ジェフリー・サックス教授の講演「平和の地政学」
2025年2月19日、欧州議会で開催された「平和の地政学」と題されたイベントにおいて、ジェフリー・サックス教授が講演を行った(参照)(参照)。このイベントは、元国連事務次長補で現在はBSWの欧州議会議員であるミヒャエル・フォン・デア・シューレンブルクが主催したもので、サックス教授は、長年にわたり東欧、旧ソ連、ロシアなどの地域で政治・経済顧問として活動してきた経験を基に、現在の国際情勢と特に米国の外交政策が世界に与える影響について語っている。彼は、ここで自身の視点がイデオロギーではなく、36年間にわたる直接的な観察と経験に基づいていることを強調した。例えば、1989年にはポーランド政府、1990~1991年にはゴルバチョフ大統領、1991~1993年にはエリツィン大統領、1993~1994年にはウクライナのクチマ大統領の顧問を務め、エストニア通貨の導入や旧ユーゴスラビア諸国の支援にも関与した、と。また、マイダン革命後には新政府からキエフに招かれ、現地で多くの情報を得ている。さらに、30年以上にわたりロシア指導者や米国政治指導者とも密接な関係を築いてきた。こうした豊富な経験から、サックスは現在の危機を米国主導の戦争と結びつけ、その背景を詳細に説明した。
彼の講演の目的は、複雑で急速に変化する現代の危険な状況において、ひとつの明確な論点を提供することであった。これは、欧州が独自の外交政策を持つ必要性であり、そこに至るまでに、ウクライナ危機や1999年のセルビア紛争、中東やアフリカでの戦争が、米国の方針によって引き起こされたとしている。サックス氏によれば、米国は国際的な義務や国連の枠組みを無視する形で行動し、その結果、欧州が大きな代償を払ってきたと見ている。
米国の外交政策とその影響
サックス氏は、米国の外交政策が過去40年以上にわたり、多くの戦争の原因となってきたと主張する。特に1990〜1991年のソ連崩壊後、米国は単極覇権を確立し、他国の見解や安全保障上の懸念を無視する姿勢を取ったと述べた。彼は、1991年にゴルバチョフへの支援を米国に求めた自身の提案が、国家安全保障会議で嘲笑とともに却下された経験を振り返り、米国がソ連の安定化を支援するのではなく、最小限の対応で済ませる方針を採ったことを明らかにした。ソ連崩壊後、この傾向はさらに強まり、チェイニーやウォルフォウィッツといった人物が「米国が世界を支配する」と信じ、旧ソ連の同盟国を次々と排除する政策を進めたと説明した。これにより、イラク、シリア、リビア、ソマリア、スーダンなどでの戦争が引き起こされ、欧州は米国への忠誠心から明確な外交政策を持てず、多大な負担を負ってきたと氏は批判した。具体例として、2003年のイラク戦争が挙げられ、フランスとドイツが国連安全保障理事会の承認なしでの戦争に反対したことを「欧州が最後に声を上げた瞬間」と評価したが、その後欧州は独自の立場を失い、特に2008年以降は米国の単極主義に完全に追随する形となった。サックス氏は、これらの戦争は米国による意図的なプロジェクトであり、特にイラク戦争がネタニヤフと米国防総省の協力によるイスラエルのための戦争であったと指摘した。このような米国主導の政策が、欧州に長期的な悪影響を及ぼし、独自の安全保障や外交戦略を構築する機会を奪ってきたと強調している。
NATO拡大とロシアとの緊張
サックス氏は、NATOの東方拡大が現在のウクライナ危機の主要因であると見ている。1991年2月7日、ゲンシャーとベーカー国務長官がゴルバチョフと会談し、NATOが東に拡大しないと約束したことは、ドイツ統一交渉の法的文脈で明確に記録されている。にも拘らず、1994年にクリントン大統領がNATOの東方拡大を承認したことで、この約束は破られてしまった。サックス氏は、ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障アーカイブに掲載された資料を参照し、米国がこの事実を隠してきたと批判した。1997年、ブレジンスキーが著書『グランド・チェスボード』でNATOと欧州の東方拡大を計画として提示し、ロシアがこれに抵抗できないと予測したことも紹介した。しかし、ロシアは中国やイランと同盟を結ぶなど、ブレジンスキーの予想に反する動きを見せ、米国の方針が誤っていたことが明らかになったと述べた。
2004年にはバルト三国やルーマニア、ブルガリアなどがNATOに加盟し、ロシアは強く反発したが、米国はこれを無視した。2008年にはウクライナとジョージアへのNATO拡大が決定され、ロシアとの緊張がさらに高まることになった。サックス氏は、2008年、ジョージアのサーカシビリ大統領の行動が米国の支援を受けて戦争を引き起こしたとして、NATO拡大が単なる防衛策ではなく、米国による覇権拡大の道具であったと主張した。また、2014年のマイダン革命も米国による政権転覆作戦の一環であり、ヤヌコーヴィチ大統領の追放が意図的に仕組まれたと指摘した。ミンスク合意が米国とウクライナによって履行されなかったことも、欧州が米国の従属的な役割に甘んじた結果だと批判した。
