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2025.06.23

2025年都議選: 40万票「死票」が示すもの

 2025年6月23日、開票率99%に達した東京都議会議員選挙で、「再生の道」が403,613票(7.73%)を獲得しながら127議席中ゼロ議席という結果が確定した。この40万票は、それなりに都民の明確な政治的意志を表すはずだったが、中選挙区制の下で全42選挙区に分散し、平均9,610票しか得られず、当選ライン(2~3万票)に届かなかった。NHKの出口調査では、若年層や無党派層が既成政党に不満を抱き再生に投票した可能性が高いが、組織票や地盤が欠如していたのは確かだろう。自民党は880,115票(16.85%)で21議席と前回(33議席)から大幅減少し、都市部の若年層離れが顕著だが、この自民の弱体化が、再生への抗議票を後押しした側面もあるだろう。

 この再生の得票数と当選者数を共産党と比較すると、その差がある異常事態を示していることがわかる。共産党は487,403票(9.33%)で14議席を確保し、平均34,800票で1議席を獲得した。足立区や葛飾区での地域密着活動と組織力が票を集中させ、効率的に議席に結びつけたといえる。対して、再生は知名度ゼロの新人42人を散らばらせ、戦略的な集中を欠いたとはいえるが、この差、つまり「死票」は奇妙な呪いを残すだろう。この「死票」現象が危険な兆候である理由は、共産党に比べてもそうだが、40万人の声が議会に届かないことである。投票しても無駄と感じた有権者が増えた。これは表面的には政治離れが加速し、棄権率が上昇するはずだが、今回の都議会選挙の投票率は47・59%で前回比5・2ポイント増加している。つまり、再生は死票の生産制度・装置だったと言える。過去の選挙でも小規模政党が苦戦したが、40万票規模の無視は前例がなく、この死票の呪いは民主主義の基盤が揺らがせることになるかもしれない。

再生の異例戦略とその背景

 再生の道の選挙戦略は異彩を放つとは言える。42人の新人候補を全選挙区に配置し、供託金1,260万円を投じたが、議席ゼロに終わった。平均得票9,610票は当選ラインに遠く及ばず、戦略的な集中が欠如していた。石丸伸二氏(元広島市長)の知名度向上や「変革」イメージの浸透が目的だった可能性が高く、NHKのウェブ・テレビ速報(10:06時点)で「0議席」と報じられたにもかかわらず、メディア露出を優先したとみられる。過去の希望の党(2017年)は知名度のある候補を混ぜて議席を獲得したが、再生はそれさえせず、リスクを極限まで高めた。おかしい。

 この戦略は、議席獲得より長期的な国政進出(例: 2026年参院選)を視野に入れた布石とも解釈できる。だが、組織力や地域基盤がなく、票が散発的にしか集まらなかった。再生支持層はSNSを通じて動員された若年層が中心と推測され、既存政治への抗議が背景にある。供託金の回収が困難な状況は、通常なら、経済的リスクを浮き彫りにし、次回選挙での信頼回復が課題となるとなるのだが、この雰囲気はおそらくそうではないだろう。

都民ファーストと無所属の台頭

 さて、勝利者ともいえる都民ファーストが1,033,881票(19.80%)だが、31議席を獲得し第一党に輝いた。小池百合子都政の経済対策やインフラ整備が23区で支持を集め、NHKの予想議席数(25~35)も安定している。一方、無所属候補が701,854票(13.44%)を獲得し、新宿区や世田谷区で上位に入るなど、地域密着性が際立つ。既成政党への不信がこの票を押し上げた。かくして都議会は多党分散型(自民21、共産14、立憲17)となり、単独過半数が不在となった。まあ、小沢チルドレンとして登場し、自民党にずっぽりいた小池百合子氏なので、国政的なマターでの問題とはならないだろう。

 それにしても東京の政治としてのこの二極化は、都政の運営を連立や協調に依存させることになる。無所属の票はまとまりに欠けるが、地域課題に特化した候補が支持を集め、本来なら(再生が奇妙な事態を引き起こさなければ)多様性を反映していることになる。自民の大幅減(33→21議席)は若年層離れを象徴し、都民ファーストとの対立軸が明確になる。区域ごとの支持差は今後の政策に影響を与えるかもしれないが、これもおそらくそうはならないだろう。

 あと余談程度だが、国民民主党は110,554票(2.12%)で9議席を獲得し、少ない得票率で効果的に都市部の安定した支持を維持した。維新の会は79,843票(1.53%)で1議席はまぬけ感が漂う。れいわ新選組は45,539票(0.87%)であらかたの予想に反して0議席であり、すでにこれらの不満吸収型の政党は賞味期限切れとなってきた可能性がある。



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2025.06.22

米国によるイラン核施設空爆後のトランプ米大統領の演説(資料)

 公式文書が現時点で提示されていないので、資料して、米国によるイラン核施設空爆後のトランプ米大統領の演説を提示しておきたい。


トランプ大統領の国民向け演説
2025年10月21日、ホワイトハウス

皆さん、こんばんは。アメリカの同胞の皆さん、そして世界中でご覧の皆さん。どうもありがとうございます。

先ほど、アメリカ合衆国軍は、イラン政権の3つの主要な核施設――フォルドゥ、ナタンズ、イスファハン――に対して大規模かつ精密な攻撃を実施しました。これらの名前は、長年にわたり、恐ろしく破壊的な事業を進めてきたことで、皆さんも耳にしてきたことでしょう。私たちの目標は、イランの核濃縮能力を破壊し、世界最大のテロ支援国家がもたらす核の脅威を阻止することでした。

今夜、私は世界に向けて報告します。この攻撃は、軍事的に見事な成功を収めました。イランの主要な核濃縮施設は、完全に、徹底的に破壊されました。

中東のいじめっ子であるイランは、今、和平を選ばなければなりません。もしそうしなければ、今後の攻撃はこれまでよりもはるかに大規模で、はるかに容易になります。40年間、イランは「アメリカに死を、イスラエルに死を」と叫んできました。彼らは私たちの人々を殺し、路肩爆弾で手足を吹き飛ばしてきました――それが彼らの得意技でした。私たちは千人以上を失い、中東や世界中で数十万人が彼らの憎悪の直接的な結果として命を落としました。特に、彼らの将軍カセム・ソレイマニによって多くの人々が殺されました。

私はずっと以前に、このような事態を許さないと決めました。これはもう続きません。

私はベンヤミン・ネタニヤフ首相に感謝し、祝福の意を表します。私たちは、かつてないほどのチームワークで協力し、イスラエルに対するこの恐ろしい脅威を排除するために大きく前進しました。イスラエル軍の素晴らしい働きにも感謝します。そして何よりも、今夜、素晴らしい飛行機を操縦した偉大なアメリカの愛国者たち、そしてアメリカ合衆国軍の全員を祝福します。この作戦は、何十年も世界が見たことのないようなものでした。このような形で彼らの力を必要とすることが今後なくなることを願っています。本当にそう願っています。

また、統合参謀本部議長のダン・ライセン・ケイン大将――素晴らしい将軍です――と、この攻撃に関わったすべての優れた軍事専門家たちにも祝福を贈ります。

それらすべてを踏まえて、言いたいことは、これ以上この状況を続けるわけにはいきません。イランには、和平か、過去8日間に目撃したものをはるかに超える悲劇かのどちらかしかありません。覚えておいてください、まだ多くの標的が残っています。今夜の攻撃は、すべての標的の中で最も困難で、おそらく最も致命的なものでした。しかし、和平がすぐに実現しなければ、私たちは他の標的を正確に、迅速に、巧みに攻撃します。それらの標的のほとんどは、数分で破壊できます。

今夜、私たちが成し遂げたことをできる軍は、世界に一つもありません――全く比べ物になりません。これまで、たった今起こったことを成し遂げられる軍は存在しませんでした。

明日、ケイン大将とピート・ヘグセス国防長官が、午前8時にペンタゴンで記者会見を行います。

皆さんに感謝したいと思います。特に、神に感謝します。私たちは神を愛し、偉大な我々の軍を愛しています。彼らを守ってください。中東に神の祝福を、イスラエルに神の祝福を、そしてアメリカ合衆国に神の祝福を。

どうもありがとうございます。

 

President Donald J. Trump’s Address to the Nation
October 21, 2025, The White House

Good evening, my fellow Americans, and to the people watching around the world. Thank you very much.

A short time ago, the United States military carried out massive precision strikes on three key nuclear facilities in the Iranian regime: Fordo, Natanz, and Esfahan. Everybody’s heard those names for years as they built this horribly destructive enterprise. Our objective was the destruction of Iran’s nuclear enrichment capacity and a stop to the nuclear threat posed by the world’s number one state sponsor of terror.

Tonight, I can report to the world that the strikes were a spectacular military success. Iran’s key nuclear enrichment facilities have been completely and totally obliterated.

Iran, the bully of the Middle East, must now make peace. If they do not, future attacks will be far greater and a lot easier. For 40 years, Iran has been saying, “Death to America, Death to Israel.” They have been killing our people, blowing off their arms, blowing off their legs with roadside bombs—that was their specialty. We lost over a thousand people, and hundreds of thousands throughout the Middle East and around the world have died as a direct result of their hate, in particular, so many were killed by their General Qasem Soleimani.

I decided a long time ago that I would not let this happen. It will not continue.

I want to thank and congratulate Prime Minister B.B. Netanyahu. We worked as a team, like perhaps no team has ever worked before, and we’ve gone a long way to erasing this horrible threat to Israel. I want to thank the Israeli military for the wonderful job they’ve done. And most importantly, I want to congratulate the great American patriots who flew those magnificent machines tonight and all of the United States military on an operation the likes of which the world has not seen in many, many decades. Hopefully, we will no longer need their services in this capacity. I hope that’s so.

I also want to congratulate the Chairman of the Joint Chiefs of Staff, General Dan Raisen Kaine, a spectacular general, and all of the brilliant military minds involved in this attack.

With all of that being said, this cannot continue. There will be either peace or there will be tragedy for Iran far greater than we have witnessed over the last eight days. Remember, there are many targets left. Tonight’s was the most difficult of them all, by far, and perhaps the most lethal. But if peace does not come quickly, we will go after those other targets with precision, speed, and skill. Most of them can be taken out in a matter of minutes.

There’s no military in the world that could have done what we did tonight—not even close. There has never been a military that could do what took place just a little while ago.

Tomorrow, General Kaine and Secretary of Defense Pete Hegseth will have a press conference at 8 a.m. at the Pentagon.

I want to just thank everybody, and in particular, God. I want to just say, we love you, God, and we love our great military. Protect them. God bless the Middle East, God bless Israel, and God bless America.

Thank you very much.



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2025.06.21

英国の安楽死法案可決に関連して

 2025年6月21日、英国の下院は「末期疾患成人(人生の終焉)法案」を賛成314票、反対291票、23票の僅差で可決した。この法案は、イングランドとウェールズにおける末期疾患患者に、厳格な条件の下で自らの死を選択する権利を認めるもので、英国における安楽死合法化への歴史的な一歩となる。
 投票は党の方針に縛られない自由投票で行われ、賛成票は労働党224票、自由民主党56票、保守党20票、その他13票、反対票は労働党160票、保守党92票、自由民主党15票、その他24票だった。前回2024年11月29日の審議では55票差で可決されており、これと比較すると今回の賛成票の減少は議論の激化を示していると見られる。6月21日正午、議会前では賛成派の「Dignity in Dying」キャンペーンがピンク色のTシャツで集結し、反対派は障害者団体や宗教者が「弱者の保護」を訴えた。この投票は、命の尊厳と自己決定権をめぐる倫理的対立を浮き彫りにしていた。
 法案は今後上院で審議され、承認されれば2029年までに施行される可能性がある。首相キア・スターマー氏は賛成したが、保守党党首ケミ・バデノック氏や保健相ウェス・ストリーティング氏は反対に回った。

尊厳とリスクのせめぎ合い

 英国におけるこの「安楽死」法案をめぐる議論は、個人の尊厳ある死と強制のリスクという二極で展開されてきた。賛成派は、末期疾患患者が耐え難い苦痛から解放される権利を強調する。労働党のピーター・プリンスリー議員は6月21日の審議で、「これは生と死の選択ではなく、死に方の選択だ。人間の尊厳には自己決定が不可欠」と訴えた。法案には、医師二人の承認、裁判所の審査、6か月の余命診断といった保護措置が含まれ、強制を防ぐとされる。BBC報道によると(参照)、放送ジャーナリストのエスター・ラントゼン氏は同日、「苦痛と尊厳喪失から患者と家族を守る」と歓迎した。ハンチントン病を患ったキース・フェントン氏の妻サラ氏は、夫が2023年にスイスのディグニタス・クリニックを希望した際の葛藤を語り、「選択の自由が必要」と主張した。
 反対派は、予想されることだが、強制や誤用の危険性を指摘する。保守党のダニー・クルーガー議員は6月21日、「支持が減退している」とし、上院での法案修正や拒否を期待した。パラリンピック元選手のタニ・グレイ=トンプソン氏は、障害者が「恐怖」を感じていると述べ、強制防止の厳格な修正を提案した。例えば、精神疾患患者が安楽死を選択するリスクを懸念し、明確な診断基準を求めるということである。医療専門団体も法案の具体策に反対し、ジェームズ・クレバリー議員は「医療従事者が準備不足を訴えている」と強調した。議会前での「Not Dead Yet」キャンペーンのジョージ・フィールディング氏は、障害者を危険に晒す「差別的」法案と批判し、緩和ケアや社会福祉の充実を求めた。

英国の安楽死議論

 英国での安楽死議論は数十年にわたり進展と停滞を繰り返し、個人の自己決定権と国家の保護責任の間で揺れ動いてきた歴史を反映してきた。1997年以降、複数回にわたり安楽死や自殺幇助の合法化法案が議会に提出されたが、いずれも否決された。2005年の法案は、末期疾患患者の自殺幇助を認める内容だったが、宗教団体や医療界の反対で失敗している。2015年の議会では、労働党議員ロブ・マリス氏の法案が賛成118票、反対330票で否決された。
 しかし、2021年の世論調査で英国成人の73%が条件付きで安楽死を支持し、世論の変化が顕著となった。2024年11月29日の法案初審議では、55票差で可決され、このおりは、労働党のキム・リードビーター議員が推進を主導した。彼女は姉ジョ・コックス元議員の2016年6月16日の殺害事件を引用し、「良い人が政治を変える」と訴えたものである。

欧州の動向

 欧州では、文化的・宗教的背景の違いが「安楽死」法制度の多様性を生んでいる。つまり、安楽死の合法化が進む国と慎重な国が共存する。スイスはそのお国柄とも言えるのかもしれないが、1942年以来、自殺幇助を認め、ディグニタス・クリニックは2024年に約500人の外国人が利用したと報告している。現在の動向に先行したオランダは2002年4月1日に、またベルギーは2002年9月28日に、ルクセンブルクは2009年3月20日に安楽死を合法化し、厳格な条件の下で年間数千人が利用している。スペインは2021年6月25日に合法化し、ポルトガルも2024年5月27日に安楽死法を施行した。
 対してフランスでは進展が遅い(余談だがフランスは女性の社会進出など社会変革に鈍いことがある)。エマニュエル・マクロン大統領は2023年4月3日、末期疾患患者に限定した安楽死法案の検討を表明した。また、2024年5月27日から6月9日の市民会議では、76%が合法化を支持したが、2025年2月15日の国民議会審議では、カトリック教会や保守派の反対により法案提出が見送られた。フランスでは、緩和ケアの不足が安楽死を求める動機ともされ、2024年12月1日に政府はホスピス予算を10%増額する方針を発表した。

日本における安楽死:遠い議論と今後の課題

 日本では、安楽死の議論は英国や欧州に比べて初期段階以前にあるといえる。現行法では、積極的安楽死は殺人罪(刑法第199条)に該当し、医師の自殺幇助も明確な法的枠組みがそもそも存在しない。この問題に関してよく引き合いに出される1991年の東海大学病院事件では、医師が末期疾患患者に薬物を投与し有罪判決を受けた。2006年の川崎協同病院事件でも同様の訴追があったが、まったく合法化の議論は進まなかった。
 日本尊厳死協会としては1976年以来、治療拒否を認めるリビング・ウィルの普及を進めるが、2023年時点でもその会員数は約13万人にとどまる。2024年10月のNHK世論調査では、尊厳死を67%が支持する一方、積極的安楽死は49%にとどまっている。日本障害者協議会も、英国同様に「弱者への強制」を懸念し、2024年11月に安楽死反対を表明している。
 今回の英国の2025年6月21日の法案可決は、日本でも議論を刺激する可能性があるといえるか。概ねないだろう。日本の社会的な障壁というより、そもそも日本では議論が社会的な現実性を持たない。日本での安楽死の議論としては、仏教や神道の影響で、命の尊厳が強調されたり、家族や社会の意向が優先されることが多いが、基本的に他人事の空気が漂う。
 日本でも高齢化率は2025年で36%を超え、終末期ケアの需要が増すが、緩和ケア病床は全国で約9000床(2024年厚労省データ)と不足している。緩和ケアの拡充と国民的対話が必要であるというのは正論だが、社会から覆われた現実の介護施設での現状は、私の観察だが、実質的に緩慢な安楽死のシステムが進行している。日本人はそれを表立っては語らないだけである。



