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2025.03.21

米国教育省の解体

 2025年3月20日、ドナルド・トランプ米大統領はホワイトハウスで、子供たちに囲まれた象徴的な場面で、米国教育省(U.S. Department of Education)の解体を命じる大統領令に署名した。この瞬間は、トランプの選挙公約であると同時に、共和党保守派が40年以上にわたり夢見てきた「小さな政府」の実現を象徴する出来事だった。トランプは「我々はできるだけ早く閉鎖する」と宣言し、教育省を「驚くべき失敗」と断じ、その予算と権限を州に戻すと約束した。署名から翌日には、約4,400人の職員のうち2,100人が休職に追い込まれ、実質的な機能縮小が始まった。
 この動きは、単なる行政改革ではない。教育省が管理する学生ローンや低所得者向け支援(タイトルI、ペル・グラント)の将来に不安を投げかけ、すでに訴訟が提起されるなど、激しい政治的対立を引き起こしている。しかし、完全な閉鎖には議会の承認が必要であり、共和党が上院で53対47の僅差しか持たない現状では、60票の賛成を得るのは困難である。それでも、トランプ政権は予算削減や職員解雇で実質的に教育省を骨抜きにする戦略を取っており、米国国際開発庁(USAID)の前例を見れば、その実行力は侮れない。
 トランプは教育省を「若者を人種的、性的、政治的な内容で洗脳している」と批判し、保守派の支持を固めた。だが、実際の教育省は学校運営やカリキュラムを直接管理する機関ではなく、州を支援する助成機関に過ぎない。このギャップが、今回の解体劇を単なるイデオロギー闘争と見る向きもある理由だ。日本に住む私たちから見れば、この大胆な動きは驚くべきものだが、同時に米国と日本の教育行政の根本的な違いを浮き彫りにする出来事でもある。

教育省の背景
 教育省解体の背景には、共和党の長年にわたる「小さな政府」理念と、連邦政府への不信が横たわっている。この歴史は、1981年にロナルド・レーガン大統領が就任した時点まで遡る。レーガンは教育省を「新たな官僚的無駄」と呼び、州の自治を奪う存在として廃止を公約に掲げた。彼のビジョンは、連邦政府の介入を最小限に抑え、教育を地域のニーズに委ねることだった。しかし、議会の反対で実現せず、その後も保守派の夢として語り継がれてきた。
 教育省自体は1979年、ジミー・カーター大統領(民主党)によって設立された。それ以前は保健教育福祉省(HEW)内に小さな教育部門があるだけだったが、カーターは教育機会の均等を重視し、閣僚級機関に格上げした。これが共和党の反感を買うきっかけとなり、以来、伝統的な共和党員、福音派キリスト教徒、そして近年はトランプ支持のMAGA派がそれぞれ異なる理由で教育省を嫌ってきた。伝統派は財政効率と州の権利を、福音派はリベラルなイデオロギーへの反発を、MAGA派はトランプの反体制的スローガンを理由に掲げている。
 特にこの数年は、「カルチャー・ウォー」(文化戦争)がこの動きに拍車をかけた。オバマ政権(2009年~2017年)が「レース・トゥ・ザ・トップ」(連邦政府の教育改革プログラム)や共通コア基準(州が主導して策定した全国的な学力基準)を通して、従来になく連邦による教育への影響力を強め、「タイトルIX」(教育法9章の教育における性差別の禁止)で性的暴行対策やトランスジェンダー支援を進めたことが、保守派に「連邦のイデオロギー的支配」という印象を与えた。トランプはこれを「洗脳」と呼び、解体を政治的武器に変えた。しかし、バイデン政権(2021年~2025年)では、おそらく教育には関心がなかったせいだろう、大きな改革はなく、トランプの再選で一気に動き出した形だ。

