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2025.05.12

歴史のナラティブと権力

 歴史はしばしば、偉大な発明や画期的な革命といった輝かしいマイルストーンによって語られる。古代中国の「四大発明」(羅針盤、火薬、紙、活版印刷)や、近代西洋の「産業革命」(第一次・第二次)は、それぞれの文明の先進性や、世界史における決定的な影響力を象徴する物語(ナラティブ)として広く受け入れられてきた。しかし、これらのナラティブは、果たして歴史の複雑な実態をありのままに映し出しているのだろうか。実は、特定のイデオロギーや権力構造によって構築された恣意的で、時に「馬鹿馬鹿しい」物語に過ぎないのではないか。さらに、漢字とラテン字母の比較を通じて文化や技術の受容における力関係を考察し、「戦争に勝った野蛮人が、自分たちは野蛮ではないとして歴史のナラティブを作る」という論点を軸に歴史叙述に潜む権力性、暴力の隠蔽、そして平和や精神性の軽視といった問題を論じてみたい。

「偉大なる発明」と「革命」の神話:ナラティブの恣意性と誇張

 「四大発明」のナラティブを検証しよう。これらが古代中国の重要な技術的成果であることは疑いない。しかし、この4つが「四大発明」として特別な地位を与えられた背景には、20世紀の歴史家ジョセフ・ニーダムの研究と、それが中国ナショナリズムや西洋のオリエンタリズムと共鳴した経緯がある。ニーダムは『中国の科学と文明』において、これらの技術が西洋文明の発展(例:大航海時代、印刷革命、火器の発達)に与えた影響を強調したが、その選択は西洋中心的な視点に偏っているとの批判は免れない。中国には他にも灌漑技術、冶金、天文学、運河システムなど、社会や経済に多大な影響を与えた技術が存在するにもかかわらず、なぜこの4つだけが選ばれたのか。さらに、各発明の起源や影響に関するデータは断片的であり、特に活版印刷(畢昇の発明)は、木版印刷が主流であり続けた中国では、グーテンベルクの印刷革命ほど広範な社会的インパクトを持たなかった可能性が指摘される。このように、「四大発明」は、歴史的データの薄弱さを背景に、ナショナリズムとオリエンタリズムによって神話化され、中国の多様な技術史を単純化する側面を持つ。
 次に、「産業革命」のナラティブに目を向ける。一般に18世紀後半から19世紀初頭の英国における技術革新(蒸気機関、紡績機)と経済成長を指す「第一次産業革命」は、「近代社会の幕開け」として語られる。しかし、近年の経済史研究(例:N. Crafts, G. Clark)は、この時期の英国の1人当たりGDP成長率が年平均0.3%程度と緩やかであり、生活水準の顕著な改善は1830年代以降にずれ込むことを示している。「革命」という言葉が喚起する劇的な変化とは裏腹に、実態は中世以来の緩やかな技術・経済進化の延長線上にあった可能性が高い。では、なぜ「産業革命」のイメージはこれほどまでに劇的なのか。その一因は、19世紀後半から20世紀初頭にかけての「第二次産業革命」(電気、化学、鉄鋼、鉄道)の目覚ましい成果が、遡及的に第一次の功績として投影され、混同されたことにある。「第二次産業革命」という区分自体が、第一次の影響力の限界を隠蔽し、「西洋(特に英国)が連続的に近代化を主導した」という西洋中心主義的な物語を補強するための「言い訳」として機能した。産業革命のナラティブは、英国の国家的誇りや資本主義の優位性を正当化するイデオロギーに深く結びつき、その成功を支えた植民地からの資源収奪(例:インドの綿花、アメリカの奴隷労働による綿花生産)や、労働者階級の過酷な現実(低賃金、長時間労働、劣悪な生活環境)といった「野蛮な」側面を覆い隠してきた。
 このように、「四大発明」も「産業革命」も、歴史の複雑なプロセスを特定のイデオロギー(ナショナリズム、西洋中心主義、資本主義)に沿って単純化し、誇張する「馬鹿馬鹿しい」ナラティブとしての性格を帯びている。

文化と力のアナロジー:漢字はなぜ世界標準にならなかったのか

 文化や技術システムの普及が、その本質的な「優劣」だけで決まるわけではないことは、漢字とラテン字母の比較が示唆している。漢字は、表意性による意味の直接伝達、高い情報密度、数千年にわたる文化的連続性、そして東アジア文化圏における共通基盤としての役割など、多くの点で優れた特性を持つ。書道や詩といった美的・精神的な表現においても豊かな可能性を秘めている。しかし、今日のグローバルスタンダードとなったのはラテン字母であった。ラテン字母の普及は、ローマ帝国の遺産、キリスト教の伝播、そして何よりも16世紀以降のヨーロッパ列強による植民地支配と、それに続く西洋の経済的・軍事的覇権と不可分である。西洋中心主義は、ラテン字母を「近代的」「合理的」なものとして称揚し、対照的に漢字を「複雑」「前近代的」と見なす傾向を生んだ。漢字の持つ哲学的深みや美的価値は、効率性や普遍性といった西洋近代の価値観の前では二次的なものとされた。
 この例は、「四大発明」や「産業革命」のナラティブ形成にも通底する力学を示唆する。ある技術や社会システムが「偉大」あるいは「革命的」と評価される背景には、それを用いた文化圏の政治的・経済的な力が大きく作用している。中国の四大発明が西洋への影響というフィルターを通して評価され、英国の産業革命が植民地支配の現実を覆い隠して「近代化の奇跡」として語られるのは、まさに歴史叙述における力関係の表れなのである。