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2025.06.20

都議選公報をAIに分析させたら、選挙が身近になった話

 都議選がやってくる。またか。うんざりだ。いつものように選挙公報がポストに投函されたが、ざっと目を通してもどの候補にも心が動かない。名前と顔、どうでもいいスローガンが並ぶだけで、具体性に欠ける。それと、学歴社会はどうかと思うし、むしろいわゆる低学歴の人が頑張るのはいいと思うけど、なんだろ、大学以降にある程度学問的な経歴を積んでいるという人はいない。まあ、毎回こんな感じだ。投票する意味あるのか。棄権しようかとさえ思う。投票したところで、身の回りの生活が劇的に変わるふうもない。

 と、なげやりな気分で、ふと思いついた。AIにこの公報を見せて、「どの候補がいい?」と聞いてみたらどうなるだろうか。

 どうせ「特定の候補は支持できません」とか、「どの候補も魅力的です」みたいな曖昧な答えが返ってくるに違いない。倫理的な理由で回答拒否される可能性もある。それも一興。半ば好奇心で、試しにやってみることにした。

 公報を開き、候補者の主張が書かれたページをスマホで撮影。画像をAIにアップロードして、「これ見て、どの候補がいいか教えて」と投げかけた。

 即座に答えが返ってくる。AIは公報から各候補の主張を読み取り、災害対策、都市インフラ、高齢者問題といった分野から、重点政策を項目ごとに整理して一覧表にしてくれた。しかも、各項目にどの候補がどれだけ力を入れているかを評点で示している。表はシンプルで、どの候補が何を重視しているかが一目でわかる。つまり、国政レベルの話、外交や憲法改正みたいなテーマは、さっさと無視できる。

 さらに、AIは「あなたが求める候補のタイプは」ととして、選択肢化して提示してきた。「災害対策を最優先」「都市インフラの老朽化対応を重視」「高齢者支援に力を入れる」といった項目を提示し、それぞれと候補の重点政策をマッチングさせた分析まで示してくる。これらな「災害対策を重視するなら候補Aが強く、避難所の整備や防災教育に具体的な提案があるが、インフラ老朽化にはやや弱い」「インフラと高齢者支援なら候補Bがバランスよくカバーしているが、災害対策は標準的」といった具合でわかりやすい。各候補の強みと弱みが、まるでパズルのピースのようにはっきりと見える。学習参考書かね。

 とはいえ、正直、驚いた。これまで公報なんてくだらない紙切れだと思っていた。候補者の主張は抽象的で、どれも似たり寄ったりである。自分が災害対策や都市インフラ、高齢者問題に関心があると漠然と思ってはいたが、具体的にどの政策が大事なのか、実はあまり深く考えていなかった。しかし、AIが作ってくれた表と分析を見ると、自分の優先順位がクリアになる。
 個人的には、最近の豪雨や地震のニュースのせいもあり、災害対策の具体性は譲れない。老朽化した橋や道路の補修も日々の生活で不便を感じる。高齢者問題も、親の介護経験からして他人事じゃない。AIにこれを伝えると、災害対策とインフラ整備に注力しつつ、高齢者向けの福祉施策も提案する候補が浮かび上がる。え、そうなの?と、その候補の公報を読み返すと、確かに避難所の耐震化や老朽インフラの更新計画、介護サービスの拡充が注力されている。さっきまで何も感じなかったのにな。

 このプロセスは、ただ情報を整理してくれただけでなく、私の身近な政治関心事を掘り起こし、何を基準に候補を選べばいいのかを明確にしてくれたわけだ。東京都議会選挙なんて、「おまえらに関係ない国政マターばかりで身近な問題は後回しだろ」と思っていたが、AIは、地域の災害対策、インフラ、高齢者問題に絞って分析できる。というか、政党への偏見が中和された。

 棄権しようかと投げやりだった気持ちが、「投票する意味があるかもしれない」に変わる。AIは、当然だが、特定の候補を押し付けるのではなく、私が何を求めているのかを整理し、それに合う選択肢という形状にして示してくれたわけだ。

 こんな風に選挙に向きあうとは、想像もできなかったし、AIがここまで身近な課題と選挙をつなげてくれるなんて、驚いた。これからの時代、AIテクノロジーがこんな風に私たちの選択を後押ししてくれる場面は増えるのかもしれない。

 まあ、アイロニカルに言えば、これを逆の処理をすれば理想の公報が書けてしまうのかもしれないけど、そうなるなら都議の通信簿も参照できるようにすればいいのだろう。



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2025.06.19

ロアノーク植民地の謎

 何気なくニュースアプリをスクロールしていたら、「アメリカの『失われた植民地』の謎が440年ぶりに解明か」という見出しに目が止まった。ロアノーク?
 歴史にはそれなりに興味があるつもりだったのに、知らない話だなあと思った。まあ、知らないことは多いものだし、なんとなく気になって記事を読んだ。記事によると、ノースカロライナ州のハッテラス島で小さな鉄の破片が見つかり、1587年に消えた入植者の運命が明らかになったかもしれないというのだ。米国や英国では有名な歴史ミステリーらしい。邪馬台国の所在地や徳川埋蔵金みたいなものだろうか。もう少し国民感情的なもののようだ。どんな物語なのか、なぜ今注目されているのか、調べてみた。といっても、このご時世、このてのことは簡単に調べられ、UNIQLOの商品みたいに知識が並んでいる。

ロアノーク植民地とは何か

 ロアノーク植民地、通称「失われた植民地」は、アメリカ初の恒久的英国入植地として1587年に設立された。場所は現在のノースカロライナ州、ロアノーク島。ウォルター・ローリー卿が主導し、100人以上の入植者が新天地での生活を始めた。この中には、総督ジョン・ホワイトの娘エレノア・デアや、アメリカで生まれた最初の英国人といわれる孫娘バージニア・デアもいた。しかし、この植民地の物語は開始早々に暗転する。ホワイトが物資調達のため英国に戻り、1590年に島に帰還したとき、植民地は跡形もなく消えていたというのだ。家屋も人もなく、ただ柵に「CROATOAN」という文字が刻まれていたと。この文字は、近くのハッテラス島(当時はクロアトアン島)か、クロアトアン族を指すとされるが、真相は不明である。というか、こういうのは「たまらん」。入植者は先住民に殺されたのか、飢餓で死に絶えたのか、それとも別の土地へ移ったのか。きっと正解はゾンビに違いない(そんなわけはないのだが)。
 400年以上にわたり、この謎はアメリカ史の未解決事件として語り継がれてきた。この不可解な失踪劇は、単なる歴史の出来事にとどまらない。なぜロアノークはなぜ彼らを今も惹きつけるのか。

なぜロアノークの謎は問題なのか

 ロアノークの失踪がこれほど注目されるのは、歴史的・文化的な意義が大きいから、ということのようだ。ロアノークは、英国が新世界で初めて本格的な植民を試みた場所で、ピルグリム・ファーザーズの「成功」より端役、それにつながる第一歩だった。13州の起源とされるジェームズタウンよりも早い。
 なのに、それは失敗した。というか、謎めいた消失だった。なるほど、これは単なる歴史的事件を超え、ミステリーとしての魅力を放つ。日本でいえば、邪馬台国の所在地のような呑気な老人向けの話題とは違うようだな。むしろ、未解決事件の謎に似ている。
 というわけで、米国では、学校の歴史授業で取り上げられ、『American Horror Story』のようなテレビ番組や小説、ドキュメンタリーで繰り返し題材にされたらしい。ノースカロライナ州では「The Lost Colony」という野外劇が毎年上演され、観光名物にもなっているとのこと。
 英国では、植民地拡大の初期の挫折として、歴史家や文化研究者の間でよく語られる。ロアノークの謎は、単に「人が消えた」だけでなく、ヨーロッパ人と先住民の出会い、生存競争、文化や技術の交流といった大きなテーマを内包し、まあ、ロマンを駆り立てるのだ。入植者は、当地のクロアトアン族に同化したのか、虐殺されたのか、飢餓で死んだのか。さまざまな仮説が議論を呼ぶ。英米ではこの話が不朽のミステリーとなっている。

新発見が示すもの

 最近では米国の話題はフォックス・ニュースを追うしかないことが多いが、そこで紹介された新発見についての話題では、ロアノークの謎に新たな光を投じるという趣向だった。英国ロイヤル農業大学のマーク・ホートン教授とクロアトアン考古学会のチームが、ハッテラス島のクロアトアン族のゴミ捨て場(ミデン)から「ハンマースケール」という小さな鉄の破片を発見したという。これは、鍛冶作業で生じる鉄のフレークで、当時の先住民にはない技術だった。つまり、英国人入植者がハッテラス島で鉄を加工していた証拠だというのだ。この破片は16世紀末から17世紀初頭の地層から見つかり、ロアノーク入植者が消えた時期と一致する。さらに、銃、航海用具、砲弾、ワイングラス、ビーズといった英国製の遺物も発掘され、入植者がクロアトアン族と共存していた可能性を示す。そこで、ホートン教授は、入植者が悲劇的な結末ではなく、先住民社会に同化したと主張すると。18世紀の記録には、青や灰色の目を持つ人々や「ローリーが送った幽霊船」の伝説が残り、これが同化説を裏付ける。
 つまり、従来の「虐殺」や「飢餓」のイメージを覆すこの発見は、植民地史を単なる征服や衝突ではなく、共生と融合の物語として再考させるわけで、なんとも現代向けのおあつらえの解釈にあう発見である。話が逆のような気もするが。
 かくして、ヨーロッパ人とアメリカ先住民の交流史に新たな視点をもたらし、入植者の子孫が18世紀までハッテラス島で暮らしていた可能性を示唆するのだ。まあ、簡単にいえば、呑気な与太話の印象は拭えない。科学的証拠とやらは、そう語られるときは、たいていインチキ臭くて、ネット民のご馳走になってぽつぽつと発狂者が生じる。定番。かくして、ロアノークの謎は消えない。謎であるニーズが高いのだから、備蓄米を出しても無駄だ。歴史の空白を埋める発見は、まあ、繰り返すことに意味がある。
 とはいえ、ロアノークの物語はけっこう面白いなあと思ったのであった。



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2025.06.18

中国人留学生を巡る米国の事件

 このところ、米国では中国人留学生や研究者が関与する事件が注目を集めている。2025年6月、武漢の華中科技大学の博士課程学生、韓承軒(Chengxuan Han)がミシガン大学に線虫関連の生物学的材料を密輸しようとして逮捕された。同年、温盛華(Shenghua Wen)が北朝鮮への軍事品密輸で有罪を認め、2024年7月には劉尊勇(Zunyong Liu)が小麦に被害を与える真菌を密輸しようとしたとして摘発された。これらの事件は、トランプ政権の対中強硬姿勢の下で「中国による攻撃」として強調され、トランプ大統領の意向によるものとのナラティブが広がっている。しかし、実際には、これらの事件は米国政府の長年にわたる安全保障戦略に基づくものであり、FBIや司法省の継続的な取り組みの結果である。

スパイ防止と生物学的監視

 米国政府は、2000年代から中国を「戦略的競争相手」と見なし、スパイ活動や技術流出への監視を強化してきた。2018年に開始された「中国イニシアチブ」は、大学や研究機関での中国関連の不正行為を摘発する取り組みで、2020年にはハーバード大学のチャールズ・リーバー教授が中国の「千人計画」関与で逮捕された。このプログラムは、バイデン政権下でも継続し、2021年〜2024年に複数の研究者が調査対象となった。米国農務省(USDA)と国土安全保障省(DHS)は、バイオテロや食糧安全保障の脅威にも注目。たとえば、2024年7月の劉尊勇事件では、FBIと税関当局(CBP)が、小麦に赤かび病を引き起こす真菌(フザリウム・グラミネアラム)を「潜在的な農業テロ兵器」と認定し、迅速に対応した。この真菌は、収穫量を大幅に減らし、毒素による健康被害を引き起こす可能性がある。
 韓承軒事件では、2025年6月にデトロイトの空港でCBPが生物学的材料を押収。FBIと移民税関捜査局(ICE)が韓の電子データ削除や虚偽申告を確認し、逮捕に至った。線虫は基礎研究のモデル生物だが、不正な持ち込みは生物学的安全保障のリスクとみなされた。温盛華事件では、2023年に北朝鮮への銃器や軍事技術の密輸が発覚し、2025年に有罪判決が下された。これらの事件は、米国政府が政権交代に関係なく、スパイ防止、バイオテロ対策、国際制裁の執行を一貫して推進してきた結果である。国家安全保障戦略(2017年、2022年)は、中国からの技術流出や生物学的脅威を優先課題とし、FBIや司法省が標準プロトコルに従って対応している。

中国側の公式見解と武漢の研究環境

 中国側は、これらの事件に対し、公式には限定的な反応を示している。韓承軒事件について、中国外務省は2025年6月の時点で具体的なコメントを避け、「個人の行為であり、中国政府とは無関係」との立場を過去の類似事件で繰り返してきた。たとえば、2024年7月の劉尊勇事件では、中国政府は「米国が根拠なく中国を標的にしている」と反発し、武漢ウイルス研究所の石正麗研究員が2024年12月にコロナウイルス配列を公開した際も、「透明性を確保している」と主張した。武漢は、COVID-19の起源を巡るラボリーク仮説で注目される都市だが、華中科技大学はウイルス研究よりもバイオテクノロジーや基礎科学に強みを持つ。韓が密輸した線虫は、遺伝子研究で一般的に使用されるが、中国側はこれを「学術目的の通常の研究材料」とみなす可能性が高い。
 劉尊勇事件では、中国の農業研究機関がフザリウム・グラミネアラムの研究を行っており、病害対策を目的とした正当な研究との主張が考えられる。しかし、米国司法省が「農業テロ」と認定したことで、中国側は「科学の政治化」と批判。温盛華事件では、北朝鮮との連携が問題視されたが、中国政府は「個人の犯罪行為であり、国家の関与はない」と否定する見解を示している。武漢の研究環境は、厳格な管理下にあると中国側は主張するが、COVID-19以降、国際的な監視の対象となっており、韓や劉の事件はこうした不信感を増幅させる。中国の公式見解は、米国が地政学的対立を背景に中国人研究者を不当に標的にしているという立場を強調する。

トランプ政権のレトリックと事件の政治化

 トランプ政権は、2025年1月の再就任以来、対中強硬姿勢を強化している。2025年5月、DHSはハーバード大学のSEVP認証を取り消し、中国人留学生のビザ制限を再開。これは、トランプの「アメリカ第一」政策と、中国を「戦略的脅威」とみなすレトリックに合致する。韓承軒事件の報道では、司法省が「安全保障を脅かす」と強調し、武漢の関与を前面に押し出した。フォックスニュースやXでは、トランプ支持層が事件を「中国のバイオテロ」と結びつけ、バイデン政権の「弱腰」を批判。劉尊勇事件も、2024年7月の発覚後、2025年に「アグロテロ」として再注目され、トランプの対中政策の成果として語られる傾向がある。
 トランプ政権は、2025年4月にCOVID-19ラボリーク仮説を公式支持し、武漢ウイルス研究所への不信感を煽った。韓や劉の事件は、この文脈で「中国の生物学的脅威」として政治的に利用された。しかし、捜査自体はトランプの直接指示によるものではなく、FBIや司法省の既存のプロセスの結果である。トランプのレトリックは、事件を国民に訴えるツールとして機能し、対中強硬姿勢を正当化する役割を果たした。中国側は、こうした政治化を「反中プロパガンダ」と批判し、科学や学術交流の妨害とみなしている。

バイデン政権下での継続的な対応

 バイデン政権(2021年〜2025年)も、中国人留学生や研究者のリスクを監視していた。劉尊勇事件は2024年7月にバイデン政権下で発覚し、司法省が真菌を「農業テロ兵器」と認定。FBIとCBPが迅速に対応し、食糧安全保障への脅威として公表した。温盛華事件の密輸行為(2023年)に対する捜査も、バイデン政権下で開始された可能性が高い。2021年、バイデン政権はCOVID-19の起源調査を指示し、武漢ウイルス研究所のラボリーク仮説を検討したが、結論は曖昧だった。トランプ政権の関税や技術輸出規制の一部を継承しつつ、気候変動や通商での協力を模索するバランスを取った。
 トランプ政権下の話題と見られがちなハーバード大学への規制の基盤も、バイデン政権下ですでに築かれた。2020年代初頭から、議会やDHSは「千人計画」や学術スパイを調査し、大学への監視を強化。2025年5月のSEVP認証取り消しはトランプ政権下で実行されたが、準備はバイデン政権下で進んでいた。中国側は、バイデン政権の対応を「科学の抑圧」と批判し、劉や温の事件を個人の行為として扱うよう求めた。米国政府の安全保障戦略は、政権に関係なく、スパイ防止や生物学的リスクへの対応を継続しており、トランプ政権の強調が事件の注目度を高めたに過ぎない。



