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2025.05.14

ウクライナ戦争の修辞学

 2025年5月11日、米国の外交・安全保障専門誌『ナショナル・インタレスト』に掲載されたデビッド・キリチェンコの記事「A MAGA-Friendly Ukraine Strategy: What Comes Next?」(https://nationalinterest.org/feature/a-maga-friendly-ukraine-strategy-what-comes-next)は、ウクライナがトランプ政権下でアメリカの支援を確保するための戦略転換を求める提言であった。この記事は、ウクライナの指導者、特にヴォロディミル・ゼレンスキー大統領とその政府に対し、トランプの取引型外交やMAGA(Make America Great Again)支持層の価値観に適応した外交・コミュニケーション戦略を採用するよう訴えている。このため、表面上はウクライナへの具体的アドバイスに見える。だが、ウクライナ側戦争を取り巻く現状を直視するなら、専門知識がなくとも、この提言の実行可能性には疑問符がつく。であれば、この提言はむしろ修辞的意図が潜むと解釈すべきだろう。

ウクライナへの戦略転換の提言

 キリチェンコの記事は、2025年のトランプ政権再登場を前提に、ウクライナがバイデン政権時代のアプローチから脱却する必要性を強調している。バイデン政権下では、ゼレンスキーはロシアの侵略に対する道徳的訴えを駆使し、リベラル派や伝統的メディアを通じて西側の支持を獲得してきた。しかし、トランプは取引型リーダーであり、個人的遺産やアメリカの国益を優先する。この点から記事は、ゼレンスキーがトランプに「戦争を終わらせた大統領」としての歴史的評価やノーベル平和賞の機会を提示し、ウクライナ支援をロシアの弱体化やアメリカの威信向上と結びつける戦略を提案する。さらに、保守派メディア(ポッドキャスト、インフルエンサー、タウンホール)の活用を求め、ジョー・ローガンへの出演拒否(このためウクライナがアメリカの保守派メディアやインフルエンサーを通じて直接的に支持を獲得する機会を逸した)や情報戦の不足を批判している。2024年のクルスク州侵攻を例に、ウクライナの戦場での成功を強調し、トランプの「勝者」志向に訴える可能性を示すことも可能かもしれない。これらの提言は、ウクライナがアメリカの政治的分断や保守派の孤立主義に直面する中で、支援を確保するための現実的対応を模索するものである。
 この記事の背景には、トランプとウクライナの複雑な関係がある。2019年の弾劾騒動では、トランプがゼレンスキーにハンター・バイデン調査を求めたとされる電話が問題となり、両者の不信感が深まった。MAGA支持層はウクライナ支援を「民主党のプロジェクト」と見なし、タッカー・カールソンを含め、保守派メディアの影響力増大が孤立主義を助長している。キリチェンコは、こうしたアメリカの政治的現実を詳細に分析し、ウクライナが現状を放置すれば、米国保守派の支援を失うことになるリスクを警告する。提言では、ゼレンスキー政権が保守派の価値観(強さ、主権、専制への抵抗)に訴え、トランプの取引型思考を活用することで、戦争継続の基盤を維持できると主張している。この論調は、ウクライナ指導部に戦略的柔軟性を求める切実な呼びかけとして読むことはできる。

