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2025.03.15

英国と日本の終末期医療

 英国はかつて終末期医療で世界最高と評価されていたが、近年その評価は落ち込んでいる。2024年11月のガーディアン紙報道に基づく調査によれば、英国では毎日約20人の末期患者が痛みを緩和されないまま亡くなっている。この数字は、緩和ケアの提供体制の不備や地域によるサービスのばらつきを物語っている。一方、日本でもがん患者への緩和ケアが進展してはいるものの、その内実や在宅ケアの普及や地域格差の解消には課題が残る。両国とも、患者が望む最期を迎えられない現実が浮かび上がる。ここでは、英国と日本の緩和医療の現状を比較してみたい。

英国の崩れゆく緩和ケアの基盤

 英国の国民保健サービス(NHS)は、2015年にエコノミスト・インテリジェンス・ユニットで終末期ケアの世界一に輝いた。しかし、今やその栄光は遠い過去となった。例えば、これは2025年3月6日付のBBC報道によるものだが、67歳のテリー・リーダーは末期胃がんで自宅での死を望んだが、十分な支援が得られず病院で亡くなった。彼のパートナー、ジリアンは、彼の痛みを和らげる術を知らず、病院の簡易ベッドで寄り添うしかなかった。このような事例が珍しくなくなった。英国人の大多数が自宅での死を希望するが、国家統計局の推定によれば実際には約26%程度しか実現していない。年間65万人の死亡者のうち、少なくとも75%が緩和ケアを必要とすると推定されるが、マリー・キュリー財団の報告では、イングランドとウェールズで約22%以上が支援を受けられていない。
 この状況の背景には、地域による「郵便番号による格差」(住む場所によって支援の質が異なる状況)がある。例えば、ロンドンでは専門緩和ケアが比較的充実している一方、地方では週7日対応が基準であるはずの病院でも、監査によれば4割がそれを満たしていない。夜間や週末に専門医や看護師の支援が得られない地域も多い。この「郵便番号による格差」は、英国でよく使われる表現で、医療サービスのアクセスが住所次第で決まる不公平さを指す。2024年11月のガーディアン紙報道に基づく調査では、毎日約20人が痛みを我慢したまま亡くなると報告されており、緩和ケアの不備が生命の質を奪っている。
 資金面でも問題は深刻だ。健康経済ユニットとナフィールド・トラストの報告によれば、年間約120億ポンドが最後の1年間に費やされるが、その85%が病院や救急医療に流れ、コミュニティ支援は後回しである。マリー・キュリー財団の報告では、家族の半数が最期のケアに不満を抱いているとされ、この不均衡が患者と家族に重い負担を強いている。
 こうした背景から英国では、2024年11月に「医師による幇助死」法案が議会で可決された。この法案は末期患者に自らの意思で人生を終える権利を認めるものだが、緩和ケアの充実が前提条件であるとの声が強い。保健大臣ウェス・ストリーティングは、緩和ケアの不足が患者を「強制的な選択」に追い込むと警告している。実際、緩和ケアが整わないままでは、死を選ぶことが唯一の痛みからの解放手段となりかねない。先のテリーの事例が示すように、適切な支援があれば自宅で最期を迎えられた可能性もある。

日本の緩和ケアの現状

 日本では、2007年の「がん対策基本法」を契機に緩和医療が進化してきた。がん患者と家族が質の高い治療と療養生活を送れるよう、診断時から治療と並行して緩和ケアが提供されることが求められている。例えば、2023年までのデータに基づくと、215の緩和ケアユニットががん死亡の8.4%を担当し、約500の病院チームが活動する。専門家の数も増え、2023年時点で緩和ケア医師646人、がん疼痛看護師1,365人、緩和ケア看護師1,100人が登録されているが、2025年現在の最新数は未確認だ。PEACEプログラムなどの教育や、2018年の末期心不全への報酬拡大は、政府の取り組みを反映している。
 しかし、在宅緩和ケアの普及は遅れている。2023年の研究では、在宅で緩和ケアを受けた進行がん患者が病院よりも長く生存したと報告されたが、在宅で最期を迎えられる人は少数だ。日本の文化的要因とも言えるが、患者が意思決定能力を失うと家族や医師に依存する傾向があり、これが在宅ケアの障壁となっている。
 2000年に導入された長期介護保険(LTCI)はケアマネージャーを通じてサービスを調整するが、施設ケアが優先されがちである。地域間のサービス格差も課題である。都市部では病院ベースのケアが充実している一方、地方では人材不足やアクセス難が目立つ。例えば、東京や大阪では専門チームが迅速に対応できるが、過疎地域では緩和ケアの選択肢が限られる。高齢化が進む中、2023年の予測では2020年の106万人から2040年には141万人の緩和ケア需要が見込まれ、認知症や老衰への対応が急がれるが、がん中心のシステムが追いついていない。

