VOAは消えてしまうのか?
「アメリカの声(Voice of America、以下VOA)」が危機に瀕している。2025年3月、トランプ大統領の命令により、VOAの全スタッフ約1,300人が職場から締め出され、放送停止の瀬戸際に立たされているのだ。VOA側の公式アナウンスはまだなものの、ディレクターのマイケル・アブラモウィッツはフェースブックの個人声明で嘆いている。「私は深く悲しんでいる。83年ぶりに、歴史あるVOAが沈黙させられた」と。日本でも英語学習や国際ニュースの窓口として親しまれてきたVOAが、今、存亡の危機にある。私は言語学に関心を寄せるものとして、VOA英語の簡易性とその教育的価値に深い愛着を持っている。VOAは、国際政治的に見れば、報道機関というよりプロパガンダ機関と呼べるかもしれないが、その価値は英語教育、米国的価値の普及、娯楽性、そして言語学的視点からも際立つものだ。
アブラモウィッツの悲嘆
事態は急激に進展した。2025年3月14日深夜、トランプ大統領はVOAを含む米国グローバルメディア庁(USAGM)に対し、「法的に義務付けられていない活動」をすべて削減する命令を下した。これにVOAも含まれる。翌日、VOAの全フルタイムスタッフが無期限休職処分を受け、VOAの「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」や「ラジオ・フリー・アジア」への資金契約も打ち切られた。63言語で週4億2,000万人に届くVOAの運営はほぼ停止状態である。アブラモウィッツはこう訴える。「VOAには慎重な改革が必要だった。しかし、今日の措置でその重要な使命を果たせなくなる」。彼の言葉は、単なる業務停止を超えた危機感を伝える。
背景には、トランプ政権の政治的意図がある。VOAは過去にCOVID-19報道で大統領の不興を買い、「税金の無駄遣い」と批判されてきた。他方、予算削減を進めるイーロン・マスクや、新指導者に指名されたカリ・レイクが主導し、VOAの政治的コントロールを強めようとしている。ロシアや中国の指導者がこの状況を歓迎するかもしれない中、VOAの「声」が標的となった理由は、トランプ個人の意にそぐわなかった可能性すらある。
VOAの本質とその価値
VOAについて詳しくない人もいるかもしれないので、簡単に歴史を振り返っておきたい。VOAは1942年、第二次世界大戦中に枢軸国に対抗するために設立され、冷戦時代には反共産主義のメッセージを世界に精力的に届けた。戦後は自由な報道と文化発信を掲げてはいたが、米国政府の意向は色濃く反映され、報道機関というよりプロパガンダ機関としての性格が強い。連邦法で「米国の政策を明確かつ効果的に伝える」ことが使命とされ、独立性は限定的である。BBCやNHKとは本質が異なる。
しかし、そのプロパガンダ的な性質ゆえの価値もある。第一に、米国英語教育の普及である。アフリカやアジアの開発途上国で、「VOA Learning English」は簡易英語でニュースを届け、教育機会の少ない地域に言語と知識を提供してきた。第二に、米国的価値の伝播である。民主主義、自由市場、個人主義を放送を通じて広め、ソフトパワーの中核を担った。第三に、娯楽性である。音楽番組や文化紹介は、リスナーを楽しませ、米国への親近感を育んだ。VOAは報道の枠を超え、教育と娯楽を融合させた存在だった。
VOA英語の素晴らしさ
私がVOAを愛する最大の理由は、「VOA英語」の優秀性にある。言語学的な視点からも、その設計と効果を高く評価できる。VOA Learning Englishは、通常のニュース英語を約1500語の基本語彙と単純な文構造に置き換え、しかも、独自に訓練されたアナウンサーによってゆっくりとした発音で放送される。例えば、複雑な時制やイデオムを避け、明確で理解しやすい表現に特化している。これは「簡易英語(Simplified English)」の優れたモデルであり、英語を母語としない学習者にも最適化されている。1分間に130語程度の速度は、標準的な英語放送(約160語/分)より遅く、リスニングの負担を軽減する。さらに遅いレベルの音声も提供されている。