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2025.06.17

イスラエル・イラン戦争: 代替選択肢は現実的だったか

 2025年6月13日、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はイランの核施設に対する大規模な軍事攻撃を開始した。攻撃はイランの防空システムをほぼ壊滅させ、軍事および科学分野の指導者を排除するなど、突然であったが綿密に計画された作戦であったかにも見える。ネタニヤフは明確な二つの目標を掲げた。イランの核プログラムの破壊と、聖職者体制の打倒である。しかし、こうした攻撃以外の選択肢は本当に存在しなかったのだろうか。外交交渉、限定的な軍事行動、国際的圧力の強化といった代替案は理論上考えられる。

外交交渉:繰り返された不信の歴史

 イラン核問題を巡る外交交渉は、過去に何度も試みられてきた。2015年のイラン核合意(JCPOA)は、イランのウラン濃縮を制限し、国際査察を受け入れる代わりに経済制裁を緩和する枠組みだった。しかし、ネタニヤフは当時からこの合意を「歴史的過ち」と批判し、イランが核兵器開発を秘密裏に進める可能性を指摘していた。実際、イスラエルの情報機関モサドは2018年にイランの核関連文書を盗み出し、合意後もイランが核開発に関連する活動を続けていた証拠を公表したことがある。この経緯から、ネタニヤフはイランが外交交渉で誠実に対応するとは信じていなかった。国際社会もそれを看過してしまった。
 2025年になり、トランプ政権下で新たな核合意に向けた交渉が進められていたが、ネタニヤフはこれにも懐疑的だった。2023年10月のハマスによる攻撃で約1200人のイスラエル人が殺害され、ネタニヤフの安全保障政策は国内で厳しい批判にさらされていた。交渉を選択すれば、「弱腰」と見なされ、支持基盤を失うリスクが高かった。
 しかし、こうしたネタニヤフ政権の都合以外にも、イランは交渉中にウラン濃縮を加速させる可能性があった。IAEAの報告によれば、2024年末時点でイランは60%濃縮ウランを十分に保有しており、兵器級の90%まで濃縮すれば数発の核爆弾を製造可能となってきた。時間的制約とイランへの不信から、外交交渉はイスラエルの即時的な安全保障ニーズに応えられないとまで、ネタニヤフは追い詰められていたが、現実のイスラエルにはその代わりとなる指導者の選択肢はなかった。

限定的な軍事行動:過去の失敗と限界

 イスラエルは過去にも、イランの核プログラムを遅らせるために限定的な軍事行動を展開してきた。2010年のスタックスネット・ウイルスによるサイバー攻撃は、イランの遠心分離機を破壊し、核開発を数年遅らせた。2007年から2022年にかけて、少なくとも6人のイラン核科学者が暗殺され、モサドの関与が疑われた。これらの行動は一時的な効果を上げたが、イランの核プログラムを完全に停止させるには至らなかった。2025年の時点で、イランのフォルドウ施設は地下約800メートルに位置し、通常の爆撃では破壊が困難である。IAEAのラファエル・グロッシ事務局長は、米国の2,000ポンド深部貫通爆弾でもフォルドウの核心部分を破壊するのは難しいと指摘していた。
 また過去の限定的な攻撃は、イランの報復リスクも高めた。2024年4月、イランはイスラエルへの報復として300発以上のミサイルとドローンを攻撃し、イスラエルのアイアンドーム防空システムを部分的に突破してしまった。この攻撃で民間人10人以上が負傷し、報復の連鎖がエスカレートする危険性が明らかだった。このことから、今回の攻撃開始時にイスラエルはイランの防空システムをほぼ無力化を目指し、軍事指導者を排除していった。この一時的な優位性を活用せずに、従来のような限定的な攻撃に留まれば、イランが軍事力を再構築する時間を与えることになり、イスラエルの戦略的機会を失うリスクがあったとネタニヤフが考えても不思議ではない。過去の秘密工作の限界と、全面攻撃の必要性を考慮すると、限定的な軍事行動は非現実的だった。

国際的圧力と制裁:耐え抜くイランの歴史

 国際的な経済制裁や外交的孤立を通じてイランに圧力をかける選択肢も考えられ、そして実際には虚しかった。米国は2018年にJCPOAから離脱後、イランに「最大限の圧力」政策を課し、石油輸出を大幅に制限した。2020年時点でイランの原油輸出は日量200万バレルから50万バレル以下に激減し、経済は深刻な打撃を受けた。しかし、イランは1980年代のイラン・イラク戦争や長年の制裁を耐え抜き、密輸や中国への輸出などで経済を維持してきた。2025年時点でも、イランのGDP成長率は2%程度で推移し、政権の崩壊に至らない。サウジアラビアとUAEは2023年にイランとの外交関係を正常化し、軍事的な対立を避ける姿勢を示していた。
 制裁強化は基本的に時間のかかる戦略であり、イスラエルの安全保障上の緊急性に応えられなかった。イランは2024年にIAEAの査察を一部制限し、核不拡散条約(NPT)からの脱退を示唆していた。制裁がさらに強化されれば、イランがNPTを完全に離脱し、核開発を加速させるリスクが高まる。ネタニヤフにとって、制裁はイランの核プログラムを即座に阻止する手段ではないと映った。むしろイランの抵抗を強める可能性さえある。過去の制裁の限界と、地域の地政学的変化を考慮すると、国際的圧力は実行可能な選択肢ではなかった。

軍事行動に至った必然性

 ネタニヤフが軍事行動を選んだ背景には、こうした過去の経緯と当時の状況が重なる。2023年のハマス攻撃は、イスラエル国内でネタニヤフへの信頼を揺らし、強硬な対応を求める声が高まった。イランの核プログラムは、IAEAの2024年報告で「兵器化可能な水準」に近づいており、放置すればイスラエルの存亡を脅かすリスクがある。トランプ政権の復帰により、米国からの情報共有や暗黙の支持が期待できる一方、ロシアはウクライナ戦争に注力し、サウジアラビアやUAEはイランとの対立を避けていく。このタイミングは、イスラエルがイランの防空システムと軍事指導者を無力化する絶好の機会だったとみなすことは、誰も予期したくはなかったが、事後に考えれば実は不思議でもなかった。
 外交交渉はすでに言及したようにイランへの不信と国内の政治的圧力により非現実的だった。限定的な軍事行動は過去の失敗から効果が不十分と判断され、国際的圧力はイランの耐性と地域の変化により成果を上げられなかった。
 ネタニヤフにとって、軍事行動はイランの核脅威を即座に弱め、国内支持を回復する唯一の現実的な選択でもある。しかし、現状、フォルドウ施設の完全破壊や政権打倒の達成は依然として困難であり、攻撃の長期的な影響は不透明である。理想的な平和や勝利を夢見る声は多いが、現実の地政学はそんな単純な解決を許さない。



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2025.06.16

イラン・イスラエル紛争の現実と展望

 2025年6月16日現在、イスラエルとイランの軍事衝突は激化し、情報戦の渦中で真実を見極めるのが困難である。そこで、イラン側の主張から事実性の高い部分を参考に、イスラエルの具体的な行動を評価し、戦争の展望を探ってみたい。さらに、西側メディアの報道とのギャップを、情報戦とプロパガンダの視点から具体的に分析する。特に、イスラエルの行動が「プロービング(試探)」の可能性を含む点に焦点を当てたい。

イラン・イスラエル紛争の事実性の解明

 2025年6月12日、イスラエルはイランの核施設(ナタンズ、フォルドゥ)、ミサイル基地(ホルモズガン州)、石油精製所(アバダン)、革命防衛隊(IRGC)関連施設を標的に大規模な空爆を開始した。F-35戦闘機、F-15、ドローン(ヘルメス900)、スタンドオフ兵器(Popeyeミサイル)を使用し、6月15日時点で攻撃は断続的に継続している。イランは報復として、6月13日からイスラエルのネバティム空軍基地やラモン基地、テルアビブ近郊のモサド施設に弾道ミサイル(Kheibar Shekan、射程1450km)、ドローン(Shahed-136)を発射した。テヘランは6月15日朝に一時静穏だが、双方の攻撃は収まらず、戦争は長期化の兆しを見せる。
 事実性の高い情報として、イランの重要施設の地下化が確認される。フォルドゥ核濃縮施設は地下80mに位置し、ナタンズも2020年代初頭の攻撃(Stuxnetによる爆発)後、地下施設を拡張している。ミサイル基地は「ミサイル都市」として、ケルマン州やホルモズガン州に地下トンネル網を構築した(IRGC映像、2022年)。これらは通常爆弾(JDAM、GBU-31)では破壊困難で、イランの報復能力(第二撃)を保証する非対称戦術である。
 防空システムはロシア製S-300や国産Bavar-373で、ドローンや巡航ミサイルを一部迎撃。2019年の米軍Global Hawk撃墜や2023年のイスラエルドローン迎撃が実績としてあるが、F-35のステルス性は突破され、地上施設(レーダー、石油タンク)に損傷している。
 イランの報復はネバティム基地の滑走路に軽微な損傷を与えた(IDF発表、2023年類似事例)が、イスラエルのArrow-3防空システムで70~90%迎撃(CSIS、2024年)とのこと。国際社会では、中国(外務省声明、2025年6月13日)とロシア(RT、2025年6月14日)がイスラエルを「主権侵害」と非難し、南アフリカやインドネシアも国連総会で批判(2023年ガザ決議の延長)している。欧米は「エスカレーション停止」を求めるが、米国はイスラエル支援が基調にある。イランはインターネットを制限し、情報統制で被害を過小報告しており、これらは衛星画像、IAEA報告、シンクタンク分析で裏付けられる。

イスラエルの行動の評価

 イスラエルの攻撃は、軍事的・政治的・情報収集的な目的を持つ。特に、攻撃の一部が「プロービング(試探)」である可能性が高い。これは、防空網や反応をテストし、将来の大規模攻撃に備える戦略だ。具体的な行動と評価は以下の通り。
 まず、軍事目的として、核プログラムの抑制とイラン軍の弱体化を狙う。ナタンズの地上施設(遠心分離機組み立て工場)は2025年6月13日の攻撃で損傷したようだ。IAEA(2024年推定)によると、濃縮能力が一時的に10~20%低下した。石油精製所(アバダン)やIRGCのレーダーサイト(テヘラン近郊)も破壊され、補給や指揮統制に影響していると見られる。これらはイランの作戦能力を削ぐが、フォルドゥやミサイル基地の地下施設は無傷(IAEA、2025年推定)であろう。
 プロービングとして、イスラエルは意図的に多様な兵器(ドローン、巡航ミサイル、弾道ミサイル)を投入し、イランのS-300やBavar-373の反応を観察し、レーダー位置(例:イスファハン周辺)や迎撃率を把握し、将来の侵入経路を特定している。2023年のイスファハン攻撃でも同様の試探が確認されている。
 ネタニヤフ首相はイスラエル国内政治向けに「イランの核脅威を排除する」と国民に訴えることで、脆弱な存立基盤に支持を固める意図はあるだろう。
 外交的には、ヒズボラやハマスへの攻撃で弱体化したイランの代理勢力を牽制し、サウジアラビアやUAEとの連携を強化したいところだ。対イランとしては、心理戦的に、「イラン本土を自由に攻撃可能」と示し、IRGC指導部にプレッシャーを与えるているつもりだろう。
 しかし、限界も明確である。地下施設の耐久性により、イランの核・ミサイル能力は維持され、イランの報復はネバティム基地の格納庫やテルアビブのレーダーに軽微な損傷である。民間人被害は国際批判を招き、国連総会で非難決議案が浮上している。プロービングの成功は今後の情報収集に寄与するが、軍事的決着には遠く、ゆえに消耗戦が予期されている。

戦争の展望

 短期的(数週間~1か月)には、イスラエルとイランの相互攻撃が続く。イスラエルはナタンズやIRGCの訓練施設を追加攻撃する。イランはKheibar ShekanやShahed-136でラモン基地やハイファのインフラを標的している。双方の防空網によって攻撃の7~8割が無効化されるが、民間人死傷者(例:テヘランで10人、テルアビブで5人、Guardian、2025年6月15日)は増加するだろう。
 核エスカレーションは意外と低い。イスラエルがバンカーバスター(GBU-57)を用いる可能性は囁かれるが、IAEAや米国の圧力で抑制されている。米国が直接介入すれば、イランはペルシャ湾の米軍基地(バーレーン、カタール)を攻撃するだろう。米国はArrow-3ミサイル提供や情報支援に留まる公算である。
 中期的(数か月~1年)には、消耗戦が主軸となるだろう。イスラエルの攻撃はイランの石油輸出(日量200万バレル、2024年)を10~15%削減(仮にBloomberg、2025年6月)する。イランは迎撃ミサイル(Sayyad-3)の消費で財政負担増(SIPRI推定、2024年)となる。
 イランの報復はイスラエルの防空コスト(1発5000万円、CSIS)を増大させるが、決定的打撃は困難であろう。停戦にはイスラエルの後退が必要だが、ネタニヤフの強硬姿勢とイランの報復継続で妥協は遠い。国連総会は非難決議を可決する可能性が、米国の拒否権で実効性はなし。いつものことだ。
 長期的(1年以上)には、イスラエルの地域主導権が強化される可能性がある。サウジアラビアやUAEとの経済・安全保障協力が進む。イランの核プログラムは遅延するが、地下施設で再構築されるだろう。BRICS(主に中国・ロシア)からの支援(ドローン技術や経済援助)でイランは孤立を回避するだろう。原油価格は10~20%上昇で、グローバル経済に影響する。

西側プロパガンダとのギャップ

 西側メディア(BBC、CNN、Reuters)は、イスラエルの攻撃を「精密で効果的」と報じ、ナタンズやミサイル基地に「壊滅的打撃」と誇張(例:NY Times、2025年6月14日)し、イランの報復は「失敗」「民間被害」と矮小化し、テルアビブの死傷者を強調する。地下施設の耐久性やイランの報復能力(ネバティム基地の損傷)は背景扱いとなり、核開発やヒズボラ支援が紛争の原因とされ、「イラン=脅威」の枠組みが支配的である。
 このギャップは情報戦の産物にすぎない。西側は米国・イスラエルの情報機関や衛星画像(Maxar)に依存しているだけだ。速報性を優先し、イスラエルの「全機無事」を検証なく報じたのは滑稽である。イランの情報統制は内部情報の入手を阻み、地下施設の無傷が軽視されている。
 歴史的バイアス(1979年革命、1980年代人質事件)がイランの「テロ国家」のイメージを強化し、防衛戦略(地下化の合理性)や過去の西側介入(1953年クーデター)への不信は無視される。Al JazeeraやPress TVでは、イランの報復成功やBRICSの支持が強調されるが、西側では報じられにくい。
 

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2025.06.15

精密工作戦の出現とその本質

 イスラエルとイランの紛争やウクライナとロシアの戦争で、従来の軍事理論を超越する戦術が浮上していると考えるべきではないか。この戦術は、情報戦、AI、ドローン、秘密工作を融合させ、敵の中枢をピンポイントで無力化するもので、ここでは「精密工作戦(Precision Covert Warfare)」と呼ぶことにする。モサドによるイラン国内の防空システム破壊や、ウクライナの「スパイダーウェブ作戦」に代表されるこの戦術は、敵の防衛網を内部から崩壊させ、心理的・戦略的混乱を誘発する。その本質は、技術の非対称性と情報優位性を活用し、低コストで高効果を達成することにある。特に、敵の指導者や重要人物を標的とする「斬首作戦」への応用が容易であり、従来の正面衝突とは異なり、「見えない戦場」を構築する。
 この戦術は、軍事理論の第四世代戦争(4GW)やハイブリッド戦争に部分的に当てはまるが、実戦形態は予測を上回る。モサドがイランの核科学者を暗殺したり、防空レーダーを工作で無力化したりした事例、ウクライナがロシアの将校や補給拠点をドローンで攻撃したケースは、精密工作戦の具体例である。斬首作戦への応用は、モサドがイラン軍首脳を欺く会議に誘導し、ドローンでピンポイント攻撃した事例に顕著だ。こうした戦術は、敵の意思決定を即座に麻痺させ、戦争の定義を変えている。

背景:技術革新と地政学的制約

 精密工作戦の出現は、技術革新と実戦経験の相互作用に根ざす。ドローン技術の低コスト化と高性能化が進み、商用ドローンは数百万円で入手可能になり、AIによる自律飛行や精密誘導を実現した。イスラエルはシリアでの実戦でドローンを活用し、ウクライナは2022年のロシア侵攻以降、バイラクタルTB2やFPVドローンで戦果を挙げた。これらの実戦データが、精密工作戦を洗練させた。また、情報戦の進化も鍵である。モサドはイラン内部の監視やサイバー攻撃で敵の動向を把握し、ウクライナはロシア軍の通信をハッキングして攻撃精度を高めた。AIによるデータ解析は、標的の特定や作戦の最適化を可能にする。
 秘密工作の高度化もこの戦術を支えている。モサドの工作員はイランに潜入し、ミサイル基地に爆発物を仕掛け、ウクライナはロシア国内のインフラを破壊する工作を実施した。この際、地政学的制約も背景にあるが、イスラエルはイランの核開発を阻止するため、正面衝突を避けつつ効果的な打撃を追求した。ウクライナはロシアの物量戦に対抗するため、限られた資源で最大の戦果を求めた。この制約が逆に、精密工作戦の開発を加速させてきた。そのことからもわかるように、この戦術は国家間だけでなく、非国家主体にも適用されやすい。ヒズボラやフーシ派がドローンで攻撃を試みる例は、技術の民主化が非国家主体に精密工作戦の要素を拡散させていることを示す。

