面で影響を与えてしまった以上は、当人も批判の俎上に乗せられることを覚悟するべきだと思います。

 「吉本さんの文章」とは吉本隆明という存在を意味する、あたりまえだが。それでその存在が誤読されたというのは、装置として矛盾していて、なにも小熊英二の解読が正しいわけではない。もって回ったことを言ったが、ようするに小熊英二が理解できない余剰の部分へのある種の配慮にバイアスがかかっているだけだ。ただ、ちょっとやり口が汚いなと思うのは、「あくまで文学的な次元の話です」とするあたりだ。小熊英二はもしかすると知らないのかもしれないが、昭和天皇が訪米したころのことだ。昭和天皇が戦争責任についてマスコミで問われたことがあった。あのときの天皇の回答を想起すればいいだろう。それに「文学的な次元」こそが政治であったことなど、同じくブントの柄谷行人などが口酸っぱくなるほど言っていたではないか。と、皮肉っぽくなったか、こういう切り口はダメなんだよというのこそ、戦後思想の一つの帰結なのだ。
 とはいえ、話が循環するが、小熊英二の総括がそれほど、社会思想史として間違っているわけでもない。ただ、そのありかたは、彼には意外だろうが、小林よしのりの「戦争論」がそれほど間違っているわけでもないというのと同じことだ。どちらも、超時代的な装置のアウトプットに過ぎないからであり、そこに生きられた歴史存在としての自己が組み込まれていないのだ。
 話は私事になる。私が吉本隆明から人生を変えるほどの影響を受けたことがたった一つある。シモーヌ・ヴェイユを論じる際、彼女の工場日記に触れたところで、吉本はこんなふうなコメントを付けた。知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られるがそれは間違っている。私が27歳の時だ。インテル80186の直接メモリー転送のコードを書いている時のことだ。私は私の知識の滅却にかかっていた。私は人生に失敗したし、無となった。完全に無となるのがいいのだ。生きていても死んでいても大差がなく、あとはただ宮台真司が後にいうような強度だけがあった。とはいえ、私が特別でもなんでもない。多かれ少なかれ人間なんてそんなものだ。
 私はとりあえず自分の知を滅ぼすことを止めることにした。だからといって社会になんの影響があるわけでもない。だが、そうしたときから、社会は私の知の抹殺に刃をむき出したように感じた。そういえば、吉本はこうも言った。人がその存在をかけて生きるなら、たった一本の道しか残されていない。それはほとんど神学だろう。吉本隆明は私の司祭でもあったのだろう。だが、それを信仰と呼ぶにせよ、他に道がなかった。
 政治思想というものがなんであるかはよくわからない。ただ、吉本に支えられて生きてきた人間たちの総括をするには、歴史はまだ成熟していないようにも思う。

[コメント]
# masayama8 『僕は吉本さんを部分的にしか知りません。しかし、かつて親鸞を解読しようとしたり最近では引きこもれと言ってみたり、僕があの人に魅力を感じるとしたら・・・以下のような点です。つまり、人間がきれいなもんであって欲しいが実際はそうじゃない、とすると、あきらめるべきかと自問自答して、あきらめをすぐ近くに発見してしまうのだけど、他の人のようにはあきらめないところ。そういう逆境を踏まえて、あきらめないで議論を進めるべきだと言う立場・眼差しを、かつてのように有力視されるかは別としても、独自に持っているところです。間接的にではありますが今日も勉強になりました。』
# レス>masayama8さん 『masayama8さんの吉本理解に共感する点があります。私の勘違いなのかもしれませんが、「あきらめないで議論を進めるべきだ」という点です。それだけ言ってしまえばひどく単純なのですが、それを吉本や良く語ったと思います。一つは、彼はどのような状況でも語ると言ったことです。彼自身戦中、彼が心酔する人がどのように語るのかと戦後まで傾聴していたと言い、そして、どんな状況でもそういう人に語ってほしいと思ったといいます。その原則を語る側に回った吉本は忠実に実践しています。おそらくそれが知識人の最後の砦なのかもしれないと思います。吉本は昔の話ですが、知識人というのはやめることができるない、止めるなら知識人ではない、知識人はそのまま生きていくしかないというふうに言っていました。私がさまざまな状況で沈黙を強いられるとき、私ももし語れるなら語るべきだろうと思うようになりました。他者が私を知識人として見るかということは、意外に些細な問題です。吉本が最晩年に至り、言い方は悪いのですが、本当にボケてしまいました。そして、恐るべきことにボケながらでも語り続けています。私を含めて我々はそれをつい嘲笑してしまいます。しかし、それを嘲笑するなら、江藤淳のような死しかありません。ボケながら語るなかでしかし吉本は彼がアフリカ的とでもいうようにシンプルに語り出してもいます。神話の領域とボケが混沌としています。冗談のようですが、知識人はあのように神話性のなかに自己解体と遂げるのが自然性なのかとも思います。それは恐ろしいとまで思います。』
# morutan 『極東の人へ/いつも楽しく拝見させてもらってます。/いろいろと学べることが多くて・・ここを見つけられたことのは幸いは、最近の中での「感謝」のひとつとなっています/ところで、少し質問があるのですが・・/いまさら感はあるかもしれませんが・・「知識人はその知識ゆえに自己滅却の衝動に駆られる」という箇所についてもうちょっと詳しく教えていただけませんか?/これは、「たとえば単純な肉体労働のようなものをしたくなるときがある」ということでしょうか?それとも、「自分の知識で人が傷つくの嫌になって知を封印したくなる」、というようなことでしょうか?/というのも、最近ぼくもちょっと悩んでることがあって・・/たぶん、知識人とかのレベルでもないのでしょうけど・・』
# レス>moutan 『「知識ゆえの自己滅却」の話を少し補足します。うまく言えないかもしれませんし、この話は悪しき傲慢さが入りがちなので怖いのですが、自分には深刻な問題でした。60年代から70年代までにあった「知識人」という言葉は80年代のニューアカ以降なくなりましたが、あの時代までは端的に言えば「左翼」を意味していました、が、戦後の左翼史が錯綜するなかで複雑な過程を辿りました。ただし、単純に「左翼」とのみいうものではなく、自分などもそうなのですが、高度な教育を受け知識を蓄えたのに、回りの人間(大衆)と齟齬を来たし、それでいてその知識をもって社会に活かすこともできず、また社会に自分の知識を活かすことが悪しき権力への従順に思える苛立ち。大衆の心性のほうに自分よりも優れたものを感じる(特に非知的に純粋な恋愛はきついものです)のに、なぜ自分はそうした良き大衆の一人ではありえないのか?それが自責になって、自己滅却的な行動を取ることがあります。今にして見ればそれは感受性の高い青年にありがちな典型的なパターンで、日本でも非政治的には太宰治や宮澤賢治などがそうですし、70年台以前の左翼的な青年にも多くありました(柴田翔「されど われらが日々」)。自分が強い影響を受けたのはシモーヌ・ヴェイユです。自分を徹底的に隷属的な労働者に改造し、知識の片鱗すらなくなるまでの状況に追い込み、彼女のいう「真空」になれば、この自責から救済される(恩寵)、そうでなければ、世間的な悪や魂の鈍化(彼女のいう「重力」)に落ちるだろう。今思うと、自分では知識と思っていても、単に世をすね、知において成功した人たちへの嫉妬もあっただろうと思います。自分が知識人でしかありえないことは、しかし、そうした自己滅却ではどうしようもないし、気が付くと大衆への敵意の心理もあるのです。私など、恥ずかしい話ですが、世俗的な大衆的な享楽にはほとんど関心がありません。それはある意味でただ、そういう人間なのだというだけなので、ようはただ孤独に生きるという意味で自己を肯定するしかないと思います。歳を取るとすべての面で劣化が進み、世の中とも適当に折り合いをつけるようになりますが。』
# morutan 『極東の人へ/少し、私的な話をして恐縮なのですが、すこし思い出したことがあるので記しておきます/以前、ぼくも徹底的に肉体労働した経験があり(それは金銭的理由だったのですが・・)結果として「言葉を失った」というか・・脳みそが働かなくなって・・実存・・というか自分の生きてる価値を見失いそうになったことがあります。そして・・そのことへの苛立ちが結果的に大切な友人を切り捨てる選択に結びついて・・/だからぼくはせめて言葉を取り戻そうと・・その友人に申し訳が立つぐらいには世界を理解できるようになろうと努めてきたつもりなのですが・・/それも空回りして、最近まで鬱屈した状態が続いていたのです/しかし、いまはなんとか「世界」に還れた気がしています。それは比喩的表現で言えば「一度死ぬ」ってことをやれたからではないかと思ってて・・/前に養老孟司がウチのガッコに来て話していた内容で印象に残ったものとして「人間は学問において、何度か殺される」ってのがあって・・/それは、「それまでの方法を否定した上で乗り越え幅を広げる」とか、そういうやり方で限界を超える、ってことなんだといまでは解釈してるんですが・・とりあえずそういう形でもう一度「世界」に還ってこれたので、世の中を楽しむ・・というか、もう一度「世界」の中で考えていくことに決めました。/自分の知識が少しでも多くの人の役に立てたらと・・いまでは思っています/真摯な対応、ありがとうございました』

2003.11.26 in 歴史 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

2003.11.25

1971年11月25日三島由紀夫自殺

 11月25日といえば、三島由紀夫が自殺した日だ。そう言ってみて、自分でもふと戸惑うのだが、「自決」とも「割腹」とも言いづらい。確かに思想的に見れば、「自決」だろう。世の中、三島の死に「自決」を冠するのは思想的な意味合いを見ているからに違いない。あの日、佐藤栄作はたしか「気違い」と言っていた(ATOKは「気違い」を変換しないので登録した)。それからしばらくして、そのことを誰だったか、小林秀雄にご注進したやつがいたらしい。その気持ちはわからないでもない。小林ならなんというか聞きたかったのだろう。小林は簡素だが、三島に非礼なき返答したと記憶している。このことは、江藤淳もひかかっていたらしく、のちに対談で小林に問うている(「歴史について」S46.7「諸君」)。


小林 (前略)宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によくにた気象をもった人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしか起きえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。
江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものじゃないんですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃなんですか。老年といってあたらなければ、一種の病気でしょう。
小林 あなたは病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。

 福田和也が師匠と仰ぐ江藤淳の馬鹿さ加減はここに極まれりといったところだ。江藤の若気の至りで済むものでもない。小林は怒りより呆れているのだ。なんだこの馬鹿と思うと同時にある種の滑稽な絶望も感じていたに違いない。江藤のいう「病気」とは気違いということだ。
 もちろん、江藤にしてみれば、なぜ三島の自殺が日本の歴史になってしまうのか理解も及ばなかったに違いない。
 もう少しこの先を引用しよう。

小林 いやァ、そんなことを言うけどな、それなら吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫は違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件したってそうです。

 小林秀雄はその死の意義をよく理解しながら、若い日の中原中也の死に向けるのと同様、それ以上三島由紀夫については語っていない(と思う)。かわりに、きちんと本居宣長について残しておいた。それが読み解ければ、三島由紀夫もわかる。気違いでもなんでもない。外国人にはわかるまい。あれが日本の歴史というものであり、思想家の徹底性と純粋性の帰結なのだ、と。
 日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性があのように帰結することがある。もちろん、必ずそう帰結するわけではない。三島が大塩平八郎を読解しながら、どこかで「豊饒の海」のような神秘思想を得ていたのは間違いない。11月25日に死んだのも、小室直樹が解読したように、彼の生年である1月14日を49日とする再生への期待だった。こうしたことはもちろん、狂気に見える。気違いと言うにふさわしく見える。だが、小林は「日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ」と言った。私もそう思う。日本というものが深く私に問いかけてきている。
 私はこの夏46歳になった。うかつにも歳のことはよく忘れる。三島の自殺した日のことはよく覚えているというのに、自分の身体の老いを思えば、三島は50歳を越えられなかったと思い、どこか自分より遠く年上に思えている。太宰治についてもそうだ。彼は39歳で死んだのだ。私は彼らより生きている。
 自分の思考の未熟さも思うが、私の老いは着実に三島の文学や思想を若いものとして反映させている。そう、三島に未熟さすら見るようになった。生きて、老いていくということはどういうことなのだろうか。
 あの日、私は中学1年生だった。友人のOがわざわざ遊びに来た。玄関に出た私は「大変なことになっているんだ」と言った。Oにはわからなかっただろう。次の日の朝刊だったか、読売の一面に司馬遼太郎の解説のようなものが載っていた。思想というのは虚構において純粋になるといった戯けた内容だった。不思議なものだ、日本の歴史の本質も理解しえない大衆作家である司馬遼太郎がいつから憂国の賢人扱いされてしまったのだろう。
 司馬の見解のくだらなさに確実に目を留めた一人の人がいた。イザヤ・ベン・ダサンだ。その「日本教について」で彼は、三島が狂気ではありえないことをきちんと書いてみせた。イザヤ・ベン・ダサンは山本七平だというのが通説になったが、そうだろうか。山本はそれをきちんと共同執筆の名称として自身に著作権がないと言明している。ブルバギ将軍は存在しないと言ったらお笑いなのに、イザヤ・ベン・ダサン=山本七平はまかり通っている。とはいえ、山本にもイザヤ・ベン・ダサンとして書かれたその思いは共通だったはずだ。三島は狂気なのではない。山本もまたそれ以上、三島由紀夫について書いていない。書くにつらかったのではないか。山本が後年、執念をかけて追いつめた崎門は彼が戦地で見た日本教聖人をも生み出した。そう、三島もまた聖人であった。三島が自身を陽明学に位置づけたものを、山本は静かに崎門に押し返し、鎮魂したのだ。余談だが、山本は洪思翊をも鎮魂した。山本良樹は父七平に戦地に神はいたかと訊いた。七平はいたとだけ答えたという。間違いない、彼の魂のなかに神がいなければどうしてこのような奇跡の鎮魂が可能だっただろうか。
 1971年11月25日。あれから何年たっただろう。32年。自殺の衝動すらかかえていた中学生が三島の死の歳を越えるまで生きているとは思いもよらないことだ。
 村上春樹「羊を巡る冒険」はこの日のICUのD館の風景で始まる。同じ日、大森荘蔵の講義に遅刻し、教室に入るや三島事件のこと語った中島義道に大森は、わかりましたとのみ言って哲学の講義を続けた。あの日に生きていた人は、三島の思想とかかりなくではありながら、まさにあの日を生きていた。
 あの日にはあの日にしかない陰影と日本があった。いや、なにかが決定的に壊れていく大きなにぶい音のようなものが日本を覆っていた。

