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2025.04.25

米国人の"allegiance"と日本人の"忠誠"

 2025年4月24日、Foxニュースの記事が心にひっかかった。ドナルド・トランプ大統領が、ロシアとウクライナの和平交渉について語る際に、こう発言したのだ。“I have no allegiance to anybody”(私は誰にも忠誠を誓っていない)。この言葉は、トランプがどちらの国にも肩入れせず、中立的な立場で交渉を進める意図を強調するもので、記事によると、彼は「私の忠誠は命を救うことにある」と続け、和平による人命救助を最優先に掲げていた。
 心にひっかかったのは、「allegiance」という言葉である。日本語では「忠誠」と訳されることが多いが、このトランプの「allegiance」には、どこか軽く、冷たく、実利的な印象も受ける。もちろん、トランプという人物の言い方や文脈による部分も大きいだろうが、日本語の「忠誠」、すなわち武士道の「忠義」や儒教の「忠」に宿る情熱や誠実さとは、やや異なる響きがある。なぜこの言葉が、腑に落ちないのか。「allegiance」とは、何なのだろうか。

日本語の「忠誠」とのギャップ

 トランプの「I have no allegiance to anybody」は、「私は誰にも忠誠を誓っていない」と訳しても誤訳ではない。表面的には自然で、ロシアやウクライナへの偏った支持を否定し、和平交渉の中立性をアピールする意図を伝えてはいる。しかし、違和感の核心は、「忠誠」という日本語が、トランプの言う「allegiance」のニュアンスを捉えきれていない点にある。
 対して、日本の「忠誠」は、武士道の「忠義」や儒教の「忠」と深く結びついてきた。「忠義」は、主君や国家への命をかけた献身である。現代では忘れられつつあるが、『忠臣蔵』の赤穂浪士は、主君の仇を討つため命を捧げ、名誉と信念を貫いた。「忠義」は、武士の魂であり、内心の情熱と情感を伴う。儒教の「忠」もまた、君主や社会への誠実さを求め、心からの真心が重んじられた。孔子が「偽りの忠」を批判したことにその精神がよく表れている。
 トランプの「allegiance」は、こうした重みを欠いているように見える。政治的な立場の表明、外交的パフォーマンスであり、内心の感情としてロシアへの好意やウクライナへの同情があるかどうかは問われない。言葉そのものが中立性を示し、批判をかわす実利的なレトリックでもある。「私の忠誠は命を救うことにある」も、主張の正当性を高める修辞的表現として用いられている印象を受ける。
 そこで、別の日本語訳を考えてみる。「私は誰にも肩入れしていない」はどうか。「肩入れ」は、特定の側への偏った支持を表す言葉で、武士道や儒教の「忠誠」が含む倫理的深みを避けつつ、実利的なニュアンスを伝える。トランプの意図は、名誉や真心に基づく「忠誠」を否定することではなく、外交的立場の明示にある。「肩入れ」という訳語は、彼の冷静で戦略的な立場により近い語感を持つ。しかし、それでも完全には埋めがたい文化的なズレが残るようにも思える。

日本人の「忠誠」は内面的な真心と情熱

 日本人の「忠誠」は、武士道の「忠義」や儒教の「忠」に根差していると言ってよいだろう。『平家物語』に登場する平重盛のエピソードは、その象徴だ。彼は、父・清盛の強硬な政治(後白河法皇の幽閉や平家の専横)に異を唱えた。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」。頼山陽が引用したこの言葉は、重盛が父への「孝」と主君への「忠」の間で葛藤したことを端的に表している。治承三年(1179年)の「鹿谷の陰謀」では、清盛が関係者の厳罰を主張したのに対し、重盛は寛大な処置を進言し、民心の離反を案じた。彼の早世(1180年)は、その葛藤の深さと、忠孝両立の困難さを象徴している。このような物語には、日本人が共感しやすい「忠誠」観がにじんでいる。

西洋の「忠誠」は外面的な誓約

 一方、西洋における「allegiance」は異なる土壌を持つ。アレクサンドル・デュマの『三銃士』などに見られるように、銃士が国王に「allegiance」を誓う場面では、任務遂行という行為そのもので忠誠は成立する。内心の尊敬や情熱は必ずしも必要ない。
 この言葉は、契約社会や個人主義的な価値観に根差していると見ることができる。たとえば、サッカーファンが「I pledge allegiance to my team」と叫ぶ場面では、ユニフォームを着て応援する姿勢自体が「allegiance」なのであり、内面的な倫理や信念は問われない。むしろ、応援対象を変える「switch allegiance(忠誠の切替)」も自然な行為であり、それ自体に背徳性はない。こうした外面的な「allegiance」の観念は、中世封建社会の主従契約に由来するものであり、米国の「Pledge of Allegiance」なども、その系譜上にある。
 もっとも、「allegiance」は常に外面的というわけではなく、理念や価値への感情的な忠誠を表す場面も少なくない。だが、トランプの発言に限っていえば、感情的な誠実さというより、交渉戦略上の立場表明にすぎない。だからこそ、「忠誠」という日本語とのあいだに微妙なズレが生じるのかもしれない。

語源から見える文化差

 言葉の補足もしておこう。「allegiance」はラテン語「ligare(結びつける)」に由来し、古フランス語の「liege(主従関係)」を経て中英語の「alegiaunce」となった。封建制度下では、臣下が主君に対して誓う契約的忠誠を指した言葉であり、近代では国家への忠誠(例:「Pledge of Allegiance」)を示す。個人的な忠実さを表す「loyalty」との違いは、この外面的契約性にある。内面の誠実さや真心は、西洋の場合、宗教の領域に委ねられるのかもしれない。




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