フリージアの香りに恋して
春の日差しが降り注ぐ私のガーデニングコーナー(笑)。そこに、鮮やかな赤オレンジ色のさすフリージアが咲いた。空気がふっと揺れるたびに、ふわりと漂ってくるのは、甘く、それでいてどこまでも澄み切った、フルーティーな芳香である。顔を寄せれば、まるで秘密を打ち明けるかのように、香りは深みを増す。私にとって、これこそが「世界で一番美しい香り」だ。もちろん、花の香りの好みなど人それぞれ、千差万別であることは百も承知の上だが、それでもフリージアの香りは格別だ。
「世界一美しい香り」をめぐる、ささやかな考察
花の香りについて「美しい」とは、一体どういうことだろうか。甘く官能的な香りを夜に放つジャスミンか、それとも幾重にも重なる花弁から芳醇な香りを漂わせ、「香りの女王」と称されるローズだろうか。あるいは、クリーミーな甘さで人々を虜にするガーデニア(クチナシ)かもしれない。(そういえば、クチナシには昭和の名曲もあったな。)これらは確かに素晴らしい香りで、私もささやかながら育てていて、その魅力は感じている。ラベンダーの清潔感あふれる香りも心地よい。台湾の双十節のころ咲く金木犀(オスマンサス)の、どこか懐かしいアプリコットのような甘さも捨てがたい。最近は合成ではない、本物の金木犀を使ったバスクリンの入浴剤もある。軽やかなスイカズラの香りも、子どものころの草はらの記憶を呼び覚ます。
それでも、私の中での花の香りのランキングでは、フリージアが揺るぎない第一位を占めている。一般的には黄色や白が定番とされるフリージアだが、開花したのは、前述の通り、情熱的な赤オレンジ色がさす。香りは、シトラスの爽やかさとフローラルの華やかさが絶妙に溶け合った、透明感がある。重すぎはしない。軽すぎでもない。記憶にすっと深く差し込まれるような、鮮烈で明るく晴れやかな存在感がある。「濃厚さ」で酔わせるのではなく、心をふわりと別世界に移してくれるような、そんな魅力がフリージアの香りにはある。
香水の謎と、フリージアという「幻の香り」
フリージアの香りに惹かれるのは私だけではないだろう。香水として持てたら、と考える人がいても自然なことだ。実際に、フリージアの名を冠した香水は存在する。が、ここに香りの世界の奥深さ、あるいは少しばかりの意地悪さがある。その香水の多くは、フリージアの花そのものから抽出された精油(エッセンス)を主原料としているわけではない。
香水の原料となる精油は、残念ながら、すべての花から容易に採れるわけではない。バラやジャスミン、イランイランのように、比較的豊かに精油を含む花もあれば、フリージアのように、花が小さく、含まれる香りの成分がごく微量で、水蒸気蒸留などの方法を用いても十分な量の精油を得ることが難しい花もある。仮に抽出できたとしても、そのコストは高価過ぎる。ダマスクローズから1kgの精油を得るのに4トンもの花びらが必要だと聞くが、フリージアの場合はそれ以上かもしれない。有名なシャネルNo.5のような歴史的名香には、ローズやジャスミンの天然香料が欠かせない要素となっているが(そのクラシックな香りの印象は、時代とともに変化して今では「昭和」を連想させるけど)、いずれにせよ、フリージアで同じことをするのは無理だろう。
だから、ジョー・マローン ロンドンの「イングリッシュ ペアー & フリージア」のように、フリージアをテーマにした人気の香水は、調香師たちが他の天然香料(ジャスミンやシトラスなど)や合成香料を巧みに組み合わせることで、フリージアの持つ「雰囲気」や「印象」を見事に再現しているらしい。ある調香師は、フリージアの香りを創り出すことを「雲を瓶に閉じ込めるような挑戦」と表現したそうだ。なるほどね。あの生きた花の繊細なニュアンスそのものを再現することは難しいだろう。フリージアが「幻の香り」と呼ばれる所以だろう。
