カシミール紛争は再燃するか
2025年4月22日、カシミールの観光地パハルガムでテロ事件が発生し、観光客26人が銃撃され死亡した。シャングリラにもなぞらえられるこの「平和の楽園」は、過去にも度々流血の舞台となっており、そのたびにインドとパキスタンという2つの核保有国の緊張を世界に再認識させてきた。今回の事件では、家族旅行の風景が一瞬にして暴力に変わった。この悲劇は日本でも報道されたが、扱いは小さく、一般の関心も高いとは言えなかった。しかし、カシミールは核リスク、テロの波及、中国やトルコの地政学的影響力が交錯する潜在的な火種である。なぜ今テロが起きたのか、そして悪化すれば世界はどうなるのかを考察しておく。
カシミール紛争の構造
カシミールは、インドとパキスタンが70年以上にわたって領有を争う地域である。1947年、英領インドの分離独立時に、ヒンドゥー教徒のマハラジャがインドへの帰属を選んだことで、イスラム教徒多数の住民との対立が激化した。現在、インドがジャンムー、カシミール渓谷、ラダック(全体の約55%)、パキスタンがアザド・カシミールとギルギット・バルティスタン(約30%)、中国がアクサイチン(約15%)を実効支配している。1947–48年、1965年、1999年には全面戦争が発生し、現在に至るまで断続的に衝突が続いている。1993年の米国家情報評価(NIE)は、こうした小規模衝突の誤算が核エスカレーションにつながる危険性を警告していた。
2019年、インド政府はジャンムー・カシミールの特別自治権(憲法370条)を廃止し、地域を連邦直轄領に再編した。この措置により、土地購入や定住の自由が認められ、人口構成の変化を意図したのではないかという批判が一部に存在する。これが過激派組織のThe Resistance Front(TRF)やLashkar-e-Taiba(LeT)によるテロ活動の口実となったとされる。パキスタンはこの政策を「占領」と非難し、インドはパキスタンの軍や情報機関ISIがテロ組織を支援していると主張している。ただし、これらの応酬はしばしば定型化した政治修辞の域を出ない印象もある。
そして2025年4月22日、TRFはパハルガムで観光客26人を殺害した。犯行は、ヒンドゥー教徒の男性を選別し公開処刑するという残虐な手法で、インド政府の「正常化」政策への露骨な挑戦と見られている。2019年以降、インド政府は観光産業を活性化させ、2024年にはカシミール渓谷に350万人が訪れた。パハルガムはその象徴的存在であり、今回の事件はモディ政権にとって政治的打撃となった。事件後、実効支配線(LoC)で銃撃戦が発生し、インドはインダス川水利条約の見直しに言及するなど、緊張が高まった。
国際社会は今回の事態に迅速に反応した。米国務長官マルコ・ルビオはインドとパキスタン双方に「自制」を求め、訪印中だった米副大統領JD・ヴァンスはインド支持を表明した。英国は中立を維持し、国連は対話を呼びかけたが、その影響力は限定的であった。国際政治学者の高橋和夫教授は、トルコからパキスタンへのドローン供給や、中国による衛星情報の提供が、紛争の国際化を加速させていると指摘している。カシミールは今や、南アジアの地域紛争を超えたグローバルな緊張の温床となっている。
なぜ今起きたのか:偶発性と大国の影
今回のテロが起きた背景には、偶発的要素と戦略的意図、そして大国の地政学的思惑が交錯している。まず、事件の実行には偶発性がある。パハルガムは軍事化が比較的少なく、観光客の集まりが警備の隙を生んだ。実行者はパキスタン人2人とカシミール出身者1人とされ、うち1人は地元を3年以上離れていたという情報もあり、計画性よりも即興性がうかがえる。観光地としての人気が高まっていたことも、標的としての「選びやすさ」に拍車をかけた。
他方、TRFによる公開処刑という残虐な演出は、明確な戦略的意図を含んでいた。事件は、憲法370条廃止以降の「正常化」路線を粉砕しようとする試みとされ、国際メディアの注目を集める狙いがあった。事件の直前、パキスタン軍のアシム・ムニール将軍が「カシミールは我々の首筋」と発言しており、政治的扇動の意図をにおわせる。パキスタンは国内的にも不安定であり、経済危機やTTPによるテロ、野党指導者カーン支持者による抗議運動の高まりが、政権や軍の圧力となっている。こうした状況下で、軍やISIがテロを黙認した可能性も指摘されている。また、事件当日には、米副大統領ヴァンスがインドを訪問し、イスラエル製ドローンの供与を含む米印防衛協力を象徴的に示していた。TRFおよびその背後にある勢力が、これに対抗するかたちで国際的挑戦を仕掛けたという見方もある。
大国の動きは事件の構図をさらに複雑にする。トルコはイスラム世界での影響力拡大を志向する「新オスマン主義」に基づき、パキスタンへの軍事支援を続けている。中国はCPEC(中国・パキスタン経済回廊)への巨額投資を通じ、インド牽制と南アジアの覇権確保を進めている。米国と英国の対南アジア関心がウクライナやガザへの対応で後退しているなか、この国際的空白がパキスタンやその支援勢力に「行動の余地」を与えた可能性は否定できない。
TRFやLeTの過去の活動を考慮すると、ISIが関与した可能性や、大国が黙認していたという憶測も完全には排除できない。2008年ムンバイや2019年プルワマの事例がこの懸念を補強する。ただし、2025年時点では具体的な証拠は確認されていない。
紛争悪化のシナリオ
カシミール情勢がさらに悪化すれば、地域のみならず世界全体に影響が及ぶ。最大の懸念は核リスクである。インドとパキスタンの軍事的衝突が拡大し、誤算によって核使用に至る可能性は1993年のNIE以来、繰り返し警告されてきた。インドによるインダス川条約の破棄が検討されるような状況に至れば、戦争の現実味が増すとみられる。そこまで至らずとも、アフガニスタン(タリバン支配地域)や中国支配下のアクサイチン地域に波及すれば、南アジア全体の不安定化を招く。経済面でも、インドの航空路は燃料費の高騰と回避経路の必要性に直面し、パキスタン側のCPEC事業(グワダル港など)も停滞すれば、グローバル貿易への影響も避けられない。
中国はこの地域の重要プレイヤーであり続ける。620億ドル規模のCPEC投資により、パキスタンのインフラを支えており、中東貿易の拠点となるグワダル港も含まれている。しかし、パキスタンの国内情勢は一枚岩ではない。2024年にシャングラで発生した中国人技術者5人の殺害事件は、CPECへの信頼を損ね、中パ関係にも不穏な影を落としている。これにより、中国の投資と新疆ウイグル自治区の安定が脅かされることになる。
加えてトルコもこの紛争における端役ではない。パキスタンとの歴史的関係(ムシャラフ元大統領のトルコ時代など)を基盤に、ドローン供給を含む軍事協力を強化しており、NATO内の分断要因となりつつある。特にウクライナ問題や対中戦略に影響を及ぼす可能性があるため、NATOにとっても無視できない懸念材料だ。
最後に、テロの波及リスクは見逃せない。TRFやLeTはタリバン、アルカイダとの歴史的つながりを有しており、カシミール発の過激主義が欧州や中東に波及する懸念もある。2011年に米軍が殺害したイリヤス・カシミリは、カシミール過激派とアルカイダの連携を象徴する存在だった。
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