「野蛮人」の作る歴史:権力、暴力、そして忘却

 かくして、「戦争に勝った野蛮人が、自分たちは野蛮ではないとして歴史のナラティブを作る」と提起してみたい。歴史はしばしば、軍事的・経済的な勝利者によって書かれ、その過程で用いられた暴力や不正義は、「文明の進歩」や「国家の発展」といった大義名分のもとに正当化され、あるいは忘却される。
 「四大発明」のナラティブは、火薬や羅針盤といった技術が、宋代の対モンゴル戦争や明代の鄭和の遠征など、軍事的・覇権的な文脈で発展・利用された側面を、「世界文明への貢献」という美名のもとに覆い隠す傾向がある。現代中国のナショナリズムがこのナラティブを強調する際、過去の帝国の膨張や内部の粛清といった「野蛮な」側面は、都合よく背景に押しやられる。
 同様に、「産業革命」のナラティブは、英国の輝かしい経済成長と技術革新を称賛する一方で、その陰にあった「野蛮性」――奴隷貿易、インド織物産業の破壊、アヘン戦争、国内労働者の搾取、環境破壊――を「進歩のためのやむを得ない犠牲」として矮小化するか、あるいは完全に無視する。勝者である英国(および西洋)は、自らを「文明」の担い手として描き出し、その覇権を自然で正当なものとして提示してきた。
 このような勝者のナラティブにおいては、平和や精神の価値は必然的に軽視される。漢字文化が育んだ哲学的な深みや美的感受性、宋代の平和的な商業社会が達成した経済的繁栄、あるいは産業革命期の労働者たちが示したコミュニティの連帯やささやかな抵抗――これらは、戦争の勝敗や経済成長率といった権力中心の指標の前では些末なものとして扱われ、歴史の表舞台から姿を消す。歴史は、あたかも戦争と征服、経済的成功だけが価値を持つかのように語られ、人間の営みのより静かで内面的な側面は忘却の淵に沈められる。

ナラティブの彼方に見えるもの

 「四大発明」や「産業革命」といったナラティブが、歴史の複雑な実態を単純化し、権力の意図を反映したものであるならば、私たちはどのようにして歴史を理解し直すべきだろうか。まず、歴史の実態が、単線的な進歩や因果関係の物語には収まらないことを認識する必要があるだろう。歴史は、連続性と断続性、計画性と偶然性、地域性とグローバルな相互作用が複雑に絡み合ったプロセスである。四大発明は、中国内部の要因だけでなく、ユーラシア大陸全体の技術交流の中で発展した。産業革命は、英国の特殊要因(石炭、高賃金)とグローバルな文脈(植民地、奴隷制)が複合的に作用した結果であり、その影響も地域や階層によって多様であった。
 次に、勝者の視点から離れ、多様な声に耳を傾けることが求められる。ポストコロニアル史学が示すように、植民地の被支配者、労働者、女性、マイノリティといった、従来の歴史叙述から排除されてきた人々の経験を掘り起こし、彼らの視点から歴史を再構築する必要がある。社会史やマイクロヒストリーは、国家やエリート中心の歴史ではなく、普通の人々の日常生活や意識の変化に光を当てる。
 さらに、平和や精神性といった、これまで軽視されてきた価値基準を歴史評価に取り入れることも重要となるだろう。経済成長や軍事力だけでなく、文化の豊かさ、社会の安定、倫理的な規範、自然との共生といった側面から歴史を問い直すことで、より人間的な深みを持つ歴史像を描き出すことができる。
 そして最後に、あらゆる歴史ナラティブに対して批判的な距離を保ち、その構築のされ方や背景にあるイデオロギーを常に問い続ける姿勢が不可欠である。歴史を、完成された物語としてではなく、絶えず書き換えられ、多様な解釈に開かれたプロセスとして捉えることである。各種のナラティブを笑い飛ばすような、健全な懐疑主義と知的遊戯性は、私たちを権力の呪縛から解き放ち、歴史の実態に迫るための重要な武器となるかもしれない。
 「四大発明」や「産業革命」といった壮大なナラティブは、私たちに歴史のダイナミズムを伝える一方で、その単純化とイデオロギー性によって、真実の複雑さや多様な人間の経験を覆い隠してきた。まさに「野蛮」の影がちらつくこれらの物語を超え、より公平で、より人間的な深みを持つ歴史理解を築くこと。それは、過去をより豊かに理解するだけでなく、現在と未来をより良く生きるためにも、私たちに課せられた知的・倫理的な挑戦であるだろう。



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