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2025.07.10

参議院選挙と外国人労働者問題

 日本は深刻な労働力不足に直面し、外国人労働者の導入が不可欠である。厚生労働省のデータによると、2023年時点で外国人労働者数は約200万人を超え、12年連続で過去最多を更新している。特に介護、農業、建設業では外国人労働者なしでは立ち行かない状況だ。しかし、2025年の参議院選挙を控え、この問題に対する政治と社会の対応は不十分であり、潜在的な危機が潜んでいる。ここでは、政党の立場と支持率データ(NHK調査)を基に、日本人の意識、政治の姿勢、世代間の分断、そして選挙に向けた課題を分析してみたい。

外国人労働者の必要性と潜在的危機

 日本の少子高齢化と人口減少は、労働力不足を深刻化させている。共産党は「外国人労働者なしに機能しない地方産業分野がいくつもある」と指摘し、公明党は「少子高齢化の中で外国人材は一層重要」と強調する。自民党も特定技能制度を通じて労働力不足に対応する姿勢だ。介護業界では労働者の約40%が外国人、農業や建設でも依存度は高い(厚生労働省2023年推計)。参議院選挙では、この経済的依存をどう管理し、持続可能な労働市場を構築するかが争点となるべきだが、あまり明瞭な論点としてはあげられていないように見える。

 もちろんと言えることだが、拙速な受け入れは危機を招く。参政党は「社会の不安定化、国民負担の増大、賃金の押し下げ」を懸念し、れいわ新選組は「移民政策が労働者の賃金を下押しする」と反対する。これらは言葉だけ取り上げればうなずける面がある。若年層(18-29歳、30代)の非正規雇用率は約30%(総務省2023年)で、雇用競争の激化が現実的な脅威である。社会的には、保守党や参政党が挙げる治安悪化や文化摩擦のリスクも懸念されるが、実体は外国人労働者の犯罪率は日本人と同等以下(警察庁2023年)である。他方、技能実習制度の搾取問題や、OECD諸国に比べ遅れた統合政策(語学教育、差別防止)は、参議院選挙で制度改革の議論を迫られる。

高齢層の現状維持志向

 NHKの支持率調査では、自民党(現状維持)が70代で38.7%、80歳以上で43.5%と高齢層の圧倒的な支持を得ている。自民は外国人労働者の問題について「受け入れと管理の両立」を掲げ、不法滞在対策を重視するが、多文化共生や差別防止法の議論は進まない。高齢層は介護や地方産業の労働力不足を身近に感じ、現状維持を現実的と見なす。しかし、賃金低下や文化摩擦など将来の危機への準備は不十分である。参議院選挙では、高齢層の安定志向に応えつつ、長期ビジョン(例:永住権基準、統合策)を提示できるかが問われるべきだろう。

 この問題における現状維持志向は、問題の先送りとも言えるし、また問題の事実上の隠蔽化とも言える。各政党の主張においても、受け入れ人数や予算規模の具体性は乏しく、若年層の雇用不安への対応も弱い。日本の政治意識のマジョリティを占める高齢層の「特になし」(70代20.4%)は他の世代より低いものの、全体で30.1%と世論の関心不足が顕著である。参議院選挙で、自民は高齢層の支持を維持しつつ、若年層の懸念や社会的準備をどう取り込むかが課題であるべきだったが、現状の崩壊しつつある自民党では無理だった。あるいはこの問題でも前回の年金「改革」のように実際に高齢者への負担増となる改革を隠蔽化するもくろみがあるかもしれない。

回答拒否と若年層の極端な反応

 国民民主党と再生は、外国人労働者の受け入れに「回答しない」を選択する。国民民主党は「共生と日本語教育支援」を条件に挙げ、再生は「秩序ある受け入れ」を主張するが、予算や実施計画は不明である。たぶん、存在しないのだろう。国民民主党は30代で18.9%の支持を得ており、若年層の「特になし」(30代38.7%)層を取り込む戦略が成功している。しかし、この曖昧さは政治的リスクを避けるポピュリズム的手法であり、参議院選挙では具体的な政策提案が求められる。こうした無責任な政党は別の意味で潜在的なリスクを孕んでいる。

 一方、若年層は参政党(反対、30代9.9%)やれいわ(反対、30代6.3%)を支持する。参政党は「国益損失、治安悪化」を、れいわは「賃金下押し」を理由に受け入れを否定。両者は右派(国家主義)と左派(反格差)の両極だが、若年層の非正規雇用や賃金停滞への不安に訴求する。しかし、完全な受け入れ停止は労働力不足を無視し、産業停滞を招く非現実的な提案だ。参議院選挙では、これらの極端な主張が若年層の感情的反応を代弁する一方、建設的な解決策(例:国内労働力活用、賃金上昇策)の不在が問題となる。この状態は若者世代の理想的なしかし空想的な正義を求めるあまりのある種のニヒリズムのゴミ箱のように機能しているのだろう。

参議院選挙での向き合い方

 参議院選挙を控え、外国人労働者問題への真剣な構想への取り組みが急務であるべきだった。そのためには各党から情報公開を強化することが求められた。外国人労働者の経済貢献(GDP寄与率2-3%)や犯罪率(日本人と同等以下)のデータを公開し、世論の無関心(「特になし」30.1%)を減らすべきだった。しかし、現状はこれに逆行している。第二に、具体的な政策を提示する必要があった。カナダのポイント制移民制度やドイツの統合コースを参考に、予算付きの日本語教育(例:年1000億円)や差別防止法を提案するのも良かっただろう。第三に、若年層の具体的な不安解消だ。正規雇用促進(例:企業への税優遇)や最低賃金引き上げ(2025年目標1500円未達)を具体的に加速できる政策が提示されるなら、参政党・れいわといった極端な訴求を抑えることができたはずだ。第四に、世代間(高齢層:寛容、若年層:慎重)や価値観(経済 vs. 文化)の分断を埋める公開討論を開催すべきなのだが、現実的には、もはや、それが不可能になりつつある。このことは、ユーチューブやSNSでの彼らの言動から読み取れるものである。つまりは、それが問題とも言える。日本人は本質的な政治的危機に直面したとき、理想論をおいて現実をベースに検討することを言論的に回避するか、言論とは空想的な理想論を語ることになっている。