日本の文科省はぜんぜん違う
 米国教育省の解体を日本の文部科学省(文科省)に重ねる議論がSNSなどで見られるが、両者は、同じ「教育を扱う省庁」という名前を持ちながら、その目的、権限、影響力においてほとんど別物である。
 まず、米国教育省は助成機関に特化している。初等・中等教育の資金のわずか13%を賄い、学生ローンや低所得者支援(タイトルI、ペル・グラント)を管理するが、カリキュラムや学校運営は州や地方学区に委ねられている。連邦制の下、「州の権利」を尊重する米国では、教育省が直接介入する権限はなく、ガイダンスや助成金の条件で間接的に影響を与えるのみだ。トランプが「イデオロギー的」と批判するのも、この間接的制御が保守派の価値観と衝突したからに他ならない。
 対して、文科省は日本の教育を一元的に統括する中央集権的な司令塔である。学習指導要領を全国で統一し、教科書検定から教員養成、予算配分まで直接管理する(さすがに韓国のように初等教育で教科書を国定化はしないが)。公立学校の運営資金や教員給与にも深く関わり、教育内容を細かく規定する。例えば、「ゆとり教育」や「アクティブ・ラーニング」の導入は、文科省が全国に一斉に展開した政策であり、振り返ると失態の歴史を積み上げる。それでも、米国のように州ごとに教育が異なることはなく、文科省の方針が日本全体を貫く。
 文科省の管轄範囲は教育にとどまらない。科学技術(研究費配分)、文化(文化財保護)、スポーツ(オリンピック支援)まで包括的に扱い、米国の教育省が「教育特化型」であるのに対し、「文教全般」を掌握する幅広さが特徴である。米国ではスポーツは教育省の外、科学は国立科学財団(NSF)が担当するが、日本では文科省が一手に引き受ける。この違いは、米国の分散型システムと日本の統一型システムの対照を象徴している。日本では官僚の規模は他国に比べて小さいが権限の大きさには目を見張る物がある。
 また、日本の文科省はその政治的な文脈も米国の教育省と異なる。米国教育省は保守派から「解体の標的」とされ、存在自体が論争の的だが、文科省は日本のシステムに深く根付き、というか、日本の市民は、教育における正しさを国家に結びつけることがあたりまえだとしていることもあり、文科省自体の廃止や大幅改革の議論はほぼ皆無の状態である。米国では教育省が、市民の思想信念への「余計な口出し」と見なされるのに対し、日本ではその「口出し」が教育の公平性や質の基盤としてなぜか広く受け入れられている。このギャップは、トランプの解体劇を日本から見る際の驚きを一層大きくする。

日本の文科省は教育以外の問題が多い(スポーツ利権、医学への介入)
 日本の文科省の強力な中央集権性から、教育分野とは本来異なるスポーツ利権や医学への介入といった問題を引き起こしている。
 スポーツ利権の問題は深刻である。文科省がスポーツを所管することは、国民の健康増進や国際競技力向上に寄与するとか言われて、「利権」の温床となっている。例えば、東京オリンピック(2021年)では、文科省が予算や政策の中枢を担ったが、総額1.6兆円を超える費用と建設会社や電通への契約集中が批判を浴びた。文科省の官僚がスポーツ関連団体(日本スポーツ振興センターやJOC)に天下りし、公的資金が私的利益に流れる構造も、ひどいと言っていいだろう。スポーツ予算の配分や施設整備の補助金が特定の地域や企業に偏るケースもあり、政治家との癒着が疑われる。学校体育や部活を通じた間接的影響も大きく、スポーツ用品業界や指導者団体が文科省の方針に依存する構図は、利権ではない誤解するのもむずかしい。公益性が目的とはいえ、不透明なプロセスや官僚的統制が「スポーツ利権」のイメージを強めている。2017年の文科省天下り問題では、スポーツ分野もその一端とされたが、世間からは忘れられている。
 医学への介入の問題は倒錯的ですらある。医学分野でも、文科省の「口出し」が議論を呼ぶ。医学部のカリキュラムや定員を厳しく管理し、全国の医師養成に影響を与える。例えば、医師不足が叫ばれる中、医学部の定員増は文科省の承認が必要で、その慎重姿勢は、医療全体構造を見ない政治的な介入である。2018年の東北医科薬科大学新設を巡る議論では、文科省の反対が医師供給の遅れを招いたとされた。研究面でも、文科省が科研費や大型プロジェクトで医学研究の優先順位を決め、基礎研究に偏りがちな方針が臨床研究の自由を制限している。厚労省が医療現場を管理するのに対し、文科省は教育と研究の上流を握る。なんだろう、この変な支配体制は。

 トランプ政権の教育省解体は、米国の分散型システムと保守派の理念が交錯した劇的な出来事だが、日本の文科省は中央集権の強さを背景に、スポーツ利権や医学への介入といった問題を抱えながらも、政治的には解決されない。日本の市民には、教育の正義や他国との優越維持に関心を持つが、地域行政のなかで教育に責任を持つという観点はない。

 

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