CNNのファクトチェック修正騒動
2025年3月4日、ドナルド・トランプ大統領は議会での演説で、政府効率化省(DOGE)が「マウスをトランスジェンダーにする」実験に800万ドルもの連邦資金が使われたと主張した。この発言は、保守派支持者に向けた「無駄遣い削減」のアピールとして飛び出したものである。そして翌5日、CNNは記者デイアドレ・マクフィリップスのファクトチェック記事で、この主張を「虚偽」と断定した。記事では、トランプの言う「マウス」ではなく、サルにホルモン療法を施してHIV治療を研究する助成金(2021~2022年度で47万7121ドル)が存在すると指摘し、「マウスをトランスジェンダーにする」などあり得ないと論じた。
さて、ここから問題。事態は急展開を迎えた。ホワイトハウスがマウスを使った性別移行関連研究のリストを公開したのだ。そこには、例えば「テストステロン治療の影響を調べるマウスモデル」に53万2000ドル、「女性化ホルモン療法のテスト」に3万3000ドルといった助成金が含まれていた。すると、CNNは慌てて記事を修正し、「虚偽」を「文脈が必要」に変更した。「研究はマウスをトランスジェンダーにするためではなく、人間の健康への影響を調べるものだった」と説明を加えた。訂正文も掲載され、「以前のバージョンでは誤って虚偽と特徴づけていた」と認めた。この経緯は、Fox Newsなどの競合メディアに「CNNのミス」として取り上げられ、波紋を広げたのである。
この事態は、単なる事実誤認を超えて、メディアの信頼性や政治的意図をめぐる議論を呼び起こしている。特に、CNNが当初選んだ言葉とトーンに注目すると、その背後に何が潜んでいたのかが見えてくる。
「虚偽」という言葉の重み
CNNが初期のファクトチェックで「falsely claimed(虚偽の主張をした)」と断言したことは、単なる誤りとは言い切れないニュアンスを含む。「誤解を招く」や「不正確」ではなく、「虚偽」という強い言葉を選んだ点は注目に値する。この選択は、トランプの発言を単に訂正するだけでなく、根底から否定し、彼の信頼性を傷つける効果を持つからだ。トランプが「マウスをトランスジェンダーにする」という奇抜な表現を使ったのは事実だが、研究の存在自体は後で裏付けられた。にもかかわらず、CNNは当初、その可能性を一切考慮せず、サルの研究だけを根拠に全否定に走った。
このトーンは、トランプを嘲笑的に描く意図も暗示する。記事では「800万ドル」の出所が不明と強調しつつ、彼の発言を誇張的で荒唐無稽なものとして切り取った。しかし、トランプの主張はDOGEの政策アピールの一環であり、保守派が性別移行関連研究を「無駄遣い」と批判する文脈があった。CNNがこうした政治的背景を省いたことも、彼を貶める意図があったと解釈される要因である。こうした言葉とトーンの選択は、CNNとトランプの長年の敵対関係を反映している可能性が高い。トランプが「フェイクニュース」と非難してきたCNNにとって、彼の発言を迅速に否定することは、政治的対抗意識の表れとも取れるのは当然だろう。
とはいえ、CNNの意図を証明する直接的な証拠はない。訂正後の軟化したトーンや、調査不足による誤解の可能性も否定できない。だが、「虚偽」という言葉が持つ攻撃性は、単なるミスを超えた何かを示唆していると言わざるを得ない。まあ、端的にいえば、リベラル・メディアの胡散臭さを煮詰めたようなものだ。
メディアの信頼性とファクトチェックの難しさ
この騒動は視野を広げれば、メディアがファクトチェックに挑む際の難しさを浮き彫りにする。科学的な研究内容を短時間で正確に評価するのは容易ではない。トランプの発言は誇張的で曖昧だったが、マウスを使った性別移行関連研究が存在した事実は動かしがたい。CNNが当初それを否定したのは、情報の不足に加え、トランプへの先入観が影響した可能性があるだろうが、修正後の説明で「研究の目的は人間の健康への影響を調べるもの」と正しく文脈を補ったのに対し、初期記事はそうした視点をそもそも欠いていたからだ。
今回の事例が注目されるには、米国の、特にリベラル・メディアは視聴者からの現在、信頼低下に直面している背景がある。CNNが訂正を余儀なくされたことで、Fox Newsは「ネットワークの失態」として攻撃される隙を与えた。ファクトチェックは客観性を示す手段であるはずが、誤れば逆に偏りを疑われるリスクを負う。このケースでは、「虚偽」という言葉の選択が、政治的意図を疑う声を増幅させた。もしCNNが中立的なトーンで「文脈を確認中」として、手順的に留保していれば、こうした批判は避けられた。
結論として、CNNのファクトチェック修正は、言葉とトーンが単なる事実報道を超えて意図を暗示する事例である。トランプを迅速に否定しようとした可能性は、選ばれた「虚偽」という言葉に色濃く表れている。厳密には、それが意図的だったか、単なる性急な判断だったかは依然として推測の域を出ないが、それ自体が胡散臭い防衛的な煙幕として機能していた。メディアが信頼を取り戻すには、言葉の重みを再考し、政治的対立の中で客観性を保つ手順的な努力が求められる。この騒動は、その課題を突きつける、と理解しなければ、救いようがないだろう。
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