影響:防衛概念と国際秩序の再定義

 精密工作戦は、従来の防衛概念を揺さぶる。イランのS-300がモサドの工作で無力化された事例は、防空網の脆弱性を露呈した。層状防衛は外部攻撃には対応できるが、内部からの破壊工作には脆い。ウクライナがロシアの補給線をドローンで攻撃したケースも、従来の防衛線を無意味化する。斬首作戦への応用は特に深刻である。敵指導者をピンポイントで排除する能力は、国家の指揮系統を瞬時に崩壊させ、報復を困難にする。超大国である米国すらこの脅威に無防備である。パトリオットやTHAADは高度だが、内部工作やドローン攻撃への対応は限定的である。広大なインフラと開放的な社会は、原理的に潜入工作に脆弱である。

 すでに言及したように、この戦術は国家間だけでなく、非国家主体によるテロやゲリラ戦にも応用できる。低コストのドローンやハッキングツールは、テロ組織が都市や重要施設を攻撃する手段を提供する。
 結果的に国際法も挑戦を受けることになる。精密工作戦は秘密性が高く、攻撃主体が不明瞭なため、責任追及が難しい。モサドの暗殺やウクライナのロシア国内攻撃は、「武力攻撃」の定義すら曖昧にする。非国家主体がこの戦術を採用すれば、国際秩序はさらに不安定化するだろう。国家は、旧来通り、防空システムの冗長化や内部セキュリティの強化を迫られるが、精密工作戦への対応コストと技術的難易度は高い。つまり、軍事力の非対称性を拡大し、強国を無防備にするリスクを増大させ、旧来の防衛の概念に変更を強いる。

戦争の新パラダイムと課題

 精密工作戦は、戦争の未来を再構築するだろう。技術の拡散が加速し、ドローンやAIは非国家主体に広がる。既にヒズボラやフーシ派が低コストドローンで攻撃を試み、精密工作戦の要素がテロ組織に浸透しつつある。斬首作戦への応用は、国家だけでなく、企業や民間組織の指導者を標的とするリスクを高める。情報戦の重要性も増す。精密工作戦は情報優位性なくして成立せず、監視、データ解析、心理戦の統合が勝敗を分ける。国家は情報機関の強化や民間技術の軍事化を急ぐが、サイバー攻撃やフェイクニュースが社会分断を加速させる。
 当然、軍事理論にも変革を迫る。第四世代戦争やハイブリッド戦争を超え、AIと工作の融合は「第五世代戦争」の萌芽である。米国や中国は、従来の軍事優位を維持するため、戦略を再構築せざるを得ないが、対応は間に合わないだろう。かくして精密工作戦は、戦争の規模を縮小させつつ効果を最大化する新たな標準として急速に定着する。また、AIの浸透による機械化・合理化はそもそも精密工作戦の効果を増大させる。



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2025.06.13

イスラエルによるイラン攻撃

 2025年6月13日、イスラエルがイランに対して大規模な軍事攻撃を敢行した。この攻撃では、約200機の戦闘機を動員し、イランの核施設(ナタンズなど)やミサイル基地を破壊するとともに、革命防衛隊司令官ホセイン・サラミ、軍参謀総長モハマド・ホセイン・バゲリ、緊急司令部司令官ゴラム・アリ・ラシドら高級軍人や核科学者を標的にした「斬首作戦」を特徴とする。イスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフは、攻撃を「ライジング・ライオン作戦」と名付け、イランの核兵器開発が「イスラエルの存続を脅かす」と正当化した。イランは即座に約100機のドローンで報復を試みたが、多くはイスラエル軍に迎撃され、限定的な反撃に終わった。
 この攻撃の背景には、当然とも言えるが、長年にわたるイスラエルとイランの緊張関係がある。ネタニヤフは、イランの核開発を阻止する姿勢を繰り返し強調し、特に最近では「イランが15発の核爆弾を製造可能な材料を保有している」との情報を根拠に、攻撃の緊急性を訴えた。また、ヒズボラなどイランの代理勢力が近年弱体化していることも、イスラエルが攻撃の好機と判断した要因だろう。しかし、今回の攻撃ではそのタイミング自体が注目を集める。米国とイランの核交渉が、6月15日にオマーンで6回目の協議を控えていた。この交渉は、トランプ政権がイランの核開発を外交的に抑制する試みであり、一定の進展が期待されていた。とすれば、イスラエルの攻撃は、この交渉を意図的に妨害する狙いがあったと見るべきだろう。オマーンの非難声明やイランの交渉撤退表明は、イスラエルが中東の外交地図を強引に塗り替えたことを示す。

トランプへの通知は12時間前の可能性

 トランプ大統領は、イスラエルの攻撃を事前に知っていたと述べ、「驚きはなかった」と強調した。しかし、通知のタイミングは不明である。私は、トランプが攻撃を知ったのは、せいぜい12時間前、つまり6月12日夕方から夜にかけてではないかと推測する。その理由は、米国がイランとの核交渉を控えていたことと、イスラエルの戦略的意図にある。
 トランプ政権は、6月15日のオマーンでの交渉を通じて、イランの核開発を抑制する外交成果を目指していた。イスラエルの攻撃は、この努力を直接的に既存するものであり、トランプにとって望ましくないタイミングだったはずだ。顔に泥を塗ると言っていいかもしれない。なので、仮にイスラエルが数日前に詳細な計画を共有していたら、トランプは交渉への影響を考慮し、攻撃の延期や調整を求める可能性があっただろう。しかし、攻撃が交渉の直前に実行されたことから、イスラエルは米国に実質的な介入の余地を与えず、既成事実を作る意図を持ったと推測される。12時間前の通知なら、米国は対応を準備する時間がほとんどなく、イスラエルの行動を黙認せざるを得なかった。
 この推測を裏付けるもう一つの要因は、イラクからの米国関連者の撤退だ。2025年6月12日、米国はイラクから一部の外交官や非必須職員、および軍人の家族の退去を決定した。これはイランやその代理勢力による報復リスクを警戒した動きと見られる。米国中央軍(CENTCOM)が高度な警戒態勢に入り、イスラエルのアイアンドームミサイルを補充していたことも、米国が中東でのエスカレーションをある程度想定していた証拠だ。しかし、逆にその撤退のタイミングから推察するなら、米国は1~2週間後の緊張激化を予想していた可能性が高く、イスラエルの即時攻撃は想定外のスピードだったはずだ。イスラエルがトランプに直前まで詳細を伏せたのは、核交渉の妨害とイランの弱体化を優先し、米国の外交戦略を二の次にした結果と考えられる。

過去の類似攻撃

 今回の攻撃は、イスラエルが過去に採用した戦略を反映している。特に、2024年11月のレバノンでのヒズボラに対する作戦がモデルだ。この作戦では、イスラエルはヒズボラのミサイル基地を破壊しつつ、リーダーであるハッサン・ナスララを含む幹部を標的にした「斬首作戦」を展開した。結果、ヒズボラの指揮系統は混乱し、報復能力が大幅に低下した。イスラエルは、この成功をイランに応用し、核施設の破壊と軍事指導部の排除を同時に狙った。しかし、ヒズボラ作戦との違いは、今回の攻撃が国家レベルのイランを直接標的にした点である。ヒズボラは代理勢力だが、イランは最高指導者アリ・ハメネイの下で強固な体制を持つ。指導部の排除は短期的には効果的だが、イランの報復意欲を高め、強硬派の影響力を増すリスクがある。
 過去にも、イスラエルはイランの核プログラムを妨害してきた。2020年と2021年には、ナタンズ核施設へのサイバー攻撃(スタックスネット)や爆発事件が発生し、イスラエルの関与が疑われた。また、2020年に核科学者モフセン・ファクリザデが暗殺された事件も、イスラエルの工作とされる。これらの攻撃は、イランの核開発を一時的に遅らせたが、核化プログラムの完全な停止には至らない。むしろイランは、攻撃を受けるたびに核開発の秘密化や施設の地下化を進め、報復として代理勢力やミサイル攻撃を強化してきた。今回の攻撃は、規模と標的の重要性において過去を上回るが、イランが同様のパターンで対抗する可能性は高いだろう。いずれにせよ、過去の教訓からすれば、軍事攻撃だけではイランの核野心を抑え込むのは難しく、外交や経済制裁との組み合わせが必要となる。

報復と外交の岐路

 今後数週間、中東はさらなる不安定化のリスクに直面する。イランは、革命防衛隊の高官や核科学者の殺害を受け、報復を模索するだろう。初動のドローン攻撃が限定的だったのは、準備不足やイスラエルの防空網の強さを反映するが、イランは非対称な手段(ヒズボラやフーシ派による攻撃、サイバー攻撃、シリアやイラクでの米軍への嫌がらせ)に訴える可能性が高い。特に、イラクからの米国関連者撤退は、イランが米国のプレゼンスを標的にする意図を示唆しており、1~2週間後に新たな衝突が起きる危険がある。
 外交面では、当然だが、米国とイランの核交渉の再開が最大の焦点となる。イランは交渉撤退を表明したが、経済制裁の圧力や国内の不安定さを考慮すると、完全な拒否は難しいかもしれない。はしごを外されたようなトランプだが、交渉を通じてイランを抑制する姿勢を維持しており、攻撃後の混乱を収束させるため、オマーンや他の仲介国を通じて対話を模索するだろう。しかし、イスラエルの攻撃はイラン国内の強硬派を勢いづけ、交渉のハードルを上げすぎた。国際原子力機関(IAEA)や国連の反応も重要で、核施設への攻撃が非拡散体制に与える影響が議論される可能性がある。
 最悪のシナリオは簡単である。報復の連鎖がイスラエルとイランの全面戦争に発展し、米国や周辺国が巻き込まれることだ。現時点では、双方が限定的な衝突に留めるインセンティブがあるが、誤算のリスクは無視できない。イスラエルの攻撃は、イランの核能力を一時的に弱体化させたかもしれないが、長期的には地域の不安定さを増す恐れがある。トランプの外交手腕と、国際社会の仲介努力が、事態を鎮静化できるかどうかが鍵となるとしたいところだが、この流れ自体がすでにトランプの無力を評点している。



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2025.06.12

ポーランドとウクライナの微妙な協力

 2025年6月11日、ポーランドとウクライナが、第二次世界大戦の歴史を巡る新たな動きを見せる報道があった(参照)。ポーランドは、ウクライナ国境に近いポドカルパチェ県のユレチュコヴァ村で、戦時中の犠牲者の遺体を発掘する作業を進めることになった。この作業は、ポーランドの歴史調査機関である国立記憶研究所(IPN)が主導し、2025年秋に開始予定である。発掘対象はおそらく1943年のヴォルィーニ虐殺で殺害されたポーランド人住民と考えられるが、1939年の戦闘犠牲者も含まれる可能性がある。ウクライナは、この作業に資金を提供する形で協力する。これは、ウクライナがリヴィウ市内の旧ズボイシェ村で、1939年に死亡したポーランド兵の発掘をポーランドに許可したことへの対価でもある(ウクライナ文化情報政策省、2025年6月11日発表)。一方、ポーランドが6月5日にヴォルィーニ虐殺の追悼日を国家記念日に制定したことに対し、ウクライナ外務省は「両国の友好関係に反する」と批判した。ポーランドの新聞「Myśl Polska」(6月10日)は、ウクライナがこの追悼日により、戦時中のナチス協力の歴史が注目され、西側からの支援に悪影響が出ると懸念していると報じた。ロシア・ウクライナ戦争が続く2025年、なぜ今、歴史問題が再び浮上するのか。ウクライナが本心では消極的なのに協力する理由と、タイミングの不自然さを考察したい。

ヴォルィーニ虐殺

 ヴォルィーニ虐殺は、1943年に現在のウクライナ西部(当時ポーランド領)で起きた痛ましい事件である。ウクライナ民族主義組織(OUN)やその軍事部門ウクライナ蜂起軍(UPA)が、ポーランド人住民を対象に攻撃を行い、ポーランド側は5万~10万人が殺害されたと推定されている。村々への襲撃、放火、残忍な暴力が記録され、ポーランドではこの事件を「民族浄化」や「ジェノサイド」とみなしている。対して、ウクライナではUPAを「ソビエトやナチスに抵抗した独立闘争の英雄」と評価する声が根強い。戦争の混乱や、ポーランド側の報復による数千人のウクライナ人犠牲者も強調され、両国の歴史認識は鋭く対立している。特に、UPAの一部がナチス・ドイツに協力した記録は、ウクライナにとって国際的に敏感な問題であり、ロシアはこれを「ウクライナ=ナチス」と宣伝し、ウクライナは西側支援への影響を警戒している。こうした背景から、ウクライナは過去にウクライナ領での遺体発掘を制限してきた経緯がある。2017年には、ポーランドによるヴォルィーニ虐殺関連の調査を事実上禁止したりもした。UPAの名誉や国内のナショナリズム、国際的イメージを守るためだったが、2025年に入り状況は変わったようだ。1月にヴォルィーニ虐殺関連の発掘が許可され、4月にはテルノピル州で1945年に殺害されたポーランド民間人の発掘が始まった。6月のリヴィウ(ズボイシェ)とユレチュコヴァの相互許可も、この流れに連なるが、ウクライナの協力には消極性が潜む。

2025年6月の不自然なタイミング

 なぜ2025年6月に、ユレチュコヴァ村とリヴィウ(ズボイシェ)の発掘許可や追悼日制定が重なるのか。ポーランド側では、国内の政治状況と歴史的正義の追求が鍵を握っている。ヴォルィーニ虐殺はポーランドの保守派を中心に深いトラウマであり、追悼日制定は国民感情に応える政策である。ドナルド・トゥスク政権は、2023年の選挙後の支持固めや、歴史問題での強い姿勢を背景に、2025年6月に追悼日を国家記念日に格上げした。ユレチュコヴァ村の発掘も、IPNの長年の使命である真相究明の一環である。ポーランド領での作業はポーランドが主導し、ウクライナの資金提供は協力の象徴として求められた。
 一方、リヴィウ(ズボイシェ)の発掘許可は、ポーランドが長年求めてきたウクライナの調査禁止解除への大きな譲歩である。ウクライナはロシア・ウクライナ戦争(2022年開始)で、ポーランドの軍事援助や難民受け入れに強く依存する。
 2025年6月、戦争が4年目に突入する中、ポーランドとの対立は西側支援全体を危うくする懸念が高まってきた。追悼日に対するウクライナの批判は、UPAやナチス協力の歴史が強調されることへの本音であるが、関係悪化は避けたい。ユレチュコヴァの資金提供とズボイシェの許可は、ポーランドの圧力に応じた戦略的妥協であろう。戦争中の経済的困窮を考えれば、資金提供や許可の優先順位は不自然に映る。このタイミングの奇妙さは、ポーランドがウクライナの戦争依存を背景に歴史問題を押し進め、ウクライナが反応を強いられた結果にある。

ウクライナのジレンマと今後の行方

 ユレチュコヴァ村とリヴィウ(ズボイシェ)の相互発掘許可は、両国の協力に見えるが、ウクライナの過去の経緯を見れば本心は消極的であろう。過去の調査制限(2017年)や追悼日批判から、ウクライナはヴォルィーニ虐殺やナチス協力の歴史が再燃することを避けたいのである。ズボイシェの発掘は1939年のポーランド兵(ソビエトやナチスとの戦闘)で、ヴォルィーニ虐殺(1943年)より前の事件だが、歴史問題の敏感な領域に触れる。
 ユレチュコヴァもヴォルィーニ虐殺以外の可能性(例:1939年の事件)があるが、歴史的リスクは残る。ウクライナの資金提供とズボイシェ許可は、ポーランドとの関係悪化を防ぎ、西側支援を維持するための「仕方ない」対応なのだろう。ポーランド領(ユレチュコヴァ)での資金提供はリスクが低く、ウクライナ領(ズボイシェ)での許可は対価として戦略的である。この協力は、国内のUPA支持層への反発を抑えつつ、西側に「歴史に向き合う姿勢」をアピールすることにある。
 追悼日批判は、ウクライナがナチス協力の歴史によるイメージ悪化を恐れる本音を映し出す。ロシアが「ウクライナ=ナチス」の宣伝を続ける2025年、戦争中のウクライナにとって歴史問題は最悪のタイミングとみなされるからか、西側報道は少ない。しかし、このニュースは、協力(相互発掘)と対立(追悼日批判)が共存する両国関係の複雑さを示している。今後、発掘作業の結果が歴史認識や外交にどう影響するのか。ポーランドは歴史的正義を追求し、ウクライナは支援依存とイメージ管理のジレンマに直面するだろう。この事態は、歴史と現代の地政学が交錯する欧州の課題も浮き彫りにする。