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2025.07.09

参院選2025 年代別支持率から読み解く選挙後の政治地図

若年層の政治離れが示す構造変化

 2025年7月20日投開票の参議院選挙を前に、NHKが7月7日付けで発表した年代別政党支持率が興味深い傾向を示している。最も顕著なのは若年層の政治離れである。18-29歳の「特になし」が40.4%に達し、自民党支持率はわずか10.5%と全体平均の28.1%を大幅に下回る。30代でも自民党支持率は11.7%にとどまり、若年層の既存政党への不信が鮮明になっている。

 一方、60代以上では自民党支持率が26.5%→38.7%→43.5%と年齢とともに上昇し、「特になし」も32.0%→20.4%→18.2%と減少する。この年代格差は、価値観の世代間断絶と政治参加のあり方の違いを反映している。ただし、若年層の投票率の低さを考慮すると、実際の選挙結果への影響は限定的かもしれない。しかし、若年層が実際に投票行動を起こした場合、既存の政治秩序に大きな変革をもたらす潜在力を秘めている。

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参政党躍進の背景と政治的インパクト

 今回の支持率調査で注目すべきは参政党の4.2%という数字である。これは維新の会(2.3%)や公明党(3.0%)を上回る水準で、特に30代男性では9.9%と突出している。40代でも6.7%、18-29歳でも8.8%と、30-40代の男性を中心とした強固な支持基盤を築いている。

 参政党は2019年結成の新興政党で、インターネットやSNSを活用した情報発信に力を入れている。30-40代男性の支持が高いのは、デジタルネイティブ世代でありながら社会的責任を担う年代として、既存政治への不満と新しい政治勢力への期待が結びついた結果と考えられる。

 現在は参議院で1議席しか持たない参政党だが、4.2%の支持率は比例代表での議席拡大の可能性を強く示唆している。組織的な選挙活動が功を奏せば、3-5議席の獲得も視野に入り、参議院の勢力図に少なからぬ影響を与えるだろう。

与党過半数割れの現実味

 現在の参議院では自民党114議席、公明党27議席で与党計141議席と過半数(125議席)を16議席上回っている。しかし、今回の参院選では2019年当選の124議席が改選対象となり、与党にとって厳しい選挙戦が予想される。

 支持率データを基に予測すると、自民党は高齢者層の強固な支持により一定の議席は確保するものの、若年層の支持離れと「特になし」層の多さが議席減要因となる。95-105議席程度に減少し、公明党と合わせても119-133議席で過半数割れの可能性が高い。

 過半数割れが現実となれば、参議院での法案審議が困難になり、政権運営に深刻な影響を与える。特に重要法案の成立には野党の協力が不可欠となり、政治の不安定化が懸念される。与党は国民民主党や日本維新の会との連携を模索する必要に迫られるだろう。

選挙後の政治地図と今後の展望

 参院選後の勢力図は、従来の二大政党的な構造から多党化への転換点となる可能性が高い。立憲民主党は35-45議席程度で現状維持、日本維新の会は20-25議席で微増、参政党は3-5議席で大幅増という予測である。

 特に注目すべきは参政党の躍進である。若年層を中心とした支持拡大は、既存の政治秩序に新たな変数を加える。また、国民民主党の30代での突出した支持(18.9%)も、世代交代の流れを示している。

 こうした政治の多様化は有権者の選択肢を広げる一方で、政権の安定性には課題を残す。与党過半数割れの状況下では、政策決定プロセスが複雑化し、迅速な意思決定が困難になる恐れがある。

 今回の参院選は、日本政治の世代交代と価値観の多様化を反映した結果となるだろう。若年層の政治参加のあり方と新興政党の動向が、今後の政治地図を大きく左右する重要な分岐点となる。



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2025.07.08

セール品を避ける生活が実はお得では?

 セールでの大幅な割引は消費者を引きつけるが、「セール品を買わない」という方針を10年間貫いた場合、経済的・心理的な損得はどうなるのだろうか。そこで、AIの時代。AIを活用して簡易な数理モデルを構築し、シミュレーションを通じてこの問いに答えてみた。金銭的支出に加え、満足度や後悔といった非金銭的要素を定量化し、セール派と非セール派を比較したのである。結果、セール品を避ける選択は初期の出費増を伴うが、長期的な総合的価値では優位となる可能性が示された。以下、AIシミュレーションの概要とその示唆を解説してみよう。

セール品の節約効果と隠れた代償

 セール品は通常、定価より10~30%安価に購入できる。AIを用いたモデルでは、年間消費額20万円、平均割引率20%を仮定し、10年間の総支出を計算した。セール派の支出は208万円(20万円×0.8×10年)、非セール派(定価購入)は210万円となり、表面上はセール派が2万円得する。しかし、セールには落とし穴がある。消費者行動研究によれば、セール品の約30%が「不要な購入」となり、衝動買いを誘発する。モデルでは、セール派の「無駄買い率」を30%と設定し、購入総額の3割が無駄になるシナリオを想定した。さらに、セール品は品質が劣る傾向があり、たとえば衣類の耐久年数が3年と短い。AIシミュレーションでは、この買い替え頻度の増加が節約効果を相殺し、隠れたコストとなることを確認した。これに対し、非セール派は無駄買いが少なく(無駄率5%)、経済的損失を抑えられる。

定価購入がもたらす経済的・品質的利点

 セール品を避け、定価で購入する方針は初期の支出増を伴うが、購買行動に質的な変化をもたらす。AIモデルでは、非セール派の10年総支出を210万円と計算したが、慎重な購買により無駄買いが抑制される(無駄率5%)。さらに、定価購入者は「本当に必要か」「長く使えるか」を重視し、高品質な商品を選ぶ傾向が強い。たとえば、セール品の衣類が3年で買い替えが必要なのに対し、定価の高品質な衣類は6年持つと仮定した。AIシミュレーションでは、この耐久年数の差が買い替え頻度を半減させ、長期的な支出を抑える可能性を示した。仮に、品質向上により年間消費が実質15万円に減少した場合、10年で150万円となり、セール派の208万円を大幅に下回る。AIは複数のシナリオ(耐久年数4~8年、割引率10~30%)を試算し、非セール派の経済的損失が限定的であることを裏付けた。