この簡易英語は、英語教育効果も最大化する。開発途上国のリスナーは、VOAを通じて英語を学び、同時に世界情勢を知る。日本でも、学生や社会人がこの放送でリスニングを鍛え、実用的な英語力を身につけてきた。私自身、VOA英語の明瞭さに助けられ、英語学習をしてきた。もともとは政治的なプロパガンダの一環だったとはいえ、その言語設計は言語学的にも洗練されており、非ネイティブへの配慮が際立つ。VOA英語は、単なるツールを超え、言語教育の傑作と言える。
日本人にとってのVOA
日本におけるVOAの歴史は、戦後復興期に遡る。米国との同盟が深まる中、VOAの英語放送はラジオを通じて届き、民主主義やアメリカ文化を知る窓口となった。インターネット時代になっても、「VOA Learning English」は英語学習の教材として親しまれている。NHKラジオと並び、その簡易英語は教養を求める日本人にとって頼れる相棒だ。まずその落ち着いたトーンと丁寧な語彙は、学習者に安心感を与える。
情報源としての価値もある。日本は報道の自由が確保されているが、国内メディアではカバーしきれない海外の視点、特に米国の立場をVOAが補完してきた。アジア情勢や米国の政策を伝えるその声は、日本の教養人にとっても視野を広げる一助だった。
報道機関としても優れている事例を思い出した。阪神・淡路大震災のときだ。たしか、日本での報道が制限されているとき、VOAの記者が香港から現地に入った。米軍の援助もあっただろう。その情報は日本の報道よりも早く状況を伝えていた。当時インターネットはまだWebが普及してなくて、私はGoferという仕組みでVOAのニュースを引きだした。当時の文面によるVOAニュースは全文が大文字だったことを思い出す。
仮にVOAが消えれば、日本にどのような影響があるか。まず、英語学習への打撃が大きい。VOA英語の簡易性と教育的配慮は、他に類を見ない。YouTubeやアプリが代替手段としてあるが、その信頼性と一貫性はVOAに及ばない。英語を学び直したい社会人や受験生にとって、その不在は大きな空白となる。VOA英語の喪失は教育ツールの傑作が消えることを意味するからだ。
VOAの未来:再編成と不確実性
VOAの未来はどうなるか。完全閉鎖となる懸念はある。トランプ政権のこうした政策が進めば、VOAは資金を絶たれ消滅する。おそらくロシアや中国が喜ぶだろうが、米国のソフトパワーは弱まる。それでも、トランプ大統領は意に返さないかもしれない。第二には、縮小存続である。最小限の機能で生き残る場合、政治的コントロールが強まり、従来の使命は失われる。その延長ともいえるが、第三に、カリ・レイクによる再編成の可能性がある。トランプの側近であるレイクは、VOAの新指導者に指名され、保守派の視点で放送局を再構築する意図があると見られる。彼女はメディアの「左派バイアス」を批判し、VOAをトランプ支持層に訴える機関に変えるかもしれない。スタッフの休職や契約打ち切りは、再編成の準備段階とも解釈できなくはない。約1,000人の新チームを率いる計画が噂されており、「新生VOA」が保守寄りのプロパガンダとして復活するシナリオは現実味を帯びている。しかし、連邦法の独立性規定や議会の反発が障害となり、成功は不透明だ。VOA英語の簡易性が維持されるかも疑問である。もちろん、現行に近い状態での復活の希望もある。政権交代や国際的圧力で、VOAが従来の形に戻る可能性もゼロではない。日本を含む同盟国の市民の支持が後押しになれば、アブラモウィッツの「使命」が再び息を吹き返すかもしれない。というわけで、このブログ記事を記す。
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