[コメントを書く]
# junsaito 『教えてください。三島の「死の意義」ってなんでしょうか。「日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性があのように帰結することがある」とのことですが、私(1976年生まれ)にはわかったようなわからないような、です。』
# レス>junsaitoさん 『三島の「死の意義」についてですが、彼自身は、たしかこう言っていました「君たちに命以上の価値を見せてあげよう」と。死を越える価値を示すことにあったようです。また小林秀雄が言う、日本という国の歴史のなかで生まれた思想家の徹底性と純粋性についてですが、とりあえず、「この国を愛するということに私信無きが故に死を厭わない」としていいかと思います。このことは若いかたにはわからないと言ってしまいそうですが、そうではなく、わかるだろうと思います。簡略した言い方で誤解を招きかねないのですが、「お国のためです、死んでいただけますか」と誠意をもって問われとき、多くの青年が死地に赴きました。悩みもありましたし、理不尽に思えた人も多いでしょうが、そこに日本ならではの徹底性と純粋性の発露があったことも事実です。こういう話をすると、小熊英二に馬鹿にされそうんですが(冗談)、誠意をもって国のために死んでくださいと問われるとき、私たちの魂のなかに潜む「日本」は諾と答えてくるでしょう。怖いことでもあるのですが、美しいことでもあります。「女」については、例えば私は男なので私の「女」を放置してはいけないわけですよ。これは冗談っぽいですが、人はかならずむき出しの男女の関係で生きるのですから、真摯な問題です。』
# junsaito 『解説ありがとうございます。死を超える価値ですか・・・ううむ。  「誠意をもって国のために死んでくださいと問われるとき、私たちの魂のなかに潜む「日本」は諾と答えてくるでしょう」とありますが、そういう「日本」が自分には/私には全くないとは証明できないので、その言い方は少しずるいと思いました。「国のため」を、「自分の子供のため」、「難病で苦しんでいる少女のため」と置き換えると少しピクッとしますが。 それと、江藤淳の晩年の『南洲残影』などは、finalventさんの言う『日本』を感じさせますが、どうでしょうか。晩年の江藤淳は三島の評価を変えたと考えていいのでしょうか。』
# レス>junsaitoさん 『「少しずるい」というお答えはその感性の鋭さにびくっとしました。たしかにずるい回答でした。弁解させてください。junsaitoさんのその問いかけに逃げるレトリックをできるだけ弄さないとすれば、こう言うしかないかと考えた結果でした。もう一点、「国」ではなく「子孫」「愛する人」というようにまるでさだまさしの歌のように畳みかけるように「国」を言い換えていくことは可能です。ここで気を付けなくていけないのは、「国」があってそれから子孫なり愛する人、日本の山河、文化あるという発想は逆で、そうした我々が日常愛することを禁じ得ない究極に「国」があるのか?あるいは、そうした愛の究極に「国」を措定することは誤りではないか?junsaitoさんにはピントこないかもしれませんが、この問題は私が悩んだ問題なのでその文脈で考えると、「国」というものが先行的にあるのではないかと。そして、その「国」というのは、「死んでください」と語る人の「誠意」のなか、つまり連帯=愛に現れるだろうと思うのです。立場は逆に私が誰かに「お国のためです。死んでください」と言えるかどうか。小林秀雄が三島はわかりやすいとつい言ってしまったのは、そのあたりをシンプルに理解しているからだろうと思います。晩年の江藤については、私は実は悩んでいます。確かに彼の愛国と歴史への傾倒は素直にいうと傾聴すべき点はあります。ブログではくさしてしまいましたが、司馬についてもそういう点はあります。江藤については、あの死が自分に納得できないというところで、どうしても感性的に受け入れられない。そのことは表向き、彼の仕事とは別なのですが、私は評論家ではなく彼の読者なのでまだ考えつめたいと思っています。そこが自分で腑に落ちなければ、彼の言葉をうまく聞き取れないように思うのです。つまり、わからないという感じです。』
# noharra 『「理不尽に思えた人も多いでしょうが、そこに日本ならではの徹底性と純粋性の発露があったことも事実です。」そうでしょうか?日本人には徹底性と純粋性があって、911事件の犯人たちにはそれがそれほどないのでしょうか。それに「お国のためです、死んでいただけますか」と言われて中国大陸で無意味に家を焼いていただけじゃないか、どこがお国のためだか。』
# レス>noharraさん 『端的に9.11事件の犯人たちの「誠」については知らないので、この点のコメントは控えます。日本軍の行動について「中国大陸で無意味に家を焼いていただけじゃないか、どこがお国のためだか。」というときの「無意味に」という評価を私は共有しません。私は日本軍の行動を肯定しているわけではありません。ただ、兵卒というものは命令に従う存在です。人家を焼くこともあります。しかし、そのことは個々の虐殺を肯定するものではありません。基本的に軍規は虐殺を肯定しません。また、虐殺が可能な状況ですら、そこには個人の倫理や良心が問われうる余地が残ることがあります。むしろ、そいう余地を問わずして、兵卒の存在を頭から全否定するなら、結局は人間の倫理と良心の可能性を否定するということになるがゆえに、私はその考えは間違っていると思います。我々もまた国から一兵卒になれと命令される日が来るかもしれません(来るべきではありませんが)。そうなったとき(多くの国ではそれが現実なのですが)、我々はどのように自分の死の可能性を受容できるでしょうか。「お国のためという大義に誠意を見る」以外に、兵卒としての自分の死を了解できるでしょうか。私はそれしかないなと思うのです。また、もとはといえば、こうした議論を三島事件の文脈で語りたかったわけではありません。おそらくnoharraさんは私の発言のなかに危険な軍国主義の臭いを嗅ぎ取られ、それをその危険性ゆえに否定したいのだろうと思われます。』

2003.11.25 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.23

田中康夫・浅田彰呆談の小感想

 先ほど浅田・山形の話を書いて、それ以上に田中康夫・浅田彰呆談には関心がないのだが、ついで読んでみた。「呆談」とはよく言ったもので、大上段に批判するような内容ではないだが、田中康夫の次の発言に多少ひっかかった。


朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もあるというのに、日本人は蔑視するんだね。

 うっ、それって「と」でしょ? 公人がいきなり「と」かよ。確かにそういう説はあるし、私などもそうした説に近いのだけど、(1)公人が言うこっちゃない、(2)「呆談」でも抑制して語るべき、だと思う。桓武天皇の母高野新笠が百済系だという話が「美味しんぼ」でへぇ~ネタでずっこけたことがあったが、そんなの誰でも知っているって。そして、それをもって皇室の起源とはいえない。そういえば、昔、浅田も似たようなことを言っていた、が、今回はそのフォローはしてない。
 ついでに浅田の次の発言も、ずっこけた。

チベットに対して中国がやってることなんて、パレスチナに対してイスラエルがやってることとあんまり変わらないよ。それについては石原も言ってるけど。

 間違いではないけどねぇ。違うよ、すごーく。ディテールを指摘するのはメンドイけど、知識人だったらもう少し正確に言わないと…。
 さらについでに。浅田の発言。

あるいは、ミャンマー(ビルマをミャンマーと呼ぶべきだっていう軍事政権の主張を安易に認めたのは問題なんだけど)の軍事政権がアウン・サン・スー・チーに対してやってることはいいのか、と。日本は、あの国に対する最大のODA供与国なんだから、もっと圧力をかけるべきだよ。

 これも間違いではないけど、浅薄だなぁ。英国統治下で印僑・華僑を入れてめちゃくちゃにされたビルマ族の苦しみっていうのも考えないと…。
 細かく指摘するといろいろ言えるんだけど、「呆談」だものなぁ。でも、こんな「呆談」ありがたがっちゃう人っているのでしょうか。
 それにしても、ヤッシーは「と」かぁ。

追記11.29
 天皇家の起源について2点コメントを戴いた。概ね論点は、「朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もある」という田中康夫の発言を私が「と」つまり、トンデモ説とした点にある。再考して思うのだが、この田中康夫の発言は史学的に確立していないし、外交や政治がからみがちな問題を公人は放談で言うべきではないという点に変更はない。だが、「トンデモ」とまでは言えないかもしれないと譲歩してもいいかもしれない。というのは、これがトンデモなら、江上波夫著『騎馬民族国家』中公新書147もトンデモということになるからだ。江上学説は事実上、日本史学では無視されているので、その意味では、すでにトンデモという評価があるとも言えるのだが、テーマを除けばいわゆるトンデモ説の度合いは少なく、日本史学自体が非常に問題が多いので、史学の定説が常識的に見てあまりはっきりしたものではない。特に推古朝の扱いでタリシヒコの存在を無視しているあたり、日本古代史はまともではない。

[コメント]
# 通りすがり 『新聞とろうね。http://www.asyura.com/sora/bd16/msg/108.html』
# レス>通りすがりさん 『どうもです。さて、新聞とろうねとのご意見ですが、ペーパーのもちゃんとちなみに取ってますよ。意外に思われるかもしれませんが朝日新聞です。ただ、ご意図とされたことはそういうことではないのだろうと思って、ご指摘の阿修羅さんのサイトを見ました。私の誤解かもしれませんが、このページで赤くなっている部分を通りすがりさんも強調されているのでしょうか。しかし、この産経新聞の無断引用を読む限り、皇室の起源が朝鮮半島にあるとは書かれていませんし、ヤッシーやはり「と」です。私のブログをよろしければご再読ください。高野新笠についてもしご存じなく、そこで誤解されているでしたら、また書き込みしてくだされば追記しましょう。』
# noharra 『田中康夫の皇室発言の趣旨は日本人の蔑視を揶揄することにあるようだ。とすると、それに対し、「(1)公人が言うこっちゃない、(2)「呆談」でも抑制して語るべき、だと思う。」と言われていることの趣旨がよく分かりません。古事記などでいう天孫族はおおむね朝鮮半島から来たというのは正しいのでしょう?』
# レス>noharraさん 『「田中康夫の皇室発言の趣旨は日本人の蔑視を揶揄することにあるようだ。」とする点は理解できます。しかし、その発言の戦略が正しいかというと私は違うのではないかと思います。これは、hoharraさんのご理解いただけなかった点とも関連するですが、前回「通りすがり 」さんが阿修羅さんのページに無断転載された産経新聞の記事の参照を挙げていますが、この時の天皇の発言はけっこう物議をもたらしました。なぜ物議かというと、天皇家が朝鮮出目話がタブーであり、天皇ご自身でこのタブーを破られたからです。関連して朝鮮では日本の天皇を見下すさんがためにその出目を朝鮮とする考えもあります。こうしたタブーに纏わることを根拠もなしに知事という公人は語るできではないと思われます。ただ、私が今「根拠もなしに」と言ったもののnoharraさんはご理解いただけないのではないかとも思います。「古事記などでいう天孫族はおおむね朝鮮半島から来たというのは正しいのでしょう?」という点です。これについてなのですが、率直なところ、正しくはないというのが定説だと私は判断しています。つまり、田中康夫が「朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もある」という主張は古事記は典拠にならないだろうと思われます。くどいようですが、「天孫族はおおむね朝鮮半島から来た」とは言えないと考えます。いかがでしょうか。決めつけているわけではありません。また、史学の原則でもあるのですが、古事記は基本的に神話であって日本史や皇室の起源を考える上で歴史資料とはなりません。』
# noharra 『 丁寧な応答ありがとうございます。ただいまいち論点がはっきりしませんね。えーと、明仁さんの発言に対し、「天皇家が朝鮮出目話がタブーであり、天皇ご自身でこのタブーを破られたからです。」というのはタブーを感じているひと(新聞関係者?)においてだけタブーであるだけで、一般市民は何も感じていないからです。戦前は同祖論は大日本帝国イデオロギーの一部に組み込まれていました。戦後は国民の自覚無しに、USAの力によって朝鮮と日本は切り離され、4つの島を中心に古代から日本という国がずっと続いているというフィクションが深く浸透しました。桓武天皇から3~4百年ほど前、天皇家の先祖が1)天皇と言ってもおかしくないほどかなりの勢力をもった王であり2)コリア海峡のこちら側にいた、という歴史的事実があるのでしょうか?そう言い切れないのなら、そうであることを前提にしたイデオロギーを揶揄することに何の遠慮も要らないと思います。(失礼しました)』
# shibu 『高野新笠のことは続日本紀ですよね。7・8世紀の話であって国家とか国境なんてない時代の話ですし、ただそのような昔から行き来があってその代表例として平成天皇は挙げたのでしょう。渡来して住みついた(=帰化)氏族出身の高野新笠という女性と白壁王との子供の山部親王のことが古来の書物に書いてありますね、ということだけでしょう。移民二世でも生れ育った環境が同じで日常使う言葉も同じであれば、ご近所意識(同胞意識)持ってしまいますしね。これはニューカマーであって、もともとが半島から稲を持って大挙してやって来たオールドカマーの大将が娶ったんだってなことを天を横にして半島を指すとか騎馬民族が支配したのだとか言いたいのかもしれないが、以下省略の「と」だね。だって半島自体が通過点=通り道であって、そこから湧き出たwもんじゃないでしょ。寒冷適応の北方系(新)モンゴロイドは、もっと北のほうから南下して来たのでしょうから。ところで江上説は丸っきりの「と」説でもないのでしょうか?』
# shibu 『それからお礼です。ニューアカとかは全然興味なかったのですが、こちらで初めて「山形浩生」知りましたw。お蔭様で、外地暮らしゆえ本に飢えてたのですが、彼のHPにはいっぱい本文が載っておりましてジックリ読ませていただいております。』

2003.11.23 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.20

トラジ、トラジ

 今週の日本版ニューズウィーク11.26のカバーは「コリアンジャパニーズ」。リードは「自然体で生きる『ニュー在日』が日本をもっとヒップにする」とある。少し期待したのだが、内容はあまり面白くなかった。この手の韓国ネタは、海外移住話と同じでニューズウィーク日本版が毎年行う吉例ネタのようだ。ルーティーンでしかたなくやっているだけの企画なのだろう。
 へぇ~ボタンを叩くような話はなにもない。が、読みながら、大筋で現在、帰化という意味合いがだいぶ変わってきたのだろうとは思う。言語や国という縛りを大げさに考えなければ、「在日」は現代日本の文化的なヴァーサティリティの一つになっていく。ヴァーサティリティって言い方はないか。
 誰が読むとわからないブログを書き続けていると、どうしても文章というものは自分の内面に向くので、あまり禁欲的にはいかなくなるのだが、在日朝鮮人のことを思いながら、では自分の文化背景はどうなのかと思った。私はという人間は、長野県の文化と沖縄の文化に強烈に影響を受けているのだが、それに加えて、父から朝鮮の文化の影響も受けてきたようだ。亡き父と自分を重ね合わせて考えられるほどの歳になってみると、彼が10歳から20歳まで過ごした朝鮮の文化は不思議と自分のなかに伝えられていることに気がつく。父は五木寛之より歳上だが同じく「引き揚げ者」だった。この言葉もおそらくセンター試験以降の世代には死語になっているだろう。現代風に言えば、彼は朝鮮文化のなかで育った帰国子女だった。私は父とそれほど話をした記憶はないし、その性格や行動のパタンは私とは違うのだが、茶碗(抹茶茶碗)の好みなど高麗や李朝ばかりだ。自分の美観はなぜかそこに行き着く。
 私という人間は受動的に長野県、沖縄、朝鮮に機縁を持たされてきた。と書きながら、「長野県」をある種のエスニシティの扱いにするのは奇妙な印象を与えるかもしれない。もちろん大阪や四国、九州や東北、こうした地方都市や地方に独特の文化性があり、「長野県」もそうした類例の一つに過ぎないということは頭ではわかる。だが実感としては「長野県」の文化は、この歳になってみると、なんとも日本のようで日本ではない不思議なカルチャーだと思えてくる。そういう思いを客観めかして主張したいという意図はさらさらない。ただ自分の実感を極言すれば、長野県、つまり信濃の国は日本の文化から離れている。沖縄も日本ではないと思うが、海のない県と海に囲まれた県に日本文化から離れる類似性もある。なぜかどちらも長寿県だなとも「うちあたい(内心納得)」する。そうした奇妙な思いをうまく表現できる自信もないのだが、ちょっと書いておきたい気がする話がある。トラジだ。
 前振り話ばかりが長くなってしまったが、そんなことを思ったのは最近トラジを買ったせいだ。コチュジャン漬けである(そういえば、私は刺身にコチュジャンを漬けて食べることも多い)。たまたま国立の紀ノ国屋に寄った際、キムチの試食を薦められた。瓶詰めものほどひどい味でもないが、それほど美味しくはない。どうでもいいキムチだなと思ったとき、ふとチャンジャに気が付いた。そういえば、最近見かけなかった。いつの間にか自分の行動パタンが変わっていきてる。歌舞伎町のハレルヤ食堂で飯をかっくらっていた自分はどこに行ってしまったのだろうか。紀ノ国屋のチャンジャの味はそれほどでもないだが、衝動買いした。チャンジャについてはここではこれ以上書かないが、チャンジャを食いながら何か心にひっかかる。トラジだ。トラジはどこで売っている? 売ってないわけはあるまいと思ったが、歌舞伎町に行くより、ネットで注文した。
 日本版ニューズウィーク11.26の「食文化 焼肉を発明した在日のソウル 1世が生み出し、3世が発展させた焼肉カルチャー」にはトラジの名前が唐突に出てくる。恵比寿の焼き肉屋の名前らしい。読んでいて、あれ?という感じがした。「トラジ」はなんの陰影もなく店舗名として書かれていたからだ。トラジといったら、その独特の響きを文章に織り込むべきじゃないのかと思った。しかし今回のカバーストーリーは書き飛ばしなのだろう。焼き肉は「食道園」が発祥であるかように曖昧に書いてあるのだが、清香園ではなかったか。
 「トラジ」と聞いてセンター試験以降の世代になにか響くものはあるだろうか。在日朝鮮人ならわかると思うが、若い二世、三世になるとキムチも食べなくなるというから、わからないこともあるかもしれない。在日朝鮮人や韓国人がキムチを食べる量が減っているとも聞く。不思議でもない。日本人など味噌汁の味噌の味すら忘れているのだから。
 トラジは桔梗のことだ。私が育った家の庭には、他の家と違って、信州の鬼百合と桔梗があった。桔梗はあの美しい花を咲かせるのに、子供の私はいたずらでその淡い色の蕾をぶしゅっとつぶしたものだ。
 トラジは民謡の題から桔梗の花を指すと言っていいのだが、私がネットで買ったのはその根だ。トラジはあく抜きによって風味が違うのだが、どれもコリっとした独自の食感があって面白い。ナムルに入れることもあるが、最近トラジ入りのナムルっていうのは見かけない。
 ネットで取り寄せたトラジをつまみながら、父を思い起こす。野山が恵む味だ。そういえば、小学生のころ父とトトキを取りに行ったことがあった。トトキは茎を折れば白い汁がでるのだと父は言った。あの時、結局トトキは見つからなかった。トトキとはどんなものだったのだろう? トラジと似たようなものだろうか。
 ぐぐってみると、興味深い話があった。滋賀県立大学鄭大聲教授のエッセイ「朝鮮の食を科学する〈20〉―山でうまいものはトドック」だ(参照)。