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2025.06.11

ニューハンプシャー州が切り開く教育の新時代

 2025年6月10日、ニューハンプシャー州は全米で17番目、民主党支持の州としては初めて「普遍的な学校選択制度」を導入した。共和党のケリー・アイオット知事が、所得制限を撤廃した学校バウチャー(教育選択券)プログラムの拡大法案に署名したのである。この制度は、すべての家庭が子1人当たり最低4,265ドルの公的資金を受け取り、私立学校の授業料や個別指導などの教育費に充てられるようにする。特別なニーズのある子どもには最大9,676ドルが支給される。アイオット知事は、親が子どものニーズに最適な教育環境を自由に選べるこの制度が、すべての生徒の可能性を最大限に引き出すと強調した。同時に署名された「親の権利法案」は、親が教育の中心的な役割を担うことを法的に裏付ける。ニューハンプシャー州は、2024年の大統領選挙で民主党のカマラ・ハリスを支持した州であり、その州が共和党主導の教育改革を成し遂げた事実は、教育の自由を求める動きが党派の壁を越えつつあることを示している。

学校選択制度の歩みとその背景

 米国の学校選択制度は、親が公的資金を使って公立学校以外の教育環境を選べる仕組みであり、2010年代以降、注目を集めてきた。2022年、アリゾナ州が全米で初めて普遍的学校選択制度を導入し、約8000万ドルの予算で1家庭あたり7,000ドルのバウチャーを提供した。これを皮切りに、フロリダ、アイオワ、テキサスなど共和党が支配する州が次々に同様の制度を採用した。背景には、コロナ禍での公立学校の閉鎖や遠隔授業に対する親の不満がある。教師組合が学校閉鎖を支持したことで、公立学校への信頼が揺らぎ、親の選択権を求める声が高まった。
 ニューハンプシャー州では、2021年に教育自由口座(EFA)としてバウチャー・プログラムが始まったが、所得制限により利用は低所得世帯に限られ、州内の生徒の半数未満しか対象ではなかった。この制限を巡り、共和党はアクセスの拡大を主張し、教師組合や民主党の一部は公立学校の予算削減を懸念して反対した。2025年の法改正で所得制限が撤廃され、すべての家庭が利用可能な制度へと進化した。この流れは、教育の多様性と親の権利を重視する全米的なトレンドを反映している。

共和党と民主党のせめぎ合い

 学校選択制度を巡る議論は、これまで共和党と民主党の対立を浮き彫りにしてきた。共和党は、親の自由と教育の競争を重視し、バウチャー制度を通じて私立やチャータースクールへのアクセスを拡大する。ニューハンプシャーのアイオット知事は、親が子どもの教育を主導すべきだと訴え、教師組合の影響力を抑える姿勢を明確にした。共和党は、コロナ禍での公立学校の対応を「硬直的」と批判し、公立学校に縛られない選択肢の必要性を強調する。一方、民主党は公立学校の保護と教育の公平性を優先する。教師組合は民主党の強力な支持基盤であり、バウチャー制度が公立学校の資金を奪い、教育の質を下げる可能性を指摘する。また、私立学校の規制不足や、特別ニーズの生徒が取り残されるリスクも懸念された。オクラホマ州の宗教系チャータースクール排除問題では、政教分離やアクセスの公平性を巡る議論が最高裁に持ち込まれ、民主党の慎重な姿勢が表れた。ニューハンプシャー州では、共和党が知事と議会を握る政治力で法案を押し切ったが、民主党支持の州での導入は、従来の党派対立に揺さぶりをかけるが、共和党は教育の自由を非党派的な問題と位置づけ、民主党の抵抗を「教師組合の言いなり」と批判した。

対立を超えた教育の未来

 ニューハンプシャー州の今回の事態は、学校選択制度がすでに単なる党派対立の産物ではないことを示唆している。民主党支持の州がこの制度を導入した事実は、親の選択権を求める声が党派の枠を超えて広がっている証拠と見てよい。コロナ禍で公立学校への不満が高まったことは、民主党支持者の中にも教育の多様性を求める層を生んだのである。専門家らは、「子どもは政府のものではない」と述べ、親主導の教育が非党派的な価値観として根付きつつあると指摘している。
 ニューハンプシャー州の成功は、他の民主党支持州にも影響を与える可能性がある。一方で、対立が完全に解消したわけではない。教師組合は公立学校の予算を守るため、引き続き抵抗するだろう。また、宗教系学校への資金提供や教育の質のバラつきは、今後も議論を呼ぶだろう。
 ニューハンプシャー州の制度は、すべての家庭に門戸を開いたが、実際にどれだけの親が私立学校を選ぶのか、特別ニーズの生徒への支援が十分か、といった課題は依然残る。教育の自由と公平性のバランスをどう取るかは、今後の全米の教育政策の焦点となる。ニューハンプシャー州の挑戦は、対立の中から新しい教育の形を模索する一歩になるだろう。
 なお、日本ではこうした問題提起すら起きてはいない。日本で普遍的な学校選択制度が広まらない理由は、公立学校への高い信頼、文部科学省による一元管理、集団主義を重視する文化、教師組合と保守派の対立の弱さ、既存の奨学金制度による私立学費支援の存在にある。日本の公立学校は質が高く均一性があるとされ、バウチャー制度のような自由化は現行制度や文化的価値観と相容れにくい。また、米国のような党派対立が教育政策に強く影響せず、議論が停滞している。しかし、東京では2025年の高校授業料無償化(所得制限なし)により、私立高校への進学が身近になり、学力中下位層が私立普通科に流入している。一方で、私立高校が進学校化や中学募集にシフトし、学力下位層の選択肢が都内で10校程度に激減するなど、格差拡大の懸念が生じている。都立高校では複数志願制度により商業・工業系の志望者が増えるが、将来的な生徒減や「勉強逃れ」の流入も課題である。東京の無償化は機会拡大をもたらす一方、選択肢の偏りや新たな格差を生む複雑な実態を示しているので、方向性としては米国的な制度に向かう素地はある。





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2025.06.10

ロサンゼルス抗議デモ

 2025年6月、ロサンゼルスでの不法移民摘発に端を発する抗議デモと暴動は、トランプ大統領の州兵連邦化と海兵隊動員により、連邦と州の対立を極端に先鋭化させた。この事態は、偶発的な誤情報と計画的な政治戦略が交錯し、トランプ大統領の権限行使が米国の統治に新たなリスクをもたらす一例となった。

発端:摘発と誤情報の連鎖
 事態は2025年6月6日、米国移民税関執行局(ICE)がロサンゼルス市内で不法移民118人を逮捕した摘発から始まる。この作戦は市内複数箇所での標準的な急襲であり、犯罪歴のある者(ギャングメンバー5人、麻薬密売や暴行の前歴者)を含む逮捕は、ICEの日常業務に該当する(BBC、6月9日)。トランプ大統領の直接関与を示す証拠はなく、国境管理責任者トム・ホーマン氏の監督下、トランプ政権の不法移民取り締まり方針(2025年1月20日の大統領令)に沿って実行されたと推測される。
 しかし、パラマウントのホーム・デポで「不法従業員の一斉摘発が行われた」という誤情報がSNSや住民の間で拡散し、事態が急変した。DHSはホーム・デポでの摘発を否定したが、ICE車両の目撃が恐怖を煽り、ヒスパニック系住民(人口82%以上)の敏感なコミュニティで反応が増幅された。この誤情報は6月7日の抗議デモを誘発したが、トランプ政権の強硬姿勢がなければ火種にならなかった可能性がある。トランプの移民政策が間接的に混乱の土壌を形成したと推論されるが、摘発自体は日常業務的であり、誤情報は政権の意図を超えた外部要因であろう。

経緯:暴動化と連邦軍の投入
 6月7日、ホーム・デポ前のデモは石や火炎瓶の投擲、車の放火、店舗略奪へと暴動化した。ロサンゼルス全域に拡大し、101号線封鎖や報道カメラマンの負傷(ゴム弾)が混乱を加速した。トランプ大統領は同日夜、合衆国法典第10編(10 U.S.C. § 12406)に基づき、カリフォルニア州兵2000人を連邦化し、ロサンゼルスに派遣した。ガビン・ニューサム知事の要請を無視したこの決定は、州の提訴(「違法・違憲」)を招き、対立を激化させた。ホーマン氏による同日の知事「逮捕」警告(知事やカレン・バス市長への牽制)は、トランプ政権の強硬さを象徴する。
 6月8日、デモがさらにエスカレートし、トランプ大統領は国防長官ピート・ヘグゼスを通じて海兵隊750人を6月8日~9日に動員した。動員の法的枠組みは反乱法(10 U.S.C. § 331-335)に基づく可能性があるが、議会への通知遅れや未使用の可能性が論争を呼んでいる。海兵隊は連邦施設(DHS支部、連邦刑務所)の警備や州兵補助に投入されたが、その異例性(国内動員はまれ)は政治的パフォーマンスとみなされた。なかでも、ニューサムの提訴は、動員の妥当性を巡る論争を深めた。この経緯は、トランプの介入が混乱を抑えるどころか、連邦権力の過剰行使で不安定性を増したとも見られるが、実際には暴動の規模が連邦介入を必要とした。

偶発性と計画性の交差
 今回の事態の展開は偶発性と計画性が交錯する。6月6日のICE摘発は日常業務的で、トランプの直接命令の証拠はなく、ホーム・デポの誤情報と6月7日の暴動化は予測困難な偶発事態だった。トランプの州兵連邦化(6月7日)は、デモの急激なエスカレーションへの即時対応として、場当たり的な要素を含むが、サンクチュアリ・シティでの抗議を想定した「計画的」準備(1月20日大統領令、ホーマン氏の任命)も背景にある。トランプ政権はカリフォルニアの民主党政権との対立を、言わば政治資本化し、2026年中間選挙に向けた「法と秩序」の演出を意図していたと推測される。
 海兵隊動員は、機構上トランプ大統領の広範な指示があったとは見られるものの、国防総省(DoD)の危機管理判断が主導したとも推測される。州兵導入後の混乱(6月8日、101号線封鎖)が連邦レベル(ICE執行、連邦施設保護)に波及する危険性をDoDが懸念し、ヘグゼス国防長官が北方軍を通じて海兵隊を展開したものだ。海兵隊の選択(迅速展開力)や人数調整(200人→700人)はDoDの現場判断を反映している。法的枠組みの論争(反乱法未使用の可能性)や議会通知の遅れは、DoDの迅速対応を補強する。トランプの政治的意図(ニューサム対抗)は背景にあるが、やはりDoDの連邦安定性優先が動員を決定したのだろう。この構図は、トランプの強硬政策が混乱を増幅したために、DoDが介入で対応したものであろう。

トランプというリスク
 州兵と海兵隊の動員は大統領権限の違いを示す。州兵は10 U.S.C. § 12406に基づき、トランプが直接連邦化し、6月7日の決定は彼の意思を直ちに反映した。海兵隊は反乱法(10 U.S.C. § 331-335)に基づく可能性があるが、論争があり、トランプがヘグゼス国防長官に指示するプロセスが必要で、DoDの危機管理が主導したものだろう。ポッセ・コミタタス法(18 U.S.C. § 1385)の制約を回避する法的枠組みは議会承認を不要とするが、議会通知の遅れは手続き不備を示唆する。
 トランプの権限行使は米国のリスクを増大させる。州兵連邦化は民主党のニューサムとの対立をことさらに激化させ、連邦と州の分断を深めた。海兵隊動員は実質DoDの判断であろうことは、結果的にトランプの移民政策と政治パフォーマンスが混乱の根源であるといえる。連邦軍の介入や議会監督の形骸化、さらに州の主権侵害は、米国という国家の統治そのもの不安定性を高める。トランプのサンクチュアリ・シティ対抗や2026年選挙への布石は、短期的な政治利益を優先し、米国の国家的結束を損なう。とはいえ、現実問題としては、トランプの介入は暴動鎮圧に必要であり、DoDの判断は連邦安定に寄与するだろう。



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2025.06.09

中国系カップルによる生物兵器米国密輸未遂

 2025年6月3日、米国司法省は中国籍の研究者カップル、簡雲清(Yunqing Jian、33歳)と劉尊永(Zunyong Liu、34歳)を、農作物を壊滅させる病原菌「フザリウム・グラミネアルム(Fusarium graminearum)」を米国に密輸しようとしたとして起訴した。事件は2024年7月、デトロイト空港で劉尊永(Zunyong Liu)がリュックや靴の中に菌を隠して入国しようとした際に発覚した。起訴罪状には陰謀、密輸、旅券詐欺、偽証が含まれる。FBI長官はこれを「国家安全保障への直接的脅威」と警告し、司法省は「農業テロ兵器」と分類した。このカップルはミシガン大学の研究者で、劉尊永は中国の大学でフザリウム・グラミネアルム(Fusarium graminearum)の研究に関与していた。また、簡雲清の電子機器からは中国共産党への忠誠を示す情報が見つかったが、中国政府の直接的関与は現時点で不明である。
 この病原菌は、真菌であり、いわば「カビ」である。最近のような伝染はないが、植物に対する土壌性または種子伝染性の病害をもたらす。具体的には、小麦、大麦、トウモロコシに「赤かび病」を引き起こし、収穫を大幅に減少させる。毒素は人間や家畜にも有害で、食糧供給の安定を脅かす可能性がある。米国は世界有数の穀物生産国であり、農業は経済の基盤である。事件は、食糧安全保障への攻撃が国家に与える影響の深刻さを浮き彫りにしている。

事件の潜在的影響

 フザリウム・グラミネアルムの米国への密輸が成功した場合、米国農業に壊滅的な打撃を与える可能性がある。小麦やトウモロコシの生産量が激減すれば、食料価格の高騰、輸出の減少、農家の経済的困窮が発生する。米国農務省によると、小麦生産は年間約5000万トンで、国内消費と輸出に不可欠。赤かび病が広範囲に広がれば、年間数百万トンの損失が予想される。毒素による健康被害も懸念され、食糧供給網の混乱は社会不安を引き起こす恐れがある。それらは、国際的な食糧市場にも波及し、穀物価格の上昇は途上国での食糧危機を悪化させるリスクもある。
 また、この事件は農業テロの脅威を改めて認識させた。伝統的な軍事攻撃とは異なり、生物学的手段は低コストで実行可能であり、検知が難しい。米国は国土が広く、農地の監視は限定的である。病原菌が意図的に散布されれば、被害が拡大する前に食い止めるのは困難だ。FBIは、今回の摘発が「氷山の一角」である可能性を指摘しているが、他の密輸やテロ計画がすでに存在したかもしれない。
 今回の件ついては、学術研究の文脈も見逃せない。二者はミシガン大学の研究を名目に活動していた。フザリウム・グラミネアルムの研究は農業改良や防除技術の開発に必要だが、悪用されれば兵器化の危険がある。米国は外国人研究者の受け入れに積極的だが、今回の事件は研究の透明性や管理の課題を露呈した。科学の進歩と安全保障のバランスが、今後の焦点となる。

事件が提起する問題

 この事件は、複数の深刻な問題を提起する。まず、国家安全保障の新たな脆弱性である。米国は軍事やサイバー分野での防衛に注力してきたが、農業や食糧供給への攻撃に対する備えは不十分である。今回の病原菌の密輸は、空港での検査で偶然発見されたものにすぎない。米国では体系的な監視体制が欠如しており、類似の試みが他にも存在しうる。農地の広大さやサプライチェーンの複雑さは、テロリストにとって格好の標的となる。政府は、農業テロへの対策を強化する必要に迫られている。
 食糧安全保障のグローバルな影響もありうる。米国は世界の穀物市場の主要プレーヤーであり、生産の混乱は国際的な食糧供給に波及する。途上国は価格高騰に脆弱で、食糧不足が社会不安や紛争を誘発する。日本も米国産穀物に依存しており、輸入価格の上昇は国内経済に影響を及ぼす。国際的な協力体制の構築が急務である。
 今回の事態で国際的な研究協力のリスクも浮上した。二者は中国の大学とのつながりを持ち、ミシガン大学で研究に従事していた。学術交流はイノベーションを促進するが、機密性の高い研究が悪用される危険がある。米国は中国籍の研究者を安全保障上のリスクとみなす傾向を強めており、2020年代初頭からビザ制限や監視を強化してきた。しかし、過剰な規制は優秀な人材の流入を阻害し、科学技術の進歩を遅らせる。研究者の自由と安全保障の両立は、解決が難しい課題である。
 現状、証拠の不透明さも問題でもある。中国政府の関与は示唆されるが、具体的な証拠は公開されていない。二者の行動が国家の指示によるものか、個人的な動機(例:研究成果の不正利用)かも不明である。FBIや司法省の「農業テロ兵器」という表現は強いが、病原菌の量や散布計画の詳細は明らかにされていない。過剰な脅威の強調は、世論の不安を煽り、外交関係に悪影響を与えるリスクがあり、客観的な情報公開が求められる。