満足度と後悔を数値化した総合評価

 満足度と後悔を数値化したモデルはどうだろうか。心理的要素を数値化し、金銭的支出と統合した点にある。満足度(0~100点)と後悔(0~100点)を設定し、差分(満足度-後悔)を金銭価値(1点=0.5万円)に換算してみた。セール派は、安さによる喜びで満足度60点、衝動買いや品質への不満で後悔40点(差20点、効用10万円)とした。非セール派は、納得感の高い購入で満足度85点、無駄買いの少なさで後悔15点(差70点、効用35万円)である。さて、AIが計算した総合効用(-支出+効用)は、セール派が-198万円(-208+10)、非セール派が-175万円(-210+35)となり、非セール派が23万円分優位となった。さらに、AIは感度分析を実施し、満足度や後悔のスコアを±10点変動させても、非セール派の優位性が維持されるケースが多いことを確認した。この結果は、納得感の高い購入が後悔を減らし、精神的な「得」を生むことを示唆している。

購買行動の再考とAIシミュレーションの示唆

 購買行動の再考とAIシミュレーションをしてみた。簡易ながらセール品購入の経済的利点と心理的コストを定量化し、非セール派の長期的な優位性を、それなりにではあるが、明らかにしたのである。シミュレーションでは、割引率、無駄買い率、耐久年数、満足度・後悔のスコアを調整し、さまざまな消費者像を想定。たとえば、セール品の品質が定価品と同等(耐久年数6年)の場合、セール派の支出は160万円まで低下するが、無駄買い率30%により依然として非効率となる。一方、非セール派は高品質品の選択により、支出と満足感のバランスが優れている。モデルは個人差を考慮する必要があるが、満足度や後悔のスコアを自身で調整することで、個々に最適な結論を導ける。
 どうやら、セール品を避ける方針は、無駄な消費を抑え、品質と満足感を重視する者に適しているようだ。さて、こうしたモデルは必ずしも個々人の現実には当てはまらない。とはいえ、1年間「セール品を控える」実験を行い、支出や満足感の変化を記録してみるとよいかもしれない。AIを用いたシミュレーションは、こうした試行を数値的に裏付け、賢い消費スタイルの構築を支援する。自身の購買習慣を見直し、経済性と心の充実を両立させる契機となるだろう。



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2025.07.07

【『新しい「古典」を読む 1』販売のお知らせ】

 ペンネーム finalvent(ファイナルベント)で以前、オンラインマガジン Cakes (ケイクス)に連載していた評論集を書籍化・販売する運びとなりました。

finalvent (著)『新しい「古典」を読む 1』 Kindle版
2025年7月15日の販売が決定しました。
https://amazon.co.jp/dp/B0FFTNZCFN?ref_=pe_93986420_775043100

Kindle版の購入は1200円ですが、Kindle Unlimitedの対応になっているので、このサービス利用のかたであれば、その対象として無料で読むことができます。

オンデマンド対応(2000円予定)にもなっています。最近のオンデマンドの製本はとてもきれいな仕上がりなので、書籍でというかたはご検討ください。
今回が第1巻でこれから、第4巻まで続きます。販売決定は追ってお知らせします。


 もう10年も前になってしまい時の経つのは早いものだなと思います。『考える生き方』という本を55歳のおりに出版し、「なに自伝みたいな本出しているんだよ、Cake(ケイクス)に連載している評論の方を出してくれ」、と言われたことがありました。まあ、自分としては、『考える生き方』は自伝というつもりもなく、凡庸な人間が凡庸な人生を送るということはどういうことかを考えてみたいという本ですが、こちらの、Cakes連載の評論集のようなものですが、今回の書籍にあたり序文にも書いたのですが、凡庸な人間が文学や思想に取り憑かれて自分を吐露したくてたまらないという凡庸な欲望のテキストです。いやなにも卑下しているわけでも、ひねくれたこと言っているわけでもないのです。率直に言って、文学や思想、さらには読書、音楽鑑賞、そうしたものに取り憑かれている自分という奇妙な存在を描きたかったというのはあります。この二流の欲望をあますことなくぶちまけるというのがこのシリーズです。
 とはいえ、そんなもの最初から露骨に示されても、どんびき、といったものでしょう。そんなこともあって、連載初期のこのVol.1では、『100分de名著』的な読書案内的な色気もあり、まあ、これはVol.4になってもあるので、我ながら、売文屋をやっていた情けない部分が出ていますが、そういう面も否定しません。つまり、この評論は、それ自体がエンタメであるようにも企図していました。
 この本、いつかは書籍化したい。一度はオンラインマガジンに掲載したくらいだから、それほどズタボロではないだろうと思っていましたが、そんなことはありませんね。バンディット・マガジンの坂田さんからのオファーがあってまとめだすと、なかなか大変な作業でした(坂田さん、ありがとうございました)。
 先の釣り文にも書いたのですが、Kindle Unlimitedに入るようなので、このサービスを使っていらっしゃるかたには、その前提で無料で読めます。お気軽にお読みいただけたらと願っています。
 といいつつ、このオンデマンド製本がなかなかによいです。さすがにオンデマンド出版が進化したなあと思うほどです。Kindleだから電子書籍というより、オンデマンド出版の流れのなかに、電子書籍もあるという位置づけで考えたいです。なんというか、槇島の言葉が浮かびますね。


槙島「紙の本を買いなよ。電子書籍は味気ない」
チェ「そういうもんですかねぇ?」
槙島「本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚
を調整するためのツールでもある」
チェ「調整?」
槙島「調子の悪い時に、本の内容が頭に入ってこないことがある。そういう時は、何が読書の邪魔をしているのか考える。調子が悪い時でも、スラスラと内容が入ってくる本もある。何故そうなのか考える。精神的な調律。チューニングみたいなものかな。調律する際大事なのは、紙に指で触れている感覚や、本をペラペラめくった時、瞬間的に脳の神経を刺激するものだ」

 

 

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伊東市長の学歴問題から考えること

 伊東市の田久保眞紀市長の学歴詐称問題が報じられ、世間を騒がせている。この話題について、「なぜこれほどまでに騒がれるのか」という疑問を感じている者も少なくないのではないか。社会通念上、学歴詐称は問題とされるだろうが、この件について、私なりの考えを述べたい。

「除籍」と「中退」の違い、そして社会の評価

 この問題でまず想起されるのは、作家の五木寛之氏の例である。彼は早稲田大学を学費滞納から「除籍」となっていたそうだが、後に大学からの連絡もあり、後年なっても学費を納めることで「中退」扱いになった、というエピソードをエッセイで語っていた。「除籍」と「中退」は似ている面と異なる点がある。いずれにせよ、「除籍」は在籍記録が抹消されるため、学歴としては認められにくい傾向にはあるだろう。今回の田久保市長のケースも、東洋大学を「除籍」であったにもかかわらず、「卒業」と偽っていたことが問題視されている。公職選挙法上の瑕疵はないとのことだが、公的な立場にある人が社会的に学歴を偽ることは決して許されることではないが、「除籍」と記すことにはためらいものあったのだろう。

