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2025.01.23

DEI否定は単なる反動か?

 2025年1月、トランプ大統領は大統領就任に合わせて、連邦政府内の「多様性、公平性、包摂性(DEI)」プログラムを廃止する大統領令に署名した。これが、当然ながら、米国社会で激しい議論を呼んでいる。これを「反動的な政策」と強く非難する声は多いものの、「DEIを一方的に肯定してきた流れに疑問を呈するきっかけになる」と考える人もいる。背景には、人種や性別などの属性を積極的に“見る”ことで不平等を是正しようとするDEIと、人種や性別をあえて“見ない”ことで個々の能力を重視するカラーブラインド平等(CE: Colorblind Equality)という、平等をめぐる二つの理念の対立がある。
 DEIが重視するのは、歴史的に不当な差別を受け、機会に恵まれずにきたマイノリティの置かれた現実や構造的な不利を正面から認め、それを積極的に是正していくことだ。大学の入試や企業の採用現場でアファーマティブ・アクションを取り入れ、マイノリティを優先的に採用・登用するしくみは、その象徴的な例と言える。一部からは「逆差別」だと批判されるが、長年続いてきた差別の影響から立ち直るには、ただ誰もが同じ机に着くのを待つのではなく、先に席の確保や追加のサポートが必要だという考え方である。実際、DEIを積極的に実施する企業が多様な人材を得てイノベーションを促進させているという研究結果も示されており、短期的には特定のグループへの“優遇”に見えても、長期的な生産性や組織力の向上につながるというデータもある。そこには「単なる数合わせ」ではなく、組織や社会の構造を見直し、多角的な視点を取り込むことへの期待がある。
 他方、CEは、「人は人種や性別によらず、同じ基準で扱われるべきだ」という理念を掲げている。これは公民権運動時代の「人種ではなく人格によって評価されるべきだ」という主張にも通じ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説を思い起こす人も少なくない。こうした立場からすると、人種や性別によって採用枠を分けたり優先権を与えたりするのは、公正な競争をゆがめる「逆差別」だという批判が生まれる。すべての人が同じ試験や基準で評価される社会こそが理想だという考え方は、シンプルで普遍的な魅力を持っているが、同時に「歴史的に築かれた格差や差別の構造を“見ない”ことで、それらを温存しかねない」という懸念もつきまとう。
 この「人種や性別を意識的に見る」のか「見ない」のかという議論の際にしばしば言及されるのが、哲学者ジョン・ロールズの「無知のヴェール」の思考実験である。人々が、自分の属性や地位など一切の情報を知らされないまま社会のルールを決めるとすれば、公正な制度を採用するはずだというのがロールズの主張だ。それゆえCEについて、この無知のヴェールの考え方を援用し、「人種などの属性を見ず、すべての人を同じ基準で扱う社会が理想だ」と唱えることも可能かもしれない。しかし、ロールズの理論は単に「属性を見ない」だけでなく、社会に格差が存在する場合は弱い立場の人々に配慮する仕組みを容認すべきだと考えている面もある。たとえば、現実に格差があっても、それが最も不遇な人々の利益につながる場合にのみ、初めて許容されるという「格差原理」がその代表例である。単に「見ない」ことだけを強調してしまうと、この弱者配慮の視点が抜け落ちかねない。
 今回、連邦政府のDEIプログラムが廃止されたという事実は、社会全体の流れとしては「反動的」と映る部分が大きい。過去数十年にわたる公民権運動の成果や、企業や教育現場での多様性促進の取り組みがいまなお道半ばであるなかで、公的支援を打ち切る政策がとられれば、従来の不平等を維持・助長することになるのではないかという不安が広がるのも当然だ。しかし、この反動にも見える動きには「純粋な能力主義や公平な基準に立ち戻ろう」という声が一定の多数派の声として後押ししているのも確かだ。特定のマイノリティを優先的に採用すると、他の応募者が割を食う形にならないかといった、「逆差別」への懸念を抱く人も根強く存在する。特にアジア系の学生や求職者が競争で不利になるケースが話題になるたび、DEIの正当性に疑問が投げかけられてきた。
 こうした対立は、単なる右派対左派の政治闘争というより、二つの異なる理想のせめぎ合いだと捉えられる側面がある。DEIが重視するのは、社会に長年染みついた差別や制度上のバイアスを是正するための「積極的な配慮」であり、CEが大切にしているのは、人種や性別という表層的なラベルから解放された「一人ひとりの個性や能力を真に評価できる社会」である。どちらの側面にも意義がある一方で、一方のみを徹底すれば必ず問題が生まれる。インターセクショナリティ(交差性)の観点が示すように、「黒人女性」「移民でありLGBTQ+」といった複数の属性が交差して生じる差別に焦点を当てるには、属性を一定程度“見る”ことが不可欠であるし、同時に個人の努力や能力が本当にきちんと認められているかを検証するには“見ない”ことを志向する視点も必要だろう。
 現実的な対応としては、どちらの理念を上位に置くかというイデオロギー的闘争の枠組みを一旦回避し、両理念のメリットを活かしつつ、デメリットを最小限に抑えるかを考える調停が重要だろう。公的機関や企業が採用枠を割り当てるだけでなく、採用されたマイノリティが能力を伸ばしリーダーシップを発揮できる環境を整える努力が不可欠なのもその一例だ。歴史的不正義を放置せずに補正する発想と、一人ひとりをラベルから自由に評価する発想の両方がなければ、社会的公正と個人の才能を最大限尊重することは両立しにくい。

 

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