日英の共通の課題

 英国と日本を比較すると、患者が望む場所で最期を迎えられない点や地域格差が共通の問題として浮かぶ。英国では、資金の大部分が病院に流れ、コミュニティ支援が手薄だ。自宅で死にたいと願う患者が病院に押し込まれるケースが後を絶たない。日本でも、在宅ケアを希望する声は多いが、実際には病院や施設での死が主流である。両国とも、緩和ケアの専門サービスの提供が地域によって不均等であり、「郵便番号による格差」が患者の選択肢を狭めている。英国ではロンドンと地方の差が顕著であり、日本でも東京と過疎地域のギャップが埋まらない。
 人材不足と訓練の欠如も問題を悪化させている。英国では、非専門スタッフ向けの緩和医療訓練が「ほぼ存在しない」とされ、一般開業医が過重な負担を負う。日本では専門家の数は増えたが、地方での不足が顕著だ。両国で共通するのは、患者の痛みや心理的苦痛を軽減する体制が不十分な点である。英国では2024年11月の調査で毎日約20人の未緩和死が報告され、日本の在宅ケア未達もこの現実を象徴している。加えて、高齢化が両国に新たな圧力をかけている。英国では今後10年で死亡者数が12%増えると予測され、日本では2040年までに緩和ケア需要が約4割増えると見込まれる。このままでは、システムの限界がさらに露呈するだろう。

多角的な改革の必要性

 これらの課題を解決するには、多角的な取り組みが必要だ。英国では資金の再配分が急務である。病院からコミュニティへ20%の資金をシフトすれば、現在の支出が倍増し、在宅ケアが強化される。例えば、セント・クリストファーズ・ホスピスのような施設は寄付に頼るが、政府資金が増えれば安定した支援が可能になる。日本では、LTCIを活用した在宅ケアの拡充が求められる。2023年の研究が示すように、在宅ケアは生存期間を延ばし、患者の希望にも応えられる。両国とも、電子記録の共有や24時間対応の看護師ラインのような中央ハブを整備し、サービス間の調整を改善すべきだ。ケンブリッジシャーの事例では、NHS 111と連携したシステムが効果を上げている。
 専門人材の育成も不可欠となる。英国では、非専門スタッフへの訓練を拡充し、緩和ケアを全医療従事者の基本スキルとすべきだ。日本では、地方での専門家配置を進め、PEACEプログラムをさらに拡大する必要がある。また、地域格差の是正も急ぐべきだ。英国の「郵便番号による格差」や日本の都市-地方間ギャップを埋めるには、政策的な資金投入とインフラ整備が欠かせない。そのためには、地方に移動診療車を導入すれば、アクセスが向上するだろう。患者の選択肢を広げる法整備と社会的議論も重要である。英国の「医師による幇助死」法案は一つのモデルだが、緩和ケアが整わなければ真の選択とは言えない。日本でも、患者の尊厳を尊重する終末期医療の議論が始まるべきだ。

尊厳ある最期のために

 英国と日本の緩和ケアには、改善の余地が山積している。患者が最期を自らの意思で過ごせる体制を作るには、医療従事者の意識改革、政策の見直し、社会の協力体制が必要になる。英国では、法案可決を機に緩和ケアの基盤強化が急がれる。日本では、高齢化に対応した在宅ケアの拡充が待ったなしだ。いずれにせよ、終末期にある患者一人ひとりの痛みや希望に応えるシステムが求められる。人は一度しか死なないのだから、その一度が尊厳あるものとなるよう、模索していく必要がある。



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