「コメは売るほどある」価格高騰は「問題」ですらなかった
「コメは売るほどある」という、この辞任した江藤農林水産大臣の発言は、単なる失言ではない。農政の世界において、コメの価格高騰は本質的に「解決すべき問題」として認識されていなかったことを示す、構造的な必然性を持った発言だった、と見なければ、この問題は単に、弱小与党の政局に帰着してしまう。
農政における「成功」の定義
日本の農政において、そもそも「成功」とは何を意味するのかと考えると、今回の馬鹿げた事態に別の局面が現れる。端的に言えば「生産基盤の維持」と「生産者所得の確保」である。この二つの指標において、コメは優等生だった、というのが日本という国のほとんど前提だった。
食料・農業・農村基本法に基づく基本計画では、コメの自給率は100%を維持しなけれならない。年間生産量800万トンは国内需要を満たし、政府備蓄米も100万トン規模で確保されている。生産調整(減反)により需給バランスも保たれ、過剰在庫による暴落も回避されている。農政の評価基準において、これは「完璧な成功」なのだ。
さらに、今回の価格高騰は実は生産者にとって「朗報」であるという事実だ。長年、コメ価格の低迷に苦しんできた農家にとって、価格上昇は待望の展開だった。60キロ当たりの生産者米価が1万5000円を超えることは、農業経営の安定化を意味する。農政担当者にとって、これは「問題」どころか「成果」として認識される。嬉しさを共有したいのだ、仲間内で。ここで呟いてみよう、「コメは売るほどある」と。笑みがこぼれてこないだろうか。
食糧管理制度の思考様式
1995年まで続いた食糧管理制度は、形式的には廃止されたが、その思考様式は農政の深層に残存している。食管制度下では、政府がコメを一元的に管理し、生産者米価と消費者米価を別々に設定していた。この二重価格制度により、生産者保護と消費者保護は「別次元の問題」として処理されていた。
この思考様式において、消費者価格の高騰は「市場の問題」であり、農政の直接的な責任範囲外となる。農政の責務は「生産の確保」であり、その先の価格形成は市場メカニズムに委ねられるべきものである。この区分けが、現在も農政関係者の認識を規定している。そもそも、「コメは売るほどある」のだ。
農林水産省の組織構造を見てもわかるだろう。生産局、経営局、農村振興局など生産サイドの部局が中心で、消費者対応は消費・安全局が担当する外様部門に過ぎない。予算配分も圧倒的に生産支援に偏重しており、2023年度農林水産予算約2.3兆円のうち、消費者向け施策は1%にも満たない。「コメは売るほどある」。そもそも「私たちは市場なんか関係ない、なんなら、コメなんか買ったこともない」。当然だろう。
JAシステムにおける価格高騰の「正当性」
全国農業協同組合連合会(JA全農)を頂点とするJAグループにとって、コメ価格の上昇は組織の存在意義を証明するものだ。JAの使命は組合員(生産者)の経済的利益の追求であり、高価格での販売は、その使命の完遂を意味する。JAグループの実態は金融機関だえるとはいえ、経済事業取扱高は年間約5兆円で、このうちコメ関連は約1兆円を占める。価格が10%上昇すれば、1000億円の増収となり、これは組合員への還元原資となる。JA関係者にとって、価格高騰を「問題視」することは、組織の存在理由を否定することに等しい、まあ、公言はしなくても、ちょっと間抜けな大臣には言ってほしいくらいだった。
もともと、法的にも、JAが消費者価格を考慮する義務はないのだ。農協法第8条は「組合員の農業生産についての協同組織の発達を促進すること」を農協の目的として定めている。ここに「消費者への適正価格での供給」という文言はない。というか、そんな世界があることも知らないインナーグループが存在し、そこでは異世界のような発言があっても、それは、要するに異世界なのだ。
政治的インセンティブ構造
農林族議員にとって、コメ価格高騰を問題視することは政治的自殺行為に等しいし、自民党農林部会のメンバーの多くは、農村部選出であり、JA組織票に依存している。彼らの選挙区では、コメ農家は依然として有力な支持基盤だ。だから、仮に、ある農林族議員が「消費者のためにコメ価格を下げるべきだ」と主張したとしよう。その議員は、次の選挙でJAの支援を失い、対立候補への支援に回る可能性が高い。農村部の投票率は都市部より10~20%高く、組織票の影響力は決定的だ。さらに、農林水産大臣というポストは、伝統的に農林族議員への論功行賞的な性格が強い。大臣就任は、長年の農政への貢献、つまり生産者利益の代弁への評価である。そのような立場の人間が、消費者視点でコメ価格を問題視することは、構造的にあり得ないのだ。まあ、もうちょっと世間の立ち回りがのいい農水大臣だったらよかったかもしれないけど、それがそもそも無理というのがこの異世界の設定なのだ。
この異世界の中央には、食料・農業・農村政策審議会がある。委員30名の構成を見ると、農業団体関係者、農業経済学者、食品産業関係者で約8割を占める。消費者団体代表は2~3名に過ぎない。しかも、議論は専門用語が飛び交い、一般委員が実質的に発言することは困難だ。例えば、「経営所得安定対策」「収入保険制度」「ナラシ対策」といった異世界用語が使われ、これらの制度が消費者価格にどう影響するかという視点での議論は、ない。審議会は形式的には「国民各層の意見を聞く場」だが、実質的には「農政インナーサークルの追認機関」として機能している。
農政関係者が日常的に接する情報源も、彼らの認識を規定する。農林水産省の幹部が毎朝目を通すのは、『日本農業新聞』であり、そこでは「生産者米価の回復」「農業経営の改善」という論調が支配的だ。我々はみな情報統制された世界のなかに生きているとはいえ、どの業界新聞であれ、臭くて暑い雰囲気は、たまらない。ついでに言えば、省内の情報共有システムも、生産統計、作況指数、在庫量などの供給サイドデータが中心で、小売価格の動向や消費者の購買行動に関するデータは、あるんだろうか。「コメは売るほどある」という認識は、このような情報環境では当然の帰結となる。
国際比較から見る日本農政の特異性
同じ異世界ということで、世界を見る。EUの共通農業政策(CAP)では、2013年改革以降、消費者利益と生産者支援のバランスが明確に意識されている。直接支払いの条件として環境保全や食品安全が組み込まれ、消費者への説明責任が強化された。他方、日本の農政では依然として「生産者ファースト」が貫かれている。TPP交渉においても、コメは「聖域」として最後まで保護され、消費者メリットよりも生産者保護が優先された。この姿勢は、農政関係者にとって「当然」であり、疑問を持つこと自体が異端視される。息抜きで、イオンが外米を売るくらいだろうか。
要するに、日本の農政関係者は、そもそもコメ価格高騰を問題視していないのだ。無知や怠慢ではなく、システムに組み込まれた必然だということだ。彼らの評価基準、組織の使命、政治的インセンティブ、情報環境のすべてが、「生産の論理」で構築されており、消費者価格への関心を持つことは、むしろシステムへの背信となる。そんな世界があるのだ。潤沢な世界だ。「コメは売るほどある」。合理的で、正当な認識だった。
問題は、この異世界を日本市民はどうするかなのだが。わからん。
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