ちなみに、梅やスズラン、ライラックといった、私たちに馴染み深い花々も、実は精油の抽出が困難で、香水の世界では合成香料の助けを借りて表現されることが多い。日本で愛される梅の香りも、例えば資生堂「金沢オードパルファム」も様々な香料のブレンドによって、コンセプトとして創られている。
そういえば、フリージアの香りは、その清楚なたたずまいと相まって、ウェディングブーケとしても絶大な人気を誇るという。特に欧米では、「純粋」「無邪気」「感謝」「友情」といった花言葉が、新しい門出を迎える花嫁の幸せを象徴するのにふさわしいとされているようだ。白いフリージアがブーケに清らかさを添えるのは想像に難くないが、個人的には、赤オレンジのフリージアも、情熱と明るさを添える素敵な選択肢になるのではないかと思う。あるいは……。
南アフリカから、遥かなる八丈島へ
さて、フリージアは、一体どこからやってきた花なのだろうか。あらためてそのルーツを辿ってみると、予想以上に興味深い旅の足跡が浮かび上がってくる。原産地は、遥か遠く南アフリカのケープ地方らしい。乾いた春の草原に、野生のフリージアはひっそりと黄色や白の花を咲かせ、ふわりと甘い香りを漂わせていたという。その存在がヨーロッパに知られるようになったのは、19世紀に入ってから。とくに植物の収集に熱心だったイギリスやオランダがこの花に目を留め、導入・改良が進められた。記録によれば、イギリスのキュー・ガーデンには1810年代にはすでにその姿があったらしい。その後、球根貿易において世界的なネットワークを築いていたオランダによって、各地に広がっていった。17世紀半ばからケープ植民地を支配していたオランダにとって、あの土地のユニークな植物は格好の収集対象だったのだろう。フリージアも、きっとそのひとつだったに違いない。そして、この「フリージア」という名前。どこか神話の妖精か何か──たとえば「フリーレン」みたいな、そんなロマンティックな由来があるのでは、と思ってしまうのだが、実際にはもう少し現実的な話だった。名の由来となったのは、19世紀のドイツ人医師であり植物愛好家でもあったフリードリヒ・ハインリヒ・テオドール・フリース(Friedrich Heinrich Theodor Freese)氏。彼に敬意を表して、友人であった植物学者クリスティアン・ペルヒト・エクロン(Christian P. Ecklon)が1866年、属名として「Freesia」と命名したのだという。分類や命名の際に、発見や研究に関わった人物に名前を捧げるというのは学術界の習わしではあるけれど、それを知ってしまうと、ほんの少しだけ、夢見心地から現実に引き戻されたような気分にもなるのだった。
こうしてフリージアの物語を辿ると、遠く太平洋の島、日本の八丈島へと繋がっていく。この島では、毎年春に「フリージアまつり」が開催されているという。知らなかったなあ。期間中は、八丈富士の雄大な姿を背景に、約35万本もの色とりどりのフリージアが咲き乱れる。黄色、白、赤、紫、ピンク。想像するだけで、香りと色彩の洪水に心が躍る。訪れた人々は、無料で花摘みを楽しんだり、島の特産品を味わったりできるそうだ。今年の開催はもう終わってしまったようだが、来年の春は、このフリージアの楽園を訪れてみたいものだ。
最後に、フリージアにちて調べていて、南アフリカに伝わるフリージアの小さな言い伝えを一つ知った。現地の人の間では、フリージアの香りがとりわけ強く感じられる夜は、「精霊がすぐそばにいて、願い事が叶う」と信じられているそうだ。この花の香りが持つ、人を惹きつけてやまない不思議な力、ある種の神秘性を、古の人々も確かに感じ取っていたのだろう。あっても不思議ではない気がする。ところで、これってどの民族の情報かなって調べたら、AIが、こんなのいいんじゃないのと、ハルシネーションして作ったらしい。まあ、それでもいいか。
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