 日本に住む朝鮮人の中で、とりわけ1世が、故郷をなつかしみながら好んで食べる山菜にトドック(希幾=ツルニンジン)がある。
 日本人の食生活とはかかわり合いがないので、2世、3世になれば、その名前も知らない人が多い。しかし、これもトラジと同様、朝鮮の山野に多く分布し、古くから食用とされて来たし、日本にも多く自生しているので、自然から求めるという点では、トラジよりはるかにたやすい。

 そして、次の話で驚いた。

 トラジと同じ桔梗科に属する植物で、しかもよく似た草根でありながら、一方でトラジが朝鮮でも日本でも食されるのに対し、食味からいえばむしろはるかに美味なこのトドックを食べる風習がなぜか日本にはない。
 ただ信州地方に行くとトドキと呼ぶ食べ物がある。語呂から考えるとトドックの訛ったものと考えても決しておかしくない。最初このことに筆者が気づいた時には、朝鮮語のトドックをそのまま発音したものではないかとすら思った。なぜならこの食べ物がトドックと非常によく似ているからである。

 鄭教授はトドキと書かれているが、他にぐぐってみると、自分の記憶のままトトキで良さそうだ。それにしても、トトキを食べる風習は朝鮮のトドックに関連しているのだろうか。父は朝鮮でトドックを食べていたのだろうか、それとも信州の伝統食として知っていたのだろうか。死んだ父は答えてくれないのだが、父の日本人ずれした感じからすれば、朝鮮で食べていたようにも思う。
 連想ゲームのようだが、信州では蚕の繭も食べる。ポンテギと同じじゃないかと思う。偶然なのだろうか。古代史をひもとけば、天武天皇に纏わる伝説が信州に多く、あの時代の渡来人文化が信州と関係があったのかもしれない。
 食べるほうのトラジは桔梗の根だが、これは漢方薬でもある。サムゲタンに朝鮮人参を入れるように医食同源の発想によるものだ。
 桔梗根は喘息にもよい。父も祖父も老年になって喘息に悩まされたが、トラジを食べていたらよかったのかもしれない。祖父は龍角散をよく舐めていたが、この和薬はキキョウとニンジンを配合したものだ。ニンジンはたぶん竹節人参だろう。だが、最近、龍角散の処方を見るとニンジンは含まれていない。私の記憶違いだろうか。

2003.11.20 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.16

[書評]「古の武術」に学ぶ(甲野善紀)

[歴史]「『古の武術』に学ぶ」(甲野善紀)
 まず、今朝の動向。新聞各紙では、今朝になって昨日のブログに書いた市町村合併の話題が日経と産経に見られた。日経は反対意見、産経は賛成。この件については自分の視点から贔屓するわけではないが、産経のほうがまとも。日経は例外をもって議論を進めるなど論理自体破綻している。他、GDP統計の話題はお茶を濁す程度。読売が米国牽引の回復に安住するなと井高にこいているが内容はない。あるわけもない。FTAがお先真っ暗な日本に貿易の活路はなくなっていく。国内需要については問題が錯綜してはいるが、少子化と地方の問題という大枠の構造を視野に入れない限り、新三種の神器といった阿呆な話になる。

 さて、今朝の話題もないので、書評を増やす、と思ったのだが、書評にもならないので、分類は歴史とする。
 「『古の武術』に学ぶ」はまだ正式には書籍化されていない。標題は今NHKでやっている人間講座だ(*1)。テキストはありがちなぺらっとした装丁で販売されている。いずれどっかの出版社から出るだろう。が、書籍としてはあまり面白くないだろう。面白いのは、実際の立ち回りである。とま、それが結論なのだが、その前に簡単に甲野善紀を紹介しておく必要があるか。けっこう有名人なのだが日垣隆も知らなかったみたいだ。はてなではキーワードにもなっているようだが、武術稽古研究会松聲館の主催者とあり、情報が古い(*2)。
 甲野善紀は1949年生れの武術家なのだが、「武術家」ってなんだという疑問はつきまとう。武術の研究家というほうがいいだろう。彼はそこから率直なところ珍妙な理論を作り出すが、そのわりに桑田真澄や末續慎吾(*3)の指導をしても、ちゃんと成果を出す。だもんでその理論はスゴイと思う若者が多いのだが、私はこれは理論ではなく、甲野の特異な人格の影響だ思う。
 甲野善紀については、「自分の頭と身体で考える」(養老孟司共著、PHP研究所)や「古武術に学ぶ身体操法」(岩波書店)など、物書きの世界でも有名だ。先の日垣隆も文藝春秋の記事で知ったようだ。で、私の印象なのだが、胡麻臭ぇなこのオヤジだった。この手のヤカラはいっぱい昔いたもんだよと思っていた。本物かどうかは身のこなしを見ればわかる、と思って、NHKの講座を見た。
 見て、まいりましたね。こりゃ本物だね。なにが本物だと思ったかというと、たぶん、多くの人の視点とは違うと思うのだが、本当の殺人剣を秘めていたからだ。NHKの映像だとちょっとそのあたりぼかしているけど、こりゃすげえ、です。ちゃんと人が殺せる人だなと了解。人殺しの風貌もある。そしてその上で、人を殺さない武道というふうに武道を捕らえている点では、ある意味画期的だ。
 だが、悪く言えば、この人の古武道の理解は完全に間違っているのである。じゃ、テメーの正しい古武道の理解とやらはなにか訊かせてもらおうじゃないか、となるだろう。聞かせてあげよう。本当の古武道とは卑怯の道である。およそ武術も戦術も卑怯の極みでなくてはいけない。日本の武道が孫子かと言われそうだが、兵とは詭道なり、である。


故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離す。其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勝にして、先きには伝うべからざるなり。

 武道というのは、まさかこんな立派なおかたが、という人がいきなりうんこを投げるのである。どうもこの手のギャグに最近嵌っているが、いずれにせよ、詭道とは卑怯の限りを尽くすことだ。
 実際私もまた甲野のように古武道の原点に関心をもって自分の感性で調べていったらそんなものだったのだ。基本は、身をかがめて足狙い。それと金玉蹴り。生きるか死ぬかっていうのは、ようするに勝ちゃいいのだ。卑怯こそ最大の戦略。そういうものが本来の武術なのである。甲野の滅菌した古武道は、そういう観点で見ると、おおっそれって卑怯な手ですなぁ、が隠れていている点は喜ばしい。
 卑怯こそ武道の原点だ。で、それからちと矛盾に陥る。武道というのは武家から出るわけだが、武家というのは一種暴力団だ(*4)。当然、組長には風格がなくてはいけない。中世までの武家はそういう暴力団と同じなので、その棟梁にはある種風格が求められてしまう。「われこそは八幡太郎なんたら…」と叫んで戦うのだから、あまり卑怯な真似はおおっぴらにはできない。それに加えて、日頃でもやくざどもを束ねる訓練ってなものもあるので、なんとなくすがすがしい武士道のようなものができる。なお、武道にはあともう一点は海賊があるのだが、これはまたの機会としよう。
 だがだ。甲野善紀も武者修行に言及しているが、いわゆる古武術になると、一人技になる。じゃ、卑怯の極みに戻るかというと、そうじゃない。このあたりだいぶ誤解があるようだが、いわゆる古武術の武道家というのは、市場の演芸人である。大道芸人なのである。宮本武蔵などいかにも武道の達人とか言われているが、大嘘である。あれも芸人。もちろん、命をかけての芸人だ。実際の戦闘には役にもたたない。NHKの講座では、手裏剣の話もよかったが、この卑怯な武具の投げ芸を、甲野はくったくなく楽しそうにやっていた。しかも彼の手裏剣のお師匠さんの話もよかった。芸は一代限りというのがよくわかる。
 考えてもみよ、壬申の乱から源平合戦、そして武田軍団までは基本的な戦闘は騎馬戦なのである(歩兵や海戦もあるがここでは論じない)。そして騎馬戦からすぐに時代は鉄砲に移行するのだ。刀なんか振り回している武士なんてものは歴史上存在しない(*5)。「葉隠」の正しい武士にとって実質の戦力は鉄砲である。最高の武士文学、隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」を読めばわかる。
 話がめちゃくちゃ。なので話を進めて古武術の現代的意義なのだが私はこれは、近代武術と対比でみるのではなく、それ自体で歴史的な終焉を迎えたと考えている。そして、いわゆる芸としての古武術を終わらせたのは、柳生石舟斎だと考える。この石舟斎最大の卑怯技が無刀取りだ。これをもって古武術は終わった。刀、つまり武具を無化するとこで古武術は完成し、終了した。無刀取りは時代劇などでは滑稽な真剣白刃取りとして描かれ、あんなのあるわけねーじゃんと思っていたが、甲野善紀を見ていると、ありうるかもしれないな、と思うようになった。現状の柳生にはもはやこの技は伝承されていないだろう。
 その他、芸事ではない体系的な組織的な古武術についてだが、恐らく最強の武術は示現流だと私は思う。現代では多くの人が本物の刀を持ったことがないので理解できないのだろうが、あのだな、刀というのは全部鉄で出来ているのである。竹刀や木刀ではないのだ。あの鉄の塊をぶん回すのは芸人でしかできない。そして芸は所詮組織的な殺戮には使えない。となると、歩兵が勝つための刀の正しい用法は、一刀に下す以外はありえない。そう考えると、示現流ほど合理的な剣道はない。

 示現流兵法心得


  1. 刀は抜くべからざるもの
  2. 一の太刀を疑わず、二の太刀は負け
  3. 刀は敵を破るものにして、自己の防具に非ず
  4. 人に隠れて稽古に励むこと

 示現流は完璧だ。甲野はNHKの講座で刀を鞘に収める所作の解説をしていたが、刀というものは抜いたら終わりだ。あとは相手を一刀で殺すだけ。疑ってはならない。足を切り込まれても、一刀にざくと相手の肩の骨を折ればいいのである。まして、刀で防戦などする手間はない。一刀の技はただ鍛錬あるのみ(*6)。
 余談だが。レスリングやK-1など私はまるで関心ない私だが、戦いというのもには血が騒ぐ。その感性でいうと、K-1などはでくの棒だ。実際の戦闘では強いとは思わない。じゃ、最強の武術ってなんだろうと思ったことがあった。私の結論はこうだ。多分ボクシングだ。まさか? ボクシングというと殴ることに関心が向くが、最大の利点はフットワークだ。あの足で間合いを詰められたら、飛び道具以外では勝てっこない。やくざがボクシングを重視するのは実践のせいだ。
 ボクシングより強い武術があるすれば、映像でしか見たことないし、その武術の名前は忘れたがインドの武術だった。ヨガと関係あるのかわからないが、腰巻きだけの裸の男が人間とも思えない動きをして飛ぶは蹴るは、立っていたかと見えたらすとんと180度開脚して沈むと思うやバク転するのだ。あれに刃物が付くのかと思ったら、ほんと恐怖した。あれには勝てない。あの技はもともと異教徒を殺すためのものらしい。パキスタンあたりに今でも伝承されているのではないか。そんなのお二人も従えていたら、ビンラーディンもけっこう心強いだろう。

注記
*1:(参照
*2:武術稽古研究会は先月をもって解散した。
*3:高野進コーチは甲野善紀のなんば歩きに影響を受けているようだが、直接甲野が末續を指導したということはなく、誤解を招くので削除とした。
*4:中世以降の武家は恐らく台湾の首狩りの部族と関連があるだろう。
*5:海戦では振り回すのである。
*6:と、書きながら、なぜ示現流では人に隠れて稽古するのか、突然わかった。うかつだった、そうなのだ、人に隠れてするっきゃないような稽古をするからなのだ。

[コメント]
# sayoukann 『カラリパヤットじゃないですか?>インドの武術』
# finalvent 『あ、それみたいですね。どうもです。ぐぐってみると、けっこう情報がありますね。』

2003.11.16 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.11

ベストなドイツ人というトホホ

 ドイツでもっとも偉大なドイツ人というのが話題になっているという話をNHKラジオで聞いた。あれ、まだやっていたのか。そういえば、ベストワンの記憶はない。どうやら今月いっぱいが追い込みのようだ。企画はビルト紙とZDFテレビの共同で、今月中には100人から10人に絞り込んで国民投票みたいなことになるらしい。
 この手の企画は数年前イギリスのテレビの真似で話題になって、日本でも早々にパクリネタで文藝春秋でやった。あれはむごい内容になっていた。
 そんなものがなぜ今頃ドイツで、とも思うが、ドイツだと東西分裂もあり、陸続きの国家でもあるので、イギリスや日本とは様相は変わってくるのが面白いところかもしれない。案の定、前段ではモーツアルトが上がるや、オーストリアからクレームがついていた。ケチがついてモーツアルトは20位。すでにこのあたりですでにおちゃらけ感が漂うが、ドイツ人としては自尊心がそそられる祭りではあるのだろう。
 この話題をざらっと日本語でぐぐってみたが、クロールのとろい日本のgoogleではあまり情報はひっかからないようだ。もっと大衆化してフジ産経あたりで企画しているとかのネタでもあれば大笑いだが…などと思っていたら、昨日日本版のCNNにニュースで上がっていた。で、日本版CNNの翻訳では「最も重要なドイツ人」になっていた。ちと訳語が変な感じがする。ドイツ語では、besten Deutschenだから、英語ではBest Germanだ。しかし、同語源の語だが、語用やコノテーションではgreatに近いのだろうか。
 アメリカはドイツ系が多く、戦中彼らもこっぴどい目にあっていることもあり、ぐぐると話題になっていることがわかる。ABCのニュースではEinstein takes early lead in 'best German' pollと無難にアインシュタインに期待をかけているようだ。
 というわけで、気になるノミネートの10人は以下。知っている人に○を付けなさい(各10点、100点満点)。


  • アルベルト・アインシュタイン
  • ヨハン・セバスチャン・バッハ
  • カール・マルクス
  • ゲーテ
  • マルティン・ルター
  • グーテンベルク
  • オットー・フォン・ビスマルク
  • コンラート・アデナウアー
  • ウィリー・ブラント
  • ゾフィー・ショルとハンス・ショル

 で、何点でしたか? 90点以下は不合格だよ。というのも、「ゾフィー・ショルとハンス・ショル」はちと日本人には難しい。白薔薇の話っていうのは、そんなにドイツ人にとって重要な話だったのだろうかと、私も首をかしげるくらいだ。
 100点満点のテストは冗談だが、このリストを見て、なんとも言っていいのか、正直なところ、苦笑するなと言ってしまっていいものか、戸惑う。個人的には、このチョイスでは大バッハで決まりだが、そんな込み入った皮肉を書いてもなぁ。
 アデナウアーとブラントのリストアップは、ドイツもまだ老人はいるのだという印象くらいで、とりあえず外してもいいだろう。こんなのがベストというのでは、手前味噌過ぎて、ドイツ人もお恥ずかしい。同じノリでさらにビスマルクは外していい。というか、ビスマルクを入れるとはジョークなのか、EUに喧嘩売っているのか。
 ゲーテとグーテンベルクはお子様枠。ドイツ人にマルクスって言われてもなぁという感じがする。ふとそのあたりで、このリストの隠れたテーマは「ユダヤ人」だということがわかる。公のメディアではなにかとユダヤ人虐殺謝罪意識が出ざるを得ないのだろう。ある意味、それで、話は全部終わりってなくらいだ。
 ドイツというのは、文化の側面でみると変な国だ。ルターがリストに上がっているように、日本人のイメージではプロテスタントなんだろう。しかし、キリスト教徒の半数はカトリックだ(ちなみにキャベツことコールはカトリック)。バッハの生涯を知っている人なら、史的に根深い奇妙な混合がわかるはずだ。実際、ドイツでは、戦前から新教と旧教の文化は二分し、その狭間にユダヤ人文化がグリューのようになって、始めて文化としてドイツ文化ができていた。その意味で、ドイツ文化の表層にはユダヤ人の文化活動が出ざるを得ない、根深い構造になっている。
 というあたりで、ドイツのカトリックというのは現在どうなっているのだろうと気になってきた。カトリックの多いザールラント(Saarland)ではbesten Deutschenはどんな響きがするのだろうか。それと、今回のこの馬鹿騒ぎ、トルコ系にはどう聞こえるのだろうか。かつてのドイツは内部の文化的な分裂とユダヤ人文化という三項だったが、現在ではその背後に押し込められたトルコ人の文化がある。それを、めいっぱい隠蔽している現在のドイツって、けっこう醜いもんだよなと思う。