学歴以上に価値を持つ「30年以上の社会的実績」

 とはいえ、田久保市長は現在55歳で、すでに市長という要職に就いている。それなりに市民の評価もあった。それはどのようなのかについて、報道にはないが、Wikipediaによると、配達員やカフェ経営を経て市民活動家になったとあり、これが正しければ、彼女には30年以上の社会経験と実績があるということだ。学歴ももちろん重要だが、これだけの長きにわたる社会経験と、その中で培われた実績こそもまた、市長という立場においてより重要なのではないだろうか。
 一般論としても、高校卒業後、特定の大学に在籍したものの卒業に至らなかった場合、その経歴をどのように表記するかは確かに難しい点かもしれない。「東洋大学除籍」と正直に書くか、あるいは「高校卒業」を最終学歴とするか。このあたりの線引きは、個人の倫理観や社会の風潮によっても受け止め方が変わるデリケートな問題である。また、「除籍」と「中退」でも異なるものだろう。

「中退」は「失敗」ではなく新たな可能性への扉

 私自身の経験からも、「中退」に対する世間の認識と、個人の受け止め方にはギャップがあると感じている。私自身、若い頃に大学院を中退した経験がある。当時は「失敗して終わった」という感覚が強く、行き詰まってカウンセリングを受けたこともあった。その時カウンセラーから言われたのは、「中退はちゃんとした学歴ですよ。そのための手続きはしなさい」という助言であった。この助言のおかげで、私はきちんと「中退」という形で学歴を残すことができた。その後、私の人生は、大学院とは直接関係なく進んだが、62歳になって再び大学院で学び、修士号を取得することができた。この経験を通じて、「中退」は決して「失敗」ではなく、文字通り「途中で辞める」というだけのことであり、いつでも学び直し、新たな道を切り拓くことができる可能性を秘めているのだと考えるようになった。
 思い出すのだが、女優の秋吉久美子さんの例も示唆に富んでいる。彼女は女優時代は高校卒業が最終学歴であったが、個別の入学資格審査を経て早稲田大学大学院に入学し、見事に修士号を取得されている。これは特例かもしれないが、高卒であっても、学び続ける意欲があれば、大学院教育の道も開かれていることを示している。

学問へのコンプレックスがもたらしたもの

 自分の思い出話に戻すと、若い頃に大学院を中退した私は、学問やアカデミズムに対し、ある種のコンプレックスを抱えるようになった。つまり悩んでいた。しかし、そのコンプレックスが逆に、「常に学び続けなければ」というモチベーションにも繋がり、結果として社会に出てからも最新の知識を追い求める原動力となったともいえるだろう。アカデミックな学問の世界は奥深く、探求すればするほど、人類の知識の最先端に立つような、広大な地平が開ける瞬間があるものだ。それは、生きている間にその境地に辿り着けるのかという絶望と、それでもなお進み続けたいという希望が混じり合った、不思議な感覚である。つまるところ、学問をするということの意味はそこにあるのかもしれない。
 今回の伊東市長の学歴問題に戻れば、学歴の「真偽」だけでなく、社会における学歴の価値や、個人の努力と実績をどう評価すべきかについて、私たちに問いかけているように思う。田久保市長も、もし再び大学で学びたいという意欲があるならば、市長業の傍ら大学生をやり直すことだって可能である。そうした姿勢を掲げる地方政治家がいたら、私は心から応援したいと願う。



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2025.07.05

トランプは「狂人理論」を採用しているか

 ドナルド・トランプ米大統領の外交手法が、BBCをはじめとする国際メディアで「狂人理論(Madman Theory)」として注目を集めているようだ(参照)。確かに、頷けるものがある、というか、日本への関税の対応を見ていると、頷く以外はできそうにない。最近では、2025年6月、トランプはイランへの攻撃を巡り、「するかもしれない、しないかもしれない」と曖昧な発言を繰り返した後、突如として核施設への爆撃を実行した。この行動は、単なる衝動や気まぐれではなく、意図的な予測不可能性を武器にした戦略として解釈されているが、ようするに「狂人理論」に見える。他にも、カナダを「米国の51番目の州」と揶揄し、デンマークの自治領グリーンランドの併合を検討すると発言した事例や、NATOの集団防衛条項(第5条)への米国のコミットメントに疑問を投げかけた姿勢も「狂人理論」に見えて不思議ではない。これらの行動は、従来の外交の枠組みを突き破るもので、国際社会に不安と期待の両方を生み出している。ウクライナ問題に関しても、米国防長官ピート・ヘグセスが、ウクライナがロシアに占領された領土の奪還やNATO加盟は「非現実的」と発言して欧州に衝撃を与え、翌日、彼は「すべての選択肢はトランプの手中にある」と修正しものの、トランプ自身は「大体知っていた」と曖昧に答え、意図的な混乱を演出した。このような意図的にも見える一貫性の欠如が、トランプの「狂人理論」を象徴している。背景には、トランプの政策決定がニクソン時代以来最も中央集権的で、彼の性格や気質に強く依存している面もある。トランプの行動は単なる国内向けのパフォーマンスを超え、国際秩序や同盟関係に深刻な影響を及ぼしている。

