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2025.01.03

1979年米韓首脳会談記録

 ジミー・カーター元米国大統領が2024年12月29日にジョージア州プレーンズの自宅で100歳で逝去し、その生涯と政治的遺産が改めて注目を集めている。カーター政権は人権重視外交や軍縮政策を掲げたことでリベラル派からはそれだけで安易に称賛される空気もあるが、冷戦期における米韓関係の影響を捉え直すと、それでよいのか疑問に思える点は多い。その象徴的な出来事が、1979年6月30日にソウルで行われた米韓首脳会談である。この会談の詳細を記録した機密文書(参照)が、35年の秘匿期間を終えて米国のジョージ・ワシントン大学「ナショナル・セキュリティ・アーカイブ」によって公開され、当時の外交の舞台裏が明らかになっている。
 この米韓首脳会談では、米国が進める在韓米軍の段階的撤退方針をめぐる対立が中心となっていた。当時、米国はベトナム戦争の傷跡から立ち直るため軍事的負担を軽減し、同盟国に自立的な防衛を求める政策へと転換していた。カーター政権としても、東アジア全体で駐留軍見直しを進める中、韓国も例外ではなかった。しかし、冷戦下の緊張が続く朝鮮半島では、当時の朴正熙大統領は北朝鮮の「予測不可能な軍事行動」を理由に、米軍の撤退が安定を損なうと主張し、米韓関係の基盤維持を強く訴えていた。
 公開された会談の記録には、両首脳の冒頭発言や議論の流れが詳細に記されており、北朝鮮情勢、在韓米軍の役割、韓国の経済力と軍事支出に関する率直なやり取りが示されている。カーター大統領は韓国の経済成長を踏まえ、韓国が自立した防衛力を構築できると安直に判断していた。彼は在韓米軍の撤退計画は韓国に駐留する総兵力の「0.5%に過ぎない」と説明し、韓国の将来の安全保障に対する実質的な脅威とはならないと主張した。また、その対応の一環として韓国の軍事支出を増やすべきだと示唆し、韓国の経済力が北朝鮮よりはるかに優れていることを強調した。
 しかし、朴大統領は米軍の存在そのものが北朝鮮に対する抑止力であるとし、防衛自立には限界があると強く主張した。この立場の違いは米韓同盟の方向性をめぐる緊張を生み、国内外で大きな波紋を呼んだ。会談後、特に韓国国内は不安と緊張に包まれた。在韓米軍撤退計画の進展が報じられるたび、街頭では抗議活動が行われ、市民の不安は広がっていった。
 その渦中、1979年8月に発生した「YH事件」は、国民の怒りを象徴する出来事となった。この事件は、女性労働者が労働環境の改善と民主化を求めて抗議活動を行ったことが発端だった。彼女たちは「YH貿易」という会社に所属していましたが、会社の経営破綻により解雇され、苦境に立たされ、これに抗議するため、新民党の党本部に籠城したが、政府はこの籠城を力で排除し、さらに強制的な鎮圧の過程で死者が出た。結果、国民の怒りを買い、民主化を求める世論が一気に高まる結果となるとともに、朴正熙政権への批判を激化させ、国内の政治不安を深刻化させる引き金となった。
 政権内部でも亀裂も深刻さを増していった。中央情報部(KCIA)の部長である金載圭は、朴大統領が強権的統治を続ける限り、韓国が国際的に孤立し混乱を深めると考えていた。彼は当初は、対話による改革を目指したが、次第に孤立し、やがて「国の未来を守るため」という名目で大統領排除を決断するに至った。ここまでは韓国内の情勢ではあるが、彼のこの決断には、カーター政権の冷淡な対応や在韓米軍撤退計画が背景にあり、米国側の態度が韓国政権内部の不信感を深めたと推測できる。
 暗殺事件の推移だが、1979年10月26日、青瓦台近くの食堂での会食は表向きは和やかな場とされていたが、内実は緊張に包まれていたという。席には朴大統領、情報部の幹部、親しい側近たちが同席し、北朝鮮情勢や国内の治安対策について話し合いが行われていたが、会話は次第に激しさを増し、朴大統領は金載圭を叱責し、強い言葉で批判を加えた。この屈辱的な場面が金載圭にとって決定的な転機となり、冷静さを失った金載圭は、拳銃を取り出し、その場で発砲するという衝撃的な行動に出た。
 事件直後、韓国国内では大きな混乱が生じた。市民は政権崩壊の衝撃と共に、次の指導者をめぐる不安を抱えた。他方、カーター政権は、事態を重く見て迅速な対応を模索し、韓国に安定を取り戻すための政策協議を急いだ。米国としては、韓国の軍部が政権を掌握しつつある状況を懸念しながらも、冷戦下における地域的な安全保障体制を優先しなければならない、公式なコメントでは韓国の民主的移行を尊重する姿勢を強調したが、裏側ではさらなる軍事衝突を避けるため、監視と対策を強化していた。
 朴正熙大統領暗殺後、韓国は一時的な混乱に見舞われたが、民主化を求める声は抑えきれない波となって広がり、1980年代以降の民主化運動の原動力となった。また、米国は同盟の在り方を再検討する必要にも迫られ、冷戦期における安全保障政策の限界を突きつけられることになったが、カーター政権自体の失態の側面もある。
 1979年の米韓首脳会談を記録したこの文書は、冷戦期の国際政治の複雑さと、米韓同盟が抱えていた課題を鮮明に映し出している。会談における米国の軍縮政策と韓国の危機感の対立は、朴正熙大統領暗殺事件に至る政治的背景と密接に結びついていると見てよい。
 この文書はまた、現在の安全保障政策を考える上でも貴重な教訓を提供している。北東アジア地域では依然として軍事的緊張が続いており、米韓関係はその中で重要な役割を担っている。そのなかで、米国の安直な外交活動と韓国の複雑な内情のバランスは時にその外部からは想像もつかない事態を引きおこすことがある。

 

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