対馬沖ヘリ事故と離島医療の限界
2025年4月6日、長崎県対馬沖で医療搬送中のヘリコプターが海に不時着し、搭乗していた患者、家族、そして医師の3人が亡くなった。報道によれば、福岡市の民間医療搬送会社が運航していたこのヘリは、86歳の脳出血患者を対馬病院から福岡市内の病院へ搬送中だった。機体は浮力装置によって一時浮いたが、緊急信号を発することなく転覆。詳しい原因は現在も調査中である。この事故は、単なる航空事故としてではなく、医療搬送のあり方、そして離島における医療体制の脆弱さを私たちに突きつけている。なぜヘリに頼らざるを得なかったのか。制度の仕組みや医療の地域格差、人々の期待と現実の乖離。そこには、単なる技術や判断ミスでは語り尽くせない問題が横たわっている。
ドクターヘリの期待と限界
今回搬送されていた患者は、脳出血という緊急を要する疾患だった。脳出血は、発症から4〜6時間以内に治療を開始しなければ、生存率や回復の見込みが著しく下がることが知られている。しかし、対馬病院には脳神経外科の専門医もCTスキャンもなく、発症時点での診断や初期対応には限界があった。結果として、福岡への空路搬送という判断が取られた。
だが、仮に事故がなかったとしても、発症から診断、ヘリの手配、飛行、再検査、手術開始までに要する時間は2〜3時間を超える可能性が高く、患者の年齢が86歳であることを考えても、搬送によってどこまで救命の可能性が高まったかは不明である。それでも、「ヘリに乗せれば助かったかもしれない」と思いたい。それほどまでに、離島の人々にとってヘリは「命の橋」としての役割を担わされている。だが、その橋は、常に確実に渡れるものではない。
ヘリ搬送は確率の上に成り立つ
どんなに厳密な整備と運用がなされても、ヘリコプターという乗り物は構造上、風や天候の影響を受けやすく、低高度飛行のため相対的にリスクも高い。夜間や海上での飛行では、安全管理はさらに難しくなる。今回の事故機は「ドクターヘリ」と称されることもあるが、正式には国の制度に基づく「基地病院型ドクターヘリ」ではなく、医療搬送契約に基づいた民間運航機だった。そのため、運航体制や安全基準は事業者によって異なる可能性がある。
現状、医療搬送に用いられるヘリの事故は極めて稀であり、制度的に運用されているドクターヘリにおいては、重大な死亡事故の報告もほとんどない。安全性は基本的に高く保たれているとされる。しかし、事故が稀であるがゆえに、関心もまた一時的で終わることが多い。2004年に佐賀県で発生した同様の墜落事故も、制度の大きな見直しにはつながらず、やがて報道も絶えた。事故の記憶が風化し、制度は危険を内包したまま静かに運用されていく。それが、低い確率に支配された制度の宿命でもある。
コストという現実
ドクターヘリが無力だというわけではない。心筋梗塞や多発外傷など、迅速な初期対応が生死を分ける場面では、ドクターヘリによる搬送が救命率を大きく高める。全国では約50機が稼働し、年間で2万件以上の出動実績がある。実際、多くの命がこの制度によってつながれている。だが、搬送先の病院に適切な専門医や医療設備がなければ、せっかく患者を届けても満足な処置ができないこともある。ヘリは「命をつなぐ橋」であると同時に、その橋の先にある「医療資源」がなければ意味をなさない。どれだけ橋を整えても、対岸にたどり着けるとは限らない。
ドクターヘリや医療搬送ヘリは、命を救う手段であると同時に、非常に高コストなインフラでもある。1機あたりの導入費用は数億円、年間の運航費用も1〜2億円とされる。ドクターヘリ制度では国と都道府県が主に費用を負担しているが、民間搬送の場合、費用の一部を患者や自治体が負担することもある。対馬のような離島では、年間数十件の搬送が必要とされるが、これによって救える命が10件、あるいはそれ未満だとすれば、1件あたりにかかる費用は1000万円を超える計算になる。限られた財源で持続可能な制度設計を考えるうえで、コスト意識も重要になり、多様な対応が求められる。たとえば、遠隔医療による診断の効率化、CTの導入、専門医の巡回体制、応急処置室の設置など、ヘリに乗せる前の段階でできる医療支援の強化こそが、費用対効果の高い対応策といえるだろう。
問題は「地域医療の構造」
対馬病院には常勤医師が20名程度とされ、脳や心臓の専門医は不在である。高度な画像診断機器であるCTやMRIも限られており、本土と比べて医療資源は明らかに不足している。全国の離島や僻地でも同様の課題を抱えており、若手医師の都市志向や医療の集中化、自治体財政の逼迫がこうした医療格差を固定化させている。ヘリ搬送は、こうした構造的問題を一時的に補う「最後の手段」であるが、それに過度な期待が寄せられることで、かえって問題の本質が見えにくくなることもある。
今回の事故は、ドクターヘリという制度の否定を意味するものではない。だが、事故が起きても制度が変わらず、関心も薄れていくという構造そのものも問題である。ヘリは、確率の上に成り立つ。事故は避けられない。だからこそ、なぜ搬送が必要だったのか、なぜ島に専門医がいなかったのか、なぜ他の手段がなかったのかが問われる。そして次の事故のとき、また同じ議論を最初から繰り返すことのないように、問題の構造を見つめ直す必要がある。
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