座間9人殺害事件、解けない闇と忘却の宿命
2025年6月27日、白石隆浩の死刑が執行された。当然だろう。神奈川県座間市で、2017年に8人の若い女性と1人の男性を絞殺し、その遺体を切り刻んだ男にとって、別の結末は考えにくい。だが、執行は事件の記憶を薄めようとしただけで、理解はもたらされなかった。当時、27歳の「美男子」が、SNSで「死にたい」と呟く若い女性を誘い出し、絞殺し、血と異臭の浴室で遺体を解体した、とされる。私たちは、この事件の何を理解しているのか。なぜ殺害は簡単だったかのように見えるのか、なぜ彼女たちが彼のもとに集まったのか、なぜ9体もの解体が繰り返されたのか、そしてなぜ彼の生育環境が謎のままなのか。その闇は解けない。法的なナラティブは、罪を裁き、おそらく緩慢な忘却を強いる。
殺害の「簡単さ」に潜む謎
白石隆浩は、8人の女性を驚くほど「簡単に」殺害した。2017年8月から10月の2か月間、抵抗の痕跡はほぼなく、狭いアパートで15歳から26歳の女性と一人の男性が次々と命を奪われた。なぜこんなことが可能だったのか。白石の整った容姿、「美男子」とも見える外見は、SNSで被害者の心を瞬く間に掴んだというのだろうか。「一緒に死のう」「君の痛みがわかる」とでも囁くメッセージは、絶望に沈む若い女性にとって救いの光だったとでもいうのだろうか。彼は、被害者の心理的脆弱性を突き、信頼を装って絞殺を実行したことは確かだろう。被害者たちは、死を望む心を彼に預け、抵抗する間もなく倒れたのかもしれない。
白石は法廷で、「悩みを抱えた女性は口説きやすい」と語った。動機は「金銭」と「性的欲求」とされた。だが、奪った金は数千円から数万円であり、性的満足は一時的である。9人もの命を奪い、過酷な解体を繰り返す理由としては薄弱だろう。この「簡単さ」の裏には何かしら闇が潜んでいる。彼は、もしかしたら、風俗スカウトの生活で女性の拒絶や軽視に傷つき、屈曲した被害者意識を「弱い女」に投影し、支配で埋めようとしたのかもしれない。そんなものではないかもしれない。その心理は捜査で掘り下げられはしなかったし、私たちは、殺害がなぜ「簡単」だったのかについても、その真実を知らない。
なぜ若い女性たちが集まったのか
被害者の8人が女性だった。彼女たちは、なぜ白石のもとに集まったのか。2017年当時のTwitter(現𝕏)は、自殺願望を吐露する場だった。15歳の高校生から26歳の大学生まで、彼女たちは社会から孤立し、家族や友人から切り離され、ネットの闇に救いを求めた、とは言える。白石は、美男子風の外見と死の誘惑の言葉で彼女たちの心に忍び込んだとも推測できる。「君の絶望を終わらせてあげる」とでもいうのかもしれないが、そんな単純なメッセージでも、孤独な女性を引き寄せたことはありうる。そして彼女たちは、死を望む心を白石に預け、信頼してアパートを訪れたのだろうか。そこに待っていたのは、私たちには冷酷な裏切りに見える。
彼女たちの孤立は、現代社会の断絶を映し出している、のは確かだが、その判断は単純すぎる。仕事や人間関係の崩壊、希望の喪失、それらはあまりにもわかりやすい。それでも「死にたい」と呟くしかなかった彼女たちを白石は結果的に搾取したことは確かである。NPO法人「BONDプロジェクト」の橘ジュン代表によれば、白石との面会で彼は「彼女たちは話を聞いて欲しかった」と語ったとのことだ。それ自体、疑う点もない。
ふと、加害者の彼の意識に被害者意識は含まれていただろうかと思う。あるいは女性というもの全体への憎悪が、その殺害と解体に駆り立てたということはないのか。風俗スカウトの経験は、女性を「利用可能な対象」と見なす感覚を育てたことは疑えない。彼女たちの絶望のナラティブはしかし彼にとって「価値のないもの」でもあった。しかし、なぜ彼女たちは彼を一縷であれ信じたのだろうか、それは謎のままだ。彼女たちが集まった理由を理解できてはいないし、理解の代替となるナラティブがどのようなものかも想像できない。
解体の異常性と知られざる心理