[コメント]
# masayama8 『見当違いかもしれないのですが、二大政党制への布石というような世論形成との対比で、かつての日本とドイツの忌まわしい共通項へ遡った検証をも、潜在的になさっているような印象を受けました。まあ、後段は純粋にドイツの文化の検討をされただけなのだとは思うのですが(苦笑)。ただ、僕は潜在的にであっても、そういう態度は重要だと思うのです。忘却するなと言うことの裏の意味は刻印して記憶に留めるからこそ、次を繰り返さずに済むという意味が込められていると思うのです。忘却を進める人たちは、その副次的効果に全く無責任だと思う。それを考えると、今日なさっている検証と言うのは人それぞれ受け取り方は違うでしょうが、必ずニュアンスはわかってもらえるような気がします。僕がニュアンスを誤読していたら元も子もないのですが(苦笑)。』
# レス 『masayama8さんの読み、というより視点は面白いと思います。否定はまったくありません。自分では、ドイツ人にとってもドイツとは「語られたドイツ」になっていくのだと思います。ベースにあるのは世代交代なのでしょう。同じことは日本でも顕著なのです。それとこのところ、若い学者さんかぁというくらいしか自分は関心がなかった、小熊英二への、ある違和感は、語られた歴史と生きられた歴史の差異を、自分も含めどう語るのかというアポリアに根ざしていると思うようになりました。生きられた歴史というのも要するに語られるわけです。二大政党騒ぎについては日本特有の現象かなという気もします。英国ですら二大政党ではなくなっているということがあまり語られていませんね。話はそれますが、EUではない、ドイツでもないフランスでもないイギリスでもないというあたりのヨーロッパの歴史を再評価したいと思うので、この手の話はまた書きます。そういえば、日本ではポーランドのイラク派兵についての議論も見たことないですね。』

2003.11.11 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.09

野口晴哉

 縦横に巡らされた「はてな」のリンクを見ていたら、野口晴哉がキーワードになっていた。そういえば、筑摩文庫の影響なのか2、3年前ぐらいから野口晴哉の名前を見かけることが多くなった。奇妙な感じがする。脳足りんか如何、というくらい朗らかなる斎藤孝も野口晴哉のことをまじめくさって紹介していた。反面、筑摩文庫版についてのなにかの評で野口晴哉ってトンデモ?というのを見かけたこともある。野口晴哉の本は、ま、常識的に見ればトンデモ、で終わりなのだが、そういうのが受け入れられていく社会になってきた。不思議といえば不思議だ。
 野口晴哉についての解説は、おそらくはてなの自動リンクでできるのではないかとも思うが十分な解説ではないだろう。だが、ネットを引けば意外と情報は出てくるのではないだろうか。と、投げやりな気持ちがする。随分前のことだが、中村天風、桜沢如一、野口晴哉の3人について時代背景を含めて本でも書こうかと思って資料を集めたことがあった。やりながら、自分の頭がどうかしちまったんじゃないかという気にもなった。そうこうしていくうちに、時代は変わり、なんだかんだとこの手のことに関心を持つ人は多くなってきた。私としても、そういう人のご同列ってものな、といううちに資料を散失した。もともとたいした資料であるわけではないので、未練もない。仮に本を書いたとしてなにが言いたかったのかというと、ああいう頓珍漢な体系がなぜ生まれたのかという日本精神の裏を描いてみたかったくらいだ。もちろん、単に否定的に論じるのではなく、野口晴哉についてはフェルデン・クライスへの影響なども視野に含めたかったのだが。
 手元にある書架を見ると、今や野口晴哉の本は一冊しかない。一冊あるだけでもアレ?という感じもするが、いずれ体癖や体運動などの主著作は捨ててもいないので倉庫の奥にでもあるだろう。その手元の一冊は「治療の書」である。野口晴哉が書いたもののなかで、もっとも優れた一冊だと思って、身近に残しておいたのだ。今でも入手可能な本なのか調べると、全生社からちゃんと販売されているようだ。「碧巌ところどころ」などもある。なるほどねという感じがする。
 手元の本は再刊の昭和五十二年版だ。「治療の書」は序文に源氏鶏太に薦められて昭和四十四年に再刊したとある。このおり原稿を追加して、彼はもう治療と縁を切ることができたと言っている。野口晴哉の諸著作を読んでいる人間ならよく理解できるところだ。
 初刊はあとがきを見るに昭和二十六年。整体操法協会の機関誌「全生」発刊に続くもので、人物論的には野口晴哉前期思想の集大成とも言えそうだが、そう言うにはあまりに浅薄だろう。この時代、整体操法協会の成立と併せて、今日ドグマ化されつつある体癖論が整備されていく。そうしたドグマの根はこの時代からすでに見られる。そして、昭和30年代には操法を表面から落として整体協会とし、整体体操だの体量配分計だのができる。

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整体入門
 昭和40年代に入り、野口晴哉は安井都知事と懇意であったこともあり、駒沢体育館で三千名規模の活元運動東京大会を開くが、このころ野口晴哉自身は内心困惑も抱えていたように思われる。世の中の健康観にも付いていけなかったというか、まるで通じない世の中になっていたように見えたことだろう。健康法的な活動から育児法に傾いていくのも、その背景があるだろう。ある意味、この時代が野口晴哉がもたらす活動の全盛期で、その後はさらにエソテリックになってしまう。恐らく、この時期すでに本人自身の体調も悪かったのではないか。
 昭和51年に64歳で死去。大森英櫻が短命でしたねと皮肉るが、いろいろ野口晴哉についての伝説化が進むにしても、そういう一般的な印象は避けられないことだろう。むしろ、野口晴哉が64歳で死んだという意味をきちんと考察したほうがいいのだが、私にはそれについてまっとうに思索されたものを読んだことはない。
 話が前後するが野口晴哉は明治44年年の生まれだ。矍鑠と現役医師の活動をされる日野原重明と同じ歳の生まれだなのだ。アイロニーを弄したいのではないが、生命論だの癒しだので野口晴哉を持ち上げる人はそのことを知っているだろうか。もちろん、頭では理解できるだろう。だが、野口晴哉と日野原重明を並べたとき、大衆の目にどう見えるかを繰り込んで考えることができずに野口晴哉を評価することなどまったくのナンセンスなのだ。それがわかる人はいないのではないか。
 野口晴哉の幼年から少年の境涯は厳しいものだった。預けられた叔父が漢方医であったことから、治療師としての才能を開花させたのだろうとは思う。もともと、天才的な直感を持っていた子供であることは間違いない。後年の上ランクの弟子たちの指導記録を読むと野口晴哉の苛立ちが伺われることがある。元来、この術は習得されるかにかではなく、生得な直感を必要するとしか思えない。だが、そうした超人的な野口晴哉の能力はおそらく自身も理解していたようになにかの代償であったことだろう。
 話を「治療の書」に戻す。「治療の書」は不思議な書物だ。斎藤孝なんぞでは音読はできても理解はできのではないか。

 或人問ひて「死ぬべきに合はば治療する者如何にすべきか」と。安かに死なしむる也。

 生きるべきものは生きる。死すべきは死ぬ。死と定まったという人間はおよそ会うこともない、というふうにまで野口晴哉はいう。屁理屈つけて大げさに理解するまでもなく、死すべき人は安らかに死ね、というだけで、見捨てられている。そう言ってしまえば、野口晴哉の支持者からは誤解だと反対されることだろう。だが、そうか。私など、死ねと言われたくちだろうなと思うから、この事は深刻に考える。
 「治療の書」には描かれていないが、そして、比喩のようにしか語られていないが、晩年の野口晴哉は転生を確信していたように思われる。生きるということは快ではあり、全生をまっとうすることに意義がある、かのように「治療の書」では書かれているし、そこまで書けばいいと野口晴哉は思ったに違いない。だが、彼の内心では、生きるということ自体ある主の生命の流れの硬詰のように見なしていたのではないか。もう少し言うと、性欲の硬詰というか滞りというかエネルギーがなければ、人はさっさと冥府に帰ればよかろうと思っていたのではないか。裡の欲望が「100万回生きた猫」のように失せれば、生きている意義などなくなる。

治療といふこと、体を観ること、もとより大切也。されど人間を観ることもつと大切なり。人間を観ることその裡なる要求を知ること第一なり。人間は要求を実現する為に息している也。その要求を知り之を処理することに治療といふことある也。

 野口晴哉は愉気を提唱した。気は愉快でなくてはならない、と。だが、およそ生きているからには、その生と性のエネルギーの交換は愉悦であるのだろう。だが、生命としての存在それ自体を覆うもっと強いなにかを野口晴哉は見つめていたように思われる。単に絶望というものでもないのだろう。ダークエナジーというのは冗談だが、死を越えるなにがそこに愕然とあって、死を恐れずとし、さらに死に回帰していくものを野口晴哉は見ていたのだろうと思う。

2003.11.09 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.07

再考・太田朝敷と小熊英二の議論に関連して(11.9追記)

 コメント内のレス内の太田朝敷についての言及ですが、morimori_68さん(参照)のご指摘は当然だと思います、が、私の意図は小熊英二がそうだという意味ではありませんでした。このあたり舌足らずだったかもしれないので、少し補足させてください。先のレスで、「太田朝敷なんて結局皇民化だ」というのは、沖縄の言論界でだいたい1990年くらいまでの左翼的な評価としてある程度定着している面があったのですが、彼が新報(琉球新報)の創始との関係や実際に現地ではその謦咳に接する古老も多いことから、旧来な左翼的な評価が定まりにくい傾向がありました。そうしたなか、論集の再刊などを含め、見直し的な考察やまた、左翼的な思索からもれいのポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズが出て、ちょっとイジワルな言い方をすれば、沖縄は文献が豊富なこともあり「おいしい領野」になってくるあたりで、ちょうど小熊英二が出てきて、やっぱ「東大系からはこれかよ」と思ったのです。その意味で、


「結局~皇民化の推進者」といった一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける

 とmorimori_68さんがご指摘されるのはわかります。小熊英二についてその言及が妥当であるとも思います。ただ、私は2点の問題を感じているのです。
 1つ目は、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズにアクチュアリティがないことです。逆にそれがアクチュアリティ乃至状況への知識人の言及に適用されるとき、結局旧来の左翼思想に実質収斂してしまう。というのは、おそらくその背後に結局のところユーマニズムを内包しているからではないか。別の言い方をすれば、人間の終焉、ユマニテの生成・終焉過程としての近代化の発現として植民地化を見ていない、かつ、植民地化として現実のアクチュアリティに連結してみせるが、その支柱となるべき帝国主義論が完成していない。この点、英国のニューレフトのように帝国主義から植民地主義をマルクス的な世界史の動向の正統な一貫として捕らえることができない。これは、多分に、日本やフランスなどの知識人が、知識人階層として結局のところそのナショナルな国家システムに保護されているためだろうと思います。この点は端的に言えば、日本にはラジカリティがないのです。吉本隆明が60年代安保を支援したのは思想の内在ではなく、ラジカリティという思想だった点が日本の知識人は十分に問い直されていません。
 2点目は、「一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づける」というときの論者のスタンスはどのように理論構築されているかが、曖昧だということです。この問題は、戦後のヴェーバーの社会科学論、古いところではカール・レービットなどによってかなり深化されていたはずなのですが、結局のところ、日本を含め、80年代あたりのどこかでなにかの屈曲があったように思われます。ソーカル事件でフランス現代思想が実は修辞ではなかったかというプラグマティックな批判がアメリカ思想側からでる、また実質クーンに連動したドイツのフィアーベントの科学批判などもどこかで否定のための否定となり、結果、フランス現代思想が思想による思想のシミュレーションになってしまう(例えば、コージェブは優秀なヘーゲル学者でもあるが、ヘーゲル=コージェブというのが前提となりデリダの議論が通ってしまうのはごくフランスのローカルな家のご事情)。その屈曲のなかで社会学の科学性が十分にマックス・ウェーバー時代の前提すら考慮されなくなってしまった。端的な話、我々という日本人の知識人が帝国主義者の正統嫡子であるということをポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは弁罪的な内容で隠し、その上で「客観」を仮設することになってしまう(この点で、フランスの知識人におけるアルジェリア問題など最近は日本側では考慮されていないように見えます)。乱暴な議論をすれば、本土人という意味で我々に沖縄・台湾を客観として論じる資格などないというのが巧妙に「客観」に隠蔽される結果、別の「アジアなるもの」「アジア諸国なるもの」というのが日本に対立して出現してしまう。結局、日本の知の状況では、ポストコロニアル論やカルチュラル・スタディーズなどは、そのスタンスの甘さから批判されるべき「日本のナショナリティ」が前提に回帰されてしまうのです。正確に言えば、カルチュラル・スタディーズの議論は、それを解体するはずなので、こうした私の言及がお笑いに聞こえるかもしれません。しかし、問題は、社会学理論の装置の性質ではなく、我々の思想というアクチュアリィなのです。
 小熊英二は、ちょっと皮肉な言い方をすればお利口さんなので、そのあたりの学会(業界)の動向や装置の設定、そしてアクチュアリティへの距離など実にウェルバランスに出来ています。もうちょっと皮肉な言い方をすれば、アメリカ人研究者の博士論文的なスタンスです。が、そこで欠落されるのは、国家性のない侵略という現象とでもいうべき、実際の歴史の状況です。単純な日本の戦後史観では「日本が(主語)アジアを(目的語)侵略した」という命題から日本やアジアとされる国家ないし民族が固定的に実体化されます。しかし、実際の歴史の展開は、あえていえば、アジアの部位が部分的に日本になることで日本化という現象が起こり、それが西欧の侵略の様相を呈したということです。単純な例でいえば、日本の戦犯とされた朝鮮人や台湾人(これはもっと複雑な問題がありますが)などは、侵略の主体に回されてしまいます。
 話がめんどくさくなりましたが、植民地化というのはジオポリティックな現象でなく、スポラディックな発酵的な現象だった、だからこそ、そのアクチュアリティの側面では急進的中核性が求められ、それが日本に課せられたと私は見ています。そして、その課せられるべき日本が実はオーバーロードであることから、偽装された急進的中核として石原莞爾などの満州国の理念が出てくる。
 そしてこの運動は結局のところ、日本の敗戦後も共産主義の形で歴史運動だけは継続していた。ちょっと浅薄で皮肉な言い方をしますが、アジアの赤化は、大衆の側にとって、ちょうど日本の植民地化と同じような現象として実現したのは、もともと同じ現象の一貫だったのではないかと私は考えるのです。
 単純な話にしすぎていますが、日本敗戦後のアジアの共産化の状況を日本の帝国侵略と同じなめらかな現象と見て、現代の日本アジアを位置づけるといった視点は小熊英二にはありません。もちろん、そんな議論は妄想というかもしれませんが、現象のもつ説得性があれば考慮すべきであるし、小熊英二の装置にはそうした問題を扱うシカケが存在していません。私の思索の誤りの可能性を明示化するために、逆にちょっときつい言いかたをすれば、小熊英二の議論は発展性がありません。

