「正しさ」の罠
現代の社会においてSNS(ソーシャル・ネットワーキング)は、「正しさ」を競い合う巨大な闘技場と化してきた。ある社会問題について「意見」を述べると、即座に賛否両論が飛び交い、それぞれの陣営が「正しさ」を独占しようと激しい論争を繰り広げる。しかしそれらは最初から、まるで予約チケットのように席が決まっているのだ。環境政策をめぐる議論では、「規制強化」か「経済活動の自由」かの二者択一を迫られ、その中間的な立場や別の観点からの提案は、まるで存在しないかのように無視される。教育改革に関する議論でも同様の構図が見られる。「詰め込み教育」対「ゆとり教育」、「STEAM教育推進」対「人文教育重視」といった具合に、複雑な教育の問題がアプリオリに単純な二項対立に還元されている。
厄介なのは、このような状況下では、慎重な判断を示そうとする発言者に対して「立場を明確にしない卑怯者」「問題から逃げている」といったレッテルが貼られること。結果として、多くのユーザーは安全な選択として、大多数の意見に同調するか、あえて沈黙を選ぶことを余儀なくされる。それ自体が特殊な権力の行使なのだという意識は最初から欠落している。ある地方自治体の不祥事をめぐる議論では、その対象者を全面的に非難するか、擁護するかの二択を迫られる。しかし組織や慣例に関わる問題は往々にして複雑で、単純な善悪の判断では捉えきれない要素を含んでいるものだ。
SNSの特徴である即時性は、この問題を増幅させる。投稿から数分で膨大な反応が寄せられ、それらは感情的な応答の連鎖を生み出す。議論は瞬く間に過熱し、「いいね」の数や引用リツイートの数によって、どちらの主張が「正しい」かが判断されるような状況が生まれる。このような環境では、複雑な社会問題に対する建設的な議論は成立しづらい。感情的な反応の連鎖によって、本質的な議論からますます遠ざかっていく。
正しさの独占競争は、ほぼ必然的に集団的な攻撃性を帯びる。特定の意見や立場が「正しい」とされると、それに反する見解は一切認められず、その主張者は社会的な制裁の対象となる。特定のハッシュタグを用いた組織的な批判や、過去の発言の掘り起こし、さらには個人情報の特定といった行為にまで発展する。このような「正義の暴走」は、SNSという場の特性と相まって、伝統的な魔女狩りのような様相を呈する。
SNSにおける正しさの独占競争が、私たちの思考そのものを歪めてしまう。常に「正義」を軸として二者択一を迫られる環境では、複雑な問題を多角的に検討する余地が失われ、思考は単純化へと向かう。社会の分断はその結果というより、この特殊な権力装置の結果なのである。対話の可能性はほぼなくなる。正しさを巡る新たな種類の同調圧力に直面しているが、そのことが本当は問題なのだ。
「正しさ」という幻想
なぜSNSでは、物事が極端な二項対立として現れるのか。その背景には「誤ったジレンマ」と呼ばれる思考の罠が潜んでいると思われる。これは複数の選択肢が存在するにもかかわらず、意図的にあるいは無意識に二者択一の状況を作り出してしまう論理的な誤りである。例えば、コロナ禍における対策を巡る議論では「経済か命か」という二項対立が形成された。しかし実際には、経済と命の両方を守るための様々な選択肢や段階的な対応が存在していた。にもかかわらず議論は極端な二者択一に収斂していった。「マスクはウイルス予防に有効か」、答えは自明で、有効な環境もあり、有効ではない環境もある。「新型コロナ用ワクチンなどワクチンは否定されるべきか」それ以前に、この「ワクチン」はmRNA医薬の「ワクチン的利用」であって、旧来の「ワクチン」とはまったく異なっていたことは議論されない。
SNSの構造的特徴がこの誤ったジレンマを増幅させる。140文字や数百文字という文字数制限は、複雑な問題を単純化して表現することを強いる。また、「いいね」や「リツイート」という機能は、より極端で感情に訴えかける主張を優先的に拡散する傾向がある。こうして、本来は多様な観点から検討すべき問題が、SNS上では単純な二項対立として流通する。
この誤ったジレンマは「正しさ」という幻想と結びつきやすい。いやほとんど結びついて提示される。そして二者択一の図式が提示されると、私たちは自然とどちらかの立場を「正しい」ものとして選ばざるを得なくなる。そして一度、ある立場を「正しい」と判断すると、その反対の立場は「間違っている」という烙印を押されることになる。働き方改革を巡る議論でも、「効率化推進」か「ワークライフバランス重視」かという二項対立が形成されれば、その前提を疑うことなく、それぞれの陣営が自らの正しさを主張し合うゲームが始まる。実際には働き方の問題は個人や組織によって多様であり、画一的な解決策を求めること自体に無理がある。
こうした「誤ったジレンマ」における「正しさ」の追求がもたらす最大の問題は、それが対話の可能性を閉ざしてしまうことにあり、結果的に見れば、対話を潰すための装置である。この装置が作動し、さらにメディアが加担すると、異論それ自体が正義ではないとして排除される。「正しい」とされる立場からは、反対の立場との対話自体が「間違った考えを認めること」として否定される。キャンセルカルチャーの議論の多くでは、そもそも対話が成立しない。これは、SNS上で「正しさ」を追求することは、往々にして他者への攻撃性と結びつくことでもある。自らの立場の正しさを主張するために、反対の立場を取る人々を非難し、時には人格まで否定する。
「正しくない」という選択
SNSにおける「正しさ」の追求が、かえって対話を阻害し、問題の本質から私たちを遠ざけているとすれば、「正しくない」という選択には、アイロニカルだが、新たな可能性を見出せるのではないか。誤ったジレンマの罠を認識した上で、意識的に「正しさ」の競争から距離を置く態度である。では「正しくない」ことを選ぶとは、具体的にどのような態度なのか。それは第一に、提示された二項対立を、一旦忘れる姿勢である。「この問題は本当に二者択一なのか」「見落とされている選択肢はないのか」と問い直す。第二に、即座の判断や反応を求める圧力に対して受動的に抗う態度である。SNSでは「今すぐ態度を表明せよ」という無言の圧力が存在するが、複雑な問題について熟考する時間を持つことは、むしろ責任ある態度と言える。第三に、暗黙的に対立する立場の双方に耳を傾ける姿勢である。「正しさ」の競争から離れることで、異なる立場の人々の声に、より開かれた態度で接することが可能になる。
このような「正しくない」という選択は、時として「当事者意識の欠如」や「責任放棄」として批判されることもある複雑な現実に真摯に向き合い、持続可能な解決策を模索する態度こそが、真の当事者意識と言えるだろう。
SNSが私たちの生活に深く浸透した現代において、「正しくない」という選択は、新たな対話と思考の可能性を開く。それは、誤ったジレンマの罠に陥ることなく、問題の本質により近づくための知的な態度になりうる。
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