見た目でお値段がつく世の中
参議院選挙の公示が始まり、街に貼られたポスターを眺めていたら、ふと引っかかる感覚があった。なにか商品広告を見ているような感じで、そして「この顔、なんかお値段ついてるな」と思った。候補者の白い歯、整ったスーツ、計算された笑顔。まるで「私、高いですよ、お得ですよ」と語る商品のようだ。コンビニの棚にならんだポテトチップスのキラキラしたパッケージを見たときと同じ、どこか作為的な「価値」の匂いがする。現代社会は、顔や容姿、雰囲気まで、なんでも「値段」で測るようになった。選挙ポスターも、個人の見た目も、商品の包装も、すべて「見た目でお値段」みたいだ。昔もそうだったか?
「お値段のついた顔」にモヤモヤ
ポスターの候補者たちの顔は、フォトショの性能あるかもしれないけど、歯並びはよくて、髪は整って、着ているものはピシッとしている。まるで「信頼」を買うための投資のメニューだ。歯の矯正には数百万円、プロのカメラマンによる撮影にも何十万円と金がかかる。ポテトチップスの「プレミアム」な袋と同じで、見た目に金をかければ「価値」が上がるし、まあ、ポテトチップと同じで、見た目に金がかけてないと中身もたいていチープだ。が、こう思う「この笑顔、俺に買えるかな」と。まるで「あなたみたいな貧乏には私は、高すぎるよ」と突き放されているような、微妙な疎外感がある。
SNSの時代、誰もがこのゲームに巻き込まれるのかもしれない。インスタで完璧な肌やスタイルを見せつけられ、選挙ポスターでは「成功者」の顔が並ぶ。個人だって、歯のホワイトニングやブランド服で「価値」を上げようと必死になる。だが、ほとんどの人はそんな「高級パッケージ」にはなれない。「ジェネリック品」として、量産型の自分にモヤモヤする。ユニクロを季節ごとに着こなすくらいだ。
資本主義では見た目を借金で買う
この「見た目でお値段」の感覚は、当然資本主義の仕組みと深く結びついている。いや、資本主義は「お金がすべて」じゃない。むしろ「借金できる能力」が本質だ。資本というのは投資のことだ。つまり、借金できる能力のことだ。選挙ポスターの候補者が歯並びやスーツに金をかけるのは、「信用」を買う投資としての資本主義だろう。ポテチのキラキラしたパッケージも、「国産」とか「有機栽培」とか「手作り風」とか、言葉やデザインで信頼を「借りる」ための投資だ。個人も同じ。ブランド服やエステに金をかけて、「成功者に見える」ことで社会的な信用を得ようとする。
この「借金で見た目を買う」ゲームは、あまり人類には向いてない気がする。なんだか疲れる。候補者のポスターを見ても、「この人、どれだけ投資が必要?」という目で見てしまう。ポテチの袋も、派手なデザインに目を奪われつつ、「中身、お値段通り」と確認する。あまりはずれない。反面、資本主義は、こうした見た目に投資しない者はジェネリック品か中古品か。「借金して高級パッケージになれるか」というようなプレッシャーはきつい。誰もが「プレミアム」を目指して走り続けることは無理。
昔の「ジェネリック品」は愛されたのに
自分、年取ってノスタルジーはやだなと思いつつ、30年前のドラマを見る機会が増えた。懐かしというより、今見ると感慨深いんだよ。そして、当時の大女優さんの歯並びは今ほど完璧じゃない。衣装もまあ、当然古臭い。普段着ならどこか「普通の人」感が出せる。当時のポテトチップスの袋だって写真加工みたいのはなかった。世の中全体が貧乏臭かったからか、お値段がよくわからなかった。ポテチなんてじゃがいもを揚げただけだしな。選挙ポスターも、昔はもっと人間味があったのか。まあ、大半は、ぐへーキンモという感じだった気がする。プロの加工がない、ちょっと不完全な写真。それが逆に政治家だものなあと思わせた。
「見た目が9割」とわかっていても、こんな世の中にだんだんついていけなくなる。選挙ポスターを見ても、候補者の政策や誠実さより、「お値段」を判断してしまう自分にモヤモヤする。
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