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2025.05.07

マティアス・コルヴィヌス、復活。

 15世紀、ヨーロッパは世界史の十字路に立っていた。コンスタンティノープルがオスマン帝国に陥落(1453年)し、東から迫るイスラムの波がキリスト教世界を揺さぶる反面、南西ではルネサンスの光がフィレンツェやミラノで輝き、知識と芸術が新たな時代を切り開いていた。この激動の狭間で、ハンガリーは小国だったが、そのひとりの王が歴史を動かした。マティアス・コルヴィヌス(1458-1490年在位)、彼は、剣と知恵でヨーロッパの舞台を駆け抜けた。 オスマンを食い止め、ルネサンスを東欧に運び、小国を一時的にではあるが、冠たる大国にしたのである。
 そして、2025年、この「ルネサンスの戦士王」が、500年ぶりに世界を驚かせる。ハンガリーの中央、「白い城の座」を意味するセーケシュフェヘールヴァールで、聖母被昇天バシリカの地下から、その頭蓋骨が発見された。考古学者エメシェ・ガーボル氏は、その緑がかった骨に触れながら「これはマティアスだ」と思ったそうだ。王冠の痕跡、47歳での死、庶子ヤーノシュとの類似性、科学は彼の「復活」を裏付けつつある。エメシェ・ガーボルと研究チームは、DNA分析と同位体分析で、ヤーノシュや子孫の遺伝マーカーとの一致を検証中である。
 ハンガリーでは𝕏(ツイッター)で「#MatthiasLives」のハッシュタグがトレンド入り、ブダペストの若者は「我々の王が帰ってきた」と熱狂した。この15世紀の王が2025年のハンガリー人の心を掴むのは、彼が世界史の交差点で戦い、現代の「限界を超えることの」の物語を残したからだろう。

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火薬庫の時代

 15世紀のヨーロッパは、文字通り火薬庫だった。オスマン帝国はコンスタンティノープルを落とし、バルカン半島を席巻した。神聖ローマ帝国は内紛で分裂し、マキャヴェッリが『君主論』を構想するような権謀術数の世界となった。小国ハンガリーは、この地政学的嵐の中心にあった。日本の戦国時代さながら、強国に挟まれ、生き残りを賭けて戦っていた。マティアス・コルヴィヌスがそこに現れた。
 1443年、後世ドラキュラで有名になるトランシルヴァニアの貴族の家系、オスマン撃退の英雄フニャディ・ヤーノシュの息子として彼は生まれた。1458年、15歳のマティアスはハンガリー王に「選ばれた」のだが、これは現代の選挙とは別物である。凍ったドナウ川の上で、貴族たちは剣を握り、密約を交わした。ライバルのハプスブルク家は陰で牙を研ぐなか、実家フニャディ家の軍事力とオスマンへの恐怖が彼を、とりあえず、王座に押し上げた。。マティアスは、しかしこの「剣と陰謀のゲーム」を勝ち抜き、歴史の舞台に躍り出た。

黒軍が世界史を変えた
 マティアスの切り札は「黒軍(Black Army)」だった。黒い鎧の傭兵軍は、規律と機動力でヨーロッパ最強である。アベンジャーズの精鋭チームのようなものだ。彼は高給で忠誠を確保し、現代のスタートアップCEOのようなマネジメントで軍を強化した。かくして、1463年のボスニア戦役でオスマンを撃退し、1476年のシャバツ包囲戦でついに領土を奪還した。1485年には宿敵ハプスブルク家の本拠地ウィーンを占領するまでに至った。小国ハンガリーが、ヨーロッパの中心で勝利の旗を掲げた。
 この軍事力は、世界史に深い影響を残した。マティアスの勝利は、オスマンの進出を遅らせ、ウィーンやイタリアへの圧力を緩和した。彼がいなければ、16世紀のヨーロッパはオスマンの支配下にあったかもしれない。ウィーンもまたオスマン帝国の都市となっていただろう。

ルネサンスの架け橋

 マティアスは戦士であると同時に、ルネサンス的君主でもあった。彼の宮廷は、フィレンツェのメディチ家に匹敵する文化のハブ。ビブリオテカ・コルヴィニアーナを有した。それは約2000冊の写本を収めた図書館であり、知識の聖域だった。彼はイタリアの学者を招き、ラテン語の書物を集めた。かくして彼は、東欧を「野蛮な辺境」から知的中心に変えたのである。2025年の頭蓋骨発見でハンガリーのメディアが「彼の図書館は、デジタル時代以前のGoogleだった」と称賛するのもうなづける。この文化的功績により、ルネサンスは東欧に拡散し、ポーランドやボヘミアの文化に影響した。ブダペストのマティアス教会やブダ城の美しさは、彼の遺産の証でもある。

ハンガリー人民の王の魂

 マティアスは「正義の王」として民衆に愛された。伝説では、変装して市場を歩き、農民の不満を聞いたという。貴族を抑え、能力主義を導入した彼の統治は、まるで戦国大名が家臣を登用したように革新的だった。税制改革や中央集権でハンガリーを近代国家に近づけたが、しかし貴族との軋轢も生んだ。2025年のハンガリー人が彼を「人民の王」と呼ぶのは、この人間味ゆえだろう。今回の頭蓋骨発見は、このイメージを強化した。緑がかった変色は王冠の痕跡、推定年齢(43-48歳)はマティアスの死亡時(47歳)と一致する。庶子ヤーノシュの頭蓋骨との類似性は、父子の絆を現代に蘇らせる。ブダペストの若者が英雄広場の像に花を捧げる姿は、今もハンガリーの心に彼が生きている証である。

人間マティアス

 しかし、マティアスは完璧ではなかった。妻ベアトリーチェとの結婚は愛と政治の複雑なミックスである。庶子ヤーノシュへの愛は深かったが、王位を継がせることはできなかった。戦場では獅子だった彼も、夜にはむしろ、書物に没頭し、遺産を案じていた。1490年、47歳でウィーンで急死する。毒殺とも過労ともわからないが、かくしてハンガリーの黄金時代は終わり、オスマンの圧力と貴族の内紛でハンガリー帝国は崩壊した。彼の人間ドラマは、今もハンガリー人に響く。最新技術によって2024年の顔再構築で彼の顔が映し出されると、ブダペストの歴史家は「これが我々の王」と涙した。ヤーノシュとの頭蓋骨の関連は、まるで父子が500年後に再会した物語である。
 




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