法的・倫理的課題

 今回の事件では、法的および倫理的な問題側面でも重要となる。法的には、生物兵器の密輸に対する罰則の適用が焦点となる。米国では、生物テロ防止法(Biological Weapons Anti-Terrorism Act)に基づき、違反者は最長7年の懲役に処される。しかし、研究目的とテロ意図の線引きは現状曖昧であり、二者が学術研究を装っていた場合、意図の立証は困難である。また、この裁判の行方は、類似事件の前例ともなる。
 倫理的には、科学研究の管理が問われる。フザリウム・グラミネアルムは、農業研究で一般的に扱われる菌だが、悪用防止のガイドラインは不十分である。大学や研究機関は、研究者のバックグラウンドやデータの取り扱いについて厳格なチェックを求められるが、過剰な監視は学術の自由を損なうことになるので、国際的な研究倫理基準の策定が必要だが、ここでも国家間の利害対立が障害となる。
 当面、空港での検査体制強化が課題である。劉尊永は靴の中に菌を隠していたが、通常の保安検査では検知が難しい。生物学的物質の運搬に対する国際的な規制(例:バイオセーフティ基準)は存在するが、執行は国によって異なる。米国は入国時の検査を強化する方針だが、国際的な統一基準がないため抜け穴が残る。また、情報公開のバランスも問題となる。政府は安全保障上の理由から詳細を制限するが、過度の秘匿は陰謀論や不信感を招く。

 

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2025.06.08

選択的夫婦別姓と戸籍制度

 日本で長年議論されてきた選択的夫婦別姓制度は、2025年5月に衆議院法務委員会で28年ぶりに審議入りし、それなりに注目を集めている。夫婦が結婚時に別々の姓を選択できるこの制度は、男女平等や個人の自由を求める声に応えるものとして、世論調査では約6割以上の支持を得ている。しかし、実際に別姓を選択する意向は女性で20~46%、男性で29%程度と低く、国民全体の関心は経済や物価高に比べ相対的に低い。このギャップは、制度の必要性を認める声が強い一方で、伝統的な家族観や実務的課題が影響している。また、戸籍制度との整合性、特に子の姓の決定や変更の制限が、完全な平等性を求める声にとって大きな課題となっている。さらに、国会での議論は、2025年7月の参院選挙を意識した各党の政治的要請に強く影響されており、国民的関心との乖離も見られる。

世論の支持と利用意向のギャップ

 選択的夫婦別姓の導入は、世論調査で広く支持されている。2025年2月の調査では63%が賛成、21%が反対と、過半数が制度の導入を後押ししている。特に女性(77%)や20~30代の若年層で支持が高く、男女平等やキャリア継続の観点から必要性が認識されている。2025年6月の中国新聞調査では、20~30代の女性46%、男性29%が別姓を利用する意向を示したが、全体としては少数派にとどまる。2025年1月のStanford Japan Barometer調査でも、女性の約20%が別姓を選択する可能性を回答し、男性の意向はさらに低い。このギャップは、制度の選択肢としての支持は強いが、実際の利用意向は社会的慣習や実務的懸念に影響されているためだ。日本では家族が同一の姓を持つことが長年の慣習であり、別姓による子どもの姓の不一致や行政手続きの複雑さを懸念する声が根強い。世論において、特段右派という人でなくても、現実的には「家族性を保つため同一姓を希望する」「別姓は家族の絆を弱める」といった意見はあるだろう。伝統的価値観が意向の低さにつながっている。さらに、結婚で姓を変更する95%以上が女性であるため、女性の方が別姓の必要性を感じやすく、男性の関心が低い点も影響している。このように、制度の支持と実際の利用意向の差は、選択的夫婦別姓が国民全体の喫緊の課題として浸透していないことを示している。

戸籍制度との整合性と子の姓の課題

 日本の戸籍制度は、家族単位で身分関係を記録し、筆頭者を基準に姓を統一する仕組みである。現行の民法では、夫婦は同一の姓を選び、子はその姓を継ぐ。この構造は、家族の一体性や行政手続きの効率性を保つが、選択的夫婦別姓の導入においては当然問題となる。そこで、現行の法案(国民民主党、日本維新の会など)は、戸籍の筆頭者を維持しつつ、配偶者の旧姓を併記したり、別々に姓を記載する案を採用している。たとえば、夫が筆頭者で「山田」姓、妻が「佐藤」姓を選択した場合、戸籍には「筆頭者:山田、配偶者:佐藤(旧姓)」と記載される。子の姓は原則として筆頭者の姓に従い、配偶者の姓を選ぶには婚姻時の合意や届出が必要だ。
 この仕組みは、戸籍制度の基本構造を維持しつつ別姓を実現する妥協案だが、完全な平等性を求める声には不十分だともされる。子の姓が筆頭者の姓に偏重することで、夫の姓が選ばれやすい現状(婚姻の95%で夫の姓)が反映され、母の姓が子に継がれる機会が少ない。また、子が成人後に自ら姓を変更する権利は、現行法案では明確に規定されておらず、家庭裁判所の許可(民法791条)など限定的な手段に頼る。この制限は、子の自己決定権や夫婦の平等性を重視する層にとって課題だ。

戸籍制度の構造的制約

 夫婦別姓が先行する欧米諸国には、元来日本の戸籍制度に相当する仕組みが存在せず、個人単位の身分登録(出生証明書、婚姻証明書など)で姓を管理してきた。米国では夫婦が自由に姓を選び、子は両親の合意で姓を決定、成人後に変更も容易である。ドイツやフランスも同様で、夫婦別姓が原則であり、子の姓は両親のいずれかから選択可能である。この個人主義的なアプローチは、姓の多様性を行政が柔軟に扱う基盤が前提にある。他方、日本は家族単位の戸籍制度が家族の一体性を重視し、姓の統一性を前提とするため、別姓の導入には構造的な制約がある。現行法案では、そこで筆頭者を維持しつつ旧姓併記で対応するが、子の姓変更の自由は制限されることになる。たとえば、1996年の法制審議会答申では、子が成人後に両親の姓から選択可能と提案されたが、現行法案には反映されていない。
 欧米の個人単位の登録制度は、姓の変更が家族全体に影響を与えないが、日本の戸籍では姓変更が戸籍全体の記録に影響し、行政手続き(住民票、パスポートなど)の不整合が懸念される。法務省は「両立可能」との見解を示し、戸籍のデジタル化や欄の追加で技術的対応は可能ではあるが、家族観の違いや社会的慣習が現実的な普及のハードルとなりうる。

国会審議と「政治」的影響

 2025年5月30日、選択的夫婦別姓法案が衆院法務委員会で審議入りしたが、これは2025年7月の参院選挙を意識した各党の政治的要請が強く影響している。立憲民主党、国民民主党、日本維新の会が法案を提出し、若年層や女性票の獲得を目指している。特に立憲民主党は、「58.7万人が結婚待機」と訴え、男女平等を争点化する戦略である。一方、自民党は党内での賛成派と反対派の対立から法案提出を見送り、「国民の理解が深まっていない」と慎重姿勢を崩さない。これは、それなりに保守層の支持基盤を意識した対応であり、ようは選挙対策の面が強い。野党としては、経団連や国連の賛成圧力を背景に、28年間停滞した議論を進めることで政治的成果をアピールする狙いがあるが、現下、国民の関心は物価高や経済対策に集中し、選択的夫婦別姓は一部の層(若年層、女性)に限られており、国会での活発な議論が国民的関心と乖離している印象がある。この乖離は、参院選での争点化を意図する野党の政治的要請と、保守層の反発を避けたい自民党の慎重姿勢があるが、つまるとこころ、各党それほど重要な案件と見なしていない。



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2025.06.07

古典動詞の『あり』の終止形はなぜ『あり』かとAIと問うこと

 古典日本語の動詞「あり」の終止形が「あり」であって「ある」ではないという問いは、一見単純に見えるが、おそらく言語学の深淵に足を踏み入れることになるだろう。この問いは、単なる文法規則の確認を超えるかもしれない。あるいは、非常にシンプルな解答があるのかもしれない。そこで、AIがこの種の問いにどう応答するか、その限界と可能性を探ることは、現代の知のあり方を考える上で示唆に富むかもしれない。奇妙な話かもしれないが、古典語動詞の「あり」の終止形をめぐる問いを例に、AIの応答構造と未解明の問いが持つ本質的な難しさを考えてみたい。

古典語の終止形「あり」の謎

 古典日本語において、動詞「あり」の終止形が「あり」であることは、初学者にとってすら基本的な知識である。動詞の活用体系では、五段活用動詞の終止形が語幹に「-i」を付けた形として現れるため、「あり」はその規則に忠実に従う。しかし、なぜ終止形が「-i」で固定されたのか、なぜ現代語のように「ある」が優勢にならなかったのか、という問いは容易に答えられない。
 現代日本語では「ある」が終止形としても使われるが、古典語では「あり」が標準であり、この差異の背景には音韻的、形態論的、さらには文化的な要因があるかもしれない。これらの要因は、文献学や歴史言語学の研究でも、おそらく完全には解明されていない。たとえば、古代日本語の音韻体系において、母音終わりが文法的機能を果たす傾向があったとする仮説もあるだろうが、それが「-i」である必然性を説明するには不十分である。この問いは、言語の規則がどのように形成され、定着したのかという根源的な問題に繋がるが、学術的に「公認」された解答は、繰り返すが、存在しない。

AIの回答とハルシネーションの罠

 大規模言語モデル(LLM)であるAIがこの問いに対峙すると、通常は既存のデータベースや文法規則に基づいた回答を生成する。たとえば、「古典日本語の動詞『あり』は五段活用に従い、終止形として『-i』で終わる形が採用された」と説明するかもしれない。これは事実の一面を捉えているが、なぜそのような規則が成立したのかという核心には迫らない。
 問題は、AIがこの種の未解明の問いに対し、「わからない」と率直に答えることが難しい点にある。LLMは、ユーザーに有益な情報を提供することを優先する設計上、データから推測した「尤もらしい」回答を生成する傾向がある。これがハルシネーションと呼ばれる現象で、特に学術的に未解明の領域では顕著である。たとえば、「『-i』で終わる形は古代日本語の音韻体系が母音調和を好んだため」と答えるかもしれないが、この説明は文献的証拠が不足している場合、単なる推測に過ぎない。
 AIのこの挙動は、知識の限界を明示することよりも、回答の完全性を優先するアルゴリズムの特性に起因する。結果として、ユーザーは一見もっともらしいが、検証が不十分な情報を受け取るリスクに晒される。

未解明の問いの本質的困難さ

 奇妙な一例ではあったが、古典日本語動詞の「あり」の終止形をめぐる問いは、単なる文法の問題ではなく、言語の進化や文化の複雑な相互作用を反映していることは間違いない。言語の規則は、音韻、形態論、書記体系、そして話者集団の社会的・文化的習慣が絡み合って形成される。たとえば、古典日本語の終止形が「-i」で固定された背景には、和歌や漢文訓読といった当時の文芸的慣習が影響した可能性もありえるだろう。また、音韻体系の制約や、話し言葉と書き言葉の分化も関与したかもしれない。しかし、これらの要因は相互に影響し合い、単一の原因を特定することは困難である。さらに、古代日本語の音韻や語形変化に関する資料は限られており、完全な再構成が不可能な場合も多い。
 要は、このような未解明の問いは、学術的に「公認」されていないがゆえに、研究の俎上に載りにくい。問い自体が曖昧で、検証可能な仮説を立てにくいため、学者でさえ正面から取り組むことを避ける傾向がある。当然、AIがこの種の問いに答える際、既存のデータに頼る限り、こうした複雑さを十分に捉えることは難しい。人間の研究者であれば、問いの曖昧さに立ち止まり、複数の視点からアプローチを試みるが、AIはデータの枠内で最適解を求めがちである。

AIと人間の対話による問いの再構築

 それでは、AIはこの種の難問にどう向き合うべきか。まず、AIが自身の限界を明示することが重要である。「この問いに対する学術的解答は存在しないが、関連する視点として以下の点が考えられる」と前置きすることで、ハルシネーションのリスクを軽減できる。また、周辺の文脈を提供し、ユーザーが自分で考える材料を提示することも有効である。たとえば、「あり」の終止形に関して、音韻論的傾向や他の言語との比較、さらには当時の書記文化の影響を概観することで、ユーザーに新たな視点を提供できるかもしれない。さらに、AIとユーザーの対話を通じて、問いの焦点を絞り込むことも重要であるだろう。「『-i』の終止形が選ばれた理由」を掘り下げるのか、「古典語と現代語の差異」に焦点を当てるのか、ユーザーの関心に応じて問いを再構築することで、より有意義な議論は可能にはなる。
 こうしたプロセスは、AIが単なる情報提供者を超え、思考の伴走者となる可能性を示すし、AIと人間の知の協働のあり方を考える契機ともなるだろう。当面というスコープで言うなら、未解明の問いに対する答えは、データの中にではなく、対話の中で生まれるありかたが、AIから人間い求められる、ある倫理を形成するだろう。



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2025.06.06

日本人口減少と地価の未来

 昨日の日本の出生率低下のニュースは衝撃的であるべきだったが、こうした事態に私たちは慣れつつある。事実から妥当な予測を確認しておきたい。2024年、日本の出生数は68万6061人と、統計開始以来初めて70万人を下回った。合計特殊出生率(TFR)は1.15で過去最低を更新し、婚姻数も48万9000組(2023年)と30年前の6割に落ち込んでいる。この数字は、国立社会保障・人口問題研究所の予測(2039年に68万人)より15年早く、人口減少の加速を物語る。特に東京(TFR0.96)や東北(1.0)は深刻で、沖縄(1.54)を除く地方でも低下が進む。
 2035年までには出生数は55~60万人、子育て世帯(0~14歳人口)は1400万人から1100~1200万人へ1.5~2割減ると予測される。政府の出産費無償化(2026年予定)や児童手当拡充は減少率を年2~3%に抑える可能性があるが、婚姻数の低迷や若者の経済不安(非正規雇用30%)、結婚・出産の価値観変化を考えると、急回復は難しい。
 この人口減少は地域差が顕著であり、問題はそこにあると言える。東京23区は外国人住民56万人(2023年、年10%増)や単身者需要で転入超過(年2万人)が続き、福岡市もIT産業や観光で人口微増(年0.5%)している。一方、岡山市や広島市は年1~2%減、過疎地の秋田県大館市や島根県隠岐郡は年3~5%減で、2035年には30~40%減の地域も出てくる。過疎地では学校閉鎖(例:丹波篠山市2016年閉校)や産科医院の半減(島根県、10年で20→10)、バス路線撤退(地方で30%減)が進み、生活インフラの縮小が深刻化している。
 全国平均の人口減少(年1%)は、こうした過疎地の危機を隠す「平均のトリック」を生みやすい。東京や福岡の安定が平均値を押し上げる一方、秋田や島根の過疎地は人口密度100人/km²未満、空き家率30~40%に達し、居住困難な地域が市町村の20~30%で発生しつつある。

平均値が隠す地域差

 人口減少は地価に直接影響する。全国平均で子育て世帯の1.5~2割減は、住宅需要(特に戸建て)を同程度縮小させ、地価に1.5~2割の下落圧力を与える。しかし、この平均値という存在そのものが地域差の深刻さを覆い隠す。2023年の公示地価は全国で1.4%上昇したが、東京23区は5.2%上昇、福岡4.5%上昇に対し、秋田県は5%下落、島根県隠岐郡は40%下落と落差が大きい。東京23区の新築マンションは平均1.2億円(2024年、10%上昇)と高騰し、外国人投資(購入額20%増)や単身者需要で賃貸市場も堅調だ。福岡や大阪は企業誘致(例:熊本TSMC進出)やリニア開通(2027年予定)で地価が3~5%上昇。岡山市や広島市の中心部は商業施設や大学周辺で地価維持だが、郊外は15~20%下落、過疎地の秋田や島根離島は30~40%下落で売却が困難だ。
 平均のトリックは投資や政策の誤解を招きやすい。我々は「日本」を論じることが好き過ぎるが、これはえてして平均のトリックに陥る。当たり前といえば当たり前なのだが、全国地価1.4%上昇に惑わされて過疎地で投資すると損失リスクが高い。例えば、秋田県大館市は2035年人口4.5万人(35%減)、地価30%下落、空き家率25%、病院縮小が進む。島根県隠岐郡は人口0.8万人(40%減)、地価40%下落、フェリー便数削減(週5→3)で生活が困難になる。岡山市郊外も空き家率20%、地価15%下落、バス路線縮小(1日10便→5便)と、居住に適さない地域が現れている。現状、全国の市町村の40%(約700)が過疎地域で、2035年には50%超がインフラ縮小で居住困難になる可能性がある。一方、観光地(京都、沖縄)はインバウンド需要で地価上昇、物流需要(郊外倉庫)も下支え要因であある。

投資と社会変化

 私たちはまた「悲観論」も大好きだ。が、人口減少の地価への影響を緩和する要因もある。円安(2025年6月、1ドル150円前後)と日銀の低金利は外国人投資を刺激し、2024年の不動産購入額は20%増となる。東京23区のマンションや沖縄の民泊物件は投資対象として人気である。テレワーク普及は郊外戸建て需要を微増させ、2024年の住宅着工統計で戸建ては1.5%増である。特に東京多摩地区や福岡郊外は需要が回復している。高齢化によるシニア向け住宅(都市賃貸、コンパクト戸建て)需要も増え、広島や札幌の中心部で賃貸市場が安定している。地方創生政策(年間3兆円)や企業誘致(例:福岡のIT、熊本の半導体)は、特定エリアの地価を支える。2026年の出産費無償化や児童手当拡充は出生数減少を年2~3%に抑える可能性があるが、効果は間接的で、住宅需要の大幅回復は期待できない。
 移民の議論はタッチーだが、現実的には都市部の支えとなっている。2023年の外国人住民290万人は2035年で400~500万人に増える見込みで、東京や大阪の賃貸需要を下支えする。しかし、永住者は少なく、戸建て購入への影響は限定的である。過疎地では移民流入がほぼなく、地価下落を止める力はない。観光地や物流需要は例外で、京都の民泊や熊本の物流施設は地価を押し上げる。こうした要因は、地域差をさらに拡大させる。都市部や観光地は安定するが、過疎地の危機は深まる。