「狂人理論」とは

 「狂人理論」とは、指導者が自身を予測不可能で、場合によっては非合理的な行動を取る危険な人物として演出することで、相手に譲歩を強いる外交戦略である。1968年、リチャード・ニクソン大統領がベトナム戦争中に北ベトナムに対し「ニクソンは何をするか分からない」と印象づけるよう指示したことに起源を持つ。トランプはこの理論を現代的に応用し、予測不可能性を外交の中心に据えているように見られる。2025年4月、トランプがメキシコやカナダへの関税をちらつかせた後、市場の動揺を受けて一時的に免除した事例は、典型的な「狂人理論」のありがちな展開だ。関税の混乱演出は貿易交渉の前触れとして機能し、両国から譲歩を引き出したが、完全な実施は見送られた。ゲーム理論の観点から見ると、これは「チキンゲーム」に近い。トランプは「衝突(関税戦争)」を辞さない姿勢を見せることで、相手に譲歩(貿易条件の改善)を強いる。この戦略はNATO加盟国にも効果を発揮し、英国が防衛費をGDPの2.3%から5%に引き上げるなど、劇的な政策変更を促した。しかし、戦略としてのデメリットもある。敵対国に対しては効果が限定的であることだ。ロシアのプーチン大統領はトランプの脅しに動じず、ウクライナ戦争の終結を拒否した。また、イランへの核施設攻撃は、核開発を加速させる逆効果を招く可能性がある。ゲーム理論の想起からだが、「繰り返しゲーム」の枠組みでは、相手がトランプの行動パターンを学習し、予測不可能性の効果が薄れる。イランやロシアは、トランプの「ブラフ」を見抜き、すでに長期的な戦略を優先している。さらに、予測不可能性は米国の交渉信頼性を損ない、同盟国が米国を信頼できないパートナーと見なすことになる。つまり、ゲーム理論の「信頼ゲーム」では、信頼の喪失は長期的な協力関係を崩壊させ、トランプの戦略が裏目に出る可能性がある。

トランプが「狂人理論」を実践する理由

 トランプが「狂人理論」を実践する背景には、彼のビジネス経験、政治的動機、そして地政学的危機感が絡み合っているのだろう。不動産業界での交渉では、相手を揺さぶる大胆な発言や予測不可能な行動が有利な条件を引き出す手法として有効だった。トランプはこの経験を国際舞台に持ち込み、米国の影響力を最大化しようとしていると分析する。興味深い挿話として、2017年の米韓自由貿易協定(KORUS FTA)再交渉でのエピソードがある。トランプは交渉官に「この男はいつでも協定から離脱するかもしれない」と韓国側に伝えるよう指示し、結果的に有利な条件を引き出した。このビジネス流の「揺さぶり」が、現在の外交戦略の基盤となっている。政治的動機も大きい。「MAGA(Make America Great Again)」陣営は、米国の国際的負担を減らし、中国を主要な脅威とみなす孤立主義を支持する。2025年2月のガザに関する提案では、トランプが「ガザを米国が占領し、パレスチナ人を移住させて中東のリビエラを建設する」と発言し、世界を驚かせた。この提案は、CNNの報道によると、トランプ自身がガザの破壊映像を見て思いついたもので、意図的な「狂人」演出だったわけである。ただ、そうでもない側面が見えないでもない。2025年6月のイラン攻撃は、イスラエルのネタニヤフ首相の圧力に応じた側面もあり、トランプが「ノーベル平和賞を狙うディールメーカー」と「強硬派の指導者」の間で揺れていることを示す。しかしこの二面性もまた、一周回ってトランプの「狂人理論」を複雑で予測不能なものにしている。
 ゲーム理論の「シグナリング理論」を適用すると、トランプは「強硬なタイプ」のシグナルを送り、相手を動揺させることで交渉の主導権を握ろうとしている。しかし、トランプも大統領期間の二期目に入ったが安易な見通しもないことから、単に断末魔的な理由も考えられるだろう。

狂人理論への対応策

 トランプの「狂人理論」に対処するには、戦略的な冷静さと長期的な視点が不可欠だ。同盟国は、トランプの圧力に応じつつ、過度な追従を避ける必要がある。ドイツのフリードリヒ・メルツ首相が主張する欧州の運用自立は、米国依存からの脱却を目指す戦略だ。欧州は、そもそも米国並みの兵器生産や人的資源を構築するには数年を要するが、この動きは不可避なものである。ゲーム理論の「協調ゲーム」の観点から、NATOやEUの枠組みを活用し、集団的な防衛力を強化することで、トランプの「チキンゲーム」に対抗できる。また類似の例として、2025年3月のNATOサミットでの出来事がある。NATO事務総長マーク・ルッテがトランプを「イランでの果断な行動」と称賛するメッセージを送ったが、トランプはこれをリークし、ルッテを嘲笑した。このエピソードは、トランプが称賛欲求を重視する一方で、同盟国をコントロールしようとする姿勢を示す。敵対しつつある国は、トランプの行動パターンを分析し、予測不可能性の「予測可能性」を利用することが有効だ。ロシアやイランは、トランプの脅しをブラフと見なし、長期的な戦略を維持している。なかでもイランは2025年6月の攻撃後、交渉を放棄し、核開発を加速させる可能性が高い。
 国際社会全体としては、トランプの短期的な勝利を認めつつ、信頼に基づく多国間協力を強化する必要があるだろう。米国の信頼性が低下すれば、国際協調が損なわれる。ゲーム理論の「信頼ゲーム」に例えるなら、同盟国は米国との協力関係を維持しつつ、トランプの「裏切り」への備えとして自立性を高める戦略が求められている。2025年4月の関税政策の混乱は、トランプが市場の動揺を受けて方針を変更した例であり、ゲーム理論の「ベイジアン更新」を用いれば、相手はトランプの「狂人」演技を見抜き、戦略を調整する可能性がある。さて、日本の赤澤特使はどう対応するか。すでに北斗神拳「無想転生」を習得して、無に帰したように見えないでもない。

 

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2025.07.04

見た目でお値段がつく世の中

 参議院選挙の公示が始まり、街に貼られたポスターを眺めていたら、ふと引っかかる感覚があった。なにか商品広告を見ているような感じで、そして「この顔、なんかお値段ついてるな」と思った。候補者の白い歯、整ったスーツ、計算された笑顔。まるで「私、高いですよ、お得ですよ」と語る商品のようだ。コンビニの棚にならんだポテトチップスのキラキラしたパッケージを見たときと同じ、どこか作為的な「価値」の匂いがする。現代社会は、顔や容姿、雰囲気まで、なんでも「値段」で測るようになった。選挙ポスターも、個人の見た目も、商品の包装も、すべて「見た目でお値段」みたいだ。昔もそうだったか?

