政治献金と予算案国会
2025年3月31日、日本の国会はどちらかというとやや異例の状況にある。2025年度予算案の審議が年度末に間に合わず、参議院で継続審議となっている一方、政治献金規制を巡る議論が衆議院の政治改革特別委員会で過熱しているということだ。通常、予算案は3月末までに成立するが、今回は自民党・公明党の少数与党体制のもと、日本維新の会や国民民主党との調整が難航し、年度をまたぐ可能性が浮上している。参議院で否決されても、憲法60条に基づく衆議院の優越で成立する道はあるが、政治的な駆け引きが混迷を深めている。同時に、政治献金問題が注目を集めている。2024年のいわゆる「自民党裏金」が発端となり、企業・団体献金の禁止か透明性強化かが焦点ということになっている。自民党は「公開基準の引き下げ」で対応可能と主張し、対立する立憲民主党や維新は表向き「全面禁止」を求めているが、彼らも「政治団体を除外する」とするシュールなギャグを演じてるかにも見える。この議論は予算案と並行し、衆議院から参議院へ、場合によっては再び衆議院に戻る可能性がある。法案が両院を行き来するケースは稀だが、今回は政局の混乱と絡み合い、国民の目に映る国会は一層、滑稽だ。
この奇妙な二重奏ともいえる背景には、2024年10月の衆議院選挙がある。自民党は単独過半数を失い191議席、公明党と合わせても過半数ギリギリの体制に転落した。一方、立憲民主党は148議席に伸ばし、野党第一党としての存在感を増した。予算案成立には他党の協力が不可欠となり、政治献金問題でも与野党の対立が先鋭化している。この状況下で、国会は国民生活に直結する予算と、政治の信頼性に関わる献金問題を同時に扱わざるを得ない。
政治献金問題の根深い背景
政治献金問題がここまで注目されるのは、自民党のいわゆる「裏金問題」が引き金である。2024年、複数の自民党議員が政治資金収支報告書に記載しない「裏金」を作り、通年の総額で見れば数億円規模に上ることが発覚した。これをマスコミが騒いで国民の政治不信を加速させ、企業・団体献金の規制強化を求める声が高まった。自民党は企業献金の依存度が高く、経団連などから年間約24億円(2023年政治資金収支報告書ベース)を受け取っており、この資金は選挙活動や党運営に不可欠であり、「透明性を高めれば十分」との立場を崩さない。
野党第一党の立憲民主党は、ポピュリズム政党らしく、マスコミの騒ぎに乗じて企業献金批判を展開するが、自身も労働組合からの献金に依存しているのが実態である。連合傘下の労組から2023年に立憲・国民民主の議員に計3億2142万円が流れ込んだとされ(総務省公表データ)、自民党を攻撃する資格が問われる構図だ。主要政党が資金源を失えば政治活動が立ち行かなくなる現実があり、企業献金廃止を掲げる野党側も代替案を示せていない。維新は「個人献金中心」を主張するが、実効性は未知数だ。
政治献金自体は資本主義で自由主義の国家にとって当たり前のことであり、歴史的に見ても、政治献金は日本の政治構造に深く根付いていた。1975年の政治資金規正法改正で企業献金の上限が設定されたが、抜け道としてパーティー券購入が活用されてきた。2010年代には民主党政権下で企業献金禁止が議論されたが、実現せず現状に至る。資金の透明性向上を目指した改正は進んだものの、裏金事件でその限界が露呈した形だ。この問題は単なる法改正では解決せず、そこで、マスコミは政党運営の資金構造そのものにメスを入れる必要があるとかぬかすのだが、そもそもそれが不可能だからこんな歴史を辿っている。
こうしたなか、予算案と政治献金の議論が重なるのは偶然ではない。自民党の弱体化で野党が攻勢に出る中、献金規制を政局の武器として使う意図が見える。しかし、各党が自らの資金源を棚に上げたままの対立は、不毛な印象を強めるだけだ。国民の生活を支える予算案が後回しになり、政治改革の名の下に党利党略が優先される現状は、議会制民主主義の機能不全を象徴している。端的に言えば、こんな馬鹿げた問題で国会という資源を浪費しているのである。
金がかかる政治のジレンマ
政治献金問題の現状の構図を整理すると、自民党と立憲民主党の「依存対立」が中心である。自民党は企業マネーに頼り、立憲民主党は労組マネーに依存する。両者とも資金源を批判し合うが、どちらもそれを手放す気はない。この構図は、資本主義国家で政治が「お金のかかるもの」という前提に立脚している。選挙戦ではビラ配りから街頭演説までコストがかかり、事務所維持や政策立案にも資金が必要だ。政党交付金(2024年度は約315億円が各党に分配)があるとはいえ、選挙や日常活動を賄うには不足し、献金依存は避けられない。ちなみに、興味深いのは日本共産党の立ち位置だ。共産党は企業・団体献金と政党交付金を拒否し、党員の党費と機関紙「赤旗」の購読料で運営する。年間約200億円の収入(2023年党発表)を誇るが、その裏には党員への販売ノルマや動員の実態がある。清貧を掲げる姿勢は象徴的に評価される一方、独自の資金集めが批判を免れるのは、自民や立憲への注目が強いからだろう。献金規制が進めば共産党に有利に働く可能性はあるが、すでに弱体化して国民から総体からは乖離しているため話題に上りにくい。
こうしたジレンマに対し、マスコミや国民の意識が問題を混乱させている。市民は怨嗟の意識から「お金=汚い」と単純化する傾向が強く、政治において「清く貧しく正しく」が美化される。しかし、政治家が資金なしで動けるはずもなく、理想と現実のギャップが議論を曖昧にしている。企業献金禁止を叫ぶだけでは代替資金が示されず、透明性強化も裏金の温床を完全には防げない。現実的な解決策が見えないまま、国会はぐじゃぐじゃと揉める状態に陥っている。
資本主義で自由主義の国家の政治にお金がかかるのは単なる事実に過ぎないのに、二十世紀の社会主義の理想論の亡霊が湧き出る。問題の基本構図がゆるぎもいないのだから、具体策が欠け弥縫策の歴史となる。立憲民主党が労組依存を隠し、自民党が企業との癒着を正当化する姿を見て、国民が、ああ国民が馬鹿にされてと感じるならないがいいが、「清貧」の綺麗事で拘泥し、マスコミが感情論を煽り、国民がそれに乗る。幸い、政治と金の問題は、昭和の時代からじわじわと縮小化しており、逆に本質的な問題ではないから、政局の馬鹿騒ぎになっているのである。
政治献金問題を根幹から解決するには、まず「お金がかかる政治」を国民が受け入れればいい。ゼロにするのは非現実的なのだ。ならば、資金の流れを透明化し、国民が監視できる仕組みを地味に、地味な話題として進めるのが現実的だ。そもそも献金はいかんからといって、政党交付金を増やす案はは反発されるだろうし、そもそも自由主義国のあり方ではない。各政党について言えば、自民党の企業献金、立憲民主党の労組献金、共産党の赤旗収入、こうしたそれぞれの政治資金の依存構造を明確にし、どの程度政策に影響するかを議論すべきだろう。
国会が馬鹿げたものになるのは、理想と現実の乖離を埋められないからだ。いい加減やめろとも思うが、だいたいそんな思いが蔓延するとこのての問題は終わる。だが、今後、これで自民党はさらに弱体し、さらに日本の国会は混迷していくのだろう。どっかから目覚まし時計が鳴るような事態になるまで続くだろうが、そのとき、国会が目を覚ましてまともに機能できる状態であれば、いいが。
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