ウクライナ戦争と核軍備管理の崩壊
2022年に始まったウクライナ戦争について、サックスはプーチンの目的がゼレンスキーに中立性を交渉させることであったと説明した。戦争開始から7日以内に交渉の用意が示されたが、米国と英国の介入によりウクライナが合意から離脱したと述べた。特にボリス・ジョンソンが2022年4月にキエフを訪れ、戦争継続を促したことが決定的だったと指摘した。この結果、約100万人のウクライナ人が死傷し、米国の一部議員がこれを「アメリカ人が死なない素晴らしい投資」と称賛するほど冷酷な代理戦争となったと批判した。サックス氏は、米国がロシアを経済制裁や軍事支援で屈服させようとしたが失敗に終わり、戦争終結の可能性がトランプ政権下で高まっていると予測している。また、戦争の背景には核軍備管理の枠組みの崩壊があるとも強調した。
2002年に米国が一方的に弾道弾迎撃ミサイル(ABM)条約から脱退したことで、核抑止の均衡が崩れ、ロシアの懸念が強まった。2010年以降、米国がポーランドとルーマニアにイージスミサイルシステムを配備したこと、さらに2019年に中距離核戦力(INF)条約からも離脱したことで、現在の世界は核軍備管理の枠組みが全く存在しない状態だと指摘した。これによりロシアは、ウクライナへのミサイル配備を極度に警戒し、2021年12月から2022年1月の交渉で米国がミサイル配備の権利を主張したことが戦争の引き金となったと述べている。
サックス氏は、2022年初頭の交渉でロシアが提示した中立性と安全保障保証を含む提案を米国が拒否したことが決定的だったと語る。彼はホワイトハウスのジェイク・サリバン国家安全保障補佐官と1時間の電話で戦争回避を訴えたが、「NATOはウクライナに拡大しない」との公的表明を拒否され、このため戦争は回避不能となった。この経験から、サックス氏は米国指導者の外交的知恵の欠如と、対話ではなく一方的なゲーム理論に基づく戦略を批判した。当時、戦争終結に向けた交渉がトルコの仲介で進展しかけたが、米国と英国の圧力で頓挫したことも明らかにし、欧州が主体的に介入できなかった点を残念だとしている。
欧州の外交政策と今後の展望
サックス氏は、欧州が米国依存から脱却し、独自の外交政策と安全保障構造を構築する必要性を強く訴えた。現在の欧州はNATOと一体化し、米国の方針に盲目的に従うことで自らの声を失っていると指摘する。2003年のイラク戦争反対以降、欧州が独自の立場を示した例はほとんどなく、特にウクライナ戦争では米国の代理として役割を果たしてきた。彼は、欧州がロシアと直接交渉し、相互の安全保障上の懸念に対処する外交を展開すべきだと提案している。例えば、バルト諸国の安全を確保するためには、ロシア系住民への敵対的政策を止め、対話を通じて信頼を築くことが重要だと述べた。
さらに、サックス氏は欧州が経済力(20兆ドル)と人口(4億5,000万人)を活かし、ロシアとの経済的・自然的つながりを強化する主要パートナーとなるべきだとまで主張した。ノルドストリーム爆破のように米国が関与しうる妨害行為にも触れ、欧州が自らの利益を守るために行動する必要性を強調した。
トランプ政権下での戦争終結の可能性については、トランプが「負け戦」を嫌う性格からロシアとの合意を模索するだろうと予測している。ただし、これは米国の大義ではなく、損失回避の判断によるものだとも分析した。欧州にとっては、戦争終結後も米国に頼らず、ロシアを含む包括的な平和を構築する責任があると訴えた。
最後に質疑応答では、チェコやスロバキアからの質問に対し、中立政策の重要性やロシアとの直接対話の必要性を説いた。また、NATO加盟国への軍事費増額要求については、米国への依存を深めるだけだと警告し、欧州独自の安全保障投資を推奨した。長期的な展望として、サックスは技術革新による豊かさの時代が可能だとし、平和がその前提条件であると強調。欧州が気候変動対策や社会的公正をリードし、国際法に基づく協調的な世界秩序を築く役割を担うべきだと結論づけた。
技術革新がもたらす豊かさを実現するためには、平和が不可欠であり、欧州がそのリーダーシップを発揮すべきであろう。サックス氏によるこの講演は、欧州議会議員に対し、党派を超えた平和への積極的取り組みを促すものであり、今後の議論の出発点となることを意図しているものである。
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