「お値段のついた顔」にモヤモヤ

 ポスターの候補者たちの顔は、フォトショの性能あるかもしれないけど、歯並びはよくて、髪は整って、着ているものはピシッとしている。まるで「信頼」を買うための投資のメニューだ。歯の矯正には数百万円、プロのカメラマンによる撮影にも何十万円と金がかかる。ポテトチップスの「プレミアム」な袋と同じで、見た目に金をかければ「価値」が上がるし、まあ、ポテトチップと同じで、見た目に金がかけてないと中身もたいていチープだ。が、こう思う「この笑顔、俺に買えるかな」と。まるで「あなたみたいな貧乏には私は、高すぎるよ」と突き放されているような、微妙な疎外感がある。

 SNSの時代、誰もがこのゲームに巻き込まれるのかもしれない。インスタで完璧な肌やスタイルを見せつけられ、選挙ポスターでは「成功者」の顔が並ぶ。個人だって、歯のホワイトニングやブランド服で「価値」を上げようと必死になる。だが、ほとんどの人はそんな「高級パッケージ」にはなれない。「ジェネリック品」として、量産型の自分にモヤモヤする。ユニクロを季節ごとに着こなすくらいだ。

資本主義では見た目を借金で買う

 この「見た目でお値段」の感覚は、当然資本主義の仕組みと深く結びついている。いや、資本主義は「お金がすべて」じゃない。むしろ「借金できる能力」が本質だ。資本というのは投資のことだ。つまり、借金できる能力のことだ。選挙ポスターの候補者が歯並びやスーツに金をかけるのは、「信用」を買う投資としての資本主義だろう。ポテチのキラキラしたパッケージも、「国産」とか「有機栽培」とか「手作り風」とか、言葉やデザインで信頼を「借りる」ための投資だ。個人も同じ。ブランド服やエステに金をかけて、「成功者に見える」ことで社会的な信用を得ようとする。

 この「借金で見た目を買う」ゲームは、あまり人類には向いてない気がする。なんだか疲れる。候補者のポスターを見ても、「この人、どれだけ投資が必要?」という目で見てしまう。ポテチの袋も、派手なデザインに目を奪われつつ、「中身、お値段通り」と確認する。あまりはずれない。反面、資本主義は、こうした見た目に投資しない者はジェネリック品か中古品か。「借金して高級パッケージになれるか」というようなプレッシャーはきつい。誰もが「プレミアム」を目指して走り続けることは無理。

昔の「ジェネリック品」は愛されたのに

 自分、年取ってノスタルジーはやだなと思いつつ、30年前のドラマを見る機会が増えた。懐かしというより、今見ると感慨深いんだよ。そして、当時の大女優さんの歯並びは今ほど完璧じゃない。衣装もまあ、当然古臭い。普段着ならどこか「普通の人」感が出せる。当時のポテトチップスの袋だって写真加工みたいのはなかった。世の中全体が貧乏臭かったからか、お値段がよくわからなかった。ポテチなんてじゃがいもを揚げただけだしな。選挙ポスターも、昔はもっと人間味があったのか。まあ、大半は、ぐへーキンモという感じだった気がする。プロの加工がない、ちょっと不完全な写真。それが逆に政治家だものなあと思わせた。
 「見た目が9割」とわかっていても、こんな世の中にだんだんついていけなくなる。選挙ポスターを見ても、候補者の政策や誠実さより、「お値段」を判断してしまう自分にモヤモヤする。



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2025.07.03

「積極的無関心」は現代社会を生き抜くための戦略

 現代の資本主義社会は、個人の関心を巧みに搾取する仕組みに満ちている。SNS、広告、ニュースは、感情や時間を奪い、金銭やデータと引き換えに個人の注意力を食い物にする。こうした「注意力経済」の中で、有限なリソースである関心を守るためには、意識的かつ戦略的な姿勢が必要だ。それが「積極的無関心」である。単なる無視や冷淡さではなく、自分の価値観に基づき、不要な情報や感情の搾取に「関心を持たない」ことを積極的に選ぶ生き方だ。現代社会では、関心こそが個人の最も貴重なリソースであり、これを守ることで主体的な人生を築ける。本稿では、積極的無関心の実践として、4つの指針を提示する。

同情心の制限:倫理関心の搾取を防ぐ

 現代社会では、ガザ紛争やウクライナ侵攻のような深刻な問題が日々報じられ、個人の倫理関心を刺激する。SNSやメディアは、悲劇的な映像やストーリーを通じて同情心を揺さぶり、クリックやエンゲージメントを誘う。しかし、倫理関心も有限なリソースだ。すべての問題に反応すれば、感情は枯渇し、コンパッション・ファティーグ(同情疲れ)に陥る。たとえば、ガザ紛争が注目を集めると、ウクライナへの関心が薄れる現象がその証左だ。

 積極的無関心は、こうした倫理関心の搾取に対抗する。すべての悲劇に反応するのではなく、自分の影響範囲や価値観に基づいて関心を厳選するのだ。具体的には、ニュース通知をオフにし、悲劇的な投稿をミュートする。𝕏で流れてくる「緊急支援を!」という投稿に即反応せず、「これは私の関心を必要とするか?」と一呼吸置く。重要なのは、無関心を罪悪感ではなく主体的な選択と捉えることだ。これにより、感情の消耗を防ぎ、本当に大切な問題にエネルギーを注げる。

バッシングの非加担:不毛な対立から距離を取る

 𝕏をはじめとするSNSでは、個人や企業へのバッシングが日常的に繰り広げられる。正義感を刺激する炎上トピックは、関心を搾取する強力なツールだ。たとえば、著名人の失言や企業の不祥事がトレンドになると、群衆心理が働き、多くの人が「正義」の名の下に参加する。しかし、こうしたバッシングはしばしば不毛な対立に終わり、時間や感情を浪費するだけだ。

 積極的無関心は、バッシングへの非加担を推奨する。炎上投稿を見ても、即座に「いいね」やコメントをせず、3秒待って「これは私の時間に値するか?」と問う。構造的な問題(例:企業の不正)には関心を向けつつ、個人攻撃には無視を貫く。𝕏では炎上案件をスルーし、代わりに自分の興味や身近な問題にフォーカスする。この姿勢は、関心を無駄な論争に奪われず、自分の価値観に基づく行動を優先させる。

対価される美への制限:誘惑のコストを見抜く

 広告やインフルエンサーの投稿は、美しいビジュアルや官能的な魅力、あるいは「かわいい」で関心を引きつける。豪華なライフスタイル、トレンドのファッション、魅力的な商品写真は、購買やエンゲージメントを誘う「対価される美」だ。これらは時間、金銭、データの対価を求め、個人の関心を搾取する。たとえば、𝕏で流れる華やかな広告は、購買意欲を刺激し、衝動買いや無駄なスクロールを誘発する。

