ロシアの「茹で蛙」戦略
ロシアが現在ウクライナの戦争紛争で採用している作戦は「茹で蛙(Boiling frog)」と呼べるかもしれない。これは、冷たい水からカエルを徐々に加熱することで最終的な危機を気づかせない「茹で蛙」の寓話に基づくたとえである。あえて急激な軍事勝利を避け、ウクライナを疲弊させ、さらに西側に敗北を準備させ段階的に受け入れさせることが目的と考えられる。この戦略は地政学的な計算に裏打ちされていると推察される。
「茹で蛙」戦略の特徴と変遷
ロシアの「茹で蛙」戦略は、迅速な戦果より長期的な圧力を重視するものである。現状ロシアはキアンの町やポクロフスクで一村ずつ進軍し、急な攻略を避けているが、その戦況を見ると、ゆっくりと巾着袋を締めるように進行している。このじわじわとした包囲戦は、2023年のバフムート攻防や、2024年秋のドネツク州ヴフレダール戦でも見られた。ロシア軍は数週間にわたり周辺集落を確保し、それからウクライナ軍の補給線を分断しているとみられる。この一見ゆっくりとした段階的進軍は、自軍の損傷を最小限にし、ウクライナの兵力や装備を枯渇させる消耗戦の一環であると理解できる。
この作戦が可能なのは、ロシアが軍事生産能力で一定の優位を得つつあるためと推定される。報道によれば、ロシアは2024年に年間200〜300万発規模の砲弾を生産し、ドローンも大幅に増産したとされる。一部推定では、月5000機規模のドローン生産能力を持つとみられている。対照的に、米国の155mm砲弾生産は年間50〜60万発程度にとどまっており、欧州の補給も遅れが見られる。この生産力の差が長期戦への自信を裏付けている可能性がある。勝利が急坂を転がることがないよう、ロシアはあえて急な勝利を避けているとも解釈できる。このため、NATOとしても声だけは威勢がよいものの、飛行禁止区域設定や空爆が控えられている。2024年夏のハリコフ攻勢では、限定的な進軍でウクライナの予備兵を消耗させる一方で、西側の過剰反応を避けるよう慎重に進められた。
とはいえ、この戦争の当初、2022年2月の侵攻初期においては、ロシアの行動は今日の「茹で蛙」戦略とは異なり、むしろ正反対であった。キエフやハリコフへの電撃戦、チェルノブイリ経由の高速進軍、空挺部隊の投入は、短期間での政権転覆を狙った短期決戦を示していた。キエフ近郊のブチャからの撤退(2022年春)もこの短兵急な計画の失敗を物語っている。おそらく当初、ロシアはウクライナの抵抗力や西側の支援を過小評価し、迅速な勝利を追求していた可能性が高い。したがって、「茹で蛙」戦略は初期の主戦略ではなく、次第に戦況が変化したことに応じて採用された作戦と考えられる。
戦略の目的と転換の背景
「茹で蛙」戦略は、軍事的勝利と地政学的影響の最大化を目指すものと推察される。第一に、ウクライナの、引き返せない軍事崩壊を確実にすることが狙いである。2025年6月時点で、ウクライナの兵力はピーク時より大幅に減少し、弾薬不足により前線維持が困難になっていると報じられている。導入が期待されたF-16戦闘機も、ロシアの防空システム(S-400)によって自由な運用が難しいとの指摘があり、ミラージュ2000も決定的な戦局転換には至っていない。2024年秋のクルスク反攻では、緩慢とも見えるロシアの予備兵投入によりウクライナ軍が撃退されたとされ、ウクライナの戦力消耗が加速している。先立つ2023年のバフムート攻防戦でも、ウクライナ軍に多数の死傷者が出たと推定されており、ここではロシア軍の代わりに民間軍事会社が前面に出ていた。このような戦力配置もまた、扱いが困難になる民間会社の消耗を企図した「茹で蛙」戦略の一環だったと考えられる。
