ウクライナ戦争における米国の関与について
ウクライナ戦争における米国の関与について、米国時間3月29日のニューヨーク・タイムズにジャーナリストのアダム・エントゥスが『パートナーシップ:ウクライナ戦争の秘密の歴史 (The Partnership: The Secret History of the War in Ukraine)』(参照)と題する、ほぼ一冊の本に匹敵するほどの詳細な記事を公開し、この問題に関心を寄せる人々で大きな話題となった。記事は、ウクライナ、アメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランド、ベルギー、ラトビア、リトアニア、エストニア、トルコの政府、軍事、情報機関の関係者と1年以上にわたり、エントゥス氏が300回以上のインタビューを実施してそれをもとに書かれたものである。いずれ日本語で正式な全文が書籍などで出版されることになるだろうが、すでに国際水準でウクライナ戦争を考察する人々にとっては常識になっているので、ここでも今後の議論の便宜としてまとめておきたい。内容はといえば、記事の煽りを借りるなら、「これは、米国がロシアの侵略軍に対するウクライナの軍事作戦で果たした隠された役割についての語られざる物語である」とのことだ。まとめにあたっては、私の視点はできるだけ混入しないようにしたが、正確な情報を知りたい人は参照先の元記事にあたってほしい。
ヴィースバーデンでの米ウクライナ軍事協力の誕生
2022年2月のロシアによるウクライナ全面侵攻直後のこと、ウクライナ軍の将官2名が「外交官」という身分を隠れ蓑に、キーウから秘密裏の任務のために、ドイツのヴィースバーデンにある米陸軍欧州・アフリカ軍司令部(クレイ兵舎)に向かった。そこでウクライナ政府は、これまで知られていた以上に米国を戦争に深く関与させることになる。米ウクライナ間の軍事連携(パートナーシップ)が結ばれたのである。この連携には、諜報、戦略、計画、技術供与が包括され、これによって、米国のバイデン政権が、彼らが言うところの「ウクライナ救済」と「第二次世界大戦後の秩序維持」のために進めた取り組みの「秘密兵器(secret weapon: weaponには切り札の語感がある)」とされた。
侵攻から2ヶ月後、ウクライナ軍の中将ミハイロ・ザブロドスキーらは、英国特殊部隊に護衛されポーランド経由でヴィースバーデンに到着した。彼らを迎えたのは米第18空挺軍団司令官クリストファー・ドナヒュー中将であった。かつて体育館だったトニー・バス公会堂は、すでに連合国軍の将校たちがウクライナへの最初のM777榴弾砲や155mm砲弾の輸送を調整する作戦センターへと姿を変えていた。彼はそこでウクライナのザブロドスキー中将らに秘密裏の提案をした。この提案に基づく協力関係の進化と内実は、当時、ごく一部の米国当局者しか知り得ない機密事項であった。
当初、米国とウクライナ間の関係は、不信感に満ちていた。2014年のクリミア併合時、米国オバマ政権は限定的な情報共有と非殺傷装備の供与に留まっていたため、ウクライナはそれに不満を抱いていた。また、2022年の侵攻直前には、米国バイデン政権は大使館を閉鎖し、軍関係者を引き揚げさせていた(CIA職員の一部は残留した)。こうしたことから、ロシアの侵攻が始まって、米軍がウクライナに軍事支援を申し出ても、ウクライナ軍地上軍司令官オレクサンドル・シルスキー大佐(当時)は「我々はロシアと戦っているが、あなた方は違う。なぜあなた方の言うことを聞かねばならないのか」と懐疑的であった。しかし、米国の提供できる戦場情報が自軍では得られない種類のものであることを認識して、ここから協力姿勢に転じた。
ウクライナ戦争のこの初期段階では、ドナヒュー中将らは携帯電話などを使い、ロシア軍の動向に関する情報をシルスキー大将(当時)らに伝えるという場当たり的な対応であった。こうしたある種、緩い対応がウクライナ軍内部のシルスキー大将と、その上官であるヴァレリー・ザルジニー軍総司令官との間のライバル関係を刺激していた。また、ザルジニー大将と米統合参謀本部議長マーク・ミリー大将との関係もぎくしゃくし、米国とウクライナ、ウクライナ内部の各種意思疎通は複雑な伝言ゲームとなっていた。
