英国の安楽死法案可決に関連して
2025年6月21日、英国の下院は「末期疾患成人(人生の終焉)法案」を賛成314票、反対291票、23票の僅差で可決した。この法案は、イングランドとウェールズにおける末期疾患患者に、厳格な条件の下で自らの死を選択する権利を認めるもので、英国における安楽死合法化への歴史的な一歩となる。
投票は党の方針に縛られない自由投票で行われ、賛成票は労働党224票、自由民主党56票、保守党20票、その他13票、反対票は労働党160票、保守党92票、自由民主党15票、その他24票だった。前回2024年11月29日の審議では55票差で可決されており、これと比較すると今回の賛成票の減少は議論の激化を示していると見られる。6月21日正午、議会前では賛成派の「Dignity in Dying」キャンペーンがピンク色のTシャツで集結し、反対派は障害者団体や宗教者が「弱者の保護」を訴えた。この投票は、命の尊厳と自己決定権をめぐる倫理的対立を浮き彫りにしていた。
法案は今後上院で審議され、承認されれば2029年までに施行される可能性がある。首相キア・スターマー氏は賛成したが、保守党党首ケミ・バデノック氏や保健相ウェス・ストリーティング氏は反対に回った。
尊厳とリスクのせめぎ合い
英国におけるこの「安楽死」法案をめぐる議論は、個人の尊厳ある死と強制のリスクという二極で展開されてきた。賛成派は、末期疾患患者が耐え難い苦痛から解放される権利を強調する。労働党のピーター・プリンスリー議員は6月21日の審議で、「これは生と死の選択ではなく、死に方の選択だ。人間の尊厳には自己決定が不可欠」と訴えた。法案には、医師二人の承認、裁判所の審査、6か月の余命診断といった保護措置が含まれ、強制を防ぐとされる。BBC報道によると(参照)、放送ジャーナリストのエスター・ラントゼン氏は同日、「苦痛と尊厳喪失から患者と家族を守る」と歓迎した。ハンチントン病を患ったキース・フェントン氏の妻サラ氏は、夫が2023年にスイスのディグニタス・クリニックを希望した際の葛藤を語り、「選択の自由が必要」と主張した。
反対派は、予想されることだが、強制や誤用の危険性を指摘する。保守党のダニー・クルーガー議員は6月21日、「支持が減退している」とし、上院での法案修正や拒否を期待した。パラリンピック元選手のタニ・グレイ=トンプソン氏は、障害者が「恐怖」を感じていると述べ、強制防止の厳格な修正を提案した。例えば、精神疾患患者が安楽死を選択するリスクを懸念し、明確な診断基準を求めるということである。医療専門団体も法案の具体策に反対し、ジェームズ・クレバリー議員は「医療従事者が準備不足を訴えている」と強調した。議会前での「Not Dead Yet」キャンペーンのジョージ・フィールディング氏は、障害者を危険に晒す「差別的」法案と批判し、緩和ケアや社会福祉の充実を求めた。
英国の安楽死議論
英国での安楽死議論は数十年にわたり進展と停滞を繰り返し、個人の自己決定権と国家の保護責任の間で揺れ動いてきた歴史を反映してきた。1997年以降、複数回にわたり安楽死や自殺幇助の合法化法案が議会に提出されたが、いずれも否決された。2005年の法案は、末期疾患患者の自殺幇助を認める内容だったが、宗教団体や医療界の反対で失敗している。2015年の議会では、労働党議員ロブ・マリス氏の法案が賛成118票、反対330票で否決された。
しかし、2021年の世論調査で英国成人の73%が条件付きで安楽死を支持し、世論の変化が顕著となった。2024年11月29日の法案初審議では、55票差で可決され、このおりは、労働党のキム・リードビーター議員が推進を主導した。彼女は姉ジョ・コックス元議員の2016年6月16日の殺害事件を引用し、「良い人が政治を変える」と訴えたものである。
欧州の動向
欧州では、文化的・宗教的背景の違いが「安楽死」法制度の多様性を生んでいる。つまり、安楽死の合法化が進む国と慎重な国が共存する。スイスはそのお国柄とも言えるのかもしれないが、1942年以来、自殺幇助を認め、ディグニタス・クリニックは2024年に約500人の外国人が利用したと報告している。現在の動向に先行したオランダは2002年4月1日に、またベルギーは2002年9月28日に、ルクセンブルクは2009年3月20日に安楽死を合法化し、厳格な条件の下で年間数千人が利用している。スペインは2021年6月25日に合法化し、ポルトガルも2024年5月27日に安楽死法を施行した。
対してフランスでは進展が遅い(余談だがフランスは女性の社会進出など社会変革に鈍いことがある)。エマニュエル・マクロン大統領は2023年4月3日、末期疾患患者に限定した安楽死法案の検討を表明した。また、2024年5月27日から6月9日の市民会議では、76%が合法化を支持したが、2025年2月15日の国民議会審議では、カトリック教会や保守派の反対により法案提出が見送られた。フランスでは、緩和ケアの不足が安楽死を求める動機ともされ、2024年12月1日に政府はホスピス予算を10%増額する方針を発表した。
日本における安楽死:遠い議論と今後の課題
日本では、安楽死の議論は英国や欧州に比べて初期段階以前にあるといえる。現行法では、積極的安楽死は殺人罪(刑法第199条)に該当し、医師の自殺幇助も明確な法的枠組みがそもそも存在しない。この問題に関してよく引き合いに出される1991年の東海大学病院事件では、医師が末期疾患患者に薬物を投与し有罪判決を受けた。2006年の川崎協同病院事件でも同様の訴追があったが、まったく合法化の議論は進まなかった。
日本尊厳死協会としては1976年以来、治療拒否を認めるリビング・ウィルの普及を進めるが、2023年時点でもその会員数は約13万人にとどまる。2024年10月のNHK世論調査では、尊厳死を67%が支持する一方、積極的安楽死は49%にとどまっている。日本障害者協議会も、英国同様に「弱者への強制」を懸念し、2024年11月に安楽死反対を表明している。
今回の英国の2025年6月21日の法案可決は、日本でも議論を刺激する可能性があるといえるか。概ねないだろう。日本の社会的な障壁というより、そもそも日本では議論が社会的な現実性を持たない。日本での安楽死の議論としては、仏教や神道の影響で、命の尊厳が強調されたり、家族や社会の意向が優先されることが多いが、基本的に他人事の空気が漂う。
日本でも高齢化率は2025年で36%を超え、終末期ケアの需要が増すが、緩和ケア病床は全国で約9000床(2024年厚労省データ)と不足している。緩和ケアの拡充と国民的対話が必要であるというのは正論だが、社会から覆われた現実の介護施設での現状は、私の観察だが、実質的に緩慢な安楽死のシステムが進行している。日本人はそれを表立っては語らないだけである。
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