提言の現実性と限界

 しかし、ゼレンスキー政権がこの提言をそのまま受け入れる可能性は低いと見るのが合理的だろう。まず、トランプとの過去の確執は深刻な状態だ。弾劾騒動でトランプがゼレンスキーを「許していない」(ジョン・ボルトン証言)とされる中、ゼレンスキーがトランプのレガシー志向に迎合することは、心理的・政治的に困難だろう。ウクライナ国内では、戦争中のゼレンスキーは国民の団結と対ロシア強硬姿勢を維持するリーダー像を求められており、トランプとの取引型アプローチは「妥協」と受け取られ、支持を失うリスクがある。この帰結の笑劇は世界中に晒された。さらに、ゼレンスキーのリーダーシップは道徳的訴えや欧州的価値観による共感に依存しており、MAGAのナショナリズムや保守派メディアに積極関与することは、ウクライナの正義の戦いを損なうと見なされかねない。リソース面でも、戦争中の政府が保守派メディア向けのキャンペーンに割く余裕は限られている。
 この提言の実現可能性には、トランプ政権の予測不可能性も障害となる。トランプがウクライナ支援を削減し、ロシアとの取引を優先する場合、ゼレンスキーがどれだけ戦略を調整しても成果を上げにくいだろう。記事は、ウクライナの戦場での成功(クルスク州侵攻)やロシアの弱体化(北朝鮮兵士の動員)を強調するが、トランプの外交は地政学的論理よりも個人的動機に左右されがちである。元英国防相ベン・ウォレスの言及が示すように、トランプは「取引の華々しさ」に興味を持ち、ウクライナの長期未来を軽視する可能性がある。このような環境下で、ゼレンスキーがこの提言を実行するのは、戦略的にも政治的にもかなり高いハードルである。キリチェンコ本人がこうした限界を認識しているかは不明だが、提言の具体的実行よりも、ウクライナに危機感を植え付ける意図が強いと推測できる。

修辞的意図の深層

 仮に、ゼレンスキー政権が提言を受け入れる可能性がほぼないとすれば、この記事の真の意図は修辞的であると考えられる。表面上はウクライナ指導部へのアドバイスだが、実際には複数のステークホルダーに訴える戦略的レトリックとして機能させる意図である。まず、ウクライナに対する間接的圧力がある。記事は、アメリカの政治的現実(トランプの取引型思考、MAGAの孤立主義)を詳細に分析し、支援喪失のリスクを強調することで、ゼレンスキーに従来のリベラル派依存からの脱却を迫る。たとえ提言がそのまま実行されなくても、ウクライナ指導部に危機感を植え付け、戦略的再考を促す警告としての役割を果たす。
 次に、記事はアメリカの政策立案者や世論に間接的に訴えている。キリチェンコがヘンリー・ジャクソン・ソサエティの研究員であり、西側メディアで執筆する背景から、記事は共和党や保守派、シンクタンク、知識人層に影響を与える意図を持つ。ウクライナ支援を「ロシアの弱体化」や「アメリカの威信向上」と結びつける記述は、MAGAの価値観に響くレトリックであり、保守派にウクライナ支援の国益性を再認識させる狙いがある。トランプのレガシー志向を強調することは、共和党議員や有権者に「ウクライナ支援がトランプの利益になる」と訴える修辞的戦略とも言える。この間接的働きかけは、ウクライナがアメリカの支援を確保する環境を整える副次効果を意図している。
 さらに、記事は西側の安全保障コミュニティでの議論を刺激する。ウクライナの戦略転換を通じて、トランプ政権下での西側外交や対ロシア戦略の課題を浮き彫りにする枠組みを提供する。ロシアの弱体化が西側の戦略的利益になると述べる部分は、EUやNATOの政策立案者にウクライナ支援の地政学的意義を再確認させる。キリチェンコの分析的トーンや専門家の引用(トレストン・ウィート、タラス・クジオなど)は、学術的・政策コミュニティに議論を投げかけ、トランプ政権下の地政学的ダイナミクスを考察する起点となる。この点で、提言はウクライナの具体的な行動変容よりも、広範な知識人層に安全保障議論を喚起するレトリックとして機能する。

知識人への問いかけ

 キリチェンコの記事は、ウクライナ指導部への提言という形式を取りつつ、修辞的意図を通じて複数の層に訴える。ゼレンスキー政権にはアメリカの政治的現実への適応を迫り、アメリカの保守派にはウクライナ支援の国益性を訴え、西側の知識人にはトランプ政権下の戦略的課題を投げかける。しかし、そもそもの提言の実行可能性が低い以上、記事の真価は議論の起点に置き去りにされている。知識人として、トランプ政権の予測不可能性がウクライナや西側全体に与える影響をどう評価するのか。ウクライナ支援は、道徳的義務を超えて、どの程度地政学的利益に結びつくのか。キリチェンコの修辞学は、こうした問いに答える責任を我々に委ねるといえば体がいいが、実際には、修辞学らしく実体に乏しい。さて、ウクライナの未来は、ゼレンスキーの戦略転換だけでなく、西側の団結と知恵にかかっていると、ここでいうのはこの修辞学に即しているだろう。



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