 積極的無関心は、こうした美の対価に制限を設ける。まず、美的誘惑の意図を疑う。「この投稿は私の金を狙っているか?時間か?」と自問し、購買を促すコンテンツをスルーする。次に、自分の美的基準を再定義する。メディアの押し付ける美より、自分にとって自然な生活水準を優先する。実践としては、できるだけ広告をミュートし、通知をオフにし、SNSの閲覧時間を減らす。美を「見るだけ」で楽しみ、対価を払わない選択も有効だ。これにより、関心と金銭を守り、自分の価値観に基づく消費を実現する。

お得情報への無関心:自分のタイミングを貫く

 セールやクーポン、期間限定オファーは、「お得感」を武器に個人の関心を搾取する。「今買わないと損!」という緊急性は、衝動買いや時間の浪費を誘う。たとえば、「50%オフ!」の広告は、購買を促し、不要なものを買わせる罠であるのは少し考えれば誰だってわかることだ。こうしたお得情報は、経済的合理性を装いつつ、実際には時間や金銭を奪う。

 積極的無関心の鍵は、「欲しいものは欲しいときに買う」という原則だ。セールやクーポンのタイミングに流されず、自分のニーズとタイミングを優先する。たとえば、クーポンを原則使わず、必要なものだけを自分のペースで購入する。実践としては、セール情報をスルーし、「セール」「割引」といったキーワードを心の中でミュートする。衝動買いを防ぐためには、「3日ルール」(欲しいものを3日後に再評価)もいいかもしれない。お得情報の流入を減らすために、ショッピングアプリの通知をオフにする。この姿勢は、関心と金銭の無駄遣いを防ぎ、主体的な消費を可能にする。



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2025.07.02

クールビズ・28℃はどこへ行った

観測史上初の早い梅雨明けと猛暑の夏

 2025年、令和、何年になるんだっけ。まあいいや。関東地方は観測史上最も早い6月下旬の梅雨明けを迎えた(追記:まだだったらしい)。気象庁の発表によれば、関西はもう6月27日に梅雨明けが宣言され、例年より10日以上早い異例の事態となった。7月に入ると東京は連日33℃を超える猛暑に見舞われ、夜間も28℃を下回らない熱帯夜が続いている。昨年もひどかったが今年はさらに酷い。湿度70%超の蒸し暑さの中、オフィスや家庭ではエアコンがフル稼働している。そりゃね。だけど、こんな夏に、「クールビズ」や「室内を28℃にしましょう」という声は、まるで聞こえてこない。聞こえてますかね。かつて夏の風物詩だった「ノーネクタイ、ポロシャツ」のキャンペーンや、環境省の省エネ呼びかけは、メディアでもSNSでも影を潜めている感じだ。街中を見ても、スーツ姿は減り、Tシャツや吸汗速乾のシャツが当たり前になったから。でも、スーツで苦しんでいる人は見かけるなあ。苦しそう。28℃設定のエアコンで過ごす人は、今ではいるんだろうか。猛暑の現実が、クールビズの存在感を薄れさせているというのか。

クールビズはどうなっている? 政府の曖昧な態度

 調べてみたら、現状、いまだにクールビズは政府の方針として一応「生きて」いた。環境省の公式サイトを確認すると、2025年も5月1日から9月30日(一部企業は10月31日まで)をクールビズ期間とし、室内温度28℃と軽装を推奨している。ほんと。しかし、このキャンペーンが話題に上ることはほぼない。テレビや新聞で「クールビズ開始!」という報道は皆無に近く、SNSでも「クールビズってまだやってるの?」「28℃とか無理すぎ」と揶揄される。なぜか。当たり前だろう。最大の理由は、28℃設定が熱中症予防と真っ向から矛盾することだ。外気温33℃(風通しのいい木陰でだよ)、湿度70%の環境で、28℃の室内は汗だく。脳が動かない。仕事にならない。日本救急医学会は、熱中症リスクを下げるには26℃以下が望ましいと指摘している。環境省も「熱中症に注意し、柔軟に運用を」と付け加えるが、だが、不思議なことに具体的な代替温度やガイドラインは示されていない。いいなあ。この曖昧さは、日本らしい。日本文化の忘れて「見て見ぬふり」の姿勢そのものだ。過去と現在の矛盾を認めない。これだ。新型コロナのワクチンも「最初から若い人には勧めてなかった」とか言ってもOKである。いや、まともななら、さっさと指針を変えればいいのに、なんとなく話題がフェードアウトするのを待っているかのようだ。あれかな、お能の伝統かな、音も立てず消えていくとか。

クールビズの歴史と28℃推奨の背景

 クールビズは2005年、小池百合子環境相(当時)の主導で始まった。あれから、20年。え?、あれから20年? 小池百合子? そうだったなあ。地球温暖化対策と省エネを目的に、夏のオフィスで「ノーネクタイ、ノージャケット」を奨励し、エアコン設定を28℃に統一するキャンペーンがあった。今の20代はそもそも知らないかもしれない。なんだろう、画期的だった?なんか奇妙だった。とりあえずスーツ文化が根強かった日本で、インドネシア風の半袖シャツがオフィスに浸透し、おじさんはこれからやるぞ的にネクタイを外した。見てられんねえ。でも、電力消費を抑える効果もあったのか。環境省によると、2005~2010年のクールビズで、CO2排出量は累計で約200万トン削減されたという。ほんとかねえ。28℃という数字は、快適性と省エネのバランスを考慮した目安として選ばれたらしいが、科学的根拠は曖昧だ。というか、ないだろそんなもの。当時の研究では、28℃でも湿度50%以下なら快適とされたが、日本の夏の湿度(70~80%)では話が別だ。欧州とかなら、そうだろ。ここは日本だよ。ねーよ。そして、2011年の東日本大震災後は、電力危機を受けてクールビズが「スーパークールビズ」に進化した(退化ともいう)。より「カジュアル」な服装(アロハシャツやスニーカー)がOKになり、節電意識が高まった。ケチな人の正義となった。しかし、2020年代に入ると、テレワークの普及や猛暑の激化で状況は変化した。「コロナ騒ぎ」もあったしなあ。室温28℃は「非現実的」だろ。企業は独自に黙って26℃や25℃を設定するようになった。環境省の「デコ活」(脱炭素アクション)でもクールビズは継続されているが、この20年間変わらない28℃推奨は、変わらない・変われない日本だ。