こうした不調和な状況が変化したのは、ロシア軍がキーウ攻略に失敗し、東部・南部へ戦力を集中させ始めたためである。これを重視した米軍司令官らは、ウクライナが東部・南部戦線でロシアの圧倒的な戦力によって敗北するのを防ぐには、M777榴弾砲のような重火器の供与が不可欠だと結論付けた。バイデン大統領が、この米軍提案を承認すると、ヴィースバーデンのトニー・バス公会堂は本格的な司令部「タスクフォース・ドラゴン」へと変貌した。ポーランド、英国、カナダの将官がドナヒュー中将の指揮下に入り、地下にはCIA、NSA、DIA、NGAなどの情報機関職員が集う情報融合センターが設置された。さらに4月末、ドイツのラムシュタイン空軍基地での会議を経て、ウクライナ側もザブロドスキー中将らを代表とし、ヴィースバーデンのクレイ兵舎に派遣することに合意し、ここから、本格的な、米国とウクライナの軍事提携が開始されることになった。
初期の成功とHIMARSの効果
ヴィースバーデンにおける米国とウクライナの軍事提携は、ウクライナ側のザブロドスキー中将と米側のドナヒュー中将との信頼関係から成り立っていた。ザブロドスキー中将はロシア軍での勤務経験と米陸軍指揮幕僚大学留学経験を持ち、米側からは、米国に協力しやすい人物と見なされていた。対する米側のドナヒュー中将は特殊部隊での豊富な実戦経験を持つ人物であった。最初の会合では、ドナヒュー中将はウクライナ東部・南部の戦況図を示し、「勇気だけでは勝てない」と説明し、秋までに戦況を有利にする計画を提示した。
この時点での、米国とウクライナの軍事提携の具体的な活動は、ヴィースバーデンにウクライナ軍の将校約20名が常駐し、米軍将校と共に毎朝ロシア軍の兵器システムや地上部隊を分析し、最優先攻撃目標を決定することだった。その攻撃目標リストは、トニー・バス公会堂の地下に設置された情報融合センターに送られ、詳細な位置情報(ポイント・オブ・インタレスト)が特定された。この攻撃特定策定のプロセスは、NATOへのロシアの報復リスクを最小化するために厳格なルールに基づいていた。ロシア領内の目標は対象外であり、またロシアの戦略的指導者の位置情報や個々の兵士を特定する情報も共有されなかった。米国側は情報源や収集方法を秘匿し、座標データのみを安全なクラウド経由でウクライナ側に提供していた。米国ドナヒュー中将の方針としては、「私たち(米国人)がどうやってこれを見つけたかは気にするな。撃てば当たることを信じろ」ということであった。
米国情報に基づいたこの攻撃特定は2022年5月に実戦投入された。最初の標的は、ウクライナ軍のM777の位置を探知できるロシア軍のズーパーク対砲兵レーダー装備車両であった。ウクライナ軍がまずおとり射撃を実施、レーダーが作動したところをヴィースバーデンで特定し、これをM777で狙って破壊することに成功した。その後、ドネツク北部のシヴェルシクでのロシア軍による渡河作戦阻止においても、ヴィースバーデンからの情報提供が重要な役割を果たし、ウクライナ軍は大きな戦果を挙げた。またヘルソン方面でのロシア軍陣地への攻撃でも同様の協力が行われた。
初期のM777による特定攻撃は有効であったが、約24kmの射程限界から、ロシア軍の物量に対抗するには不十分であり、米側は射程約80kmの衛星誘導ロケットを使用する高機動ロケット砲システム「ハイマース」(HIMARS)の供与を提案した。ペンタゴン内では米軍の備蓄枯渇を懸念する声もあったが、HIMARSによってウクライナ軍が米軍のように戦えるようになり、これでウクライナ戦争の戦況を変えうるとの主張が優勢となり、米国バイデン政権はその供与を決定した。これは「第三次世界大戦が勃発するかもしれない」との懸念の先端に立つ決断でもあった。
HIMARSの運用は、ドイツのヴィースバーデンから厳格に管理され、ウクライナ側は米側が提供した座標のみを使用し、発射には米側がいつでも無効化できる特別な電子キーが必要とされた。HIMARSによる攻撃はロシア軍に甚大な被害を与え、ほぼ毎週のように100人以上の死傷者を出す攻撃が行われた。これによってロシア軍の士気は著しく低下し、HIMARSの配備数が増えるにつれてその効果はさらに増大した。この連携により、ウクライナ軍は短期間で近代的な精密打撃能力を獲得し、「殺人マシン」とも言える効果を発揮するようになった。
2023年反転攻勢作戦の失敗と内部対立