エリアとタイミングの戦略

 地価の下落リスクと地域差に対応するには、当然だが、戦略的な判断が欠かせないのだが、この「戦略的な判断」といった石破首相が好きそうな言葉はナンセンスになりやすい。とはいえ、現状から見ていくと、東京23区や福岡の中心部は投資・賃貸需要で地価が安定し、マンション価格は高止まり(1.2億円)している。売却を急ぐ必要はなく、投資家は都心マンションや民泊物件で機会を狙える。岡山市や広島市の中心部は商業施設や大学周辺で地価維持、賃貸需要も堅調だが、郊外は2025~2028年に市場価格~15%安で売却を検討すべきとなるだろう。過疎地の秋田や島根離島は地価30~40%下落、空き家率30~40%で売却が困難。早期売却(市場価格~20%安)か、賃貸転用(民泊、シェアハウス)、また農業活用を模索することになる。観光地(沖縄、甲府)や物流需要エリア(郊外倉庫)は投資機会が豊富だである。
 要するに、日本の問題を見るとき日本で概括せず、地域ごとのデータを見ることが鍵だ。公示地価(例:秋田5%下落、島根離島40%下落)、人口動態(過疎地3~5%減)、空き家率(地方20~40%)を基に判断することになる。地方自治体は過疎地のインフラ維持(医療、交通)や空き家活用(移住促進、民泊)を急ぐべきだろう、仕方がない。不動産所有者は、過疎地での早期行動、都市部での投資最適化でリスクを抑え、機会を活かせるかもしれない。日本の人口減少は避けられないが、地域差を見極め、つまり、地域を実際的には整理整頓して、2025~2028年の「戦略的対応」で影響を最小化するしかない。



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2025.06.05

ウクライナのロシア軍事基地攻撃:トランプとプーチンの事前認識を巡る4つのシナリオ

 2025年6月1日、ウクライナがロシアの5つの軍事基地を対象に実施した大規模ドローン攻撃(Operation Spiderweb)は、国際社会に衝撃を与えた。数百機のドローンが1800km離れた基地を同時攻撃し、ウクライナは41機の軍用機破壊と70億ドルの損害を主張。一方、ロシアは被害を「軽微」とし、報復を警告した。この攻撃は、トルコでの和平交渉直前に発生し、トランプ大統領とプーチン大統領の外交的立場に影響を及ぼした。両首脳が攻撃を事前に知っていたか否かを巡り、4つのシナリオを構築し、事実と推論に基づく蓋然性を評価する。本コラムの目的は、どちらの側にも加担せず、今後の米露関係やNATOの動向を見通す材料を提供し、シナリオの可能性を提起することである。

シナリオ1:トランプ不知、プーチン不知

蓋然性:低い(10-20%)

 トランプ大統領とプーチン大統領の両者が攻撃を事前に知らなかったシナリオは、事実との整合性が低く、蓋然性は低い。トランプが知らなかった点は、米国政府の公式声明(CNN、Axios)にある。ホワイトハウスはウクライナから事前通告がなく、CIAやNATOの直接関与を否定。トランプの6月3日のX投稿での警告も、事後対応の印象を与える。NATOの一部(英国やポーランド)が米国に無断でウクライナを支援した可能性(CSIS)は、トランプの不知を補強し、彼の外交的コントロールの欠如を露呈した。

 一方、プーチンが完全に知らなかったとするのは、ロシアの諜報能力と矛盾する。FSBとGRUはウクライナやNATOの動向を監視する能力を持ち(CSIS)、18か月の準備期間は情報漏洩のリスクを高める。ロシアの防空システム(S-400)が一部ドローンを撃墜した事実(TASS)は、完全な不意打ちではなかったことを示唆。プーチンの迅速な電話対応(Axios)も、事前察知の可能性を高める。西側報道の被害誇張(60-80%可能性、The Guardian)は、両者が不知でもウクライナの情報戦によるものだが、プーチンの反応速度は完全な不知と整合しない。
 このシナリオは、トランプの不知は妥当だが、プーチンの不知は非現実的で、全体の蓋然性は低い。今後の見通しとして、両者が不知の場合、NATOの背信的行動が米露交渉の不信を増幅し、トランプのNATO懐疑論を強化する可能性がある。

シナリオ2:トランプ不知、プーチン知

蓋然性:中程度(40-60%)

 トランプが知らず、プーチンが事前に察知していたシナリオは、4つのシナリオの中で最も蓋然性が高い。トランプの不知は、米国政府の否定(CNN、Axios)が裏付ける。NATOの一部が米国に無断でウクライナに衛星データや技術を提供した可能性(CSIS)は、トランプ政権への背信的行動を示し、彼の和平主導を複雑化させた。トランプがプーチンから攻撃を知らされた(Axios)点も、このシナリオを補強する。
 プーチンの事前察知は、ロシアのFSBとGRUの能力(CSIS)や18か月の準備期間から合理的だ。ロシアが攻撃を利用して情報戦を展開したと推測することは可能である。プーチンのトランプへの迅速な電話(6月2日、Axios)は、部分的な察知と準備を示唆する。ロシアの防空が一部成功した(TASS)一方、被害が発生した(Meduza)事実は、完全な察知ではなかった可能性を示す。西側の被害誇張(41機破壊、70億ドル)は、プーチンが察知していた場合、被害を過小報告し、ウクライナのプロパガンダに対抗する戦略と整合する。
 このシナリオは、NATOの背信とロシアの情報戦が交錯する状況を描く。今後、トランプはNATOへの不信を深め、プーチンは攻撃を利用して交渉で優位性を確保する可能性がある。米露関係は緊張が高まり、NATO内の亀裂が顕著になるだろう。

シナリオ3:トランプ知、プーチン不知

蓋然性:非常に低い(5-10%)

 トランプが攻撃を知っていて、プーチンが知らなかったシナリオは、事実と大きく矛盾し、蓋然性は極めて低い。トランプが知っていたとする証拠はほぼない。米国政府は事前通告を否定(CNN、Axios)、トランプのX投稿は事後対応を示す。Axiosの一部の報道(ウクライナが米国に通知)はホワイトハウスが否定し、信憑性が低い。トランプが知っていた場合、和平交渉を重視する彼の「アメリカ第一」政策(NYT)と矛盾する。NATOの背信的行動(米国無断の支援)も、トランプの不知を前提とする。
 プーチンが知らなかった点は、ロシアの諜報能力(CSIS)や準備期間の長さから非現実的だ。防空の部分的成功(TASS)は、ある程度の警戒を示す。西側の被害誇張(The Guardian)は、トランプが知っていた場合、米国が意図的に被害を強調した可能性を示唆するが、トランプの外交的打撃と整合しない。プーチンの不知は、防空の失敗や被害の発生と部分的に整合するが、ロシアの能力を過小評価する。
 このシナリオはほぼあり得ない。今後、この状況は想定しにくいが、仮にトランプが関与していた場合、米国内での批判が高まり、外交的信頼が損なわれるだろう。

シナリオ4:トランプ知、プーチン知

蓋然性:低い(10-20%)

 両者が攻撃を事前に知っていたシナリオは、蓋然性が低い。トランプが知っていた可能性は、米国政府の否定(CNN、Axios)や彼の反応と矛盾。トランプが攻撃を容認した場合、和平交渉を複雑化させ、自身の公約(迅速な停戦)を損なうため、戦略的に不合理だ。NATOの背信的行動(CSIS)は、トランプの不知を前提とする。プーチンの察知は、FSBの能力や迅速な対応(Axios)から可能だが、完全な察知なら防空強化や機体移動が予想されるが、その証拠はない(Meduza)。
 西側の被害誇張は、両者が知っていた場合、米露の暗黙の合意(例:情報戦)を示唆するが、トランプの不知を裏付ける事実が強い。プーチンが察知し、攻撃を部分的に許容した可能性は、交渉での被害者カードを狙った戦略と整合するが、両者の共謀の証拠は欠如している。
 このシナリオは、事実との矛盾が多く、蓋然性が低い。今後、米露が共謀するシナリオは考えにくいが、仮に実現すれば、両者の外交的駆け引きが複雑化し、NATOやウクライナとの不信が深まる。

結論と今後の見通し

 シナリオ2(トランプ不知、プーチン知)が最も蓋然性が高く(40-60%)、NATOの背信的行動と西側の被害誇張(60-80%可能性)を補強する。トランプの不知は、NATO内の亀裂と米国の外交的コントロールの欠如を露呈した。プーチンの部分的察知は、ロシアの情報戦と交渉戦略を強化する。今後、トランプはNATOへの不信を深め、プーチンは攻撃を利用してウクライナや西側を非難するだろう。米露関係は緊張が高まり、和平交渉は停滞のリスクがある。NATOの結束はさらに試され、ウクライナの単独行動能力も注目される。シナリオの可能性を提起することで、複雑な国際情勢の不確実性を浮き彫りにした。



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2025.06.04

ファースト/セカンド・レディへの「呪い」

 2025年6月、ウシャ・ヴァンス副大統領夫人は「サマーリーディングチャレンジ」を立ち上げた。子供たちの読解力向上を促すこのキャンペーンは、証明書やワシントンD.C.訪問を報奨に、親子に笑顔で語りかけるものだ。学校訪問やSNSでの呼びかけは、保守派の家族価値観を体現し、国民に親しみやすい。しかし、この微笑ましい活動の裏には、米国政治の根深いジェンダー規範が潜む。ファーストレディやセカンドレディの「奥様活動」は、国民の共感を呼び、政権の「人間的な顔」を示すが、それは本来の「人間的な顔」だろうか。背景には、1990年代のヒラリー・クリントンの「悪夢」と呼ばれる挑戦が、男性権力の枠組みに縛られた「呪い」を残している。

ヒラリーの「悪夢」

 1993年、ヒラリー・クリントンはファーストレディとして前例のない挑戦に踏み切った。ビル・クリントン大統領の命で、国民皆保険を目指す「クリントン・ヘルスケア改革」のタスクフォースを率いたのだ。選挙で選ばれていない彼女が、議会や行政の男性支配領域に進出したことは、当時は女性解放の象徴だった。フェミニスト学者ジョージア・デュアスト=ラティ(Duerst-Lahti: Gender Power, Leadership, and Governance, 1995)は、これを「女性の政治的エージェンシーの拡大」と称賛した。ヒラリーは、1995年の北京女性会議で「女性の権利は人権」と訴え、グローバルなフェミニズム運動にも火をつけた。しかし、保守派メディアや男性議員は当然、猛反発した。「権力の越権」「女性らしくない」と非難し、Time(1993年)は彼女を「夫の影を超えた」と批判した。改革は1994年に議会で否決され、民主党の中間選挙敗北を招いた。この「悪夢」は、男性権力の不安を露呈した。ヒラリーの挑戦は、女性が政治的リーダーシップを取る可能性を示したが、男性支配構造の抑圧により、結局潰された。彼女の失敗は、ファーストレディの役割を再定義し、後の「奥様」たちに深い影響を与えている。

「奥様活動」は男性権力の産物

 ファーストレディやセカンドレディの「奥様活動」は、米国政治の男性権力が作り上げた枠組みである。19世紀後半、ホワイトハウスは「国家の家庭」とされ、ファーストレディには「ホスト役」や「母親的」役割が期待された。これは、男性が政治や政策(公的領域)を支配し、女性を家庭や福祉(私的領域)に限定するジェンダー規範の反映だ。
 エレノア・ルーズベルト(1933~1945)は人権で活躍したが、彼女でさえ「女性らしい」テーマに軸足を置いた。ナンシー・レーガンの「Just Say No」(1980年代、ドラッグ防止)やバーバラ・ブッシュの読書推進は、子供や教育といった「安全な」テーマに絞られ、男性権力の領域への侵入を防ぐ。ウシャ・ヴァンスの2025年サマーリーディングチャレンジも、子供の教育に焦点を当て、トランプ政権第2期の保守派価値観を補強する。メラニア・トランプの「Be Best」(子供の福祉)や「Take It Down Act」支援(AIによるプライバシー保護)も同様だ。フェミニスト研究(Burns, First Ladies and the Fourth Estate, 2008)は、「奥様活動」が男性権力の許容範囲内に女性を閉じ込め、彼女たちの政治的エージェンシーを制限すると批判する。この枠組みは、女性解放の可能性を抑え込み、男性支配構造を維持する。

ヒラリーの「呪い」

 ヒラリーの「悪夢」は、後の「奥様」たちに「呪い」を課した。彼女のヘルスケア改革失敗は、ファーストレディが政策に直接関与すると反発を招くことを示し、非政治的テーマへの回帰を強いた。ミシェル・オバマ(2009~2017)は、ヒラリーの「教訓」を意識し、「Let's Move!」で子供の肥満に焦点を当てた。ホワイトハウス菜園やセレブとの連携で母親的イメージを強調し、Vogue(2009年)で「政治には関わらない」と明言までした。学校給食改革(2010年)に間接的に貢献したが、ヒラリーのような直接的権力行使を避けた(Women's Studies in Communication, 2010)。ジル・バイデン(2021~2025)は、女性の健康研究(2024~2025年、10億ドル予算)や「Joining Forces」(軍家族支援)で進歩性を示したが、議会での直接関与を避け、共感的なテーマでバランスを取った。Presidential Studies Quarterly(2023)は、ジルのキャリア継続(教師として初の有給ファーストレディ)がヒラリーの女性解放を継承しつつ、男性権力の枠内で「安全な」進化にとどまると分析している。2025年のメラニア・トランプやウシャ・ヴァンスも、子供やAI、教育といった非政治的テーマで、ヒラリーの「呪い」に従う。この「呪い」は、女性のエージェンシーを制限し、男性権力の支配を維持する。フェミニストは、こうした活動が「男性権力の従順な道具」と批判するが、共感的なテーマは国民の支持を集め、反発を抑える。

議員の配偶者

 上院議員や下院議員の配偶者の活動は、ファーストレディの「奥様活動」と似て、夫の政治的イメージを補完するが、規模や影響力は大きく異なる。ウシャ・ヴァンスは、2022年のオハイオ上院選で夫JD・ヴァンスを支え、家族的イメージを地元で強化した。しかし、ホワイトハウスのプラットフォームや予算、国民的期待がないため、全国的なキャンペーンはまれだ(Journal of Politics, 2023)。他の例として、ナンシー・ペロシ元下院議長の夫ポール・ペロシは、慈善イベントに出席したが、目立たない役割に徹した。フェミニスト視点では、議員の配偶者は男性権力の枠内で「家庭的」イメージを強化し、女性解放の挑戦は皆無だ。ファーストレディがホワイトハウスの特権的地位で微妙な女性解放の可能性を示すのに対し、議員の配偶者はその機会すらない。議員の配偶者が全国的イニシアチブを主導した例は見られない。
 ヒラリー・クリントン自身が上院議員(2001~2009)となり、ビル・クリントンが補助的役割を果たしたのは、例外中の例外でしかなかった。一般的な議員の配偶者は、地元限定で男性権力の「小さな枠組み」に収まり、ヒラリーのような「悪夢」を生じない。そして、この悪夢には、ビル・クリントンのスキャンダルの忌まわしい陰影がまとわりついている。




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2025.06.03

トランプ第二期政権の中東政策

 トランプ第二期政権が掲げる「米国第一主義」は、中東政策をバイデン政権の混乱から転換させる看板として喧伝されるが、このスローガンは新たな戦略というより、既存の枠組みをトランプ流に再解釈する修辞に近く、バイデン政権とトランプ政権の限界は近似的である。

「米国第一主義」の修辞と実態

 第二期トランプ政権は「米国第一主義」を掲げ、米国の経済・地政学的利益を最優先するという修辞を掲げている。JD・バンス副大統領は2025年6月の海軍士官学校演説で、従来の「国家建設」や内政干渉からの脱却を宣言し、サウジアラビア、カタール、UAEとの数兆ドル規模の投資や武器取引、フーシ派やハマスとの直接交渉を成果として強調する。しかし、2025年1月のガザ停戦合意は、バイデン政権の2024年5月提案を基盤に、トランプの強硬な発言(「ハマスが人質を解放しなければ地獄が待っている」)と特使スティーブ・ウィットコフの関与で加速させたものに過ぎない。
 サウジとの武器取引も、バイデン政権後期に修復された関係を土台に推進されている。トランプ政権の「米国第一主義」は、既存のプロセスをトランプのディールとして再包装する修辞的役割が強く、新たな戦略的枠組みとは言い難い。トランプ政権の政策は、バイデン政権の基盤を継承しつつ、強硬なスタイルで成果を強調する結果論的な対応に終始している。