白石の犯行の最も異常な点は、9体もの遺体をさくさくと解体したことだろう。血が流れ、内蔵や便の異臭が漂う浴室で、ナイフやノコギリで肉と骨を切り刻んだ。常人には耐え難い作業である。肉体の解体は、単なる証拠隠滅を超える。血の量、腐敗ガスの臭い、骨を切る音、その過酷さは、常人の想像を絶する。というか、想像すらしたくない。人は、1体でも耐えられない行為を、なぜ9体も繰り返せたのか。白石の心理はあきらかに異常である。解体をあたかも「作業」や「儀式」に変えたものは何だっただろうか。風俗スカウトとして女性を「商品」と見なした彼は、遺体を「物」に還元することで、憎悪やある傷を解消しようとしたか、そんな生易しいものだろうか。
この異常性の源は謎だ。犯罪心理学では、連続殺人犯の動機に母子関係や幼少期のトラウマが関与するとされることが多く、白石の場合も、母との冷たい関係や過度な期待が、女性への憎悪を育てたかもしれない。だが、驚くべきことに、彼の生育環境は捜査や報道でほとんど触れられなかった。家族の証言、子供時代の記録、母親との関係、そのナラティブは空白のままである。法廷やメディアが「怪物」の起源を問わなかったのは、なぜなのか。プライバシーや関連性の低さで切り捨てられたのか、それとも白石が巧みに隠したのか。私たちは、彼の解体の異常性を生んだ背景も知らない。私たちはもはや昭和の人間ではないし、昭和の物語を欲しもしない。
法的なナラティブと忘却の宿命
2020年、東京地裁立川支部は白石に死刑を言い渡し、2021年に確定し、2025年6月27日、東京拘置所で刑が執行された。法的なナラティブは明確である。この事件は、強盗・殺人罪、計画性と残虐性が極めて高い。クーラーボックスに詰められた遺体、血と異臭の浴室は、明白な罪の証拠である。弁護側は「被害者が殺害を承諾していた」と主張したが、裁判所は実質取り合わなかったが、それも私たちの常識の延長にある。そして、死刑を下された。この法的なナラティブは、そもそも「なぜ」を解明しない。金銭や性的動機は表面的だろうし、なぜ解体を繰り返せたのか、なぜ生育環境が空白なのか。これらは法的立証に不要であるのは当然である。
捜査は、物的証拠(遺体、凶器、SNS履歴)に集中した。白石の風俗スカウトの経歴は、もしかすると女性への憎悪を育んだかもしれないが、さほどの意味のない「軽犯罪歴」として片付けられる。母子関係や遺伝的要因は、プライバシーや関連性の低さからか、あるいは時代というものがそうなのか、探索されない。白石の供述は「金のため」「性欲のため」に終始した。鈴木馨祐法相は執行後、「慎重な検討を加えた」と述べたが、それは真実である。動機も十分である。被害者の友人は「刑が執行されても終わりではない」と語り、遺族の一部は「生きて罪を考えさせたかった」と無念を吐露しし、社会は彼を「怪物」のように断じたが、その怪物性がどこから生まれたのかは知らることはない。法的なナラティブは、理解を放棄し、忘却を課すが、社会の健全な存続がそれを求めると言っていい。
かくして死刑執行は、事件を「終結」させた。そして、私たちはこの事件について何も理解していない。なぜ殺害が簡単だったのか、白石の美男子性と巧妙な言動は、誘惑的だったのだろうか、なぜ女性たちが集まったのか。彼女たちの孤立と絶望が、罠に引き寄せたというのか。なぜ9体もの解体がやすやすと繰り返されたのか。圧倒的な異常性は、常人の理解を超えてる。生育環境のナラティブがあってもその空白は先験的に埋めることはない。ありえない。事件そのものが実は謎である。被害者の恩師と呼ばれる人は、「きちんと罪に向き合ってほしかった」と悔やみ、クーラーボックスに詰められた遺体、浴室の血痕のイメージは恐怖として残る。それがとりあえず意味を代替する。私たちの多くは知ることなく忘れなけれならない。忘却は、理解しないまま目を背けることでもない。私たちは、永遠にこの事件の「真実」を知らない。知り得ない。それだけ。
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