2022年後半、ヘルソン市の奪還などの成功を受け、米国とウクライナの連携には楽観的な雰囲気が漂っていた。2023年の反転攻勢作戦が戦争の最終局面となり、ウクライナが完全勝利するか、プーチン大統領が和平を求めざるを得なくなるとの期待が高まっていたのである。この機に乗じてザルジニー総司令官は、先年に逃した最大の好機の再来と考え、南東部ザポリージャ方面からメリトポリへの攻勢を再び主張した。これはクリミア半島へのロシア軍への補給路を断つことを狙うものであった。
だが、米側のドナヒュー中将はこのウクライナ側からの提案に慎重だった。彼は、ウクライナ軍の能力や装備供給の限界からすると、メリトポリ攻略は非現実的だと考えた。これを理解させるために彼は、図上演習でロシア軍指揮官役を務め、ウクライナ軍の進撃をことごとく打ち破ってみせた。それから彼は、新たな旅団の編成と訓練に時間をかけるべきだと主張した。しかし、この点でウクライナ側と、早期攻勢を支持する英国との間で意見が割れることになり、結局、米国が英国の強行意見に米国が折れる形でウクライナの期待した反転攻勢作戦が実施されることになった。
この経緯の後、米国ドナヒュー中将が任期期間を終え、ヴィースバーデンを去った。そもそも、この第18空挺軍団の展開は一時的なものであり、ヴィースバーデンには今後、より恒久的な組織、ウクライナ安全保障支援グループ(SAG-U)が設置され、米国側の後任としてアントニオ・アグト中将が着任した。これが、米国とウクライナの軍事連携の力学は変化をもたらした。訓練と大規模作戦の専門家であるアグト中将の下で、ウクライナ側の自律性が高まり、この結果として、ウクライナと米国の信頼関係のバランスが再調整され、ウクライナ側は、自前の情報に基づきHIMARSを使用する自由度を得ることになった。
こうしたウクライナと米国の連携変化の下、ザルジニー総司令官が期待した2023年の反転攻勢計画は、当初、メリトポリへの主攻勢と、シルスキー大将指揮下の東部(バフムート周辺)での陽動作戦という二正面作戦であった。が、この計画はウクライナ内部の政治力学によって歪められることになった。ザルジニー総司令官とシルスキー大将の間には根深い対立が存在していた。シルスキー大将はロシア生まれでロシア軍勤務経験があったことから、ザルジニー大将は彼を「あのロシア人将軍」と揶揄することもあったという。シルスキー大将は、陽動作戦ではなく、バフムートでロシア軍を包囲殲滅する大規模攻勢を主張し、ゼレンスキー大統領の支持を得た。これによって、メリトポリ攻勢に割り当てられるはずだった精鋭旅団や弾薬がバフムート戦線に振り向けられ、反転攻勢作戦の基盤が揺らぐこととなった。
また、この2023年の反転攻勢作戦の計画や準備段階で、作戦成功に必要な兵力確保に関する深刻な問題が浮上した。当時のウクライナの高い徴兵開始年齢(27歳)は、大規模な反転攻勢作戦を遂行し、戦闘による消耗を補充していく上で、若く体力のある兵士を十分に動員することを構造的に困難にしていた。この問題は、反転攻勢作戦のために欧州での訓練に送られた新兵に40代・50代が多いという形で具体的に現れ、米側は作戦遂行能力への強い懸念を抱いた。特に米側のカヴォリ大将などは、ウクライナ側に18歳からの徴兵開始という抜本的な対策を繰り返し促した。しかし、徴兵年齢の大幅な引き下げは国内で政治的に極めて不人気な政策であることから、ゼレンスキー大統領もザルジニー総司令官(当時)も、その決断には慎重な姿勢を崩さなかった。
こうした兵力確保の問題に加え、兵器に関する課題も顕在化していた。ロシア軍が後方の重要拠点をHIMARSの射程外に移動させたことを受け、ウクライナ側は長射程の打撃力としてATACMS(陸軍戦術ミサイルシステム、射程約300km)の供与を強く求めていた。米軍の将官(カヴォリ大将やアグト大将)もその必要性を認識し供与を推奨したが、バイデン政権は、ロシアが設定する「レッドライン」を越えることへの懸念や米軍自身の備蓄問題を理由に、この反転攻勢準備段階でのATACMS供与は認めなかった。これらの要因が重なり、反転攻勢の準備は難航した。当初5月1日に予定されていた開始日は、一部装備の納入遅れや、ウクライナ側が全ての装備が揃うまで開始をためらったことなどから、遅延した。その間にもロシア軍は南部の防御陣地を強化しており、米側は貴重な時間が失われることに焦りを募らせていた。
越えられた「レッドライン」