28℃は熱中症のリスク

 28℃の室内設定は、猛暑の東京では熱中症リスクを高める。そもそも湿度50%ならという話なのに、湿度は言及されない。ばかみたい。2025年7月、東京都内の熱中症搬送者はすでに1万人を超え、気温30℃超の日が続く中、28℃のオフィスや家庭は当然我慢の限界だ。医学的には、湿度70%以上で28℃は体温調節が難しく、汗が蒸発しづらいため熱が体内にこもる。特に高齢者や子供は熱中症のリスクが高い。さっきも触れたが、日本気象協会のデータでは、26℃以下で湿度60%未満が熱中症予防の理想とされる。では、最適な設定はどうあるべきか。エアコンは26~27℃が現実的だ。東京電力の2025年夏の予備率(7%以上)なら、26℃設定でも電力供給は対応可能みたいだし、たぶん、きっと。扇風機やサーキュレーターも併用すれば、体感温度はさらに下がり、エアコン負荷も抑えられる(扇風機の消費電力はエアコンの1/10程度)ということだが、あまりめんどくさい話にしないほうがいい。そういえば、エアコンは最新型ほどエコなんだから、買い替えたほうがいい。服装は、綿や吸汗速乾素材が基本かな、知らん。在宅勤務ならTシャツや短パンでも問題ないかもしれない。Zoom映えを意識して上半身はキレイめというスタイルはどうなったか。水分補給は1時間にコップ1杯、塩分補給(塩飴やスポーツドリンク)も忘れずに行うとされる。これもやり過ぎな感はあるが。というか、水を飲んだら熱中症が防げるだろうけど効果は限定的だろう。オフィスでは、換気を強化し、給水スポットを設け、ピーク時間(12~15時)の節電として、照明を間引き、PCをスリープモードにする。ああ、うるさいうるさい。しかし、電力不足を回避しつつ、快適性と健康を両立できるようにはすべきだろう。ようするに環境省の指針がなくても、現場はすでにこのラインで動いている。というか、そうするしかない。



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2025.07.01

山尾志桜里氏の参院選出馬

 山尾志桜里氏(50歳)。忘れていた。が、2025年7月20日の参院選に無所属で出馬を表明した。彼女の存在そのものが政治ドラマだ。2016年2月、はてなの匿名ブログで、あたかもマッチポンプであるかのような手際の良さで「保育園落ちた日本死ね」を衆院予算委員会で取り上げ、待機児童問題をガツンと訴えて脚光を浴び、2016年の流行語大賞トップ10入り、そして、民進党の政調会長に抜擢され、「子育て世代の星!」と持ち上げられた。が、2017年に不倫疑惑が週刊誌に報じられた。それでも、「説明? しないよ!」と突っぱねた。当然である。私事にすぎない。フランスのかつての大統領ミッテランも「Et alors?(それがどうしたの?)」と答えたものだ。とはいえ、政治資金のガソリン代疑惑も重なり、2021年には政界引退したらしい。知らなかったな。忘れていたな。思い出させてくれた。2025年5月。国民民主党が「山尾さん、参院選の比例代表でどう?」と復活オファーしたのだ。流石だ。ところが、6月11日には国民民主党は「やっぱナシ!」と公認見送りとなった。わけわからん。しかし、そうなれば、山尾氏は翌12日に「じゃ、独立するわ!」と離党届を提出し、7月1日に無所属出馬を宣言した。そうこなくっちゃな。まったく、国民民主党は何を考えていたのだろう。よくわからないが「改革中道」を掲げ、参院選で16議席を狙うらしい。

山尾候補に何の問題もない

 山尾氏の出馬、なにか問題でもあるのか。 答えはズバリ、法的には何の障害もない。他も無問題。2016年の「保育園落ちた日本死ね」騒動についても、彼女が匿名ブログを国会で取り上げ、待機児童問題を訴えたことで話題になり、Xでは「子育て世代の敵」と批判する声もあったのだが、彼女自身も子育て中の母親として認可外保育園に我が子を預け、「保活の大変さ、わかるよ!」と共感を示したくらいだ。「日本死ね」の復讐劇は国会の場でこそ果たされる。
 不倫疑惑? 2017年に既婚男性との交際が報じられたが、それこそ「プライベートな話でしょ」である。法的には立候補の障害にならない。個人の倫理観については、それこそ選挙で決着つければいいだけのこと。
 政治資金問題? ガソリン代や飲食費の不透明な支出が騒がれたが、検察も選挙管理委員会も「起訴? なし!」。スルーできた。問題がないのだ。ないといったら、ない。参院選への立候補はそもそも50歳の日本国民なら誰でもOKだ。山尾氏が「無所属でガンガン行くよ!」と叫ぶのは、まるで「セブンイレブンでカップ入り蒙古タンメンを買うぞ!」と同じくらい自由な激辛の権利である。

国民民主党は不倫を掲げるといい

 国民民主党が山尾氏を公認を見送った理由は「信頼不足」らしい。ちょっと、待て、よ。玉木雄一郎代表、2024年に不倫疑惑を「Smart FLASH」に報じられ、「おおむね事実、ごめんね」と頭下げてなかったか? 愛人疑惑の女性に衆院憲法審査会でヤジを飛ばされ、国民民主党は「玉木さん、3カ月静かにしてて」と役職停止処分にした。が、そんなことに意味はない。だから代表続投だったな。
 そういう国民民主党なんだから、「不倫ウェルカム。みんなハッピー」でいいんじゃないか。玉木が不倫でセーフなら、山尾も公認でいい。みんな違ってそれでいい。みんな同じでそれでいい。みんなどうでもいい。山尾氏も記者会見で「玉木さんの不倫は許されて、私がダメなのは男女差別!」とブチ切れとか聞く(すまん不確か情報だ)。玉木氏が「不倫ごめんね」で済むなら、山尾氏も「不倫ごめんね」で公認OKだったはず。駄目というなら、国民民主党の倫理基準を「不倫は1回までセーフ、2回目アウト!」みたいなルールにするといい。

参議院は「良識の府」だから不倫も「日本死ね」も良識に

 参議院は「良識の府」と呼ばれ、品格ある議論が期待される。だが、2025年の「良識」って何? ぶっちゃけ、不倫も「日本死ね」も新しい良識ということでいいんじゃないか。あるいはそんなの騒ぐなよが良識とだとかにしてもいい。不倫疑惑だって、そもそも玉木氏も山尾氏も法的にはセーフだ。AI化が進む現在、人間の良識が変わるべきだ(意味不明なことを言ってみた)。それでも、不倫より政策を、である。そもそも参議院議員の実態はスキャンダル満載なものだ。良識というのは、昭和のころからずっと反語なのである。



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