[コメント]
# masayama8 『べ、勉強になりました。ここ数日は特に筆致が荒々しい印象なのですが、僕の気のせいでしょうか・・・?』
# masayama8 『朝日にしても田中宇にしても、傾斜し過ぎないようにと思って目を通すようにはしているのですが、細かな整合性ってところについてはおっしゃるような検証が必要なのだろうなと思います。すべての記事に僕は目を通せるわけではないのはもちろんですが・・・態度の問題としてやはり極東ブログさんの立場って言うのは、ひとつ重要な観点を含んでいると思います。参考になりました。』
# レス 『(先日のレスでmasayama8さんとmorimori_68さんと混同してしまいましたので訂正します。)筆致が荒いのは殴り書きがけっこうあるためで、いかんなとは思うのですが、そのホットさ(感情むき出し)もありかと迷います。実際にはあまり手間が取れないことや、どれも掘り下げると深い部分があってできない面もあります。例えば、ホドルコフスキーのオヤジはユダヤ人だとか。また、morimori_68さんがご指摘された「太田朝敷」についてももっと説明する必要はあるかとは思っています。例えば、太田朝敷について典型的な批判(評価)でこんなのがよくあります。「太田朝敷は本土に向けて琉球人差別撤廃を主張したが、それはアイヌと同じするなという差別を含んでいた。太田朝敷は結局くしゃみまで本土人に真似ろという皇民化の推進者だった」、と。この手の批判はなんの意味ないと私は思います。それでは戦後の戦争反省派と同じようなものです。とま、そこを越える説明というのは難しいものです。』
# morimori_68 『はじめまして。小熊英二の太田朝敷論は「結局~皇民化の推進者」といった一方的な裁断ではなく、彼の言説の意図、効果、限界などを、距離を取りつつ客観的に位置づけるものだったように思います。ところで、ネットでの議論は必ずしも性急でなくてもいい(あとからいくらでも補足や軌道修正ができる)ので、じっくりおこなっていくのが良いのではないかと思っています。』
# レス 『morimori_68さん、コメントで突然ひっぱり出してしまっかことになってしまい、ご迷惑だったかもしれません。であれば、申し訳ありません。また、当然ながら、ネットの議論はじっくりと行うという点について異論のあるものではありません。ただ、メディアとしてのブログの位置づけについて、多少違った試行もあるかとは思います。レス内の太田朝敷と小熊英二については、補足を追記しました。』
# morimori_68 『この件に関する質問を http://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に書きました。よろしくお願いします。』
# レス>morimori_68 『了解しました。そちらにコメントを書きました。』
# morimori_68 『finalventさん、回答ありがとうございました。回答を受けての私のコメントをhttp://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に書きました。よろしければお読みください。』
# レス>morimori_68 『了解しました。そちらに追加のコメントを書きました。』
# morimori_68 『finalventさん、再回答ありがとうございました。それを受けての私のコメントをhttp://d.hatena.ne.jp/morimori_68/20031202 に描きました。よろしければお読みください。』
# finalvent 『了解しました。そちらにコメントを書きました。たぶん、これがこの件についての最後のコメントになるかと思います。』

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2003.11.03

試訳憲法前文、ただし直訳風

 文化の日というのは、明治節の焼き直しなのだが、サヨ全盛の戦後は、GHQがわざわざご配慮してくださった憲法公布の記念日を戴き、傷口のかさぶたのようにしている。GHQの新聞検閲は廃止されたけど、その伝統は、なーんと産経新聞にまで生きているので、今朝の新聞社説は産経新聞まで明治節を忘却し、憲法の話ばっかし。小林よしのりが言うところのポチ保守なんてこんなもの。もっとも小林よしのりの歴史観や民族なんてものも、古事記が偽書(*1)であることも認めたくない近代の偽物だなのが。
 明治節とは戦前の四大節のひとつで明治天皇の誕生日を祝ったものだ。1927年に制定され、1948年に廃止された。それにしても珍妙なのは、明治天皇が生まれた時代には日本はキリスト教国が採用するグレゴリオ暦になっていなかったのに、天皇誕生日までキリスト教風にコンバートしてしまった。
 明治天皇睦仁(むつひと)は孝明天皇の第二皇子。幼名は祐宮。「さちのみや」という。有名な童謡「さっちゃん」の原型である(大嘘)。1852年生まれ。もちろん旧暦で、9月22日。ちなみに今日は旧暦で10月10日。古来日本には西欧キリスト教徒のように誕生日を祝う悪習はないのだが、1か月もずれているぜ。
 睦仁親王は1867年に践祚。っていうことは、天皇位に付くのは満で14歳。恐らく35歳で病死とされたおとっつあんの孝明天皇は暗殺だろう。親子の情の薄い天皇家とはいえ、14歳で親が殺されるっていうのはどういう感じだろうか。というのが彼の伝記から読み取れるなら、数学的帰納法的に孝明天皇暗殺の信憑性が高まる。

 さーて、今朝の話題は…と思って、そういえば、以前なんかのおりに試訳した日本国憲法前文の原稿があったっけと思って探すとあった。今読み直すと、げっ、だ。なにがゲロゲローなのかというと、なんとか日本語にこなそうとしていたため、まるで池澤夏樹風になってしまっているのだ。

 憲法がお好きなかたかたちやそれを文学的に見る人は、きれいな訳文にしたがるようだ(*2)。だが、このゲロゲローを読み直すに私の訳文などなんの価値もないのだから、いっそ直訳にしてしまえ! というわけで、以下、私の直訳風に戻して垂れ流す。見ればわかるように、完全に直訳じゃない。
 でも、逐語訳に近いから、誤訳があれば見つけやすいだろう。
 率直なところ、日本国憲法の原文(法的には違うのだが)の英語って、ものすごく変。この変さを味わってもらいたいと思う。そのため、原語の語感を強調した。pledgeなど強調しすぎて誤訳に接近しているが、こういう語感があるのだ。
 憲法原文の変さかげんを歴史的に解明した本をついぞ読んだことがない。なにしろ英語が変なのだ。いわゆる理科系の文章のようだ。フツー、憲法にcontrolなんて使うか。米文学者にこの変な英語の由来を期待したいくらいだ。が、文学者は技術英文に弱いからなぁ、やっぱだめかも。
 特に留意してもらいたい点がある。


  • 商用取引の用語が多い。商売感覚で読むと良い。
  • 思想の根幹には「高い理想をもって人間を制御する」とある。スキナー(*3)かよ。
  • the peopleとは国民であり、これがNationに対応している。
  • 日本国憲法はNationの規定なので、Stateは別扱いになっているようだ。
  • この時点で沖縄が含まれておらず、将来的に沖縄は別ステートになる可能性があった。
  • 原文本文でもNationとStateは対立しているが訳文の現行日本国憲法からはわからない。

THE CONSTITUTION OF JAPAN
 日本の憲法
【第1文】
We, the Japanese people,
 私たち日本国民は、

acting through our duly elected representatives in the National Diet,
 正式に選挙された国会の代表の活動を媒介として、

determined that
 以下のことを決定事項とした、

we shall secure for ourselves and our posterity the fruits
 その決定事項は、私たち自身と子孫のために以下の成果を保証すべきだということだ、

of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land,
 その成果とは全国家の協調と(日本の)国土に行き渡る自由という恵みだ、

and resolved that
 またこう決意した、

never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,
 その決意は、政府の活動が引き起こす戦争の脅威に二度と私たちが見舞われないようにしようということだ、

do proclaim
 さらに、以下のことを宣言する、

that sovereign power resides with the people
 主権(統治権)は国民にあるのだと、

and do firmly establish this Constitution.
 だからこの憲法を固く打ち立てる。

【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。

【第3文】
This is a universal principle of mankind
 以上のことは人類の普遍的な原理であり、

upon which this Constitution is founded.
 その原理の上にこの憲法が打ち立てられている。

【第4文】
We reject and revoke
 (だから)私たちは次のものを拒否し廃止にする、

all constitutions, laws, ordinances, and rescripts in conflict herewith.
 (拒否し廃しにするものは)以上のことに矛盾する憲法や法律、地方条例、勅語である。

【第5文】
We, the Japanese people, desire peace for all time
 私たち日本人は常時平和を望み、

and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,
 人間関係を制御する高い理想というものを深く意識して、

and we have determined
 以下のことを決定事項とした、

to preserve our security and existence,
 私たちの安全と生存の保持は、

trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
 平和を愛する世界の国民の正義と信頼に委託しよう、と。

【第6文】
We desire to occupy an honored place in an international society striving for
 私たちは、以下の努力によって、国際社会で名誉ある位置にいたいと願う、

the preservation of peace,
 (努力の目的は)平和の維持であり、

and the banishment of tyranny and slavery,
 (努力の目的は)独裁制度と奴隷制度を払拭することである、

oppression and intolerance
 また払拭する対象は圧政と異説を受け入れない態度だ、

for all time from the earth.
 こうしたことを常時この地上から払拭されるように努力する。

【第7文】
We recognize that
 私たちはこう理解している、

all peoples of the world have the right to live in the peace, free from fear and want.
 世界のどの国民も平和で恐怖や貧困のない生活を過ごす権利がある、と。

【第8文】
We believe that
 私たちはこう信じている、

no nation is responsible to itself alone,
 自国だけに責任を持てば済むとする国家は存在しない、と、

but that laws of political morality are universal;
 そうではなく、政治的な道徳の規則というのは(国を問わない)普遍的なものである、と。

and that obedience to such laws is incumbent upon all nations
 だからこのような規則を守ることは、どの国家にも課せられた義務である

who would sustain their own sovereignty
 その義務は自国の主権を維持しようとする国家に課せられている、

and justify their sovereign relationship with other nations.
 また、その義務は他国との関係で主権を正当化しようとする国に課せられている。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける

to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、

with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。

注記
*1:現代の文献学で日本書紀や万葉集などを成立史的に解析すれば、日本語の表記は疑似漢文訓読方式から仮名へと時代変化することがわかる。古事記に見られる整備された万葉仮名の成立は時代的に新しい。古事記が文献的に明らかになるのは、太安萬侶の子孫の多人長が記した弘仁私記序なので、偽作者はおそらく多人長だろう。
*2:ちなみに共同訳の聖書もそのくちなので私は大嫌いだ
*3:参照

[コメント]
# noharra 『興味深く読ませていただきました。ありがとう。』
# レス> 『なにかの参考になれば幸いです。「国民」については池澤さんなども訳に抵抗があったみたいですね。』
# shibu 『江藤淳の3部作で占領時代であることの具体的意味を考え、西修の文庫版で占領開始それも2年も経たないで着手1週間でニューディラー若手(文献集めたのは22歳タイピストのベアテ・シロタ)がデッチあげた代物であることが、やっとわかったりしました。これを採用した(せざるを得なかった)のは幣原個人の決定であるとか突き放す説もあるようです。要は、継接ぎ杜撰の見本でこそあれ検討には値しないってことでしょうか。ご提示の直訳で、手持補強w資料が増えました。』

2003.11.03 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.11.02

仁科五郎盛信

 先のブログのジョークに一部の人にだけウケを狙って「信濃の国」五番をつけたものの、ふと仁科五郎盛信が気になった。センター試験以降の世代でも、多少なりと日本史を勉強した人間なら、春台太宰、象山佐久間あたりはわかるだろうが旭将軍義仲となるとちとどうかな。芭蕉好きなら名句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」を思い起こせるかもしれないが、このあたりのことが日本人の常識でなくなりつつある。そんなことも知れねー知識人も多いのだろうなと思うが、一喝できるのは高島俊男くらいか。
 まして「仁科五郎信盛」となると、歴史好きにはこたえられないキャラなのだが、「知らねーのかバカ」とか言ってバカの壁を造るとこちらもちと不親切ということになる。とはいえ、この手の郷土史の話題は意外とネットに事欠くまいと思ってぐぐると、たしかに、そうだ。まったくネットってなんだろうねと思うが、これは悪いことではない。というわけで、「仁科五郎信盛」についてはぐぐればある程度わかると思う。それどころか広辞苑やハンディな日本史の辞典には仁科盛遠は載っていても、仁科五郎盛信は載っていない。
 仁科五郎盛信は名前の五郎からわかる武田信玄の五男。名歌信濃の国では「信盛」としているが歴史上は「盛信」。母親は油川氏。仁科氏を名乗るが武田信玄は仁科氏を滅亡させているので、領主として氏名を継いでいるだけで仁科氏の血統ではない。信濃の国で誇りとして歌われているのは、織田信長の長子信忠の5万もの軍に3千の軍で立ち向かい、潔く散ったことによる。長野県人は強者にも屈せず、負け戦もものともしない、と言いたいところだが、真田家の生き様など江戸時代は狂歌・狂句のお笑いネタになったものだ。
 仁科五郎盛信の妹松姫は7歳で織田信長の長男信忠と政略で婚約しているが(婚儀は盛大であった)、後、事の次第はかくなるわけで、婚約は果たなかった(恋心を抱いていたとする物語も多い)。仁科五郎盛信戦死に際して、松姫は現在の東京八王子に逃げ、本能寺の変で織田信忠の死を聞いてから、深沢山心源院で得度。22歳。ちなみにこの寺は「夕焼け小焼け」の歌の発祥地である。
 松姫はその後、現在の八王子市街の小高い丘に庵を建てこれが後の信松院になる。八王子はのちに織物を名産とするがこの起源は松姫に帰せられているようだ。私はこれは中将姫伝説の変形ではないかとも思うが、あるいは中将姫伝説がむしろ中世末の女性の原型を造ったのかもしれない。またも余談だが、中将姫は日本史上重要な意味を持つと思われるが、ついぞ研究を見たことがない。史実中心やフェミの歴史など糞喰らえである。
 松姫の逃避で一緒に連れて来た盛信の娘督姫もその後得度したが29歳で亡くなったとのこと。現在は極楽寺に改葬されている。余談もこれで終わりだが、子連れの極楽寺散策のおりは、その近くの「こども科学館」に寄るのもいいかもしれない。入場料のわりに展示はしょーもないので、イベントを目当てにするといい。浅川へと出ると、荒井呉服店の娘荒井由実の歌の光景がそこにある。

追記
 我ながらちとうかつだったが松姫の物語は、松姫に焦点を当てるより、実際はその背景ともいえる八王子千人同心が歴史的には重要になるのだった。この特異な半農・半士の武田遺臣はそのまま徳川に従属するのだが、その際、子仏峠を越えて甲州に往来しその織物を売買権する特権が与えられている。これが後に横浜・八王子を結ぶ絹の交易のベースになる。

2003.11.02 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.10.30

宋美齢の静かな死

 今朝は朝日と読売が裁判員制度を扱っていた。それぞれそれりなに正論といえば正論。だがつまらない。くだくだ言うまえにとにかく制度を変えたほうがいいからだ。よく議論しなければいい制度にならないという正論もあるだろうが、もうそんな正論自体うるさい。遅延の理由にしかならない。他、日経はまたまたデジタル家電の話。なんだかなだ。物作りの日本みたいな幻想をまだ抱いているのだろうか。単なる経営の問題なのに。それと年金話はもううんざりしてきた。きれい事なんでないのだから、官僚と関連団体を整備しなおしてから増税するしかないだろう。

 というわけで新聞社説関連ではネタがない。他にネタはあるといえばある。24日以降気になって、マイルドな悪夢のようになっていたネタがある。宋美齢の死だ。ところでどうでもいいがATOKだと「宋美麗」と変換する。これで日本語に強いATOKなんだそうだ。気の利いたむかつくようなブラックジョークができるのは日本語が強いからだろうか。美麗島を乗っ取ったから宋美麗か。
 死因は老衰。105歳。この女、絶対昭和天皇より生きるだろうと思ったが、ここまで生きるとは思わなかった。20世紀を代表する女だ。ああ、むかつく。私は中国人には親近感を覚えるほうだと思うが、宋美齢の名前を見ると、平常心が保てない。もちろん、私は小林よしのりのようにシンプルな愛国主義者ではないし、時代のせいあって社会主義者くずれって言われてもしかたねーかの思想の持ち主だが、こいつだけは許せねーよなと思う。ああ、ダメだ。全然、文章にならない。
 こんなブログに書くこっちゃないのかもしれない。世の中台湾も含めてたいした話題にもならなかったのだから。そもそも、センター試験以降の世代はそもそも宋美齢を知っているのだろうか? 知らないわけはないよな。蒋介石夫人であり、映画ファンなら「宋家の3姉妹」くらいわかるよな(長姉は孔祥熙夫人宋靄齢、次姉孫文夫人宋慶齢)。と書きながら、たぶん知っているのはそのくらいだろうなとも思う。西安事件については、今の学校ではどんなふうに教えているのだろう、とぐぐると面白いものがあった。「山川出版社高等学校用世界史教科書の記述の変遷」(参照)。それによると、2000年ではこうだ。


当時、西安にいた張学良はこうした状況に動かされて、共産党軍攻撃作戦を説得にきた蒋介石を幽閉して、逆に抗日・内戦停止を説いた(西安事件)。蒋はこれをうけ釈放され、こののち国共はふたたび接近した。