反転攻勢作戦が開始される直前、ゼレンスキー大統領は、米側と合意していた当初の計画を覆す最終決定を下した。合意計画では、南部メリトポリ方面を明確な主要な攻勢点と定め、そこに戦力(弾薬・兵力)を集中させることになっていた。しかしゼレンスキー大統領は、南部(ザルジニー総司令官の全体指揮下、現場はタルナフスキー准将)、マリウポリ方面への陽動、そして東部バフムート(シルスキー大将指揮下)の三方向へ同時に本格的な攻勢をかけることを決定した。これによって、限られた弾薬は南部と東部で均等に分割され、新たに訓練された旅団も分散配置された。この戦力分散は、米側が描いた突破力重視の戦略とは異なるものであり、米将官らは強い不満を示したが、「主権国家の決定」として受け入れざるを得なかった。
この戦略変更の結果、反転攻勢作戦は限定的な成功に留まった。陽動とされたマリウポリ方面では米国の情報提供もあり一部地域を奪還したが、割り当てられた兵力が少なく停滞した。東部のバフムートでは多大な犠牲を払いながらもロシア軍を押し戻す決定的な戦果は挙げられなかった。そして、本来の主要な攻勢点であったはずの南部メリトポリ方面でも、十分な戦力を集中できなかったため、反転攻勢は停滞した。特にロボティネ村攻略の遅延はその象徴であった。米情報機関がロシア軍の後退を確認し即時前進を促したにもかかわらず、現場指揮官(タルナフスキー准将)は丘の上の少数のロシア兵への対処やドローンでの偵察・確認に時間を費やした。この遅れがロシア軍に再編成の時間を与え、進撃をさらに困難にしたと、米側は分析し、強い不満を抱いた。
主目標であったメリトポリ到達が不可能になると、目標は中間地点のトクマクに変更されたが、これも達成できなかった。弾薬不足に加え、現場指揮官の慎重さが、ヴィースバーデンから米国が提供するリアルタイムの攻撃目標情報の迅速な活用を妨げる場面も見られた。反転攻勢作戦が終盤に差し掛かり、主目標への到達が絶望的になる中、米側は比較的善戦していた海兵隊を主要攻勢方面(ロボティネ周辺)に転用し突破を図るよう助言した。しかし、ザルジニー総司令官はこの助言を採用せず、代わりにその貴重な海兵隊を全く別のヘルソン方面に投入し、ドニプロ川を渡河して対岸に橋頭堡を築こうとする困難な作戦を命じた。米側はこの渡河作戦について、成功の見込みが極めて低く「失敗する運命にある」と評価し、実行しないよう強く反対していた。にもかかわらず作戦は強行され、海兵隊は11月初旬に渡河に成功したものの、兵員と弾薬の不足、そして補給の困難さから橋頭堡を維持・拡大できず、作戦は事実上失敗に終わった。この結果は、大きな期待を集めた2023年の反転攻勢作戦が、戦線の膠着状態を打破できないまま不名誉な終焉を迎えたことを象徴するものであった。
2023年の反転攻勢作戦の失敗は米ウクライナ関係に亀裂を生じさせたが、一方で米国はウクライナを支えるため、自ら設定した「レッドライン」を次々と越えていくことにもなったのである。2024年に入ると、クリミア半島内のロシア軍インフラ無力化を目的とした作戦「ルナール・ヘイル」支援のため、長らく供与を渋ってきた長射程のATACMSがついに提供された。CIAも、クリミア内の標的に対するドローン攻撃への支援を開始した。
さらに大きな転換点は、ロシア本土への攻撃を米国が部分的に許可したことであった。2024年春、ロシア軍がハルキウ方面で新たな攻勢を開始すると、国境のすぐ向こう側から安全に攻撃してくるロシア軍に対し、ウクライナ軍は米国供与兵器で反撃できないという非対称性が深刻な問題となった。これを受けてバイデン政権は、ハルキウおよびスムイ防衛という限定的な目的のため、国境付近のロシア領内に特定の区域「作戦ボックス」を設定。その範囲内において、ウクライナ軍が米国から供与された兵器(主にHIMARS)を使用することを許可した。加えて、この攻撃の効果を高めるため、ヴィースバーデンにある米軍司令部は、ボックス内のロシア軍部隊や施設に関する精密な目標情報を提供することも認めた。かくして米国はロシア領内でのロシア兵殺害に、より直接的に関与することとなった。CIAもまた、ハルキウ地域に要員を派遣し、作戦ボックス内でのウクライナ側の活動を支援した。
戦況の変化や要請に応じ、米国は自ら設定したレッドラインを越えて支援を拡大したが、ウクライナ側はその枠組みや米国の戦略的意図から逸脱する行動をとることもあった。顕著な例が、2024年夏に起きたロシア領クルスク州への侵攻である。ウクライナ軍は米側に事前の通告なく、供与された装備を用いてこの地上作戦を開始した。これは、ハルキウ防衛を目的として設定された「作戦ボックス」に関する合意の趣旨に反するものであった。米国は合意違反と見なしつつも、前線に投入されたウクライナ兵を見殺しにはできないとして、結果的に支援を継続せざるを得ない状況に追い込まれた。
