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2025.06.18

中国人留学生を巡る米国の事件

 このところ、米国では中国人留学生や研究者が関与する事件が注目を集めている。2025年6月、武漢の華中科技大学の博士課程学生、韓承軒(Chengxuan Han)がミシガン大学に線虫関連の生物学的材料を密輸しようとして逮捕された。同年、温盛華(Shenghua Wen)が北朝鮮への軍事品密輸で有罪を認め、2024年7月には劉尊勇(Zunyong Liu)が小麦に被害を与える真菌を密輸しようとしたとして摘発された。これらの事件は、トランプ政権の対中強硬姿勢の下で「中国による攻撃」として強調され、トランプ大統領の意向によるものとのナラティブが広がっている。しかし、実際には、これらの事件は米国政府の長年にわたる安全保障戦略に基づくものであり、FBIや司法省の継続的な取り組みの結果である。

スパイ防止と生物学的監視

 米国政府は、2000年代から中国を「戦略的競争相手」と見なし、スパイ活動や技術流出への監視を強化してきた。2018年に開始された「中国イニシアチブ」は、大学や研究機関での中国関連の不正行為を摘発する取り組みで、2020年にはハーバード大学のチャールズ・リーバー教授が中国の「千人計画」関与で逮捕された。このプログラムは、バイデン政権下でも継続し、2021年〜2024年に複数の研究者が調査対象となった。米国農務省(USDA)と国土安全保障省(DHS)は、バイオテロや食糧安全保障の脅威にも注目。たとえば、2024年7月の劉尊勇事件では、FBIと税関当局(CBP)が、小麦に赤かび病を引き起こす真菌(フザリウム・グラミネアラム)を「潜在的な農業テロ兵器」と認定し、迅速に対応した。この真菌は、収穫量を大幅に減らし、毒素による健康被害を引き起こす可能性がある。
 韓承軒事件では、2025年6月にデトロイトの空港でCBPが生物学的材料を押収。FBIと移民税関捜査局(ICE)が韓の電子データ削除や虚偽申告を確認し、逮捕に至った。線虫は基礎研究のモデル生物だが、不正な持ち込みは生物学的安全保障のリスクとみなされた。温盛華事件では、2023年に北朝鮮への銃器や軍事技術の密輸が発覚し、2025年に有罪判決が下された。これらの事件は、米国政府が政権交代に関係なく、スパイ防止、バイオテロ対策、国際制裁の執行を一貫して推進してきた結果である。国家安全保障戦略(2017年、2022年)は、中国からの技術流出や生物学的脅威を優先課題とし、FBIや司法省が標準プロトコルに従って対応している。

中国側の公式見解と武漢の研究環境

 中国側は、これらの事件に対し、公式には限定的な反応を示している。韓承軒事件について、中国外務省は2025年6月の時点で具体的なコメントを避け、「個人の行為であり、中国政府とは無関係」との立場を過去の類似事件で繰り返してきた。たとえば、2024年7月の劉尊勇事件では、中国政府は「米国が根拠なく中国を標的にしている」と反発し、武漢ウイルス研究所の石正麗研究員が2024年12月にコロナウイルス配列を公開した際も、「透明性を確保している」と主張した。武漢は、COVID-19の起源を巡るラボリーク仮説で注目される都市だが、華中科技大学はウイルス研究よりもバイオテクノロジーや基礎科学に強みを持つ。韓が密輸した線虫は、遺伝子研究で一般的に使用されるが、中国側はこれを「学術目的の通常の研究材料」とみなす可能性が高い。
 劉尊勇事件では、中国の農業研究機関がフザリウム・グラミネアラムの研究を行っており、病害対策を目的とした正当な研究との主張が考えられる。しかし、米国司法省が「農業テロ」と認定したことで、中国側は「科学の政治化」と批判。温盛華事件では、北朝鮮との連携が問題視されたが、中国政府は「個人の犯罪行為であり、国家の関与はない」と否定する見解を示している。武漢の研究環境は、厳格な管理下にあると中国側は主張するが、COVID-19以降、国際的な監視の対象となっており、韓や劉の事件はこうした不信感を増幅させる。中国の公式見解は、米国が地政学的対立を背景に中国人研究者を不当に標的にしているという立場を強調する。

トランプ政権のレトリックと事件の政治化

 トランプ政権は、2025年1月の再就任以来、対中強硬姿勢を強化している。2025年5月、DHSはハーバード大学のSEVP認証を取り消し、中国人留学生のビザ制限を再開。これは、トランプの「アメリカ第一」政策と、中国を「戦略的脅威」とみなすレトリックに合致する。韓承軒事件の報道では、司法省が「安全保障を脅かす」と強調し、武漢の関与を前面に押し出した。フォックスニュースやXでは、トランプ支持層が事件を「中国のバイオテロ」と結びつけ、バイデン政権の「弱腰」を批判。劉尊勇事件も、2024年7月の発覚後、2025年に「アグロテロ」として再注目され、トランプの対中政策の成果として語られる傾向がある。
 トランプ政権は、2025年4月にCOVID-19ラボリーク仮説を公式支持し、武漢ウイルス研究所への不信感を煽った。韓や劉の事件は、この文脈で「中国の生物学的脅威」として政治的に利用された。しかし、捜査自体はトランプの直接指示によるものではなく、FBIや司法省の既存のプロセスの結果である。トランプのレトリックは、事件を国民に訴えるツールとして機能し、対中強硬姿勢を正当化する役割を果たした。中国側は、こうした政治化を「反中プロパガンダ」と批判し、科学や学術交流の妨害とみなしている。

バイデン政権下での継続的な対応

 バイデン政権(2021年〜2025年)も、中国人留学生や研究者のリスクを監視していた。劉尊勇事件は2024年7月にバイデン政権下で発覚し、司法省が真菌を「農業テロ兵器」と認定。FBIとCBPが迅速に対応し、食糧安全保障への脅威として公表した。温盛華事件の密輸行為(2023年)に対する捜査も、バイデン政権下で開始された可能性が高い。2021年、バイデン政権はCOVID-19の起源調査を指示し、武漢ウイルス研究所のラボリーク仮説を検討したが、結論は曖昧だった。トランプ政権の関税や技術輸出規制の一部を継承しつつ、気候変動や通商での協力を模索するバランスを取った。
 トランプ政権下の話題と見られがちなハーバード大学への規制の基盤も、バイデン政権下ですでに築かれた。2020年代初頭から、議会やDHSは「千人計画」や学術スパイを調査し、大学への監視を強化。2025年5月のSEVP認証取り消しはトランプ政権下で実行されたが、準備はバイデン政権下で進んでいた。中国側は、バイデン政権の対応を「科学の抑圧」と批判し、劉や温の事件を個人の行為として扱うよう求めた。米国政府の安全保障戦略は、政権に関係なく、スパイ防止や生物学的リスクへの対応を継続しており、トランプ政権の強調が事件の注目度を高めたに過ぎない。



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