 味のないマシュマロウを食っているような感じだが間違いではない。そういえば、張学良も皮肉にも100歳を越える長命だった。突然、NHKのインタビューに出てきたときは驚いたものだ。
cover
新「南京大虐殺」のまぼろし
 そういえば話が続くが、鈴木明が死んだのも今年のことだった。77歳。そんな歳だったのかと思った。「南京大虐殺のまぼろし」(絶版)を著して、左翼からは叩かれまくった。が、この本は南京大虐殺の史実を描いた作品ではない、と言っていいだろう。百人切り伝説の話だ。話題の中心だった本多勝一は今でも元気で、この関連で裁判沙汰になっているとも聞くが、私にはさして関心はない。むしろ、鈴木明が事実上最後に残した「新『南京大虐殺』のまぼろし」(飛鳥新社)のほうが興味深かった。この本は歴史家からはどういう評価になったのだろうか、よくわからないが、エドガー・スノーの裏はよくわかったし、宋美齢についても生々しく浮かび上がって好著だった。
 と、書きながら、この先、自分でもうまく言葉が浮かんでこない。もうすべて終わったことだ。言うだけ無駄だ。この女に日本はひどい目にあったが、もっとひどい目にあったのは台湾の人々だし、中共が生き残ることで苦しんだのは大陸の人々だろう。敗戦史観からすれば、帝国侵略した日本が悪いことになっているから、宋美齢が善になるのだろう。つまり、思考停止だ。所詮日本などこの女ひとりに負けたのだと自嘲してしまいたくなる。

[コメント]
# shibu 『このおばん、帰国子女でしょ。おねえちゃん慶齢との会話も手紙も英語だったってな話ですもんね。お説の「美齢一人にしてやられた!」ってのも同感です。対して、野村吉三郎じゃあねぇw 聞き取りも不安だったとかじゃなぁ。なんでこんとき白洲が張り合わなかったんでしょうかね。ま、野郎じゃ相手にゃならんですか。圓山飯店って台湾神社でしたっけ。あれって宋美齢の個人名義だったんですかね。それとも国民党の息のかかった会社名義でそこから上がりをいただいていたとか。96年以降台湾のイメージは様変わりです。李登輝効果でしょう。香港からの帰り、機体交換でトランジットしただけです。一度は行ってみたいですね。高雄にはいとこが葬られているようですし。』

2003.10.30 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.10.23

ハンガリー動乱と大池文雄

 見出しだけは書いたものの、きちんと書く気力がない。このブログを関心を持って読んでいるかたには申し訳ない。
 とりあえず、意図を簡単に言えば、日本共産党史におけるハンガリー事件の意味と、それを先駆的に問題視した大池文雄という人間について考えたい、ということだ。
 見出しだけのこんなみっともないブログを残すのもなんだが、ブログ「余丁町散人の隠居小屋」10/23 Today ハンガリー動乱勃発 (1956.10.23)を読んで、「あちゃー!、これで終わりじゃ、困るぜよ」と思ったのだ。


 首都ブダペストで知識人、学生、労働者による大規模な反体制デモが実施されソ連軍戦車が出動。市民達は絶望的な市街戦を繰り広げたが最後は踏みにじられてしまう。
 ナポレオン三世に始まるヨーロッパの首都での街路整備と戦車の発明で古典的な民衆蜂起は物理的に不可能となっていたのである。誰もソ連軍はやってこないだろうと思っていたのだが戦車が出てくるとひとたまりもなかった。

 散人先生のブログはこの軽さがいいのかもしれないが、この事件が持つ日本史の意味をパスするには、痛過ぎる。とはいえ、散人先生にはご関心はないのかもしれないので、書いてくれよと懇願する意図ではない。
 ちなみに、大池文雄についてゴルフ経営関係以外でgoogleってみたら、案の定、たいした情報はない。そのなかでもましな部類だが「共産党の理論・政策・歴史」討論欄(参照)というページが出てきた。どうやら名前まで抹殺されているわけではないが、たいした内容はない。ここでの言及もくだらない。「新左翼(トロッキズム)の潮流発生」という項目の下に「3月頃には東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」、大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が発行された。」とあるだけだ。トロッキズムかよ、なのだが、ま、そんなところだろうか。

こうして、この時期日本共産党批判の潮流がこぞってトロッキズムの開封へと向かうことになった。このような動きの発生の前後は整理されていないが、対馬忠行を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」が刊行された。太田竜(栗原登一)が「トロッキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動を開始していった。思想の広場同人の編集になる「現代思潮」、東大自然弁証法研究会「科学と方法」、福本らの「農民懇話会」、京都の現代史研究会の「現代史研究」、愛知の「人民」等々の清新な理論研究が相次いで生まれた。

 ちなみに、この太田竜とは、トンデモ本でおなじみの同名のかただ。同一人物なのである。へぇ~とか言わないでほしいのだが。

追記

cover
ハンガリー事件と日本
 うかつだった。絶版かと思っていた「ハンガリー事件と日本―一九五六年・思想史的考察」は復刻されていた。手元にないので再度購入して読むに、私なんぞが付け加えることは、ない。本書には一点だけ関連して私の秘密にも属する逸話があるが、たいした話でもないのでそれは内緒。

2003.10.23 in 歴史 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

2003.10.16

日清上湯麺は「エルダー世代」に美味しいのか

 昨日は中国有人宇宙船のニュースをよく見た。この件についてはすでに書いたし、書き足すほどのことはあまりないが、今朝の朝日新聞社社説「まぶしさと気がかり」は多少意外だった。諸手を挙げて中国賛美するのかと思ったらそうでもなかった。とはいえ、中国の宇宙開発は軍事と一体だ。昨年春、有人飛行計画について当時の江沢民主席は「科学技術の進歩と国防の現代化に重要な意義がある」と述べている。今回の打ち上げに関する情報も直前まで機密扱いだった。宇宙開発が米国との軍拡競争や周辺への脅威につながるなら、日本国民も国際社会も歓迎はできない。 意外にまともだね。結語もまともな印象だった。


 中国の成功は日本にはまぶしい。日本の経済援助を受ける途上国の躍進に複雑な感情を抱く人もあろう。だが、ここは中国が宇宙の国際協調の流れに加わるよう力を注ぐことが、日本の役割である。

 別にあんなカプセル型「まぶしい」ってことはないが、朝日新聞の社説っていうのは科学に無知とはいえ、感覚はまともなときはまともだと思う。

 今日の話題は日清上湯麺についてだ。以下、実にくだらない話だ。
 ことの発端は「もしもしQさんQさんよ・邱永漢」の「第1314回インスタント食品も高級化の時代に」だ。美食について語らせたら、美食家が黙り込むだろう邱永漢がこう言っていた。以下、引用の都合で改行は削除する。


 それでも盆暮れになると、日清食品の新製品を届けていただいて今日に至っています。私は口が奢っていて、あまりインスタント食品に馴染まない方なので、たまにしかいただきませんが、ちょうだい物のおかげでどんな新製品が発売されているか大体わかります。
 つい最近も日清上湯麺というオトナの食べる一番ダシの上湯スープで味をつけた新製品を2種類送っていただきました。ちょうど毎日ご馳走攻めで、血糖値も高くなっていた時だったので、食卓一杯の料理を一切拒否して、この麺だけを出してもらいました。一口、口をつけただけで「これは行ける」と俄かに食べる気を起し、とうとうスープの最後の一滴まで飲みほしてしまいました。私がインスタント・ラーメンのスープをきれいに平らげたのはこれがはじめてです。

 へぇ~72点くらいだったのが、おりしも電車の吊り広告に宇崎竜童の広告を見かけた。さては巷間にもと思い、セブンイレブンに立ち寄ると、ある。買って、まず、食ってみた。
 そんなにうまくはない。予想はしていたが、薄味の私にはしょっぱくて食えたシロモノではない。湯を足して、塩気が我慢できる程度にする。麺はノンフライ麺を改良したものか、悪くはないがインスタントの枠を越えるほどでもない。なーんだたいしたことないな、さて捨てるか、と思ったが、それでも麺とスープの絡みはよく計算されているなと思ううちに、つい、これはこれでいけるかと考えが変わり、結局、食った。負けだ。スープはさすがに飲めないが、食い終われば、なるほどなと思った。私はMSGに極力弱いタイプなのだが、舌は麻痺していない。単体のグルソは入ってないのかもしれない(いいえ、入ってます)。
 「上湯麺」とはふざけた名前だ。上湯の味がするわけでもないと思い、ふと記憶が蘇る。昔、それなりの腕のある中国人コックにふざけてラーメンはないのかと訊いたら、けげんな顔をして上湯に麺を入れてくれたことを思い出す。あれはそれなりにうまかったが、そんなもの注文するもんじゃないなとも思った。
 邱先生の顰みに習うわけではないが、私もかれこれ10年近くインスタントラーメンを食っていなかった。店のラーメンも食ってない。カップラーメンはいわんやおやである。が、ふと昨年あたりからたまにインスタントラーメンを食う。老人や子供がインスタントラーメンを食うのに居合わせたことがきっかけだ。驚いた。あれほどコンビニで各種インスタントラーメンが開発販売されているのに、サッポロ一番だのチャルメラだの、10年前から変わっていない(若干味は違うが)。へたすりゃ30年くらい変わっていない。どういうことなのか考え込んだが、ようは基本的にあれは老人食なのではないかと思う。くず野菜を入れてふにゃふにゃ食うのだろう。あるいは、チョコレートなどもへたすりゃ30年近く変わっていないので老人食とばかりも言えないかもしれない。どうでもいいが、日本と米国のチョコレートは最低だな。もっとも米国のハーシーは慈善NPOだと考えるべきか(参照)。
 他方、ころころ変わる珍奇な新種カップラーメンもいくつか食ってみた。私が得心したのは、日清など、やる気なればどんな味でもできる体制ができているに違いないということだ。変な言い方だが味がコンストラクティブなのだ。またもくさすがセンター試験世代的なチャート式の発想で味が出来ている。とはいえ、この味のセンサーはセンター試験世代にはないので、味の研究員にはけっこう年配というか達人もいるのだろう。いずにせよ、カップラーメン開発者たちは、ある種の万能感で市場調査と流行を調査しているのだろう、と思った。そう思って、くだらねーなとも思う。この「上湯麺」にしても、まずは、マーケットの計算から出来たのだろう。メディアと市場の戦略の産物なのだ。安藤百福の直感ではあるまい。
 さて「上湯麺」の味だが、予想通り構成的だった。ネギ味のほうは露骨といってほどベースの味がカップヌードルになっている。辟易としてのは白こしょうの味が際だって貧乏くさいことだ。おそ松くんに出てくる小池さんを思い出す。醤油味のほうは、醤油の扱いは悪くないが、紙くさいような臭いに呆れた。
 とうだうだと書いたものの、いずれ私はこのマーケットの住人ではない。私の感想など屁の役にも立たない。そんなわけで、ネットで日清上湯麺の情報を見ると、当然ある。味よりも情報の時代だ。舌で食っているのでなく、妖怪油舐めのように頭で食っている時代だ。
 「エルダー世代に向けた上質な大人のカップめん」という広報はやや意外だった。

■ 開発の意図
平成14年度のインスタントラーメンの総需要は53億食で、ここ数年は微増状態にあります。またカップめんの主なヘビーユーザーは、男子中学生、高校生、大学、独身社会人で、結婚を機に喫食の頻度が低下するという傾向にあります。そこで今回、即席麺の総需要の拡大を図るため一度カップめん離れしたユーザーを再取り込むことを狙い、エルダー世代と呼ばれる45~50才代に向けた大人のカップめんを開発しました。カップめん市場は、現在、こってり系スープが主流にありますが、エルダー世代はこってり系からあっさり系に嗜好が変化しており、これがカップめん離れの原因のひとつとなっています。弊社では、この嗜好の変化に対応したカップめんを開発し市場に投入することにより、インスタントラーメンの総需要の活性化を図ります。

 「エルダー世代」かよ上等だぜと思うが、エルダー世代は「あっさり系に嗜好が変化」だとよ。この文章自体、日本語じゃなねーよな。くさしはさておき、日清上湯麺があっさり系って、なんのことだよ思い、身近な者の意見を聞くと、あれであっさりしているのだとのご託宣。そういえば、この1年間、インスタントラーメンやカップ麺を食ったといえ、付け足し油は入れないし、粉も半分にしていたから、本来の味ではなかったのか。
 いずれにせよ、これが「エルダー世代」向けの味か。海原雄山を巨大化させて、説教でもたれてもらいたものだが、考えてみると、今の45~50才代も味覚がないのだ。工業化された食品か流通によって篩を通した物にしか食っていない。その上の世代は貧しくて味覚がない。そう言えば怒る人もいるだろうが、では訊いてみるがいい、ではなにがうまかったのか、と。滔々と応えがあるだろう、貧しい物か、はたまた、その貧しさを補う情報といううんちく。

追記

 顧みてテメーはなぜラーメンを食わなくなったか。サッポロ一番で育てられた口じゃないか、ヤングオーオーを見てカップラーメンを食った口じゃないか。でも、遠い日の味の思いが、長ずるに及んで、こんなの違うなと思わせた。この駄文を書きながら、斎藤由香ではないが昭和30年代の軽井沢を思い出す。赤坂飯店には確か麺ものはなかったような気がする。栄林で食った中華麺は、こんなものがあるのかと子供心に思った。たいした麺でもなかったのかもしれないのだが、と、栄林が今でもあるのかネットで調べると、ある。でも、過去に戻ってあの麺を食うことはできない。ちなみに、軽井沢にはもう馬糞も落ちてないのだ。

 エルダー世代ってなんだと思ったら、これは博報堂のエルダービジネス(参照)というラッパらしい。まいったね。百福さん、センター試験以降の世代のマーケティングなんか信じちゃだめだよ。

[コメント]
# tokyocat 『このような当たり障りのないネタだけに反応するのもなんですが、シンガポール土産のカップ麺を食べたとき、同じ日清製なのにスープの袋がやけに破りにくく粉末やオイルが飛び散りそうになりました。そこへいくと、日本のカップ麺はそうした心配りのハイテクがあきれるほど行き届いているように思います。中国旅行で食べるカップ麺は予想どおりことごとく無造作なものでした。宇宙船の出来もちょっと心配。』
# レス> 『まったく同感です。この行き届き状態が問題だとも言えないあたりが、けっこう変な感じです。いずれ日本のインスタント中華が中国でも売れるのだろうと思うと、笑っていいのやら…。』

2003.10.16 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.10.10

国慶節に思う

 今度の選挙には新民主党を支持したいと私は思うのだが、それでも現状の党首討論にはあまり関心が向かない。各紙社説を読み飛ばす。産経新聞社説「大量破壊兵器 虚心に報告を読み返そう」は共感がもてた。メディア操作が叫ばれるが、つねに左翼的な心情をベースとしていて、実際に資料をきちんと読もうという運動にはなっていない。CIAなどはなから敵視されている。だが、元国連査察団長デビッド・ケイ証言*1は期待外れかもしれないが、それなりに重要だろうと思う。もう一点、「デジタルラジオ 安価な受信機の開発急げ」という視点も悪くなかった。だが、デジタルラジオなんてブロードバンド時代にはナンセンスなしろものだし、結局はハイビジョンと同じくNHKの受信料徴収のネタになるくらいだろう。産経の結語は「視聴者はラジオになにを求めているのか-という原点に立った取り組みがすべての関係者に求められる。」ってなクリシェで締めていたが、「おまえさん、ラジオ深夜便でも聞いてごなんさい」っていう感じだね。

 今日は社説話題をさておいて、国慶節の話だ。とネットで国慶節をひくと、先日足利義政の話のおり痛感したように、インターネットはバカの集まりだ。まともな情報は出てこない。国慶節について「1941年10月1日、毛沢東主席が天安門広場で建国宣言しました。」って書くヤツの気が知れないないね、と思う。ま、だからここで書くのだ。
 台北駐日経済文化代表處のホームページを見ると「双十国慶記念日」とあった。そういう表記もなるほどねとは思う。他では中共に配慮して双十国慶節として際だたせる表記もある(雙十節というのは10月10日だから)。でも、国慶節の本義を考えれば単に国慶節でもいいだろう。
 今年は中華民国建国九十二周年になる。常識なので言うも恥ずかしいがインターネット馬鹿曠野に戸惑うこともあるので書くと、民国建国は1912年、つまり大正元年と同じだ。今年は大正92年なのである。大正年を思えば明治は遠くなりにけりともいえるが、祖父母が明治年の生まれであることを思えば、民国成立の時代はそう遠いものでもない。夏目漱石の「心」にもまだ共感できる。現代が始まった時代だともいえる。1914年に第一次大戦が終わり、1917年に脳天気なレーニンの勘違いで始まったクーデターがひょんなことでロシア革命になった。
 民国成立について台北駐日経済文化代表處のページには、86年の李登輝の祝辞も残っていた(参照)。ちと長いが国慶節というものの説明のために引用させてもらう。