第二に、「茹で蛙」は西側の認識を段階的に変化させる手段ともなっている。2022年当時、西側ではハイマースやジャベリンによってロシア軍を圧倒できるとの楽観論もあったが、2025年に至って「ロシアの勝利は避けがたい」とする見方が一部に広がりつつある。2025年のNATO首脳会議では、トランプ米大統領がウクライナ支援に消極的な姿勢を示し、フランスのマクロン大統領が提案した介入も大きな支持を得られなかったという報道もある。
第三に、「茹で蛙」はグローバルサウスとの関係維持にも適している。2024年10月のBRICSサミットで、プーチン大統領は中国・インドとの協力強化を表明し、過度な軍事行動による孤立を避けるバランス外交を採った。このような姿勢は、ロシアの国際的立場を維持するための一策とも捉えられる。
こうした戦略の転換は、すでに述べたように、2022年後半の戦況変化に起因すると考えられる。当初のキエフ攻勢の失敗後、ロシアはドンバス戦線に焦点を移し、セベロドネツクやリシチャンスクでは段階的な進軍を採用した。2022年夏以降に始まった西側の支援強化(例:ハイマース供与)やウクライナの強い抵抗に直面する中で、ロシアは一時的な撤退を通じて時間を稼ぎ、その間に軍需生産体制を強化し、2023年には年間200万発以上の砲弾を生産できる体制を築いたとされる。これにより、ロシアは長期戦への戦略的転換を選択した。この過程は、初期の短期決戦から「茹で蛙」的進軍への意図的な戦略進化と見なすことができる。
西側とウクライナへの影響
ウクライナは現在、戦力の消耗と領土喪失の圧力にさらされている。2025年6月時点で、ゼレンスキー大統領の支持率が大きく低下しているとの報道もあるが、その数値については資料によって幅がある。和平交渉に向けた動きはあるものの、国内のナショナリスト勢力の影響が強く、政治的妥協には慎重な姿勢が続いている。こうした勢力は数としては限定的ながら、西側との連携や政権への影響力を持ち、停戦に対して強硬な立場をとっているとも報じられている。2024年秋のイスタンブール協議では、ウクライナ側が停戦提案には応じたが、クリミアやドンバスを巡る交渉には応じなかったという報道もあり、妥協の余地は限られている。2025年春のハリコフ州での徴兵逃れをめぐる抗議行動もあったが、これが全国的な抵抗運動に発展するには至らなかったとされている。一部の市民不満は報道で触れられているが、戦時下での検閲や統制の影響も大きいと見られる。
西側諸国にとって、ウクライナの敗北はNATOの信頼性に関わる問題である。しかし米国は2025年時点でウクライナ支援の熱意に陰りを見せており、NATO首脳会議ではマクロン大統領がトランプに「イランへの対応」を例に介入を求めたが、明確な反応は示されなかったという報道もある。英国のスターマー首相もウクライナ支援の必要性を訴えたが、イギリス軍の装備数には限界がある。西側が供与した兵器がロシアの電子戦能力により無力化される事例や、欧州の軍需生産の限界も指摘されており、戦争継続における課題は多い。
展望と戦略の進化
ロシアは2025年9月に予備兵50万人規模の動員を準備していると報じられており、その攻勢時期は慎重に見極められている。2024年夏のハリコフ攻勢では、限定的な進軍によってウクライナの予備兵力を削減し、将来的なドニエプル川以東への進軍準備が進められた可能性がある。トランプ政権の予測困難な外交姿勢は、西側諸国の対応に不安定性をもたらしており、ロシア側にとっては段階的な圧力戦術、すなわち「茹で蛙」的アプローチが適していると考えられる。トランプ政権の不安定性やウクライナの抵抗の持続可能性は不確実性をはらむが、より大きな視点では、世界全体がロシアの地政学的「茹で蛙」戦略の影響圏に取り込まれつつあるという見方も成り立つかもしれない。
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