また、クリミアとロシア本土を結ぶケルチ橋への攻撃においても、米ウクライナ間の見解の相違が見られた。米側はATACMSだけでの攻撃では効果が薄いと助言し反対したが、ウクライナ側はこれを強行し、結果的に橋に与えられた損害は限定的なものに留まった。また、長距離ドローンを用いたロシア国内深部への攻撃では、CIAによる協力が進展した面もあった。トロペツにある大規模弾薬庫への攻撃では、CIAが目標情報や最適な飛行経路などを提供し、大きな戦果を挙げることに貢献した。しかし、ここでも米国とウクライナ両者の戦略には不一致が見られ、米側が軍事的に重要な目標への集中攻撃を推奨したのに対し、ウクライナ側は石油・ガス関連施設など、より広範な対象への攻撃を主張した。
トランプ政権下の不透明な未来
2023年末、ゼレンスキー大統領が初めてヴィースバーデンを訪問した。反転攻勢失敗と米国内での支援疲れが影を落とす中、米側は2024年は大規模な領土奪還は困難であり、防御と戦力再建に注力すべきだと説明した。これにゼレンスキー大統領は表向き同意したが、国内の士気と西側支援維持のため「大きな勝利」を渇望した。2024年初頭、ゼレンスキー大統領はザルジニー総司令官を更迭し、シルスキー大将を後任に据えた。これは米側にとって、大統領との連携改善を期待させる一方、過去の確執から不安も残る人事であった。
この状況を打開するため、米国防長官ロイド・オースティンと欧州連合軍最高司令官に昇進したカヴォリ大将はキーウを訪問し、ウクライナ指導部に対し、より多くの若者を軍に動員するため、徴兵開始年齢を現行(当時25歳に引き下げ済み)からさらに18歳まで引き下げるという抜本的な対策を改めて強く求めた。しかし、ゼレンスキー大統領は、新たに徴兵しても彼らに渡す十分な装備がないと反論し、この要求を事実上拒否した。このやり取りは、米ウクライナ間に存在する根本的な認識の溝を象徴していた。ウクライナ側は「米国からの兵器支援が不足している」と感じる一方、米側は「ウクライナ側が戦争に勝つために必要な国内での動員努力(特に若年層の徴兵)を怠っている」と見ていた。
膠着状態の中、2024年の米大統領選挙でウクライナ支援に消極的なドナルド・トランプが勝利したことで、ウクライナへの支援継続そのものが一気に不透明な状況に一変した。任期がわずかなバイデン政権は、任期が終了する直前の駆け込み措置として、ATACMSによるロシア領内への攻撃可能範囲の拡大や、現地にいる米軍事顧問の活動範囲拡大といった、さらなる支援強化策を承認した。そして2024年12月、かつてヴィースバーデンでのパートナーシップ立ち上げを主導したドナヒュー大将が、大将に昇進し、米陸軍欧州・アフリカ軍司令官として再びヴィースバーデンに着任した。この人事は、ウクライナ支援に消極的なトランプ新政権の下で支援の先行きが不透明となる中、かつてヴィースバーデンでのパートナーシップ立ち上げを成功させ、ウクライナ側との関係構築に実績のあるドナヒュー大将を再び指揮官に据えることで、今後の困難な局面に対応しようとする米側の意図があったものと見られる。
かつて「秘密兵器」と呼ばれた米ウクライナ間の軍事パートナーシップは、ウクライナが強大なロシア軍に対し3年間にわたり抵抗を続ける上で決定的な役割を果たしたが、その歴史は、共有された目標と相互不信、目覚ましい成功と手痛い失敗、そして地政学的な恐怖と各々の打算が複雑に絡み合う、困難な道のりでもあった。2025年初頭、このパートナーシップの構築を主導したオースティン米国防長官にとって最後となる連合国防衛相会合が開かれ、2年半以上にわたる緊密ながらも時に摩擦を伴った協力関係の一つの時代が終わりを告げた。そしてトランプ新政権が発足すると、ウクライナへの支援は実際に縮小され、その影響はクルスク州におけるウクライナ軍の後退という形で具体的に現れ始めた。こうして、ウクライナ自身の運命とともに、ドイツのヴィースバーデンで生まれたこの類例のない軍事協力関係の将来もまた、極めて不確かな状況へと置かれることになった。
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