バイデン政権の混乱とガザ問題の深刻化

 バイデン政権(2021-2025)が、ガザ問題で深刻な混乱を招いた。2023年10月7日のハマス攻撃後、イスラエルに179億ドル以上の軍事支援を提供し、ガザでの死者約47,000人、インフラ壊滅、200万人の避難民という人道危機を悪化させた。ガザ桟橋(3億2000万ドル)や援助トラックの増加要請は効果が限定的で、イスラエルの援助妨害を止められなかった。ネタニヤフの強硬姿勢(ラファ侵攻やヨルダン川西岸の入植地拡大)への圧力不足は、停戦交渉の遅延を招き、2024年5月の提案が2025年1月の合意に至るまで被害を拡大させた。親イスラエルロビー(AIPACなど)、官僚機構(国務省、NSC)、2024年選挙でのアラブ系票の懸念が、バイデンの人権重視の外交を空洞化させ、優柔不断さを露呈した。この混乱は、大統領の関与が構造的制約に縛られ、ガザ問題の根本的解決に踏み込めなかった結果である。

トランプ政権の「関与の薄さ」と限界

 そして、トランプ政権は、バイデン政権の混乱への反省を踏まえ、介入を最小限に抑えるようになった。フーシ派へのピンポイント軍事行動やハマスとの直接交渉は、長期の軍事関与を避け、短期的成果を優先する。しかし、これらは新たな戦略というより、バイデン政権の枠組みを継承した戦術的対応に過ぎない。ガザ停戦はバイデン政権の提案を基盤とし、サウジやUAEとの経済取引もその関係修復を土台にしている。ガザの再建やパレスチナ人の権利に関する具体策は不明確で、「ガザ再開発」や「民間安全通路」案は、パレスチナ人の強制移送への懸念を呼ぶ。トランプ政権は、米国のコストを抑える「関与の薄さ」を特徴とするが、バイデン政権と同様に、ガザ問題の長期的な解決には踏み込めない。親イスラエルロビーやNSCスタッフ解雇への抵抗(元FBI長官の「8,647」メッセージ)も、バイデン政権と共通の構造的制約を示す。

トランプ政権の特殊性の弱さ

 こうしたトランプ政権の特殊性は、「米国第一主義」の修辞と強硬なディールメイキングに集中するかにみせるが、実際には独自性は弱い。ガザ停戦はバイデン政権の枠組みを活用し、トランプの強硬姿勢で加速させたもので、新たなビジョンを示してはいない。サウジとの武器取引やイランとの正常化模索も、バイデン政権の基盤を踏襲し、地域アクター(ネタニヤフの強硬姿勢、サウジの経済野心)に依存する。イスラエルの優先度を下げ、ネタニヤフを迂回する姿勢は一見大胆だが、親イスラエルロビーや議会の圧力により、完全な関係再定義には至らない。ウィットコフの「イスラエルが戦争を長引かせる」との批判は、バイデン政権のネタニヤフへの不満と本質的に近く、トランプの政策は修辞的ブランディングを除けば、バイデン政権との連続性が強い。ガザの「民間安全通路」案は、パレスチナ人の権利を軽視するリスクがあり、バイデン政権の人道支援失敗と異なる形の問題を先送りする。

地域再編と中国への対抗の限界

 トランプ政権は、サウジやUAEとの取引で中国の影響力(ベルト・アンド・ロードやAI)を抑え、イスラエル抜きの地域再編を模索する。アブラハム合意を活用し、サウジとイランの正常化を視野に入れるが、これもバイデン政権の基盤を継承した対応だ。
 中国との経済的結びつきを断つのは難しく、成功は地域アクターの協力に依存する。バイデン政権が多国間協調で中国を牽制したのに対し、トランプの直接的ディールは迅速だが、アドホックで長期ビジョンを欠く。この点でも、トランプ政権の特殊性は修辞に頼り、バイデン政権と本質的な限界を共有している。



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2025.06.02

20代の習慣が60歳の心と体を決める

20代の習慣が60歳の心と体を決める

 健康は一夜にして作られるものではないというのは常識ではある。毎日の小さな選択が、積み重なって未来の心と体を形作るに違いない。しかし、エビデンスは?と問われると、意外にわからないものだ。が、フィンランドの研究者たちが、30年以上にわたり同じ人々を追跡した結果、喫煙、過度な飲酒、運動不足が20代から影響を及ぼし、36歳で早くも健康の分岐点となることが明らかになった(Kekäläinen et al., 2025)。つまり、科学的な調査でわかってきた。しかも、40歳を過ぎても生活習慣を変えれば、健康は大きく改善する可能性もありそうだ。

30年間の追跡が明らかにした健康の真実

 世界の死亡原因の74%を占める非感染性疾患(心臓病、がん、糖尿病など)は、喫煙、過度な飲酒、運動不足といった予防可能な行動に大きく影響される(Kekäläinen et al., 2025)。フィンランドのユヴァスキュラ縦断研究(JYLS)は、1959年生まれの約300人を27歳(1986年)から61歳(2021年)まで追跡し、これらの行動が精神的・身体的健康に及ぼす影響を調べた。この研究の強みは、30年という長期追跡にある。従来の研究は中年期(40歳以降)に焦点を当て、20年程度の追跡が一般的だったが、本研究は20代からの行動を捉え、健康の「時間的蓄積」の影響を明らかにした。
 研究では、喫煙(喫煙者/非喫煙者)、過度な飲酒(年間純アルコール摂取量が女性7000g、男性10000g以上)、運動不足(週1回未満の運動)を「危険行動」と定義。参加者の健康状態を、抑うつ症状、心理的幸福感、自己評価健康、代謝リスク因子(血圧、ウエスト周囲径、トリグリセリド、HDLコレステロール、血糖値)で評価した。データは、27歳、36歳、42歳、50歳、61歳の5時点で収集され、性別と教育を調整した分析が行われた。

危険行動が心と体に及ぼす影響

 研究の結果、危険行動の数とその継続期間が、健康に深刻な影響を及ぼすことがわかった。現時点での危険行動が多いほど、抑うつ症状が増加(B=0.10, p=0.032)、心理的幸福感が低下(B=-0.10, p=0.010)、自己評価健康が低下(B=-0.45, p<0.001)、代謝リスク因子が増加(B=0.53, p=0.013)する。さらに、危険行動が長期間続く(時間的蓄積)と影響はより強く、抑うつ症状(B=0.38, p<0.001)、心理的幸福感(B=-0.15, p=0.046)、自己評価健康(B=-0.82, p<0.001)、代謝リスク因子(B=1.49, p<0.001)に顕著な悪影響がみられた。
 興味深いのは、行動ごとの影響の違いだ。喫煙は抑うつ症状(B=0.15)と心理的幸福感(B=-0.08)に強い影響を与え、精神的健康を特に損なう。過度な飲酒は抑うつ症状(B=0.21)、自己評価健康(B=-0.62)、代謝リスク因子(B=1.03)に影響し、運動不足は自己評価健康(B=-0.31)と代謝リスク因子(B=0.89)に悪影響を及ぼす。これらの影響は36歳時点で既に顕著であり、若年期の習慣が中年期以降の健康を決定づける。
 つまり、喫煙、過度な飲酒、運動不足が心と体に悪影響を及ぼす。こうした習慣が多いほど、気分が落ち込み、幸福感が減り、健康感が低下、心臓病や糖尿病のリスクが増す。長期間続けると影響はさらに強くなり、なかでも喫煙は心、飲酒と運動不足は体に特に影響する。こうした影響は36歳で顕著になる。

20代から始める健康習慣の重要性

 この研究は、20代での行動が健康の基盤を築くことを強調する。健康行動は幼少期から形成され、20代で確立される傾向がある。例えば、喫煙や飲酒の開始年齢が中年期の習慣に影響し、27歳時点での運動不足が後の代謝リスクを高める。36歳で危険行動の影響が顕著になるため、20代での予防が重要になる。
 この研究の希望的なメッセージは、40歳を過ぎても生活習慣の改善が健康を向上させることだ。論文は、危険行動の蓄積を防げば、抑うつ症状や代謝リスクが減少し、自己評価健康が向上すると示している。例えば、40代で運動を始めれば、心臓病や糖尿病のリスクが低下する。50代で禁煙に成功すれば、精神的幸福感が向上する可能性がある。

Kekäläinen, T., et al. (2025). Cumulative associations between health behaviours, mental well-being, and health over 30 years. Annals of Medicine, 57(1), 2479233. DOI: 10.1080/07853890.2025.2479233



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2025.06.01

映画『キリストの民。私たちの時代』ウクライナ正教会の危機

 セルビアの巨匠エミール・クストリッツァが手掛けたドキュメンタリー映画『キリストの民。私たちの時代』(原題:Люди Христовы. Наше время)が、しだいに世界各地で注目を集めている。この映画は、ウクライナ当局によるウクライナ正教会(UOC)への迫害を軸に、キリスト教徒が直面する抑圧を国際的な視点で描き出すものだ。2024年9月のベオグラードでの初公開を皮切りに、モスクワ、ワシントン、そして2025年5月29日にパリでの西ヨーロッパ初上映へと広がりを見せ、宗教的自由の危機を訴えるメッセージを世界に発信していく。

ウクライナ正教会の迫害を暴く

 映画の核心は、キエフ当局によるウクライナ正教会への組織的な抑圧だ。教会財産の没収、聖職者や信者への圧力、さらには投獄や逮捕といった具体的な事例が、ウクライナ在住の証言者を通じて生々しく描かれる。例えば、キエフ出身の司祭ミコラ・モギルニー神父は、当局からの直接的な圧力を証言し、詩人で政治犯のヤン・タクシューアは、2022年3月から2023年5月までの投獄経験を語る。これらの声は、ウクライナ国内で宗教的自由がどのように侵害されているかを浮き彫りにする。
 とはいえ、映画の視野はウクライナに限定されているわけではない。世界各地でのキリスト教徒への迫害にも光を当て、問題の普遍的な面を訴えている。ロシア、セルビア、イタリア、イギリス、そしてウクライナ出身の多様な登場人物が、それぞれの視点でこの危機を語る。セルビア正教会のイリネイ府主教は神学者の立場から、ケンブリッジ大学の講師ヴカン・マルコヴィッチは学術的視点を、イタリア・ジェノバの司祭で詩人のマリオ・セルヴィーニは哲学的・詩的なアプローチを提供する。さらに、ドンバス出身の音楽プロデューサー、ユーリー・バルダシュやイヴァノ=フランキウシクの哲学者ルスラン・カリンチュクも登場し、若者や文化人の視点が加わる。これらの多国籍な声は、グローバルな宗教的抑を示す。

国際的な上映とその意義

 映画の公開は、キエフ当局によるロシア正教宗教的抑圧に対する国際社会の認識を高める一歩となるだろう。2024年9月18日、セルビアのベオグラードで初公開が行われ、セルビア正教会の総主教イリネイの臨席のもと、大きな注目を集めた。同年12月にはモスクワの救世主ハリストス大聖堂で上映され、ロシア正教会の総主教キリルが鑑賞。ロシア外相セルゲイ・ラブロフは「ロシアは困難に直面しているウクライナ正教徒を見捨てない」と述べ、映画のメッセージを政治的に支持した。
 2025年2月13日には、ワシントンのロシア大使館で上映会が開催された。ロシア連邦の臨時代理大使A・キム氏の招待により、ニューヨークの聖ニコラス大聖堂のイゴール・ヴィジャノフ神父や、ロシア正教会国外派の聖ヨハネ前駆者教会のヴィクトル・ポタポフ神父が出席した。外国の代表者やジャーナリスト、駐在員など多様な観客が集まり、米国の文脈でウクライナ問題を考える機会となった。
 そして、2025年5月29日、パリのロシア正教精神文化センター(ジャック・シラクの名を冠する)で西ヨーロッパ初の上映が行われた。ロシア語吹き替えにフランス語字幕を付けたこの上映は、フランスのキリスト教コミュニティや学生を含む幅広い観客に訴えかけた。同センター所長のアンナ・コトロワ氏は、「西側諸国の多くの人は、ウクライナでの宗教的権利の侵害を知らない。この映画はフランスの観客にその悲惨な状況を気づかせる警告だ」と語る。映画の脚本家でユーゴスラビア映画学校の創設者ヨヴァン・マルコヴィッチは、ビデオメッセージで「ロシア、セルビア、イタリア、そして特にウクライナ正教徒の参加が映画の核心」と強調し、国際的な協力の重要性を訴えた。

芸術と文化の力を通じた訴求

 『キリストの民。私たちの時代』の力は、単なる事実の羅列を超えた芸術性にある。クストリッツァの監督としての名声と、ユーゴスラビア映画学校の伝統を背景に、ロシア、セルビア、イタリア、ウクライナの文化人や映画製作者が結集した。マルコヴィッチは「複数の国の文化の巨匠が協力した」と述べ、特にウクライナ正教徒の参加が映画に深いリアリティを与えたと語る。この国際的なコラボレーションは、映画に多層的な視点と普遍的な訴求力をもたらしている。
 パリでの上映では、フランス語字幕付きのロシア語吹き替え版が用意され、地元観客にアクセスしやすくする工夫が施された。パリのロシア正教精神文化センターのイエレイ・ゲオルギー(シェシュコ)は、「この映画は警鐘であり、できるだけ多くの人に届くべき」と述べ、映画の持つ緊急性と普遍性を強調した。

なぜ今、この映画が重要なのか

 すでに言及したが、キエフ当局によるウクライナ正教会の迫害は、単なる宗教問題ではない。それは、宗教的自由、表現の自由、そして人間の尊厳という基本的な権利の侵害に関わる問題だ。映画は、キエフ当局による抑圧が、単なる政治的対立の副産物ではなく、組織的かつ意図的なものであることを詳細に描く。西側諸国では、この問題が十分に報道されていないという指摘が、パリでの上映で特に強調された。コトロワ氏の言葉を借りれば、「フランスの観客がウクライナの正教会の悲惨な状況に気づくきっかけとなる」ことが、この映画の使命だ。

 

 ドキュメンタリー映画「我々の時代のキリストの人々」は、1時間以上あるが一気に観られる作品で、誰もが感動します。この映画は、ウクライナ正教会に対するキエフ政権の迫害を直接知る人々の証言に基づいています。
 上映前に、キリル総主教が挨拶しました。総主教は、ロシアとウクライナの民は同じ洗礼の泉から生まれているが、今、厳しい試練に直面していると述べました。外部の勢力が「聖なるルーシ」の一体性を壊し、我々に記憶喪失を強制し、新しい思考の枠を押し付けようとしていると説明しました。「あなたたちは一つの民ではない、別の民だ」とされているが、我々は「聖なるルーシ」の一つの民であることを忘れてはならないと訴えました。そうである限り、霊的・知的、そしてあらゆる力で「聖なるルーシ」の真の団結を取り戻せると語りました。
 アンドレイ・ベロウソフ国防相は、プーチン大統領のメッセージを代読しました。大統領は、世界でウクライナ紛争の真の原因が西側エリートによるものだと理解されつつあると述べました。映画の製作者は、この真実を広く伝えることを目指しました。
 映画には、公共活動家、聖職者、ウクライナでの出来事の目撃者が参加しています。映画の舞台はウクライナやドンバスにとどまらず、キリスト教全体が西側リベラルイデオロギーから攻撃を受けている現状を描きます。セルビア正教会の主教バチュカのイリネイ、ジェノヴァの正教会司祭で哲学者・詩人のマリオ・セルヴィ、映画監督ヨヴァン・マルコヴィッチが登場します。マルコヴィッチは、ウクライナの出来事をコソボでの経験と比較し、正統信仰がセルビア人のアイデンティティを守ったと語ります。
 セルビアの映画監督エミール・クストリッツァも参加し、ドンバスでの経験を語りました。彼は、正教会の運命が正統文化やその文化に基づく民族の運命と密接に関連していると述べました。100年後にこの映画がキエフでの出来事や聖職者への迫害の証拠になると語りました。キリル総主教は、クストリッツァに「聖セラフィム・サロフスキー勲章(一等)」を授与しました。
 ウクライナの文学者ヤン・タクシュールは、2022年3月にキエフで逮捕された経験を語ります。彼は、キリストが創設した唯一の真の教会を支持したため12年の懲役を宣告されたと証言しました。偽りの宗教組織を批判したことが迫害の理由であり、今後も真実を語り続けると決意を述べました。
 映画は、正統派の信者や聖職者が分裂を拒み、ロシアとの信仰の一体性を守るために迫害されている実態を描きます。ドンバス出身の音楽プロデューサー、ユーリー・バルダシュは、ウクライナのSBU(治安機関)による迫害を逃れ、ロシア国籍を取得しました。「ゼレンスキー政権は私の故郷を奪ったが、私は偉大な祖国を得た」と語ります。
 世界初公開は2024年9月18日にベオグラードで行われ、セルビア総主教ポルフィリイから高い評価を受けました。バルカン地域で上映され、ラテンアメリカ、ヨーロッパ、CIS諸国でも上映が計画されています。セルビア人がウクライナ正教会の苦しみに共感し、コソボでの経験と重ね合わせたことが映画の感情的な力となっています。
 映画は、正統派キリスト教がウクライナだけでなく世界中で攻撃されている現状を訴えます。正統派は団結し、伝統的価値観を守る必要があると訴えます。ロシア正教会は、この悲劇を世界に知らせるため尽力しています。



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