およそ一世紀前、孫中山先生は中華民国創建のため民主・自由・ 均富による発展の青写真を打ち出しました。爾来八十六年間、 わが中華民国は波濤逆巻く歴史の奔流のなかにおいて、幾度も挫折に 遭遇してまいりましたが、最後において確たる不動の立場を打ち立てることは、 民主に対する強い精神の具現であり、また歴史に対する責任でもあります。 今日ここに、われわれは誇りを持って台湾・澎湖・金門・馬祖地区における 中華民国は、すでに孫中山先生の理想を実現し、政治の民主化、社会の開放、 経済の繁栄、民生の充実といった輝かしい成果をあげ、中華民族の新たな歴史の一頁を開いたと言うことができます。
精神を継承するところに歴史的意義があり、引き続き開拓して行くところに 歴史的価値があります。われわれが獲得したすべての成果は、 無数の先覚諸烈士の犠牲的努力のたまものであり、基礎が築かれたから であります。われわれは国家発展の新たな高峰を築いた今日、 さらに努力をつづけ、民主と自由の理念を堅持し、次世代のためにさらに 安全でさらに安定し、さらに尊厳ある環境を構築し、二十一世紀の激しい 競争のなかにおける新たな挑戦を克服し、新たな局面を開拓して 行かねばなりません。

 台湾独立を明言できるようになった現在の李登輝を思えば皮肉な感じもする。また、孫文についても歴史研究が進むにつれ、虚飾がはがれていく。それでも今でも「中華民族の新たな歴史の一頁」とは民主化を意味すると考えて大過はない。ただ、「中華民族」の民主化とは、偽装された皇帝世界から各民族を解放することではなくてはならない。台湾が台湾となり、チベットがチベットなること。
 だが、そういう理想は、現代という新しい流れのなかで次第に色あせているのも現実だ。台湾は台湾になれず、チベットがチベットになることはない。ダライラマがポータラカに戻るとき実はチベットは終わっている。中共が出す民族地図を見て満人という区分がないことに呆れたことがあるが、しかし、それが新しい現代でもある。
 私事だが、李登輝の治世下民国86年の国慶節の夜、私は台北駅隣接天成ホテルにステイしていた。眼下に祭りらしい美しい夜景が見えた。だが、それを取り巻く夜景は日本の都市と本質的に変わるものでもないとも思った。柔軟な文化様式が東アジアの都市を覆いつつ、国家という虚構を薄めていくのである。

追記

 今日の余丁町散人の隠居小屋さんはブログに「10/10 Today 辛亥革命勃発 (1911.10.10)」を書いていた。それでいて国慶節への言及はない。散人先生のブログは面白いのだが、なんとも歴史感覚がずれているなとちと思うこと多し。さてもiblogなのでトラックバックもできず、こっそりと言う。

[コメント]
# shibu 『大陸(大連ですけど)の双十節って、国慶節(10月1日)連休のついでにw、休んだかな。その連休ひねり出す為かどうか、直前2週間が大変でした。職場も学校も休み無しなんですもの。小学生なんかふらふら状態ですわ。毎朝国歌演奏国旗掲揚があるんですが、最後の頃(目出度い国慶節近く)には遅刻者続出w 先生方もお疲れでしょう。国歌ならんかったり、国旗が半分しか揚がらなかったりw、ご苦労様でした。こっちは一人っ子のせいか毎朝毎夕お見送りに尾で向かえなんもんで、しっかり観察させていただきましたのでした。』
# shibu 『ああ、ついでに、日本じゃ「体育の日」って言って、東京オリンピックが開催された日なんだけどねって教えときましたけど...』

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2003.10.09

初等教育の歯止め規定廃止と幾何学随想

 朝日新聞と毎日新聞の社説が扱っていた初等教育の歯止め規定廃止が気になった。もちろん、歯止めなんて意味ないとは思うし、朝日や毎日の社説自体に特に思うこともない。
 心になにが引っかかっているか見つめているうちに、幾何学のことが気になった。現在の中学生高校生は幾何学をどんなふうに学んでいるのか。ネットを雑見したのがよくわからない。高校では幾何学はすでに解析幾何学になっているようで、その前段も早期に解析的な様相に変えられているようでもある。いわゆる初等幾何は中学で学ぶようだが、なんとなくだが、おざなりにされているような気もした。
 和田秀樹だったが数学は暗記と言っていた。基本のパターンを暗記すればいいというわけだ。東大合格やそれに類似することが目的ならそれでもいいと思う。幾何学はどうだろう? 幾何学だって解法は手順化されている。その前に、大学受験で初等幾何学は出てくるのか? 出てこないか。と、阿呆な逡巡をするのは、幾何学の面白さというのがそっくりこうした話で抜けているからだ。もちろん、代数や微積分学、論理学でも面白さはある。だが、初等幾何特有の面白さや美しさは若干違うようにも思う。
 もどかしい個人的な思いを連ねるので駄文になるが、私の中学生時代、初等数学に集合論が強く意識されていた。なんだこれという少年の思いから、無駄を覚悟で大学で畑が違いの基礎論を勉強した。ロバチェフスキー、カントール、ペアノ、ヒルベルト、デデキントそしてゲーデルというあたりのうわっつらを舐めた程度だが、集合というものが自分なりにわかった。後に柄谷行人あたりがゲーデルだの言い出して、自然数論なしで公理系云々とか言い出すあたり、本当にバカだなと思ったものだった。
 そしてある程度、集合論の背景にある公理性というものがわかったような気がした。だが、今思い返すと、ユークリッドの公理からヒルベルト風に公理性を取り出していくのではなく、原典のユークリッドの公理と幾何学の関係をおざなりに理解していたような気がする。
 中学生時代私は幾何学が好きな少年だったが、証明によく三角形の合同条件を使った。というか、そういうふうに指導されていた。ああいう幾何学は、ある種ヒルベルト風の考えだったように思う。思い起こすに、彼の「幾何学の基礎」 では5つの公理、結合、順序、合同公理、平行、連続でユークリッドを整理しなおしていた。私の時代でも、そして現代でも、おそらく初等幾何はアメリカの数学教育の影響から大衆的なヒルベルト主義になっていたのだろう。集合論と同じく、いずれ基礎論の入門という教育的な配慮があったのかもしれない。
 だが、数学としての幾何学はそれでもいいし、もちろん、幾何学の面白さや美しさが損なわれるわけではないが、もう一度、ユークリッドに立ち返ってみたい気がする。なんとなくだが、米国ではなく西欧の初等幾何学は中世以来の伝統を追っているように思うので、そちらの指導を覗いてみたい気がする。
 書きながら色々思い出す。高校の物理では物理とは名ばかりに、ニュートン力学という数学とそれにマックスウェルの法則なんぞを乗っけるのだが、中央公論だったかで出されていた訳本のプリンキピアの様相は、いわゆる教育の場のニュートン力学とはかなり違い、その後、田村二郎の解説書で得心したことがある。別段、ニュートン力学がアインシュタインの理論で置き換わったわけでもなかったし、さらに幾何学に潜む空間や運動の問題について、哲学的には未開の部分が残るとする晩年の大森荘蔵などの考えもわずかだがわかってきた。
 話が雑駁になってしまったが、ユークリッドの原論やそれにつならなるイスラムから西欧中世への学問のなかに、「幾何学をせざる者、この門を入るべからず」が残っているだろうと思う。
 生命の作り出す螺旋構造の背景にフィボナッチ数列や黄金比があると知ることは、中学生でも難しいことではない。そしてそれを知るということは、宇宙の美を味わうことにつながる。現代日本人がいう学力なぞ、所詮和田秀樹の東大入学術に過ぎない。そんなものより、この宇宙に生きていて、宇宙空間や生命体に潜む幾何学的な美を知る喜びのほうが、はるかに重要だと思う。重要ということは、美の意識によって生きて死ぬことがより充足されるということだ。

2003.10.09 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

2003.10.05

日本はいまだ国連の「敵」である

 産経新聞と日経新聞の社説は、イラク派兵に関連して国連決議を取り上げていた。産経は小林よしのりがいうところのポチ保守路線。日経の社説「今こそ『弱い国連』の安保機能見直しを」が、凡庸とも言えるが読み応えがあった。
 日本人は国連に甘い幻想を抱いているが、国連は機能しない。いろいろ問題があるが、根幹にあるのは、私は常任理事国の存在だと考える。そして少し暴論めくが、常任理事国があるというのは、国連(United Nations)というのは連合国(United Nations)だからだ。もともと日独伊の枢軸国と戦うためのリーグなのだ。洒落ではない証拠に、日本は国連の敵国だと敵国条項(国連憲章第53、107条)で定められている。
 そんな話をすれば、知識人なら鼻でせせら笑うだろう、「あれは死文であり、削除は1995年の国連総会で採択され、スケジュールに乗っている」と。確かに、数年前まではそうだった。ところが、そのスケジュールはどうなったのか?と問い返してみればいい。進歩派知識人は「死文だから気にしなくてもいい」と答えるだろうか。では、「いくら死文でも、日本の戦後の努力を踏みにじる不名誉な条項は死文であれ即刻削除されるべきではないか?」とさらに問えばいい。その先はなんにもない。ちなみに、1995年3月憲章特別委員会は旧敵国条項の削除、改正を総会に勧告、12月国連総会で国連憲章から旧敵国条項を削除する決議を行い、賛成155棄権3で採択した。この際、棄権3は朝日新聞の友好国である北朝鮮、キューバ、リビアである。
 だが、ようやく日経がその先を少し言及しだした。まずはアッパレと言っておく。


 国連改革といえば、日本にとって座視できない問題として国連憲章の中の旧敵国条項の存在がある。
 すでに死文化しているともいわれるが、この条項は連合国の敵国であった日本などが再び侵略行為を行った場合、ほかの国は安保理の承認なしに武力行使できると規定してあり、一種の差別条項である。それが厳然として残っている。

 よく考えよう。この数年の流れを見れば、日本への敵国条項は死文ではない。連合国は先日のカンクン会議のG21のようなリーグの筆頭に日本が立てば、連合国側は日本を攻撃するだろう。妄想? もちろん、その前提に日米安保の解消がある。なにしろ、日米安保というのはこの敵国条項の安全弁のようなものだからだ。米軍が日本に駐留している理由の一つは日本を軍事的に支配下に置くことだ。首都を取り巻くように米軍が駐留している様は普通の外人ならバカでも日本が未だ占領下にあることがわかる。
 そんなことを言えば右寄り? ポチ保守賛同? なんだか現実感がないような気もする。
 国連と日本の関係を正常化させることは難しいのだろうか? 意外なソリューションを私は小沢一郎の主張から啓発された。常備の国連軍を作り、日本が兵を出せばいいのだと。なるほど。そうすれば、死文は論理矛盾から本当に死に絶えるだろう。だが、日本の平和勢力、国連主義の人たちはそれを認めるだろうか。今の日本の空気を読む限りそうはいかないだろう。衆院選挙でも、冷静に考えれば、新民主党は敗退する。
 そういう意味で現実というのは厳しいものだ。ナンセンスでない平和というものが難しいのは、血で贖うものだからだし、血で贖うためには国民のなかに国への愛がなくてはならない。この見解はウヨに聞こえるだろうか。だが、警察官だって消防士だって、死ねとは言われないものの、職務のために死なければならないことがある。その職務というものは国への愛が根幹にある。本当は官僚というものもそういう存在なのだが。

[コメント]
# shibu 『そうですか! 小沢の常備国連軍創設とそれへの参加ってそういう意味があったんですか。常備フォーラム「連合国」批判は、敵国条項非難を必ず書くけどその解決策って書いてないですよね。せいぜい執拗に主張せよwで終わり。分担金負担額と率でシノにロ、仏・英非難も尤もですが、こういう視点を積極的に表に出したほうが説得力ありますわ。』

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2003.09.29

夢路いとしの死に思う

 今日も目立ったニュースがないことになっているのか、新聞各紙社説はまばら。それぞれ悪くもなくどってこともなくという感じなのだが、ひとつ、つい「この愚か者!」とつぶいてしまったのが産経新聞社説「『昭和の日』法案 政局絡めず成立をはかれ」だ。なにも左翼ぶって昭和天皇の批判がしたいわけでもないし、「昭和の日」が国会の手順に則ってできるっていうならしかたないと思う。「海の日」なんてもっと愚劣なものもすでにあるのだ。愚かだと思ったのは産経新聞の歴史感覚の欠如だ。単純に昭和時代の天皇誕生日が4月29日だというだけしか念頭になく、4月28日の次の日であることに思い至らないのだ。もっとも産経新聞にとりまく、小林よしのりがいうところのポチ保守どもは、この日をサンフランシスコ対日講和条約発効による日本独立記念の日だとかぬかしているのだから、病膏肓コウコウに入るだ。4月28日とは国土と国民が分断された痛恨の日だ。昭和天皇は生涯この悲劇に思いを致していたことを考えあわせれば、彼がその翌日の4月29日を誕生日というだけの理由で「昭和の日」とすることを喜ぶわけがない。もちろん、国民が「昭和の日」を望むというのなら国民の歴史の感覚が失われていくだけだ。

 以上の文脈に摺り合わせる気はないが、漫才師「夢路いとし」の死で思ったことを書いておきたい。今朝のニュースで彼の訃報を聞いて、私はしばし呆然としていた。一番好きな漫談家でもあったからだ。彼は8月中には入院していたというし、詳細は知らないが78歳で肺炎というのは実質老衰といっていいのでのではないか。なにより、その歳まで生涯現役であったことは幸せというものだろう。そして、その幸せというのは、彼ら「夢路いとし・喜味こいし」の芸の完成でもあったはずだ。芸のなかで生涯を通せるということは、至難の業を越えて恐るべきことだとすら思う。もっとも、彼らの芸には微塵にもそういう側面は見せない。むしろ、最後の親鸞のごとく、話芸なのかボケなのかと戸惑うほど絶妙な間マというものの妙味があった。
 わざわざ再録されたメディアを購入するというほどでもないが、近年できるだけ機会があれば私は「夢路いとし・喜味こいし」の漫談を聞いた。日本語の溢れるばかりの豊かさが堪能できた。ただ、彼らの漫談は時代に合わせたせいか短いようにも思えたが、それが彼らには楽だったろうか、あるいはそういう短さも時代に合わせた芸のチャレンジだったのだろうか。いずれにせよ、その老いの姿は、言葉を弄することになるが、「聖なるもの」に近かった。彼らの誘う笑いのなかには、こういう言葉も当てはまらないのだが、正しい政治の批判力があった。昭和の時代、戦前戦後をなんとなく暗く思う風潮やとんちんかんなリバイバルもあるが、彼らの漫談の笑いが示す大衆の健全さは、昭和を通じて失われていなかったと思う。
 夢路いとし、78歳というのも感慨深い。誕生日がいつか知らないが、単純に考えれば、生年は1925年になる。おそらく大正だろう。三島由紀夫がその前年の生まれである。三島が市ヶ谷で内面老いというものに屈服しながら、最後の肉体の誇示と怒号を上げたころ、同じ歳くらいの夢路いとしも、ボケとつっこみであるがまだ若さの残る、毒のある漫談をしていた。文芸詳論家など三島文学をこねくりまわすが、時代が天才に強いるものを公平に見るには大衆から離れるわけにはいかない。
 三島の生年の前年1923年は遠藤周作の生年。翌年に吉本隆明が生まれ、その次の年に生まれたのが星一ハジメの息子星新一(参照)。1926年となり切りのいい昭和がやって来る。そして昭和の昭坊が続くというわけだ。時代は流れていく。それとともに戦争の感触が薄れ、そのことが昭和の感覚を失わせていく。私には、父の時代である大正という時代はヴェールの向こうだが、それでも向こうがまるで見えないわけではない。
 1921年生まれの山本七平は、息子良樹との往復書簡『父と息子の往復書簡』で、ニューヨークにいた良樹の友人(ジョン)が銃で撃たれた話で、さらっとこんなことを書いている。


