原油価格低迷の波紋
原油高騰はメディアでも大きく報じられるが、価格低迷となると扱いは専門領域にとどまりがちだ。今年初め、原油価格は急落していたにもかかわらず、一般ニュースでの注目度は高くなかった。WTIは80ドル台から55ドル台へと25%も下落した。この背後には複数の要因がある。一つは、トランプ政権期に導入された対中関税である。25%の追加関税は一部の中国製造業に打撃を与え、原油需要の伸びを鈍化させた。ただし、需要全体が「半減」したわけではなく、成長率の緩やかな低下にとどまった。北京周辺の工業活動が一部停滞し、上海の港湾でもコンテナ船の動きが鈍る場面が見られたという。米国内では当時の政権が「ガソリン安」を成果として強調したが、その影には世界経済全体の冷却と、それに伴うエネルギー需要の構造的変化があった。この状況が長引けば、サプライチェーンの再構築が迫られ、アジアや欧州の市場にも波紋が広がる可能性がある。
二つ目の要因はOPEC+の動向である。2025年5月3日、OPEC+は日量約41万バレルの増産を決定し、6月以降にはかつての自主減産(最大220万バレル)を段階的に解除していく方針を打ち出した。価格低迷にもかかわらず増産を続ける背景には、サウジアラビアの低コスト体質がある。1バレルあたり5ドル台という採掘コストの優位性を背景に、市場シェアの維持を優先している。また、米国からの増産圧力も無視できない。トランプ政権期に形成された「低価格維持」の期待が、市場に継続的な影響を与えている。こうした中、日本のガソリン価格も一時185.1円に達したが、原油安と円高の影響から、現在は下落傾向にある。ただし、ガソリン税(53.8円)や為替の変動が価格下落を打ち消しており、消費者への恩恵は限定的だ。課税構造の見直しが望まれるが、野党を含めた活発な議論はまだ表面化していない。
産油国の綱引きとシェールの苦境
OPEC+内部は必ずしも一枚岩ではない。サウジアラビアは、生産枠を超えて原油を供給する国々に対し、価格を通じて圧力をかけている。ロシアはウクライナ戦争の財政需要を背景に、生産枠(約900万バレル)を超える生産を続けているが、国家歳入の約4割を原油に依存する現実があり、ルーブル安や財政赤字への懸念も付きまとう。カザフスタンは新油田開発に向けた資金確保を目的に増産へと動き、イランも制裁回避と経済立て直しのために供給を強化している。こうした各国の事情が重なり、市場全体として供給過剰の兆しが強まっている。宗派的対立を抱えるサウジとイラン、そしてロシアによるバランス外交もOPEC+の結束を不安定にしている。
米国もまた、原油価格の低迷に翻弄されている。シェールオイルの採算ラインは1バレルあたり65〜70ドルとされ、価格がこれを下回る状況では掘削が停止される。テキサス州の油田では掘削機の稼働が止まり、主要シェール企業の一つであるダイヤモンドバック社は「2025年がピークとなる可能性」を示唆している。トランプ氏が掲げた「ドリル、ベイビー、ドリル」のスローガンは、現実との乖離を浮き彫りにしつつある。
一方、中国にとっては原油安が南シナ海における資源確保の圧力を一時的に和らげる可能性もあるが、長期的な軍事戦略に変化はない。米国防総省は「2030年までに中国海軍の艦船数が435隻に達する」との見通しを示しており、中国は依然として実利と戦略の双方で動いている。
再生可能エネルギーへの影響も無視できない。原油価格の低下は、化石燃料のコスト競争力を一時的に高め、欧州のグリーンディールをはじめとする環境政策にとっては逆風となっている。安価な原油が再エネ投資の採算性を相対的に下げてしまう懸念がある。
原油価格は不安定化の鏡
結局のところ、今回の原油価格の下落は、単なる市場メカニズムの産物ではなく、国際政治と経済の不確実性を反映する鏡のような存在である。トランプ政権期の関税政策は、世界貿易に抑制効果を与え、IMFは2025年の世界経済成長率を2.8%と予測している。ウクライナ戦争は欧州の天然ガス供給に打撃を与え、中東ではイスラエルとイランの対立が供給リスクを高めている。
ただし、エネルギー市場には多層的な支えもある。IEAによれば、原油が全体の約30%を占める一方、天然ガスは25%、再生可能エネルギーは15%まで拡大しており、石炭や原子力も一定の役割を果たしている。この多様性が単一依存のリスクを緩和するが、LNGターミナルの容量不足や高コストといった課題も依然として残る。原油安はLNGやガソリン価格の下支え要因ともなり、欧州のエネルギー危機を一時的に緩和している。
日本でも、燃料価格は家計に直結する。2025年1月に政府補助が終了したことでガソリン価格は185.1円まで上昇したが、円高と原油安の影響で6〜8月には175〜180円台への緩やかな下落が見込まれている。ただし、ガソリン税や輸送コストの影響が大きく、値下がり効果は限定的だ。価格低下は電力料金や物流費を通じて一部消費者に恩恵をもたらすが、物価全体への影響は小さく、実感されにくい。
より根本的な課題は、世界経済の減速にある。対中関税やサプライチェーンの分断は、輸出産業に逆風をもたらし、自動車・電機といった分野では減益リスクが顕在化している。2025年度の日本の実質GDP成長率は1%未満との予測もある。エネルギー自給率が19%にとどまる日本にとって、持続可能な電力供給の構築は急務である。政府は2030年までに再生可能エネルギー比率を36〜38%に引き上げる方針を掲げているが、原油安がその投資意欲を鈍らせる可能性もある。安価な燃料の恩恵に酔うことなく、不安定な国際環境を見据えた経済・エネルギー戦略が求められている。
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