スターマーのNHS改革が英国を揺るがす
2025年3月13日、英国首相キア・スターマーがNHS(国民保健サービス)の運営に大胆な改革を打ち出し、英国全土に衝撃が走った。このニュースは一見、日本からは遠く隔たった出来事のように映る。しかし、混雑する医療機関や不足する医療従事者といった課題は、我が国にも共通する現実である。スターマーのこの方針転換は、我が国の医療行政の未来を考察する上で示唆に富む試みである。
衝撃の理由と改革の概要
スターマー首相によるNHS改革の発表は、2025年3月13日に突如としてなされた。その核心は、NHSイングランドという独立機関を廃止し、NHS全体を政府の直接管理下に置くというものである。NHSとは、税金によって賄われる英国の国民保健サービスであり、年間予算は約2000億ポンド、日本円にして約40兆円に上る。この制度は国民が無料で医療を受けられる基盤であり、2012年のロンドン・オリンピック開会式でも英国の誇りとして大きく称賛された存在である。
この改革が「衝撃的」と称される理由は、複数の要因に由来する。第一に、その突然性である。労働党は2024年の総選挙においてNHSの改善を掲げていたが、大規模な構造改革は公約に含まれていなかった。国民や関係者の多くが予期せぬ発表に驚愕したのは当然である。第二に、歴史的経緯の逆転である。2012年、保守党政権はNHSの運営を政治家の影響から切り離すべくNHSイングランドを設立した。それをわずか13年で廃止し、再び政府の手に委ねる決定は、過去の方針を否定する大胆な転換である。
改革の内容を具体的に見よう。NHSイングランドの機能を保健社会福祉省に統合し、政府が予算と運営を一元的に掌握する。総勢約1万8000人のスタッフのうち、半数近い9000人が削減される可能性があり、移行には2年を要する。節約される資金は年間5億ポンド以上、約1000億円と見込まれ、これを医師や看護師の増強、患者ケアの向上に充てる計画である。このような改革案に対し、英国社会の反応は二極化している。賛成派は官僚的な無駄が削減され、患者への還元が実現すると評価する。保健大臣ウェス・ストリーティングは、「2012年の失敗した改革に終止符を打つ」と力強く宣言した。他方、反対派はスタッフ削減による現場の混乱や、政治家の介入が民営化を招く危険性を指摘する。メディアは「NHSの革命」「官僚より患者を優先」と報じ、議論が過熱している。
英国医療の危機と改革の動機
スターマー首相がこの改革に踏み切った理由は、NHSが抱える危機が看過できない段階に達したことにある。その最たるものは、かつてない長さの待機期間である。現在、専門医の診察や手術を待つ患者は700万人を超え、数か月待ちが常態化している。この状況は、コロナ禍後の医療需要の急増と、高齢化による患者数の増加が重なった結果である。日本の医療機関で待合室が混雑する光景も思い起こすが、英国ではその規模が桁違いである。
英国の医療制度危機をさらに悪化させているのは、医師や看護師の不足である。NHSの総スタッフ数は約130万人に上るが、需要を満たすには程遠い。過労による退職者が増加し、新規採用が追いつかない悪循環が生じている。加えて、予算不足から医療施設の老朽化が進む。年間40兆円の税金が投じられているにもかかわらず、危機が解消しない。
批判の矛先はいささか修辞的ではあるが、「官僚主義」に向けられている。NHSイングランドは、政府と医療現場の中間に位置し、予算配分や方針決定を担ってきた。しかし、政府との役割分担が不明瞭であり、責任の所在が曖昧であった。意思決定が遅滞し、無駄な事務作業が増加する一方、患者ケアに資金が十分に回らない。この非効率さが、スターマー首相の標的となったのである。彼は「官僚的な中間層を排除し、政府が直接運営する」と宣言した。
日本の医療制度との比較
ここで日本の医療制度に目を転じる。スターマー首相の改革はNHSを政府直轄化するものであるが、日本は原点からこの段階を超えて、戦後から一貫して中央集権的な体制である。厚生労働省が国民皆保険制度を設計し、医療費の総額や診療報酬を全国一律に定めている。自治体や保険者が実務を担うものの、基本方針は国が掌握している。NHSイングランドのような独立機関は存在せず、2012年にイギリスがNHSを独立させた時点で、日本は中間層を設けず、中央集権を維持していた。病院の数や病床数の調整も「地域医療構想」として国が主導し、診療報酬も2年ごとに改定される。これらは中央集権の特徴であり、スターマーが目指す「政府直轄」は、我が国がすでに実現している姿に近い。
しかし、日本で全ての課題を解決したわけではなく、日本の医療費は2023年度で46兆円を超え、高齢化により増大する一方である。地方では病院が閉鎖し、医療難民も生まれている。都市部では医療機関が混雑し、医師や看護師が過労に苦しんでいる。厚労省が中央で采配を振るうにもかかわらず、現場との乖離が大きい。地域医療構想で病床削減を進めても、地方の反発で頓挫する例が後を絶たない。さらに、2020年のコロナ禍では、感染症対応に追われた結果、2015年に策定された病院再編計画は事実上停止した。中央集権が形骸化し、実効性が伴わない現実がある。
日英の医療制度は、もともと共通の理念を有するが、問題の側面でも多くの共通点がある。高齢化はその筆頭である。日本は高齢者率28%を超え、世界最高水準である。イギリスも18%以上と増加し、医療需要が急増する。財源不足も同様である。我が国は財政赤字の中で医療費を抑えようとし、NHSも40兆円では足りないと悲鳴を上げる。待機期間や医師不足も、両国で深刻な課題である。これらの問題は、中央集権の有無を超えて、先進国の医療が直面する普遍的な試練である。
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