ジョンが無事に回復に向かっているとのこと、何よりのことだ。私の戦場での体験では、急所をはずれた貫通銃創は、もし動脈を切断していなければ、回復は早い。銃弾は発射時の火薬の高熱で、完全に滅菌されているからだ。ただ戦場では化膿の心配があるが、ニューヨークならこの点では心配あるまい。

 戦争経験を語っているといえばそうだし、誇っているととれないこともないが、山本は単に銃弾で撃たれるということを日常の次元で語っているとみていいだろう。戦闘オタクならこうしたことは知識としては知っているだろうが、山本にしてみれば知識でもなんでもない日常の感覚の延長なのだ。それが戦争の感覚でもあり昭和の感覚でもある。
 1920年生まれの春風亭柳昇は三島由紀夫が自決した時代、やはりまだ若い毒のセンスに合わせて、トロンボーンを吹いていた。先日ふと、彼の『与太郎戦記』が時代から消えてしまう前に読み直した矢先、亡くなられた。私が一番好きな落語家だった。
 30年のという歳月が歴史をつれて人の全盛から死に至らしめる。あたりまえのことだ。そのあたりまえのこと、生きて死ぬということを、我々は次の世代に見せてあげなくてはならない。

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2003.09.20

韓国の日本文化開放に思う

 朝日新聞と産経新聞がそれぞれ社説で韓国の日本大衆文化開放措置について触れていた。対立した意見を期待したとこだが、どちらもふぬけた話。わからないでもない。とはいえ、朝日新聞社説「文化開放―日韓に壁はいらない」のタイトルはボケだが、冒頭の切り出しは良い。


 日本語の音楽CDや日本製ゲームソフトを解禁する。韓国がそう決めたと聞いて意外に思った人も多いだろう。日韓の間にそんな壁が残っていたのか、と。

 現状の日本人の意識からするとそんなところだろう。そのくらい日本人は韓国に関心がない。だから韓国文化の一部が切り出されて日本にエスニックとして受ける。少し前の話だが、2001年(5/16)の日本版ニューズウィーク「韓国をうらやむ日本人」は外人の目から見たトンマな特集で笑えた。
 韓国をどう考えたらいいのかという問題は難しい。韓国も日本同様東アジアで中国の影響を受けた歴史を持っているせいなのか、言葉と事実が乖離する。単純に言えば、発せられた言葉にはすべて裏があって事実を指すことができない。韓国について韓国側から語られた言葉は多いが、その裏に向かって日本人が事実を言っても、その語られたこと自体が言葉に還元して循環してしまう。
 とはいえ、隣国であり、人間の交流もある。人間と人間の交流はただの言葉ではない。戦後多くの韓国人と日本人が私的な交流を深めてきた。現実というものは厳しいものだから、全て信頼の交流とはいかない。裏切りもあるだろう。だが、深い交流であることは間違いない。映画「月はどっちに出ている」みたいなものだ。その総体が日本と韓国に何をもたらしたについてはまだ十分に語られていない。言葉の循環をさけて語るにはもっと深い交流を待つべきかもしれない。
 当たり前のことだが、と言っていいだろうが、70歳以上の韓国人は日本語がわかる。植民地下でもあり、日本人に嫌な目にあわされた人も少なくないことは間違いないが、戦前とはいえ大衆の日本人というのはそれほど善でも悪でもない。そのことを70歳以上の韓国人はきちんと知っている。だが、それを韓国の中で語ることはできない。その詳細はここでは書かない。ただ、この半世紀はそういう歴史だったのだと雑駁にまとめてもはずしてないだろう。現在の日本人もそれが理解できなくなりつつある。センター試験世代の人間に先日「李承晩」って知っているかと訊いみたが無言だった。「イ・スンマンですね」と米国帰りのとんちきな答えなども期待できない。歴史とはそんなものだ。「冬のソナタ」の登場人物も李承晩後の世代だ。日韓の歴史は喧しく論じられるが、実際の歴史とはそういうふうに扱われていく(参照)。
 と、話が散漫になるのは書くのをためらう思いがあるからなのだが、ま、冗談半分に書いておこう。名前をあえて記さないが、私が深く傾倒した歴史学者がこう言ったことがある、「韓国には文化がないのです」。そう言われれば、そんなバカなと誰もが思うだろう。現代の韓国人でも怒るよりせせら笑うだろう。だが、この指摘は碩学だけが知りえた怖いものがあると私は思った。そして、過去を知る韓国人もそれを知っているだろう。単純な話でいえば、ハングルによって覆われている漢字を復活させれば、字面の上で日本語とそっくりになってしまう。もっとも今の日本人の漢字はGHQによって破壊された奇っ怪なシロモノだが。
 あまり雑駁に言ってはいけないが、現在韓国の文化と言われてるものの大半は、清朝によって破れた漢意識の辺境的な再構築だ。実は日本の江戸の思想も類系でこれが明治維新につながる(が韓国とは違い道教化した朱子学の影響は少ない)。
 また、ハングルが元朝の遺産であることも歴史を知ればわかる。食文化などを含め、元朝の影響は大きくすでに韓国人が意識でないほどでもある。骨董好きの一部が陶磁器で李朝より高麗を好むのも、古いものを好むということもだが、どこかに国民文化の起源の美を得たいという思いがあるからだろう。「三国史記」があるとはいえ、日本のように正史として古代を伝える日本書紀という歴史書もなければ、本居宣長のように近世に国民国家の古代幻想を創作するというような民族意識もなかった。もちろん、日本が優れているということでは全然ない。深く歴史を知れば、日本書紀の大半はナンセンスな創作に過ぎないことも、宣長の古代意識もグロテスクな偽物に過ぎないこともわかる。西欧流の歴史学で見るなら、日本書紀の推古朝以前はでたらめとしか言えない。それ以降も政治的な修正でできている。また、古事記は偽書だし、漢文で書かれている。
 こうした知識がなくても、朝日新聞社説の次の指摘は皮肉な示唆に富む。

 開放の壁になっているのは、最近は反日感情よりもむしろ経済問題だ。例えばアニメ映画を解禁すると、日本の作品が最大40%のシェアを占めるというのが韓国側の試算だ。一方、この自由貿易の時代に外国商品を禁じるべきではないという意見もある。韓国も悩んでいるのだ。
 だが、この5年間を振り返ると、日本文化を受け入れたことが日韓の競争や交流を促し、韓国文化は打撃を受けるどころか、かえって元気になったのではないか。

 朝日新聞は間違ってはいない。のんきなだけだ。日本の大衆文化の威力がわかれば、もう少し踏み込んだ議論になっただろう。江戸時代から鍛えられてきたこの脱知性化の文化はハッチントンが単一の文明と勘違いできるほどに強力だ。
 それが韓国の大衆意識を席巻するのはわかりきったことだ。だから、朝日新聞がいうような経済の問題ではない。まどろこしい言い方だが、日本文化が韓国の文化をつぶすという関係ではない。日本の大衆文化は日本の国家性を越えている。むしろ韓国アニメや韓国の大衆音楽はアジアでの興隆という点で日本を抜いている。エネルギーが再注入されたかのようだ。そして、それが韓国の大衆文化だと思いこむ人もいる。もちろん、そう思って悪いわけではない。
 で、何が問題? いや、問題などない。偽悪的に言えば、日本文化のレプリカがアジア諸国で興隆し、それぞれが自身をオリジナルだと主張してなにが悪いだろう。「プッカとガル」(参照)で素直に笑っていてもいい。欧米の大衆文化すら同様に日本の大衆文化は圧倒してきたのだ。アッパレ日本と言っていいくらいだ。村上隆を超えるアーティストも韓国から出るかもしれない。
 だが、小声で空虚に向かってつぶやこう、本当は違うぞ、と。日本の大衆文化はある種の病理を含んでいる。村上隆のアートはその危機の緊張を含んでいる。深い知性ならそれを忌避して当然のなにかだ。

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2003.09.14

コーラン(クルアーン)の背景を考える

 今週のニューズウィーク日本語版「神の啓示につけた疑問符」関連を書く。
 ニューズウィークは所詮米国系の雑誌なのであおりは「殉教者に与えられるのは『美女』ではなく『ブドウ』、コーランの誤りを大胆に指摘した新著が呼ぶ波紋」ということになる。著書は"Die Syro- Aramaeische Lesart des Koran. Ein Beitrag zur Entschluesselung der Koransprache(Christoph Luxenberg)"である。記事のオリジナルタイトルはこうだ。


"Challenging the Qur'an: A German scholar contends that the Islamic text has been mistranscribed and promises raisins, not virgins"

 というわけで、「コーランの誤り」というのは日本語版ニューズウィークの物騒なタイトルは悪意ある誤訳なのか、編集者の見識が低いのか。もともと英文のほうは、7月28日の掲載だったので、日本版ではもう掲載されないのかと思っていたが、今頃出てきた。なぜだろう。ただのボケ?
 話は、現在のコーラン(クルアーン)は、マホメット(ムハンマド)死後150年後に編纂されたもので、元になった資料はアラム語で書かれていたとするドイツ人学者クリストフ・ルクセンブルグ(Christoph Luxenberg)が5月にドイツで出した新著を、「だからぁコーランは誤訳だよ」というトリビアの泉的なおちゃらけにしている。とはいえ、コーランの起源がキリスト教であるという指摘は見落としていないので、ま、よく書けた記事だろう。
 この話題、日本人にはどう受け止められているだろうか? 「52へぇ~」くらいだろうか。日本人の他宗教への意識を考えればその程度だろう。反面、日本は反欧米意識からイスラムに荷担する知識人が多いから、この手の話題は無視を決め込むだろうか。そんなあたりが日本人らしい奥ゆかしさかもしれない。
 多少キリスト教の見識のある人なら、イエス・キリスト(ナザレのイエス)が話していた言葉がアラム語であることを知っているはずだ。というあたりで、中近東の文化だなぁっていうくらいの感慨は持つかもしれない。だが、少し推論してもわかるはずだが、新約聖書やギリシア語で書かれている。だが、このギリシア語はコイネー・グリークと呼ばれるギリシア語なのでプラトンなどの古典ギリシア語とは多少(あるいはかなり)違う。ヘレニズム側ではパウロ(タルソのサウロ)の拠点だったアナトリア側はコイネー・グリーク圏なのだが、アラビア半島側はアラマイック(アラム語)圏だった。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 新約聖書の共観福音書には聖書学仮説で通称Qという原資料があるとされ、これはアラム語だろうということは定説になっている。そのわりに、Qを完全にアラマイックに復元する作業はなぜか聖書学的には中断されているようだが、それでもかなりの知見はヨアヒム・イェレミアスによって明らかにされているが、彼のアラム語研究に比して神学がけっこうポンコツなので今日あまり顧みられていない。という話をすると長くなりそうなので、急ごう。
 いずれにせよ、アラビア半島側ではその後もキリスト教は生き延びるわけで、そうした一旦は現在のエジプトのコプト教会(コプティック)5に残っている。現在のなぁなぁ的なエキュメニズム*6がキリスト教を覆った現在では、東方教会にも分類されない部分は事実上無視されているが、こうした性格を持つ初期教会の一つネストウリウス派はアラム語をベースにペルシア側に拠点を置き、チンギス・ハーン時代にはユーラシア全域を覆っているのだから、歴史学的にはアラム語ベースのキリスト教はかなり大きな意味を持つ。ちなみに、チンギス・ハーン本人もキリスト教徒であると強弁してもそれほどトンデモ説にはならない。彼の主君オン・ハーンは明白にキリスト教徒だったし、チンギスの「天」意識はこのタイプのキリスト教と同系かもしれない。ちなみに、フビライ・ハーンの母ソルカクタニ・ベギはオン・ハーンの姪でキリスト教徒である。
 ムハンマドも非ヨーロッパ・キリスト教でかつ非ユダヤ教的なアラム語圏のキリスト教の流れに位置していたのだろう。非イスラム教徒は「アラーの神」という言い方をするが、これは誤解に近く、単にアラマイックの神呼称だ。ナザレのイエスの神も「アラー」でもあったわけだ。
 さて、興味の尽きない話題だが、こうした歴史の議論はイスラム教徒には受け入れられないことだろう。
 宗教の問題は難しいものだ。争いのネタになる。日本人は、「各宗教がそれぞれを尊重し合って仲良くするのがよい」という他の宗教者が受け入れられない聖徳太子憲法的な絶対的な宗教観をのんきに普遍だと思っている。日本人は1991年、『悪魔の詩』の邦訳者筑波大学五十嵐一助教授が大学構内で惨殺されたことの意味も考えないし、もう済んだことになっている。というふうに日本人の宗教観に毒づいても「しかたがない」と思う私もただの日本人でしかない。

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2003.08.15

終戦記念日の誤解

 ほぼ日刊イトイ新聞で8月15日。この日ついてとんちんかんなことを言って笑えた。


でも、いま生きている人にとって、いちばん大きな意味を持つ1日というのは、8月15日なんじゃないのかなぁ、と、ぼくは思います。国の憲法に、「戦争を放棄」したことをはっきり記している国は、日本しかないはずです。(もしかすると、法に詳しい方が、解釈によっては他の国の例もある、というようなことを教えてくれるかもしれませんが。ぼくは知らないので)戦争をしないと決めたことが、ぼくら日本人の考え方のみなもとに、大きく関わっています。

 国際紛争を解決する手段としての戦争放棄している国は日本以外に、イタリア、ハンガリー、アゼルバイジャン、エクアドルがある。勉強しろよ、井の中のイトイ、っていう感じだが、 実は国際的な戦争放棄に関心がなくて、関心があるのは日本だけっていうことなんだろう。ま、そんなくさしはどうでもいいのだが、いまだに8月15日が終戦記念日になっていると信じているというのは、恥ずかしことだと思う。
 沖縄の組織的な戦闘が終結したのは6月23日ということになっているが、沖縄を含めた日本の最終的な講和は9月7日だ(参照)。日本の戦争が終わったというなら、この日こそ終戦記念日なのだが、そうなっていないところにいまだに沖縄は日本に復帰していないということなのか、戦争がいまも続いているということなのか。
 また、この日がアジアでどのように記念日とされているかも、諸国民の信頼を得るためにも知っておくべきだと思うのだがね。

[コメント]
# shibu 『え~と、すみません。8月15日は、降伏勧告ポツダム宣言を受諾したこちを国家元首がレコードでラジオを通して国民に知らせた日で、9月2日はそれに基づいて全権重光葵と梅津美治郎が降伏文書に調印した日。だから45年9月2日からサンフランシスコ講和条約発効の52年4月28日までが国家主権の無い占領期間であったと理解しております。』

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2003.08.14

平和教育の残酷さ

 読売新聞の社説「平和教育、理念と方法の見直しが必要だ」で現状の平和教育の問題点の一例として、「沖縄では、残虐な写真によって子供が人間不信に陥る恐れもある、とする平和教育の手引を県教委がまとめた。」とあり、共感した。
 沖縄と限らないが、平和教育として展示される写真の大半が猟奇的な印象を与える。はっきりいって、ある程度社会が理解できる高校生以上ならこうした展示も意味があるが、中学生以下の子供に見せるようなものではない。主催側としては真実を直視せよということなのだろうが、実際には心理的な恐怖を根付かせようとしているだけだ。恐怖によって人の心を支配しようとする目論見は独裁者のそれと同じだ。米国同時多発テロでも良識ある米国民はビル崩壊の映像をテレビで垂れ流すことに違和感を覚えていた。
 もう一点、時代というものなのか、「写真=事実」という前提があるように思われる。しかし、写真は事実ではない。編集可能な偽物だ。現代のように高度な画像処理ができる時代でなくても、コラージュで思い通りの写真ができた。仏新聞ルモンドもさすがに写真を掲載しているが、それでも写真というのが事実を捕らえる思考に害をもたらす危険性は知識人には理解されている。
 ヴァーチャルリアリティが現実感を奪うといった単純な議論が多いが、およそ擬似的に見えるものは事実ではない。なにより、平和というのは生活者の実感からうまれなくてはならないのだから、残虐な展示などは控えるべきだろう。

[コメント]
# shibu 『論旨明解!主張明確。仰る通り。戦場売春婦はカットされました。どこから見ても馬賊つらの「朝鮮義兵」もいなくなるでしょう。「恐怖によって人の心を支配しようとする目論見は独裁者のそれと同じだ。」ですぐ毎日見てるCCTVでの死体映像に被疑者取調べ自白シーンを思い浮かべました。一罰百戒もあるでしょうが、あれはまさにお説どんぴしゃの「現在の」実例でありましょう。』

2003.08.14 in 歴史 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック