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2025.01.18

「つらい」という日本語

 たまに「辛ラーメン」を食べる。好きというほどでもないが、嫌いでもない。なにかのついでに「蒙古タンメン」か「辛ラーメン」かなあと思う。「辛ラーメン」を手に取ると、カップでも袋入りでもそうだが、「辛」という文字が強調されている。まあ、「辛い(からい)」からなあ。しかし、「辛」をわざわざ書き記す感覚は日本と韓国は違うなあと思ってちょっと調べたら、このラーメン製造の創業者が辛春浩というらしい。名前でもあったわけか。ついでに、その兄は辛格浩でロッテグループの創業者であるらしい。へえと思った。
 それはさておき、この「辛」を見るたびに私は「つら〜」と言うのである。「辛いラーメンだなあ」と。まあ、いつもはそんなダジャレみたいな独り言で終わるのだが、ふと「辛い(からい)」と「辛い(つらい)」って同じになるのに、どう読み分けるんだ、日本語と思った。さて、あれれ?知らない。というわけで、これは字引で調べてみると、「辛」という漢字は常用漢字表にあるが、「からい」の訓のみで、「つらい」の訓がなかった。ほお。「辛い」は公式文書的には「からい」とは読めても「つらい」とは読めないのだろう。どうでもいいといえばいいのだが、「つらい」は基本的に漢字で書けない。「辛い(つらい)」の訓で意味を当てたとして、「つらい」っていう言葉はなんだろうと疑問に思った。
 日本語の「つらい」という言葉は、他言語と比較するとどうだろう。どうもその特異性が際立つ表現であるようだ。しかも、「つらい」は感情的、身体的、心理的な苦痛を広く表す一方で、行為や状況の困難さにも適用可能であり、日本語特有の柔軟性と曖昧さを持っている。この性質は、日本語語言者には自然に感じられるが、他言語で完全に対応する表現を探すと、その困難さが浮きぼりになる。ふーむ。
 英語で「つらい」に対する表現は、「hard」「tough」「painful」「heartbreaking」などがあるが、文脈や状況、感情に応じて使い分ける必要がある。ということは、これらの語はいずれも日本語の「つらい」が持つ多義性やニュアンスを包括するものではない。他の欧州の言語、たとえばフランス語やドイツ語も調べてみると似たりよったり、同様であり、「感情的なつらさ」「身体的なつらさ」を分けて表現する傾向が強い。西洋の言語では、状況や感情の詳細を補足することで表現を完成させる必要がある。
 日本語にも近いし、「辛ラーメン」でも連想する韓国語ではどうか。「힘들다(ヒムドゥルダ)」という「つらい」に近い言葉が存在する。しかもこれは、感情的・身体的な苦痛、さらに状況的な困難を表し、日本語の「つらい」に最も近い柔軟な表現と言えそうだ。ただし、それでも日本語の補助動詞的な使い方に完全に対応するわけではなく、他の補助的な語彙を組み合わせる必要がある。
 日本語の「つらい」という言葉、変な言葉だなとますます思う。これは、動詞と結びついて補助動詞的にも機能する。「食べづらい」「見づらい」「頼みづらい」などの表現は、行為の困難さに心理的負担や感情的ニュアンスを加える。このような構造は、動詞の連用形と結合しやすい日本語の文法的特性や、言語そのものが持つ柔軟性によるものであるが、「つら〜」という感覚を添えることになる。「〜づらい」と「〜にくい」を比較すると少し違いが明確になる。「〜にくい」は行為の物理的、技術的な難しさを強調して嫌悪感を惹起するのに対し、「〜づらい」は心理的な負担やストレスを含みそうだ。「つら〜」である。そのため、言語語言者の内面や状況の精妙なニュアンスを表現するのに適している。この補助動詞的な「つらい」は、古語にあったかと調べてみたが、どうも古代日本語には見られず、中世以降の言語の発展とともに定着したみたいだ。古語としては、「〜かたい」はあるだろう。「〜からい」は用途が狭められて、「世知辛い」。
 そうしたなかでも、「頼みづらい」という表現は、単なる行為の困難さだけでなく、相手への遠慮や配慮を含むへんな語用法だなと思った。他言語で直訳するとニュアンスが大きく損なわれる。「頼みづらい」に直対する英語表現としては、「I feel hesitant to ask.」や「I don’t want to bother you.」などが挙げられるが、これらは心理的要素を分けて表現するものであり、日本語のように一語で包括することはできない。この違いの背景には、日本語の文化があるのだろう。日本語では、言い手が感じる「つらさ」を一語で表現し、聞き手にその理由や背景を想像させることが自然とされているからだろうか。英語圏では感情や困難の理由を具体的に説明する必要があるため、日本語の「頼みづらい」のような曖昧さを含む表現は発達していないのか。
 そういえば、「つらい」といえば、「生きづらい」である。この「生きづらさ」という言葉も、日本語の曖昧さや柔軟性が顕著に表れる例ではないかな。単なる生活の困難さを超えて、精神的な苦痛や社会的不適応、環境との不調和を含む広い意味を持っている。「生きづらさ」には、たとえば社会的な孤立感、特定の環境で感じる疎外感、あるいは自己と他者の間の調和の欠如なども詰まっている。この表現が日本語で自然に受け入れられる背景には、日本文化における粘つくような共感の圧力があるだろう。具体的な困難を詳細に説明しなくても、「生きづらさ」という一語で話者の感覚が終わる。便利な言葉で、まさに、「生きづらい」日本の社会に向いている。
 英語でこれに相当する表現を探すと、「Struggling to live」(生きるのに苦労している)や「Feeling out of place」(自分の居場所がないと感じる)、「Living with barriers」(制約を抱えて生きる)など、複数の言葉を組み合わせる必要がある。これらの表現は、状況や感情を具体的に説明する英語圏の文化的特性を反映しており、なんだか、こう必死感がある。日本語だと「生きづらさ」が持つ曖昧さや感情的な広がりから、「つら〜」で「うつ〜(鬱)」となるが、それも必死に生きる感のなさがあるからだろう。なんか、こう、ものういよなあ。つら〜っていうのは。

 

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